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2026/03/05

世界観を創る苦痛

7-4-1. 権利をもつとは             

権利は、「権」と「利」からなり、明治期に英語のrightの翻訳として創作された言葉だが、その「権(權)」の漢字の組み立てはというと、雚は、コウノトリを象り、バランスを象徴し、木偏ということで木造りの天秤をイメージさせたものだとか。量ることであり、重みであり、威力を意味するものになる。「利」は、禾(のぎへん)が穂を垂れた稲などの姿で、「刂(りっとう)」は立刀で鋭い刃物になる。利は、刈り取った実りを表わし、価値あるもの、利益を意味する。「権利」の全体は、享受できる有益な価値あるものへの重み・威力のある様である。だが、自分だけで享受への重み・威力をもつのだといってもはじまらない。その重みをそれとして関係者が承認することがあって初めて、実効性をもった権利となる。そのしっかりした、頼りになる権利は、他のものがこれを侵さないという、侵すことの禁止、あるいは、その享受を擁護・保護することへの義務的強制があってのことである。 

漁業権は、漁業する権利だが、太田川の漁業権を持つ者が、自分には権利があるのだ、威力があるのだとうそぶく傍で、権利のない者が自由に魚釣をしているのでは(太田川の魚の多くは、昨今、法的権利をもたない鵜たちのものとなっている)、権利とは、名ばかりである。その権利は、周囲の権利を有さない者の漁の禁止の義務が課されていてはじめて実効性をもった権利となる。権利は、これの享受を自分たちが独占して、ほかの者の利用・享受を禁じ排斥する威力を有したものである。権利から排除された者には、これを侵害しない義務が生じる。侵すことは許されないという強制の義務である。その義務があって権利は実効性をもつ。権利はあるが、外の者が好き勝手をするのを許しているのでは、権利における享受の自由は守られない。権利を守るとは、外の者がこれを侵さないように守ることであり、侵したら処罰をうけ、侵すことの許されない義務が課されるということである。このような権利の場合、権利と義務は、双務的、互恵的である。太田川水域での漁業権者には、河口の外の瀬戸内海の海面漁業権を侵さないという義務がともなう。広島湾の漁業権者には、河口をさかのぼって蟹や魚を獲ってはならないという義務が課せられる。権利と義務は、相互的で、義務を果たせば権利があり、権利をもつには、義務が求められ双務的である。人の社会的営為は、「目には目を」の対等・平等性が前提になっているのが普通で、自身が権利をいうのなら、他者の権利を承認してそれに関わる自身の責任・負担となる義務も受け入れねばならない。 

 権利を実効性有るものとする、負担としての義務は、単に禁止という義務だけではなく、その権利を有する者の享受を実現する苦労を、関係する者たちが背負うものとなることもある。売買では、物を買ってお金を支払った者には、その物を受け取る権利が生じる。この権利を実効性あるものとするには、売った側が、商品を渡す義務をもつのでなくてはならない。あるいは、弱者の権利の場合は、しばしば、その権利を有するものを直接間接に保護し援助することが関係者・機関に求められ義務化される。生存権は、侵すのを禁じてこれを義務化するだけでは守れないことがある。障害で自立して生きていけないような場合、関係機関が積極的にこれを援助し保護することが、その権利への義務として課される。権利(right)は、正当な(right)享受への妨害・侵害を排斥し、あるいは関係者からの保護をもって、この享受を「正しい(right)」こととして勧める。 

2026/02/26

世界観を創る苦痛

7-4. 苦痛は、動物の権利の根拠と見なされることがある  

権利は、自身の利とし価値とするものの享受の正当性を主張する。享受の侵害で苦痛となることから自身を守る盾が権利である。水利権は、貴重な水を利用し享受する自由をもつ特権で、この特権がないがしろにされ、その水利用の自由が侵犯されて被害を受けると、苦痛となる。その侵犯、苦痛が生じないようにと保護されるべきことを、当然のこと正当(right)なこととして権利(right)とする。その生のもとでの益あるものの享受を侵害されての苦痛は、ひとだけのことではなく、動物ももつ。ということで、動物にも権利があると主張をすることがでてくる。近代の快楽主義である功利主義は、快(=善)苦(=悪)をひとの生の根本原理とみなし、そのことは動物も同様だからと、「動物の権利」を主張することに結び付いていった。

動物の権利をいう人でも、人間には教育の権利をいうが、動物にはこれを言わない。動物は、教育に利・価値を見出さず、それを享受したいと思うことはなく、そこに苦痛を抱くこともないから、そういう権利とは無縁である。権利には、それを享受する能力が前提されている。享受の能力をもっての、その享受の正当性(right=権利)である。動物は、生きて動くものであり、自らのために利あるものの享受を求める権(重み、威力)を有しており、権利(享受の威力・正当性)をいう資格はあると主張することが可能である。生の享受が抑止され侵害されると、動物も当然、人と同じように、これを苦痛とする。生きることを制限され、残酷に傷めつけられ、ときに命さえ奪われているのは、痛ましいことである。そのことから、動物の権利を主張する人たちは、ちょうど、ひとがひととして生きる権利を生存権(right to life)といい、人権(human rights)をいうように、動物も苦痛から自由になって生きる正当性(right=権利)、動物権(animal rights)を持つという。 

 権利が、それの享受は正しい(right)ことだと主張するのみでは、その実効性は心許ない。関係者に義務としての負担が課せられてはじめて権利は実効性をもつ。漁業権をもって一定の領域での漁業の享受の自由、その行使の正当性を通すためには、それ以外の人々への禁止がしっかりと守られることが肝要となる。権利は、享受することができる自由をいうのに対して、対応する義務は、その自由を侵すことの禁止について、この禁止を守るべきこと、守らないことは許されない、守らない場合は制裁が加えられるという。権利が実効性をもつには、これを侵して苦痛を与えるものに対して、侵さない義務を課すことが必要であり、さらに、これを厳守するように監視し罰する機関の義務も求められる。動物権が実効性をもつには、ひとが動物の生存を守り、虐待して苦痛を与えたり殺害するようなことをやめる義務をもつことが必要となり、これを侵すことを監視し処罰する機関等の義務も求められる。権利によっては、自由な享受に支障があったり不十分にしか享受できないものを守り支える保護・支援の義務が肝心となる。その保護ができないのであれば、権利は名ばかりで実効性が伴わないことになる。子供の人権とか教育の権利は、単に侵害を禁じる義務のみでなく、その権利を実効性あるものとするために、積極的に保護し、養育に直接間接に関与していく責任が公的な機関あたりに義務として課される。

2026/02/19

世界観を創る苦痛

7-3-5-1. 過去の不労の有閑階級と、未来の人の異同 

 情報社会のもたらす未来は、労苦無用となって、「幸いの人(homo felix)」の社会となり、人類が夢見てきた極楽・天国が実現するように描きうる。生活は健やかで長命で賢明になるといったことでは、素晴らしい未来である。だが、それは、そんなに大した変化でもないのかも知れない。基本は、労働・生産が無人化したロボットの工場や農場で行われて、国民は、辛苦の労働に耐える「忍耐のひと(homo patiens)」ではなくなり、自由に日々の時間を使える世の中になるということである。仕事をせずに自由にというと(ベーシックインカムあたりで生活の保障はあるだろうとはいっても)、失業してぶらぶらしている様が目に浮かび、そんな退屈で貧しい自由が年中続くのかと思うと、若干、心もとなく不安になるが、それは現代の苦労人の取り越し苦労で、することがなくて時間をもてあそぶことにはならないだろう。労働から解放された自由の生活は、歴史の中では、とっくの昔から有閑階級の人たちが享受してきたことである。かれらが暇を持て余して困っていたという話は聞かない(「(小人閑居して)不善をなす」類いの話はどこにでもあったが)。それと同じ状況になるのであろう。過去のそれは、労働するものの搾取・収奪によっていたことで、生産者の貧困・犠牲をもって支えられていた。それが、近未来では、無人工場が一般化する等で労働自体が無用化してくるのであり、搾取・収奪などとは無縁の自由の存在に万人がなるのである。近未来の人の自由は、強制的な労働という束縛からの自由であり、かつ、自身の好きなことをして生きていく自律の自由である。現在、趣味として愛好されているもの、学問・芸術とか、スポーツ、工芸・園芸あたりは、多くが充実した生活の中心におくことになりそうである(理想的生活として昔から「晴耕雨読」を言ってきたが、農耕と読書だけでも、百年二百年と続けても飽きることはないであろう)。

 情報革命の成果としての未来の生活の変化は、そんなに大仰に騒ぐほどのことではないとしても、ひとは、つねに未来に生きるものゆえ、とくに若い者は、無関心に放置しておくことはできないであろう。自己実現していく先の未来社会がどうなるのかを予知しておくことは、現在の生き方を決めるために必要なことである。昨今、AI(人工知能)の進歩がめざましく、仕事の有り様を根本から変えようとしている。単純な労働は、すでにかなりが機械類によって行われている(ただし、経費の関係で、いまのところ人を雇う方が安いので、自動化、ロボット化が進まない分野もなお多い)。専門的知識をもっての知的労働でさえもが無用に近くなっている。弁護士とか医者といった専門職も無意味化してくることがすぐ先に迫っている。まだしばらくは、既存の進学・就職を考えるといいのだろうが、これからは、長生きともなり、何をもって生きるかについて、10年先に社会に出る今の中学生あたりは、戸惑わざるを得ないであろう。おそらくは、自身の好み、(社会的使命を担えるような)得意とする分野に向けて個性豊かに生きていくのが真っ当ということになっていくのであろう。いまの大人の古い価値観の勧めるものに従って、やりたい文学を断念して、いやなのだけれどお金儲けができる分野をと選択していたのでは、将来、当てが違ったということになりかねない。

過去の不労の有閑階級と未来の労働無用の自由の人のちがいということでは、まず、前者の場合、真摯な者は、自分の豊かさが搾取・収奪のおこぼれでなっていると、後にアフリカで医療に献身した、少年シュヴァイツァーのようにうしろめたさをもったことだろうが、未来の自由な人々では、それはなく、似たことがあるとすれば、無駄な贅沢をして自然環境を汚してといった配慮あたりが問題となりそうである。自由になにをするかということでは、過去の有閑階級のもっていた労働への忌避感はなくなり、人類の営為全般が踏まえられることであろう。情報社会の生み出すバーチャルなものにのめり込む者は当然あるだろうが、バーチャルでは味わえない実在・本物の世界の営為が多くの関心を占めることになるのではないか。それについては、過去の生産活動、狩猟採取、農林漁業、鉱工業、あるいは、研究・教育、サービス業といったものを踏まえて、自身が得意とし楽しみとなるようなものが選ばれることであろう。いまでも、年金生活者の少なくない者が、会社勤めの頃とは一転して、自然に触れながら菜園で野菜や果物をつくって楽しみとしている。自然のなかでの自給自足的生活は、理性と感性(精神と身体)の両方のしっかりした働きを求め、多くの人に充実した生をもたらしそうである。

2026/02/12

世界観を創る苦痛

 7-3-5. 近未来の人類は、どうなるのか   

 人類史は、農業、工業といった生産・労働をその生活の最重要な営為としてきた。今もなお、基本的には苦痛・苦労の労働をもって生活は成り立つということで、生産・消費の経済的営為が社会の中軸・根幹となっている。だが、情報社会の進展とともに、ロボットが労働者の代わりをし工場など無人化することになり、生産活動にはほんのわずかの人員が参加するだけとなって、物質的財貨の生産の役割は、小さな意味しか持たないものに、些細なものになりつつある。生産・労働は、大切で不可避の営為ではあるが、河川管理のように、必須ではあってもごく少人数で間に合い、社会全体にとっては小さな役割しか持たないようになり始めている。生産手段の共有化を柱とする社会主義・共産主義が、労働搾取の資本制に代わる体制として憧憬された時代があったが、これが政権を取ったところではすべて邪悪な独裁制となって、絶望させた。もっと別の道はないのだろうかと悩む人がまだいるが、もう生産手段を社会の中軸におくという発想自体が成り立たない時代になりつつある。

現代人の多くは、なお、生きるためには生産・労働に基礎を置くことが必要という思いから抜けがたいので、未来社会が労働を無用にするとなると、何をもって生きていけばいいのだろうと、不安になる。労働せずに生きるということですぐ想像するのは、失業・貧困・餓死といったものになる。だが、工場も商店もロボットが支えるのであれば、圧倒的な国民は、これまでの賃金労働とは縁を切らねばならないのである。せいぜい週一日工場で交代で生産管理の仕事をすれば済むといったことになろう。あとは、自由にすればよいという時代になる。もちろん、生きるためには、そのための糧が得られねばならない。その道を確保することさえしっかりしておけば心配無用、各人、好きなように自由に、したいことをして生きればよいという時代になる。その心配な糧の確保は、おそらく、今言われているものとしては、国民全員の生活を保護するベーシックインカム(基本所得保障)といったものになりそうである。

 皆好きなように、自由に生きればよいという時代がまもなくやってくる。とはいえ、これまでの社会・歴史でも、国家全体としては、ありあまる豊かな経済的価値を生産していた。それでも、国民は、貧困であって、支配階級のみが冨を享受する階級社会になっていた。情報社会になるとともに、その覇者が、既存の経済活動の習慣を利用して、冨を独占し貧富の差をむしろ拡大している。それが未来も続くのではと思いもする。これまでの社会では、貧困の被支配階級のものは、貧困であるだけではなく、強制的に労働・生産させられ、自由を奪われ奴隷的状態におかれていた。その労働の搾取があってはじめて支配者(領主とか資本家)の豊かな生活は成り立っていた。だが、これからの社会では、もはや、労働・仕事自体がなくなるのである。無人で生産がなる時代である。苦痛の仕事が、労働がなくなるのである。強制され自由を奪われることがなくなり、あとは、各人、すきなようにしたらいいという時代になる。  

 現在は、情報関連の企業家たちによる冨の独占が目立つが、それをやめて、国民全体の冨にすることがないと、労働という収入源を絶たれたままの国民の生活は、しだいに成り立ち難くなってきている。現在の、情報関連に基づいた冨の独占は、単純化して言えば、特許権とか著作権(いわゆるコピー権)といったものに依っている。しかし、それは、発明とか発見等を促進するための無理やりの政策として近代になって作られたものである。本来的には、自然的には、これらは、物質的な富とちがい、だれもがこれを見知ったら自分のものとでき自由に利用できるものである。コピー権といってコピーを禁止し情報を独占して、使用料を取り立て冨を独占しているが(パソコンのOSWindowsは、版を重ねて長年にわたって膨大なお金を世界中からマイクロソフト社に吸い上げている。それに対してLinuxOSは、減るものではないコピーのこと、無料で通している)、コピーは、本来、物質的財貨を分けるのとは異なり、いくらこれを分けても少しも減るものではない。その人為の不自由、禁止の強制をやめれば、万人のものとなる類いのものである。さらに言えば、著作権・特許権というが、優れたアイディアを思いついたのは、それに先立つ者の知や技術をただでコピーし利用しえたからである。歴史を重ねた人類の英知がそれを可能にしたのである。その人類の英知を支え続けている現代人をその利用・享受から排除して独り占めするのは、高いところにある果実を取ろうと、多くの者が肩車を高く組重ねピラミッドを創って、たまたまその一番上に立ったものが、自分が手にしたのだから全部自分のものだというようなもので、身勝手で強欲である。そこから可能になっている冨は、万人の分有とするのがまっとうなことである。それをやらないのなら、無職となった全人類は、強制的に自分たちの権利を、コピー権を真にコピーできる権利とすることを強行し、不当にコピー(禁止)権で得た冨を国民は取り戻す挙に出ることとなろう。その権利の行使は、ささやかには、ベーシックインカムになり、あるいは、国民の貧困度が大きくなっておれば、一部では暴力的な革命となる可能性もあろう。もっとも、人間のする労働が無用になりロボットでの仕事が圧倒的になるとともに、人件費がいらないのだから物価はどんどん下がって、冨を独占している者から冨を返してもらうことは無用になるかも知れない。

2026/02/05

世界観を創る苦痛

7-3-4-2. 快の色眼鏡で世界を見ることもある  

快に注目する色眼鏡をかけた場合、かなり視野は狭くなろう。幼稚園で遊戯している動画では、かわいいわが子や孫には注目するが、他の子がどうしているかは、まず見ていないのが普通である。食べ物では、好きな物に目が行き、それ以外になにがあったかは覚えないであろう。快の色眼鏡は、自分の気に入ったもののみを見て、他の物事は見ていないという点で、視野はきわめて小さくなる。

快をもたらすものに目を向けるとき、それを享受し受け入れたいと焦点を合わせるが、これが苦痛のように、放置しておくと危険になるからと注視をやめることができないのとちがい、無視しても、快がもたらされないだけで、危害が加わるのではないので、気軽な注目である。苦痛が冷厳な目つきで凝視するのに比して言えば、飢えているのでなければ、穏やかで温かい眼を注ぐものになろう。苦痛ならば、その可能性のあるものをすべてチェックし冷静に詳細を見当していくが、快となりそうなものでは、その必要がなく、快をもたらすものすべてではなく、自身が求める快となるものだけを見る。快の享受自体になると、その快をもたらすものですら見ないままに閉目してこれを堪能する。快では、それに一体化して微睡み、外の世界がどうなっているかなど気にすることはない。快の色眼鏡は、安眠のための遮光のアイマスクに近くなる。同じように、過去の快は、苦痛の過去と違い、すぐに無と化す。その享受ですべて終わりであり、たちまちに忘れてしまう。悲しみの過去はながく反復されるが、喜びの過去は、すぐに忘却のかなたへと消えてしまう。年取ると昨日食べたものも忘れるが、それは、美味しいものを食べたからである。これが、嫌いな生ガキを皆にあわせて食べて当たって苦しんだ場合は、一月前の夕食のことであっても忘れることはない。

未来の快については、現在を愉快に暮らしている者は、消極的には未来にむけても、快が続くと思うことであろう。ただし、快は、その現在の快にのめり込みそこに安住してその快のうちでまどろみ安眠した状態になるから、未来は、積極的には、見ないであろう。だが、苦痛の現在にある者は、この現在を抜け出したいから、その先を見る。できれば、その苦のない安楽な未来を夢見る。あるいは、苦痛の現在のもたらすものが未来の目的の手段として捉えられていた場合は、苦労するごとに未来の価値獲得の快に近づくのであり、未来は、その苦痛の止揚としての快という見方になる。

感性的欲求では快楽が重要なものになるが、精神世界では、苦痛とちがって、快は、些事になる。価値獲得に若干の快がともなうこともあるが、ないことも多く、快楽自体を求めようという眼鏡は、精神世界では、なくなる。苦痛は、精神世界でも重大なものとして注視されつづける。天国・極楽は、苦痛をなくした世界として快の世界ということになるが、感性的な快楽などではなく、苦痛・苦悩の無化した安らぎの世界になる。地獄は苦痛のみ、この世は、苦痛の合間に若干の快もある世界で、極楽は、苦痛の色眼鏡をはずし、快の色眼鏡をつけて目を閉じた、安らぎの世界、安楽国ということになる。

2026/01/29

世界観を創る苦痛

7-3-4-1. 苦痛の過去・現在・未来                     

ひとは、過去・現在・未来の時間のもとに生きている。苦痛は、それぞれについて、苦痛色に染めてこれを見させる。過去については、快とか喜びの体験とちがい、苦痛は、すでになくなったことなのだからと簡単に忘却していくことはしない。足を踏んだ者とちがって、踏まれて苦痛を抱いたものは、これを一生忘れないという。いじめた方は、すぐに忘れるが、被害者の方は、受けたマイナスの仕返しするためにと、長年月かけても忘れることなく、機会をねらい、これを実現していこうとする。受けた苦痛ははるか昔のことでも、仕返しができなかった場合、怒りは憎しみとなって、その苦痛から延々と続く怨恨感情は、ときには、個人を超えて次の世代にまで受け継がれていく。個のみのことではなく、社会全体としても、苦痛の過去は、追悼の儀式などを反復して記憶にとどめ続ける。受難の記憶は、長く残る。過去は、喜び色で思い出すよりも、苦痛・悲しみ色で見ることが多い。喜びは価値あるものが獲得されたのであり、もうすべて終結しているのであって、気がかりはなく、すぐに忘却されていく。だが、悲しみは、喪失体験であり、その喪失・損傷からの回復がなることをもとめるのが生維持となることで、その回復がなるまで忘れないようにしておくべきなのである。失ったものへの懸念は、回復がならないものであっても、その損失の愚を繰り返さないようにと、いつまでも残り続ける。

現在のもとでの快と苦でも、優先的に注目されるのは、苦痛である。快は、マイナスはもたらさないのであり、できれば獲得したいということにとどまる。苦痛は、現に生じているマイナスであり、深刻で危急の事態であって、この苦痛の回避にと集中する。苦痛は、損傷がはじまったら感じさせられ、損傷がなくなるまで、注目し対処すべきことであって長く持続する。快は、価値獲得時に褒美として瞬時いだくのみである。精神的な快の喜びとか安心なども、感情として感じるのは、わずかでほんの一時である。事柄としては、安心・安全は長く続き得るが、感情としては、不安・危険が去った一時抱くのみである。だが、苦痛は、仏教がこの世を苦界と嘆いていたように、いたるところに感じられ、それも長期にわたって感じさせられるものである。苦痛は、その生が危機的な場面になるときの警告信号として働き、その危機が持続しているかぎり、苦痛を持続させる。苦痛は、その損傷にいだき、この損傷の排除・無化のなるまで、注意して対応が必要なので、苦痛を感じさせつづける。苦痛に注目すると、他のものは見ないということにもなる。

未来に関わる快苦は、現在の状況によって大きく左右されたものとなる。現在、苦痛にさいなまれ、絶望でもしておれば、未来はその現在の苦痛の延長と捉えられよう。絶望の苦痛は、現在を漆黒に描くのみでなく、希望の絶たれた未来として暗黒に描かれ、時間的には、未来という時間自体のない絶望の暗い壁で行き止まりと感じることにもなる。苦痛の現在が未来にと投影されることとなる。忍耐の営為では、苦痛の現在は、未来の快なり目的と結びつけられる。現在の苦痛が未来の快を産み出す実りを思い、現在の苦難に耐える一歩ごとに、未来の快の輝きが一歩ずつ大きくなるのを見ることができる。

現在は無事の状態でも、未来に災いの可能性がある場合、ひとは、それを生じないようにと、苦痛にならないようにと未来に向けて対策をとる。生命保険とか、火災・事故等各種の保険は、未来の危険・災いに対処したものである。予防注射なども、それに罹患する苦痛となる事態は、まずないのだと思っても、可能性があれば、これを接種しておこうということになる。現在は、現に苦痛になるものに対処することでいいが、未来は、実際には生じないかも知れない害悪・苦痛にも注目して対処することが必要となる。広大な苦痛への視野をもって未来を見ることになる。実際には生じない可能性が高くても、これに対処しておこうとする。狂犬病などの予防注射は、日本にいる限り無用だが、インドなどに行く場合は、接種しておこうということになる。

2026/01/22

世界観を創る苦痛

7-3-4. ひとは、苦痛の色眼鏡で世界を見ることが多い     

ひとにとって苦痛、したがって損傷は、生の危機であり、これを回避することで生は無事に存続可能となる。苦痛は、無視されると生破壊となることで、常々注目して対処すべきものである。社会生活では、苦痛・苦難は、回避されるとともに、しばしばこれを手段として受け止めて、高い目的を実現していくことも多い。この方面では、苦痛は回避していたのではことが成就しない。これをあえて受け入れる苦痛への忍耐の必要が生じる。回避するにせよ、甘受して忍耐するにせよ、苦痛に注目し、最小の苦痛になりうるようにと工夫する。世界を苦痛の出来する場として、苦痛の生じそうなことを注意・予期して生きていく。あろうとなかろうと苦痛に注意・注目し、苦痛という色眼鏡をかけて世界を見る。今は勿論だが、まだない未来も損傷・損害等苦痛となるものに何より注意して、これを回避するようにと動く。生活の困窮を描き、そうならないようにと自身の進学とか就職を決める。先を見通して現在を決定するが、好きなことをやっていたのでは絶望や悲痛な状態になること間違いなしと、苦痛の未来を回避するようにと選択をする。快適な未来であることを願い、そういう歩みをするのであるが、その前に、大前提として苦痛のことを踏まえて、何より、絶望・不安・貧困の悲痛等を描いて、そうならないようにと選択していく。

 ひとも動物も、苦痛・損傷は生の危機・破壊であるから、これには細心の注意をする。苦痛(回避)の探索を行いつつ前進する。快を見出すことを目的にして動くときでも、苦痛への警戒を怠らない。なにを進めるにしても、苦痛という破壊・損傷を被らないようにと注意しつつ、行う。ひとは、動物として苦痛回避をもって生の保護をする。苦痛は、なにより嫌な筆頭の反価値であり、これから逃れるために懸命になる。が、必要な場では、これをあえて受け入れる。目的実現のために必要な手段として苦痛があれば、この苦痛を甘受する。苦痛は、目的のための大切な手段価値とみなされ、これを耐え忍ぶ。当然、無駄な苦痛感受とならないように注意し、対策をとりつつの、あえてする苦痛の受容、甘受である。動物以上にひとは、苦痛の色眼鏡をかけて世界をみる。苦痛を反価値として単に拒否するだけではなく、甘受することによって高い価値が得られる不可避の手段価値とも見る。苦痛を反価値として凝視するとともに、これを大切な手段価値とみなす特殊な色眼鏡をかけているのが人である。

ひとの苦痛の色眼鏡は、ひとまずは視野が広大である。あらゆる危険を察知しようと見まわす。生を脅かすものは、どこにあるか分からない。隙があれば、災いが降りかかってくる可能性があり、あらゆる方面へと視野をひろげて、苦痛・損傷の可能性、危険を点検して歩みを進める。かつ、現に苦痛が生じた場合は、これを回避しこれから逃走したり、可能ならこれを排撃し攻撃して苦痛・損傷の発生を阻止しなくてはならない。広い視野を持ち、適切に危険を察知できるのが苦痛の広視野望遠鏡である。でありつつ、現に損傷が生じて苦痛が実際に感じられる段になると、このことに集中していく。そこでの視野は、極端に狭くなりその苦痛に焦点をしぼり、これへの細心の対応にと腐心する。意識はその一点に集中し凝視して、微細な苦痛も見逃さない顕微鏡となる。その一点の凝視で他のことはお留守にすらなっていく。苦痛は、視野の最大(あらゆる危険へのサーチ)と最小(生じた苦痛への意識の集中)を求める。快だとまどろみ眠り、意識を無用にしていくが、苦痛は、その反対で、意識を覚醒させ、意識を苦痛からそらすことを拒む。この意識の集中は、苦痛へのそれであるから、苦痛以外の事柄については、お留守になり、安らがせ安堵させ恵みをもたらすものといった方面については、見逃し勝ちとなる。悲観的であり、楽天的楽観的な方面は見逃してしまうことになる。仏教は、この人間世界を、苦界・苦海と捉えた。悲観的な苦痛の暗い眼鏡をかけてこの世界を見れば、確かに、どこを見ても苦痛が満ち満ちている。悲嘆せざるをえず、厭世的となり、出世間、出家主義となる。