7-6-5-1. 苦痛は、どこまでも主観的なものである
精神的な苦痛・苦悩は、我慾を捨て去り、身の贔屓をなくすれば、これを滅することができる。個我、エゴが貪欲にとらえられて、それが満たされず苦しむことになっているのであれば、確かに、そのエゴを滅却すれば、その貪欲をなくすれば、即、その不満足の苦痛も、滅却されることである。苦痛は、主観内のものであって、自身の思いのうちにあることで、その思い方しだいで、即消失する類いのものである。自身の苦悩は、自身の生命を絶つ以外には逃れ難いとばかりに懊悩させるが、身体の客観的な損傷とちがって、考え方を変えれば、即消失する。失恋し絶望して死を思う痛手を受けた状態でも、新規の恋人が現れれば即絶望は飛んでいく。大金を失って失意のうちにあっても、ひとは、元来無一物の存在だと思いなおせば、即、元気を回復もできる。仏教の示す通りに、その苦痛は、煩悩は、生主体の有り様を変えるならば、自身と世界への理解の仕方、解釈を変更するならば、色即空となって、即消滅可能なものとなる。
「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」(焼き討ちで焼死した快川禅師はこう言い放ったとか)という。精神的苦悩は、確かに思いを変えればなくなりそうだが、身体的生理的な損傷の苦痛は、どう思おうと変わらないのではと批判したくなる。だが、身体の苦痛も、ときに無にできることがある。戦争の激闘の中では、死に至らないとしても、しばしば大きな身体的損傷を受けるが、その戦闘中は、損傷に気づかず、あるいは、気づいても、それへの激痛があるはずなのに、痛みを感じないという。損傷は客観的なものとして、なくすることなどできないが、そこに感じる主観的なものとしての苦痛は、なしにしておれる。平時でも、事故にあって損傷していても、痛みはないといったことが起こる。十数年前のこと、私は竹藪で転んで竹の切り株に顔面を打ち付けて痛い目にあったが、まず生じたものは、その打った箇所での衝撃の感覚、感覚麻痺の感じのみであり、当座、痛みは感じなかった。苦痛はその後生じたけれども、それは傷の応急手当を終え鼻血のとまるのを待つため横になって一段落してからのことであった。注射されれば即痛みを生じるし、歯で自分の舌などを噛めば即痛むけれども、身体においても、かならずしも損傷即苦痛とはならない。
内臓など、相当に傷ついていても、痛まないことが多い。肝臓はかなり破壊が進まないと痛まないという。逆に、損傷はなくても、皮膚は、複雑な温度変化には痛みをもつとか。腕がなくなっていてもこれが痛む幻肢痛の生じることもある。腕が根元から失われていても、ない手首が痛み、存在しない親指が痛むことがあるとか。苦痛は主観内の出来事であるから、客観的には(損傷など)無でも、そこに苦痛を生じて感じる場合がある。苦痛は、どこまでも、主観的なものである。生理的身体的な損傷・破壊は、客観的なものとして、主観がどう思おうとも変えることはできないが、そこにともなう苦痛は、その主体次第で、感じないで済ませたり、損傷はなくても、生じさせることも可能である。
さらに、苦痛自体は感じるとしても、これに耐えることについて、その苦痛の感じ方も変えつつ、大したことではない、あるいは、これに耐えれば自分の勝利となると思えば、拷問でそうであるように、苦痛は、主観的なものとして失神するまで耐え続けうるものとなる。夏の我慢大会も、苦痛に耐えて最後の敗者となるまで頑張れば勝利者になるのであれば、平生とちがって、主観的な苦痛のこと、失神するまで火傷するのもかまわず、これを甘受することができる。拷問とか、殉教での火あぶりの刑では、激痛が、恍惚状態をもたらすこともあるようである。快川禅師でなくても、確かに、「火もまた涼し」となる。身体のそれを含めて、苦痛は、どこまでも主観的なものとして、主体の決意次第で、その思い方如何によって、これを無化し、感じないか、感じても、何でもないものとして無視するようなことはできる。色即空である。