7-4-5-2. 日本語の「権利」と、欧米の「right 」との違い
日本語の「権利」という語は、欧米の
right、droit と重なるが、かなり異なる面をもつ。明治期に福沢諭吉が right の和訳について種々勘案した末に、これを「権利」にと決着させたようだが、日本語の「権利」使用は、主として利害損得が絡む社会生活の場面になり、「正しい」「正当である」という意味合いは、なくはないが、感じにくい。一方、英米の
right(ドイツのRecht)やフランスのdroit は、もともと、「まっすぐ」で「正しい」こと「正義」の意味合いを基礎とし、したがって、堂々と主張されてしかるべきものになる。この差異は、動植物に対する態度にも及ぶ。欧米では、動植物のまっとうな生を守るのは「right(正しい)」ことであり、権利(right)に結んでも、違和感は少なさそうである。しかし、日本語の「権利」は利己的な主張の色彩が強く、エゴの主張を押し通すための「御旗」「印籠」としてしばしば利用される。そのため、権利を主張すること自体が「ずうずうしい」「厚顔無恥」と受け取られることも少なくない。
rightのもとでは、正しいこととしては、ごく自然に人権(human
rights)は勿論、動物権(animal rights)、植物権(plant rights)、神権(divine
rights)等も言えそうである。だが、日本語では、神権などになると、もうついていけない。divine right of
kings(王権神授)は、神のでなく、王の権利であるが、神自身の正しい(right)こと、神の権利(right)は、キリスト教などでは言えそうである。西方の神は、人間の創造を自由にしたり(人類の祖アダムは、最初、リリスという妻を自身と対等に作ってもらった。が、そのしっかりした妻には愛想をつかされたようで、ならばと、神は、アダム自身の肋骨からイヴを作ることを思いついた)、動物をたくさん作ったが、その被造物が自分の意に反する好き勝手をするので、失敗だったとノアの大洪水で大方を殺害して、一からやり直すなどの、その支配の自由は、ひとにも動物にも大迷惑であっても、神の正当な(right)営為、権利(right)なのであろう。日本的には、権利は、享受の自由、自己主張であり、侵害・苦痛からの自由・保護であるから、神が権利をもつということは、侵され苦痛を抱く弱体の神ということになってこれを貶めることとなる。超越した優れた神が、侵害からの保護・権利を主張するなどというエゴイストのような情けないことを言うとは想像しにくい。精々、弱気の死神が、死をしぶる老人を前に権利を盾にして、「自分にはあんたを連れていく権利があるんですが・・」という程度に神を貶めて想像するぐらいで、絶対者としての神には日本的な権利はふさわしくない。権利でなく、権力・権威なら、神にも言えるであろうが(幽霊と同様、存在しなくても、信じる者には権威、威力をもつ)、利害損得の権利となると、神を貶めたものになる感じである。
福祉の概念にも同様の違いがある。近年、日本でも「動物福祉」という語が使われるようになっているが、従来の日本語の感覚では「福祉」は人間に限られるものであり、動物に用いることに違和感を覚える人も多い。英語の福祉、welfare
(古英語wel-faran(健やかに‐暮らす)に由来するとか)は「well-being(よい有りかた)」と同様に動物にも言われて違和感がないのかと思われる。が、日本で「動物福祉」などと言われたら、日本の動物にはこのうえもない有りがたいことになろうが、その表現の裏で人間の福祉が動物並みに引き下げられた感じになってしまう(口さがない人なら、こういうであろう、「環境省や厚生省の者が、けったいな「動物福祉」を言い立てとるが、環境省は熊や猪の駆除を妨害するためのにわか作りの盾とし、厚生省は、(人間の)福祉を低めに制限するための地ならしにと目論んどるんじゃろ、知らんけど」と)。
親切や同情の概念なども、違いが大きい。日本語では、親切(kindness)や同情(sympathy)は、家族のような親密な間柄には使わないし、人間以外のものにこういう心構えをもってすることもない。日本人の「親切」「同情」は、西欧のそれらと違って、家族外の人間に限定であるが、英語の kind
は、家族に言うことは勿論、「花にも、ピアノにも、親切に(kindly)しよう」といった使い方が普通に行われる。権利(right)の概念もこれに似ており、その適用、妥当範囲が異なる。日本人には、権利は、正しいというよりも、どちらかというとエゴイストの自己主張と見なされがちである。
日本では、権利(right)や正義(right)を声高に主張することは、思いやりや譲り合いを無視し、自己の損得勘定を押し通す行為とみなされがちである。高度の道徳的判断が求められ、法を若干は犯すことになるとしても慈愛や善意の尊重されるべき場面だと多くの思うところで、杓子定規に些細な権利や正義(皆が守るべき最低限の道徳)を持ち出すことは、最底辺の道徳を盾にした卑劣な態度と受け取られる。高度の道徳を拒否するために、最低の道徳である法を持ち出すのが、トラブルメーカーの権利・正義の人だと嫌悪されることが少なくない。