7-3-4-1. 苦痛の過去・現在・未来
ひとは、過去・現在・未来の時間のもとに生きている。苦痛は、それぞれについて、苦痛色に染めてこれを見させる。過去については、快とか喜びの体験とちがい、苦痛は、すでになくなったことなのだからと簡単に忘却していくことはしない。足を踏んだ者とちがって、踏まれて苦痛を抱いたものは、これを一生忘れないという。いじめた方は、すぐに忘れるが、被害者の方は、受けたマイナスの仕返しするためにと、長年月かけても忘れることなく、機会をねらい、これを実現していこうとする。受けた苦痛ははるか昔のことでも、仕返しができなかった場合、怒りは憎しみとなって、その苦痛から延々と続く怨恨感情は、ときには、個人を超えて次の世代にまで受け継がれていく。個のみのことではなく、社会全体としても、苦痛の過去は、追悼の儀式などを反復して記憶にとどめ続ける。受難の記憶は、長く残る。過去は、喜び色で思い出すよりも、苦痛・悲しみ色で見ることが多い。喜びは価値あるものが獲得されたのであり、もうすべて終結しているのであって、気がかりはなく、すぐに忘却されていく。だが、悲しみは、喪失体験であり、その喪失・損傷からの回復がなることをもとめるのが生維持となることで、その回復がなるまで忘れないようにしておくべきなのである。失ったものへの懸念は、回復がならないものであっても、その損失の愚を繰り返さないようにと、いつまでも残り続ける。
現在のもとでの快と苦でも、優先的に注目されるのは、苦痛である。快は、マイナスはもたらさないのであり、できれば獲得したいということにとどまる。苦痛は、現に生じているマイナスであり、深刻で危急の事態であって、この苦痛の回避にと集中する。苦痛は、損傷がはじまったら感じさせられ、損傷がなくなるまで、注目し対処すべきことであって長く持続する。快は、価値獲得時に褒美として瞬時いだくのみである。精神的な快の喜びとか安心なども、感情として感じるのは、わずかでほんの一時である。事柄としては、安心・安全は長く続き得るが、感情としては、不安・危険が去った一時抱くのみである。だが、苦痛は、仏教がこの世を苦界と嘆いていたように、いたるところに感じられ、それも長期にわたって感じさせられるものである。苦痛は、その生が危機的な場面になるときの警告信号として働き、その危機が持続しているかぎり、苦痛を持続させる。苦痛は、その損傷にいだき、この損傷の排除・無化のなるまで、注意して対応が必要なので、苦痛を感じさせつづける。苦痛に注目すると、他のものは見ないということにもなる。
未来に関わる快苦は、現在の状況によって大きく左右されたものとなる。現在、苦痛にさいなまれ、絶望でもしておれば、未来はその現在の苦痛の延長と捉えられよう。絶望の苦痛は、現在を漆黒に描くのみでなく、希望の絶たれた未来として暗黒に描かれ、時間的には、未来という時間自体のない絶望の暗い壁で行き止まりと感じることにもなる。苦痛の現在が未来にと投影されることとなる。忍耐の営為では、苦痛の現在は、未来の快なり目的と結びつけられる。現在の苦痛が未来の快を産み出す実りを思い、現在の苦難に耐える一歩ごとに、未来の快の輝きが一歩ずつ大きくなるのを見ることができる。
現在は無事の状態でも、未来に災いの可能性がある場合、ひとは、それを生じないようにと、苦痛にならないようにと未来に向けて対策をとる。生命保険とか、火災・事故等各種の保険は、未来の危険・災いに対処したものである。予防注射なども、それに罹患する苦痛となる事態は、まずないのだと思っても、可能性があれば、これを接種しておこうということになる。現在は、現に苦痛になるものに対処することでいいが、未来は、実際には生じないかも知れない害悪・苦痛にも注目して対処することが必要となる。広大な苦痛への視野をもって未来を見ることになる。実際には生じない可能性が高くても、これに対処しておこうとする。狂犬病などの予防注射は、日本にいる限り無用だが、インドなどに行く場合は、接種しておこうということになる。