7-4-4-3. 権利・義務における幼児、障害者等の位置づけ
義務(負担、苦痛甘受)の能力がないから動物に権利を認めないのだとすると、幼児なども義務的能力に欠けるから、これにも権利を認めないのかということになる。一面ではそうである。どこの国でも子供には選挙権は認めない。権利の担い手になりうるかどうかについては、以下のようなことが判断のもとになるのではなかろうか。
第一は、権利を行使する能力、価値の享受への能力があるかどうかである。これがないか未熟な場合は、権利は認めにくいことになろう。性的に未熟な子供にその方面の権利を認めても無意味である。選挙権などもそうである。候補者選択の能力がない幼児には、投票のしようがない。動物権を肯定するひとでも、村長選挙で当地の熊や猪に選挙権を与えよと言うことはなかろう。
第二には、義務(苦痛)の負担の拒否、或いは、義務能力の欠損、または、それの未熟の場合である。権利・義務が対になっているところでは、義務(苦痛)を背負うことをしない者には、権利は拒否される。しかし、そうでない場合、子供のように、義務遂行の能力が未熟で、これを担えないような場合は、その時点で必要な権利は、認められる。そのことで子供は、無事に成長して義務を担えるようになる。その成長した子供は、次世代の子供の権利を守るために義務をしっかりと担う。世代間で権利と義務が継時的に受け継がれることで共同体は維持される。重度障害者も同様に、担えない義務は他の同胞が補い、必要な権利(特に障害の苦悩の解消、保護への権利は大切となる)は保持される。共同体の成員は、家族の成員が血のつながりで一つになって助け合うように、同一の言語(概念)同一の理性をもって一体となり、所属の共同体を同じように体現した個として存在している。互いを対等な「もう一人の自分」と了解して、障害(の苦痛)も我事として受け止めて支え合う。義務については、各人で得手・不得手があり腕力・知力での違いがあって、共同体全体の無数の歯車の一つとして各成員、適材適所でこれを果たす。障害者も、できることを担い、無理なものは、他の成員が補いをして、そのことで同一の共同体の同じ成員であることを、その絆を相互に証することとなる。障害者は、すでに多大な苦痛(障害)を、並みの義務の苦痛以上のものを背負い続けているのでもある。障害に苦しむ同胞から必要な権利を奪うことは、もう一人の苦しむ自分の保護への拒否であり、共感・同情心の豊かな者には承知しがたいこととなる。
第三には、権利義務の前提には、善悪の規範意識と自己意識をもつ人格主体であることが必要であり、なすべき当為を理解した自由意志を有していることが求められる。権利もこれを辞退する自由があり、義務も、悪意をもって拒否することも可能な規範である。動物は、没理性的で規範意識への能力自体を欠いており権利義務の担い手にはなりえない。幼児や認知症、植物状態の人では、その理性の規範意識が働きがたい状態になっていて問題となることがある。しかし、かれらは、人間という理性存在の(潜在・休眠という可能態の)うちにあり、過去現在未来にわたって同一不変の(可能的な)人格主体と見なされて、その規範意識を周囲は推定して対応ができ、必要な権利義務を語りうる存在である。幼児の場合、遺産相続であれば代理人がその子の将来の人格をもって代弁でき、認知症や植物状態でも代理人がその過去を踏まえて可能な倫理的対応を代行する。AIによる知的補助が発達すれば、未熟な知性や痴呆の補完は、微細な領域までしっかりしたものになることであろう。現状でも代理人の共感と想像力が本人の意向をそれなりに代弁し得ている。一方、動物には規範意識がないため、たとえ人間がこれを言語化しても規範的な事柄を語ることはできない。
第四には、これが結構世の中を動かすことが多いのだろうと思うが、感情的な判定である。かわいいもの、かわいそうなものを見ると、同情・共感して、これに尽くしたい、享受の保証を資格を与えたい、そのための義務を皆で担いたいと思うことで、そこからその対象に権利を付与しようと動く。苦痛を回避したいという切実さは、動物でも同じである。苦痛回避の権利が与えられてもいいのではと進めたくなる。苦痛回避の手段を提供したいという思いは、まっとうな心構えである。だが、それを権利として言挙げするのは、過剰な対応と見なすのが今の常識であろう。動物には権利義務の規範の意識はなく、動くのは快不快、感性的衝動をもってのことでしかない。義務意識がないのは勿論だが、権利を付与しても、そのことの自覚はもてない。義務を説いても「馬の耳に念仏」であり、権利を与えても「猫に小判」である。