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2026/07/30

世界観を創る苦痛

7-5-1-2. 絶望の苦悩は、生を奈落の底へと落とし込む  

激痛の末期癌も群発頭痛もこの私の精神とは別の身体の痛みである。身体の痛みは精神をおしつぶすが、その痛み自体は、精神的な私自身とは別の存在である。だが、精神的な苦痛においては、この個我、私という主体自身が痛むことになる。

 群発頭痛や末期癌は、これを攻撃して銃で破壊することができる。もちろん、そのことで同時に身体的生の上に成り立っている精神主体の私も消滅はするが、この私の破壊を目指して銃を打ち込むのではない。その苦痛は、この私の存在の外に位置している。だが、精神的な苦痛・苦悩・悲痛は、この精神的主体の私自身の在り方であり、その苦悩を銃で直接破壊することはできない。絶望は死に至る病だということがあるが、主体の私自身が絶望するのであり、その苦悩に耐えられず私の魂自身を私が殺す、ほかならぬ自身による自身の殺害となる。苦痛の末期がんの場合は、私自身を殺すつもりはない。身体を、その癌を殺すのである。だが、絶望の精神的苦痛では、絶望する自己自身を自己が殺すのである。私自身を破壊・消去することにともなってその苦痛も消去されるものになる。もちろん、精神は身体のうえになりたっていて、身体を破壊し無化することで自動的に精神的生も死ぬから、身体を死なせ無化することで、精神に死を実現するという手続きをとるのが普通であろう。絶望の極み、自殺する場合、身体を破壊することでその上に成り立った精神も消滅することを承知しているので、元気な身体を自らに葬り去るのである。

 精神の苦痛も感情としては身体反応をもつ。癌の痛みや手足の痛みに七転八倒するときのように精神的苦悩でも感情としては身体反応をともなう。身体が緊張し萎縮し締め付けられ生気を失い血流は鈍く皮膚は暗く冷たくもなる。かつ精神固有の苦痛として、不安や絶望・悲嘆は、精神そのものを痛めつける。癌や頭痛のように私という主体の外にあるのではなく、私そのものに苦痛は生じる。私が苦痛そのものとなる。私の精神は、絶望において、その精神的存在の自身が奈落の底へと落とし込まれ暗黒の無の底なしの穴にと吸い込まれ引きずり込まれて漆黒の深淵にさいなまれることになる。そとの世界には太陽が輝いているはずなのに、自分にはもはや暗黒の締め付け脅かし苛む虚無の空間しか残されていないことになる。世界は、自分をすりつぶして、逃れようのない暗黒の空間にと閉じ込めるブラックホールと化す。

苦痛は、損傷の知らせであり、精神的苦痛も、その原因の自身の在り方、とくに社会的な損傷を補修して回復することで、消失させることができる。その点は、身体的損傷、身体的苦痛と同じことであろう。対象化した身体へのかかわりとちがい、主体としての精神的な自身を変えるという作業になる。あるいは、精神の関わる外的な社会関係のあり方を変えることともなろう。既成の自己そのものを破棄する。それは、身体を殺して精神自体も殺すということになることが多いが、場合によっては、身体は残して精神自体を殺すことも可能である。それは、同じ社会では、別人格(多重人格・人格喪失)になり、しばしば狂人となることであるが、場合によっては、別天地に、新世界に転居してこれを実現できることもある。受験に絶望して死を思っても、受験のない別世界に移り住めば、その日から別人格となって、心身は、第二の人生を元気に始めることが可能となる。それこそ、「死して成れ(Stirb und Werde)!」、起死回生である。

2026/07/23

世界観を創る苦痛

7-5-1-1. 末期癌などの痛みは、生のすべてを呑み込み破壊していく

群発頭痛は、群発するとしても苦痛のなくなるときがある。苦痛は、一時のもので、我慢すれば、安らぎがもどってくる。激痛退治にと銃弾をおのれの頭に打ち込むのは、自暴自棄になった時に限られる。だが、末期癌の痛みのなかには、激痛がどこまでもつづき、安堵することの不可能な地獄の責め苦をもたらし、その果に死の待ち構えているものがあるという。自身の生には、苦痛しか残されていないのだと分かれば、生そのものを早々に終わりにした方がましと、安楽死を求めるようにもなる。その苦痛の存在が許せないと、自己の生すらを犠牲にしてまでも、その排撃を優先する。生の排撃すべき苦痛が自身の生の全体を支配して絶望的状況になるのであり、生を放棄したいわけではないが、生の全体が苦痛によって永続的に支配され苦痛以外にはなにも残されていないと分かれば、生自体を放棄してでも、苦痛の支配を終了させたいと思うことになる。苦痛のみの生よりは、死、無の方がましとなる。マイナスの状態よりは、ゼロの方が価値が高いという選択である。積極的安楽死が選ばれる。

 こういう苦痛による生支配のもとでも、ひとは、これに耐えつづけることも可能ではある。かりに、激痛のつづく末期癌であっても、群発頭痛にとらえられていたとしても、自身が生きていることでのみ、自分の大切な幼い子供の生も可能となっているというような状況では、苦痛に耐え続けることができよう。そう意志を持ち続けうることであろう。客観的な損傷と違い苦痛は、あくまでも主観的なものであり、その意志次第では、どんな苦痛でも耐え抜くことが可能である。もちろん、その激痛の持続で中枢の諸機能がダメージをうけ、あるいは臓器不全等で、死にいたることになるであろうが、それに到る最期まで苦痛には負けないで耐え続けることができる。その苦痛への忍耐が、わが子の成長といったかけがえのない価値ある物事を可能にすることがある。

 だが、苦痛は、ほかのことを考える余裕もあたえなくなっていく。激痛がつづけば、心身は疲労困憊させられて、ひとは、冷静にものを考えることもできないようにとうちのめされ、苦痛のうちへと沈み込み、外への関心も奪われていく。たとえわが命より大切な子どものことであっても、生の気力自体が疲弊し麻痺させられて、それへの思いも薄れていくことになろう。激烈な疼痛に生はのっとられて他のことに意識は向かず無関心となり無気力化する。なかば死が乗っ取った状態になる。激痛が続いて、これに支配され困憊状態に陥る中では、おそらく苦痛に耐えることで実現されるであろう大切な価値についてすらも、これを思う気力も起こせないようにしていく。激痛に呑み込まれて、それが残された生のすべてとなり、苦痛だけが残り続けるのであれば、この巨悪の苦痛を排撃し撲滅しようと、最期の挑戦としての積極的な安楽死を希求するようにもなる。この世に、苦痛ほど罪深いものはない、苦痛さえなければ、極楽だと、いいたくなる。

 

2026/07/16

世界観を創る苦痛

7-5-1. 苦痛は、自己内にある最大の反価値、排撃したい異物  

苦痛は意識を集中させる。苦痛の感覚は、意識を覚醒し、苦痛に対しての反欲求衝動を呼び起こし、ひとは、苦痛排撃のためにと全意識を集中する。意識を集中するというよりは、集中させられるのである。苦痛を忘れよう、感じないようにしようとしても、それを拒否して、苦痛は、意識をそこへと振り向けさせ続ける。快は、これの無い状態において、これを求めてわがものにしようとし、その充足がなると、その快感は有り続けてほしいのに、意識からはたちまちに消失し無化していく。苦痛は、反対に、あって欲しくなく、消し去りたいのに、現にある苦痛に意識は集中させられる。苦痛がある限り、どこまでも、これに意識はとらわれ続ける。

 苦痛は、自己自身のうちに生じている感情であるが、本来的な主体・自分自身とは区別し、自分でない、排除したい、それとの同居を拒否したい、異物あつかいとなる。苦痛をなくした安堵する自分を真の自分とする。足に激痛が続けば、ときには、その苦痛をなくするために、足自体を切り捨てたいと思うこともある。群発頭痛(cluster headache)では、銃が自由なアメリカでは、自分で頭を銃で打ちぬくことが結構あるとかいう。自分の頭のうちに生じている、自分でない激痛という存在に向かって、これを排撃することを最優先にしたいというほどの、受け入れておきたくない異物と見なされる苦痛である。耐えがたい頭痛は、主体としての肝心の私の居場所が脳にあることを承知している者が、自分を無化することになるのを承知しつつ、苦痛の排撃を自分の生よりも優先するのである。自分のうちの、自分を打ちのめす群発頭痛を銃殺刑にしようと銃弾を自分の頭に打ち込む。それで自分が死ぬことは十分承知している。激痛退治がすべてに、自分の命よりも重大なものとなっているのである(インカの遺物に頭蓋骨に穴をあけて手術したような痕跡をもつものがあるというが、おそらく、こういう激痛を除去しようとの試みだったのではないか)。この群発頭痛は、自殺頭痛(suicide headache)と言われているとかである。

 苦痛では、これに耐えることではじめて価値獲得の可能になる場合がある。それは、苦痛回避の自然を超越した理性的な手段として、尊い手段価値となっているのだが、激痛に苦しむ者は、そんなものは苦痛の内に入らない、寝言だと言いたくなろう。群発頭痛に襲われた者は、苦痛は、なんといっても、ひとを鞭打ち虐げる最大の反価値だといいたくなろう。苦痛は、暴力団と同じで、彼らがたまに他の暴力団員を始末したり、冷酷な守銭奴を懲らしめて、痛快事と市民を思わせるようなことがあるとしても、根本的には、善良な市民にとっては、ゆるしがたい狂暴な犯罪集団であり、なくしたい筆頭のもののはずである。苦痛も、それと同じで、たまに手段価値になる例外はあるとしても、根本的には、反価値・悪そのもので、これさえなければ、この世は極楽と言ってもいいような最悪の反価値だと、苦痛に虐げられている者は断言したくなろう。

2026/07/09

世界観を創る苦痛

7-5. 苦痛は、生を破壊し呑み込むブラックホール

苦痛は、そこへとひとの意識を集中させる。注意散漫な者でも、激痛があると、その激痛に自動的に集中させられる。別のことに意識を向けていても、苦痛が生じるとこれに意識はもっていかれて、もとの意識はお留守になっていく。正座して和尚さんの説教をかしこまって聞いているとき、だんだんとその正座で足が痛くなり、足がしびれてくる(最近は、正座など無用の椅子形式が普通になっているが)。時間とともに、いてもたってもおれないようなことになる。足の痛みをなんとかしたいとそわそわし、その苦痛をどうにもできないことに焦る。それでも、はじめは、説教に耳を傾けているが、苦痛が大きくなるとともに、その説教は上の空となり聞こえなくなって、苦痛のみに意識が集中させられていく。足の痛みがすべてとなって痛みに耐えるためにもがき、緊張し、なにもしてないのに疲労困憊する。ありがたい説教は、苦痛の原因ともなり、説教の終わるのを今か今かと待ち構えて、脂汗をながして耐える。正座しての足の苦痛にすべてが呑み込まれて、ほかのことは意識からは遠のいた状態になる。たかが正座しての苦痛という些事に耐えるだけなのに、苦痛は、人をとらえ、いたぶり続ける。ひとは、現前の苦痛をなくするために懸命になり、それができないで七転八倒する。人の生は、その時、足のしびれ・痛みにすべてをとられてしまう。座るということで生じる些細な苦痛でも、その時には、極楽の話を聞きつつ現実の苦痛の地獄に終始することになる。和尚さんの極楽行の話が終わって、足の苦痛から解放されてしばらく、この世の極楽を堪能することとなる。苦痛こそは、人生を台無しにし、ひとを地獄の責め苦に陥れる巨悪だ、この世の最大の反価値だと断罪したくなる。これが大病・大けが等の苦痛にとらえられた者の場合、真実、この世の地獄に突き落とされてしまい、苦痛というものの反価値のすさまじさを味合されるのである。

 注意散漫で、ぼーっとしていることの目立つ者があるが、そういう、意識を集中しにくい者でも、ことが苦痛ということになると、まちがいなく、これに自動的に意識集中する。怪我をしても気づかないのんきな者もいるが、それは、苦痛がないからである。いくらのんきでも苦痛が生じたら、これに全意識を集中する。快は、欲求が充足され、安堵でき安心できる状態にいだく。そこでは、もう意識して対象に関わる必要がない。その生の充足状態に安堵できるのであれば、意識は、無用となり、まどろみ、眠ることに向かう。その反対が苦痛である。美しく心地よいものへの美意識をひとは持つが、各種の快への意識は少なく、持続もせず、刹那に終わる。だが、苦痛は日々に生じ、意識を常に呼び起こし、どこまでも意識させつづける。ひとの生死を問題にするとき、意識を有しているかどうかが問われることがある。つまり、ひとは、本質的に意識的存在だということだが、苦痛こそが意識をもたらし意識しつづけることを強いることからいうと、ひとは、極楽の蓮のうてなで微睡んでいるような意識無用の存在とは縁遠いのである。本来的に、苦痛に囚われこれを意識し続けることの強いられた、地獄の悲惨な住人なのだと悲観的に解釈することもできそうである。 

2026/07/02

世界観を創る苦痛

7-4-6-2. 快も苦痛も信用できない時がある

 快苦は、生きるために必須の感覚・感情である。だが、それは、単純で杓子定規な反応であるから、複雑高度な状況には適応できず、しばしば有害な結果をもたらす。快は、食では、栄養あるものを察知したものとして、これにひかれて半ば自動的に栄養摂取は可能となっている。快の持続が瞬時に終わることも、たくさんの栄養物を取り込むためには好都合な反応である。だが、快反応は、その場だけのことなので、身体の肥満などの有害な状態を反応のうちに含むものではないし、美味しい快のなかには、有毒なものがときにあるが、それを検知するものでもない。美味しい・快だからといって、その食べ物を無思慮に摂取していたのでは、命が危うい状態になることも生じ、快を信用しきることはできない。食事では、美味を前提にしつつも、有害なことともなるから、節制という理性的な制御を踏まえることが必須となる。性的快楽なども、快自体は、受精の成功・完了を知らせるもので、生殖には、有益であるが、その快楽は強く、受精すべきでないところでもこれに惹かれてしまうから、有害となる。性欲の快楽は、有害な快の代表になるぐらいである。性的快楽がなければ、この世の犯罪は、かなりがなくなる。

 快苦は、その反復で感受性を変え、過敏になり、鈍感にもなる。快は、これを享受し続けていると、次第に鈍感になる。甘いものを食べ続けていると、より甘いものでないと満足できなくなる。ひとつの食べ物に限定してのことではなく、甘さへの感覚自体が鈍感になっていく。昔美味しかった桑の実は、今食べると少しも美味しくない。あらゆる食品が過度に甘くなっているからである。苦痛の感受も、続けていると、多くの場合は、その苦痛には鈍感になる。平気になる。それは、忍耐でもそうで、苦痛を甘受していると、だんだんとそれに慣れてくる。特に苦痛忍耐で自身の心身が強化される場合は、苦痛による打撃が少なくなり、少しの苦痛なら、苦痛ではなくなる。

 逆の場合もある。歳とともに味覚は変化するから、以前は、美味しくなかったものが、美味しくなることもある。わさびとか辛子、あるいは、酒など、いやなにおい・味わいであったものが、いつのまにか平気になって美味と思うようにもなる。快苦は、同じ個人であっても、ときと場所によって、感じ方を相当に異にすることである。客観性にはとぼしく、主客のその時の在り方次第で感じ方は異なって、場合によっては、信頼性には欠けるものとなる。同じ人類でも、あるいは、歴史の中では、快苦の感じ方はかなり異なったものになる。ましてや、他の動物とは、同じように快苦をいだくとしても、まるで感じ方が異なると言ってもいいような違いをもつ。蛇は、蛙を丸のみし、ときに飲み込んだものをまるのまま吐き出すが、どういう味覚をもっているのであろう、人の食とは比較すら困難である。秋になると種々の樹木が赤い実をつけるが、小鳥たちが美味しそうにたべていても、ひとが食べておいしいと感じるものは、ほとんどない。蓼食う虫も好き好きとなる。

 こういう快不快の感情によって動かされる動物的状態に終始していたのでは、合理性・客観性・普遍性を尊ぶ生き方をする人間には、ふさわしくない。感性・感情を超越した理性的な生き方こそが人のあるべき生き方だといいたくなる。それを主張したのが、ストア学派である。かれらは、パトス(感情)を拒否し超越した理性人として生きようとした。アパテイア(a-patheia(無-情念))を理想とした。

2026/06/25

世界観を創る苦痛

7-4-6-1. 人も快苦の感情に踊らされる

 ひとも動物も快苦の感情によって動くことが多い。喜怒哀楽等のあらゆる感情は、快か不快(苦)に二分され、感情は、快不快という表現をもって語られる。その生に価値あるプラスの状態がもたらされるなら快となり、反価値・マイナスの状態になるところで不快・苦痛を生じる。快の状態なら、そのままか、価値あるものをさらに確保することに動き、苦痛なら、その生に不都合・損傷が生じつつあるということだから、これに注目して、そのマイナスを除去・回避することに動く。ひとも動物もそのことでは同じである。

生理的レベルではそうであるが、さらに人は、理性をもち精神的世界にも生きる。ここでも、快は、希望とか幸福は、価値あるものが獲得される状態でいだく。不快・苦痛は、絶望とか不幸がそうであるが、反価値状態に感じる。理性制御のもとの人間においては、苦痛の受け入れ・甘受が価値獲得の不可避の手段となるときがあり、その場合は、忍耐して苦痛を受け入れるという反自然・超自然の振る舞いをする。精神的世界では、快はほんの些事になる。価値が確保できず快感情だけだとすると、これを嫌悪するぐらいとなる。「ぬか喜び」は、純粋に喜びの感情だけが生じる状態だが、価値獲得は無なので、ひとは、これを嫌う。

 快は、短時間しか持続しない。価値獲得で事は終了しているのであり、その終わり・確保の完了に抱くのが快である。その完了の瞬時に快感をいだくのだから、快は、短時間で終わる。長々と快が続くのでは、次の価値獲得に遅延が生じる。食べ物を一口口にいれていつまでも快なのでは、食は進まない。確実にわが物となったのど越しに瞬時快を感じるようにできている。のどを通過しなくては満足できないから、食道楽は、必ず栄養過多となり肥満する(貪欲な食道楽の中には、そのため、食べ放題のバイキングなどでは、いったん食べたものを吐き出すという愚劣極まりないことをする者がいるとかいう)。精神的世界の快も同様、不快・苦痛に比してはほんの瞬時にいだくのみである。試験に合格したら、その時は喜びをいだく。だが、それは続かない。逆の不合格の場合は、不快は、持続する。それで自身の求める生き方が不可能になる場合だと、何年でも、その不快・苦痛は、その絶望・悲しみの感情は続けることがありうる。肉体的な快楽は、刹那、瞬時に終わる切ないものというが、精神的レベルの快も同様である。不幸はいつまでもくよくよと続けるが、幸福感など、現実に幸福でも感じないぐらいである。不安・安心なども、そうで、危険のなくなった安心の快は、安全の確保をもって生じるが、それは瞬時に消え、安全持続の中で感じることはない。が、危険への不安は、危険と自身が想定する限り、妄想であっても、一生でも続く。

 快楽主義者(エピキュリアン)は、快楽を求め、エピクロスがその代表ということになるが、かれは、賢明にも、快楽そのものではなく、苦痛の無い状態を最終的な快楽主義の生き方として求めた。快は、感じるとしても、短時間でしかなく、精神的レベルになると、価値獲得の方が肝心で快感など些事となる。それに対して、苦痛は、損傷の有る限り、どこまでも持続して人を痛め続ける。苦痛は、精神世界でも、ひとを絶望や悲嘆で痛め続けてやまない。苦痛がなければ、身体は安堵でき、精神も健やかに清々しく生を続けていくことができる。苦痛がなければ、それだけで十分だ、苦痛の無いことこそが幸福だ、ということになる。真のエピキュリアンは、刹那の快楽など些事と放擲し、苦痛苦悩のなくなったアタラクシア(a-taraxia(不動・不惑))を理想として求めることとなった。仏教では、この世を苦界とする。極楽は、この苦界を超越する世界であるから、苦のない世界ということである。苦がなければ、この世は極楽である。キリスト教でも、やはり、天国について、これを苦痛のない世界と表現する(新約聖書『ヨハネの黙示録』(第21章)は、千年王国の後の究極の天国について、不死で悲しみも苦痛もない世界であると表明する)。苦痛の消えた穏やかな世界は、極楽・天国である。

2026/06/18

世界観を創る苦痛

7-4-6. 苦痛感情が自他を動かす  

快苦は、ひとと動物を自ずからに動かすが、そこで気になり、大きな力をもつのは、苦の方である。快なら、その生にマイナスの状況は生じていないので放置できるが、苦痛は、生に損傷・破壊が生じているという知らせなのである。生は、自身の保存・保護のために、まずは苦痛に注目して、その損傷を回避するようにと意識を傾けていく。痛み・痛覚はあるが、快覚はないのが身体の各部位の通例である。内臓は、快を感じること自体がなく、痛んではじめてこれを意識でき、それへの対処を心がけることになる。第一、痛みがなければ、対処どころか、内臓の存在自体にすら気づかない。快苦というが、苦痛は、遍在し損傷・破壊に直結するものとして常に注目されるが、快は、価値あるものが獲得できたという感情であるから、プラスの生起として無視しておいてかまわない。かつ、それは、時間的にも、価値の獲得時のみの短時間にとどまる。苦痛は、損傷が有る限り、いつまでも続く。これは、生理的レベルのみのことではなく、精神的レベルでも同様である。喜びの快は、価値獲得がなったという勝利宣言であり、後には何も気にするものはない。快・喜びは、どんなに強く大きいものでも、数日も続けば異常といってもいいぐらいの快事になる。だが、悲しみは、長く続く。失恋の悲しみは、次の恋人が見つかるまで、いつまでも続く。子供の誕生の喜びは、長くは続かないが、その子が死んだ悲しみは、永遠に続く。おそらく、思い出す度に、何十年たっても、悲しみは消えない。失ったものは、これを取り戻せるようにとその意識を持続させる。取り戻すまで、いつまでも、その苦痛は続いていく。

自分が自身のうちの苦痛によって動くことが多いだけではない。他人についても、ひとは、その他者の苦痛を意識して動くことが多い。他者を知るには、自身とちがい、外物を認識する過程をもっての媒介的な認識となるが、そこで推察する快と苦については、その顔面や声、或いは振る舞いをもって知る。そこで相手の内面を推察することになるが、快苦のうちでは、何といっても、その苦痛を知ることが突出している。相手の内面を知るという意識の在り方として、同情の働きを人は有する。相手と同じ情をもつということであるが、その同じ情は、苦痛・不快になる。快を見て、同じくこれに染まって自身が快を抱くこともあるはずだが、同じ感情をいだく同情というと、苦がまず思われる。その同情をもって、ひとは、他人であっても、その苦痛を慮り、その手助けができないかと心を砕いていく。ひとの快も理解できるが、これは、その生が保護され価値を得ているということだから、放置しておいてよい。だが、苦は、そのひとが生の損傷を被っているのであり、悲しみの表現は、救助を求めていると言うことであり、無視しがたいこととなる。

人権はもとより、動物権を言う場合も、それを求め権利として確立しようと動いたのは、その人や動物の苦痛に発することである。ひとが、虐げられ苦しみの人生を強いられていることに対して、その苦痛を軽減しなくてはと、自身の苦痛の回避と他者の苦痛への同情心が人権を主張することへと人々を向けたのである。人生を謳歌出来ている人を見て、人権を心配することはない。動物の権利を昨今いうことが増えているが、これも、動物の苦痛への慮りに富む人々が、耐えがたい苦痛を強いられている動物たちを見るに忍び難くて、その苦痛を軽減しなくてはと動物権を主張しているのであろう。同じ生き物であっても、苦痛のない植物には、植物権をいうことは普通はない。生き物を殺めるようなことがないようにと志す仏教徒は、虫をも殺さないようにと注意しているが、苦痛をもたない植物については、それを切り刻んで食べることを禁止などしない(理想というか極端な場合には、植物のみを食べるというベジタリアンをも乗り越えて、生あるものとしての植物の食も禁止し、空気を吸って(breathe)栄養ともして生きるブレサリアンを一部ではいう。霞を食べて生きる仙人を理想とするけれども、それでは、現実的には動物として人は長くは生きられない。水と空気があれば、しばらくは清々しく生きていけるが、普通人の場合、一月ぐらいが限界のようである)。