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2026/08/27

世界観を創る苦痛

7-6. この世は、苦界か  

ひとは、日々、快不快によって動く。できるだけ苦痛・不快を回避して身の損傷を避け、快を求め生の保護・促進を心がけている。だが、この快と不快(苦痛)は、自然において、等しく与えられているものではなく、苦痛が過多のように見える。生の歩む自然の道は、快を目先の目標にしているが、そう簡単には快は得られない。だが、苦痛は、どこにでも満ち溢れている。ぼんやりと不注意に過ごしていたり、すこし道をはずすと、すぐに不快・苦痛が現れて、道をはずさないようにと警告する。快が簡単に確実に得られることとしての食物摂取でいえば、食卓に並ぶのは、快となる美味しく栄養あるものばかりであるが、それは、快収集の最終段階にあるからで、自然そのものの下では、ひとに快となるものは、ごく限定される。ひとの周囲に満ち満ちている物は、ほとんどが食に適さない。それを食べれば、不快で嘔吐させ苦痛をもたらすものばかりである。ごく限定した物を選んで快の食事はなりたつ。快の生促進の細い道があって、その周囲はすべて苦痛の茨が取り囲んでいる。道を外そうと思わなければ、事故や病気が襲うようなことがなければ、苦痛は意識しなくてもいいように快の細い道が昨今は整えられているとしても、圧倒的な周囲の空間は、苦痛をもたらす有害なものに満ち溢れた世界になる。

 しかも、快の道をとるとしても、それもほどほどの享受にとどめ長い先をみつめてのものでないと、すぐに不快・苦痛に転じる。食でも、快の美味の物も、少し過ぎると有害になり、飽食すればそれは不快となって嘔吐させるものにと転じる。楽な道は、人生を行き詰まらせるというのが普通でもある。楽な座り方も、それに固定した状態では、苦痛になってくる。一番楽な、横になっての睡眠も、何日も寝ていることになると、その安楽は苦痛に転じる。この世では、どこを向いても苦痛がとりかこんでいるように思える。

 快はだいたいが短時間しか持続しない。生促進を実現したその最後の瞬時に快楽の褒美が与えられるだけである。美味の栄養ある食べ物は、口に含んだからといって快にはならない。のど越しの瞬時、快となるだけで、喉を過ぎて食道に入ると、もう快は消滅する。快の代表の性的快楽も、受精が実現するその瞬時に快楽があるだけである。それに比して不快・苦痛は、どんなものでも長い。生の損傷があるかぎり、苦痛は持続する。もちろん、それで多くの場合、生が保護できるのではある。かりに、損傷して苦痛になっても、快のように瞬時に終われば、楽ではあるが、それでは、その損傷は気にかけられず、損傷するままに放置されるであろう。さらなる損傷も少し我慢すれば終わりとなるのなら、気にすることなく危険な方向へと進むことにもなろう。そうならないようにということで、損傷があるかぎり、苦痛は、長々とつづく。歯痛は、歯を抜くまで、何日でも痛みつづける。その根気強い歯痛に負けて、ひとはいやいやながら最後、歯医者に行く。だが、抜歯しての安楽は、ほんのわずかの時間感じられるだけに終わる。苦痛はいつまでもつづくが、快は、瞬時に終わる。この世は、徹底した苦痛の世界、苦界だといいたくなる。仏教は、この世を「苦界」と、いみじくも言い表している。

2026/08/20

世界観を創る苦痛

7-5-2-2. 忍耐は、悪の苦痛を手段とする狡知の営為  

苦痛の支配下に動物は存在しているが、ひとは、この苦痛に支配されるとともに、これに挑戦できる超自然、超動物的存在なのでもある。ひとは、動物として快苦の自然世界のもとに属し、快に惹かれ苦を回避して生きつつも、苦痛の支配に屈さず、これを拒否して反自然・超自然的にふるまい、逆にこれを支配もできる。苦痛が猛威を振るうとしても、それはあくまでも私の主観のうちにおいてのみであり、人間は、自身の主観内において、自然を超えた精神的理性的立場から、自然に譲ることなく、苦痛を制御・支配することが可能である。身は滅ぼうとも、苦痛から逃げないで甘受しつづけることができる。最後、ショック状態になって死を来すとも、意志は、苦痛から逃げないでこれに耐えることが可能である。どんな苦痛であっても、それは自身の心のうちに存在するだけである。客観的には損傷が激しく身は滅びようとも、苦痛は、自己内のものとして、最期まで、自身で制御・支配して苦痛から逃げず、これを甘受して耐えることができる。拷問では、苦痛にまけないで、最後失神したり殺されることもある。崇高な自身の理性意志を貫徹して、苦痛に耐え続け負けないで拷問に勝つことができるのがひとである。

 損傷を原因として苦痛が結果する。苦痛は、報いである。不可解な原因不明なものによる苦痛も、前世に犯した罪への報いとして甘受しなくてはならないと、かつての多くの人は考えた。現世の苦痛・損傷は、過去世に犯した罪への報いであり、刑罰・懲罰として自身に課せられているのだと想像することが多かった。いまでも、事故にあうと、「どうして悪いことをしていない自分がこんな目に合わなくてはならないのだ」と因果応報の思いを踏まえて、不当(冤罪)と嘆くことである。少なくない苦痛には、現世での原因のある場合も多かった。苦痛が生じたとき、ひとは、その原因を考え、探す。左足が痛めば、「そういえば、昨日は、転んで左足を打撲した、その損傷が左足の苦痛の原因だ、湿布して手当てをしなくては」と進めていく。原因を想起できれば、現在の苦痛はやむをえない結果・罰だと受け止めて諦念し、逃げることなく、この苦痛の甘受・忍耐をひとはする。  

より価値あるものを得るための手段として労苦を背負うことも、人に固有の営為となった。その苦労・苦痛の報いは、価値あるものの獲得となった。汗水流した成果として実りが得られた。苦痛は、尊い手段価値と見なされた。目的としての価値獲得のための不可避の手段として苦痛の甘受、忍耐が、ひとにおいて貫かれることとなった。自然的には、苦痛は、損傷というマイナスのもとで生じているもので、苦痛は、嫌悪すべきものとして忌避され、したがって損傷も回避可能となった。そのマイナスの苦痛と損傷を受け入れることは、直接的には生破壊、反自然の愚かしい営為であるが、このマイナスの価値の苦痛を、ひとは利用する。小さな苦痛・マイナスを受け入れ許容することで、大きな価値の獲得が可能になると推し量って、人類は、苦痛をあえて受け入れ、「肉を切らせて骨を切る」という反自然の非常手段を利用することになった。苦痛甘受の忍耐である。自然の与える苦痛は、この苦痛の先には行くなと警告しムチを加える。だが、ひとは、この自然の警告を無視し苦痛とその忍耐を踏み台にして、その先の超自然の価値創造の世界へと進んでいく。

2026/08/13

世界観を創る苦痛

7-5-2-1. この世の根源悪としての苦痛 

動物的な生あるもののみが苦痛をもつ。この生にとって、苦痛は、生の破壊を知らせるもので、苦痛回避は、生保護に必須である。と同時に損傷という原因がないものとか損傷の知らせに留まらない激痛、止むことのない長く続く苦痛は、穏やかな生を台無しにする疾患として、それ自体が忌避したい嫌悪すべき悪そのものとなる。

 ひとは、快であるもの、価値あるものを求めて生きる。それは、他方で不快なもの、価値喪失となるもの、苦痛となるものを避けて生きるということでもある。だが、そういう苦痛回避の注意をして生きているにもかかわらず、しばしば苦痛には出合う。しかも、快は瞬時に終わるのに、苦痛は、長々と続く事でもある。あたかも、いじわるな神がいて、ひとの避けている苦痛をわざとひとに与えているかのようにである。神の「わざ」とする「わざ(行為)」に出「あう」のが、わざわいである。いわれのない苦痛に出合う者は、この世を、そういういじわるな神々に満ちた苦の世界、苦界とみなしたくなる。苦痛のなくなった無の世界に、ひとは、ほっとし安堵・安心感をいだく。なにもない無の世界が安らぎ世界になるということは、この有の世界は、生を脅かすマイナス状態に満ち溢れた、邪悪に支配された苦界だと感じられているということである。

 善・悪というと、価値あるものを選ぶのが良いこと、善で、価値のない状態、反価値を選ぶのが悪いことであって、自由意志がこれを選択する場面に言われる。自然状態では、理性意志による選択はないから、狭義の善悪は、ない。だが、あたかも意志が選択するかのように自然の在り方を捉えるとき、ひとにとってより価値あるものがもたらされるなら、それは良いことで、広義には善とみなすことができよう。逆に、自然がひとにとってより価値のない、反価値の状態をもたらすのは、良くないことで広義には悪とみなすこともできるであろう。苦痛は、自然のものだが、ひとにとって価値がないというか排除したい反価値の代表であり、苦痛さえなければ、この世は極楽ということになれば、それは、ひとをいためつけてやまない自然的な根本悪となっているのである。

 苦痛は、損傷を知らせるものとして、価値をもつ。だが、苦痛自体は、生あるものが真っ先に排除し回避したい反価値である。損傷が生に生じた場合、生保護のかなうようにと対処するが、その損傷の発生を感知するものとして苦痛はある。苦痛はなくても、損傷が分かれば生はそれからの保護のために適切な対応をする。苦痛は、単なる損傷の知らせ・警告の手段でしかない。その手段が激痛となって人の生を困憊させるのでは、本末転倒である。苦痛は損傷警告に有意義と価値付けられるだけであって、苦痛自体が価値をもつのではない。本源的に反価値で嫌悪される筆頭のものだから、これを損傷時、厳しく警告するために利用しているだけであろう。とすれば、その苦痛が激痛となって生自体を疲労困憊させるのであれば、役立たないどころか、苦痛は、全面的に、嫌悪され排撃されるべき反価値・悪そのものになっているのである。