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2026/01/29

世界観を創る苦痛

7-3-4-1. 苦痛の過去・現在・未来                     

ひとは、過去・現在・未来の時間のもとに生きている。苦痛は、それぞれについて、苦痛色に染めてこれを見させる。過去については、快とか喜びの体験とちがい、苦痛は、すでになくなったことなのだからと簡単に忘却していくことはしない。足を踏んだ者とちがって、踏まれて苦痛を抱いたものは、これを一生忘れないという。いじめた方は、すぐに忘れるが、被害者の方は、受けたマイナスの仕返しするためにと、長年月かけても忘れることなく、機会をねらい、これを実現していこうとする。受けた苦痛ははるか昔のことでも、仕返しができなかった場合、怒りは憎しみとなって、その苦痛から延々と続く怨恨感情は、ときには、個人を超えて次の世代にまで受け継がれていく。個のみのことではなく、社会全体としても、苦痛の過去は、追悼の儀式などを反復して記憶にとどめ続ける。受難の記憶は、長く残る。過去は、喜び色で思い出すよりも、苦痛・悲しみ色で見ることが多い。喜びは価値あるものが獲得されたのであり、もうすべて終結しているのであって、気がかりはなく、すぐに忘却されていく。だが、悲しみは、喪失体験であり、その喪失・損傷からの回復がなることをもとめるのが生維持となることで、その回復がなるまで忘れないようにしておくべきなのである。失ったものへの懸念は、回復がならないものであっても、その損失の愚を繰り返さないようにと、いつまでも残り続ける。

現在のもとでの快と苦でも、優先的に注目されるのは、苦痛である。快は、マイナスはもたらさないのであり、できれば獲得したいということにとどまる。苦痛は、現に生じているマイナスであり、深刻で危急の事態であって、この苦痛の回避にと集中する。苦痛は、損傷がはじまったら感じさせられ、損傷がなくなるまで、注目し対処すべきことであって長く持続する。快は、価値獲得時に褒美として瞬時いだくのみである。精神的な快の喜びとか安心なども、感情として感じるのは、わずかでほんの一時である。事柄としては、安心・安全は長く続き得るが、感情としては、不安・危険が去った一時抱くのみである。だが、苦痛は、仏教がこの世を苦界と嘆いていたように、いたるところに感じられ、それも長期にわたって感じさせられるものである。苦痛は、その生が危機的な場面になるときの警告信号として働き、その危機が持続しているかぎり、苦痛を持続させる。苦痛は、その損傷にいだき、この損傷の排除・無化のなるまで、注意して対応が必要なので、苦痛を感じさせつづける。苦痛に注目すると、他のものは見ないということにもなる。

未来に関わる快苦は、現在の状況によって大きく左右されたものとなる。現在、苦痛にさいなまれ、絶望でもしておれば、未来はその現在の苦痛の延長と捉えられよう。絶望の苦痛は、現在を漆黒に描くのみでなく、希望の絶たれた未来として暗黒に描かれ、時間的には、未来という時間自体のない絶望の暗い壁で行き止まりと感じることにもなる。苦痛の現在が未来にと投影されることとなる。忍耐の営為では、苦痛の現在は、未来の快なり目的と結びつけられる。現在の苦痛が未来の快を産み出す実りを思い、現在の苦難に耐える一歩ごとに、未来の快の輝きが一歩ずつ大きくなるのを見ることができる。

現在は無事の状態でも、未来に災いの可能性がある場合、ひとは、それを生じないようにと、苦痛にならないようにと未来に向けて対策をとる。生命保険とか、火災・事故等各種の保険は、未来の危険・災いに対処したものである。予防注射なども、それに罹患する苦痛となる事態は、まずないのだと思っても、可能性があれば、これを接種しておこうということになる。現在は、現に苦痛になるものに対処することでいいが、未来は、実際には生じないかも知れない害悪・苦痛にも注目して対処することが必要となる。広大な苦痛への視野をもって未来を見ることになる。実際には生じない可能性が高くても、これに対処しておこうとする。狂犬病などの予防注射は、日本にいる限り無用だが、インドなどに行く場合は、接種しておこうということになる。

2026/01/22

世界観を創る苦痛

7-3-4. ひとは、苦痛の色眼鏡で世界を見ることが多い     

ひとにとって苦痛、したがって損傷は、生の危機であり、これを回避することで生は無事に存続可能となる。苦痛は、無視されると生破壊となることで、常々注目して対処すべきものである。社会生活では、苦痛・苦難は、回避されるとともに、しばしばこれを手段として受け止めて、高い目的を実現していくことも多い。この方面では、苦痛は回避していたのではことが成就しない。これをあえて受け入れる苦痛への忍耐の必要が生じる。回避するにせよ、甘受して忍耐するにせよ、苦痛に注目し、最小の苦痛になりうるようにと工夫する。世界を苦痛の出来する場として、苦痛の生じそうなことを注意・予期して生きていく。あろうとなかろうと苦痛に注意・注目し、苦痛という色眼鏡をかけて世界を見る。今は勿論だが、まだない未来も損傷・損害等苦痛となるものに何より注意して、これを回避するようにと動く。生活の困窮を描き、そうならないようにと自身の進学とか就職を決める。先を見通して現在を決定するが、好きなことをやっていたのでは絶望や悲痛な状態になること間違いなしと、苦痛の未来を回避するようにと選択をする。快適な未来であることを願い、そういう歩みをするのであるが、その前に、大前提として苦痛のことを踏まえて、何より、絶望・不安・貧困の悲痛等を描いて、そうならないようにと選択していく。

 ひとも動物も、苦痛・損傷は生の危機・破壊であるから、これには細心の注意をする。苦痛(回避)の探索を行いつつ前進する。快を見出すことを目的にして動くときでも、苦痛への警戒を怠らない。なにを進めるにしても、苦痛という破壊・損傷を被らないようにと注意しつつ、行う。ひとは、動物として苦痛回避をもって生の保護をする。苦痛は、なにより嫌な筆頭の反価値であり、これから逃れるために懸命になる。が、必要な場では、これをあえて受け入れる。目的実現のために必要な手段として苦痛があれば、この苦痛を甘受する。苦痛は、目的のための大切な手段価値とみなされ、これを耐え忍ぶ。当然、無駄な苦痛感受とならないように注意し、対策をとりつつの、あえてする苦痛の受容、甘受である。動物以上にひとは、苦痛の色眼鏡をかけて世界をみる。苦痛を反価値として単に拒否するだけではなく、甘受することによって高い価値が得られる不可避の手段価値とも見る。苦痛を反価値として凝視するとともに、これを大切な手段価値とみなす特殊な色眼鏡をかけているのが人である。

ひとの苦痛の色眼鏡は、ひとまずは視野が広大である。あらゆる危険を察知しようと見まわす。生を脅かすものは、どこにあるか分からない。隙があれば、災いが降りかかってくる可能性があり、あらゆる方面へと視野をひろげて、苦痛・損傷の可能性、危険を点検して歩みを進める。かつ、現に苦痛が生じた場合は、これを回避しこれから逃走したり、可能ならこれを排撃し攻撃して苦痛・損傷の発生を阻止しなくてはならない。広い視野を持ち、適切に危険を察知できるのが苦痛の広視野望遠鏡である。でありつつ、現に損傷が生じて苦痛が実際に感じられる段になると、このことに集中していく。そこでの視野は、極端に狭くなりその苦痛に焦点をしぼり、これへの細心の対応にと腐心する。意識はその一点に集中し凝視して、微細な苦痛も見逃さない顕微鏡となる。その一点の凝視で他のことはお留守にすらなっていく。苦痛は、視野の最大(あらゆる危険へのサーチ)と最小(生じた苦痛への意識の集中)を求める。快だとまどろみ眠り、意識を無用にしていくが、苦痛は、その反対で、意識を覚醒させ、意識を苦痛からそらすことを拒む。この意識の集中は、苦痛へのそれであるから、苦痛以外の事柄については、お留守になり、安らがせ安堵させ恵みをもたらすものといった方面については、見逃し勝ちとなる。悲観的であり、楽天的楽観的な方面は見逃してしまうことになる。仏教は、この人間世界を、苦界・苦海と捉えた。悲観的な苦痛の暗い眼鏡をかけてこの世界を見れば、確かに、どこを見ても苦痛が満ち満ちている。悲嘆せざるをえず、厭世的となり、出世間、出家主義となる。

 

2026/01/15

世界観を創る苦痛

7-3-3-3. 快は終結感情、苦痛は未決感情    

快のアメのもらえる時があるが、それは、ことがうまくいったときで褒美である。そのアメをもらって、ことはすべて終了ということになる。快と一体になりつつ、まどろみ、眠りにつく。だが、苦痛は、ちがう。それは、ことの始まりである。苦痛発生とともにその原因となるものから逃げることを開始する。あるいは、嫌な苦痛を引き受けるのは、それを手段として目的が達成できるからで、なるべく苦痛を小さく済ませられるようにと、苦痛止揚にむけて懸命に対処を始めていく。ムチで打たれるのは、ことが終わって、失敗の罰であることもある。そういうときでも、その苦痛に、快のように浸ることはなく、痛む自分自身に距離を持とうと動く。あるいは、ムチ打つのは、事を進めていくときで、進まないともっと強い苦痛を与えるぞと脅すのであり、打たれる方は、その苦痛を回避するようにと動き、快のようにその苦痛に留まろうとなど思うことはない。多くの苦痛は、生に損傷がはじまったときいだく。損傷が発生したと警告するのであり、危急の対処をすべしと緊張させ覚醒させ、意識をその損傷・苦痛に集中させる。苦痛はそれをなくするようにと生を駆り立てる。快とちがいそれを感じて終わりとなるのではなく、その苦痛をなくするようにと、逃げたり撃退したり猛省していくことが始まるのである。苦痛がなくなるまで、苦痛は、ひとを駆り立てる。快が終結感情であるのと逆で、そこからことが始められる始発感情であり、未決感情である。

快が瞬時に終わることは、しばしば残念がられてきた。食の快楽も、のど越しの瞬時にいだくのみである。口に入れていただけでは、快とならない。のど越しに、つまり、確実に栄養豊かなものがわが物になったという瞬時にのみ、快は生じる。食道楽が鶴の長い首をうらやんだのは、快楽を長く感じたいということからである。逆に、苦痛は、口に入れただけでしっかりと、口にある限り、感じ続ける。石油をまちがって口にした者は、のど越しに至る前から、口に含んだだけで、苦痛を感じさせられ、吐き出すまでこれから逃れられない。快は、短く、ことの終わった瞬時いだくだけだが、苦痛は、事の始まりとともに抱き、原因の除去が完了するまで、延々と感受し続けて、長い。 

精神的社会的な生のもとでも同様で、快は、ことの終わりに瞬時いだくのみだが、苦痛は、その生じる原因が消滅するまで、いつまでも当人を痛めつづける。喜びの快感情を抱くのは、価値あるものが確実にわがものにできたときで、ことの終わりに瞬時いだき、そのことを振り返って喜ぶのも、短期であって、すぐに忘却されてしまう。価値ある物を分け与えたひとは、自身が損失したのだからいつまでもその贈与(分与)を忘れないが、贈与された方は喜び、快ですべて終わったのであって、すぐに忘却する。その忘却に、贈与者は忘恩を思い、忘恩、贈与(分与)の不快・苦痛をいつまでも持続させる。苦痛は、しつこく続く。喪失への苦痛、悲しみは、長く持続する。失ったものは、忘れない。簡単に忘れたのでは、生は、まっとうな存続ができなくなるであろう。いじめでは、いじめた方は、うしろめたい快をいだき、間もなくそのことは忘れる。ことはすでに終わっているのである。だが、いじめられた方は、一生忘れない。借りを返していないのである。ときには、仕返しをするために、人生をかけて延々と憎悪の感情をいだき、仕返しできるだけの力をつけたり、手段を作り上げて何年もあとに、仕返しを実行する。それでやっと、その苦痛の感情は終わりとなる。ときには、憎悪感情は、次の世代にまでバトンタッチされて続くこともある。恨みの不快・苦痛感情は、借りを返すまで、延々と続く。

2026/01/08

世界観を創る苦痛

7-3-3-2. 快を感じるかどうかは、些事   

 ひとも動物も、美味しいもの、快になるものを求め食べ、快にしたがうことで自動的にその生の促進がなる。が、他の営為では、快よりも苦痛によって駆り立てられることが多いのではないか。皮膚など、環境が損傷を与えることに対応する苦痛の痛覚はあるが、快適な環境に対しての快覚を有さない。快であるかどうかは些事で、生が損傷を受け生破壊となるような事態を回避して生維持がなるようにと苦痛に注意することが大切になる。

 ひとになると、食には恵まれているから、美味しいものを選ぶことが普通になり、快が事を進めることが多くなる。だが、根本的には、食でも、苦痛があって、これが有害・有毒なものを排除する役割を担っている。かりに、石油が飲み物として間違って出された場合、口にして苦痛ですぐ吐き出すであろう。砂が混じったものであっても、それを察知した口は、その不快・苦痛を優先してこれに従い、飲み込むのをやめて、それをまずは、口の外へと取り出すことであろう。やはり、根底において、苦痛が見張っていて、このセンサーにかかるものは、受け入れないという態勢になっている。昨今は豊かな生活になっているので、食事に出てくるものは、大体が美味しいもの、快が普通で、その中で、より快であるものの選択になっている。しかし、根底には、苦痛・不快感情が控えていて、いざというときには、これが発動する。発動することがないからといって、苦痛はどうでもよくなっているのではない。生破壊の有害・有毒の食べ物が混じって出ることがなくなっているので、第一次の根本衝動の苦痛・不快を発動させないだけである。苦痛を手段価値としての選択が根源的で第一次の選択であり、快は、食でも、第二次の、栄養摂取という点でも些事となる、贅沢な選択である。気温でも、快感はなくても平気だが、猛烈な暑さで苦痛だとか、低温が身体に痛みを感じさせるような場合、それを感じる痛覚がないのだとすると、ひとの生保護はあやうくなろう。生にとって苦痛は、不可欠なものだが、快は、些事である。

 精神的生になると、快は、ほんのエピソードになる。だが苦痛の方は、絶望とか不安、悲嘆などその生を揺り動かす大きな力をもっている。快は、主観的にも目的とはならない。「ぬか喜び」という純粋な喜びは、つまり、価値ある物の獲得を欠いて喜びの感情だけが与えられた場合、ひとは、立腹してこれを拒否する。精神的生とちがい動物的レベルの場合は、栄養ゼロとか若干有害でも、美味なら、これを人は喜んで受け入れる。だが、「ぬか喜び」という純粋な喜びの場合は、これを拒否する。快ではなく、精神的生では、価値ある物事の獲得を目的にする。それには、多くは快が伴うが、かならずしも快でなくてもよい。幸福など、恵まれて幸いが得られていても、幸福感情を持たないことがしばしばである。幸福論者は、そのことを不遜だと嘆くが、精神的生においては、快の感情は些事なのである。だが、苦痛、つまり、精神的苦痛の不幸とか絶望といった感情の方は、この感情自体が重大なものとなる。絶望とか不安は、それをもたらす事態とともに、その感情そのものが大問題で、これを一時でも感じないでおきたいと薬を使い酒を飲んで憂さを晴らそうとする。不幸の事態を解消しようと懸命になるとともに、この感情を感じないようにとつとめる。快とちがい、苦痛感情は、精神的生でも、主観的に大きな反価値であり、かつ、その事態の回避にと人を駆り立てる大切な手段価値となっている。

2026/01/01

世界観を創る苦痛

 7-3-3-1. も気になるが、なにより苦痛のムチが事を進めていく 

草食動物は、快に動かされて草をはむ。だが、肉食動物が迫ってくると、恐怖の苦痛が駆り立てて、草を食べるのをやめて逃走する。そのことで生は保護可能となる。快の方を優先したとすると、餌食に選ばれ生は損傷を受け死を迎えることになる。あるいは、空腹で苦痛であるから、草をさがし食べて生き延びようとするのである。もし、その空腹が快であったり何でもないのなら、食べ物を無理してさがすこともなく、死を迎えることであろう。生保存には、苦痛の存在が必須である。嫌悪すべき苦痛(損傷・死の告知)のムチが生を保護する。死(の想像)が生を支えるということになる。

ひとは、理性存在として自然のトップに立つ。その英知をもって世界を深く解明し、未来にあるべき自分たちの状態も客観的に描き出す。環境問題が深刻であると糾明し、あるべき指針を示してもいく。だが、理性だけであったとすると、事は進まない。快苦の感情などの衝動的なものが参加しこれを支え、あるべき方向へと現実に歩みを進めるのである。環境問題が深刻でも、それで人類は滅びていくとしても、そう理解するだけでは、まえには進まない。「そうですか、もう手遅れですか」と傍観して終わる。これを現に推し進めるのは、感情的ささえをもってである。その中で特別に強力なものは、苦痛感情・苦痛のもつ衝動力であろう。環境破壊、人類消滅の想定に対して、「そうなるかも知れませんな」などと落ち着いてはおれなくなるのは、これに不安感をもち、立腹し、悲痛の思いを抱き絶望させられてである。そういう苦痛感情がひとを駆り立てるのである。 

環境問題に取り組んで、清々しい、愉快だと快の感情をもってすることもなくはないが、何と言っても、苦痛がことを進める。日本もずいぶん、公害で苦しんだが、それの改善に一番取り組んだのは、スモッグとか騒音に苦悩してきた被害者たちである。何とどう取り組んだらいいのかは、空気中の有害物質を解明する科学者たちのはっきりさせたことだが、その冷静で知的な営為自体は、公害撲滅の主力にはならなかった。これを進めたのは、苦痛である。煤煙等で喘息になり、あるいは、水銀中毒で家族を奪われた悲痛の人々であった。苦痛が、人間としてあるべき道を押し進めたのである。

個人の歩む道にしても、理性・知性が一応ことを進めていくけれども、快不快の感情によって内実進められることが多いのではないか。知性が冷静に考えて、自分の能力・関心からは、大学進学は音大がいいと判断し、現代のベートーヴェンになることを心地よく妄想しても、それでは、有閑階級に属していない自分は食っていけないと、不安感が立ち止まらせる。病人と一生付き合うのかと思うと気が進まないけれども一番食いはぐれがないのでと、医学部・看護学部に行こうというようなことを思う。食っていけない悲惨な未来の不安とか絶望といった感情が音大に行くことを拒否し、食いはぐれのない医療関係の道をやむなく選んだというようなことであれば、それをさせたのは、理性ではなく苦痛であろう。惨めな生活の苦痛を思って、それを回避する方向へと進んだのである。音楽家になりたい、作家になりたい、それが自身の天職だと思っても、それでは、悲惨が苦痛が待っていると思えば、その苦痛を回避したいと、苦痛の感情類が自身を鞭打って、食いはぐれのない道へと向けていく。苦痛が生を駆り立てるのである。 

2025/12/25

世界観を創る苦痛

 7-3-3. 苦痛は、やはり、生保存に根源的で必須のもの       

激痛が続くと、苦痛がなければ、生は、安らかで、どんなに生き生きできることかと思う。苦痛は、嫌悪される代表となる、主観的には徹底して反価値である。いまわしい死神の脅声である。だが、主観的に徹底して嫌悪される苦痛であるからこそ、生の苦痛と損傷に注目が強制され、なんとしても苦痛は回避したいから、その損傷を免れることへと反応することになるのである。つまり、苦痛は、客観的には、きわめて効果的な生に必須の手段価値となっているのである。苦痛は、本源的に生の保護者としてあり、損傷を回避するようにと警告する。苦痛は無意味にひとを苦しめ悶えさせるのではない。損傷・破壊への対応不可能なところでは、普通、苦痛は生じないようになっている。内臓は、損傷を受けても、ひとが自身でこれに対処し損傷を回避するようなことはできないので、苦痛は感じないようにできている。その損傷に対処できるところで警告としての苦痛は発生するということでは、苦痛はよくできた手段価値になる(もちろん、頭痛など、自身で対処できないところで苦痛が生じることもある。生命進化の途中で、苦痛関連の神経の配線が若干混乱したのであろう)。

仮に苦痛がないとしたら、火に触っても、平気となる。たちまち、火傷することになり、大きな火であれば、焼死することになる。苦痛が生保護を可能にしているのである。あるいは、動物として生を保つには、栄養を摂取する必要がある。食は、生に必須である。その食べ物を摂取するとき、快がこれをさそう。だが、有毒なものをそこではまずは除去することがいる。食べ物にならない石油とか粘土を口に入れたら、それらが猛烈に不快で苦痛をもたらすことになる。苦痛になるものを排除・嘔吐して体内に入ることをまず阻止する。そのことで生は破壊されずに保護可能となる。その上で、栄養あるものは美味しいものとしてこれを摂取するし、美味しくなくても、苦痛になるような有害・有毒なものでなければ、これも摂取するであろう。あるいは、栄養摂取が必要なら、空腹となるが、それは、苦痛をもって知らせる。空腹の苦痛をなくするために食べることに向かい栄養摂取がなる。食においても、第一次の選択は、苦痛か否かでなされ、第二次の選択として美味しいかどうか快かどうかがあり、現代の恵まれた状態では、第一の関門は、口にする以前に排除されているので、食事に際しては、第二次の選択の快・美味のみが働くことになっているのである。

 痛覚のない人がいる。楽であろうが、損傷しても、気づかないことになり、知らぬ間に足の指を骨折していたりと、体は傷だらけになるとかいう。痛みは、生保護に必須ということであろう。現代社会で痛覚のない人が生き続け得ているのは、長い歴史の中で、苦痛で損傷、生破壊を繰り返してきたので、そうならないように安全策を種々ほどこしているからである。火箸が有り、鍋には取っ手があるから、火傷しないで済んでいるのである。器具類の角を滑らかにするのも、傷つき苦痛になるからそうしているのである。それがいたるところでなされているので、痛覚がない人でも傷を少し創るぐらいで済んでいるのである。もし、人類にもともと苦痛がなかったとしたら、生は、存続ができなくなるであろう。損傷・破壊に平気であれば、それを回避する動きをすることはなくなる。肉食動物にかじられてさえ平気なことになれば、生き延びることはできないであろう。生破壊に苦痛がなく平気であれば、動きは鈍く腕力も小さい人類は、肉食動物の恰好の餌食になって早々に消滅していたことであろう。苦痛が損傷・破壊になりそうなところで強く警告をするから、生の保存・保護が可能になっているのである。