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2026/05/21

世界観を創る苦痛

7-4-4-3. 権利・義務における幼児、障害者等の位置づけ 

 義務(負担、苦痛甘受)の能力がないから動物に権利を認めないのだとすると、幼児なども義務的能力に欠けるから、これにも権利を認めないのかということになる。一面ではそうである。どこの国でも子供には選挙権は認めない。権利の担い手になりうるかどうかについては、以下のようなことが判断のもとになるのではなかろうか。

第一は、権利を行使する能力、価値の享受への能力があるかどうかである。これがないか未熟な場合は、権利は認めにくいことになろう。性的に未熟な子供にその方面の権利を認めても無意味である。選挙権などもそうである。候補者選択の能力がない幼児には、投票のしようがない。動物権を肯定するひとでも、村長選挙で当地の熊や猪に選挙権を与えよと言うことはなかろう。

 第二には、義務(苦痛)の負担の拒否、或いは、義務能力の欠損、または、それの未熟の場合である。権利・義務が対になっているところでは、義務(苦痛)を背負うことをしない者には、権利は拒否される。しかし、そうでない場合、子供のように、義務遂行の能力が未熟で、これを担えないような場合は、その時点で必要な権利は、認められる。そのことで子供は、無事に成長して義務を担えるようになる。その成長した子供は、次世代の子供の権利を守るために義務をしっかりと担う。世代間で権利と義務が継時的に受け継がれることで共同体は維持される。重度障害者も同様に、担えない義務は他の同胞が補い、必要な権利(特に障害の苦悩の解消、保護への権利は大切となる)は保持される。共同体の成員は、家族の成員が血のつながりで一つになって助け合うように、同一の言語(概念)同一の理性をもって一体となり、所属の共同体を同じように体現した個として存在している。互いを対等な「もう一人の自分」と了解して、障害(の苦痛)も我事として受け止めて支え合う。義務については、各人で得手・不得手があり腕力・知力での違いがあって、共同体全体の無数の歯車の一つとして各成員、適材適所でこれを果たす。障害者も、できることを担い、無理なものは、他の成員が補いをして、そのことで同一の共同体の同じ成員であることを、その絆を相互に証することとなる。障害者は、すでに多大な苦痛(障害)を、並みの義務の苦痛以上のものを背負い続けているのでもある。障害に苦しむ同胞から必要な権利を奪うことは、もう一人の苦しむ自分の保護への拒否であり、共感・同情心の豊かな者には承知しがたいこととなる。

 第三には、権利義務の前提には、善悪の規範意識と自己意識をもつ人格主体であることが必要であり、なすべき当為を理解した自由意志を有していることが求められる。権利もこれを辞退する自由があり、義務も、悪意をもって拒否することも可能な規範である。動物は、没理性的で規範意識への能力自体を欠いており権利義務の担い手にはなりえない。幼児や認知症、植物状態の人では、その理性の規範意識が働きがたい状態になっていて問題となることがある。しかし、かれらは、人間という理性存在の(潜在・休眠という可能態の)うちにあり、過去現在未来にわたって同一不変の(可能的な)人格主体と見なされて、その規範意識を周囲は推定して対応ができ、必要な権利義務を語りうる存在である。幼児の場合、遺産相続であれば代理人がその子の将来の人格をもって代弁でき、認知症や植物状態でも代理人がその過去を踏まえて可能な倫理的対応を代行する。AIによる知的補助が発達すれば、未熟な知性や痴呆の補完は、微細な領域までしっかりしたものになることであろう。現状でも代理人の共感と想像力が本人の意向をそれなりに代弁し得ている。一方、動物には規範意識がないため、たとえ人間がこれを言語化しても規範的な事柄を語ることはできない。 

 第四には、これが結構世の中を動かすことが多いのだろうと思うが、感情的な判定である。かわいいもの、かわいそうなものを見ると、同情・共感して、これに尽くしたい、享受の保証を資格を与えたい、そのための義務を皆で担いたいと思うことで、そこからその対象に権利を付与しようと動く。苦痛を回避したいという切実さは、動物でも同じである。苦痛回避の権利が与えられてもいいのではと進めたくなる。苦痛回避の手段を提供したいという思いは、まっとうな心構えである。だが、それを権利として言挙げするのは、過剰な対応と見なすのが今の常識であろう。動物には権利義務の規範の意識はなく、動くのは快不快、感性的衝動をもってのことでしかない。義務意識がないのは勿論だが、権利を付与しても、そのことの自覚はもてない。義務を説いても「馬の耳に念仏」であり、権利を与えても「猫に小判」である。

2026/05/14

世界観を創る苦痛

7-4-4-2. 権利の内在と外的付与  

権利があると言われて、その人を見て、これを当然と重みを感じる場合と、借り物と思ってしまう場合がある。その違いは、その権利の根拠がしっかりとその人に内在していてこれを当然と関係者が承知するものと、そうではなく、国家等の外からこれが付与されて権利所持者になっているだけという違いである。売買では、当事者が売買での物とか金銭をもって自らのうちに権利を獲得し内在させていて、万人がその権利を承認できる。だが、王権神授の場合は、神から王としての権利・資格が付与されたと称するだけであり、神が見放せば即王権の喪失となる。王権とちがい人権の場合は、古来、人間に備わっている理性存在の尊厳によるものとしては、人間らしい生の享受の資格としての権利は、奪うことのできない内在的なものであろう。が、それが法的に確定したのは、万人平等の社会になっての国家がこれを表明し付与した近代のことになる。人権は、内在的であり、かつ付与されたものということになろうか。

外的付与で成り立つ権利の場合は、その権利所持者はどうであれ、外部の強制力あるものからの義務が周囲に課されて、その義務をもってはじめて、向かいに当該の権利は成り立つ。動物権とか、ときに自然物に付与される山や川の権利はそれになる。昨今情報社会において喧伝されている「コピー権」もそういう外的付与でなりたったものであろう。本来は、コピーは、自然的には自由にできるものだが、これを国家が強制して「コピーの禁止の権利」を通用させているのである。無理やりだから、何年有効と期限があって、放置するとコピー(禁止)権は、即消滅する。自然的には、コピー自由となるものを、発明発見を促進するために禁止権を付与しているのである。現在、違反に厳しい「コピー権」は、内在的本来的なコピー(自由)権を抑止して、外的に付与した権利である。

享受の資格、権利が内在的な場合は、国家等からの強制・支持などなくして、その主張がなされる。この権利内在は、交戦権のように、その権利主体のうちに、当該の価値(武力等)を内在しその能力発揮を自らのうちに有しておれば明白であろう(日本国憲法では、交戦権の放棄を強いられているが、武力を誇示する周囲の国であっても沖縄や対馬に安易には手を出せない。我が国の強固な交戦能力の内在を知っているからである)。穏やかな社会関係のもとで内在的に権利を確立している場合もある。金銭の貸借とか、物の売買に見られる権利は、その主体が自らに獲得した内在的な権利であろう。貸借関係では、貸した方は、価値(快享受)を渡して、苦痛となることを引き受けたのであり、本来自分の所有した価値であって、相手に対して返却させる権利をもつ。その苦痛甘受の分が権利の明々白々の根拠となる。売買でも同様、売り手と買い手の権利・義務は明確で、権利は、各々に内在的であってその存在は疑いようがないものと見なされる。買い手は、商品を獲得する権利をもつが、それは、支払いをする義務を果たすことで成り立つ。その義務は、自身の求める商品と同じ価値をもつもの、お金を売り手に渡すことであり、その義務(苦痛となることである)を果たしたら、その後は、商品所有の権利をもつ。相手は、逆にその買い手のお金を受け取る権利をもつには、手持ちの商品を渡す義務(苦痛)を果たさねばならない。同じ価値(快、享受したいもの)の交換であり、おなじ価値を手放す義務(苦痛)を交換するのである。そこでは、苦痛の義務を果たしたのであれば、当然、それを根拠にして、それに見合う価値の所有の権利を有することになる。  

 だが、動物権のような場合は、一方的に生の享受の自由という権利を、人がそとから動物に付与するだけである。苦痛回避を享受するだけであって、義務という苦痛甘受の忍耐を背負うことはない。売買のように、権利の根拠として義務という苦痛を担うことがあれば、納得いくが、苦痛を内に担うことなどありえないのであれば、動物自身に権利が内在しているとは見なしがたい。第一、動物自身、権利という規範は、意識することすらない。その権利は、ひとが外的に付与するだけである。 

2026/05/07

世界観を創る苦痛

7-4-4-1. 権利・義務は、理性的人格の間での社会規範 

 権利は、価値あるものの享受の資格であり自由であるが、その実現には、これに関与する者がその享受のための負担、義務を担う覚悟をして、この義務の苦痛を甘受する忍耐を引き受けることが必要となる。その忍耐には、快不快の感性の動きを抑止することのできる理性的な営為が可能でなくてはならない。義務の負担、苦痛甘受を感性に逆らって行えるのは、理性的存在、人間のみである。動物には、自身に苦痛の義務を負担する自由意志をもつことなど不可能である。動物が、義務的場面になってそれを実行しないからといって、これを説得することはできない。だが、ひとであれば、それが義務と分かることであり、納得するならば、いやいやであっても自身を鞭打って義務遂行へと向かう。

 権利・義務は、なすべき、あるべき当為としての善(悪)の規範意識をもって、意志が選択するもので、選択の自由が前提になる。義務は、なすべき善規範であるが、場合によっては、これを拒絶することもできる。権利は、享受の資格がありこれを自由にできることで、権利を行使しない自由も含めての選択意志をふまえたものである。権利・義務という規範への意識は、普遍的概念的世界を担う理性的存在のもとで可能となる。感性的能力しかない動物には不可能な、人間種のみに存在する営為である。享受の資格があるとして権利を知っても、ひとは、場合によっては、これを遠慮できるし、権利がないとなれば、享受できるものが眼前にあっても理性意志をもって自身の感性欲求を抑止してこれを断念することもできる。だが、動物には、感性抑止の理性意志などないから、そんなことにはおかまいなしに、感性的衝動のままに振舞う。

 権利と義務は、理性的存在者同士の、規範への意志を承認しあった共同的営為となるのでなくては実効性をもたない。相互が規範を守ることを踏まえて成り立つものである。自身が権利をもつとき、同時にその関与者が義務を担い、自然感性を抑止して苦痛を引き受け義務規範を守ることを前提とする。相手は、相手で、自身の義務的営為において、向かい合う者の権利の成り立つこと、それを期待していることを承知している。相互に理性的な人格主体としての自覚をもち、権利義務の成り立つ共同体の成員であることを承認しあっている。動物は、享受の権利という規範意識をもつことができないし、義務を担うべき段になっても、苦痛の負担を担わねばならないという意志などもつことはない。人同士においてのみ、権利義務の営為は可能になる。 

しかし、だからといって動物に対する倫理的配慮が不要になるわけではない。動物は義務を担うことはできないが、快を享受し苦痛を避けたいという感性は確かに持つ。それを踏まえて、人間が動物に対して一定の擬制的権利を付与することは可能である。これは、動物自身が権利を自覚し求めるからではなく、人間が自らの義務として動物の利益を守らねばならないと決意することをもって成立する。動物権は、人間の側の倫理的覚悟によって支えられる擬制的なものにとどまる。

2026/04/30

世界観を創る苦痛

7-4-4. 権利(苦痛拒否、自由)と義務(苦痛甘受、忍耐) 

 権利は、価値あるものの享受の自由を保護する威力である。その享受を否定されることで生じる苦痛を被らないようにと保護・保証するのが権利である。人と動物は、ともに「痛むもの(res dolens)」であり、苦痛を感受するものに見出される、苦痛排除の特権が権利なのだとすると、動物も、苦痛を抱きその排除に懸命となり、その排除に重み(権)をもち、これを正当な(right)営為とする点で人と同じだから、その限りでは動物も権利(right)をもつと進めうることともなる。ただし、ひとは、精神的にも大きな苦痛をいだき、その点では、動物の苦痛は少な目で、ひとこそは、特別に苦悩し苦痛を感受するもの、「痛むひと(homo dolens)」である。

 権利が実効性をもつには、それに関わるものに義務の課されることが必要である。漁業権が実効性をもつには、外部のものが漁をすることを禁じて、これに禁止の強制が義務化される必要がある。売買では、自分が商品所有の権利をもつには、支払いの義務を果たす必要があり、相手は、お金をもらう権利を得るには、商品を渡す義務を果たさねばならない。権利には義務がともなう。ひとならば、相互にこれを承認しあって、権利は、真に権利として実効性をもつ。義務を背負えることが権利獲得の前提になるのが普通である。

 この義務は、負担であり、苦痛をあえて引き受けることである。苦痛を甘受すること、忍耐である。ひとは、苦痛感受の(動物的)存在であるだけではなく、苦痛を、必要なところではあえて受け入れて甘受する「忍耐するひと(homo patiens)」なのである。ひとも動物も快苦の感性で動くが、ひとは、これを理性で制御する。動物のように理性的制御なく快苦のみで動く場合、快に引かれ苦痛を回避する動きが基本で、苦痛をときに受け入れるのも、快苦のもとでのことで、快が大きければ苦を受け入れ、大きな苦を回避するために、小さな苦を受け入れる。動物もときに苦痛甘受の忍耐をするが、それは、快苦の感性世界のもとでの営為にとどまる。だが、ひとは、苦痛のみであっても必要なところでは、理性が感性を制御して、この苦痛を甘受し忍耐する。快不快の感性的自然に逆らっての忍耐は、人のみのできることである。理性存在の故、それができるのである。この理性存在として人は万物の霊長となり、尊厳の存在となっているのである。理性存在として人は、動物を超越して苦痛から逃げずこれを甘受して忍耐することができる。快不快、好悪の感性を無視しこれに背いて、善悪の規範をもって、社会的に他の成員と自身を公平に普遍的に捉えて(不愉快な相手であってもその思いを抑止して)、自他の利益の享受の権利とそれを実現するための苦痛甘受の義務を自覚し、その苦痛を引き受けることができる。規範意識のもとに生きるのは、理性的能力をもった人間のみであって、動物には不可能である。

ひとは、義務という負担を背負い苦痛を甘受する。この忍耐の点では、動物には、それを期待できない。人が、猪や熊に、野山での自由な享受を許し動物権を与えても、かれらは、双務的に、人を害さないという義務を背負うことがない。苦痛を排除し快を享受することの自由を保障して動物権を与えても、義務を、苦痛を甘受し、忍耐して人の権利、人権を守るという責務、苦痛を担うことはない。動物には、理性的意志をもって苦痛をあえて受け入れて忍耐するということは不可能である。商品を受け取ったのに、支払いの義務に知らん顔なのと同じである。ひとも時にそうすることはある。が、そうするのは、悪しき意志があって義務規範を拒否するのである。動物の場合は、そういう権利義務の規範意識自体がないのであって、悪意すらも不可能な存在である。本質的に動物には、ひとの抱く善悪、権利義務といった規範意識をもつことができない。義務を意識できないのみでなく、動物権を与えてもそれを権利として意識することもありえない。

2026/04/23

世界観を創る苦痛

7-4-3-2. 苦痛が、人格主体、権利・義務を顕在化する  

 ひとが、心身の統一体としての自己、人格を意識するのは、苦痛を通してである。快は、ひとをひきつけるが、この人格主体を意識させることは少ない。皮膚は、快適な状態では、皮膚の存在自体を感じさせない。内臓は、快調なら、存在していることすら意識できない。だが、苦痛は違う。皮膚に痛みが発生すれば、その皮膚の痛む箇所を意識する。胃が痛み始めれば、自身の胃の存在が顕在化してくる。しかも、それは、単に皮膚や胃の痛み・損傷を意識するだけではなく、自己自身、この人格主体が脅かされ痛みを感じさせられていると自覚する。愉快に楽しく生きているときには、自分という人格・存在を意識することはほとんどない。だが、絶望したときには、その苦悩に悶々とする状態のときには、この私という存在を意識する。なんのために自分は生きているのだろうと自身の人生とその意味を問うのは、悲哀や絶望の苦痛状態にあるときである。この生きた人格主体の自己自身が痛むのであり、その痛みが、私の存在を顕在化する。「我痛む 故に 我有り(doleo ergo sum)」である。

 権利意識においても、苦痛が決定的な役割を果たす。権利は、快適な状態では意識することはない。使いきれないほどの土地を所有していて好きなようにできているとき、その土地の所有権は、意識にのぼらない。その権利が自覚されるのは、それが周囲から侵されて不自由になり苦痛が生じるところにおいてである。享受の自由が阻害される苦痛をもって、その苦痛を排除しようとするところに、自身の権利が意識され、権利の威力をもって、その苦痛の事態をなくするようにと自らに動くのである。

 権利と共にある義務は、一層、苦痛をもって自覚されるものである。義務は、いやいやな、できれば背負いたくない負担である。可能ならば回避したい苦痛となるものである。それが、快適で快楽であるようなものは、義務にはならない。義務と意識されるのは、できればひきうけたくない苦労であり苦痛となるものである。同じ事態でも、それが快なら、享受し引き受けたいもので権利になるが、苦痛になるものなら、義務となる。教育は権利であり義務である。義務となるのは、苦痛で、いやでも教育を受けねばならない(受けさせねばならない)と意識するときである。動物的感性のもとでは、不快で嫌な義務となるものは、当然、これを回避する。だが、ひとは、苦痛であっても、それを引き受けねばならないと把握した場合、この苦痛を甘受する。つまり、忍耐をする。ひとは、快不快に従って生きるのみの動物とちがい、理性的存在として、必要なところでは苦痛を引き受けて忍耐する。人は、「忍耐のひと(homo patiens)」なのである。苦痛甘受の忍耐において、ひとの理性的存在とその尊厳が顕在化する。

 この忍耐をする人間的営為においては、他者の苦痛をも意識している。自身が義務として引き受けうける苦痛は、権利をもつ他者のためのものである。その権利を有するひとが自分に義務を求めるのは、かれが苦痛という侵害を受けることがあってこれを回避するために、この私がその苦痛の原因を取り除き、この苦痛の義務を引き受けるべきだと思うからである。自身の苦痛が自己を意識させるのみでなく、苦痛は、他者の存在をも意識させる。「同情(sympathy, compassion)」がそのことを可能とする。この同情、共感は、ひとの道徳的感情となるものだが、その同じ感情、共にする感情の内実は、苦痛である。喜びとか快楽については、同情は言わない(sympathyは、パトスをともにする(syn-pathos)ということだから、稀には喜びをともにするという場合にも昔は使ったようである)。同情は、悲嘆や苦悩などの苦痛感情を同じくする。自身の痛みがつらければ、その同じ痛みを他者にも見出してこれに寄り添い、慈しみの心をもって、思いやりをもって接することになる。それが同情である。苦痛が人と人とを結びつける根源的な感情となっているのである。おそらく、この苦痛を共にしようという同情・共感が人を共同的存在にすることを可能とするのであり、したがってまた権利・義務を可能とするのである。苦痛は、人の存在を可能とし、その結びつきを可能にしていく根源的な感情・感覚になるということができよう。

2026/04/16

世界観を創る苦痛

7-4-3-1. 爪や髪は、苦痛がなければ、物扱い 

権利は侵害・苦痛に際してこれを排除するために行使する。苦痛を感じるかどうかが、権利が侵されたかどうかと判断する際、決定的になる。指などとちがい髪や爪を切り取っても、苦痛がないから、気にすることは小さい。切られても、私が切られたという意識はもたない。伸びた髪や爪を切って、すっきりして快感を抱くぐらいである。だが、手足が切られたとすると、私が痛むから私が切られたという意識になる。痛みがある場合は、この私自身がそれに痛みを感じて、私という主体が傷つけられたと感じる。権利主体のこの私が、苦痛を感じ、私の損傷、侵害を感じる。爪や髪は、同じ私の身体の一部であるにもかかわらず、苦痛がないので、感覚的には私が傷つけられたと感じることがない。痛みこそは、私という主体を意識させ、ひとは、その侵害、苦痛を許しがたい、受け入れがたいと主体的に反応する。苦痛において、権利主体としての私を実感するが、動物もこの苦痛の点では、同じであろうから、権利を与えられてしかるべきだという思いにも連なる。

この爪や髪でも、伸びすぎたので切るというのではなく、拷問にあるように、ペンチで無理やりに爪を引き抜くとか、髪を強引に抜いて頭皮に激痛を与えたとすると、事態は、まるで異なったものとなる。私という主体が、いためつけられ耐えがたい苦痛を感受させられたと、私が侵されたと受け取るであろう。主体の意に反した侵害として、苦痛からの自由を求める権利を意識することとなる。権利主体となるには、苦痛を感じるかどうかが肝要ということになろう。快の場合は、私の感じる快ではあるが、この私という人格主体を意識することは少ない。快にのめり込み、主客が一体的になってまどろむ。だが、苦痛は、そうはいかない。私の苦痛は、まぎれもなく私に生じていることとして、放置しがたいものとして意識される。この私という主体、人格が意識され、この私が痛むと意識して、私の損傷・被害と自覚し、この苦痛の事態から自身を保護することに、防衛することに必死となる。価値の享受を阻止されて侵害を感じ苦痛となることには過敏に反応する。苦痛が、権利も意識させる。

動物の権利をいうのは、ひとがこれを痛めつけ、切り刻み殺して食べるというような、生を破壊する場面でのことである。そこで損傷がなんでもなく苦痛でもないのなら権利をいうことはない。牛や山羊の乳を搾ることは、苦痛を伴わず平気な感じで、牛たちに苦痛でなければ、権利などをそこに想起するようなことはない(その子牛の空腹をもたらすことがあるとすると子牛には苦痛だろうが)。だが、牛の舌や耳を切り取るというような苦痛を与える場合は、これを牛は拒み逃げようとする。牛という主体が、その苦痛・損傷の回避にともがくのである。これを耐えがたいと感じる苦痛があるのなら、苦痛回避に必死となる人間主体と同様に、動物も、この苦痛の回避を、損傷から守られるべきことの正当性(権利)を主張したいに違いないと、ときに人は想像することになる。

損傷は、植物でも、ある。切り花は、動物でいえば、首を切断するようなものである(植物は動物を逆立ちさせたような姿だから、その根っこは、動物で言えば、口や頭に相当するであろう)。しかし、それに苦痛がなければ、ひとの権利侵害と同じようには感じられない。ひとですら、痛みのない髪や爪の切断は、むしろ、さっぱりとして快感となるぐらいである。苦痛があるのかどうかが、その主体の損傷・侵害かどうかの判断基準となる。苦痛は特別視される。ひとの場合、苦痛は、嫌悪される第一のものであるから、その人自身の苦痛への思いを投影して、動物でも苦痛だけは許せないだろう、堪らないだろうと感情移入する。

2026/04/09

世界観を創る苦痛

7-4-3. 苦痛をもつものの特権的地位     

日本では、動物とひとは、同じ「有情」のものとして、特別視する。物は、「ある」というが、動物とひとは、別の言葉で「いる」と言い、その存在を別格扱いとする。同じ有情、快不快の感情を有した存在であると、動物と人を同列にして重んじている。権利は、享受の自由、その資格を語り、快を求め欲すること、それを阻害しての苦痛から逃れ守られるべきことを謳う。権利は、享受が好きなようにできているのなら、主張することはない。多くの場合、それが阻害されて享受が拒まれて苦痛になることにおいて、この苦痛回避のために権利の主張がされる。この苦痛回避は、ひとでも動物でも切実な求めであり、ひとと動物はその点では同等である。苦痛から守られ保護されることを求めるところに権利があるのならば、権利は、動物にも言われてよいのではないかと進め得る。植物は、損傷を受けても苦痛を抱く機能自体が存在しないから、人や動物のように、苦痛を回避したいと動くことはなく、苦痛からの保護を謳う権利とは無縁の存在である。動物は、その点では、ひとと同じで、苦痛から保護されることを求める特別の存在となっている。苦痛からの保護に権利の内実があるのなら、動物もこれに該当する存在だということになる。

 苦痛を感受する能力の有無が、権利成立の根本的条件になるのだとすると、ひとと動物は、そういう特権的な地位に立っているのである。動物に権利を与えることに行き過ぎを思うのは、そういう権利付与の事実が、今はないからにすぎないということかもしれない。かつては、人権はなかった。古代では、奴隷は物あつかいであった。奴隷は人の所有物であったというと、現代人にとっては理不尽と感じられることだが、動物への権利も、いまの時代には、なお、それだけの余裕がなく、感覚的に受け入れがたいというだけのことかも知れない。

権利を認めることは、これに無関係の人には、容易なことである。だが、これに関わる人にとっては、義務負担を承知することだから、よほどの覚悟をしなくてはならないこととなる。権利は、それだけでは実効性をもたず、義務負担を受け入れるものがあっての権利の享受である。熊の人里への進出が昨今問題となっている。動物権を認めたらいいではないかと都会の者は安易に考え得るが、熊の被害にあっている者は、熊を殺処分することを禁じて保護する義務を背負うことになるので、簡単には動物権を承認するわけにはいかない。権利を有するものには、義務が双務的にともなうのが普通でもある。自分の権利(快享受の自由)は主張するが、負担の義務(苦痛の甘受、忍耐)は知らないというのでは、関わる人は、権利を認めることに躊躇するであろう。自分は商品を自由にする権利があるといって、これを自宅に持って帰りながら、支払いの義務は、そういう負担・痛みは知らないというのでは、権利は認められない。売った者は、「あなたには権利はない」と、取り返すことになろう。熊に動物権を与えて殺害しない義務を人が背負うとしても、熊が人を殺さない義務を担うことはありえない。これでは関係する人々は、熊に権利を与えることには反対となるであろう。

ひとと同じように苦痛回避を切に求めるからと、動物に権利を認めたとしても、その動物は、負担・苦痛の義務は一切担うことがないから、権利も認められないということになるのが普通である。動物は、そういう責任・義務ということでは、これを担うこと自体が不可能なことである。動物は、規範意識を、善悪の、あるべき当為の意識をもつことができない。義務意識は当然もてない。権利自体についても、そういう意識をもつことはない。権利を与えたとしても、猫に小判である。ひとが、動物愛護の精神から、苦痛を与えないようにと義務を担う意志を固めることによって、動物に擬制的な権利が生じるのみであろう。