7-7. 苦痛は、根源的な悪とみなしたくもなる
この世に、悪は、たくさんあるが、その諸悪は、一面では良いもの、価値あるもので、全面的に嫌悪される反価値、徹底的に悪となるものは、少なかろう。しかし、苦痛は、その根源的な徹底的な悪と解したくなることがある。町のダニの暴力団は、悪そのもので、どこから見ても善や価値あるものとはみなされないものだが、それでも、チンピラあたりを静かにさせるような場合は、私刑で無法であるとしても、良いことをしているのである。その時には、町民は、これを法的には悪であろうとも、内心ではよくやってくれたと評価し悪とはみなさない。だが、苦痛は、どんな場合でも、それを感じさせられる時点では、あってほしくないことであり、嫌悪すべきものであって、それから逃げたいもの、回避したいものとして、根源的に悪だと言いたくなる。漢字の「悪」は、心が亜(墓室の形で、凶をいい醜いことを指すものであったとか)に押さえつけられ歪んで醜いということで、邪悪で嫌悪心もたらすものを指すのだとか(悪の発音の「あ」とか「お」は、嫌悪から出る音で、うあー、おえーといった嫌悪の音声なのであろう)。回避したい反価値で、嫌悪させるもの醜いものが悪である。
暴力団などに脅迫されて耐えきれず自殺するというようなことが小説には時々ある。暴力団であっても、かれらが一般人と同じように何かを穏やかに求めるだけなら、これには平静に対応する。自殺するようになるのは、脅迫の恐怖(苦痛)に耐えがたくなることをもってである。ここでも、やはり、反価値として現われ、ともにいたくないほどに嫌悪をもたらすのは、苦痛である。苦痛でなければ、暴力団であっても平静に対応できることである。病気になると、苦痛が生じる。これは当然回避したい反価値であり、嫌悪されるものである。これに耐えて回復にと努める。苦痛を排撃するために努力する。だが、その苦痛から逃れられず、苦痛しか残されない絶望的状態になってしまうと、ひとは、安楽死を考える。苦痛しか残らないのであれば、これに耐えることは意味がないと、生の放棄を選ぶ。苦痛という反価値は、徹底して嫌悪される。これとしか付き合うことができないのなら、息を一緒にするのすらも嫌だと、同席を拒否する。苦痛が去らないのなら、自分が去るというぐらいに苦痛は嫌悪される。苦痛ともろともに、自決してでも苦痛を葬ってやると、非常の決意をする。死という、生の最後の非常手段をとるぐらいに、苦痛は、ひとにとってどこまでも嫌な、根源的な悪なのである。
苦痛が価値ある目的を可能とするのであれば、これは手段として有意義な、価値あるものとなる。でありつつも、主観的には、その苦痛も嫌な回避したいものであることには変わりがない。手段としてのかけがえのない苦痛となる営為であるとしても、その営為そのものは、良いこととして受け入れるけれども、その苦痛自体は、嫌悪をさそうもので、できるなら、苦痛なしでの営為としたいはずである。手段となる苦痛は、受け入れるけれども、苦痛自体は、可能ならなくしたい嫌悪すべき悪である。快は、これとともにありたいのに瞬時に消えるし、なかなか出合えるものでもない。だが、苦痛は、出合いたくない嫌悪の筆頭になるものだが、しばしばこれに出合わされ、しかも、しつこくいつまでも自分のうちに居ついて、嫌悪させ回避・逃避の衝動を生起させ続ける。それさえなければ、この世は、天国・極楽になると思うような、この世の根源的な悪が苦痛である。