7-6-4. 無苦は、安堵の快であり、苦界超越の楽土に結ぶ
人は、細々とつづく安全な道を進もうとする。周囲には、種々の苦痛の茨が満ち満ちている。その苦痛のいばらに触れず損傷させられないなら、それは、安らかで穏やかな人生ということになる。無苦に人生を歩めれば、それは、生を損なわずその無事の存続を可能として、たぐいまれな道を進んでいるのである。無苦が持続できるのなら、そこにはこの世の楽土が実現できているといってもいいぐらいである。その無苦の持続は、積極的に快楽を享受させるものではないとしても、世に満ち満ちた苦痛に苛まれないで済んでいるのであれば、それ自体稀有の恵みをうけているのである。無苦の安堵は、思い直せば、この世の楽土を感じさせてくれることになろう。苦痛が周囲に充満しているなかで、無苦であることは、大海で水にぬれずに安堵できているボートのなかにいるようなものであろう。
不幸がなければ、それだけで幸福なのだという。恵みを奪われ苦痛を強制された状態である不幸がないのなら、それの無は、即、幸福とみなせる。よほど稀な価値が獲得されれば、喜びの快をいだくが、ふつうは、感情的な快はいだかないで過ごす。事故で半身不随になるとか愛しい肉親を喪失するというような大損傷にいだく悲痛のようなものがなければ、そういう苦痛をいだくような事件・事故がなければ、日々は、穏やかに安らかに過ごせているのである。安堵・安心の日々なのである。それは、反省することがなければ感情となることもないが、振り返ってみれば、幸福に属しているといえることであろう。不幸の無、苦痛の無は、苦痛に取り囲まれたこの世の中で、まれなありがたいことであり、幸いであり、安堵できる快の状態にあるということになる。道をはずすと、不幸となり苦痛となるとしても、あえて無理をしないなら、安らかで健やかな生を歩めるのであれば、この世は、苦界などではなく、楽土、極楽界といってもよいであろう。
苦痛は、損傷にいだく。少しの損傷にもいだく。警告的価値をもつ苦痛のことであり、損傷の一歩手前でいだきはじめる。それで損傷はなくて済む。苦痛をいだかないということは、わずかの損傷も被っていないということである。日々の生に妨害・損傷となることがないなら、苦痛はいだかない。思い直し注目してみれば、快にはならないとしても、無苦の安心・安堵状態にあるのである。病気から回復した当座は、痛みがなくなったこと自体を快と意識する。歯痛は、抜歯当座は安堵の快となるが、すぐに快であることを忘れる。自覚しなくなる。謙虚になれば、苦痛がなければ、快なのである。この世を苦界ということがあるが、少し思い直せば、逆で、苦痛のないことが日常となりえているのであれば、苦界の逆、楽土であり、大禍なく過ごせている日々は、極楽世界といって良いのかも知れない。幸福論者の多くは、現代社会のひとが不満を抱いて不幸顔をしていることを、不遜と非難する。戦争もなく、飢餓もない現代日本で、病気になっても十分な医療が受けられて、何が不満なのだ、不幸面をやめて、恵まれていること、幸福であることを反省すべきだという。
仏教は、この世を苦界と捉えるとともに、そこで苦になるのは、エゴの尊大な欲・貪欲、分不相応の望み・奢望があるからだとして、それらを根絶して無我となることで、一切の苦から解放されるべきだとすすめる。苦界としての色の世界を即空、無と捉えなおし、その色即空の真実に目覚めれば、あらゆる苦を除去して、この今のままで、安楽国に往生しているのだと語る。