7-4-3-2. 苦痛が、人格主体、権利・義務を顕在化する
ひとが、心身の統一体としての自己、人格を意識するのは、苦痛を通してである。快は、ひとをひきつけるが、この人格主体を意識させることは少ない。皮膚は、快適な状態では、皮膚の存在自体を感じさせない。内臓は、快調なら、存在していることすら意識できない。だが、苦痛は違う。皮膚に痛みが発生すれば、その皮膚の痛む箇所を意識する。胃が痛み始めれば、自身の胃の存在が顕在化してくる。しかも、それは、単に皮膚や胃の痛み・損傷を意識するだけではなく、自己自身、この人格主体が脅かされ痛みを感じさせられていると自覚する。愉快に楽しく生きているときには、自分という人格・存在を意識することはほとんどない。だが、絶望したときには、その苦悩に悶々とする状態のときには、この私という存在を意識する。なんのために自分は生きているのだろうと自身の人生とその意味を問うのは、悲哀や絶望の苦痛状態にあるときである。この生きた人格主体の自己自身が痛むのであり、その痛みが、私の存在を顕在化する。「我痛む 故に 我有り(doleo
ergo sum)」である。
権利意識においても、苦痛が決定的な役割を果たす。権利は、快適な状態では意識することはない。使いきれないほどの土地を所有していて好きなようにできているとき、その土地の所有権は、意識にのぼらない。その権利が自覚されるのは、それが周囲から侵されて不自由になり苦痛が生じるところにおいてである。享受の自由が阻害される苦痛をもって、その苦痛を排除しようとするところに、自身の権利が意識され、権利の威力をもって、その苦痛の事態をなくするようにと自らに動くのである。
権利と共にある義務は、一層、苦痛をもって自覚されるものである。義務は、いやいやな、できれば背負いたくない負担である。可能ならば回避したい苦痛となるものである。それが、快適で快楽であるようなものは、義務にはならない。義務と意識されるのは、できればひきうけたくない苦労であり苦痛となるものである。同じ事態でも、それが快なら、享受し引き受けたいもので権利になるが、苦痛になるものなら、義務となる。教育は権利であり義務である。義務となるのは、苦痛で、いやでも教育を受けねばならない(受けさせねばならない)と意識するときである。動物的感性のもとでは、不快で嫌な義務となるものは、当然、これを回避する。だが、ひとは、苦痛であっても、それを引き受けねばならないと把握した場合、この苦痛を甘受する。つまり、忍耐をする。ひとは、快不快に従って生きるのみの動物とちがい、理性的存在として、必要なところでは苦痛を引き受けて忍耐する。人は、「忍耐のひと(homo
patiens)」なのである。苦痛甘受の忍耐において、ひとの理性的存在とその尊厳が顕在化する。
この忍耐をする人間的営為においては、他者の苦痛をも意識している。自身が義務として引き受けうける苦痛は、権利をもつ他者のためのものである。その権利を有するひとが自分に義務を求めるのは、かれが苦痛という侵害を受けることがあってこれを回避するために、この私がその苦痛の原因を取り除き、この苦痛の義務を引き受けるべきだと思うからである。自身の苦痛が自己を意識させるのみでなく、苦痛は、他者の存在をも意識させる。「同情(sympathy,
compassion)」がそのことを可能とする。この同情、共感は、ひとの道徳的感情となるものだが、その同じ感情、共にする感情の内実は、苦痛である。喜びとか快楽については、同情は言わない(sympathyは、パトスをともにする(syn-pathos)ということだから、稀には喜びをともにするという場合にも昔は使ったようである)。同情は、悲嘆や苦悩などの苦痛感情を同じくする。自身の痛みがつらければ、その同じ痛みを他者にも見出してこれに寄り添い、慈しみの心をもって、思いやりをもって接することになる。それが同情である。苦痛が人と人とを結びつける根源的な感情となっているのである。おそらく、この苦痛を共にしようという同情・共感が人を共同的存在にすることを可能とするのであり、したがってまた権利・義務を可能とするのである。苦痛は、人の存在を可能とし、その結びつきを可能にしていく根源的な感情・感覚になるということができよう。