7-4-4-2. 権利の内在と外的付与
権利があると言われて、その人を見て、これを当然と重みを感じる場合と、借り物と思ってしまう場合がある。その違いは、その権利の根拠がしっかりとその人に内在していてこれを当然と関係者が承知するものと、そうではなく、国家等の外からこれが付与されて権利所持者になっているだけという違いである。売買では、当事者が売買での物とか金銭をもって自らのうちに権利を獲得し内在させていて、万人がその権利を承認できる。だが、王権神授の場合は、神から王としての権利・資格が付与されたと称するだけであり、神が見放せば即王権の喪失となる。王権とちがい人権の場合は、古来、人間に備わっている理性存在の尊厳によるものとしては、人間らしい生の享受の資格としての権利は、奪うことのできない内在的なものであろう。が、それが法的に確定したのは、万人平等の社会になっての国家がこれを表明し付与した近代のことになる。人権は、内在的であり、かつ付与されたものということになろうか。
外的付与で成り立つ権利の場合は、その権利所持者はどうであれ、外部の強制力あるものからの義務が周囲に課されて、その義務をもってはじめて、向かいに当該の権利は成り立つ。動物権とか、ときに自然物に付与される山や川の権利はそれになる。昨今情報社会において喧伝されている「コピー権」もそういう外的付与でなりたったものであろう。本来は、コピーは、自然的には自由にできるものだが、これを国家が強制して「コピーの禁止の権利」を通用させているのである。無理やりだから、何年有効と期限があって、放置するとコピー(禁止)権は、即消滅する。自然的には、コピー自由となるものを、発明発見を促進するために禁止権を付与しているのである。現在、違反に厳しい「コピー権」は、内在的本来的なコピー(自由)権を抑止して、外的に付与した権利である。
享受の資格、権利が内在的な場合は、国家等からの強制・支持などなくして、その主張がなされる。この権利内在は、交戦権のように、その権利主体のうちに、当該の価値(武力等)を内在しその能力発揮を自らのうちに有しておれば明白であろう(日本国憲法では、交戦権の放棄を強いられているが、武力を誇示する周囲の国であっても沖縄や対馬に安易には手を出せない。我が国の強固な交戦能力の内在を知っているからである)。穏やかな社会関係のもとで内在的に権利を確立している場合もある。金銭の貸借とか、物の売買に見られる権利は、その主体が自らに獲得した内在的な権利であろう。貸借関係では、貸した方は、価値(快享受)を渡して、苦痛となることを引き受けたのであり、本来自分の所有した価値であって、相手に対して返却させる権利をもつ。その苦痛甘受の分が権利の明々白々の根拠となる。売買でも同様、売り手と買い手の権利・義務は明確で、権利は、各々に内在的であってその存在は疑いようがないものと見なされる。買い手は、商品を獲得する権利をもつが、それは、支払いをする義務を果たすことで成り立つ。その義務は、自身の求める商品と同じ価値をもつもの、お金を売り手に渡すことであり、その義務(苦痛となることである)を果たしたら、その後は、商品所有の権利をもつ。相手は、逆にその買い手のお金を受け取る権利をもつには、手持ちの商品を渡す義務(苦痛)を果たさねばならない。同じ価値(快、享受したいもの)の交換であり、おなじ価値を手放す義務(苦痛)を交換するのである。そこでは、苦痛の義務を果たしたのであれば、当然、それを根拠にして、それに見合う価値の所有の権利を有することになる。
だが、動物権のような場合は、一方的に生の享受の自由という権利を、人がそとから動物に付与するだけである。苦痛回避を享受するだけであって、義務という苦痛甘受の忍耐を背負うことはない。売買のように、権利の根拠として義務という苦痛を担うことがあれば、納得いくが、苦痛を内に担うことなどありえないのであれば、動物自身に権利が内在しているとは見なしがたい。第一、動物自身、権利という規範は、意識することすらない。その権利は、ひとが外的に付与するだけである。