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2026/07/02

世界観を創る苦痛

7-4-6-2. 快も苦痛も信用できない時がある

 快苦は、生きるために必須の感覚・感情である。だが、それは、単純で杓子定規な反応であるから、複雑高度な状況には適応できず、しばしば有害な結果をもたらす。快は、食では、栄養あるものを察知したものとして、これにひかれて半ば自動的に栄養摂取は可能となっている。快の持続が瞬時に終わることも、たくさんの栄養物を取り込むためには好都合な反応である。だが、快反応は、その場だけのことなので、身体の肥満などの有害な状態を反応のうちに含むものではないし、美味しい快のなかには、有毒なものがときにあるが、それを検知するものでもない。美味しい・快だからといって、その食べ物を無思慮に摂取していたのでは、命が危うい状態になることも生じ、快を信用しきることはできない。食事では、美味を前提にしつつも、有害なことともなるから、節制という理性的な制御を踏まえることが必須となる。性的快楽なども、快自体は、受精の成功・完了を知らせるもので、生殖には、有益であるが、その快楽は強く、受精すべきでないところでもこれに惹かれてしまうから、有害となる。性欲の快楽は、有害な快の代表になるぐらいである。性的快楽がなければ、この世の犯罪は、かなりがなくなる。

 快苦は、その反復で感受性を変え、過敏になり、鈍感にもなる。快は、これを享受し続けていると、次第に鈍感になる。甘いものを食べ続けていると、より甘いものでないと満足できなくなる。ひとつの食べ物に限定してのことではなく、甘さへの感覚自体が鈍感になっていく。昔美味しかった桑の実は、今食べると少しも美味しくない。あらゆる食品が過度に甘くなっているからである。苦痛の感受も、続けていると、多くの場合は、その苦痛には鈍感になる。平気になる。それは、忍耐でもそうで、苦痛を甘受していると、だんだんとそれに慣れてくる。特に苦痛忍耐で自身の心身が強化される場合は、苦痛による打撃が少なくなり、少しの苦痛なら、苦痛ではなくなる。

 逆の場合もある。歳とともに味覚は変化するから、以前は、美味しくなかったものが、美味しくなることもある。わさびとか辛子、あるいは、酒など、いやなにおい・味わいであったものが、いつのまにか平気になって美味と思うようにもなる。快苦は、同じ個人であっても、ときと場所によって、感じ方を相当に異にすることである。客観性にはとぼしく、主客のその時の在り方次第で感じ方は異なって、場合によっては、信頼性には欠けるものとなる。同じ人類でも、あるいは、歴史の中では、快苦の感じ方はかなり異なったものになる。ましてや、他の動物とは、同じように快苦をいだくとしても、まるで感じ方が異なると言ってもいいような違いをもつ。蛇は、蛙を丸のみし、ときに飲み込んだものをまるのまま吐き出すが、どういう味覚をもっているのであろう、人の食とは比較すら困難である。秋になると種々の樹木が赤い実をつけるが、小鳥たちが美味しそうにたべていても、ひとが食べておいしいと感じるものは、ほとんどない。蓼食う虫も好き好きとなる。

 こういう快不快の感情によって動かされる動物的状態に終始していたのでは、合理性・客観性・普遍性を尊ぶ生き方をする人間には、ふさわしくない。感性・感情を超越した理性的な生き方こそが人のあるべき生き方だといいたくなる。それを主張したのが、ストア学派である。かれらは、パトス(感情)を拒否し超越した理性人として生きようとした。アパテイア(a-patheia(無-情念))を理想とした。

2026/06/25

世界観を創る苦痛

7-4-6-1. 人も快苦の感情に踊らされる

 ひとも動物も快苦の感情によって動くことが多い。喜怒哀楽等のあらゆる感情は、快か不快(苦)に二分され、感情は、快不快という表現をもって語られる。その生に価値あるプラスの状態がもたらされるなら快となり、反価値・マイナスの状態になるところで不快・苦痛を生じる。快の状態なら、そのままか、価値あるものをさらに確保することに動き、苦痛なら、その生に不都合・損傷が生じつつあるということだから、これに注目して、そのマイナスを除去・回避することに動く。ひとも動物もそのことでは同じである。

生理的レベルではそうであるが、さらに人は、理性をもち精神的世界にも生きる。ここでも、快は、希望とか幸福は、価値あるものが獲得される状態でいだく。不快・苦痛は、絶望とか不幸がそうであるが、反価値状態に感じる。理性制御のもとの人間においては、苦痛の受け入れ・甘受が価値獲得の不可避の手段となるときがあり、その場合は、忍耐して苦痛を受け入れるという反自然・超自然の振る舞いをする。精神的世界では、快はほんの些事になる。価値が確保できず快感情だけだとすると、これを嫌悪するぐらいとなる。「ぬか喜び」は、純粋に喜びの感情だけが生じる状態だが、価値獲得は無なので、ひとは、これを嫌う。

 快は、短時間しか持続しない。価値獲得で事は終了しているのであり、その終わり・確保の完了に抱くのが快である。その完了の瞬時に快感をいだくのだから、快は、短時間で終わる。長々と快が続くのでは、次の価値獲得に遅延が生じる。食べ物を一口口にいれていつまでも快なのでは、食は進まない。確実にわが物となったのど越しに瞬時快を感じるようにできている。のどを通過しなくては満足できないから、食道楽は、必ず栄養過多となり肥満する(貪欲な食道楽の中には、そのため、食べ放題のバイキングなどでは、いったん食べたものを吐き出すという愚劣極まりないことをする者がいるとかいう)。精神的世界の快も同様、不快・苦痛に比してはほんの瞬時にいだくのみである。試験に合格したら、その時は喜びをいだく。だが、それは続かない。逆の不合格の場合は、不快は、持続する。それで自身の求める生き方が不可能になる場合だと、何年でも、その不快・苦痛は、その絶望・悲しみの感情は続けることがありうる。肉体的な快楽は、刹那、瞬時に終わる切ないものというが、精神的レベルの快も同様である。不幸はいつまでもくよくよと続けるが、幸福感など、現実に幸福でも感じないぐらいである。不安・安心なども、そうで、危険のなくなった安心の快は、安全の確保をもって生じるが、それは瞬時に消え、安全持続の中で感じることはない。が、危険への不安は、危険と自身が想定する限り、妄想であっても、一生でも続く。

 快楽主義者(エピキュリアン)は、快楽を求め、エピクロスがその代表ということになるが、かれは、賢明にも、快楽そのものではなく、苦痛の無い状態を最終的な快楽主義の生き方として求めた。快は、感じるとしても、短時間でしかなく、精神的レベルになると、価値獲得の方が肝心で快感など些事となる。それに対して、苦痛は、損傷の有る限り、どこまでも持続して人を痛め続ける。苦痛は、精神世界でも、ひとを絶望や悲嘆で痛め続けてやまない。苦痛がなければ、身体は安堵でき、精神も健やかに清々しく生を続けていくことができる。苦痛がなければ、それだけで十分だ、苦痛の無いことこそが幸福だ、ということになる。真のエピキュリアンは、刹那の快楽など些事と放擲し、苦痛苦悩のなくなったアタラクシア(a-taraxia(不動・不惑))を理想として求めることとなった。仏教では、この世を苦界とする。極楽は、この苦界を超越する世界であるから、苦のない世界ということである。苦がなければ、この世は極楽である。キリスト教でも、やはり、天国について、これを苦痛のない世界と表現する(新約聖書『ヨハネの黙示録』(第21章)は、千年王国の後の究極の天国について、不死で悲しみも苦痛もない世界であると表明する)。苦痛の消えた穏やかな世界は、極楽・天国である。

2026/06/18

世界観を創る苦痛

7-4-6. 苦痛感情が自他を動かす  

快苦は、ひとと動物を自ずからに動かすが、そこで気になり、大きな力をもつのは、苦の方である。快なら、その生にマイナスの状況は生じていないので放置できるが、苦痛は、生に損傷・破壊が生じているという知らせなのである。生は、自身の保存・保護のために、まずは苦痛に注目して、その損傷を回避するようにと意識を傾けていく。痛み・痛覚はあるが、快覚はないのが身体の各部位の通例である。内臓は、快を感じること自体がなく、痛んではじめてこれを意識でき、それへの対処を心がけることになる。第一、痛みがなければ、対処どころか、内臓の存在自体にすら気づかない。快苦というが、苦痛は、遍在し損傷・破壊に直結するものとして常に注目されるが、快は、価値あるものが獲得できたという感情であるから、プラスの生起として無視しておいてかまわない。かつ、それは、時間的にも、価値の獲得時のみの短時間にとどまる。苦痛は、損傷が有る限り、いつまでも続く。これは、生理的レベルのみのことではなく、精神的レベルでも同様である。喜びの快は、価値獲得がなったという勝利宣言であり、後には何も気にするものはない。快・喜びは、どんなに強く大きいものでも、数日も続けば異常といってもいいぐらいの快事になる。だが、悲しみは、長く続く。失恋の悲しみは、次の恋人が見つかるまで、いつまでも続く。子供の誕生の喜びは、長くは続かないが、その子が死んだ悲しみは、永遠に続く。おそらく、思い出す度に、何十年たっても、悲しみは消えない。失ったものは、これを取り戻せるようにとその意識を持続させる。取り戻すまで、いつまでも、その苦痛は続いていく。

自分が自身のうちの苦痛によって動くことが多いだけではない。他人についても、ひとは、その他者の苦痛を意識して動くことが多い。他者を知るには、自身とちがい、外物を認識する過程をもっての媒介的な認識となるが、そこで推察する快と苦については、その顔面や声、或いは振る舞いをもって知る。そこで相手の内面を推察することになるが、快苦のうちでは、何といっても、その苦痛を知ることが突出している。相手の内面を知るという意識の在り方として、同情の働きを人は有する。相手と同じ情をもつということであるが、その同じ情は、苦痛・不快になる。快を見て、同じくこれに染まって自身が快を抱くこともあるはずだが、同じ感情をいだく同情というと、苦がまず思われる。その同情をもって、ひとは、他人であっても、その苦痛を慮り、その手助けができないかと心を砕いていく。ひとの快も理解できるが、これは、その生が保護され価値を得ているということだから、放置しておいてよい。だが、苦は、そのひとが生の損傷を被っているのであり、悲しみの表現は、救助を求めていると言うことであり、無視しがたいこととなる。

人権はもとより、動物権を言う場合も、それを求め権利として確立しようと動いたのは、その人や動物の苦痛に発することである。ひとが、虐げられ苦しみの人生を強いられていることに対して、その苦痛を軽減しなくてはと、自身の苦痛の回避と他者の苦痛への同情心が人権を主張することへと人々を向けたのである。人生を謳歌出来ている人を見て、人権を心配することはない。動物の権利を昨今いうことが増えているが、これも、動物の苦痛への慮りに富む人々が、耐えがたい苦痛を強いられている動物たちを見るに忍び難くて、その苦痛を軽減しなくてはと動物権を主張しているのであろう。同じ生き物であっても、苦痛のない植物には、植物権をいうことは普通はない。生き物を殺めるようなことがないようにと志す仏教徒は、虫をも殺さないようにと注意しているが、苦痛をもたない植物については、それを切り刻んで食べることを禁止などしない(理想というか極端な場合には、植物のみを食べるというベジタリアンをも乗り越えて、生あるものとしての植物の食も禁止し、空気を吸って(breathe)栄養ともして生きるブレサリアンを一部ではいう。霞を食べて生きる仙人を理想とするけれども、それでは、現実的には動物として人は長くは生きられない。水と空気があれば、しばらくは清々しく生きていけるが、普通人の場合、一月ぐらいが限界のようである)。

2026/06/11

世界観を創る苦痛

7-4-5-2. 日本語の「権利」と、欧米の「right との違い

日本語の「権利」という語は、欧米の rightdroit と重なるが、かなり異なる面をもつ。明治期に福沢諭吉が right の和訳について種々勘案した末に、これを「権利」にと決着させたようだが、日本語の「権利」使用は、主として利害損得が絡む社会生活の場面になり、「正しい」「正当である」という意味合いは、なくはないが、感じにくい。一方、英米の right(ドイツのRecht)やフランスのdroit は、もともと、「まっすぐ」で「正しい」こと「正義」の意味合いを基礎とし、したがって、堂々と主張されてしかるべきものになる。この差異は、動植物に対する態度にも及ぶ。欧米では、動植物のまっとうな生を守るのは「right(正しい)」ことであり、権利(right)に結んでも、違和感は少なさそうである。しかし、日本語の「権利」は利己的な主張の色彩が強く、エゴの主張を押し通すための「御旗」「印籠」としてしばしば利用される。そのため、権利を主張すること自体が「ずうずうしい」「厚顔無恥」と受け取られることも少なくない。

rightのもとでは、正しいこととしては、ごく自然に人権(human rights)は勿論、動物権(animal rights)、植物権(plant rights)、神権(divine rights)等も言えそうである。だが、日本語では、神権などになると、もうついていけない。divine right of kings(王権神授)は、神のでなく、王の権利であるが、神自身の正しい(right)こと、神の権利(right)は、キリスト教などでは言えそうである。西方の神は、人間の創造を自由にしたり(人類の祖アダムは、最初、リリスという妻を自身と対等に作ってもらった。が、そのしっかりした妻には愛想をつかされたようで、ならばと、神は、アダム自身の肋骨からイヴを作ることを思いついた)、動物をたくさん作ったが、その被造物が自分の意に反する好き勝手をするので、失敗だったとノアの大洪水で大方を殺害して、一からやり直すなどの、その支配の自由は、ひとにも動物にも大迷惑であっても、神の正当な(right)営為、権利(right)なのであろう。日本的には、権利は、享受の自由、自己主張であり、侵害・苦痛からの自由・保護であるから、神が権利をもつということは、侵され苦痛を抱く弱体の神ということになってこれを貶めることとなる。超越した優れた神が、侵害からの保護・権利を主張するなどというエゴイストのような情けないことを言うとは想像しにくい。精々、弱気の死神が、死をしぶる老人を前に権利を盾にして、「自分にはあんたを連れていく権利があるんですが・・」という程度に神を貶めて想像するぐらいで、絶対者としての神には日本的な権利はふさわしくない。権利でなく、権力・権威なら、神にも言えるであろうが(幽霊と同様、存在しなくても、信じる者には権威、威力をもつ)、利害損得の権利となると、神を貶めたものになる感じである。  

福祉の概念にも同様の違いがある。近年、日本でも「動物福祉」という語が使われるようになっているが、従来の日本語の感覚では「福祉」は人間に限られるものであり、動物に用いることに違和感を覚える人も多い。英語の福祉、welfare (古英語wel-faran(健やかに‐暮らす)に由来するとか)は「well-being(よい有りかた)」と同様に動物にも言われて違和感がないのかと思われる。が、日本で「動物福祉」などと言われたら、日本の動物にはこのうえもない有りがたいことになろうが、その表現の裏で人間の福祉が動物並みに引き下げられた感じになってしまう(口さがない人なら、こういうであろう、「環境省や厚生省の者が、けったいな「動物福祉」を言い立てとるが、環境省は熊や猪の駆除を妨害するためのにわか作りの盾とし、厚生省は、(人間の)福祉を低めに制限するための地ならしにと目論んどるんじゃろ、知らんけど」と)。

親切や同情の概念なども、違いが大きい。日本語では、親切(kindness)や同情(sympathy)は、家族のような親密な間柄には使わないし、人間以外のものにこういう心構えをもってすることもない。日本人の「親切」「同情」は、西欧のそれらと違って、家族外の人間に限定であるが、英語の kind は、家族に言うことは勿論、「花にも、ピアノにも、親切に(kindly)しよう」といった使い方が普通に行われる。権利(right)の概念もこれに似ており、その適用、妥当範囲が異なる。日本人には、権利は、正しいというよりも、どちらかというとエゴイストの自己主張と見なされがちである。 

日本では、権利(right)や正義(right)を声高に主張することは、思いやりや譲り合いを無視し、自己の損得勘定を押し通す行為とみなされがちである。高度の道徳的判断が求められ、法を若干は犯すことになるとしても慈愛や善意の尊重されるべき場面だと多くの思うところで、杓子定規に些細な権利や正義(皆が守るべき最低限の道徳)を持ち出すことは、最底辺の道徳を盾にした卑劣な態度と受け取られる。高度の道徳を拒否するために、最低の道徳である法を持ち出すのが、トラブルメーカーの権利・正義の人だと嫌悪されることが少なくない。