7-6-5-2. 快も、主観内のもので、苦痛を快の内に包含もできる
ひとは精神的世界に生きるが、ここでは、快は、些事・副産物扱いになるのが普通である。価値ある物事の獲得が肝心なことで、その獲得に喜びの快を感じるかどうかは、あまり気にしない。もちろん、感情としての喜びの快感を抱きたければ、何であれこれを稀有の価値獲得と自覚さえすれば、そうできることでもある。幸福・不幸は、人生を総体的に振り返るときよく言われることだが、いくら恵みがあっても、それを意識しないことが多い。しかし、意識すれば、恵みは幾らでも思い返せて、感情として幸せという快感を生じさせることができる。相当に惨めな境遇でも、宗教ではしばしばそうするが、思いよう次第で、幸福感を、至福すらも感じうる。火あぶりの刑に処された殉教者の中には、その激痛をむしろ快と感じて恍惚とした姿を見せることがあったという。その苦痛が神のもとに至る最短の道と思えれば、苦痛に至福を感じることができたのであろう。重い社会的責任を負わされて苦痛・苦悩の状態にあるとき、その苦悩のもとに、使命感をあらためて思いかえし、苦痛を重ねていくことで目的が一歩ずつ近づくのだと思えば、その苦痛は、精神的に快感を生むことになる。生理的な苦痛でも、ストレッチでは、「いたきもちいい(痛・気持ちいい)」と、痛みがあってこそ、効いていると快感を生じることである。苦痛は、感覚であり、感情となってもいくが、快感の方は、感覚なしで(皮膚には痛覚はあるが、快覚はない)、脳内で快感情を生じるだけである。苦痛以上に、主観的と言えよう。
損傷の苦痛と同じく、価値獲得に感じる快も、主観的なものである。それを価値あるものと解するかどうかは、その主観の在り方次第である。損傷とちがい、その場で欲求しているかどうかで、価値の獲得なのかどうかが決まるので、もう欲しくない、十分と思うなら、価値はないものとなり、快とはならなくなる。それがさらに進めば、余計なものとなって、不快となる。過食ではそういうことが生じる。逆に飢えているときには、日頃は、おいしくないと不快に感じていたものでも、美味しいと快を抱くことになる。食のおいしさ・快は、その一部分に不快・苦痛を生じる薬味をいれて、一層の快と感じることもある。苦痛は、とにかく一刻もはやく回避・逃避したいことで、感じ方は、微に入り細に入りじっくりと、とはいかず、即時火急になって大ざっぱであり、毒蛇に噛まれての痛みも焦熱痛として火傷の痛みと類したものになる。だが、快は、これを堪能したいことで、苦痛まで取り込んで多彩にしみじみと感じるようにしている。
恵まれていても、相対的なことだから、比較するものを髙くに見ておれば、自分はそれよりは恵まれていないと見ることができ、それを感情的に意識すれば、自分は不幸だ、薄幸だと感じることもできなくはない。大金持ちの家に生まれていて、かつ個としての能力は低レベルだという場合、大金持ちを稀有と、ありがたがれば幸福感を抱き得るし、低能の生まれを気にすれば恵みに薄く不幸だと思えることである。自分の精神的生においては、自身が至福の極楽界にいるようにも、苦悩の地獄界、苦界にいるようにも自在にできることになる。この世にひととしての生を受けること自体が、稀有の恵みであり、それ以上の恵みを授かっているのが普通であるから、謙虚になれば、おそらく、この世は、苦界であるよりは、楽土に近いと見なせることになる。仏教は、この世を苦界と捉えるとともに、それは、尊大な、個我・エゴの身のひいきのもとでそうなっているのであり、その苦界がいやなら、考えをあらためて、身のひいきをやめればよい、そうすれば、即、苦界は、仏の世界、楽土になるという。