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2026/03/12

世界観を創る苦痛

7-4-1-1. 拡大される権利 

権利の主体は、人間としての個人や集団になる。生きた主体における快や価値あるものの享受の自由と、苦痛とこれを生じる損傷の回避の自由を謳う。享受を排他的に一定の者のみに限定し、それを他の関係する者に禁止するかどうかは、人為のことで、権利は、法に謳うことで確定される。それを法に謳うかどうかの問題としては、権利は、広くも狭くもできる。人類成立とともに潜在的には存在していた人権(人の権=重み・威力)であるが、これは、近代が顕在化し明文化して(法的)権利とした。近代になって漸く、万人に生きる権利(right=正しさ、正当性)、差別されず人間らしく生きる権利、「人権(human rights)」は、確立された。 

いまや、この権利は、動物にまで広げられるべきだと、動物権(animal rights)を主張するひとはいう。享受能力があり、その否定に苦痛を抱くものとして、その(利の)享受は正当で、重み・威力(=権)があるとして、動物にも権利を付与しようというのである。が、いまでも、動物は、一般的には、法的には物あつかいである。漁業権とか著作権では、権利と義務は、相互的双務的である。物の売買では、両者が共々に同じ事態において、権利と義務を双務的に担う。お金を払った者は商品への権利をもち、売り手は渡す義務を負い、売る方は、お金をもらう権利をもち、買う方は支払う義務を負う。他人の権利を自分は侵さない(守る)義務を負い、自分の権利は、関係するものが義務を負うことでなりたっている。人同士の根本的な対等・平等の在り方に沿っている権利であり義務である。だが、この双務的な人間同士の権利義務の在り方からいうと、動物権は、人のみが義務を負って、動物は人の権利を守るいかなる義務も担うことはないので、人のみが一方的片務的に義務を負うことには納得がいかないということになる。太田川の漁業権は、漁師でない周辺の者が魚を獲ることを禁じて、その義務を地域民に課し、瀬野川の漁師でも、その禁止の義務を負う。だが、太田川の鵜は、自分たちを狩ることは人には禁止されていて太田川の漁師もその義務をしっかり守っていて、いうなら動物権を行使した状態でありながらも、ひとの漁業権は犯して義務を背負わない。そのため太田川の漁師は、せっかく放流して育てた鮎なのに、鵜の残したものしか獲れなくなっている。もっと深刻なのは、象や熊と付き合わねばならない地域の住民である。人には、象や熊を殺してはならない義務があるが、熊や象は、人を殺しても殺人罪に問われない(義務を意識することすらない)ということには納得がいかない。義務(負担・苦痛)は問うことなく、権利(享受・快)のみを動物に許そうとする動物権には承服しがたいというのが多数である。 

 さらには、もっとひろげて、自然の権利(rights of nature)、つまり、川や山にも権利を付与すべきだという者も出てきている。しかし、植物は、苦痛をもたない。川も山も、権利での享受の自由は人が勝手にそう見なすだけのことである。仮に既存の自然状態が変更されたことを侵害と解しても、その侵害での苦痛はもたないから、痛みをもつ動物には権利を広げうるとしても、それ以上は、というのが一般である。もっとも、苦痛のないものにも現に権利を認めていることではある。会社などの法人(juridical person)は、個人のいだく苦痛などの感情をもたないけれども、擬制(fiction)的に人として扱っており、権利主体と認めていることである。権利は、客観的に決定されているものではない。国家や個人が、負担を背負う義務を自他に課して、結果、その対象が守られて権利となる場合がある。そのようにして権利主体と認めることになれば、ひろく、どぶ川にした責任を取れという「隅田川の権利」(権利を言ったからではなかろうが、最近は「すんだ川」になっている)とか、山を汚さない義務・責任があるという「富士山の権利」をいうことも可能ではある。

 義務を課して禁止と保護の実効性がしっかりするならば、権利における享受の自由の実態はどうであっても、権利として成立しうる。富士山が汚されないことへの権利は、富士山自身はこれを自由に享受するものはないけれども、汚染の禁止と保護が法にうたわれて義務が生じるならば、富士山の(擬制的な)権利は、実効性をもったものとして成り立つ。受益の重みが権利であろう。受益を尊重する義務が課されることによって、その受益側に、受益の権利が生じる。多くは、威力・重みをもつものが権利を主張しこれを相手に認めさせて義務を背負わせるのだが、逆に利益・享受のための義務を課すことから始まって、その享受側に権利が生じるということもある。動植物、自然の権利は、後者になる。前者の場合は、自然的に威力をもち重みをもつから、義務を負う方も、その威力に押されて権利として認めやすい。だが、後者は、権利主体に促されてではなく、為政者等から強制的に義務を課されるのであり、負担を負いたくない者は、義務を承服せず、したがって、対象の植物などの権利は、強制する為政者等が力を持たない限り通用は困難となる。

 

 

2026/03/05

世界観を創る苦痛

7-4-1. 権利をもつとは             

権利は、「権」と「利」からなり、明治期に英語のrightの翻訳として創作された言葉だが、その「権(權)」の漢字の組み立てはというと、雚は、コウノトリを象り、バランスを象徴し、木偏ということで木造りの天秤をイメージさせたものだとか。量ることであり、重みであり、威力を意味するものになる。「利」は、禾(のぎへん)が穂を垂れた稲などの姿で、「刂(りっとう)」は立刀で鋭い刃物になる。利は、刈り取った実りを表わし、価値あるもの、利益を意味する。「権利」の全体は、享受できる有益な価値あるものへの重み・威力のある様である。だが、自分だけで享受への重み・威力をもつのだといってもはじまらない。その重みをそれとして関係者が承認することがあって初めて、実効性をもった権利となる。そのしっかりした、頼りになる権利は、他のものがこれを侵さないという、侵すことの禁止、あるいは、その享受を擁護・保護することへの義務的強制があってのことである。 

漁業権は、漁業する権利だが、太田川の漁業権を持つ者が、自分には権利があるのだ、威力があるのだとうそぶく傍で、権利のない者が自由に魚釣をしているのでは(太田川の魚の多くは、昨今、法的権利をもたない鵜たちのものとなっている)、権利とは、名ばかりである。その権利は、周囲の権利を有さない者の漁の禁止の義務が課されていてはじめて実効性をもった権利となる。権利は、これの享受を自分たちが独占して、ほかの者の利用・享受を禁じ排斥する威力を有したものである。権利から排除された者には、これを侵害しない義務が生じる。侵すことは許されないという強制の義務である。その義務があって権利は実効性をもつ。権利はあるが、外の者が好き勝手をするのを許しているのでは、権利における享受の自由は守られない。権利を守るとは、外の者がこれを侵さないように守ることであり、侵したら処罰をうけ、侵すことの許されない義務が課されるということである。このような権利の場合、権利と義務は、双務的、互恵的である。太田川水域での漁業権者には、河口の外の瀬戸内海の海面漁業権を侵さないという義務がともなう。広島湾の漁業権者には、河口をさかのぼって蟹や魚を獲ってはならないという義務が課せられる。権利と義務は、相互的で、義務を果たせば権利があり、権利をもつには、義務が求められ双務的である。人の社会的営為は、「目には目を」の対等・平等性が前提になっているのが普通で、自身が権利をいうのなら、他者の権利を承認してそれに関わる自身の責任・負担となる義務も受け入れねばならない。 

 権利を実効性有るものとする、負担としての義務は、単に禁止という義務だけではなく、その権利を有する者の享受を実現する苦労を、関係する者たちが背負うものとなることもある。売買では、物を買ってお金を支払った者には、その物を受け取る権利が生じる。この権利を実効性あるものとするには、売った側が、商品を渡す義務をもつのでなくてはならない。あるいは、弱者の権利の場合は、しばしば、その権利を有するものを直接間接に保護し援助することが関係者・機関に求められ義務化される。生存権は、侵すのを禁じてこれを義務化するだけでは守れないことがある。障害で自立して生きていけないような場合、関係機関が積極的にこれを援助し保護することが、その権利への義務として課される。権利(right)は、正当な(right)享受への妨害・侵害を排斥し、あるいは関係者からの保護をもって、この享受を「正しい(right)」こととして勧める。 

2026/02/26

世界観を創る苦痛

7-4. 苦痛は、動物の権利の根拠と見なされることがある  

権利は、自身の利とし価値とするものの享受の正当性を主張する。享受の侵害で苦痛となることから自身を守る盾が権利である。水利権は、貴重な水を利用し享受する自由をもつ特権で、この特権がないがしろにされ、その水利用の自由が侵犯されて被害を受けると、苦痛となる。その侵犯、苦痛が生じないようにと保護されるべきことを、当然のこと正当(right)なこととして権利(right)とする。その生のもとでの益あるものの享受を侵害されての苦痛は、ひとだけのことではなく、動物ももつ。ということで、動物にも権利があると主張をすることがでてくる。近代の快楽主義である功利主義は、快(=善)苦(=悪)をひとの生の根本原理とみなし、そのことは動物も同様だからと、「動物の権利」を主張することに結び付いていった。

動物の権利をいう人でも、人間には教育の権利をいうが、動物にはこれを言わない。動物は、教育に利・価値を見出さず、それを享受したいと思うことはなく、そこに苦痛を抱くこともないから、そういう権利とは無縁である。権利には、それを享受する能力が前提されている。享受の能力をもっての、その享受の正当性(right=権利)である。動物は、生きて動くものであり、自らのために利あるものの享受を求める権(重み、威力)を有しており、権利(享受の威力・正当性)をいう資格はあると主張することが可能である。生の享受が抑止され侵害されると、動物も当然、人と同じように、これを苦痛とする。生きることを制限され、残酷に傷めつけられ、ときに命さえ奪われているのは、痛ましいことである。そのことから、動物の権利を主張する人たちは、ちょうど、ひとがひととして生きる権利を生存権(right to life)といい、人権(human rights)をいうように、動物も苦痛から自由になって生きる正当性(right=権利)、動物権(animal rights)を持つという。 

 権利が、それの享受は正しい(right)ことだと主張するのみでは、その実効性は心許ない。関係者に義務としての負担が課せられてはじめて権利は実効性をもつ。漁業権をもって一定の領域での漁業の享受の自由、その行使の正当性を通すためには、それ以外の人々への禁止がしっかりと守られることが肝要となる。権利は、享受することができる自由をいうのに対して、対応する義務は、その自由を侵すことの禁止について、この禁止を守るべきこと、守らないことは許されない、守らない場合は制裁が加えられるという。権利が実効性をもつには、これを侵して苦痛を与えるものに対して、侵さない義務を課すことが必要であり、さらに、これを厳守するように監視し罰する機関の義務も求められる。動物権が実効性をもつには、ひとが動物の生存を守り、虐待して苦痛を与えたり殺害するようなことをやめる義務をもつことが必要となり、これを侵すことを監視し処罰する機関等の義務も求められる。権利によっては、自由な享受に支障があったり不十分にしか享受できないものを守り支える保護・支援の義務が肝心となる。その保護ができないのであれば、権利は名ばかりで実効性が伴わないことになる。子供の人権とか教育の権利は、単に侵害を禁じる義務のみでなく、その権利を実効性あるものとするために、積極的に保護し、養育に直接間接に関与していく責任が公的な機関あたりに義務として課される。