7-5-2-1. この世の根源悪としての苦痛
動物的な生あるもののみが苦痛をもつ。この生にとって、苦痛は、生の破壊を知らせるもので、苦痛回避は、生保護に必須である。と同時に損傷という原因がないものとか損傷の知らせに留まらない激痛、止むことのない長く続く苦痛は、穏やかな生を台無しにする疾患として、それ自体が忌避したい嫌悪すべき悪そのものとなる。
ひとは、快であるもの、価値あるものを求めて生きる。それは、他方で不快なもの、価値喪失となるもの、苦痛となるものを避けて生きるということでもある。だが、そういう苦痛回避の注意をして生きているにもかかわらず、しばしば苦痛には出合う。しかも、快は瞬時に終わるのに、苦痛は、長々と続く事でもある。あたかも、いじわるな神がいて、ひとの避けている苦痛をわざとひとに与えているかのようにである。神の「わざ」とする「わざ(行為)」に出「あう」のが、わざわいである。いわれのない苦痛に出合う者は、この世を、そういういじわるな神々に満ちた苦の世界、苦界とみなしたくなる。苦痛のなくなった無の世界に、ひとは、ほっとし安堵・安心感をいだく。なにもない無の世界が安らぎ世界になるということは、この有の世界は、生を脅かすマイナス状態に満ち溢れた、邪悪に支配された苦界だと感じられているということである。
善・悪というと、価値あるものを選ぶのが良いこと、善で、価値のない状態、反価値を選ぶのが悪いことであって、自由意志がこれを選択する場面に言われる。自然状態では、理性意志による選択はないから、狭義の善悪は、ない。だが、あたかも意志が選択するかのように自然の在り方を捉えるとき、ひとにとってより価値あるものがもたらされるなら、それは良いことで、広義には善とみなすことができよう。逆に、自然がひとにとってより価値のない、反価値の状態をもたらすのは、良くないことで広義には悪とみなすこともできるであろう。苦痛は、自然のものだが、ひとにとって価値がないというか排除したい反価値の代表であり、苦痛さえなければ、この世は極楽ということになれば、それは、ひとをいためつけてやまない自然的な根本悪となっているのである。
苦痛は、損傷を知らせるものとして、価値をもつ。だが、苦痛自体は、生あるものが真っ先に排除し回避したい反価値である。損傷が生に生じた場合、生保護のかなうようにと対処するが、その損傷の発生を感知するものとして苦痛はある。苦痛はなくても、損傷が分かれば生はそれからの保護のために適切な対応をする。苦痛は、単なる損傷の知らせ・警告の手段でしかない。その手段が激痛となって人の生を困憊させるのでは、本末転倒である。苦痛は損傷警告に有意義と価値付けられるだけであって、苦痛自体が価値をもつのではない。本源的に反価値で嫌悪される筆頭のものだから、これを損傷時、厳しく警告するために利用しているだけであろう。とすれば、その苦痛が激痛となって生自体を疲労困憊させるのであれば、役立たないどころか、苦痛は、全面的に、嫌悪され排撃されるべき反価値・悪そのものになっているのである。