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2026/04/30

世界観を創る苦痛

7-4-4. 権利(苦痛拒否、自由)と義務(苦痛甘受、忍耐) 

 権利は、価値あるものの享受の自由を保護する威力である。その享受を否定されることで生じる苦痛を被らないようにと保護・保証するのが権利である。人と動物は、ともに「痛むもの(res dolens)」であり、苦痛を感受するものに見出される、苦痛排除の特権が権利なのだとすると、動物も、苦痛を抱きその排除に懸命となり、その排除に重み(権)をもち、これを正当な(right)営為とする点で人と同じだから、その限りでは動物も権利(right)をもつと進めうることともなる。ただし、ひとは、精神的にも大きな苦痛をいだき、その点では、動物の苦痛は少な目で、ひとこそは、特別に苦悩し苦痛を感受するもの、「痛むひと(homo dolens)」である。

 権利が実効性をもつには、それに関わるものに義務の課されることが必要である。漁業権が実効性をもつには、外部のものが漁をすることを禁じて、これに禁止の強制が義務化される必要がある。売買では、自分が商品所有の権利をもつには、支払いの義務を果たす必要があり、相手は、お金をもらう権利を得るには、商品を渡す義務を果たさねばならない。権利には義務がともなう。ひとならば、相互にこれを承認しあって、権利は、真に権利として実効性をもつ。義務を背負えることが権利獲得の前提になるのが普通である。

 この義務は、負担であり、苦痛をあえて引き受けることである。苦痛を甘受すること、忍耐である。ひとは、苦痛感受の(動物的)存在であるだけではなく、苦痛を、必要なところではあえて受け入れて甘受する「忍耐するひと(homo patiens)」なのである。ひとも動物も快苦の感性で動くが、ひとは、これを理性で制御する。動物のように理性的制御なく快苦のみで動く場合、快に引かれ苦痛を回避する動きが基本で、苦痛をときに受け入れるのも、快苦のもとでのことで、快が大きければ苦を受け入れ、大きな苦を回避するために、小さな苦を受け入れる。動物もときに苦痛甘受の忍耐をするが、それは、快苦の感性世界のもとでの営為にとどまる。だが、ひとは、苦痛のみであっても必要なところでは、理性が感性を制御して、この苦痛を甘受し忍耐する。快不快の感性的自然に逆らっての忍耐は、人のみのできることである。理性存在の故、それができるのである。この理性存在として人は万物の霊長となり、尊厳の存在となっているのである。理性存在として人は、動物を超越して苦痛から逃げずこれを甘受して忍耐することができる。快不快、好悪の感性を無視しこれに背いて、善悪の規範をもって、社会的に他の成員と自身を公平に普遍的に捉えて(不愉快な相手であってもその思いを抑止して)、自他の利益の享受の権利とそれを実現するための苦痛甘受の義務を自覚し、その苦痛を引き受けることができる。規範意識のもとに生きるのは、理性的能力をもった人間のみであって、動物には不可能である。

ひとは、義務という負担を背負い苦痛を甘受する。この忍耐の点では、動物には、それを期待できない。人が、猪や熊に、野山での自由な享受を許し動物権を与えても、かれらは、双務的に、人を害さないという義務を背負うことがない。苦痛を排除し快を享受することの自由を保障して動物権を与えても、義務を、苦痛を甘受し、忍耐して人の権利、人権を守るという責務、苦痛を担うことはない。動物には、理性的意志をもって苦痛をあえて受け入れて忍耐するということは不可能である。商品を受け取ったのに、支払いの義務に知らん顔なのと同じである。ひとも時にそうすることはある。が、そうするのは、悪しき意志があって義務規範を拒否するのである。動物の場合は、そういう権利義務の規範意識自体がないのであって、悪意すらも不可能な存在である。本質的に動物には、ひとの抱く善悪、権利義務といった規範意識をもつことができない。義務を意識できないのみでなく、動物権を与えてもそれを権利として意識することもありえない。

2026/04/23

世界観を創る苦痛

7-4-3-2. 苦痛が、人格主体、権利・義務を顕在化する  

 ひとが、心身の統一体としての自己、人格を意識するのは、苦痛を通してである。快は、ひとをひきつけるが、この人格主体を意識させることは少ない。皮膚は、快適な状態では、皮膚の存在自体を感じさせない。内臓は、快調なら、存在していることすら意識できない。だが、苦痛は違う。皮膚に痛みが発生すれば、その皮膚の痛む箇所を意識する。胃が痛み始めれば、自身の胃の存在が顕在化してくる。しかも、それは、単に皮膚や胃の痛み・損傷を意識するだけではなく、自己自身、この人格主体が脅かされ痛みを感じさせられていると自覚する。愉快に楽しく生きているときには、自分という人格・存在を意識することはほとんどない。だが、絶望したときには、その苦悩に悶々とする状態のときには、この私という存在を意識する。なんのために自分は生きているのだろうと自身の人生とその意味を問うのは、悲哀や絶望の苦痛状態にあるときである。この生きた人格主体の自己自身が痛むのであり、その痛みが、私の存在を顕在化する。「我痛む 故に 我有り(doleo ergo sum)」である。

 権利意識においても、苦痛が決定的な役割を果たす。権利は、快適な状態では意識することはない。使いきれないほどの土地を所有していて好きなようにできているとき、その土地の所有権は、意識にのぼらない。その権利が自覚されるのは、それが周囲から侵されて不自由になり苦痛が生じるところにおいてである。享受の自由が阻害される苦痛をもって、その苦痛を排除しようとするところに、自身の権利が意識され、権利の威力をもって、その苦痛の事態をなくするようにと自らに動くのである。

 権利と共にある義務は、一層、苦痛をもって自覚されるものである。義務は、いやいやな、できれば背負いたくない負担である。可能ならば回避したい苦痛となるものである。それが、快適で快楽であるようなものは、義務にはならない。義務と意識されるのは、できればひきうけたくない苦労であり苦痛となるものである。同じ事態でも、それが快なら、享受し引き受けたいもので権利になるが、苦痛になるものなら、義務となる。教育は権利であり義務である。義務となるのは、苦痛で、いやでも教育を受けねばならない(受けさせねばならない)と意識するときである。動物的感性のもとでは、不快で嫌な義務となるものは、当然、これを回避する。だが、ひとは、苦痛であっても、それを引き受けねばならないと把握した場合、この苦痛を甘受する。つまり、忍耐をする。ひとは、快不快に従って生きるのみの動物とちがい、理性的存在として、必要なところでは苦痛を引き受けて忍耐する。人は、「忍耐のひと(homo patiens)」なのである。苦痛甘受の忍耐において、ひとの理性的存在とその尊厳が顕在化する。

 この忍耐をする人間的営為においては、他者の苦痛をも意識している。自身が義務として引き受けうける苦痛は、権利をもつ他者のためのものである。その権利を有するひとが自分に義務を求めるのは、かれが苦痛という侵害を受けることがあってこれを回避するために、この私がその苦痛の原因を取り除き、この苦痛の義務を引き受けるべきだと思うからである。自身の苦痛が自己を意識させるのみでなく、苦痛は、他者の存在をも意識させる。「同情(sympathy, compassion)」がそのことを可能とする。この同情、共感は、ひとの道徳的感情となるものだが、その同じ感情、共にする感情の内実は、苦痛である。喜びとか快楽については、同情は言わない(sympathyは、パトスをともにする(syn-pathos)ということだから、稀には喜びをともにするという場合にも昔は使ったようである)。同情は、悲嘆や苦悩などの苦痛感情を同じくする。自身の痛みがつらければ、その同じ痛みを他者にも見出してこれに寄り添い、慈しみの心をもって、思いやりをもって接することになる。それが同情である。苦痛が人と人とを結びつける根源的な感情となっているのである。おそらく、この苦痛を共にしようという同情・共感が人を共同的存在にすることを可能とするのであり、したがってまた権利・義務を可能とするのである。苦痛は、人の存在を可能とし、その結びつきを可能にしていく根源的な感情・感覚になるということができよう。

2026/04/16

世界観を創る苦痛

7-4-3-1. 爪や髪は、苦痛がなければ、物扱い 

権利は侵害・苦痛に際してこれを排除するために行使する。苦痛を感じるかどうかが、権利が侵されたかどうかと判断する際、決定的になる。指などとちがい髪や爪を切り取っても、苦痛がないから、気にすることは小さい。切られても、私が切られたという意識はもたない。伸びた髪や爪を切って、すっきりして快感を抱くぐらいである。だが、手足が切られたとすると、私が痛むから私が切られたという意識になる。痛みがある場合は、この私自身がそれに痛みを感じて、私という主体が傷つけられたと感じる。権利主体のこの私が、苦痛を感じ、私の損傷、侵害を感じる。爪や髪は、同じ私の身体の一部であるにもかかわらず、苦痛がないので、感覚的には私が傷つけられたと感じることがない。痛みこそは、私という主体を意識させ、ひとは、その侵害、苦痛を許しがたい、受け入れがたいと主体的に反応する。苦痛において、権利主体としての私を実感するが、動物もこの苦痛の点では、同じであろうから、権利を与えられてしかるべきだという思いにも連なる。

この爪や髪でも、伸びすぎたので切るというのではなく、拷問にあるように、ペンチで無理やりに爪を引き抜くとか、髪を強引に抜いて頭皮に激痛を与えたとすると、事態は、まるで異なったものとなる。私という主体が、いためつけられ耐えがたい苦痛を感受させられたと、私が侵されたと受け取るであろう。主体の意に反した侵害として、苦痛からの自由を求める権利を意識することとなる。権利主体となるには、苦痛を感じるかどうかが肝要ということになろう。快の場合は、私の感じる快ではあるが、この私という人格主体を意識することは少ない。快にのめり込み、主客が一体的になってまどろむ。だが、苦痛は、そうはいかない。私の苦痛は、まぎれもなく私に生じていることとして、放置しがたいものとして意識される。この私という主体、人格が意識され、この私が痛むと意識して、私の損傷・被害と自覚し、この苦痛の事態から自身を保護することに、防衛することに必死となる。価値の享受を阻止されて侵害を感じ苦痛となることには過敏に反応する。苦痛が、権利も意識させる。

動物の権利をいうのは、ひとがこれを痛めつけ、切り刻み殺して食べるというような、生を破壊する場面でのことである。そこで損傷がなんでもなく苦痛でもないのなら権利をいうことはない。牛や山羊の乳を搾ることは、苦痛を伴わず平気な感じで、牛たちに苦痛でなければ、権利などをそこに想起するようなことはない(その子牛の空腹をもたらすことがあるとすると子牛には苦痛だろうが)。だが、牛の舌や耳を切り取るというような苦痛を与える場合は、これを牛は拒み逃げようとする。牛という主体が、その苦痛・損傷の回避にともがくのである。これを耐えがたいと感じる苦痛があるのなら、苦痛回避に必死となる人間主体と同様に、動物も、この苦痛の回避を、損傷から守られるべきことの正当性(権利)を主張したいに違いないと、ときに人は想像することになる。

損傷は、植物でも、ある。切り花は、動物でいえば、首を切断するようなものである(植物は動物を逆立ちさせたような姿だから、その根っこは、動物で言えば、口や頭に相当するであろう)。しかし、それに苦痛がなければ、ひとの権利侵害と同じようには感じられない。ひとですら、痛みのない髪や爪の切断は、むしろ、さっぱりとして快感となるぐらいである。苦痛があるのかどうかが、その主体の損傷・侵害かどうかの判断基準となる。苦痛は特別視される。ひとの場合、苦痛は、嫌悪される第一のものであるから、その人自身の苦痛への思いを投影して、動物でも苦痛だけは許せないだろう、堪らないだろうと感情移入する。

2026/04/09

世界観を創る苦痛

7-4-3. 苦痛をもつものの特権的地位     

日本では、動物とひとは、同じ「有情」のものとして、特別視する。物は、「ある」というが、動物とひとは、別の言葉で「いる」と言い、その存在を別格扱いとする。同じ有情、快不快の感情を有した存在であると、動物と人を同列にして重んじている。権利は、享受の自由、その資格を語り、快を求め欲すること、それを阻害しての苦痛から逃れ守られるべきことを謳う。権利は、享受が好きなようにできているのなら、主張することはない。多くの場合、それが阻害されて享受が拒まれて苦痛になることにおいて、この苦痛回避のために権利の主張がされる。この苦痛回避は、ひとでも動物でも切実な求めであり、ひとと動物はその点では同等である。苦痛から守られ保護されることを求めるところに権利があるのならば、権利は、動物にも言われてよいのではないかと進め得る。植物は、損傷を受けても苦痛を抱く機能自体が存在しないから、人や動物のように、苦痛を回避したいと動くことはなく、苦痛からの保護を謳う権利とは無縁の存在である。動物は、その点では、ひとと同じで、苦痛から保護されることを求める特別の存在となっている。苦痛からの保護に権利の内実があるのなら、動物もこれに該当する存在だということになる。

 苦痛を感受する能力の有無が、権利成立の根本的条件になるのだとすると、ひとと動物は、そういう特権的な地位に立っているのである。動物に権利を与えることに行き過ぎを思うのは、そういう権利付与の事実が、今はないからにすぎないということかもしれない。かつては、人権はなかった。古代では、奴隷は物あつかいであった。奴隷は人の所有物であったというと、現代人にとっては理不尽と感じられることだが、動物への権利も、いまの時代には、なお、それだけの余裕がなく、感覚的に受け入れがたいというだけのことかも知れない。

権利を認めることは、これに無関係の人には、容易なことである。だが、これに関わる人にとっては、義務負担を承知することだから、よほどの覚悟をしなくてはならないこととなる。権利は、それだけでは実効性をもたず、義務負担を受け入れるものがあっての権利の享受である。熊の人里への進出が昨今問題となっている。動物権を認めたらいいではないかと都会の者は安易に考え得るが、熊の被害にあっている者は、熊を殺処分することを禁じて保護する義務を背負うことになるので、簡単には動物権を承認するわけにはいかない。権利を有するものには、義務が双務的にともなうのが普通でもある。自分の権利(快享受の自由)は主張するが、負担の義務(苦痛の甘受、忍耐)は知らないというのでは、関わる人は、権利を認めることに躊躇するであろう。自分は商品を自由にする権利があるといって、これを自宅に持って帰りながら、支払いの義務は、そういう負担・痛みは知らないというのでは、権利は認められない。売った者は、「あなたには権利はない」と、取り返すことになろう。熊に動物権を与えて殺害しない義務を人が背負うとしても、熊が人を殺さない義務を担うことはありえない。これでは関係する人々は、熊に権利を与えることには反対となるであろう。

ひとと同じように苦痛回避を切に求めるからと、動物に権利を認めたとしても、その動物は、負担・苦痛の義務は一切担うことがないから、権利も認められないということになるのが普通である。動物は、そういう責任・義務ということでは、これを担うこと自体が不可能なことである。動物は、規範意識を、善悪の、あるべき当為の意識をもつことができない。義務意識は当然もてない。権利自体についても、そういう意識をもつことはない。権利を与えたとしても、猫に小判である。ひとが、動物愛護の精神から、苦痛を与えないようにと義務を担う意志を固めることによって、動物に擬制的な権利が生じるのみであろう。

2026/04/02

世界観を創る苦痛

7-4-2. 快苦の功利主義からは、おのずと動物権が出来    

近代の快楽主義である功利主義は、ひとは動物と同じように快不快によって動くとし、快(pleasure)が善で苦痛(pain)が悪であると主張した。そこから、快を求め苦痛を回避するに必死なのは動物でも同じだから、ひとが侵害・苦痛から保護される権利をもつのならば、動物にも権利をとの発想・主張が出てきた。

ひとと動物は、快苦の感情を持って動く事では確かに同一である。しかし、ひとは、この快苦の自然を超えて忍耐をする。苦痛から逃げるのではなく、必要なところでは苦痛を受け入れてこれを手段として利用する。快の欲求も制御し、苦痛になってもこれを回避せず耐えて理性的意志のもとに生きようとする。さらに、超自然の精神的存在としての人間は、快を目的とするのではなく、快(喜び)はなくても価値獲得できる事態を求めるし、精神的な苦痛は、人を種々に痛めつけるが、これを必要なら甘受もする。人は未来に生きるがゆえに絶望もするが、この絶望は、人間的精神固有の苦痛になる。快苦を同じように抱くとしても、それへの関わりでは、動物と人間は異なる。なにより、動物的感性的な個別自然を超越した普遍的概念の理性世界に人は生きる。その卓越した超自然の理性的営為においてひとの固有の尊厳も可能となる。ということでは、単純化した功利主義的な発想で、動物とひとを、快苦で同じだから同一の存在とすることには難がある。苦痛があるからといって、動物にもひとと同じ権利があるというのは、人間の理性的尊厳の方面からいうと、短絡的である。

奴隷には、権利・人権はなかった。苦痛はまったく同一なのにである。要は、権利は、排他的に利益を独占すること、苦痛から免れ得ることを、その集団の(法)規範として承認するかどうかということである。したがってまた、その利益を守るよう、侵すことがないようにと義務を課すことが受け入られるかどうかということである。人権は、近代になって承認された権利である。動物の権利もそれを時代が承認するなら、その分ひとが義務を背負って不自由になることに納得するなら、権利として承認できることではある。それには、動物が人と同じように苦痛をもった存在であることが説得・納得の根拠となりうる。ひとも苦痛は何といっても回避したいことで、動物でもそれは同じであり、動物に苦痛を与えてはならないと動物権を言うことに、ひとは自身の感性を振り返りつつ同感することはできる。とはいえ、動物は、権利を自身で思うことも主張することもない。人権は、人が求め主張したことだが、動物権は、動物が主張するものではない。動物権は、享受の自由(の主張)から始まるのではなく、それに対する人の義務の方から始まる。人が動物を守り保護する義務を思い、義務を自身に課すことをもって、その対象の動物に権利を生じる。動物権の可能性は、ひとえに、人間が動物保護の義務を背負う覚悟をするかどうかによる。

肉食動物は、常に草食動物に苦痛を与え、命を奪って生きている。草食動物が、苦痛を与えられない動物権をもつには、肉食動物による捕食の侵害を禁止する必要がある。だがそれでは、飢えている肉食動物の生存の権利は成り立たない。ひとが勝手に動物たちの思ってもいない権利・義務をもって行動規範としようというのが無理なのであろう。かれらには、理性的な規範意識などなく、権利・義務意識など皆無で、行動は、快不快の自然により、自然的衝動によって動くのであり、善悪の規範のもとにいる人間とはかけ離れている。狭義には、人間の間のみに、権利義務を語るべきであろう。行動規範としての権利・義務は、理性的存在の人のみに通用することである。ただし、ひとは、その義務を動物の保護に向けることもできる。それが、結果的にはその動物の利益を守ることとなり、権利をもつのと同じ状態になって、その限りで、動物権を擬制的には語りうることとなる。

 

2026/03/26

世界観を創る苦痛

7-4-1-3. 権利の衝突   

 権利が実効性をもつには、関係者に、それを守る義務が課せられていなくてはならない。権利を有する者の利益の享受の自由と、義務を負うものの負担(苦痛)・責任が対立的となる。権利を認めるのであれば、いやいやではあれ、それを実現する義務を担う者は、責任をもち負担を背負わねばならないことになる。だが、その義務が不当な負担と思う者は、責任を負うことをやめ権利者と対立的になることも生じる。さらには、それだけでは済まず、義務を負う方が自分の義務負担を否定するために、対抗的な権利をもってすることもある。権利と権利が衝突することになる。喫煙に関して、一方は、嫌煙権を主張し、他方は喫煙権をいった。

 どんな事柄であっても、対立する者同士は、普通、自分の主張を正当(right)と思うから、それを当然で重み・威力のあるもの、権利(right)だと主張できるであろう。それが相互に害をあまりもたらさないのなら、相互に権利を主張しても無事に過ごせる。だが、それが相手に害をもたらす場合は、権利の主張は穏やかには済ませられない。相互が相いれない権利を主張しあって、対立することになる。戦後、日本の国内が平和で安定した時代になったころ、禁煙が社会問題になった。禁煙を勧める人は、喫煙を好き嫌いの好みの問題としていた当時の風潮を拒否して、「嫌煙権」を言いはじめた。当時は、列車の中での喫煙では非喫煙者も、もうもうと煙る車内で副流煙を吸わされて列車を降りる頃には、ニコチンで頭が痛くなっていた。当然、非喫煙者は、嫌煙となっていたのであるが、それを、風呂や台所の煙などと同じように、仕方のないことと我慢していた。大体、国民の範となれるようにと気を遣う宮内庁なども、全国から皇居の清掃に来ていた者に、「恩賜のたばこ」(2005年までで、以後は、お菓子などに変えたようである)を渡していたぐらいに喫煙は堂々としたものであった。が、禁煙運動が高まるとともに、その我慢をやめて、嫌煙を正当だとして、嫌煙権を言い出した。権利(right=正しい)となれば、堂々と主張できることとなり、禁煙運動には大きな力となった。禁煙運動をする嫌煙家たちは、その情熱を禁煙に傾ける人が多く、嫌煙・禁煙が正当だ、正しいことだと、攻撃的になりはじめ、その正当性を嫌煙権として言挙げして、執拗に運動を展開しはじめた。これに対して喫煙者は、それまでは喫煙はどこでも自由であって制限されないから呼吸と同じようなもので、呼吸権をいわないように喫煙権などと権利をいうことはなかった。が、これが制限されるようになるとともに、ニコチン中毒者の一部は、嫌煙権に対抗できるようにと、喫煙権を主張しはじめた。権利 (right)と権利の、正しいもの(right)と正しいものの衝突になった。禁煙運動の初期には、新幹線では、まずは、嫌煙権が小さく、一両だけ禁煙であったと思う。それが、だんだん禁煙車両が増えてとうとう喫煙車両はなくなり、喫煙は、特定のボックスを設けてそこでのみ赦されることにまで後退していった。禁煙権、嫌煙権が勝利し、喫煙権、愛煙権は、いまは、一部の者が犬の遠吠えをして悔しがっている状態である。 

権利は、正義と同様に、実力がものを言う。権利主張をするものは、それを好き嫌いの好みの問題に解消するのではなく、自分(の享受)は、正当だ、正しいという。しかし、実力がない場合、援護・保護がない場合は、権利としては認められないことが多い。女性の参政権は、女性の実力が実現していったものであろう。労働組合の団結権、団体交渉権などもそうである。戦争では、相互が、自分が正義(right)で相手が悪ということで交戦権という権利(right)を相互がもって戦う(日本国憲法は、日本は交戦権をもたないと、権利放棄して(させられたままで)いる)。勝てば官軍でそれが正義となり、敗者は、悪、犯罪者となり、権利(right=正しさ)は剥奪される。喫煙権や嫌煙権は、法的権利ではなく、道徳的権利であったろうと思うが(法廷で争う場合、法的には嫌煙権は通らず、嫌煙家たちは、生存権などで押していったのではないか)、権利とか正義とか尊厳とかの言葉は、これを担うものに自信をもたせる。それらの言葉は、戦いの場では、自分たちに後ろめたさを感じる面があったとしても、これを払拭し大いに自分たちを鼓舞して、逆に、その相手を萎縮させ威嚇・脅迫できるので、相当に効果的な言葉(言霊)として作用する。

2026/03/19

世界観を創る苦痛

7-4-1-2. 法的権利と道徳的権利   

 権利の主張は、私たちの国、日本では、あまり好まれない。権利とか正義とかを振り回す者は、嫌われがちである。自分の権利(right)を持ち出すと、厚かましいと受け取られ、ずうずうしい厚顔・無恥と見られもした。自己主張が好まれない風土であった。謙虚さを貴び、義務・責任は語っても、権利を言挙げすることは希であった。正義(right)なども、同じで、正義をもって対応する人は、煙たがられる。だいたい、正義への感覚が欧米の人と我々では、異なる。日本では、邪悪な者からの不正を被っての泣き寝入りは、なさけないとは思っても、その被害者を悪とは見なさない。だが、欧米では、悪を排撃しないで泣き寝入りすることも、正義の反対の不正義(悪)の内に含まれる。正しいことは、臆することなく主張されねばならないのである。欧米では、そういう精神的風土のもとで、正しい(right)こととしての権利(right)は、それがあるのなら、それとして堂々と主張していくものになっているのだろうと思われる。

その意気込みの延長上に、法的にはまだ認められていないが、自身が正しいと思う享受の自由についても、これを権利とすることともなっているようである。その法的になってない権利は、そうあるべきものとして主張されて、道徳的な権利ということになる。我が国でも、漸次、法的権利のみでなく、道徳的権利も言われることが多くなってきているようである。禁煙運動は、成功して落ち着いてきているが、禁煙運動が過激になっていたころ、禁煙権、嫌煙権を武器にしていた。喫煙者は、劣勢になるとともに、同じ土俵で互角に戦いたいと喫煙権を主張していた。いずれも、幸福追求権や生存権のうちで問題とされたもので、それら自体が法的権利として承認されたものではなかったと思う。道徳的権利をもって戦いあっていたということであろう。

 法的権利に対して道徳的権利は、法で強制して刑罰の問題とするものではなく、あるべき善を掲げたもので、侵犯禁止の義務を強制できないから、弱いといえば弱い。だが、場合によっては、法的権利を導き出す先行のかけがえのない根本的な動力となっていたのでもある。人権は近代のものだが、人は根源的に諸能力において等しく、自然超越の源をなす理性存在として同一であるから、万人、等しく尊重されるべきであり、その享受の自由の正当性としての権利は人類誕生とともにあってはずである。道徳的な権利としての人権は、古来あったわけで、それを踏まえて、近代にいたって人権として法に謳われるようになっていったのである。潜在的にあって道徳的に権利としてあったものを顕在化して、法的強制力のある人権として謳ったのである。

法と道徳ということでは、道徳は崇高な規範であるのに対して、法は、どんな邪悪な人間でも守るべき最低限の規範、最底辺の道徳を謳うのが普通である。窃盗など、普通人なら、当然のこととして侵すことのないもので、規範としてすら意識しないものが法となる(ただし、権力者が法に謳えば、守るのは困難な高等なものでも法(悪法)となる)。法とちがい道徳は、実行が難しい高等なことを求めるもので、皆が守ることは無理だけれども、あるべき尊い規範であり、権利に関しても、(皆がこれを義務として国家のもとに守ることの強制される)法にはできないが、守られるべき尊い善として道徳的な権利になる。階級社会であった歴史においては、支配者に都合の悪い、被支配者の権利は、法にしたのでは、邪悪な支配者もこれには従う必要があるから、人権などの規範は、道徳的権利にとどまっていた。しかし、崇高な、重みのある、守られるべき権利であったことは確かで、古代であっても、真摯な人たちは、自身のもとでは、人権を尊び、人を殺めたりしない義務を自らに課していたことである。