7-3-4-2. 快の色眼鏡で世界を見ることもある
快に注目する色眼鏡をかけた場合、かなり視野は狭くなろう。幼稚園で遊戯している動画では、かわいいわが子や孫には注目するが、他の子がどうしているかは、まず見ていないのが普通である。食べ物では、好きな物に目が行き、それ以外になにがあったかは覚えないであろう。快の色眼鏡は、自分の気に入ったもののみを見て、他の物事は見ていないという点で、視野はきわめて小さくなる。
快をもたらすものに目を向けるとき、それを享受し受け入れたいと焦点を合わせるが、これが苦痛のように、放置しておくと危険になるからと注視をやめることができないのとちがい、無視しても、快がもたらされないだけで、危害が加わるのではないので、気軽な注目である。苦痛が冷厳な目つきで凝視するのに比して言えば、飢えているのでなければ、穏やかで温かい眼を注ぐものになろう。苦痛ならば、その可能性のあるものをすべてチェックし冷静に詳細を見当していくが、快となりそうなものでは、その必要がなく、快をもたらすものすべてではなく、自身が求める快となるものだけを見る。快の享受自体になると、その快をもたらすものですら見ないままに閉目してこれを堪能する。快では、それに一体化して微睡み、外の世界がどうなっているかなど気にすることはない。快の色眼鏡は、安眠のための遮光のアイマスクに近くなる。同じように、過去の快は、苦痛の過去と違い、すぐに無と化す。その享受ですべて終わりであり、たちまちに忘れてしまう。悲しみの過去はながく反復されるが、喜びの過去は、すぐに忘却のかなたへと消えてしまう。年取ると昨日食べたものも忘れるが、それは、美味しいものを食べたからである。これが、嫌いな生ガキを皆にあわせて食べて当たって苦しんだ場合は、一月前の夕食のことであっても忘れることはない。
未来の快については、現在を愉快に暮らしている者は、消極的には未来にむけても、快が続くと思うことであろう。ただし、快は、その現在の快にのめり込みそこに安住してその快のうちでまどろみ安眠した状態になるから、未来は、積極的には、見ないであろう。だが、苦痛の現在にある者は、この現在を抜け出したいから、その先を見る。できれば、その苦のない安楽な未来を夢見る。あるいは、苦痛の現在のもたらすものが未来の目的の手段として捉えられていた場合は、苦労するごとに未来の価値獲得の快に近づくのであり、未来は、その苦痛の止揚としての快という見方になる。
感性的欲求では快楽が重要なものになるが、精神世界では、苦痛とちがって、快は、些事になる。価値獲得に若干の快がともなうこともあるが、ないことも多く、快楽自体を求めようという眼鏡は、精神世界では、なくなる。苦痛は、精神世界でも重大なものとして注視されつづける。天国・極楽は、苦痛をなくした世界として快の世界ということになるが、感性的な快楽などではなく、苦痛・苦悩の無化した安らぎの世界になる。地獄は苦痛のみ、この世は、苦痛の合間に若干の快もある世界で、極楽は、苦痛の色眼鏡をはずし、快の色眼鏡をつけて目を閉じた、安らぎの世界、安楽国ということになる。