7-6-5. 苦と快は、欲に発し、欲の消滅とともに消滅する
仏教は、苦を無くするには、快も無くさなくては無理だという。エゴ・小我が欲を生じて快を求め、その不充足に苦となる。欲求は快を欲求するけれども、欲求があり続けているとは、不充足にとどまりつづけているということであり、不充足の苦痛をいだいているということである。この苦からの解放には、欲求の不充足を、したがって、欲求をもつ状態自体をなくすることが根本的な解決法となる。欲求を放棄するということは、求める快をも放棄することでもある。苦界からの解放は、快の世界の放棄ともなり、苦も快も超越したところに空無の安楽世界、楽土が可能になるというわけである。
ギャンブルにのめり込んだ者は、勝ちに快楽を得、負けに苦痛をいだき、その快楽がひきつけて生活を狂わせ、困難に落とし込む。その嫌な苦痛・困窮をなくするには、ギャンブル自体をやめることである。負けのくやしさ・苦痛は、ギャンブルへの欲求を断ち切れば、その賭け事自体をしないなら、生じることはない。負け続けて、借金し、働くことも怠りがちになって、生活が困難になるその苦痛をなくするための根本は、賭け事を、それへの欲求自体を、したがってその快楽をもなくすることである。アルコール中毒なども似たものになる。飲めば快楽・天国となるから、これを欲求し、意地汚く飲酒の機会を求める。アルコールがきれると、いらいらし苦痛となる。苦痛は、飲酒時の快楽とちがい、延々と続く。飲酒欲がありつづけるとは、飲酒できず苦痛でありつづけるということである。この苦痛をなくするには、飲酒欲自体を無化することである。快楽はなくなるが、苦痛もなくなっていく。飲酒の快楽への欲求を断ち切り続けていると、その欲求自体が消滅して快楽とともに、飲酒できない苦痛、禁断の苦も消滅していく。喫煙の欲求も同様で、禁断症状としての苦痛は、喫煙欲を断ち切り喫煙の快(快というより、禁断の苦痛の一時停止という安堵感)の機会もなくすることで、これをなくすることができる。喫煙の快も不快も超越した、両方を無化した健やかな生が喫煙欲自体をなくすることで可能となる。欲求をなくすれば、快も苦痛もなくすることになる。快苦を無化した、それから超越した穏やかな世界である。この苦界といわれる現世は、苦痛とともに快も存在する世界である。それを超越した楽土は、苦がないとともに快もない安穏の世界になる。
精神的社会的な世界に生きるのが人であろうが、その立場からは、動物的快不快の世界は、どうでもよいものとなっている。精神的な営為に意識が集中している場合、食の快不快は、あまり気にならないであろう。ニュートンでなくても、数学や自然の妙に意識がとらえられているなら、あるいは、ゲームなどに夢中になっている場合、食の快不快、あるいは食・食欲自体は消えて些事にとどまろう。動物的快不快の世界から超越した世界になる。その人間的営為に意識を集中しているときには、動物的営為は、無になり、その快不快は気にされることがない。
江戸期、臨済宗の盤珪和尚は、「身の贔屓」さえなくすれば、万事うまくいく、我慾が苦の根源なのだと繰り返し説いている。苦痛と思うのは、自身の我慾が満たされないからである。我慾が欲求不満になって苦痛となる。その我慾を抑え、身のひいきさえやめれば、即、みんな仏になると説いた。欲することをやめることは、欲の充足での快も放棄するということである。欲求が生じなければ、充足の快も不足の苦痛もなくなる。快不快にとらわれた、身の贔屓の生活態度を改めるなら、即、成仏した状態が出現する。ひとは、もってうまれたものは、我慾のない仏心ひとつであった。これが世間に交わる中でだんだん我慾を生じ身の贔屓をするようになって、快をもとめ苦を回避するような生きざまとなって、しばしば自身で自身の身を焼いて苦しむのである。その苦しみから解放されるには、我慾自体を放棄することで、放棄すれば、即日、仏となって快苦の煩悩世界から解放されると、盤珪は語った。