7-6-1. 仏教もキリスト教も、この世を苦界と捉えた
仏教は、ひとの一生を、生老病死として特徴づける。ひとの世界は、苦に満ち満ちた苦界だと言う。生まれ生きることは、次々と生じる苦に生きること、成長とともにその苦は加算するばかりで苦の連続である。老化すると世事から解放されて楽になるのかというと、そうではなく、朝起きる時から腰痛・膝痛ではじまり、心身はぼろぼろになって朽ち果てるのである。ひとによっては、そのうえに種々の病気の苦も背負わされる。そして全員もれなく、最後は、死に至る苦を味わう。生老病死が人間界である。苦は、この世の根本であるが、ひとは、そういう苦をなんとかして避けたいともがいている。現代社会でも、激痛しか残されていないと分かれば、安楽死がやむをえない手段として取られもする。苦痛・苦悩は、死よりも大きな反価値となることがあって、苦痛の生を根源から無と化す死が選択されるのである。苦痛がない状態を求めて安楽死するのだが、死ななくても苦痛がなくなるのであれば、わざわざに死を選ぶことはない。生を放棄する死以外に邪悪な苦痛から逃れる手段がないので、安楽死するのである。
苦痛というマイナス状態がなければ、生はさしあたり、健やかである。不幸でなければ、幸福であり、苦がなければ、安楽ということになる。苦は長く多い。それから逃れて無苦でおれるということは、それだけで安堵できる、まれな状態なのであり、幸いなこととなる。仏教が求める安楽国は、苦痛のない安穏の極楽世界である。それに比して、この世は、始めから終わりまでが苦しみの世界なのである。仏教は、この世を総括して、苦界とする。苦海ともいう。生まれるとともに、新生児は、大声で泣く。生まれること自体が辛い苦しみなのであろう。以後、快苦に導かれて生きていくが、快は、まれで、得たとしても瞬時に消えていく刹那のものである。精神的快なら持続するのかというと、同じ精神の苦痛に比しては、やはり刹那に感じられるだけである。幸せでもこれを快として感じることはあまりない。安心な状態になってそれが続いても、安心感、安らぎの快感は、刹那に終わる。逆の不安や悲しみは、危険・価値喪失がある限り、どこまでも続いて消えることはない。死ぬまで不幸も不安も悲しみも続くことが少なくない。
仏教を拒否するキリスト教も、人類の世界は苦痛の世界と見ている。その旧約聖書『創世記』は、人類の創成について、禁断の木の実を食べたが故に、神は、アダムとイヴに罰を与えて、苦痛の労働等を課した、と語る。動物は知恵の木の実を食べることなくエデンの楽園に住み続けたが、ひとは、楽園から追放されて、労働等の「苦痛(ヘブライ語原典ではitsavon、ギリシャ語でlypē、ラテン語ではdolor(labor)」の罰を課されたという。ひとは、誕生とともに、知恵を得た代償として、苦痛を背負わされているというのである。その新約聖書『ヨハネの黙示録』に描き出すその最期の天国は、人類の創成では禁断の木の実であった命の木の実も享受する、「苦痛(ギリシャ語原典でponos、ラテン語訳でdolor)」のない世界として特徴づけられてもいる。洋の東西を問わず、安楽の天国・極楽とは反対に、この人間世界は、苦痛の世界と見なされてきたのである。