7-4-1-1. 拡大される権利
権利の主体は、人間としての個人や集団になる。生きた主体における快や価値あるものの享受の自由と、苦痛とこれを生じる損傷の回避の自由を謳う。享受を排他的に一定の者のみに限定し、それを他の関係する者に禁止するかどうかは、人為のことで、権利は、法に謳うことで確定される。それを法に謳うかどうかの問題としては、権利は、広くも狭くもできる。人類成立とともに潜在的には存在していた人権(人の権=重み・威力)であるが、これは、近代が顕在化し明文化して(法的)権利とした。近代になって漸く、万人に生きる権利(right=正しさ、正当性)、差別されず人間らしく生きる権利、「人権(human
rights)」は、確立された。
いまや、この権利は、動物にまで広げられるべきだと、動物権(animal
rights)を主張するひとはいう。享受能力があり、その否定に苦痛を抱くものとして、その(利の)享受は正当で、重み・威力(=権)があるとして、動物にも権利を付与しようというのである。が、いまでも、動物は、一般的には、法的には物あつかいである。漁業権とか著作権では、権利と義務は、相互的双務的である。物の売買では、両者が共々に同じ事態において、権利と義務を双務的に担う。お金を払った者は商品への権利をもち、売り手は渡す義務を負い、売る方は、お金をもらう権利をもち、買う方は支払う義務を負う。他人の権利を自分は侵さない(守る)義務を負い、自分の権利は、関係するものが義務を負うことでなりたっている。人同士の根本的な対等・平等の在り方に沿っている権利であり義務である。だが、この双務的な人間同士の権利義務の在り方からいうと、動物権は、人のみが義務を負って、動物は人の権利を守るいかなる義務も担うことはないので、人のみが一方的片務的に義務を負うことには納得がいかないということになる。太田川の漁業権は、漁師でない周辺の者が魚を獲ることを禁じて、その義務を地域民に課し、瀬野川の漁師でも、その禁止の義務を負う。だが、太田川の鵜は、自分たちを狩ることは人には禁止されていて太田川の漁師もその義務をしっかり守っていて、いうなら動物権を行使した状態でありながらも、ひとの漁業権は犯して義務を背負わない。そのため太田川の漁師は、せっかく放流して育てた鮎なのに、鵜の残したものしか獲れなくなっている。もっと深刻なのは、象や熊と付き合わねばならない地域の住民である。人には、象や熊を殺してはならない義務があるが、熊や象は、人を殺しても殺人罪に問われない(義務を意識することすらない)ということには納得がいかない。義務(負担・苦痛)は問うことなく、権利(享受・快)のみを動物に許そうとする動物権には承服しがたいというのが多数である。
さらには、もっとひろげて、自然の権利(rights of nature)、つまり、川や山にも権利を付与すべきだという者も出てきている。しかし、植物は、苦痛をもたない。川も山も、権利での享受の自由は人が勝手にそう見なすだけのことである。仮に既存の自然状態が変更されたことを侵害と解しても、その侵害での苦痛はもたないから、痛みをもつ動物には権利を広げうるとしても、それ以上は、というのが一般である。もっとも、苦痛のないものにも現に権利を認めていることではある。会社などの法人(juridical
person)は、個人のいだく苦痛などの感情をもたないけれども、擬制(fiction)的に人として扱っており、権利主体と認めていることである。権利は、客観的に決定されているものではない。国家や個人が、負担を背負う義務を自他に課して、結果、その対象が守られて権利となる場合がある。そのようにして権利主体と認めることになれば、ひろく、どぶ川にした責任を取れという「隅田川の権利」(権利を言ったからではなかろうが、最近は「すんだ川」になっている)とか、山を汚さない義務・責任があるという「富士山の権利」をいうことも可能ではある。
義務を課して禁止と保護の実効性がしっかりするならば、権利における享受の自由の実態はどうであっても、権利として成立しうる。富士山が汚されないことへの権利は、富士山自身はこれを自由に享受するものはないけれども、汚染の禁止と保護が法にうたわれて義務が生じるならば、富士山の(擬制的な)権利は、実効性をもったものとして成り立つ。受益の重みが権利であろう。受益を尊重する義務が課されることによって、その受益側に、受益の権利が生じる。多くは、威力・重みをもつものが権利を主張しこれを相手に認めさせて義務を背負わせるのだが、逆に利益・享受のための義務を課すことから始まって、その享受側に権利が生じるということもある。動植物、自然の権利は、後者になる。前者の場合は、自然的に威力をもち重みをもつから、義務を負う方も、その威力に押されて権利として認めやすい。だが、後者は、権利主体に促されてではなく、為政者等から強制的に義務を課されるのであり、負担を負いたくない者は、義務を承服せず、したがって、対象の植物などの権利は、強制する為政者等が力を持たない限り通用は困難となる。