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最近の私です


 もう80歳近くになり(2023年3月現在、満78.5歳)、身辺整理は、大方済ませた。この春は、それまで毎年書かせてもらっていた紀要への論文もやめにした。昨年書いた『昔話の終わり方』に「日本人は時間に正確、几帳面というが、それは始まりについてであり、終わりは杜撰で、会議等は牛の涎のようにだらしなく、人生では晩節を汚す者が多い」と書き、自身も反省すべきと、今年の春は、もう書かないことにした。今後、世間とのつながりは、書き捨てが普通で修正・削除も簡単にできるウェブのこのホームページを残すだけとした(もう紀要にも書かないことにしたのですが、後続の退職者の諸君、やはり、晩節は汚したくないということだったのでしょう、昨春の紀要には書いてくれなかったようです。ということで、一昨年まで書いて、すでに晩節を汚している小生が、また、引き受けることにしました。若い諸君の邪魔はしないであろう苦痛とか忍耐を昨今テーマとしており、その一部の「辛苦の省察」を再考して載せました。2024年4月付記)。  

 自身の所有物(書籍など)は、とっくの昔に片付けた。その後、引き続いて家族のもので不要と思われるものを片付けていたが、その折り、子供の残していた油絵具とかキャンバス類がかなり出てきた。小生は、絵はからっきし下手で、油絵とか日本画は、上手な者でないと無理と思い込んでいて、描いたことがなかったが、棄てるのなら、一回、やってみるかと、はじめることにした。絵具の中身の相当残っているチューブがたくさんあったが、もう、口は開かないので、尻側からしぼりだした。保存が問題となり、ウェブであれこれ探ってみたら、水につけておけば持つと分かり、大量の小型の容器を買ってそれに全部出して水に封じ込めて保存することにした。その後、ウェブでポイントがかなりたまって期限が迫っているのに欲しいものがなかった時、油絵具のセットを購入したので、それ以後使わないでいるが、大作を描くときには使うかも知れないと、とっている。確かめてはいないが、もう使えなくなっているかも知れない2020年5月にやったことですが、2024年の4月になっても、なお、同じ状態で、使えそうです。2024年4月付記

 同級生でアクリル画かパステル画あたりをやっている友人がいる(油絵の乾くのを待つのが嫌なので、そういうものを主としているようだ)。もうこの歳になると、同級生の男子では死んだ者が2、3割になり、生きていてもボケて交流など断った者もいることだが、この友人は、元気で、最近も東京上野の展覧会に出したとか、茨城でもやったとかメールがあった。そのはるかな後を追って後期高齢者になっての油絵への挑戦である。始めてみて、意外と、絵の下手な自分にも、あっているかも知れないと思い始めている。いくらでも描き直しがきくからである。自画像など半年も繰り返して直してなお満足できないで、いまは、放置している。それでも、その気になったら取り出して修正して描けるので便利である。風景も、青々としていた夏の山を描き始めて、秋も遅くなって紅葉がなんとか残っている頃、やっと描き終えたことである。夏の山を描いていた上に紅葉の秋を上塗りした。一日のうち、油絵に費やす時間は、2、30分ぐらいにとどめていることも、遅延の原因のひとつでもあろうが、画家がユーチューブなどで実演している風景画作成では、正味何時間かで仕上げている感じだから、やはり、小生の場合は、のろますぎるというべきであろう。絵は、天分が大きいと思う。文章に表現力があるように、絵画にも独自の表現力があるが、その表現力が自分には乏しいのである。中学のとき、勉強とちがって絵だけは見事なものを描く同級生がいた。おそらく、絵を特技とした仕事とかして、画家になって日展ぐらいには出していたかも知れないなと思ったりする。雪舟が子供のころ、柱にくくられて、涙で鼠を描いて驚かせたというが、絵の才能は、子供の頃から決まっているように感じる。

 自分の場合、絵に人並みの能力がないと自覚していて、若い時分から水墨画をやっていた。水墨画は、よく老人の趣味にあがるが、それは、下手でも、手本をみて何回も描いていると、手本から外れて、たまに、まぐれに、いいものができるからである。小生は、若くても下手の治し様がないので、絵は水墨画に限定していた。その水墨画も、当然、持続してやっていたわけではない。時に何かから刺激を受けて断続的にやる程度である。もちろん上達はしない。この半世紀以上、水墨画を断続させてきて、水墨でも、下手なものは一生下手に留まるということをはっきりさせた格好である。小生の場合は、絵画の表現力が稚拙であるだけでなく、その理解力もそうなのかも知れない。素朴に写実が好みで、ピカソの「ゲルニカ」など、理解できず、滑稽に見え、おちょくっているように感じられて、犠牲になったゲルニカの人たちに失礼ではないかなと思ってしまうのである。ピカソの絵は、同じスペインのガウディの教会などの奇怪な建物と同じように、小生には理解しがたい。が、芸術や趣味は、「蓼食う虫も好き好き」の世界である。ピカソとか岡本太郎など、自分には共感できないが、一部の人には、おそらく、信じがたいけれども魅力的なのであろう。

 小生の油絵は、つまるところは、絵画への理解力も、描く表現能力も欠如した終末期高齢者の、たまたま見つけ出した暇つぶしということに尽きる。水墨画は、ものの2、30分で一枚出来上るから、反故の山にすぐなる。だが、小生の油絵は、一つの小さなキャンバスを半年も一年も玩び、しかもいやならすべてを取り消し上塗りできるので、反故の出ることが少ない。水墨画では、当然、水をつかい、はじめるには、まず水を汲みにいかねばならないし、後片付けをするのにも少し手間がかかる。だが、油絵は、即その場で始められるし、後始末も簡単である。小生のような無精で短気な者には、かつ描いたら稚拙さが気になって何回も手直しを繰り返すような者には、油絵の方が似合っているようである。そのことを知ったのが棺桶に片足をつっこんだ終末期高齢者になってからということで、すこし遅すぎた発見ではある。しかし、何回手直ししても不備が感じられるということは、微々たるものではあろうが、よりましなものにと修正されていくということである。あるいは、もう何年か生きていたら、自画自賛できるような絵ができあがる可能性がないことでもない。そのころには絵に対する理解力も変わってきて、ピカソや岡本太郎にも少しぐらいは共感できるようになっているかも知れない。

ぐだぐだ言っても始まらない。論より証拠。百聞は一見に如かず。いまの自分にとりまずまずの出来と思っているもの一点を添付しておく。




 


 









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今年(2021年)は、小生77歳になる。酒には無縁の人生だった。「日本酒は、世界的にも評判になってきている」というような話を時に聞くけれども、どうも、日本酒は苦手である。あの匂いとあの甘味がいやなのである。 

 しかし、同じコメでつくった甘酒は好きだし、それは、味覚の問題ではないのかも知れないと最近思うようになった。永井荷風の『あめりか物語』の中に、ニューヨークに駐在する銀行員が、洋食やワインはいけるのに、コメの飯と日本酒は、日本人同士の席でも嫌悪してこれを食することを拒む話が出ていて、その理由が、その味わいではなく、日本での子供時代の体験がそうさせるのだと当人に語らせているのを読んで、ふとそう思った。その駐在員の日本酒ぎらいは、酒の味わい自体がどうこうということではなかった。裁判官であった父親が、母を奴隷のように使って、食事、飲酒なども、自分達だけが楽しみ、母は、諸事、女中扱いで、その挙句、過労で若くして死んでしまったということで、日本酒や日本料理を見ると、かわいそうだった母のことが思い出されて嫌悪感が生じ食欲がなくなるというのであった。その点、洋食は、そういうことを想起させず、男女同等に楽しむから、食もワインもすすむ、日本には帰りたくない、と。

 永井がそう記しているのを見て、小生も子供のころ、大人の酒飲みをみて不愉快な経験を何度か繰り返したので、「大人になっても、あんな呑み助には絶対なるまい」と思ったことがあった。この思いの方が、味覚で酒を嫌になるより大きいのかもと思いだした。あまりにも「日本酒はおいしい、おいしい」と最近外国人にも言わせるから、うそっぽいとは思いつつも、日本酒のあの黴臭く、嫌みのある甘味も、慣れれば、なれずしやクサヤのように、ひょっとするとおいしくなるのかも知れないと思う昨今である。が、もう何年も、アルコール自体を常用はしないので、当然、日本酒も飲まない。ビールとウィスキー、焼酎は、来客など非常の時のために置いているが、まず、これらも飲むことがなくなった。若い時分、不眠気味のときは、ブランデーを睡眠薬として使っていたが(小さじ一杯で泥酔できた)、最近は、不眠でも、終末期高齢者なので死ぬまで暇で翌日に困ることはないし、なにより、飲まなくても、よく眠れるので、これを薬用とすることもなくなった。

 こう、思いをあらためさせてくれた永井荷風、その生き様には眉をしかめたくなるが、時々、小生には思いがけないことを教えてくれる。最近は、暇にまかせて、背徳の世界をも広く知るためにと思って彼らのものを読むことがある。以前は、無益の書の場合、図書館に行って借りて読んでいたが、年々身体が自転車をこいでいくのを億劫がってきて、そのわずらいなしのバーチャルで済む電子書籍になっている。幸い、安直なキンドルがあるので、これに頼ることである。電子版の全集-といっても、主要な作品の欠けているものが多いのだが-で、知らない作家のも含めてダウンロードしてその時の気分に合わせて読んでいる。安いのは、100円とか200円で全集となっている。荷風なども電子全集があるので、これで間に合わせている。永井の最初の電子全集は、『あめりか物語』とか『四畳半襖の下張』などは入ってなかった。が、最近出た全集には入っていた(それでも500円ぐらい。これも読みたい断腸亭日記の巻6以下は入ってなかったから、真に全集とはなっていないのだが、荷風のファンでもないので、ないものを、別の手段で求めてみようなどという気はない)。安いから、おそらく、ボランティアの青空文庫のをまとめた最初の全集とちがって、人の手で電子化したのではなく、読み取り機でやったのであろう。荷風の日記を見ると、広島に原爆の落とされた前後、岡山で空襲を避けていたようだが、変態性愛の谷崎潤一郎もその近くに疎開していて、その谷崎との行き来について、谷崎でなく「浴崎」としているところがある。人の手で入力した場合、谷を浴と打つことはなかろう。コピーした本にその箇所だけ紙に小さな汚れがあって谷の左にサンズイを読み込んでしまったのであろうと推測された。  

 永井の『濹東綺譚』は、はじめの電子全集にあって、そのとき読んだが、これは、地理的関心をもって読めた。18,9歳の頃、小生、墨(隅田川)東、江東区の深川に住んでいたことがあり、地名に知っているのが出てきて、しかも、小生の知るのとちがい、当時は、原っぱだったりどぶ川であったりと、懐かしさと世の変遷への思いをもてたことである。芥川龍之介にも、その辺りを記した作品(『本所両国』)があって、これも、知った地名が出てきて、同じ思いをして読んだことがある。芥川のが、まだ江戸の面影の残る風景をバックにしての少年期の快活な様子を見せてくれるのとちがって、永井が語る中心は、彼ならではの、いかがわしい、かつての風俗の話である。永井の筆の巧みさのもと、性を売る女性の慎ましやかな日常が目に浮かぶように描かれていた。

情痴作家と言われた坂口安吾が、荷風には「真実人間の苦悩の魂は影もない」と批判しているが(安吾「通俗作家 荷風」)、あるにちがいない売春婦たちの内奥の苦悩など語ることなく、淡々と描かれているのは、表面をなぞっているだけの軽薄なものではあろう。が、売春の表面すら知らないものには、旅のガイドブックのような感じで、よい案内書になった。永井は、よくガイドブック的に、街並みや、家の中は食器類にいたるまで、丁寧に叙述しているが、これは、当時・当地を知らない初心者にはありがたいものだけれども、慣れたものには、つまらないかも知れないと思う。売春の実際、最終的に性交を目的とすることは教えられなくても分かることだが(永井は、他の作品でもその具体には触れずに淡々とそれの前後を述べるのが普通である。性交の仕方は、『四畳半襖の下張』が赤裸々で詳細なガイドブックになっている)、商売として具体的にどのようにしていたのかには無知の小生には、見たことのない月の裏側を見るようであった。遊郭というと何人もの女性を並べて好みのものを選べるようにしているというのが一般的なイメージだが、永井が描いているそれは、こじんまりとした家が並んでいてその各々が独立して一人の女性でもって成り立っているものである。有名なオランダの「飾り窓」はそういうやり方のようだが、日本にもそんなのがあったんだと、読み進めることをさそわれた。  

 そういえば、永井の『あめりか物語』にも『ふらんす物語』にも、その叙述のどこまでが彼自身の体験なのかは分からないが、売春婦との交わりがよく出てくる。その外遊時の日誌「西遊日誌抄」などで比べれば、どこまでが体験か明確になるのだろうが、そこまでの関心はない。日本での生き様を踏まえてすれば、そして、性風俗の底辺のあり様を微に入り細を穿って描いていることからすると、かなりが自身の体験そのものなのだろうと推測される。日本では放蕩三昧だったようだから、その延長上にあったと見てよいのかと思う。永井の描き方においては、売春婦の惨めさは感じられない。自分がかりそめの契りを結ぶ相手のこと、そういうことに目をやっていたのでは、楽しめないということだったのであろうか。表面的ではあれ、日々は、それなりに穏やかな生を営んでいたのだと読み取れるものであった。かれが体験記を書いてくれなかったら、知らないままに終わった世界だなと、情痴の内奥を語る坂口安吾やそれに苦悩して見せる太宰治などからは「魂が描かれてない」と否定されることになろうが、斯界に無知の小生には、そういう世界の単なる軽薄なガイドブック、読む価値があるものであった。 

 永井とか太宰の背徳的行状には嘔吐をもよおすが、わがまま放題で性欲のおもむくままに振舞えば、男女を問わずだれもがおのずから彼らのようになることであろう。それが、年中発情している人間の悲しい性なのだと思う。ひるがえって小生など、もう片足を棺桶に入れているのだが、一度も買春したこともないし、その方面からいうと、背徳的でなかっただけのことなのに、彼らに比して見ると、なんとなく自身がまれにみる聖人だなと思えてくるから不思議である。もうその能力もないから、久米仙人とちがって、今生では、聖人確定である。この確定、喜ぶべきなのかも知れないが、単に若いころから性には若干関心が低かった(その何倍もモテなかった)だけにすぎず、喜ぶ気にはなれない。ウェブ「2ちゃんねる」を見ると、いい年をして童貞・独身という者がかなりいるようである。小生は、おそらく、世代は違うが、その同類のような気がする。われわれの時代は、まだ、周囲に世話好きがいて、巧みに見合いをすすめたので、それに乗って、結婚し子供を作っていた(小生も、伯母がしつこくすすめなかったら、結婚してなかったろうと思う。大体、哲学などやろうという者は、まともな社会生活の能力がないのが普通である。小生の属していたドイツ哲学の小講座でドクターまで残った同期生は4人いて、一応皆研究者として生きてきたが、小生以外の男女3人は、いまだに独身貴族である。70歳台のこと、いや一人は80になっているかも知れない。恐らくもう誰も結婚はしないであろう)。その昔は年金も公的介護もなかったから、老人になるまで生きようという者は、自分で子供をつくってその保障を自身で作る必要があったから、結婚というか、子供をつくることは必要だった。子供のいない爺婆は、悲惨だった。『一寸法師』も『たにし長者』の話も、子供を神に祈ってまで求めたことである。が、いまはその必要はない。しかも、世話好きがいなくなったので、小生のような種類の人間は、多分、独身で通すことになるのであろう。

 背徳というと、「酒、女、ばくち」を我々の世代では言ったが、その酒も小生飲まない。これも、禁欲の努力をしていたのではない。缶ビール一本飲んだぐらいで真っ赤になり飲みたくなくなるだけである。それでも、うちに置いているビールの賞味期限があるので、お好み焼きを食べるときだけは、一本飲む。年間、10本もいかないだろう。ばくちは、疾風怒濤の、というともっともらしく聞こえるが、やけくその若い時分、一応、やってみたが、何をやっても、だいたい敗けるばかりで面白くもなんともないから、やめた。宝くじにすらも手を出さない。つまり、いずれも、禁欲的に意志して自らが聖人になろうとしたのではなく、能力や運に欠けていて、のめりこみようがなかっただけなのである。が、結果的には、この歳になってみると、まるでそういう方面には無縁だったから、こころがけは、間違いなく反聖人の邪鬼なのに、身体的には聖人で通してきたことになる。これでも、やはり、聖人ということになるのであろうか。

短気・狂気の若いころは、終始不機嫌で、心は荒み切っていたし、この長い人生においては何十万の生命を犠牲にして尊い鳥獣魚を罪深くも食べ続けた(最近でも、つくだ煮とか、お茶うけ・つまみで、幼くしてその尊い命を絶たれた小魚を、そのがんぜない姿のままで、毎日30匹以上食べている)。地獄にいくこと必定と思っている。それでも、極楽の限界集落化は甚だしいから、芥川の「蜘蛛の糸」ではないが、「酒、女、ばくち」での、自身の精進・努力一切なしをもっての聖人確定の事象だけをもって、そこへ逝くことになるのかも、とも思う。後半生は、旅行もなし外食もなしで、現代日本人としては質素すぎる生活でもあった(焦眉の食料・環境問題のためにこの上ない生き様であったように見えもする。もっとも、これも、治ることはないという潰瘍性大腸炎のために身体が旅行等を拒んでいただけである。美食も、禁欲していたのではなく、外食は、若い時のアルバイト経験から、不潔と感じて、足が向かなかっただけである)。極楽は、どうみても現代人がいけるところではないから、当地の仏たちは、コロナ禍の商店街どころではなく閑散としていて困りきっているはずで、小魚の大量殺戮への加担など現代人にしては罪は軽いということで、消滅の危機にある極楽から誘いがあるかも知れない。しかし、罪深いことを重ねて来たという後ろめたさがあることで、親戚・親友など皆地獄で待っていてくれることだし、やっぱり極楽はことわって地獄に行くかな、などと気楽なことを考えている今日この頃である。

 




























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