苦痛の価値論
-忍耐における苦痛の意味と意義-
近藤 良樹
1.苦痛の定義
2.苦痛とその区分け
3.苦痛の価値論Ⅰ-自然的な「苦痛の反価値論」
4.苦痛の価値論Ⅱ-苦痛は、価値創造のための手段価値
5.苦痛の価値論Ⅲ-苦痛は、主体の能力を創造する価値
7.苦痛の価値論Ⅴ-世界観を創る苦痛
(以上のように展開していく予定)
1.
苦痛の定義
忍耐は、生の損傷(有害なものによるダメージや、好ましいものの欠損・ロス)と苦痛(辛苦や苦悩なども含んだ苦痛感情)を対象にする。自然は、苦痛・損傷を回避して生を保護しようとするが、忍耐は、この自然に逆らい、これを超越し、この損傷・苦痛をあるがままに受け入れ甘受しつづける。忍耐のもとでの苦痛の理解は、苦痛回避の一般からは少し異なったものになる可能性がある。
まず、苦痛の一般的な手短な定義としては、「苦痛とは、損傷(傷み)への放置しがたい不快感情(痛み)である」と言っておけるであろう。痛みのない損傷はあるし、損傷不明の苦痛もあるが、原則的には、損傷あっての痛みである。忍耐は、この放置しがたい苦痛の持続に耐えるのだから、苦痛の特性のうちで、耐えがたいものが目立つことになろう。苦痛の回避も排撃も抑制しての苦痛持続への我慢となると、苦痛での嫌悪や焦燥が増すだろうし、長い苦痛には、徒(いたずら)に踠(あが)き、悶(もだ)え、やけになって当り散らすこともある。これらは、一般の苦痛への関与では特殊的かもしれないが、苦痛の持続となる忍耐ではしばしば顕在化する。なお、苦痛は、精神的には「辛苦」で代表されようが、生理的な疼痛などを含みあらゆる不快感情を代表するものとしては、「苦痛」にまとめておいてよいであろう。忍耐の挑戦対象という方面からは、さしあたり次のように苦痛は特徴づけることができるのではないかと思う。
「苦痛は、身体や精神に生じた損傷への放置しがたい不快感情(痛み)である。生の防護感情として苦痛は、損傷を前に、緊張、拒否・嫌悪を生じ、萎縮、抑鬱状態となり、不安、焦燥、虚脱等の反応を見せる。さらに、徒に踠き悶えて疲弊を招来もする」
さらに、苦痛は、その意義、価値論の方からも捉えられる。価値は、これに関わるものに、資するもののあること、求めを充たすもののあることであろう。価値ということでは、苦痛は、当人において嫌悪され排撃される反欲求の代表といってもよく、根本的に反価値である。だが、痛みがあることで重病が発見され命拾いするのであれば、その苦痛は、診断、情報の価値をもつのである。この価値・反価値という苦痛の意義は、つぎのようにこれをまとめておけるのではないかと思う。
「苦痛は、嫌悪・拒否され生にとり根源的な反価値であるが、意識を刺激し覚醒させる覚醒価値となり、損傷への情報・予防・警告等の価値をもち、つねに苦痛には気がかりを維持させられ、注目へと強要する価値をもつ。さらに苦痛は、快を際立たせたり、ときに湧出もする。苦痛忍耐の方から見ると、甘受される苦痛は、目的実現へと駆り立てて価値創造のための手段価値となり、ひとを鍛えて能力開発に導く価値になる。苦痛を回避しないという自然超越によっては、ひとの卓越した自由が証され、苦痛は、人間的尊厳を可能にする価値ともなる」
1-1. 損傷への苦痛
苦痛は、生の損なわれていること、傷ついていることを感じとって、生防衛のための反応をする。まずは、損傷が生じているという価値づけ、判断がそこにはある。精神的なものでは、価値の喪失とか、反価値の襲来といった価値判断がある。生理的な場合は、傷害が加えられて、痛覚を刺激する物質を損傷の部位で出し、これを神経終末端が感受して、その痛覚刺激を脳の中枢において、「手の鋭い痛み」とか「足の鈍痛」といったかたちで判別している。損傷とは、危害が加えられて傷つきダメージを生じていること、あるいは、価値あるものが剥奪されたり欠損の強いられる損失・ロスを生じていることであり、苦痛は、その損傷の部位に定位した緊急信号を発して、生の個別主体に火急の対応を迫るものになろう。
損失・損傷では、苦痛と感じられるものとしては、その生の安寧が、無視し難く脅かされた状態になっているのである。皮膚は、外的刺激の一定の閾値までは、痛みを生じない。それが生じるのは、その皮膚が組織を侵されて真っ当な機能の損なわれるような強い破壊的な作用の加わることをもってであろう。そう生が受け取るところに損傷・苦痛が生じる。堅い甲羅とか爪なら、相当の針の圧力でも傷つかないから、苦痛とはならない。だが、やわらかい皮膚だと少しの圧力でも傷ついてしまうから、そこでは、損傷が発生し、苦痛が生じる。各個別的な生の様態にしたがって、固有の損傷となり苦痛となる。
精神的な生の損傷は、たとえば、肉親の死という喪失は、その亡くなった者への思いしだい、解釈しだいで、同じに見える喪失であっても、異なったものとなる。大きな喪失と思えば、その苦痛・悲痛は、大きくなる。逆に、とんだ厄介者であったのなら、喪失とは価値づけされず、逆に反価値が消滅したことと捉えられて、「逝ってくれて清々した」と苦痛どころか安堵の感情を抱くことになろう。その生にそれが損傷、ダメージや喪失と解されるかどうかということがまずあって、損傷と解されてはじめて、それへの心身をもっての反応として苦痛は生じる。
1-1-1. 身体各部位での損傷を指し示す苦痛
苦痛は、感覚としては、損傷を受けている部位からの痛覚刺激をもってするもので、その手とか足とかの損傷した部位に定位した痛みとなる。外的な傷害は、皮膚にもたらされることが多く、皮膚には痛覚が存在して、ある閾値以上の傷害を生じるような強い刺激に反応して痛みを感じる。苦痛は、感情としては、主体からの嫌悪等の反応をもってするもので、各個別主体自体の「私」の感じるものになるが、痛覚の方、感覚としての苦痛は、脳に刺激を受け取って、私という個我主体ではなく、その生じた傷害の部位が、「足が痛い」「手首が痛い」等と感じる。
内臓も損傷することがあるが、損傷を受けても外傷のように自身でなんとかできるものではない。内臓の損傷に苦痛をいだいてうずくまり無駄に苦しむような生は、生存競争で淘汰されたことであろう。「おなかが痛い」とみんな顔をしかめるが、内臓自体には痛覚はないのだと聞く。それでも、胃が痛み、心臓が痛む。内臓の損傷が激しくその周辺部の痛覚のあるところにまで損傷の影響が出て痛みとなるのであろう。胃の場合は、だいたい胃があるらしいところの痛みと感じるが、心臓の場合は、心臓自体より、肩が痛いとか腕が、胸が痛いというようなことになる。生理的な苦痛は、痛覚の刺激が脳に伝えられて、各部位に還元した痛みとなるから、脳内でアレンジされる度合いも大きい。顕著な外傷が生じていても、それどころではない事件のもとでは、脳はこれを無視することになって、その部位の損傷の苦痛は、感じないことにもなる。大きな事故に遭遇したときなど、足に大けがをしていても、落ち着けるまでは、これに気づかない。
生理的苦痛は、身体の一定の部位の損傷に発する痛覚刺激をもって苦痛を抱くのだから、当人に限定されるものだし、自分のものであってもその財貨の損傷などについて苦痛を感じることはない。だが、精神的生では、自身の有するあらゆる価値あるもの(身体のみか、財貨とか名誉・地位等)の損傷に対応して、これを苦痛と捉え、かつ、個我を超えて、家族・共同体を、拡大した自己とみなして、自分の家族等のその損傷を共々に感じることにもなる。子供の将来への心配とか、兄弟の破産とかを、当人と同じように、場合によっては、当人以上に(その価値喪失をよく知ることがあれば、より強く)損傷ととらえ、自らに苦痛・悲痛を抱くことになる。
1-1-2.
苦痛の感情は、損傷との解釈と、生防護の反応からなる
感情は、感覚等の情報をふまえその事態の自分への価値・反価値を解釈・判定して、その価値判定に見合う個我主体の心身反応をもつ。怒りの感情なら、相手のことを気障りと解し判定して、これに懲罰・攻撃を加えようといきり立って身体的に反応する。悲しみなら、自分への価値喪失が生起したと判定して、これに自己防衛的に対応し、身体的に萎縮し血流を滞らせ自己閉鎖的にと反応をする。
身体をめぐっての苦痛の感情は、苦痛の感覚をもって、個我主体が損傷との解釈をして、これに緊張・嫌悪や抑鬱の反応をし、不安や焦燥、ひどくなると虚脱の反応までする。その反応は、生の防衛反応であろう。そう反応するのは、生が損傷を受けたと判定しているからである。生理的な場合、苦痛刺激が生じてそこが損傷を受けているという情報をその部位が発する。「手が痛い」という苦痛の感覚である。そのことで、「手」ではなく、(心身全体をもって緊張等の反応をして)「私は、苦痛だ」「私は、苦しい」というのが苦痛の感情になる。苦痛の感覚と感情は、ずれることもある。放尿では、これを我慢しているときは、尿意は、緊張・焦燥等の苦痛の感情となる。放尿しはじめると、そこにしばらくは苦痛(感覚)が残っているが、これは、苦痛の感情反応にはなっていかない。逆に、その放尿中の残存する苦痛は、ほっと安堵しての快感のなかで、解放感を確かなものにする、心地よい苦痛(感覚)になる。
精神的な苦痛・苦悩は、その主体が価値あるものを奪われたり損傷を被ったところに抱く。個我にとっての損傷(肉親の死、財貨の損失等)との判定をまず知性が行う。そのうえでこれに個我主体として対応、感情的反応をする。苦痛(感情)は、損傷を前に防衛的な、あるいは、排撃的な反応をし、萎縮したり緊張の反応を見せる。あるいは、その損傷から遠ざかりたいと、これに嫌悪感を生じ回避の反応をもったりする。苦痛の感情は、単に損傷との判定・解釈をするだけでは成立しない。これへの生主体からの萎縮や拒否・排撃等の反応・対応をもっているのでなくてはならない。
怒りでは単に気障りと判定しているだけでは怒り(の感情)にならない。困ったことだと見つめるだけで心静かである。身体がむらむらとし熱気をおびて攻撃的に反応してはじめて怒りとなる。肉親の死を前にしたとき悲しむのが一般だが、死を冷静に受け止めるだけでは、悲しみにならない。それを喪失と価値判断するのでなくてはならない。かつ、身体がその喪失に見合うように反応して、萎縮し虚脱の様相をもち、目頭を熱くするようなことがあって、つまり、身体が泣くことをもって悲しみの感情は成立する。身体の反応が感情には必須であり、ときには、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだということがあるぐらいである。
1-1-3. 苦痛を生じる損傷には、広くは欲求不充足も含む
忍耐は、外的な損傷による苦痛を対象にするが、それがすべてではない。もう一つの大きな対象領域として、内から生じる欲求・衝動に対する忍耐がある。欲求を抑圧するとき、そのことが辛くなると、忍耐ということになる。外的な傷害は、ほぼ苦痛となるから、これを受け止めるには、忍耐がいる。内的欲求の不充足の場合は、充足を思って楽しみなのであれば苦痛ではなく、その限りでは忍耐はいらない。だが、その欲求(の不充足)が大きくなると不快・苦痛になり、そうなると、欲求不充足を続けるには、苦痛甘受が、忍耐が必要となる。
欲求不充足は、欠損の自覚をもつことで、広くは損傷と見なせるであろう。また、外的損傷も、その個体が求め欲するものについての損傷であることが多く、その欲求が侵されているともみなされ得る。その生にとって価値があって欲求対象であるものについて、それが破壊されたり奪われて損傷になるのであれば、この損傷の苦痛は、欲求についての不充足の苦痛ともみなせるであろう。その個体のもとにあるものが破壊されたり剥奪されたとしても、もし、そのものを欲していなかったのなら、あるいは、むしろ、余計なもの・お荷物と解していたのなら、その剥奪は、ごみ処理をしてもらったということになり、快であっても、不快や苦痛をもたらすものではない。それは、かりに物理的には破壊や消失であったとしても、精神的社会的生にとっては損傷とはならない。当然、そういう事態には、忍耐は無用である。苦痛・不快になるのは、価値あるもの、欲求の対象であるものが破壊されるなどして損傷をうけてである。欲求しているものが不充足になって、そのことで欠損、喪失を意識するなら、これを損・損傷と感じる。反欲求の対象の破壊・剥奪は、損傷ではなく、利得・取得であり、求め欲求することである。欲求するものの破壊とか不充足が損傷となる。
忍耐は、苦痛にするが、その苦痛は、損傷によって生じる。この損傷は、まずは、外的な損傷であろうが、欲求の不充足も広くは損傷のうちに含めて良いのではないか。求め欲するものが不充足になるのは、価値あるものの欠損を感じてであり、価値あるものについてマイナス状態になり傷つけられることをもってである。つまり、欲求の不充足状態は、欠損、あるいは価値物を壊され傷つけられるものとして、損傷ということになる。忍耐は、欲求不充足に生じる苦痛・不快に耐える。欲求不充足が損傷となって苦痛をもたらし、この苦痛に忍耐するのである。忍耐の対象は、苦痛である。その苦痛の生じるもととしては、外的損傷があり、しばしば欲求の不充足があがるが、後者も、広くは、損傷のうちで捉えて、忍耐は、(両)損傷で生じる苦痛にすると言っておいて良いのではないか。
1-1-3-1. 忍耐は、苦痛にすると言い切れるか
心のうちにあるものの表出を抑止して我慢することは、よくある。悲しみは勿論、快の喜び・笑いでも、これらを我慢するということがある。怒りも、「堪忍袋の緒が切れる」のを抑止して、これをうちにしっかりと閉じ込めて忍耐する。忍耐は、苦痛にするが、苦痛だけに還元して済ますことができるのであろうか。怒りとか笑いは、そのものとしては、苦痛ではなかろう。だが、これらを我慢する、忍耐するということがある。
怒りは、攻撃して相手に苦痛を与えるものであって、自分が苦痛を被る営為ではなかろう。それでも怒りを我慢するとよくいう。これを忍耐するとき、肝心なことは、これを相手にぶつけないよう怒りの表出を自身に禁じることであろう。怒りの攻撃衝動をうちに抑え込んで外に出さないことである。うちではむかつきイライラし罵声を浴びせたいといった衝動・欲求をもつ。これを、うちに抑え込む。一方には、攻撃衝動があり、他方では、理性意志がこれをしっかりと押さえつけるという葛藤状態である。辛さは、ここでは、衝動がうちで悶々とすることと、意志が、怒りの出てこようとする場面の一々をしっかり見張りこれを出さないようにと抑えることの煩わしさ・苦痛であろうか。いずれも、不快であり、苦痛であろう。怒りの忍耐は、そういった苦痛・辛苦をそのままに受け入れ続けることである。かりに、攻撃衝動をうちに閉じ込めておくことが苦痛でないのなら、つまり攻撃的なゲームでのように「わくわく」として快であるのなら、忍耐はいらない。押さえつける意志が辛くないのなら、忍耐とまではならないであろう。忍耐は、やはり、怒りでも苦痛にするということになろう。
笑いは、快に属するが、これも、ときに「笑いを押し殺して我慢する」と忍耐するものとなる。それは、楽しさ愉快さをいだく中でのことで、その忍耐は、苦痛ではないようにも思える。だが、やはり、苦痛があっての忍耐であろう。つまり、笑いを堪えて忍耐するという特殊な場面は、笑いの表現を慎むべきときであり、それの表出欲求・衝動を抑えるときにいう。うちからは出したい笑いであるが、これを抑える意志は、その自然衝動を抑圧する。葛藤状態になる。ストレートに出せれば愉快なこと、快である。それを出さないようにと自身の意志で抑圧するのである。それが辛ければ、苦痛になれば、我慢・忍耐ということになる。怒りとは違うが、同じように内面を偽り、外面を取り繕うのである。内面を抑圧する辛さと、外面を偽り取り繕うという作為の辛さである。忍耐は、やはり、苦痛の存在するところにいうのである。
1-1-3-2. 欲求での強い不充足感も、やはり苦痛(苦しさ)であろう
欲求忍耐での不充足感は、苦痛とはちがうように思われなくもない。美味の料理を待つ間は、待ち遠しいが、楽しみで快である。だが、そこで不充足感が大きくなると、イラつき不快となろう。それを耐えるのは、不快・苦痛への忍耐であろう。
日々の欲求・衝動の我慢で辛いものに尿意がある。尿意に気づいても、不快でなければ、忍耐は無用である。尿を我慢しはじめるのは、尿意が強くなり、苦痛が生じて、その苦痛にじっとしておれなくなってであろう。抑えることがつらくなり、尿道あたりが痛むことになってくる。この痛み、苦痛に、尿意でも忍耐するのである。さらに、尿意の我慢では、それとは別の辛さ・苦痛がある。出ないようにと抑止することの辛さ・苦しさである。放尿を抑制することに、その衝動の抑制に意志を集中する。尿道を締める随意の筋肉に働きかけるが、その筋肉がどこにあるのか分からず、随意になる足の根元を締め付けてみたりする。そのときの困難さ・辛さは、尿意の痛みとは別のものである。が、苦痛であることはまちがいなかろう。尿意という欲求・衝動を抑止するときの忍耐の対象は、尿道の生理的苦痛であり、さらに、意志が抑止しつづける苦痛である。いずれも、苦痛に耐える。
呼吸は、随意にもなり、息を止めておくとその欲求が大きくなる。この欲求・衝動でも、忍耐が言われるような場では、やはり苦痛が登場する。これの抑止のしはじめは、息をするより楽だが、続けていると、だんだんと息苦しくなる。耐えるのは、その息苦しいという苦痛にである。呼吸欲は、マズローの生理的な欲求(needs)に属するが、それを抑止する忍耐で意識するものは、呼吸の欲求・衝動の抑止であるより、息できないことの苦痛であろう。呼吸欲を抑止する忍耐だが、食欲のように、食べ物が欲しいというのとちがい、息したい、空気が欲しいという欲求は、あまり感じないのではないか。苦痛が前面にでて、息苦しさ、苦痛を解消したいという衝動が圧倒的になろう。この欲求では、欲求を抑えることにではなく、忍耐は、息苦しいという苦痛にする。
欲求というと、快への強力な欲求である食欲と性欲があるが、これらへの我慢・忍耐は、快楽を抑制することで、苦痛を受け入れることではないと思われないでもない。だが、食・性の快楽を抑止するものは、忍耐ではなく、まずは、自制、節制である。その自制において、これに不快・苦痛が生じて、これを甘受すべき時、はじめて忍耐は登場する。ここでも忍耐は苦痛にするといって良い。美味のものを過食しそうなとき、この快楽を抑止するのは、自制、節制である。過食分をサバとして小鳥に与えながら、さわやかで心地よければ、忍耐は無用である。その自制に苦痛が生じるときにのみ、苦痛甘受の忍耐が必要となる。
性欲も同様だが、この快楽自体の充足は簡単で自分でもできるから、自慰を嫌悪しない現代社会では、自制も忍耐も無用である。第一、食欲とちがって、異性が身近でなければ(刑務所など)、性欲は消える。性の欲求での自制・忍耐は、社会的欲求になっている場面でのことである。恋・失恋、結婚・離婚では、社会の維持のために厳格な秩序・規範の堅持が必要で、その遵守のために自制を行う。結婚に向けての自制は、楽しみの中でのことになるが、離婚での自制は、辛いことになり、怒り・絶望・悲嘆等の苦痛を甘受しなくてはならなくなる。辛い自制となれば、その苦痛への忍耐が必要となる。
1-1-3-3. 傷害と欲求での苦痛の生じ方のちがい
忍耐は、辛苦・苦痛にするが、その原因としての外的な損傷は、そのはじめから苦痛で、内から生じる欲求の場合は、はじめは快であったり何でもないものが、欲求の不充足感が大きくなるとともにだんだんと苦痛・辛苦になっていくようなことがある。外的加害とちがって、欲求とか衝動は、自分のうちから生じるもので、それの生起のはじめから意識できる。はじめは、欲求は小さくて、まだ不充足感もいだかず、あるいは充足の未来を描いて楽しみとする。だが、しだいに欲求が大きくなってその充足のできないことが続くと、だんだん不充足への不快感が生じてきて、苦痛にまでなっていく。この段階から、欲求の抑制は苦痛として忍耐の対象となる。欲求の場合は、苦痛となり忍耐になるのは、その不充足感が大きくなる途中からということになる。
これに対して、加害による外的な損傷の場合は、はじめから苦痛となり、したがって、はじめから忍耐の対象になる。加害が突然になることは、多い。突然、損傷が発生し、突然に苦痛の発生となる。が、外的な加害も突然に生じるとは限らない。接触している針などの圧力がだんだん大きくなり、皮膚に損傷を与えるまでになるというようなこともある。そういう場合は、はじめは、針の存在が分かる程度であり、苦痛ではない。それの圧力が大きくなって皮膚に食い込むほどになると損傷を発生させ、痛覚が作動して苦痛となる。欲求の通常と同じく、あるレベル、閾値を超えたところからが苦痛になり忍耐になるという場合もある。
外的なものは、接していてもはじめは気づかないこともある。欲求なら小さくても一応意識される。意識されないものは、欲求となっていないということになる。だが、外的なものは、刺激を生じないなら、着衣や空気のように、その存在には気づかない。気づくのは、苦痛刺激になってから、傷害が発生してからということになる。こういう場合、欲求はだんだんと不快になり苦痛になるが、外的損傷の場合は、突然にということとなる。しかし、欲求や衝動も突然ということがときにはある。急に尿意が生じるとか、急に便意が生じることがある。いやなものを排除したいという欲求、つまり、反欲求は、傷害による苦痛と同じで、はじめから不快・苦痛である。したがって、はじめから忍耐の対象ということになろう。
1-1-3-4.
忍耐の苦痛は、忍耐(意志)自体の辛さも加わった苦痛
苦痛を忍耐するのだが、忍耐するという構え自体も、さらに、苦となって、辛さをます。「忍耐は、つらい」という。忍耐の対象は、辛さ・苦痛になるが、さらに、その忍耐すること自体が、その意志が、辛いもので苦痛になるということであろう。忍耐は、苦痛という拒否したいものを、あえて自身の感性に抗して受け入れる。身体損傷等の苦痛を受け入れる。さらに、それから逃げようとする衝動を抑止するから、この抑止の意志が辛いことになる。尿意の忍耐では、尿を急かせる苦痛があり、これに耐えるのだが、さらに、耐えるといっても、どこをどう抑制したらいいのか、尿を抑止する随意筋が不分明で意志は種々試みて大汗をかく。そのいらだたしさ、焦燥に耐える。尿意自体の苦痛とは別の苦痛である。平静を装ったりもすれば、偽りの外面を作る苦痛も加わってくる。
「耐えがたきを耐え」「忍びがたきを忍ぶ」という。「耐えがたき」もの、「忍びがたき」ものとは、忍耐が対象とする苦痛・辛苦である。それを意志が「耐え」「忍ぶ」。この耐え忍ぶ意志の営為自体が、さらに、辛く、苦しいものになる。忍耐し始めると、辛さは増してくることが多いから(ものによっては慣れて苦痛でなく平気にあることもあるが)、この増大する苦痛・辛苦を一層強く耐えるという必要が生じる。一層「耐えがたき」「忍びがたき」ものとなる。かつ、これを耐える意志自体も、より一層力んで集中していく。おそらく、辛さがましてくると、もう諦めようと忍耐の断念を思うようにもなってくる。その弱気を打ち消して意志を堅固に持ち続け、「耐え」「忍ぶ」意志力の貫徹が求められる。
禁煙は、辛い。忍耐がいる。それは、禁断症状の苦痛に耐えることである。中毒しての大きな喫煙欲の不充足の苦痛に耐える。かつ、そういうことを持続させるために意志が種々の方法をもって苦労をしていくことになる。気を抜くと喫煙欲が顔を出し、屁理屈をもって喫煙へと向かおうとする。それを意志は、抑えて、喫煙欲自体が消滅するまで、禁煙を持続させていく。喫煙欲求の不充足の苦痛は、ほんの2,30分もすれば、消えていく。だが、禁煙を遂行する意志は、喫煙欲が生じないようにと、注意し工夫をして、アメをなめてみたり、壁に禁煙中との張り紙をしてみたりと、喫煙欲が消滅するまで、その煩わしさ・辛さにずっと耐えていく。
1-1-4. 苦痛の放置しがたさ、気がかり
生個体は、周囲の環境に支えられこれを利用して営まれる。だが、ときに、その生が脅かされ損傷を受けるような事態にもなる。そういう危機的な状況になると、これに意識を集中して対処することが必要になる。損傷には、生保護のために、それへの注目、その事態の回避といった危機への緊急の対応を必要とする。その中心になるのが、苦痛という反応である。
無視してもよい平穏な事柄なら、一旦そのことが生起してこれに注目したとしても、意識は、すぐに別の方に気を向けたり、注目をやめて、のんびりできる。だが、苦痛は、損傷が生じると間髪を入れることなく、即、意識をそこに向け、しかも、その苦痛の解消がなるまでその注視を持続させる。生の損傷を苦痛は知らせているのであり、損傷の解消まで、苦痛は、警告を発し続ける。針状のものに触れて痛みが生じれば、即、手を引く。手を引かないなら、引くまで痛み続ける。歯痛は、歯が炎症を起こしていることを知らせる。炎症があるかぎり、痛みを発し続ける。何日たっても歯痛はやまない。痛む限りは、これにひとは気を奪われつづける。苦痛は、これを放置することを許さない。ついには、歯痛に根負けして、歯医者へと治療に出かけることになる。苦痛があり、これが無視・放置できない苦痛を発し続けるから、苦痛消滅の治療にまで進むのである。
苦痛の反対極にある快の場合、快は生が順調で良好な状態にあることを語るから、これは、放置しておいて良い。なにもしないで享受しておればよく、意識は、ことさらにすることはなく、弛緩しまどろみ眠りにさそわれる。だが、苦痛は、逆であり、危機に出くわしているのである。最新の情報に注目しつつ細心の対応をすることが求められる。つまり、苦痛は、まどろみをさそう快とは逆に覚醒をもたらす。眠ってはいけないとき、目覚めなくてはならないとき、ひとは、痛覚を刺激し、苦痛になるような音を利用する。
小さな苦痛(損傷)のあるところに別の大きな傷害が発生すると、意識は、後者の苦痛にと向かう。もとの苦痛は意識から消失して無意識化する。だが、大きな傷害が片付くと、また無視しがたいもの、放置できないものとして、はじめの苦痛(損傷)が意識に浮上してくる。苦痛がまた自覚されて、ひとをとらえ続ける。歯痛は、ほかの火急のことがあれば、それに意識が向かって、歯痛は一旦は忘れられる。だが、事が片付くと、また、歯痛が気になってきて、しつこく反復持続する。処置するまで苦痛は放置を許さない。
1-1-4-1.
苦痛に慣れると、それが止んだり穏やかになる場合もある
苦痛は、損傷を知らせる。その損傷が消えれば、苦痛も消える。針で刺せば痛むが、傷が深くて損傷を残すのでなければ、針を取り去ると痛みも消える。だが、損傷を残したりそれが持続していても、苦痛の消失することがある。苦痛の原因である損傷に対して、生体がこれを損傷としないような力能を身につけることがあるからである。抵抗力・免疫ができその損傷を損傷としないように強固な能力を得て適応することができる。心身の力がつき、損傷・苦痛をふきとばす。
苦痛に忍耐することを反復していると、ふつう、苦痛に慣れてきて楽にもなる。苦痛は同じだとしても、忍耐する心構えができて、同じ苦痛刺激であっても、受け入れを平常心で行えるようになる。病気がちのひとは、注射や薬に慣れなくてはならない。毎回、同じように痛むとしても、反復しておれば、「こんなもんだ」と慣れてくる。元気な医者知らずの者は、注射が恐怖であり苦痛だが、毎週でも病院に行かねばならない病弱な者は、慣れていて注射など平気であろう。苦痛は主観的なものなので、状況次第で相当に感じ方は変わってくる。慣れた苦痛には、普通は、苦痛反応の緊張とか萎縮等を小さくするから、苦痛を小さく感じることになる。
生は、損傷を前にこれを損傷としないような大きな能力を身につけ、それを苦痛としないようになるが、欲求不充足の苦痛も、慣れてくると苦痛であることをやめたり小さくする。呼吸の場合、これを停止していると苦痛が大きくなるが、その経験の反復でその苦痛には慣れてくるだろうし、何より能力が高まり、呼吸を停止していても、より長い間、苦痛を感じないようになる。食欲の場合、贅沢な美食を常としている者には、粗食は苦痛となる。が、贅沢な欲求の不充足に慣れてくると、欲求が小さくなり、粗食で充足することになっていく。貧困は、富裕状態からそうなった当座は苦痛であろうが、すぐに慣れる。金銭の思うようにならない状態を繰り返しておれば、これを平常のこととみなすようになり、平穏な気持ちで受け止めていける。ひとの適応能力は大きい。
1-2. 苦痛における緊張、拒否、嫌悪感
苦痛は、損傷をもたらすものに感じる。生に損傷の発生していることを知らせるのが苦痛である。臨戦態勢を即確立すべき事態が発生したということであり、心身は、覚醒し緊張状態をつくる。そして、この危機的状態を解消するための反応をもち、その損傷・苦痛を拒否し、これに距離をとろうと嫌悪の反応をもつ。
快が生じているのであれば、これを受け入れて楽しみ、のんびりとし、まどろめばよい。その反対が不快であり、その強烈なものが苦痛である。意識は、これを前にすると、直ちに身構えて緊張することになる。痛みがあるとは、損傷が現に生じているということであり、損傷を抑制しこれを最小限にと押しとどめる緊急の対応が必要となる(その対応に鈍なものは、損傷を大きくし、生に不利で、淘汰されていったことであろう)。苦痛を感じた者は、ただちにこれに反応する。快の場合は、悠長にかまえて対応してよいが、苦痛は危機的状態になっていると知らせるのであり、即刻の機敏な対応が求められる。快は、心身を弛緩させ、苦痛は、これを緊張させる。
緊張して身構えるのは、それ以上の損傷を被らないようにと対応するためである。筋肉等を即発動できるようにと身構え、身を固くして緊張した防護の態勢をとる。意識を覚醒し注意を喚起して臨機の対応ができるように緊張する。意識を張りつめていく。覚醒させる苦痛だが、単なる覚醒ではない。感動させるようなものを前にすると、意識は鼓舞され覚醒させられよう。だが、その覚醒は、快感であって苦痛ではないであろう。苦痛での覚醒は、危機的な事態生起への注目の強制である。この覚醒は、危機への対応を迫るもので、損傷を認識するための覚醒のみでなく、損傷への実践的な構え・対応への緊張した覚醒である。苦痛は、危機的状況への防衛的な緊急の対応をと覚醒する。損傷に拒否的に構え、それと距離をとろうと嫌悪感をもって心身を防衛的に緊張・覚醒させる。
1-2-1. 苦痛における拒否、嫌悪感
苦痛・損傷は、生にとって大きなマイナスの状態であり、当然受け入れたくはないものである。すでに生じているその損傷を排除し、その苦痛を無化したいという拒否への衝動をもつことになる。すでに実在的に被っている苦痛と損傷だが、観念的には受け入れの拒否を持続させて、可能ならば、実在的にこれを排除しようとし、それ以上の受苦とならないようにと拒否的にふるまう。苦痛の感情は、損傷への心身の反応であり、その感情自体において、この損傷を拒み、絶ちたいという反応を含み持つ。許可・許容の反対の拒否・拒絶の反応である。やけどしそうな熱いものに触れると、痛むと同時にそれから離れ、これを拒絶しようとする。苦い有毒と感じられる苦痛の味わいは、即、それを吐き出して拒否しようとの反応をもつ。精神的苦痛も同様である。ひどい仕打ちと思えば、不愉快で苦痛になって、この仕打ちへの回避的な反応を、排除・拒否の反応をもつ。
損傷も苦痛も回避したい事柄であり、遠ざけておきたいものであるが、それが生起しているのであり、不快極まりなく、嫌悪感を生じる。快であるものには、惹かれ魅了されて、わがものしたく好意的にかかわり近づきたいものになる。その反対が不快・苦痛への嫌悪である。生を傷めつけ痛みをもたらすものは、できれば避けておきたいものである。近づけばこれに嫌悪感をもち、それに回避的反応をもつ。嫌悪する対象は、自分にとり反価値・反欲求で、見るのも嫌なもので、遠ざけたいものである。好きなもの愛するものとは、ひとつになりたいが、その反対の嫌い、憎悪するものは、自分のもとから排除したい、なくしたいというものになる。嫌悪の対象は、息をともにするのも嫌なもので、その接近を拒否し、その対象に触れて汚されることを回避したいのである。密接の状態では、それの侵入を何としても回避・排除したいと苦渋の顔をする。ただし、嫌悪は憎悪とはちがう。憎悪は、その対象の存在自体が許せず、仕打ちを受けたその対象を抹殺するまで持続する秘された強烈な情念である。だが、嫌悪は、遠方に存在すること自体は許容している。近接を拒否するだけである。遠ざけて無関係にしておこうとする拒絶の感情である。
1-2-2. 苦痛は、拒絶・嫌悪の表情をつくる
損傷の発生を警告しこれを拒否する苦痛であるが、その危機への対応ということなら、情報を最大限受け入れるために目を見開き、耳をそばだてる驚きという反応になってもよさそうだが、苦痛の顔は、そうはならない。もっと大きな火急の事態が苦痛では生じているのである。しかめ面、苦渋の顔をする。損傷・苦痛を受け入れたくない拒絶したいということがトップになる。拒絶・排除が第一なので、顔面において侵入を許す目・口・鼻を閉じたり小さくして、被害を小さくし、できれば排除しようと、しかめ面となる。苦渋の顔は、苦いもの渋いものという、受け入れたくない有害・有毒なものを感知しての味覚の反応に基づく。
嫌悪の顔は、臭いに鼻をゆがめ、一緒に空気を吸うことも回避したいとの反応であり、顔を背けて横目で見降ろすものになろう。好ましいものなら、正面を向き接近して受け入れようとするが、その反対で、これを拒否して横を向く。顔を背けつつ、「失せろ」と横目で睨む。遠ざけておきたいのである。嫌悪は、接近を拒絶する。口に入れて苦渋となる以前に、嗅覚、視覚において受け入れがたいと判じる。
もちろん、うちに閉鎖してそとからの情報を絶ってしまうと、一層の損傷も生じかねないので、拒絶の苦渋・しかめ面をし、嫌悪で顔を背けつつも、目は接近を警戒して拒否すべき対象を凝視しており、損傷に関しての覚醒し緊張した意識状態を保持している。単なる驚きの感情の場合は、その対象は未知のもので、奇怪なものが外からやってくることで、目を見開き、耳をそばだてる。だが、苦痛の場合、その対象は、自分の損傷であり、その苦痛は現に自分の心身のうちに生じていることである。そとへの視聴覚をフルに活動させるような対応はしなくてもよい。すでに被っている損傷・苦痛について覚醒し緊張して意識を集中することが大切で、感覚の遠隔受容器、視聴覚をもって目を丸くし耳をそばだてることは必ずしも必要がない。横目で見降ろし、渋面・しかめ面で目を小さくした拒絶・嫌悪の反応でよい。受け入れられないという反応が苦痛では第一である。
1-2-3. 苦痛の拒否・嫌悪感は、回避・防護となるが、排撃へも展開する
苦痛での嫌悪・拒否の反応は、損傷と苦痛を回避する。回避できなくても、より小さな損傷で済むようにという防護の振る舞いとなる。さらには、ときに、排撃的対応に進むこともある。
熱いものに触れたとき、苦痛を感じるやいなや、拒否反応をもち反射的にこれから手を引く。損傷を与えるものには嫌悪感をもち、距離をとって、損傷を与えられないところにと身を引き下げる。それで損傷を回避したり、小さくと防護することが可能になる。逃げられないとなると、拒否・嫌悪反応のもと、身を固くし緊張して身構える。受け入れたくないから、あるいは、損傷や苦痛を小さくしておきたいからと、身体を堅い盾にして固まるのであろう。快であるものなら、好ましいものとして、警戒を解き、これと親和的一体的になろうと構え迎えいれる。だが、苦痛は、その損傷に身構え、嫌悪し拒否しようと分離し、防護のためにと緊張して反応する。
苦痛感情は、感情として身体反応をもつ。それは意識をもって二次的に反応するのではなく、損傷の認識に即自動的にともなう反応である。悲しみの感情には、涙腺を緩めることが感情の身体反応の一部を担うようにである。苦痛は、即身体の緊張・拒否反応を伴い、この反応が苦痛感情自体となる。
さらに、意識をもっての二次的な反応・対応も生じる。蚊に刺されると痛み、これに攻撃的に反応して叩き潰すことがある。この攻撃的対応は、痛みに相即的だとしても、防御・拒否の苦痛反応とは逆の振る舞いである。苦痛は嫌悪・拒絶の防衛的な感情反応をその核にもつが、攻撃は、それとは反対の振る舞いである。蚊にさされて痛むと、反射的自動的に拒絶的に緊張しこれへの回避的な姿勢をとる。蚊を叩き潰す攻撃の姿勢は、苦痛感情の拒絶防御の反応とは逆の姿勢であるから、苦痛反応自体ではなく、苦痛から生じてくる第二次の意識的な対応になると見るべきであろう。
しかし、生防御にもっとも効果的なのは、損傷の原因をなくすることであり、それには、排撃するのが一番である。火の粉が降りかかれば、これから反射的に身を引き、回避して防護するともに、皮膚に落ちかかれば、即これを振り払って排除・排撃するであろう。この排撃は、苦痛にともなう反応・対応ではある。が、苦痛感情のうちには入らないであろう。火の粉が降りかかっての苦痛反応は、熱さの痛みでの感情反応は、やはり、身をそこから回避させる拒絶的な動きとなるであろう。火の粉を振り払う排撃の対応は、その次の、苦痛のそとでの意識をもっての対応になるのではないか。その場で、火の粉を振り払うことが、近くの可燃物に火をうつすことになると思えば、(痛みにおける拒否・防御の反応を止めることはできないけれども)その排撃的な対応は中止できる。蚊を叩き潰すことも、同様で、叩くことがそこで禁じられている場合は、さされた痛み、拒否・嫌悪の感情反応は避けられないが、叩き潰す攻撃的な対応はなしで済ませられるであろう。
1-3. 苦痛は、萎縮反応をもつ
生は、損傷から身を守るために、損傷をもたらすものを排除・拒絶するが、現に損傷が生じるようなら、少ないダメージで済むようにと、防御のために身を小さく固め、萎縮する。損傷への苦痛感情は、外方向に拒否・嫌悪の反応をもつとともに、内方向に萎縮の反応をもつ。攻撃する側は、強く見せるために大きくなった構えをとり、大きな打撃を与えるために、大きく強いパワーを発揮する。損傷を被る側は、逆に小さくなる。身を守るために、見つかりにくく攻撃されにくくするために小さくなり萎縮する。急所を隠し身体が打撃への強い盾となるようにと、硬く萎縮する。さらに、萎縮することは、損傷した部分を守ることでもあろう。傷口を小さくする。血管が萎縮で狭くなれば、出血を少なくする。
精神的生、社会生活で生じる苦痛、辛苦・苦悩でも、萎縮にと向かう。肉親を失った悲しみ、悲痛においては、身を大きくエネルギッシュに見せる喜びと逆で、無力化し小さくなり萎縮する。損傷をこれ以上広げたくないと身を縮める。精神的萎縮としては、身体が萎縮しても仕方ないのではあるが、感情は、身体反応を伴って実感する。生理的身体的な不快・苦痛の身体反応をもとにした萎縮の身体反応を精神的苦痛でももつであろう。
精神的苦痛(たとえば、悲しみ)での萎縮は、さらに、生理的苦痛による萎縮とは違う展開面ももつ。生理的苦痛では、その部位での苦痛でその周辺が萎縮し身体全体の萎縮となり、精神的な萎縮にと進むであろうが、精神的な苦痛、悲痛での萎縮は、まずは、心が滅入って萎縮する。周囲に積極的に働きかけるような外向きの姿勢を収めて内にと萎縮する。精神的萎縮は、さらに、精神を支える身体活動も萎縮させて、無力に肩を落として目立たないようにと身を小さくする。悲痛の出来事による活動の停滞・萎縮は、喜びが目を輝かせ紅潮するのと逆で、血流を小さくし、皮膚からは血の気を失わせ、目は虚ろになりときに涙も出すといった身体的様相を見せることになる(泣くのは、目を萎縮気味に見せるけれども苦痛による萎縮ではなく、おそらく苦痛からの救済を求める表現に由来するものであろう)。
1-3-1. 苦痛では、自己閉塞的にもなる
苦痛では、単に萎縮するのみでなく、自己閉鎖にまで進むことも少なくない。外からの加害に対して、自己を閉鎖することによってこれを防止するのである。かりに自身が強ければ外敵を攻撃もできるが、傷つき苦痛となるのは、自分が弱いからで、攻撃を受ける側として、その生防御・保護の構えをとらねばならず、その一つの方法として自己閉鎖はある。そとと自己を切り離すのである。そのことに成功すれば、それ以上の損傷は免れうる。ひとも暴行されたり激痛になると、ダンゴ虫のように小さく丸まって、外を見ることはやめて自己閉鎖的な姿勢をとろうとする。
亀は、危険、加害の可能性をみると、たちまちに、自分の甲羅のうちに大切なものは閉じ込めて自己閉鎖し石であるかのようになる。強固な守りの体勢をとる。甲羅は、身の動きを不自由にするから、攻撃するためには妨害物でしかない。亀は、攻撃ではなく、防御を主とした身体を作り上げているのである。攻撃に弱い動物は、逃走に巧みな身体をもつことも多いが、のろまの代名詞の亀は、逃げるのではなく、損傷を与えられない強固な殻をもっての防御、籠城に、自己閉鎖に徹底したのであろう。
ひとも、社会生活で悲痛の思いをするとき、自己閉鎖的となる。大切な人を失ったときなど、しょんぼりとしょげ返ってしまい、身を折り曲げ防御的姿勢をとって小さくなり、それ以上の喪失を拒むかのように、かかわりを絶ち自己閉鎖的になる。親を失って「喪に服す」という場合、そととの交わりを絶つ。それは、死神、伝染病などの禍いをうちに呼びこんでいるので、これをそとに拡散させないという配慮だったのでもあろうが、なにより悲痛の思いが、うちに萎縮し自己閉鎖することにとひとを仕向けたものであろう。昨今は、忌引き休暇、年賀状を差し控えることぐらいだが、家に閉じこもるのが喪中の基本であった。悲痛の思いは、痛む傷をなめあえる家族のうちにとおのれを置いて、そこにのみ自己を開放して慰めを求めることになり、それ以外には自己を閉鎖しようとする。
1-3-2.
萎縮の極みとしての仮死・擬死
弱い動物は、獲物にされそうになったとき、擬死・仮死を装うことがある。萎縮の極みで、自己を無にまで萎縮させるということであろうか。ひとの場合も、気絶するようなことがある。苦痛、生保護における萎縮の延長上に、仮死的な様相を見せる。
肉食動物の餌食にならないためには、これに見つからないことが一番である。それには、動かないことである。動いたものは見つかり食べられる。動かないものは、見つかりにくく餌と見えにくい。動いたものが先に餌食になるという淘汰を繰り返して、動かないものが、仮死・擬死に巧みなものが生き残ったのであろう。その場に溶け込んで見えなくする方法も使われる。蛸などは、存在を萎縮させる極み、これを無と化して、周囲の色と同じようになることができる。見つかりにくくなる。鳥は派手な色彩のものが多いが、幼鳥は、飛べないこともあり、目を引きにくく、風景に溶け込むような羽色をしている。イノシシの瓜坊は、横に縞模様となっているが、これも見つかりにくくする手なのであろう。ひとの場合、存在の気配を感じ取らさないためにか、傷つけられても出血を小さくすることもあってか、蒼白になることがある。被害の生じていない、危険への恐怖でそうなるから、おそらく、蒼白は、主として、皮膚の温度をさげて外敵(大蛇など)に気づかれにくくするためのものだったのではないか(樹上生活時代の祖先のこと、色白はおかしいが、血の気が引いた蒼(あお)い顔は想像してもよかろう)。
ひとは強い恐怖にとらわれると腰を抜かして動けなくなることがある。弱小動物時代のなごりなのであろう。動いたものは、見つかって食べられ、動かないものが生き残ったのである。しかし、現代では、動かないと暴走車にひかれ爆発物に吹き飛ばされるから、動けなくなることは、逆効果となることも多かろう。不動になる対応は、苦痛(を感じているとき)の対応というより、苦痛を生じそうなときの恐怖の対応である。体のみでなく、心も止まる気絶は、苦痛を感じなくするから、麻酔薬以上に苦痛に効果的だが、不動になって肉食動物に見つからないようにする手でもあったろう。
1-3-3.
諸種の対応としての萎縮
生の萎縮は、弱いものの防御反応によく見られるが、強者にもある。反対の伸張も、強者の振る舞いになるとは限らない。攻撃の矛と防御の盾において、矛は、強者である印になる場合、伸張してカニのはさみのように大きなものになろうが、その盾は、不要ぎみだから、小さくなり萎縮の様相を見せるであろう。逆に、弱い者では、防御の盾は、大きなもの、伸張した盾をもち(亀の甲羅)、矛は、攻撃はせず防御したり逃走するだけなら、負担の少ない小さな萎縮したもので済ませるであろう。
生本体としては、攻撃的に強く見せかけるには、単純には伸張することであろうが、体が大きすぎると、自身の維持にも行動にも負担が大きくなって邪魔だから、萎縮した方がよい場合もあろう。ライオンがクジラのように身体が巨大だと、威圧はできるが、実際に獲物を追うとなると、小回りはききにくいし、使うエネルギーが膨大になってすぐに疲れる。ほどほどに小さめの方が有利であろう。防御が中心の生体も、大きければ、攻撃する側にためらいを生じさせるだろうが、防御にも逃げるにも鈍になりやすかろうし、より大きな獲物として、見つかりやすく襲われやすくなろう。小さく硬い方が攻撃されにくければ、萎縮した方が好ましいこととなる。生体の伸張・萎縮は、その各々の生にふさわしいものがあり、淘汰されて残っているものが適正ということになるのであろう。
苦痛にかかわる萎縮は、攻撃される方がとる姿勢だが、その損傷の展開に応じた萎縮の諸様相をもつ。まず、受苦直前では、恐怖の反応として、見つかりにくくするために小さく縮こまる。実際に攻撃されて損傷をうけ苦痛を抱く段になると、萎縮すれば、攻撃の的が小さくなり、大きな的と違って損傷を少しは小さくできる。萎縮して硬くなることで強固な盾となる効果もある。身体が損傷を受ければ、出血するが、萎縮すれば、血管も小さくなろうから、出血しにくくなることである。さらに、もう攻撃無用と見えるようにするにも、反攻撃姿勢の萎縮は効果的である。動物のオス同士の戦いによく見られるが、萎縮の姿は、排撃無用と受け取られるから、それ以上の損傷は被らないで済む。
1-4. 抑鬱・鬱屈
苦痛は、生損傷の現在にと意識を集中させ、それ以外の生の活動を抑制的にする。快は、生を伸張させ活発にし開放的にするが、苦痛は、その反対で、ダメージを受けた現実にと自身を萎縮させ自己閉鎖的にして、内の欲求も萎縮して、生を不活発に停滞させ、陰鬱に抑鬱的にする。ひとの生は、未来にむけて目的を描き、発揚をはかる。だが、苦痛・損傷は、これを直接、間接に拒み、意識は、その痛みの現在にと囚われる。未来に生きるのがひとの本来であるが、その未来は、苦痛の現在から見て暗く悲観的に描かれるものとなる。未来の目的実現には現在ある手段の確保が必須だが、その現在が苦痛対処で大わらわであれば、未来の目的は、実現の目途も立たない暗いものとなる。大けがをすれば、その苦痛に意識は奪われる。そのもとでの未来の描写は、現在の否定的事態生起の延長として、否定的なものになり勝ちである。悲観的になり、活動に慎重になって生動性を小さく抑止的にして、自身を暗く抑鬱的に鬱屈したものにしていく。
肉親を失った精神的な悲痛は、顕著に生を萎縮させ自己閉鎖的にする。楽しいことなら、未来に向けて生は発揚し、開放的になるが、逆の苦痛においては、その痛みの現在に気を奪われ、さらなる喪失を防ぐために周囲には警戒的な構えをとり自己閉鎖的になる。安らぎや楽しみを奪われた現在の肉親喪失の悲しみの延長上には、未来は描きがたく、描くとしても悲観的なものを描く。肉親を失った悲痛のもとでの未来は、喪失したものをより際立たせて、一層の悲しみをもたらす。愛児を失った親の未来は、漆黒の絶望に塗りつぶされる。その絶望の未来は、未来に生きようとする現在を無意味化し、これを陰鬱に閉じ込める。現在の悲痛が自己の全体をとらえて、その生を抑鬱的にし、その未来への思いも暗く鬱屈したものとなる。
苦痛は、覚醒を強いる。安眠を妨げて、その苦痛と、生じる悲観的な想像のもとでの陰鬱・抑鬱を感じ続けさせる。生は、鬱々とした閉塞空間への停滞を強いられ、その閉じた苦痛の暗黒のなかで窒息させられる。損傷による苦痛は、拷問のように覚醒を強制して眠らせず安らがせず、悶々と鬱屈した生の持続を強いる。
1-4-1. 打撃を受けて生は陰鬱・抑鬱状態に
損傷と苦痛刺激は、特定の部位のそれに限定されていて、手や足が痛いのだとしても、それらだけが萎縮・緊張の反応をするのではない。苦痛感情は、生全体において萎縮・緊張する。個我は、感情的に生き、足のことで悲痛に沈むのだとしても、その悲痛の感情においては、心身全体がその悲痛の陰鬱のなかに閉じ込められたものとなる。激痛・損傷に反応する生は、環境世界を、傷つけ脅かすものととらえ、その生の反応は、警戒的となり防御的になって、萎縮し自己閉鎖する。世界に対して鬱屈した構えをつくる。苦痛にうちひしがれた自身のつくる陰気は、周囲の環境世界をも陰気なものに染めていく。外界は、陰鬱の暗い色眼鏡を通して見られて、輝く太陽のもとにあっても、重々しく鬱陶しい空間と映ることとなる。
損傷による苦痛は、その生の意識を占領する。危機的状態に陥ったのであり、それに合わせて意識は、その苦痛の状況にと集中する。足に大けがをした者では、その苦痛がその生のすべてとなり、外に向けては消極的となって縮こまり苦悶状態に陥る(勿論、ひとは、動物であるだけではなく、精神世界に生きるものでもあり、後者が主となっている場面では、足の少々の怪我は、たとえば、それが自身の研究での大発見のきっかけになったのであれば、その喜びの高揚感を盛り立てる痛みとなることであろう)。苦痛感情にとらわれこれに集中した生は、本来もっている生動的な発揚の在り方を放擲し、苦痛への気がかりのもとでの重くのしかかる息苦しい世界の中に落ち込み、その未来も、現在の激痛の延長線上に陰鬱の世界として描く。過去の快も楽しさも遠のいて、現在の苦痛がすべての意識を奪う。
苦痛・損傷を受けたということは、自身がこの世界から歓迎されるどころか否定され攻撃されたということである。あるいは、自身が攻撃されて傷つくことになるような弱者・敗者であることを自覚させられる。脅かす環境のなかで、自身を情けない弱者として自覚して滅入ってしまう。快・楽を享受する極楽の住人を周辺に見ながらも、この世は、自身には苦界だと悲観し陰鬱にと落ち込むことになる。
1-4-2.
内の欲求の抑止も、苦痛で悶々と鬱屈状態に
内から外に出ようとするものがないなら、外から抑止されても、抑鬱感、鬱屈感は生じないだろう。しかし、生は、外へと向かい外とのかかわりをもって生きるから、それが阻害されるなら、抑止を感じて抑鬱感を抱くことになる。とくに、欲求は、内にないものを外に求めるのが普通であろうから、出すことを抑止されると、欲求不充足を強いられて、抑鬱的な状態となる。
欲求とか衝動が外に出ようとするのを内に押しとどめるとき、その不充足が大きくなると、尿意を抑制する辛さがそうであるように、耐えがたい苦痛となってくる。欲求の多くは、外に価値あるものを求め、反欲求は、内外の反価値を拒否しようとする。その欲求・反欲求が不充足になるのは、自制して自己内に(反)欲求を抑止する場合か、外からそれを満たすことを拒まれて不充足になるかである。食欲は、外に栄養物を求めるが、それを自身で節制することもあれば、外から拒まれることもある。いずれにしても、欲求は、そこでは、不充足で不快となり、それが大きくなれば苦痛となる。欲求は、抑制され、不快・苦痛に鬱屈を強いられる。
精神的世界でも同様で、愛とか財貨等の精神的社会的に価値あるものを求めるとき、自身でこれを抑止することもあれば、そとから拒まれて不充足になることもある。その生の中心になる営為は、社会の中で希望・目的を実現していくことだが、これが抑止されれば、不快、抑鬱を生じ、生きがいをなす希望が剥奪されるような場合、絶望に陥ってしまう。絶望は、未来を絶ち、暗黒の現在をもたらし抑鬱状態にして、その苦悶のうちに、ひとは、この世の地獄を見ることとなる。
1-4-3.
苦痛の受難を、不運・懲罰と悲観もする
損傷も苦痛も、出合いたいものではない。忍耐のために甘受するのでないなら、不可抗力で偶々に生じる不運ということになる。そういう受難の不運続きに、「なんの因果で」と天を恨むことがある。この世界は自身の操作・関与のできない偶然性のもとにあることが多く、それをときに運命と捉えることがある。運命は、ことの運行の命令が、あるいは、(天)命の運びが、ひとを支配する超越的な天・神などによっていると想定したものであり、それが自身に厳しく冷酷であれば、不運、悲運といわれる。その運命(真実には偶然)の出方が周囲の者に比して自分には悪く、損傷・苦痛が多く降りかかってくると思えば、その運を決める天なり神は、どうしてそうするのかと恨みがましく思うことにもなり、悲運の自分に悲観する。
損傷、苦痛は、価値物の獲得や快とは逆、褒美の反対で、罰・懲らしめということにもなる。大きな災難に出合った時、ひとは、「なんで自分が。何も悪いことはしてないのに」ということがある。ここには、「悪には苦を。因果応報。苦痛は懲罰」という意識がある。苦痛があって原因がはっきりしないような時、何か罪深いことを自分はしたのだろうと、悲観的に妄想することとなる。不運・悲運なら自分に咎はないが、苦痛を罰とみなすようになると、自分に罪があると懲罰意識をもつことになる。
苦痛を悲運とか天罰と外からのものとして受け取るだけでなく、この不運を招いている自分を振り返り、軟弱な自分ゆえにという意識をもつこともあろう。おなじ状態に生活しているのに、自分だけが繰り返して不運に襲われるような場合は、その悲運は、自分のうちになにかよからぬことを招く原因があるのだということになろう。それは、おそらく真実で、前向きの反省・推論となりうる。おのれの在り方を、不運に襲われないようにと変えることが求められるのである。糖尿病の不運も、痛風の悲運も、自身の美食が招いたことだと合理的な反省ができれば、同じ美食をしていて元気な者をうらやみつつも、粗食へと自身を変えていくことになる。苦痛は、その生き方をよりよいものに変えることへと促す。苦痛は、よい鞭・罰になっているということができる。
1-4-4. 苦痛は、特殊的には、抑鬱からの解放、快につながる
「犯罪的なことをした」と、良心の呵責に耐えず、自身に大きな苦痛を課すことがある。良心は厳正な裁判官であり、自分の犯した罪を償うまで、執拗に自身を責め続ける。罪滅ぼしは、しばしば、苦痛を自身で引き受けることで行われる。鞭打ちの刑を厳格に自分で執行できたと満足がいけば、自身の罪からの解放がなる。苦痛は、ここでは、抑鬱どころか抑鬱からの解放・発散の役割を担う。もちろん、その償う時の苦痛は快にはなりようがなく、痛み自体は、どんな場合でも同じように痛む。それでなくては、償う本人も、償っているとは感じにくい。借りを返した、償いをしたという安堵感は、精神的な快であろう。が、精神的な解放感がなれば、生全体の反応がそういうことになるから、特定部位の償いの苦痛も小さくはなろう。
筋肉痛は、当然、快でなく痛みであるが、その痛みが筋肉を強化しているのだと思えば、その痛みは心地よい痛みといってもいいぐらいのものになりうる。身体は疲れて節々が痛むというようなことがあっても、トレーニングの大きな成果がそれでなったのであれば、その成果を目の前にしつつ、心地よい痛みとなる。その節々の痛み自体は快ではないとしても、精神の心地よさのうちで、その快を構成する部分となる。
苦痛は、それ自体はひとを萎縮させ抑鬱的にするが、それをもって価値が産みだされるのであれば、苦痛は、創造される価値物のための、価値ある手段となる。その苦痛甘受において、その創造される快適なものを想像すれば、楽しみとなって、楽しさをもった苦痛となりうる(想像だけで、それに見合う感情は生じ得る)。苦難も、それが稀有の価値を創造することだと思えば、あるいは、自分に託された社会的使命なのだということになれば、誇らしく、喜びとなる。苦痛のもつ抑鬱、鬱屈は、生の高揚・発揚のうちに解消されることであろう。
1-4-4-1. 苦痛は、脳内麻薬の分泌を促し、快になることもある
ジェットコースターやバンジージャンプは、危険なものへの反応である恐怖(という不快・苦痛)を生じるが、これに魅される者がいる。それらの遊びでは、その強い恐怖自体は当然苦痛であるが、安全の確保された、つまり本当は危険のない状態でのこと、逆に、恐怖(苦痛)軽減のために脳内に分泌される快楽物質の残余が大きくなるのか、魅されるようである。現実には体験し得ない鳥になっての浮遊・落下などの特殊体験をして超人の気分を堪能し、落下時にいだく強烈な恐怖の体験で、それへの異常な覚醒・集中を生じて現実の重苦しい自分を完璧に放擲してスカッとし、その恐怖体験を和らげる脳内の麻薬様物質分泌のもと、危険は見せかけで絶対に安全との意識をふまえて安堵の大きな快を体験することができているのであろう。
苦痛が快楽の生起を促す場合もある。マゾヒズム(被虐性愛)、サディズム(加虐性愛)は、性的快楽生起に苦痛を利用する。マゾヒストでは、苦痛刺激で性的な方面に脳内麻薬様物質(ドーパミンなど)が分泌されるようである。逆のサディストは、加害で性的に興奮する。攻撃的な衝動は動物の異性生殖の過程には本源的である。オスは、メスをめぐって死闘を演じ激痛を味わう。メスは、その延長上で乱暴に扱われる。暴力・苦痛の興奮の元での快楽である。マゾ・サドは、そういう先祖帰りなのかも知れない(普通のひとも動物としてはそういう傾向を自然的には残している可能性もある。通常は、万人穏やかに卓越した社会生活をするために、不倫や殺人と同じように(自然衝動放置の犯罪。ただし、殺人の方は戦争では称賛される)、理性をもってその自然的性向を、意識にのぼることもないぐらいに深く抑止していると見ることもできる)。
信仰でも、深まれば宗教的な受難の苦痛・苦悩に快を感じうるようである。日本のキリシタン弾圧で、見せしめにと公開して磔刑にしていたとき、殉教者たちは、殺されるにもかかわらず恍惚とした様相を見せていたという。苦痛に悲鳴を上げ、もがけば、見物人は入信を諦めるだろうと想定していたのが逆効果で、磔刑をやめたというから、本当だったのであろう。苦痛・苦悩は、神与のものとなれば、ありがたい恵みに解釈しなおされうる。苦痛は、自分が選ばれていることの証となり、しかも神の子イエスと同じ磔刑であれば、至高の死である。その苦痛は、神からの自分への稀有の贈物として、歓喜とすらなったのであろう。
1-4-4-2. 苦痛は、ときに、繊細で、より豊かな快をもたらす
食べ物で、痛覚を刺激する辛いものがある。激辛の食べ物は、辛さの苦痛だけだと、だれも食べないが、それのあるカレーなどは、美味となる。辛さの苦痛は快自体にはならないだろうが、美味をより美味にする薬味となる。刺身につけるワサビは、嗅覚に苦痛だが、その苦痛が不快な生魚の臭いを消してこれを食べやすくし、醤油の美味を際立たせ、生肉にある特殊な味わいを醤油と協働して美味に近づける。味覚のうち苦味や酸味は、不快で苦痛である。腐敗・有毒を感知したものであろう。だが、これらも、食を豊かにする快の構成部分となりうる。ビールやコーヒーから苦味を抜いたら、物足りなさを感じることであろう。苦みのみだと、文字通り苦(痛)だが、それが美味を際立たせる。苦痛刺激があって、その感覚的興奮のもとに、求める快が際立ってくるのであろう。
恐怖の苦痛が安全を支えにして快感になるように(ホラー映画とか、バンジージャンプ等)、悲しみ(苦痛)も、甘美と形容される独特の快感になることがある。悲劇は、演劇において好まれる。自身の現実での悲劇的なことは、辛い。悲しみは、深刻な喪失体験において生じるが、そこに生じる感情は、苦痛のみでなく、自己慰撫する快をもつ。その慰撫の快があって、深刻な喪失がない場合は、その悲しみは甘美なものとなる。悲劇は、自分は観客として安寧の場にあって、他人の悲惨な出来事を追体験して悲しくなりつつ、滅入る程度で喪失体験はなしで、その悲しさの深淵を垣間見て心を揺さぶられ、心地よい悲しみを、快を味わう。
喜劇は、笑いの快だから、不快・苦痛はなさそうだが、これも笑いを生じるには、快の反対の不快がいるようである。笑いにはそれに先立って緊張(不快)が必要である。この緊張が突然解除されるとき、そこに生じる弛緩が心地よい安堵感をもたらし、緊張でのエネルギーが不要になって、その放出に笑いが生じるようである。小石に子供がつまずいても笑わないが、緊張をさそう厳粛な場の校長先生がつまずくと、皆、どっと笑う。笑い声は、単純に弛緩した声ではなく、先行(目の前)の緊張を意識するかのように、かつ日頃の校長先生への思いをこめつつ、「はっはっは」「ヒッヒッヒ」「くっくっく」「ケッケッケ」と、弛緩しての息の放出(H音は、強力な放出になるが、K音には笑いの表出自体を抑制する緊張がある)の間に促音(っ)の緊張を交える。
1-5. 不安・恐怖・焦燥
苦痛は、現にある損傷に注目させる。と同時に、ひとは、苦痛の時間経過を踏まえて、その未来を想像しつつこの苦痛に対処する。ことが苦痛と損傷という否定的状況にあるのであり、その未来もその延長上に否定的に描かれがちとなる。いまある苦痛は、ことの始まりで一層悪い方向に向かうかもと危惧させられる。悪化が懸念される場合は、その不安や恐怖にさいなまれ、悪化しない方法はないものかと焦燥もする。
蜂に刺されたり、毒蛇に咬まれた場合、その苦痛は、単に今痛いということではすまない。毒が回ってショックを起こしたり、肉体の壊死を引き起こしたりもする。そうなることを苦痛が意識させ、恐怖・不安に陥ることとなる。蜂の刺し傷のジンジンする痛みに、それがいつまでつづくのか、アナフィラキシーショックにならないだろうかと、不安になる。手当は、ポイズンリムーバーで毒を抜くぐらいで、あとは、苦痛に我慢する以外ない。ショック症状にならないかと焦燥しても、なにもすることができず、不安が苦痛によってかきたてられる。毒蛇の場合は、痛みよりも、毒がまわっての肉体の壊死を思う。苦痛よりも、その壊死を想像して、これに恐れおののくことになる。
苦痛にとらわれると、否定的に、より劣悪な未来を見がちであるが、その展開が、損傷をなくし苦痛を軽減していくと分かっている場合は、杞憂をいだく者でなければ、現在の痛みの未来は気にせず楽にして構えられる。抜歯したとき、当座は痛むが、抜歯前の痛みよりは楽と感じうる。歯医者での抜歯時の麻酔が切れると痛みは強くなるが、小さくなることが想像でき、異変が感じられなければ、安心して苦痛を受け入れられる。悪化を思っての不安や焦燥とは反対に、落ち着いて苦痛をうけとめて安堵しておれる。やがて痛みは微小となり、痛みも歯のことも忘れることになる。
1-5-1. 苦痛・損傷の悪化を思っての恐怖・不安
損傷・苦痛への危険は、恐怖の感情を呼ぶが、その危険が現実化し苦痛が生起すると、その恐怖自体は消えていく。恐怖は、まだ危害が加わっていない危険という状態にいだくものである。だが、苦痛は、そのさきにまだ現実化していない危険なものをもちうる。その苦痛を通してその連続した未来に危害のもたらされることを知る場合がある。毒蛇に咬まれての焦熱的な痛みは、それだけにはとどまらず、その先に、毒がまわっての肉体の壊死の迫っていることを語る。毒を抜いたとしても、多くは残存し、肉体をむしばむ。時には死にいたる。そう思うと、壊死・絶命の危険を思って、この危険に恐怖することになる。
危険なものがはっきりしている場合は、これに恐怖するが、危険かどうか不明とか、どう危険になるのか不明というような場合は、不安にとらえられることになる。恐怖では、危険の現実化を思い萎縮し固まったり震えることになるが、不安では、なお危険は確定していないので、そういう反応はとらない。あるいは、恐怖なら危険が明確だから警戒や救助への声を出せるが、不安では、どう声に出していいか不定の状態に口をつぐむ。どうなるか不確定ということで、対応にとまどい危険かも知れないから気が抜けず落ち着くことができず、過敏・緊張状態を持続させ、その持続の重圧・抑鬱状態のもとに疲労困憊となる。不安は、未決状態にいだくもので、期待との対比では、期待は、ことのプラスの可能性に抱くのに対して、不安は、マイナスの可能性にいだくものになろう。試験の結果待ちでは、期待と不安の入り混じった状態で緊張する。ことが危険・マイナスになるか安全・プラスになるか不明だというような場合、危険への恐怖にはならず、かといって、安全への安堵になることもできない。いずれにも落ち着けず両方の対応の中間で、おどおどと緊張し続けて、安らぐことができず、不安ということになる。あるいは、危険と分かっていても、どのように危険が具体的に展開するのか不明・不確定の場合も、対応を確定できず、対処にとまどい焦燥し、過敏・緊張を持続させていくことになり、不安にさいなまれる状態となる。毒蛇の毒がまわっているとわかって恐怖するが、コブラと比べればマムシの場合、毒は必死となるわけではなく、どう毒が作用し壊死がどの程度になるか不明であろうから、その点では恐怖というより不安になる。死にいたることもまれではないから、そうなるかもというように、悪い方向に可能性を想定し、強い不安にとらえられる。
不安は、危険なことになる可能性があるという否定的な価値判断をしていてのことで、猛毒のへびに咬まれても、それが求めてのことなら、はじめの痛みは同じでも、不安や恐怖にとは進展しない。クレオパトラのように自害するために咬ませたのなら、へびに咬まれての痛みは同じであっても、それに続いては、不安や恐怖にはならず、逆に痛みの中に安らぎを感じることであろう。
1-5-2. 焦燥し、パニックにもなる
苦痛は、身に損傷の生じていることを語る。その拡大を阻止し、禍を排除しようと、ひとは、その対処に大わらわとなる。それがスムースにいかない場合、焦ることになる。苦痛の原因が不明なら、まず、これをはっきりさせることに向かう。それが思うように解明できないとか、思ったより深刻であれば、ショックであり、動転もする。
苦痛・損傷の除去とか沈静化の方法が見つからないとか、対処が遅れて思い通りにならないと、いらつくことになる。損傷からの回復のしようがなく絶望的でも、それでも何とかと、悪あがきもし、冷静さを失い、焦燥する。損傷・苦痛は緊急・火急の事態であり、急ぎすぎるのは悪いことではない。焦燥してよいのであるが、行き過ぎると、洞察が疎かになり沈着な対処ができなくなり、生にとりマイナスの動きが目立つことになっていく。焦りは、目指すもの・目的への過程が思うように進まず、その進展の想定、あるべき状態と、その現実の遅々とした歩みとのギャップに生じる。自身の思いをもって即現実の歩みへと呪力でもつかって影響を与えたい、「神よ、仏よ」と、無益な頼みも重ねて、うまくいかないことに苛立ち焦燥する。
苦痛も損傷もその個体にとっては、危機的なことであり、冷静ではおれなくなる。生が破壊されダメージをうけているのであり、生の通常の構え方をしていたのでは、覚束ないこととなる。その苦痛・損傷のインパクトが大きいほどに対処のしかたに迷い惑って動転することとなる。血を見て平常心を失い、取り乱して、あわてふためく。平静なときの冷静な判断や意志は自信を喪失して無力化する。理性を失い、おろおろとする。なにをしていいか分からず動揺して取り乱し、支離滅裂な動きをすることにもなる。自身の冷静な理性を失えば、幼児化したり動物的原始的な反応に退行する。集団的な騒動の場合は、付和雷同して我を失い客観的批判や洞察は麻痺し、わけもわからず目先の感性的な刺激にしたがい、集団心理に飲み込まれる。大魚に襲われた小魚の群れのように右往左往し動転して、いわゆるパニックに陥ることとなる。
1-6. 大きな損傷・苦痛は、生に虚脱状態をもたらす
損傷は、特定の部位に限定されていても、感情的反応は心身全体でするから、大きな苦痛に打撃を受ければ、生全体がこの感情に打ちひしがれた姿をとる。生の動きが停滞・停止して、虚無・虚脱の状態に陥る。生は、敗北した存在として意気消沈したものになる。その苦痛に打ちひしがれた姿勢は、未来に向かってもそうなって、暗い世界を見ることとなる。苦痛に打ちのめされ、欲求も発動しなくなり、生動性を消失し、その生は死に近づき仮死的状態にもなっていく。損傷・苦痛が大きくなるとショック状態を引き起こし、生の諸器官・機能が停滞・停止し、虚脱状態となる。
ひとは、未来に生きる。自由に未来に希望を描いて、現在をそれに向けて生き生きと生きるが、苦痛に打ちのめされた現在は、未来に絶望しこれを暗黒にえがく。外は損傷・苦痛をもたらす有害な世界で、未来は暗黒となれば、その生は、自己の保護のためには、うちに閉じる方がよいということにもなろう。そとへと向かう元気は失われる。これ以上の損傷・苦痛を被らないようにと、小さく萎縮して、うちに自己を塞ぐことになる。出入りする息、呼吸もふさいで、息は浅く小さくなる。そとを見る目も伏し目がちとなる。生動性を喪失してふさぎこみ、操業停止した工場のように空しさを漂わせ、その先には絶命を予感するようにもなる。
損傷を受け苦痛に打ちひしがれる自分を見つめるとき、その生の弱さ・無力さをしみじみと感じることであろう。生は外的環境に支えられこれを踏み台にしてその展開を行い、発揚を見る。だが、苦痛に打ち沈む者は、そのありたい生を剥奪され敗北して、無力を感じる。弱肉強食の自然世界において、弱い情けない存在であることを、損傷と苦痛は語る。強ければ、損傷は受けなかったのであり、損傷を受けても、苦痛に呻吟することはないのである。軟弱であるがゆえに、価値あるものを剥奪され、有害なものを押し付けられて、損傷を被る情けない状態になったのである。弱者であることを苦痛は繰り返して意識させ、生は、うちひしがれ、おのれを虚無化し、虚脱状態に陥る。
1-6-1.
生に本来の生動性の喪失
損傷と苦痛は、その量的な違いにより、心身の反応のあり方を異にする。かすり傷なら、痛みは、傷になったことを自覚させるだけで、あとは、重ねて傷をつくらないようにと注意を促すぐらいである。だが、生を大きく損傷した場合は、相当に様相が違ってくる。その苦痛は意識を覚醒するだけにはとどまらず、生全体にダメージを与えて衝撃的になる。強烈な損傷・苦痛になると、受け止めることのできる感覚刺激を超えたものになって感覚できなくもなる。打撃損傷の究極は、死にいたることで、当然に無感覚となる。
欲求不充足の苦痛でも、その不充足・欠損状態が大きくなりすぎると、不充足の苦痛は消え、欲求自体をなくしていく。性欲のように個体にはなくてもいいものなら、そういう方面への関心は速やかになくなっていく。厳格な刑務所などでは、食欲は変わることなく、夢にもみるようになるが、性欲は消えるという。その必須の食も、不充足状態、絶食を続けていくと、空腹を感じないようになる。贅沢に属するものなら、欲求が強く抑圧されることが続けば、その欲求は完全に消滅する。香りの高いマツタケは秋の楽しみであったが、希少高値になって久しく、庶民は欲求自体を消滅させている。麻薬は、常用していて絶つことが強要されると禁断の苦痛を生じるが、それでも苦痛に耐えて抑制したままなら、甘えることが許されない環境のもとでは、麻薬への欲求は無くなっていく。
生に根本的な欲求の場合、過度の不充足においては、必須とするものを過度に不足させることであれば、当然、生は、生気・気力を喪失していく。精神的な欲求としての生きがいをなす希望が絶たれ、絶望して苦悩する者は、精神を無気力化するのは勿論、生理的にも不活発な状態に陥り、生全体が無力化し虚脱状態をつくっていく。食の空腹の苦痛は、空腹がつらくなると、元気が失われ体力が落ちていく。絶食が長くなると、空腹の辛さは消えて、食べたいという欲求・気力もなくなっていく。そのままに続けておれば、あらゆるものを無と化す死というところまでいく。
1-6-2. 衝撃に苦痛感覚もつぶされる
衝撃に打ちのめされると、生は、それを拒否するような緊張・萎縮もできなくなり、生動性を失い、茫然とすることになる。心身は、無力にうちのめされて脱力し、つぶされて、虚脱状態になる。無反応・無感覚になり、放心状態になる。
感覚に受け取れる限度を超えた大きな衝撃は、感覚での把握を不可能にする。苦痛の大音声は、限度を超えると鼓膜をやぶり、苦痛の音としては受け入れることができなくなる。光も強すぎると、閃光のみで何が光るのか、何があるのかは、見えなくなる。暖かさ、冷たさは、限度を超えた高温・低温になると、痛覚のみの対象となって、その温度自体は捉えることがなくなる。それをも超えた衝撃的なものでは、痛覚さえも失う。
大きな怪我をすると激痛となりそうだが、意外にそうではない。擦り傷・刺し傷の痛みは、はっきりしていて耐えがたいといった痛みになるが、大けがの場合、痛覚なども潰されるのか、あるいは、生に深刻な事態の生じていることを察知して皮膚表面の傷の痛みは些事と痛覚情報を無視するのか、大きな衝撃があって打撃に麻痺状態をその部位に感じて、しばらくは、激痛どころか痛み自体を感じることがない。衝撃から少し回復して落ち着いて後、やっと損傷部位の激痛というようなことになる。
激痛は、その感受できる限度を超えると、感覚する意識はつぶされ、持続的であれば、失神してしまう。拷問で激痛を与えるとき、失神する手前にとこれを調整するという。失神しにくくその量を調整しやすい激痛を加え続けて耐えがたくして、自白・裏切りを迫る。拷問は、死を恐れさせつつ、苦痛をもって攻めたてるが、江戸時代の「石抱き」の拷問では、三角にした棒をならべて正座させ、その膝の上に石を段々に積んでいって、行き過ぎて失神させない程度を計らって、ぎりぎりの激痛を与えたという。
1-6-3. ショック状態になる
生体への損傷・苦痛は小さなものでも、それへの感情的反応は、心身全体でする。苦痛の拒否や緊張は、その損傷の部位ではなく、生全体ですることである。大きな損傷・苦痛が加えられると、生の全体がショックをうける。打撃を生全体に被る。それは、生理的なものでは、いわゆるショック症状といわれるものになる。外傷・アレルギー等内外からの打撃・衝撃によって生が大きく損なわれると、血圧が低下し血液循環が停滞して諸臓器が機能停止するといった全身症状になり、そのショックが続けば死ということになっていく。
精神的心理的なショックは、最愛のものの喪失等によって衝撃的な大きな損傷を心にうけることで、それによって心は虚脱状態になり、生動的な振る舞い・構えができず放心状態になる。心的な事柄であっても、それは、身体症状にでるような衝撃になる。心的にショックをうけると、魂が虚脱状態になるのみでなく、血の気が失われ、蒼白となり、生気をうしない、食欲なども喪失する。絶望に打ちのめされた者は、心が漆黒の奈落で苦悶するのみでなく、その振る舞いは生動性を失い、身体は無力に虚脱化し、皮膚は生気を失い黒ずんでもくる。自分よりも大切なものを喪失・剥奪されてのショックは、悲しみという通常の反応を超えたものとなって、茫然自失、悲しみの涙も出ないぐらいになる。そのショックは、大きくなれば、失神となり、持続のなかでは、生全体の虚脱化となって、身体の生存も危ういほどのものになる。
衝撃的な苦痛・損傷に由来する心的ショックも身体的ショックも、心身全体の生動性を奪い仮死的様相を呈する。それは、最後の手段をもっての自己保護の営為だといってよいのかも知れない。冬眠・夏眠する動物がいるが、これは、外的環境がその動物の活動を不可能にするほどの過酷なものになるので、生の諸機能を最低限に抑え停滞・停止状態にして仮死的になってやり過ごそうというものであろう。ショック症状は、そういう生のメカニズムになるのであろうか。その衝撃が生の回復力を超えておれば、死にいたるが、無意味に苦しまない自然死ということになろう。
1-7. 徒(あだ)に、踠(もが)き、悶(もだ)える
生は、打撃を受けた一時はショックで放心・虚脱状態になっても、強い復元力(resilience)をもっていて、衝撃に潰され切らない限り、繰り返して自己保護・保存に動こうとする。ただし、損傷・苦痛が持続し生の諸能力が打撃をうけているところでは、高度の対応はできない。損傷・苦痛を排撃しようと、もがくが、排撃の術もなく、あだにもだえることとなる。安寧の手立てをさがして、試行錯誤を繰り返すが、可能な出口は損傷で塞がれているのであれば、無駄に無闇やたらと動き、もがき、もだえるのみとなる。
激痛・大きなダメージを受けたのは、それを回避したり排撃する能力がなかったからであり、損傷・苦痛にうちひしがれたところでは、一層それらの可能性は稀有のこととなる。しかし、生ある限り、自己保護の動きができれば、そうするから、動き回り、うろたえまわることになる。ひとは、未来の目的を描き出し、その実現のための手段を探して、この手段に働きかけて、確実に目的を実現していくが、打撃をうけた生は、その目的と手段の合理的な展開などできず、ひたすらに動くものの、当てずっぽうに動くだけで、効果のない空しい動きとなる。あだな、いたずらな動きとなる。冷静な理性的な人間的動きが不可能になり、原始的な動きのみを繰り返すことになる。もがき悶えて無意味に右往左往するのみとなる。
筋肉の動きなど、対立的な二方向の動きをもって成り立っている場合、そのあるべき適正な指令が出せないで、単に動くだけであれば、両方の指令が出て、筋肉は、震えるというような、役に立たない動きにとどまることともなる。瀕死の蛇は尻尾をブルブル痙攣させて最期を迎える。両方の力を均衡させて静止するようなことも高度になろうから、それもできず、終始動き続けるだけの無意味なものとなる。動物は、動くことによって、おのれの生を証するが、衝撃をうけ真っ当な対応能力を破壊されて、対象を見定めての必要な動きはできず、あだに踠(もが)き足掻(あが)いて、心中懊悩し悶えるだけのことになる。
1-7-1. 煩悶、悶絶
生は、損傷・苦痛の衝撃で、その生動的能力を奪われると、思うように動けず、いらだち焦ることになる。無駄な試みと分かっても、それ以外にしようもなく、あてずっぽうに動いて、もがく。どうにもできない、ならないことを重ねる。ひとを葬るとき、棺桶にいれて地中深くに埋めることがあるが、生の回復力は強く、ときに息を吹き返す。出ようともがくが、堅く閉じ込められて出ることは不可能で、棺桶を掻きむしった爪の跡のあるのをときに見るという。もがき、わめき叫び、絶望の漆黒の閉所で、悶えつつ死んだのである。その地中の棺桶のなかにいるかのように、生の危機を前に、自身では手の施しようがなく、その思いをうちに閉じ込める以外ない状態になることがある。「悶(もだえる)」の漢字は、心が門によって閉鎖されて、出ることを押しとどめられた状態を表す。心は、うちに閉じ込められ、苦痛にのたうちまわる。動こうとする欲求・衝動をうちに閉じ込めて悶々と苦しむ。激痛・懊悩をうちに抱え込んで、もがき悶える。
身体はもがき、のた打ち回り、心は悶えあえぎ呻吟するが、悶えには、その苦痛を苦痛として煩悶することから、苦痛感受の閾値を超えて失神・気絶をもたらすような悶絶までがある。煩悶は、煩(わずら)い悶える。煩い=患いは、損傷に苦痛をもちそれに滞って悩みを深めていることであり、煩悶は、そのやっかいな面倒な(わずらわしい)ことに緊束されて、うちに悶々と悶える。それも、限度を超えると、心はその激痛などを受け止めることができなくなる。気絶してしまう。悶絶する。悶絶は、そのぎりぎりのところで激痛を受け止めているのであろう。気絶は、その激烈な損傷を呪術的短絡的に無化する結果をも生じる。強烈な打撃に自身のこころが麻痺状態になるのであるが、その強烈な対象自体も自身の心からは消えるから、自分を消すことで対象を消してもいる。嫌なものは遠ざけて見ないようにし、そのことで、嫌なものを自分の心においては消失させている。その極端に、悶絶の無化があるともいえる。自分が気絶して消えるのだが、そのことで対象も消えるから、対象を消すことを呪術的に意図している悶絶もあるかも知れない。
1-7-2. 絶望し、自暴自棄にもなる
打撃をうけて大きな損傷を背負い、未来への希望を剥奪されて絶望的となることがある。どうあがいても悶えても、その絶望状態から脱出できないのであれば、やがて無気力化し、その生の残された営みにも投げやりとなってくる。もう、どうにでもなれと、自身を遺棄するようなことになってもいく。あがきの極、悪あがきとしての自暴自棄となる。
うちに煩悶するそのエネルギーが残っておれば、これをどこかに吐き出したい、ぶちまけたいということになる。鬱憤晴らしに出る。それは、損傷・苦痛の排撃には役に立たないことを承知していての、残された生のエネルギーの無意味な暴発である。もがき悶えて煩悶する状態は、生の本来を取り戻そうと最後のあがきをする状態であろう。だが、自暴自棄は、その生の回復という本来を放棄して、自身で自身を破壊し遺棄する方向へと暴発していく。真摯な営為を投げ捨てて、鬱憤をはらそうと、見境なく当たり散らしもする。自他・敵味方、攻撃の手段も考えることなく暴発し、自身を卑しめ自暴となり、情けない自分を遺棄し自棄となる。あがく者は、未来方向に生を回復しようと支離滅裂ではあれ猛烈に動くのだが、自棄(やけ)は、悪あがきの極で、未来の死・破滅を自らが先取りする愚行である。
ひとは、動物ではなく、社会的精神的存在として自己の生を展開しており、精神的な生きがいとなっているようなものの喪失・剥奪は、その生を危機的状況に落とし込む。未来に希望をいだいて、それに向けて生きているのがひとであるが、そこで希望が剥奪されると、絶望状態になる。その絶望の懊悩に打ち沈み、再起不能と思えば、もうどうにでもなれと捨て鉢になり、なげやりとなって、しばしば、自己を遺棄しようということに、自棄(やけ)にまでなっていく。動物は、現在に生きるのみであろう。だが、ひとは、未来に目的を描き現在をその手段として生きる。未来に生きる存在である。絶望的な損傷・苦痛で、その未来がなくなったと思えば、現在の苦痛に耐え抜くことを放棄し、その暗黒の未来を先取りして、自身で自らを破壊・遺棄して自暴自棄となってしまうことがある。
1-7-3. 絶望とちがい、自棄は、あくまでも自己責任になる
生は、自己再生能力をもち、損傷を自身で修復する。だが、やけは、その逆で、自身で自身を破壊する。やきはらう。希望を剥奪され絶望に耐え得ず、その生に本来的な営為になげやりとなり、やけ(自棄)になって、その生の価値あるものを放棄し、ついには、自身の心身全体の遺棄へと向かうこともある。自棄は、精神の癌細胞である。
自棄は、苦痛・苦悩に耐えれば、なお先のあるものを、自分の苦痛に屈し自分の絶望に負けて、捨て鉢になり、それまでに培ったすべてをご破算にして投げ棄て、たまった鬱憤を見境なく暴発させていく。苦痛回避の自然的衝動を抑止した忍耐は、反自然・超自然の人間的尊厳の端的である。だが、自暴自棄は、自然を超越しての忍耐を貫けず、自身(の苦痛)に敗けて自身を遺棄する。その尊い生の真摯な営為を投げ棄てて逃亡する。自身で自身を破滅させ遺棄する自棄は、反理性であるのみか、自然以下の反自然の愚行となる。
絶望は、希望を剥奪されてなる。剥奪するものは、自身ではなく、多く外にあり、絶望させられるのである。その絶望に耐えれば、やがて、また、希望を見出してもいける。だが、やけ(自棄)は、その忍耐を貫徹できず、自身が自身を遺棄する。やけは、自分が出す。自棄になるか否かは、自分の意志の決断しだいである。そとから強いられ、他人に起因することも多い絶望とちがい、やけは、自分が自分をすてるのであり、自己責任である。道を絶たれて絶望した人を非難するのは酷であるが、自分の道を自分でやきはらう自棄になった者は、批判されて当然である。絶望と違い、やけは、ひとのせいにすることはできない。
やけ(自棄)は、自分を棄てるが、これが、個我のうちのエゴ・利己の放棄であった場合は、無我・没我の境地をもたらしうる。やけ(自棄)の愚行のなかで、個我の執着を棄てるといった健やかな方向へと舵を切り変えることができた者は、エゴの煩悶を放棄するから、安らかな境地に至り、創造的な自己を取り戻す。
1-8. 疲弊
苦痛は、その生が損傷して、その部位なり全体が危機的状態になっていることを語る。生は、生じた苦痛への対応に大わらわとなる。大きな苦痛であれば、短時間であっても、大きなエネルギーを使うことになるが、小さなものでも、時間とともに使われるエネルギーは、積算すると多大となっていく。苦痛にもがき悶えるような場合は、出口がなく無意味に徒にエネルギーを消費し続ける。時間とともにその徒な動きは、疲弊してくる。苦痛は、なにもせずにいても、これを受け止めて緊張しているだけで、疲れる。苦痛が去ったあと、ぐったりとするぐらいに、疲労を抱え込むことになる。ながくつづく苦痛の場合は、疲労は蓄積して、生を疲労困憊させることになる。損傷・苦痛への反応は、緊張・萎縮から煩悶までいずれも、生へのマイナスの食い止めのための必死の営為で、大きなエネルギー消費、消耗であり、時間とともに、疲労が蓄積する。抑鬱も不安も焦燥も大きな疲労をもたらす。激痛のショックでの虚脱化も、意識・感覚には無となっても、生体自体は大きなダメージを受けることで、平常の意識が回復すれば、おそらく、疲弊を感じることとなろう。
疲労は、心身に損傷をうけたこと、有害物質が心身をむしばむこと、緊張や活動等をもって自身で疲労物質を出して活動能力が弱体化すること、あるいは、それらへの新陳代謝・回復力が間に合わなくなっていること等をもって心身にダメージを感じることであろう。苦痛は、身体の損傷であっても、感情としては心身全体で感じるものになり、疲労感も、身体のそれと心のそれは不可分である。が、かならずしも一体ではない。身体の疲労物質・損傷は、直接的にはその身体の疲労をもたらすにとどまる。猛烈に身体を酷使してのその疲労が、社会的な名誉となることなら、精神的には愉快となる。逆に精神的に疲労困憊していても、さしあたり身体は快調でありうる。
1-8-1. 苦痛・損傷を蓄積しての疲弊
生は、損傷(苦痛)を余儀なくされても、自己再生、自己維持の能力をもつ。損壊した部分は再生する。だが、損傷が大きくなるとそれが残ったり、激しく傷つけば回復不能ともなっていく。損傷が重なり蓄積すれば生の機能は一層弱体化もしていく。日常的な営為で軽く損傷を受けた状態は、疲労ということで、少し休めば、損傷を修復し再生してもとのように活動が可能となる。が、無理をすることが続けば、激しい疲労・疲労困憊状態になって、生の回復は、すぐにはならないことともなる。マラソンなどで、血中の乳酸等をもって疲労度を計ることがあるが、走行を続けていると、その乳酸値が急激に上昇し、疲労感が激増してくる段階があるという(ただし、乳酸自体は疲労物質ではないようである)。生は、損傷を回復しつつ耐えていく平常対応と、それでは間に合わなくなり損傷を残し疲労を蓄積しつつする非常時対応をする場合があるといってよいのではないか。火事場の馬鹿力をいう。生の保全を思い力をセーブしつつする平常対応と、非常事態となって、保全に回す分をもすべてその対応に使い疲労激増も厭わず全力を出し切る対応という違いである。
心身の鍛錬では、苦痛を耐えるが、軽い苦痛・疲労を生じる程度であれば、そこでの疲労、損傷からの回復は、すぐになる。その苦痛・疲労をふまえて、次には、それが平気になれるような能力を身につけてもいく。だが、その疲労の限度を超えて、損傷の度が過度になると、損傷のままに残り、その疲労困憊での消耗を重ねると、場合によれば、再生不可能な損壊をもたらすことにもなる。野球で、肩を痛めて野球から身を引かざるを得ないようなことが生じる。損傷・苦痛がその回復力を超えたものとなっているのに、それを繰り返した場合、ダメージは蓄積して、生を消耗させていく。過労を休息で解消して回復できるのが生の持続可能な穏当なあり方であろうが、これを無視して、過労からの回復をせず、過労、生の損傷・破壊を重ねていくことがある。命をすり減らす過酷な状態の進行となり、過労死をもたらす。
2. 苦痛とその区分け
忍耐の対象は、回避したい不快な感情類である。悲しみの忍耐は、悲しいという不快感情を対象とする。恐怖の忍耐は、恐怖という避けたい不快感情になる。それらをまとめた忍耐の対象一般ということになると、不快感情ということになるが、不快というだけの場合、ささいなものを含んでいて、忍耐の対象というには、ものたりない感じになろう。
怪我や絶望に耐える場合、不快ではおさまらない。不快だけなら、怪我は放置できるであろう。怪我での忍耐の対象は、無視できない、放置できない、耐えがたい「苦痛」であろう。絶望が、単なる不快でしかないのなら、自殺者をだすようなことはなかろう。少し寒いとか暑いとかといった単なる不快ぐらいなら、どこにもあって日常的に経験していることで、苦痛のように覚醒・注視を強制されることではなく、気にすることでもない。しかし、絶望の強い不快は放置しがたくひとの気をそこへと集中させ苦悩させつづける。それを不快というだけでは、軽すぎる。絶望の否定的な不快な感情は、ひとをそこへ縛り付けて煩悶させる苦悩・辛苦といったものになるであろう。精神的に否定的感情をいだいて忍耐する場合、辛苦が一般的であろうか。辛い思いをし苦しむ、辛苦である。
しかし、辛苦では、生理的な場面での忍耐の対象は若干言い表しにくいものになる。身体の怪我は、大きく長く続けば辛いものとなって辛苦でもよかろうが、擦り傷に我慢するときのその対象を辛苦、辛い苦しいというのでは、大げさである。辛苦にではなく、痛みに我慢するのである。痛みでは、感覚的なものに限定されそうだから、耐えるべき不快をより広く言い表すには、苦痛がいいように思える。呼吸を止めるときの忍耐では、呼吸停止が「痛い」とはいわない。「苦しい」であろう。その点では、「苦痛」なら、痛みにも苦しみにも、いいうる。擦り傷も苦痛、呼吸停止も苦痛、絶望の苦悩・辛苦も、絶望の苦痛といって通じるであろう。苦痛は、軽いものにも重いものにも、生理的なものにも精神的なものにも言いうる。忍耐の対象は、この「苦痛」をもってすればよいように思われる。
これは、言葉の使い方の問題というより、言語をもっての、この世界の普遍的なあり様(概念)の把握の問題である。なにであれ、苦痛(概念)に該当するものには、生の損傷への嫌悪・緊張・注視の強制等があり、同じようにそれへの回避衝動がある。苦痛(という概念)には、どんな苦痛であっても、同じく忍耐で構える。
2-1. 苦痛の量と質
苦痛を意識的に作り出すものとして犯罪への刑罰がある。軽度のものから重罰までがあるが、その与える苦痛の違いは、まずは、量的な面から、懲役1年とか2年とかいう。質的なちがいも加味しては、ムチ打ちや石打ちの生理的な苦痛、単に刑務所に閉じ込めて自由を奪うだけのもの、苦役をもってするもの等、与える苦痛は、量と質の両方面から工夫されている。「苦は、色を変え、様を変え」というように、苦痛といっても、色とりどりで様々な質と量からなる。この世界は、「苦界」ともいうように、苦痛に満ち満ちており、生まれてから死ぬまで多種多様の質と量の苦痛を味わうことである。
苦痛の量的な違いは、その受けた損傷の大きさのちがいとなる。大きな痛みは、おおきな損傷を示す。蚊やアブに刺された軽い痛みは、皮膚にかすかな跡しかのこさないのが普通である。が、蜂に刺された場合は、じんじんと強く痛み、刺された周辺が炎症を起こす。しかし、痛みが小さくても、痛覚のない肝臓に重大な損傷を受けている場合もある。皮膚の場合、痛覚があるけれども、ある量の損傷になるまでは作動しない。ある閾値以上の刺激が痛覚をはたらかせ苦痛となる。大きな損傷は激痛を生じる。小さな痛みでは、その発生部位に注目が強制されるだけであるが、激痛になると心身全体をまきこむ。さらに大きな苦痛は、生に大きなダメージを与えて失神させたりショック症状を引き起こすようなことになる。
苦痛では、質的な違いも顕著である。感覚に由来する苦痛と、社会的精神的な損傷(価値喪失)による悲しみのもたらす苦痛は、同じく苦痛であっても、感じられるものは感情としては、まるで異なる。何が損傷を受けているかということでの違いであろう。手が損傷をうければ手が痛いと知覚して私が苦痛を抱く。悲痛、悲しさは、社会的存在としての私の損傷・価値喪失であり、これに身体も反応し萎縮し涙をともなう苦痛となる。外的損傷による苦痛と、うちの欲求を不充足にとどめる苦痛の違いも異質を際立たせる。手足を骨折した苦痛と、愛(の欲求)のかなわなかった失恋の痛みは、質を異にする苦痛である。2-1-1. 損傷による苦痛、欲求抑圧の苦痛
苦痛は、その発生領域の違いから精神的な苦痛と生理的な苦痛に大別できるが、忍耐するときの対応のちがいの点からは、主として主体のそとから来る損傷への苦痛と、うちに生じる欲求への抑圧の苦痛との違いが目立つ。擦り傷のような外傷に由来する苦痛と、うちに生じる欲求の不充足、たとえばダイエット、食欲抑制で生じる苦痛とは、大いに異なった苦痛感情となる。外傷の苦痛を避けるには、外からの加害に注意する必要がある。欲求での苦痛の解消は、自己内の欲求をなくしたり欲するものを獲得してなる。
苦痛は、損傷によるものの場合、その損傷の部位に生じて、これに注目させこれを放置しがたいものと捉えて危機的対応を求める。足が痛いのは足が傷ついたことにより、風邪で頭が痛いのは、脳のどこかが傷ついているのであろう。身体への外的な刺激は、皮膚に感じるが、皮膚の損傷をもたらすほどに大きくなければ、苦痛刺激・痛みにはならない。触られている・触れているという触覚の対象にとどまる。だが、それが損傷をもたらすようなものになると、痛覚刺激となる。損傷での苦痛は、それが生理的なものであれ精神的な傷であれ、その生において価値を有し機能しているものが傷つけられ欠損したこと、あるいは反価値が押し付けられたことへの火急の報知として生じる。
他方で、欲求においても、不快・苦痛は感じられる。呼吸欲求の抑止、その不充足は、刻一刻と苦痛の度を大きくしていく。欲求の不充足感は、価値あるものが現に不足している欠損していると感じているのであり、これを確保したいということである。苦痛は、その切迫を知らせるものである。欲求は、自身に不足しているものを志向するが、その欲求の苦痛は、それの今ないことに、欠損にいだくものであろう。求める価値あるものそれ自身については、これが得られることを楽しみとし想像して愉快とするが、苦痛は、それのないこと、欠損の現実にいだく。欲求は、あるいは、現に反価値物(老廃物など)が存在するので、これを廃棄して、なくしたいという欲求でもある。呼吸欲は、酸素不足を充足したいということでの苦痛であり、炭酸ガスを排出したいという欲求である。マイナスの状態に苦痛を感じている反欲求は、これをゼロにまで回復したいという欲求である。それが強いとき、切迫的な尿意・便意のように、苦痛となって、ひとを欲求充足へと駆り立てる。
2-1-1-1. 損傷と欲求不充足は、同一の場合もある
損傷と、内の欲求は、異なったものであるが、同じ事柄について違った方向から見たものになることもある。損傷は、生にマイナス・欠損が加えられて損傷・苦痛となり、欲求は、マイナス・欠損のあるところでこれから回復したいと欲して、その不充足のマイナス状態に苦痛を抱く。失恋は、自分の性愛への欲求が不充足になり、これを回復したいと欲するところにいだく苦痛であり、外的に、愛するひとから冷たく拒否されて心がそとから傷つけられ、痛むのである。
欲求は、生理的なものでは、損傷による苦痛と同じく、生理的な痛みを生じることがあって、当該の部位に損傷によるのと似た苦痛をともなうことがある。食の空腹は、欲求自体の不充足感の苦痛とともに、別の固有の生理的な苦痛を胃において感じる。肥満肯定の多食の人がときに弁明して、胃に何か食物を入れておかないと胃酸が胃を溶かして傷つけ胃が痛くなるのだということがあるが、若干なんらかの損傷が胃に生じているのであろう。口に苦痛を感じず、胃に感じるのは、食物が確実に栄養となる場所にまで届くことが肝要とふまえてのことであろう。皮膚の痛みも、皮膚の損傷に感じるとともに、それから逃れたいという欲求が生じていて、それを充足できないことで苦痛になることもある。蚊に刺されての痒みの苦痛は、掻きたいという欲求をもって、これを満たして掻けばその苦痛はおさまるが、この欲求を不充足にしていた場合、苛立ち辛く、その刺されての痛みを大きくする。尿意は、膀胱が膨らんで排尿欲求を生じることになるが、同時に膀胱や尿道あたりの緊張をもっての生理的な苦痛を伴う。その生理的な苦痛が切迫的な痛みとなり、排尿欲求の不充足の不快・苦痛と一体的になって、排尿を迫ることである。
精神的営為では、欲求不充足は、こころを蝕み、これを傷つけて、痛みを生じる。欲求があるから、価値あるものが獲得されていくのだが、この欲求が、不足するもの、欠けるものを意識して損傷を作り出す。その不充足・損傷に精神は苦痛を感じる。肉親の死は、家族の欠損・損傷で、悲しみの苦痛を生じるが、それは、肉親への愛の欲求がつくる。その愛の欲求を満たせなくなり辛いのである。
2-1-1-2. 欲求・衝動も忍耐は苦痛にするが、怒りでもそうか
欲求についての忍耐、例えば、空腹とか尿意での忍耐は、その苦痛にする。しかし、忍耐の一大独立峰をなすであろう怒りへの忍耐では、その怒りは、苦痛を与える側の感情であるから、苦痛に耐えていると言えるのかどうか、躊躇するところがある。切り傷の場合、それが苦痛であるのは、その損傷自体から生じるもので、これを忍耐するしない以前に苦痛なのである。悲しみや恐怖の苦痛も、尿意の場合も、それに忍耐する以前に、それら自体が苦痛である。だが、怒りの場合、これを忍耐することは苦痛だが、怒りの感情自体は、切り傷や悲しみの感情の苦痛と同じように、苦痛といえるのかどうか。怒る者は、傷つき痛むのとは反対であって、傷つける側である。怒り自体のどこに苦痛があるのか、少し振り返って見なくてはならない。
まず、怒り(衝動・欲求)の感情自体が苦痛になるものかどうかであるが、「馬鹿やろう!」と怒鳴ってすっきりすることはあるとしても、怒ること自体は快ではなかろう。怒りは、まず、その対象を気障りなものみなすことに始まる。気障りと感じるということは、それが不愉快で嫌悪感をいだかせ、したがって苦痛を感じさせるということである。とすれば、怒りは、これを抱くとともに苦痛を感じているわけである。さらに、その気障りなものに懲罰をと構えるときは、緊張し血圧をあげて息巻くものであれば、これも不快ではあっても、快とは言えないであろう。激怒では、攻撃的緊張が高まり、血圧もあげて身体に大きな負担がかかり、疲労をもたらす。不快・苦痛である。
しかし、怒りの苦痛は、その怒り自体よりも、これを出すことを抑止しての、我慢するときの、つまり、怒りを出さないように抑制するときの苦痛がなによりも問題となる。うちに生じている怒りの攻撃衝動があり、それを出さないようにするには、これに見合うだけの抑止力を意志は発揮しなくてはならない。それでも時々は爆発するように、これを抑止し続けることは困難で辛いことである。おそらく普通はこれが怒りに関しての一番の苦痛である。そとに出ようとする衝動とこれを抑止する意志がぶつかり合うのであり、抑えられた衝動は苦しく、抑える意志は辛い。
怒りの忍耐でも、怒りの感情自体が、やはり苦痛であり、さらに加えて、その怒りの表出を抑止することが辛く、苦痛なのである。
2-1-1-3. 欲求の抑制・自制も、その忍耐は、苦痛にする
食欲・性欲で忍耐をいうことがあるが、これは快楽を前にしてのものであれば、その忍耐の対象は、苦痛ではなく快楽であるようにも思える。これらも、忍耐する場面では、やはり苦痛を対象としているのであろうか。
美味のケーキが目の前にあって、これを我慢する場合、食の快楽をひかえて我慢するのであれば、快楽を忍耐するともとれる。しかし、その美味を楽しみにして待つ場合は、うきうきとすることで、我慢・忍耐は不要であろう。我慢がいるのは、待つことが楽しくなく辛いものになってである。いますぐ食べたいのに、その欲求を無理やり抑えるとき、その時間経過の間は、ときに辛いものになる。その辛さ・苦痛を我慢するということで、やはり、その忍耐・我慢は、苦痛にするのである。
性欲の場合は、食の空腹とちがい不充足でも生理的な苦痛は生じない。食とちがい性欲は、不充足で平気どころか厳しい環境(刑務所など)では消滅さえする(精神的には苦痛となる。失恋などは、心に大きな痛手となり、その苦悩を耐え忍ぶ)。生理的には苦痛のない性欲(の不充足)だが、性的快楽享受を抑制するときに、これを我慢・忍耐ということがある。苦痛がないのならば、快楽を忍耐するということであろうか。しかし、その享受がすぐにはならず、夜を待っての楽しみなのだとすると、その快楽の不充足は、待つ間は、うきうきと楽しいことで、その待つ間を忍耐とは言わないであろう。それを、時に忍耐・我慢で表現するのは、その待つ間が不満でイライラしたりして辛い場合に限定されるのではないか。今すぐにという快楽欲求・衝動を抑止することの意思の辛さがあって、この辛さに耐えるのであろう。ここでも、忍耐は、辛さ・苦痛にするというべきであろう。
呼吸欲の場合も、同様である。その欲求不充足ということで息を止めるとき、はじめは苦痛ではなく、むしろ息をするより楽である。その間は、我慢とか忍耐は無用である。だが、それを持続していると、息苦しくなってくる。そこで不充足にと息を止め続けるのは、息苦しさ・苦痛を甘受し続けての忍耐ということになっていく。忍耐は、やはり、どんな場合も、苦痛にするといってよさそうである。
2-1-2. 不快・痛み・苦しみ・辛さ
忍耐の対象は、苦痛で代表してよいであろうが、「苦は、色を変え、様を変え」で、そのあり方の違いから、苦痛は、幾つかの違った表現をもつ。総括的で一番広い範囲を網羅しているのは「不快」であろう。快不快というように、感情は、快か不快かに大別がされる。その不快の中で、より限定的になって、その不快が深刻で無視し難いものとなり回避へと火急の対応を迫るようなものが「苦痛」であろうか。この苦痛に対しては、不快は、軽度の苦痛一般を表すものになる。さらに、苦痛のうちで、生損傷のその部位での苦痛を中心にした「痛み」があり、内的欲求の不充足とか、生の諸機能・組織が不調でくるって、くるしくなる「苦しみ」が言われる。負けそうになるぐらいにきつい苦痛には「辛さ」があがる。
「痛み」は、中心は身体的感覚的なものであろう。どこが損傷して痛むのかという痛むところの部位を意識できる。手や足が痛みの感覚をもつ。が、同時に、感情として、この私という主体が痛いのであって、感覚的痛みは、手にあるとしても、痛みの感情は、心身の全体でもって緊張・萎縮等の反応をする。損傷の部位の明確な痛みだが、「痛い目にあう」というように、感覚的身体的な苦痛を超えた精神的社会的なレベルでもいう。これは、身体の痛みをもとにしての拡大使用であろう。
「苦しみ」は、傷んだ部位の痛みとはちがい、生の欲求とか衝動などの生動性が妨げられるようなときに感じる。調子がくるい、くるしいと。風邪になると、頭とか喉という傷んだ部位については「痛い」となるが、身体全体が熱っぽくて不調なら、「苦しい」ということになる。「痛み」は、特定の部位に受けた損傷に抱き、「苦しみ」は、生の組織なり機能がくるっての乱調・不調状態、あるいは欲求等への阻害・妨害に感じると言っていいであろうか。「のどが痛い」とは、その部位が傷んでいると感じたものであり、「のどが苦しい」とは、のどの不調、その生動性への阻害を感じているとき言う。
「辛さ」は、意志がぎりぎり受け入れられる大きな苦・痛であろう。私が辛いのだが、反省的客観的な構え方をもった、大人の苦痛になろうか。「痛い」「苦しい」とちがって、こどもは、自分の苦痛を「辛い」とはいいにくいであろう。自分に一歩距離をとってその耐えがたい苦痛を見つめ、敗北を予期した悲しみの契機を含んだ、反省的なものとして「辛さ」は語られているように感じられる。
2-1-2-1. 胃が不快、痛い、苦しい、辛い
「胃が不快だ」というのは、痛みがあるような、ないような軽度の不調にいうことであろう。胸やけがする等、故障気味の胃の状態を感じる軽い苦痛であろう。日頃は、胃について感じるものは何もない。調子がよくても、絶好調であっても、快は感じない。だが、故障・損傷になると、胃の方から苦情が出て、少しのものでも意識にのぼってくることになる。その軽い若干の不調の状態を感じるようなレベルになるのが、「不快」であろう。
「胃が痛い」というと、胃潰瘍など本格的な損傷のありそうな苦痛になる。胃の表面に痛覚があるのではなかろうが、胃をめぐっての感覚的な痛みで、痛いのが胃という部位にあることの感じられるものである。痛み方は、多様である。胃の損傷の痛み、痙攣しての痛み、あるいは、精神的なものが胃の痛みになったものとかに応じて、刺すような痛みとか重苦しい痛み等になる。あるいは、健康な胃が空腹で苦情を言っての、どちらかというと心地よさを精神が感じうるような痛みもあって多彩である。
「胃が苦しい」ともいう。食べすぎて「胃が苦しい」のは、胃が正常には機能しにくくなり、調子がくるい、くるしいというのであろう。おいしいものへの欲求はあるのに、胃に食べ物を詰め込みすぎて、胃がその欲求・思いを受け付けず、その生動性が機能しがたくなっている状態であろう(過食の反対の空腹の苦痛は、「苦しい」とはいわない。胃が健やかで活発な状態での空腹においては、食物の不充足・欠損に特有の「痛み」を感じる)。あるいは、胃の病的な不調で「胃が苦しい」という場合、胃の本来的な生動性が機能しがたくなっていて、「重苦しい」とか「むかむかして苦しい」ということで、調子がくるっていて、くるしいという状態であろう。
「胃が辛い」という場合は、「痛い」というのとちがい、その辛さは、もっぱら、生主体のこの「私」において感じる。いまの私の辛さは、胃に起因すると。痛みや苦しさがつのり、耐えがたいほどになって、ぎりぎりで、へこたれそうで、半分、敗北・降参といった感じになった悲しみの契機をもった苦・痛になろうか。
2-1-2-2. 生活の不快、苦しさ、辛さ、苦痛
ひとの生は、社会生活をもって営まれる。その生活について、これが苦しいとか辛いという。その軽度の苦痛は、「不快」をもってすることができるであろう。わがままな構成員、狭い家などに、楽しめない状態だが、かといって強く拒否したいとまではならないのが不快であろうか。
ひとの生活は精神的社会的なものだから、身体的な損傷の部位にいう「痛み」は、一般的には言わないだろう。多くが、苦しい、辛いになる。「生活が苦しい」とは、その生活の経済的な欲求不充足の苦痛をさすのが普通であろう。「家計が苦しい」ということである。生活は、経済的に何とか成り立っているものの、その不如意の状態が耐えがたいのである。欲しいものがあってもその欲求を抑止しなければならず、生活という営為・生動性が抑圧されて、意のようにならない「苦しい」状態にあるということであろう。
「生活が辛い」は、その生活の苦しさに耐えているが、ぎりぎりで、耐えがたさが身をむしばみかけており、悲しみの感情がともないがちの大きな苦痛にいうのではないか。「苦しい」では、まだ、生活を持続させる気力がしっかりしているが、辛いという状態では、早晩その生活は、無理となり、放棄し、その大きな主観的な苦を回避・破棄する方向に行きそうなのである。苦しいは、生計の苦しさが主となるだろうが、辛さは、それ以外の、家族の一員の暴力などで、もうその生活は成り立ちがたいというような、ぎりぎりの状態でもあろう。
「この生活が苦痛」というときは、家の中あるいは職場等での不快が大きく、続けることは無理で、そこから逃げ出したいという衝動をもっての厳しい苦痛になりそうである。夫婦が離婚したいと考えるような家庭でいう。生活の「苦しさ」「辛さ」に比して、ここでの「苦痛」は、それらより一層甚だしく耐えがたいもので、その苦痛解消へと向かうこと必至となる感じである。夫を見ると嫌悪感を生じ虫酸が走るといった激しいものがその「苦痛」には込められているように思われる。苦しい、つらいは、自身のうちの欲求の不充足だが、苦痛は、心の損傷に重きをおいて、嫁姑とか夫婦の間で傷つけあって、怒りや憎悪で相互に大きな傷を心に負い痛む状態にあって、苦痛だと。あるいは、苦しさ、辛さは、その生活自体は価値あることと思い、これを守ろうという姿勢のもとにあるが、苦痛は、その生活自体が自身に受け入れがたく、破棄したい、逃げ出したいという嫌悪感いっぱいのものになりそうである。苦しさ、辛さ以上に、苦痛の方に厳しいものが感じられるが、どうであろうか。
「生活が痛い」は、聞かない。痛いは、感覚的生理的なものになり、ひとの精神的社会的な生活では、特殊になるのであろう。が、時に、思わぬ出費で家計に欠損を生じて「罰金の支払いは、痛い」というようなことがある。感覚的で単純明快な「痛い」が効果的表現になるのであろうか。あるいは、「痛い」が、腕や足が痛いと、部位をいい、主体としての自分と一歩距離をおいていうように、部位に相当する特定の部分における生活上の損傷・痛みで、若干の距離をその生活の苦痛に対してもっている場合にいうのであろう。
2-1-2-3. 苦痛は、損傷に注目させるが、激しくなると苦痛自体に注目させる
不快や苦痛、痛みは、まずは、これをもたらしているもの、就中損傷に目を向ける。腕が痛い、足が痛いとなる。痛みは身体の部位の痛みであり、不快は、身体とか気温とかそれをもたらす外的なものについていう。この私の心身が不快(苦痛)なのだが、その原因に目を向けて、寒い家が不快だとか、犬の声が苦痛だという。損傷に感じる苦痛であり、苦痛をもたらす対象に注目して、損傷除去等への対応を急ぐことになる。
だが、苦痛は、大きくなると苦痛自体に意識を向けさせる。放置しがたいものとして何より注視することになるのは、苦痛そのもので、これをなんとか無くしたいともがき、これから逃れられないことに悩む。それをもたらしている外的な物があるとしても、この苦痛をなんとかしたいと、苦痛そのものに目が向く。膝が少し痛むぐらいのときは、膝に注目する。膝を動かしてみたり膝の使い方を工夫してみる。だが、痛みが激しくなると、苦痛をなんとかと苦痛に注目して、膝の生理的故障はどうでもあれ、とにかく切実な苦痛の軽減をと、薬等を求めることになる。
苦しみは、生の内の生動性の阻害などに抱くから、はじめから内にこれを見るが、それでも、小さい苦しみは、自身から突き放して対象的に捉えるであろう。「胃が苦しい」「生活が苦しい」というとき、些細なものなら、胃自体、生活自体においてこれを感じるが、強くなると、苦しみそのものに囚われてこの苦悩自体の解消をと求めていくのではないか。過食で胃が苦しい程度なら、胃に注目して、時間の経つのを待つ。だが、激しい胃痛に襲われた場合、胃がどうこうというより、その苦痛をなんとかおさめたいと、苦痛自体に気をもっていくであろう。「生活の苦痛」も、軽いものならこれをもたらす者に注目するが、大きな懊悩でその苦痛が耐えがたいものなら、精神安定剤を飲むなどこの苦痛への対処にまずは向かう。
2-1-2-4. 口に、苦い・辛い
漢字の苦痛表現の辛・苦、苦しい・辛いと似たものとして味覚に「苦(にが)い」「辛(から)い」をいう。「苦しい」「辛い」の苦痛は、私が感じるが、味の「苦い」「辛い」は、私の舌・口がそう感覚し、同時にこれを排除すべきものと受け取って私が不快の感情をいだく。甘味の場合は、舌で感覚し、のど越しに至ってはじめて快と受け取るが、苦い辛いは、排除すべきもので、のどに入れてはならず、口に入った段階で排除の不快感情をいだく。食べることについては、もっと苦しく辛いのは、嘔吐をもたらし悪臭のする(重油とか大便など)、口にすること自体が困難なものになろうが、日常的にはそういうものは口にしないので、食についての苦しさ・辛さとしては言われず、口にするもののうちでの辛・苦ということで苦い辛いとなるのであろう。
快苦は、生を益し害することにいだく。その特殊なものが食物を口に受け入れたときの可否、甘さとか苦味で、受け入れと排除をさそう味覚であり感情である。苦痛用語をもって味覚における排除すべきものを表現する。おそらく、漢字の辛・苦の成立としては、味覚での苦痛表現の方が先になるのではないか。動物では、食は日々の営為の中心であり、それは、ひとでもさかのぼるほどにそうであったろう。猿であった時代、果実を食べるとき、有害で嫌悪して拒否すべきものを苦・辛・酸・渋等と感じて排除した。そして、たまの危機に生じる身体への損傷を、日々の味覚表現をもって言い表したということである(「腹が苦(にが)る」という表現を昭和の昔耳にしたことがある。口に苦いということに由来する苦痛表現だったのであろう)。酸味、渋みは、辛酸とか苦渋というけれども、辛苦ほど苦痛表現に一般的ではない。酸っぱいものや渋いものは、受け入れたくないものではあるが、果実でいうと未熟の味である。渋い柿も、糖を一杯含んでいるし、酸っぱいミカンも、同様栄養たっぷりのはずで、有毒なものを感じ取る苦味、口内の粘膜が損傷するような辛味とはちがう。酸・渋は、食べるには早すぎるということであり、排除すべき損傷・有毒の辛・苦ほどに拒否的にならなくてもよかったのであろう。有毒の苦(にが)いものは、心身の機能を阻害して苦(くる)しい思いをさせ、辛(から)いものは、口内を針(辛)で刺すような激痛で辛(つら)いということであろう。
苦い、辛(から)いは、口に不快の代表だが、豊かな生活の中では、甘さ、うま味を一層深くするために役立てられる。チョコレートは砂糖の甘味に魅されているのであるが、苦味があることで甘味が際立ち一層おいしくなる。苦味の不快感情を口でまず持ち、緊張する中に、のど越しに甘さの快感情を抱いて、後者を際立たせるのであろう。辛いという口内の皮膚への刺激も、うま味を引き立てて食を豊かにしてくれる。激辛のラーメンとかカレーは、その辛さの刺激で汗するほどになるが、魅了されるおいしさをつくるようである。ワサビなどは口内ではなく主として鼻を刺激して涙を出させるぐらいの刺激痛となるが、これは、生臭さとか腐敗臭を消してくれて、本来は生臭くて食べる気になれない刺身などを何とか食べることができるようにしてくれる。酸・渋も、果物のジュース類など、酸味がその甘味を際立たせ、ワインとかお茶では、渋みが独特の豊かな風味・味わいを作り出してくれる。
2-2. 不快
感情はすべて快か不快かに分類される。不快と感じるものには距離をとり、その害悪から逃れようとの感情的反応をする。傷害への苦痛感情のみでなく、恐怖も、美味しくないことも、気に入らないひとが接近してくることも、不快ということになる。有益とみなした肯定的なものへの快反応の逆で、自分にとって否定的に感じられるもの全般への、嫌悪して距離をとろうと拒否的排除的に反応する感情を総体的に捉えて、不快とする。
感情は、その対象とする物事について、これの価値・反価値を判定し、その生にふさわしい反応・構えをとる。単に、価値判定しただけでは、感情にはならない。眼前に存在するものが、その生にとってマイナスだと判定しても、それだけだとなお感情にはならない。怒りの感情において、その者のゆえに損害を生じたと見なしたり、その振る舞いが粗暴で気障りだと判定しても、これに懲罰を加えなくてはと反応しないならば、怒りとはならない。冷静に判断してこれに損害賠償を請求し、粗暴さに人物評価の点を低くするだけだとすると、怒りとはならない。その損害・気障りに対して、懲罰をとの攻撃的姿勢・反応を身体がもって、血圧をあげムカついてはじめて怒りの感情となる。快・不快も、単にそれを有益・有害と価値判断するだけでは、感情にはならない。その有益・有害についてその生体として実践的な心身反応・対応をもって感情となる。有益なものに親しみ接近の振る舞いをし積極的に受け入れの構えをもって快となる。逆の不快は、有害等否定的に価値判定して、これにその生体として排斥的拒否的な緊張や萎縮の心身反応をもってはじめて、不快感情となる。快不快は、アメ(褒美)とムチ(罰)となって、快感情には魅され味わいたいものとなり、不快感情は、回避したい思いをもたせ、それの生起・接近を避けようとすることになる。
この大分類としての不快のうち、強いものは、苦痛とか辛苦・苦悩等となって際立たせられる。したがって、そこまでではない軽い不快が、苦痛や辛苦と並ぶ、下位分類としての不快となる。皮膚刺激でいえば、お湯につかって、やけどしそうなぐらいの高温なら、苦痛刺激となり、即風呂から飛び出すことである。そこまでではないやや熱めの風呂は、苦痛への閾値以下の状態なら、不快というであろう。それよりお湯の温度が下で、適温の快楽の風呂となる。さらに温度が低くなると、不快な風呂となり、一層低温で冷たさが身にしみれば苦痛となっていく。
2-2-1. 快不快はペアになるが、快のみ不快のみの感情類もある
不快は、快でない(不)ものということで、感情は、快か、そうでなければ不快(苦)にとすべて振り分けられる。快とその反対の不快(苦)は、二分される感情の両極であるが、各感情にすべてそのペアとなる反対極があるというわけではない。両極のあり方については、大きくは、三様にこれを踏まえておくといいのではないかと思う。 第一は、快と不快(苦)が共に対等に反対極として存在している場合である。第二は、苦(不快)のみがあって、反対の快は独自的にはない場合、第三は、快のみがあって、反対の不快(苦)の極はないものである。
第二第三の場合、通常は対立する極は、無に留まるが、特殊的には、その無を有化して対立極的なものとし第一のものとなることもある。酒など麻薬の快楽は、その無(素面)を単なる無とするのが一般だが、中毒になると、その無が苦痛(禁断症状)として有化する。
さらに、快か不快かではなく、快も不快もと、快不快が同時にそこに抱かれる場合もある。食などは、快不快(苦)が一体的になり同時的に進行する。美味しいものもそうでない不快なものも同時に口にするということはもちろん、もっと緊密に、不可分一体になっている。チョコレートは、美味・快であるが、その快は、不快の苦味があってのものである。その苦味の不快が快を特別なものに作りなして人を魅了する。マゾヒズム(被虐性愛)では、肉体的苦痛を通して性的快楽を高めるのだという。笑いなどの愉快さは、おそらく、不快の緊張を必須とする弛緩の快感であろう。
味覚の快や笑いの愉快さは、快不快一体となった一感情であろうが、快も不快も生の成層のうちにあって、その層の違いのもとに快と不快を同時的に抱くこともある。身体を酷使して苦痛を感じつつ、その苦痛において精神的な充実感をいだく。生理的快不快に精神的快不快の重なることは多い。
2-2-1-1. 快不快の両極をもつ感情類
快不快のうちには、快と不快(苦)の両極が感情として積極的に存在する部類のものがある。生にとって有益なものと有害なものを判別する必要のあるものでは、有益と有害を感じる二つの感情、快と苦をもってすることがふさわしい。快へと駆り立てられて価値あるものが獲得可能となり、不快・苦痛を抱くことで、これから逃げこれを排斥して、生は適宜に維持される。ここでは、快をより多く感じ、苦(不快)は、より少なく感じることになる。快と感じれば、これにのめりこみこれをより多く享受しようとするし、以後、その快を予想できれば、これに魅されて引かれていく。不快は、感じれば即これの拒否反応へと向かい、より少なくて済むようにする。それが予想されればこれを感じなくて済むように動くことである。食では、甘いものは、日々味わうが、苦いものとか酸っぱいものは、まれにしか味わうことがない。この反対極をもつ感情では、中和(ゼロ)点をはさんで快と不快(有益と有害)の両極があるというだけではない。中庸の状態が快で、両極端は不快というものもある。温度など、皮膚や口に快と感じられる適温があり、それを超えた熱いものもそれ以下の冷たいものも不快と感じる。その両方の不快を避けて、中間に快適な温度を求めるといったことになる。
快不快の両極が積極的に存在するその筆頭にあがるのは、食べ物への感覚・感情であろう。快も不快も各々独立して感じることである。美味しいものを感じて快楽を味わうとともに、まずいものを苦いとか辛いとか、腐敗臭がして嘔吐しそうと不快(苦)に感じる。当然、その快となるものを受け入れ、不快な食べ物は拒否することになる。そのことで、有益な栄養物を摂取し、有害・有毒なものを排除することがおのずと可能になる。なお、不快の一部は、快を豊かにすることもある。苦・辛・酸・渋は、不快で有害なものを感じているのだが、それが少量であるとき、快を際立たせ豊かなものにすることがある。チョコレートは、甘いだけでは、黒砂糖でしかない。苦味があってのおいしさである。
アメとムチ、褒美と罰の両面から生を促進・保護していく快と不快(苦)の感情は、生理的な感情から精神的感情にまでおよぶ。いい匂いといやな匂い、喜びと悲しみ、楽しさと苦しさ等々、快があるのと同じように、これに対立的に不快(苦)が存在する。有益にも有害にも注意しておくことが生に好都合ということは多い。
2-2-1-2. 快不快のうち不快のみのある感情類
快不快のうちには、不快(苦痛)のみがあって、それの反対極になる快は存在しないものがある。苦痛とそれのない無(無痛)とのペアであるが、その無は、不快・苦痛がないことをそれとして意識した場合は、安らぎとなり快になることもある。痛みの典型となる皮膚の損傷は、これになる。損傷が生じれば苦痛・不快となって、これに注目し対処することになるが、その反対の無傷は、単なる無であり、快を感じることはないのが通常である。皮膚には痛点はあるが、快点はない。蚊に刺されると痛いから、これに注目して蚊をたたきつぶす。蚊が刺さないことは無でしかない。そんな無に快を感じていたら、起きてから寝るまで快の連続で、一日中うっとりとなって、何も手につかなくなろう。
内臓には痛覚はないというが、それでも大きな損傷には痛みを感じる。もちろん、苦痛のみがあって快は無である。胃について意識が向くのは、そこが痛むときだけである。日頃、順調に機能しているときは、快を感じることがないどころか、その存在すら意識できない。それを意識するのは、苦痛になり不快になるときだけである。有害な事態に注意すればいいということである。そうでないなら、順調ということで無視すればいいから、無でいいと。ただ、不快・苦痛に痛めつけられた直後は、それから解放されての安堵感をいだくことがある。苦痛が無化したことを意識するわずかの間、快を感じうる。痛み続ける歯を抜いた時、ほっと安堵し快感をもてる。だが、すぐにその快は消える。歯が痛むときとおなじように、その健康に快を感じるのだとすると、落ち着いてはおれないであろう。健康ならいたるところが快適な状態なのだから、体中から快感が湧き上がってきて困ったことになる。
日頃は、損傷への苦痛として、無傷状態は、単に痛みがないだけの無痛、無になるが、生じている苦痛の軽減に対処するようなときには、苦痛(不快)に対立する快楽をもって来ることがある。苦痛を無化しなくてはならないときには、神経を麻痺させて無化するとともに、何でもよい快楽一般を与えることで苦痛を感じなくする。快楽が対立的作用をするものとして登場して(勿論、腰痛や胃痛の解消に、腰の快楽、胃の快楽が対立極として登場するのではなく、何でもいい強烈な快楽一般が用意される)、これが苦痛と対立して苦痛を小さくしたり中和して苦痛を消滅させる。激痛を抑えるために、快楽の麻薬を投与することがある。精神の苦悩を小さくするために手っ取り早くは酒を飲む。この麻薬が苦悩の発生源の理性を眠らせることで心を穏やかにするとともに、酩酊の快楽がその苦悩を中和し軽減させる。激痛を無化するには、それへの意識を生じさせなければいいのだから、その無化作用は(麻薬の)快楽に限定したものではない。意識が別の重大事(例えば、戦闘状態)に集中すれば、おのずと、激痛は意識されず無にとどまる。快楽だけが苦痛を中和したり、苦痛消去の働きをする訳ではない。
2-2-1-3. 快不快の快のみのある感情類
快不快の感情では、快のみがあってその反対の苦痛(不快)極のないものもある。性的快楽は、生理的には、快のみがある。不快は存在しない。尿意の場合は、溜まると苦痛になるが、性欲については、精子が溜まって睾丸が痛むというようなことは聞いたこともない。放尿は苦痛に急かされてし、射精は快楽に急かされてする。性欲では、確実に受精するよう誘うためにアメが用意されているだけで、快楽のみがある。
性的な不快は、社会的な欲求不満(失恋とか無理やりの結婚など)としては大きいが、この不愉快は、生理的な不快・苦痛ではない。また、レイプなどでの苦痛は、精神的苦痛であるとともに生理的苦痛でもあろうが、後者は、身体損傷への苦痛となるもので、性的苦痛という、性的快楽の真逆の特別な苦痛を生じるわけではなかろう。男子はレイプされた場合も射精させられると快楽を抱く。レイプに生理的な性的苦痛が生じれば、気は楽だろうが、快楽を感じてしまうので、強い屈辱感、自己嫌悪感をもつことになるようである。性的快楽に対立する極、性的苦痛自体はない。ただ、その快楽を消失させる必要がある場合、不快一般を対置すれば、その中和は可能であろう。ちょうど、苦痛(不快)を中和するために、苦痛の緊張に対立的な働きをする弛緩一般、快楽一般をもってするようにである。
酒などでの酩酊も、快楽のみがあって、苦痛・不快は無である。酩酊の快楽は、麻薬が直接脳に作用して、脳内麻薬の代わりをして快楽を得させるものである。が、それの無の状態は、酩酊なしの爽やかな素面状態で、酩酊の快楽と、しらふでの清々しさとは、優劣はつけがたく、一生、酒などの麻薬使用はなしで済ます者も多い。古くは、快楽のために麻薬をつかうというより、酩酊しての異常心理(神憑り)状態を求めることが中心であった。したがってお祭りなど特別の日に限定して酩酊していた。だが、最近は、酩酊の快楽を求めるのが、飲酒など薬物使用の中心となっている。薬物の快楽の無は、単なる無で清々しく、不快・苦痛は存在しない。が、常用すると、中毒になり、きれると禁断症状がでてきて、酒等の麻薬の快楽の無い状態が苦痛となることもある。
ギャンブルも快を求めるが、これをしないからといって苦痛になるものではない。一般人には、賭け事ができなくても、禁止になっても、単に無でしかない。賭け事は、日頃の息抜きで、非日常に遊ぶのである。飲酒と同じく、賭け事の快のない状態は、単に爽やかな無であるだけであろう。しかし、これも飲酒と同様、その快楽のとりこになると中毒になって、賭け事が拒まれると苦痛になることはあるようである。さらに、ギャンブルでは、必ず敗けによる不快感があるから、勝ちの快楽と、負けの不快感・苦痛があるとも言える(常勝ではスリルゼロで、賭けにならない)。ギャンブルは、恐怖や落胆の苦痛・不快がときに存在する領域、というより、チョコレートの甘さの快楽が苦味(不快)を必須とするように、苦痛・不快を薬味にした快楽と見るとよいのかも知れない。
2-2-1-4. 快不快では、その量がしばしば問題となる
不快は不快でも、強烈なものもあれば、気にならない些細なものもある。快も、やや快であるものから、強烈な、人生をつぶしてでも得たいという快までがある。快不快に関して、量的違いは、有益と有害の大きさの違いとも重なって、注目される度合いが大きい。
快では、極快-並の快-かすかな快-無と量的な格付けがなり、不快の方は、極不快で苦痛-並みの不快―かすかな不快-無となる。各々の無の余韻があるところでは、無が有化して、不快・苦痛の無化の場合は安堵の快をいだく。歯痛で抜歯してこの苦痛がなくなった当座は、すっきりとして快適である。快の場合、その無は、苦痛・不快にまでなることはないのが普通だが、その方面の快楽中毒になると、禁断症状が出てきて、苦痛になる。快のアメで引き付けられるのみでなく、さらに苦痛のムチをもって駆り立てられて、その快にのめりこむようになる。
快も不快も、同一の感情の反復・持続のなかでは、その感受性を低くしていくものが多い。飲み物に砂糖を入れるような習慣のある場合、より甘いものでないとだんだん満足できなくなる。砂糖中毒とまでいわれるようになる。逆に、慣れるほどに快不快を感じる度合いの大きくなるものもある。食べ物の中には、微妙な味わいは、これに慣れるほどにその微かな味わいの違いを識別できるようになって快の度合いを深めていく。不快なものでも、重なるほどにその不快度を大きくするものもある。嫌いな食べ物には、だんだんと過敏になって、普通の者には見分けられないような微かな臭い・味わいを検知して不快度を深めていく。
さらに、快であるものも過充足になると、快でなくなるのみでなく、だんだん不快になってくることもある。過食時がそうだし、飽いてきた食べ物は、鼻について、ほしくなくなるのみか、食べるのが不快なことになる。逆に、不快なものも、慣れるとそうでなくなるのみでなく、だんだんと快になるものもある。現代音楽など慣れないと不快な騒音であるが、慣れてくるとしだいに快を感じることが可能となるようである。味覚も、なれずしとかクサヤは、腐敗臭がきつくて不快だが、慣れてくると平気になるのみでなく、時には病みつきになるぐらい豊かな味わいを感じることになるという。これは、不快が快にだんだん変化していくというよりは、(臭いの)不快に慣れて平気に無感覚になり、もともとあった(味わいの)快が前面に出てくるということであろうか。
快不快が、その種々の量を総合する中で一つになって独特の感覚・感情をもたらすこともある。チョコレートなど、甘味の快感を豊かにするものとして、苦味が必須である。その苦・不快と一体になってのおいしさである。苦味が圧倒すれば、当然、不快なおいしくないものになる。チョコレート95%と表示されたものになると、もうこれをおいしいとは感じない人もいる。不快・苦を加味した快では、その量、匙加減が大切となる。
2-2-1-5. 快不快がペアになるとしても、一対一対応にはとどまらない
快と不快は、概念としては一対一対応であるが、各主体においては、単一の快や不快に留まっていることは少なく、数多が絡み合っている。苦と楽も、喜びと悲しみも、一対一の概念的対応であるが、実際の生のもとでは、たくさんの長い苦があって楽は僅かで一時とか、多くの喜びがあっても一つの悲しみがこれを打ち消すといったことになり、諸種の量的な視座を踏まえるべきことが多くなる。
安心・不安も、快不快のペアとなる感情で、しばしば抱かれるが、これなどもヴァラエティに富んだあり方をしている。たくさんの安心に囲まれて日々の生活が営まれているが、そこに一つの不安が生じることで、時に、すべての安心が無化してしまう。その一つの不安で心身は緊張するから、心身は無数有る安心の弛緩状態をなくして不安の構えになりきってしまう。しかし、どんな不安でも、心身を緊張から弛緩へと向けることができれば(快感情でなくても、深呼吸するぐらいでも)、その弛緩・伸張で緊張が中和できている間、これを無化もできる。ひとは、日頃から、生保存に資するようにと、多くの危険をシャットアウトして、無数の安心状態を作り上げている。が、これは、損傷・苦痛のない皮膚と同じように、普通には快(安心)を感じることなく、無の状態になっている。有るのは、危険の可能性を見出しその危険に構える不安感情のみということになる(危険が確定的になれば、さらに、生防護の反応としての恐怖にと進行する)。危険な状態が解消されるとその不安の不快感情は消え、その消滅を意識するときに、安心の快感情が顕在化する。そして、その不安の消滅が確定したとき、同時に安心の感情も消えてしまう。
安心・不安は、個人によって相当に感じ方が異なり、それはその量・程度の違いとなるのみではなく、同じことに反対の感情を抱くことも少なくない。心配性の者は、他の者が安全・安心と思っていても、万が一のことを想像して危険を思い不安を抱く。杞憂をいうように、危険の可能性は、高くも低くも見積もることができるから、一般的には安全と思っているものを、「危険かも」と見て不安にとらわれることがある。安全は、絶対的に安全なのではなく、危険になる可能性を秘めているところにいう。原発の安全・安心は、原発があるところでいうのであって、原発の存在しない絶対に安全なところでは、原発の安全は言わない。安全・安心をいうのは、危険のもとはあるが、いまその危険が現実化する可能性はないというだけのことである。杞憂をいだくような過敏な人は、その危険の源・種子を見て、危険を察知して、これに囚われ不安となる。安心を感情として意識するのは、危険の源があって、この危険の現実化する可能性はゼロと思うところにであるから、杞憂の人がことさらな不安を感じるところにこそ普通の者は安心を実感するということになる。安全、つまり危険の源は、身近なところから天空のかなたにまで満ち満ちているから、杞憂の人は、ひとつの不安を取り除いても、別のことが不安になり、きりのない不安感にとらわれる。あるいは、自己の精神の危機、精神的な病いなどになると、不安の色眼鏡を通して世界をみて、万般の不安にさいなまれ続けることになる。逆に鈍な一般人は、そこに重ね重ねの安心を抱いて安穏の生を営む。
感じる主体に応じて安心・不安の感じ方は微妙である。圧倒的にある安全への安心は、感じることがないのが普通で、これを感じるのは、危険を、したがって不安を意識の片隅に想定するなかでのことである。しかも、その裏付けとなる安全と危険は、意識の持ち方しだいで解釈の変わることで、安心・不安は、概念としては、危険の可能性の有無への不快と快の感情という単純なものではあるが、実際の場面では、複雑なものになるというべきであろう。
2-2-2. 動物的生と精神的生では、快不快の扱いは異なる
ひとも動物としては、快不快の感情で動く。その生に有益なものを快と受け取って、この快に魅了されて動き、有益な事態へと進む。逆に不快なものは、有害なものについて抱く感情で、この不快・苦痛を避け、逃げることによって、有害なものの回避が可能となる。快はアメとなり、不快はムチとなって、人も動物も突き動かされる。その快不快の力は絶大なもので、かりに快不快の背後にある有益有害の事態が存在しない場合でも、快に引かれていき、不快なものを避けて動く。ひとの性的快楽は、本源的には生殖のためのものであるが、生殖はそっちのけで、快楽のみを求めることが多い。食の快楽も似た状態になっている。美味しい(快楽)とは栄養のあること(有益)であるが、肥満になるので、栄養のない本末転倒の無栄養・低栄養で美味のものが、つまり快楽のみのあるものが好まれる。もちろん、不快の方は、避けられるべきものとして力をもつ。苦いものとか辛いものなどの不快な味わいの食べ物は、避けられる。有害・有毒となるものを苦味などの不快感情で感じ取っているのであり、この感情に従うことで有害なものが回避可能となっている。これもその不快・苦痛の回避が第一で、苦い良薬のような有益なものであっても不快なもの苦いものは、自然的には回避される。
ひと固有の世界、精神的世界でも快に引かれ、不快は避けられるが、ここでは、快は付随的なものに留まるし、不快も、ときに、より大きな価値物獲得のために、自然的対応を抑止して、回避せず受け入れることが生じる。人間的営為においても、有益なもの・価値あるものの獲得に喜びの快を生じるが、この感情は付随するだけで、価値物獲得がなっても喜びの感情は湧かないこともある。目的は、価値物獲得で、喜びではない。喜びの感情を抱くだけで価値物獲得のならない場合は、つまり、純粋な喜び、「ぬか喜び」は、嫌悪される。幸福は、ひととして目指すべき究極目的とされることもあるが、その幸福感が、人生の恵みの獲得のなっていない単なる主観的な感情である場合、同様に、否定的に扱われる。麻薬や宗教での陶酔において、当人は、至福状態にあるとしても、周囲は、その恵みのない悲惨な現実をふまえて憐憫や軽蔑の眼をもって見る。
2-2-2-1. 精神的生のもとでも不快は大きな意味をもつ
快は、精神世界では付随的だが、不快は、そこでも、単に付随するものではなく回避すべき肝要な対象、反目的になる(かつ、その不快が手段として避けられないものなら、忍耐がそうであるように、回避せず引き受けもする)。精神世界の多方面に顔を出す不安、この否定的な未定状態において、その主観的な不快・苦痛だけはなんとしてもなくしたいと動く。簡単には、深呼吸してみたり、精神安定剤あたりを使って不安を解消しようとする。不安感情に突き動かされて、この不安をなくするために、客観的に存在する不安な未定状態を解消しようと必死になる。あるいは、不安の客観的な事態は変わらないとしても、その解釈を変更して、自己自身の生き様を変えて、不安となることをやめるようにと試みる。不安の不快感がその生を動かす。その不快感情は、付随するものではなく、なんとしても排除したい反目的となる感情である。
喜びと悲しみは精神生活を日々動かす快と不快の感情であるが、喜びは、獲得にともなう感情で、この快感情は、付随的な終結感情であり持続性は低い。かつ、純粋な喜び、つまり価値獲得のない喜び(ぬか喜び)は、嫌悪される。逆の悲しみは、喪失感情として、価値あるものの回復がなるまで、これに囚われ続けて悲しみを持続させる。喪失があっても、悲しみがなければ、些事としてうっちゃっておけるが(例えば付き合いのない同級生の死)、悲しみがあるとその喪失に囚われ続ける。悲しみの感情がひとを突き動かし、喪失からの回復がなるものなら、それに懸命となる。回復不可能という場合でも、解釈を変えて悲しみから抜け出そう試み、「亡くなった子は天国に召されたのだ」と思って悲しみからの回復をはかるようなことになる。
ひとは、未来にと生きていくが、その希望と絶望において、その不快感情の絶望は、耐えがたいものになることが多い。ひとは絶望感解消にと駆り立てられる。希望は、快であるが、感情としては感じないことも多く、快感情なしで希望を推進するのが通常であろう。だが、逆の絶望は、まず苦悩という強い不快感情として意識にのぼる。もちろん、絶望の事態そのものをなんとかすることに懸命になるが、同時に、その絶望感の呻吟状態が耐えがたく、この感情自体をなんとかすることにと駆り立てられる。一時の安らぎを求めて麻薬(酒など)を使ったりする。絶望の不快感情は、希望を絶たれたことに付随する感情ということでは済まされず、ひとは、この絶望の感情に突き動かされて、絶望状態の解消に必死となる。
2-2-2-2. 希望の無としての絶望
希望は、精神的快で、その反対の極をなす絶望は、精神的な苦痛・不快で、この苦痛の絶望は、人に深刻なダメージを与える。だが、絶望は、希望が絶たれて欠如した状態であるから無であり、そのことからいうと、希望の有に対して絶望は単なる空無と見ることもできなくはない。仏教の空、無我の境地からいうと、真実はそうで、つまり絶望などない、妄念だと達観する。だが、普通は、逆に見る。有るのは、精神世界の損傷の苦痛感情、絶望であり、目的論的に日々を生きるひとのもとでは、希望(目的)は、生が順調な、いたるところにもっているもので、ことさらに感情を抱くようなことなく、感情的には無にすぎないとも捉え得る。皮膚で損傷の苦痛のみをいだくように、希望の営為を破壊されての、不快・苦痛のみ、つまり絶望のみが際立つとも言える。
絶望は、希望が絶たれたもので、いうなら無である。だが、その無がときには自殺も招きかねない強烈な苦悩をひとにもたらす。通常、ひとは、未来に希望をもって生きる。人生の根幹をなす希望は、その人生の現在を支配し、その未来(例えば裁判官希望)が現在(法学部学生)を作り上げている。その未来の希望がなくなることは、単なる無にはとどまらず、この現在を暗黒にしてしまい、現在の生を大きく傷つけ窒息状態にしてしまうこともある。
その未来の希望は、自身が作り出したものであり、希な望みとして尊大なものであることもしばしばである(古い時代には、希望は、「けもう」と読まれて、希な、尊大な願望と見なされていた)。ミス日本一になれずに絶望したり、マラソン世界一の期待を背負いきれず絶望して自殺するようなことがある。だが、ミス日本一になれず(その希望を実現できず)絶望できる人とは、希な美人である。マラソン世界一になれず自殺した人は、類い稀な日本一のランナーである。絶望する人は、そういう点でいうと、希な望みをいだけた希な優れた存在なのである。希望は、未来に想定されるもので、未だ無にとどまる。だが、今は無の、その未来の希望が絶たれることでなる絶望は、現在を傷めつけて悲痛な現実を作りだす。絶望は、現在あって現に自身を傷めつけ苦悩させる。希望が絶たれて無いという無が、剥奪的な無として、損傷と捉えられ、現在の自分を痛めつける状態が、絶望である。希望の無が絶望という有を作り上げているのである。だが、思いを改めるなら、希望の無は、無であり、これに執着しないなら、単なる無である。とすれば、無を、ないものを絶つということであれば、絶望も無にとどまる。ミス日本一やマラソン世界一の希望と無縁の凡人は、それらを別世界の高嶺の花と見なして、それを思いつくことすら無く、その無に安んじている謙虚な存在である。
絶望は、希望の絶えた無であるが、この無は、単なる些細な欠如と見なされれば、穏やかに対処できる無となる。和食の希望が絶たれて洋食になっても、その希望は無になっただけで、せいぜい失望する程度で絶望する者はまずいないだろう。だが、受験や就職の希望の絶たれた状態は、それが自身の未来のみか現在の人生そのものを奪う剥奪的な無となって、穏やかではおれなくなる。身体の損傷のように、絶望では心が大きく傷つけられた状態になり、そうなると希望(快適さ)がない単なる無ということにはとどまらなくなる。しかし、耐えがたく自身の生をもう終わりにしたいというぐらいに辛い絶望になるのであれば、思いを変えて、希望(けもう)をもう少し引き下げた望みに変えるべきなのかも知れない。そうすれば、いくらでも、希望は見出されてくるし、絶望に呻吟するようなこともなくて済む。
2-2-2-3. 不幸の無としての幸福
多くの幸福論は、不幸(不快)の無こそが幸福なのだという。不幸は、禍・苦痛を被っている状態で、これを無化できれば、穏やかに安堵できる状態になる。不幸でなければ、それだけで恵まれているのであり、不幸の無が、その安らかさが幸福なのだと論じる。不幸(損傷・苦痛)は、有り、意識するが、幸福は、その不幸の無(無傷)ということであり、意識しないのが普通である。皮膚の痛みは意識してその傷の手当がいるけれども、その傷・痛みがなければ、この無は、意識されることは、普通は、なしで過ごす。しかし、思い直せば、それこそが健やかで安らかなのである。精神的生の感情である幸福・不幸も、これと似たものになる。
幸福論者の中には、これだけ現代は恵まれているのだから、幸福を感じないのは不遜だと憤る者がいる。だが、不幸(損傷・苦痛)とちがい、幸福は、積極的なものではなく、単に不幸・禍がない状態であるとすると、ことさらに意識するのでなければ、幸福と感じることはない。もちろん、身体の健やかさ(無損傷)を振り返れば、快感を抱くことができるように、幸福も、恵み(不幸の無)を反省すれば、精神的な快感、幸福感を抱くことができ、感情的に不幸と同様に幸福を実感し、かみしめることはできる。
さらに、恵みとなるもの、富とか名誉とか価値あるものが獲得できれば、一層の幸福となる。が、ひとは、いくら富を得ても、名誉を得ても、幸福をいうより不平不満をいうことが多い。幸福論者の憤りは、幸福への不感症にであるより、多くの国民は恵まれているはずなのに、なおも「不平を言い、不幸をなげく」という不遜な態度にと向けられる。欲望肥大を作る商品社会では、肥大した欲望のもとに不足を感じることになりがちで、欲望肥大の状態を平生のことととらえて、その肥大に間に合ってなければ恵まれていないと感じて不幸気味となる。
禍いに傷つき痛みを生じているのでなく、安穏な生に恵まれているのなら、不幸ではない。身体が損傷を被ることなく健康でおれるのなら、その無は、ありがたいことである。不幸でないのなら、その健やかな無に、ときには、幸福を自覚することがあってもいいのではある。
2-2-3. 不快は、人を覚醒させ、損傷回避、生促進にと向ける
快は、生が充足している状態で、快適な寝所、快適な食事は、生を保護・保持する。不快は、反対で、そういう保護がならないどころか有害な事態に抱くから、その不快(とその原因)を排除しようと動く。不快と感じるものを避けることで、危害の発生を阻止もできる。快は、その快享受を想像して前向きにひとを進める。が、一旦快を獲得してしまうと、この快の享受においては、これにのめりこみ、その先など見る目はなくなり生を眠り込ませてしまう。逆の不快・苦痛は、大きすぎては潰されて生自体が破壊されることになるが、この不快がそこまでのものでなければ、生を先へと駆り立てていく。生推進のためのムチとなる。その不快を回避・消去したい一心で、その不快を克服したところへと前進することになる。損傷やそれを招く状態がなくなるまで、不快は、意識を覚醒しつづけ、その損傷をなくするためにひとを駆り立てつづける。
ひとは、不快・苦痛があることへと注意を向け、覚醒状態をつくっていく。快は、褒美であり、その享受にのめりこみ、まどろみ、そこに停滞するが、ムチとなる不快は、そこに注目させ、さらに、その不快を解消するために種々努力することへとひとを仕向けていく。生が尋常に機能して快調であれば、これを意識することは無用である。だが、それが損傷をうけたりして不調になり乱調状態になると、これをもとのように回復することが必要となるから、その不調・損傷を意識することは、生理的であれ精神的であれ、必須のこととなる。皮膚は損傷がなければ、健やかで、なにも意識する必要もない。損傷からの回復の必要なところのみが、不快のみが意識されるのでないと、意識は、無数の健やかさ(快)にとらわれて、その必要な回復にと眼を向けることは困難となる。快調な胃はしずかにして、傷んだ胃のみが騒いで痛みを知らせれば良いのである。
高次の精神世界でも同様で、不安は、ひとを眠らせず、この不安なものに意識を向け続ける。逆の安心、安らかな事態は、意識を誘わず無にとどまる。それが意識を快へと誘う場面では眠りをさそうばかりである。仮に安心できることにすべて快が意識されるのだとすると、振り返れば無数の安心安全のあることで、これに囚われて生は心地よく眠りこみ続けることであろう。不安・絶望・悲嘆等の不快のみが意識されて、これへと囚われることで、不快なものごと、生否定的な苦難の事態の解消のために専念することが出来て、精神的生は、維持され前進可能となる。
2-2-4. あいまいな気分としての不快もある
不快は、苦痛以上に広く生理的なものから高度の精神的世界にまで言われる。それだけ、漠としてあいまいなものともなる。あいまいさにおいて際立つ感情の在り方としては、気分が挙がる。感情は通常、その対象をもつが、気分の場合は、その対象があいまいである。不快は、そういう漠とした気分でもある。気分は、対象についてであるより、自身の心身の在り方において、感じるものであろう(気分としてのいらいら(怒り)は、気障りな対象はないのに、自分の心身が過敏になり攻撃的に緊張して落ち着けない状態であろう。怒りの気障りな対象自体はないので、無理やりに言いがかりをつけて身近なものに当り散らすことになる)。不快は、この気分としては、心身の不調の状態にいだく。そういう自身の不調に不快感がある場合は、不快な気分という色眼鏡で世界に関わるから、なににかかわってもそれを不快のもとに受け取ることになりかねない。この世は、苦界だと受け取るような全般的な不快状態になることもあろう。
しかし、あいまいな不快は、自身の心身の不調である場合でなければ、世界のあいまいさであり、ささいな損傷などにいだく、苦痛にまではならない程度の、軽くてはっきりしない否定的状態に言う。特定の部位が損傷をうけた場合、そこが痛いという。その損傷もその痛み方も明瞭なものであれば、これは不快とは言わない。苦痛までにはならない程度で、どう苦痛かもはっきりしない、漠然としているようなところに、不快ということばが残る。呼吸が困難なら、苦しいという。それを不快と言うとすると、何となく息のしづらい程度のものになろうか。そういう不快感は、いたる場面にいいうる。蒸し暑くて「不快指数」をいうのも、これであろう。苦痛指数でなく、不快指数というのは、言いえて妙である。蒸し暑いとしても、これを苦痛というのは大げさで、人ごとに感じ方はちがい、快適と思うひともいるのであり、あいまいに不快(指数)という。指数も、そのあいまいさを助けてくれる。数は、(知能指数とか成長指数のように)明確でそれ以上の詮索(懐疑)を抑止する威嚇的な力をもつが、単なる指標であり、実感するものは、各人別であることを否定しない。
食の在り方でも不快をいうことがある。美味の反対は、まずい(不味い)というが、まずいというのは失礼だし、まずいというほどのものでもない微妙な味わいで、明確な表現がしにくいとき、不快は便利である。「このワイン、美味を渋みがひきたてているが、ちょっと不快感が残るかな」等という。
2-2-5. 些細で軽い「不快感」だが、時に強烈なものにもなる
社会生活で愉快でないことを穏やかに表現するとき、「不快感」をもってすることがある。国際関係で敵対的なことをする外国について「不快だ」という。本当をいうと「激怒している」「苦痛である」のだが、穏やかにこれを抑制気味に「不快感」をもって語る。周辺国は、穏やかな大人の対応をする政府だと好意的に受け止めうるし、相手国は、強く抗議しているのだろうと推測もしうる。不快感を発言した国は、「本当は激怒しているのだ」ということも排除はしてない。きつい表現でなくて、あいまいで角が立ちにくい。
さらに、「苦痛」と言った場合は、敗けが意識されることで、弱虫、弱小を感じさせる。尊厳をもつ国家としては、そういう情けない弱虫であることを感じさせるような表現は避けたいものとなる。不快は、攻撃的な怒りを自制している場合もいうから、弱虫と見なされなくて済むのでもある。
明確な言葉をもって論駁するとそれに相互が囚われた対応を引き起こす。不快というあいまいな感情表現をもってすれば、どうにでもとられることである。しかし、肯定的に受け入れられるものではないということだけは、不快で十分示されよう。多くを本当は語りたいのだが、さしあたりは、あいまいに全体を包み込むようなかたちで、快くない、不快だというのである。
個人間では、「不快です」は、日本においては軽いものではなかろう。通常、穏やかに振る舞いあっていることで、相手に、不快といった発言はしない。言うのは、しっかりと拒絶的拒否的になっているときで、相当に険悪な状態になっているか、そうなってよいと判断してのことになる。とくに人格自体に向けて「あなたは、(私には)不快です」というのは、生理的嫌悪感をいだき、見たくもないと、絶交するようなときに言う、きつい言葉であろう。かつ、「苦痛です」だと、受け身に、逃げ腰に留まるが、不快は、攻撃的な怒りの感情などでももつことで、相手に対して攻撃的ということを秘めているのでもあろう。激怒していても、これを出してはまずい場合、あるいは、穏やかな人格者であることを示すために、不快をもってする。その不快のうちに、自身の激怒抑止の思いをこめているのである。軽い拒否程度なら無言に済ますはずと思うことで、「不快です」と言われた者は、否定的な言葉を吐かねば気が済まない事態なのだと判断する。したがって、本当は、激怒していることを、オブラートに包んで無難に、そう表現していると解釈することになろう。
2-3. 痛み
痛みは、単なる不快とちがい、生が明確に損傷を被っていることを知らせる。したがって、痛むことにおいては、その状態から即逃走しこれを回避したいとの反応を持つ。被っている損傷の回避、生の防護のための危機的反応をするのが痛みである。痛みは、傷む事態に対して、これに危機的対応をして身構える感覚・感情である。
損傷があっても、これが痛まないと気づかないことになろう。放置することになる。痛みは、損傷に気づかせ、意識をかきたてる。損傷に火急の対処をということであるが、意識を覚醒へと強いるから、ときには、覚醒を必要とするとき、身体に痛みを生じさせることがある。眠らせないために、意識を保つために、痛み刺激を与える。座禅で眠気に負けそうになるとき、錐で身体を突いて痛みを生じさせるようなことをしたと聞く。
不快の場合、自身の変わることがそれを回避する肝要事となることがあろうし、あるいは、不快を、さして抵抗感もなく受け入れるようなこともあろう。だが、痛みの場合は、その痛みとこれをもたらす損傷から逃げること、これを回避することが自然的生の根本的な反応となる。拒否的感情となり、嫌悪感を抱いて萎縮反応が伴う。痛み即萎縮・緊張反応となるのは、生が痛みをもって即損傷回避へ結ぶということである。痛みは、敗北し損傷を受けたということであり、まずは、引き下がり萎縮して逃走・回避することへ反応する感情である。
痛みは、ひとの気をそれへと引き付け続ける。痛みがあるかぎり、損傷が続いているということであり、それへの対処を持続させ痛みつづける。もっと重大な損傷が生じた場合は、それにと意識は向かうことになって、はじめの痛みは意識されなくなる。つまり、痛まなくなる。だが、潜在的には、損傷が続いているかぎり対応が要請され続けている。大きな痛み・損傷がなくなると、はじめの小さな痛みが再浮上してくる。損傷に発する痛みは、それがあるかぎり、意識すること、注目を強制する。歯の痛みは、どこまでも痛み続け、意識を引き付け続ける。ついには根負けして歯医者に行くことになる。足の化膿にしても、それがおさまるまで、何日でもずきずきと痛み続けて気を引き付けつづける。逆に、損傷からの回復の度合いは、その痛みの軽減・消滅をもって測られる。
2-3-1. 痛みは、損傷の部位に感じる
「痛い」というと、「どこが痛む?」とその部位をまず問題にする。感情は、主体が感じるものであり、苦痛感情、痛みも、当然、この私の感情である。「私が」苦痛で耐えがたいのである。だが、痛みでは、私が痛みを感じるのだけれども、「どこが」と聞かれる。私が痛いというよりも、(私の)手が痛い、足が痛いということになる。痛みを感じるのは、手とか足という私の身体の部位ということになる。
おいしさの快楽(感情)の場合、「どこでおいしさを感じるのか」と聞いても、舌とか口とか言って、はっきりしないものである。結局は、口に入れているだけでは、快とならないから、のど越しだということになる。のど越しに快を感じる。だが、どこでおいしさを感じているのか分かりにくいように、のど自体が快とか気持ちいいというわけではない。個我としてのこの私が、快(おいしさ)を享受しているという感じ方をする。快楽の風呂の場合、身体が温かいのだが、その温かさの身体での感覚と、気持ちよさ(感情)は、別であろう。気持ちいい、「極楽、極楽!」と感じるのは、皮膚ではなく、心身全体としてのこの私であろう。だが、痛みは、この私が痛いのではあるが、痛いと感じるのは、手であり足である。風呂が熱湯になっていた場合、入って、痛みを感じるのは、手や足あるいは胴体である。
痛みは、損傷の部位において感じる。損傷が出来して、それに痛みを感じる。傷みに痛む。損傷を受けて、そこに痛覚刺激をもち、その刺激が脳中枢に伝達されて痛みの感覚を生じ、その傷んだ箇所を痛みにおいて覚知する。脳内に生じている痛み感覚であるが、これを損傷部位に返し投影して、その部位に痛みを感じ、さらに痛みの感情的反応をする。その間は、瞬時であり、痛みの感情的反応は、心身全体でする萎縮とか緊張反応であるが、その感情も、痛み感覚に引き寄せられて、痛みの発生した手足に痛みの感覚・感情を集中して抱くということになる。秋の鈴虫の美声は、自身の鼓膜の振動を脳内仕様の信号に変えつつ脳にまで伝達して聞くが、脳内にではなく、外に聞く。鼓膜に響く音であるが、鼓膜に聞くのでもなく、外に投影して草むらから聞こえてくるように聞く。痛みの場合、そこまでの投影ではない。皮膚の損傷に痛みを感じるが、そとの刃物までに痛みを投影することは、まずない。肝要なことは、損傷であるから、皮膚の損傷自体に(聴覚でいえば、鼓膜に)痛みを投影することになる。
2-3-1-1. 痛みは、全心身で反応する感情としては、損傷個所を離れる
痛みの生じるもとは、傷み・損傷である。基本的には、外からの身体への侵害に危機的な火急の対応をする場面に、痛みは登場する。外的侵害に巧みに対応するには、脳中枢においてこれを統括して諸部位が適切に損傷に対応することが必要である。手が傷をうけても、逃げるのが最適なら、足を動かすことに主力が向かわねばならない。手の損傷でも、全身が緊張して足を逃走にと向けていく。が、まずは、どこが損傷を受けているのかを、痛みをもって知ることになるから、その損傷部位を明確に把握するために、損傷の部位そのものに痛みの感覚をもつことになる。
痛みの感覚は損傷の部位に定位し、それに限定されたものとなるが、これとちがい、痛みの感情的な反応の方は、全身の萎縮とか緊張をもっての反応となる。痛みの感覚は痛覚刺激を受動するのみであろうが、その感情は、本来感情は能動的に心身でもって反応することが肝要であるから、感情としての痛みは、全心身で緊張し萎縮し悶えるというような反応をもつことになる。痛みの場合、危機的火急の反応となることであり、瞬時の感情的反応で、痛覚刺激の発生するその損傷の部位に引き寄せられこれに重ねて感じる。痛覚刺激、痛みの感覚は、(脳内に受け入れた痛覚刺激をその生じた部位に投影して)当該の部位に感じるとしても、痛いという感情は、感情が心身全体での反応であるから、萎縮も緊張もその部位ではなく心身全体でするものになる。しかし、痛みの感情的反応は、痛み感覚と同時的に生じることで、損傷の部位に投影される痛み感覚に引き寄せられ、これに重ねて感情も抱く。足が痛くて(感覚)、足が辛い(感情)というようなことになる。
もちろん、痛いという感情は、損傷の生じている部位に、痛み感覚とひとつになってその反応をもつものではなく、感情としては、心身全体ですることではある。足が痛くても、心身全体で反応して顔でも痛みの感情表現をもつ。痛みの感覚は、損傷の部位にしっかりと固定して感じて、ほかの部分が痛みを感じることはない(心臓の損傷は、肩の痛みとか背中の痛みとなって損傷の部位と一致しないというし、腰の痛みは、腰自体の故障から来るとは限らないというようなことはある)。だが、痛みの感情は、心身全体をもっての能動的な反応となるから、損傷の部位に固定したものではない。足の痛み感覚をふまえつつ、痛みの感情は、全身での拒否的な反応とか悶えとして感じたり、顔面の歪みを痛みの感情表現として自身で意識することもある。損傷した足は、激痛でも、涙は出せない。激痛の足に辛いと涙を出すのは、その感情反応をするのは、この私であり、その表現手段としての目である。
2-3-1-2. 痛み方は、傷み・損傷のあり様を語る
痛みは、多様である。その傷む部位における傷み方は様々で、どう損傷が生じているのかに応じて痛みの在り方は多様になる。切り傷の痛み、打撲の鈍痛、虫刺されの痛み、火傷、痒みなど、損傷の在り方の違いを痛みのちがいとして感じとる。皮膚表面での痛みと内部での痛みは、その痛覚神経自体から区別があり、その伝達速度も異なるという(痛覚をもたらす末梢神経には、鋭い痛みで伝達速度の速いAδ線維(一次痛)とか、鈍痛となる伝達の速度の遅いC線維(二次痛)とかがあって、損傷の違いを巧みに脳に伝えることになっているようである)。
さらに、痛みは、部位に感じるということで、その部位をもって言い表す。歯痛は、歯に限定した痛みである。頭痛といわれれば、頭の中の痛みを想像する。頭の痛みでも表面の損傷は頭痛とはいわない。関節痛、筋肉痛、腰痛なども部位の痛みとして、その損傷を防いだり治すために、まず、意識される部位の痛みとしてあげられることである。まれに痛覚のない者がいるというが、痛まないから身体は傷だらけになってしまうようである。傷んだ部位に痛みがあることは、生保護にとって大切なことだといえる。歯痛なども、はやく歯を抜けということで意味ある痛みである。が、頭痛は、解せない。痛んでも何もできない。そとから対処しようがないのであれば、痛みで悩ますことがない方がましとも思われるが、頭痛も、風邪だと、これを放置しないようにと警告しムチ打つのだから有用といえば言えなくもない。
「心が痛む」ということもある。これは、部位の痛みというわけにはいかない。身体の部位の痛みとは異質である。身体の損傷時に痛むどのあり方とも、心の痛みは異なる。同じく脳内での痛みだといっても、いわゆる頭痛の場合は、脳内の血管の具合いによって周辺に痛覚刺激が生じて頭痛がもたらされるもののようで、通常の痛みになり、部位の痛みである。だが、心の痛み、心痛という場合は、頭痛とはちがい、生理的な部位の損傷が生じているのではない。生理的世界ではなく、観念、精神の世界において、その思いが通らず、否定されたり無視されるといった状態になるのである。その観念的な否定・拒否等を、身体的な損傷に模しているのであり、心が傷つけば、それに伴う感情は、心の痛みということになる。良心は、自分で自分をさばいて罰を与え、自らに傷つき、痛む。傷心、心痛となる。身体の傷みへの痛みに似た心の痛みということなのであろう。
2-3-2. 「痛み」は、まずは感覚、痛覚のもの
痛みは、感情として苦痛・不快になるが、痛みの感覚は、かならずしも、不快でないこともある。マッサージやストレッチでは筋を伸ばして痛み感覚をもつことがあるが、これは、気持ち良いこと、快である。痛み感覚は、通常、不快感情になるとしても、まれには快感情にもなる。あるいは、小さな痛みは、快とも不快ともならない。痛みでは、痛み感情を抜きにした痛み感覚だけを取り出しうる。痛み感覚は、痛覚刺激を感じ取ったものであり、この刺激は、損傷をもって生起する。
損傷への痛みとして、痛み感覚は、その損傷の部位においてこれを感じる。損傷部位の痛覚において痛覚刺激がまず成立して、脳に至って痛みと感覚する。その痛みは、その部位に返しそこへと投影して、その損傷を知覚するのにふさわしく、その部位が痛いという感じ方になる。手に損傷があればそこが痛いとなる。膝が痛いということを知覚することで、膝の部位の故障に気づき、痛みが小さく負担の軽くなる歩き方をするといった対応が可能になる。もっとも、損傷部位にどの程度正確に痛みを感じとるのかは、ひとによって、損傷の部位によって異なる。膝の痛みでは、膝のどの部位が損傷を受けているのかは、正確には感じえない。喉が損傷しているから足の膝が痛むということはなかろうが、心臓の傷みなど、肩や腕が痛いというようなことがあるようで、損傷の痛みではあるが、損傷とその痛み方には齟齬、ずれも時には生じる。
痛み方に種々あるのは、損傷の部位とそれへの対応の仕方のちがいを踏まえたものであろう。蚊にかまれた痒みは、刺し傷の痛みとは異なり、掻くことを促す。砂利道を素足で歩く時、そっと足を下ろして足裏の痛みを感じ取り、痛むか痛まない程度に調整し足裏の損傷を回避しつつ、歩む速度を加減していく。
大けがをしたら、激痛がありそうだが、意外にそうでもない。私の経験を振り返ってみると、まず、大けがのもとの衝撃に応じて圧迫を感じそのあたりが麻痺し、少しして痛みがだんだんと生じてくる。大局的に対応することが先となるから、皮膚の大けがではまずは衝撃の原因除去などに向かい、それがすんでからその大けがに気をもっていって、大きな痛みとなっていく。大きな傷から離れている部位に小さな傷ができていても、一段落つくまでは、これには気づかない。痛まない。だが、一段落するとこれにも意識を回しうるようになって痛んでこれを知らせる。それ以前に小さな損傷があって小さな痛みがあった場合など、この小さな痛みは、大きな損傷の激痛があると、消失する。そして、その大きな損傷の痛みがなくなると、小さな痛みが再度浮上して意識されることになる。対処すべき順を踏まえた苦痛の感じ方である。
2-3-2-1. 損傷しても痛まない部位がある
損傷、傷みに痛みを感じるのだが、身体の部位によっては損傷が生じても、痛みの感覚の生じないことがある。髪とか爪は、切断という大きな損傷をうけても、少しも痛くない。痛覚がないのは、それなりの理由があるのであろう。動物の場合、引っ掻いたりしっかりと物をつかむために爪を立てて指に力を入れる。それが痛んだのでは力が入れられなくなるから、爪には痛覚はつけていないのであろう。人類の場合、それよりは、指先に力を入れて物を掴むのに、硬くないとうまくいかないという、いわば甲殻類の外皮のような役割をもつことになっているが、その爪に痛覚の必要性はなさそうである。
毛髪は、外皮にまとう体毛としては、擦り傷などに効果的であろう。少々の侵害は体毛が防ぎ、これは傷つくことになるからそこは無痛がよい。いまは、侵害は、衣服で防御しているから、体毛は少ない。だが、頭の髪は、ふさふさとして残っている。歳とともに禿げるひとがあるが、それでも、結構、後頭部には残る(女性は禿げる人が少ない。頭頂部に物を載せる等の影響があったのであろうか。あるいは、性的魅力を髪に感じることが、どうしてか昔の男子にはあったとも聞く)。後頭部への必要性は、赤ちゃんが後頭部の髪を薄くしがちであるように、おそらく、寝たときに生じるのであろう。重い頭の表面が傷まないようにということである。その後ろ髪が痛覚をもっていて痛んだのでは寝にくい。脇の下なども同様に、擦り傷対策に有用なのであろう。
髭は毎日剃って傷つけるが、痛覚がなくて幸いである。氷河期をもって人間になったことで、つい最近まで、首筋が寒いとふさふさの動物の毛皮で襟巻をしていたように、男子は厳寒の中をマンモス狩に出かけたようだから防寒のために顎に髭がついたのかも知れない。そうではなく、男子は、動物のオス同様何かにつけて死闘を演じてきたから、殴られてもダメージを少なくするために髭があるのだという人もいる。男子にはどういうわけか胸髭もある。顎や胸に髭がある理由は、よくは分からないもののようである。
内臓も、多くは基本的に痛覚がなく(激痛の代表格の尿路結石のようなものもあるが)、大きく傷んで周辺にまで影響を及ぼさないかぎり痛まないのが普通であろう。これは、おそらく、痛んでも対処のしようがなく、無駄な痛みとなるだけなので、痛覚をもたなくなっているのであろう。持っていた者は散々に痛みに悩まされて淘汰されてしまったことであろう。
2-3-2-2. 損傷がないのに痛むことがある
痛みは、傷みを知らせる価値ある感覚である。だが、ときに、誤情報の痛みがある。なくなった腕の痛むことがあるという。幻肢痛という脳内のみでの空回りである。歯痛なども、原因は取り去っても痛みの残ることがある。習慣化した痛みを脳内で勝手に再現することがあるようである。痛み感覚は、損傷部位の痛覚刺激にはじまって、神経をもって脳にまでもっていって痛みと感じて、しかも、それを脳自体においてではなく、再度、損傷の部位に返し投影して感じるから、その間に誤作動の生じる可能性が出てくる。痛みの原因が消去されているのに、痛みが脳内で再現され特定の部位に投影され続けるというのでは、悩ましい痛みの暴走ということになる。
ほとんど損傷はないのに、痛みだけは過敏に感じるというようなこともある。痛風は、風がふいても痛みを生じることからの命名のようで、痛みを過剰に抱かされる(風がふかなくても体内の尿酸しだいで激痛となる)ようである。弁慶の泣き所なども、損傷らしいものはないのに痛み感覚のみは甚大となる。痛みの部位の過敏というより、痛みを受けとめる脳内の機能の亢進もあり、(痛)風どころか音とか光の刺激すらも苦痛となることがあるようである。
痛むが損傷はないという場合と違って、確かに損傷しているのだが、その損傷へ対処のしようのない場合は、いくら傷んでいるから痛みで知らせるといっても、痛みは、無意味なものに終わる。痛みが気になるようなものでなければ、それをとやかくいうこともないだろうが、痛みは、そこに気を奪い、ひとを打ちのめし不愉快極まりない状態にするので、痛まないでほしいということになる。癌の末期は、傷口に塩を塗るように無意味で過酷な激痛をもたらすことがある。尿路結石もたかが石が下りるだけなのに猛烈な痛みになると聞く。痛みの暴走である。犬など大けがをしても、人のようにいつまでも痛むことはないのだとかいう。ひとでも、痛んでもなにもできないのであれば、痛まない方がましであろう。
2-3-3. 感情としての痛み
痛みは、感覚なのか感情なのか、両者は一体的で、分けてみることは難しい感じだが、これを分けて見るとしたら次のように捉えられるであろうか。痛みは、感覚としては、損傷の部位からの痛覚刺激を脳が受け取って感じとるもので、その感情の方は、その損傷と感覚をふまえて、心身全体が反応することでなる。痛みの感覚(感受)と痛みの感情(反応)は、危機に発するものとして緊急を要し同時的になっているが、一方の痛みの感覚は、身体の各部位から脳中枢に向けて発する神経刺激でなっている受動的営為である。他方、痛みの感情の方は、受け取った感覚としての痛みに対して、生主体としてこれに反応していく能動的営為である。痛み感覚は、損傷した部位に帰してそこが痛いと感覚する。だが、痛みの感情は、それを踏まえてこの私という個我主体が能動的に反応するものになる。痛みの感情的反応は、心身全体で行い、萎縮、緊張し、嫌悪・拒否等の構えをとり、悶え焦燥するといった様相を見せる。
小さな痛み感覚は、感情としての痛み反応までにはならない。あるいは、小さな痛みは、心地よいものとして快の感情反応をもたらすこともあろう。ストレッチなどでの小さな痛みは、快なのではないか。体を使って一仕事したり、スポーツで筋肉を使用したあと、体が痛むことがあるが、これには充実感をいだき、身体強化の裏付けを感じて、愉快となる。痛みの感覚はあるが、痛みの感情、つまり身体全体が萎縮したり焦燥感にとらわれたりといったことはない。身体の痛み感覚はあるが、心身全体での感情としては、快ということになるのではないか。
しかし、痛みの感覚が生じるのは、損傷を受けて、生に否定的な危機的事態が発生しているという場合が一般である。この危機的な痛みの感覚には、普通には、個我としての私の心身は緊張し萎縮して痛みの感情を抱くことになる。痛み・苦痛の感情は、損傷を前に能動的に防衛的反応をもつ。その痛み・損傷に拒否的に反応し、これを嫌悪し、抑鬱感をもち、悶え焦燥し、疲労困憊もしていく。痛みの感覚は、単に危機的状態を脳中枢に通知するだけであり、受け身に受動にとどまる。だが、これに応じる痛みの感情は、防衛・防御の能動的反応をもって積極的な対処にと出る。損傷を回避し、これから逃走しようとの衝動も含みもつ。
2-3-3-1. 痛みの感情は、心身全体での反応
感覚としての痛みは、損傷の部位、傷んだところに位置して感じられる。足が傷んで、足が痛いと感じる。だが、感情は、身体の部位に感じるものではなく、足の感覚的な痛みを踏まえて、私が、この個我主体の私が、痛いと感じる。感情は、生主体の能動的反応であり、痛みの感情は、能動的に萎縮や緊張、焦燥・抑鬱等の反応をとる。足に感覚的に痛みを感じるからといっても、足が萎縮・焦燥をするのではなく、心身全体をもって感情としては反応する。ただし、痛み感覚が大きければ、その部位にと痛みの感情も引き寄せられ、その部位あたりに感じることはありそうである。
これは、快感情でも同じことである。好ましい感覚を受動的に感じとって、これに生主体が心身全体をもって快の感情反応をする。口に甘いものを感覚しても、即おいしいという快楽にはならない。それがのどを通過して確かにわがものになったことをのどで感受して、これに快楽の、心身全体をもっての感情反応をして、甘くておいしいと感じることになる。おいしさの快楽は、心身全体で反応し感じとるが、その味覚を踏まえて生じるものとして、その部位(味覚)に重ねて感じる。同じように、下半身の放尿、射精あるいは排便では、その部位に近づけて(その感覚を踏まえこれに引かれ)、それぞれ下半身に快楽を感じる傾向がある。特に放尿・排便の場合は、先立つ痛みがあって、その部位の痛みからの解放感が快の中心で、痛みを感じる下半身の部位に快感は強く結ばれることになる(もちろん、放尿をぎりぎり我慢していた後の大きな快楽感情など、全身に弛緩を感じるし、顔面に法悦の表情を自覚もする)。
逆の苦痛の場合、切実なこととして、痛み感覚に、より密接に重ねてその痛み感情を感じることになる。ひとの意識は、ひとつのことを意識するのが通常で、感覚と感情は別であっても、強い感覚刺激が持続して、その感情が別に生じても、これをはじめの意識の感覚の場に重ねて感じることになりやすい。痛みの感覚が足に生じていることを意識するときには、同時に、これを回避したいという感情ももち、その感覚とその感情はひとつの痛みとなって、したがって足の痛みなら、足に意識をもっての感覚・感情となる。ただし、少し反省的に見れば、足の損傷とその痛みだとしても、痛みの感情としての萎縮は足ではなく心身全体が緊張萎縮していると自覚できるし、足の痛みに感情的に反応して涙を出すときは、足に出すのではなく目に出していることを自覚はする。
2-3-3-2. 痛みの感情は、損傷との価値判断と、拒否等の反応からなる
痛みの感情は、痛み感覚と一体的で、感覚なのか感情なのか不分明である。が、感覚は、痛覚刺激を受け取っての受動的なものに留まるのに対して、痛みの感情は、これに能動的に反応した萎縮や回避の構えをもつものとして、概念的には区別されるものであろう。
一般的に感情は、生主体がその対象とする物事について抱くものだが、それは、一方でその物事が自身にもつ意味、価値・反価値を察知し判定して、他方でその判定に応じて自身のためになるようにと心身全体で反応する。悲しみの感情は、自身に喪失が生じていると価値判定して、これに心身が萎縮・自己閉鎖等の反応をもったものである。怒りの感情は、その対象・事態を気障りなものと判定して、これに懲罰をと攻撃的反応をもったものである。解釈・価値判断があっても、心身の反応面がない場合、感情にはならない。怒りで、気障りと判定しても、身体が反応せず冷静に損害賠償を求めるようなときには、怒りにはならない。ムカつき心身が反応してはじめて怒りである。ときには、解釈・判定面はなくても反応さえ生じるなら、怒りとなる。気分としてのイライラする怒りは、その気障りとの解釈対象を欠いた心身の反応面のみでも成り立つ感情である。感情では、心身の反応面が要となる。喪失の事実、その解釈がなくても、身体が冷え冷えとしたり涙をだせば、悲しみの感情がもたらされる。
痛みの感情は、一方にその生において傷つき損傷を生じていると判じて(痛み刺激をもっての痛み感覚となり)、他方にこれに心身全体で萎縮・緊張・抑鬱・拒否等の反応をもつ。痛み感覚をもち、これに生主体が拒否的に能動的に反応するとき、痛み感情になるということである。
痛みの場合、苦痛刺激が意識の多くを占めて、その感覚とそれから生じる痛み感情は、一体的に感じられ、感覚と感情は区別しにくい。まずは痛み感覚に始まり、その持続の中で痛み感情も生じるから、しばしば痛み感覚の中にその感情は埋没して、区別がしにくい。しかし、痛み感覚はあっても、痛みの感情とならず、感情としては、ストレッチのように、痛みの感覚が快感になることもあるから、痛み感情は、その感覚とは別に考えられるべきものであろう。その痛み(感覚)が大きな価値を伴うものだとすると、感情的には、快になり(身体は、苦痛感情の緊張・萎縮があっても、快感が勝つと、弛緩し、伸張することになり、快のみを感じることとなる)、不快・痛みの感情は消失して、感じられない。そこでは、したがって、痛みの感覚のみが感じられ、感情的には、快感が続くこととなろう。
痛みでの感覚と感情は、区別しにくいが、痛み始めに損傷の部位に感じるのは、痛み感覚である。それに続いて萎縮したり緊張するのは、心身全体で反応することで、これは、痛む部位の感覚を超えたものであり、痛み感覚ではなく、痛み感情になると言ってよいのではないか。腕が痛む(感覚)とき、逃げたい、これを回避したいと思うことになるが、その逃げたいという衝動・思いは、腕が思い反応するのではなく、個我としての私の心身全体での反応であり、これは、痛みの感情になるであろう。
2-3-3-3. 痛みでは、感覚と感情の区別がしにくい
痛み感覚のうちでは、おそらく多くの場合、痛みの感情も抱いている。痛み感覚とみなしているものが、実は、感情だということがありそうである。損傷には痛み感覚が生じるが、火急の事態として、即感情も続く。感覚の持続のもとには、回避衝動・逃走衝動等の感情も含まれている。痛みの感情がその感覚と別に生じるのなら区別しやすいが、痛み感覚に対して即その痛み感情をもつのが普通だから、両者は、渾然一体となって区別しにくい。
痛みの感覚と感情の違いを自覚するには、痛み感覚のみの状態とこれを超える状態とを観察するといいかも知れない。軽く痛み感覚のみを生じる状態にして、痛み感覚を知り、その痛みを強化して、これを避けたい、この痛みから逃げたいと思うようになる段階が生じたら、そこからは、感覚のみでなく、痛み感情も生じているはずであろう。感覚自体には逃げたいとか避けたいという反応はない。回避とか逃走という動きは、心身全体での反応をもってなる痛み感情になる。もっとも、弱い痛み感覚でも、逃げたいとは思わないにしても不愉快で嫌悪的になるなら、これは、感情的反応をもっているのである。また、強い痛みとなってはじめて感情を生じたとしても、その強い痛み感覚とその感情は、一体的となっていて区別をつけるのは難しいかも知れない。
弱い、あいまいな痛み感覚のもとで見ていくのではなく、間違いなく痛みの感情も感覚もある強い痛みのもとで見ていき、そこで感覚と感情を分別できるのが一番であろう。感覚と感情の渾然一体の強い痛みのうちで、その感覚を除去することは、伝達神経や脳の痛覚部位を麻痺させてできるだろうが、おそらくその感情の成立も不可能にしてしまう。逆に、感覚の方はそのままにし、強い快感情(弛緩)を与えて痛みの感情(緊張)の方をなくして、その強い痛み感覚を取り出すことができれば、そして、改めて全体からその感覚部分を差し引けば、感情が残ることになるであろう。例えば、眼の中にいれても痛くない愛児から痛みがもたらされた場合とか、苦痛の持続する中でそれの軽減のために快楽湧出の麻薬類(感覚までは麻痺させない類いのもの)を使用した場合、快感が優れば痛み感情はそこでは相殺されて消えるはずである。そういう状態にできれば、純粋に痛み感覚を残し分出でき、その感情と感覚を弁別できるような気がするが、どうであろう。
2-3-4. 「痛い」という言葉について
痛みは、和語では、物が損なわれたときにもいう。「この壁は、いたんでいる」とか「この肉は、いたんでいる」と。肉の新鮮さが損なわれて少し腐敗している状態に、壁が少し壊れているときに、そういう。いたむとは、少し損なわれることである(大きく損なわれた場合は、いたむことを超えて、取り返しのつかない腐敗・破壊となる)。痛むとは、ものの正常さとか健やかさが損なわれて傷んでいることの感覚・感情になるのであろう。食べ物を「いためる」ともいう。腐敗させるときもいうが、通常は、そうではなく、フライパンで熱を加えて食べやすいように加工する行為にいう。生(なま)の状態からいうと、これを損ない、表面を主にいためつけるのである。その食物からいうと、外傷が加えられることに似た状態であろう。いたみは、そとから害が加えられて傷んだ状態であり、その内的感情・感覚としての痛みである。いたんだ壁は、まだ修復が可能な状態にいうように、痛む傷は、つらいけれども、なお回復可能と読み取れるものでもあろうか。
漢字の「痛」は、病垂れをもってなる。つまり、傷つき「病」んでいる状態において、「涌く」(甬は、つらぬくという意味になるのだとか)ものということであろう。痛みがうちから涌き出してくる、あるいは、体を貫くということである。生体の損傷・病いで、うちから涌き上がってくる痛み、損傷個所から絶えることなく涌き出してくる痛みということであろうか。激痛など、全身を貫(甬)き侵襲するといった感じになる。
和語の「いたむ」は、損傷発生を語るもので、痛みより、傷みに重きをおいたものであろう。これに対して漢字の「痛む」は、感覚・感情としてのうちから湧いてくる痛み、あるいは損傷個所から涌き出し貫いて出てくるものである。損なわれての傷み(和語)をもって、これに痛み(漢字)を感じるわけである。
あるいは、和語としての「いたい」は、「いと」云々ということを思わせれば、はなはだしい、過激、非常ということでもあろうか。損傷するような激しく甚だしい、痛覚を興奮させる非常事態である。異(い)である。異常ということである。これは、また、「いと(厭)う」「い(忌)む」といった嫌悪の「い」でもあろうか。異常と嫌悪の損傷を、いとう痛みである。
フランス語で代表的な痛みの表現は、douleurで、ラテン語dolor(苦痛・悲嘆)由来だが、遡ると、引き裂くとか
切るという意味合いをもっていたようである。傷める、損なうという発想と同じであろう。ドイツ語ではSchmerzがよく使われる。これは、smartという語源によるようで、鋭い・猛烈ということで、痛みの鋭さ激しさを語ろうというのであろうか。和語のいたみの「いと」「異(い)」という甚だしさ・異常さに類似するかも知れない。英語のpainは、ラテン語のpoena、ギリシャ語でのpoineeにさかのぼる。その意味は、罰とか報いということで、この痛みは、むち打ちの刑のように、そとから損傷が加えられることに発した受苦、受傷に由来する表現である。漢字の痛みが内(あるいは損傷個所)から涌き上がってくるものという痛みであるのとちがい、painは、和語の「いためる」と同様に、外から傷めつけることに注目したものとなるのであろう。
2-3-5. 痛みの反対極は、単なる無
痛みは、感覚としては、痛覚をもってなるが、痛みの反対の感覚としての快覚・楽覚は、存在しない。つまり、痛みは、温覚に対する冷覚というような対立感覚はもたない。痛覚は、その部位の損傷を感覚するものであり、その損傷がなければ単なる無感覚にとどまる。かりに、痛覚に対立する快覚のようなものがあるとすると、いたるところから快の感覚が生じてしまうことで、快に意識は圧倒されてほかのことは手につかなくなろう。損傷に痛みがあるだけというのが理に合っている。
痛みの反対、痛まないことは、単に痛みがないだけで、損傷がないという健やかさにあって、その部位に注目すべきものは何もない。身体が傷ついたときのみ、注目してこれに対処すればよいことで、その傷ついた部分以外は、放置しておいて健やかに機能しているのであり、無視してよい。身体の傷む部位以外のすべてが無事の状態であり、なにも意識するものはなく無感覚・無感情である。痛みは、対立する極をそれとしてはもっていない。快不快の不快のみからなる感情だということである。
痛覚とちがい、温覚と冷覚は、暑すぎず寒すぎずを感じとるために、対立する温度感覚となっている。それぞれは、過度に高温低温になると、過激な温度を感じるのではなく皮膚を傷めるようなことになって、非常時の態勢をとれと緊急信号を出す痛みとなる。この損傷通知の痛みの反対は、損傷がない状態だが、その至るところの無損傷状態は、そのすべてにおいて意識をかきたてるものはなく無感覚無感情に留まる。火傷で指が痛むとき、それ以外のところは、手足のみか体全体が、痛まない健やかさにあって、意識を駆り立てる必要はなく無感覚で、単なる痛みの無にとどまる。痛みは、緊急信号であり、道路を消防車が大音量の警告音を発しつつ通るようなもので、他の全車両は平常運転で沈黙している。この平常運転の無数の車は、穏やかに走っているが、その穏やかさを表して大音声の軽快な音楽を流すことなどせず沈黙を保ち無にとどまっている(暴走族が爆音を誇示したり、街宣車が大音量で軍歌を流すといった例外はある)。痛みとそれに対立的な無数の無事の無の状態は、こういう状態であり、痛みは、温覚と冷覚のような対立的なものにはならないで、単独に存在する感覚・感情になるといってよい。
味覚・嗅覚では、受容と拒否のために、快不快の感情をもつ。美味しいと不味い、悪臭と良い匂いを感じとる。そこでも痛みの言われることがある。口が唐辛子でひりひりと痛いとか、わさびが鼻にツンときて痛いと。この痛みは、もちろん不快だが、その反対の快は、ない。緊急信号の痛みはあるが、安穏状態の方は、無である。この痛みのない無の状態が仮に快として有るのだとしたら、鼻も口も食べるのを忘れて尽きせぬ快楽に浸っていることだろうが、そんな快は存在しない。緊急信号に緊急の対応を迫る痛みはあるが、穏やかなら何も対応すべきことはなく、無に留まる。
2-3-5-1. 痛みからの解放時、楽を感じる
「まだ、痛いですか」と聞かれて痛みがない場合は、「今日は、痛みが無くて、楽です」という。痛みの反対、痛みが無い状態を、「楽」と言い表す。だが、これは、楽(快)が、痛んでいた箇所に生じていることをさすのではなかろう。痛みがなく気がかりがなくなったというだけである。苦痛から解放されたときには、それまでの痛みの抑鬱感や嫌悪感から解放されて重荷がとれて、ほっとする。その解放感を、「楽になった」と表現するのであろう。歯が痛み続けて、抜歯で若干痛みが残る程度のとき、この「楽」を一番感じる。それは、そこに快の感情が生じているとしても、それは、解放されたという安堵感、安らぎの感情である。痛みから逃れたいという欲求が生じていてそれに苦しんでいたのが、これが抜歯で一挙になくなり欲求充足がなってその充足感の快として楽を感じるのであろう。それは、痛みに対立した楽ではなく、苦に対立しての楽と見なすべきであろう。時に歯痛を生じるその歯や歯茎に、虫歯のない健やかさを、「楽」・快楽と感じとることは不可能である。苦痛の重圧から解放された時にのみ感じうる解放感である。歯茎の痛みに、楽という感情が歯茎において対立的な極として存在するものではなかろう。痛み=損傷があるのに対して、それがない無事の歯茎や皮膚は、無感覚・無感情にとどまる。
痛みがあるとき、これを和らげるために、快をもってくることがあるが、これからすると、やはり、痛みの反対極に快があるのかと思いたくなる。だが、これは、痛みの感情の萎縮とか緊張を小さくするために、その反対の動きとなる伸張とか弛緩をもってくるということである。快がそのために有効ということである。痛みの反対極があってこれをもってくるというのではなく、なんでもいい、痛み感情の緊張・萎縮を打ち消すために快一般をもってくるだけである。痛みに対して、緊張・萎縮を解く弛緩・伸張の快なら、それは、食のおいしさの快でも、性的なものでも、精神的な愉快さでも、なんでもいいのである。痛みに固有の対立極があるというわけではない。
しかし、ものごとはこれを見る視座によって異なって捉えられることで、痛みも、その対立極をもつように捉えることも可能ではあろう。唯一絶対と見られるものも、見方によっては相対に捉えられる。客観的実在的には、有るのは唯一、光のみで、闇はないにも関わらず、主観的に感覚では、光(白色)は、闇(黒色)と二元的に見られる。電極などもプラスとマイナスがあるとも言えるし、あるのは一つの電流のみとも言える。痛みも、あるのは感性的には痛みだけだが、その無を健やかさとか安らかさと見なして生の営為の総体的見地から見直せば二元的に捉えることもできる。しかも、その生の有るべき本来の姿は、痛みではなく、健やかさや安寧の方である。その健やかな生が損なわれた逸脱状態が病み痛むことであり損傷であって、痛みは、本来的生(存在)にともなう、それの無、逸脱した悪・暗黒と捉えられることの方が普通であろう。
2-3-6. 痛み消去の方法
痛みは、損傷に抱くものであるから、その損傷を解消できれば、当然、痛みは消失する。これが一番自然で真っ当な痛みの解消法であるが、損傷は消去できないとしても、その痛みでの萎縮とか緊張といった構えを消せるなら、痛みを小さくしたり消去することができる。痛みの反対極はないが、痛みの諸様相を打ち消して、痛みの萎縮とか緊張をなくするようにと、弛緩・伸張をもたらす動きができれば、痛みの感情は相殺される。弛緩・伸張等をもたらすものは、不快の反対の快であり、快を痛みに対置できれば、痛みは小さくできることになる。激痛のある末期癌に麻薬を使うことがある。快楽を麻薬で与えることで、激痛を緩和する。
精神的な痛みでも、感情は身体的に反応することが大きいから、身体的に反苦痛つまり、弛緩し伸張するような反応をとれば痛み・不快反応は軽減される。精神的苦悩であっても、精神的な快でなく身体的に快楽をもたらすものでもっても、これを小さくできる。美味しいものを食べたり、湯船でゆったりすれば、こころも和んでくる。逆もありうる。身体的な痛みを精神的な快としての喜びとか楽しさ、慰めの言葉が和らげてくれる。
痛みの感情は、痛み感覚、痛覚刺激が脳に伝達されてなるのだから、途中の神経伝達を生理的であれ物理的であれブロックできれば、当然、痛みは生じない。脳の機能の一部を麻痺させることもある。飲酒は、高度の知的機能の部分を麻痺させるようで、精神的苦痛をいだくに必要な知の働きを麻痺させて憂さを忘れさせてくれる。麻薬等の薬物は、快楽を湧出する脳内麻薬様物質と同じことをして快で苦痛を軽減するのみでなく、脳の機能自体を麻痺させ眠らせることもある。眠り、意識がなくなれば、痛みを意識することもなくなる。
麻痺させる場合は、一時的な痛みの無化であるが、永続的に痛みを無くした方がよければ、単純には痛みをもたらす機能・部位を除去すれば可能となろう。通常は、それでは、損傷などの危機に対応できなくなるから、痛覚をなくすることは一時にとどめる必要があるが、ときには痛覚自体の除去でよいこともある。歯では、神経を抜くことがある。歯は残して使用可能な状態にして、歯の内部の歯髄という部位を、痛覚を含めて血管などもすべて取り除く。それで猛烈な痛みであるその場所での歯痛は除去されることとなる。それを、苦悩の止まない脳の内部に施したのがロボトミーであるが、これは、苦悩する必要のあるときもできなくするのだから、無気力になる等の後遺症を種々残した。現代は、そういうことはしないようであるが、正確に脳内での問題部位をつかんで、これをレーザーで焼いて働かないようにして、(悩ましさのみをもたらす震えのような誤作動を止めて)健やかさを取り戻すことが可能になっているとか聞く。
2-3-6-1. 痛み自体は、そのままにして、これを穏やかにもできる
ひとの意識は一つのことに集中するから、痛みが生じていても、痛み以外に意識が向くとその痛みは感じることがなくなる。戦闘状態では、大けがをしても、これに気づかず、痛みを感じることがないといったことになる。他のことに気を取られていて、小さな傷には気づかず、痛みを感じることがないといったことはよく起こる。
精神的な痛みでは、心のうちの損傷・喪失の解釈を変えることで、痛みを軽減することが可能である。母親の死に悲痛の思いをいだいたとしても、「長患いせずに、あの世にいけたのだから、父親のもとに逝ったのだから、よしとしなければならない」と思い直せば、落ち着けることである。その死を喪失とばかりに解釈しないなら、痛みの感情は小さくて済むであろう。あるいは、精神的に痛みを感じていても、意識を奪うような大きな事態に出合うと、そういう風にもっていけば、心の痛みは消えてしまう。仕事に専念して悲しみを忘れるということは、よくいう。もちろん、意識を奪うような大事がなくなったら、また、もとの痛みは再開する。消えたのではなく、意識の底に沈んでいただけで、重大事が消えることで、再度浮上してきたのである。
注射の痛みに過敏な人がいる。が、これも、何回も経験していると、しだいに慣れてくる。はじめは、過剰に反応して過度に苦痛を感じていても、過剰反応をおさめて、だんだんと、その痛みに慣れてくる。注射針を見なければいいのだ等と痛みの受け止め方にも工夫ができてきて痛みは小さくなる。蚊に刺されることには、慣れていないと気になるが、自然の中で、刺され続けていると、何でもなくなる。刺された跡があるので、刺されたのかと分かるだけになってもいく。食べ物ではその悪臭が苦痛になるものがある。だが、これには、おいしければ慣れてきて、悪臭と感じなくなっていく。暑さも寒さも、苦痛であっても、慣れれば、少々のことなら平気になる。
慣れることは、皮膚の場合など、苦痛に慣れることとともに、損傷に慣れてくるということもある。裸足では、すぐに足を傷めて痛むことになるが、裸足が普通のことになると、大昔はそうであったように足の表皮が厚くなって損傷しにくくなり、当然、痛みも生じなくなっていく。精神的な痛みも、慣れると、鈍感になるのが普通であろう。はじめは罵声におびえて苦痛を感じていても、それが普通となって、犬の遠吠えぐらいにみなして平気になる。過敏になっている感度を、意識的に或いは無意識的に下げることは、苦痛に対処する多くの場面で取られることである。
2-4. 苦しみ
苦しみは、痛みとは区別される。胃や喉が、痛いのと、苦しいのとは異なる。痛いのは、その胃とか喉とかの部位が損傷を受けて、その傷に痛みの感覚をもち、痛みの感情反応をするものである。だが、胃が苦しいという場合は、満腹状態などで胃がもうこれ以上の受け入れを拒否しているような時とか、激痛が続いて他のことが手につかず七転八倒し耐えがたいような時にいう。胃が、もっと食べたいという自身の欲求を受けつけないとか、胃の痛みを静かにさせておきたいという思いをまったく受けつけず、自身の思いを阻止・妨害していることに対していだく感情反応であろう。私の思いを通してくれない、その思いの損なわれ抑止された状態に、苦しさを抱くのであろう。
のどの苦しさの場合も同様であろう。痛みは、のどが炎症を起したり、魚の骨が刺さって、その傷んだ部位が痛いのであり、それに痛み反応をしての感情である。だが、苦しいという場合は、のどにものが詰まって苦しいのは、私が呑み込もうとするのに、その思いを通すことができない状態になっていて、自身の思いを阻止されての阻害・妨害に対して、生の健やかさの損なわれた状態に、私が苦しさを感じるのであろう。苦しさは、もっと食べたいのに、息をしたいのに出来ないという、ひとの「したい」「ほしい」といった欲求・衝動が損なわれ抑止されるところに、その思いを妨害し阻害する事態に対していだくものだといってよいであろう。
忍耐の対象は苦痛であり、苦痛は、損傷による。損傷は、生の部分的な破壊、受傷と言うことであるが、忍耐の対象ということで広くとれば、他方では、内的な生動性を損なっての欲求等の不充足という欠損状態、健やかさの損なわれた状態(その不充足は、欲求・衝動が損なわれ損傷をうけた状態)でもありうる。忍耐の対象の苦痛と損傷は、受傷への痛みと、欠損への苦しみということになる。痛みは、受傷しての傷み、損傷への感情反応であり、他方、苦しみは、生動的欲求・衝動等の不充足という、健やかさの損なわれ欠損した状態への、生動的な思いへの妨害・阻害に対する感情反応ということになろうか。痛み感情は、損傷個所の痛み感覚とひとつにして感じるように、苦しみも、自身の思いが損なわれ阻止された不快感情をその胃や喉という部位の緊張・疲労等不調の感覚に投影して、胃や喉の苦しみを抱くことになるのであろう。
2-4-1.「ほしい」「したい」欲求を抑止された苦しみ
「産みの苦しみ」をいう。陣痛は、激痛となることが多いようで「産みの痛み」といってもよさそうだが、苦しみという。産もうという思いが、思うようにいかず、難産などになると、その切実な思いの阻害された状態に四苦八苦する。その思い通りにならないもどかしさ・悶え・焦燥等の不快に、苦しみ・苦しさをもってするのであろう。ひとの思い・欲求が阻止・妨害され抑止されてこれに抑鬱・焦燥・悶え・疲労困憊状態になるのが、苦しみであろうか。痛むのであるが、それ以上に、自身の産もうとする思いが長く阻止されつづけるのであり、その思いの阻害状態に、苦しみを抱くのであろう。
息も、無理やり止めているときは、その呼吸停止の不快を「苦しい」という。呼吸を止めていても始めはなんともないというか、呼吸するよりも楽である。それが、だんだんと苦しくなる。これは、痛いとは言わない。出産の苦しみとちがい、痛みは伴っていない。苦しいだけである。息したいという呼吸欲求が抑えられて、その思いが募ってくるのに、その生の生動性が妨害抑圧され続けて(普通は、自身の意志によっての自己抑圧であろう)、心身の不調状態が大きくなり、呼吸欲求抑止の状態が耐えがたくなって、その阻害状態をなんとか解消したいと悶え、焦燥するようなときに苦しいという。呼吸を自らが意志して止めていることに対して、これの持続を破棄せよと身体の諸器官が衝動をもって迫るのを、自身において息しない状態にしておこうと意志を持ち続ける。ひとは、その息したいという生動的衝動・思いを阻害されて抑鬱状態を高め、拒否・嫌悪感を高め、もがき悶えて、苦しむのである。
精神世界では、受傷を意識すれば痛みでもいうが、原則、苦しさで表現する。精神的生がその生動的な思いを阻止・妨害されてこれに抑鬱、煩悶を抱くような不快状態に苦しさをいう。希望の思いが損なわれ潰れて絶望し、安寧の願いが否定され安らぎが剥奪されて不安の状態となり、思いが抑止されて動きが取れない状態で、その生の悶え・抑鬱状態に、苦しさをいだく。
2-4-1-1. 苦しみの定義へのためらい
痛みは、損傷による痛覚刺激の感覚であり、その主観的反応としての感情である。これに対して、苦しみには、苦しみの感覚、苦覚があるわけではない。これを私が、欲求等の思いへの妨害・障害を感知しての主観的な反応と捉えることは、あるいは、行き過ぎ・独断と批判されるかも知れない。忍耐は苦痛にするが、その苦痛は、損傷への感情であり、この損傷は、外的な損傷とともに、欲求の不充足感を大きくした、ほしいものの剥奪・欠損状態としての損傷を他方にもつ。苦痛は、傷への苦痛つまり痛みとともに、欲求不充足、その損なわれている状態への、思いのかなわぬことへの苦痛をもつ。この後者としての苦痛は、傷への痛みに対しては、苦しみをもって言い表しうるのではないかと思う。が、この「苦しみ」が、欲求・思いの阻害・妨害された不快感情に尽きると言うことには、批判があるかも知れない。
痛みの客観的な裏付けは、痛覚に求めることができる。皮膚の痛みは、皮膚の痛覚が刺激され興奮して脳に痛みとして受け取られているのである。どんな痛みも、痛覚の裏付けをもつ。痛覚のない、心臓やお腹が痛いのも、それなりに周辺にある痛覚を刺激しているのであろう。頭痛も、脳内の血管(血流)あたりが回りの痛覚を刺激して痛むもののようである。原則的に、痛みは、痛覚に由来し、損傷、傷みへの感覚・感情ということになる。心の痛みなどは、心の傷により、痛覚由来の痛みの比喩的拡大適用になるものであろう。
だが、苦しみは、痛みの痛覚のような、核、よりどころとなる感覚をもっておらず、それの客観的な定義を裏付けるものを明確にし難いようにも思われる。したがって、私が、苦しみとは、欲求などの思いへの妨害・阻害に対する主観的な拒否感、苦痛感情であるというのは、独断だと言われれば、そうだということになる。苦しみの一形態として、思いの阻害への不快感情があるというのならまだしも、苦しみがその阻害感情に尽きるというのは、そうでないものもありそうで、言い過ぎになるかもと躊躇しないでもない。
寝苦しいという場合は、寝たい思いを阻害されての不快感情であるが、暑苦しいというとき、その苦しみは、殊更な欲求・思いがあるわけではなく、痛みと同じように受動的にいだくものという感じである。あるいは、風邪で、喉が痛い、頭が痛い、体がだるい、というような場合、欲求とか衝動とかの思いが阻害されてというようなことは意識せずに、その痛みや不調状態をもって、調子がくるって苦しいというようなこともありそうである。もちろん、これらも、自身の健やかさへの思いが阻止されていることだと言えば言えなくもない。すっきりしないものが残るが、差し当たりは、苦しみは、思い阻害への不快感情であることを原則とし、それから外れるものは、それの拡大使用、拡大適用ということにしておきたい。
2-4-2.
部位損傷への痛み、生動的思いへの妨害に抱く苦しみ
痛みは、身体のどこかの部位が痛覚刺激を発してこれを主体が回避・萎縮等の痛み反応をするもので、部位での感覚とそれを踏まえての部位を含む心身全体において反応する感情である。これに対して、のどとか胃が苦しいというとしても、それは、痛みとちがい、その部位だけの損傷等の感覚から出てくるものではない。生がその部位を使うに際して、生の生動的営為、その欲求とか衝動が思いのままには発現できず、その思いの妨害・阻害されることに苦しむのであろう。受傷の損傷ではなく、思いの実現の剥奪・欠損という損傷状態に、苦しさの不快感情をもつのではないか。苦しさには、苦痛反応としての、萎縮・緊張があるが、それ以上にその生の欲求等の発現の阻害・剥奪に対する抑鬱、焦燥、煩悶等が目立つ。
痛みはあるが、苦しくはないこともあれば、苦しいが痛みはないということも生じる。手を切ったら通常痛みが生じるが、苦しさはまず生じないであろう。逆に、息を止めていると苦しくはなるが、そこには、のどにも胸にも痛みは生じない。勿論、痛む手で何かをするときには、痛むので思うようにならず、その痛みに思いが阻止されて苦しむことはあるだろう。苦・痛である。息を止めている苦しさは、さしあたり、痛みは伴わないが、これも、胸やのどに無理をさせ疲労し損傷に到るようなことがあれば、痛みをもつことになるかも知れない。いずれにせよ、苦しさと痛みは別である。が、痛みと苦しさは重なることもしばしばで、ともに生が損なわれたことへの、損傷への強い不快感情であり、苦と痛は、ひとつの苦痛をもって捉えられる。
「痛みますか」というのは、特定の部位を踏まえての苦痛だが、「苦しいですか」は、特定の部位に限定できず、心身全体に関わっての苦痛を聞く。なにより当人の思いが阻害され思い通りにならないことに苦しみは抱くものであろう。どこが痛いのかは、足とか手の部位のことになる。が、苦しさは、何によるにせよ、この私が、思いを抑止された鬱屈状態に感じることである。どこかが不調で疲労感を抱き、動こうとするのに、鈍くなって思うように動けないというときには、痛みでなく、苦しみで問う。部位の痛みはないが、全般的に不調で思うようにならず悩み病む状態にあるなら、苦しさでいうことになろう。
いくら感覚的に激痛がしても、その痛みの状態が自身の営為・思いを妨害・阻害するものと解されることがなければ、苦しみにはならないであろう。痛みが生促進になるということで反妨害と解されるとすると、例えば、スポーツをした後の筋肉痛の状態は、さわやかさのもとにあって、苦ではなく、反対の快いことに属するものとなろう。苦しみの感情をいだくには、それが自身の生の営為・生動性を妨害しその思いへの阻害となって現れることがなくてはならないのだろう。その阻害・妨害に反応して苦しみを抱くのである。痛みがあって、自身の安穏の思い、痛みが気にならない程度になることを切望しているのに、そうならないでその思いが阻害されているのであれば、その痛みは同時に苦しみともなることであろう。
2-4-2-1. 痛みのもとでの苦しみ方の諸様相
尿意は、若干痛みがあり、不快感があるということにはじまる。それが強くなって痛みが大きくなるが、その尿意自体は、下腹部に痛みをもっても、苦しさとはならない。だが、放尿を禁じて止め続けていると、だんだんと苦しくなってくる。放尿抑制が困難になり身をよじり汗をながして足の付け根あたりに力をいれて、その苦しさに堪え続ける。そういう苦痛の状態は、痛覚刺激があっての痛さと共に、放尿への衝動・思いを阻害・妨害されて(自身でそうしての)の苦しさということになる。私という生主体が意思をもって放尿を抑止しているのであり、その意思も、思うようにならず放尿しそうになることに焦燥し煩悶し苦しむ。その重ね重ねの苦しみは、これからの解放、苦の消滅を何よりも優先して実現せよと迫ってくる。
マラソンでは、足の過度の使用で痛みを生じることがある。この痛みは、苦しいとはいわない。足という部位が痛むのであり、その痛み感覚に個我主体が痛みの感情反応をする。だが、その痛みを耐えて走り続けていると、思うように足が動かなくなってきて、快調に走るのを痛む足が阻害してくる。その状態には、苦しさを感じるであろう。痛みは、感覚としては、足に感じ、かつ痛み感情は、心身全体で抱くとしても、その痛み感覚と一体的で、足に痛み感情を投影していくであろう。しかし、足自体は苦しくはない。苦しくなるのは、心身の全体でありこの私であろう。体が思うように動かなくなり、調子がくるい苦しくなる。走り続けようという意思・思いを通そうとするのだが、足を中心とした身体がこれを阻害し、その思いを通そうとすることが抵抗を受けて、これに悶え焦燥する。動かそうとする身体の部位での阻害・妨害的反応を受け止める苦しみの感情である。
風邪の場合、熱がでて、頭痛がする、のどが痛むと、痛みが言われる。各部位での痛みである。と同時に、しばしば、ひどくなると、苦しいというようなことになる。咳が出て熱があって「のどが痛く頭痛がし、苦しい」と。自身の全般的不調への感じ方は、苦しみであろう。どこということではなく全般的な心身の不調、くるった状態の苦しみである。部位が限定されない熱のような場合、かつ、その苦痛が痛覚刺激ではない不調の覚知であるとき、その苦痛は苦しさで表現されるであろう。もちろん、不調で、思うようにならないという、思いを阻止され阻害状態にあるという苦しみともみられよう。のどの痛みが中心の場合なら、そののどにおいて生じる意思への抵抗感、苦しさを、のどに投影して抱くということになろうか。
2-4-2-2.
痛む身体と、苦しむ精神
精神的営為において、痛み、心痛をいうことがある。痛覚が精神・心にあるわけではない。心の痛みは、身体の損傷を手本にし模して、心が壊されその損傷・喪失に悲哀等の苦痛を感じるのを、痛むというのであろう。痛みの拡大使用、比喩的な表現になる。難問を前に「頭が痛い」というが、それは、通常は、感覚的にそういうことなのではない。クモ膜下出血のような場合は、脳内の痛覚刺激をもっての感覚的な激痛であるが、そういう痛覚刺激の痛みではない。精神的な問題について、自身の心が損傷を受けるようなとき、その傷つくことにおいて、皮膚の痛覚刺激に模して、借用をもって「痛い」というのであろう。
精神は、どこかの部位がというのではなく、この総体としての私・個我がその不調に、思いの通らぬ状態に、苦しむ。身体の部位が痛む場合でも、そのことでその生が思うようにならないで踠くとき、その思いが阻害されるなら、その反欲求、反衝動状態は、苦しみとなる。息が苦しいのは、生理的であるが、それには痛覚刺激はなく、痛みにはならない。呼吸欲求・衝動が抑止され、思いが抑止されて、悶え焦燥を生じてこの主体の私がくるいまわって苦しむのである。
痛みは、傷ついた、受傷したという感情であり、苦しみは、欲求等の思いへの妨害に、反欲求状態にいだく感情といえるであろう。仏教は、この世を苦界という。その苦の根源は、我欲にあると言う。苦しみは、ひとの個我の欲求万般について、その思いの通らないこと、妨害・阻害に、反欲求状態に生じるものということであろう。痛みは、中心は、身体にあり、それに模して精神も痛む。だが、苦しみは、中心は、精神にある。精神は、意思や欲求といった思いをもって働き、それの苦痛は、その思いを阻害・剥奪する損傷にいだき、苦しみといわれるものになる。苦しみは、主要には精神のもとにあり、さらにひとの意識の身体に関わる能動的活動の場面でも、その生理的な欲求・衝動等の阻害にも抱くということになろうか。
生の営為について、不調でも、くるっていても、それだけでは苦しみにはならないだろう。下痢で不調でも、熱があっても、心臓が不整脈で不調でくるっていても、それをそうかと眺めるだけ、自覚するだけでは、なんでもなく、平気であろう。心臓や大腸が自分の思うようにならず、あるいは熱っぽくて体がだるくて、健やかでありたい思いが阻害されていると感じるところに、つまり、その不調に悩み、反欲求状態になってはじめて苦しみは生じるのではないか。かりに極貧でも、それを、何もなくてさっぱりしていると見て、豊かな生活をとの思いから疎外された自分とみなさないなら、苦ではなく、安楽である。仏教がこの苦界の根源は我欲にあるというように、苦しみは、自身の思いが通らず抑止されるところに感じるものになる。
2-4-2-3. 苦しさは、身体的な場合も欲求阻害への反応
「寝苦しい」「息苦しい」という。が、これを「痛い」とはいわない。寝るとか、息するというのは、生の生動的営為である。その寝ることが、苦しいとは、寝ようという意思、欲求が阻害され、抑鬱を感じ悶える状態にあるということであろう。息できないで苦しいのは、呼吸への衝動・欲求が阻害されて、反欲求状態になっているからである。これに悶え、焦燥し、抑鬱を感じているのである。寝苦しさでは、どこがということではなく、眠れないという反欲求状態への焦燥感・悶えなどを心身の全体で感じる。息苦しい場合は、胸・喉あたりの不快・緊張等があるから、自身の呼吸欲求の抑止され阻害されている苦しさを、そこに定位しつつ感じることになろうか。
痛みは、外的な傷害、痛覚刺激をもつ損傷において生じる。これに対して、苦しみは、うちからの思い、欲求とか衝動において生じるもので、その思いが抑止されてその不充足という欠損、生動性の剥奪といった損傷状態にいだくものであろう。欲求の不充足状態は、はじめは、単に求めるものに引かれる程度であろうが、それが大きくなると、その不充足が欠損と感じられ、その求めるものが剥奪されていると感じられて、強い不快となっていく。その内的な思いの阻害された不調、くるった状態に苦しみをいだくということであろう。
「暑苦しい」という。爽やかな気候で生が安楽であるのとちがって、生の営為を高温多湿が阻害しているのである。生の営為がスムースに展開できる状態とは反対で、温度と湿度が生動的な健やかさへの思いを抑止し妨害・阻害しているのであろう。逆に少しぐらいの寒冷な場面では、熱を発する運動体としての身体には、あまり妨害は感じず苦しさはいだかず、「寒苦しい」などとは言わない。生は寒くなると全般的に不活発になり欲求を小さくしていくし、何より、温血動物として保温には気を付けるから、寒さで欲求が抑止されて苦しくなる場面にであうことは少なくなるのであろう(極寒の地方では、「寒苦しい」という言葉をもっているかも知れない)。動けば、温かくもなってくる。寒さの苦痛では、苦しみよりは、まずは、皮膚を中心にしてその皮膚の冷覚の刺激が強く働き、やがて痛みとなる方が目立つ。だが、暑さでは、その空気が不快指数100%であっても皮膚が傷むことはなく、少々では痛みにはならない。が、その蒸し暑さは、行動を抑止する。ひとの衝動・欲求といった思いにとって大きな障害となる。思いを妨害し抑止するものとして、苦しいものとなる。暑苦しくなるのである。
2-4-3.
痛みを、苦しむ
痛みは、感情であるが、これは、痛み感覚、身体の損傷の部位の痛覚刺激に発する感覚への反応である。苦しみは、生主体、個我の営為・思いのもとでの、思いを阻止されたことに感じるこの私の感情である。両者は、区別されるが、身体諸部位に発する痛覚刺激に応じての痛みの感情は、その主体がこれに欲求等の思いへの妨害・阻害を感じるなら、同時に苦しみとなるであろう。痛みを苦しむのである。逆は、言わない。苦しみが痛いということはなかろう。
苦しみは、痛みを苦しむのみではない。恐怖にも怒りにも苦しむことがある。主体の思い、欲求とか衝動のような意思するもの全般について、その生動的営為が拒まれ阻止されるところに、その妨害・阻害に対して抱く。絶望に苦しみ、不安に苦しみ、不幸な状態に苦しむ。仏教では、この世を「苦界」という。苦しみの世界がこの世だと捉える。極楽に対比しての、苦の世界である。ひとの思い・煩悩があるかぎり、これが思い通りにならないことは多々あり、苦しむ。しかし、その煩悩・思いを棄て去れば、我欲を棄てて無欲・無我になれば、その不充足の苦は、なくなる。
生理的に痛む場合、これをこの私の思いが抑止されたと見なして、痛みを自身への反欲求状態と捉えるとき、苦しみともなる。足が痛むとき、その感情的反応として緊張・萎縮し、拒否・嫌悪的になるとしても、それにとどまっているなら、苦しみとは無関係にありうる。だが、その足の痛みによって人の営為が支障をきたして生に阻害的になり、それが思いを妨害するものとなるとき、その痛みにとらわれて、その痛みに悶々とし焦燥するような状態になって、苦しみをもたらす。
苦痛は、痛みも苦しみも、拒否・排撃的で嫌悪感をもったものだが、痛みには、回避・逃走衝動が顕著で、苦しみには、それよりも、焦燥・鬱屈・悶えなどの契機が顕著になるであろうか。生はじっとしていても外から攻撃をうけて損傷を受ける。痛みとなる。生が生動的になると、その動きへの意思を痛みなどが阻害し妨害する。その妨害を感じ取るのが苦しみであろう。能動性への阻害・妨害として、苦しみでは、焦燥とか煩悶などの苦痛の契機が目立つ。
2-4-3-1.
強いられる痛み、自らに由る苦しみ
痛みは、多くが外からもたらされる。うちでの内臓等の痛みにしても、自身の意思は通じず、強いられた痛みということになろう。痛みは、意思を超えたところから強いられて発生する損傷への痛みである。その損傷に対して生は防御のために火急の対応をしなくてはならない。それには、何といってもその傷ついたことを自覚する必要がある。この緊急の事態発生を知らせるのが痛覚刺激をもってする痛みである。
他方で、苦痛には、苦しみがある。これは、生の能動的営為のもとに生じているものであろう。その生の衝動とか欲求の形をもっての能動的な営為が(しばしば外に向かって)動くとき、スムースにいかないことが生じる。衝動・欲求といったうちの思いが発現しようとして妨害され、この妨害に拒否的反応をもってするのが苦しいという感情である。この苦しみは、外傷の痛みのように、そとから襲来するものではない。うちに衝動等の思いがあり動きが出てきて、それを思いのままにさせない阻害物が立ち現れての反応である。うちの思いがなければ、阻害するものは、したがって苦しみは生じないであろう。生は、高度になるほど多様多彩な営みをして内外のものに関わり、その生の思いを通そうとするから、高度な生ほど苦しみを多くもつことになる。
仏教では、この世は、苦しみの世界、「苦界」だという。「痛界」とはいわない。そとから痛めつけられることはあるのだが、それは、現に生を得て成功裏に存在しているものにとっては、この世界の本源的な事態ではない。世界は生をはぐくみ支えてくれるものである。だが、自身がもつ衝動等の思いを世界に向かって通そうとすると、これは簡単ではなく、種々の妨害・阻害物が立ち現れてくることで、その阻害を感じ取りこれに反発するところに苦しみが生じる。いうなら、煩悩という思いをいだくことで、世界はそれへの妨害物として現れてきて、苦しみの世界をつくる。妨害物として現れる世界は、冷たいといえば冷たいのであるが、煩悩をもって世界に関わろうとしなければ、苦しみは生じない。苦しみの根源は、自身のうちの思い・煩悩にある。自分が生み出しているのがこの苦界ということになる。
苦しみは、自分次第である。欲求・思いがその根源であれば、苦しみは自己自身のうちにあるものとして、自らに由るものとして自由に出来る度合いが大きい。耐えがたい苦しみならば、阻害と解することになる自分の思い、欲求を取り下げれば、苦からの解放が可能となる。生理的欲求の制御は、そう簡単ではなかろうが、精神的な世界での欲求は、多くが自身の思い方次第で変えられる。欲望肥大になっている現代のことだから、これを小さくして、そういった類いの苦から解放されることは難しいことではなかろう。
2-4-3-2.
受動の痛みと能動の苦しみ
痛みの感情は、何もせず意思しないところでも、受傷して生じるもので、受けた損傷にその痛みでもって気づき、それに緊急の対応をとるものとして、受動的で防御的である。まずは、痛みを生じる事態からの逃走・回避の反応をとる。損傷をもたらす加害物からは逃げるのが一番である。痛みは、生じてしまった損傷にはそれ以上の被害を防ぎ、損傷部の保護のためにと受け身の反応をする。受動的に対応する。痛めば、緊張し萎縮して、さらなる加害に備える。能動的営為のもとでも痛みを生じるが、痛みを抱く場面自体は、受傷を感受してのものとしては受動的ということになろう。
苦しみは、何かを意思して欲求・衝動を抱くところに生じるのが普通で、能動的営為のもとに抱く。意思することへの妨害・阻害が生じる場面で、これに対抗的になって感受するものが苦しみであろう。これを乗り越えるために一層の苦しみを受け入れるか、これへの挑戦を断念して引き下がる。引きさがれば苦しみはなくなる。苦しみは、妨害感受の受動面を有するが、能動的な思い・営為をやめれば妨害は消え、苦しみも消えるから、基本的には能動的営為下の能動的反応となる感情であろう。
痛みとちがい、苦しみは、自身の欲求や衝動といった能動的な思いが阻害されて感じるものだが、実際の行為を意識するよりは、その能動的思いがぶつかる妨害・阻害の感受にいだく。その能動的な思いを行為にまで進めての「辛さ」とは区別されるべきであろう。「息苦しい」と、「息し辛い」「息し難い」は、ちがう。息苦しいは、呼吸欲求が阻害されてもがきもだえる主観的状態である。だが、息し難(にく)い、息し辛(づら)いは、「し」難い、「し」辛いであり、「する」こと、行為について言う。息する行為が困難であることを「し辛い」「し難い」は語る。二つのうちでは、「し難い」の方が、より客観的に困難さを語るものになろう。これに対して息苦しさは、妨害に出合ってのその主観的な感受の様態・感情を語る。
2-4-3-3. だんだんと深まる苦しみ
痛みは、損傷を受けると即これを感じる。損傷を拡大しないためには緊急の対応が必要であり、痛覚刺激は、即、脳にと届き、痛みとなる。痛みの感情は、瞬時に萎縮・緊張などの反応をもって対応する。だが、苦しみは、様相を異にする。苦しむことになる前の段階があるのが普通で、はじめは苦でなく楽であるようなものも多い。それが、生の展開のなかで、思うようにならず妨害・阻害が感じられるようになると、苦しいこととなっていく。しかも時間とともに欲求等への不充足感は大きくなるから、苦しさは、漸次的に大きくもなっていく。
痛みは、生の自己修復の機能のもとに損傷が修復されていくことが多かろうから、そういう場合、だんだんに小さくなっていく。だが、苦しみは、欲求に基づくものであれば、時間とともに、その思いは募り、大きくなるであろうから、その場合は、抑えられた思いとともに、苦しみは、より大きなものになっていくであろう。かつ、思いが満たされることになったら、痛みが損傷の徐々の修復で徐々に小さくなるのとちがい、即苦しみは消失する。尿意など、はじめは、苦でもなんでもないが、抑止しているとだんだんと尿意は大きくなり、苦しみも切迫的に大きくなっていく。かつ、放尿すると即、苦しみは消失する。
精神的な苦しみでは、悲しみなどは、だんだんと苦を大きくするが、絶望とか不安は、突然の希望剥奪とか危険可能性の突発といった場合、徐々に苦しみを深めていくのではなく、突如、奈落の底に叩き込まれるようなことになろう。その絶望・不安が持続すれば、もちろん、心身の疲労困憊の度を高めていくから、さらにその苦しみは耐えがたさを増していく。その苦しみは、絶望や不安の解消で、即消失して安楽となる。
痛みは、自身の思いでは変わらない。痛みとならないためには、損傷をなくする必要がある。損傷は、多くはそとからやってくるもので、当人の意志を超えた客観的なものとしては、思いでこれを変えることは通常はできない。だが、苦しさは、自身の思い次第では、苦でなくなることも多い。生理的な欲求は、簡単には変えられないだろうが、社会生活での欲求の引き下げは難しくはない。欲求・思いを変えることで、欲求への妨害・障害は消えるから、そこに生じていた苦しみはその原因を失って消えていく。片思いの苦しみは、気を他に移せるなら、即消失する。
2-4-4. 苦しみの成立過程
痛みは、自身の思い・営為とは無関係に受傷で発生する。だが、苦しみは、欲求等の思いがあって成り立つことで、自身の在り方次第で相当に異なってくる。多くの場合、痛みとちがって、はじめから苦しいということはない。はじめは、楽であったり、難なく受け止められるもので、それが次第に苦しいものに変わってくることが多い。
息は、止めることで苦しくなるが、はじめは、息したいという欲求がほとんどないから、苦しさはゼロである。だが、しだいに苦しくなっていく。息しよう、息したいという意思が思いのままになれば、楽であるが、これを抑止されることになると、意思が通らず、抑圧を感じ始める。若干不愉快・不快となろう。息する意思を抑止し阻害するものの圧力を不快と感じ始める。それが強くなっていく。だんだん呼吸欲求が切実になり、息することを阻害している状態が苦しいものとなっていく。胸とか喉あたりが、痛みではないが何か詰まっているというか動きたいのに動けないといった感じで苦しくなる。息したいという衝動よりも、その苦しさを解消したいという衝動の方が大きくなる。
生理的欲求の場合は、その欲求が徐々に切実になって苦しみを生じそれが大きくなるのが普通だろうが、受験とか恋愛などでは、その思いが突然拒まれるのであり、即、絶望的状態になり苦悩するのだろうから、一挙に苦しみに叩き込まれる。絶望の発生とともに、一斉に、抑鬱・悶え・焦燥などの心的反応をもち、身体的に萎縮等の反応をもつ。一日中そうなるわけではなく、これを意識したときに苦しみを味わう。スポーツに熱中しているときなどは、絶望の事態を思うことなく、したがって、苦悩することも停止しておれるであろう。苦しさは感じないとしても、その絶望のもとにある生全体は、楽しまず陰鬱の状態に落ち込んでしまう。しかし、精神的社会的なものでも、貧困などのように徐々に切実になるのなら、徐々に苦しみが大きくなろう。恋愛でも、一挙に失恋となるのではなく、片思いを深めて恋焦がれるというような場合は、苦しみは、生理的な苦しみと同じように、徐々に苦しみが大きくなることであろう。
2-4-4-1. 欲求等の思いがなくなると、その苦しみもなくなる
失恋しての苦しみは、愛しい人を思っていることから生じる。もっといい人が現れてその愛しさの思いが消えた場合、苦しみも消失する。ほしい、ありたいという欲求・思いがあるから、それの充たされない状態が苦しみとなる。その思いがなくなれば、その同じ状態は抑止・阻害するものではなくなり、苦でもなくなる。ひとは、未来に生きる。身近な事柄でも、さきに目的・思いをえがき、これを実現しようと動く。その意思が阻害されることに苦しさを感じて、この苦を乗り越えて楽・楽しい状態にと持っていこうとする。
苦しみは、創造的な場面に多くでてくる。創造的な意思の挑戦には、これを阻害・妨害するものが生じるから、苦しみが生じる。この苦を乗り越え、阻害するものを克服して、新規の創造的なことがらは成就し、悦楽を感じることになっていく。痛みは、すでに生じた損傷にいだくものとしては過去向きになり現在に苦痛を感じるが、苦しみは、未来へ向かう思いにいだくものとしては、未来向きに苦痛を感じることになろう。勿論、過去向きに悔やむ場合などは、苦しさも過去向きとなるし、喪失の現状に苦しさを味わう。
絶望に苦吟・煩悶状態を長く続けていた者が、自殺を決意してからは、心穏やかな状態になることがある。会って話をして穏やかだったので、直後自殺したと知ったとき、そんな様子は見られなかった、穏やかだったと身近な友人あたりの話を聞くことがある。絶望の極み、あらゆる思いを断ち切ってしまい、この世から去ろうと決断したところでは、生きることへの思いは消滅し、そこに生じる苦しみは、もはや存在しなくなるのであろう。生への種々の思い自体が崩壊し、もはや苦しみも崩壊していたのである。
苦しみのもととなる阻害・妨害物をなくするには、積極的には、この妨害を乗り越えていくことである。阻害するものを打破して先にと進むことである。創造的営為は、これによって可能となる。苦難に挑戦して、これを乗り越えていく。だが、その苦しみ自体をなくすべきだとしても、その阻害物を乗り越えることができない時もある。そのときは、主観の欲求・思いを変えることで苦しみからの解放は可能となる。その欲求をなくすれば、その妨害物は妨害物ではなくなる。妨害物がなくなれば、苦しみも消失する。苦の根源は、自身の欲・煩悩にあると仏教は捉える。そのわがものにしようという欲をなくすれば、それが思い通りにならないという苦は生じようがない。
2-4-5. 痛みと苦しみへの忍耐の異同
苦痛に忍耐するが、痛みと苦しみが違えば、その忍耐の在り方はそれなりに異なったものになろう。痛みは、自身からしてこれを起こすことは少なかろう。痛みのもととなる損傷は、多くはそとから加えられる。苦しみの方は、自身の欲求等の思いによって生じる妨害・阻害に抱くものとしては、自身が苦しみを起こしている面がある。痛みは、しばしば外から意図しないところに生じるもので、これには、受動的に消極的に対応しはじめることになり、これを被るのは、運が悪い、不運ということが目立つ。だが、苦しみは、自身が意図することにおいて起きたものとしては、この苦に忍耐する場合、積極的になりうることであろう。自身に起因する苦しみであれば、その起因となる欲求等の思いを変えることによって、苦しみを調整できることでもある。痛みは、損傷によるものとして、マイナス状態を感じ、これをゼロにまで回復できれば上々と、消極的対応にとどまる。だが、苦しみは、それの生じる妨害などを乗り越える創造的営為の途上にある場合、その苦しみを耐えて乗り越えることで、創造的な前進・飛躍がなるとすれば、この苦しみには積極的になる。苦しみへの忍耐は、欲求を実現する過程のことであれば、価値あるものの獲得に向かってプラスを実現するものとなる。
痛みは、損傷によるものとして客観的であり、痛覚刺激によるのであれば、ひとによって、異なることは少ない。痛覚のない者が時にはいるが、そうでなければ、傷つけば、だれもが痛む。だが、苦は、主体しだいで、苦とするか否かがちがい、苦の程度も、苦に耐えうる程度もその意思・意欲で相当にちがってくる。痛みは、これを軽減するには、損傷を小さくできないのであれば、麻薬類を使って、痛みの緊張・萎縮の反応を打ち消して弛緩をもたらす快を与えることがある。痛みを意識することで痛みを感じるのだから、意識させない方法も効果がある。苦しみの場合は、痛み軽減の方法と同じものが通用するだろうが、それよりも、ひとの欲求等の思いがあってのことで、この思いをなくして、その阻害に感じる苦しみをなくする方が真っ当な場合がある。こざかしい個我の思い・煩悩を小さくしたり消去できれば、世界は、苦悩をもたらすものであることをやめる。苦しみは、ひとを変える。これに忍耐することをもって、時間とともに、思いは変わり、苦しみも変わる。苦しみとそれへの忍耐は、その人となりを、生き様を如実に表す。
2-4-6. 和語の「くるしい」、漢字の「苦」
苦痛にあがき悶えて「くるしい」という。この和語の「くるしい」は、狂うと同類なのではないか。調子がくるい、乱調でくるって、くるしいのである。あるいは、くるくる回って踊り狂い、神がかり状態になるのは、日常を超越した異常心理状態である。日常の真っ直ぐな歩みをはずれて、無意味に同じところでくるくる回る異常状態である。踊り狂って「くるう」ように、強烈な苦痛に七転八倒し「くるしむ」のであろう。欲求・衝動といった思いが充たされず、その思いと営為のエネルギーが行き場を失い、出口を失って、くるくるまわって無意味に回ることの強いられた状態が、くる・しむ(使役の助動詞)であろう。
心身の正常な生動性が損なわれ動きがおかしくなって正常に機能せず思うようにはならなくなると、抑止・抑圧を感じ抑鬱状態になる。思いを実現しようと外に向けて力むが、いくら力んでも思いを外に向けて発散させられないのである。その、うちに閉じ込められたエネルギーが抑圧されて息もできない状態で、「クー」と音を漏らすというのも、「く」るしみにつながりそうである。あるいは、思いの抑止された状態に耐え、歯を食いしばって「クー」と力むこともある(ドイツ語で、苦しみをQualでいうことがある)。抑圧・妨害に耐え力んで漏らす「クー」が、「苦しい」という言葉(音声)を支えているような感じがする。
漢字の「苦(kǔ)」は、古い固くなった草を示しているのだとか(苦も音では「クー(kǔ)」である)。草食動物には、青青とした新鮮な草とちがって、干からびて堅く古くなった草は、不快なことであろう。あるいは、ひとは、薬草を乾かして煎じて飲むが、これは、「良薬は口に苦し」で、口には多くが苦痛である。苦い味は、口にする物では苦痛の代表になろう。酸っぱいものや辛いものも不快で苦痛だが、呑み込むのに耐えがたいのが苦いもので、「苦しい」ものとなるのであろう。苦いものは、受け入れたくないものの筆頭になり、これを受け入れるという反欲求に感じるものになる。食の欲求を抑止し、食べないようにさせる筆頭のものが苦いものである。欲求・衝動といった思いを拒み、反欲求物となって生を阻害・妨害するものが苦ということであろうか。
痛みは、和語では、「いと」、とてもという主観の感じ様であったが、漢字では、痛みは病んでうちから涌き出してくるもので、より客観的であった。苦しみでも、和語は、くるい回るものとして、思いがくるくる回ってと主観的な面からとらえているが、漢字は、枯れた草と、より客観的である。「クー」は表音的で、「苦」は、表意文字ということであろう。和語の世界は小さく、阿吽で通じることが多いので、主観的なものを直截に表現して済むのであろうか。漢字の世界は広く、多くの異民族(異言語)を含んでいるので象形、表意的になり、より客観的な表現でないと通じないということだったのかも知れない。
2-4-7. 痛みとちがい、苦は、反対極の快感情をもつことが多い
痛みは、損傷にいだくものだから、損傷のない健やかな反対の状態は、無にとどまる。傷みに痛めばよいことで、痛まない状態は、意識にはのぼらないのが普通である。傷みから解放されての健やかさの快を、一時的にいだくことはあるが、痛みのペアとなる反対の感情は日常的にはない。痛覚はあっても、快覚はない。だが、苦しさは、欲求・思いが阻害されて抱く苦痛だから、欲求実現へと駆り立てる感情としての快を対立的なペアとしてもつことが多い。欲求阻害の不快・苦しみとともに、その欲求実現にいだく快を反対極にもつ。のどが渇いての苦しみは、これを潤せばその苦から解放されるが、そこには、充足感としての快を感じる。妨害が除去された状態は、苦しみからの解放になり、楽ということになり、痛みからの解放に楽を感じるのと同じことになるが、痛みとちがい、さらに、積極的には、欲求の充足のなる場面では、充足感としての快を抱く。その快に魅了されてさらにこれの充足に向かおうとする。アメ・褒美となる積極的な快が存在することになる。
遊びたいという欲求が抑止された状態は、苦である。その苦しみから解放されることは、遊びの欲求の充足ということであるが、それは、単に苦から解放されるだけの、消極的な無苦の状態にはとどまらない。抑止・その苦からの解放は、その苦の反対は、生の発揚のなる躍動的な遊びということで、単に苦から解放され苦が無になっての楽になったものではなく、さらに、能動的になった楽しさということになろう。空腹の苦しみからの解放は、その苦を無にするだけではなく、おいしいものを食べることで、積極的に快を感じることになる。かつ、栄養摂取が十分になるまで快享受を反復し、お腹を満たすまでその快はひとを駆り立てる。
だが、苦の反対が無苦の状態にとどまり、快が積極的には存在しない場合もある。マイナス状態からの解放の欲求の場合、ゼロになれば十分で、それ以上にプラスを求めるものでなければ、そのゼロの無苦止まりになる。病気の苦しみからの解放は、さしあたり、その苦がないことを感じて楽になるが、しばらくすると、苦を忘れられるぐらいになると、その楽も消失する。傷みの痛みからの解放と同じ経過をとるといえよう。呼吸欲は、これを抑止していると苦しくなる。その苦に駆り立てられて、呼吸を回復しようと懸命になる。苦が呼吸へと駆り立て、苦しみから解放されて欲求充足した直後は、苦を踏まえた楽が感じられる。だが、呼吸は、通常は、充足されつづけることで、そこに快を感じ続けていたのでは、生の他の営みにとって雑音となることだから、その楽は、すぐに消えて、感じるもの、意識するものはなくなっていく。痛みとそれからの解放の無痛状態と同じことになる。
2-5. 辛(つら)さ
息を止めていると苦しくなる。はじめは、不快よりは快というか、息するより楽である。が、次第に酸素が不足し炭酸ガスがたまってくると、これを感じて苦しくなる。その苦がさらに大きくなると、耐えがたい苦しみになる。そういう状態で「辛い」という。辛さは、苦のぎりぎりの限界に近い段階の苦痛である。その先は、息を止める意志が敗北して呼吸をしてしまうことになりそうな限界である。いわば、意志が最大限の力を注いで、それも限界になって、その敗北をまじかにした、ぎりぎりが辛さのレベルになるのであろう。「辛い」という言葉を吐くときは、若干の悲しみの感情も伴うことが多くなるのではないか。敗北寸前の泣きたくなるような状態での極限の苦しみの段階になるのであろう。
息苦しいということに並べて、その辛さをいうとしたら、「息辛い」とは言わず、「息し辛い」という。あるいは、「息し難い」ともいう。「し・つらい」「し・にくい」ということは、「する」ことが難しい、辛いということである。苦しさが主観的な内面を吐露したものになるのに対して(それの極点を辛いというとともに)、辛い、難いは、ここでは「する」という能動的な営為についての困難さをいうのであろう。この「息し辛い」という事態は苦しみの激化にいうのではなく、「する」という行為の困難さをいう。マスクをしていて、息することが難しいようなときは、苦しさはあまりないが、呼吸が「し辛い」という。「する」という意思の営為についての困難さをいう。自身の意思が思うようにならないで妨害を感じる状態である。それと、苦しみの極限にいう辛さは、別であろう。苦しさの最後は、自身の精神が全力を注いで、意志を中心にして、苦しみに、息を停止し続けることに耐えるのであり、全力の意思の傾注によって、なんとかぎりぎり耐え得て苦しみを受け入れ続ける。その能動的な意思をもってする困難さは、「し辛さ」である。これが苦しみを受け入れ続けさせるので、苦しみの限度を超えるところでは、「する」困難さの「し辛さ」を再度出してきて、その最後のぎりぎりの苦痛は、端的な「辛さ」で言われることになるのではなかろうか。
苦しみは、妨害物が妨げることを感じての、それへの抵抗感を中心にした、これを感受しての苦痛反応である。これに対して辛さは、もはやその妨害が圧倒してこれを動かそうとする意思の言うことを聞かなくなって、手足等を意思が力み動かそうとするのに、その意思の営為が、行為が、し辛いのである。行為する身体までもが自身の意思に抵抗して動かないというその抵抗を感じ取ってのものになるのであろう。妨害・阻害に対応して苦しさを抱いている心身が、音をあげそうになり、耐えがたくて後退しそうになるぎりぎりに、最奥の自己、己の尊厳を支える精神(意志)が前面にでて、苦しみをもたらすものに最後の抵抗をするところに感じる苦痛が、辛いという状態であろうか。
2-5-1. 痛み・苦しみの限界としての辛さ
息をとめていると苦しくなる。その苦しみが増してくると、最後は、辛い状態になる。苦しみのぎりぎりの限界が辛さということになる。忍耐は、苦痛・苦しみにするが、その苦しみは、忍耐し続けているとしばしば大きくなり、その我慢は限界になっていく。そのぎりぎりの限界において辛さが登場してくる。苦しみに我慢するが、その持続が困難な状態になってくると、もう駄目だという思いが生じてくる。この苦しみのぎりぎり、苦しみから逃げないで我慢しつづけることのぎりぎりに、辛さを感じる。呼吸停止の苦しみは、息したいという欲求が呼吸のための筋肉を動かそうとするのを、意志が抑止して、その欲求抑圧に感じるもので、肺や喉に発して身体全体で感じる生理的なものだが、辛さは、その苦しみへの平常的対応では無理・限界となって、自身の精神の内奥からの意志が前面に出てきて、その苦しみの受け入れの断念を阻止し続ける段階になるのであろう。通常の限度を超えた苦しみを精神(意志)の力みが引き受けての辛さである。辛さの感情は、心身全体での苦痛反応であるが、それを可能とするのは精神・意志にあるといっていいであろうか。
痛みでも、耐えがたさの最後は、辛さになるであろう。足を麻酔なしで切断せねばならない場合、激痛に耐えることになる。それが瞬時なら、「痛い」で終わるが、続くのだとすると、だんだんに、疲労困憊状態になって、痛みは、「辛い」ものになろう。逃げないで苦痛を受け入れ続けるのだが、激痛甘受の持続は、意志が自身の逃走衝動を抑え続けてのことで、激痛が長くなるほどに逃げ出したい衝動も大きくなろう。弱気になりだし、逃げようかといった思いを持ち始めることでもある。激痛から生じるその弱気の思いを抑止し、歯を食いしばって耐える最後・最内奥の精神(理性意志)がここに登場する。その困難な状態とそこに生じる感情が辛さということになろうか。
「まま子に辛くあたる」という。その辛さは、冷酷無情ということである。激しい苦・痛をもって当たるのである。自身が辛いという場合も、自身のぎりぎりのものになり、自身に、冷酷に対処して辛く当たり、激痛や苦悩に耐えさせる。辛さは、激しく厳しい、全身全霊をもってしなくてはならない、ぎりぎりの苦痛であろう。
苦しみがぎりぎりになっての辛さだが、そういう段階になると耐える意志が力むことで、その意志の力みの全力を尽くす営為に辛さを抱き、この意志の辛さを、限界を超えた苦痛に投影して、辛いと表現するのであろう。意志が力まなければ、それ以上は無理と、耐えていた苦しみは放棄され終わりとなるから、意志がこれを引き受けて、苦しみの限界を超えて辛さとなるものに挑戦するのであろう。
2-5-1-1. 意思を通し辛いことは、苦痛の極限の辛さとは別になろう
寝辛いは、寝苦しいとちがうが、苦痛の度合いは、寝辛い方が大きいとはいえない。不快の在り方がちがう。寝辛いは、寝ようという意思が通りにくい状態で、それは、苦痛が大きいとは限らない。ベッドが小さくて寝辛いのは、小さな苦・痛であってもいう。自分の身長に比して小さくて寝るには困難さがともなうということである。意思すること、その営為が容易でなく、困難さをもっているとき、意思を懸命に働かせうまくやろうとしているのに、それがなかなか通らず、意思貫徹は難しく、「~し辛い」という。「やり辛い」「し辛い」は、行為の困難さにいうことで、それはかならずしも、まだ、苦痛でなくてもいう。
苦・痛の限界に悲壮感をもって辛さをいうことが多いとしても、かならずしもそうでない場合にも辛さをいう。意思の営為の困難さに、辛気くさく複雑で困難な営為については、はじめから「し辛い」「やり辛い」という。それは、快ではないにしても、不快度は、なお小さいところでもこれをいう。「やり辛い」ことは、痛くも苦しくもない段階でもいえることである。
眠いのに起こされたときは、不快だが、痛いとか苦しいとは言わず、辛いという。睡眠欲求が強く残っていてその不充足が不快感を生じるが、これを「苦しい」とは言わないだろう。「起きるのが辛い」という。起きようという意志を振り絞ることになり、はじめから「つらい」となる。起きるという意思を通そうとするのに、心身がまだ半分寝ていて立ち上がろうという意思も通すのも困難な状態に「し辛い」の辛さをいうのであろう。「寝辛い」のとちがって起きるときの「辛さ」には、大いに不快で苦しさが伴うことが多い。意思を通すことが難しいという、事のはじめの「し辛さ」とともに、真に忍耐ギリギリの最後の悲壮な思いの「辛さ」もあるように感じられる。寝づらさでは別に寝苦しさをいうが、起きるときには、「起き苦しい」とは言わないのは、「起き辛い」のうちに、悲壮な思いの苦しみも含まれているからであろうか。もし「起きるのが苦しい」というとしたら、それは、覚醒することの辛さを指すのではなく、重病で心身が弱り切っていて、起きる動作をすると、睡眠欲求とは別の、弱った心身が強く不快で耐えがたいような特殊な場合に限られるであろう。
忍耐の対象の苦痛は、痛みと苦しみに大別できると思うが、辛さを苦痛の極限にいうことが多いとしても、意思の通り難さ、困難さを「し辛い」という場合、痛みも苦しみもなくても、「辛い」という。この、はじめの「し辛さ」も、忍耐の対象である苦痛の大枠のなかでみるとしたら、苦痛が苦と痛の二大別になるということは、言い過ぎになるであろう。もっとも、「し辛さ」もそこに不快があり小さくても苦しさや痛みがあるとすれば、苦・痛のうちに位置付けてもよいように思う。意思の営為が困難さをもたず、やさしく楽しいものであった場合は、決して「し辛い」「やり辛い」とはいわないであろうから、「つらい」と形容する限りは、苦・痛が、不快なものが若干はもう存在しているのである。
2-5-2. 意思がぎりぎりを尽くしても、思うようにできない辛さ
「生きているのが苦痛だ、苦しい」は、重病に息絶え絶えで消耗しているようなときにいう。これに対して「生きるのがつらい」になると、懸命に生きようと意思し努力しているのに、その意思のぎりぎりをもってしているのに、思うようにならず、悶え悲嘆し疲労困憊状態になっている姿が浮かんでくる。苦しみが、苦痛のその主観的感情内容自体を語るのに対して、辛さは、苦しくて思うようにならないことのその意思・営為の困難さを語るのであろう。あらゆる手を使って尽力しているのに、その思いは阻害されて通らないというその能動的実践的な窮状を語る。もはや、残された妙手は存在せず、主観的な苦しさを踏まえつつ、焦燥し煩悶しつつ、その先には、破綻が迫っているそのぎりぎりにある状態を辛さは語る。辛さは、主観的に苦しみを持ちつつ、さらには、敗北の迫っていることを踏まえての悲しみをも感じることであろう。苦しみは欲求等の思いへの阻害を感じるものだが、辛さは、その阻害・妨害に対決した意志の貫徹がかなわなくなってのその不如意の悶えを語り、その絶望的な状況に悲嘆の感情も交えた苦痛を語る。
自分の子供が難病で、「痛い」「苦しい」と泣いているとき、親は、自分ではなにもできず、いてもたってもおれなくなる。その苦しむのを見ながら、出来れば代わってやりたいと思う。そのとき、親は、主観的に「苦しい」のだが、なんといっても「つらい」と感じることであろう。何とかならないかと思い、強い意思(意志や願い)をもってかかわり続けるのだが、その願い、思いとその営為は、空転するのみであり、いたずらにもがき悶えるのみである。意志は、行為しようとするのだが、何もすることができず、代わることが出来ない、その不可能の思いを、どこにもぶつけることができず、煩悶、焦燥し、辛い状態になる。自分の無力さに、無能さに敗北を思い悲しくもある。苦しみを深め絶望的な自身の無力に悲嘆して、「つらい」と胸をかきむしる。
辛さは、苦しみ・痛みの度外れというよりは、別の領域の感情、心的状態となる場合もある。「聞きづらい」「聞きにくい」という。それは、苦しさや痛みが激しいからそうなるのではない。ここでの「辛さ」「難さ」は、意思、実践的な思いの通らないことが前面に出る。苦しさは無くても良い。聞くとき、苦しさは、そこにはないが、聞こうとする意志の阻害された聞こえにくい状態を、それらは語る。苦しさ・痛さの極限にいうのではない。ひとの能動的な意思・営為の通らないこと、その困難さを語る。「寝苦しい」「寝辛い」「寝難い」という場合でも、その「辛い」は、その苦しさが激しいものになっていうわけではない。寝苦しいは、主観的に苦痛の状態を語る。だが、寝辛い、寝難いは、苦しさがなくはないだろうが、ときには、苦しさは、なくても言いうる。背中を傷めていて、背中を下にして寝ることができない場合、その姿勢では寝難い、寝辛いということになる。が、寝苦しいかどうかは、不明である。つまり、苦が極端になって辛いのではなく、実践的に意思し営為を貫こうとするのに、そのことが行いがたいという不如意の事態に、意思の悶えに、その辛さはいう。暑さの苦痛については、「暑苦しい」は言っても、「暑つらい」は言わない。寝るとか息する、見る、聞くとちがい、暑いは、単なる受動状態で、意思の能動的な営為・行為とはならないから、言わないのだろう。辛いは、ひとの実践的能動的な願い・意思の営為が抵抗をうけてその思いが通らない状態にいうのだろう。苦・痛の極限には、意志が乗り出して耐えねばならず、そこでの意志の悶えとしての辛さをもって、そのぎりぎりの苦痛を「辛い」と表現するのではないか。
2-5-3. 精神的内奥に引き下がっての辛さ
苦痛のぎりぎり・極限に「辛さ」をしばしばいうが、それは、苦痛から逃げようという衝動をなんとしても抑えねばと、意志が前面に出て耐える場面であろう。苦痛に耐える日頃の自己がぎりぎりになって、これから一歩さがり理性意志にまで内的に引き下がっての、最後の砦としての精神的な自己において耐えていくとき、辛さが出てくるとも見られよう。観想し超越した理性的精神の高みから、己の通らぬ阻害の辛さに耐えるのであり、さらには、この耐えがたさに悲観的なものを予期する状態でもあろうか。「つらい」という言葉は、子供には似合わないように感じられる。
映画に『男はつらいよ』という喜劇のシリーズがあったが、この言葉は「男は苦しいよ」とはちがう。男は「苦しいよ」では、主観的な受動的感情に傾きすぎるが、「辛いよ」だと、己の尊厳の核をなす精神(理性意志)をもってぎりぎり耐え抜いて、敗北していく悲しい姿が見えてくる。ぎりぎりの忍耐において悲壮な思いをもって、逃げてはならない、まだ断念はしないぞといった勇気・気力を振り絞っているが、その思いが通らない困難極まりない状態である。そういう苦難のこころをそっと隠して周囲に心配かけないでおこうといった心構えももつはずの「男のつらさ」の(辛くなると必ず逃げる)コメディ版があの映画であった。
「苦しい(物質的経済的)生活だったが、(精神的には、辛くはなく)充実感に溢れていた」「苦はなく楽な仕事だったが、精神的には辛い仕事であった」と苦と辛さは区別される。「苦しい一月」「つらい一月」(「立場」「生活」)のちがいは、辛さが、ぎりぎりの限界の耐え難い大きな苦しみをもつとともに、自己を統括する内奥の精神までが懊悩するところにあるのであろう。価値喪失への悲しみ・無力感が加わり、かつ、これをなお断念せず悲壮の思いで耐える状態である。「辛い」は、「立場」「一ヶ月」を形容するとき、苦しみが大きくぎりぎりになったり、苦は気にならないが意志を貫こうとするのにこれが困難になってきて、尊厳をもった己の精神、理性意志が対処していくに、その尽力も限界となってきて、泣きたいようなものになろうか。
大まかに言えば、痛みは、身体損傷での痛覚を中心にした火急の対応を迫る疼痛で、苦しみは、欲求・衝動等の思いの抑止に感じる抑鬱的な苦悶で、辛さは、意志を中心にしてその実践的営みのかなわぬところに抱く内奥の精神の悲痛だということができるであろうか。戦争で例えれば、痛みは、前線で傷つく兵士のもので、苦しみは、それを統率しながら戦うリーダーのもので、辛さは、前線の本部で、ダメージを受けた我が子のような兵たちを指揮する指令官のものになるのであろう。
2-5-3-1. 主観的な苦しさと、反省的な辛さ
価値あるものを獲得しての主観的感性的な「嬉しさ」「幸せ」に対して、反省的理性的な「喜び」「幸い」があるように、「苦しさ」の主観的感情に対して、「辛さ」は、実践理性(意志)的で反省的なものになるように思われる。主観的に感受する感情面を苦しさが語るのに対して、辛さは、主観的に感じる苦しみの面に一歩距離をとって、客観的に反省的になって意識する。苦に耐える個我は、もうぎりぎりになり忍耐できず撤退しかけているのを、なんとか高所より意志が押しとどめようとする辛さである。苦を耐えきれずということで、意志の辛の高所にいたり、精神的な高みから苦痛を受け止め耐えるのであり、敗北を予期しての悲しみの契機も含まれることとなる。苦しみに耐えるものが、耐えきれず後退し、自己の内奥にと引き下がり、理性意志のもとにまで退却して、その内奥の最後の砦となる高尚な精神的自己のもとに立ちとどまって、最後の決戦をしようというのが辛さの段階であろうか。
「寝苦しい」「寝づらい」、「息苦しい」「息しづらい」では、「苦しい」は、嫌な受動的な感情の体験内容を語る。「つらい」は、実行へと力む意志のもとでの困難な状態になろうか。痛みは、損傷の部位に発する。苦しさは、欲求主体としてのこの私が受け止める。辛いのは、この痛み・苦しみを受け止めて、苦痛に埋没せず高みに立脚しつつ逃げず耐え続ける意志主体の私である。
子供は、痛みをもち苦痛となり、「痛い」「苦しい」という表現もする。だが、「つらい」というのは、おそらく、相当に大きくなってであろう。小さな子が、痛いというかわりに、「辛い」というと、大人のまねをしていると感じることであろう。小さな子が難病に苦しんでいるとしたら、「苦しい」「痛い」を越えて辛いのだが、「つらい」とはなかなか言えないのではないか。それをいうぐらいになると、ひととしての理性的な高尚な意志をもってその高みから苦痛に対決しえていると感じるのではないか。あるいは、子供の内奥にある高貴な反省的な精神が早々と顔を出さざるをえなくなり、これが先走って、つらいと漏らすのである。
2-5-4. つらさには、悲壮感が伴う
「早起きが辛い」と目覚めにいだく辛さは、動かなくなっている心身を動かそうとする意志の力みのもとに感じる。朝、早く起きようと思っているのに、眠気がとれず、心身が、動きだすことに抵抗して、早起きを思う意志は、この抵抗において辛さを感じることである。意志は、煩悶するが、思うようにならず、眠りから抜け出すことに抵抗する自身の心身に、情けないと思い、敗北感もいだく。意志することへの困難さに打ちのめされそうになっていて、それでもと、意志は悲壮な思いをもって気力をふり絞るのだが、無力を思い知らされ、予期される敗北に、その辛さは、悲しみをも感じることになる。
「いまの生活が辛い」というが、快適な生活が阻止されこれに苦しさを抱くのとちがい、辛さでは、これに耐える自身について、もうどうにもならないと、それから自身が逃げ出したい、その生活を遺棄したいと思うようになる中で、その思いを抑えて我慢する状態にいだくものであろう。苦しい状態では、なお、その苦しみの対象に積極的に関与してその妨害物に当たり、その妨害物に抑止・抑鬱を感じる。だが、辛さでは、その苦痛の生活自体が耐えがたく、これから逃げ出したいという姿勢になり、これを押さえつけることに意志は力むが、その逃げ出したいという思いを抑えがたく、これに辛さをいだくのであろう。苦しい生活では、自身において、生活を守ろうとする姿勢をもっているが、辛い生活になると、苦もぎりぎりの状態となって、その生活の破綻が間近になっていて、その敗北の予感に、悲しみもいだく。「生活が辛い」という場合、これを遺棄したいと思うことになるぐらいに、その生活の根本において冷酷無残な仕打ちを感じ、辛く当たられて「辛い」という状態である。逃げ出す以外には手はないと、破綻を目の前にした状態で、悲痛な思いにある。
つらさは、苦の直接的な感受に対して、一歩距離をとって、反省的である。ひどい苦だからこれから逃げたいと引き下がり、苦痛に対決する心身の先頭の主要部分は後退しはじめるなか、残された自己の中枢、精神は、そこに踏みとどまり、敗退の悲しみを予期しつつも、なお悲壮の思いをもって耐え続ける。辛(から)くも前向きの姿勢を維持していて、その悲壮の壮、勇気を振り絞り、断念せず、辛さに歯をくいしばって耐えるのである。
2-5-5.「辛さ」の漢字と和語
漢字の「辛」は、針のように鋭い刃物をかたどったものだといわれる。皮膚表面を切るのではなく、突き刺して深く傷つけ痛めつける鋭利な刃物である。刺して深刻なダメージを与える痛みに「辛」をいうのであろう。和語で「つらい」は、つらつらと連なる、苦の果てのない状態の形容であろうか。鞭打たれ続ける奴隷のように、苦が長々とつらつら(熟々)と持続することでの苦の極限の状態であろう。「辛」の漢字は激痛、痛みの強さをいい、和語の「つらさ」は、つらつらと連なる苦の長さをいうのであろう。
つらつら、づらづらの連なりは、いくつものもののつながった横拡がりになろうが、縦方向での連続的な延長に「つる」がある。苦の長い連なりは、「つる」という連続的なつながりの方がイメージとしてはより近い感じがする。文法的には難がありそうだが、つらいは、「釣る」で見てもよいであろうか。釣って引き延ばしての辛さである。引きつるとは、引っ張られて強烈に緊張した感じであろう。「鶴」も「蔓」も「弦」も、長く伸びたものである。苦痛が長々と続く辛さである。苦から、痛みから逃げようとしているのを、内奥からこれを引きとめつづけて、敗けるな耐えろとぎりぎりの状態を営々と続ける。忍耐を貫き、耐える状態、つらいは、蔓のように長く伸びて、「つらぬき」とおすこととも言えようか。苦しみ・痛みを最後まで耐えて、つらぬくのが辛さであると。
苦痛で「つらい」というのは、はじめからではなく、だいたいが、苦しい思いをかさねての最後の段階にいうことであろう。「辛」は、針などで深部を傷つける。痛みが多く表面的であるのとちがい、深部を刺し貫いての苦痛である。あるいは、苦をつらつらとつらねて、これを耐えつらぬくところに辛さは生じる。その長い苦しみを耐えるのは、意志をもってである。自然感性的にはその苦を放棄したり逃げたりするのに対して、その意志がこれを抑制して葛藤に耐える。苦の限界になり、敗北を目の前にしての悲しみさえも抱く。つらなる苦しみ悲しみに、つらさをつのらせつつ、おのれをつらぬき通すのである。
2-5-6. 辛さの反対極は、無であったり充実感であったり
辛さから解放されると、ほっとする。それは、強烈な不快からの解放で、それがなくなるだけで十分という安堵感である。痛みと同じで、それから解放されると心身が安楽となり生気を取り戻す。無の安らぎである。だが、その感じられる状態は続かない。痛みの無、無痛、その安楽は、痛みがなくなると消滅する。かりに無痛・無損傷が快・楽として意識されるのだとすると、心身のいたるところが快を生じて、無数の快にとらわれて他のことに気を回すこともなくなってしまうであろう。同様に、辛さの無化した快・楽は、辛さの不快感情が消えていく間に快を感じるだけで、完全に辛さが消えたときには、その快・楽も消える。息を止めておくことの辛さは、息することで解消され、息出来て気持ちいい。だが、その辛さが消え去っていくとともに、その息出来ての楽・気持ち良さも消えていく。いつまでも気持ちいいのでは、気になってほかのことができなくなってしまうし、息する度に気持ちいいのでは、この快を享受しようと過呼吸に陥ってしまう。消えなくては障害を生じる。
だが、痛みの反対の無痛は、損傷のないことだが、辛さの場合は、意志の阻害が無化するだけではない。意志の通らぬ辛さの反対は、意志が通ることであり、その意志の営為のスムースであることは、意識されて問題ないどころか、そのスムースさが感じられることは、その意志の促進に資することである。痛みでは、痛み、損傷した箇所以外は、無数あることでそれを無痛の快として意識していたのでは、その無数の快に気を取られて、なすべきことができなくなる。しかし、意志の阻害の辛さは、それがなくなって無になるのではなく、その阻害がなくなってから、意志の営為は促進されるのであり、それがよりよく促進されることに感情をいだくのは、死ぬまで反復する呼吸のような場合は別として(呼吸は、スムースになると意志無用となる)、意識を一層それに向けることができて好都合である。意志阻害の辛さに対して、意志促進の感情があれば、意志は大いに駆り立てられていく。阻害感情の辛さに対立して、スムースにいくことの感情として、爽快感、高揚感、充実感等をいだく。辛さは、そういうことからは、そのペアとなる対立感情をもつ。苦に対して楽があるように、辛には、反辛としての充実感や高揚感が対立する快として存在する。
ではあるが、苦しさとその反対の楽・楽しさのペアとちがう点も大きい。苦の場合は、その反対の楽・快は、多くの場合、それ自体が目的となる。反目的の苦に対して、目的としての快・楽である。食欲で言えば、空腹の不快・苦と、満腹しての快である。満腹の快を食欲は目的として求める。ムチの苦とアメの快である。だが、辛さの反対の快・楽は、目的にはならない。単に、その意志のスムースにいくこと(意志の目的とするものの追及)へ付随するだけの感情であって、その爽快感とか高揚感を目的とするものではない(ギャンブルは、例外で、その価値獲得の意志の通ることにいだく快感自体が目的となる)。
2-6. 痛い・苦しい・辛いに還元できない不快への留意
忍耐の対象ということで、痛み・苦しみ・辛さをあげた。これらは、苦痛という強い不快であるが、不快感情は、多様で広範囲にわたる。苦痛以外の不快も、引きよせる快の反対の不快としては、大なり小なり嫌悪され回避されるものである。だが、火急の回避を迫る苦痛のように、それが予想されるとその手前で回避され、したがってあまり体験することのないものとちがって、些細な不快は、さして気にすることがなく、日常的に頻繁に体験される。日常を動かすのは、苦痛ではなく、苦痛以前の小さな不快である。
あらゆる感情は、快か不快かに分けられる。その不快の極端なものが苦痛である。並みの、あるいは些細な不快は、苦痛には入らないが、日常的には、その苦痛以前の不快と快に満ち満ちていて、そのもとによりよい生へと微調整しつつ生活しているのが一般であろう。少し寒くて不快なら、服を寒くないものにする。少し暑いなら、服を一枚脱ぐか、気にせず、暑さの不快を放置する。不快ではあっても、凍傷や火傷の痛みとちがい苦痛で緊急の対応を迫るものではなく、よりよい事態の選択に資する不快であり、日々の生活は、この些細な不快によって動くことが多い。苦痛・辛苦の出てくる場面は、あらかじめ察知して可能な限りこれを回避するから、実際に体験されるのは、ごく限られた場面に限定される。
理性は、不快でもそれが受け入れられるべきだと思えば、これをうけいれる。全体のために個我の欲求・快を抑止して、不快をひきうけることは、道徳などでは、普通のことである。自然的には不快を避けるが、精神的生においては、個我には不快でも、全体を思うと自身が犠牲になるべきで、不快を引き受けねばということになってもいく。その不快は、だが、多くは、些細な不快で、苦痛までにはならないことである。気に入らない、乗り気がしない程度の不快は、苦痛とちがい、忍耐するところまでいかないような、軽い不快である。そういう些細な不快・快が日常であり、苦痛以下、苦痛以前のものとしてある。勿論、精神的生においても、苦痛そのものは、巨大な力をもっている。絶望など、これの回避・消滅を求めて全力をつくすべき切実な反目的となる。したがって、できるだけ絶望にならないようにと努力してこれを回避し、実際にこれを体験することは少なくなる。
芸術の世界になると、快となる美を求める世界であろうから、不快は遠のく。音の芸術の場合、まず、苦痛となるようなものは前提として回避する。ロック音楽のような鼓膜を破りそうな騒音もあるが、これを楽しむ者は、激辛の食べ物のように、その大騒音を痛快としているのであろう。通常の音楽は、不快な不協和の音があるとしても、それは苦痛ではなく、協和音の快を際立たせてくれるささやかな不快に留まる。その不快な不協和な音を交えての快の音楽である。そこでは、苦痛とか辛さの感情は登場しないであろう。もちろん、作曲するとか演奏する者には、辛苦は不可避であろうが、それは、美しく心地よい音楽自体においてではなく、その美を生み出すための暗中模索の営為にいだくものである。
3.
苦痛の価値論Ⅰ-自然的な「苦痛の反価値論」
3-1. 反価値の苦痛は、価値をもつ
忍耐における苦痛甘受では、苦痛が創造的な意味をもつ。だが、自然的には、苦痛は、傷害など生否定的なことに生じ、感情としては、大きな不快であり、回避したい一番の感情である。快の感情は、買ってでも享受したい価値あるものになるが、その真反対が苦痛である。価値がないどころか、価値あるものごとをつぶす損傷にいだくものであり、その苦痛感情自体、受け入れることは耐えがたいことで、苦痛は、排除したいともがき悶える反応を引き起こす不愉快極まりない反価値になる。
だが、忍耐では、この反価値の代表の苦痛が積極的なものになる。苦痛を回避せず受け入れることで、価値あるものが実現されるので、これを甘受する。苦痛を受け入れることがあって、大きな価値が得られるのであれば、反自然的なその苦痛の甘受は、価値創造の手段として価値あるものとなる。「肉を切らせて骨を切る」「損して得取れ」であり、苦痛(の甘受)は、踏み台・手段としての価値をもつことになる。
さらに、苦痛は、生保護のためにある感情として、生の根源的な価値となるものであろう。生保護は、苦痛をもって、傷害となりそうな事態を感じ取って、これを回避することでなる。つまり、苦痛は、生損傷を防ぐために大きな役立ちをしているのである。その主観的な感情としては、苦痛は、嫌悪感や抑鬱、煩悶等をもたらす不快感情の代表で、これをなんとか避けたいと皆の願う反価値の存在になるが、その回避反応は、生損傷からの回避として生保護の中軸となり、苦痛は、生のために大切なもの、価値となるのである。
反自然的に、ひとが忍耐において、苦痛を回避せず、逆に受け入れるからといっても、その苦痛自体が価値となるわけではない。バラの棘に触れて痛むとき、その痛み自体は、価値(=受け入れたいもの)ではない。この苦痛を受け止める者にとってその感情は、やはり、マイナスの回避したい感情であるから、その限りでは、まちがいなく反価値である。だが、忍耐では、その苦痛を受け入れることによってのみ、大きな価値あるものが確保されるのであり、目的実現の不可避の手段として有用で役立つもの、価値となる。あるいは、苦痛を避けることで生保護がなるのであれば、苦痛は、反価値(避けたいもの)として価値になるのである。
3-1-1. 価値があるとは
苦痛は、普通には、価値ではなく、生を傷めつけるマイナスのもので、反価値であろう。だが、忍耐では、苦痛は、(目的のための手段となって)価値をもつ。あるいは、苦痛は、避けたいもの・反価値であるがゆえに、(これを避けて生を保護することになり)価値あるものとなる。反価値が価値だなどということになると、価値とは何なのかと疑問が湧いてきそうである。価値・反価値を少しチェックしておこう。
価値は、それ自体において成り立つものではない。竹があってもそれが価値か反価値かは決められない。それを利用する者をもって、そのひとにとってのそのかかわりのなかで価値は成立する。竹は、住宅敷地に侵入するものとしては、そこの住人には、有害なものとして反価値物である。だが、タケノコを食べたい者にとっては、竹は食にとっての価値物になる。竹細工に利用する場合は、役立つ素材として価値となり、同人が竹林の向こうの風景を楽しみたい場合には、それを妨げる障害物として反価値となる。竹は、価値でもあり反価値でもあることとなる。これらのかかわりをもたない者にとっては、竹は、群生する背の高い植物として捉えられるだけで、価値でも反価値でもない。価値は、それにかかわるものにおいて成立する有益なものということで、反価値はその逆に排除したい有害なものということになろう。
価値は、これを求める者にとっての価値で、その欲求を充たすものをもつ。それのための役立ちがあり、有益であるということになる。反対に、反価値は、その生を脅かし有害で損傷を与えるものと見なされることで成り立つ。価値における創造の力の反対で、生に損傷・害悪をもたらす破壊的力をもったものが反価値である。価値が、欲求を充足できる有益なものであるのに対して、無価値は、そういう欲求を充たすもののない無用・無益のものであり、反価値は、有害なものとして、反欲求となるもので、排除したいものということになろう。
価値は、物自体の属性ではなく、これを役立てる者がいて、この役立ち・有益という特性をもつことを価値とするのであろう。価値づける者がいて、それから見て自身の欲するものを充たす、役立て得る特性をもって価値とするのである。小石は、価値にも無価値にも反価値にもなる。重石とするものには、軽すぎて価値は見出せないが、投石用にと思う者には、価値となる。それで自分が傷つくとしたら排除したい反価値物となる。価値は、単独にそのもの自体にあるのではなく、その対象の属性・特性に有益なもの有用なものを見出し、これを欲し求めるところに生じる。
3-1-2. ことばとしての価・値、value, worth
価値の英語value、フランス語のvaleurは、ラテン語のvalor(価値、有効性)からきているようである。valorは、valeo(力がある、能力がある、有効である)による。価値は、能力があり、有効なものということになる。能力あり役立ち有益なことが価値ということになるのであろう。日本語での価値の「価」も「値」も「あたい」と読むが、「あたい」は、当たるであろう。見合っている、当たっている、ふさわしいものということであろう。
英語での価値には、worthもある。これは、ドイツ語のWert(価値)と同じ系列の語になろうが、Wertは、Wuerde(尊厳・品位)
wuerdig(値する、尊い)と同系であろう。価値あるものは、高く位置づけて尊びたいものということであろうか。優れた卓越した特性をもっているということであろう。
漢字の「価値」の「価」は、旧漢字では「價」で、人が賈(あきない)することを示す。「値」は、人が「直」つまり、真っ直ぐで、まっとうな、妥当の状態を語るものになるようである。価も値も人偏であり、ひと(の欲求)の関わったもので、売買する者等において、その欲求を充たすにふさわしい、これに適切・妥当なものを価値とするのであろう。どんなものであれ、欲しいひとには、価値であり、欲しくないものには、無価値ということになる。買い手が求めているのは、その商品における使用価値であり、売り手の見ている価値は、どれだけのお金になるかという交換価値である。両者のねらっているものは、同一の商品についての別々の価値ということになる。
価値は、価値をもつものだけで成り立つのではなく、それに相関的なもの(普通にはこれを求める人)があって、これに有効な、妥当な適切なものとして成立する。価値あるものは、ひとの欲求にとって、ふさわしく、充足にあたいするもので、したがって有益で役立ちがあって尊いものということになるのであろう。
3-1-3. 価値の受け手が価値を成り立たせる
価値は、もの自身に内在する特性・属性ではない。このものを受け取る側からみて、そこに欲求を満たす特性のあることをもって価値があるという。求める者が、価値のあるなしを決める。日照り続きという客観的事実は、価値でも反価値でもない。価値を決めるのは、それに関わっている者の方であり、農業者にとっては、それは、干ばつという反価値である。だが、太陽光発電をする者には、めぐみの快晴という価値である。
ただし、勝手に価値・反価値が決められるのではない。日照りという客観的事実自体は、関係する者が創造することではない。その客観的な存在自体、その特性自体は、対象世界にあることである。かつそのこと自体で価値となるものではない。その対象のもつ特性自体は、利用するものがいようといまいと変わらず、価値でも反価値でもない。価値は、その客観的な事実を利用し役立てる側において成立・顕在化する。これを利用するものが、そこに自分の欲求を充たすもの、価値を見出すのである。それまで、何の価値もないと見なされ放置されていたものが、だれかによって、利用できるものとなるなら、その無価値のものは、突然、価値あるものに変身する。石炭とか石油は、農業者にとっては、無価値どころか、作物の生育を妨げる反価値の大地でしかなかったろうが、近代にはいって、これが燃料として利用できることとなるとともに、価値あるものにと大変身した。
社会生活での価値は、人々がそれを求め、その欲求を充たすことができるところに見出される。したがって、時代によって同じ物事が、価値を変えていく。民主主義は、現代では大きな価値だが、かつては、過激な思想として反価値と見なされることが多かった。美の世界でも、ゴッホの絵など、彼が生きていたときには、まるで無価値と無視されていた。だが、現代はちがう。民族によっても評価を異にするが、ゴッホは、彼が日本の浮世絵などに影響されたこともあって日本人の琴線に触れるものをもつのであろう、日本では、とくに高く評価されている。それでも、個々人での価値づけは異なったものでありうる。ゴッホを好きになれない日本人も、したがって低い価値しか与えない者も当然いることであろう。
3-1-4. 一つの物が、多くの価値・反価値をもつ
ひとのもつ欲求は、多様多彩である。同じ物に関わるとしても、欲求のあり方が多様であるから、その物の価値も多様となる。同じ物がひとによって、欲求対象であったり、なかったりするから、それに応じて、価値あるものとなったり、無価値、反価値ともなる。水が欲しい者には、水は価値あるものとなるが、そうでなければ、無価値か、服が濡れることになるのだったら、その水は、反価値となる。同一人において欲求自体の変化に応じて、同じ物が価値にも反価値にもなっていく。美味の食べ物は大きな価値だが、満腹するようになると、その価値は小さくなり、過食気味になると、それは、見たくもないような無価値・反価値にと変わる。と同時に、ひとの欲求は、かなり似通ったものになるから、似通ったものを価値とすることになり、多様多彩な価値づけを行いつつも、同じような価値づけをして同じような価値観のもとに、同一の価値物の獲得にあくせくもする。みんなが同じものにおいしさの価値を見出すから、高価な食品や料理がなりたつ。それでも、個人により違いがあって好き嫌いがあり、一つの食品が万人に価値あるものと見なされるようなことは少ない。
物自体は、単純ではないから、どこから見られるか、どうとらえられるかで、価値のあり様を変えていく。ひとつの物も、多くの特性・属性をもって存在しているから、そのどこをとらえるかによって、その物の価値は、異なったものとして現れることになる。同じ新聞紙でも、その役立ちは多様である。なんといっても、それは、情報の媒体としての価値をもつものである。だが、そこで求めるものが物を包むことであった場合、新聞紙は、包み紙という価値物に変化する。湿気をとりたいという場合は、吸湿剤にと早変わりする。燃えやすい性質をもっているから、着火のための可燃物としても使用されて価値を発揮する。もちろん、無価値・反価値にもなる。衝立が欲しいと思ったときには、新聞紙は、立てられないだろうから、無価値に見なされる。消火しようと思ったときには、水は有用な価値だが、新聞紙で包んでも一層燃え上がるだけであって、反価値になり変わる。
3-1-5. 拡大使用される価値の概念
価値は、欲求を充たすものということで、欲求する者によって引き出され利用される物の特性になる。場合によっては、欲求という営みがなくても、役立ち利用されるということだけであっても、その物にとっての価値がいえるであろう。価値概念の拡大使用である。植物が空気を利用することにおいて、空気に価値があるということができる。土や水も植物にとって、有用なものとして、価値あるものとなる。動物だと、欲求があって、それを満たすものを見出しこれを獲得しようと価値をふまえて動く。植物には、心的営為としての欲求はないから、これを満たすもの・価値あるものと意識することなしであれば、狭義の価値の世界からは外れそうだが、ひとが関わって作物にとっての有用・役立ちという点から見て肥料とか水を価値とみなすことになっていく。
価値は、欲求を充たす有益なものとして成立するが、その限りでは、欲求的な営為のない物においては、価値は狭義には見出されない。物事とその連関そのものは、価値ではなく、事実としてとらえられる。事実の世界と価値の世界の別であり、存在論と価値論の世界の別である。
「価」「値」は、漢字では、いずれも人偏で、人間的営為のもとにあって、欲求にふさわしいもの、適合しているもの、妥当したものを指すことばであろう。が、人偏(欲求)をはずせば、その適合・妥当ということでは、さらに広範囲にわたって価値をいうことができる。価値を一般的に使うのは、経済を中心とした人間界でのことで、欲求を充たすにふさわしいものを価値とするのだが、物同士や抽象世界でも「妥当」「適切」「似つかわしい」ということでこれを使うことがある。
英語のvalueやフランス語のvaleurの場合は、ラテン語のvaleo(能力がある、有効である)によるから、能力あるもの一般となれば、物にも言えることで、漢字の「価」「値」が人偏の限定をもっているのとちがい、広く使うことに抵抗はなさそうである。数値(numerical value=数的価値)は、そこに妥当する、あてはまる、ふさわしい数ということであろう。広義において、人間ぬきにして、妥当する、ふさわしいという意味での価値概念である。原子が他の原子と結びつく場面では、原子の価値(原子価(atomic value (valence))などとも言う(漢字で「原子の価値」「数字の価値」と言った場合は、それらの人間社会への役立ちを意味することになりそうである)。
3-1-6. 価値では、量的評価が大切となる
ひとは、欲求にしたがって、その求める価値を実現するために動く。多くの欲求の中から、どれかを選ばねばならなくなる。多くの価値、多くの反価値の中から、どれかを選ぶことが可能となるには、これらを量化して比較することが必要である。あるいは、忍耐では、手段として苦痛を受け入れるが、それは、目的実現の価値の大きさと見比べてなされる。苦痛の反価値の量が、目的達成でなる価値に比して不釣り合いに大きければ、その忍耐は、無謀・無益なことをするのである。価値・反価値の関わる営為は量的にこれを測りつつ実行される。
漢字の「価」「値」は、人偏で、商売上の価値を中心に言われたものである。商売では、価値・反価値は、数量化されて成り立つ。価値があるというだけでは商売は成り立たず、どれぐらいの価値があるのかと数量化することが必須である。価値あるものは、プラス価値で、より大きな数で、より大きな価値をあらわせる。逆に欠陥・欠損等の反価値はマイナスの数量をもってあらわせる。差引で、そのものについてプラスとなって価値が勝れば、これは受け入れたい価値あるものということになろう。
量化を拒む価値づけもある。尊厳は、トップのみが価値をもち、(価値の量的違いがわずかであっても)二位以下は、無価値となる。自然界では、トップで尊厳の人間だが、トップが神になったときには、第二位であろうと人間も非尊厳、虫けら扱いとなる。尊厳は、トップの支配者に付与する価値だから、わずかな差であっても第二位以下は被支配者として、一律、非尊厳となる(cf.近藤良樹『人間の尊厳-尊厳は支配関係に由来する-(論文集)』(https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00020345))。価値は、そとから、これに関わる者が付与するものだから、一つの場では至高の価値をもつものも、ほかの場では無価値・反価値あつかいになる。独裁国家の尊厳の支配者は、周辺国からは、無能有害の無価値・反価値存在となる。
3-2. 苦痛の反価値論=苦痛の価値論
生あるものは、苦痛を回避しようとする。苦痛は、いやなもので排撃したいものである。求めるもの、充足したいものとしての価値の反対で、苦痛は、端的に反価値となる。どうでもいいという無価値の位置づけではない。単に欲求しないものではなく、その逆の振る舞いに出たくなる、排除したい、受け入れたくないものである。苦痛は、迷うことなく即回避・排除したい反欲求の対象であり、反価値と規定される。
したがって、苦痛に関しては、まずは、これを反価値として、苦痛の反価値論が言われることになろう。自然的な生を動かしていく主観の感情的レベルにおいて、快は、充足したいものとして価値であり、不快・苦痛は、受け入れたくない避けたいものとして、反価値である。アメ・快の価値に対してのムチ・苦痛の反価値である。
だが、苦痛は、大きな反価値として、その生をこれの回避へと動かすがゆえに、苦痛のもとにある生損傷を回避させることになり、損傷の回避、生保護を可能とする。苦痛がもっぱらに反価値であるのなら、いまどきのこと、これを感じないように無痛にと生理的に操作できるであろう。だが、苦痛が全面的になくなった場合、まれにそういう人があるようだが、身体は傷だらけになろう。針で刺しても石でたたいても痛くもなんともないのなら、これらを回避しようということにならず、頻繁に損傷を受けてしまう。苦痛があるから、そういう損傷なしで済んでいるのである。とすれば、苦痛は、反価値でこれを主観が回避するようにと動くことで、結果、損傷を受けないで済むようにして、大いに有益な役割を果たしていることになる。つまり、主観的感情的に反価値の苦痛は、その生自体にとっては、有益な役立ちをして価値あるものとなる。反価値の苦痛は、反価値(回避したいもの)ゆえに、価値ということになる。
生は、自己保存を根本的営為とするが、苦痛は、その生保存・保護の危機、生の損傷を知らせ、苦痛回避で損傷回避を実現する大切な働きを担う。生保護の根本的な価値として苦痛は機能している。だが、苦痛は、主観的には真っ先に回避すべき大きな反価値として現れる。
3-2-1. 損傷と苦痛の反価値、媒介的価値
苦痛は、それだけということは希で、通常は、損傷とともに生じる。この損傷は、生を傷つけ損害を与えることとして、生にとりマイナスそのもので、反価値である。だが、苦痛が損傷回避のためになって価値となるように、損傷も価値となることがある。身体を傷つけることをもって、その生の保護・保存のできる場合があれば、その損傷は、これを媒介・手段にして有益なものをもたらすのであり、媒介的手段的な価値と見なせるであろう。毒蛇に咬まれた時など、体内に毒が回るのを防ぐために、咬み口の付近を切り開いて損傷を加えて毒をしぼり出すことは、有益なことである。あるいは、体毛は、傷つくことをもって皮膚を保護する。トカゲは、尻尾を切るという損傷をもって生命の危険を回避することがある。損傷を手段として生保護を行うのであり、この損傷は手段価値となる。
苦痛は、回避したい筆頭になるものなので、実際にこれを感じる手前で、苦痛になりそうなことを察知して、これを回避し、したがって、損傷を回避することになる場合が多い。その場合は、苦痛は実際には感じることなく反価値になることなしに、想像する段階において苦痛と損傷を回避して、それらの反価値の発生を防ぐのである。苦痛の想像的媒介をもって、(苦痛と損傷の)反価値を阻止するという経過をとるのが無事の日常ということになる。苦痛がではなく、苦痛の想像が、あるいは苦痛への警戒心が、手段価値となっているというべきであろうか。一度目は、苦痛があって回避衝動を発動させて損傷を軽減、あるいは回避でき、苦痛は有益な価値となる。二度目からは、多くの場合、苦痛(反価値)の想像をもつだけで、即、回避へ動き、損傷なし苦痛なしの有益な動きをもつ。苦痛は、生保護、損傷回避のための行動を迫る警告であり、その警告が出そうなことを察知するだけで、苦痛回避へと動く。二度目は、うまくいけば、実際には苦痛(=反価値)を被ることなく、その想像だけで、損傷(=反価値)なしの有益な状態をもてることとなる。
3-2-1-1. 苦痛のみの場合は、専ら反価値か
生に禍いとなるのは、なんといっても、その損傷である。それを知らせる苦痛は、これを知らせて回避を促す点では、生維持のための大きな価値である。だが、ときに、苦痛のみのある時がある。どこにも損傷はないのに痛みがある場合、損傷を知らせる価値としての苦痛ということではなくなる。
苦痛が価値になるのは、損傷への対応を強制するということにあるのなら、純粋な苦痛は、嫌な回避したい感情でしかなく、もっぱらに反価値となる。損傷が生じたと緊急情報を発し、あるいは病気だと知らせるのが苦痛の価値である。見えない場所での身体の損傷は、とくに苦痛が頼りとなる。病院に行く気になるのは、苦痛が生じているからであって、それがないと多くの場合、重病でも気がつかずに、その重篤化を招くことになる。だが、損傷・病気でもないのに痛みの生じる場合がある。これは、その苦痛自体が治療すべき病気ということになっていく。はじめから終わりまでその苦痛は反価値であろう。
しかし、損傷なしの純粋な苦痛でも、ときには、本人に価値をもたらすことがありそうである。覚醒を必要とするとき、苦痛を与えてすることがある。これは、覚醒の手段として有効であり、価値ある苦痛と見なされ得るであろう。損傷の生じない程度に苦痛だけを生じさせて、その苦痛をもって目を覚まさせる。目覚まし時計とか禅での警策は、損傷なしで耳や肩に苦痛だけを与えて覚醒をもたらす。その苦痛は、覚醒を促すという価値をもつ。とすると、純粋に痛みのみで損傷なしの場合も、勿論、感情としては反価値だけれども、価値となることがありそうである。
ストレッチで「痛・気持ちいい」という言葉を耳にするが、痛さが損傷をもたらさない程度の場合、心地よい刺激となることがある。嫌で回避したい苦痛自体が、快を生むことになるのだとすると、純粋な痛みも、その反価値の感情自体が、ときには、快(価値)の構成部分として、受け入れたいもの、価値となることもありそうである。
3-2-1-2. 苦痛(感覚)自体には、苦痛回避衝動はない
苦痛は、損傷が生じたという知らせであり、その苦痛の感覚をふまえて、生主体は、損傷から身を保護するための反応をもって、損傷回避の衝動を発する。その衝動は、本源的には損傷回避に動くのであって、苦痛回避のために動くのではなかろう。痛みの感覚自体には、苦痛回避の衝動は存在しない。痛みの感覚へ生主体が嫌悪等の感情を生起させて損傷回避の反応となるのである。だが、痛みが感じられると、できるだけ火急に損傷回避のために動く必要があるので、痛みが生じると間髪を入れず回避反応が続き、痛みと回避反応は一体的になる。回避反応は、痛み自体の感情ということになり、したがって、痛み(感覚・感情)自体が回避し排撃したいもの、反欲求・反価値と感じられるようにもなる。しかし、痛覚に発する痛みの感覚そのものは、損傷を知らせるだけで、回避の衝動を含まず、したがって反価値ではなく、有益な情報、価値になろう。
痛みの反対の快も似た事情にある。食でいえば、甘いものを価値とするが、もともとは、甘味は、味覚としては、それ自体は快感情とは別である。その甘味がのど越しにおいて触覚と結んで快感情、おいしさとなる。甘味(感覚)は、栄養あるもの(価値)の獲得となるのが普通なので、しだいに、甘味自体が即受け入れたいもの(快、価値)となったのであろう。
苦痛と損傷の間でも、損傷・有害物が反価値として回避すべきものなのに、常に苦痛がそれに伴い、むしろ、意識においては先行するので、苦痛自体を回避することになっている。苦痛を回避すれば、損傷も回避されることが普通なので、しだいに、苦痛回避へと短絡的に動くことになったのであろう。苦痛は、損傷を知らせる有益な情報(感覚)となるもので、その限りでは価値である。しかし、苦痛(厳密には苦痛感情)は、回避反応と一つになったものとしては、感じたくない反欲求として現れて、反価値である。
3-2-1-3. 痛みは、しばしば損傷の手前で働き始める
痛みは、損傷を知らせる緊急情報である。それが痛みの本源的な働きであるが、損傷を阻止することが一番であるから、それがよりよく叶うようにと苦痛の在り方は、より敏速・過敏になっていったはずである。それに、よりふさわしい在り方は、痛みが、損傷と同時に生じるのではなく、可能ならば、損傷の始まる前に生じることであったろう。損傷がはじまってから痛むのでは、逃げられるとしても損傷を少し受けてしまう。だが、その直前に痛めば、損傷をゼロにできる。皮膚に、損傷するような圧力が加わるとすると、損傷発生の直前の圧力に痛みを生じるなら、これを回避するように動けて、損傷をゼロにできる。生の淘汰は、損傷の発生の手前で、過敏に敏速に苦痛が発生して、この苦痛の事態(損傷直前の否定的事態)を回避するようにと進んでいったことであろう。
生保護をうまくするには、漸次的に損傷が生じる場合は、苦痛だけが生じている損傷直前の段階で、苦痛(発生の事態の)回避にと動くことである。それには、苦痛(感覚)に過敏になり、苦痛に、大きな感情的な不快を、大きな嫌悪感・焦燥感(感情)を持たせることである。回避・排除の感情的反応を痛みにもたせることで、苦痛発生とともにその回避への火急の動きが生じ得ることになる。1)損傷の手前の小さな痛み感覚の発生、2)もうすこし大きな痛みになって、損傷が生じそうな直前の段階に至っての、痛み回避の衝動(苦痛感情)発生、3)さらに進んで、ついに損傷発生という展開である。日頃の漸次的に損傷の発生していく事態においては、この2)の苦痛(苦痛感情=反価値)の段階で、その危機的な事態を回避しこれから逃げるという反応をもって、損傷をゼロに出来ていることが多いのではないか。1)の苦痛感覚は、損傷への情報をもたらすもので価値、2)の苦痛感情は、主観的には回避衝動となって嫌なもの・反価値で、かつ、損傷になることを回避、防止する点では、価値ということになろう。
3-2-1-4. 損傷発生にともなう痛みの場合
痛みは、損傷を知らせる感覚であり、その損傷が大きくなるとともに痛みも大きくなる。蚊が刺すと痛むが、その傷は小さいので、痛みも小さい。縫い針が刺さる場合は、それ以上の痛みとなる。釘でも刺されば、もっと痛む。蜂に刺されると、毒液が大きな痛みを生じさせる。マムシにかまれると、火傷のような痛みになるという。痛みは、損傷の質と量を知らせてくれる価値ある感覚である。その痛みの情報にしたがって、損傷への対処を、ひとは直ちに実行する。それへの回避・排撃衝動をいだいて対処する。痛み自体が回避反応(=反価値)をもった感情となることでもある。
痛みと損傷は、相関関係にあるが、損傷持続時の痛みは、損傷の程度と一致しないことも結構ある。火傷とか擦り傷では、損傷持続に見合った苦痛の持続がある。化膿した場合は、痛みもだんだん大きくなるから、化膿を意識させ、価値ある痛みを思わせる。しかし、痛みと損傷が相関的にならないこともある。痛みは大きいけれども、損傷がないとか小さいということがある。ときに脳や神経の誤作動で痛みが生じる。
逆に、痛まないけれども、大きな損傷の生じていることもある。大きな怪我の場合は、意外と痛みは感じられないか、気にならない。痛まないのに損傷があったり進行しているという代表は、内臓の損傷であろう。自然的には、内臓が損傷しても対処の仕様がなく、痛みは無意味なことになるので、痛覚を持たない方が有利になるといった淘汰が進んだのであろう。大きな怪我で痛みが感じられないことがあるのは、ショックで全心身が異常な放心状態になって、平常の痛み感覚の情報など、放置されるのであろう(小さな擦り傷の痛みなども、ほかに意識が向いた時には、痛みは忘れている)。
3-2-2. 苦痛は、主観内の出来事に留まる
苦痛は、あくまでも主観的なもので、心、意識のうちに生じているだけである。損傷が客観的な反価値であるのに比して、単に主観内の苦痛感情としてあるだけのものとして、苦痛は、これを我慢しておれば外からは無であり、無事で何もないことにできる。
そとからそれの分かる損傷とちがい、苦痛は、当人以外には、その痛み方の真実は、分からない(感情反応の表情等で外から痛みも間接的には知りうるが、感情の主観的な内容自体は、知りえないし、表情は偽ることも可能である)。その苦痛の有無から、その量的な度合いまで、当人の言うことを信じる以外ない。個人主観のうちにのみあるものとして、味や臭いと同じく、その体験内容は直接的には提示できず、痛みの表現は、もどかしいものとなる。ではあるが、無視・放置できないのが苦痛である。苦痛を体験した者は、これがあることを察知すると、他人のものであっても、主観的で確かめにくいものではあるが無視できないものとして、その度合いまでを想像して、自身の体験した痛みをもとにして、それの対処をと慮る。
心のうちにのみある主観的なものと、客観的に生じているものとは、雲泥のちがいである。夢や妄想のような主観のうちにあるだけのものは、社会関係のうちでは無でしかないものとなることが多くの場合である。殺害を妄想しているだけのものと、これを実行したものは、まったく異なり、前者は無に近い扱いとなる。だが、主観的な痛みと客観的な損傷では、痛みの方が深刻で問題になることが起きる。単に主観的な痛みのみをもたらしたのだから、無と見なさねばならないということには、苦痛を受けた者は、納得しない。ひと同士が関りをもつとき、苦痛を生じさせられたら、まちがいなく反価値として、その償いをしてその反価値分を価値で埋めるか、それが不可能なら、同じ反価値の苦痛をもって仕返しをするのでないと気が済まないことになる。主観的な、したがって客観的には無の苦痛ではあるが、見過ごすことのできない重大な反価値である。
損傷は、客観的なもので、明確になることだが、それに主観的な苦痛がともなわない場合、さして回避したいとか反価値だとは思わないことがある。髪の毛を切るのは、損傷だが、痛みがなければ、回避反応は生じない。だが、痛みがある場合、一本の髪の毛を引き抜いての痛みでも、ハサミで多くを切るよりわずかな損傷であっても、これを回避しようと動く。痛むのを無理やりに引き抜かれるとしたら、許せないということになる。客観的な損傷よりも、主観的な、外からは無でしかない苦痛の方を顕著な反価値とすることが多い。
3-2-2-1. 痛みは、主観的なものゆえに、客観的には無視もできる
苦痛は、自身に生じている場合、最優先して対処することを急かすが、外から見ると無でしかないから、その苦痛に無関係の者は、何でもないこととして無視することが生じる。これが客観的なものだと、損傷などはよく見えることでその事実には抗いがたく、近くにいる者は、これを無視することはできない。だが、苦痛のように、主観のうちにのみ生じているものは、その主観内で終始することであれば、何の影響も客観的にはないから、無視することができる。苦痛を感じている当人がこれを表明しなければ、苦痛は、周囲の者にとっては、ないのと同じことになる。痛みは、あくまでも、個人主観のうちにとどまっているものである。
ただし、個人は、一心同体となる家族のうちで生きていることで、肉親が主観的に苦痛をいだいているとしたら、その感情を、自身に体験したものをもとに想像をもって疑似的に感じていく。その度合いは、一心同体の程度に応じて異なるが、その苦痛への対処の巧みである大人と、そうでない子供では違い、何もできない幼児であった場合など、親の方が、一層の危機的意識をもって想像において疑似的にその苦痛を追体験し、いたたまれなくなることも生じる。
同情できる間柄でも、痛みの感情そのものは、強い不快感情なので、一歩距離を置いて、一体的にはならず他者距離をもって眺めるだけとなるのではないか。これが、敵にでもなれば、痛んでいると知ると、むしろ、損傷を与えた場合と同じように、快とすることであろう。まるで無関係の者についてなら、苦痛をいだいていると知っても、無視して無と見なしておける。苦痛は、あくまでも当人の主観的なものなので、知らぬふりをしておくことは簡単である。
3-2-2-2. 魚や昆虫には痛みがないかのようにして関わる
苦痛は、主観内のものなので、動物が相手の場合、概ね無視して無の扱いとなる。犬や猫の足が折れているとか、背中が切られているといった損傷には目を向けて、それに応じた関わり方をするが、主観内の出来事の苦痛は、あまり気にすることがない。魚などになると、切り刻まれて、おそらく激痛に痙攣しているのであろうに、その苦痛は無ととらえて、「活きのいい魚だ」と刺身を堪能して平然としておれる。
ひとの苦痛と同じではなかろうが、苦痛は、動物的生の始まりとともにある、損傷への根源的な感覚であり、その事態からの逃走・排撃衝動をともなう大きな不快事になっていることには変わりはないであろう。もっとも、ひとでも、大けがでは、痛みを感じなくなってしまうことがあるように、魚も、切り刻まれた息も絶え絶えの「活きのいい」状態では、もう苦痛は感じていないかも知れない。
魚などに苦痛を想像することが少ないのは、その姿かたちによるのであろう。ひとは、自分と姿が近いものには同じような痛みを想像する。だが、見かけが違ってくるとともに、痛みのような内面的なものには、想像力が及ばなくなる。昆虫などになると一層ひととの類似性は見えにくくなり、魚類の料理に痛みの少ない殺し方を勧める人たちでも、昆虫食で何千何万の虫をすりつぶして食品にすることは意に介さない。昆虫の痛みは、想像することが難しい。ひとが感じるような痛みは、ないようにも見える。しかし、動物は、植物とちがい、中枢において身体の損傷への感覚をもつはずで、それは、痛みであり、当然その損傷回避の反応と一体的で、ひとの痛みと原理的には同じであろう。
とはいえ、ひとの生は、ほかの動物の生や痛みを気にしていたのでは、なりたたなくなる。蚊を叩きつぶすのを遠慮したり、蟻を踏みつぶすのを気にしていては、外を歩くこともままならないことになる。生きるために動物性たんぱく質を日々食料にしているが、多くの生命を奪っているのである。他の生き物の無数の犠牲(したがって、おそらく苦痛)のうえに、ひとの生は成り立っているのである。
3-2-3. 苦痛がないと、生は維持が難しくなる
苦痛は、主観的には、反欲求の対象で反価値となるが、苦痛がなくなれば良いというわけにはいかない。苦痛(痛覚)のないものは、傷だらけになる。苦痛は嫌で、それ自身のうちに回避・拒否の衝動をもつから、その苦痛のもとの損傷を回避したり、それ以上の損傷を受けないようにと、動く。そのことで、生は損傷に適切な対応ができ、無事の生が可能となるのである。しかも、苦痛は、それが有る限り、その苦痛(損傷)をなくするようにと切迫的な対応を求めつづける。苦痛は、生保存にとってありがたい機能である。が、主観的感情としては、その痛みは、それ自体の回避を迫るもので、回避したい反欲求対象として、反価値の代表となるのでもある。
それは、生理的な苦痛には限らない。精神的な苦痛も、悲痛とか絶望とかは、これを感じずに済むようにと、真っ当な人生の展開へと懸命にならせる。あるいは、絶望したときには、それから逃れるために新規の希望を見出していくことへとおのれを駆り立てていく。絶望とか悲痛あるいは不安といった精神的苦痛がなければ、真摯で懸命な努力はしないかも知れない。失敗しても苦痛でなければ、同じ失敗を繰り返して平気となろう。失敗の苦痛が成功へとひとを駆り立てるのであれば、苦痛には、積極的な意味が、価値が見出せることになる。絶望とか悲嘆の苦痛は、いやで、回避したいと、その状態に陥らない状況をつくるし、それから脱出するために懸命になる。しかも、その絶望の苦悩を経験したものは、自己の改造も迫られて人間が出来てもくる。大きな反価値であるがゆえに、これから逃れたいと必死になり、そういう苦悩・苦痛を通して、人生をよりよいものにしていけるのである。
その苦痛がないことでしばしば深刻な事態になる代表は、内臓であろう。内臓は、そとから自分で対処できるものではないので、痛覚をもたないのが原則である。よほど損傷がひどくなって周囲の痛覚のあるところに悪影響をもつようになってやっと痛むというようなことになる。現代の医学では、はやめに対処しておれば、内臓の損傷も悪化させないで済む。しかし、痛まないので、手遅れになることが多い。飲酒で肝臓が少しのダメージを受けても激痛がするのなら、即刻に禁酒することになろうが、少々では痛むことがないので、快楽の方を優先して、気づいたときは、もう遅いというようなことになる。
3-2-3-1. 苦痛は、快よりも生保護にとっては大きな価値であろう
苦痛は嫌なもので回避衝動を伴うが、快は、ひとを魅了し、その享受へと誘う。苦痛を無視すると、生は損傷をうけ、生保護が否定されることになるが、快は無視しても、生にとっての不足分がそのままになるだけで、直接に、生に危機となるものではない。生命は、自己保存を枢要な営為としていて、その損傷には機敏な対応にでるが、そこで登場するのは痛覚である。損傷を受けていることを感知しての痛覚反応である。痛むことをもって、損傷を回避し、生は自己の保護を実現する。これに対して快は、受け入れたいものの感知をするだけで、生の損傷やその保護には、直接は関与しない。
外的な損傷については、苦痛が生保護の中心になるとしても、食では、受け入れることが中心だから、苦痛は、働きようがないように思われなくもない。食は、生の維持に不可欠で、栄養のある美味しいものの摂取を求める。その点では、快がことの中心になって、苦痛の出番はない。だが、口に入るものすべてが栄養になるとは限らない。そこでも、身に有害で損傷を与えるものが入って来ることがある。それを受け入れないようにすることが必要である。舌、味覚で受け入れたいものを、美味しいもの・快と感じ取って喉へと送り込むが、そこでは、受け入れるべきではないものもチェックしている。舌は、まず、その先端で、受け入れてよい、あるいは、受け入れたいものを甘味として感じとる。受け入れ噛み砕きつつ、舌の奥では、苦いものを、つまりは、有毒で不快・苦痛となるものを感じとって、これへの拒絶反応をもつ(ただし、苦い・酸っぱいは、微量の場合は、味わいを深め美味を豊かにする)。あるいは、口内の皮膚では、直接的に痛みとなる辛いものを感じたり、嗅覚で不快となるものをチェックして、有害なものが喉の奥に入って胃に送りこまれるのを阻止する。昨今は、美味(快)のものばかりを食べるので、苦痛の感覚は働く機会が少ないが、やはり、受容の器官の口でも、苦痛は、身の損傷を被らないようにと、生保護をとチェックしている。
生の保護・保存ということでは、どのような方面においても、苦痛は、大きな役割を果たしている。苦痛は、主観にとって回避したい一番の反価値であるが、同時に、生にとって掛け替えのない(手段的)価値になっていると言えよう。
3-2-3-2. 苦痛甘受の忍耐に比して、快楽抑止は、些事である
忍耐は、損傷になること必須の苦痛を前にして、これを甘受する。回避衝動をともなう苦痛に対して、これから逃げずこれを耐え続ける。苦痛甘受という反自然の持続は、疲労困憊をまねく。忍耐、苦痛の甘受は、意を決して行わねばならないものである。それに比して、快楽の抑止は、余裕をもって行え、深刻になるようなことは少なかろう。苦痛甘受は、現に生じている苦痛を耐えるのであるが、快享受の抑止は、通常、まだ存在していない快を、そのままにして現実化させないだけである。美味のものを食べるのを禁止するのは、まだそれを味わう前である。口に入れてから、美味を楽しむのを禁じるのではない。しかも、それを享受しないでおくことは、単にプラスのものを(場合によっては、余分の好物を)さし控えておくというだけであって、余裕をもって対処できる。快楽抑止は、それを受け止めることは、些事である。
だが、苦痛は、そういうやさしいものではない。生保存・保護ができないような危機的な状態において、損傷・犠牲の生じる場に直面して出てくるのが、苦痛である。その苦痛の自然にしたがって逃げるならば、損傷を回避したり小さくして生保存がなる。忍耐は、この苦痛の自然、生の自己保存の営為に逆らう。苦痛の回避衝動をもって生の保護されるのを、拒否して、苦痛を甘受するのが忍耐である。その苦痛・損傷のマイナスより大きな価値が忍耐で可能になるから、その未来の目的のために、苦痛を敢えて受け入れる。が、目的のかなわないこともしばしばであり、その場合は、損傷のみが残る。目的が達成できれば、大きな価値が得られるが、それでも、苦痛甘受という大きな犠牲を払わねばならないのである。
3-2-4.
苦痛の想像と実際
生は、自己保護を根幹の営為とするが、それには、苦痛が大きな働きをする。まず、苦痛発生の前からして苦痛は役立ちをする。損傷に感じる苦痛を予期すると、この損傷と苦痛を回避する動きにでる。その予期的な動きによって、苦痛が避けられることになり、したがって損傷を免れることとなる。苦痛という大きな反価値は感情的に回避の衝動をもたらし、出来るだけ少ない苦痛でと火急の対応へと向かわせるので、予期できるなら、苦痛発生以前に苦痛(したがって損傷)回避の対応に出る。苦痛という嫌な反価値の感情の予期・想像がしばしば損傷回避の主役となる。
苦痛の予期は、損傷回避に効果的で価値ある対応をとらせるが、ときには、逆のマイナスの作用をする場合もある。いやな苦痛が予想・予期されると、ことの実行をためらうようになる。苦痛がひとをおびえさせ、現実には苦痛が生じているわけではないのに、その苦痛をともなうことになりそうな営為を人は回避しようとする。いわゆる「恐れ」とか「脅し」は、この苦痛の予期を過度なものにと感じさせて、苦痛になる有意の営為の実行を躊躇させる。
苦痛は、現に感じる段になると、なんといっても不快の代表で、抑鬱・嫌悪・焦燥等をもたらし消耗・疲労困憊になってもいくことで、なんとしても排除したい反価値となる。同時に、強い回避衝動を生じる苦痛は、その苦痛と損傷をなくするようにと向かわせるから、苦痛は、生保護への切迫的行動をもたらす価値ある感情ということになる。その度合いは、苦痛を予期していた段階の比ではなく、強力な力となって、大きな価値ある営為となっていく。しかも、苦痛を感じる限り、これに集中して、損傷からの回復へと力を注ぐ姿勢を持続させていくから、苦痛は頼もしい生保護の感情となる。
3-2-4-1.
快の想像と実際
快も、予期で動く苦痛と同じく、それの予期と想像が快獲得へ向けてひとを駆り立てて、快あるいは有益なものの獲得へと進める。快自体ではなく、快への予期が、快がもたらされるに違いないという快享受への期待がひとを駆り立てる。アメ(快)とムチ(苦痛)は人と動物を駆り立てるが、苦痛(ムチ)では、多くの場合、現にこれを被ることで、ムチ打たれることで、これから逃げようと動く。だが、快(アメ)は、さきに与えたら駄目で、その快にのめり込み、先へと駆り立てることには失敗する。快を享受することに夢中となって、生に油断も生じる。快楽という餌につられてこれにのめり込み油断大敵となって大事なものを奪われることになれば、快は、大きな反価値ともなる。快のエサにつられて餌食になるのは、動物のみのことではない。
さらに、過度の快・価値あるものの獲得で、生に害を生じることもある。苦痛は損傷が存在するかぎり持続するが、快は、獲得するとすぐに消えるので、快を享受し続けようという場合、とめどもなく、これを新規に受け入れていくことになる。食での美味の快がいつまでも続くのなら、一口入れた美味の食べ物をいつまでも味わっていくことになり、食はその一口で停滞して栄養摂取は進まなくなる。すぐ快が消えるからつぎつぎと食べ物を口にしていくのである。塩味の快とか甘味の快はとめどもなく食をさそい、過剰な栄養摂取となって、肥満とか高血圧をもたらし、不健康状態を招く。
なお、生理的快楽では、例えば食の場合、栄養価値ゼロでも、少々は有害でも、快、美味なら享受したいものとして価値であるが、精神的営為では、快は些事である。その営為は、価値物の獲得を目指すのであって、快ではない。その獲得が快であるかどうかは、問題にならず、かりに快のみがあって価値あるものの獲得がならない場合は、「ぬか喜び」として、快は反価値となる。苦痛の方は、絶望や不安のように、苦痛自体が感じたくない大きな反価値の感情で、反価値の生じる原因はそのままに放置しておいてでも、その絶望の苦悩などを解消したいともがくことである。苦痛は精神的営為でも快とちがって些事ではない。
3-2-5.
忍耐での手段の苦痛は、目的実現を確実にする
忍耐では、苦痛を手段として受け止めて、これから逃げず、苦痛甘受を不可避のステップにして、価値ある目的を実現していく。目的の手段としては、かならずしも苦痛がなくてはならないわけではない。その手段が快であれば、楽に目的が実現されるから、それに越したことはない。だが、目的のための手段の過程が、かりに快になるものだった場合、その快に埋没して、先に進まないことが時に生じる。目的に進むことがひとの多くの営為では大切になるが、快を手段においた場合は、快に安住して、目的は放置されることになりかねない。
目的実現が最大の価値であれば、これの実現にかならず向かうようにと手段を設定しなくてはならない。その点で、手段が苦痛の場合は、これがスムースとなる。手段が苦痛だとすると、苦痛はできるだけ早く終わりにしたいので、この手段の過程で落ち着いてなどいないで、早々に片づけて目的へと駆り立てられていくからである。もちろん、苦痛回避の衝動は大きいから、場合によると、忍耐の手段を手際よく進めて目的へと向かうのではなく、横道にそれたり、手段の苦痛を回避して忍耐自体を放棄するようなことも生じる。そういう逃げ道をふさいでおれば、残された道は、目的実現の道のみとなって、全力を尽くして苦痛から逃れようと目的に向けて邁進することとなる。
実際的効果的なやり方は、苦痛を適度なものにすることであろうか。激しい苦痛では、へこたれたり、その忍耐の手段を放棄して逃げることになる。といって快にしたのでは、それにのめり込み充足してしまって動かなくなる。ほどほどの苦痛をもってして、目的実現でその苦痛はなくなることをはっきりさせ、目的実現の価値の大きいことを自覚させて、苦痛の手段の過程を急いで片付けさせることであろう。
これは、長期に渡る忍耐でも同様である。人生に不如意で苦労する者は、苦労をはやく抜け出したいと、その先の価値ある未来へと自身を駆り立てていく。安楽に生きた者は、その結果は、よくない。三代目は家をつぶすという。安楽に成長した者は、その安楽に埋没してしまい、先へと進めることがなくなりがちである。その点、苦難に耐えて成長する者は、これを克服して、よりよい生へと自身を懸命に駆り立てていく。同時にその苦難の過程において、創意工夫もして自身の能力を開発もしていくから、差は大きくなる。
3-3. 個の主観的な痛みだが、万人に共通で普遍的と見なされる
苦痛は、個人のうちの主観的なものであって、直接的には当人しかそれを知ることはできない。だが、苦痛は、反価値で回避・排除したい筆頭になるといってもいいもので無視しがたいものとして、自身は勿論、何らかの対応を周囲の者にも迫る。家族など周囲の者は、苦痛を感じて救済を求める身近な者の様子を見て、わが身に体験した苦痛を踏まえて、その反価値回避の強い衝動を感じ取り、放置しがたいものとする。苦痛は、主観的で個別的であり、客観化・普遍化し難いものではあるが、誰にも共通と見なして普遍化する必要にせまられる。
苦痛の発生源になる損傷は、客観的なもので、身体の損傷など、本人が気づかなくても周囲は気づくことができるぐらいである。これに対して苦痛は、あくまでも本人の内的な出来事であり、だれも直接的には知りえない。周囲に知られたくないと思えば、どんなに苦痛が大きくても、これに知らぬ顔をして、内的なその苦痛は、ほかの者には無にとどめて置ける。だが、当人には、苦痛は、回避・逃走への強い衝動をもったマイナスの重大事であり、外的には清朗の装いをするとしても、内面においては狂瀾怒濤の状態である。であればこそ、その苦痛を知った周囲の者は放置できず、苦痛を小さくしたり消滅させることができないものかと気をもむことになる。快ならその感情状態がどうであろうと、放っておいてもよいことが多いが、苦痛では、救済や慰めを求めずにはおれない窮状に陥るのであり、身近な者は放置できないこととなる。どこまでも主観的な苦痛であるけれども、それをそとから推定して測り、自他において共通とみて、これを普遍化し、それに見合う対応が迫られる。
ひとの苦痛は、主観的なものだから直接には感じえないが、自身の苦痛の体験、表現や振る舞いをもとにし、他者のそれらを見ながら、万人同じに違いないという思いを重ねる中で、苦痛は、普遍的なもの、共通と見なすことになっていく。人は、社会的動物であり、相互の関りを必須とする。苦痛は、しばしば周囲との関りの中で生じるもので、耐えがたい苦痛であることを承知し合って、万人に共通・普遍とみなして、苦痛をやり取りし助け合いながら交わることである。
3-3-1.
苦痛は、個人も社会も無視できない反価値
苦痛は、生の損傷において抱くもので、シビアな問題となる。苦痛を抱くのは、本源的には損傷が生じるからであろうが、かりに損傷はなくても、苦痛があった場合、苦痛回避の反応を伴い、嫌悪される反価値であり、苦痛は、無視・放置することができない。他人が苦痛をもたらした場合、許しがたいものとして、排撃・反撃の構えを作らずにはおれない。犯罪者には懲罰を加えるが、損傷よりは苦痛をもってすることが主となる。かつてポピュラーだった鞭打ちの刑は、激痛があってのもので、痛みがなく皮膚が損傷するのみだったとすると、髪の毛を切るのと同じで、さして懲罰とは感じられないことであろう。しかし、その刑の痛みは、こたえ、想像するだけで顔をしかめたくなる反価値で、犯罪抑止への効果をもちえた。
共同的に生きる者において、快をもたらす物事には手助けなど無用で、余裕もあって、切迫的な関りはしなくてもよい。だが、苦痛は、損傷がなくても、その苦痛を火急に回避するようにと衝動を生じることで、その苦痛から逃走するための反応を持ち、しばしば救助や慰めを求める。無視・軽視することのできない感情である。苦痛がそとから加えられたのであれば、ただちに報復もしたくなる。その本源的な感情を定着させたのが「目には目を」の報復律であろう。損傷には、同じ損傷で報いるということであるが、それ以上に、苦痛には苦痛でということを思い描くであろう。苦痛は、万人が同じものをもっていると前提して、そう報復したくなるのである。人間は、身体的外見からして、かなり同一性が高く、内面も同一とみなしやすい。これが、ひとりは、雨蛙大で、もう一人は、象のようなものだったとすると、同じ刺激では、その抱く苦痛は相当に異なる。したがって自分の苦痛を前提にして相手の苦痛を測ることも、相当に困難となろう。だが、ひと同士は、心身がほぼ同じなので、同一の苦痛をいだくものと想定しやすい。
同じ苦痛というが、あくまでも、他人のそれは、自分の苦痛から推測してのことである。他人の苦痛を直に感じることはできない。しかし、一般的に、似通っていることが相互の体験の反復から想像でき、弁慶の泣き所を強打すれば万人が涙の出るような痛みを生じるのであり、そう判定していて間違いなさそうなので、痛みは、みんな同じだと前提していくことになる。快は、同じであろうと同じでなかろうと、切迫的な危険な事態などにはならないから、放置しておいてもよい。だが、苦痛は、損傷をもたらし、その苦痛は放置しがたく辛いものなので、自身のそれと同時に他者のそれにも細心の注意が求められる。
3-3-1-1.
苦痛の普遍・共通の扱いは、社会の根本的な要請である
苦痛は、各自における個人的主観的な反価値であるが、大きな反価値であり、社会関係のもとで生じるものとしては特に無視しがたいものであって、真剣な対応が必要となる。個人的主観的な苦痛であるけれども、体験的に、相互に同等と想定できるので、これを共通したものとみなして普遍化していく。苦痛は、どこまでも個人の主観内の出来事でしかないが、強い反価値をもったものとして、社会を動かす大きな力となる。主観的な妄念がまれに社会を騒動に巻き込むことがあるが、苦痛の場合は、まれにではなく、確実な影響力をもつ。主観的苦痛のもととなる損傷は、客観的なもので生保護が否定された状態になるから、重大事である。その主観的な警告が苦痛で、その苦痛自体、回避衝動をもった強烈な不快感情であり、無視・放置を許さない。
苦痛は、反価値であるから、他者との間で償うとしたら、そのマイナスを計量して、それに見合う、これをゼロにするような操作が求められる。物的な損傷であれば、それに見合う物をもって埋めれば、元に返すことができる。同じようにして、苦痛は、そのマイナスを相殺できるプラスの価値の快をもって埋めることができる。それができないなら、その苦痛をもたらした者に同じ苦痛を返すことをもってする。「目には目を」の報復律である。報復律が可能になるには、苦痛が万人に共通と普遍化されているのでなくてはならないであろう。普遍化は困難な個人的主観的な苦痛であるが、これを無理やりにも普遍化し量化もすることが社会的に要請される。
心身が、人間であれば似通っているから、苦痛も似通っているはずと前提して、苦痛を普遍化する。身体の損傷には、だれもが痛覚をもっていてその刺激を脳に伝達し、それを踏まえてほぼ同じように苦痛の反応・表現をする。似通っていることがその度に確認できる。王さまの歯痛も奴隷の歯痛も同一だと思って間違いない。所有物とか教養だと、かなり個人的階層的に違いがあろうが、苦痛を感じる度合いは、生理的なものであれば特に、万人同じと前提して通る。
3-3-1-2.
動物の苦痛をどう見るか
人間の苦痛は、万人に共通で普遍的と見られている。動物もおそらく同じく苦痛をもつのだろうが、これと人の苦痛は共通・同等とはせず、魚とか昆虫などになると苦痛はないかのようにして関わるのが普通である(苦痛は内面的なものだから、人間の苦痛ですら、無いかのようにして無視することができる)。だが、どんな動物にも痛覚のないはずがない。植物は、中枢をもたず、損傷をうけても中枢へと痛み伝達をするような機能はなく、その部位での損傷対応に終始することで、動物のような痛みは存在しない。これに対して動物は、中枢があって、身体はその中枢のもとに一体となって動く。腕を蜂に刺された痛覚刺激は中枢へと伝達され、それ以上の痛み(侵害)を阻止するために、足を動かし身体全体をもって蜂から逃げる。痛み情報は、動物的な生の保護・保存の大前提である。
「動物に痛みを与えることは残酷だからやめなくてはならない」といった思いは、動物に感情移入して我が事と捉えるところでは自ずと生じてくるものであろう。自身がそういう苦痛を甘受させられるのは到底耐えられないことであり、動物でも同じだと想像する。それは、優しく尊い心構えである。だが、痛みを与えること即残酷・悪と見なすのは、単純化し過ぎであろう。ひとでも、忍耐では苦痛を甘受する。耐えがたい苦痛でも、大きな価値ある目的のためにはやむを得ないこととしてみずからに受け入れる。無意味に弱者を弄ぶ醜悪で残酷な苦痛もあるけれども、多くの苦痛は、そうではない。
動物は、快と不快(苦痛)を二大原理にした衝動をもって動く。生の自己保存は、その二つで営まれるが、快ばかりということは無理であり、苦痛があるから損傷を免れて自己保存のなることもある。鹿は、草木の自己保存を否定してこれを食べて、その自己保存、快を実現する。虎は、自己保存のために鹿を食べ快を得る。鹿は、虎に襲われるとき、苦痛をもって応じ、その逃走力が大きければ、自己保護を実現する。が、その苦痛をもっての逃走力が弱ければ、自己保存はならず、食べられることになる。苦痛は、快とともに、生の自己保存の営為を駆り立てる根本衝動である。苦痛はなしにしたいということは自然の生の営為のもとでは、無理な相談になるであろう。虎に襲われた痛ましい鹿は見るに忍びないことではあるが、快・不快(苦痛)を根本衝動として動く動物の場合、苦痛もやむを得ないことと、この自然の大局的な見地のもとでは見なすべきなのであろう。
3-3-1-3. 報復律も物(商品)の交換も、苦痛の等価交換である
快と不快(苦痛)は、動物を動かす二大原理といってよかろうが、人間社会も、この快苦によって動かされることが多い。快と違い、苦痛が加えられた場合、穏やかに済ますことはできない。かりに他人が苦痛をもたらした場合、ひとは万人同等という思いがあるので、その苦痛に相当するものを返さないと収まらない。いわゆる「目には目を」という同害報復、報復律をひとは、古来、社会の大原理としてきた。「目には目を」は、損傷を受けたことへの報復を語るが、それは、同時に苦痛ということでもある。むしろ、苦痛の方が中心かも知れない。苦痛がある場合は、かりに損傷はなくても、許しがたいものとなる。ひとは、苦痛感情を生じると嫌悪・抑鬱・煩悶等の強い生否定的な事態に陥る。不当に加えられたそのような苦痛は、そっくりそのままこれを返さないではおれない。
人は、社会的存在として他者との交わりのなかに生き、苦痛には同じ苦痛で応える報復律をもつが、身近な間では、快(の贈与)には快(のお返し)で応えることも多い。さらに、快と苦を織り交ぜた巧みな交わりもなしてきた。その代表は、他者との間の物々(商品)交換であろう。そこでは、欲しいものを手に入れ、自分からは余っているものを渡すわけだが、その交換は、本来、人同士は対等であれば、交換する物が同価値をもっていることを踏まえて行われる。相互の欲しいという欲求・快の程度は同じだとしても、コップ一杯の水とこぶし大のヒスイの原石では、後者をもった者は、その原石を得るための苦労を想起して交換に納得しない。そこで交換の価値は、結局は、かかった苦労の等しさとなる。つまり、そのものの確保に、どれだけの苦が、苦痛が必要だったか、どれだけそこに苦痛が結晶しているのかということである。苦痛の等しさをもって他者との間の交換は成り立つこととなる。報復律の、等しい苦痛という発想は、商品交換、商品社会の根底にもあるといえよう。
ただし、報復律では、苦痛は相互にその相手が加えるものだが、商品交換では、苦痛は、自分が自分に加えたものである。さらに、報復律では、相互の個人的な痛みが中心になるのに対して、商品交換での苦痛・苦労は、作りあげた価値物(欲求充足の快)を見てその苦を推定するもので、一般的な人間的苦労の視座から見られる。つまり、いくら大きな苦痛をもって作ったものであっても、それは見られない。苦痛そのものが欲しいわけではなく、(苦痛を有効に使って)作られた物(価値物・快)が肝心で、それを享受しようというのである。一般的にどの程度の苦労で出来るものなのかということを見る。というか小さな苦痛で効率よく作ったものが(安価になり)基準になる。したがって不器用な者が大きな苦痛をもって作ったからといっても、その苦痛の大きさは顧みられない。その点、報復律では、お互いの経験する苦痛そのものをしっかりと見る。自分が被った痛みをそっくりそのまま(しばしば懲罰等の利子分を加えて)、相手に返したいのである。
3-3-2.
苦痛は、精神的領域でも大きな反価値
ひとは、動物であり、生の基礎的レベルでは、快を求めて動く。生保存を可能とする食とか性の営為で求め欲するものは、快楽にあって、生保存に肝心の栄養や受精は、かならずしも求められない。快楽であれば良いのである。だが、自然を超越した人間的知的な生、精神的な生の営為のもとでは、快は些事にひきさがり、そこに客観的にもたらされる価値が求められるものの中心となる。価値物をもたらさない純粋な快である「ぬか喜び」は、むしろ、嫌われる。喜びをともなわないとしても、賞金などの価値物の方が求められる。快感情だけの場合、はやとちりだった、だまされたということになって不愉快になる。
だが、苦痛の方は、生理的レベルで損傷情報として必須であるだけではなく、精神的レベルでも、大きな力を発揮する。精神的な苦痛としての絶望とか不安とか悲嘆は、精神的な価値が奪われ損傷をうけていだくことだが、快とちがって、そこにいだく精神の苦痛は、些事ではなく、ひとをそれの回避へと突き動かす無視しがたいものとなる。絶望では、希望剥奪の絶望的状況を回避するように動くことは勿論、その絶望の苦痛自体が耐えがたく、せめて一時的にでも苦痛を軽減できるようにとアルコールなどの薬物を使用することも生じる。不安など、この感情自体が大問題で、脅かすようなものが客観的にあろうとなかろうと、自分の内的な不安という苦痛自体の解消を求めずにはおれないのである。精神的な苦痛は、精神的な快と違って些事として無視できるようなものではない。その苦痛・苦悩は人を突き動かし、その苦痛の解消をと人は必死になる。
ひとは欲求の実現を目指すが、生理的にせよ精神的にせよ欲求を抱くということは、それがその時点では充足できていないということであり、この不充足は、苦しみを感じさせる。尿意も努力目標未達成も苦痛となる。欲求不充足が大きくなるほどにその苦・苦痛も大きくなる。その苦痛に追い立てられて、苦痛を消滅させた欲求充足へとひとの多くの営為は展開する。快はひとをそれにのめりこませ生をそこに停滞させる。だが、苦痛は、回避したい大きな不快感情として、それをなくしたいと、ひとを先へと駆り立てていく。苦痛は、ひとの精神的世界でも、生理的な生においてと同様に、ひとを駆り立てる大きな力となる。
3-3-3.
精神的苦痛は、人毎に相当異なったものになる
生理的苦痛の場合、皆同じ身体をもって、歯にせよ手足にせよ、その故障・損傷では苦痛は誰のものであっても似通ったものになる(ように見受けられる)。だが、精神的世界では、あるいは、日常の社会生活では分業し協業しているので、その生き方がそれぞれに異なってくることが多くなり、そこでの損傷の在り方は、例えば賭け事での失敗と、人間関係での信用の喪失とでは、まるで異なったものとなってくる。その損傷がちがえば、当然、その痛み方も異なる。
とはいえ、ひととしての生き様は、どの道に進み、どの分野で生きていこうとも、同じ知性をもち同じ感性・欲求をもっているものとして、精神的な生の阻害・損傷ということでも、その点では同じような苦痛をいだく。価値あるものの喪失には、悲しみの苦痛を、未来を喪失する状態には絶望の苦痛をいだく。同じ悲痛・絶望をいだく。しかし、その具体的な生き方が各自で異なるから、何にどのように絶望・悲嘆するかは、生理的苦痛が万人似通っているのとちがい、大いに異なってくる。ピアニストが小指を切断した場合、生理的には他の者と同じ苦痛を抱くことであろうが、精神的には、ほかの者とちがい、おそらく人生に絶望するような衝撃的なものとなろう。あるいは、同じ大学受験生であっても、東大に行けずに絶望する者は、ごく一部であって、圧倒的多数の受験生はこれに絶望はせず心穏やかである(絶望していない者の方が、希望のキの字も持てないで絶望的に絶望している存在であることは、受験、就職、結婚から葬式まで、この世には多い)。
そのことを損傷・損失と捉えてはじめてそれへの苦痛は生じる。したがって、損失と捉えることがなければ、苦痛にはならない。貧困ならば、10万円失ったらショックであり、悲嘆することになろうが、金持ちなら、些細な事柄であって、意に介さず、悲嘆などの苦痛とは無縁に終わる。何を喪失と捉えるかは、各自の価値観によることで、価値観は、ひとの性格により、生き方によって異なる。喪失と見なすなら、苦痛となるし、そうでなければ、痛みなど生じることはない。身体的な損傷なら、ほぼ万人が同じように損傷とし痛みとするであろうが、社会的なもの、精神的なものでは、その生き方が異なれば、同じ損害・損失であっても、これを重大と捉えることもあれば、些事と見なして苦痛を感じないこともあり、差異が大きい。生理的な苦痛の原因の身体の損傷は、思いをあらためても変えられない。腕に大けがをしたら、けがはなんでもないと思っても、そのけがも痛みも、なくなることはない。だが、精神的苦痛の場合、絶望や悲嘆の原因は、解釈しだいであり、生き様しだいであって、変えることができる。受験に失敗して絶望しても、受験戦争から抜け出し別世界に生きる覚悟をすれば、即絶望状態は消滅し、そんな苦悩は吹き飛ばせる。就職口のない不安も、穏やかな島国にのんびり生きる決意をすれば、その島への片道切符を手にしたとたんに、即解消できる。
3-3-4.
苦痛は、快・価値と相殺できる
苦と快は、別々に生じる異なった感情であるが、同時的に、あるいは同一の事柄のうちに出てくることもある。ひとが苦痛を忍耐するとき、それだけで終わるのではなく、その苦痛の先に、快を含む価値あるものが生起することを確信してこれを甘受する。快なり価値の大きさが、受け止める苦痛の反価値よりも大きいと計算して、苦痛を受け入れていく。
忍耐での快苦の計算では、快と苦は別々に感じることで、苦痛を我慢する時、その未来の快を想像して、観念的に苦痛と相殺するが、実際に両者を感情的に相殺することもある。苦痛をどうしても受け入れる必要があるのに、この苦痛に耐えられないようなとき、そこに同時に快を与えることで、苦痛を相殺して、感じないか小さな苦痛にして耐えうるようにできる。苦痛は心身を萎縮・緊張させるが、快は、弛緩・伸張させるから、打ち消し合うことになる。激痛を生じるような手術の場合、快を、麻薬を与えて、苦痛を軽減したり無化する。日常においても、苦痛が伴うものについては、これを軽減する方法として、快楽を伴わせるようにすることがある。厳寒で辛いときには、カイロをもって温かさの快を身体の一部に与える。外的にそれのできないときには、自分の脳内で操作して、苦痛を耐えるために脳内麻薬的なものを出して自身で苦痛を軽減するようなこともある。マラソンなどではランナーズハイをいうが、苦しい長い走行において楽になるようにと、自身で快楽様物質を脳内に出すことがあるようである。苦痛は、主観のうちに生じることであり、その同じ主観のうちに、快楽を生じるようにすれば、苦と快は、相殺しあうことになる。
希望をもって関われば、身体的苦痛でも、よりよく耐えうるという。激しい戦闘において、最後まで生き残ったのは、希望を失わないでおれた者だったということがある。快苦の問題よりは、もう死んでもいいとあきらめず、最後まで、気力をふりしぼって生きるための努力を続けることが大きいのだろうが、希望という快が苦痛を和らげてくれたのでもあろう。あるいは、絶望という苦しみを戦闘において加算するものと、希望をもって絶望の苦を持たないでおれる者との違いでもあろうか。身体的に疲労困憊しているとき、精神的に絶望の苦悩がさらにダメージを与えるのと、希望をもって、その身体の苦痛を小さくするようにしながら、さきのために、生じている苦痛を耐え抜こうと気力を振り絞るのとでは、かなり異なったものとなる。希望を棄てず、最後まで諦めなかったものが、戦闘などでは生き残ったとしばしば聞く。
3-3-5.
苦痛の尊厳性-動物と植物の扱いの違い
動物は、尊い生命をもち、人と同じように尊厳をもった存在として扱わねばならないと言われる。それが際立つのは、動物が乱暴に物のような扱いをうけて、傷つけられたり殺されたりするときで、ほとんどが苦痛を被る場面である。ひとと同じように、牛も苦痛をもつということを示して、苦痛を与える殺し方はしてはならないとか、牛そのものを殺してはならないという。人にとって、損傷・苦痛は、生保存・保護を否定する耐えがたいことで、自身の生の尊厳が否定される筆頭にもあげたくなることであり、動物も同様と見なすのである。
植物は、これをひとの生きる手段とし食することには、ほとんど抵抗がないであろう。苦痛を感じるものでないということがまず念頭に浮かぶ。したがって、植物の生の尊厳をいう人のなかには、植物にも苦痛などの感覚のあることを探し出そうとすることがある。もし、大根が真っ二つに切られるとき、苦痛の感覚・感情をもっているとしたら、これを切ることには躊躇しそうである。しかし、苦痛感覚は、中枢があってその生が全体として統一的に動く必要から持つもので、植物には中枢がないから、苦痛とは無縁と見なすのが一般である。逆に、動物は、ひとと同じ中枢をもった存在として、苦痛をもち、苦痛を与えるような加虐は許せないといった主張になっていく。それを実践するのが、動物食を嫌悪して、植物のみを食べることをすすめるベジタリアンである。
生あるものは、自己保存のために外物を受け入れて栄養とし、老廃物を排出してその生を保つ。その自己保存・維持は、動物では快と不快(苦痛)の根本衝動をもって行われる。この生の自然を根源的に変えようというのでないかぎり、快苦をもって動くことを大前提にして、これに従うのが、この自然のうちでの人の在り方となるべきでもあろう。苦痛は、いやなことであるが、これも受け入れることが人でも忍耐では必須である。苦痛は、できるだけなくしたいが、自然のうちでは不可避的に生じる。草食動物は、肉食動物に襲われるが、そこで苦痛を抱き、その苦痛に駆り立てられて逃げることに成功すれば、自己保存・維持が可能となる。だが、弱くて逃げることに失敗すれば、生を肉食動物にささげることとなる。苦痛を抱いて死に至るのを見るのは、いたたまれないことではあるが、それが自然と諦念しなくてはならない。
自身が飼う愛玩動物については、憐憫の情をもって、その在り様を自己流に支配・制御できるから、兎を犬がかみ殺して食べるようなことを阻止できる。自己の支配下の小自然においては、造物主になって、どの動物も痛みを感じないで済むようにはできる。だが、自然全体については、それはできない相談であり、自然に任して、これを尊重していく以外になかろう。ベジタリアンが造物主にでもなったおりには、肉食動物は創造せず、あるいは、生あるものにおいて、快不快(生の促進と破壊への感情)のうちでは、快のみをもたせ、不快・苦痛をもたないものを造ることにすればよいが、それで生の維持・発展がうまくいくかどうか。快にのめり込み酔いつぶれ、あるいは破壊に無感覚・無痛で平気でいたのでは、おそらく動物は絶滅することになる。植物のみの世界になると一見穏やかになるが、あの艶やかな桜も紅葉も、自身の産んだ子(種子、苗)が身近に生き延びることは許さずすべてを殺害する。生における苦痛とか損傷・破壊は、忍びないことではあるが、自然的生の必須の契機として受け入れねばならないであろう。
3-3-6.
南無地獄大菩薩
苦痛は地獄で、快楽は極楽である。だが、苦痛という危機的状況に遭うことで、これに対決していくことをもって、しばしば既存の自分が変革されて、より高い能力の獲得が可能になる。苦痛(地獄)の効である。白隠は、「南無地獄大菩薩」を言った。万人救済の阿弥陀仏を慕い、安楽・極楽を願っての「南無阿弥陀仏」を言うのが普通であるが、白隠は、地獄こそが有難いのだと言う。地獄の苦痛は、ひとを鍛える。既存の自己に対しての地獄の責め苦が、難行苦行が、ひとを向上させる力になるということである。怠惰な者にとって、ムチは、これを克服するための大きな役立ちをする。ありがたいムチ(地獄)ということで「南無地獄大菩薩」となる。地獄の責め苦、これを与える厳しい指導者や状況は自身を鍛えてくれる。地獄の鬼こそが自身を追い立て高めてくれる菩薩であり、これこそに帰依したいと「南無地獄大菩薩」を言ったのである。
かわいい子には旅をさせよという。逆境に育ったものは、鍛えられて卓越した人間に成長する。創業者は苦難を乗り越えて家を興す。だが、その二世、三世は、安楽に過ごして家をつぶす。苦痛・苦労は、ひとを鍛えて卓越したものにと成長させてくれる。若いときの苦労は、買ってでもせよという。白隠の「南無地獄大菩薩」は、言いえて妙である。もっとも、苦痛・苦難は、ひとに損傷を与え、度が過ぎれば、これを潰す。過酷な旅の途中で野垂れ死にしたものもあろう。自暴自棄になって犯罪者になってしまう者もいたであろう。そういう悲惨をもたらすことも多い破壊的な苦痛ではあるが、これを乗り越えた者は、尋常ではない力を獲得する。ひとには、安楽に生きていたときには発揮されない火事場の馬鹿力のようなものがある。あるいは、困難に直面してはじめて育ってくる能力がある。地獄の体験が人を鍛え上げるのは確かである。
苦痛は、嫌な反欲求の代表で、できるだけ回避したいものである。だが、その苦痛(回避)のおかげで、損傷を免れうるのでもある。生保護に苦痛は一番の贈り物である。これが欠けていた場合、生は傷だらけとなり、命もあやうくなる。嫌な反価値の苦痛は、その苦痛自身の回避にとひとを駆り立て、そのもととなる損傷の回避へと火急の対応をとらせる。生破壊の阻止に苦痛は大きな役割を果たしている。その点からも、地獄=苦痛は、ありがたいものであって、「南無地獄大菩薩」と言ってもいいのである。
3-4. 苦痛は、損傷(反価値)察知の情報価値
動物は、植物とちがい、動く有機的存在として、手とか足といった諸部位は、全体と一つになって有機的統一的に機能する。ハチの巣に近づきすぎて手や頭がハチに刺されているのに、それはそれで反応し、足は動かないか一層ハチの巣に接近するように動いていたのでは生体は無事であることが難しくなる。一体的な動きは、脳という司令部をもってするが、それには、各部位の情報が必要となる。苦痛感覚は、その身体の部位に損傷の生じたことを知らせる。それによって、損傷個所を把握し、これに的確に全体として反応し、その苦痛の事態を嫌悪し排撃や逃走の対応をもって、生体は、損傷を少なくしたり、なしで済ますことが可能となる。苦痛は、損傷把握に必須の情報価値である。
苦痛自体は、損傷ではない。損傷がなくても苦痛はあり、苦痛はなくても損傷していることもある。両方は、別のことであるが、根本的には、損傷があることでその部位に痛覚刺激を生じて苦痛となるのであり、損傷を生主体の司令部に通知するのが、その情報が、苦痛感覚である。そして、この苦痛感覚に相即的に緊張・萎縮し拒否・嫌悪等の感情反応をするのが苦痛感情である。
苦痛がなければ、さしあたりは安楽である。暑さへの不快を感じることがなければ、平気の平左で炎天下も動ける。虫にさされても痛まないのなら、蚊がいようと、ムカデがいようと気楽に野山を楽しめる。だが、苦痛がないと、生体を損傷することが大きくなっても、これに気づくことがなくなる。無感覚では、炎天下で身体が熱中症になっていても自覚することができず、大きなダメージを受けることになる。腕を切っても痛まなければ、気づくことが遅くなり、対応・手当が遅れてしまう。苦痛がないと、つまりは、身体は、無事ではおれなくなる。苦痛が身体の損傷を知らせてくれるから、すぐにこれに対処でき、大きな損傷にならない前に手当てができるのである。嫌な反価値の苦痛は、その生主体に損傷を知らせる情報としての価値をもつ。「痛い」から病院に行く気になる。行くと、まずは「どこが痛いのですか」と聞かれる。苦痛は、損傷についての大切な情報価値である。
3-4-1.
皮膚には、快覚はなく、痛覚のみがある
生命を危うくするものは、多くはそとから来る。これに適切に対処して、有害なものを排除したりこれを回避することが生命維持には大切になる。生を破壊し損傷を与える事態にしっかりと対応できることが必要である。その損傷への感覚が、痛みの感覚、痛覚である。外部に接触する皮膚には、したがって、痛覚がある。傷つくような大きな刺激に対してこれが発動し、苦痛刺激となって生体を統括する脳に刺激が伝わる。そのことで生体全体としてこれに適切な反応がとりうることとなり、生は、維持・防衛が可能となる。
不快(苦痛)には快がペアになるが、痛覚の不快については、その逆のペアになる快覚というようなものはない。快は、その生にとり生促進に資するような状態になりえていることを語る。それは、うまくいっているということだから、火急を要するものではなく、感覚としては、生損傷の痛覚のような火急の対応への感覚は無用である。同じ皮膚感覚でも、温覚は、冷覚とペアになっている。ほどよい温度を把握するためにその過多・過少の両方を捉える必要があるからである。だが、痛覚には、その反対の快覚はない。仮に快覚があるとすると、痛まないところはすべて快調であり快なのであるから、体中がいたるところから快感をもたらして収拾がつかなくなる。快感に苛まれることになるであろう。
皮膚とちがい、内臓には、快覚は勿論、原則的に痛覚も存在せず痛まない。損傷を知らせてもらっても、統一的対応をする意識主体・脳は、対処のしようがないのである。苦痛は、単に損傷を知らせるのみでなく、これへの反応・対応までももっての感情として存在している。内臓などの対処しようのないところでは、苦痛の感情、感覚は無意味なものとなるから、多くの場合、痛覚も、存在しない(外からつつきようのない頭痛も腹痛も、よくある痛みだが、それは、よほど大きな損傷で周辺の痛覚のあるところまで侵害されているか、その臓器の特殊な生成史から、そうなっているのであろう)。昨今は、沈黙の臓器も手術できるから、「痛みがあれば、こんな深刻な事態にはならないで済んだであろうに」と痛覚のないことを残念がり、痛覚の情報価値の有難さを思い知ることである。
損傷のないところに苦痛の生じることもある。失った腕の痛むことがあるという。あるいは、腰痛など、損傷は消えていても、脳内で勝手に苦痛を反復することもある。情報価値のない、偽情報の、害でしかない苦痛である。あるいは、痛みと損傷個所がずれて、偽情報か本物の情報かがあいまいな苦痛もある。心臓が損傷しているのに、痛むのは腕になるようなことがある。大まかすぎる苦痛情報ということになる。
3-4-1-1.
精神的苦痛では、損傷の自覚が先行する
精神的生においても、苦痛は、しばしば生じる。絶望とか不安・悲嘆など、身体的な苦痛以上につらいことになる場合がある。身体的苦痛に耐ええず自殺することは例外的であろうが、精神的な苦痛の絶望とか不安では、その感情にとらわれてこれにおしつぶされ自殺することが間々ある。精神的苦痛も、身体の苦痛感覚同様に、精神的なレベルでその生に傷を負うことで生じている。そういう情報をその苦痛は、はっきりさせてくれる。情報価値がその苦痛にあるのは生理的苦痛と同様であろう。だが、苦痛(絶望や悲嘆)に、損傷の事実を知らせてもらわなくても、皮膚損傷の苦痛とちがい、意識して知的に展開している事柄であるから、そういう悲惨な状態に自分の陥っていることは十分に分かっている。周囲の者は、絶望(苦悩)していると分かってから、その原因(失恋とか受験の失敗)を知ることになり、苦痛・苦悩の情報価値としての意義は大きいが、当人は、その失敗を知ってから悩むのであり、情報としての価値は、当人の精神的苦痛では小さいことになろう。
絶望とか不安などの苦痛・不快感情をいだくときには、もう希望が絶たれたという情報なり、危険の可能性があるといった情報を受け取って、その後、絶望し不安になるから、情報を新たにその感情がもたらすことは不要である。それでも、絶望感の程度となると、自分にとって何がどの程度深刻となっているのかの情報は、その感情の生起においてはっきりしてくることである。意外に強い絶望感にとらえられたことで、その希望剥奪(損傷)の自分にとっての巨大さに気づくといった深刻な情報をそこで知る。不安においては、自身にとって、どう危険になりそうなのかというその程度を知るのは、不安感情の大きさをもってである。不安とか怒りでは、何にそういう感情を抱いているのか、当初は気づかないこともある。その場合は、皮膚の痛みで、その損傷を知るように、その怒り等を自省していくなかで、「そういうことに自分はむかついているのか」と知ることになる。不安あるいは怒りは、ときに、自身の心身の不調からもたらされることがある。そとにそれに見合う事象のないことを踏まえて、自身の心身の不安定という情報をこれらの感情はもたらす。精神的不快(苦痛)でも、苦痛は、苦痛をもたらしているもの(損傷)への情報価値をもっている。
3-4-2.
苦痛は、放置を許さず注視を強いる
苦痛は、無視することを許さない。生の損傷への感情として、何にも優先してこれに対応することが必要である。苦痛は、意識をそこへとしばりつけて対応を迫る。痛むかぎり、ひとは、これを放置しておくことができない。苦痛は、損傷(と苦痛自身)を注視せよとの警告情報を発し続ける。
快になることが苦痛のもとに与えられると、その快が大きければ、苦痛のマイナスを無化し中和化することになる。苦痛が快によって中和された場合は、損傷はあっても、苦痛がなくなって、意識は、その損傷・苦痛への注視を強要されることはなくなる。損傷していても、気にすることはなくなって、楽となる。もし、そこでも苦痛が快にかきけされず苦痛としてある場合は、その苦痛の程度に応じて苦痛は自己主張をする。放置・無視は許さず苦痛へとひとの意識をひきつけ続けることになろう。
精神的な苦痛も、注視を強要し警告情報を発し続ける。絶望した者は、その希望剥奪の事態を繰り返して意識し、生全体を陰鬱なものにしてしまう。不安は、その不安な事態、危険の可能性が続く限り、これを抱き続けて、意識はこの不安にとらわれ続ける。より強く心を動かす別の事態が一時的に不安や絶望を忘れさせてくれたとしても、それがなくなると、再度、絶望感や不安感が頭をもたげてきて、これの解決のなるまで、その不快な感情を持続させる。場合によっては、絶望的状況が一生つづくのなら、その後の一生が絶望にとらえられたままになる。不安に陥ったものも、場合によっては、一生、不安に苛まれ続けることになる。それらから一時解放されることはあるが、それは、もっと気になることが生起している間とか、快が与えられてその苦悩が中和される間だけのことになる。眠っているときは、意識しないから絶望・不安も消えているが、強いそれらが生じているときは、眠りすらも妨げて、不安に押しつぶされそうになったり、絶望の奈落の底に突き落とされたりといった夢にうなされることになる。死だけがそれらから自分を解放してくれるというような思いにとらわれることともなる。
3-4-2-1.
大きな苦痛が登場すると、小さな苦痛は消える
ひとの意識は、一つのことに焦点をあててこれに集中してことに対処する。一度に多くを意識することは苦手である。したがって、対処すべき情報が多くある場合は、優先する順番をきめて事に対処していく。苦痛が生じると、他のことを意識していても、これを中断して、その苦痛にと意識をもっていく。さらにそこに、より大きな損傷や苦痛が生じると、意識されるものは、この大きな苦痛に限定されていく。手に小さな傷をつくって痛んでいたのだとしても、足を切断するような大けがになり激痛ということになると、大けがの方に意識が注がれる。手の小さな傷は、痛みを感じることはなくなっていく。大きな苦痛の情報がすべてとなり、小さな苦痛の情報は、意識の表面からは消えてしまう。だが、なくなるのではなく、大きな事態への対処が済んだら、つぎに対処すべき苦痛情報が自動的に浮かんできて、その小さな痛みが再開する。
ひとは、何をするにつけてもこれを意識してする。つぎつぎと意識されるものが登場し退場していくが、よほど気になることでないと、すぐ忘れ去っていく。ふと思い返すこともあるが、多くは、忘れられたままになる。直近のことでも、思い出そうとしても思い出せないことにもなる。「昨夜の夕食の中身」を思い出せないようなこととなる。だが、苦痛は、ちがう。放置しておいて、別の緊急のことに対処し、その苦痛を忘れていても、損傷の事実がある限りは、また、おのずと意識されるようになる。苦痛情報は、対処することができる順番になったときには、自動的に意識に浮上してくる。意識はだいたいがひとつのことを意識するので、一番火急の事柄を意識する。それが片付くと、待ち構えていたものが意識に浮上してくる。苦痛は、そういうなかでは、苦痛のあるかぎりでは、軽いものであっても、意識に登る順位になれば、忘れず、意識される。ほかのことは、覚えておこうとしても忘れることがあるのに、苦痛は、また後で意識しようと留意してなくても、放置しておいて、ほかの優先すべきものが片付くと、苦痛刺激が存在している限り意識にのぼってくる。
苦痛があるとは、損傷があるということであり、ほかの重大なことがらが片付いたら、その損傷への対策を再開していくことが生には必要である。忙しい仕事に意識がとられていたら、ほかのことは意識の外に置かれて、歯が痛んでいたのだとしても、意識されないで済む。だが、それが一段落したら、ほかの些事は想起されることはなくても、忘れていた虫歯にと意識は向けられていく。歯医者にいって抜歯する時まで、その痛みは、一時的に他のことに気を回すことがあっても、それが片付くと、自動的に痛みを再開する。その執拗な歯痛は、いずれ歯医者へとひとを向かわせる。
3-4-3.
苦痛感情は、苦痛(損傷)回避へと迫る実践的価値をもつ
苦痛は、生の損傷の情報をもたらすだけではない。さらに、この苦痛自身を嫌悪し、これを排撃しこれから逃走するようにと、苦痛回避への強い衝動をともなう。苦痛は、感覚として損傷の情報をもたらすとともに、感情として、苦痛自身を嫌悪し萎縮・緊張して、苦痛と損傷を回避する衝動をもって、生保護へと駆り立てる積極的な価値をもつ。苦痛は、損傷の情報価値とともに、生保護のための回避反応という実践的価値を有している。
快になるものには、近づきこれを享受しようと受け入れに積極的になる。不快・苦痛は、その反対である。生の原始的なレベルからある、生に根源的な拒絶の反応である。同化する方がいいものには、快を感じて受け入れる。逆に、有害と察知されるものには、不快・苦痛をいだいてこれを排除・異化する。苦痛は、あって欲しくない反価値感情として、これ自体、回避したいものである。それを徹底するには、その原因の損傷にも排撃的に反応することである。そのことによって生は損傷を免れることが可能となる。苦痛という反価値感情は、自身と損傷への回避の反応をもった、生保護の実践的価値となる。
快も不快(苦痛)も、それを感情として意識して、その後で受け入れや排撃へと反応するのではない。それらの感情自体のうちの直接的反応としてこれらはある。感情自体に排撃なり受け入れの反応をもっている。反省し意識して、受け入れよう、拒否しようというのではない。もちろん、感情をいだきつつ、その後、意識的にそれらにひきつづく対応をして、問題がなければ、快には受け入れ、苦痛には拒否のふるまいを続けるのが普通であろう。しかし、ときには、感情とその後の意識的展開は、逆方向になることも生じる。苦痛感情をもち、嫌悪感を生じていても、理性意識が、それはよくないと反対のふるまいに出ることは間々ある対応であろう。苦痛など嫌悪の感情を生じていても、それを表明したのでは、自分の評価を落とすとか差別になると意識すれば、感情を抑えて、場合によっては反対の行動に出る。苦痛は、意識するときには既に生じている自然反応であり、その感情レベルで、自動的に、損傷への反応として嫌悪感をもち萎縮・緊張し、これを回避しようとの衝動を伴う。その反応をよくないと思い、これを抑止したり反対の好感を装い接近をしなくてはと思っても、苦痛感情自体は、自動的に嫌悪感・回避衝動を持ってしまう。
3-4-3-1. 損傷が不明でも、苦痛は対応を迫る
苦痛は、放置を許さない。なくしたいという嫌悪・拒否感をもっての苦痛への注目である。損傷は、知らなければ気にならない。だが、それでは、損傷はそのままになってしまう。苦痛がその無視・軽視をふきとばし、注視を強要する。苦痛は、放置を許さず生保護に大きな役割を果たす。反価値の苦痛は、大きな価値となる。
放置を許さない苦痛は、無視しようと意識したとしても、これを乗り越えて迫ってくるもので、苦痛に関与せよと強迫する。当人の意志に逆らっても、苦痛は、苦痛自体にと意識を集中させる。そのことで生の損傷への対応が優先されるわけで、苦痛のもつ価値といえるであろう。だが、もともと損傷がないとか、なくなったのに痛むことがある。この場合も、苦痛は、対応を迫る。頭痛とか腰痛では、原因が不明で損傷はないのに、痛むとじっとしておれなくなる。損傷はなく苦痛のみだと分かったとしても、これを放置はできず、嫌な苦痛を一刻も早く解消したいと焦燥する。
精神的苦痛も似通ったものである。不安や悲哀感は、危険や喪失という客観的な(損傷の)事態があってのものが普通ではあるが、ときに、それらがないのに、その不快・苦痛の感情のみの生じることがある。その場合でも、不安や悲哀感は、これへの対応をひとに強要する。その苦痛を除去するようにと、迫る。危険なもの、喪失があっての不安や悲哀ならば、その事態への対応は取りやすいが、単に不安・悲哀のみでは、切迫的に対応が求められても、行動のとりようがないことになる。それらの苦痛を解消するには、心構えを変えるとか、その病的な感情を抑止できるような薬を飲むといったことが必要となる。
損傷していても、痛まなければ、冷静に対応できて、軽度であれば、気にもならなくなる。だが、苦痛は、損傷がなくても、それが生じているだけで、嫌悪感をもち抑鬱的になり焦燥もする。身体的には萎縮・緊張し疲労困憊状態にもなっていく、経験したくない反価値そのものとなる。損傷を知らせる苦痛ならば、我慢のし甲斐もあるが、苦痛だけというのは、不愉快な感情体験のみで、できるものなら、即刻に消去したい反価値になる。
3-4-3-2.
感情における未決と既決(終結)の対応
感情は、これを感じて単純に終了となるものもあるが、それで終結せず何らかの対応を続けていくものも多い。快の場合は、それが生じるのは一般的に事の終結時で、果実・報酬としてその感情の体験されるのが普通であろう。おいしさは、食べ物を確実にわがものとする喉越しにその快を得て、思い残すことなく終わる終結感情である。喜びは、価値物を獲得したその終わりにいだく終結感情になる。欲求を充足して、僅かの間、快をいだく。快は褒美として、ことの終了時にいだく。逆に、欲求不充足は、不快で、その不快が充足へと駆り立てていくことになり、その不快感情は、ことが決着するまで、ことの終結に至るまで延々と続く未決感情となるのが普通である。
不快では、それに居留まれないで不快解消へと前にすすむ。現在の不快から抜け出したいと動く未決・未終結の感情になる。悲しみは、価値あるものを喪失していだくが(喪失そのものは、覆しようがなく確定し既決である)、反対の、すぐ忘れてしまう喜びとちがい、いつまでも抱き続けることになりやすい。価値喪失を思えば、悲しくなり、その価値の回復のなるまで気がかりを残し続ける。価値回復がなって、やっと悲しみは終結する。悲しみは、未決感情として、いつまでも、悲しむ面をもつ。悲しみも含んだ苦痛(不快)は、根本的には、その不快なものから逃げたいのであるから、未来方向に動くことになり、その面からは、基本的に未決の感情となる。痛みは、損傷のあるかぎり、どこまでも痛み続けて損傷の消滅まであきらめない。未決感情である。痛みは、痛みを抱いて即終わりとなるのではなく、その原因の損傷が片付くまで、痛み続ける。精神的な苦痛でも、その絶望も不安も、どこまでも持続していくのが普通である。その絶望の事態がなくなるまで、その不安なものがなくなるまで続いていく未決感情である。ことが解決するまで絶望も不安もひとを駆り立ててやまない。
不快感情の未決できわだつのは、憎悪の感情である。これは、仕返しを済ますまで、深く潜航して延々と持続する。ときには、世代を超えてまで続いて、決着に至るまで執着していく実践的な未決感情である。不安も、未決が目立つ。危険が確定した場合は、恐怖になるのに対して、不安は、危険かどうか未定で危険の方に傾きかけたところに抱くのだろうから、状況把握において未定であり、もちろん、未来方向にも、どうしてよいのか分からず、かつどうにかしないと落ち着けないという、圧倒的に未決の感情になる。
3-4-4.
苦痛は、損傷への警告価値となる
生は、快不快をもって動く。快は、その生にとって有益な事態の印となり、受け入れることへと向かう。不快・苦痛は、その逆で、有害なものの印として、これを回避するようにと警告する。口に甘い快は、これを飲み込み摂取することへと誘う。苦痛の苦味とか酸味は、単にこれを知らせる情報価値であるにとどまらず、これを摂取すると有害であり、これを吐き出すようにと迫る警告価値をもつといえる。
苦痛は、それ自体は、直接その発生個所に有害となるものではなかろうが、その感覚・感情は、これをもたらすものが生の損傷であることを警告する。皮膚が痛むのは、そこに損傷が発生しつつあることを知らせる警告情報であり、それに従ってこれを回避するように動いて損傷を阻止することが可能になる。損傷への警告価値を苦痛はもつ。
苦痛がだんだんと大きくなっていくものの場合、その小さな苦痛の段階でことに対処するならば、放置して大きな損傷になるのを防ぐ。苦痛は、損傷を、小さな段階で回避することを可能にする。高温のものに触れるとき、小さく痛む段階で即手を引くことで大きな苦痛と大きなやけどを回避する。小さな苦痛の段階での警告にしたがうことがそれを可能にする。精神的社会的生においては、小さな痛みをよく反省して、それから身を引くことで大きな失敗を回避できることは多い。小さな苦痛の警告をよく踏まえることが大事となる。いい年をした者が注意散漫ゆえに新規の仕事で痛い目にあったら、もう年なのだから慎重にならねばと反省する。その痛みの警告を無視して取り返しのつかない苦痛・損傷を被るようなことを回避できる。
損傷よりも苦痛自体が耐えがたいことになる場合は、逆に、損傷の開始に注目して、それが大きな苦痛にならないようにとすることもある。しもやけなど、手足の指の一部が膨らみ皮膚の色が変わっているのをみて、しもやけになりつつあるとその損傷をとらえて、まだ、痛くない段階でその処置をする。そのことで、その痛みの発生を阻止する。こういう場合は、損傷の(始まりの)方が苦痛回避の警告価値をもつことになる。
3-4-4-1.
苦痛の予兆・予期は、損傷の予防的価値になる
苦痛は、損傷にいだき、苦痛を感じることで、損傷に気づいて、損傷を小さくできたり、なしに済ますことも可能となる。もっと生にとって好ましいことは、損傷だけでなく、苦痛もなしで済ませられることである。ひとは、想像力がよく働き、未来のこと、これから生じそうなことを察知できる。苦痛と損傷についても、それができる。苦痛になりそうなことが予期できれば、想像力が働いてこの苦痛を思い、苦痛を思えばその感情反応も少々は生じてその苦痛に嫌悪感をもち回避反応も誘い、その予期において、この苦痛を回避し、結果、そこに生じる損傷も予防できる。苦痛の兆しで、苦痛を予期し、損傷の予防が可能になる。苦痛は、損傷への予防的な価値をもつ。
苦痛予期は、あまり意識はしないけれども、頻繁に行われていることである。その予期で苦痛を回避できるということは、その苦痛の根底に生じつつある生の損傷が回避されるということである。日々の生活は、危険なものを身近に見つつ行われる。種々の危険を回避しながら無事に過ごす。はだしで歩けば足が痛そうで、そこに想像できる苦痛を予期して、これを回避するために手間でも靴を履いて歩き、苦痛予期をもって損傷の予防が可能となる。夏は、網戸をしないと蚊に刺されて痒くてたまらなくなると予期・想像するので、ちゃんと網戸をする。網戸を夏中ずっと窓につけているので、蚊も痛みも意識することはなく、苦痛の予期も損傷への予防的価値も意識することはないけれども、少し振り返ってみると、そういう苦痛の予期をして、損傷を回避しているのである。苦痛の兆し、予兆をつかみ、苦痛を予期することで、損傷への予防的価値を実現しているということになる。
苦痛と損傷は、体験してみないと実感をもつことは難しい。蚊の不快さは、実際に刺されてかゆみを体験してみないと分からない。体験の反復がその苦痛の程度を分からせる。反復する苦痛体験が、苦痛への予期の感度を上げさせる。体験の反復で敏感に予期をもち、苦痛が発生しそうなその兆し・兆候の段階で、苦痛を早めに察知して、損傷への予防反応をより強く持てるようになる。苦痛を予期して、損傷を回避する方が多いだろうが、逆もある。苦痛(蚊のかゆみ)がなにより回避したいものの場合、損傷(蚊にさされること)になりそうなことを察知・予期し、その損傷を回避する動きをして、結果、その苦痛が回避可能となる。損傷の予期が、苦痛の予防価値となる場合もある。
3-4-5.
苦痛が生保護のあるべき方向を指し示してくれる
ふくらはぎが痛めば、そこが負傷していると分かり、その部位の治療へと気を向けることになる。かつ、それがヒリヒリでなくズキズキとした痛みとなれば、単に皮膚が傷ついているだけでなく、化膿していることが想定される。膿を出したり、化膿止めをもって傷を治していくようにと心がけることになる。かりに、そういう苦痛がないとすると、そのまま放置して、一層大きな負傷になったり、ときには致命傷となるような事態を招くことになるであろう。苦痛は、心身の損傷の情報をもたらす診断的な価値をもち、生保護への指針を示してくれる。傷の回復の度合い、順調か否か等も、痛み方の具合が知らせてくれ、痛み軽減において安心をすることもできる。痛みは、損傷を知らせるのみでなく、損傷からの回復についても、その方向を示して教えてくれる。
内臓には多くの場合痛覚がなくて痛まないので、損傷を自覚できず、重篤な病気になることが生じる。肝臓は、少々の損傷では無言であり、酒を飲み過ぎても痛むことがないので、損傷を悪化させることになる。かりに、肝臓に痛覚があって少しの損傷でも、皮膚のようにこれを痛みとして知らせることがあれば、肝硬変になって取り返しのつかないようなことにはならずに済むであろう。少し飲みすぎのアルコールにも肝臓が痛めば、酩酊の快と相談しながら、適量にと慎むことになろう。苦痛は、生保護にとって大切な情報になる。
もっとも、苦痛が知らせる情報は、かなり杜撰というか曖昧なものも多い。心臓が損傷しているのに、腕の痛むようなことがある。腰痛なども、損傷個所とはかならずしも一致しない。脊柱管狭窄症とレントゲンで損傷が分かって手術しても、痛みは治まらないことがある。内臓の病気の場合、苦痛軽減の対策に手を回している間に、真の損傷個所は放置されて手遅れになるようなことも間々生じる。痛みは、必ずしも、生保護のあるべき方向を指し示すものではない。苦痛は、損傷の大事な情報価値となるが、原始的で杜撰な情報であることも少なくない。痛みはあるが、損傷はほとんどない大袈裟な情報であったり、損傷の存在しない誤情報もある。苦痛に振り回されるだけとなれば、これは、有害情報ということにもなろう。
3-4-5-1.
苦悩は、過去を語り、未来を示唆し創造する
絶望は、精神的苦痛の代表となろうが、そのつらいことは多くが身体的苦痛以上であろう。だが、単に人を痛めつけダメージを与えるだけではない。そのことをもって、この苦悩に耐えているならば、おのずと、未来がどうあるべきかもその苦悩の中に見えて来る。苦痛・苦悩が当人のあるべき道を語ってくれる。まず、消極的に、これまでの歩みは、取ることができないということを、身をもって分からせる。かつ、積極的には、この苦痛から逃げず耐え続けるなら、その先に、その苦痛に見合う何かがなるといった予知・想像が可能になる。
絶望は、希望が絶たれて生じる。希望は、自身にとり可能な最高の未来である。これがかなわず未来が絶たれて懊悩することになる。希望がかなわなかったということは、その希望が高すぎたのかも知れない。自身の見立てが甘く、未来に向けての自身の能力を買いかぶりすぎていた可能性がある。それを絶望は教えてくれる。そうではなかったのだとすると、その希望へ向けての自身の取り組み様が悪しく、努力が不足したのである。これまでのやり方が反省される。
絶望は、未来(希望)を絶たれた深刻な状態にある。その絶望に耐ええなかった場合、自棄になったりして破滅的になりそうである。だが、その苦悩は、これに耐えて、逃げ出さなければ、絶望した未来に新規の希望の生起を可能にしていく。身体の苦痛に耐えることで、その方面の力をつけていくことができるように、絶望は、ひとを精神的に鍛える。挫折をすることで、それを知らないで順調に進んでいたときとは異なって、我慢し停滞もせねばならないことがあると知り、忍耐力、謙虚さ、大らかさ等を養うことになる。人ができてくる。あるいは、不足していた自身の能力が開発されることも、そのつらいことから逃げずに耐え続けるなかで可能になってくることであろう。やがて新たな希望の創生がなってくる。
希望が絶たれて彷徨することにおいて、自身の道がさらに別にもありうることが見えてくる。自分の過去の道は一本しか残っていないが、その未来に向けては多くの道が開けており、多様な世界の広がっていることが見えてくる。なによりも価値観が変えられてくる。受験で絶望を体験する者には、よい大学よい就職口にと進んでいたのでは見えてこない多彩な世界が顔を出し、その挫折に耐えるなら、自身の世界が広がり、価値観が豊かなものになってくることであろう。自身で気づいていなかった不遜で狭隘な自己の過去が見えてきて、自身が変わっていく。絶望は(これに耐え続ける限り)、そういう自己改造へと自身を強制もしていく。
3-4-6.
苦痛は、損傷に追い打ちをかけ二重三重の反価値をもたらす
苦痛は情報価値、警告・予防等の価値をもつが、それは、ときに行き過ぎ、効きすぎて、苦しみを二重三重にして、反価値の顕著な苦痛となることもある。価値ある苦痛は、損傷への警告や通知をするものとしてあって、病気では、それは診断的価値ということになる。だが、損傷が分かって以後も痛みは継続するし、損傷はないのに痛みが悩ませつづけることもある。そういう苦痛は、その苦痛自体が病いということになる。
治癒の可能性のない末期癌で激痛のつづくことがある。末期癌という深刻な状況にうちのめされているのに、さらに追い打ちをかけるように激痛を死ぬまで加えるのである。どうしようもないのなら、せめて、苦痛だけでも小さくして、穏やかな死を迎えるようにしたいことだが、いじめつくすかのように、激痛を付け加える。傷口に塩をぬって追い打ちをかける。さらに死の恐怖、残された家族を思っての悲嘆までを付け加えて、幾重にも苦痛の反価値をもたらす。激痛の上位を争うという腎臓結石の降りるときも、途方もなく痛むという。痛むことが、石の降りるときに有益なのであれば我慢のし甲斐もあるが、むやみに苦痛を付け加えるだけのようである。精神的苦痛も、絶望など、単に希望を絶たつというだけにはとどめず、徹底していためつけ、その耐えがたい苦悩・苦痛はひとを死にさえ追い込む。苦痛さえなければ、どんなにか楽なことであろう。
損傷だけで十分に傷めつけられて難儀なことを背負ったのである。生に深刻な損傷は、普通はそれだけで十分に分かることで、苦痛にその損傷を教えてもらわなくてもいい。損傷にうんざりしているのに、苦痛は、これに輪をかけて、嫌悪や焦燥や煩悶をもって身を疲労困憊の状態にする。時には、もう傷は完全に癒えていて災難にあった不幸を忘れているのに、これを思い出させるように、古い傷口が無用な痛みをもつこともある。苦痛は、傷口に塩をぬって二重三重にひとを苦しめる途方もない反価値だと言いたくなる。
3-4-6-1.苦痛がいつまでも続くことには納得できない
単に損傷のみであれば、これに冷静に対応してその損傷の拡大を阻止し、その修復を淡々と進めることである。だが、これに苦痛が伴う場合、損傷への気づきは早くなるが、緊張・萎縮させ焦燥させ無駄に悶えさせて、ひとを疲労困憊の状態にする。ときに、苦痛は、損傷の回復に気を廻す余裕を奪い、損傷を一層深刻なものにしかねない厄介な存在となる。
快不快の自然において、快は、これを享受しつづけたいが、享受できるのは、ほんの瞬時になる。しかし、快が瞬時に終わるのは、残念だけれども理にあっており、この自然にひとも納得する。苦労の末に成果を出したその褒美が快である。それが最後に出されるのも、瞬時に終わるのも、やむをえないことである。ことのはじめとか途中で快を出したら、そこにとどまり、先には進まないであろうから最後に出すのは、理にあっている。かつ、瞬時に終わるのも、そうしないと、その快にのめり込み、いつまでも、そこから抜け出すことをしなくなって、麻薬中毒にあるように、その快の奴隷となって生は停滞する。快が早々に消えるのも正解である。
だが、苦痛・不快の方は、問題がある。それがことのはじめに出ることは、そこから先へと駆り立てるということでは、正解である。むちは、はじめから使って、手段となる途中でも使い、目的となるところへと駆り立てる。苦痛のむちがはじめからあり、最後になるまで、あり続けるのは、やむを得ないが合理的である。だが、ことが終わってもいつまでも苦痛の居座ることには納得できない。末期癌の場合、激痛をつくりだす。ことが終わりかかって、はやくくたばれとばかりに、むち打ち痛めつける。ひとの苦しみを楽しむ愉快犯のような仕打ちである。絶望なども、もう十分、痛い目にあって反省し、やり直そうと思うのを、これを拒むかのように、むち打ちつづけ奈落の底へとひとを追い込んでいく。絶望や不安という苦痛・不快感情は、大きくなれば、ひとを徹底的に叩き潰し、その苦悩に耐えがたくさせて、生を絶つことへと向けさえする。苦痛感情としての絶望・不安に苛まれ続けることがなければ、再度の挑戦の試みもスムースになるであろうに、絶望感・不安感がこれを阻止して、死を覚悟させたりする。損傷よりもそれへの苦痛の方が、ことを荒だて悲劇的な方向へと落とし込んでいく元凶になりかねない。慈悲の神仏は存在せず、悪魔・邪神なら居ると思わせるような残酷な仕打ちを続ける。苦痛は、ここでは、反価値の塊でしかない。
3-4-6-2.
余計な苦痛がなければ、もっと楽天的になれよう
損傷を知らせてくれる情報として、あるいは、生の防護・予防の価値としては、苦痛は、大いに価値となるが、うちのめし煩悶させ疲労困憊の状態にする苦痛は、ない方がましであろう。末期癌の痛みなどは、末期ならもう痛み情報など余計なことである。静かに最期を迎えたいことであろう。現に、そういうときには、激痛を余計とみなして、医療でも麻薬をつかう。苦痛は、ここでは、生を保護する価値などではなく、それ自体が疾病として生を破壊する悪魔的な反価値ということになる。
不安など、ひとによっては、長い人生の過半を占めることもある。いためつけるために生かされているような気になる。人生は、牢獄だ、墓場だということになる。苦痛は、役に立たないどころか、生を傷めつけ疲弊させ自殺にまで追い込むような悪魔の感情だといいたくなろう。この世に創造主がいるとすると、よほどいじわるで、ひとの苦しみを楽しんでいるのだろうとすら思いたくもなる。旧約聖書の神は、欠陥品をつくってはこれを破壊し、やり直しをしているが、意味のない過剰な苦痛を生体にし込んでいるのも、そのひとつだといいたくなろう。いまも貧困・病苦に人生を送る者は多い。単に一つのことを苦労させるだけでは済ませず、次から次へとさんざんに苦痛で痛めつける。残忍な独裁者のなかには、苦痛にのたうつ者を見て楽しんだものがいるが、創造主(自然)は、そんな残酷な者も驚くほどの悲惨をこの世にまき散らしつづけている。
その苦痛がなければ、この世は、楽になる。仏教は、この世を「苦界」ととらえ、その苦がなくなったのを「極楽」とする。苦痛がなければ、それだけで、安楽な世界となる。損傷があっても、苦痛・苦悩がなければ、淡々とその損傷に向かい合えることで、安楽であろう。幸福論者の多くが、不幸がなければ、それだけで十分に幸福なのだという。不幸のない無の状態は、穏やかであり、すがすがしいことである。その上に、積極的な快楽となるようなものがなくても一向に差し支えない。快楽は、瞬時に終わることだし、ひとをまどろませ停滞させるだけであれば、なしで結構である。それより、苦痛さえなければ、この生は、どんなにか爽やかで穏やかであろうかと想像される。
3-4-6-3.
動物は苦痛を持続させないとかいう
犬などの動物は、大けがをしてもそんなに長く痛む様子ではないという。苦痛は、損傷を軽視せず適切に処置すれば、それで役割を終わる。痛みは、その間つづけばいいことで、それ以上に長く痛むのは、その生を余計に苦しめてダメージを大きくするだけである。ひとによくみられる傷口に塩をすりこむような苦痛の在り方は、動物ではしてないのかも知れない。
ひとは、無駄に長々と苦痛を感じさせられる。創造主は、ひとには、過酷なのであろうか。それとも、もっと長く損傷対策をとれというのであろうか。動物には、損傷があってもその損傷に気づいても、それ以上になにかできるわけではない。ということで無駄に苦しめないように苦痛も早々に終わりにするのであろう。ひとでも内臓は、痛んでもどうできることでもなかったからであろうか、痛覚を原則的にもっていない。だが、皮膚などは、ひとならば、苦痛が続けば対処をそれなりに続けて行うので、苦痛を持続させるのは、意味がある。犬ならどうしようもないからであろう、痛まないか、適当に気づかせてあとは痛みはなくなっているように見える。自然は、あまり無意味なことはしないのであろう。ひとのばあい、歯痛でも何日も痛む。その痛みを早々になくしたら、おそらく虫歯の治療はしないことになる。長くいつまでも持続するので、痛みに根負けして、最後は、自分で抜歯もするし、昨今なら歯の治療にと歯医者の門をくぐることになる。苦痛があればこそ、である。
もっとも、ひとでも、大きな損傷が生じている場面では、意外に激痛は感じていないのかも知れない。ライオンに襲われた人が回顧していたものに、かまれるまでは、恐怖で耐えがたかったが、かまれ始めたらもうなんともなく、苦痛ではなかったと書いていた。私の何回かの事故体験でも、痛みはあまり記憶に残っていない。最近、熊に食べられて死んだ若い女性が、携帯で母親に、いま熊に食べられていると電話して、はじめは痛いと言っていたけれども、しだいに、かじられているのはわかるが、もう痛みなどないと言っていたようである。ひとは、文明の過保護状態にあるときは痛みを気にすることで、これを持続させるが、荒っぽい自然状態においては、そんなに苦痛は持続しないものなのかもしれない。気にする余裕のない場合、大事故に遭遇したときなど、動物と同じように、ひとでも痛み自体はあまり問題にならないように思われる。
3-5. 褒美としての快、懲罰としての苦痛
苦痛は、損傷だけで十分なのに、さらに輪をかけて痛めつけて、二重にひとを困らせる厄介なものだと言いたくなることがある。だが、それは、やむを得ないことと見るべきでもあろう。快は、褒美・飴であるが、苦痛は、反対で、多かれ少なかれ、懲罰・鞭である。苦痛は、失敗や悪事への報いであれば、そういうことを繰り返さないようにと、いやな苦痛をもってしっかり懲らしめることであろう。快は、よいことをしたという褒美で、その褒美がもっと欲しければもっと良いことをすればよいと勧める。逆に、懲罰では、苦痛を与えて懲らしめる。二度と同じ過ちを繰り返さないようにと戒めるには、二度と味わいたくないような耐え難く大きく長い苦痛を加えるのが一番である。
苦痛は、傷に塩をぬるものといいたくなることがあるが、そうは言っても、苦痛がないと、注意を怠り、損傷を繰り返し、一層、損傷が大きくなるのも確かである。痛い目に合わないと、なかなか注意を持続はさせないだろうし、ほかに引かれるものがあれば、損傷など気にせず、突き進むことにもなろう。虫歯という歯の損傷があっても、それが苦痛でなければ、放置するであろう。苦痛があって、苦痛を回避・排除したいということがあるから、歯医者にいくのである。もし、ひと自身が苦痛や快を塩梅する造物主にでもなったら、おそらく、おなじように苦痛で懲らしめ戒めることをするのではないか。苦痛の効きすぎることが、ときに弊害になるとしても、二度と同じ誤り・過ちを繰り返さないようにするには、大きく長い苦痛をもってしっかりと戒めることであろう。大きな苦痛を感じたものほど、過ちを繰り返すことが少なく、生存競争の勝者となりえたのではないか。
人同士で、褒美を与え、懲罰を加えるとき、褒美では、快で価値あるものを与える。快が何になるかは、ひと毎に異なるから、快になるものが何かを見極めてする。懲罰は、反価値を与え、価値を奪うことでなされるが、とくに刑罰になると、それを加えられる者にまちがいなくマイナス・反価値と受け取れるものになることが必要で、苦痛をもってすることが多くなる。罰金などは金持ちには、懲罰としての効き目はあまりない。ほぼ万人に同じように懲罰としての効き目があるものということになると、なんといっても苦痛である。
3-5-1.
苦痛でもって反省してもらう
生が損傷を受けて、苦痛がないとしたら、ひとは気楽に構えるであろう。苦痛の、嫌悪・拒絶の反応とか、抑鬱や焦燥とか悶え、疲労困憊といった、うんざりすることがないと、損傷を気にすることは少なくなろう。痛覚のないひとがまれにあるが、このひとは、しばしば身体に損傷を受けてしまうという。苦痛があるから、気づく。損傷があっても苦痛という不愉快なものがないなら、あまり損傷に注意しなくなる。肝臓などには痛覚がないから、相当にひどい損傷をうけていても、みんな平気で飲酒し続けて、肝硬変になって大慌てする。初期から苦痛があれば節酒していたのにと残念がる。
事業でも、失敗し損害をうけても、それをその事実を知るだけに終わって気にしなければ、おそらく、また同じ失敗を繰り返す。その失敗を厳しく罰して痛めつけ、この苦痛がこたえておれば、同じような事態が出来したとき、苦痛が思い出されて、細心の注意をして、苦痛を受けることのないようにと努力することになる。苦痛体験は、同じ失敗・損害を少なくする。
悪いことをして社会に損害を発生させたら、これを償わせる。だが、その損害に見合うものを償うだけでは終わらさない。罪を背負わせ、苦痛等の刑罰を受けさせる。ひとのお金を盗んで、発覚したら、その額を返すというだけであれば、おそらく、盗みを促進させるようなことになる。それで済むのであれば、盗む者には何の損害もない。見つかったのがよくないとなるだけであろう。盗み自体を罰することがいる。盗まれることで生じる諸種の対応・不愉快さに対するお返しをしないと被害者たちは気が済まない。さらに、厳しく苦痛を与えて懲らしめ、窃盗犯に、こういう苦痛には二度と遭いたくないと思わせる必要がある。軽いと、見つかっても、「少し苦痛を我慢すれば済むことだ」となって、その犯罪は繰り返されやすくなる。耐え難い苦痛を与えることである。
損傷を単に処理するというだけでは、その後の損傷阻止への心がけは保たれないであろう。そこに、二度と体験したくないような苦痛が与えられることで、二度と損傷を受けるようなヘマはしないぞと心掛けることになる。損傷ではなく、苦痛を二度と味わいたくないという思いが損傷をも阻止する。損傷のうえに苦痛までとの二重の受難は、損傷反復の阻止とか、懲罰としては、もっともなことであり、納得できよう。軽すぎるムチ、短い苦痛は効かない。苦痛は、強く長い方が効き目がある。懲罰、戒めとしては、苦痛がしっかり効くようにすることが肝要である。後日のことを考えて、できれば損傷なしで傷跡を残さず、苦痛だけをしっかりと与えることである。強く苦痛を感じて、その戒めを身に染みて受け止めれば、次は、その苦痛を二度と味わいたくないと、誤り・過ちを引き起こさないように注意するであろう。過酷な苦痛は、こういう場合は、生保護の価値となる。
3-5-2.
「何の因果でこんな苦痛を」と嘆く
心身の損傷について、あまりにもそこに生じる苦痛が大きすぎると、この苦痛自体に不平をいいたくなる。損傷・苦痛は、自分の責任でそうなったのではない場合も多かろう。だいたい、損傷を自らが被ろうとすることはまれで、苦痛がなくても、注意していることである。それでも生じる損傷は、不運なのである。その不運のうえに苦痛をという場合、戒めにはならない。傷に塩をぬるようなものだといいたくなる。「何の因果で」とその痛みに恨みをもちたくなる。なにも悪いことをしていないのに、罰の苦痛を受けるという感覚である。いうなら、その苦痛は、冤罪である。罪は犯していないのに、罰としての苦痛を味わうのである。事故や病気で苦痛を味わうことを強いられた者は、「何で自分だけがこんな目に遭わなくてはならないんだ!」と、持って行きようのない不満を漏らすことになる。
ときには、長々と続く苦痛のもとでは、それでも自分に非があったのかもと反省もする。冤罪のはずだけれども、長時間の拷問(苦痛)で、ありもしないことを自白するような心境になって、自分にも非があるのだろう、生きてきたうちでは、罪になることをしたのかも、と振り返る。不摂生で不健康なことを、無理をさんざんしたから、身体を酷使し、内臓も負担に耐え切れず、病いを得たのだろう、自分の不摂生が悪かった等と思う。それはそれで、反省を誘うこと自体は、悪くはない。だが、大抵は、皆がしている不摂生である。自分だけが罪を負わされることではないはずなのだが、みんなの代表として苦痛を甘受するのだと、犠牲の子羊、神の子羊の気分になることもあろう。
「親の因果が子に報い」というようなことを思う古い世代があった。因果応報は、因果関係をいうものとしては、いまも受け入れられる考え方であるが、「親の因果」は、いまは、新興宗教にはまっている者以外では、本気で思うことはなかろう。しかし、古くはそれが通っていた。親子は一体的で、自立精神の希薄な時代では、先祖の善悪は自分のものでもあった。徳川の三百年を、恵まれた無為徒食の武士の子孫としてのうのうと暮らせたのは、命を懸けて戦った先祖のおかげであった。当時は刑罰からして、家族一人の犯したものであっても、一族郎党に適用された。五人組だなんだといって、近所のものまでも責任を負わされた。いまでも、家族の一人の犯罪で、家族全員がひどい目(報復・制裁)にあうのはまれではない。血のつながるものの一体性の意識のもとでは、親の犯した罪を自分の苦痛で返すという因果応報は、その苦痛を耐える気力を保たせたことであろう。武士として江戸時代を安楽に暮らせたのは、初代が多くの敵を殺した手柄、そのお陰だった。その殺人の罪を自分が負って苦痛に耐えることは、その先祖の霊を救うことでもあるのだ、その恩を返すことがこの苦痛に耐えることで可能になる、といった発想だったのであろう。その苦痛において、自分と祖先との一体性を実感して、精神的に穏やかになれた。現代は、圧倒的に個人主義が支配しているので、こういう先祖の因果というようなことは思わない。したがって、自分だけが、責任のないことで苦痛に見舞われるのは納得できないと、ごく全うな発想になっている。
3-5-3.
不快(苦痛)をもたらすものに、苦痛で報いる
ひとの交わりでは、等価交換を原則にする。人同士が同等であることを踏まえて、あるいは同等と望んでの振る舞いである。快・善が与えられれば、これには、同じく、快・善でもって応える。苦痛・悪が与えられたのなら、同じく苦痛・悪で応えようとする。「目には目を」の、善をも含めての同じもので報いようという報復律である。悪・苦痛を与えられた者は、とくに、そのお返しをしなくては済まないという気になる。マイナスを与えられたのだから、マイナスのお返しを、報復をということである。
美醜や貧富は、自分で制御できるところは、かなり小さいであろうが、それらが、交わる者に快不快の感情をもたらすことは少なくない。美人や富者は、快をもたらし、したがって快で応えることになりやすい。問題は、逆の醜人とか貧者が、不快・苦痛で対処される結果になることである。蛇は穏やかにひっそりと生きているのに、ひとに不快感・苦痛を与えるということで、ひとは、そのお返しをしなくてはならないと、棒でたたき石をぶつけて苦痛を与える。唾棄される蛇に相当する醜・貧は、周囲に不快感を抱かせがちになれば、不快に思った者たちが同じ不快で応えるのは、自然的反応ではあろう。だが、不快で応えられ差別される醜男・醜女、貧者は、それらは自分の責任ではないから、その差別等を不当なこと、理不尽なことと憤りをもつ。最近は、表向きでは、美醜、貧富でもって差別扱いすることは抑止されているが、それでも、内実は、美・富をもつものを優遇し快等の価値を与え、醜・貧側には、苦痛を与えるようなことが相変わらずある。
善に快の褒美、悪に苦痛の罰を与えることは、善悪の担い手自身にも納得のいくことである。苦痛の罰を与えられた者は、自身のいたらなかったこと、劣・悪を、苦痛をもって反省し、報いと自覚し、善を行うように改めねばと思うことである。だが、美醜・貧富は、そうではない。自身の意思をもって醜くなったり貧困に陥ったのではない。自身、いやなのに拒むことができず、そうされているのである。醜・貧が周囲に不快感を与えたとしても、これを自身の責任とすることはできない。醜く鈍に生まれたがゆえに、友達や親兄弟から差別扱いされ、いじめられるようなことは、今は少なくなったであろうが、つい最近まで普通にされていたことである。その当人は、自分でそうしたのではないから、何ともやりきれないことになる。にもかかわらず、あたかも責任のある罪かのように不当に苦痛をもって処されるのである。それに泣き寝入りする者は、前世に自分が悪いことをしたからだろうと、(責任を引き受けて)納得してしまうこともある。だが、真実は、だれも自身が醜く貧しくなろうと意思したことではなく、何の責任もないことであり、それに苦痛をもって処されるのは、傷口に塩をすり込むことに等しい。貧・醜の者は、いうなら傷を負って苦しんでいるのに、周囲がさらに、就職とか恋愛・結婚等で、万人平等の表向きとはちがい、差別し心に苦痛を与える。この苦痛は、受け入れがたいものである。その苦痛は、人を幾重にも苦しめるだけの、不当・理不尽な疎ましい反価値である。
3-5-3-1. 不愉快なものには、苦痛・反価値を与えたくなる
醜い貧しい者は、苦痛の反価値をもって対処されることが多い。蛇は、不快でひとに苦痛をあたえる姿なので、見つけたら、これに石を投げつけて痛めつけ、殺そうとまでするが、醜・貧は、蛇に相当し、不愉快で苦痛を与えるものとなり、美・富は、パンダ相当で快となる。醜く貧しい者は、蛇やゴキブリのように唾棄され、不快、苦痛を与えるものとして、反価値(苦痛)をもって処される。何か選抜の事柄があると、醜・貧の者を避けて排除し、これに苦痛を与えるが、醜・貧の当人は、自分が攻撃され否定されるのは納得できない。醜・貧は不快感を与えるとしても、自身にその相手のいだく不愉快の醜・貧の責任があるのではないからである。というより、醜・貧の者は、嫌なのにそうなっているのであり、自然(造物主)に由来する被害者なのである。周囲の者は、被害者の傷に苦痛の塩を塗り込むようなことはやめて、醜・貧への嫌悪・攻撃は造物主にすべきで、それならば、自分も大いに加担せねばならないと醜・貧の者も賛同することであろう。配偶者に選ぶのは、醜・貧の者か、美・富の者かというと、自然的感情にしたがう者は、醜・貧を排して美・富をとる(もちろん、美は、結婚までのこと、以後は他人に美となるだけで災いを呼び、富は、当人を怠けものにしているから、未来を見る賢い男女は、結婚でこれらを優先することはない)。醜・貧の者は、失恋という大きな痛手を何回も受け入れさせられる。
多くのひとは、蛇を嫌悪する。これに恐怖(不快・苦痛)感情を抱かされるので、この苦痛を与える動物には、苦痛をもってお返しをしたいと痛めつけ、殺そうとすら思う。蛇は、ひっそりと、平和の鳩どころではなく穏和に生きていて平和の象徴にしてもいいぐらいだろうに(WHOとか救急車に蛇マークをつけることがある。医薬の神アスクレピオスの杖の蛇ということのようである。その杖に横棒を足せば十字架のイエスになる。十字架の横棒を外し打擲の棍棒にしてアダムとイヴの末裔たちは、蛇を痛め付ける。あの、杖にしがみついた蛇は、受難の蛇と見てもいいのではないか)、その容姿が嫌悪感(苦痛)を生じさせるので、唾棄して、見つけ次第、これに苦痛を与え、挙句の果ては殺処分するというのが楽園追放以後の人類史であった(子供が犬をいじめていたらやめなさいという先生も、蛇の場合、石をぶつけている子供の石をとりあげて、自分が投げつけて殺す。もっとも最近は、生命の尊厳をいう新時代になっているので、おそらく、そこまでのことはしないのではという気もする)。パンダが、見かけの愛らしさ故に、ちやほやされるのとえらい違いである。ゴキブリなどは、蚊と違い人には無害であろうに、いまでも、見つけ次第これを叩き潰しにかかる。殺熊猫剤など語るだけで大事になろうに、平然とそれ用の殺虫剤まで市販している。不快感を与える存在ということであり、その不快(苦痛)に、不快(苦痛)を与えて応える。醜・貧・愚・狂の者(ちなみに、私は、このすべてのタイトルの保持者である)を排除し差別する方は、そのつもりではないことも多かろうが、受け取る方は敏感であり、少しの差別も、あるいは、差別意識なしであっても、ちょっとした区別のつもりでも差別と受け取り、傷に塩を塗り込まれる大きな苦痛となる。
3-5-4.
苦しむ者には、さらなる苦しみを
難病で苦しむものは、それだけでは済まないことが多い。その病気をはじめとして一層多くの苦難が待ち構えている。逆に、心身に恵まれている者は、それだけではなく、その上に、社会的に恵まれた活躍の場を得て、種々の恵みが与えられていく。例外も多いが、貧困に生まれたものは、死ぬまで貧困で、これを重ねていき、富者のうちに生まれたものは、恵まれた育ち方をし、一層の富者となって死ぬまで豊かに暮らすことである。
恵まれた者がいよいよ恵みを多く享受していくことは、それから外されている者にも、それで害を受けるのでなければ、自分には運がなかったのだとあきらめがつく。あるいは、それが身近なひとであれば、ともに喜ぶこともできる。だが、恵まれていないこと、不運に苦難を甘受させられることには抗議したくなろう。自分に責任のあるものなら、やむを得ないこととして、我慢もする。だが、そうでないこと、例えば、美醜とか賢愚で、醜・愚をもって生まれた者には、それから種々の苦しみが一生付け加えられていくが、何の責任もないことである。これには納得できず、造物主に抗議したくなる。悪魔はいるとしても、慈悲の神など存在しないことを、何かあるたびに、苦痛が思い知らせてくれる。
苦痛は、傷口に塩をぬって二重三重にひとを苦しめるもので、とんでもない反価値だということが生じるが、人生では、苦しみについて、重ねて塩をすり込むようなことが結構ある。次から次へと苦難が付け加えられていく。ただし、その不運続きに、それが自然・人生なのだと納得する人もいる。「憂きことの、なおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」(熊沢蕃山?)と居直り、チャレンジ精神を奮い起こす。恵まれているかどうかということ自体は一つの解釈であり、どんなに周囲からは苦難と見えていても当人はそうは思わず、それを自然と見たり、神与のありがたい試練ととらえることもある。苦しみは、これが続くと慣れてしまい、それが平常となって、苦と感じなくなることも多い。宗教にはまって、周囲の悲嘆をよそに、悲惨なはずの当人が至福にひたっているというようなこともまれではない。
野生の動物など、生まれてから翌年まで生き残れるのは、わずかである。魚の卵とか稚魚など、ほぼすべてと言っても過言ではない数が、他の生き物のえさになって果てる。天候しだいで飢え死にしたり、獲物になって生を終わることもごくありふれた自然の営みである。ひとでも、最近まで、長く生きられるのは特殊で、七五三のお祝いはよくぞその年まで生きてくれたということであった。早世するのが普通であった。生存競争では、とくに戦争ともなれば、古くは、命を奪われることが普通で、奴隷として生き残れるのはラッキーだった。それらを、不運だ不幸だ苦痛だということで悲嘆するのは、それこそ特別に恵まれた王家の者ぐらいだったであろう(王も、不作、災い続きなら、責任をとらされ殺害されていた)。恵まれたものはいたが、ごくごくまれで、それ以外は、いまから見れば圧倒的に恵みの少ない人生だったということになる。が、その当時は、それが世の一般的状況であり、人は適応能力に富むから、それに慣れてこれを平常と見なし、不運とも不幸とも感じていなかったことが多かろう。
3-5-5.
惨めさや痛みは、主観的で変えることができる
現代から見ると過去の世界は、貧富・身分等の差が大きく、劣等に置かれた者の惨めさは耐え難いものに見える。生来の素質にしても、美醜等の扱いでの差別は、露骨であった。だが、そこで差別される者たちは、意外に平穏に過ごしていたように思われる。現代からいうと、到底我慢できないような差別を当然として、これを平然と受け流していた。差別とか優劣は、まずは、これを比較することの可能な場をもたねばならないが、その場がなく無関係にと放置できれば、劣等とか醜貧の意識は意外にもたないで、したがって、惨めな思いも持たずに済んだ。現代は、情報過多で、アメリカのお金持ちの贅沢な私生活も、世界の僻地といわれるようなところでの飢餓線上にあるような生活も手に取るようにわかることである。生活は、プライバシー保護を言わねばならないほどに白日の下に晒され、比較は、天から地までのものがなされうるから、下位にあるものは、下位をしっかりと自覚させられて、下位ということを意識すれば、惨めさを感じさせられることである。
たとえ貧苦にある自分と富者・恵まれた者との関係が敵対的というのでなく、友好関係にあったり家族・親戚の者だとすると、自分もその恵まれているものたちの一員に近いものと感じて、惨めさとは反対の、恵みを感じるのではないか。貧困の親が、わが子や孫の社会的成功を快としても、不快に思うことはない。社会生活では、家族は一体的で、もう一人の自分扱いだが、その外の者については、現在は個人主義が支配的だから、他者が恵まれていても自分が恵まれてない場合、優劣を敵対的な関係のもとに感じて、惨めさを感じるであろう。だが、個人主義的でない社会では、底辺の者でも、頂点に生活する者の在り様を見聞きした場合、嫉妬などすることなく、無縁の別世界と見るか、自分の家族のそれに抱くように、喜びを共有できていたことでもあろう。極貧の少女は、王家のお姫様の不幸の話に涙し、そのハッピーエンディングに喜びを感じえた。敵対・個人主義の下では、相手の価値は自分には無価値・反価値だが、味方・同類といった見方においては、いまでも家族の喜びは自分の喜びであるように、喜びとしえたのではないか。
惨めとか貧困とか醜さ等は、かなり主観的評価であって、その価値評価は簡単に変えることができる。美醜とか貧富などの価値観自体をどうでもいい些事とみなせるなら、そこでの劣等などに自身を卑下することも、悲観的な感情をもつこともなくなる。個人主義の社会でも、共に暮らす家族の喜び・悲しみは、自身のそれにすることが可能である。祖先にまで自己同一化するなら、祖先の因果を身に引き受けて、「親の因果が子に報い」を穏やかに受け入れることができるようにもなろう。自身が醜・貧等にあって苦痛であるとしても、美・富と無関係と諦念するか、個を自覚することなく美・富の保持者に一体感を抱けるなら、それから疎外されているとは感じず、苦痛でもなくなる。生理的苦痛は簡単ではなかろうが、社会的精神的苦痛なら、よいことかどうかは分からないが、簡単に「火もまた涼し」という転倒した心境になりうる。
3-5-6.
苦痛を、過去の報いとし、未来への投資ともする
ひとは、苦痛を無視できない。それの持つ意味を考えてしまう。どんなものも存在理由をもち、どんな偶然でも因果法則に縛られていることで、苦痛もそれを逃れることはできない。苦痛は、何らかの結果であり、したがって、その原因を思うことになる。そして、未来に向けて、いまの苦痛が原因になって、未来にそれに見合う結果が生じるはずだとも考える。
苦痛は大きなマイナス、反価値であり、到底無視することのできないような、自身のもとで生じた事件である。それを過去方向に因果で見るときには、その生じている耐え難い苦痛の反価値に見合うことを、自身あるいは自身の関係ある何かが作ったと穿鑿していく。原因を探しだして、いまの苦痛に納得しようとする。おそらく多くは偶然に生じたことであるが、偶然にしてもその原因は多々あるはずで、その原因を深刻に探索しようとする。自身の過去に何か後ろめたいものを思いつくと、それにしたがって、今の自分はその過去の償いをして、その罰を受けねばならないのだと納得する。そこで親の因果が子に報いというようなことを言われて、これに納得する者も出てくる。自分の苦悩が先祖の罪を背負うことになっているのなら、先祖のためにこの苦しみをより大きなものにしてでも受けて、先祖の魂の救済をして行こうという気になったりもする。それで先祖と一体的になれて安堵することも可能になる。
未来方向に苦痛を受け止めることもある。苦痛で落ち込んでおれば、その先を悲観的に想像することになるが、逆に、この苦難に耐えるなら、自分が大きく成長すると、楽天的に思うこともある。さらには、神や社会が自身に試練を与えているのだ、自分は選らばれているのだと考えれば、その現在の苦痛は未来の巨大な価値に転換されるものとして大いに耐え甲斐のあるものとなる。未来に得られる価値を大きいものにしたいと思えば、現在の苦痛をより大きくより長く耐えていこうという気にもなりうるであろう。それがしっかりした目的の確実な手段としての苦痛なら、万人がこれに忍耐する。そうでなく、漠然とした未来の結果を描くことでも、多くの宗教にみられるようにその結果は来世にあると信じうるならば死ぬまで、種々の苦痛を未来・来世の価値へと読み替えてこれを積極的に受け入れていくこともできる。
3-5-7.
自責の念は、苦痛で慰められる
損傷・苦痛をひとに与えてしまい、その責任を深刻に受け止めることがある。責任を果たすには、自身がその損害・苦痛をできるかぎり償うようにすることであるが、それでも、なお、その過失への後悔の念に苦しむ者は、単に償うだけではなく、厳しく自身を罰しなくては自らを許せず、自身を痛めつけて、与えた苦痛の何倍もの苦痛を甘受しなくては落ち着けないというような場合がある。
報復律にしたがって同じ損傷で報いて一応の相互の納得はいくことであろう。「歯には歯を」にしたがい、同じ損傷、補償をもって体裁は整う。だが、真にその損傷・苦痛に責任を感じている者は、それでは気が済まず、相手が自分の過失で苦痛を抱いたであろう、そのあらゆる苦痛をしっかりと感じようとすることであろう。敵対している者とか無縁の者への損傷・苦痛であった場合は、報復律で済ませられることが多かろうが、自身の過失で、味方、有縁の者に損傷・苦痛を与えた場合、後悔してもしきれず、与えた苦痛の何倍もの苦痛を自身に加えるのでないと、気が済まないこととなる。損壊という愚かしい行為へのお詫びは、同じものを弁償すれば一応片付くことではあるが、与えた主観的な苦痛は、そうはいかない。犯したことへの償いの苦痛は、自身で測る以外ないが、自身の気が済むようにするには、なるべく大きく、耐え難い苦痛をもってしなくては収まらないであろう。苦痛で自身をいためつけることが大きいほど、こころは慰められることになる。
傷に塩をぬりこんで苦痛を幾重にも加えることは、一般的には唾棄されることで、苦痛は悪魔的な反価値となるが、損傷・苦痛を過失で与えてしまった場合、そしてそのことを取り返しのつかないことをしたと、悔やんでも悔やみきれない思いを抱いている場合、自身がその何倍もの損傷・苦痛を被るのでないと、心は落ち着かない。ここでは、二重三重の苦痛の在り方を自身が求めることになる。いじめられた者は、一生その苦痛を忘れないという。いじめを猛省する者は、それを想像して一生自身苦しまねばならないと思う。死亡事故の責任を感じる者は、残された家族が一生悲しみ苦しみを味わうのだと思うと、どんな償いをしても、どんな苦痛をもってしても償いきれないと悔み続ける。傷に塩をぬりこむような苦痛が、むしろ、自身を慰めることになる。
3-6. 覚醒価値-苦痛は、覚醒の働きをする
苦痛は、ひとに嫌悪、焦燥、抑うつなどの不快をもたらす反価値感情であるが、同時に、損傷を気づかせるものとしては、大切な情報価値となる。さらに、反価値の代表であろう苦痛が、別の価値をもつこともある。そのひとつが、覚醒をもたらす刺激として、覚醒価値とでもいう面を有していることである。
苦痛は、快が微睡ませるのと逆で、受傷で危機的状態になっていることを知らせ、無視・放置しがたいものとして人の意識を奮い起こす。意識を覚醒させる。覚醒を求める場合、意識を刺激して活動的にするためにと、苦痛を与えることがある。睡眠からの覚醒には、目覚まし時計を鳴らすが、心地よいものなら安楽に眠りを延長させることであろう。不快・苦痛をもたらすような刺激が覚醒を導く。目覚まし時計は、不快な音を出して放置できない刺激を与え、この音を止めねばと意識を現実へと引き戻す。
驚きも人を覚醒する。これは、思いがけないものに目を見張りこれを凝視して、その情報をとりこもうとする感情で、かならずしも苦痛に関わらない。好ましい新奇なものが出てきて凝視する驚喜は、快感情である。驚きの感情の表情は、目を丸く見開いたものになろう。これは、眠りから覚める状態ではとらない。とれない。眠りから覚めるときは、まず、しかめ面をして目蓋を少しずつ開いていく。そうして意識を取り戻して、新奇の驚くべきものがあれば、目をもっと見開いて驚くのである。目覚めには、外からの無視できない苦痛等の刺激で意識を取り戻し、おろした目蓋を開くことがなくてはならない。眠りでは目は蓋を閉じていてそとからの刺激を受け付けない状態なので、まずは、蓋をもたず外界と常時連絡のとれる耳、音に頼るのが普通である。耳は眠っているときも、外からの音を受け入れる身体的な構造になっている。古い時代の戦いでは、みんなの眠る夜中、不寝番は、拍子木を打ったり、弓の弦を鳴らして(魔よけの鳴弦、つるうち)安心させていたようである。その眠っている者の耳に、安心せよとの心地よい音ではなく、不快な起床の呼びかけの刺激を、意識を呼び起こすようなほどほどの苦痛刺激を与えるのが目覚まし時計であろう。
ひとを起こそうと行動する場合は、痛みを引き起こすぐらいに叩くとか、つねる等の振る舞いをすることもある。やさしく抱いたり、リズムをとってソフトに触れるのは、安らかに眠れというときである。眠気を醒ますには、逆に、冷水をあびるとか、打つとか刺すとか適度に痛覚を刺激して痛みを加える。苦痛は、生に危機を知らせる感覚であり、意識の即時的な対応を求めて、覚醒にと人を導く。
3-6-1.
覚醒剤は、覚醒して頭を冴えさせるというが、苦痛もそうか
戦前戦後、作家などにも流行ったヒロポン(覚醒剤)は、覚醒して眠気を吹き飛ばすのみでなく、万能感をいだかせ、冴えた状態になったという。苦痛での覚醒でも、冴えた頭の状態をもたらすことがあるかも知れない。心身の苦痛が感覚を過敏にすることはよくある。生は、その苦痛・損傷に火急の全力の対応をする必要があるから、もてる自身の能力を最大にしようとする。そこでは、その損傷対応のみでなく、生の全般を冴えた状態にすることもありそうである。
長らく苦痛を味わうことになる病いにおいて、ときに人の異常な能力を見せることがあるといわれる。苦痛を抱く場合、心身は危機的な反応をすることになり、その反応は損傷に対応するだけではなく、生全般について異常に意識を高ぶらせるものともなりそうである。損傷についての意識にとどまらず、意識自体を異常に集中させ高ぶらせ、その異常に、意識は常人には見えないものを見出す。精神的な病いになったひとが突然、すばらしい芸術を創造しだし、病気が治ったら凡人に帰ったといった話をときに耳にする。画家が、狂気の状態で苦しんでいる間、才能を発揮したが、病気が治ったら凡人になって駄作しか描けなくなったというのである。歌人で医者であった斎藤茂吉が、正岡子規あたりを念頭においてだったと思うが、病気がすぐれた詩を可能にしていて、病気が治ったら凡人になるだろうというようなことを書いていた。子規は、長く病いに苦しめられた。結核で10年あまり苦しみ続け34歳で亡くなった。その病いの苦痛が優れた詩作の源になったのであろうか。苦痛による覚醒は、単に眠りから覚ますだけではなく、場合によっては、意識全般を覚醒してその高揚をもたらすことがあるといってよいのかも知れない。
鬼のもつ「打ち出の小づち」は、人や物を殴打する道具であろうが、価値あるものを打ち出した。ほかに鬼の宝物として「杖」「しもつ(笞)」を御伽草子の『一寸法師』ではあげているが、いずれも、身体をうって痛みを与えるものである。小槌は、こぶを作って一寸法師の身長をその分大きくしたであろうが、それは、一時的で、すぐもとにと戻る。殴打での破壊自体には、価値創造力はなさそうで、やはり、(小槌による)痛みが価値を創造したのであろう。鬼がひとを殺傷するのであれば、その道具は何といっても刀類である。小槌はもとより、杖も笞も、損傷よりは、苦痛を与えるのを第一にした道具であろう。それを鬼からの宝もの(価値、あるいは価値を生み出すもの)とひとは受け取った。殴打でもって苦痛・ショックを与え、異常時の異常な力を心身にもたらすということだったのであろう。筋肉を強化するには、いまでも基本は苦痛を与え、筋肉痛が残るぐらいの強い負荷・苦痛を加えることであろう。精神的生においても、かわいい子には旅をさせよという。冷たい社会に出て痛め付けられてこそ強い精神は獲得可能になる。痛みでの覚醒作用は、単に意識を回復し注意を喚起するというのみでなく、もっと広く人の心を覚醒させて鼓舞するものになりうるのであろう。それによって眠っていた能力が目覚めることもある。快にまどろむ状態では、心身の活動・能力は鼓舞されない。その反対の極にある苦痛は、意識を覚醒して活動状態にしていくから、その延長上に、心的活動全般を鼓舞していく可能性をもつ。
3-6-1-1.
何を覚醒させるのか
毎朝の眠りからの覚醒と、人生を覚醒させるのとでは、まるで異なったものとなる。だが、いずれも、覚醒は、その心身とくに意識の停滞・休止状態からこれを活動状態にと高めるものであろう。
日々の覚醒の対象である睡眠は、レム睡眠とノンレム睡眠が区別される。身体だけが眠っている状態と、心も眠っている状態の大別であろうか。身体が眠って活動停止状態になるのがレム睡眠で、心も眠って深くこの世界から隔絶状態になっているのがノンレム睡眠だという。身体だけが眠っている状態で心が覚醒に近くなっているときは、意識が存在しうる。金縛りとか幽体離脱は、レム睡眠中に起こるようである。眠っている身体を意識が動かそうとして動かず縛り付けられているように感じるのが金縛りで、身体を放置して、魂のみが自由に動く状態が幽体離脱になり、夜中好きなことが好きなようにできるという白昼夢に似た意識体験になる。夢を見る様態も両睡眠で異なるようである。この両睡眠のいずれから覚醒をさせるのかで、苦痛の与え方は異なることになるであろう。浅い睡眠状態のレム睡眠では、軽く刺激すれば起きることになる。
通常目覚まし時計を使って覚醒させる場合、意識が無意識になって眠っている状態から、これを意識化し、自己に閉鎖して安らいでいるのをこの現実世界へと引きずり出してくる。睡眠中も、夢を見るなど脳は活動しており覚醒的ということになるが、いわゆる覚醒は、夢などのように意識が自己内で活動状態にあるだけではなく、外的世界へとつながりをもって現実的意識を回復した状態をいうのが普通であろう。身体の方がまだ寝ぼけているなら、こちらに重きを置いて身体を動かさねばならないようにして覚醒させることになろうか。目覚まし時計の音がけたたましいのでこれを停止するためにこの時計のベルを止める現実的な心身の動きからはじめる。そのことで意識はこの世界へと復帰して意識的活動を開始し、覚醒状態にとなっていく。その目覚めた通常の意識のある状態で、さらに一層の覚醒として、特定の事柄に気づかされるようなとき、目が覚めたとか覚醒をいうこともある。
人生の覚醒も、やはり、ひとの心・魂の覚醒である。苦痛がしばしば意識されねばならないことでは、日々の生理的な覚醒と同様である。恵まれた環境のもとに育って安閑としているものは、半ば眠りこけている状態であり、これを覚醒させることが必要になるときがある。かわいい子には旅をさせよという。修行遍歴をいうような国もあった。若者は、冒険の旅に出て、艱難辛苦を経験することをもっておのれの能力を覚醒・開発した。
いずれの眠りにせよ、そこから現実世界へと意識を活動的にし覚醒するには、損傷への緊急信号である苦痛によることが多い。日々の睡眠からの覚醒は勿論、社会生活における精神の覚醒・能力開発も、苦痛(苦悩・苦労)を大なり小なり媒介にする。
3-6-2. 損傷ではなく、苦痛が覚醒させる
覚醒は、意識を覚醒する。これを、自発的に現実世界へ向けさせたり、自覚状態にもたらすことである。苦痛刺激は、損傷が生じたと自身の危機を知らせるから微睡んではおれず、損傷とこれをもたらした外界へと意識を喚起して覚醒することになる。苦痛は、ふつうは、損傷を脳中枢に知らせるものとしてあるが、覚醒を求める場合は、損傷を生じないようにと配慮することが多い。苦痛のみがあって損傷なしの刺激が覚醒にはふさわしい。損傷が苦痛を生じるのが普通だが、覚醒作用をするのは、損傷ではない。寝ていて知らぬ間に損傷が生じていたとしても(就寝中のこたつによる低温やけどなど)、苦痛がなければ、安眠できる。苦痛が覚醒をもたらす。
内臓の損傷は、苦痛感覚をもたないことが多い。損傷がいくらあっても、痛まないから気づかず、その損傷自体は意識を覚醒したり鼓舞することはない。苦痛が、意識をわずらわし、時に、過敏状態にもしていく。単に損傷だけだと、これに気づいたとしても、心に大きなインパクトを与えるようなことは少ないのではないか。痛まないなら、損傷が大きいという場合は無視できないけれども、そうでなければ、血液検査で注意されても大したことではないと、無視することになろう。逆に、損傷はないか小さくても、痛みが強いと、意識は種々の気をまわし、覚醒させられることになろう。ときには、損傷は見つからない場合でも、痛みがあれば、安閑としてはおれず、痛みを止めてもらいたいと病院にいき、運が悪ければ損傷の発見となる。
本源的には、外から損傷を受ける危機に、苦痛が情報をもたらし、これに応じて意識が外的世界へと覚醒するのであろうが、単に覚醒させるだけという場合は、損傷という生否定的なことのない方が好ましい。目を覚まさせるというとき、生理的に意識を取り戻すこととしての覚醒のためには、損傷等の生否定的なものをともなわないようにと注意しながら、軽く短い苦痛になるようなものを選ぶ。
社会的な場面での精神の覚醒を求めるような場合は、損害・損傷を与える方が効果があるように思えなくもない。深刻に反省をしなくてはならないのに、単に主観的に苦痛を感じるだけでは、その場のことに終わる。しっかりと覚醒してもらうには、損傷をもってする方がいいことがあるかも知れない。何かに失敗したとき、口頭で注意されて苦痛を感じる場合と、減給の処分となって損傷を被るのとでは、相当に効き目は異なる。口頭での注意だけだと、その場では痛みを感じても、反省は、その時だけに終わることであろう。やり直しや減給までされるとなると、傷つき猛省して、結果大いに発奮することになりうる。もっとも、損傷が効果的だといっても、それに苦痛・苦悩を抱かない場合は、猛省はしないだろうから、やはり、苦痛が肝心であろうか。
3-6-2-1.
目覚めを促す苦痛は、小さいものでありたいが・・
座禅で眠りそうになった時、覚醒させるためにと警策で打つが、棍棒で殴打することは求められない。かりに棍棒を使っても、身体を傷めつけるのとちがい、覚醒させるときは、つつく程度にして苦痛も小さいものにと手加減することであろう。相手が気づく程度にして、本格的な苦痛までにはならないようにするのが覚醒には一番であろう。覚醒だけを求める場合は、その辺の微妙な力加減がいる。もっとも、禅宗での座禅中の警策は(最近は、ほどほどのものにとどまっているようだが)、かつては、かなり本気になって殴打するようなことがあったという。拳骨をもって、「不届き者、目を覚ませ」と大きな苦痛を与えていたこともあると聞く。粗野な乱暴なことが普通だった時代には、相当に厳しい苦痛が覚醒のために使用されていたのであろう。眠気を払うためにと、錐で太ももを突くようなこともしたという。それでも、激痛を与えるとしても、損傷をもたらすことは、できるだけ回避しようとしたであろう。覚醒だけを求めるのなら、わざわざに余分となる苦痛や損傷を加える必要はないのである(座禅をしていると膝あたりの痛みが続くことになるが、この痛みは、覚醒をもたらさないように思われる。膝という箇所は自明で、注意をはらって対処するようなことではないから注意=覚醒は無用なのであろう。覚醒には、その痛みが、注意を払わせるようなものになっている必要がある。肩を警策で撃たれるとき、外からの突然の衝撃で、意識はおのずからに注意を払わされ、覚醒となるのであろう)。
苦痛が強すぎると、覚醒は確実であっても、かりにそれで損傷は生じるまでにはなっていないとしても、苦痛のもつ嫌悪・拒絶反応が生じてその苦痛刺激の不快感を強くもつことになろう。人を起こすとき、不快の度を大きくしてしまうことがあり、その結果、せっかく起こしてやったのに、怒りをもって対応されてしまうようなことが生じる。眠りの深度が起床させるための苦痛刺激には大きくかかわる。深く眠っているのを起こすには、苦痛を大きくしないと覚醒させるまでにはならないであろう。浅い眠りの者の目覚めたベルに、ぐっすり眠っていた者は気がつかないようなことがある。逆に、よく寝て目覚める時間に近くなっておれば、ほんの小さな刺激で間に合う。苦痛を感じさせるまでもないことであろう。
覚醒といっても、生理的なものではなく、怠惰とか悪の道に踏み外した状態から、それの悪であることを気づかせ「目を覚まさせる」というような場合の覚醒は、大きな苦痛が必要であろう。小さな苦痛では、それを我慢すれば済むことだと、堕落した生活からは立ち直ろうとしない。そこから抜け出す意欲を引き出すのは、二度と繰り返したくないような大きな、強い苦痛であろう。目覚める当人は、小さな苦痛の方が楽であるが、真に目覚めるためには、おそらく、大きな苦痛が必要である。小さな苦痛で覚醒・意識の鼓舞が済むのであれば、それに越したことはない。だが、それでは、大きな心の鼓舞にはなりにくい。鈍感な者、あるいは堕落した生に深くのめり込んでいる者を目覚めさせ鼓舞するには、小さい苦痛では目覚めず、やむを得ず、大きな苦痛を与えることが必要になることもあろう。小さな苦痛では、なかなか必死の覚悟は持ちにくい。大きな苦痛が人をしっかりと覚醒させるのではないか。
3-6-3.
覚醒が常に苦痛によるというわけではなかろう
覚醒をもたらす手段として、苦痛の用いられることが多いとしても、常に苦痛が手段となるわけではない。よく寝た後など、外的刺激なく、おのずからに覚醒する。あるいは、さわやかな音楽に気づいて目覚めることもある。明日は、4時に起床しなくてはならないと意識して寝ると、結構、その時間に目覚まし時計なしでも目覚める。意識自体も、睡眠中、何らかの形で目覚めへの用意・準備をしうるものと思われる。脳は睡眠中も働き続けており、無意識の展開においてのことであるが、(無)意識自身をもっての覚醒もありそうである。
意識は、そとの世界に向けて活動するもので、常に外的刺激に注意・関心を向けており、その中で危機的信号を発するのが苦痛刺激であるから、無意識状態からの回復としての覚醒には、苦痛が効果的となる。目覚まし時計は、決して心地よい音ではなく、苦痛を与えるような音を出す。眠りは自己の世界に閉じこもる。その際、目は、瞼を閉じて外界をシャットアウトしているが、耳は、閉じる蓋をもたず常時外界の刺激を受け入れる用意ができている。したがって、意識を再開して外界を受け止めることを始めさせるには、だいたいが音をもってする。目覚まし時計は、不快で苦痛を与え無視しがたく気を引き付けるような音をだす(昔の目覚ましのベルはけたたましいものだったが、最近のは、わりと穏やかである。かつ、穏やかな音で起きない場合は、だんだんとけたたましく鳴るようにできていたりもする。しかも、周囲を起こしてはまずい場合も多い昨今のこと、腕時計式のものでは、音でなく、振動をもって刺激して覚醒させようというものもある)。
軽くまどろんでいるぐらいなら、半分意識は残っているから、苦痛刺激になる手前の刺激でも、目覚めることができよう。「起きなさい」とささやくぐらいで、おそらく、覚醒状態にすぐ戻る。あるいは、緊張をさそうような事態にすることでもよいであろう。仕事中なら、「社長が部屋に入ってきたよ」という小声で目を覚ますことができる。
深く眠っていたとしても、いつまでも眠りこけていることは無理で、健康であれば、いつかは目覚めることになる。十分に寝た場合は、外的刺激なしで自ずと意識が外界へと向けて働きはじめる。そのきっかけは、外界からの快不快のささやかな刺激になることが多かろうが、刺激がなくても刺激をもとめて意識が動き始める。ひとの意識は、本源的に対象意識としてあり、外的刺激がなくなると、自分で対象をつまり幻覚を作り出していくことさえある。殊更に意識するもののない状態にあっても、遠くから虫の音が聞こえてくるというようなことになろう。こういった場合は、覚醒にとって、苦痛は無縁となる。苦痛が覚醒に必要となるのは、覚醒を妨げる眠り、眠気が強いときである。自己の世界に閉じこもって外界に向かうことを拒否し、強く眠りに引き込まれ続けているときである。苦痛という緊急信号、火急の対応を求める信号をもってして、強制的に眠りの自己閉鎖から引きずり出すこととなる。
3-6-3-1.
眠気を覚ますのも、やはり苦痛が多かろう
起きている者を眠らせないようにする方法は、眠っている者を覚醒させるのとは異なったものになる。眠気をさますには、意識があるのだから、コーヒーを飲むとか、刺激の強い酸っぱいものを口にして味覚を使うようなことも可能である。もちろん、音や光・匂いでも可能であろう。触覚では、痛覚が、結構それの強いものが求められる。眠ることが大変な事態を招くのなら、眠らないようにと損傷もいとわず痛覚を強く刺激する。錐で自分の足を突いてというような乱暴なこともある。眠くなった時、冷水をかぶるというのは、一昔前のよくとられた方法であろう。これは、かなり大きな苦痛をもたらす。そのことで一気に眠気を吹き飛ばした。眠りそうになり微睡かけていても、まちがいなく眠気がとれる。
眠気があるとき、快適・安楽の状態だと、一層眠りへと誘われるであろう。逆に、不快・苦痛があると、この刺激が眠気を一時的にストップすることになる。苦痛は、自身において危機・火急の状態が発生していることを知らせる刺激であるから、眠気が生じて意識が微睡んでいる状態であった場合、睡眠からの覚醒と同様に、これを吹き飛ばして鮮明な意識状態を可能にする。
睡眠から覚醒へという場合は、自身で自覚してなにかの方法をその場でとることはできないが、眠い状態のときは、その眠気を吹き飛ばすために自身で意識して種々の方法をとりうる。そこでも、睡眠からの覚醒と同じく、やはり、苦痛を利用することが多かろう。自身の頬を平手で打つとか、つねったりする。風呂で冷水や熱い湯を浴びて痛覚が働くようにすることもある。あるいは、意識自体を一層働かせる方法もとって、何か心身を動かすようなことをして、覚醒を促す。心身を自覚的に動かす場合、意識が働いてそれに向かわねばならないから、意識は活動的にならざるをえない。眠くなったら、歩いてみるとか、体操をしてみるといった身体を動かすようにともっていき、現実的意識を活動させ、覚醒を維持する。TVでのだらだらした野球中継には眠くなるが、そこで乱闘でも生じれば、みんな目を見張ってみる。乱闘になれば、自分もそういう活動的な気分になり、心身が覚醒状態になる。ボクシングの打ち合いを見る場合、眠くなることはあまりないのではないか。
何か強く期待していることが実現するようなときには、その期待をかなえられるようにと、意識が覚醒するだろうし、期待するものの享受を思って意識がそれを先取りして活発に動いて眠れないというようなこともあろうか。苦痛による危機意識の覚醒ではなく、期待するものの先取りをもっての意識の高揚もまた眠らせないものとなる。ただし、痛みなら、自身で何とかすぐにでも起こせるが、驚喜させるようなものは、自身で簡単には生じさせられないから、やはり、確実に眠気をとる方法というと、苦痛をもってすることになろうか。
3-6-3-2.
苦痛が起床を促すより、起床が苦痛になる方が多かろう
本論考は、苦痛をテーマにしているので、苦痛は覚醒価値をもつと、苦痛によって目覚めることを主として見ているが、苦痛ということで起床時に想起するのは、苦痛に覚醒作用があるというより、目覚めること自体が苦痛ということの方が多かろう。
睡眠欲は大きく、この欲求を中断させることは苦痛である。起きるときの苦痛で想起するものは、多くは、この欲求を、その快楽を中断させられる不快感であろう。起きること、覚醒への刺激としての苦痛は、あるとしても大したものではないが、起きかけての、まだ寝ていたいという欲求の抑止される不快・苦痛は大きい。覚醒時の一番の苦痛は、目覚まし時計の不快ではなく、睡眠欲自体を中断される不満・苦痛である。食欲、性欲とならんで大きな生理的欲求としてあるのが睡眠欲であり、これを中断・妨害されるのだから、その不快感は強い。
覚醒させる目覚まし時計などの苦痛は、苦痛といえるかどうかというぐらいである。かりにベルが大きな苦痛刺激だったとしても、眠っている段階では、つまり無意識・無感覚では苦痛は意識されない。それを意識する段階では苦痛だとしても、すぐ目覚ましの音を止めるのであって、苦痛を感じることはおそらくほとんどないのが普通であろう。これに対して、もっと寝ていたいという睡眠欲は覚醒時に大いに働く。意識がもどって布団の中で暖かく気持ちいい状態を続けていたいのに、それを中断して、欲求不充足にするのであり、眠気がとれるまで、その不快・苦痛は持続する。覚醒時の一番の苦痛は、目覚まし時計の覚醒させる苦痛ではなく、もっと寝ていたいという快楽を中断させられる欲求不満の苦痛の方になる。
眠っているのではなく、起きていて眠気がさすとき、その眠気を抑止するために、覚醒の苦痛を与えることがあるが、これは、結構しっかりとした苦痛と自覚される。そこでは、眠気、睡眠欲求が生じているのであるが、この欲求を抑止される不満・不快は、それほど大きくはないであろう。まだ、布団の中で睡眠の快楽をむさぼっている状態ではなく、その睡眠欲は未だ充足できず快は感じていないのだから、無い快楽をまだ無いままにしているだけで、不快は小さい。それに対して、眠い時の苦痛刺激は、まだ起きていて感覚はあるのだから、はじめから苦痛と意識されることで、この苦痛は大きい。水をかぶって眠気を覚ますとして、そこでの睡眠欲求不充足は感じないぐらいに小さいが、覚醒刺激としての苦痛は大きく、冷水をかぶる場合など、結構持続する苦痛となるであろう。
起床時の睡眠欲不充足の不快・苦痛は、はっきりとした苦痛であるが、この苦痛も、一応は、覚醒に資するものであろう。眠たいのでその快楽を充足して再度寝ようとするのを抑止するとき抱く不快・苦痛は、覚醒に資するものではない感じだが、やはり、覚醒につながろう。その苦痛から逃げて再び眠るのではなく、その苦痛を耐えて苦痛を感じ続ける以上は、その苦痛は、意識を刺激し活動する方向に向けるから、覚醒を促す。
3-6-4.
快は、眠りを誘い、苦痛は、覚醒をもたらす
事がうまくいって快であれば、疲れていたりすると気を緩めて、やがて眠り込む。苦痛は、逆で、危機的なことを示し、意識を集中して対処せよと自身に命じる。自動車の運転は、高速道をスムースに走れる状態では気持ちよく快で、しばしば眠りを誘う。だが、事故に巻き込まれたり、場合によるとこれを見ただけでも、つまり、損傷・苦痛を身近にすると、眠気は吹き飛び、一瞬にして覚醒状態になる。
快は、良好な状態にあるということだから、そのことに注意する必要がなく、意識はそこでは無用となって眠り込む。興奮させるような快の種類だと、意識は覚醒を続けるが、これも、疲れてくれば、意識をしていないと危うい事態が生じるというようなことがなく安楽な状態にあるのだとしたら、心地よく眠りにと導かれることであろう。逆に、なにか不快・苦痛があるとは、生の損傷の可能性を語るのであり、快とちがい、その危機的状態や損傷のあるかぎり、苦痛はこれを知らせつづけ、意識は、覚醒してその対処を迫られる。
眠りは、無意識化しているから快でも苦痛でもないが、その眠りに誘われることは、これへの欲求は、時に強くなり、これを充たすことは、大きな快楽となる。睡眠は、食・性とともに生理的な大きな欲求である。心身が疲労して休息の必要な状態になっておれば、眠ることが欲求となり、これを充足することは快で、これを妨げるものがなければ、この快を満たそうと眠りに近づいて眠りに入っていく。快と眠りは親和的である。快も眠りも、警戒を解き、無防備状態をまねく。眠りは、覚醒時の諸機能を休ませるので休息になるが、そこを襲われると襲うものの思うままとなり、損傷を受ける。苦痛がその状態から救い出す。苦痛になったら、即、覚醒して身構える。損傷をうけ苦痛を抱き続けると、さらに火急の対処をと一層の覚醒と緊張をさそわれることになる。
この苦痛による覚醒は、生理的なものに限らない。精神的社会的な短期・長期の覚醒も、苦痛のもたらすことが多い。かわいい子には旅をさせよという。手元においていたのでは、苦労する場面で手を出してしまい、子は苦痛を味わうことがなくなる。それ以上に、快適な状態に置かれると、精神はまどろみ、安楽からより安楽へと向かい快楽主義的な怠け者になってしまう。だが、外の厳しい環境におかれ、手助けもなければ、苦労・苦闘の体験を多くもち、しかも、それは自身で解決する以外ないのである。親元での快適な生活では味わえない苦痛体験を繰り返すことになる。苦痛によって精神が覚醒状態になり、苦痛解決への努力を自身がしなくてはならなくなる。苦痛は、ひとを全般的に鍛え上げる。
3-6-5.
意識を覚醒させる苦痛
眠った無意識状態から刺激を与えられて意識は回復し目覚めるが、その手段となる刺激は、快ではなく、不快、苦痛の方がスムースであろう。快では、心地よく微睡み、眠ることになる。逆に苦痛は、覚醒させる。痛みは、ひとを快の夢うつつから目覚めさせる代表的な手段となる。起きろと、布団をはぎ取って寒風を感じさせたり、体をたたいて起床を促す。禅で眠くなったとき警策で殴打することがある。苦痛が、研ぎ澄まされた意識を覚醒させる。
この覚醒状態になる意識は、広義の意識である。何かに注意集中するときにいう意識ではない。この世に連れ戻し、眠り等の無意識から意識へと回復するときの意識である。それは、知情意等の心の活動を、その統御主体(私)が、自身の営為として自覚できる状態にすることであろう。無意識でも、心の活動はある。だが、それは、自身には自覚できない。その心の活動を自身が自覚できている主観的体験が、意識になろう。苦痛は、ひとにとって、緊急事態が生じたことを知らせる信号であり、心身を統括している私(統覚主体)は、ぼんやりと他人事にすまして傍観などしている場合ではなく、自分のこととして自覚的に意識をもって対処していくことが必要となる。心身を統括し指令を出していく人格主体の私自身が自らのこととの自覚をもって、自身のうちの全情報を集め、全手段をもって対処していける状態になっているのが、意識になろう。
逆に意識を失う、なくするという状態になる場合は、そういう現実世界への自覚をもっての対処ができなくなっていく。酩酊とか眠りということになる。それは、心の動きが鈍化し、心身を統率するこの私という人格主体が自覚的な働きを失うことであろう。対象世界を認識する心の動きが鈍化・停滞し、これを統括する自身が麻痺状態になって、やがて無意識にとなっていく。苦痛では、限度を超えた耐えがたいものになるとき、そういうことが生じる。激烈な苦痛を前にすると、統括主体の自身は逃げ出したくなり、その極においては、気絶、失神ということで、無意識になって苦痛を感じないようになる。特に精神的な苦痛はその人格と深く結びついているので、耐えられない苦痛がまといつく場合、人格主体自体を棄てて、他人事にと離人症的になったり、その苦痛体験を自分の意識・自覚のうちには残さず健忘症となったりもする。苦痛を持たざるをえなくなっている自己・主体を棄てて、別の人格を作りこれに新規に生きるというようなことにもなる。
3-6-5-1.
苦痛は、意識(注目)することを強いる
意識は、無意識から覚醒した状態をいうだけでなく、覚醒状態の中でさらに一点にと焦点を合わせ、注視・注目することを指す場合がある。この一点への注目・注視の意識にも苦痛はしっかりとかかわる。けがをして苦痛が生じるとき、苦痛は無視を許さず注視することを強制する。歯が痛めば、虫歯にと意識が集中し注目が強制される。
覚醒状態であっても、習慣化したものは、自動化して、無自覚、無意識的な状態になる。だが、そこに異変が生じたとき、その自動化し習慣化したものをチェックすることが必要となる。注視・注目して、その習慣化したものを見直してチェックすることになる。その習慣化したものの一々のステップに注目して、これを意識化しスポットライトを当てながら見直していく。心身の全体を担い指令・統率している私が前面に出て、そのスポットライトを当てたところをチェックし、必要な記憶情報を呼び出して、あるべき対応を指示していく。その注視を主観的に自覚しつつ展開するのが、一点に集中した意識ということになろう。
苦痛は、この一点への集中した意識についても、これを鼓舞する、というか、それを強制する。苦痛は、無視できない。苦痛は、意識をそれへと集中して注目するようにと強いる。一点にスポットライトを当てて意識を集中することは、ひとの自律的な自由の営為である意志の活動に典型的であるが、苦痛による意識集中の場合は、自由の営為ではなく、意識が注視へと一点集中へと強制されるのである。無視しようと思っても、これを無視することができず、注視が強制される。意志をもっての能動的な意識集中に対しては、この苦痛によって強制される意識は、受動的意識集中とでも言えようか。
苦痛によって意識集中が強いられる場合、その苦痛の原因の損傷へと注目も進む。ひとつには、苦痛関連の情報をそこに集めていくことがあり、あるべき対応の指示もそこに集められ統合統率される。その苦痛にともなう感情もその意識集中のもとに生起してくる。苦痛があれば、心配になり、場合によっては死を想像し、不安、恐怖、怒り等の感情が自ずと生起してくる。そのことで苦痛への全面的な対応が可能となる。
この意識(注意集中)においては、しばしば意識はその一点から一層限定した一点へと集中していくが、それに応じて、ほかのことは、一層、視野の外へと無視され、不注意となる。視野が極度に狭くなる。痛みに意識が集中させられた状態では、ほかのことはうわの空となる。この一点集中による他の事態の無視、意識からの排除は、意識集中においては、常に生じる。それは、いやな苦痛を離れるためにも使われうる。不安という苦痛の状態に囚われて意識がそれに占領されている時、これから逃れるには、(一点への)その意識集中をあえて別のものに向ければよい。月に、花に気を向けるようにし、それへと意識が集中すれば、そのスポットライトを当てたものに意識・気は奪われる。花なら雄蕊や花弁の様子にと一層注意を深め、これにさらに意識は集中して、不安の意識は、うわの空になって、不安を離れうる。
3-6-6.
苦痛・苦労で、眠っている能力が覚醒する
「三代目は家をつぶす」と言われてきた。初代は、苦労して産をなす。それを見ていた二代目はこれを見習うこともあって家は守られる。だが、三代目は、生まれたときから、安楽な状態で育つので、揉まれることがなくて、甘い生き方に終始して、家を滅ぼすということである。過保護はよくないと知っているから、なるべく風雨にさらして鍛えるつもりでも、いざ危険・困難に対決という場面になると、つい手助けをしてしまう。結局あまい育て方をしてしまう。
快適な状態にあると、それに埋没し、まどろみ、ふやけた存在になってしまう。快では、その状態で満足なのであれば、それ以上に努力などする必要がなく、すぐれた能力があってもこれを使うことがなくなる。使う機会がなければ、その能力を錆びつかせて駄目にしてしまう。身体の強化には、鍛えるべきところに負荷をかけていく。筋肉は使わないと弱体化してしまい、逆に、使って痛めつけるなら、その必要に応じて、強くなっていく。同じように、精神的世界でも、苦労し苦痛が与えられることで、鍛えられていく。ひとの適応能力は高く、困難に出会えば、それに見合うだけの力が発揮されていく。もちろん、過剰な苦痛・負荷は、身体を傷めて台無しにすることもある。絶望・不安に押しつぶされるようなことになる場合もある。しかし、身体とちがい、精神世界では、かなり融通がきき、どんな逆境であっても、思いよう次第ということがかなりあって(悲惨・絶望も、比較対象を変え、心機一転、生きる場を変えれば、多くの場合、消去できる)、これを耐える工夫さえできれば、もてる能力を発揮し、必要に応じて新規の能力も獲得していける。盲目の人が、聴覚を頼りにする以外なくて、風の音とか反響音をもって、周囲の状況をまるでレーダーでするように把握する能力を獲得することがあるという。精神的世界では、苦痛・苦労は、感じるものの姿勢如何で、かなり軽減もできることで、大方の苦労は耐えることができ、苦労するほどに、最後まであきらめないならば、大成できる度合いが大きくなる。
快の状態では、それに充足しまどろむことになるから、自身の有している創造的な能力など気づくこともない。それが発揮されるのは、困難な状況になってこれを乗り越えていくべき状態になってである。そこにおいて、自身の強さも弱さも明白になる。自身の固有性にも目覚めることになる。必要に応じて、その弱さを克服することもあろうし、その持前の力をより大きくしていくことも可能となる。苦痛・困難さがその能力発揮へと自身を導いていくことになる。苦労には、慣れる。したがって、ある程度慣れてきたら、一層の苦労・苦痛を背負えるように強くもなる。快は、ひとをなまくらにするが、苦痛・苦労は、ひとを鍛え、より強くしていく。
困難・苦労は、ひとを目覚めさせ強くしていくが、これは個人にとどまらず、社会全体・集団においても似たことが言える。苦難に出会って、目覚めて、文明は進展する。時代が人を造るとよくいう。幕末の内憂外患は、日本人を目覚めさせ近代化をもたらした。
3-6-7.
未来の快を目指し、現在の苦に急き立てられて前進する
苦は、人を鍛えるが、快は、人をまどろませ能力発揮の機会もうばうと言われる。だが、快がそうなるのは、これにのめりこみ現をぬかすことになるからで、快も持ち方しだいでは、大いに有用となる。
快・不快(苦)は生の原動力で、動物はもちろん人も多くこれに導かれて生を営んでいる。快は、ことが首尾よく進んでいることを感じるもので、快であるようにともっていくことは、その生に好ましい状態になることである。だが、ときに快は、ひとに害悪となることがある。快が有害になるのは、その与え方、利用の仕方においてである。快は、ことがうまくいったときの褒美であり果実・報酬である。これが常時与えられ、ことを始める前に与えられたのでは、前には進まなくなる。もう報酬が得られているのであり、これを楽しみ、これにのめりこむばかりとなる。動物を調教するときは、快の餌を与えるが、それは、苦難の芸を上手にできたその褒美としてである。褒美の快につられて、難しい芸に挑戦するのである。芸をする前に快を与えたのでは、もう芸をする必要がないといっているに等しい。ひとの場合も似たものであろう。未来に快を描き、これを目指して、苦難の現在を前進させていく。未来の快、その人間世界での代表は、希望という快であろうが、希望は、いま、果実が与えられるのではない。今あるのは苦難・苦労である。だが、その苦痛を受け止めて進めるなら、一定の苦難の手段を実行したならば、未来の希望がかなえられ、快が帰結するというのである。希望は、ひとを駆り立てる力であり、いまは、それは実現されていないから、未来へと前進して、これを達成しようと努める。未来の憧れの快は、希望となって、ひとを導く。引き立てていく。未来へと先導する。未来の快は、ひとを覚醒する。その希望・快の褒美は、さきに出してはならない。快はいま与えるとこれにのめりこみ先には進まなくなる。未来に快は与えるべきである。三代目が家をつぶすのは、その現在に快が与えられるからである。逆に、苦痛は、未来に与えたのでは、これも停滞する。先には苦痛だけが待っていると思えば、現在に停滞して未来の苦痛を避けようとするだろう。
快は、ひとの営為を推進させるものとしては、これを未来にとっておく必要があるが、現在与えられて効果のある場合もある。苦痛が耐えがたく、その過激な苦痛に絶望して前進を諦念するようなときに、これを慰め苦痛を和らげ生気をとりもどすのに快は有用となる。苦痛は萎縮・緊張をもたらすが、快は、弛緩し伸張する反応であるから、苦痛と相殺することができる。あるいは、未来の希望も、それは、いまは快ではないが、未来の大きな快がひきつけ、想像で感情は生じうるから、その未来の快は今に感じられもし、それはひとを苦によりよく耐えさせる。戦争などの絶望状態のなかで、生き残ったのは、希望を失わない者だったと聞く。その現在の苦難を諦念せず未来を信じているものは、より大きな苦難に耐えうる。未来の希望という快が現在をも照らして、その光のもとに、絶望的な現在にあきらめることなく、耐えることが可能になる。
3-7. 苦痛は、ときに快を際立たせる価値をもつ
苦痛・不快は、快を際立たせるために使われることがある。甘さを際立たせるために塩をつかう。美味をしっかりと出すために、それ自体は不快な苦味や酸味を加える。苦味、酸味は、それら自体は、不快なもので、強ければ苦痛となる。だが、その不快な酸味などをほどほどに感じる場合は、同時的に進行している美味が際立つ。その不快・苦痛と対比して快楽が強調されて意識されるのであろう。さらに、不快な苦みや酸味を甘みにミックスすると独特の美味(快)ともなる。
逆に、不快な味わいが美味のものとの比較で強く感じられる場合もある。甘い食べ物と酸っぱいものとでは、食べる時、酸っぱいものを先にした方がいいという。甘味があったあとに、酸味がくると、この酸味が強く感じられ不快となる。逆であれば、酸味が甘味を引き立ててより美味しくさせる。美味しい物と不味いもの一般について、これはいえる。美味しいものを食べたあとに不味いものを食べるとそのまずさが際立つ。快が不快・苦痛を際立たせる。不味くても比較なしなら、食糧不足の時代にはよくあったことだが、空腹時だと満足できたことである。そして、のちに、美味と言われるものを口にすれば、比較して、美味が強調される。苦痛が快を際立たせる。
寒くて苦痛のとき、暖かな部屋に入ると、快適である。寒さの不快感の残っている間、あるいは、暖かさに慣れて快でなくなるまでの間、寒さの不快感は、暖かさへの快を感じさせる。だが、暖かさを感じていても、そのことが長くなり当たり前のことになって、それが寒さの不快刺激と対立的に意識に上らない状態になっていると、快も消失する。反対に、暖かい快適な部屋から寒いところへ出ると、その寒さの苦痛が強く感じられる。対立する快不快の感情は、その対立する感情の残像があるかぎりでは、現に感じている快不快の感情をより際立たせることになる。
精神的レベルの感情においても、対立する快不快の感情が相互を際立たせることがあろう。絶望は希望を際立たせる。戦争などの悲惨な状態で絶望的になっているときは、小さな希望でも、際立ってくる。喜び・悲しみも、並んでいたら相互を際立たせる。おみくじには凶が入れてある。みんな大吉が出るようにしていたのでは、喜びは薄れる。凶を引いたひとを見れば大吉の喜びは大きくなる。逆の凶を引いたひとも、みんなが凶ならば悲しさはさして大きくもならないであろうが、吉を引いた者を見たら、自身の凶を一層悲しく思うことになろう。
3-7-1.
不安は、安心を際立たせる
味覚での不快の苦味は美味の甘味を際立たせるが、精神的生においても、苦痛は快を際立たせる。不安があるから、安心・安堵の快が際立つ。安心に慣れたら、それへの感情はもたなくなり、安心感はことさらにはいだかない。だが、不安があると、その不安の苦痛をなくしたいと思い、それが実現できたときには、安堵・安心の感情を強く感じることになる。
逆のばあいは、どうであろう。安心・安堵があるから、不安の苦痛をより強く感じるということが言えるであろうか。ふつうは、不安は、安心が先行するしないにかかわらず、危険の可能性を見出せば感じる苦痛である。安心があったから、ことさら不安を強く感じるということはないのではないか。安心は、続いている場合、無となる。意識して感じることがなくなる。多くの場合、その無の状態の後に不安は成立するから、安心があってその快に比して不安の不快・苦痛が大きく感じられるということはなかろう。安心を感じる状態は、まだ危険や不安の残像がある段階であろうから、危険への構えをまだ残している。したがって、安全・安心を感じているところへ不安が生起した場合は、不安を少し小さく感じることになるかも知れない。危険のない安心が続いていた場合は、安心自体を感じることがなくなり、この無は、危険・不安への構えを大きく後退させる。そこに不安が感じられるときには、むしろ、これに過剰な対応をして大きな不安を抱くことであろう。
皮膚の痛覚刺激での苦痛とそれのない無(痛)は、もっと極端で、苦痛がない状態は、快であるというより、無感覚状態である。そこに生じる苦痛は、無に続いての刺激であり、苦痛がありのままに、増幅・縮小なしに感じられることである。逆に苦痛があって、とげが刺さったり、火傷しそうな強い熱への痛みがあって、これがなくなった場合、緊張を解き、快を抱く。苦痛があることで、その無が、苦痛の残像がある限りで、快となる。苦痛は、苦痛がないという快を際立たせる。だが、皮膚の快自体が苦痛を際立たせることは一般的ではなかろう。皮膚は、何もなければ、無感覚・無感情状態になる。仮に、皮膚の良好な状態自体に快をいだくのだとすると、全身から快が沸き起こって手が付けられなくなることであろう。順調であれば、皮膚の快などは無となって、損傷を受け不調になったところのみが、警告の苦痛を発すればよいのである。そういうところでの快は、不快・苦痛が消失したことを知らせる消極的なものであり、苦痛のない状態がそれ自体で快と感じられるものではなかろう。皮膚には、痛覚はあっても快覚は存在しない。快との対比においてではなく、皮膚の痛みは、(感覚・感情の)無の状態から生じるのである。
不安・安心の感情は、皮膚の苦痛感情と類似的で、安心(快)だけでは存在せず、不快感情の不安があって、これがなくなるということで、不安の苦痛が安心をもたらす。安心が定着したら、皮膚の損傷(苦痛)消滅の安堵と同じように、安心感情自体も消える。不安という苦痛感情は、安心を切実に求め、これが可能になるところでは安心感情を強く感じさせる。逆の安心感情があるところでは、危険・不安の残像があっての安心だから、不安・危険への構えを残していて、不安に対して過剰反応せず、むしろこれを小さく感じるのではないか。
3-7-1-1.
不安・安心と、皮膚の痛み・快の異同
不安・安心と、皮膚の痛み・快では、それぞれの後者、安心と皮膚の快は、痛み・不安があって、これの消失したことにいだく快になる。安心の方は、よく意識する快感情だが、皮膚の良好状態は、快と意識するような積極的な感情とはならないのが一般であろう。皮膚の場合、その安心に相当する快適な状態は、通常は無にとどまる。
不安は危険の可能性にいだくもので、それがなくなった状態は、安心・安堵として積極的に快感として成立する。だが、皮膚の場合、損傷に苦痛を感じるけれども、それが解消できている状態は、苦痛がないだけで、快を積極的に感じることはなかろう。皮膚には痛覚はあるが、冷覚に対する温覚のような、対立的な快覚はない。不安のなくなった反対の安心はあるが、皮膚の痛みのなくなった状態は、本質的には無にとどまるのではないか。痛みが消えた瞬時は、痛みでの緊張を解いた弛緩の感覚はもつだろうが、皮膚自体に積極的な快を感じるほどのことはないだろう。皮膚においては、痛覚とその痛み(の感覚と感情)はあるが、それを解消した苦痛の無の皮膚は、快覚をもたず、快感という感覚や感情はもたない。もっとも、痛み解消のときは、身体は緊張・萎縮の苦痛反応を解いて弛緩の快反応をするだろうし、脳内にはおそらく快楽系のホルモン分泌等があるだろうから、その点でいえば、快であろうか。ただ、それを、痛みと違って、損傷(の解消)部分に投影しないだけというべきかも知れない。
かりに、痛み(損傷)のない部位に快感情をいだくのだとすると、損傷のない無事の皮膚が一斉に快を感じることになる。到るところからの快感に圧倒されて、何も手につかないことになってしまうであろう。皮膚の無事の感覚・感情が無であるから落着いた生の営為は可能になっているのである。同じ皮膚での触覚とか温覚・冷覚では、快がそれ自体として感じられることがある。が、損傷の有無の、痛みとそれのない快適な状態では、快は痛みに対応するその部位の感覚を有さない。苦痛のなくなった緊張解除の弛緩状態を全心身で快と感じることはあろうが、これをその痛みのなくなった部位に投影することはない。せいぜい、痛みの緊張・萎縮等の反応の残像が残っている間だけの弛緩の自覚としての快にとどまる。くすぐると触覚が特殊なかたちで発動して快となるが、これは、苦痛の無の特殊な在り方であろう。つまり、痛みになりそうでならない痛みの無を当該の部位に触覚をもって感じ取ったものではないか。この痛みの特殊な無、くすぐったさの快のようなものが全身から湧き上がるようでは、痛み以上に苦しいことになってしまう。
これに対して、安心の方は、皮膚の痛みの無とちがい、独立した感情として存在する。不安のない状態は、単に無ではなく、安心・安堵の感情となる。危険に対して不安・恐怖をいだいて、これに火急の対応をする。その危険がなくなった状態は、無ではあるが、意識されて安心という感情をもつ。危険がないという無は、心身の危険への緊張・萎縮の不快を解除して、それを弛緩・伸張という快の心身反応とする。快感となる。それが安心・安堵の感情である。危険について、それは、一時なくなったり、当分構えを不要にするようになるとしても、再度その危険が生じる可能性もあることであれば、それへの意識を常々もつ。原発への安全・安心は、危険が完全には消えず根底に残っていての安心である。原発が存在しない(危険の不可能、ゼロの)場合は、それへの安全も安心も存在しない。危険の可能性(不安)を踏まえていて、さしあたり、それのないという状態が安全であり安心である。その意識が、当分危険の可能性なしと判断すれば、危険は根底にあり続けているが、これをゼロとみて安全との判断をし、感情的には、安堵安心の弛緩・伸張の構えをとることになる。それも、長くなれば、その危険を思わなくなり、その段階になると皮膚の損傷の無と同じく、これを安心感情とすることもなくなる。
3-7-1-2.
喜び・悲しみや希望・絶望では、対立感情は互角となる
絶望や悲しみ(苦痛)の反対の希望・喜び(快)は、皮膚の快とか危険への安心とはちがって、無でも一時的なものでもなく、その快感情は、反対(苦)の感情と対等かそれ以上に積極的に感じられるものであろう。それらの快・苦(不快)の感情は、対等に存立し、相互にしっかりと際立たせあうものにもなる。
喜びと悲しみは、価値物の獲得と喪失の感情であろうが、ここでは、苦痛の悲しみに対応した積極的なものとして喜びの感情がある。皮膚でいえば、冷覚と温覚のように、価値をめぐって、その獲得と喪失の二つを独立した感情が担っている。皮膚の苦痛感情の場合、その無は無感情であり、安心・不安では、危険(の可能性)への不安が中心で、それのなくなった消極的感情として危険の無を安心と感じる。だが、喜び・悲しみでは、価値の獲得と喪失の事態への感情として、それぞれが独立的にいだかれる。価値を新規に獲得すれば、喜びの感情となる。価値を奪われ、喪失すれば、悲しみとなる。皮膚の痛みとその無、危険への不安とその無の安心では、マイナスになるかそれがゼロに回復するかを測る感情だが、喜び・悲しみは、プラスの価値になるか、マイナスの反価値(価値の剥奪)になるかである。喜びと悲しみは、心身の伸張と萎縮の反対の反応をもって相互に際立たせあうが、それは同一人における同じ価値物をめぐっての対立感情になることは少なかろう。一人の者が別々のことで喜悲の感情をいだく。それでも、同じように反対の反応を心身はするから、相互に際立たせるとともに、相殺しあいもする。
希望と絶望の感情の場合、絶望がより強く感じられることでは、普通の苦痛感情と同じであろう。だが、絶望(苦痛)がなくなったからといって、不安の解消で安心がなるようにはならない。絶望や悲しみ自体は、無化しても、希望や喜びは生まない。独立した反対感情である。喜びの感情が生じるには、単に喪失が無化するだけではなく、積極的に価値物が新規に獲得されることが必要である。絶望の場合も、暗黒の絶望が無化しただけでは、おそらく、希望は生じない。もっとも、絶望の場合は、喜び悲しみとちがい、絶望の無化がなるには、暗黒の精神状態にかすかな希望の光が見えることが一番であろうから、絶望の無化は、即希望となる場合が多いだろう。絶望の無化によって希望が生じるのではなく、希望が生じてきたから絶望が無化するという展開である。絶望は、希望を必死に求め、希望を際立たせる。希望も、未来にあるから、放置しておくと絶望の結果になる可能性があり、絶望を意識する。絶望・希望の相互が相互を際立たせる。
3-7-1-3.
怒りや驚きと、その反対の感情
各種の快と不快(苦)は、ペア(対)になるが、皮膚の痛みの場合、その反対の快は、無といってもよかった。その点では、悲しみや絶望などの対(喜び、希望)は、しっかりと感じられて、痛みの無とは相当に異なる。痛みとその無のペアに似たものとしては、それらよりは、怒りという不快と、それのおさまった穏やかさ・無を挙げる方が、よいかも知れない。皮膚の苦痛はその反対の無を想定しないように、怒りは、それらのおさまった心のさわやかさ、穏やかさを想起するだけで、普通には、積極的に反対の行動となる愛などをペアとして想定しない。希望といえば即絶望、喜びといえば即悲しみのような相即の対立関係はもたず、怒りは、皮膚の痛みと同様に、単独に存在する感情となることが多いように思うが、どうであろう。
喜・悲では、価値物を得るのか失うのか、プラスかマイナスかということで、両者はしばしば並ぶ。だが、怒りは、普通の場合、一方的に攻撃することでその単独の感情で終わる。怒りでは、相手に、恐怖をいだかせたり、同じく怒りを生起させることがあるし、怒られるかと思ったら、喜ばれたとか、優しかったというようなこともある。何が怒りの反対感情になるかは、あっても時と場合によって異なる。怒りは、愛や恐怖とペア(対)になることもあるが、多くは、その怒りのおさまることをもって、つまり温厚・穏和の精神状態(さわやかな無)を怒りの反対とすることが多い。痛みとその無に近いものと見なせるだろう。怒りと対立的な積極的な振る舞いに注目してということなら、怒りの働きは相手を排除・攻撃し懲罰を加えるから、その反対は、大切にし慈しむというような働きに、愛の感情になる。怒りが愛に連なっていくことはあまりなさそうだが、逆の場合、愛では、それが強いほどに何かあったときに怒りとか憎しみになることは結構ある。その愛と怒りが自身のもとで同時的に生じれば、反対の心身反応をとり、相殺しあったり、相互を際立たせるものになろう。
感情の中で、単独峰で、対(ペア)の感情を想定することがないものに、驚きがある。驚かないという反対には、微睡むとか、平常・平生状態とか、無頓着、無反応といったものがあがるだろうが、普通には、驚くのか否かということであって、驚きの反対は、それのないこと、無であろう。皮膚の苦痛と似た感情としては、この驚きが、他の感情類より近いものとして挙がるかもしれない。驚きは、新奇のものに目を見張る。その反対は、驚きのない平然とした無の状態であろう。皮膚の痛みも、損傷を受けて目を見張るのであり、それにと全心身・意識を集中する。苦痛も驚きも、損傷等の新奇の事態の発生に即応した反応であり、そういう事態を意識が全力をもって把握し対処すべきことを喚起する感情になる。苦痛・驚きを解消したその反対は、単にそれらが無いだけで、平生であり平常の状態になる。ただし、驚きは、純粋なそれは、知を興奮させ、しばしば快になる点が痛みとまるで違う。もちろん、新奇のものの中には痛みを生じるようなものもある。驚喜は快だが、驚愕や驚怖は、不快(苦痛)である。
3-7-2.
快・不快(苦痛)は、重なることで加算・減算がなる
快・不快は、感じる主体に同時的に現れることがある。生の同レベルの層においてはもちろん、生理的レベルの快楽と精神的な苦痛といったものの並存状態になることもある。葬儀という悲痛の状態で、美味しい会食をし、久しぶりの友人や親せきと話をはずませることがある。それを感じるとき、それらの快不快を無関係に並列させておくこともあるが、多くの場合、それら快不快は影響しあうものとなる。どんな御馳走であっても、悲痛の葬儀の場においては、悲しみによって美味の快は小さめになる。逆に、その御馳走は、その悲しみを若干はなぐさめてくれる。
感情は、身体の表現をもつ。というより、身体的反応があるからこそ、単なる感覚、思いでなく、感情となるのである。悲しいから涙するのではなく、涙するから悲しくなるのだと言われるぐらいである。身体はひとつであるから、複数の快・不快の感情が並存するところでは、相対立する反応が生じれば、相殺しあうことになる。悲しみで身体が萎縮・緊張し無力状態になっているとき、反対の喜びが生じたら喜びの身体表現の伸張・弛緩、充実感をもつことになり、悲しみの反応と相殺しあうことになる。高貴な精神的な快も快感情としては身体反応をもち、弛緩・伸張の反応をもつ。味覚や皮膚感覚におけるものでも、快なら、弛緩する身体反応になる。逆に、不快も、精神的不快の絶望・悲嘆では、感情ということでの身体は、緊張・萎縮する。皮膚の生理的な不快・苦痛も、萎縮・緊張する。ということで、あらゆる感情は身体反応をともない、快は弛緩・伸張、不快は緊張・萎縮反応をもつから、不快系列の感情は、どんな快系列の感情とも、相殺しあうことになる。とともに、反対の感情は、相互をそれとして際立たせあうことにもなる。寒さの外気と室内の暖かさを感じあうような体験では、相互の快不快を強く感じることである。
快系列の複数の快(食の快と会話の快など)があれば、快は大きくなる。美味を味わうことで快となり笑顔となる。さらに会話の楽しさの快が加わり、一層快適な笑顔になる。精神的に楽しい会食の場合は、食の味わい自体も、それが美味なら一層美味と感じられることになる。精神的に楽しさの快で弛緩・伸張しているのに加えて、美味の快が身体を一層弛緩・伸張させる。快の加算である。逆に、苦痛・不快とは、同様に、プラスの快からのマイナスの不快の差し引き計算となるであろう。相互に減殺・相殺しあうことになる。
3-7-2-1.
異質で比較困難な快不快を、量化して比較する
快不快は、それを受けとる主観において、比較可能な量に還元して取り扱われる。どんな快も、食の快(美味)も数学の難問を解いての痛快さも、同じ主観における魅了され惹かれる快としては同じである。快楽となる脳内のホルモン分泌をして、心身を同じように弛緩・伸張させて快にと同質化される。同質のものとして量化されうる。快不快の諸感情のうち一つを選択するとしたら、それらを快不快のプラスとマイナスの量のちがいによって比較し、より小さな不快(苦痛)、より大きい快となるものを選択することになる。
感情は、かならず身体反応をもつ。これがない場合は、単に感覚であったり知的営為にとどまり感情にはならない。悲しみは、価値喪失という解釈(知)をもってはじまるが、感情となるのは、身体反応をもって萎縮し体温を下げ、目に涙を出すようなことがあってである。怒りでも、気障りと判断するだけでは怒りにはならない。筋肉が活発に動けるように血圧をあげ身体を緊張させ攻撃的反応をもってはじめて怒りの感情となる。その身体反応としては、どんな感情も快か不快か(弛緩・伸張か緊張・萎縮か)に同質化し量的にとらえることが可能である。美味の食べ物の快感情と怒りの不快感情というまるで異質の無関係の感情でも、快不快の心身反応をもつ感情に還元して、比較可能となる。
もちろん、その快不快の量的差異は、その出来事の質やかけがえのなさなどといった価値を無視してなりなっているものである。本来、その各営為の本質、その固有性を大切にしている人間的生であるが、物の交換とか償いなどにおいては、異質のものを比較可能にする必要があり、これを等質化し量化することが行われる。同じ人間の営為として、償いでは同じものを返してほしいということがある。それが自然感性のレベルで計算される場合、すべてが快不快に還元可能であるから、快と不快の量的計算をもって行われることになる。相手に過失で打撲の苦痛(不快)を与えたのなら、相手に殴打してもらう同質の償いもありうるが、それでは痛み・損傷を二倍にするだけだから、多くは、それに相当する量の快となるお菓子などをもって償って帳消しにする。質を無視して量化した快不快に還元しての計算が行われる。ただし、快は多くの場合瞬時に終わり、苦痛は長く続くから、量的な比較・計算は、単純にその持続時間に還元はできない。かつ、同じ快でも、飴の快と、賛美された嬉しさの快は、希少性とか高貴さとかの質的違いをふまえた上での総合点としての快の量となろうから、快不快の計算は直観的にはスムースだとしても、厳密に分別して計算するのは意外とむずかしいかも知れない。
しかも、快不快の計算で動くのは多くの場合、自然感性の世界になる。精神世界では、快不快は些事にとどまる。真実の価値は、快不快では決まらない。13より12の方が快だとしても(したがってそういう数入ったお菓子の袋を選択するときには、13の不吉不快を大きく感じて12個しか入ってない方を選ぶとしても)、6+7では、12をとることはできず、不快でも13にしなくてはならない。契約したことは、どんなに不快であってもこれを甘受して履行しなくてはならない。身近な自然的感性的生活レベルでは、しばしば快不快に還元しての量的計算をしているけれども、理性的合理的に動く社会生活においては、快不快は、無視しうる些事にとどまることが多い。
3-7-3. 苦痛は、快で中和できるが、持続の点で難がある
苦痛があっても、これに並行して別の快楽が生じれば、その苦痛は軽くなる。悲痛に打ち沈み小さくなっていても、同時に別のことで歓喜するとしたら、歓喜では大きく胸を張ることになるから、縮こまる悲痛は、その間相殺されることになろう。あるいは、脳内において、快と不快との相対立する作用をするホルモン類が分泌されて、両者は脳内で相殺しあうこともあろう。
どの苦痛(不快)系の感情も、ながく持続することが多いが、快は、すぐに消滅する。苦痛は、損傷発生を語るのだから、それからの回復のなるまで注視が必要で長く持続しなくてはならない。だが、快は、事がうまくいったという褒美であり、これは長く続いたのでは、それにのめり込み不注意状態を続けることになるから、短時間で終わるのが理にかなっており、そのようになっている。価値喪失に抱く苦痛の悲しみは、その喪失の解消のなるまで続く。損したことは忘れない、いじめられた者は、仕返しのできるまでいつまでもこれを覚えている。だが、喜びは、価値獲得がなったということであるから、勝利のエネルギーの余剰分を出したら、それで終わりであり、すぐに忘れる。いじめた者は、いじめを覚えていることは少ない。その点からいうと、快苦の相殺は、簡単にはいかないかも知れない。苦痛は、長くつづくから、これを抑えるに快をもってするとしたら、種々に快を反復して与えなくてはならないことになる。
どんな感情でも、ふつう、快は短く、不快は長い。身体反応として対立的になるから相殺しあうとしても、不快・苦痛は持続するのに対して、快は短期に終わり、その中和は、一時的なものに終わる。愛しい子供を亡くした親は、おそらく、死ぬまで悲しみを持続させることであろう。逆の喜びでこれを中和し慰撫するには、喜びの快感情は、価値獲得の瞬時といってもいいぐらいの短期になるから、重ねて快となるものが必要となり、困難極まりないことになる。幸い、ほかのどんな快でも、快として悲しみの苦痛をなぐさめうるから、長く簡単に得られる快をもって悲しみの苦痛を中和することになる。子供なら飴玉を与えれば、長く快が続くから好都合であろう。よく見られるのが、酒で憂さを忘れるというやり方である。それでも、酩酊の快は何時間か続くだけだから、醒めると、場合によると一層の悲哀状態を再開することにもなりかねない。
快適な感情のもとにある者は、それで充実しているのであり、これを不快で中和して無化する必要などない。要は、不快・苦痛に囚われている者をなぐさめるために、快をどこかから仕入れてきて苦痛を若干でも小さくすることである。しかし、快は瞬時に消えるのが普通だから、苦痛の人を反対の感情をもって慰めるのは、困難である。悲嘆している者を慰撫し気力を回復させるには、反対の感情をもってくるだけでは、無理があるということになろう。悲しみの感情を中和し無化するには、快の感情をあてがうより、何といっても、悲しみの原因となった価値を回復して、喪失をゼロにすることであろう。傷の痛みをなくするには、飴を与えるより、傷を治すのが一番である。
3-7-4.
快・不快の相互を強く感じる場合
快不快が同時に生じる場面では、相互が反対に振舞い相殺しあうのが基本となろうが、これが継起的に生じる場合は、おそらく、多くが快不快の相互を際立たせることになる。楽な仕事の後の苦しい仕事は、苦しさを際立たせ、かつ、先の楽な仕事も、より楽だったと感じて際立たつことになろう。対立する色は、混ざって混色になれば、もとのものを相殺しあうが、そうならずに並んでいるのなら際立たせあう。
喜び悲しみが一体的に生じると中和する(一つの事態において同時なら、つまり5千円もうけて4千円損したのなら快不快が相殺しあうだろう)が、価値の喪失の事態と獲得の事態が同時でも、別々の事柄ということになる場合は、この事態そのものに注目すれば、この同時的な快不快の相互は際立つだろう。家に子犬が産まれて喜んだとしても、親犬が同時に死んだら悲しいこととなる。その二つのことは、おそらく、その喜びと悲しみを際立たせるのではないか。
この世は苦楽からなるが、苦が際立ち、苦界ということがある。苦楽、喜び悲しみの対立感情を同じように悲喜こもごも種々に体験した場合、快の方はすぐ消えるのに対して、苦・悲しみは、圧倒的に長く続くから、総じての苦界というレッテルは、体験的に納得できることになる。しかも、快を得るために苦労し忍耐して苦痛を甘受する。もちろん、その苦労の過程は長い。その成果を味わう快は、瞬時に終わる。苦痛が圧倒的といいたくなる。そんななかでの喜びなどの快は、希少のものとして際立つが、これも苦界、苦海を際立たせるための薬味でしかないように思えなくもない。
庶民は、価値獲得の苦労をしても、成果(喜び)は支配階級に奪われるから、苦を多く味わうことになるのだが、おそらく支配階級の者も苦界を脱出することはできない。贅沢も慣れれば普通のこととなり、庶民には喜びのものが、贅沢できないというだけで苦痛になるから、場合によると庶民以上に苦痛を感じるかも知れない。いずれもが、この世は、苦の世界、苦界、苦海だと感じやすいことになる。苦ばかりがあれば、そうでもないのだろうが、楽・喜びが時にあるから、苦が一層際立つ。そういう苦の満ち満ちた世界で、ときに楽・快が与えられれば、泥中の蓮の花のように、これも際立つ。
3-7-4-1. 快不快が一つになり異なった感情を生じることもある
対立する感覚・感情(快不快)は、相互に影響しあって、これらをより際立たせることもあれば、相殺しあうこともある。さらに、ときには、総合されて別のものにと揚棄されることもある。温覚と冷覚は、風呂のお湯の温度でしばしば経験するように、その快不快の相互を際立たせるが、熱(温度)はひとつになるから、その点からみると、中和し相殺して一つの温度となってその温度と体温との関係で快か不快になる。しかし、冷覚温覚が同時に働く総合的な状態にした場合は、暖かくも冷たくもなく、別の感覚・感情、痛みを生じるようになると言われる。もっとも、これは、冷覚と温覚の総合というより、熱さ冷たさは、強烈になると(皮膚を損傷し)痛みになるように、冷・温の同時受容の中で強烈と錯覚して痛みとなるのではないか。
触覚でも、快不快の混合・総合的状態になるとき、特殊な感覚・感情をもつことがある。「くすぐったさ」は、触れられて生じるが、快がまさるとしても不快の混ざったものであろう。これは、急所に感じやすい。急所が襲われて苦痛を予期(恐怖の緊張)しながら、安全と分かりその苦痛がなく緊張解除の笑いを生じて、不快を踏まえ混合した快になるのであろう。「かゆみ」も、軽い痛みと快とを総合した、痛みでもあり快でもあるといった状態になる。痛み(というか異物が触れている感覚)とこれを搔きたい(異物を取り除きたい)という衝動の一体となったもので、搔けば、衝動が満たされて、かきむしって自らの作る真性の痛みと混ざった心地よさをもたらす。
味覚(の感覚・感情)の場合は、おいしい・不味い(快・不快)は、混合・総合の在り方次第で、別の味わいを生じることになる。チョコレートは、甘いからおいしいのではあるが、それだけでは魅了するものにはならない。不味い苦味があってこその独特の美味しさであろう。その砂糖の甘さと、ココアの苦味の両方が微妙に総合された(隠し味的な脂肪分なども加わって)独特の味わいにチョコレートの魅力はある。苦味や酸味は、それ自体は、不快な不味いものであるが、それを甘味のなかに加えると、甘味と苦さ・酸っぱさが一体となって総合された独自のうまさをつくりだす。が、渋みではそれはない。もっとも、お茶の場合(味覚の鈍化した大人に限ってのことだが)、軽い渋みは、穏やかな苦味とともに総合されて美味さを構成する要素となる。
人間関係は複雑怪奇で微妙なものであるが、そこでの快不快の感情も、その混合・総合状態において独特なものとなる。磁石なら引っ付くか反発するかと単純だが、人間関係では、引っ付きながら微妙に反発したりと複雑になる。「嫉妬」とか「やきもち」では、愛がありつつ、時に怒り・憎しみが生じる。愛憎の混合・総合した感情である。「義憤」は、正義心とか博愛といったものをもってのもので、怒りを主軸においた総合的感情と見てもよいであろう。「苦笑」は、快の笑いの装いをもちつつ内面では苦々しい思いになっていて快不快の両面を含む。「諦め」の感情は、喪失の悲哀感情でありつつ、喪失からの回復(執着心)を全面放棄しているような場合、ときに緊張解除に生じる笑いも含んで、さっぱりした心持になる。「充実感」は、それ相当の負担を踏まえての満足感で、身体が疲労して苦痛でありつつ精神的には満足し快適といった具合の総合的全体になる。
3-7-5.
苦痛に慣れる場合、敏感になる場合
特定の苦痛について、訓練しこれに慣れて苦痛でなく平気になれるようにすることがある。正座をしなくてはならない場合、この苦痛に耐えることを重ねていくと、慣れて、これが苦痛でなくなる。苦痛が苦痛を抑止し止揚していく。慣れると腰掛けるよりも正座の方が楽になる。かつてはバスや電車の座席に正座した老人をよく見かけたものである。苦い薬なども、はじめは嘔吐するようなものでも、慣れてくると平気になる。嫌いなニンジンに我慢していたら、やがて慣れてきて、嫌いでなくなる。スポーツの練習のように能力を高めるのではなく、逆に、(特定の苦痛感覚の)能力を低くし鈍感になるのである。
苦味や酸味も、これを味わうことを反復すると平気になってくる。意識してそういう鈍感化を目指すことはあまりなかろうが、苦痛には多くの場合慣れてくる。ジャズが不快だったものが、勤務先のバックミュージックで聞くことに忍耐させられていた場合、平気になってくる。交通騒音・セミなどの音も慣れればなんでもないものになる。欲求の場合、抑制して不充足の辛苦を反復していると、しだいに欲求が変容して無欲になることもある。性欲とか贅沢品への欲求は、個体にとって食欲とはちがい、なくても生に悪影響はないから、挑発されることなく満たす機会のない状態がつづくと、しだいに苦痛どころか欲求自体がなくなっていく。免許のない人は、車購入への欲求などもたない。刑務所では、食欲はいつまでも旺盛であるが、性欲は、挑発するものもなければ、早々に消えていくという。禁欲の忍耐では、禁酒・禁煙のように、苦痛のもととなる欲求自体を小さくしたり消滅させることがあり、そうなると(苦痛の)忍耐も無用になっていく。
反対に、慣れず苦痛に過敏になることもある。騒音の苦痛は、気にし出したら、小さな音でも苦痛になってきて過敏になっていく。嫌いな食べ物は、重ねるたびに大きな不快になることがある。漬物の嫌いな人は、臭いがするだけでむかつくようになる。苦痛は損傷によって生じるが、その損傷が消えるよりも蓄積されるような場合、同じ損傷を受けてもより多くの損傷の蓄積になるから、より過敏に反応し苦痛を大きく感じるのは、理にあっているであろう。暴力団の嫌がらせなど、はじめは小さな苦痛であっても、それが重なるとその度に、同程度の脅しでも、より大きく苦痛を感じて音を上げてしまい、彼らに屈服してしまうようなことがある。身体の反復する痛みも、気になって、(損傷が大きくなっているのでもないのに)しばしば大きく感じるようになる。不安なども、病的になった場合、思いもしないような場面で不安感がでてくるようなことが重なると、これを大きくする。苦痛に、より過敏になるのは、機敏に対応が取れることとしては、正常な反応であり好ましいことである。が、そのことが生全体にとっての負担を大きくし苦痛感情自体が生にダメージを与えるような過敏状態になるのでは、有害で余計な苦痛となって困ったこととなる。
3-7-6.
苦痛に麻痺し過労死等の悲惨も引き起こす
ひとには大きな適応能力があり、辛苦にも、反復のたびに、よりよく適応できていく。その方面の能力自体がそのたびに向上する。以前の苦痛と同じなら次第に平気になってくる。だが、それにも当然限度がある。限度を超えて苦痛・損傷を受け入れていると、生は回復できないような悲惨な事態になっていく。木の枝が相当程度まで曲がって耐えていても、どこかで支えきれず折れるようにである。忍耐強い者ほど、疲労蓄積に耐え、その無理が巨大になってしまい、ときには過労死にまで突き進んでいくようなことになる。苦痛に、よりよく耐えて、より大きな苦痛もだんだん平気になるとしても、普通、損傷は、主観がいくら頑張ってみても無理となる限度をもっている。苦痛なら、耐ええない激痛になっても気絶して受け入れ続けうるが、そのとき損傷の方は一層破壊が進むことになり、回復できない破滅的なものとなる可能性がある。
大きな損傷になっていても、疲労が蓄積していても、鈍感になって気づきにくくなることがある。苦痛に対して麻痺した状態にすらなる。激しい損傷では、意外に痛みはそれほどでもないことがある。強く殴打された場合など、その箇所では、痛みではなく衝撃が感じられるだけの麻痺した状態になる。痛覚もつぶされたかのような状態になる。仕事で過労状態が続くと、それに加えた苦痛・苦悶を生じても、余計に辛くなるだけということであろうか、その疲労はあまり感じなくなり困憊は麻痺状態といったものになっていく。そういう疲労への麻痺状態がさらに進めば、当然、心身は生の限度を超えて、ついには死に到る。過労死にまでなっていく。
ひとは、強い意志をもって苦痛に耐えることができる。苦痛の忍耐では、目的となるものの手段として、目的に見合った苦痛と損傷を踏まえながら、耐えうる限界を定めつつ苦痛に対処する。かりに目的が巨大な価値をもつものなら、身体の損傷が大きくなってもこれの激痛を甘受できる。ひとの意志力は強大である。呼吸停止の競争ならば、限度を超えて耐えていく意志があっても、気絶するようなことになって限度を超えたことが明確になる。拷問では、味方を売るように、あるいは、棄教するように等と責められるが、信念のある者は、どんな激痛にも耐える。激痛に耐え、気絶するような苦痛の限度を超えた状態に耐え、命を奪われるような事態にも耐え抜くことができる。殉教者の場合、拷問の激痛は、耐えうる限度を超えていても、そのことで天国・極楽に行けるのだと確信していて、その拷問において、苦痛どころか恍惚状態で絶命するようなことがあったとかいう。
3-8. 苦痛が、快を可能にすることがある
苦痛(不快)は、その反対の快を際立たせることがあるが、さらには、苦痛が快にと変換されることもある。苦痛があって初めて、その快の可能になる類のものがある。安心・安堵は、その快自体を直接求めることはできない。不安とか恐怖の苦痛・不快があって、それの消去において生じる快である。危険を感じる状態に不安を抱いて、その危険の除去のなるところに安心感は生じる。危険が無として定着したら、安心感も消滅する。安心・安堵の快を味わうには、それに先行して危険への不安・恐怖をもたねばならない。バンジージャンプの快など、死に直面しての危険をしっかりと味わうことがあって、そののち危険消滅の大きな安心・安堵の快感を抱く。ここでは苦痛が快を可能にする。
快感情は、心身を弛緩・伸張させ生の高揚をもたらす状態であろう。脳内にはいわゆる快楽物質のドーパミンやセロトニンなどのホルモンが分泌される。これは、食の快の場合、反対の不快・苦痛はなしでの快楽となる。例えば、甘いものを舌で感じ取り、それがのど越しで摂取を確定したとき、甘さの快感に浸ることになる。性欲や食欲の場合は、苦痛・不快なしでの快楽である。生維持・種保存を可能にする事態に快を添えるのであって、その快に関しては、不快、苦痛は、はじめにも終わりにも、無いのが普通である。
生は、おのれを支え、より良く生きるために、身の危険や苦痛から自己を保護し、より豊かで高度の営為を求めていく。そこでは、損傷とか重荷には苦痛を感じ、それからの解放には、安心とか安楽という快をいだく。食欲・性欲の快とちがい、損傷や負担への対応では、まず、苦痛・不快があり、それからの解放に快をいだく。有害なものの無だけでは、快にはならない。かりにそういう無の持続に快を抱くのだとすると、無事の体中から快感が生じて穏やかに過ごすことはできなくなろう。損傷や危険の無それ自体は、感情的に無にとどまるのが正解である。つまり、損傷等への苦痛があってそれの除去がなったところのみに、苦痛・損傷からの回復を促進する飴として快を抱くこととなり、苦痛に快が続くという形になる。安心・安堵の快は、それのみでは生じない。損傷とか危険への苦痛・不安といったものがあっての、それの解消としての安堵の快である。苦痛が快へと変換されることになる。遊びでは当然、快を味わおうとするが、意外と危険(不快)を踏まえるものがある。非日常の(本当は安全な)危険体験であり、その危険の不快が快を可能にすることがあるからであろう。
3-8-1.
健康の快は、病い(苦痛)があっての快
歯痛は、抜歯して苦痛の原因を取り除くと、その治療がうまく済めば、その痛みをなくして一安堵でき、快適となる。抜歯で無痛となって、その痛みの名残がある間、さわやかになったと快をいだくことになる。だが、それは、虫歯・抜歯の痛みがしっかりと消えるまでの短い間の小さな快である。快適な状態がもどってくると、もう快を感じることもない。虫歯(苦痛)の無い健康状態自体は、無感覚・無感情である。
一般的に病気では、その疾患の部分が痛む。苦痛が続く。それの治療で病気(苦痛)が解消できたならば、つまり、健康を回復するなら、その病気の名残を思いつつ、健康のさわやかさの快を抱くことになる。この健康のさわやかさの快は、病気が治った当座感じるだけで、病気のことを忘れるとともに、その健やかさ、さわやかさの快も消失する。その健やかさの快をそれだけで感じることは、できなくはないだろうが、普通はしない。するとしたら、自分の過去の重病を想起したり、周囲の人の病気での苦しみを知って、健康はありがたいものだと思うところで、若干の健やかさ・さわやかさを感じることができる程度であろう。
病気ではなく日々の健康な状態のもとでも、力を入れて筋肉を使えば苦痛であり、腕に力を入れ続けるのは、辛いことになっていく。その辛さ、苦しさから解放されるには、その筋肉使用をやめればよい。その解放には、即、楽になったと快をいだく。筋肉の緊張状態からの解放・弛緩において、無苦の快、楽を感じる。この快・楽は、筋肉を使った苦痛があって、これから解放されて筋肉が無苦になったことを感じる快・楽である。その筋肉使用の苦のことを忘れる状態になると、もうその快・楽も消失する。一般的に言って、苦しみなどの苦痛を抱いて、その後これから解放されたときには、その苦の無化に快をいだく。それは、身体の損傷、病気とそれからの健康の回復ということに限らず、一般的に苦に耐えてこれに悩んでいた場合、これから解放されれば、その苦痛の無化の解放感を快として感じる。難事に取り組んで苦しさを感じている状態で、それを仕上げてその苦しみが無くなったら、その無に快を感じる。それは、だが、その難事への苦痛の名残、若干の疲労が残っているようなときに感じる快であり、その難事由来の疲労がなくなったら、もうその解放感の快も消失する。
こういう快は、苦痛を必須の前提にし、いわば苦痛を原因にして成るもので、その快だけを感じることはない。食や性の快の場合は、直接に快楽の器官があって、その器官を刺激するなら(食なら確実に栄養摂取がなるのど越しに、性なら、男だと受精が実現できる射精において)、直接に快楽を得ることができる。だが、歯痛も病気も、身体の筋肉の使用でも、それらにいだく快は、そういう器官をもたない。痛覚はあるが、快覚は存在しない。その快を可能にするには、まず、反対の苦痛を体験して、それの解消・無化をもたらさねばならず、そこに生じる消極的な感情としてその快を味わうこととなる。ここでは、苦痛は損傷からの回復を急かせる鞭となり、苦痛除去になる快は、その回復促進を一層進める飴となる。
3-8-1-1.
快のために恐怖などの苦痛を求めることがある
苦痛は、その消失時、快をもたらすが、日常的には、その快感を得るために苦痛をわざわざに求めることはない。苦痛の方がよほど大きいことで、苦痛を解消しての快は、些細なものでしかない。だが、遊びでは、快を得るために苦痛をことさらに求めることがある。ローラーコースターとかバンジージャンプでは、大きな恐怖・不安を感じるが、これが結構流行っている。高いお金を払って、恐怖とか不安そのものを感じることを求める者はいないだろうから、それらの苦痛を手段としてのみ得られる大きな快がそこには生じているのであろう。つまり、恐怖や不安の苦痛をもって、それをはるかに勝る快・満足がそこに得られているものと推測できる。
子供が蛇を見つけて、これをいたぶることがある。恐怖心をいだきつつ、これを楽しんでいるように見受けられる。その場合は、恐怖心のあとに、その苦痛にまさる快楽がそこに生じるから蛇を遊び道具にするというのではなかろう。奇怪で稀なものを見つけ出して、それがどう反応するかを見たいという好奇心がかきたてられ、奇怪な魔獣は退治してやるという戦闘的な勇者となって高揚感をいだき、これをいたぶることに向かわせるのではないか。日常性に飽き飽きして何か変わったものはないかと探している中で、非日常の奇怪なものに遭遇し、これを退治し、これに勝てるというチャンスが(ひそやかに生きている平和主義者で悲運の)蛇との遭遇である。
だが、ローラーコースターやバンジージャンプの場合は、好奇心を満たすためということはまずない。高所から飛び降りることにことさらに好奇心が働くことはなかろう。だが、まちがいなく、強烈に恐怖心・不安感が生じることで、その苦痛を十分に承知して、若干、勇気を奮い起こしてのもの、つまり恐怖・不安(苦痛)が必至ということが主要な事柄となっていての、遊びである。もちろん、恐怖自体を求めこれを楽しむということはない。それを求めたいのであれば、暴力団の事務所で挑発でもすれば、無料で恐怖は味わえるであろう。が、恐怖だけでは済まず、相当の惨事を覚悟しなくてはならない。バンジージャンプは、最後は、絶対に安全に終わるということを踏まえての恐怖体験である。恐怖の苦痛を介してのそれのなくなった無の安心・安堵の快感を求めているのであろう。その恐怖を抱く間に緊張・萎縮し、意識は身体落下の一点に集中して全開状態となり、おそらく、脳内には過度の恐怖に対応してこれに耐えうるようにと快楽物質のオキシトシンとかドーパミンあたりが分泌もされて自己慰安することも始まっている。そこでの危険の突如の消滅である。恐怖がなくなることで、その自慰の快楽物質の余剰分を享受でき、これを味わうことも加えての大弛緩の安楽の結末である。恐怖(苦痛)をもってのみ生じる安堵(快楽)の醍醐味ということになる。それがこういう危険を売りにする(安全な)遊びを求めることになっているのではないか。
最近また、「お化け屋敷」が復活しているとかいう。これも、恐怖させて、しかし、本当は安全で安心・安堵の快をもたらして楽しませるものであろう。バンジージャンプと同様、好奇心を満たそうというものではない。どのお化けも幽霊も周知のものがでてくる。要は、恐怖させるのである。しかも、決して本当の危険・損傷はないということを大前提にしたもので、見せかけに一瞬恐怖させられ、即安堵にむかわせて、恐怖にともなう苦痛軽減の脳内分泌の快楽物質の余剰分を感じ、さらに弛緩、安堵の快を享受しようというのである。バンジージャンプとちがい、その恐怖と安堵を何回も反復し、しかも、恐怖の内容が身体の落下(死亡)一本というのとちがい、攻撃されパニックになる恐怖とか、気味の悪いものへのゾーとさせられる恐怖といった多彩な恐怖と、したがってそれぞれの安心・安堵を享受させるものとなる。
3-8-2. 笑いや、くすぐったさも不快の緊張あっての快であろう
笑いの快は、不快・苦痛なく、それ自体で快となるように思えなくもないが、やはりこれも不快を先行させており、その突然の無化に生じる快であろう。笑いは、緊張があってそれが突然解除された弛緩にいだく。こどもが舞台でつまずいても笑わないが、校長先生がマイクの線に躓いたら、どっと笑う。校長先生への緊張と、彼が意外にも愚かなことをしてのその緊張解除=弛緩という展開である。緊張は不快であり、その弛緩は快となり、余剰の緊張分がどっと吐き出されて笑い声となる。子供の失敗は、はじめからリラックスしているから、緊張がなく、笑いにはならない。はじめに緊張(不快)があってその緊張の解除にいだく独特の快が笑いであろう。
緊張からその解除のリラックスへの展開は、苦痛・不快から快への展開だが、それだけでは、だが、笑いには不足する。社長が現れて緊張していて、消えての緊張の解除の安堵の快は、笑顔になるとしても、笑いにはならない。面接試験で緊張し、それが終わったときの弛緩の快もこれである。笑いは、もっと別のことがなくてはならない。それは、単に緊張を解除するのではなく、緊張させるものについて、価値の突如の下落が肝心である。校長先生の失敗を笑うのは、単に緊張を解除するだけでなく、偉い人と高く位置づけられているものが、突然、愚かしいことをして価値下落することを踏まえる。偉い人ということで緊張していたのに、愚かしいことを見せて、緊張を解くのだが、そこには、見下し、自分より愚かという意識が生じ、自分に優越感をいだきつつ、自分以下にと突き放す痛快さがあっての笑いであろう。
緊張解除だけで笑いを生じるのではと思われるものに、くすぐったさの快がある。これは、身体の急所が襲われそうで緊張させられて、それが無用と分かって生じる、笑いを伴う快であろう。これも単に、緊張が先行してその後安全と分かり弛緩・リラックスするというのではない。緊張と弛緩の間の独特の展開がありそうである。危険かもと緊張をさそい、危険はなさそうだと弛緩しはじめ、やはり危険で緊張が必要かもと反復して思わせるもので、緊張と弛緩の反復・アンビバレンスがあっての笑いの表現をもった快になろう。笑いは、「はっはっは」と、息を吐き出す弛緩と、これを即、止める緊張とを短周期でくり返す。くすぐる場合も、危険で緊張しそれが無用で弛緩しということを反復して、同じ呼吸をもたらす。笑いの呼吸法をとれば、心も笑むということになる。くすぐったさは、自分でしても生じない。危険という意識が生じないからであろう。まるっきり知らない他人がする場合も、くすぐったさとはならない。危険への緊張を最後まで解けないからであろう。これらに対して、親しい者がくすぐるときは、危険ではないという意識を根底にもつが、それでも、急所のことであり、まったく危険でないと断定もできないという状態になる。危険な急所であり、緊張を残しつつ、おそらく安心と思い、緊張と弛緩のアンビバレンス状態に、緊張解除を主にして快となるのであろう。
皮膚のかゆみを搔いての快も、緊張(苦痛)を踏まえた弛緩の快であろう。これは、他人の関与なく自分だけで十分に快感を得ることができる。かゆみでは、皮膚に異物が感じられて不快・苦痛で緊張し、それを搔いて取り除きたいという衝動をいだく。不快な異物を除去したいと、その衝動を満たして搔けば、弛緩し快となる。搔けば、さらに傷ができて痛みが生じる。その搔いての痛みも、衝動を満たす中でのことで、自身が調整できる痛みであり、快の一部になっているような気分であろうか。血がにじむぐらいに搔いても、その搔く衝動を満たす快の方が大きく、ついつい血が出てきても搔きたくなる。痛くて気持ちいい状態となる。
3-8-3.
苦痛の持続で、自ずと快の生じることがある
生命は、損傷を受けても、それからの回復がおのずからになるように自然治癒力を備えている。苦痛も、単に、危機の警報を鳴らしその苦痛を嫌悪・回避することへの衝動をもつだけでなく、その苦痛に打ちのめされて、まともな対応ができなくならないようにと、その苦痛に過剰反応して元も子もなくすることがないようにと、これを和らげることを自身においてする。脳内がパニックになりダメージを大きくしないようにと自身を慰安する。苦痛が続けば、心身がダメージを受けるので、これを和らげ治癒するようにと脳も反応して、麻薬様の物質も分泌するようである。
苦痛の軽減が必要と思われるとき、麻薬を使用することがある。快楽を与えることで、反対の苦痛が中和されて楽になる。それに似たことを自然も行い、苦痛持続のなかで脳内に快楽物質となるホルモン類(エンドルフィンなど)を分泌することがある。マラソンでの「ランナーズハイ」と言われるものはそれになる。40キロという長距離の苦闘のなかで、心身は疲労し苦しむ状態になる。その中で、自己慰安するように、脳内麻薬が分泌されて「ハイ」の状態になり、苦しさを忘れることが可能になるようである。
激しい宗教的な修行では、恍惚状態になることが言われる。自らが作り出す苦痛・苦悩であるから、自らにその慰安も準備することになるのであろうか。悲しみに苦悶状態になるとき、泣いて涙を出すとか、誰かに訴えるようなことをすると、その苦悶が和らげられる。周囲からやさしく慰められれば、これに快をいだいて、悲しみの苦痛は和らげられる。ひとは、自身を対象化して、かわいそうな自分だと自身で自身を慰めもする。自慰である。痛み一般についても、意識することはないけれども、自慰(快の湧出)を何らかの形でしているのであろう。それが顕著になって意識できるのが、長期の苦痛で心身が困憊状態になるマラソンとか宗教的な荒行に見られる、恍惚とかハイになるのであろう。
苦痛感情は、苦痛自身を回避しようとの衝動をともなう。苦痛を感じれば、感じないための方策を必死に探して動く。苦痛は自身を回避・止揚する衝動をもつ。同時に、生は、苦痛を回避するだけでなく、反対の快という健全な、価値ある生の状態を希求する。鞭を回避しようとする消極的なことにとどまらず、価値となる快、飴を求めることを他方ではする。苦痛は、苦痛回避を、快を希求する。不安に苦しむ者は、安心・安堵を求めてやまない。不安の原因が除去されるのがまっとうな解決であるが、それができず、その不安解消の安堵のならない場合、代わりになるもの、飲酒などの麻薬でごまかそうともする。何らかの形で自身のうちで慰安がなるならそれを求める。念仏を唱えたりすれば、一時の慰安はなる。脳内自身で慰安を行うことができるなら、そうするであろう。苦痛自身が快を求め生み出していく。
3-8-4.
苦痛を快とするマゾヒスト
マゾヒストは、性的快楽の手段として苦痛を求めると言われる。普通、SM(サド・マゾ)趣味で言われるのは、苦痛をもって快一般を求めるのではなく、性的快楽に限定したものである。夜の世界にはSMクラブ(性的被虐・加虐を楽しむ性風俗店)があるというが、まさか、弁慶の泣き所を殴打してみたり、無色の入れ墨を重ね彫りして激痛を与えあって苦痛自体を楽しんでいるのではなかろう。マゾヒストは、苦痛を介して性的な快楽を求める特殊な快楽主義者になる(心理学方面では、これを性的なものに限定せず、自傷・自殺など人の行為全般における被虐的性向を問題とする。親から虐待され、その苦の代償として愛=快が得られるといった、幼児の被虐による快の体験の固着等を分析する。が、ここでは、世間で一般に喧伝されているもの、苦痛を通して性的快楽を見出すことに限定しておきたい)。
ひとになる前は、オスはメス争奪の死闘、メスはその余波のもと乱暴な扱いといった興奮を踏まえての性的快楽だったであろう。そういう先祖がえりをしているのであろうか。原始時代には、男でも女でも、襲ったりあらがい抵抗し性的興奮状態に入ることがしばしばあったであろう。略奪婚という言葉が残っているが、女性は乱暴に扱われることが多かったようである。男子も村外のものとの結婚では、乱暴なことを村の若者からされるのは普通だった。穏やかなものであっても、好き合っての結婚など稀で、遠方との縁組では結婚の日まで相手の顔を見たこともなかった。男子間のレイプが最近言われるが、江戸期など、若道もごく一般的であった。もちろん、される若者は嫌だったにちがいない。男子はいくら抵抗していても射精したら快楽をいだいてしまう。男子のこの屈辱の射精と同じように女性でもそうなる場合があるのかも知れない。そうだとすると、苦痛の興奮状態の中でそれが快にと変わるのである。
マゾ・サドの演技というと、前者は鞭うたれる奴隷に、後者は残虐な支配者に扮することが目に浮かぶ。そういう関係において両者に性的に快感が生じるようである。奴隷となってすべてを放棄した状態で、絶対的服従・依存のもとに安らぎ・歓びを感じ、他方は、支配者の優越を、むち打ち懲らしめることで感じることができて、相互に満足がいくのであろう。あたかもこのマゾであるかのように、おぞましい虐待を受け続けた幼い子供は、その親が逮捕されるとき、虐待されていたにも関わらず、これをかばうという。悪いのは自分で、罰せられて当然だったのだと。受苦をもって、親に捨てられることを防ぎ、愛をもらえるといった機制になっているのだと言われる。それが大人になってのマゾにつながるのだとすると、哀れを誘われる話である。
サド、加虐性愛の方は、苦痛を加えることに、快をいだく。性愛に限らず、これは、よくあることである。攻撃欲、支配欲の充足の快だろう。かつては、捕虜を残虐に殺して楽しむような王たちがいた。いまでも、こどもは無邪気に蛇に石を投げつけて興奮して楽しむ。自身が優越感をもてることで、支配征服する楽しみであろう。加虐を多分に含む支配は、人類の根本の営為である。サドは、そういうことでは、行きすぎではあるが、あって普通のこととして、マゾと違って理解しやすい。ただし、相手への暴力が性的快楽を呼び起こすサドの肝心なところは、行きすぎだけでは片付かない。異性獲得時の暴力あたりが始原になるのであろうか。
3-8-5.
難行苦行の結果としての快
苦痛の行為を受け入れることで、その結果として、快の獲得できる場合がある。苦行では、そのこと自体において、脳内に苦痛を軽減するように自慰する脳内麻薬が分泌されて快となることがあるが、それではなく、苦は苦としてありつつ、苦の成果の方面から大きな価値と快が可能になるという場合である。最も卑近なものとしては、日々の労働がこれになろう。苦しい労働を受け入れ、苦しさを耐えることを通して、その結果として、かならず、その成果がなり、価値あるもの・快が実現できる。農作物の収穫は楽しい作業であろう。それは直接的には苦労だが、その労苦の一歩一歩は、穀物などの確実な一段ずつの獲得であり、享受となり、快となる。苦自体が快を産出するのである。その労苦の過程自体は、苦痛であることにかわりはないが、その実った穀物の収得は快であり、その享受も想定できれば、さらに快である。労苦自体も充実感という快をいだく。
宗教的な修行も、未来の結果に悟りとか天国・極楽を想定でき、実際のその大安楽の世界自体は死ななければ体験できないとしても、この世のその修行自体において、その極楽などを想像するならば快となる。修行中の者は、しばしばその成果となるはずの極楽行を夜、夢に見て歓喜した。その修行そのものを重ねるほどに、そういう世界が確実になるのだと思えば、はげみとなり充実感を抱ける。苦があればあるほど、確実に未来に大安楽の世界が得られるのだ、一歩一歩それに近づくのだと、精神は快をさきどりできることであろう。苦行をしていると、脳内に快楽物質が分泌されることがあるから、その恍惚感が出てくるであろうが、それとは別に、本来的な、求める極楽の快が苦行自体のもとに充実感等として感じられることになろう。ひたすらに念仏を唱え、来世の確実な極楽行をその行が可能にしてくれると思えば、一声ごとに一歩一歩極楽行が確かになっていると感じられて、喜びとなり快となることである。さらには、その念仏に一体化しておれば、恍惚とした状態になっていくから、その恍惚の快も伴うことである。
日本にキリスト教が入ってきて弾圧された時の殉教者は、磔刑になるとき、恍惚とした表情を見せていたと聞く。見せしめのつもりで公開していたのに、その様子に、非信者も、信じることを誘われたという。苦痛において、脳が自己慰安の快楽物質を分泌して恍惚状態になったこともあろうが、おそらくそれ以上に、天国が近いこと、「主の御元に」近づけていることを思って、すぐ先に天国が見えて、これに至福を感じえていたのであろう。まだ天国に行っているわけではないが、その苦痛が刑死が確実にそれをもたらすと確信できれば、その苦痛は苦痛であるほどに、天国の確実さを証するように思えて、その快に浸りえたのであろう(その天国も主も妄想でしかなかったとしても、その至福・恍惚感自体は本物でありえた)。
苦痛・苦労を重ねることで快の成果を得るとき、ものによっては、その一歩一歩が苦痛の必要性を減少させていき、それが同時に快をより多くしていくようなものもあろう。この場合は、苦痛が快を産むのであるが、苦の先に快が予期できるというのではなく、苦自体の減少していく歩みが、どんどんと快を大きくしていくことになる。部屋の片づけは、はじめは大変で、なかなかすっきりしないが、苦を重ねていくほどに苦は小さくなり、快適さがだんだん大きくなる。怪我とか神経の痛みの治療などはじめは苦痛が大きかったとしても、日に日に治療効果があがって楽になっていき、最後は、苦痛は極小になり、快は最大になろう。
3-8-6.
苦が快の構成要素となることもある
苦が快になっていくとか快を結果するというのではなく、快と苦が並存しているなかで、苦が、その快を独特の快にと作り上げていくことがある。快と苦が混合・総合して全体として快を際立たせるのである。苦が主となった状態で快が少し伴っている場合は、苦痛を和らげることが中心になる。快が主となって小さな苦がかかわる場合は、その快を弱めることもあるが、ものによっては、快を独特の味わいのあるものにと変容させ、より豊かな快をもたらす。
音楽は、文字通り、音を楽しむが、その美しさ、快さの中心には、調和した美しい音がある。音同士の高さ(周波数)の比が単純なものは、ひとの心にはその秩序を捉えやすいということであろうか、協和・調和の美しいものとなる。混ざる音の比が単純でなくなると、複雑なほど人にはその比は捉えにくいものとなり雑音となり不協和な不快な音となる。だが、美的な快の音だけで済まさず、これに若干不快な不協和の音を混ぜると、独特の美しい音(メロディー等)が形成される。協和する音の中に不協和の不快な音を加えると、協和する音の単純な快の在り方を変えて繊細で豊かな美的感情を引き起こしてくれる。
苦が快に独特の味わいを与える代表は、食の世界である。美味は、甘さが中心になるが、単に甘さがあるだけでは、快ではあっても単調で、その快にはだんだん飽いてくる。食欲は、美味しさを、体に不足している栄養に多く感じることであるが、同じ栄養の同じ甘味の快では、すぐ満たされて快の度合いを小さくしてしまう。多様な栄養を摂取するには、多様な美味を味わうことが求められる。甘さだけでなく、他の苦味とか酸味なども、その多様性を満たすものとして、美味しさの快を豊かにしてくれる。みかんは、甘いものが好まれるが、同時にそこに酸味があっての一層の美味しさである。酸味のみでは苦痛ということになるが、それが甘味のなかに少し加わると独特の美味を作り上げる。苦味も同様である。苦味は、酸味以上に、有毒なものを感じ取ったものであろう。その苦味の不快なものが少量、甘味に添えられると、独特の美味しさをもたらす。チョコレートはその代表である。カカオのみだと当然苦いだけで美味しくはないが、砂糖にカカオが加わると独特の美味になる。
発酵食品は、不快な臭いのするものが少なくないが、これも、慣れてくると、蓼食う虫も好き好きで、美味の食感を豊かにするものとなる。臭いは、不快でも、持続性がなく、すぐに消えてしまうが、おいしいものであれば、その不快さは消えるのみか、美味の薬味のような感じで、独自的なその美味を構成する部分となる。栄養の点では優等生の納豆は、それ自体は美味でも良い香りでもないが、これもおいしいご飯の上にのせて食べると美味の中に包摂されるものとなる。食道楽の北大路魯山人は、納豆茶漬け(飯)を美味として薦めている。
3-8-6-1.
美の世界全般で不快は快の要素となる
芸術の分野では、どんなものでも、美的な快を享受して楽しむが、不快なものを要素に含むことが多い。音楽が音の美を楽しむとき、不協和で不快の音を混ぜることで独特の美を作り出すように、他の分野においても、それぞれの美という快には、美でない不快な醜というようなものをその構成要素にしたり、薬味として使用して美的快を一層豊かなものにする。
美は乱調にありというが、諧調、快調では、単調になり、すぐに飽いてくる。そこに、本来はそれだけでは不快な反調和のもの、乱調が加わることで、より豊かな美的世界が広がる。絵画は、写真のない時代には、それこそ写真のような、対象世界をそのままに映しこれに一致したものが、ゆがみなどの稚拙さのないものが快として感じられたことであろう。だが、近代になると、写実の調和から離れたゆがんだものとか相当にデフォルメされたものがより優れた美と見なされるようになった。写実主義のものであっても、より美しく快となるのは、写真とはちがい、見るべきところをしっかりと描きながらも、周辺は、かなりぼかして美的に手を抜いたものがより優れて美的快をもたらす。フェルメールは、現代とはちがい、まだ、肖像写真の代わりに肖像画を求めていた時代の人だが、その「レースを編む女」は、現代的美を思わせるように、中心の糸は繊細に写実的に明快にしつつ、周辺の糸はあいまいにぼかして(いってみれば不快にして)すぐれた美的調和を作り出している。
ひとによって絵画への快不快の感受性は顕著に異なるのか、商売上手な者の絵がもてはやされるのか分からないが、ピカソなど、より優れた美を追う中で、幼稚園児の絵のような不快で稚拙なものを描いている。彼の「ゲルニカ」は戦争の悲惨さを表現したのだというが、歪んで滑稽さを感じさせる不快な表現で、ゲルニカで殺された人々を茶化しているように、私には見える。しかし、おそらく、そういう不快を多く含むなかで、優れて現代的な美的快を彼らは見出しているのであろう。
日本の陶器の中には、ピカソや、奇怪な建物を作った同郷のガウディたちも脱帽するような、相当にデフォルメされた奇怪なものがある。茶道具の陶器では、茶碗も建水も花器も、一般の焼き物でいえば、途中で火によって歪んだり不快に変色した失敗作とでもいうようなものに、その反調和の不快を含むものに、すぐれた美を見出す。歪で不快を感じてもよいはずのものであるが、日本人には卓越した美がそこに感じられるのである。
日本の庭園は、茶器と似た歪みなどの不快を相当に含んだ美になっている。ゴミ一つない庭よりは、紅葉などの落ちている方を一層の美(快)とする。西洋の庭園を見ると、定規で整えたような四角や三角といった単純な調和をもったものを並べていて、樹木ですら杓子定規に円錐形などに剪定している。それを我々日本人は、単調すぎて退屈なものと感じる。その点、歪みにゆがめた松の盆栽などからはじめて大きな庭園でも単純な幾何学的な形になることは嫌う。頻繁に歩く道では石畳はヨーロッパと同じく整然と並べるが、美的なものに重きをおいた場合は、歩くと躓きそうで緊張し不快になるような並べ方をし、不快を含んでメリハリをつけ総体として卓越した美的な石の並びとする。乱調(不快)を含んだものに美を見出して楽しむのである。
3-8-7.
苦痛面のみを除去してなる快
苦痛の中にはそれ自身を慰撫するものがあり、その慰撫・慰安の側面だけを残して苦痛の部分をなくすることができれば、そこには快だけが残ることになる。遊びで、危険を思わせて恐怖させるものがあるが、恐怖のうちには自慰する快が出てくる。そこで、実は安全だったと恐怖の不快をなくすることがあれば、自慰していた快の部分だけが残ることになる。
悲しみの感情は、辛いが、そこには自身を慰めるものを伴うことがある。その辛さの部分をなくして、慰める部分だけが残せるなら、快ということになる。悲劇の鑑賞では、主人公の悲しみを追体験してこれを味わうが、普通は、その悲しみに一体化し追体験するなかで、不快面は捨象して自慰の快のみを残すようにして楽しむ。価値喪失を体験すると悲しみの感情を生じる。価値喪失して打ちひしがれておれば、周囲が慰めをする。慰められての快が生じる。誰もいなくても、自身がその慰めの主になって、自己を慰撫することができる。自身を対象化して、かわいそうな自分だと自己慰安する。自分で自分を慰撫しても、結構快となることである。そういう自己慰安をしても、大きな価値喪失をしたのなら、慰めは間に合わず、喪失の大きな苦痛の方が残る。そのとき、その価値喪失が無化したら、慰めのみが快のみが残ることになる。悲劇の鑑賞では、悲劇の主人公に感情的に一体化しているから、同情して悲しみ、涙を共にする(悲劇では、魂を浄化するカタルシスが肝要だという。かならずしも甘美な悲しみだけに魅されているのではなかろう)。だが、自身は、実際には、価値喪失はしていないのである。悲劇の主人公が恋人を失ったと嘆くとき、観客は、その嘆きに一体化して悲しく涙する。だけれども、その根拠をなす恋人の喪失、価値喪失自体はなしであれば、深刻な苦痛自体は、いだくことがなくて済む。残るのは、悲しみの甘美な涙のみ、慰安のみとなる。悲劇の中心になる感情の悲しみは不快感情であるが、観客にとっては快となる。
悲しみなどの感情は、現実でなく、空想・想像であっても、これを生じさせることができる。怒りの感情など、怒りの対象の気障りな当人が目の前にいるときは、この感情を抑えて何でもないように振舞うことが多い。だが、当人がいないところでは、思い切り、その気障りなことを思い起こして、心身を激怒の状態にすることがある。時には、ありもしないことを邪推・妄想して、これに激怒すらもできる。想像の方が、現実を踏まえての抑制、制御がなくて済むので、感情を純粋に吐露できる。悲しみも同様である。葬儀の場では、遺体を前にしていても冷静に気丈の振舞いを必要として、泣かないでいても、一人になったときは、もう目の前には現れてくれない死者とその喪失にしみじみと悲しみの感情をいだいて、涙が止まらなくなるといったことになる。悲劇の鑑賞でも同様で、主人公に一体化して想像することで、悲しみを追体験できる。そして、現実的には価値の喪失そのものはないので、甘美な涙だけを、その快だけを味わえる。
現実の中では、純粋に快、純粋に不快・苦痛ということではなく、両方の入り混じっていることも結構ある。何かを獲得して喜びとなっても、そのために失うものが他面にはあることで、そうなると悲しみもいだく。卒業はうれしいが、友達と別れることでもあるからその面からは悲しくもある。価値あるものを失って悲しみを抱くというとき、他面では、別の価値の確保がそのことでなっているということがあり、そうなると喜びもあるのである。人が死ねば、価値喪失して悲しみとなるが、長患いで見ていて辛かったのに、それから解放されてほっとするようなことがあれば、安らぎ(快)を感じるのでもある。人生は基本的に苦界・苦海であれば、苦が何事にも伴っているのが普通である。その苦の方を捨象してその方面への想像・意識をストップしておければ、快のみを残すことが可能となる。
3-8-7-1.
苦痛の最小限で快を享受する場合
苦痛が快に混じるといっても、快の中に混ざって独特の快にするとか、快を含む苦痛の中で苦痛を消して快を残すというようなものでなく、快がだんだんと大きくもたらされるなかで、限度を超えると苦痛が生じるようなものがあり、その苦痛の出て来はじめ、苦痛の最小限が一番の快をもたらすというようなことがある。寒中に、焚火にあたると、近づくほどに快が増す。だが、近づきすぎると火傷になりそうで、苦痛が生じそうなぎりぎりのところが一番の快となる。最近、「痛(いた)気持ちいい」という言葉を時々耳にする。老人向けにストレッチを教えるTV番組でのことである。筋肉を伸ばして気持ちいい状態にするのだが、その一番よく効く状態は、快であることを若干超えて痛みを生じるようなところをもってすることである。
苦痛が圧倒していて、だんだんこれが小さくなるとともに快が感じられて、苦痛の最小限が一番の快となるようなものもある。身体の損傷からの回復時、苦痛が残り続けるだろうが、それが回復するほどに苦痛は小さくなる。苦痛をもって損傷や病いを自覚し、苦痛が小さくなることをもって回復・治癒を感じ取る。苦痛が小さくなって最小限になるところは、治癒の快が一番大きく感じられるところであろう。回復しきったら、もう快も消える。小さくて気にならない苦痛が少し残っているぐらいで一番、健康のありがたさを感じることになるのではないか。苦痛の最小限が一番の快をもたらす。その痛みは、健やかな爽やかな痛みと感じられることである。
食のわさびは、鼻に苦痛となるが、それが微量であれば、他の不快を消して、快を残す。生臭くて不快な刺身は、栄養があることだから、できれば食べたほうがよい。その生臭さの苦痛を、わさびは、消す。結果、その小さな苦痛が魚肉の快を感じさせてくれる。紅蓼は、ピリリと辛いもので、食べたいものではなく、苦痛をもたらすが、やはり刺身に添える。これも、生臭さを抑えるのであろう。辛さの刺激が口内を若干麻痺気味にして生の不快な魚肉を気にせず食べさせてくれる。わさびも紅蓼も、それ自体は苦痛をもたらすものであり、最小限添えるだけである(最近の魚肉の処理技術は進んでいて、生魚臭さを感じさせることは少ないのであろう、味覚等感覚に敏感な子供でも生で食べる。ではあるが、現在でも、刺身には、わさびと紅蓼を添えるから、生魚は根本的には生臭いものなのであろう)。
生のものは、やがて腐る。これも、ものによっては快にできる。腐敗と発酵は同じ事柄であろうが、要は、それが人類に有害なものを含むかどうかである。ハイエナとかコンドルは、死肉の腐敗したものが平気のようで、かれらには、それは発酵肉である。臭いは、発酵=腐敗では、ほとんどが不快なものであろう。これもできれば少ないものが優先されるが、有害かどうかが一番問題であり、人体に有害度の一番小さいものが食品として残され、それを発酵の美味として楽しむ。アルコール発酵では、どの発酵にも、メチルが含まれるようだが、その分量・有害度ができるだけ少なく、口に美味のものが最近の酒であろう。蒸留酒は、発生したメチルを除去しているが、日本酒とか葡萄酒などの醸造酒は、メチルなど不純成分をそのままにしている。有毒等の不純不快成分を少し含んでいるので、熟成させなくても飲み心地がよく、新酒とか何とかヌーボーなどは、慣れた人には独特の美味になるようである。が、悪酔いする。
3-8-8.
地獄が極楽を求め作り出す
苦痛・苦労は、安らぎを、快を求める。この世は、苦しいもの、苦界だというが、これが苦でなかったら、はたして天国とか極楽を求めたであろうか。苦でないのなら、逃げ出したくはならず、穏やかな日々を安穏に暮らして終わるだろう。現代は、昔と比較すると恵まれていて苦が少ないから、極楽を求めるひとはあまりいない。中世、易行の念仏を説いたら、これが庶民に爆発的に広まった。藁にしがみついてでもこの苦界を逃れたいという一心であったろう。この現世という地獄を厭い極楽をと希求した。苦痛こそが、極楽・天国の生みの親であった。安堵・安楽はそれだけでは成立しない。恐怖とか苦悩などの苦痛があってこそ感じられるものである。江戸期の白隠は、「南無地獄大菩薩」と言った。極楽の阿弥陀仏に対して南無阿弥陀仏ではあるが、地獄もありがたいものなのだと。苦痛、苦界・地獄は、ひとを鍛え、極楽の生みの親ともなるのである。源信の『往生要集』は、極楽への往生を、たくさんの書誌類をふまえて執拗に語ってくれているが、まずは、極楽どころか、往生できない地獄の様々の悲惨をしっかりと説く。地獄の苦を描きつつ、かなたに極楽を強く希求する。地獄が極楽への入り口となる。キリスト教の八福も、不幸に悲しむ人たちは幸いだ、天国はかれらのものだと、苦こそが天国の幸せを可能にすると説く。
飛行機が無事着陸してありがたいと安堵の快感を抱くのは、途中で乱高下して不安を抱かされたときに限定される。不快が快を作り出す。登山は、頂上に立つことを目的とし快とするが、ヘリコプターで頂上に着いたのでは、物足りないであろう。苦労し汗して登るという苦行のようなものがあっての、頂上に立つ喜びである。健康は、快適であるが、その快感を抱けるのは、ふつう、病気の苦痛があってこれから解放されたときである。ずっと元気な人は、健康の快感などもたない。地獄の病いが、それからの解放時に、快を感じさせ、健康の極楽を作り出すのである。
ではあるが、個と種のための根本欲求、食欲・性欲は、快を求めるのみで、そこでは不快は無縁である。食の快は、不快なしで、のど越しに快楽を得るのみである(美味しくない不快なものはあるが、美味に必要なものではない)。性の快も、男子なら射精があれば、快なのであって、苦痛の先行はない。苦痛が快をつくることは、ここにはない。だが、苦界においては、ここでも苦を先行させての快になることが根源的事態として存在する。個体維持を不可能にする飢餓を、動物も人も知っている。身近には、空腹の苦痛が存在する。その食欲の不充足の強い苦痛をいだいた者は、これが満たされての快を強く抱くことになる。飢餓状態に置かれた者たちは、その苦痛を回避できるようにと可能な限りの手を尽くしたはずである。その苦痛回避の衝動は強く、恵まれているときには快ではなかったものを食べても、おそらく快を抱いたことであろう。
性の快楽の方は、どこにも苦痛を先行させるものはないように見える。射精の快の反対の苦痛は、そういう感覚自体が、ない。感じようがない。しかも、しばしば苦労がいる食の快とちがって、性の快楽を得ることはごく簡単である。ギリシャは犬儒学派のディオゲネスが言っている。性の快楽は、自分の手だけで、ただで間に合う、食の快楽も自分の喉をさすっただけで得られるのなら、どんなにいいことかと。苦痛など、そこにはない。しかしながら、ひとでも動物でも、異性との間でのそれは、大変である。動物ではメスを得るために、オスは死闘を演じなくてはならない。ひとでは、その死闘は、少なくて済むが、異性の獲得は、社会生活の基礎を担う家族の土台となることで、若者は人生をかけることが多くなる。青春の苦悩というと、少なくないものが、異性問題、恋愛、結婚をあげるのではないか。生理的にも、若者は、発情したからといっても、ディオゲネスのように無暗みにとはいかず抑制し我慢することであり、苦痛を踏まえていることもある。とすれば、やはり、ここでもしばしば苦悩・苦痛が先だってあるということになろう。所詮、人間は、苦界の住人なのである。
4. 苦痛の価値論Ⅱ-苦痛は、価値創造のための手段価値
4-1. 反価値の苦痛だが、価値創造に資することもある
快は、ひとに好ましいもの・価値であり、苦痛は、これを避けたいもので反価値である。仕事をして価値あるものを創造しているとき、疲労などで苦痛になると、それを中止したくなる。苦痛は、価値創造を妨げる反価値でもある。だが、この苦痛から逃げずこれを甘受することもある。それは、一つには、その苦痛を回避せず甘受することで確保できる快が大きいとか、そこに生じている欲求・衝動が苦痛よりも強くなっているようなときである。これは動物もすることで、熊が蜂の攻撃の苦痛を忍んで蜂蜜を獲得するような場合である。ひとでは、さらに、そこに快が想定されるようなことがなくても、未来に向かって価値ある目的を見出して、その目的実現の手段として、苦痛から逃げず挑戦することが必要であれば、苦痛を甘受する。苦痛を踏み台にして、高い価値ある目的を達成する。苦痛は、ここでは、価値を創造する不可避の手段になっているということができる。
苦痛は、生にとってマイナスのことがらであり反価値である。欲求にとっては、排除したいもの、反欲求となるものである。その苦痛という反価値・マイナスのものを、あえて受け入れるのは、そのことをもって、総体としては、より大きな価値・プラスが可能になるということによってである。蜂の巣を前にしての熊の苦痛甘受では、小さなマイナス価値の蜂に刺されての痛みに比べて、蜂蜜という大きな快・価値あるものの獲得がなるのである。快不快の総計において、プラスの価値が獲得できるということで、熊は苦痛を甘受する。
ひとが苦痛を受け入れるのは、そういう自然的な快不快の差引で総じてプラスになるからということのみでなく、現にあるのは、苦痛のみ、マイナスのみという場合も、その甘受をする。感性的現在には見出すことのできない未来に、目的をえがき、その目的(価値)の獲得に現在の苦痛甘受が必須とみなしてそうする。ひとのばあいは、動物とちがい、快はなくても、未来に、価値獲得の目的を描きつつ、その未だない未来のために現在の苦痛を受け入れる。因果連鎖のはるか先の価値ある結果のために、これを目的に描いて、直近の手段となる苦労・苦痛を引き受ける。精神世界では、快はあっても些事であり、目指す目的は快不快を超越した道徳的価値の善行為であったり、政治目的の正義の実現であったりする。その高い目的実現は快不快を超越した世界であるが、そのために手段として苦労・苦痛を引き受けていく。快は、目的にもそれへの手段のうちにもない場合でも、ひとは、精神的価値の実現のために苦痛を回避せず甘受し、忍耐しつつこれを引き受ける。苦痛は、価値創造の手段価値となる。
田に水を引くために苦労して水路をつくるようなことがある。その苦痛甘受が描く目的は快ではない。水路を作ることは、水田を作る一環としての一部の目的であり、さらに水を田に引くのは、稲を育てる苦労を引き受けるためである。最後には実りがあるとしても、これも、快になることかどうかは分からない。実りを金銭にするとしても、それは、快を得るためではなく、税金を払うためであったり自宅の改造のために利用するのかも知れない。苦痛は価値あるものをもたらす手段ではあるが、ひとは、かならずしも快に魅されて苦痛を引き受けるのではない。
4-1-1. 動物的自然における苦痛甘受は、苦痛を凌駕する快や衝動が促す
自然的には、動物も人も快を求め、苦痛(不快)を回避する。だが、その自然において、快を得るには苦痛の引き受けが不可避というような場合、不快・苦痛・損傷が小さく、快がより大きいならば、その快を得るために、苦痛を選択するときがある。蜜蜂の攻撃を受け入れ苦痛を我慢しつつ、蜂蜜をとる熊のようにである。この場合、苦痛を受け入れるのは、そのことで大きな快・価値あるものが獲得できるからである。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というが、危険を冒し、苦痛を回避せず逃げず受け止めることがないと、快など価値あるものは得難い。自然の中では、「棚から牡丹餅」という僥倖はまれで、確実に食などの快を得るには、苦痛となる障害・妨害から逃げずこれに挑戦しなくてはならない。
苦痛は、損傷を知らせるもので、その損傷と苦痛を避けようとするのは自然の本源的な反応である。苦痛は、これを回避する反応をもって損傷を回避し生の保護を結果する。この苦痛を避けず逆に受け入れるという苦痛甘受は、それ自体は、直接的には、生の保護を否定することで損傷をもたらす営為となる。だが、その苦痛と損傷を受け入れることがある。それによって一層大きな価値あるものが確保できる場合である。快を踏まえての苦痛の甘受、動物的な忍耐は、それなりに差引計算して、より価値あるものを選択しているのである。熊は、蜂蜜享受においては、蜂に刺される苦痛より、大きな快・価値を見いだしているのであろう。
動物の苦痛甘受は、ひとの、未来の目的の手段としての苦痛甘受とは別である。動物の場合、あくまでも自然の快不快のもとでの展開である。つまり、苦痛甘受を選ぶのは、快と不快(苦痛)の差引計算でそうするだけのことである。大きな快楽を前にして、それには途中で若干の苦痛を受け入れなくてはならないとか、大きな苦痛を回避するには、小さな苦痛を受け入れることが必要ということで、その苦痛を甘受する。あるいは、大きな欲求・衝動の前では、少々の苦痛の甘受は必須となれば、苦痛に忍耐することであろう。自然感性のもとでの差し引き計算をして、よりましな方を選択するということで時に苦痛を受け入れるのである。
ひとも自然的日常的には快不快で動く。より快適なものを求め、苦痛・不快を避けるようにと動く。ただし、快は、感性的レベルで人をひきつけ魅するものであるが、精神的レベルの場合は、快は些事で、ひきつける度合いは小さい。精神的レベルの場合は、苦痛の方は感性のそれと同様に、大きな回避への力をもつ。ひとが動物と同じように快不快で動く場合でも、精神的レベルの苦痛(例えば、絶望)が絡んでくると動物とは異なった展開となる。おいしいものがあると、犬や猫は、即これを食べるだろうが、人は、おいしいものがあっても、他人の者だと分かれば盗むという犯罪への精神的苦痛が生じて、これを抑止することになる。
4-1-1-1. 苦と快の計算は、かならずしも単純ではない
快と不快(苦痛)の差し引きを計算する、いわゆる快楽計算は、一見分かりやすく単純だが、ものによっては意外に厄介な計算になることもありそうである。若干渋みの残っている柿を食べるとき、甘味は食べることを誘うが、渋みがこれを拒否する。甘味(快)や食欲が勝てば、これを食べるが、渋み(苦痛)が勝ってくると、食べるのを止める。食べながら、快楽計算をしていると言えるであろう。だが、快不快の両方が二つの事柄とならず、並べて計量とはいかない場合がある。チョコレートなど、不快の苦味があっての得も言われぬ独特の美味である。苦はここでは美味にプラスする価値となる。単純に苦と快の差し引き計算とはならないであろう。それでも、味覚の場合、快も不快もあるからいいが、皮膚の知覚の場合、損傷での痛みはあるけれども、それに対応する快は存在しない。無事の他の部分は、無感覚にとどまっている。これが快楽を感じるのだとすると、全身、快だらけになってしまう。苦痛のみがあるのである。皮膚においては、苦痛のみ、回避・逃走のみが反応として存在する。皮膚の苦痛減少、解消のための反対の快は、皮膚のもとには存在しないとすると、どう計算することになるのであろう。子供に良くやる手は、快のアメを同時に与えて、皮膚の痛みの気を紛らわせることであろうが、大人の場合は、子供だましは効かない。
それでも、味覚の(ハチミツの)甘さの快と皮膚での(蜂に刺される)苦痛のどちらかを選ぶということを、熊も、おそらく空腹の人間も、せかされて実行するはずである。異質のものの計量は、等質化してなる。別領域の快不快(苦痛)を計量できるようにと、なんらかの形で等質化して量化し、その大小を比較して選択する。幸い、脳内では、快不快はどこのものであろうと同じように、脳内での生理的反応をもち、快楽様物質、ドーパミンなどのホルモンを出したりしていることである。そこで、あらゆる快不快は等質化されているから、快不快で比較は可能になるのであろう。
あるいは、快不快は単にその受容だけというのではなく、それらの心身の一般的反応として、苦痛からの逃走・回避の衝動と、快に魅され、これを引き寄せたいという衝動・欲求が大きいモメントをなすこともあろう。逃げようか、近づこうかと逆方向の意思をいだく。少々の苦はあっても、どうしても欲しいものを入手したいということで、快が勝てば、苦痛を甘受する。両方が拮抗すれば、立ち往生である。熊は、蜂に刺されて痛くて回避・逃走の衝動をもち、他方で逆にハチミツに魅されて何としても食べたいという食欲の強さとの拮抗状態になろう。快不快は、どんなものであれ後退と前進の計量となる。快、前進への力が大きければ、あるいは、後退を抑止するほかの要因(空腹の子熊がそばにいるなど)が大きくなっておれば、苦痛の抵抗を抑止しつつ前に進み快を実現する。
快が複数あるときは、より快であろうものを選ぶ。だが、拮抗した快であった場合は、まよってどちらも選べないということがあろう。大魚は、小魚をとる。後者が大群であった場合、いくらでもとれそうなものを、意外に簡単にはとれないのだという。おそらく、たくさんの快が、同じ快が並んでいて、あれもこれもということで、どれかに決められないのであろう。同じ無数の快候補の中から、より美味しそうなものではなく、より捕食しやすいものを探すということになろうか。
苦痛も一度に多く生じるようなことがある。怪我など、あちこち同時に傷つくことがある。それも、優先順がおのずからにある。大きな苦痛がまず意識される。これが片付いたら、小さな傷の痛みに気づくようなことになる。生理的にうまくできていて、小さい苦痛は、大きな苦痛の前では、小さくなっていて意識から消えている。大きな苦痛の処理が終わって楽になってから、意識に登場して、治療を求めることになる。意識してする快不快の差し引き計算のもとで、二番目の苦痛は、計算にどうかかわるのであろう。
快は、いま快を抱いているよりは、苦痛を乗り越えたあと得られることが多い。つまり、苦痛は現在感じているもので、快は、単なる想像でしかないということである。回避すべき緊急信号を出している苦痛であるから、快は差し置いて、まずは苦痛対処ということになる。これが、苦痛と快楽の両方ともが未来形で単に想像上で比較する場合は、苦痛は、なお深刻でないから、快の方を優先することがありそうでもある。だが、苦痛を媒介にしてそののちにのみ、快が確保できるという多くの場合は、まず、苦痛を現実的に甘受させられるのであり、激痛にでもなれば、もうその先の快楽などどうでもいいと思いを変えることも生じそうである。
4-1-1-2. 快楽計算ではなく、価値計算という方がいいだろうか
精神的領域でも、快はあるにはある。が、ほんの些事である。ものを獲得しての喜びの快は、喪失しての悲しみの苦痛と違い、かならずしも生じないこともある。かつ、かりに喜んだとしても、その快のみだとすると、つまり、そこでの喜びの原因となる価値ある物の獲得という事実はなく嘘だったとすると、「喜ばせて快を与えてやったのだからいいだろう」とはいかない。そういう「ぬか喜び」は、嫌悪される。こういう精神的生のレベルでは、快の感情(喜び等)ではなく、有益な価値ある物の獲得が肝要ということであろう。動物的生のレベルでは、快不快が主観的には肝心で、食べ物は、栄養価値の問題もあるが、栄養ゼロでも美味なら高評価されるであろう。性欲の快など、受精という自然の求める事柄など論外で、性的快楽こそが目指すものとなっているのが普通であろう。動物的世界は、快不快で動き、その快楽計算で片付けることが多かろうが、人間的精神的生のもとでは、単純に快不快の快楽計算では通じないことがしばしばとなりそうである。
ただし、快とちがい、苦痛・不快の方は、精神的領域でも、そのもとの原因(損傷)がなかったとしても、その苦痛自体が大問題である。絶望とか不安は、その感情のもとになる希望の断絶とか、危険の可能性の生起といった客観的事態が些事であったり、実際にはなくても、その感情自体が大きな問題となる。なにかは分からないが漠然とした不安は、ひとを焦燥・苦悶させ、原因が不明か、無い場合、対処のしようもないといったことになる。その不安感情をなくすることが重大事となり、人によっては、その不安に耐えきれず自殺するようなことも生じる。絶望は、死に至る病といわれることがあるように、苦悩・苦吟させ、人を地獄の底に落とし込むような主観的な苦痛感情で打ちのめしてしまう。精神的苦痛は、快とちがって、人間の精神にとって、決して些事とはならず、人生を左右するような辛い苦痛となることがしばしばである。
苦痛は、精神的生でも無視できない事態であり、動物的生のそれと同じく大きな反価値として算定される。かつ、その精神的世界では、快でなく、価値あるものの獲得や喪失といったことが肝要となるのであり、差し引き計算は、それらの総合的な価値計算とならねばならない。動物的レベルの快不快の価値計算と、精神的レベルでの不安や絶望、悲嘆といった苦痛と、そのもとにあるであろう絶望等の客観的な希望剥奪の事態とか、家族の死といった大きな喪失の反価値、逆の客観的な価値の獲得、これらを総合しての価値計算になるであろう。それぞれの快不快や、価値の獲得・喪失の大きさのみでなく、それらの持続の時間があり、感情は結構意識で抑止したり表現したりもできるから、臨機のその場に見合った計算となろうか。計算は、その都度、異なったものとなり、家族の死においてなら、みんなのいる葬儀の場では、世間体というものが大きな価値を占めて、絶望とか悲嘆の思いは一旦は小さくされ心の奥に押し込めた状態になって、冷静さを保つ。が、一人になったときには、肉親の喪失ということが全面を占めて、深い悲しみにとらえられ涙が止まらないといったことになる。置かれた状況をふまえてその都度計算しなおすといったことにもなろうか。
4-1-1-3. 量的計算ではなく、真偽、善悪の質が決定的なことも
価値計算は、葬儀の場では、儀式を最大の価値とし、自身の悲しみの感情など些事として、その量的な比較をもって動くもののように想像できる。が、こういう場合は、異質のものを異質のままに受け止めて、いくら主観的感情としては深い悲しみにあっても、これを抑止し、社会的習慣としての葬儀をなんとしても無事に終えることが良識ある振る舞いだと判断しているのであり、量的大小での価値判断はしていないのではないかとも思う。比較していずれかを選択するときには、しばしばその量的差異をもってプラスになる方を選択するが、何でもそうできるわけではない。等質化、量化しえない物事もある。それを無理やりに量化することがあるとしても、限界があろう。
量化して多い方をとるということでは決まらないものがある。多数決で量化して決定することが民主主義下では多くなるが、多数決では真実も正義も決まらない。2+3=11としたら、十進法のみを前提にしている多くは嘲笑するであろう。だが、四進法をとっている者は、たった一人になっても、真実だと言い張ることになる。真実は、ここでは、量化して多数をもって決めることはできない。正義も同様である。古代アテネでソクラテスは、多数決をもって死刑となった。イエスは、数の暴力で十字架にかけられた。総督のピラトは、イエスに罪を見出せないと言ったが、群衆の声に押されてしまった。だが、のちの人々は、それが多数によって押し切られたことは不当と思ったはずである。その時でさえ、人々は、不愉快な奴だと多数を頼んで死刑にしたのではない。少なくとも表向きは、ソクラテスもイエスも、市民を惑わし自分たちの神を冒涜した許しがたい犯罪・悪だと判断して死刑にしたのである。不愉快な奴だから殺せといったのではなく、その悪を罰して死刑にするのが正義だと判断したのであり、それが多数だったということであろう。真実か虚偽か、正義か不正義かは、多数という量化しての選択には服さない。異質のものは、異質のままであり、多数だからといって、虚偽が真実に変わることはない。多数を占めたからといって犯罪が正義に変わるわけではない。裁判において有罪とするのは、多数がそう望んでいる(快とする者が多い)からということで決めるのではない。法(正義)に照らして、それが法を逸脱している、不正義だと判断して有罪とするのである。それを正義と理解する人が少なかったとしても、真に正義なら、これに万人がやがて納得することであろう。2+3=11を虚偽だと笑った多数でも、それが四進法ならそうなるのだと説明すれば、みんなこれに納得して真実だと思うことになるはずである。
真実は、多数決に服さない。木造船から鉄の船になり始め、多数は、木とちがって鉄は水に沈むから、そんなこと不可能だと嘲笑した(と聞く)。鉄の船も可能だと真実を語るものは少数派であったが、現に鉄の船を作り、以後は、万人がその真実を受け入れることになった。道徳的な善悪や正義なども、量化して多数をもって決めることはできない。法(法律、法則)に照らして、これにかなっている(=正しい)かどうかの(本)質の問題であり、量の問題ではない。もちろん、真実や正義、善が多数の支持を得ることは、大いにあることである。
4-1-2. 快は、自然的生に有益なものをもたらすためのアメである
快は、生あるものを魅するアメとなるが、それは、自然の与える褒美であって、その快に引かれてなす営為をもって、自然は別の有益なもの・価値あるものを実現する。だが、快を求める生個体は、快自身を欲するのであって、そのことがもたらす自然的な価値ある結果を求めるのではない。その自然感性においては、美味しいものに魅されるのであって、栄養摂取を求めているのではない。性的快楽では、その快楽自体を求めているのであって、子孫を残すことを目指したものではない。個体は、あとさきを考えることもなく快に引かれて動くが、そこでは、別の、自然的生にとって客観的に価値あるものの創造が仕組まれているのである。いわば自然の狡知である。食や性の欲求充足の快楽は大きいが、この快に終わるのではなく、これを介することによって、自然は、個体保存の栄養摂取、類の再生産・生殖の営みを結果するのである。かりに食や性が快でないとすると、だれが面倒な食事をしたり性行為を求めるであろうか。快だから、これに魅されて、自然のままに放置しておいて栄養摂取がなり、種の保存が可能となっているのである。
快は、餌であり褒美であって、これ自体は小さく短い。その過程の終点は、快ではなく、それを通して得られる生の促進に資する別の事柄となる。性の快楽なら、生殖、種の再生産である。快楽は餌・褒美でしかない。その自然の終点にいたることが確実になるため、快楽は、自然の求めるものを実現してはじめて与えられる。食の快楽は、口に含んだだけでは得られない。喉を越して確実におなかに食物が入ることになった時点で感じられるようにできている。かつ、次の食べ物も摂取することが求められるから、のど越しのほんの瞬時、快楽になるような仕組みになっている。いつまでも快楽では、食に本来的な栄養摂取は進まない。性的快楽も、男性でいえば、確実に受精できる射精実現のほんの一瞬、与えられるだけである。
ひとは、苦痛を、反自然的に扱って、これを回避せず受け入れて目的となる価値創造へと展開できるが、快についても、反自然的になりうる。自然的に魅される快楽を拒否することは苦痛甘受より容易である。また、魅される快のみを受け取って、自然が仕組み求めるもの自体は拒否することもできる。自然は、快楽を餌にし、短時間、快楽を感じさせて、つぎの肝心の価値創造の過程へと進ませようとするが、ひとは、快楽のみを受け取って、つぎの肝心の過程には進まないことがある。食の快楽・美味は、栄養摂取をもたらすのだが、この栄養摂取を、肥満しないために阻止することがある。美味しいだけで栄養のないものを求めたり、食道楽の中には、満腹になると嘔吐して胃を空にし快楽享受を続ける者もいる。性的快楽は、受精を結果するが、この結果をもたらさないようにと避妊具をつかって、快楽のみを得て終わりにすることがある。快楽は、自然的には、生にとって大切な価値創造を結果する。だが、ひとは、これを拒否して快楽のみで終えようとすることがある。
ひとの快楽のなかには、価値創造にならないのみか、逆に反価値創造となるものもある。麻薬などは、快楽だけでは済まず、長い快楽を享受することをもって、生にとっては有害な事態を結果する。その快楽に呑み込まれ中毒になって、本来的な生の営為を維持することが難しくなるようなことがある。快楽は、ここでは、反価値創造となる。ひとは、快楽のアメのみを享受して、肝心の自然的に結果するものは、拒否することしばしばである。自然の造物主がいたとすると、人間のこの快楽のみの享受を苦々しく思っていることであろう。
4-2. ひとの苦痛は、目的実現の手段価値になることがある
ひとは、快不快の自然を超えて自由になり、どんな苦痛であっても回避せず受け入れる意志をもてる。その苦痛甘受は、目的を立ててのことが中心になる。だが、その中には、いい加減な手段の設定で目的実現は不可能と思われるようなことについて、苦痛甘受することもある。「くたびれもうけの骨折り損」という無意味な忍耐となる。緻密なプロセスを踏まえることなく、単なる願望・妄想(の目的)を描いて、無暗に快を絶ち苦痛に耐えても、良い結果は得られない。本人は、価値ある目的を描いて、そのために苦痛を甘受しているのだとしても、客観的には無駄骨でしかないこともある。神に願掛けをして大きな辛苦を背負い込むとしても、それは、本人の気休めになるのが関の山で、無意味な苦痛の甘受をするだけである。竜神に雨乞いをと命を捧げ自身を生贄に差し出したとしても、川から水を引くために崖に水路を切り開いて命がけになるのと違って、100%無駄な苦痛となる。
引き受けている手段は、未来の目的を実現できるように、因果連鎖などを踏まえて合理的に塩梅しておかねばならない。その目的に達しうる手段を的確に選ぶことが必要である。その手段は、ときには、快であることもある。そういう場合は、誰でもがこの手段をとって目的を実現する。だが、苦痛甘受が手段の場合は、いやな苦痛のことで、できれば回避したいのが自然である。それをあえて目的の実現のために必須と選択するのが忍耐である。苦痛自体は、嫌悪すべき拒否したい反価値である。それをあえて選ぶのは、未来にそれを凌駕する大きな目的が実現可能となるからである。その目的実現に不可欠のものとして、手段としての苦痛の甘受、忍耐はある。
目的論は、因果論とは反対に、まずは結果から原因へと遡源する。それは、結果を生み出すためにその原因となるものを探してのことである。目的を実現するために、目的を結果とするものを探し出し観念のうちで因果連鎖を逆にたどり手元の原因にまで到る。つぎに、実在的に、手元の原因を作動させることで、因果を実際に発動させて、結果=目的を実現する。そこで大きな障害となるのが、苦痛である。苦痛は、自然的には回避するから、目的実現に至る過程で苦痛が不可避である場合は、これを自覚して甘受し忍耐することが必要となる。苦痛甘受の忍耐が目的実現の要となる。その苦痛を回避せず受け入れることが、目的を可能にする。苦痛は、目的達成の肝要な手段価値となる。
4-2-1. 価値を生むのは、苦痛自体か、これに耐える意志か
苦痛は、反価値であり、ひとも動物も、これを回避する衝動をもち、これを拒む。その苦痛を回避せず甘受することがあるが、それは、その先に、その苦痛甘受を凌駕する大きな価値が可能になると思うからである。苦痛は、自然的には単なる妨害物、障害物にすぎないが、ときに、苦痛を含む過程・活動を踏まえることで、これを手段として、価値あるものが可能になる。苦痛自体というよりは、これを回避しないで甘受しつづける意志が、その忍耐が価値を生み出していくということであろうか。
一般的には、苦痛のともなう過程を踏まえないと目的を実現できないということで、反価値のいやな苦痛を避けず、やむをえず、これを受け止めて乗り越えていくのである。苦痛自体がなにかを産むというのではなかろう。苦痛甘受を踏み台にする以外には目的に届かないので、苦痛をしぶしぶ受け入れるのである。かりに苦痛なしで済むのなら、そちらの方法をとる。苦痛を伴うやり方しか手段がないので、やむなく、苦痛を甘受しているのであり、苦痛自体が価値創造をするとはいいにくいだろう。苦痛がなければ、もっと容易に価値創造がなる(苦痛がスムースな展開を妨げているだけなら、それは、反価値の障害物でしかなかろう)。とすると、なにがあっても目的を実現するという固い意志こそが肝心ということであろうか。どんなに辛く不快なことであろうと、目的への道を突き進むという強い意志である。苦痛が途中で生じても、これを回避せず甘受して進むという意志である。それがあっての価値創造、目的実現である。
しかし、苦痛を甘受する意志は、苦痛自体を逃げず受け止める、苦痛を耐えるという意志であり、苦痛を感じること(感情)と、これを回避しないということ(意志)は、ひとつになっているというべきであろう。大体、ことが快なら意志はいらない。快ならば、それへの欲求が生じる。だが、苦痛だと、欲求は生じず、苦痛甘受の欲望などありえない。意志してはじめて苦痛甘受となる。「意志が強い」、「意志薄弱」と言われるのは、困難を前にしてのことである。意志こそが、自然に逆らい、不快・苦痛から逃げず甘受するのである。意志と苦痛甘受は、そういう点からいえば、一つの仕事をするときの、班長(意志)と班員(苦痛)の関係である。班長だけでも班員だけでもうまくはいかない。両方が一つになっての仕事の進展である。意志は、感性を制御するものとして、多くは苦痛を前にして求められるものであり、苦痛を甘受し苦痛を感じ続ける事態と不可分である。その意志のもとで苦痛自体が価値を創造するのだとみてもよいであろうか。意志して受け入れる苦痛(の忍耐)が価値あるものを創り出しているのである。
苦痛を甘受して創作したものには、価値があり、これに対価を支払うが、そのときその価値を計算するのは、苦痛の大きさであろう。苦痛を回避しないということにはじまり、その甘受を必要なところまで持続していくという意志の持続である。回避しない意志は、苦痛甘受の始まりであり、引き受けるという意志であるが、肝心なのは、目的実現まで必要な限り、その苦痛甘受を持続させて、辛苦を積み重ねていくことであり、それを持続させる意志である。その意志のもとで、どれだけの犠牲を払ったのか、その作った物にとどれだけの量の苦労が結晶し肉化されているのかであろう。消耗し、身をすり減らしているのは、苦痛・損傷においてである。その計量は、感情としての苦痛の量・質をもってする。苦痛(感情)の体験自体が、その創造にとって肝心なものとなっているのだと言えようか。労働の生産物の価値は、それにつぎ込み、そこに結晶した苦痛・辛苦の大きさによって決まる。苦痛自体がここでは価値創造の中心に位置づけられることとなろう。
しかし、意志の方が肝心という場合もあろう。コロンブスのアメリカ発見は、その航海の苦難は並大抵のものではなかったろうが、それよりも、それを実行しようという意志が何より評価される。未知の世界へ勇猛な意志もって一歩を踏み出し、困難に面してもあきらめずその意志を貫徹することが肝心だったのである。商品は、苦労の結晶で、辛苦の労働の量をもって測られるとしても、ときには、新商品を作ろうという意志が肝心で、それが当たったということになると、その新商品への固い意志が高く評価される。
4-2-2. 人と動物での忍耐の有り方の違い
ひとのみが目的論的な忍耐をする。動物と人の苦痛甘受(=忍耐)における根本的な違いとなろう。未来に目的を定立して、そこから現在の方向にとさかのぼり因果を逆にたどって手元の原因にまでいたる観念的展開は、理性を有した人間のみの行えることである。忍耐をもっての価値創造を実際に行う前に、これを理性は観念において描き出し、彼方の目的から手元の原因までをしっかりと踏まえて、未来の目的に至る因果連鎖を精査しているのである。したがってまた、苦痛の甘受については、手段として不可避的なもののみを精選して、やむをえない苦痛のみを耐え抜く姿勢をもっていることでもある。動物の場合、快不快の差引計算で、より快が多く、より苦痛が少ない状態を選ぶ。だが、ひとは、目的を実現するためということでは、その目的に必須ということなら最大の苦痛を選択することもある。
苦痛甘受を必須の手段としてとらえているがゆえに、ひとは、目的との関係のもとに、現在は、苦痛のみという場合もしっかり忍耐できる。動物の場合、現にある欲求や快不快の差引計算で、苦痛の方が小さければ、苦痛をひきうけて忍耐する。しかし、現にあるのが苦痛のみだと、おそらく、動物の場合、これを回避することになろう。ひとのばあい、感性的には、苦痛のみを抱いているとしても、理性が未来の目的を堅持しておれば、そのための不可欠の手段であれば、苦痛甘受を貫いていける。動物は、感性・自然本能によって動くのみであり、苦痛しかなければ、逃げることを抑止するほかの本能的なものがなければ、当然、逃げることとなる。
動物は、快不快の差し引き計算のみで、快が大きければ、そこでの苦痛は帳消しになって受け入れ忍耐する。ひとも同じようにする場合がある。だが、ひとは、現にあるのは苦痛のみであっても、未来に生きる存在なので、描いた目的(例えば秋の収穫)のために、現在ある苦痛を引き受けなくてはならないと判断できれば、現在の苦痛(苦労の田植えとか、種まき)を引き受け忍耐することができる。動物は、大きな快(価値)が手の届くところに見えていて、その享受には目の前の小さな苦痛を避けることができないというようなとき、差し引き計算して苦痛を忍耐する。だが、ひとは、未来に(快を含む)価値を描き、現にあるのは苦痛のみであっても、それを引き受け忍耐することによってのみその未来の価値獲得がなるのであれば、未来の目的のための不可避の手段として苦痛を捉えて、その苦痛甘受の忍耐をする。
旧約聖書は、アダムとイヴがエデンの園を追放されてこの人間世界を作ったことを語るが、その楽園追放で課されたものは、アダムの苦痛の労働と、イヴの出産の苦しみであった。人が人になったのは、苦痛をもって、ということである。苦痛から逃げず苦痛を甘受、忍耐することを通して、動物とちがう人間世界が可能になったということである。ひとと動物のちがうところは、アダムとイヴの話からすると、知恵の木の実を食べて理性知を有することになったことを踏まえつつ、苦難・苦痛から逃げず、これを受け止めて甘受、忍耐することにある。旧約の太古の時代から、人が人であるのは苦痛から逃げず忍耐するところにある、と見ていたわけである。
4-2-3. ひとは、快や衝動で動く動物を超越した、理性的存在である
現代社会の悲劇的な事態について、それを人間の本能によるものと解することがある。戦争をとめどもなく繰り返すことの原因を、闘争本能があるからだとか、現代の欲望肥大なども含めてドーパミンとかエンドルフィンがそういうことをしでかすのだというようなことを生理学者に語らせるマスコミの番組が時々ある(生理学者がというより、マスコミがことを単純化しこれを権威づけるために、適当に切り貼りしてそうしているのだとは思うが)。自然本能からいえば、そうかも知れない。だが、ひとがひとであるのは、そういう自然本能を超越したところにある。自然的には快楽に惹かれ苦痛は回避したいのを、人は、その自然本性を克服し節制して、快を抑制し苦痛を甘受しているのである。生理的動物的なものに還元して人間社会を見ようという還元主義は、ひとの自然的動物的性向が、そういうところにあるという程度なら(したがって、本能を抑止し厳格に理性的にならねばならないというのなら)いいが、それが戦争や欲望肥大の原因だというのは、レイプ犯罪の原因を性欲に求める以上に短絡的発想になるというべきである。
節制できず、過食で肥満になることについて、あるいは、アルコール中毒などでも、そうだが、ひとにはそういう快楽追求への動物的本性があるということで、その本性を和らげるために薬物を使用するとか、胃を小さく手術するといったこともある。肝心の人間のみの有する卓越した理性、その意志・意欲といったものは問わず、まるで、それがない動物であるかのような取り扱いに見えてくる。しかし、人は動物以上のものである。人が人であるのは、そういう感性を制御できる理性、高度の脳があってのことで、その理性を患者が(もちろん治療者も)しっかり使うのが本筋なのではないか。
ひとは、理性的動物である。超自然的存在なのである。ひとも当然動物的生理を有しているが、それは、人の土台であり、その動物的生理を制御・支配してこその人間である。それを無視して、人間社会の愚かしい戦争とか、快楽主義的な傾向について、これを動物的生理的に問題にしようというのは、ひとの動物的土台だけを見て、その上にそびえている肝心の理性的自然超越的な人間性といったものを見ない、つまり、人間の尊厳を無視した、人を動物にと見下した見方だというべきである。ひとには自然的動物的な感性・衝動を抑止できる理性が備わっている。社会としっかりと遮断した刑務所に入れば、どんなに強い性欲がある人でも、これは簡単に消滅する。食欲は、個人にとり命にかかわるから刑務所でも旺盛であるが、その食欲さえも、理性意志は、これを抑止できる。かりに、食べたら殺されるという状況におかれたら、動物とちがって、100%これを抑止して断食できるはずである。日頃は甘えているから、食や性の衝動を抑止できない、節制できないというが、甘えられない場になると、まちがいなく、その有する理性意志を働かせて、節制できる。甘えて節制しないだけである。
昨今、不倫などもこれを肯定する者(こういうことでは、だいたいが自分の行っていることを語る)は、動物的本性だ、自然本能だという。動物的生理的には、多数と交わりたいという衝動を有する。それで動物は自分の子孫をよりよく残せるのである。しかし、モーゼが不倫を石打の刑(死罪)にして、人間の家庭の安寧、子孫の保護を可能にしたように、どの社会も、規範(法や道徳)をもって、人間にふさわしいようにと自然を超越し、動物的本能を制御していったのである。動物的自然は、人においては、その土台をなすにすぎない。それの好ましくない面を抑止し、これを理性でもって制御して、節制等に取り組んではじめて自然を超越した尊厳をもった人間となるのである。
4-2-3-1. ひとは、甘やかされれば、動物になりきる
飲酒が過ぎてアルコール中毒になったとき、これは自分の意思では対処できない、入院、薬物療法が必要と言われることがある。アル中ではなく、精神的病が問題の場合は、後者の治療となり、自分だけで解決することが困難なこともあろう。だが、純粋に快楽に溺れるだけのアル中なら、かなりの場合、当人が理性意志を強く働かせれば、克服できるのではないか。それを、飲酒を続ける者は、幼児のように甘えた状態にとどまって、困難に挑戦する意志をもつことなく動物的自然状態のままに、なにかと理屈もつけて中毒に甘える。自身を甘やかせているから、甘えられるから、自身の意思では対処できないということにしているのである。周囲の誘惑があってこれに負けてしまうと言い訳をするが、それなら、山中の一軒家など誘惑のないところへ移ればいいのである。本気になれば、理性的な解決策はいくらでもあろう。同じ頃禁酒を誓った知人は、刑務所に入って即日禁酒をはじめて、アル中からとっくに抜け出しているのである。
ひとには動物的衝動が当然あり、これは自身を強くその方向へと向ける。だが、それを抑止できるのが人間である。理性をもって、快不快を制御して、苦痛に忍耐し、快楽を我慢して、ひとは、社会的にしっかりと秩序をもった生活を可能にしているのである。性と食の強い欲求、動物的な衝動をひとは、普通に制御している。日に三食とか二食に限定した食事も、制御してなりえていることである。おいしそうなものを見たら即ほしくなるが、食事時まで我慢できるのである。性欲も、ほしいままをする犬畜生と唾棄される者以外は、しっかりと抑制して一夫一婦制を守っている。畜生と言われるものでも、刑務所に入ったらしっかり我慢でき(させられ)、刺激がなければ、性欲は消滅さえする。薬物乱用者でも刑務所では何年でも禁欲できる。強い欲求でも、環境を整理しその気になれば、適切に抑制できる。
ひとは、自然的には回避する苦痛も、回避せず甘受でき、我慢・忍耐ができる。そのことで自然を超越した存在となる。自然の衝動・欲求を抑制して、超自然の存在となるのである。快享受を制御するより、苦痛の甘受の方が厳しい意志の働きを要する。苦痛では、苦痛、損傷が現に生じているのを、逃げずに、耐えるのであり、強い意志を必要とするものが多い。これから逃げたとしても、「弱虫」と批判されるぐらいで済む。だが、快の方は、これを享受するのを抑止するのであり、その快はまだ現前していない、想像の段階である。その快の享受を控えて我慢するとしても、苦痛のように生が損傷を受けるという深刻なものではない。比較的に容易なのが快の抑止である。したがって、快享受について我慢できない者は、「人間に悖る」と嘲笑される。苦痛に負けるのは、弱い人間である。だが、快楽に負ける人間は、人間に悖るもの、動物である。
4-2-3-2. 時代によって快苦への対応は相当に異なってくる
かつて、禁煙が大きな社会問題となったことがある。禁煙を求められても、中毒だからやめられないという者がけっこういたし、嫌煙権があるのなら、喫煙権があると息巻いていた。汽車に乗れば、もうもうとした煙の中にいて、皆平気であった。だが、いまは、喫煙者は日陰者である。あれほど中毒になっていたものを、皆やめた。その気になれば、中毒になっていても、やめることができる。やめることがしばらく続くと、余計な欲求であったから、喫煙欲自体が消滅もして、ほしくさえなくなることにまで進んだ。
快苦をひとは制御する。損傷を被る苦痛に耐えられる。ましてや、快楽は、価値あるものの獲得の感情であり、マイナス(苦痛・損傷)ではなくゼロにとどまるだけのことで、深刻なものではなく、苦痛に比して容易に耐えられる。とは思うが、現代社会において、各種の快楽への中毒では、砂糖中毒にしても、アルコール中毒にしても、個人の手には負えないというようなことを聞く。単に生理的なものにとどまらず、それに精神的要因が加わった場合、自分の意志だけでは、どうにもならないというようなこともある。意志の問題だというのは、最後は、ラディカルには、そうだとしても、歴史的にみれば贅沢三昧といってもいい生活に浸っている現代人を前にして、それだけで片づけようというのは乱暴な話になるのかも知れない(レイプを性欲に、戦争を闘争本能に帰すのと似た、短絡な間違った発想になるのかもと)。
食べ物などにしても、美味の快楽に浸りきった毎日なので、節制せよ、抑制せよといっても簡単にはいかなくなっている。菓子はいうまでもなく、果物などでも、強い甘味のものだけが売られていて、過食を誘う。みかんは、かつては、酸っぱさが効いていて過食はさそわなかった。だが、いまは、どの店頭の柑橘も酸味ゼロで甘すぎて過食を誘う。ニュージーランドあたりからの輸入のリンゴは、酸味があって堅く適度に甘く、何より小さくて食べやすく過食にはなりにくい。だが、日本の最近のリンゴは、多くが甘すぎて大きすぎて過食させる。果物は、日本のはナシでもブドウでも同様である。糖度が高くて大きければ値段を高くしてよいという商売人のもとでそうなっているのであろうが、困ったものである。酸っぱいブドウなどこの世にないかのようである。酸味があってこその独特の美味さであり、過食を抑止するものになるが、日本では、もはや、求めることが困難な状態である。お菓子を絶ち飲み物から砂糖を除去しても、果物が、なかには野菜までが甘さを競っていて、快楽主義があらゆる方面に蔓延している現代社会では、みずからの意志でもって快に、苦痛・不快に耐えよといっても、そう簡単にはできない生活になっているのである。
ひとは、常に時代の子である。戦前は、子供は、うちでもそとでも殴られて成長していた。自叙伝などを覗いてみると、父親のみでなく母親にすら何かあるとしばしば殴られていたようである(cf.大杉栄『自叙伝』)。小学校の先生は、鞭をもって教育していた。いまなら裁判になるような乱暴なことが普通であった。そんな時代と今は、自身の意志の使用についても、相当に異なっている。あの、「三代目は家をつぶす」を地でいった、忠臣蔵の、家臣のことなどまるで頭になく、ふしだらで、我慢・忍耐心ゼロの浅野内匠頭ですら、見事に切腹できたらしいではないか。皆がそういうことをする時代なら、軟弱な人間でも簡単に腹も切れるのである(浅野内匠頭、本当は、ぼんぼんゆえ往生際も悪かったかも知れない。だとしても、みっともないので押さえつけて即首を切って、発表は体裁を整えたことであろう)。『葉隠』などを見ると、随分短慮で乱暴で命知らずの、平時の話がたくさん出てくる。それがごく普通という時代もあったのである。根本的には意志が自身の感性・欲望を抑止して苦痛をしっかりと我慢・忍耐してしかるべきではある。が、甘え切った今の時代では、そう簡単にはいかない。生ぬるい時代には、生ぬるいやり方でないとうまくいかないのであろう。
4-2-3-3. 意志は、苦痛が創る
「三代目」が家をつぶすのは、跡継ぎだというので大事にして、苦労をさせず、結果、苦痛によって養われる強い意志の育たないことが一番の原因であろう。強い意志は、苦痛・苦労の中で創造される。強い身体が、身体を無理やりに使って鍛えて可能になるように、こころも、厳しい辛苦の体験をもって鍛えられる。
ひとは、知恵をもって自然のもとで至高の存在となっているが、単なる知、理性だけではすぐれた生き方には、不足する。理性知は、ことにかかわって、深い洞察をもち、真実を見出すけれども、それだけでは、この世界を星の高みから傍観するにとどまる。深く洞察しても、単に観想するだけでは、自身と世界を動かすようなことはできない。自己自身と外的世界を動かしこれに実在的に関与していくには、実践が必要となる。理性は、観想する理性であるにとどまらず、実践的理性、つまりは意志とならねばならない。
この意志は、苦難・苦痛に出会って動くものである。もし快の状態にあるとしたら、これを享受するだけでよく、そこには、その快への欲求は生じても、これをことさらに意志する必要はない。意志が求められるのは、そこで思うようにならないことがあって、つまり、障害があって不快・苦痛を生じているところである。仮に快であるところで意志が求められるとすると、それは、その快への欲求・衝動を抑止する場面である。その快楽享受を抑止する苦痛に際して、苦痛を耐えて快享受を抑止するその反自然の事態に、理性意志が登場する。あるいは、快享受がならない場面で、快獲得のために苦労・苦難に挑戦するとき、意志が登場するのである。酒など麻薬の快を享受するところには、意志はいらない。意志は、この快楽を拒否して(時には禁断症状の苦痛に耐え)苦闘するとき、求められる。意志は、思うようにならない苦難・苦痛に直面して、これを理性の思うようにと変革していくときに必要となる。この苦難の世界に挑戦する理性が、実践的理性、すなわち意志となるのである。
意志が苦痛に挑戦することを通して成長し強化されるのは、身体の鍛錬と同じであろう。身体の強化は、これを使うこと、酷使することで可能になる。鉄棒で大車輪をするには、何回も失敗を繰り返しつつ、身体の使用の仕方に工夫をして、だんだんと巧みになって、これを実現するのである。おなじく、意志も苦難に出会って挑戦を繰り返す中で、心の使い方を訓練して、しだいに鍛錬され、意志強化となる。叱られてはじめは落ち込んでいても、しだいにこれを自身で内心において調整して乗り切っていくことがうまくなっていく。苦痛への挑戦を反復するなかで、意志は強化される。
逆境の中の若者は、これに耐えて屈することがなければ、強い意志を創り上げ、やがては大成していく。温室育ちの三代目は、逆に没落する。ただし、あまりに強烈な苦痛では、意志の強化にならず、打ちひしがれた負け犬となって、三代目以下になることもある。身体も鍛えるにあまりにも無謀なやり方では、身体を破壊してしまう。ほどほどの苦痛とこれへの挑戦が必要である。意志がかかわるものは、多くが精神的苦痛であろう。この苦痛は、絶望にせよ不安にせよ、当人の解釈しだいというようなところがある。身体の酷使とちがって、過度の苦痛であるかどうかは当人の心構え次第ということであれば、耐えられない苦痛はなくすることができる(受験や就職で絶望・憔悴しきっていても、海外へ移住でもすれば、リセットできる)。どんな場合も、生じている苦難の解釈を変えるなどして挑戦可能なものに作りなし、自らの意志強化、鍛錬へとつなげていくことが可能となるのではないか。
なお、意志は苦痛によって創られるといったが、もう少しことを分けて見ると、狭義の苦痛自体は、ひとを痛めつけ、心身をくたびれさせ、しばしば挑戦精神・気力をも奪う嫌悪すべきもので、意志の強化を可能とするものは、その苦痛に駆り立てられて心身を総動員して挑戦する積極的な前向きの心構え(気力など)をもつところにあるというべきであろうか。身体損傷の苦痛の場合など、その痛み自体に対してみずからが意志して何かできることはほとんどない。痛みを前にして、なにくそと気力を奮い起こし、痛みを吹き飛ばそうと意気込み、創造的な活動へと自身を奮い立たせる過程に、堅忍不抜の意志が目覚めるのである。痛み自体は、意志を直接奮起させるとはいえないかも知れない。しかし、ことがスムースで快である場合は、これに魅され享受するだけで、積極的に意志を働かせるような場はない。苦痛は、直接的には人を痛めつけ意気消沈させるが、この苦痛を前にして、尊厳を有する人間は、苦痛(自然)に支配されるのでなく、これを支配下において、挑戦精神を奮い起こす姿勢をもてるのである。しつこい苦痛が、尊厳を有した人間にチャレンジ精神をもつことを強いる。挑戦する心構えや意志の喚起は、苦痛で踏みにじられてということであろうから、やはり、苦痛あっての意志の形成と解して良いであろうか。
4-3. 目的の手段は、苦痛でなく、快のばあいもある
ひとは、苦痛を耐え忍ぶことを手段として、価値あるものを獲得する。労働は、その代表で、辛い労働を手段にして、その結果において価値あるものを作り出す。秋の実りを得るためには、炎天下での辛い農作業を耐えることが必要である。だが、その実り・価値あるものを獲得するための手段の営為は、かならずしも苦痛である必要はない。価値ある結果を導き出す手段の過程が苦痛・快どちらでも可能というのなら、それが価値ある同じ目的(結果)を産むのならば、むしろ、快を手段とすることであろう。わざわざに命を縮めるような辛苦を引き受けなくても、楽に成果が出せるのであれば、それを取る。ときに、そういう快の、楽な仕事も存在する。
絵を描くことを楽しみにしているひとは多い。できた絵は、他者にとって価値がなければ、その営為は、価値を生む営為ではなかったのであるが、それが市場で価値あるものとして売れるようになることもある。画家として生計を立てている人のうちには、描くことが楽しく快適なものになる人もいることであろう。音楽家も、できあがった作品がみんなにとって魅力的で価値あるものになるとしても、それを創作する過程は、かならずしも、苦痛である必要はない。創作が楽しいなら、その方がよい。創作が快なら、それは、持続しやすいし、多くの時間をそれにまわすことになって、より多くの価値ある作品を生み出すことが可能となる。芸術家のなかには、人生に苦悩していて、その作品創造をその苦悩解消の手段にするような人もいる。ここでは価値創造の過程は、苦痛どころか、反対に苦痛を癒す過程となっているのである。
一般的に仕事は、苦しいことのあるもので、その苦痛を耐えしのび、それを手段とし不可避のプロセスとして、結果として、価値あるものを創造する。歴史は、その苦難の労働をだんだんと楽なものにと改善してきた。苦難になる過程・部分は、道具や機械にやらせて、ひとは、それの制御・操作という楽な仕事にしてきた。農業というと田畑を耕作する重労働であったが、いまは、もう耕作等は農業用の各種の機械でもってすることで、ひとは、それを制御・操作することで済んでいて、かつてとは雲泥の差で楽なものとなってきている。
価値あるものを生み出すには、かならずしも、苦痛を介することはないのである。工夫をすることで、価値創造の手段の過程が快適な作業となり、楽なものにできるのなら、わざわざに苦痛を甘受するようなことはない。しかし、快であったり楽しみなものは、皆が自分ですることになり、わざわざ対価を払って買いたいようなものにはならなくなる。盆栽の水やりとか、プラモデル作成は、自身の楽しみであり、ひとには譲りたくない仕事であろう。だが、苦痛になるものなら、皆が回避しがちになる。それは、希少で、皆がその創造したものを欲しがるような活動となり、それに要する苦労には、これに報いるだけの対価を払ってもよいということになろう。創造的なことをする場合、その歩みを妨害し阻害するものがどこかに出てくるのが普通であり、そこに生じる苦痛を回避していたのでは、先には進めない。苦痛になると、これには必ず回避衝動がともない、苦痛からは逃げ出したくなる。逃げずその苦痛を甘受し忍耐することがないと先には進めなくなる。こういう場合は、苦痛を忍耐することをもってのみ、その先の価値あるものの創造は可能となるのである。
4-3-1. 動物なら快にはのめりこむが、ひとは、これを手段ともする
美味しければ、動物は、快楽を享受するのみである。芸を覚えさせようという場合、先に餌(快)を与えたら、これにのめり込んで、芸を覚えることには進まない。快は、芸をした後に褒美として出すのでなくてはならない。だが、ひとは、快を享受しつつ、その先の栄養摂取等の目的を考えることができる。美味しいけれどこの美味の堪能はこれぐらいでやめにして、栄養として必要な不味い物も食べようと、快への自制ができる。
自然が快楽をえさにして実行させる生促進になること自体を、動物は、自分の意識において求めることはないが、ひとは、快にしたがうとともに、生促進自体を自分の目的として意識することができる。自然の狡知の全体を自分の知の営為にできる。食の快楽を求めるとき、その背後で自然は、栄養摂取を実現している。性的快楽を求めることによって、自然は、その動物個体の意識を超えたものである受精を実現する。その全体を、動物とちがって、ひとは、手段・目的のもとにおさめて自覚することができる。食や性の快楽は手段だと承知して、その上に、栄養摂取の目的を立てたり、受精を目的として明確にし、快楽享受を制限し制御もする。元気な精子を受精させねばと、しばらく快楽の性的営みを延期もできる。
ひとも、美味しい物を食べるとき、その快楽に魅され、それがすべてとなって、動物なみになって、手段であることを忘れることがある。ときには、肥満せぬよう栄養摂取の大目的を拒否して、快楽にのめりこもうともする。快楽享受が最終目的になってしまう。性的快楽も同様である。それが受精をもたらす手段であることは、みんな周知している。だが、そのことをまるで顧慮のそとにおいて、快楽のみを最終目的にすることは多い。ときには、受精を拒否し妊娠を拒否して自然の目論見を意識的に回避することもある。快の先に大きな目的があった場合でも、その目的を忘れて、魅了する快楽にのめりこみ、そこに停滞することが生じる。これが苦痛という手段なら、できるだけ早くそれを抜け出したいから、苦痛の先の目的へと邁進する。快では、とくに目的への意志が弱い場合、手段のはずの快楽にかまけてしまい、目的には進まないで終わることにもなる。
動物のように、その快楽に魅されてこれで終わりとすることが時にはあるとしても、ひとは、根本的に未来に生きる存在であり、多くの場合、さきを見ていて、快楽だからといっても、その現状に留まることなく、おそらく、最終目的にまで進むであろう。芸術活動の場合、楽しいことで、これに一日のめりこむこともあろうが、その先の目的を意識してその目的実現、完成をもって充足するのが普通である。絵画を楽しく描きつつも時間の都合で中断したままになっていたとすると、ちゃんと仕上げなくてはと、気がかりになる。ひとは、快苦にかかわらず、未来の目的を第一として、苦痛を回避せず、快でもこれに魅されてそこにとどまり続けることをしないで、それを手段と見定めて、これの先にと進まずにはおれないのである。
4-3-2. 快と違い、苦痛なら、必ず先(目的・結果)へと進む
ひとは、価値創造においてその手段の過程が快であっても、動物とちがい、必ずしも、これにのめり込んで先に進むのを止めるようなことはしない。しかし、手段の快だと意識していないとこれに魅されて先に進むことを忘れがちとなろう。先の目的を忘れないかぎりでの快の受け入れ・享受にとどまるようにと注意する必要がある。その点では、苦痛なら、苦痛を一刻も早くなくしたいから、そこにとどまってなどおれず、苦痛の先へとみずからを強制し、苦痛のないところへ、あるいは目的とするところへと直行することになる。
動物では、快を与えると、それにのめり込み先には進まない。芸を教えるとき、先に褒美の餌(快)を与えるとそれに魅されて、芸を覚える方には向かない。ひとだと、先に快の褒美を出しても、しっかりしておれば、その褒美に見合うようなことを続けうるが、それでも、味わった快が心残りでは、さきへと集中することは難しくなろう。その点、苦痛が与えられた場合は、これを避けたいから、苦痛を少しでも早く克服したいと、苦痛の鞭に駆り立てられて先に、目的へと進む。苦痛の自然的反応(苦痛回避衝動)が苦痛のないところへと猛進することはもちろんだが、それができない状態、苦痛を甘受せざるをえないという場合においても、一刻もはやく苦痛甘受を終わりたいと目的へと邁進することになる。馬を御者は、思うように走らせるために、鞭打つ。進むことを億劫がっている馬には鞭を加えて苦痛を与える。馬は、鞭うたれ続けることを止めてもらえるようにと、御者のいうことを聞き入れて嫌であっても前に進む。苦痛では、快とちがい、これをなくする方向に向かわずにはおれないから、苦痛のないその先へと直行することになる。それは、人の目的論的営為でもそうであろう。辛苦の状態を一刻もはやくなくしたいので、それが可能になる目的達成へとひたすらに前進することになる。途中の手段の過程が快だと、これに魅されて立ち止まり、快に安住してしまえば前には進まなくなる。
多くの価値あるものの創造の過程は、快である場面もあり苦痛である場面もあることであろう。快であれば、そこにとどまりたくなり、先には進みにくいことが生じる。それに対して苦痛が生じる場面になると、まずは、その苦痛を回避したいということで、その苦痛回避に向かおうとすることであろう。だが、ひとは、その過程の目的も踏まえて、その苦痛を回避したのでは、ことを台無しにし目的実現が不可能となることを知っている。その苦痛を回避することで損害があまり出ないのであれば、その苦痛は自然的反応としての回避へと向かってよかろうが、その回避によって、多大な損害が生じると分かっておれば、苦痛を回避せず甘受することに人は向かう。苦痛を耐える過程を回避しないことでもって、その先に大きな価値創造の結果(目的)が可能となるのであれば、これを甘受し忍耐して乗り越えていこうとする。しかも、その苦痛の過程は小さくしておきたいから、それがかなうようにと、最小限の苦痛をもって、先の目的へとまっしぐらになろう。
4-4. 目的のための苦痛(手段)は、合理的に因果等を踏まえねばならない
ひとが苦痛を甘受するのは、その犠牲を払っても実現したいものがあってのことであろう。何ごとをなすにしても、自然に対してならその自然法則を周知して、それの向かう方向なり、反応を理解していなくては、その自然を自分の求めるようには動かせない。社会的な問題でも、社会の法則・動静をしっかりと掴んでいなくては、苦痛の犠牲は生きることなく無駄に終わってしまうであろう。
苦痛甘受をもって事にかかわるのであれば、無駄な苦痛にならないように、求める目的から観念的に因果を遡源して、その目的を実現しうる赤い糸を手元の原因までたどって、これを客観的に把握していることが必要であろう。単に自分の主観的な願望を目的にあげてがむしゃらに動いて苦痛を甘受しても、願望は実現しない。願望に到るまでの筋道をたどって手元にかえり、この手元を確保し、自身の苦痛がそこに必要な手段となっていることを確かめていなくてはならない。単に不快・苦痛に耐えるだけで成果が得られるのではない。道理を踏まえて合法則的に歩み、そのプロセスにおいて苦痛甘受が必須というときの苦痛のみが、成果と結ぶのである。単なる苦痛の甘受は、徒労に終わる。
ひとは、大きな成果をだすとき、大きな苦痛を耐えてすることが多いが、それがかなうのは、合理的に筋道がたっていて、苦痛から望み・目的までの道が通じているときのみである。いくら大きな苦痛を受け入れて宗教的苦行を重ねても、雨を降らせたり交通事故を止めることはできない。目的の確かな手段となる苦痛のみが目的を可能とするのである。受験の成功は、勉学に辛苦を重ねることでなるのであって、いくら全国の神社仏閣に願掛けに走り回り苦労を重ねても、無益な苦労・苦痛である。親が駆け回るのなら、気休めぐらいにはなるが、受験生本人が全国の神社を駆け回るのだとすると、無駄・無益どころではなく、有害で、回るほどに勉学を遠のくから、受験失敗確実となる。
自然においては、快は、好んで受け入れ、苦痛不快になるものは、避ける。快を享受しようと動くので、自然は、導きたい方向にこの快をさしはさむ。ときに、それは、罠・エサとなり、快に引かれて身を亡ぼすことともなる。先を、未来を洞察する人間は、このとき、快が自分たちの生に資するより、有害と知れば、これを回避して、快を抑制する。ことの展開に苦痛が不可避という場合は、苦痛は有害で損傷を与えるものであるから、さらに、その展開の過程をしっかりと洞察し、深慮遠謀をもって対処しなくてはならない。その上で、必要なら、苦痛を回避する自然を抑止して、これを甘受する。動物なら回避し逃走するものを、「肉を切らせて骨を切る」ということで、苦痛を甘受して、目的へと邁進できる。もちろん、いたずらに苦痛を受け入れるのではない。苦痛なしで同じ目的が実現可能なのであれば、当然、苦痛のない道を選ぶ。苦痛を甘受する以外に道のないとき、これを回避せず受け止めて、道を先へと進めるのである。
4-4-1.
よく考えて、苦痛甘受、忍耐しなくてはならない
苦痛甘受は、その生に損傷をもたらし、心身を疲弊させる拒否したい嫌なことである。したがって、苦痛を甘受するという超自然的な振る舞いは、安易には受け入れられない。ほかに方法がないとか、それが目的のための最高を結果するというような場合に限って、苦痛甘受の忍耐は、受け入れるべきであろう。
苦痛甘受、忍耐は、意外に愚かしいものとなることがある。結果・目的について、しっかりと考えることをしないからである。せっかくの苦痛も甘受も、生きないことになる。忍耐には、愚かしい忍耐、無意味な忍耐、自虐的忍耐、邪悪な忍耐等がある。いずれも、自然を超越する苦痛甘受の忍耐自体は尊いのであるが、その目的・結果が愚かしいのである。せっかくの忍耐が生かされないことになる。激痛に耐えたのに、結果は、さんざんということになりかねない。受験に合格させてくださいと近所の神社に願掛けし、早朝からお参りを繰り返したとしても、その苦労は報われないどころか、その時間分勉強をしないのだから、おそらく不合格の度合いを高める。目的と手段をしっかりと精査・精選することが必要である。手段・目的がしっかりしておれば、その苦痛甘受も生きるし、やりがいがあり、よりよく忍耐できることになる。それがいい加減では、苦痛甘受・忍耐は生きない。
忍耐は、奴隷労働のように強制されることもある。苦痛が続くと、苦痛に鈍感になることもある。邪悪な経営者のために過労死するまで働かされることがある。苦痛甘受は、自分を無駄に殺すことともなる。人でなしの貪欲な経営者のために命を捨てる忍耐は、するべきではない。忍耐するに際しては、その苦痛と甘受の仕方、その目的についてしっかりと考えながらすることがいる。確実に忍耐は自己を犠牲にするのだから、その目的も手段も自分でよく見極めて展開することが求められる。本来、人間は、未来に生きる。今、法学部学生であるのは、未来の法曹になるためである。その未来がなく、現在の法学部生を永遠に続ける者はいない。その、未来に生きる人間であるのに、苦痛の忍耐では、現在の苦痛に意識が奪われがちとなり、未来のことを考える余裕を与えないぐらいに厳しいものになることがある。苦痛と忍耐から、時々は距離をとって、未来の結果を想像する余裕をもっていなくてはならない。
忍耐では、その苦痛(損傷)甘受の限度を超えたものとなった場合も考えておく方がいい。無謀な我慢は苦痛・損傷で身を亡ぼすことになりかねない。さらには、苦痛甘受だけでなく、目的の実現に失敗することもでてくる。当然、それにも備えておくことがいる。苦痛と甘受が無駄に帰すことがある。「骨折り損のくたびれもうけ」は、まれなことではない。よくあることである。忍耐においては、苦痛の多大な犠牲を払うのだから、それに見合う成果があると思いたくなるが、現実は、あまくない。期待通りにいくとは限らない。苦痛・犠牲のみを負って終わることもある。さんざんな目にあうことは、苦痛甘受では、しばしばである。快を手段として目的を実現しようというのなら、目的確保に失敗しても快は得たのであり、損害は少ない。だが、苦痛を手段とする場合、失敗は、犠牲だけを残す。その覚悟もして、深慮遠謀のもとに忍耐・苦痛甘受はしなくてはならない。
4-5. 辛苦(の忍耐)は、自他の手段価値となる
苦痛を甘受すること、忍耐それ自体は、味わいたいものではない。苦痛は、嫌悪すべきもの、反欲求の代表で、反価値である。が、それの忍耐は、価値ある事柄として受け入れられることが多い。それは、その苦痛甘受の営為を通して、価値あるものが創造されるからである。それによってしか価値創造がならないのであれば、その苦痛甘受・忍耐は、貴重な手段としての価値をもつことになる。さらに、苦痛を耐えることを通して自身の能力の開発されることもある。辛いトレーニングは、能力開発の手段価値となる。
辛苦・苦痛に耐えることで、自分の外に価値ある物の創造されることがある。その苦痛の甘受・忍耐は、自分から独立した価値物となって、自分だけにではなく、ほかのひとにも価値あるものとして役立ちうることになる。自分の苦痛は、そのマイナス・反価値で終わるのではなく、それをもって生み出したものにおいて、価値としてよみがえり、これを受け取った他者には、享受したい価値物となり、快となって、有益なものとなる。
ひとに役立つ自分の苦痛甘受・忍耐は、直接的になることもある。他者の価値ある状態、楽のために、その人に代わって自分が苦痛を引き受ける場合である。たとえば、重い荷物を運ぶという苦痛になることを、そのひとが忍耐して運ぶ代わりに、自分が引き受けるのである。重い荷物を自分が引き受けてその苦痛を甘受して運ぶことで、そのひとは、楽ができる。自分が苦痛甘受しただけ、そのひとは、苦痛を抱くことなくそれに相当するものを享受できる。
時には、その人自身にはできない事柄を自分が引き受けて苦痛甘受の忍耐をすることもある。背中を按摩することは、その人自身ではできない。それをしようとしたら、相当に難しいことで、厄介なことになる。だが、他人が代わって、その背中を按摩したり、掻いてあげることはそれほどの苦労なくして可能となる。おそらく苦痛になるとしても、小さな苦痛でそのことが実現できる。按摩では、まさに、相手の手(手段)となって働くのである。自分の手だが、按摩の間は、相手のものとなっているのであり、自身はその間、相手のまさに手段(犠牲)になるのである。苦労の価値は、その犠牲になった時間で測られることが多い。
4-5-1.
辛苦(苦痛甘受)は、他のものと交換できる価値になる
苦痛の創造した価値は、他者に利用される快適な価値となることがある。苦労して仕上げた椅子は、自分の座れる価値ある椅子であるが、それは、他の者にも価値ある椅子であろう。かつ、他の者が苦痛の手段をへて創造したその価値物は、たとえば、手袋は、自分にも価値ある物となりうる。それらは、各自においては、たくさん作った場合は、無用なものとなる。その余分のものは、自分には価値がないが、他の人には、使用価値のあるものとなりうる。自分の作った余分のものと他者のつくった余分のものは、交換することで相互に有用性をとりもどす。交換によって有用な使用価値としてよみがえる。自分たちの苦痛の創造した余分なものは、相互に、交換において価値あるものに変身する。その各々の苦痛(の甘受)は、各自において交換価値を有したものとなる。
その各々の苦痛甘受は、各自各様の苦痛であり、別々に生じた苦痛である。それが等値されて交換されるのであるから、その異なる苦痛は、等値されたのである。どういう苦痛であっても、交換されるところでは、等しいもの、同じ質としての苦痛に還元されているのである。かつ量的にも等しいものが交換されているはずである。椅子一つと手袋10組という比率かもしれない。交換においては、量・質ともに等しい(苦痛、苦労の)価値となる。
もっとも、その交換を支える苦痛は、広義のもので、自分の時間をとられていることぐらいでも苦痛といえば苦痛になる。主観的に嫌悪すべき苦痛刺激のあることも、自由にならない時間ということも苦痛である。快楽の状態で創造したものは、他のひとも自分でそういう快楽は享受したいから、自分で創造することになり、みんなが自分で作るのなら、他者がほしがるもの、価値とはなりにくい。プラモデル作りは、楽しい作業であり、ひとにやらせたくない。自分でやる。だが、苦痛は、万人、回避したいことであり、この苦痛なしに快適な価値あるその成果が享受できるのなら、そうしたいこととなり、苦痛の創造したものは、一般的に価値あるものとなる。また、苦痛をもって創造したものは、自身には尊い犠牲を払っての価値ある創造であり、他者に簡単には譲れない。その苦痛にみあった別の価値あるものとの交換であってはじめて納得のいくものとなる。
何が苦痛になるかは、おおむねは、万人において一致している。心身の損傷となることが苦痛の元である。ただし、慣れているものとか、もともとその方面では鈍感とか、少しの違いはある。自分ですると大きな苦痛になるが、他のひとではより小さな苦痛で済むのであれば、その小さな苦痛で済むもの同士を交換すれば、相互に好都合となろう。得手となるものを作り、不得手なものに交換すれば、小さな苦痛で相互が大きな価値を享受できることとなる。
4-5-2.
ものの交換は、苦痛の交換となることが多い
自分がさんざん苦痛を忍んで蜂蜜をたくさんとった場合、周囲の皆に与えるとしても、これを見知らぬものには、あるいは、敵対しているものには、分け与えない。しかし、自分のもとでは、大いに余りきっているのである。そのとき、敵対するものが、自分の求めている肉をたくさん持っていたとすると、これとなら交換してもいいと考えるであろう。敵に贈与するのではなく、同じ価値のものを自分の都合いいものにと交換するだけで、損得なしの等価交換である。敵対しているものは、それはそれで肉をたくさんもっているとしても、大いに苦労して得た肉であり、腐らせても、敵には、贈与することはできない。が、あまっているのであり、他方では蜂蜜には飢えているのだとしたら、相互に、等量の苦痛を払った分を交換して各々の苦痛を使用価値あるものにできたらと思うことであろう(二者の間では、無理でも、媒介者を経れば、抵抗感なく、それは実現されるであろう)。肉に苦痛をはらったものは、余分の肉のままではその苦痛は生きないが、蜂蜜に変えられるなら生きる。蜂蜜のあまった者においても同様で、肉にできれば、自分の余分の蜂蜜分の苦痛が生きる。相互に、損をせず、両得となる。
お互いの苦痛の甘受の忍耐は、相互に交換することで、多様に、すべてその価値を実現できることになる。自分の苦痛を他者が楽しみ、他者の苦痛を自分が楽しむのである。もちろん、これが成り立つには、苦痛が価値創造の手段として十分に働いて、価値ある目的物を創造できていることが前提である。いくら苦痛を甘受するといっても、それが無意味なもの、無駄なもの、稚拙なものであっては、価値あるものを創造することはできない。価値ある目的物を創造しての手段価値をしっかりもった苦痛甘受のみが、交換の価値をもったものとして、生きるのである。
交換においては、快は、交換の背後に控えているとしても、表には出てこない。快を等しいものにして交換するのでもない。表に出ていて、交換を支えるものは、苦痛・苦労の方になる。相互に費やした苦痛・苦労が等量だということを踏まえて、双方が納得して、交換しあうのである。その背後にそれを使用価値として楽しみ・快を実現することがあるが、その快(使用価値)の大きさは、等しいものでなくてよい。というより、使用価値について、相互が異なるから交換しようというのであって、そこに見出されている快は、相互に別々であるのが基本となる。同じ快なら、交換せず、各々の有しているものを使って楽しめばよいのである。使用価値(快)を大きく感じる方は、少々の無理はしても手に入れたいという交換の促進要素にはなろうが、その交換の相互に等しい苦痛の価値には、色を添える程度であろう。基本は、苦痛・苦労の等しいものを交換しあうのである。一匹のメザシがいくら喉から手が出るほどほしいとしても、交換するに自分のさんざん苦労して作った箪笥一つと交換はしない。
それぞれ別である苦痛を等価とみて交換するという前提には、苦痛一般にと各自の苦痛の還元されていることがあろう。生理的苦痛にもいろいろあるし、精神的苦痛もある。それら異質の苦痛が、等しい質にと還元されて取り扱われていることがあって、交換での等値は可能となる。苦痛となる身体の損傷については、それで生活がどの程度阻害されるかで、等質化しその量を測っている。苦痛一般について、生を打ちのめす辛さとその度合いで、これを測っているのであろう。労働の場合、時間でその量を測るのが普通である。自分の時間、自由な時間が阻害されて、その労働の時間の間は、自分のではなく、他者のものとなっているのである。ひとの田んぼで働いている時間は、自分ではなく、他者の手足となり他者の時間となっているのである。さらに、その労働の時間のうちでの、損なわれ方、苦痛の程度ということもある。重労働と軽作業では、同じ時間でも、苦痛の強度がちがう。それらを踏まえて等質化し量化して計算することになろう。
4-5-3. 報復律
ものの等価交換において、苦痛・労苦の交換が行われるが、交換を望むのは、相手が自分の欲求を満たすもの、快となるものを有していて、自分はもっていないからであった。つまり、快(あるいは使用価値)が相互の交換へと駆り立てたのである。それに対して、苦痛が前面に出て、関わりを求めることもある。それは、「目には目を」の報復律(lex talionis同害復讐律)の場合である。快の贈答とは反対で、相手から被った苦痛があって、これと等しい苦痛をお返ししなくては、おさまりがつかないというのである(この根底には、ひとは、万人同一、対等だという思いがある)。被った苦痛あるいは損害と等しいものを返すことで、相互に同じマイナスをつくって、貸し借りなしにと決着をつける。ここでは、相手の苦痛と自分の苦痛が同等であると、等質化され、その仕返しの程度も踏まえて等量化もされている。さらに、歯を折られても、相手に既に歯がなければ、歯以外の手足等を傷つけ痛め付けることになるから、苦痛そのものが一般化され等質化されてもいることとなろう。商品となるものの価値の等価交換は、相互が自身で味わった苦痛を前提にして、同時的に、それに要した過去の苦痛を等価にと計量している。だが、報復律は、過去の一方の苦痛(損害)と未来に生じる他方の苦痛という異なる時間に生じる苦痛について、等しい苦痛をもって対応するのである。
原理的には、被った苦痛(損害)を踏まえて、これと同じだけの苦痛(損害)を相手に返すことで、決着がなる。鬱憤を晴らせる。「歯には歯」であり、折られた歯には仕返しとして、相手の歯を折ることである。だが、それでは、損害・苦痛を二倍にするだけである。それを避けるために、場合によっては、折られた歯、苦痛に相当する価値あるもの・快をもって償うことにもなった。苦痛を快で埋め合わせる。マイナスに等しいプラスをもってしてゼロとする決着である。苦痛・損傷が同質化され量化されることで同等に置かれて報復は成り立つことだが、さらに、快で償うということでは、快とも等質化され等量化されていることとなる。快不快がプラスとマイナスにと量化されて計量されうるものとなっているのである。報復律の穏やかなやり方は、苦痛に苦痛で報いるのではなく、苦痛を快で保障し償い、埋め合わせをするということになる。
自身のうちでは、動物でも人でも、快不快は同質化され量化されている。苦痛はどんな苦痛も苦痛であり回避したいもので、快も快として、どんなものでも受け入れたいものであり、両者は、受け入れか排除かという逆方向になるもので、プラスとマイナスの記号がつく。快も不快も方向が逆になるだけで同一線上にある受用の価値と反価値(逆向きの価値)として等質化され、量化され比較でき、差し引き計算できる。どんな苦痛であれ、適量の麻薬の快をもってこれをゼロにすることができ、マイナスをプラスでもって埋め合わせてなくすることができる。ひとのばあいは、目的を設定してその手段として、苦痛を甘受もする。苦痛を苦痛として計算するだけではなく、大きな快の目的の不可避の手段とすることでもある。その場合は、その手段の苦痛のマイナスの量と、獲得される目的(快)での価値のプラスの量の差引計算をする。マイナスが大きければ、その苦痛甘受は中止となろう。
なお、報復律が適用される事例は、日常的には、「目」や「歯」の損傷・苦痛であるよりは、器物の損壊が多いことだし、不当・不法の償いも計らねばならない。苦痛・快不快を含めて、すべてを金銭(価値)でもって表し等質化するのが普通であろうか。それらのプラスマイナスの諸量の計量をもって解決を計る。
5. 苦痛の価値論Ⅲ-苦痛は、主体の能力を創造する価値
6-1. 人の尊厳
最近は、生命倫理等で「人間の尊厳」が言われる。尊厳(dignity)は、神や国王の尊厳が古くから言われてきたことだが、これは、比較を絶した至高の位置にあって見事な支配のできていることをその被支配者から評価していう言葉である(cf. 近藤良樹『人間の尊厳-尊厳は支配関係に由来する-(論文集)』広島大学図書館リポジトリ(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00020345))。人間は、神からいうと下賤で悲惨なもの(反尊厳)だが、自然世界のもとでいうと、自然を見事に支配でき、猿を第二位にもっていても、猿は物あつかいで、人間のみが比較を絶して至高の存在とみなされて、尊厳とされる。人は、理性的自律に生きて自然を超越した存在となっているのは確かで、自然のもとでは至高の存在として君臨しているから、自然からすれば尊厳と見立てることが可能である。そして、この人間に関わる者は、これを尊厳の存在と見なして、かつての神や国王と同様に、これを手段に貶めることはならず至高の目的とし、神聖で不可侵なものとして取り扱うことが要請されている。
尊厳は、客観的な規定ではなく、支配・被支配関係において後者から前者を賛美していうことである。主観的な評価だから、恣意的なものでありえて、独裁者は、被支配の者を強いて、尊厳の称号を付与させることが多い。もちろん、支配の外の者からは、愚劣な独裁者と客観的に評価にされる。あるいは、そとでは無能扱いされている者でも、うちでは、家族を厳かに統率する家長として尊厳をもった存在になりうる。昨今、社会において指導的な理念となっている「人間の尊厳」だが、実際には、しばしば冒涜的な扱いを受けることが多いし、自然や動物からいうと冷酷な支配者ということで、尊厳にふさわしくない尊大な振る舞いを繰り返してもいた。しかし、最近は、地球を破壊するようなことになってはならないと、真に尊厳に見合うような、自然環境への見事な支配をめざしつつある。あるいは、身近には、せめて死ぬときぐらいは見苦しいことにならないようにと「尊厳死」を表明する者もいる。人の尊厳は、手前みその勲章などではなく、支配下の動物などの自然からみても、かつてほどには無法・身勝手ではなく、真摯に地球環境に配慮しようとしていて、尊厳にふさわしいものになりつつある。
6-1-1. 苦痛に耐える者は、人の尊厳を証する
ひとの忍耐は、その辛苦・苦痛を手段にして、目的において価値あるものを創造する。あるいは、そういう価値物を創造しないとしても、訓練・教育の場に見られるように、その忍耐するひとの卓越した能力を磨き開発することができる。そのいずれでなくても、苦痛の忍耐は、自然を超越して、自身の自然であるその快不快、とくに苦痛を制御・支配して、動物的自然の状態、自然による支配を脱して自由になり、自律の尊厳を明かす。
苦痛甘受の忍耐の目的論的営為は、理性意志をもった人間にしかできない営為である。因果の自然を超越してこれを利用する至高の営為として、その意志は、尊く厳かである。それは、自然の快不快から自由になって自然を超越して理性的な精神世界を可能とする。理性をもっての自己内外の自然の卓越した支配である。それは、自然、とくに自己内の自然を自由に制御する、自然世界のもとでの類まれな卓越した尊い営為である。忍耐によって、苦痛を手段とする目的論的営為をすすめ、自然的な苦痛への奴隷状態から自由になり自然を超越しこれを支配するものとして、人の理性意志は、尊厳で形容されるのがふさわしい。
苦痛甘受の忍耐は、自己内自然としての苦痛を、自然的には回避衝動に支配されて苦痛の奴隷になるものを、回避せず逃げずそのままに受け入れ、これを忍び耐えて、因果自然の営為では到達しえない高い目的を実現する。苦痛の奴隷となってムチ打たれて逃げ回る自然状態を克服して、目的のために、苦痛回避衝動を抑止し、この自然を超越して、所期の目的を達成して自然にはないものを実現していく。それは、苦痛に対決して、この自然を超越して尊く、厳しく厳めしく厳かであり、尊厳を持った営為である。忍耐は、おのれの自然を超越し自由にしての、他の動物たちを足元にも寄せ付けない見事な、自然の至高の制御・支配となっている。ひとは、この苦痛忍耐の点では、人となった歴史の古い時代から、尊厳の勲章を付与されてよい存在であったということができる。
6-1-1-1. 苦痛の支配を脱して、人はこれを逆に支配する
ひとのもとでも、自然による支配が日常的には貫徹されている。ひとの内部にあって、ひとを動かしている自然、内的自然のうちで、一番ひとを強力に支配し突き動かすものは、苦痛であろう。ほかのことだと、ある程度、融通が利いて、その自然にしたがわないでも手厳しいことにならない。だが、苦痛には、すべての動物がこれにひれ伏す。苦痛というムチにあらがうと手厳しい報復をひとも受ける。したがって、これには逆らわず、苦痛の奴隷にとどまらざるをえないのが普通である。
だが、ひとは、この強力なムチである苦痛に、ときに、従わないことがある。忍耐がそれである。苦痛からは逃げるのが自然であるが、ひとは、必要と思えば、このムチを受け止めてこれを甘受して、忍耐する。自己内の最大の支配する自然としての苦痛という存在に対して、これに従わず、逃げずにこれを甘受する。苦痛の強烈な自然支配を排除して、この苦痛を逆に受け入れ、この自然を支配するのである。
苦痛に従わないでその回避衝動を抑止して反自然的になってこの奴隷のくびきから逃れることは、容易ではない。ときには、死をも覚悟しなくてはならない。苦痛の自然的な回避衝動を抑止して、苦痛を受け入れるとは、自身を傷付け、自身の損害・損傷を受け入れるという犠牲を払っての覚悟ある営為となる。それでも、ひとは、必要なときには、自らの意志をもって、自由に、苦痛のムチをあえて受け入れて、この苦痛の求めるものを拒否して、苦痛の支配から脱し、それをもって理性意志の目的を実現する。この自由の決断は、人以外は、おそらく、基本的には、無理なことである。動物も、大きな快とか他の強い衝動のもとでは、痛みを受け入れて忍耐することがあるが、それは、それらの押す力が、痛みより大きいからであり、痛みがそれらの力より大きくなると、逃げる。あくまでも、動物は、快不快の自然的営為のうちにあり、自然の奴隷に留まる。
苦痛の自然に従わず、逆にこれを制御・支配する、この自然超越は、理性的存在としての人のみの有している至高の営為である。日頃は、苦痛の自然に任せているが、必要なとき、自由にこれを取り扱える。自動車の運転と同じで、なにもなければ、車が自動的に動くに任せているが、ひとは、必要なとき、ハンドルを回したりして制御し、自由自在に車を扱う。苦痛の自然を、ひとは、そのように自由にする。忍耐のもとで、苦痛を自由にして、ひとは自然超越の尊厳をもった存在であることを証する。
6-1-2. 快からの自由
ひとの内的自然は、快と苦というアメとムチをもって、ひとを制御・支配する。その限りでは、ひとも自然に支配されていて自然の奴隷である。この奴隷状態から、自由になるには、そのアメとムチを拒否して、自身の自律的な理性意志をもって行為していくことである。一番の自然の力は、苦痛にあるが、同時にアメとしての快も大きな力でひとを支配していく。ひとは、自然支配筆頭の苦痛のムチから自由になり、尊厳の存在となると同時に、この快のアメからも自由になりうる。快苦の両方を制御して、ひとはこれから自由になって、己の尊厳を貫いていく。ムチ、苦痛には死力をつくしてこれの支配を許さず自律的であろうとする者も、意外とアメ・快には弱いことがある。快にとろかされて、これに支配され奴隷となる。快の奴隷になった、酒とか甘いものの快楽中毒は、物に恵まれた現代社会には多い。
快は、はじめは些事であったろうが、ひとは、生産の能力を大きくするとともに、快・アメも容易に手にできるようになって、これに嵌まることが多くなってきた。文明の発達とともに、自然的な苦痛は、これを回避できる手段の確保に努めてきたので、苦痛と出合うことは少なくなってきたが、逆に、快と出合う機会は激増している。商品社会では、売れるのは、美味しいもの、快の価値をもたらすもので、これを過剰に作り出すようになってきた。現代社会では、快というアメによる支配が目立つようになっている。もちろん、どんなに快がそそのかそうとも、これに魅される自己の感性を制御・抑止して、自己内のこの自然から自由になりうるのが、自律の人間である。
快(自然)の支配で昨今一番問題になっているのが、肥満であろう。当然、ひとは、この快の自然支配を拒否して、肥満阻止も一般的には実現できている。快抑制は、苦痛甘受とちがい、甘えの許されないようなところでは簡単にできることで、厳しさの度は、低い(もっとも、精神的な苦悩を慰める物として、甘い食べ物が利用されているような場合、その精神的な病いが過食を行わせるから、食の快楽との戦いでは済まず、かなり困難な問題となることもあるようである)。高が過食ではあるが、そのことで人による自然の支配の尊厳は汚されるのであり、かつ、健康を考えると放置はできず、自律的な節制の営為は、現代では小さくない問題となっている。
6-1-2-1. 快抑制よりも、苦痛甘受の方が厳しく、高い評価になろう
ひとは、自然的には快苦の両方によって動かされ支配されている。だが、必要なところでは、これを排除し、この強い自然を厳しく、厳かに超越することができ、ひとは尊厳をもった存在となる。その快苦のうち、より厳しいのは、苦を甘受することであろう。受け入れたい快を抑止して排除するのは、苦痛を受け入れるよりも、通常、より容易である。苦痛を受け入れるのは、自身において損傷を受け入れることであり、生にマイナスの状態を甘受することである。だが、快は、それを受け入れないからといっても、直接、損傷・マイナスを被るわけではない。生にプラスになるものを断念するにすぎない。
食べ物でいえば、快を抑制するのは、美味しいものを断念するだけのことである。だが、苦痛を受け入れるのは、苦いものとか酸っぱいもの、嘔吐をもよおすものを受け入れることであり、それは、しばしば涙なしには呑み込めないような大きな回避衝動を生じるものである。苦痛のものを受け入れるのは、快を断念して無の状態を守るよりも、より厳しく自然を超越して、反自然を実行するものとなる。
麻薬は、大きな快楽をもたらすが、これを抑止することは、酒にしても糖類にしても、苦痛に耐え損傷を受け入れるほどの意志を要するものではなく、その点では、容易である。簡単に自然欲求を抑止、自制してひととしての尊厳を守れる。だが、これが、中毒にまで進んだ場合は、快楽を享受しない状態に苦痛が生じる。禁断症状である。ここでは、苦痛に耐えることが新たに必要となる。中毒になってからの快楽の抑止は、苦痛が前面に出てくるから、かなり厳しいものになる。
苦痛・不快は、現に生じていて、これに対処するものだが、快は、これを抑制するときには、なおこれが生じていないのが普通である。美味しいものを我慢するのは、食べながら我慢するのではない。味わう前に、この快の生じる前に、抑止せねばと思うのである。第一、大麻などの麻薬は、生に必要だからこれを受け入れるというのではなく、快楽という感情的なプラス(いわば余分・贅沢)を享受したいということで摂取するのである。したがって、苦痛のように、現に生じている苦痛に対処するのに比しては、余裕がある。快抑止より苦痛甘受の忍耐の方がよほど辛く、これに耐える者は、快享受を我慢する者よりも、高く評価される。快楽の誘惑に負けた者は、愚かと見下されるが、苦痛のムチに負けた者は、未熟とは言われても、愚かとまで貶されることはないであろう。
6-1-3. 動物的生を超越した世界に生きる
ひとも動物として自然のうちにあって快と不快(苦痛)によって動かされている。だが、ひとは、苦痛は回避するという自然に逆らって、これを超越した営為ができる。その先に描く目的のために、この苦痛から逃げず、苦痛の甘受をもって目的実現にと歩みを進め得る。あるいは、自然的には快に引かれそれに強い欲求をいだいていたとしても、その充足が有害なものをもたらすと思えば、この欲求を抑止して不充足にとどめることもできる。
快不快の自然を超越することは、ひとでは日常的に行われていることである。精神的社会的生活を秩序だったものにするために、自然的な欲求を抑制・制御する必要がしばしば生じる。朝早起きするのは苦痛でも、我慢して起床する。食欲がなくても食事をするし、大食したい欲求を制御して少食にもできる。自然のままに快楽主義的に生きる者もなくはないが、それは、ひとの道に悖るものと見なされる。ひとならば、自然的欲求、快不快を超越して、これを厳しく厳かに制御できる。こどもでも、食欲を充たすことを日に三度に限定したり、ほしいものを食べるのではなく、栄養のことをふまえて、食の在り方を理にかなった食事にと改めていく。自身のうちの自然である食欲などを動物的な状態に留めるのを厳しく戒めて、ひとは、おのれの自然を超越して尊厳を堅持する。
ひとも日頃は自然的な欲求に従って動いている。が、現代社会は恵まれた状態にあるため、その充足は、かなり過剰にと傾き勝ちである。食欲は、栄養を摂取するためのものであるが、むしろ、快楽を得るためのものになってきていて、つい過食する。この快楽の過剰享受によって生じる肥満を反省して、恵まれ過ぎた自然(美味)を相手にして自制し節食に努めている人は多い。性欲も、これをひとは、しっかりと自制して、一夫一婦制をとり、その快楽享受を枠にはめて、家庭等の安定を保てる秩序を作って、社会的に種族保存に適うようにしている。性欲自体も、理性制御の反復の中で、理性的なものを習慣化してもいる。もちろん、なかには、自然本能のままに身勝手な行動をとる者も散見されるが、社会は、これを厳しく罰して逸脱を許さないようにしている。ひとは、ほかの猿類でも一般的にそうであろうが、多くの優れた異性と交わりたいという性的本能をもつ。それがひとの自然である。だが、この自然を抑止し制御して、理性意志をもって、社会秩序を堅持している。その自然を超越した理性的営為にひとの尊厳がある。ひとの尊厳は、その自然のもとにはない。おのれの自然を超越し理性的秩序をもって自律・自制していくところにある。
6-1-3-1. 日頃は人も動物的に快不快のもとに生きている
ひとも動物であり、日常的には、自然的な快不快にしたがって生きている。ひとは、この快不快について、それにしたがっておいて問題がない場合は、これにしたがう。ことは、半ば自動的に進むので楽である。だが、これにしたがうことで人間的生にとって好ましくないことが生じるとか、高い目的が損なわれるような事態になるときには、自然を拒否することができる。快不快の自然に従うのが有害と判断したときには、超然としてこれを拒絶し、自己のあるべき人間的精神的営為を打ち出していく。その時点から、人間独自のより高度な生き様が展開することになる。不快・苦痛でも回避せず、これを甘受するとか、快でもこれを享受せず放棄するという、自然に反する営みを行う。反自然・超自然の営為となる。尊厳をもった理性的自律の人間は、自然の支配下にあることをやめて、自然から独立し逆に自然を支配・制御し自由にして、求める高い目的を実現するようにと進んでいく。理性的精神が全体を統括して自然的営為を自身に役立つようにと制御・支配していく。
自然的にはひとも、快不快をもとにして生き、自然の動物と同じく、自ずからの食欲等にしたがっていて、その限りでは自然超越の尊厳の営為が前面に出ることはない。だが、そういう自然にあるからといって、それにとどまっているのではない。そのうえに、まるで異質で高度の精神的生を展開している。その高度の超自然の営為の下に、ひとは、必要に応じて、土台の食欲・性欲などの自然を自由に制御・支配して、その自然の支配者となっている。合理的な制御をする中で、自然の方も変わって、これを習慣化して、理性的に適正な自然(食欲・性欲)にと変化もしてくる。ちょうど、無機物の上に生命体が形成されて、高度の生命独自の営為が、基礎・下位の自然を利用して成り立っているのと同じである。生物は、酸素や窒素をエネルギーとか生組織に利用しているが、だからといって、無機自然の酸素や窒素に支配されているとはいわない。これらを必要に応じて取り込んで生命体のために役立て、いわば自由にしているのである。ひとは、動物的自然を基礎にし利用しつつ、その上にこれと異質で高度の独自的な精神的営為を実現している生になる。その基礎的自然を土台としつつ、その上に超越してその自然を利用し自由に制御して、精神的生の高みに立っているのである。常々、動物的自然からの誘惑があり脅迫があるなかでの、自己の貫徹である。その理性的自律・精神的超越性において、ひとは、おのれの尊厳を自覚することになる。
6-1-4. 自制、自己支配
ひとは、自己内自然の快不快、自然的な欲求や衝動の理性的支配を自らに行う。支配の対象は、自己内にある。自然的な自己を理性的な超自然的な自己が制御するものとして、それは、自己による自己の支配・制御、自制の営みである。
日頃は、自己内の自然は、快不快を中心にして、自己の保護・保存にと動く。だが、それでは、人間的生に不利・有害になる時がある。害になるとき、人は、それを拒否することができる。自己内自然のなすがままで逆らえないのでは自然の奴隷だが、必要なとき、これを抑止して制御・支配するのであり、奴隷でなく、これを自由に利用する支配者ということになる。自制は、通常、動きを小さく制限するとき使うが、ひとの理性的制御は、自己内の自然について、単に小さく制限するにはとどまらない。食欲がない時は、必要ならば無理してでも沢山食べるといった促進・強化を含めての制御、自制である。
自制は、自分のために自分の基礎的な自然的な部分を制御しようというのであり、暴君が自分のために奴隷を酷使して、これを死に至るまでムチ打つというようなことは起こりにくい。ムチ打たれるのも自分であるから、無茶なことはし難い。国王などの尊厳は、多くが強制であり、実際には、尊厳にふさわしくないものがそうされていることもある。支配者が尊厳をもって賛美されるのは、独裁国の暴君であることの方が多い。それに比すれば、自己内で展開する人間的尊厳では、尊厳の対象は、高みに存在している理性的な自己であり、被支配の自然は、自己のうちの自然であって、前者は、自分の土台となっているものを優れた動きになるように熟慮し、無理が生じないようにと慮りつつ制御・支配する。支配される自己内自然の食欲とか性欲は、自身の理性の制御をもって合理的に社会的にトラブルにならないようにと動けることとなって、その支配を、卓越したリードと見なし納得する。自制で制御される自己内自然は、「この自分の食欲・性欲が抑えられるのは、もっともだ。より長く穏やかに自分の欲求を持続させるには、確かに、抑制されるのが好ましい」と首肯し、慣れれば、理性的秩序をその自然的欲求自身の習慣ともする。理性的秩序を感性自身のうちに取り込んで、感性内での自制ともしていく。そのことで、理性による自制は、常時顔を出す必要もなくなり、感性に任せて感性の自制ともなって、持続性に富む確かな自制の体制となる。理性的な自制をもって、自身が自然的な快・不快・苦痛に流されず、これを制御して自己支配できるとき、その自然超越に自身の精神的存在としての尊厳の証をみることとなる。
6-1-5. 克己の精神
ひとの、自身の理性による自身の感性の制御・支配は、自律をもっての自制である。そのとき、自己内の制御されるものが無抵抗で素直にしたがえば、自制するのみで済む。だが、自己内の自然は、それ自身の自立的な動きをして、理性的な自己からの制御に従わないことがある。そこで自制を貫こうとすると、その抵抗をくじく必要が生じる。自然的な快不快のもとでの営為を制御するには、その自然的な動きを抑止して、これと戦うことが求められるようになる。忍耐では、苦痛からの逃走・回避を抑止しなくてはならないが、一般的に、その回避の自然衝動は強く、理性意志は、その衝動との戦いをしなくてはならなくなる。自己内の敵としての快不快・衝動との戦いとなる。己で己の自然を否定し克服するという、克己の営為となる。
ひとには向上心がある。より優れた者になりたいという思いをもつ。個体は、他の個体に勝ろうとする。生存競争をして生き残ろうとし、強者になろうと弱肉強食の営みをする。その勝ろう、優れたものでありたいという欲求は強い。克己の勝ろうとする心性も、この動物的な、勝つ(克つ)という傾向性に支えられている面があろう。周囲に禁酒・禁煙を続けている者がおれば、彼に負けてなるものかと、自身も精進することである。だが、克己は、何よりも、至高の存在という自負心・自尊心が駆り立てるものであろう。孤高であっても、克己の精神は貫かれる。ひとは、自己意識をもち、自身を客観化し対象化でき、自己反省する。自己批判して己の低いもの・誤りが分かれば、おのずからにして、これを克服した高きに到ろうとし、自己自身に勝ろうとする。ひとは、常々、目的論的に未来に向かって生きる。未来の自分を真の自分とする。現在の自分を超越し克服・克己した未来に本来の自分を見る。
克己の姿勢は、自己の現状に満足・安住せず、より高いものになろうと努めつづける。自己には、不備があるはずで、克己の精神をもっておれば、その不備の克服に筋道をたてて歩む努力を怠らないことになる。不備の自己から見れば、それ以上はないという尊厳の位置にまで高まったとしても、その尊厳を実現すると、そこに再び不備を、欠点を見出していくことになり、さらに向上しようと克己につとめることになっていく。現状の自己を否定して、より高い崇高な自己へと克己の精神は切磋琢磨していく。未来へ高きへと己を向け続け、よりましな自己へと自己実現していく姿勢を、克己の精神はもつ。
6-2. 外的自然を支配する理性的人間の尊厳
ひとは、内的自然の快不快を見事に制御して、理性存在としての尊厳を証しているが、外的自然についても、その尊厳を明かす。人の尊厳の在り方は、神の尊厳に想定されるような、人と自然を畏怖させて厳しく支配する在り方とは少々異なる。神の尊厳は、被支配のものへの生殺与奪の権をもち、絶対的なものと見なされた、畏怖の尊厳である。だが、ひとの尊厳は、そういう強引で破壊的なものではなく、剛ではなく、柔をもっての制御・支配である。ムチで支配するのではなく、アメというか穏やかに、被支配の対象が自ずからに動きたくなるように仕向けるものである。自然を前に、まずは、これに従順にしたがうことから始める。自然の動きに逆らうことなく、その法則にしたがって、あるがままに対応する。そのうえで、その法則を踏まえ利用して、目的とする方向に向け直せるようなものをそこに差し込んで、自然自体をして人の目的がかなうようにと動かしていくのである。水が下方に流れるのを利用して、自身の田に向いて流れるように水路をむけて、水が「自然に」田んぼを充たしていくようにと制御・支配していく。無理やり強引に自然をねじ伏せていくのではなく、自然をして、自然に人の目的とするものへと動いていくようにする。理性の狡知を働かせて、制御をおこなう。理性の支配を自然のうちに貫徹するが、それは、無理のない、自然にしたがいつつの、理性意志の制御・支配の実現である。
自己内の自然(食欲等)への尊厳を持った制御は、自己内の自然を自己が支配するものとして、すべて個人のうちでの営為となる。各自が各自にふさわしい固有の自然を対象にしてその尊厳の営為を実行する。だが、外的自然への制御では、その自然対象は人から独立しており、自分に相応しいものが各々の営為の対象になることは少なく、持てる能力を総動員しても間に合わないこともしばしばとなる。多くの場合、集団の力を結集して、合理的な組織と方法をもって自然支配を行う。その集合した力は、腕力でも、知力でも、個人には不可能なことを実現でき、自然の支配は、山をも動かすような強大なものとなる。
6-2-1. 自然には従いつつ、これを支配する-理性の狡知
人の尊厳は、神のそれとは異なる。神は、もともとから支配者と想定されたものである。だが、ひとの場合は、自然のうちで、しかも弱者として存在していたものであって、いうなら、尊厳どころか、非尊厳・下賤なものでしかないところから始まる。非尊厳で、自然の奴隷であるものが、理性を獲得することで、やがて自然を制御できる存在となり、奴隷が、理性をもって逆の支配者に、主人になった。ひとの尊厳は、自然を見事に支配するところにあるが、人は自然自体でもあって、非尊厳の自然存在でありつつ、尊厳の理性存在となっているのである。
理性のもとで、自他の自然状態を冷静にとらえて、その自然に従順になって、ひとは、その自然の固有の動き方・自然法則を見つけ出す。当然、人自身も自然として、恣意を通すような無理はせず、自然のうちで法則にしたがって動く。そこで理性は、狡知を働かせ、その自然法則を利用して、自分の利益になるようにと巧みに誘い掛けていく。自分は動かず、自然を動かす。自然を動かし、自然と自然を戦わせて、その成果を自分のものとする(自然からいうと、狡(ずる)いということになりそうで、狡知である)。諸自然の存在をうまく配置してこれを働かせ、成果をわがものにしていくのである。自然の法則を熟知できるようにと理性を働かせ、理性意志をもって自然自身を自ずからに人の目的とするものの方向へと動くようにと仕向けていく。
酒をつくるひとは、自分がアルコールを製造するのではない。米や麦を自分がアルコールにするのではなく、酵母菌などの菌類に働かせるのであり、そのようにと自然をうまく配置していくのである。理性の狡知は、自然を奴隷として使って、自身は、その主人として、成果を我がものとし、自らは力を入れることなく、巧みに支配を実現する。自然に従順になりきって自然にさからうことなく、自然の営為をうまく利用・采配して、自身の手は汚すことなく、その目的を実現するという理性の狡知である。その営為は、自然を見事に制御・支配するもので、尊厳の営為だということができる。
6-2-2. 自然への挑戦の歴史―苦痛の忍耐史
ひとは、猿のなかでは、弱小の種であった。当然、樹上に住んでいたはずだが、ほかの種に追い出されて地上に移り住んだ。そこでは、一層惨めな弱者で、ライオンが食べ、ハイエナが食べ残した骨(の髄)などをあさっていたのではと見られている。苦難に耐えつつ生き延びていたのであろうが、そこも安住の地にはならず、アフリカから出てユーラシア大陸に渡ることになった。その間に、直立歩行し、手に水掻きが残っていたり、体毛のなくなっていること等からみると、カワウソやオットセイにならって水辺に生活したのではと思われるところもある。体毛を失ってからの過酷な寒冷の環境は、さらにひとに試練を課した。その中で、幸い大きくなりえた脳をもとに、火の使用、着衣、武器使用等でたくましい存在にと変貌しえた集団が生き残った。
ユーラシア大陸では、追い出されることはないか、または、逃避先がなく、ここで新たな生き方をはじめた。苦難・苦痛から逃げていたのでは死あるのみということになり、苦痛を耐えるべき場面はより多くなったことであろう。苦痛を甘受するという営為の持続は、快不快の自然に従うのみの心身のもとでは無理であった。身体自然の逃走衝動を抑止できるだけの理性の力の養われることが必要であった。その理性をもって忍耐することで、ますます理性は大きくなったことであろう。
理性的になるに際しては、言語の獲得が大きな役割を果たした。言語は、個別の現在に終始することから飛躍して普遍的にものを捉えることを可能にし、感覚的な現在を超越して、未来に目を向ける目的論的な生き方、理法に従って生きることをも可能にしていった。それには集団的に生を営むことが前提にもなっていた。個体の緊密な連携があって、言語の発達が促された。言語と理性をもってひとは、単なる動物であることを超越することが可能になった。
6-2-3. 苦難に挑戦して自然を超える
猿から人間になったのは、安楽で余裕があるとか快に促進されてということからではなかったろう。快ならば、その状態にとどまる。強いチンパンジーやゴリラは、弱い人類の祖先をアフリカの森から追い出した。その強者は、そのまま安住して過ごせたから、少しも自身を変えていく必要がなく、いまだに森のなかにとどまっている。だが、ひとは、追い出され、地上に降り立ち、ほかの動物の食い残したものをさがし、骨を砕きその髄を食べるなど日陰者の生き方を強いられた。その苦難を背負い、その苦痛に耐えないと生き延びられなかった。骨を砕くために手を巧みにつかい道具を使うなどの新規の能力を身につけていった。すき好んでではなく、苦難に耐えてそうなったことであろう。苦痛に耐えることは、自己の自然を制御し抑止することで可能になるが、それは、自然本能を超えた能力としての理性意志をもって確かなものとなる。忍耐がその理性を大きくし、理性が忍耐を実行していくという好循環である。
寒冷な時期と地域においては、ことに辛かったであろう。寒さに耐える力をつけ、火の使用という冒険に挑み、痛みや恐怖に耐えて、身の回りの工夫をし生き方を巧みなものにとしていったことであろう。その苦痛甘受の忍耐は、ひとつには、外的自然の克服・支配にと向かって行った。苦難をもたらす外的自然から逃げず、その辛苦を受け止めて自身の適応能力を高めた。火を使い石や槍をつかうような適応ができたことであろう。もうひとつは、自己支配である。自身のうちにある感性の快不快にしたがうことをほどほどにして、これを支配していったはずである。苦痛があっても逃げず、この苦痛を内にとどめて、苦痛甘受のさきにある目的へと進んだことであろう。快があっても、それへの欲求を抑制して不充足の制御を行い、獲物のいのししの子は、美味しそうでも、それを食べず育てて、大きな肉になるまで待つといった忍耐をし得るようになったことであろう。腕力においてチンパンジーやゴリラには敗けて森を追い出されたが、ひとは、うちの苦痛には負けず逃げないで耐えることができるようになった。自分に負けない忍耐力をもって内的自然を支配し、外的自然に挑戦しつづけて、ひとは、ついには自然を超えた至高の存在になっていったのである。
6-2-3-1.
自分を変えて苦痛を苦痛でなくする
ひとがひとになったのは、一度にではない。尊厳からは程遠い弱小の類人猿であったものが、厳しい自然のうちで徐々に力をつけて、尊厳の高みにまで登って行ったはずである。ひとつの苦痛・苦難に出合ってこれに適応できる能力を身につけると、その苦痛は、苦痛の対象ではなく平気なものとなる。骨片を石で砕く巧みさを獲得した手は、慣れてくると、その砕くことを特別に難儀なものとはしなくなる。それが平生の技となる。そうすると、さらに困難なことに挑戦可能となり、新規の高いところの苦難を対象にできるようになる。打ち砕くだけではなく、肉片をそぎ落とし、切るという手と道具のつかい方も習得したであろう。苦難・苦痛に挑戦する姿勢をもちえている限り、徐々にではあれ新規の能力がどこまでも開発可能となっていったことであろう。
安楽な快の状態には、ひとは、まどろみ眠り込む。もっている能力も出し切る必要もなく事が進むなら、それ以上の高い能力など開発されることは、あまりない。新規の高い能力は、やはり、ぎりぎりの困難な状況において試行錯誤して、限界に挑戦して開発されるものであろう。苦痛から逃げず、困難に耐えていく忍耐である。快は、ひとをそれにのめり込ませ停滞させる。だが、不快・苦痛の状態には人は安住できない。ムチ(苦痛)は、ひとを駆り立てていく。その苦痛の現状を克服することへと駆り立てられる。あるいは、その苦痛に耐えないと生存が危ういとなれば、ひとは、それに耐えその状態の克服のために必死になる。その苦痛の上に、それを超越した新たな態勢へと自身を高めていくこととなったであろう。火を利用し始めたときには、動物として火は恐怖の存在であったに違いない。しかし、それを身近においておけば、暖がとれ、猛獣を遠ざけることができた。恐怖という苦痛を忍耐することでそれが可能となった。かつ、恐怖(苦痛)の火を身近におくことに慣れると、その恐怖は克服され平気となった。むしろ、火をそばにおいて、食にも利用し、火を絶やさないでこれを生活の中心に置くまでになった。
6-2-4.
類として理性等の能力を獲得
ひとは、苦難に挑戦して、新規の能力を獲得していった。それは、優れた一部の個体に始まったことであろうが、その個にはとどまらなかった。周囲がこれを模倣し、伝達し合い、皆の能力にし、さらに高くへとその能力を向上させていった。石器時代ですら、黒曜石の石器がその石の産地以外の広範囲に残されている。暗黒の洞窟の奥深く灯火に輝く白昼夢的世界を創り出していった壁画も、広くに残されている。ひとつの集団の中だけでの伝達や蓄積でなく、広範にそれが行われたということであろう。それは、高度の知的な営為でもそうで、天才的な発見・発明は、すぐ皆のものとなった。さらに、その達成点を踏まえて、次世代の者が、一層先へとこれを発展させた。世代を重ねていくことで、理性的な営為は、ほかの動物にはまねのできない卓越したものとなって、ひとは、この世界において、至高の存在となり、尊厳と形容されるにふさわしいものとなっていった。
その理性的営為は、各人が得意なものを生かして伸ばしそれを集団のものとして、この集団が各個を育て支えるという形をとり、ひとの理性は、個体の脳を超えた集合脳とでもいうような働きをもって展開してきた。技術でも、分業をし協業をもって、古代文明からしてピラミッドのような、個体には不可能な巨大な成果を出すことができるようになっている。
そういう集合的な知恵や技術の獲得と向上は、なんといっても、個体間の情報伝達の手段である言語によるところが大きい。言語をもって理性知を展開し、個体を越えてこれを伝達していき、皆のものとしていった。言語は、伝達で個を超えるのみでなく、個別を越えて普通名詞をもって世界を類的普遍的に見ていくことを促進して、この世界を概念、法則のもとに見ていくことともなった。言語をもって、個体の脳は集合脳となっていると言ってよいが、その言語使用は、家族・民族の一体性・相互依存が条件になっていたことであろう。そういう共同的な生活がなったのは、各個体が同等で対等の能力をもっていることも幸いした。ほぼ同じ体力・知力を持つ存在なので、相互に理解しあうことが容易であり、交わりが密になった。各人の理性は、万人の普遍的な理性と一つになった。人類の集合的な英知は、同時に各人のうちの英知になりえた。類として自然を超越して尊厳をもっているのであるが、同時に各個体の生がそういう尊厳を陰に陽に体現しているのでもある。
6-2-5. 向上心
ひとの尊厳は、理性の尊厳である。自然を超越する理性の高みに立ち、その狡知をもって、ひとは自然を制御し支配している。この理性は、英知をもっているだけではなく、その英知の拡大を志向しつづける。その旺盛な働きをもって、この世界の法則等を究明しつづけ、対自然の諸能力を高め、社会的精神的世界の飛躍を実現してきた。その飽くことのない探求心は留まるところを知らない。ひとは、非尊厳の底辺から尊厳に高まり、しかも、日々、その卓越性を顕著にしており、発展的な向上する尊厳という特殊なあり様をしているということができよう。
ひとは、動物で自然感性的でもある。その自然本性における向上心ということでは、動物のマウンティングの人間版である、より良い地位とか富・名誉を求めることがある。その欲求は大きく普遍的である。個と社会が切磋琢磨するには、マウンティングは効果を発揮するが、頂点に立つのは、人間はほぼ能力は同じなので(ごくわずかな差異ゆえ、いたるところでマウンティングの競争・闘争となる)、どの分野でも、より厚顔で貪欲な者(あるいは集団)のなることが多く、権力独占の度合いが過ぎると、その社会に大きな害悪をもたらす。昨今、国家を握った二三の独裁者(集団)が我意を通そうと原爆で威嚇して世界を困惑させている。もうすぐ、万人対等の人類に相応しい、フラットな社会が支配的になりそうではあるが、破廉恥な独裁者によって人類の向上がストップさせられる可能性も生じている。
その動物的な、上位への欲求を土台にしつつ、それ以上にひとを向上させているのが、理性である。感性は、快を踏まえて同じことを楽しむが、知的存在は、つねに新規を求める。知性の操る言語は、共通・普遍に注目し、普遍的概念を対象とする。個別世界の個別に対応する感性とちがい、同じ知的情報は、ひとつで十分で、反復は無駄となり、知性自体の働きとしては、別の情報を求め、常に新規を追求していくことになる。感性は同一の快刺激の反復を求める傾向が強いのに対して、同じ知は、知ったらもう反復は無用で、周知のものに上書きするだけであれば、倦怠をもたらす。歌をうたう場合、メロディー(感性)は、同一の反復を楽しむが、歌詞(知性)は、反復を嫌うので、その二番三番は必ず別の歌詞をもってする。知的好奇心は、常に新規を求め続ける。この自然世界でも精神世界でも、新しい知を求め、新規のものを創造し続けていく。理性的な人間に特徴的な尊厳は、常に新規を求めて向上していくところにある。
6-2-6. 非尊厳の自然を踏まえての人の尊厳
支配するとき、支配されるものを完全に制圧して破壊しつくす場合があるが、人間による自己内自然の支配は、そういうものではなかろう。その自然を温存しつつの支配である。ときに、荒行をする宗教者のなかには、己の自然的身体をいためつけ、精神的な至高の存在になろうと命をかける者がいる。その修行で命を落としてしまう者もいた。一所に己を閉じ込めて食を絶ち即身成仏したとされる上人もある。だが、実際に魂が身体・感性を無化して独立して霊的な高みに行けたかどうかは疑問である。生命体が、おのれの土台になっている無機物質を除去して純粋生命体になろうとしたら、生命自体もなくなるのと同じで、その身体の死は、その霊魂を道連れにしたに違いない。ひとは、自然身体をもってその上に精神的な存在としての高みを目指せるのである。自然身体を生かし、その基本欲求を充たしつつ、人間的精神的な生の高みは可能となる。己の非尊厳の身体を健やかに保ち、それを手段・土台にして、その上に尊厳の精神的存在を聳えさせるのである。非尊厳でありつつ尊厳へと高まっているのがひとである。
快にはのめり込みやすい。自然的にはこの快にひたっていたいということになるが、それを、ひとは、抑制し、過度になって有害になるようなことは回避して、ほどほどの充足にとどめる。その感性は、理性的制御を反復するなかで、これに慣れてこれを習慣化すれば、理性が一々に制御しなくても、自動的に理性的な動きをとることになってもいく。「従心所欲不踰矩(心の欲する所に従って、矩(のり=規範)を踰(こ)えず)」(『論語』「為政」)という状態になりうる。理性は、自然欲求を受け入れこれに従いつつ、これを、より広く高い視座から制御し、自然がおのずからにして理性的になるようにと、見事な支配をするのである。
苦痛は、自然的には回避する。ひとも苦痛は当然、回避しようとする。それで多くの場合、生の損傷を未然に防ぎ、損傷を小さくできることでは、動物一般とちがいはない。苦痛回避という自然の大原則に支配されて、これに従順である。だが、ときに大きな目的のためには損傷・苦痛になることを引き受けることが必要となる。このとき、動物とちがって苦痛から逃げず、あえてこれを受け入れて甘受する。苦痛に対して反自然・超自然の在り方をとる。基本的には自然に従順でありつつも、必要なところでは、これを拒否して、これに従わず、これを抑止して支配することができる。苦痛の我慢・忍耐である。苦痛に顔をゆがめつつもこれに耐え続けるその姿は、厳(いか)めしく、その尊い意志の貫徹は、厳(きび)しくも厳(おごそ)かであり、尊厳と言われるにふさわしいものとなる。
6-3. 尊厳の理想からの逸脱-非尊厳の現実
人は、自然を制御・超越して尊厳を担うが、この自然の制御に失敗したり、自然の力に敗北して自然の奴隷に逆戻りするようなこともある。ひとの尊厳は、非尊厳の自然状態から尊厳にと飛躍してきたのであり、ときに、そのもとの非尊厳の状態に戻る。神に想定される尊厳は、はじめから終わりまで尊厳であるが、ひとの場合は、非尊厳からの生成をもっての尊厳であり、非尊厳の自然を土台とするから、ときに愚かしいことになり、非尊厳に舞い戻る。食や性の動物的欲求を制御して、秩序だった営為で尊厳を保っているが、人間的秩序を逸脱して自然に舞い戻ったり、ときには自然には見られないような自然以下の愚かしい状態に陥ることもある。
尊厳への矜持の個人的な差異も大きく、非尊厳の自然状態により近く生きる者もおれば、自然を無視してまで理性的霊的な尊厳の存在であろうと身体を酷使したり傷つけて無理をする者もいる。理性的存在として生き、卓越したものであろうとして失敗した者のなかには、自然に帰ればいいものを、その非尊厳の自然状態にと引き下がるに留まらず、全てを投げ棄てて、乱心、暴発するものもいる。反自然・反理性の自暴自棄となる。
人は、ときに、動物にと退行したり、自暴自棄などをもって動物以下のものにと成り下がって、非尊厳、反尊厳に陥ることがあるが、それでも、ひとは、なお、尊厳の扱いをうける。鬼畜の犯罪者にも、暴発・乱心の自棄(やけ)の者にも、気高い理性が内在し、自身の犯罪、無謀な自爆を犯罪・愚行と承認あるいは認識できる理性の良心・良識がある。その理性能力を停止し麻痺させているが、そういうものを内在させていて本源的には尊厳の存在と見なされる。だが、現実には、良心・良識はベールに覆われて機能抑止し、鬼畜・非道の犯罪を犯し、愚行にと陥るのである。その非道は、エゴの自然感性を上において理性的な働きをその下の従者にと転倒させた、動物的生の近くに成り下がったものである。さらに、自棄(やけ)の場合は、自己をも破壊する愚挙にでて、鬼畜・動物以下ともなる。動物以下といっても、生の活動を止め放棄して無機物に成り下がるのではない。人間的生の営為のもとにありつつ、その自己保存・維持の生の基本的営為を否定し見境もなく暴発して、反生的な悪魔的な破壊的行為をするのである。鬼畜の犯罪者は、理性を感性の下僕にした狡猾な利己主義になるが、自暴自棄は、自然も理性も自己自身も破壊して乱心・暴発する悪魔的なものになる。にもかかわらず、これらの逸脱から目が醒めれば、理性的存在としてのおのれを復活させて、自ずからに尊厳をもった存在にと立ち戻れるのでもある。
尊厳の神とか王は、自身の外に非尊厳の支配対象をもつ。だが、ひとは、自身の支配対象であるものを自身のうちにも持ち、自律的に自身で自身を見事に支配して尊厳なのである。自身の半身は、自然に埋没しており、被支配・非尊厳なのでもある。しばしば、自然の方が優勢になり、理性の制御がうまくいかないことも生じる。その場合、その理性の不十分さを穏やかにおさめて、自然に従い自然に帰るのが普通であるが、ときに、それすら拒否することがある。炎の前で、理性は苦痛を耐えて忍ぶが、それがかなわなくなったら自然に帰って苦痛と炎から逃げる。だが、ひとは絶望状態において、理性のみか自然にも従わず、自然(苦痛からの逃走)をも破棄して、炎の中に飛び込んで自爆することがある。自然・野生に帰るのではなく、それ以下に堕す愚かしい自暴自棄にと暴発する。
エゴイストの場合は、理性を自然感性の下位におき道具にしながら、自己の自然、欲求とか衝動を通そうとする。個我の自然を優先する利己主義に陥る。自己の自然にしたがっての利己ゆえ、他己の自然は無視するけれども、自己に限定してではあるが、自然に帰っている。その度が過ぎれば、社会的秩序を破ることになるから、犯罪となる。社会的には、許容しがたい無法・非道にと陥る。これに対して、一層、愚かしいというか逸脱した状態になるのが、自棄(やけ)、自暴自棄である。これは、エゴイストならば自己内の欲求等の自然は守るのに、自身の自然すらも破壊する営為となる。反理性的、反自然的になって、乱心状態のもと見境なく自身と周囲を破壊する。うまくいかなかったのなら、冷静なエゴイストのように、せめて自然状態に戻ればいいものを、それにも留まらず、内外の自然をも否定し破壊して、いわば悪魔的な行為にでる。自然に戻るのではなく、自然もしないような愚かしい自然以下の状態に陥るのが自暴自棄である。自然的には、快不快の自然のもとで自己維持・自己保存するであろうに、その自身をも投げ捨てて、自然もしないような自己破壊という反自然の愚行に走る。自棄は、人間的生に生じた反生の生、精神の癌である。
自暴自棄は、理性的な尊厳を投げ棄てるだけの自然的な非尊厳に舞い戻るのではなく、それ以下の反自然の悪魔的な愚行の反尊厳にと陥る。それも、自身の尊厳の特性としての自律、自由を乱用しながら、自分勝手の極み、自己破壊、自爆に走る。その典型的な愚行に自殺がある。反理性・反自然で自然以下の自棄の愚行である。自殺の中には、自身の名誉を守ったり、責任をとって自分で自分を罰して、自身に死刑を執行することもある。これは、ひとの尊厳を維持しようとしてのことであれば、誇らしい自殺・自決ということになろう。あるいは、不治の病い等で、激痛のみが残されている者が自身の理性的判断で安楽死を決意するようなこともある。穏やかに冷静に決意しての尊厳をもった死となろう。だが、昨今の多くの自殺は、理性的社会的に、あるいは自然的にも、まだいくらでも未来に道は残っているのに、短絡的に絶望しての、安易な自己放棄、自棄・自爆である。自棄(やけ)は、理性を棄て自然を棄て自己自身を棄てた、生の見境ない破壊・暴発であり、尊厳をもつ人間的生を蝕む、度し難い癌である。
6-3-2.
理念・理想としての尊厳
ひとは、動物であり、自然的な快不快が強ければ、理性を蔑ろにして、快不快によって動くことになりがちである。それは、人間的には逸脱であり野卑・愚行となる。だが、そう自覚するのは、ひととして自身、理性的に合理的に歩みを進めるべきだということを踏まえているからである。愚劣だとの反省意識は、あるべきひとの尊厳の姿を、理想・理念として向かいに描く。現在は、自然にながれて非尊厳に陥っているが、あるべきは、理想的には、自然を超越して尊厳を保つべきだということである。ひとの尊厳は、自身の非尊厳との緊張関係のもとにある。
人の尊厳は、現にあるというより、あるべき理想像として描かれることが多かろう。神に想定された尊厳は、尊厳からの微塵の逸脱もないのが普通である。他の宗教、宗派からは、邪教として、その神は、邪神であり教祖のでっち上げた妄想妄念にすぎず、尊厳のかけらもないと批判されるが、信仰している者(つまり、自分たちの神を絶対的支配者として、見事な支配と讃嘆している被支配者)は、非の打ちどころのない絶対的存在で尊厳そのものを具現していると想定している(尊厳は、客観的規定ではなく、主観的なものだから、評価の違いは、よく起こる。現代でも、独裁者の尊厳は、国内限定であり、隣国からは、残酷・愚鈍と客観的に評価される)。これに対して、ひとの尊厳は、その担い手自身の意識においては、現に尊厳であるというより、尊厳を理想・理念としているという場合が多い。もちろん、周囲の関係者に対しては、常に尊厳の扱いを求めることではあるが、それも理想で、現実には、結構ひとは、下賤・愚劣、無価値扱いされて非尊厳状態に落とし込まれることでもある。ひとは、dignitas(尊厳)だが、
miseria(悲惨・非尊厳)を裏面に有しているのであり、その非尊厳のもとに悲惨な存在になるのでもある。
自身においても、周囲からの扱いにおいても、ひとは、尊厳が現にある(Sein(存在))というよりは、尊厳になる(Werden(生成))べきだ、尊厳であるべき(Sollen(当為))だということである。あるいは、周囲のひとから尊厳の存在として扱ってほしいということでは、自身の尊厳は、そう扱われるべき権利(Recht(法、正しいこと))であり、求め(Wollen(願望))ということになる。その未来への自身の当為として、かなたの理想(Ideal)として、あるいは本来的な自己自身、おのれを動かす理念(Idee)として、尊厳の姿は描かれるのである。
自然的で現実的な自己があって、同時に、理想的理念的な自己がうちにある。多くは、前者が働くことになるが、それが理性的にみて愚かしいと思えるとき、理想とし、あるべきとする事態を描き、これに生きようと努めるのがひとであろう。理念としての本来的な尊厳の自己があって、その尊厳のプライドが、自然的な愚劣に終始している自己を駆り立て引き上げて、尊厳にふさわしいものにとしていく。
6-3-3.
自負、自尊の心をささえる己の尊厳
ひとは、自分が他人から犬猫と同等に扱われたら憤慨する。現実的には、犬猫並みのことしかしていないとしても、そういう風に見られたり扱われることに反発する。本来的な自分は、動物を超越した尊厳をもった理性的存在であると自覚しているからであろう。ひととしての自負心、自尊心がある。
かりに自身の行動が劣等なものに留まるとしても、本当は自分には高い能力があるのだと自負する心をもっている。あるいは、自分は、かけがえのない存在であり、尊ばれてしかるべき存在だとの思いが根底にある。現実には、愚劣なことをしていても、本当の自分はこんなものではないのだとの思いをいだく。それは、対他的な場面でそうであるばかりでなく、自分だけのもとでも、そうである。自身の動物的自然を制御できなくて、自然の快不快の奴隷になっているとしても、本気をだせば、快不快など立派に制御・支配できる卓越した理性存在のはずなのだとの自負心をもつ。自然の奴隷などに甘んじてはおれない、敗けてなるものかとの負けじ魂をもつ。ひととしての誇り、その尊厳が、おのれの愚行を愚行と見なして、これを克服した理性的な真摯な営為へと努力する姿勢をもたせる。
自身を大切にすることは、生あるものの自己維持・保存として一般的であるが、ひとのそれは、自分を尊いもの、かけがえのない価値を有したものとして、これを誇るのであり、それを守ろうと、それの侵されることには抵抗する。単に自己を大切にするのみではなく、それの上を行き、誇りが傷付けられるようなこと、低きに引きずりおろされることを不愉快として、これを否定して高き自分を維持しようと、懸命になる。かりに自然の快不快に敗けたとしても、それは、本来の自身が力を発揮しきれていなかったからだと捲土重来を期して、尊厳の回復をはかろうとする。負けてなるものかと負けじ魂をもって挑戦していく。
ひとは、今に生きるよりは、未来に、自己実現に生きる。いま節食を推し進めているのは、今の自分のためにではなく、今の自分でもない。未来のスリムな自分のために、その未来の自分がさせているのである。現在、法学部生であるのは、未来の裁判官であろうとしてのことである。法学部生であるのは単なる手段であり、その現在の生を守ることには拘泥しない。裁判官である未来が真実の本来的な自分である。尊厳も同様で、いまは、非尊厳であってもよい。未来の本来の自分は尊厳をもった者なのであり、そうなろうと現在を生きる。そういう向上心をもって現在の困難を克服し本来の自己・尊厳にと帰る。自負心・自尊心をもって現在の疎外に耐え、負けじ魂をもって未来の本来の尊厳の自己を実現していく。
6-3-4. 苦痛忍耐における厳しく厳めしい尊厳
尊厳は、尊く厳(おごそ)かであって、至高のものとして厳(いか)めしく近寄り難いものである。厳かな神や王は、自身に対して厳(きび)しく当たったり、厳めしさをもってすることはない。それらの形容は、自身が支配する者へのあり様である。尊厳を持った神や王が、信者や被支配者に対して、厳しく、厳めしく振舞うのである。だが、人間の尊厳は、対自然についての支配の尊厳であるとともに、自身が自身を支配する自律の尊厳であり、自己内の自然を厳かに厳しく制御・支配するところに、まずは見出される。自己内の自然の代表であろう苦痛、これを制御し、その自然においては苦痛から逃走するものを、これを適宜に抑止し、必要なときには超自然的に苦痛を甘受する。その卓越した理性的な振る舞いに、ひとは己の尊厳を見出す。快享受の抑制など、簡単に超越して制御できるが、苦痛は、手ごわい自然であり、それを超越しての苦痛甘受は、簡単ではない。苦痛甘受に際しては、ひとは、厳格厳重に、気を引き締めて厳しさをもって当たり、甘えなど許さず厳めしく振舞わねばならない。その尊厳の厳かさは、自己の自然に対決する自身の厳しい心構えの問題となる。
苦痛に忍耐するときのその苦痛は、自己自身の苦痛であり、他人の苦痛に耐えるのではない。忍耐では、各人が各人の苦痛を対象とするから、自分にふさわしい各々の苦痛に対決して耐える。外的自然への対決の場合は、その自然対象は各人によって異なることが多いし、なにより個人ではなく多くの人が共にかかわることで、そこでの尊厳は、集団的であったり、その中で使命を担った者が体現することになる。外的自然にかかわる場合、個としての尊厳は、理性的存在としてはその光栄に与るのだとしても、個自身においては感じにくい。だが、内的自然については、各自が各自を支配するのかどうかということで、尊厳は自分しだいということになる。苦痛から逃げるとは、自分の苦痛から逃げるのであり、自分のうちの自然に敗北するということである。その自分の苦痛に敗けなければ、尊厳は貫かれる。各自が自分の苦痛を対象にしてこれの制御・支配をするのであるから、自分にさえ厳しく厳めしく対処するなら、制御可能なことであろう。他者からの腕力には、弱ければ、どんなに強がりを言っても、敗北する。だが、苦痛は、ちがう。他人の苦痛を耐えるのではなく、各自、自分の苦痛を耐えるのであって、自分に敗けなければ、決して敗けないのが苦痛の忍耐である。苦痛については、どんなにひどい目にあったのだとしても、拷問で時にあるように、失神したり生命を失うようなことも覚悟すれば、敗北しないで、尊厳を堅持することができる。激痛に、厳しく厳めしく耐えて、厳かな己の尊厳を堅持することが可能である。
6-3-5. 苦痛は、精神的領域でも強力で、尊厳から逸脱しがち
快不快の自然は、生理的レベルでは強力に働いて、これの奴隷になりがちで、ひとは、快不快ともにその制御・支配に努める必要がある。だが、精神的なレベルに高まると、快はもうどうでもよいことになる。目的は価値獲得であって、快ではなくなる。これに対して苦痛の方は、精神的社会的領域でも大きな力をもって人を動かす。精神的苦痛としての絶望とか悲嘆を抑止して忍耐し、その苦痛・苦悩を超越して所期の目的を実現していくのは、簡単ではない。
苦痛を乗り越えて進むのが人の卓越したところであるが、精神的な苦痛の代表ともいえる絶望とか不安に負けて、目的とするものへの歩みをやめて撤退することは、まれではない。絶望は、希望を絶つが、その希望は、自身に現実的に可能な最高のレベルになるものであり、その達成は簡単ではなく、この希望を剥奪されて悲嘆し絶望する。だれもが自尊心をもっていて自身を高く評価し、高い望みをいだいて社会に関わる。それは、悪いことではない。だが、そのことで絶望するのであり、この絶望は、耐えがたい苦痛・苦悶をもたらす。そこで人としての尊厳を堅持できればよいが、耐えられず絶望に敗北するようになると、しばしば尊厳をもった対処ができず、尊厳の自己から逸脱してしまう。自然にまかせての粗野な鬱憤晴らしをしたり、ときには、自然以下の悪魔的な愚劣なことをしてしまう。自暴自棄になって破壊衝動に任せて反社会的なことをしたり、すべてをご破算にしてしまい、ときには自殺というような破滅をもたらすようなことになる。
絶望などの精神的苦痛・苦悩は、大きいけれども、その苦悩を理性意志が、しっかりと制御し、これから逃げず甘受して、自身のうちの苦悩にさえ負けなければ、これを耐え続けることができる。受験の失敗に人生の敗北を思い絶望するとしても、この苦悩から逃げず耐えておれば、自身の精神は強靱なものにと成長する。その苦悩・苦痛に駆り立てられた暗中模索のすえに人生の別の道のあることも見えてくる。その挫折は、その苦痛に忍耐できているならば、それ以前の人生とはちがったより広くより高いところへと自身を導いても行く。苦痛(絶望や悲嘆)の甘受をもって自身の苦痛から逃げず新規の人生に挑戦する者の姿は、尊く厳かである。尊厳の端的がそこにある。
6-3-6. 快抑制でも人間的尊厳を自覚すべきである
生保存の根本、食の欲求は大きいが、現代人の一般においては、これはかなり充足されている。おそらくかつての時代に比して言うと、食べ物には相当に贅沢になっているが、それでも、慣れてくると贅沢とも思わない。少し反省すれば、資源の無駄遣いになっていると分かるが、それをやめて質素にということには中々なっていかない。しかし、地球環境を破壊するまでになっていて、社会全体として、浪費・贅沢は戒めねばということになりつつある。食の快楽は、大きいけれども、必要な栄養が足りているなら十分なのであり、快に負けて食道楽的なことになるのはやめねばと節制に努める者も少なくない。必要以上のものは禁じるという意志をもち、節制する。が、快・美味には、かなわず、過食に走ることもある。それでも、翌日からは、人としての矜持、尊厳の自覚をもって、自己の食への自然衝動を抑止し美食を抑制して、ひととしての卓越さを見せることができる。
自己内の自然の快で強力なものに性的快楽がある。食欲に比しては小さいが(子供にはないといってもいいし、大人でも、刑務所などでは、食の欲望は消えることがないが、性欲はなくなるという)、周囲からの刺激を受けて強くなり、ひとの場合、発情期がなく年中性欲は存在するから、その制御がときには重大なこととなる。種の保存のための欲求であり、当の社会に相応しい秩序があって、これを守るということが性欲制御の大切なところとなる。激痛に耐えるような困難さはないが、その快楽享受への欲は大きく、ときに羽目を外して秩序をやぶってしまうことになる。それは、不倫などの逸脱では、家族や穏やかな社会を崩すことに直結する醜悪な犯罪となる。
快楽をむさぼるというと、現代では、動物的な食・性の欲求とともに、人間社会独自の麻薬とかギャンブルの問題になることも多い。自由、自律を悪用して快楽奴隷に陥る。それを脱出して快楽を抑止・禁止することが求められるが、飲酒ですらも、一度その快楽の中毒になると、抜け出すことは簡単ではない。中毒になると、禁断症状が出てきて、その薬物、快楽がきれることで苦痛が生じてくる。快の欠損に我慢するだけでは済まず、苦痛にも忍耐することが必要となる。快楽を我慢できないものが苦痛に我慢することは一層困難なことで、よほど己の尊厳を自覚し猛省して生き直す覚悟をしないと、あたら人生を破滅させてしまう。
6-3-7. 尊厳でなく尊大になりがち
王は、周囲の被支配者から、尊厳の扱いをうけていると、実際には卓越した存在でなくても、自身を偉大なものと錯覚してくる。尊厳の内実がないのにそのように振舞う、尊大なものになってしまう。ひとは誰であっても、常々尊厳の扱いを受けていると、自身を偉大と思ってしまい、他者をないがしろにする形で、尊大なものになることが生じる。ひとの尊厳は、動物的自然をうちに有しつつのものであり、つい動物的な愚劣な振る舞いに陥っていることがある。その尊大で野卑な愚行は、しばしば周囲には許しがたいものとなる。
国王が真に尊厳にふさわしい存在であった場合、冒しようがない。だが、実際には、尊厳の内実がないのであれば、被支配者からみると、単に尊大・不遜な振る舞いをしているだけとなる。機会を見つけて、かれは、尊厳の座から引きずりおろされることとなる。ライオンや雄鶏は、自身の偉大さを顕示しようと立派なたてがみや鶏冠で飾る。中身のない王や神(とくに教祖)も、きらびやかな王冠をもって自らの至高の地位を誇示しようとする。だが、雄鶏などとちがい卓越した中身がないのであれば、尊厳を象徴する王冠は尊大さを語るだけのものになる。万人の有する人間的尊厳も、努力目標であり、理想であるとすると、個人によっては、実際的には、尊厳のかけらもない愚劣な振る舞いに終始する。
ひとは、動物としてマウンティングの欲求をもっており、これが尊厳のもとでも動く。複数人になると、優劣を競い、上に立って他の人を支配したがる。自身の権利のみを主張して、相手の権利はないがしろにするというようなことも生じる。ひとは、尊厳扱いをもって大事にされると、ついそれを当然として甘えて尊大になる。尊厳の扱いをしてもらうけれども、他面では非尊厳で卑小な自分でもあることを自覚し、かつ、相手も同じ尊厳をもった人間であることを踏まえて、謙虚に振舞う必要がある。ひとの尊厳は、自然の見事な制御・支配に基づくのであれば、自然に対しても、尊大にならず、被支配の動物や自然に対して見事な支配・制御となるように、十分な配慮をすることが求められる。慮って対処しているつもりでも、しばしば、独善的になっている。謙虚になり熟慮を重ねて、尊厳を有するものの責務をしっかりと果たしていくのでなくてはならない。
6-4. 「尊厳」という言霊-共同幻想としての尊厳
尊厳というと、なんといっても神とか国王のそれであろう。だが、その神を尊厳とするのは、これを信仰する仲間内だけのことである。その王を尊厳でもって讃美するのは、その支配下にある国民のみである。その神を信仰していない者は、尊厳どころかその神自体を虚妄と見るし、王の尊厳も、周辺の国からは否定され、狂暴で愚劣な首魁にすぎないと軽蔑されるのが多くの場合である。尊厳は、客観的規定ではなく、主観的なものであり、それをたてまつる集団の単なる、しかし強力な共同幻想である。
尊厳は、その集団においては、絶対的なもので、その神や王の不可侵の崇高さを示す王冠のようなものと捉えられ、拝跪を促すものとなっていた。おそらく、ひとつの集団が統一的な営為、例えば周辺の部族との戦いとか、組織内の秩序立った行動等のために必要としたものであろう。組織内の統一した行動がなくては、みだれて成員相互間でスムースな動きが取れなくなる。それを防ぐために統率が求められ、背くことのできないような、絶対的な畏怖・威力を各個に感じさせるものが求められた。その統率の威力が大きいほど全体は強く一体的になり、安定した集団となる。集団が大きくなるほどに、その指令するトップは、現存の長老たちを超えて、その集団の共同の祖先になり、祖先神(氏神)、神となっていったことであろう。この全体を担う祖先神は、霊界になお現存していると想定され、巫女などの口をもって、しかるべき行動への支配的命令を出した。あるいは、その祖先神は、最有力の部族の長、王に乗り移って、その意志を表明した。巫女や王の声は、祖先神の尊厳をもった命令と見なされて、この共同の幻想は、現実的なものとして威力をもって機能したことであろう。
「かけまくも、かしこき(心に懸けることも、畏れ多い)」「みこと(尊)」等と尊厳の言葉が発せられることで、その神や王は、これにひざまずく者たちの前には、尊厳に満ち溢れたものとして立ち現れたことであろう。尊厳(相当)の言葉をもって形容されることで、その言葉にふさわしい真に超越的な尊厳の存在そのものにと神や王は祭り上げられた。下賤な言葉をもって形容すれば、その下賤さがそのものにくっついてしまう。同じように、「尊厳」の高貴な言葉は、それをもって語られることにおいて、拝跪の姿勢をさそい、当の拝跪されるものは、それに見合うように尊厳の存在自体になっていった。ひとは、言葉をもって生きるので、これに大きく動かされる。「尊厳を侵す」と言われると、現代であっても、身を引き締めて細心の注意を払い、ことによると威嚇され、批判的な眼を麻痺させられるようなことにもなる。言葉自体にあたかも物事を動かす魂・霊が、言霊があるかのようなことになる。
6-4-1. 人と自然を支配する神々の尊厳
ひとは、集団として生きる。古い時代、家族は経験知の豊かな老人・長老の命令下に動いたことであろうが、より大きな集団になると、諸家族の同一の祖先において一つになり、その祖先神とみなされるものの指導にしたがうことになった。が、その祖先神(氏神)は、死んで霊界にいることで直接には語らないから、巫女に、あるいは、現に生きている長老などに憑依してその指導的な声を発したことであろう。それは、行動の指針がたたないとか混乱しているようなときに、その明確な指針を求めてのことになり、その祖先神の声は、親の親、長老の長老といった権威に輪をかけた頼りがいのある尊厳のある声となった。権威・威力をもって命令・指示するものであり、その集団の者たちはこれに拝跪し従順にしたがった。親から親へと遡った祖先神(氏神)が、生きている者たちの祖として、侵すことのできないものとして立って、巫女などに憑依してその集団を支配した。尊厳をもつ神の世界と自分たち被支配の世界を作り出した。
これと同時的に進行したのが自然神とのかかわりであろう。自然の威力の前にはひざまずく以外なかった。日常的な自然には能動的にかかわれるが、その背後にある荒れ狂う暴風雨などの巨大な力にはなすすべがなかった。そこに想像力は、自然神を見出した。これも祖先神と同様、一方的に自分たちは、その威力にひれ伏すだけであった。これを、侵すことのできない尊厳の存在とみなして、これの威力を畏怖しつつ、その創造力に慈悲・恵みを求め、その破壊力は他へ向け自分たちには無事をと、ひれ伏して、乞い願った。人知を超えた尊厳の存在としてたてまつり、畏怖したことである。
その祖先神なり、自然神には、ひとは、無力な存在として、従順な被支配者となることに徹した。尊厳をもつ神々とこれにひれ伏す人間という関係である。日本の神話時代は、当然、尊厳という漢語はない時代にはじまることであり、「尊厳」の語そのもので表現されることはなかったろうが、それに相当する和語をもって古くからこれは表明されてきた。荒れすさぶスサノオは、「みこと」と称されるが、漢字では、尊である。神々は、その尊厳を「尊(みこと)」で表していた。尊は、尊ぶということであり、「高き尊き」ものとして、高くとおくに尊崇の念をもって立てられ、被支配の自分たちの触れることもできない崇高なものとなった。あるいは、荒れすさぶ厳めしい神には、ひとは、恐怖し萎縮しきって関わったことで、その尊厳を有する厳かなものへの姿勢は、神に向かっていまでも「かしこみかしこみ申す」と言うように、「畏(かしこ)む」ことをもって表明された。畏むのは、被支配者が畏怖しひれ伏すことである。「厳かで」「厳めしい」神の「厳しさ」を受け入れ、その威厳にあふれたものの前に萎縮し緊張して、畏怖し、かしこまり控える。尊厳をもつ祖先神や自然神は、これを遠く高くに尊び奉り、自分たちは、その厳しく厳めしい神のまえに萎縮し恐怖して畏まり、その畏怖させるものに絶対的に従順な被支配者として平伏し拝跪したのである。
6-4-1-1. 神聖・不可侵の尊厳の形成
キリスト教の神を尊厳とするのは、その神の支配に服しているキリスト教徒のみである。仏教徒は、その異教の神も尊厳も、妄想・妄念にすぎないと客観的な真実を語る。神仏の尊厳は、それへの帰依者によってなる。かれらは、徹底して従順な奴隷に留まる姿勢をとって、拝跪する。五体投地は、全身をもって這いつくばる姿勢になり、無抵抗、従順さを示す。拝跪すれば、その対象は絶大な力をもっている支配者になっていく。ひとは手でもって対象を動かしこれに抵抗することが多いから、手を広げ合掌し手を縛ることは、無抵抗・従順の表現となる。手をあわせるとか敬礼で手のひらを見せるのは、武器をもってないとか、無抵抗で、力んだ握りこぶしで攻撃しようとなどしていないことを示す。数珠とかロザリオは、信者が自身を縛ることの象徴であろう。ひざまずくのは、非攻撃的で低位置にある自分を示す。首とか上体を折り曲げるのも、同様、自身が低きにあることを語る。そういう非支配者の無抵抗で低位置にあることをもって、その向かいにある神は、おのずからに高く尊いものとなり、厳かで畏怖すべきものとして、尊厳となる。
尊厳では、尊厳の存在は、絶対的上位に位置し、従順に拝跪する被支配者は、はるか下方にひれ伏すことになる。つまりは、触れることの許されない距離をもつ。触れること、接触することは、対等に並んで可能になることだから、尊厳の存在には、触れてはならないのである。神棚は触れられないようにと高くに設けられる。不可侵、不可触である。聖なる世界、神聖なものと世俗の峻別である。聖なるものに触れることは、俗のけがれでこれを汚すことであった。畏怖すべき神の場合は、人の方から触れることを避けるとともに、自分たちの方に接触してほしくないということでもあった。祇園祭などは、疫病神(牛頭天王≒スサノオのみこと)をまつりあげて、自分たちには接触してこないように、自分たちの方には近づかず遠くに安らいでいて欲しいと祭ったのであろう。
さらに、触れないどころか、見てはならないと言われる場合もある。見ることは、感覚では遠隔受容器によることではあるが、「眼をつける」というように、その見たものを攻撃し挑戦的になるものと捉えられた。猿やチンピラは、あまり見ることをしてはならない。それらを挑発する振る舞いとなる。無抵抗・従順の信者は、その尊厳の対象を見ることも、さらには語ることさえも、遠慮する必要があるのである。「かけまくも、かしこき(こころにかけるのも口にするのも、畏れ多い)」畏怖の神であった。あるいは「おろがみ、まつる」、かがみこみ、おがみ、みることを避けて、はるかにと、たてまつる。尊厳の存在は、不可侵の神聖さをもって超越的な高みにまつられるのである。
6-4-2. 王・国家の尊厳をささえるもの
人間社会での支配は、武力を拠り所とすることが多い。家族内は愛が育み慈しみ合うことで成り立っているが、外においては、自立した諸家族・諸個人を統御するには、(正義(法)をかかげ)武力をもって威圧するのが通常であろう。武力を行使しないとしても、威嚇して相手がその威にひれ伏すことで、支配・被支配がスムースに成り立ち、双方が無事に済むことになる。日本の神話時代も、支配者となっていく天皇家の祖先たちは、まつろ(服、順)わず抵抗する各地の王たち、土蜘蛛たちを武力で制圧して、これをまつろわせ、「国譲り」を強いていった。やがて、中央の支配下の国造(国のみやつこ(御奴))に位置付けて支配を確定し、全体を安定したものにした。敗者が従順になって被支配に甘んじるようになるのは、その完成は、支配者に拝跪する、「おろがみ、まつる」姿勢をもつことをもってである。尊厳の支配者と、拝跪する従順な被支配者である。これでその社会は、安定したものとなる。その支配・被支配がうまく持続すれば、そのまま、王の子が王となって王朝はつづく。その王家が神与・天与の尊厳をもった血筋というようになってもいく。尊厳の背後でこれを支えるものは、武力であり、畏怖し従順に被支配に甘んじるのは、その武力を知ればこそであった。
尊厳の威力を成り立たせる武力は、支配者の方にあるが、尊厳自体を創り出すのは、これを付与するのは被支配者の方である。支配下にないその圏外のものは、尊厳をもって拝跪することはない。まつろわぬ者は、支配下におこうとする王の武力を脅威とし、彼を狂暴な首魁と見なすだけである。「まつろ(服)い」、これをまつり上げて「おろがみ、まつる」ことで、それに服従し拝跪することによって、拝跪されるものが絶対的な支配者として尊厳となる。いうなら、尊厳の称号は、被支配者が付与するのである。拝跪し従順になりきった姿をもってすることで、相手が尊厳を有した絶対的存在となる。しかし、尊厳の栄誉が下賤の被支配者によるというのでは、その尊厳にかげりを感じさせかねないので、絶対的支配が確定するとともに、その尊厳は神与・天与にもっていくのが一般である。
日本の場合、歴史の歩みは、やがて、武力をもつものが武士として別勢力になっていき、神の代理人としての天皇は、現実世界の支配者ではなくなったけれども、現実の支配者の将軍たちは、その尊厳を神の代理の天皇から授与してもらうことを続けていった。だが、中国などでは、支配は外からの征服となることが多く(日本を統一国家とした天皇家は、南方高天原からにせよ北方朝鮮方面からにせよ、外部から(天孫降臨)の征服王朝になる)、根こそぎそれまでの支配関係を取り払ったから、神の代理人になるものを残さず、皇帝は、直接、天から尊厳をもった支配権を受け取る形をとった。
6-4-2-1. ひとの依存心は、尊厳の支配を求めた
ひとは、集団的に生きる存在であり、依存心をもつ。だれかに導いてもらいたいという心性をもつ。生まれてからすぐ独立する魚とか爬虫類とちがって、長く親に依存して育つ。ひとは、動物的には未熟猿として生まれて、何年も親を頼りにして生きるという根深い依存体験を踏まえているから、その心性は大人になっても続く傾向が大きい。何かに寄りかかっていないと落ち着けない。その非自立依存の心性の創り上げたものが祖先神であり、帰依する神仏であろう。親が絶対的であるように、神仏を絶対視して寄りかかり、これを尊厳で、冒してはならないものと見ていく。
未来に生きるのが人であるが、その未来とその指針は、不明確で、自信のないものになりがちである。このとき、それを明確に示してくれるものがあれば、確信して自信をもって歩める。頼れる親の親の祖先神がこれを示してくれるなら、これに従いたくなる。巫女を通して、祖先神の言葉をいただくことで自信をもって一族全員で前に進み得た。その言葉は、神の言葉として、尊厳を持ったものとして受け入れられたことである。尊厳をもった威力ある言葉に導かれて安心できたことであろう。ひとは、蜂や蟻のように集団として生きるなかで、この集団に依存することになる。その同族のうちにひとは安心を得る。その全体とこの全体を導く者に依存し、そのリーダーに拝跪することで、リーダーの尊厳を作り出した。ひとは、寄りかかり依存する心性を満たし安心できた。
ひとつの集団が力を発揮するには、生命体が中枢をもって統一的に動いて力を発揮するように、統一的な中枢があれば容易くなる。蟻や蜂とちがい全成員の親となるような女王は持たないけれども、ひとにはマウンティングの動物的性向、支配欲・名誉欲が強いから、放っておいても、だれかが王になっていった。それでまたトップになると、全体がよく見えるからうまく判断もできてくる。上位のものが下位のものを支配し、下位のものは、上位の支配に従順になって動くということで、君主制というようなものが成り立った。もちろん、民主制も原始の組織からあった。寄合は素朴なところでは、よくある形式であった。だが、合議は、集団が大きくなると混乱してうまくいかないことになる。独裁的にやる方が全体の力は大きくなる。反対勢力の口を封じれば全体が一つになって、軍隊組織がそうであるように全体の力はスムースに発揮できた。どこでも、頂点に王をいただくのが普通となり、したがって、尊厳の王による国家の支配が一般となった。
6-4-2-2. 古典的な尊厳を必要としなくなる近未来
支配・非支配関係のあるところに尊厳は登場する。社長が尊厳であるだけではなく、課長も係長も尊厳になる。係長も、背後の課長や社長を顧慮しない場では、立派な尊厳の係長である。上下、優劣の序があるところで、第一位の者が第二位以下のものに向き直って命令し支配するところに、唯一の至高の支配者としての尊厳は成立する。係長も、平社員に向き直って唯一の支配・命令者となるところでは、尊厳を有する者となる。あるいは、会社では、無能扱いされている万年平社員の父親も、家庭では、尊厳をもった家長でありうる。その長・トップのもとにひれ伏す者は、それに向かって立つ支配者を尊厳の存在にと作り上げる。だが、支配・被支配関係がないところでは、尊厳は消えていく。どんなに立派な社長であっても、平社員と同好の釣り仲間になって対応する場面では、厳しい支配関係は消えていて、尊厳をもって扱われることはない。
これが、フラットな集団ということになると、かりに一時全体をまとめる役を担うものがあったとしても、単なるまとめ役にとどまり、優れた同僚・リーダーにとどまる。対等な人間関係にたって結びあうところには、支配被支配の下での尊厳は登場することがなくなる。他の者たちは、尊敬はしても、拝跪し奴隷的に従順になるものではなく、尊厳の称号をまとめ役が担うことはない。あるいは、皆が尊い存在であるから、皆が尊厳の存在になるのだともいえる。自立した自律的人間は、見事な自己支配のできる尊厳の存在である。尊厳を万人が有する。が、人間の尊厳のもとでは、相手に拝跪し絶対的に無批判に追随するわけではないから、古典的な尊厳という言葉からは外れたものとなるであろう。
卓越したもの、至高のものがあることはこれからもそうであろう。だが、それを尊厳で捉えることはないのである。尊厳となると無批判的に拝跪して威嚇され絶対視する。だが、そういう姿勢は取らないことになっていくであろう。合理的にどのように卓越しているかを把握し、その卓越の範囲で、これに従うことであろうし、至高だといっても、どの範囲でかと明確に掴み、その妥当する範囲においてトップ・リーダーとするだけのことであろう。無批判的に絶対視してこれに拝跪することはない。有限の範囲での至高であり、卓越したものとして尊敬はするが、これに無条件的に這いつくばり被支配者になるような尊厳への態度はとらず冷静で合理的な振舞いが取られるだけとなっていく。親に対する幼児のように、無条件的に依存し追随する状態にあれば、指導者任せで楽ではあろうが、フラットな時代には、そういう無責任な姿勢は許されない。自立し自律的に相互が全員、尊厳を体現して生きていくことが求められていく。
6-4-2-3. 尊厳は、頂点・第一位というだけでは成立しない
ひとでも動物的マウンティングの傾向は大きく、名誉など競って求めていく。その心性があれば、頂点となる至高の存在を憧憬することになり、尊厳の存在を創造しそうである。が、今の時代、下位の者は被支配には甘んじないし、至高・トップになった者も、それで尊厳をもった支配者として下位の者を被支配におけるとは思わないであろう。競争心は、大きいが、えこひいきなしに測ってみれば、その能力の差は小さい。短距離徒競走など、ほかの動物がせせら笑う時速40キロ前後でのわずか百分の一秒の差でトップを作り上げる。世界一のランナーになったとしても、ごくわずかの差であり、桂冠の獲得は、その時だけのものにとどまる。競争するということ自体、実際に並べて競ってみないと差がわからないからするのである。亀と兎の場合は、速いのは兎と、走ってみなくてもわかるので、競争しない。競争に勝って第一位のみが桂冠を戴くとしても、第二位、第三位が僅差で量的に続くという、どんぐりの背比べであれば、支配・被支配の尊厳の在り方には、程遠いものに終わることである。勝者を至高と思うものはあっても、これに拝跪して奴隷になることを肯んじる者はいない。拝跪するものがいなくなれば、古典的な意味での尊厳をもつものはなくなる。
仮に第一位が圧倒的な差で存在するような場合であっても、その卓越・至高のメルクマールだけでは、尊厳には不足する。けん玉世界一が第二位を圧倒的に引き離して存在するとしても、それを尊厳とはみなさないであろう。ミス(ミスター)ワールドは、美的に卓越しているとみなされたとしても、尊厳の冠はもらえない。尊厳になるためにそれらが欠くものは、支配関係である。尊厳は、第二位以下が被支配者となり、第一位で支配者になった者に向かって卓越した支配だと讃美することでなりたつ。神も国王も、支配者として至高であって、尊厳とみなされ拝跪されるのである。
優劣のあるところで、第一位が尊厳であるには、第二位と決定的に異なるものがなくてはならない。人間は、尊厳だが、第二位の類人猿は、もう尊厳ではない。トップの人間のみが尊厳である。第一位以下に優劣の差をもって多くが並んでいるなかで、その第一位が、向きを第二位以下の方に向き直って、唯一の支配者となり、第二位以下は、すべて被支配者になることで、尊厳は、成り立つ。尊厳の第一位の人類と第二位の類人猿との遺伝子レベルでの差異は、1%ぐらいだというが、それでも、ひとと猿の違いは、支配者と被支配者という異質の存在になって、人のみが尊厳の冠を戴く。ひとを殺めたら殺人であるが、チンパンジーを殺したとしても殺人罪には問われない。ものを壊したのと類似の取り扱いとなる。
6-4-3. 人間の尊厳
現代社会でも、尊くかけがえのない人間が、物扱いされて人として扱われないことがある。それに厳しく対処するため、威嚇的な用語として機能しうる「尊厳」の言葉を使うことがある。ひとも生命も、ひどい目にあうことが多い。人類史において、どれだけ多くの人命が弄ばれ犠牲にされてきたことか。尊厳の反対、非尊厳の惨めな扱いの方が普通であったろう。だが、動物なみの扱いをうけ虐げられた人も、内心においては、それを不当と思い、自身も、神や王の座に坐れば、それとして振舞えるだろうと思っていたことである。旧約聖書の神のような、人や動物の創造に失敗してやり直しをするような仕事なら、自分の方がうまくできる、神よりましだとすら思うことである。内心においては、尊厳の存在であることを人は自負している。その内にあるものを外に出して、自分も尊厳だと近代になると言えるようになった。
ひとは、自然の中にいながら、この自然を超越してこれを制御・支配している。自然から言えば、至高の支配者であり尊厳の位置にある。ただし、神や王の尊厳とちがい、被支配の自然が人に拝跪してくれることはなく、ひとの尊厳は、それらとは少し事情が異なる。狡知をもって巧みに支配しているのだが、それにはまずは自然に素直に従うことが必要で、尊大になっていたのでは支配は失敗する。まず自然の奴隷になったうえでこれを巧みに支配していくのである。しかも、類として支配力をもつのであるから、個人としては無力にとどまることも多い。尊厳の能力をもっているから、それを表に出してよいところでは、出す。愛玩動物の前では子供でも尊厳の振る舞いをするし、家族のうちでは、誰かが絶対的な高位に就いて、尊厳となることはよく見られることである。
さらに、ひとは、自己内の自然、快不快の自然を支配・制御する自律の存在であり、この自律は、理性的自己による自然感性的自己の卓越した支配として尊厳となる。苦痛に耐えて内外の自然を超越できる自分は誇らしく、尊厳の存在ということができる。ひとは自身において、尊厳を自負する。それが外で表現可能なら、そうすることになる。ただし、内弁慶が多く、内心では尊厳を誇っていても、外的な、国家の強権とか、無法者の前では非尊厳にとどまりがちである。
国王や神の尊厳は、その被支配者たちが拝跪して支えていた。ひとの尊厳は、根本的には、被支配の自然が支えるものであるが、自然が拝跪の姿勢をとってくれることはないから、尊厳と了解しそれとしての扱いをしてくれるのは、周囲の同じ人間になるのが普通である。が、王が自国では尊厳でも、外国では、かならずしもそういう扱いをされないように、不遜な人間に出合っては、人の尊厳は蔑ろにされて、奴隷あつかい、虫けら扱いとなることも少なくない。
6-4-3-1. ひとは、世界全体を支配下に置き、尊厳の意識をもつ
ひとの尊厳は、古くからの神や国王の尊厳と異なり、近代の誇張ととれないこともない。しかし、今日一般的には人間の尊厳を誇張と思うことはないであろう。それは、尊厳の根本である唯一の卓越した支配者という特性を、各自において感じうるからである。類としての人間が内外の自然を制御・支配しているのは確かである。さらに、ひとは、その主観においては、各々が唯一の至高存在、実存であることを意識する。この世の全体を相手にした唯一の主観として自身を感じることができる。ひとをミクロコスモス(小宇宙)と言ったり、モナド(全世界をうちに畳み込み完結・充実した単子)と言うことがある。それは、全世界、マクロコスモス(大宇宙)をまるまる自己のうちにミクロの形で有しているということである。神が尊厳をもつのは、世界の唯一の至高の支配者だからだが、人間も、それと同じものとみなしうる。マクロの絶対神をミクロにしているのが人であり、マクロの神の尊厳に対して、人は、ミクロの尊厳の存在となる。
消極的な形では、自分が死ねば、無になれば、世界そのものが消滅すると想像できるところに、ひとは尊厳を感じうる。人の命には、無限の重みがあるというが、自分が死ねば、無化すれば、主観的には、世界全体も消滅する。それは、もっと身近には、眠りと覚醒においてみることができる。眠ることで世界全体も消えてしまう。自分が覚醒することにおいて、世界も再生されてくるのである。ひとは、各自の意識をもって世界を見る。自分に沿うた世界をつくる。夢や妄想はもちろんだが、目で見るこの現実世界も、自分が作った世界である。青い空も緑の森も自分がそのように色付けして成り立つ。青色も緑色も外界には存在しない。あるとすれば、それは、光の一定の波長であり、それを各人が自身の心中で主観的に色付けしているのである。音もそうである。美しいメロディーも、自分が心のうちに作り上げてなっているもので、客観的には単に空気の振動が連続しているだけである。美しい音にせよ騒音にせよ、各自が自分の心中で創造したものである。つまり、この世界は、各自が各自のうちで創造しているのであり、各人、世界の創造主になっているということもできる。この多彩な世界は、自分が自分用に創り出し制御・支配しているのである。自身、その世界の唯一の見事な支配者である、したがって尊厳を有していると、主観的には感じることができる。
このようにみなした場合、人間が尊厳をもつのは、誇張などではなく、ごく当たり前のことだということになろう。神の尊厳にしても、客観的なものではない。神は異教徒からいうと単なる妄想であり、盲信をやめ拝跪することをやめ被支配に甘んじることをやめたなら、神は消え尊厳など無化してしまう。つまり、これも主観的なもので、人間が尊厳であるというのが主観的であるのと似通ったものである。神が尊厳なら、同じようにして、ひとも尊厳だといってよい。
6-4-3-2. 生命の尊厳
昨今は、人間のみか生命の尊厳も時にいう。これは、人間の尊厳とちがい、生きているもの全般についていうのであり、これを食料にしている者としては、戸惑い気味となる。が、確かに、生命の尊厳は、言いうる。無機物からいうと、生命は、実に繊細・精巧で卓越した存在である。無機物を巧みに動かしてこれを制御・支配しているといってもよい。無機物の見事な利用・支配において、これを尊厳と見なすことができよう。それが、しばしば、粗末な、ときに冷酷無残な扱いをうけているのを見れば、「生命の尊厳」という切り札を出して、ストップをかけたくもなる。
自然への人間の支配力が強大になったのは良いが、そのことで自然が破壊され、植物もそうだが、何より動物が命を全うできないような状態になっていることが目立つ。このことに対して、生命の尊厳をもってしようというのが現代である。野生の動物たちが、環境破壊で生存を脅かされるようなことが多くなって、その動物的生命の尊いことを説き、環境を保護し動物を保護するために、それらの尊厳を語る。単に尊厳と位置づけて大切にというだけではなく、尊厳を矛・盾にしつつ福祉とか権利をもってすることでもある。動物にも生きる権利があるとか、さらには環境世界全般について、川や山にも権利があるのだとみて、これらの保護のための盾に尊厳とか権利を使おうとの試みである。が、日本では、権利は、英語あたりのright(権利・正しさ)のように「正しいこと」とは異なり、人間社会の権利・義務に限定される言葉である。自然を守るのは正しい(right)というのとちがい、自然にも権利があるのだというと、自然に(権利・義務の責任能力をもつ)人格をみとめるような感じになってしまう。福祉も、人間のそれにと限定して通用してきたものなので、受け入れにくいものになる。とくに、福祉を動物にいうことは、人と動物を同一視し、人を動物に格下げするような感じになってしまう。が、ほかによい訳語が見つからないからか、動物愛護を人並みにという愛護者たちの過激で威嚇的な意向に沿うからか、動物の権利以上に、動物福祉は、最近よく見かける言葉となっている。
世界は結構、主観的なもの、幻想で動いており、動物や自然全般を尊厳とみなすことも、それが多数になれば、通る。イノシシの被害にあう者が少数で、多数派は、イノシシにも尊厳があるということで、殺処分すると抗議の声が殺到する。神など妄想の代表だが、カトリックの信者が多数を占める国では、(神与の)受精卵を処分するのは殺人だとレイプの被害者を苦しめるようなことになる。
6-4-3-3. 比較を絶した壮大な宇宙の崇高さ・尊厳
ひとのみでなく、広く生物は貴重で尊厳をもっているということがあるが、その基礎にある無機物にも、場合によっては尊厳のラベルを張ることができなくもない。森羅万象が尊いものであり、石ころにも仏性があるとみなすなら、これも尊厳ととらえられる。尊厳は主観的な評価・価値判断であるから、そう捉えることも可能である。無機物も、これを創るのは、そう簡単なものではなかろう。無から有は作り難い。有は、稀有の有である。電子とか陽子等の単純なものから、多くの原子、分子をつくりだす巧さは、絶妙で、しかも、その有は、永遠不滅となれば、ひとの生の有限の前で、悠久の存在として崇高さを感じさせられる。
この悠久の宇宙は、空間的にも無限にと広がっているのである。昨今のハッブル等の宇宙望遠鏡での無数の星雲の写真を見ていると、我々の銀河星雲ですら途方もなく巨大なのに、そういう星雲が無数存在していると分かって、この宇宙の比較を絶した壮大さに、崇高さを感じずにはおれない。尊く厳かとの形容をしたくなろう。生命や人間をも作ったこの宇宙・有は、卓越した稀有のものとして、尊厳と見做したくなろう。尊厳は元来、客観的規定ではなく、主観的な規定であるから、その主観が至高で尊いと思えば、それは尊厳になりうることである。ありもしない妄想の神に仰々しく尊厳の拝跪をもってし、愚劣な独裁者に尊厳の称号を与えているのが現実である。それらよりは、宇宙の神秘に打たれて、これに尊厳の思いを持つ方が、よほどましなことであろう。
比較を絶したこの大宇宙は、ひとの測ることのできないものとして、「かけまくも、かしこき(心に懸けることも、畏れ多い)」と神を形容したように、心に思うことも語ることもできない圧倒的な大きさをもって、畏怖すべき存在として現れてくる。尊厳をもって形容したくなる宇宙である。その無数の星雲(の写真)を見ながら崇高さを思い、自身の小ささに思いをいたし、圧倒される。尊くあまりにもとおくにあって、接することなど不可能なこと、不可触、不可侵であり、その厳めしく厳かである様子に気圧される。尊厳の形容をもってこれに感動することである。もっとも、尊厳が宇宙などにまで拡大使用され、いわば森羅万象に尊厳が適用されるとなると、尊厳のもつ社会的な意義は、薄れていく。尊厳は、客観的規定ではなく主観的なもので、万物を尊厳とみてもよいのではあるが、守られるべき焦眉の人間の尊厳ということからいうと、すべてが尊厳となるのでは、尊厳のもつ威力、威嚇的な働きなどは、なくなってしまいそうである。
6-4-4. 威嚇用語となる尊厳
尊厳のレッテルは、そのものを至高の尊いものとして提示するとともに、それへの否定的な言動を阻止しようと威嚇する時よく使われる。「それじゃ尊厳を冒す!」と言われると、反射的に、萎縮させられ、批判精神を麻痺させられる。感情など抜きにして抽象的にことを捉える特殊な意識下にあれば別だが、その時代に行き交う言語の中に生きている者は、例えば、「貴様」と言われたら、貴い、あなた様とはうけとらず、侮蔑され挑発されていると受け取るように、「尊厳」を言われたら、緊張・萎縮がさそわれ、冒しがたいものと受け取ってしまう。神や王の尊厳では、それが大きな威力・武力で支えられていたから、その尊厳を冒すと、命も危ういと恐怖させられたことである。尊厳は、単に至高で尊いというだけではなく、それへの冒涜やその支配からの逸脱に対しての厳しさ厳めしさが伴う。尊厳が付されているものを批判するとき、相手から「尊厳を冒すな!」と反対されたら、たじろいで冷静な批判的意思をくじかれる。尊厳と言われるものに拝跪している者たちは、無条件的にこれにひれ伏していて、その絶対性を冒すような者を不倶載天の敵とみなして脅迫するようなことも生じる。
尊厳の神・王への振る舞いでは、これを至高として従順に引き下がり、絶対的なものとして拝跪する。その支配に反抗的であった場合、古い時代、「まつろわぬ」土蜘蛛は征伐され、あるいは、現代でもイスラム教を否定したら問答無用の狂信者に暗殺されかねない、といったことになれば、尊厳の言葉の前では怯まざるをえなくなる。日本の仏教など穏やかで、尊厳の仏を貶してもどうということはないと言われるであろうか。穏やかに済んでいるのは、葬儀などでの付き合いぐらいに終わっていて、本気で信じてはいないからである。本気になった場合、知を捨て信(=妄信)をとる宗教である限り、仏教でも危うい。世俗の者は、罪深い生活をしており、その殺害はその救済だと、オウム真理教徒は、無差別大量殺人を平然と行なった。キリスト教は、敵をも愛する隣人愛を語るけれども、ヨーロッパでは宗教戦争を繰り返し、どれだけ世界中で非キリスト者を殺害しその文明を絶滅させてきたことか。
人間の尊厳、生命の尊厳の場合は、そういう殺戮の首謀者になることはないのであるが、「かけまくも、かしこき(こころにかけることも、畏れ多い)」といった神や王の尊厳の歴史があるから、尊厳という言葉には、反射的に畏怖させられる。尊厳をもってする者は、これを絶対ととらえて理性的懐疑など拒否し問答無用の態度になる。その没理性的な「尊厳を冒す」という言葉において、いまでも、尊厳は、ひとを威嚇し、ときに脅迫する武器となりうる。尊厳の言葉には、言霊が息づいている。華美、清楚、へど等の言葉を耳にすると自身のうちに独特の感情的反応が伴う。尊厳も同様に、見事で至高との、賞讃や「尊」さ・憧憬の感情を湧出するとともに、これに距離を持とうとする者においては特に、尊厳の「厳」しさ・厳めしさの面に威嚇されて緊張し不安や恐怖の感情を生じがちとなる。
6-4-4-1. 乱用され、無視される尊厳
人間の尊厳とか生命の尊厳は、無視されることが多いが、逆に乱用気味になることも生じている。少し不利な扱いを受けると、人間の尊厳を水戸黄門の「印籠」のように使って、威嚇するようなことがある。生命の尊厳も、同様である。鹿や猪を駆除すると、生命の尊厳を盾にして、これを糾弾する。田畑を荒らされる人間の尊厳は無視して、生命の尊厳を言い立てる。命を大切にすることは、大事であり、環境の破壊で存続の危うい生物の生じていることへの警告として、威嚇的な「生命の尊厳」の言葉は、大いに役立っている。ただ、猪などの害獣の駆除については、生命の尊厳をもって威嚇することは、褒められたものではなかろう。人間の尊厳が、ないがしろにされかねない。あまり、尊厳が乱用されると、身動きが取れなくなることもある。生命の尊厳を冒さないようにすることが行き過ぎると、日々の食事までが困難なことになっていく。もちろん、信念をもった者が、菜食のみでベジタリアン(vegetarian)を通すことは、動物の犠牲を回避する尊いことではある(これも、植物のように(vegetably)生きてカスミを食べるのではなく、植物の命は犠牲にする)。
私は山野を気ままに歩くのが好きで獣(けだもの)道に従いがちなので、近所の猪用の罠には用心しなくてはと、区役所に設置した場所を教えてくれと電話したことがあるが、「動物愛護者が罠を壊すので教えられない」と断られたことがある。生命の尊厳に与する者の中の過激派になると暴力的で、肉屋を襲撃するような者もいる。尊厳を抱く者は、それを絶対的として、尊厳を冒す者を問答無用と否定する。ほかの者の人間的尊厳などを無視してでも、動物の尊厳を守ろうとする。猪の尊厳はあるとしても、それによって農作物が荒らされて人間の尊厳が無視されるのでは、生命の尊厳の乱用ということになる。当然、獣害を受けているものたちは、猪の尊厳などに構ってはおれない。尊厳は絶対的という発想であるから、自分たちの主張する尊厳のもとで、対立する側の尊厳は問答無用と無視されることになる。尊厳の乱用と無視が横行する。
ひとや生命の尊厳を語り合う社会であるが、これを守ろうというのとは反対の現実も多い。近代になって、ひとは尊厳だといいながら、戦争で粛清で、何百万、何千万もの命が奪われ続けてきた。尊厳が、客観的な価値規定ではなく、主観的な価値付与、単なるレッテルでしかないことを、いやというほど我々に突き付けて来た。生命の尊厳を語りながら、牛や豚を日々大量に食して平然ともしている。人間の尊厳とか生命の尊厳は、保護され尊重されるべき場面でも、繰り返して無視されて悲惨な状態にとどめ置かれている。
6-4-4-2. 尊厳同士の衝突
尊厳といっても、これが常に通るわけではない。社長の尊厳と課長の尊厳が二者択一になるようなことがある。その場合、尊厳の本質にもどって、つまり、尊厳は見事な支配に付するものという点から、その場に相応しい判断をすればよい。会社全体としては、課長の尊厳を無視して社長の尊厳を優先することだろう。だが、課内のことが優先される場面であれば、現実の支配・非支配関係において課長が尊厳なのであり、社長ではなく、課長を尊厳として優先することになろう。
同じように至高の尊厳をもって現れる神々とか、諸社長の前において、選択がなされねばならないという場合、尊厳は比較を絶して崇高なものということだから、各々が最高・絶対ということで、尊厳同士の比較は無理な相談となる。どちらかが力に劣るということをもって、絶対・無比を現実の前で否定して、その勝ち残りだけを尊厳としなくてはならない。現実的な力の問題となる。武力に優れている方が尊厳となり、知力・技術力等で優れているものが尊厳を通すことになる(集団のうちで順位をつけていく必要のある場合は、尊厳の視座は取り外さねばならない。尊厳は、第一位のものが第二位以下の方へと向きを変えて、唯一の見事な支配者となるとき成立する。第一位(例えば、人間)は明確でも、第二位以下(遺伝子では1%の差異で人間に連続して類人猿が並ぶ)は、その他大勢の被支配者として順位は無視される)。
生命の尊厳と人間の尊厳の対立は、昨今、動物愛護でしばしば生じている。害獣の駆除に際して、部外者は、猪の生命の尊厳が冒される面しか見ないで、生命の尊厳をいう。が、身近な害獣の被害者からいうと、猪の尊厳を見ている暇はなく、その粗暴な野獣面を見ることになり、被害者の人間(の尊厳)を守れということになる。生命の尊厳そのもののもとでも、複数の生命の尊厳が対立して迷わされるようなことがある。池に外来種が入ったことで在来種が駆逐されるようなとき、在来種(おそらく、早く来た外来種)の生の尊厳のために動くことは、外来種の生の尊厳を無視することにつながる。絶対・無比の尊厳同士は比較できないから、尊厳の視座自体を取り下げて、客観的合理的に比較して選択することが必要となる。
人間の尊厳のように、すべてが同類で尊厳だというような場合、生命の尊厳もそうだが、取捨選択においては、動きがとれなくなる。複数の尊厳をもった人間同士が存在していて、いずれかを優先しなくてはならない場合、いずれもが絶対的な尊厳の存在なのだから、そこに選択の順はつけがたくなる。至高・絶対的なものは、並び立つことは無理で、いわゆる非両立・矛盾の関係になって解決不可能な状態になる。そういう場合、尊厳は主観的な規定なのだから、その尊厳の視座を取り払って、客観的に判断して、その時点で優先すべきものを選ぶことであろう。緊急時のトリアージ(選別)である。ひとりしか救えないという場では、子供を優先して老人を犠牲にする。同じ尊厳を有した子供同士で一人しか選べないのであれば、尊厳の前にたじろぐのをやめて、尊厳の視座は無視して、道理のある比較基準をもって客観的に点数を付けたうえでの選択をする。ピックアップされなかった方の人間の尊厳は、やむを得ず無視されることとなる。
6-4-4-3. 尊厳衝突の決着は、客観性・合理性をもってしたい
尊厳では、それの付される対象を至高・絶対的なものとする。その至高・絶対という尊厳同士での優劣はつかない。ひとつだけを立てねばならない場合、いわゆる非両立の矛盾の関係となりアポリア(難題)となる。誰もが、自身が尊厳と見做すものを第一とする。解決はつかない。みんな、自分のが一番であり、自分のが絶対なのである。
それに決着をつけるには、「比較はいやだ、絶対だ」という問答無用の尊厳の見方をやめて、客観的に合理的に見ていくことであろう(客観的解決としては、実力行使が歴史的には多かった。弱小国の王の尊厳は武力で否定された)。比較し優劣をつけ選択に至るには、量的な比較を拒否してなりたった尊厳を無化して、同じ土俵にあげること、あるいは、尊厳を譲らない者に対して、それに対立する別の尊厳を対置して、絶対と絶対とでは議論にならないことを承知させて尊厳の主張を取り下げさせることである。合理的に、量的質的に比較できる場にもっていけば、選択でき解決が可能となる。妊娠中絶の禁止派と中絶許容派は、胎児の尊厳か妊婦の尊厳かで譲り合えないのであれば、両方とも、尊厳を括弧にいれて無化して、比較可能にして、したがって納得して譲り合える状態にして、英知を出し合うことである(中絶許容派は、必死だが冷静で、尊厳にこだわらない。が、中絶禁止派は、自分たちの神に拘泥し、神与の受精卵の尊厳は絶対だと譲らず頑迷で、過激派になると、中絶を実行した医者を殺害するといった無法も企てる。自身の抱く尊厳を絶対的として譲らない以上は、強制的に合理的客観的な場に立たせ公正な裁判ぐらいに持っていく以外なくなろう)。中絶でなるメリット・デメリットをあげ比較し、その都度、母体と胎児の重みを比較し、法規範、道徳規範に照らしてみて、どちらが譲るべきかを考えていくことであろう。
猪や鹿の命の尊厳を主張する者は、田畑を荒らされて困っている人が害獣駆除をすることを阻止する際、尊厳の「御旗」をもってする。田畑を守ろうという方は、食害を阻止するためにと弁明するが、生命の尊厳という絶対的な主張の前では、勢いをそがれがちとなる。「錦の御旗」のあるものに対決するのは、道理を失った反乱軍のようで意気が上がらず泣き寝入りしがちである。そうならないように、人間の尊厳の冒される状態だということで同じく尊厳(の御旗)を掲げて、まずは、対等になることがいる。相手が万能の矛で来るのだから、害獣の被害者も、人間の尊厳という万能の盾をもつことである。そのうえで、尊厳同士の問答無用の絶対的な矛・盾では、解決できないことを納得しあい、相互が冷静に合理的に解決策をさぐっていくことが必要のように思われる。
人間的生命同士の尊厳の非両立もある。上の階層に属する人、尊大な人の尊厳が通り勝ちだが、そういう場合こそ、合理的に冷静に、えこひいきなくふるまう必要がある。そうするためには、声の小さい謙虚な人の尊厳をたてたうえで、比較不能・絶対の尊厳をもった人間の間に、客観的合理的に、比較可能な価値の差を見出していかねばならなくなる。優先するものを選択しなくてはならない以上は、尊厳という絶対的で比較不能の視座を取り外して、比較可能な状態におく必要がある。量・質等での差異を見出して、できるだけ相互の納得できるような、客観的合理的な視座をもってすることであろう。
6-4-5. 守るべき、ひとの尊厳
神や王の尊厳とちがって、ひとの尊厳は、実際にそういう取り扱いを受けるとは限らない。医療関係で人間の尊厳がよく言われるが、つい最近まで患者は、藁にもすがりたい病弱者として生殺与奪の権を医者に渡していたことで、それを是正するようにと、患者の尊重、丁寧な扱いを求めて尊厳の言葉が使われるようになってきた。社会は、フラットな対等の人間関係を中心に回り始めているが、まだ、階層・階級の差、男女の差別等において、人間性を無視した言動が続いている。各人を実存として尊重しあい、差別的な言動を自他で慎み、尊厳にふさわしいようにお互い生きていく必要がある。「人間の尊厳を冒してはならない」というスローガンは、フラットな人間社会が支配的になることを促進するためにも掲げておく意味がある。
人間の尊厳はしばしば無視され続けてきたのだし、神の尊厳など妄想の上に成り立っていることで、尊厳などどうでもいいではないかと思われないでもない。しかし、この人間社会は、多くが妄想・幻想(実在・真実に合致しない単なるイメージ・概念)で動いているのであって、神や民族・国家といった妄想・共同幻想・虚構に命をかけてきた。現代社会では、科学的客観的に実在・真実にしたがって生きているつもりになっているが、それでも、結構、日々の正常な営為においても、妄想・幻想に振り回されている。商品社会は、ブランド品にみられるようにしばしば幻想を売っており、百万円のブランドの腕時計よりも百円ショップの時計の方が精確に時を刻んでいるのに、前者を良い時計と思わせる。CMで売り込む、効き目のない薬もどきを購入している者はいうまでもないが、飲料水ですら、多くが幻想に振り回されている。アルプスの水だといってペットボトルにつめるだけで、それよりも清潔な水道水(広島市の水道は、清潔であるのみか常温でも年中おいしい。大阪あたりのは、清潔だが、冷やさないままだと若干おいしさに劣る)の何千倍もの値段で売れる。これを飲み続けている者は、幻想に出金し、日々幻想を飲んでいるのである。
それらに比していえば、人間の尊厳は、堅実である。人の尊厳は、理想として描かれるだけで、各人がかならずしも実現しているわけではなく、幻想にとどまることが多いとしても、人間の科学・技術による自然支配は圧倒的になりつつあり、自身のうちの自然を制御し理性的に生きようと、尊厳の方向に向かって日々努力していることでもある。自他の生き方・あり方を尊いものに値するようにと、人間的尊厳を各自が反省しておくことは大いに意味がある。いまだに古代の幻想の神の尊厳の下に多くの国の国民は生きていて、そのために現代文明の利器を使って争いあい神を喜ばせ、神の傀儡になりつづけている。その点、日本は、すでに、宗教的幻想の束縛から多くが解放されており、神道といっても精々地域のお祭り騒ぎに参加する程度で、仏教も、無用の長物扱いで葬式仏教ですらなくなりつつある。あるいは、日々の食べ物等でも宗教的なタブーはもたず、その生活態度は前衛的であって未来社会に向かって先頭を切っている。同じく幻想であるとしても、宗教的虚妄・虚構を脱して人間の尊厳(の理想、消極的に言えば幻想)を踏まえる方が、神に拝跪した奴隷たちよりもよほど優れた生き方になる。
6-4-6. 自身で守るべき、ひと(自身)の尊厳
ひとは尊厳の扱いを受けねばならない。だが、同時に、人は、尊厳にふさわしい者になっているかどうかを自身において振り返ってみるべきでもある。尊厳は、被支配のものからの見事な支配との称賛として成り立つ。そう言われるにふさわしいようにと、ひとは、内外の自然を見事に制御・支配していくことができねばならない。ひとの尊厳は、そうあるべきだとの努力目標なのでもある。昨今は、環境問題が危機的なものになっている。ひとは、この環境・自然に対して強引すぎて、ひどい環境破壊をもたらしてしまい、これを反省し、自然環境の保護のために精力的に取り組みはじめている。ひとは、理性意志をもって内外の自然を見事に支配・制御できる。だが、現実には、見事とは言い難い状態であり、この自然破壊をひとの尊厳に悖る恥ずかしいことだと自覚しはじめている。自戒して環境問題に真剣に取り組まねばと、身近なところでは、ごみ問題とか食料の浪費の見直し等に取り組んでいる。
ひとは、神とちがい、内外の自然を不可避の土台としていて、これに逆に支配されて奴隷になることもしばしばである。他方にある理性的な自己からは、これを戒めねばと反省し、尊厳の自覚をもって尊厳にふさわしく理性的制御を貫徹するようにと努めることである。ひとは、神や王と同一の能力をもっていることを自負している。王の失政を見て自分ならしないと思うし、神の創造したというこの世界が欠点を多くもつことも知り、創造主の愚かさを嘆く。しかし、人は非尊厳の自然に動かされるものでもあり、非尊厳に陥る傾向を常にもってもいる。他方の尊厳の、英知をもったおのれを動かして、そうならないようにと努めることが必要なのである。ひとは、自然超越の存在として誇らしくおのれの尊厳を自覚する。とともに、他方では、自然的身体をもった存在として自然的な粗野に陥る可能性を常に持ち、多いに控えめで謙虚でもあらねばならないのである。王や神は、被支配者を全面的に超越している。王は、奴隷の気持ちを知らない。平然としてこれを死に追いやりもする。神は、不完全な被造物の苦悩を知らない。一方的に自身の失敗作を破壊・消去するだけである。だが、人は、支配するとともに、被支配の自然自身でもある。その自然自身において被支配の自然の内情も自身のこととしてよく知っている。内外、自他の自然について慮りに富んだ存在となり、自身も未熟で欠点だらけの自然であることを踏まえて謙虚にふるまうことがその尊厳の営為の基本に含まれることとなる。
希望をいだいて未来に生きるのが人である。未来の自分がほんとうの自分である。法学部生は、未来の法曹人として今を生きている。その未来がなければ、その現在は無意味化してしまう。尊厳も同様である。いまは、尊厳において未熟であるが、自身の本質は、その未来の実現された尊厳にある。自身は、おのれの尊厳に導かれているのであり、内の尊厳を磨き出し、自己実現しようと未来に生きているのである。
6-4-6-1. 自己犠牲-イエスも釈迦も犠牲をいとわなかった
ひとの尊厳は、理性をもって内外の自然を支配するその見事さにある。自身の自然を抑止し超越して、その卓越性を顕示する。その端的は、自然的には逃げることになる苦痛において、この苦痛を超越して、これから逃げず甘受する、苦痛の忍耐にある。ひとは、必要なら、あえて苦痛を身に引き受ける。自己犠牲をいとわない。イエスは、磔刑で犠牲になった。人を神へと結びつける媒介者になるという自覚をもって身を犠牲に供した。前世の釈迦は、法隆寺、玉虫厨子の捨身飼虎図にあるように、飢えた虎のために身をささげた。尋常ではない尊さである。あるいは、滝に身を投じ、あるいは餓死をもって、自己を犠牲にしてこの世を救済せんとした人たちもある。史実・実効性はどうであれ、イエスも釈迦も、自身を犠牲に捧げて人間としてできる最高のことをしたという逸話をもって、非信者にも尊ばれている。
イエスや釈迦に、ソクラテスもよく並べられる。ギリシャ文明での一番といってもよいぐらいに尊敬されている存在である。プラトンやアリストテレスとちがって、著作一つも残しているわけではない。その生きざま自体に多くが尊さを感じるのであろう。死刑回避が可能だったにもかかわらず、ソクラテスは、これを拒否して自身の意志を貫き、毒杯を仰いで悠然と死に赴いた。おのれのかけがえのない存在自体を犠牲に供した。ひとは、動物でありつつ、この動物的自然を超越する。その超越は、自身の動物的な生命を犠牲できる、生命以上であることに端的である(自殺は、尊厳の営為の反対である。自然のもとでの苦痛・苦悩から逃避するために、苦悩をなくして楽になろうと、生命以下(死)へと逃げているだけである)。精神・理想のために苦痛に耐え命をも犠牲にできるという超越性に、ひとは自分たちの尊厳の輝きを見出す(イエスや釈迦の死=犠牲は、世界中で行われていた人身御供、犠牲獣扱いという面が強ければ、人の尊厳を語るものではなく、神の尊厳のための人間の犠牲ということになろうか)。
ひとが尊厳であるのは、自然を超越するところにある。その自然は自己のうちの自然としては、身体である。それを犠牲にし超越していくとは、犠牲・受難での苦痛を超然として受け入れることである。動物なら逃げていくその苦痛から逃げずこれを甘受する忍耐において、ひとの尊厳が光ってくる。苦痛をひきうけ自己犠牲を払う見事な超自然の営為である。イエスの尊厳は、あの磔刑(犠牲)になった姿に端的である。イエスに倣う者は、なによりも、その自己犠牲の精神をしっかりと身に引き受けることであろう。ひとは、一面では動物的自然に生きているが、理性をもって自然を超越し、自己を支配でき、生命以上の存在になれる。自身の思いと行動において超自然的に身を尽くして苦痛に耐え犠牲になることを厭わぬ姿勢をもつことができる。イエスの尊厳は、稀有で崇高なその磔刑の姿、自身の苦難・死刑を決然として受け入れ自己犠牲に徹した、あの十字架の人間的姿において顕わである。苦痛のあまりにであろう、人間的に、「神よ、私を見捨てられたのですか」と十字架上のイエスは弱音をはきもした。人間としての最期を生きつつ、克己し超越して生命以上のものとなったのである。
6-5. ひとの尊厳は、自律自由にその特性がある
神や王の尊厳は、その支配が見事だという讃美の称号である。その尊厳は、それらの外・下位に位置する被支配のものからする、見事な制御・支配という讃美であり、尊厳が通用するのは、その支配される国民、信者に限定される。だが、ひとの尊厳の場合は、その在り様が少し異なる。ひとの尊厳は、その制御・支配下の自然からみての卓越・至高であるが、その自然は、自身の外の自然世界であり、かつ自己自身のうちにあるものでもある。自身の自然的な心身を自身の理性が巧みに扱い、制御して、尊厳を実現している。自己の内の自然を自己が支配・制御するという在り方が、ひとの尊厳のもとにはある。また、外的自然・環境を巧みに支配する見事さについても、その自然自身が尊厳の讃美をしてくれるのではない。それに尊厳の勲章を与えるのは、人自身である。自画自賛としての尊厳となる。
神は、ときに自己原因(causa sui)と特徴づけられるが、それは、おそらく、「子は母が作った。その母は神が作った」と教えられた子供が「では神は誰が作ったのか」と素朴に問うたことへの回答だったであろう。自分で自分を作ったのだと。自己充足、自足である。ひとも、そういう生き方をする。未来に目的をたてて、それへと自己を実現していく。自身の観念的に作りだした未来に導かれて、その未来にと自己を自身で実在化し、自己実現していく。その未来の自分は、自分が作り出すのである。その点では、神の自己原因と同じで、人は、他から作られ動かされる他律の存在ではなく、自分で自分を律して自律的に自己を作り上げていく存在になる。ただし、ひとの土台となるものは自然的なものであり、これは、絶対神とちがい、自身が自己原因的に創造するものではない。その点では、ひとは、有限であり、自己のそとのものに依存し他律的に支配されている。だが、この自己に外的な土台をうまく取り扱い、外的自然を巧みに理性の狡知をもって制御し、さらに自己自身の自然の本能・衝動を強い意志をもって抑止して、これらを合理的に支配して自律的であろうと努力する。そのたゆまぬ自律の努力をもって、ひとの尊厳は現実化する。自身の理性意志の望むようにと制御・支配し、その自然の主となって人の尊厳は実現されていく。
自身の内外の自然を自身の理性が見事に支配する人間の尊厳であるが、自然的には、本来、人間は、弱小の存在である。自然の巨大な破壊力の前には、無力である。そういう大きな自然の前に無力な存在でありつつも、この自然を、その理性の狡知をもって制御し自由にしている。環境世界を自身の律法のもとに従え、自律的にこれを制御・支配して行こうと奮闘しつつある。さらに自己内自然の衝動・本能は強力であるが、ひとは、これを超越してその理性を貫徹していく。食や性の衝動がどんなに強い自然であっても、ひとは、必要ならば(それを満たすと殺害されると分かった場合など、日頃の甘えを捨てて)、まちがいなく理性意志の通りに自律を実行できる。絶対神は、自身以外のものから律されることがない、他律になりようがない絶対的な自律であるが、ひとの場合、強大な自然に圧倒されて、しばしばそれに屈服し被支配に、他律に陥る。他律に、非尊厳になりがちなところで、ひとは、自身の理性をもってその自然のくびきから逃れ、自身と自然を自律的に支配しようとつとめる。自然的他律との葛藤の中で自律の尊厳を堅持しているのが人である。
6-5-1.
苦痛の忍耐は、各自が自分の世界で行う
人の尊厳に特徴的なこととして、自然的他律を超越しての自律が見出されるが、この尊厳の自律の中核に苦痛とその忍耐の在り方をいうことができる。そとから忍耐が強制されるのなら、他律的だが、ひとの忍耐は、自己内の苦痛を対象とし、これを自身の意志において忍耐するのであり、自分(苦痛)を自分(意志)で律する勝義における自律である。苦痛に耐えるという時の苦痛は、どこまでも自分の苦痛である。苦痛に敗けるのは、そとにあるものにではなく、自分のうちの自然としての苦痛に自分の意志が負けるのであり、自己内自然としての苦痛に制され、苦痛の回避衝動の自然に支配され他律となって、自己は尊厳を維持できなかったということになる。その逆であれば、自分の生み出した苦痛を自分(理性意志)が制御・支配して忍耐を貫くということで自己内自然を巧みに支配・制御し自律をもって、おのれの尊厳は堅持される。自画自賛という言葉があるが、この苦痛忍耐の場合は、いうなら自痛自忍である。
痛みの原因である損傷は、多く外からくる。これは自身ではどうしようもないことで他律である。だが、そこに生じる苦痛は、自己内に生じるものであり、自身が産出したものである。それこそを、ひとは、忍耐の対象とする。自痛に自忍する。他人・外物によって他律的になる損傷であるが、それを耐えるのではない。忍耐は、各自が各自にふさわしいものとして自身のうちに作り出す苦痛を対象とするのであり、自分の苦痛から逃げず耐え続けるかぎり、他者の腕力には負けても、その苦痛では負けないでおれる。忍耐は自身の意志を発揮してなるが、その律する対象も自分であり、根本からしての自律的営為である。そとの強者から被る損傷は弱ければ防ぎようがないが、うちに生じる苦痛は、自身のもとにあり、その気になれば、外的には絶命するような事態になっても、拷問に耐え抜く者がそうであるように、自身の苦痛に耐え続けて負けることなく、自律の尊厳を堅持することが可能である。
ひとは、外的なものを内で捉え直して、この自己内のものを対象にした営為とすることが多い。外的に見出す音とか光の世界も実はそうである。外にあるのは、空気の振動であるが、これを音として内に読み替えていく。光(の諸振動)もうちに取り込んで色にしてこれを捉えていく。外的世界を自身のうちに固有の表象にと作りなして、これと取り組む。色や音からなる世界でも、かなり、自己の産出したものを自己が律していくことになる。しかし、色や音の世界は、根本的には外的な実在物に関わった営為となる。それに対して、苦痛の場合、それを忍耐するのは、外的な損傷ではなく、どこまでも主観内の苦痛である。他律的な損傷があっても、痛くないなら、無視して、忍耐など無用である。自身のうちに展開する自然としての苦痛こそが問題となり、これを自己の理性が自律的に制御するのが人の忍耐である。苦痛からは自然衝動のもとでは逃走する。その苦痛を、逃げず甘受しようという意志の自律的忍耐は、人間のみが有する卓越した尊厳の営為である。
6-5-2. 束縛からの自由
神や王の尊厳とちがい、ひとは、自然のしがらみのうちに存在し、その自然に打ち負かされた状態においては非尊厳である。それが尊厳となるには、この自然的な非尊厳のしがらみ、被支配から抜け出していることがなくてはならない。そういう自然的なものの束縛から自由になることが求められる。
ひとは、忍耐において、自然的束縛から己を自由にしている。つらい忍耐は、自己内の苦痛、回避・逃走の衝動(束縛)からなる苦痛を、制御し反自然的に甘受する。苦痛という束縛から自身を律して自由になることができる。それができるぐらいだから、快楽に魅了される自然状態を拒否して、この束縛から自由になることも当然できる。自然の快不快のしがらみ・束縛から自己を解放して、自由になりうる。この自然を支配・制御することをもって尊厳を保つ。
ひとの世を苦界ということがある。苦しみが人生にはつきまとう。だが、同時に、これを超克できるのが人である。苦痛が外的損傷による場合は、他律的で、これの束縛を逃れることのできないことも多々あろう。だが、苦界でいう苦しみの原因は、思いが阻害されてなるもので、その思い、端的には我欲を変えるならば、苦しみ自体も操作できる。つまり、我欲をなくすれば、苦しみも持たないで済む。我欲からの束縛は、これが自己内にある限り、自身において、これを制御し絶って、これから自由になることができる。当然、その苦痛自体の生滅をここでは自身で行える。一層、自己内での制御・支配が、自律が高度に行われ得ることとなる。自己を原因として苦しみが生起しているのであれば、それを根本のところから変えて、原因(我欲の束縛)を絶って結果(苦の束縛)を絶つということにもっていく。束縛からの自由・自律は、ここではラディカルとなる。
ひとは、自然の中に実在するものとして、この世界の因果自然の束縛のうちにある。生まれてから死ぬまで、因果自然のうちに自身を置くことでは束縛されつづけている。だが、同時に、ひとは、そこに目的論的な生き方をすることで、その因果自然の上に自身の展開をし、この自然の束縛を越えて、束縛から自由になる。理性の狡知のもと、自然法則を利用して、これにしたがいその奴隷となることで、主となることができる。引力の法則、因果からはひとも逃れられない。だが、これを巧みに使うことで、引力にさからって、それから自由になって、空にと舞い上がることができる。自然に縛られ、因果自然にしたがうことで、これから自由になる。因果必然の自然の鎖につながれた奴隷としてありつつ、この鎖を利用して、これに束縛されつつ、その束縛を超越した自由の別世界を構築していく。
6-5-3.
選択の自由
自律とは、他律の反対で、他に制御・支配されず、他から束縛されることを排除して、自分で自らを制御・支配することである。この自律のうちでは、自分がその時の価値判断をもって、好きなようにするということになる。可能な選択肢のうちから、自由に選ぶ、選択の自由である。
選択の自由のもとでは、「そこのお菓子類、好きなように、自由にしていいよ」と、食べようと放置しておこうと自由で、好き勝手にでき、気ままに取捨選択できる。ほかから見て奇怪で愚かしい選択だとしても、他律的に命じられることのない自律においては勝手であって、他人にとやかく言われることはないのである。パターナリズム的に、おせっかいを焼きたくなるとしても、自律、自由なのであれば、ほっておいてくれということになる。外から見ると、愚かな選択をしていて、悪・反価値を選択していると批判されるとしても、これを無視して、自分で好きなようにできるのが自由というものである。おそらく、自身では好ましいものを選択しているつもりであろうが、そとからは、より優れたものがあるのに劣等なものを選んでいると歯がゆくなる。だが、自由、自律ということでは、その劣等の選択が自由の証となることである。
ときには、選択の自由において、自身でも、その選択がまずいことを承知していることもある。自身のうちの快不快の自然に敗けて、その自然に流れる方向での選択をすることもある。それでも、やはり、自由は自由である。自分で自律的にそう選択したのである。自由意志で、理性においてはよくないことと承知しつつ、その自然的衝動を選んでこれに身を任せる。もちろん、自分で選んだ悪であるから、自分でその責任は負うことになる。尊厳の自律において、非尊厳の営為を選択したのである。だいたいが、日頃は、自身の理性の大枠のうちではあるが、快不快の自然に身を任せる。おおまかな選択として、自然に任せる。自身の自然的欲求・衝動も、これを理性的に制御することが繰り返されると、おのずからに理性的な枠組みのうちで動くことになるから、自然体で、理性的自律が実現されることになる。食欲は、社会の規範にかなったものにと習慣づけられていて、放置していても規範のうちで働くようになっている。好き嫌いの選択の自由を保ちつつ、尊厳のある食生活が行われている。一々に意志が顔を出していたのでは、理性は休まる暇もないし、熟慮する余裕もなくなるであろう。自然に任せてうまくいくのが日常であるから、自然の快不快の支配・制御下にあって好きなようにして、選択の自由うちで、ことは順調に進む。
6-5-3-1.
自由の乱用-悪への自由
悪いことをするとき、注意されると「なにをしようと自由だろ、ほっといてくれ」ということがある。好きなことのできるのが自由ということであり、堕落であろうと自由だと居直る。なににも制限・束縛されないのが自由ということであれば、確かに悪の選択も自由ではある。悪と周囲からは見るとしても、当人は、価値あるものの選択をしているつもりのこともある。もちろん、これを批判する側からいうと、その自由は、身勝手、放恣で、場合によっては自然衝動の奴隷に野獣にと堕落しているにすぎないということになる。
束縛というと法律がまず念頭に浮かぶ。その法律が禁じて束縛していること以外は、好きなように自由にということである。法はそれを守らなないと社会とその秩序が成り立たない最低限の束縛で、通常は意識することもなく守っている最低限の規範である(例えば殺人とか盗みをしないこと)。その最低限が守られているなら、それ以外は咎め束縛するものはない、法律的には自由ということである。他者に迷惑をかけ社会的生の健全な維持を不可能にするような好き勝手な行為については、当の社会において協同的に生きる以上は、許されない。そういう好き勝手の自由は、犯罪・悪として制限・禁止される。それは、自由の乱用となり、禁止されるべきものとなる。だが、それ以外は、周囲の者には悪と思えるものであっても、選択できるのが自由というものであろう。
道徳的世界では、法で束縛するものを含めて、人間として社会的に反価値と見なされるものを選択するのは、すべて悪である。よりよいもの、より価値あるものを選ぶのが善である。この視座からいうと、法には触れないとしても悪となるものは多い。酒もたばこも、法は許すとしても道徳的には好ましいものではなく、悪と見なされる。だが、一般的には周囲に大きな害悪をもたらすものではないので、すきなように、自由にということになる。軽い悪への自由である。性的な放縦になると、家庭を壊したりして社会の秩序を大きく傷つけることになるから、古い時代ほど大きな悪とされ、不倫など死罪が普通であった。昨今は、法的には自由で許容されるとしても、秩序を壊し、家庭や人間関係に大きな否定的影響をもたらすものとして、悪(への自由)として糾弾の対象となる。売春・買春等の性的逸脱についても、当人たちは自由だと言うことであろう。だが、現代社会は、性を売り物にする以外に生きていけなかった貧困の社会ではない。人の尊厳を踏みにじることの許される時代ではない。買春も売春も、人間の尊厳を基本においた現代の性規範(一夫一婦制)を逸脱した性犯罪である。自身を痛めつけたり利己的性衝動に身を任せて、自身とひとの尊厳を踏みにじった、相互を唾棄すべき手段に貶める鬼畜の行為である。自由は好き勝手なものであっても尊重されねばならないが、自他と社会を傷つける性的逸脱等の悪しき自由は、自由の乱用として強く戒められなくてはならない。
6-5-3-2.
自由は、他を排して「自」らに「由」る
多義的に用いられる自由であるが、日本での「自由」は、この漢字の「自らに由(よ)る」ということを陰に陽に意識したものとなっている。自由、自らに由るとは、「理由」が理に由り、理に則ったものであるように、自身に則ることで、「自律」、自らが自らを律することである。その自らという自己が何であるかで、相当に異なった自由の在り方となる。かつ、他からの強制(支配、制御)、他に由ること(他律)を排してということで、その排すべき束縛の内容によって異なる自由となる。自由は、束縛に注目するのか、自身に注目するのか等で多義的なものとなる。
その自己が、利己の我欲であるならば、周囲の反対を、おせっかいを排除した自由となる。子は親の束縛から解放されて自由を感じることが多い。個我として全体に対立した自己ならば、ときに国家や共同体に対立し、国家の規制・法律などが束縛となり、その束縛からの解放が自由となる。規制・束縛する側から見れば、ときに身勝手な悪への自由ともなろう。
自己・自我主体は、個我にとどまるものではない。自己の同一性を個我からそとに広げて大きな我をもつのも日々である。自分たちの地域を、国が規制して束縛していることに反対してその束縛からの自由を求めることもある。階級社会では、自身の属する階級を自己とした自由となる。支配階級の支配の自由は、被支配階級には、強制・束縛となり、そこからの解放が自由の目指すものとなる。その束縛が言論とか表現になって、言論の自由、表現の自由等となった。自国にと拡大した自己として、国際的な問題について自由を求めることもある。植民地という束縛(他律)からの解放の自由といったものになる。それらの裏には、自分たちの手で、自分たちの規範・律を通していこうという、自律の自由も踏まえることでもある。
その自分が、個我の欲求主体ではなく、理性、普遍的な意志であれば、その万人に同じ普遍的で客観的な理性意志の立法において、この自らの普遍的な理性的な律によって動く自律が自由となる。それは、他の外的束縛から脱した自分の理性意志の自律の自由であり、意志目的への積極的な自由となる。この理性意志は、自己内の自然衝動、利己の欲求を相手にした場合は、自然・利己の束縛から自由、利己を制御し律する自律の自由になる。普遍性をもった自己の崇高な目的をめざし、個でなく類的存在としての尊厳をもった自由となる。人が尊厳をもった主体であるのは、普遍的客観的で合理的な(偏狭な個我を離れた良心・良識の)理性人格においてであろうから、人の自由の根源は、その理性的自己に由る自律の自由ということになろう。
6-5-4.
支配する自由
自由は、しばしば、被支配階級の者たちが支配され束縛されている中で、この束縛から解放されて自由になることとして言われてきた。支配する者の自由は、被支配者たちのもとでは、あまり問題にならなかった。だが、ひとの尊厳のあり様としての、自然の卓越した支配という点からは、自然環境を征服・支配すること、あるいはひとが自己内の自然をうまく支配・制御することが問題となる。その面から自由も見られるべきこととなろう。元来、自由は、一方では消極的には束縛からの「~からの」自由(freedom from)であるが、他方、積極的には、好きなものを実現する「~への」自由(freedom to)であり、その好きなものへの支配権をもっていることでもある。神や王の尊厳は、支配する自由のもとにあった。庶民においても、「手元のお金を自由にできる」とは、好きなように使えるということであり、そのお金については自身が支配する権利をもっているということである。自由は、支配の自由でもある。自由の核をなす自律は、自身が自身を律して支配するということである。自由は、この方面からいうと、能力というものにもなる。「自由にできる」「自由になる」とは、それを支配していて思うがままに使えることとして、その自由を有する人は、その能力保持者ということになる。
ひとの尊厳のあり様としての自律では、自己内外の自然を自身の理性意志をもって動かす自由をいう。それは、この自然を自身が支配するということである。苦痛の自然は回避衝動をもっており、苦痛になるものからは逃げ出そうとする。その自然をひとは、制御して、これから逃げないで苦痛を甘受するという忍耐を行う。苦痛の自然を抑止してこれを支配するのである。支配の自由をもつことで、忍耐が可能となる。もちろん、好きなようにできるということであり、場合によっては、忍耐を放棄して苦痛回避衝動を放置することも自由である。どちらの選択もできるという自然への支配である。環境についても、これを制御・支配して自由にしている。だが、それは、恣意的になって、これを破壊するのも自由に行えることではあり、悪の選択の自由があって、そこでの営為は、自然環境の破壊ということになるかも知れない。破壊するというおぞましい支配である。それも支配の自由のうちにあることではある。
この支配の自由は、その支配下の対象について、支配する者の思いを通すところに言われる。その支配は、制御することだが、支配と制御は区別もされる。制御(コントロール)では、その対象の動きを踏まえこれに従いつつこれを利用し、制御する者の意図するようにと制限し御してリードする。これに対して支配は、対象の動きに合わせてリードするような対象への配慮はなくてもよい。一方的に強い制して、支配する者の意図・恣意をその対象に押し付ける。対象を自身の求めるものへと強制する。制御では、それも含むが広く、対象の動きを、それ自身の一定の秩序・法にしたがいながら、これを自身の目指す方向へともっていく。ここでの自由は制御する自由であるが、真に自由がそこで通ることが見えるのは、支配者の恣意すらも通るということであろうから、その自由は、制御の自由であるより、支配の自由と言っておく方がよいであろう。支配では、端的に支配者の恣意を押し付けて、無理をもごり押しして従わせる。支配するものの自由がストレートに現れるのは、無理をも押し通して強制するところにであり、その自由は、支配の自由ということになろう。
6-5-4-1.
支配される自由
支配され奴隷(不自由)になることも、逃走せず潔くそうなることに自らが身を任せるのであれば、自らの選択する自由となろう。それは、支配される自由であろう。束縛を脱し好きなように支配する自由からいうと、自己否定する自由、自由を否定する自由、不自由の自由になる。自然必然の法則にしたがう自由は、必然性による支配を自由に選択するのである。でまかせの偶然に任せるという選択であれば、偶然の支配に任せる自由となる。これらは、自身の自由において、支配され束縛されることを自由(自らに由って選択)にしている、支配される自由、束縛される自由、自由否定の自由であろう。
好きなようにという自由は、これに従う以外ないという必然性とは反対だが、必然性に素直にしたがうことでこそ、目的とする好きなものは実現可能となり、自由となることがある。自由に空を飛べるのは、自然法則の必然性をしっかりと踏まえこれに従って可能になることである。必然性を発見してこれに支配されることを選んでの自由である。理性は、そこでは、それに従わないでもいい自由にあって、これに従う自由を選ぶ。必然性に貫かれた自然法則に支配される自由をとるのである(自由を実現するには、必然性(法則という束縛)を踏まえ合理的なものを前提にしなくてはならない。その場合は、自由があって必然性を手段にするのだが、ここでいうのは、必然性を取るのか無視するのかの、選択の自由である)。あるいは、社会に生きる場合、秩序をもってするから、自律の律は、社会秩序になる。好き勝手ではなく、律をもっての自律であり、その律は、しばしば外から来る。理性的自己の支配だが、その中身は、社会的秩序であれば、そとにあるもので、そとの律を理性が受け取って自身に適用するのである。それは、すすんで自身がその律=法に支配されることであり、支配される自由のもとにあるということができよう。近代的個我として自由に生きている者から見ると、この現代社会において封建的に生きる者は、封建的な外的秩序に、自発的に自らが従っているものとして、忠義などの時代錯誤の封建道徳、奴隷道徳のもとに、支配される自由(自由否定の自由)のもとにあると言えよう。かつ、これを批判する自身は、現代の民主主義国家の固有の秩序に従いつつ生きているものとして、民主主義に支配され束縛された自由にあると自覚することになろうか。
全体のために、個が自らに自らを犠牲にし手段にすることがある。この個我には自己否定になるが、それが全体のうちでの自己のあるべき事態であるのなら、自律的に自らに自身を全体の支配下に置く。その自律は、支配される自由になっているといえる。無政府主義者は、民主国家であっても国家による個人支配であり、支配は無用と、国家(政府)の消滅を主張し、全体の支配を否定して個我の自由を求める。民主主義国家の成員は、その国家に支配されることを自らに選択しているのであり、支配される自由を行使しているのである。
6-5-4-2.
負担となる自由―自由からの逃走
支配(束縛)される自由は、(束縛から解放されるものとしての)自由とは矛盾したものになる。だが、支配(束縛)される事態を自身の意志で選択することとしては、その自由(意志)と支配(個我の束縛)の位階が異なるので、相いれない矛盾とはならない。民主国家の成員は多くが自身で国家支配を承認し自らの意志でそれの支配・束縛を受け入れている。一つの集団において、各人が一々に全体の制御を考え統一的な見解をつくって共同支配していくのは、自由・自律を実現するのには一番であるが、その集団の人数やその営為の頻度によっては、煩雑で面倒なこととなってしまう。村落での寄合なら、全員が寄合って、一々に相談しあいながら、自律・自治を高度に実現できるが、大人数になると、基本的な事柄は全員の総和での自己決定で行うとしても、些事になれば、その集団の代表にゆだねることになろう。その代表の制御・支配を受け入れることがより効率的なものとなるから、被支配(束縛)を自分たちが選択することとなる。支配されることを自発的に自由に選ぶ。
重大事について、自身が自律的に決定していくことは大切であるが、それは、自身の選んだこととして、ことの起因が自身にあるというになれば、結婚とか移住で時にあるように、後々の結果まで自分がその責任をもたねばならなくなる。そうしなくては自律の自由は守れないのだとしても、以後の展開が思わしくないことになっていけば、自由は自身の両肩に乗った重みとして耐えがたいものにもなっていく。あるいは、自由に好きなようにと言われても、複雑な事柄については、何をどうしてよいのか分からず戸惑い、右往左往するだけになるようなことも生じる。卓越した考えに賛同し、代理・代表に任せる支配される自由にとどまれば穏やかだが、ときに根本的に自律的営為を回避するような事態にもなっていく。つまり、単に支配される自由にとどまるのではなく、自由を否定する支配になって、支配されるだけの不自由に陥ることになる。占い師に頼ったり、おみくじを引いて、自己決定の重圧を回避する。あるいは、宗教に頼れば、人生万般について自己決定を回避して教祖(神)の命令にしたがうことで自由を放棄して何も考え悩むことなく、奴隷の落着きを得ることともなる(神の奴隷になることも、自身が選ぶこととしては、(信教の)自由のもとにある)。E.フロムは、独裁制への熱狂も、衣服などの日常生活での流行も、自由からの逃走だという。自治という集団の自由の事柄になると、煩雑な手続きを踏んでも合意形成がならず停滞・混乱に終始することも生じる。自由に各人が全体の在り様を選択していくのをやめて自由から逃走し、独裁者に、流行に身を任せて、自由を窒息させる支配を(自由に)選ぶことにもなる。
自由は、束縛からの解放としては、安堵できる事態になることであるが、自身が積極的に実現していく自律の自由は、ことを自分で決定して実行していく必要があるので、その負担・重責には、耐えがたくなることもしばしばである。集団の自律・自治となると、その手続きは煩雑になり、大人数になるほどに決定すること自体が困難になってもいく。自由の負担・重みを背負うことを否定して、それから逃走して他律となる宗教とか独裁に身を任すようなことに、自棄的否定的な意味での支配される自由、自己否定的自由、奴隷の不自由を結果しかねない状態ともなる。
6-5-5. ひとの尊厳にふさわしい自律の自由
尊厳を有するものは、至高で絶対的に自由であるが、それは、その根本において他からの束縛を受けたり、他に依存するようなものではないということである。他に束縛され不自由でこれに非自立の状態では、その完全性には欠けることとなる。絶対神の絶対性は、完全な自律・自由で、それは、自己原因(causa sui)と捉えられた。外に原因をもっておれば、これに依存し束縛されているのである。絶対的であるには、相対の対を絶ち、他律を排して自律でなくてはならない。ひとの尊厳も、その自律の自由をもって捉えられる。外的自然も内的自然も自身の支配し律するものにしよう、それらを自らに由るものにしようと、自由・自律をもって生きようと努めている。自然超越の自律の姿は尊厳そのものである。絶対神は、ひとが自身の至高・理想とするものを投影したものと見てよかろうが、それは、自己原因的に絶対的な自律存在とされる。ひとは、そういう自律の理想(神)にと自身を近づけようとする。
尊厳を有する人間は、内外の自然による支配を脱して自然を超越し、自然からの束縛を脱し、逆にそれを支配する。だが、単に支配するだけでは、強引で無理やりなものとなりかねない。尊厳は、至高の支配でなくてはならない。適切に合理的に卓越した制御・支配が行われねばならない。それには、秩序をもって、事象のもつ法則に適った制御をしていくことが必要である。自律は、自身が律して支配するのだが、それには、法にしたがっていくことが必要で、法を熟知し、法に適った制御にならねばならない。外的自然にせよ人倫にせよそこに存在している法を周知して、ひとは、これを自らの法・律とし万象を整然と支配・制御し、至高の存在となり、卓越した自由・自律を実現することができている。
その自律における律・法は、理性が見出し構築するものである。合理的に英知を動員しての自律的な営為である。各人各様に生きる人間であるが、その各自のうちにおいて言語(概念)を手段として普遍的な理性をもって存在する。ひとは、かけがえのない個として存在するが、理性をもち類の自覚をもって生きる存在であり、その理性は自身のうちで個を超越した良心・良識をもって類的に普遍的に働いている。が、各人の狭い知見のうちでは、その理性も誤りに陥ることがあり、その得た知見は、偏見であったり、妄想・虚妄でしかないこともある。時代の共同幻想、イドラにはみんながとらえられていることで、冷静な理性的な自律のもとにあっても、愚かしい事態になることが生じる。それらをできるだけ排除していく必要がある。真に卓越して自律的であるには、その理性が常に批判的な視座を持ちつつ働くことであろう。自己を批判する目をもって深慮するなら、誤りに陥ることは防げないとしても、より早くそれに気づけ、修正が常に効くこととなって、自律は、誤ったものになることを少なくできる。自己批判であるが、よりよく誤りを避けるためには、他者の批判に耳を傾けることである。自分の眼の中のごみは大きくても見えないが、ひとの眼の中のごみは小さなものでも見える。虚妄(神)に生きる宗教人ですら、他宗批判では、「そんな鬼神は存在しない、邪宗だ」と真実を語れる。
6-5-5-1. 自由は、必然性と反対だが・・
自由は、自らに由ってということで、他からの束縛を拒否する。束縛からの解放を自由とする。この点では、自由は必然性と対立したものと捉えられる。必然的に展開するものにおいては、その必然性に拘束・束縛され、自分の好き勝手の自由は不可能なことになる。だが、その必然的な束縛を前提にし利用してその上に自分の好きなものを、目的とするものを実現することが可能なのであれば、この目的、自由の実現には、その必然性に束縛されつつ進むことが必要となる。
ひとは、自然を利用して自分たちの目的とするものを実現していく。自然法則の必然的展開を精確にとらえて、これを手段に利用して、自らに由る目的・自由を実現する。自然の法則に忠実に従うということは、この自然の奴隷になることである。だが、それは、自分たちの目的を実現するための手段であって、その自然の奴隷に埋没して終わるのではない。自然必然性を利用して、これを土台・手段とし、これを超越して自由にし、その上に自分たちの自由に描く目的を実現する。空を飛ぶことは、引力の必然性のもとで直接にはできない。この引力の奴隷になりこれに束縛・拘束されつつ、英知をもってこれを超越する方法を見出し、バルーンや翼をつけて、人は、引力をふまえつつ空に飛び上がることを可能にした。必然性をふまえつつ、これを巧みに扱い、自身の思うようにと、これを自由にする。この自由は、法則などの必然を自分の目的へ至る手段として巧みに利用して、それを束縛にとどめず、自らの好きな方向へと向けて、束縛を超えて必然(引力)を自分のためにと自由にするのである。その上で、描いた目的へと進めて、その所期の自由を実現する。引力から直接自由になろうと二階から飛び出すことも可能だが、それでは、自然の奴隷止まりで、直ちに引力にとらえられ落下して、飛行するという自由は拒否され、必然即不自由を結果する。だが、その法則に従い、これを踏まえ手段にしつつ、落下傘とか気球をもって飛び出せば、引力の必然をわがものに自由にして、空中を飛ぶという自由は実現される。
ひとは、無機物、動物的生命からなっていて、これらに束縛されている。これの必然的な法則を破棄して自由をということはできない。だが、それらの法則を踏まえてこれを手段に利用すれば、無機物や動物の営為にはない、これを超越し自由に利用した営為が、人間的社会的な自由の営為が可能になる。人間世界は、無機物、動物を土台にし、これをわがものにして、自分たちの思うものを実現するための手段とし、これを自由にする。束縛されているのは、手段においてであって、人の描く目的は、その手段を土台にしてその上にそびえる新規の自由として可能になる。束縛する自然を、手なずけ、柵の中に閉じ込めて、これをひとは自由自在に扱い、その上で、自由に設定した目的を実現していく。
6-5-5-2. 自律は、律の束縛を踏まえた自立・独立の自由
自律は、律・法に従い、これに束縛されて不自由面をもつが、他の律に由らず自身の律に由っていて、他を頼まず自立し独立して自由である。自律の律が、社会における法や規則、あるいは理性(良心・良識等)によった規範ということであれば、自らに由るとしても、そういう律に従うことは、個我からいうと束縛が前面に出てきて、自由の反対、不自由と感じられることがあろう。自律は自由ではなく、自縛であり不自由だと。律するものは、外から律されるのは勿論、自分がそうするのだとしても、ひとをそれに束縛する。拘束し自由を奪うもので、その限りでは不自由となる。
社会の法とか規則という律に自発的に従う自律は、そとからの強制・束縛を自身が先走って自制しているだけで、これに拘束を感じるのであれば、そこには束縛・不自由が前面に出てくる。しかし、その規則の束縛を踏まえることで、ことがスムースになり、自身の求める自由を実現する手段になるのだとすると、大いにこれを前提にして、これに縛られ従って、その上に、求める好きなものを自由に実現していくこととなろう。人間は、無機物質、動物的生命をもって成り立っており、それらの必然性に固く縛られているが、だからといって不自由をかこつことはなかろう。その法則・必然性を踏まえてそれを必須の土台・手段にし、これを自由に扱う。さらに、その上に、社会的な規律・秩序をもって、これをおのれの律と踏まえ、各自の目的とするものを自由に描き、ひとは、尊厳を持った自律的な人間世界を実現していく。
中高の校則など、自分たちの律として、自律的に受け止めているが、しばしば束縛自体で自由とは反対のものとして現れる。だが、盗み・殺人は許されないというような律は、社会、個人の安寧のためには必須の最低の律となる。これがないと、穏やかな安定した生活はできない。それを相互に自らの律として守ることで、その束縛を自身も受け入れ、その束縛のうえに自由な生活を作り上げている。殺人などを禁じる国法は、束縛ではあるが、校則などとちがって束縛として意識することはまずない。束縛と感じることがないということは、それは、より高次の生のための大切な支え・守りになっているということであろう。束縛ではあるが必要な基礎となる律であり、自由な営為の大前提として、束縛ではなく支え・保護をなすものである。その束縛を保護の柵・防護壁と受け止めて(有刺鉄線の柵は、狼には不自由・束縛だが、羊には、自由の防壁となる)、その上に可能になる新規の自由な世界を展開する。
自律の律、規則・法は、理性的なものとして自己の理性が担う。この理性は、自己内の自然感性がその律に従わなければこれを束縛し強制もする。自身の感性、個我にとっては、理性的な自律は、しばしば拘束・束縛ということになる。自律は、それこそが自立・独立の自由として、ひとの卓越した尊厳の営為であるが、個我の気まま、好き勝手の自由からいうと、しばしば不自由・強制となる。
6-5-5-3. 自由にともなう責任の度合いは、一定しない
自由は、自らに由る営為であり、自分が進めなければ、自分の決断・営為に由らなければ、ことは結果しない。結果は、自分が生み出したものということで、それが大きな成果であれば、自身を誇ることになり、ものによってはそれへの権利の主張となる。逆に否定的なものを生じたのであれば、その結果には、自分に責任があることとなる。ときに、その自由を満たして否定的なものを結果した者は、その重大な否定的結果に重い責任を感じてしまうことになる。自由は、過去から種々の束縛を受けるが、未来の結果にも束縛される。損害が生じるのなら、それを償う義務があると自身で思う。自由の営為にためらいを生じる。あるいは、騙されたのだとしても、自分で自由に選んだことであれば、自らの被った損害を前に自己嫌悪してしまう。これが他からの押し付けだったら、その他者に責任を負わせたり、そうできなくても、自分を責めることはないが、自分に由るものとしての自由には、自分に原因があるのであり、重い責任がともなう。
だが、ときに、選択の結果がどうなるかは不分明のことがある。自由な選択ではあるが、自分に由るのは、その選択だけであり、結果は、また別ということである。その結果が否定的なものであっても、それは、自由に自分に由ってなったのではなく、その否定的結果をもたらしたものは、自身には未知の原因に由るのであれば、自律自由の形式をとっていても、内実は他律だったのであり、その結果への責任は、抱かずに済む。が、自分がその他律の実現するきっかけをつくったのであるから、若干は、責任めいたものを感じるかも知れない。こうなるはずと自由に選択したのだとしても、ときには、その結果が選択したときの思いの通りにはならないこともある。思いがけないことになってしまう。この場合は、自由といっても、自分に由る通りには結果しなかったのであり、自分に由る自由は実現していないという思いがある。自身の自由にならなかったのであるから、責任を感じることは少なくて済む。
アリやハチと違い、ひとは、個別主体に発する活動をすることが多く、自らに由るという自由が大切となるが、その自由を尊ぶ社会で、この自由が逆に重い足かせになることもある。自由主義社会は、各自が各自の能力をもって、好きなことをして生きていけるのであれば、優れた制度である。だが、自分の自由によるということは、国家社会からの規制・束縛がないということは、選ぶ対象があるときには、好きな対象を選べるというありがたいものとなるけれども、選べるものがない場合も生じる。どんな労働でも好きなように自由にといっても、どんな就職口も自分の前にはないということも生じる。なにも選べない自由となってしまう。仕事をしなくても自由だといっても、恵まれた家族のもとでなら、仕事をせず好きな趣味に生きればよいが、生活が自分にかかっている場合、そうはいかない。失業者となり、生きていくこと自体が困難なことになる。自由が、自分を動けなくしている鎖・束縛にと変じてしまう。
6-5-6. 苦痛も自由にする
本論考は、苦痛(とその忍耐)をテーマにしているが、この苦痛も、当然、人の自由のもとにある。この世を苦界と称することがあるように、苦痛は、ひとにとって根源的な拘束であり、この苦からの解放、この束縛からの自由は、それこそが安楽・極楽世界そのものと見なされ、切実な願いとされてきた。
苦痛から自由になるということでまず想起するのは、苦痛という自然の束縛から解放されることであろう。苦痛を回避し、苦痛から逃げる自由である。が、この苦痛からの逃走は、自然の衝動であり、これを自由といっていいものかどうか。その自然反応は、逃走衝動に束縛・拘束されたものだから、その点では不自由ということでもある。この苦痛回避の自由で、普通思う事態は、それではなく、苦痛から逃げられないように拘束されているのに対して、これをはずしてその拘束から自由になることであろう(蒸し暑いのに部屋に閉じ込められている束縛に対して、戸や窓を開けることで、その閉じ込めの束縛から自由になり、苦痛(蒸し暑さ)回避の衝動を満たすといった場合)。なお、ここでは自然の状態において苦痛から逃げない自由もあるというべきであろうか。微小の苦痛刺激故に無視して、他の営為との兼ね合いで、苦痛でも逃げない自由をもっていると。これなら間違いなく苦痛からの自由である。苦痛から独立して苦痛を好きなようにする、自由にするのである(若干暑さが苦痛になるが、窓を開けると騒音がひどいので、暑さの苦痛を受け入れておこう、暑さの回避もその受け入れも選択でき自由だと)。
人は、その自然において動物であるが、それを超越して人間として存在する。動物は、快苦に従って動かされるが、ひとは、この動物的営為を超越して、反自然的に、快を遠ざけ、苦痛を甘受することができる。ひとは、強烈な回避衝動のある苦痛を超越しその拘束から解放されて自由となることができる存在である。忍耐という、人間に固有の自由がそれである。苦痛から逃げたのでは得られないものを、この苦痛を耐え忍んで獲得する自由である。苦痛を甘受するという忍耐を手段にすることで、苦痛(回避)から自立し独立して自由になって、自然的には得られない価値あるものを実現していく。苦痛(回避)という束縛・鎖に縛られていることからの解放の自由である。苦痛から逃げずこれから自立しこれを自由にして、これを手段・土台にして、その上に自由に描いた目的を実現していく。ただし、ひとの感性は、ほかの動物と同じ自然にあって、苦痛甘受では、七転八倒の苦悶となる。感性からいえば、その忍耐での苦痛からの自由は、厳しい自由・自律である。
苦痛の忍耐は、辛い自由・自律であるが、さらに、これを超越して独立する自由をも人はもつことができる。苦界からの脱出という自由である。苦痛をものともせず苦痛から独立した自由自律は、単に独立するだけでなく、ものともしないことをさらに進めて、ものとして存在しなくする自由をもつ。つまり、苦痛をその根源から絶つ。仏教では、苦の根源は我欲(煩悩)にあるとして、我欲をなくして苦しみ自体をなくする。我欲から解放されて自由となり、そのことで苦痛を無化して、その束縛を根絶やしにする自由である。それは忍耐の辛い自由とちがい安楽となる自由であろう。安楽世界は、苦界から超越した別世界である。苦界から独立・超越し自律・自由のもと、ひとは、安楽国へと飛翔する。
6-5-7. ひとの自律、理性の尊厳は、神のそれと異なる
神や王の尊厳は、その絶対的な支配力にある。その威力にひれ伏して被支配者は尊厳を帰す。絶対的であって、これには些細な異議すらも許されない。神の子イエスの受胎についてマリアは、なんの口答えもせず、天使のことばを受け入れ、自分の子供ではないとショックなことを知った夫ヨセフも従順に神のなすがままを受け入れた。だが、洗礼者ヨハネ(福音書では特別視され、イエスの兄とも目される聖者)の受胎について父ザカリアは、これを伝える天使に向かって、自分たち夫婦は高齢でと賢しらな小理屈をもって口答えした。ザカリアは、そのため、ヨハネが生まれるまで、口がきけなくなるという罰をうけた。有無を言わさない絶対的な、自分のみに由る自由な支配が神の支配であり、その尊厳である。
だが、ひとの尊厳は、自律的理性の尊厳で、理性に支配される感性的自然も、自分である。ひとは、非尊厳をうちにもった尊厳の存在である。理性による支配では、自分に納得のいくものでないと、その支配を実行することはできないであろう。感性的な自分にも納得のいく支配が理性による支配となる。苦痛を身体に我慢させるとき、理性意志は、自身の身体が耐えうる限度をしっかりと踏まえて、身体の納得できるぎりぎりの苦痛を耐えさせる。あるいは、身体の方から、もうこれ以上は無理だとその理性意志に異議を申し立てることも行う。ひとの自律は、その支配される自己と支配する自己の対話のもとに展開される。理性が思いを通すとき、自身の感性には、しばしば辛い不自由を甘受させるのであり、ひとの尊厳には、厳しさ辛さが伴う。尊厳の王も神も、むち打ち支配するのは、自分の外の被支配者であり、気楽に鞭を使う。だが、ひとは、自分で自分を鞭うつのであり、辛い尊厳になることがしばしばである。
理性による自然の支配は、外的自然についても行われるが、そこでも、支配を受ける自然にとって、納得のいくものであることが求められる。神は、自然をでたらめに支配して造り間違えたからといっても反省などしない。ノアの箱舟にのせたもの以外は、溺死させ(魚類はどうなったのか、気になるところである)絶滅させるというような乱暴なことを平気でする。神は、何にも捉われず好きなようにする絶対的な自由をもつ。だが、ひとの支配では、そうはいかない。自然を改造するとしても、しっかりと改造される側の納得のいくものでなくてはならない。それを可能にするのが理性による合法則的な支配である。水を支配するときには、引力の法則を踏まえて、下流に向かって水を導いて支配するといった、自然自身が自ずからに従う法則をもって支配する。その尊厳は、神の絶対的な有無を言わさない支配ではなく(イエス(神)は、水の本然など無視してこれをぶどう酒に変えたり、湖上に風が吹くのを、「吹くな!」と言ってやめさせえた)、支配するものにしたがった合理的な支配である。自然に逆らうことなく、一旦はこれの支配に服して自然の奴隷になる。そのうえで理性の狡知をもって巧みに自然をリードして、支配を実現する。理性はその目的実現のために自然を手段とするが、その展開において、自然は100%自然法則にしたがって自ずからに動いている。自然を強引に捻じ曲げるような、有無を言わさない神のやり方はとらない。神や王の支配では、支配対象について無知であってもよいが、人間による自然支配は、英知がなくてはかなわない。
6-5-7-1.
人の尊厳のもとでは、自由とともに平等が求められる
神や王の尊厳は、唯一の支配者のそれとして絶対的なものであり、何の束縛もなく自由である。だが、人の尊厳は、類としての尊厳であり、無数の個体における尊厳である。個体として無数の尊厳が並びたち、尊厳同士のかかわりが生じて、そこでは、いずれも同等の人間的尊厳を有する至高の存在として、差別なく対等・平等となることが求められる。人の尊厳は、自由とともに平等が特徴となる。個体として尊厳をもつ人が、自由に好きなように周囲の者を手段にするとしても、他者も同じ尊厳の人間である。その同等・平等の在り方が冒されると相手が感じるようであれば、その自由は制限されるべきこととなる。その自由を通すことは、他者を単なる道具・手段とし尊厳を冒し平等を崩すような事態にもなりかねない。ひとの尊厳が喧伝される場は、自由とともに、しばしば人権蹂躙などの差別の禁止、万人平等に至高の扱いを求めてのものとなる。
人類は、万人、尊厳において同じであるとともに、もともと自然的にも対等であり、万人を同じ存在とみなして自然的にも平等をもってかかわることになる。ネズミと象であれば、平等を求めあうことはないであろうが、ひとは、諸種の能力において、象と鼠のような違いはない。違いがないから、無理やりに差異を見つけようと競争・闘争もする(スポーツ競技など同じことを繰り返して飽きないのは、同じ団栗の背比べだからである)。亀と兎は、違いがはっきりしているので、競争はしない。ひとは、心身の自然的能力において同等、平等である。その上に、さらに、類的に、普遍的な理性を中心とした人格において万人同一の良心や良識をもって成り立っており、各個体が同一の尊厳を有した人間(人類)である。人同士の交わり・扱いでは、自然的にも人間的にも、根深く、平等にということになる。
かつ、根源的に自律自由の尊厳を各個別主体が有しているので、個別的に異なる自由を行使し、時には他者を自由に手段(犠牲)にすることも生じて、尊厳の平等とは相いれないことともなる。自由は、平等と対立することになる。平等を冒さない限りでの自由となり、自由をなるべく侵さない限りでの平等ということが、多くの場合の妥協点となる。尊厳をもった命が危ういといったところでは、軽症者は後回しにし平等は停止され、各個の自由もそこでは一時ストップとなる。自由と平等は、臨機に、できるだけ自他の尊厳を冒すことがないようにと、行使される。
6-5-7-2.
自由は、無秩序になり悲惨の放置にもなる
自由は、好きなようにということでは、理性的な律・法の束縛(自律)のもとに働くとは限らない。束縛から解放された自由ということでは、あらゆる束縛から逃れた自由ともなる。未成年がその束縛から解放されて成人になってすることは、まずは、よからぬ物事になることが多い。未成年は、たばこや飲酒は禁止されているから、成人しての自由を享受するとき、(一生禁じられてもよい)酒やたばこに手をだして悪すらの自由を実感しようとする。
封建道徳から自由になったものは、封建的束縛から解放されるのであるが、そのままだと、身勝手に好き放題をすることになる。無秩序に陥ることになる。子供たちが集団で旅行などするとき、自由時間になると、なにをしてもよいということで、無秩序なものとなることが生じる。現代社会は、情報産業が中心になって既存の営為とは大いに異なることをはじめている。この情報社会は、規制の仕方も明確にならず好き勝手をやることが多いが、その無秩序状態では、多くが参加するほどにうまく動いてはいかなくなる。情報の核をなす「コピー権」は、自然状態では、コピーしてもなにも減るものはなく自由にということだが、それでは、特許などと同じく、これを開発していこうという意欲をそぐ。そのため、自然的にはいくらでもコピーできるという自然権を法的に一定期間禁止するような不自然な秩序「コピー禁止権」が登場するようなことになる(コピーの禁止権は作為的でありえて、ディズニーあたりの意向を汲んで米国は、著作権の有効期間をどんどん延長している。マイクロソフトやアップルは、パソコンの基本ソフトウェアについてコピー(禁止)権を行使しているが、リナックスは、はじめから自然権としてのコピー権を尊重してこれを自由に使用しあい改善を重ねている)。
自由にすることが、無秩序になるだけでなく、社会的に有害な作用をすることになると、これは、自由の乱用として、適切に自由を制限して対処すべきことになる。この自由社会は、束縛をできるだけ少なくして、各人が自由に好きなことをし、その特技などを生かしていける社会である。だが、好きなようにということは、好きに選べる状態ならば、よいが、選べるもののない場合がある。職業選択の自由は、選べるものがあってのことであるが、その選ぶものが見つからないときには、現実には、この自由は、選択しない、できない自由になってしまう。仕事をしないと生きていけないこの社会では、選べる仕事がないということは、社会生活をする基礎を奪われることにほかならず、悲惨な貧困の生活を強いられることになる。
尊厳のために意志自由を守るとしても、自由実現の場がなくなっている状況では、自由は絵に描いた餅にとどまる。自由は、放任・放置と同語になってしまう。仕事しなくては生活ができない者には、自由は、放置として、悲惨なものとなる。さらに、自由は、搾取の自由も含む。だが、支配階級がその自由をほしいままにするということは、働く者には、反自由を強制されることにつながっていく。ひとがその尊厳を維持して等しく生きるためには、自由の乱用を防ぎ、自由の適宜な制限が必要となる。
6-6. 未来を創造する、人の尊厳
ひとは、おのれを自らに創造する。ひとの尊厳の自律は、未来方向にと展開される。未来の自己のために現在の自己を生きる。いま法学部生であるのは、将来、未来に法曹界で活躍する者になるためである。法学部生の現在をいつまでも続けるつもりはない。未来の検事であるために、それを希望の星として、未来にと今の法学部生を生きる。未来が空しいものに変貌すれば、生きる意味を失い現在を空しいものとしてしまう。未来が、その希望が現在を輝かせる。かりに未来・希望が閉ざされた場合は、絶望ということになり、現在をも暗黒にして、ひとの生動性を奪う。絶望は死に到る病いだといわれることになる。希望を、未来に価値ある状態を実現するには、多くの場合、現在を手段・犠牲にし、苦難に耐え忍ぶことが必要となる。ひとにのみ可能な苦痛の甘受という犠牲をもって、それを手段にして、目的実現へと飛躍していく。自律的に自身を自身で創造して未来に生きるのは、人にのみ可能な卓越した、尊厳の営為である。尊厳というと神が挙がるが、いわゆる神と人のそれのちがいは、神には未来はないが(神は時間のうちにはなく、時間自体を超越した存在と想定され、永遠と形容される)、ひとは、現在を超越して未来において理想の自己を実現する、希望の時間を有していることである。本当の自分、真実の自分は、いまはない、未来に存在する。永遠の神は、しばしば「有るSein」と特徴づけられるが、人は、それから言えば、無から有へと「成るWerden」ものと特徴づけうるであろう。
自然は、因果必然のもとに展開している。ひともその因果のうちに存在する。だが、ひとは、さらに、その上に目的論をもって未来に生きる。動物とひとの決定的なちがいである。動物は、美味しそうな匂いに引かれて餌箱のエサを食べに行く。動物は未来にではなく現在のみに生きる。だが、動物や神とちがい、ひとは、未来に生きる。ひとは、子供でも、匂いに引かれてではなく、夕食時と分かれば、夕食は肉のはずだったとこれを目的に描き、遊びをやめて家に帰って食卓に向かう。ひとは、なにをするにつけても、動物とちがって、つねにその先(未来)に目的を設定して動く。冷蔵庫のとびらを開けて、「さて何を取ろうとしたんだったか」と目的が分からなくなったら、先(未来)のない神に近づいているのだと知らねばならない。
未来の希望に生きる、未来の自己を創造していく自律的な存在の人間は、現在を手段にしてそれの犠牲の上に、先へと進んでいく。輝かしい目的実現の未来であるが、それが可能になるのは、現在を犠牲にすることをもってである。その点では、この動物的でもある現在は、手段・犠牲となって、あえて苦痛から逃げずこれを甘受して、苦悩することになるのでもある。忍耐をもっての苦の世界、苦界を踏まえて後にはじめて極楽世界は実現される。もちろん、希望の未来の輝きは現在を明るく照らし、現在の苦は、充実感とでき、動物的な快不快に関しては、この自然世界を支配する存在として恵まれた状態にあってのことである。
6-6-1. 目的論的営為は、因果自然を踏まえ超越する
尊厳の存在である人間は、自然・動物を超越して未来にと、目的論的に生きる。だが、その目的論的営為は、自然の因果を否定するのではない。因果的展開を、やはりする。ただ、その前に、求める最終結果を目的として意識において自由に描きだし、この描いた自由の最終結果からその因果系列を原因からその原因へと観念的にさかのぼっていく。因果を逆方向に、結果から原因にと遡源する観念的歩みをまず踏まえる。その後、その見つけた端緒となる原因を手元において、因果連鎖を実在過程のうちで、未来方向に順に追っていくことで、求める結果を得るのである。阿弥陀くじでいえば、100%当たりを確保できるのが目的論的なやり方である。まず、当たりくじという目的(=未来の結果)をみて、そこから端緒のくじ選択のところまで観念的に結果から原因へと遡源する。ジグザグをたどって突端の選択肢(始発の原因)へと至る。そして、その当たりから遡源した選択肢を実際に選び、そこから逆方向に当たりへと進む。まちがいなく、当たり、目的実現となる。
因果論を超越した目的論に生きるひとであるが、そのためには、現在から目的に到るまでの因果連鎖をもった手段を選んで、その因果にしたがった実在的な道を引き受けねばならない。手段は、目的達成のための犠牲になるものである。端的には、苦痛が存在する茨の道を避けることなく、あえて、苦痛をも引き受けて、自然的には回避するはずのものを避けることなく、ひきうけて、これを犠牲の手段として、目的へと至ることである。その手段は常に苦痛になるわけではないが、苦痛、艱難になることが含まれる。その苦難を避けていたのでは先には進めない。目的実現のためには、その苦難を、忍耐を引き受けることがなくてはならない。快苦の快にしたがい苦を避けて自然は進む。この自然を超越し快の自然的進行をとらず、目的にとって不可避となるものにおいては、超自然的に苦痛をも甘受するということである。人の自然超越の営為は、常に苦痛ではないにしても、苦痛を回避することなく突進することにある。検事になりたいものは、動物好きでこれの世話に一日をつぶしていたのではなりたたない。司法試験を突破する必要があるから法学の茨の道を選択しなくてはならない。気が進まないとしても、日々、法律の知識を身に着けていくことがなくてはならない。つまり、苦痛甘受の忍耐をもって、一歩一歩とその目的実現へと近づいていく。自己実現としてのひとの歩みは、その未来の目的を高く掲げて、自然的には回避されるような苦難の道を引き受け、これを忍び耐えつつ進められるのである。
6-6-2. 苦痛を手段とする目的論
人の目的論の特徴は、目的に到るための手段としての苦痛の甘受、忍耐にある。苦痛甘受は、自然的には生じない人の営為である。自然的には苦痛は回避される。自然超越の目的論のうちで、さらに自然超越の苦痛甘受をもってするのが、ひとのみの有する忍耐の営為ということになる。
忍耐するとき、まず、目的をもってはじめる。町の全体を見るために山の頂上に立つという目的を未来方向に描く。即山頂に立てるものではないから、山に登るという手段をとらねばならない。その手段は、苦労なことで、その苦痛を避けたいものは、目的の山頂にたつことをあきらめる。山頂に立つのは、苦痛をいとわず受け入れる忍耐を有した者ということになる。苦痛を回避することなく、これを手段・犠牲にし踏み台にして、目的が実現可能になるのである。ひとも、自然的には、苦痛からは逃げたい、これを回避したいとの思いをもつ。苦痛を好むことはない。もし、受け入れたいのだとしたら、それは、そのひとには、苦痛ではなく、快となっているのである。苦痛である限りは、嫌悪し回避したいものになる。苦痛甘受は、それ自体が目的になることはない。苦痛の受け入れ、忍耐は、目的実現にとってのやむを得ない手段・犠牲である。
未来に生きるのがひとである。動物は、この現在に生きるが、ひとは、現在を犠牲にして未来に生きる。真実の自己は、未来にある。現在の自己を踏み台にして、苦痛を中心にした自然的には回避したいものを、手段・犠牲としてひきうけるが、それは、未来に目的とするものを実現するためである。現在の苦痛甘受という超自然的営為、自己犠牲をもって、ひとは未来に生きる。こういう、自然を超越する忍耐をもっての目的論的展開は、人のみの有する卓越した営為で、それは、自然を超越した人間の尊厳の端的となる。
もし、その目的実現が不可能と分かったら、忍耐し苦痛を甘受していても、その犠牲の意味がなくなるから、その苦痛甘受は中止することになる。あるいは、かりにほかの、苦痛でないか、より苦痛の小さい方法で目的が達成できるのであれば、それに乗り換える。もとの苦痛の甘受は中止する。目的のための手段として不可避ということであってのみ、苦痛甘受はとられる。が、ときに、忍耐では、その目的を見失うことがある。あるいは、愚かしい結果しかもたらさないのに、そのことが自覚できず、忍耐することがある。過労死するまで苦痛を甘受するものもいる。苦痛に耐えていると、疲労困憊し正常な意識の働かなくなることがある。手段でしかないことも忘れてしまうことがある。だが、まっとうな意識をもってする忍耐では、目的への道程をしっかりと見定め、その苦痛甘受は必要最小限にして、不可避の犠牲のみを受け入れる。
6-6-2-1. 快では、目的にまでいかないことがある
目的論における手段は、しばしば、苦痛の甘受になるが、目的への手段の展開は苦痛でなくてはならないという訳ではない。手段もまた快であってよい。というか、苦痛でなく、快の手段があるのなら、快の方を選べばよいのである。栄養摂取を目的とするその手段の食事は、多くの場合、快である。快で目的が実現できるのなら、わざわざ苦痛をとることはないが、苦痛を手段にするときは、かならず、目的に進む。手段に停滞することはない。苦痛は、甘受したいものではないから、できるだけはやく、苦痛が少なく済むようにと工夫して、目的実現が最短で可能になるようにと工夫していく。だが、快楽が手段の位置にある場合は、快は、ひとを魅了し、これにとどまることを誘うから、目的に向かわないことが生じる。食の場合、昨今、美味を優先し、栄養摂取の目的はないがしろにすることがめずらしくない。
ただし、快がひきつける力をもつのは、感性的世界に限定される。精神的世界では、快は些事である。経済的価値や文化的価値は、これを得ることが快でなくても、それらの価値自体がひきつけていく。だが、苦痛の場合は、感性世界で鞭として効果が大きいのみでなく、精神世界でも、そうである。精神的苦痛の不安とか喪失感は、その苦痛が耐えがたく、これを解消して楽になろうと、死に物狂いでその否定的感情の克服にと自身を追い立てていく。苦痛は、生の下位層上位層を問わずあらゆる場面で、ひとを先へと駆り立ててやまない。
ではあるが、手段が苦痛の場合も、その苦痛故に目的へ進まないことが生じる。苦痛は回避したいから、これから逃げようと種々口実をもうけて、手段の苦痛の営為を回避しかかる。この点からは、手段が快の方がスムースになる。目的実現への意思が強い場合、その手段が快でありうるのなら、快の手段をとる方がうまくいくであろう。しかし、大きな価値をもつ目的となるものは自然的に快適に展開するものではない。達成することが困難であるから達成が大きな価値をもつのであり(同じ炭素の塊の石炭よりダイヤモンドが高価なのはそのためであろう)、苦難の手段となるのが普通である。その苦難を回避したのでは先には進まない。辛苦を引き受けねばならず、その辛苦は、できるだけ小さく済ませたいから、すみやかに目的へと突進することになる。苦痛が、先へと駆り立てる鞭となる。
忍耐は、苦痛を手段とするから、徹底して目的論的である。苦痛甘受は、それ自体は目的にならず、その先の目的を描いてのみ、有意義なものとして受け入れられる。忍耐、苦痛甘受は、その苦痛の犠牲をもって目的を一層価値あるものと実感させ、目的へと駆り立てる。忍耐(苦痛甘受)は、できれば避けたいもので、早く目的を実現して終わらせたいものになり、早々に目的へと進めていくことになる。快楽は、しばしば目的を喪失して現在をむさぼり、苦痛甘受の忍耐は、厳しく、目的論的に未来に生きる。
6-6-3. 犠牲・自己否定に徹する現在
人は、神のような不動で永遠のものではなく、自律的な生成のもとにあり、自身の未来を自身で創造するものである。未来に自己実現していくために、現在の自己を燃やし尽くし否定して犠牲にする。創造的な自己否定である。裁判官を未来に描く者は、現在の法学部生を永続させることはない。現在を創造的に否定して卒業していかねばならない。現在の自己を犠牲にするとは、現在を快に停滞させることなく犠牲の苦痛を手段として受け入れ、未来のために忍耐するということである。
忍耐は、苦痛を甘受して、これを手段にする。それは、現在の生が犠牲となることである。それを犠牲にするのは、その犠牲に見合う価値あるものがそのことで可能になるからである。犠牲それ自体は、生の破壊である。それは単に破壊されるだけのこともあるが、犠牲をもって他のものが利益を得る場合もあれば、自身が利益を得る場合もある。自身が忍耐して犠牲を払うのは、自己の破壊・損傷をもって、自身あるいは拡大した自分たちがその犠牲にみあう価値あるものを得て充実することができるからである。苦難・犠牲は、人生を悲観的にしがちだが、忍耐では、楽天的である。その苦難の忍耐をするほどにその先の目的・価値獲得が一層確かなものとなるのだからである。
自己犠牲は、よりよいものをもたらすための創造的破壊である。ひとは、未来に自己実現していこうとする。そこへ至るには、今の自己を犠牲にし否定することが求められる。その否定を手段にすることで、犠牲を積み上げて、未来の目的へと到達することが可能になる。自己否定という手段をもって、その否定を通した格闘の末にそれの転生・否定がなる。否定の否定をもって高度の自己回復・自己実現がなる。その自己の生の犠牲・破壊を引き受けるのは、この自己否定を通してのみ、より卓越した自己の生が獲得でき自己実現できるからである。忍耐するものは、その犠牲が価値あるものだと自覚するが、それは、未来の目的から見てそう確信する。目的を達成するという強い意思が、現在の苦難を支える。希望は、未来にあって、現在の苦難を照らしその苦難・犠牲に価値を与え、楽天的に、これを耐え抜くことを鼓舞する。仮にこれに賭けて犠牲のみで終わったとしても、その忍耐の犠牲は、未来のその尊い目的の途上にあったものとして、その犠牲の営為自体、尊い営為とみなされる。犠牲というと大仰に響くかも知れない。遊ぶ時間を犠牲にし美食を犠牲にして、勉強し質素な食にとどめるという程度のことも、犠牲である。もちろん、命がけの犠牲もある。
忍耐は、現在に生きるのではなく、未来に生きる。現在のみに生きるのなら忍耐は犠牲・苦痛のみである。苦痛を引き受けること自体が超自然の営為として尊厳の営為であるが、さらにそれは、因果自然を超えた未来の目的のためにという超自然の尊厳の人間的営為なのである。快には、未来はなくてよい。快楽にのめり込んでしまうと現在に停滞することになる。だが、苦痛、忍耐は、それ自身にとどまることをそのものが否定する。先へと、なんといっても現在の苦痛をなくしたいと、先へと進める。その先の未来のためにと、現在を手段に、犠牲・踏み台にし自己否定して忍耐は先へと進む。苦痛と忍耐は、現在の自己を犠牲にし手段にと燃やし尽くして、それ自身を乗り越え充実した未来へと進む。「死して成れ(Stirb
und Werde!)」である。犠牲(=死)は、尊厳の未来を生成・創造する営為として、尊厳の営為である。
6-6-3-1.
苦痛は、目的を価値豊かなものに限定していく
手段に苦痛を有する目的は、苦痛をもってしても、あえて引き受けたいものになる。そこに目的として設定されるものは、自己犠牲をもってしても引き受けるべき価値あるものに限定される。宗教でしばしば苦行をいうが、ことさらに難行苦行を自身が引き受けるのは、その目的となるものが至高の価値をもつと想定されているからである。苦行が単に暇つぶしで何も結果するものはないとはっきりしているのなら、だれも苦行などしないであろう。命がけの修行をするのは、その苦行をもってのみ、至高のものが、悟りとか卓越した境地が獲得できると確信するからであろう。
手段が快であった場合、そこに留まっていたくなることであろう。しかも、かりに目的とするものを実現するとしても、それが価値の低いものでも、あるいは、価値がないものでも、手段が快で楽しめたのなら、それでよいということになる。パチンコで、今日はよい台が当たったので、一儲けしようと半日かけて、結果は、うまくいかず、全部すったとしても、パチンコするという手段自体が楽しかったのであり、目指す目的の儲けはならなかったとしても、悔いることはなかろう。これに対して、手段となる過程が苦痛であり犠牲を払うものであったとすると、結果となるもの、目的は、それに見合ったものでなくてはならないであろう。犠牲となるものをお金に換算して一万円だったとすると、苦労してのその結果・目的となるものは、一万円では済まない。それなら、苦労することなく、はじめの一万円をそのままにしておけばよかったとなる。結果・目的はそれ以上でなくてはならない。それ以上の成果がなると確信しているからこそ、苦労の忍耐を引き受けたのである。
苦痛という、本来は回避すべきものを、わざわざに引き受けるのは、それによってなるものが、相当に価値の大きいものになるからであろう。わずかの価値が得られるだけであれば、おそらく、苦痛を引き受けることはしない。忍耐し始めるとき、その結果・目的を描いて、苦痛・犠牲を払わねば、それは獲得できないということを踏まえる。犠牲を払ってでも確保したいもののみが目的に選定される。そういう点において、忍耐と苦痛は、目的を高くに掲げるものになるということができる。
しかも、目的は確実にはやく手元に獲得したいことである。忍耐の展開は、もたもたしない。目的に引かれて、速やかなものとなる。かつ、その手段・過程は、苦痛の甘受である。苦痛は、できるだけはやく済ませたいから、その展開の遅延はさらに少なくなる。手段の過程が快なら、それを楽しみたいことになり、目的実現は、その過程自体が遅らせかねない。だが、苦痛の場合、目指すものは高い価値であるから着実に獲得できるようにしたいし、なんといっても、苦痛は少なくすませたいから、その展開、目的実現は、敏速で確実なものとなる。
6-6-4.
尊厳の個は、類・全体のための手段・犠牲になることをいとわない
ひとは、今の自分を越えて未来に生きるが、それとともに、この個我を超越した全体、類に生きるものでもある。理性的に生きることは、未来に目的を掲げてというのみでなく、個我を超越した全体、普遍を捉えて、その全体・普遍にと類的存在として生きることでもある。それは、個我を超えたものとして、しばしば個我の自然にはマイナスをもたらすものでもある。それでも、そのマイナス・苦痛を受け止めて、これを甘受し忍耐して全体のためにと生きる。極端な場合は、戦争で国家のために民族のために自己を文字通り犠牲にして命をささげてこれに尽くすということになる。未来に自己実現を見るように、個は、全体のうちに自己の実現を、充実を見る。家族は拡大した自己である。家族の喜びは、自身の喜びであり、家族の悲しみは、同時に自分の悲しみともなる。自国がそとから侵害されれば、我がこととして、悲しみ、怒りをもってする。スポーツの国際大会では、自国の勝利は自分の勝利となり、その敗北は、日頃は、国内では敵であった者の敗北でも、自身の敗北と感じることである。
個は、全体の有機的部分として生きるが、同時に、各自が全体でもある。個体として統一的自律的な全体をなしているというだけではなく、ひとは、類として、社会的存在としての全体に生きる。自己内在の理性、良心や良識は、類・全体・普遍そのものであって、個我・エゴに不利になるとしても、これに与しない。その理性においては、全体のために、個我自体を犠牲にすることを厭わない。自身の理性がその個我に犠牲を求めるのは、国家等の全体にと生きるためである。個我が手段になるのは、目的としての全体が、そして個我自身がよりよく生きるためである。現在、ウクライナの若者は、ロシアの侵略に対して、自らを犠牲にし、死して全体に生きるというひとの尊厳を、悲痛な思いをもって実現している(ただし、戦争は、理性をもっての理論闘争ではなく、武力で自分の主張を通すのであるから、理性の道理、正義が通るとはかぎらない。腕力がない場合は、正しくても、それの実現は容易ではない)。
未来の自己に生きるにしても、全体のために生きるにしても、この現在の個我としての自己を超越し、そこに生じる苦痛を甘受し忍耐することをもって、これを引き受けるのである。ひとは、各自が己の理性をもって、全体・目的を見極め、それを可能とする個の手段化、犠牲といったことを覚悟し、これを意志して、自己犠牲にと踏み出し、未来・全体(類)にと飛躍した生き方をする。ひとは、常に自覚的に動く。自身の理性の深慮遠謀をもって、かけがえのない個でありつつ全体・社会に生きる。かりに所属の社会が間違ったことをしていると思えば、それに反対し、あるべき全体のために声を上げることもする。現存の国家などを拒否し、唯一の自己・実存のために生きることもありうる。それでも、その実存のうちの理性は、ときの社会、その民族の言語・論理によって動いているのである。ひとは、常に類的全体的存在であり、類として生きることに自身の充実と安寧を感じる。
6-6-5.
未熟の現在に「使命」をもって、未来と全体にと生きる
真実の自己は未来にある。現在は、その未来への自己実現のためにある。未来の裁判官の夢が、現在の法学部生を作る。神の場合は、時間を超越した存在として、生成消滅をのがれて完結した永遠のものと想定される。だが、ひとの場合は、未来に真実の自己を描く。時間のもとで生成・創造の途上にあり、自身の未来に向けて自身のなすべきことを、しばしば使命とうけとめて、この使命の実現にとおのれを尽くす。使命は、自身のぎりぎりの高度の「課題」である。困難な課題ととりくみ、これを未来において解決・達成する。自身を尽くしての課題が使命であり、それは、自己を高度なものにと高めていく道である。その使命において、自身の有るべき当為・理想、自身の本来・本質が顕現してくる。
未来の自己に生きる使命は、同時に全体に生きるのでもある。使命は、全体・社会から自分に与えられた誇らしい課題であり役割である。使命は、その社会が自身を見込んで与えるものであり、それは、その社会を代表して取り組む自身にとり誇らしい仕事である。対外的な使命は、ミッション(使節)として、その社会全体の代表となって働くことである。使命に生きることは、その所属の全体にと自身を犠牲にして生きることである。その社会の一兵卒として自身を使命において犠牲にすることであるが、同時に、そのことにおいて、社会・全体そのものとなっているのが使命であろう。使命において個は全体に生き、おのれを尽くす。使命に生きることは、自身に困難なものであり、苦難の道となることであるが、自身の生きがいとなり充実した生をもたらす。使命に生きることができるなら、それこそ本望・本懐ということになる。
長い使命となると、死ぬまでそれに生きる必要があり、それの完成、到達は不可能なことになるかも知れない。自身が使命と思うものは、自身の能力ぎりぎりのものとなっていることも多い。使命つまり課題・宿題と位置付けられるものは、能力の限りをつくして自身にできるものである。使命は、そういう困難な課題であれば、途上に終わる可能性もある。自己実現は、未達成になるかも知れない。それでも、その使命に生きることは、全体と未来の自己のために犠牲となっての、自己実現の歩みに外ならず、おのれの最大限を尽くしてのことであれば、その途上の生きざま自体が尊く、ひとの尊厳の営為にふさわしいことである。
その尊厳をもった使命の称号を与えるのは、国家が戦士等として実際に与えることもあるが、しばしば自己自身である。周囲には、困難な使命の理解自体ができないことになるかも知れない。自身で自身に使命を与え自身が使命感を抱く。人は、類的存在であり、全体を内在している。使命という稀有の大仕事は、卓越した自身だけに課されたものであれば、周囲の理解を超えたものになる可能性もある。そういう使命は、自身のうちに秘めて、孤独に耐え、ときには非難に耐えてこれを遂行することになる。もちろん、それが個人的主観的な妄想である場合もある。周囲に迷惑なことを「本人は使命感をもってやっている、困ったもんだ」と批判されることになる。個と全体を見渡す理性の自己批判は欠かせない。
6-6-6.
自己変革のなかでの自同性の堅持
ひとは、未熟な自己を乗り越えて未来に豊かな自己を実現していく。だが、そのことでまるまる別物に変化していくのではない。自己の実現であり、より豊な自己に帰るのである。それは、今の自己についても、そうで、過去の未熟な自己が自己変身して現在の自己になっているはずである。つまりは、自己否定によって変身していくのではあるが、そのなかでは、本来的な自己は同一に保たれている。過去から現在へと同一性を堅持し、その現在から未来へと自己同一性を貫き、一貫した自己として生きている。自己変革・自己変身のなかで根源的な自己のその自同性は堅持している。変身のなかで不変の自己があり、個我の人格として魂をなしているものがある。その魂は、三つ子の魂として不変である。未来へと賭けていくが、その変身は、自己に帰ることとしての自己実現となる。未熟な、真実の自分になっていない現在から、未来へと真実の自己を実現していく、帰っていく。
ひとが自らの目的を描いて進んでいくところには、不変の自己、自己の同一性の保たれていることが必要である。全体を見渡し統御していく不変の人格・魂が存続していなくてはならない。苦痛を引き受けて目的まで進むとき、統御している自己を失ったらその目的自体があやうくなってしまう。せっかくの苦痛甘受・犠牲である。それが成果をあげるには、その忍耐の過程には、自己の同一性が保たれているのでなくてはならない。川の流れ(水)は常に変わるが、川自身は同一にとどまる。ひとの生成・自己創造も、同じ自己があって、自同性を保ちつつ、未来へと展開する。諸営為の入れ物、主体として同一を堅持するのであり、行為する意志発動の場として、その意思主体としては、不変にとどまりつづける。内外の作用をまとめて統括し、そこから諸営為を発する意思主体は、おのれを統率する統覚として自己同一にとどまる。それは、自身の(三つ子の)魂であり、人格である。
苦痛苦難が耐えがたく、自己を放棄してしまいたくなることもある。それが悲劇的な形で行われることがある。過去との自己同一性を放棄して自身から逃げ出す記憶喪失、健忘症となり、あるいは、別の人格へと逃避して多重人格となる。それらが、例外的であり病いと見なされるということは、通常は、ひとは、自身を同一に保った自同性を堅持しつつ未来に生きているということである。
未来のなお無である理想の自己へと想像力で、希望で、自己実現していくが、過去方向にも、自己を延長する。反省をもって記憶をもって自己の歩みを踏まえる。同じ自己、同じ人格として過去と未来に広がる。決定された変えられない過去である。そこに自己同一性を貫く。責任を負う。記憶の連続・整合性をもち、未来方向に、それにもとづいた未来を描く。時間のうちで、生きてきた時間を踏まえ、同一線上の未来の時間へと自己同一性を堅持しつつ、未来に生き自己実現していく。
6-6-6-1.
全体の中で固有の役割をもって自己同一性を堅持する
ひとは、時間のうちでの同一性とともに、空間的にも自同性を堅持する。過去から未来へと生きるとともに、それに生きている周辺の他者、全体のなかに生きる。使命をもち、社会的な役割を分担して、同一のかけがえのない人格として社会的な関わりをもつ。家族のなかで、例えば父としての役割を担って、自身の同定を行っている。いたずらで、父であることを否定して他人と扱われるようなことがあれば、自分は何者なのだろうと自身の存在が危うくなり崩壊していくように感じて、大いに戸惑うことであろう。痴呆症の進んだ老人は、逆に自身が自身では同定できなくなり、自分が分からなくなる。家庭において父親として扱われてもそれが理解できなくなり、自分が誰と同定できず、家族を見ても自分の家族として同定することができなくなる。自分の子供に「あなたはどなたでしたかね」と問うようなことになる。
ひとは、主観的には自身を世界・宇宙の中心におく。目は自身を見ることはできないが、自分の目を中心にして自分のそとへと無限に世界は広がっているとみている。唯一神がそうであるように、ひとは、各人が人間的(ホドロギー)空間の中心となり世界・宇宙の原点と自覚し、自身が消滅すれば世界全体も(主観的には)無化すると感じて、自身を宇宙全体にまさる、かけがえのない唯一の尊厳を有した者ととらえている。日頃の自身の生きる環境・社会は、拡大した自己として、無限に広がる時空間の原点・中心に位置づけられる。その自己の生きる社会において、かけがえのない自身は、全体をなす社会のなかの個との自覚をもって、託された使命・役割を担い、父とか会社員、あるいはニート等と自身を定位して、その自己同定を行っている。家族のうちでは、父として不変の役割に生きる。それが疑わしくなると自己を失うということにもなる。周囲がいたずらで、別人扱いしたら、自分は何者なのだろうと自己を見失い、どぎまぎするだろう。
自己の父としての同定は、周囲との相互作用のなかで維持されるのであり、変容もしていく。父は、ある日からは、お爺さんという役割主体にと変容するのでもある。ここでの自己同一性は、自身において日々培っているが、同時にそれは、全体から与えられた役割・使命としては、変動もする。変動しつつ、その変動のなかで変わらない自己を維持する。その人格、魂は、生れてからずっと変わらない唯一の実存としてあって、自同性を保ち続けている。が、それの保たれなくなることもある。その人格として生きることが困難になると、健忘症となり多重人格となって、それまでの人格・魂を放棄するようなことも生じる。あるいは、自己内で人格を支えそれのために動いていた自然・身体が老化というような変容をしてくると、同一の自身を支えることが困難になる。それは、自身の尊厳を保つことが困難になっていくことでもある。
6-6-6-2.
過去に責任をもち、自同性をたもつ
時間のなかに人間は生きる。未来にと生き自己の実現をはかる。自己同一性を高い一層充実したものとして実現する。この自己同一性は、同時に、過去方向にも妥当する。人は、過去の自分からの一貫したものをもって現在に生きる。過去の未熟な自分に比すれば現在はましな自分になっているのである。過去の自分は、未熟であった。その未熟さを克服した現在の自分である。
この自明の自己同一性を揺さぶるような話がある。「カチカチ山」の昔話のなかで、前山のうさぎは、狸に火傷を負わせて後山に逃げた。その傷を背負いながら狸がこれを抗議にいくと、「自分は後山のうさぎだ、前山のうさぎと何の関係がある」とうそぶいた。狸は、A=AとちがいA=非Aは、確かに問題だとも思わされた。なんとなく合点のいかないところがあったが、兎の形式論理の確実性に異をさしはさむことはできなかった。万物流転のヘラクレイトスの勉強でもしていたら、後山の兎の耳をひきちぎり、後日、兎が訴訟を起こした時には、「後山の狸と、いまの自分と何の関係がある、万物は流転する」と仕返しをしただろうが、哲学の授業はさぼっていたので、それを思いつくこともなく、また、兎と付き合いだし、泥舟に乗せられて死ぬことになった。自身の自同性に自信をもたず、他者の自同性を批判的に説得しなかったことが致命的となった。だが、兎は、自身においては、前山の自分と狸が、いまの後山の自分と狸になっていることを、その自己同一性を確信しつつそうしたことである。A=A、固定した自己同一性は抽象的には確実だが、A=非Aの動的自己否定的な同一性こそが具体的現実の真実なのである。
過去の自分を自分が問題にするのは、多く、否定的現在の原因としてである。うまくいった場合は、過去にさかのぼり反省しなくていい。反省は、過ちを反省するのであって、愚かしい現在の結果を招いた過去の原因を求めるのである。過去の失敗を反省して、その失敗を繰り返さないようにと、より高度な自己を未来にと実現していく。カチカチ山の狸は、火傷を負わされた時点で、その過去を反省しておれば、自分の犯した罪(婆殺し)の報復だったのだと自覚でき、泥舟で溺死させられることはなかったかも知れない。もちろん反省すれば自責の念にとらわれ、未来に向かってその償いを思い、狸は、「婆汁」を作ったことを後悔して、辛い思いを引き受けることになったであろう。
だれでも、過去の重い責任からは逃げたくなる。その責任を逃れる最悪の方法は、これを忘れて自分の記憶にすら残さないことである。自責の念に苦しむことも、なしにできる。過去に借金した自分は、捨ててしまって、別の自分になってしまいたいと思うこともあろう。自分を捨てることは、夜逃げでもすれば、一応は、可能である。お金を貸した方からいえば、その時点で、かれは蒸発して無化したのであり、逃げた先のかれは、過去の自分を捨てて無化して、以前とは無関係のまっさらの自分として新規に生きていくことであろう。外面的には自同性は、なくなる。しかし、自己の人格・魂は、自同性を堅持しており、外面的に別人にはなっても、不変である。最近、半世紀あまり警察の追求を逃れ続けて別人になっていた者が最期自身の本名を名乗って死ぬということがあった。かれは、自身の70年にわたる人生において、自同性をもったかけがえのない尊い実存であったことを、本名を明かすことで自他に納得させたかったのであろう。
逃げないで過去の責任を背負って苦労していくことは、過去の自分を現在の自分と同一で一貫したひとつの自分と自覚して生きることである。実存としての自分(魂)は、一生にわたってひとつであり、自同性を堅持しつづけている。そこに、尊厳をもった唯一の自己の人格・実存がある。過去に責任をもち、いまの未熟を踏まえつつ、かけがえのない自身の固有の使命を担って、未来に自己実現していこうとするところに、ひとのまっとうな生き方がある。
6-6-6-3.
自同性を支える苦痛
カチカチ山の狸が、兎に火傷の抗議に行ったのは、火傷を負った自身がいまも痛み続けて同じ自分であると前提してのことである。苦痛の持続は、過去の痛み始めた自分と、現在も痛む自身が持続していること、その自己同一性を強制的に維持する。できれば、別の自分になって痛みから解放されたいと思っても、その痛みの持続は自身を捨てて別のものになることを許さない。かつ、兎について、それがどこに逃げようと変身しようとも、火傷の責任を負うべき同一の兎であることを前提にして抗議もした。兎を追い続けることを可能にしたのは、同じ自分であり、同じ敵であると踏まえてのことで、それを支えたものは苦痛であった。
苦痛を被った者は、それを忘れない。のちになっても当時の自分が今の自分と同一であることをふまえて、その仕返しとか責任追及を現在の自分からすることである。いじめた者は、そのことを快としていたのなら、早々に忘れてしまうが、いじめられた者は、仕返しできなければ、おそらく永遠に覚えている。その子供の時の自分は大人になっている自分とは相当に異なる者になっているのだが、いじめの苦痛を今の自分の苦痛とし自同性を踏まえて仕返し等を考えることになる。いじめた方は、「お前にいじめられた!」と言われても、後山の兎ではないが、あの時の自分はもういない、記憶に残っていないことで、別人にいじめられたのではないか等と思うかも知れない。それでも、誠実な者ならば、自身がいじめたのかも知れないと責任を思い、子供のときの自分をいまにひきついで自同性を堅持して、「悪かった」と謝ることであろうし、思いがけず仕返しをされても、それほどに苦痛を味合わせたのかと、責任を感じ悔いることであろう。
快の場合は、自同性は、あまり気にしないであろう。快の享受は、その現在にすべてがあってこれを堪能しのめり込み魅了されるだけで、ことさらに過去とか未来等を考えることはなかろう。現世で快を享受できる者は、自身の過去世を振り返って、自分がどんな良いことをしたのだろうかと思うことはなかろう。それをするのは、させられるのは、現在の不幸に打ちひしがれている者である。苦痛・苦難は、自分の過去から背負わされているものを、しっかりと反省させ、自身の存在の何者であるかを自覚させ、未来に向けて未熟さを克服した、よりましな自分を実現していくようにと促していく。
苦痛から逃げずこれを甘受することで、一貫した自分・人格がたもて、自分が何者であるかが明確になる。苦痛は、過去の自己を現在にと連続させるが、それは過去の痛みは忘れられないということであるとともに、過去の責任を背負いつづけ逃げることなく、その苦しみを耐え続けて、現在と未来の自己を築くということでもある。過去と未来をふくめた一貫した自分を自分が支配するのであり、自律、自己支配の尊厳がそこに見られることになる。苦難から逃げず忍耐することによって、現在の犠牲をもって過去と未来の自分が生きるのである。その自律的営為は、人間にのみ可能な尊厳をもった生き方になる。
6-6-7. 各自が抱く自身の尊厳への意識
人間の尊厳は、今の時代、多くのひとがこれを自明のこととしている。奴隷扱い、物扱いされたら憤慨する。「自分は尊厳をもった人間だ」と抗議するであろう。非人間的扱いを受けない限りは、普通には尊厳をもって扱われる時代であり、日常生活において尊厳自体を意識することはあまりない。しかし、あえて、尊厳を有する人間であることを意識するとしたら、神の尊厳とか王の尊厳に似たものを思い、この世における卓越した特別の存在と感じることであろう。神の尊厳は、それが万物を超越して至高のもので、かけがえのない卓越した支配者であると想定するところにあろうが、ひとは万物の霊長として、それと似たものを自身に感じるのではないか。
小さな子供は、自身を至高で万能と主観的には思うようなところがある。それは、赤ちゃんのときから、そうであろう。泣けばなんでも通る無敵の存在扱いであるから、そう意識する。こどもは、普通、自身を王様・お妃様と思いながらこの世界にまずは生き始める。だが、やがて周囲との軋轢をもって、自身の至高・万能との思いは引き下げていく。それでも、どうかすると、大人でも、内心では、自身を神同等で世界の中心に位置する至高・卓越の存在と見なす傾向がある。神は、世界の主として世界の中心にいてこれを支配していると想定されているが、それと同一のことを大人でもひそかにうちでは思っていることがある。主観的には世界の原点は自分にあると感じている。ひとは感覚で世界を捉えるとき、つねにこの世界の原点を自分に置く。人間的(ホドロギー)空間は、自分を全空間の原点におく。客観的な地動説の現代であっても、主観的には、各個人が宇宙の中心にあって、自分を中心にして日が昇り月が沈むのである。主観的には、ひとは、絶対神の世界支配のように、各個が世界の中心に位置する卓越した至高の尊厳の存在であると感じることが可能な状態にある。
しかし、同じ人間が周囲にいて、同じく絶対者として振舞うから、相互は、結局は相対化されることになる。無敵の幼児同士がかかわりを持ち始めると、相互に無敵を否定しあうから、相互が制限を受けることになり(泣けば大人なら拝跪してくれるが、自分と同じ幼児は、そうはしてくれない)、絶対的な存在であることを客観的にはしだいに否定しなくてはならなくなる。客観的には、ひとは、物であり動物でもあるから、環境世界が物扱いし動物扱いすることも生じる。それと、主観的な至高の尊厳存在の思いとのギャップは大きい。そこで現実との折り合いをつける必要が生じる。人同士、つまり尊厳同士では、その絶対性を否定しあうことになり、唯我独尊の尊厳という見方はひきさげざるをえなくなる。結局は、みんなが同じく万物の霊長で尊厳をもつということに思い至る。ひとは、類として理性的な存在となっていて、自然に対して至高で卓越した支配者となっていること、各人、類的存在としてその理性を内在して自身の感性的自然を見事に制御していて、自分たち全員が尊厳なのだということに落ち着く。
6-6-7-1.
尊大になり、卑下しがちにもなる
尊厳は、比較を絶して至高の、卓越した支配者に見出される。神も王もそうであり、人も類として理性をもった至高の存在で、自然の卓越した支配者である。ただ、人間は、自然・動物を土台にした存在として、動物的自然のもつ性向をその尊厳において出してくることがある。動物は、群れるとき序列を大切にし、お互いにマウンティングする。他を押しのけて、より上位に立とうとする。ひとは、理性存在でありながら、同時にそういう動物的性向を強くもっている。諸種の能力の差はごくわずかであるにも関わらず、誤差にすぎないような差を強調して、マウンティングしたがって、上に立とうと尊大な振る舞いをすることが生じる。
宗教では、教祖は、信者みんなが拝跪するので尊厳の存在となるが、その内実は他の者と同等かそれ以下で、その低劣な動物的振る舞いを抑止する者がいなければ、しばしば尊大になる。意識としては、自身を神や王、現実世界の支配者に相当するものとしていく。仏教の新興宗教にオウム真理教というのがあったが、その教祖は、自分たちの組織を日本の中心において、側近たちを「大臣」と称していた。教祖自身は、自分は天皇であり、総理大臣と見なしていたのであろう。夢と現実を勘違いして国会に打って出て現実を知ったが、さらに妄想を深めて、自分たちを拒否する蒙昧の国民は戒めねばならないと猛毒のサリンをまいて極悪の大事件を引き起こした。これは、この宗教だけのことではない。キリスト教の祖のイエスは、信じる者たち内部では本気で、外部では揶揄して、ユダヤの王という扱いであった。イエスは、自身を神(の子)とまで自称した。これはイエスが特に尊大ということではない。許されるところでは皆、神を自称する。戦国時代最大の英雄、織田信長は、自身を神とした。諸大名をまつろわせただけでなく、比叡山を焼き討ちし一向宗を攻め滅ぼそうともした。その安土城の天守にいたる大手道の石段のあちこちに石仏などを使って踏みにじり、聖俗すべてを支配して自身を至高の神とした。この性向は特殊なものではなく万人がもっており、小さな家族の中でも、父親は、家長として尊厳を有して、そとではうだつがあがらず猫のようにおとなしいのに、うちでは、乱暴で尊大な虎となることが多かった。
ひとは、内にある野卑な動物的性向への抑止が効かなくなると、マウンティングして尊厳ではなく尊大になってしまうが、遠慮深い傾向の者は、謙虚にひきさがり自身のうちにある動物性をしっかりと制御し、うちに潜む破廉恥な欲望を嫌悪もする。その度がすぎると、過度に引き下がるようなことになる。自身の尊厳意識のうちで、自尊ではなく、自身に厳しく、厳めしく対処するようになり、自身を卑下するようなことにもなっていく。人による自然支配は、昨今環境破壊などで過酷な支配となっていて、とうてい尊厳の名には値しないと悲観して人類そのものを卑下するようなことになる。理性による感性の支配はならず、感性の快楽主義にかまけて人倫に悖るような逸脱が横行もしている。自他の情けない反理性的快楽主義的振る舞いに、自身を含めた現代人を卑下することになりがちである。尊厳は客観的な規定ではなく、尊厳と見なすという心構えによってなるのだから、尊厳の客観的条件(至高の理性的存在)を満たしている者でも、尊大な者からは物扱い動物扱いされることもある。人類は理性的自律によって生きる尊厳をもった存在だということに自信がもてず、逸脱を思いとどまっている自分ですら、その内心は夜叉であり、人類が尊厳などとは思い上がりも甚だしいとも思う。宗教の教祖は尊大になるが、その信者たちは、反対に、自分たちを神や教祖の僕と卑下することが多く、実際に教祖の奴隷となって周囲を不幸に巻き込みつつ一生を棒に振るような人も少なくない。尊大になり見せかけを大きく偽る者もあれば、その反対に、自分を小さく下賤に感じて自身そういうものだと卑下することにもなる。
6-6-7-2.
人の尊厳の成り立ち・有り方
尊厳は、優劣の順位でトップになるものが、二位以下のものへと向き直り、これを被支配者とし、比較を絶した唯一の至高の支配者となって、その卓越した支配を被支配者が、尊く厳かで見事と賛美するところに成り立つ(cf. 近藤良樹『人間の尊厳-尊厳は支配関係に由来する-(論文集)』広島大学図書館リポジトリ(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00020345))。外ではうだつの上がらない父親でも、うちでは至高で、二位以下に向き直って支配者となり、二位以下の家族を拝跪させて、尊厳の家長となっていた。神とか王は、至高で唯一の支配者として、被支配者をして拝跪させ、尊厳の称号をもって賛美させた。人間の尊厳も同様で、自然の卓越した支配者である、万物の霊長の人類が、その至高・卓越性をもって尊厳と見なされるのである。が、序列第二位の類人猿(被支配者)ですら、賛美する能力をもたないから、自画自賛となる。ひとの場合、さらに、理性的自己が感性的エゴを制御・支配するが、ここでは、神や王と同じ尊厳の在り方をする。個のうちの理性は、個にえこひいきせず普遍的に合理的に感性を支配する。エゴは、身勝手なことをしたいと思うが、理性は、その良心・良識をもって、これを厳しく厳かに制止する。エゴは、反省し自身の理性に、まつろい拝跪して、これに尊厳を帰す。
人間の尊厳で何より問題なのは、尊厳にと取り扱う側からする、人間の非尊厳な扱いである。至高の理性的存在であっても、これを無視して非尊厳の扱いをするのは、人類史では普通のことであった。非尊厳に生きているものがそうされるのなら、わからないでもないが、尊厳にふさわしく生きている者が動物扱い、奴隷扱いされたのである。神や王に対しては、その支配下にあるものは、おのずからにこれを尊厳扱いする。征服されてその支配下に入るのであり、その強大な支配者を畏れたてまつる。支配者に直面する場面になると、支配者に距離をとってひきさがり、伏し拝み拝跪する姿勢をとる。もちろん、その支配下から出ていけば、あるいは元々支配下にないものは、拝跪しないから、尊厳とみなすこともない。神の尊厳は、その信者のみがそうすることで、非信者は、尊厳を帰さない。万物の霊長の人間の尊厳は、この自然世界を支配する至高の存在として成り立つが、その被支配のものは、自然世界であり、巧みに支配するなら、自然は従順にひとに従う。だが、自然自体は、賛美して尊厳の称号を付与するだけの能力がないから、それを実際にするのは、人間自身である。同じ尊厳を有する人間同士が尊厳の扱いをしあうこととなる。本来的には、支配被支配関係にない同等の人間同士で尊厳を帰すことになるので、尊厳は、自然的には守られにくいこととなる。
神や王の尊厳は、守らないとその神や王からの強制・威嚇があって自ずと守らされた。だが、人間の尊厳の場合は、尊厳を帰す者も、帰される者も人間である。人間の尊厳が求められるのは、多くが弱者、人間社会での支配被支配関係(ここにはまた別に家長の尊厳とか、社長の尊厳等がある)のもとでいえば、被支配者たちである。力を有し支配する強者の人間的尊厳は、守らないと不利益を被ることになるから、おのずと皆が守る。だが、弱者の方は、守らなくても、威嚇するような力はないから、都合の悪いところでは無視される。したがって、意識して人間の尊厳扱いが求められるのは、被支配の弱者の方になる。つまりは、弱者の方を意識して尊厳扱いにしなくてはならないということで、神・王での尊厳関係とは逆になる。病人・老人・障碍者等の弱者も同じく、尊い至高の理性的存在であり、人間的尊厳を有する。尊厳を守らない場合、神や王のように、脅迫し拝跪へと強制できるのならいいが、弱者は強者に向かってそれはできない。弱者のために、強者を人間的尊厳の遵守へと、法(正義)をもって威嚇し強制することが必要となる。
6-6-7-2-1.
人間を具体的にどう尊厳扱いすべきなのか
ひとの尊厳の扱いは、具体的には、どのようにすべきなのであろうか。神や王を尊厳とするものは、その至高の威力の前に拝跪する。その尊厳あつかいの姿の代表は、五体投地である。まつろい拝跪して、攻撃用の手足を自身で束縛し無抵抗に徹する。人の尊厳は、自然の至高の理性的制御・支配になりたち、その拝跪する被支配者は、自然である。外的自然には拝跪するような表現能力がないから、人間が代行する。自画自賛である。さらに人の尊厳では、自己内自然の理性支配がある。個我の動物的自然感性は、自己内の至高の理性制御に従順に従う。この理性的な自律の在り方への尊厳は、感性には、尊いが厳しく厳めしいものでもあろう。
理性能力は万人に内在するものであり、理性的人間的類の尊厳は、万人に、各人に妥当する。その尊厳の人と人が関わりあうこととなる。尊厳の源をなす同じ理性的自律性を相互に尊重しあうこととなる。同じ人間的尊厳を分有していたとしても、そこでの強者の尊厳は、守らないとその強者からの威嚇があるからおのずと守られるが、弱者のそれは、放置していたのでは守られない可能性がある。人間の尊厳を社会全体として守るためには、法(正義)などの強制が必要となる。尊厳は、客観的な規定ではなく、至高のものを踏まえてこれを尊ぶ心構え・思い、価値づけをもってなる。その心構えをもたないところでは、尊厳は成り立たない。現に人間は、歴史の中では、弱者は特に、尊厳を持ったものとしては扱われず、物扱い、動物扱い、奴隷扱いであった。これを尊厳あつかいするとは、物あつかいせず、至高の理性的存在であると承知して同じ理性をもった者として対応し、尊び厳かにかかわることである。人もその死体は物になっているのだが、かつて尊厳の人間であったことを追想しつつ、尊び厳かに葬る。動物扱いも止めねばならない。理性的自律の存在として、その感性を自己制御する卓越した能力を有する存在であり、それを承認しあってかかわる姿勢をもつことである。奴隷扱いはつい最近まで多かった。これを止め、自律的自由の存在であることを踏まえて、自分たちの手段・道具とし犠牲を強いることを戒め、同じ至高の理性的自律の能力をもった存在として、犠牲を求める場合は、その自律意志の同意・納得をもって関わることが求められる。
理性存在の人は、類として尊厳をもつ。理性を分有する万人が同等に尊厳を分有する。尊厳を有するものとしての扱いをすべきなのは、万人に対してである。複数になれば、したがって、全員を同一の尊厳もった扱いにして、差別しないことである。男女、長幼、民族等での差異が見られるとしても、人間的な理性存在の尊厳にちがいはないのであり、同じように尊く厳かな扱いをする必要がある。そこで一人を選択しなくてはならないような場合は、えこひいきなく全員第一位の尊厳の表彰台の上に載せて選択をするべきである。母子のどちらかの命を優先すべきことになった場合、同じ尊厳を有したものとして、えこひいきなく同一に扱いつつ、その場での優先すべき価値の高い方を選択することであろう。それは、比較を絶した尊厳という心構え、絶対的との思いを括弧にいれ、事実上、尊厳の視座を離れて相対化し客観的にみて、優劣、優先順位をつけることである。
理性能力が現実的にうまく機能していない障碍者とか痴呆老人とか、まだ、そういう機能が萌芽でしかない胎児への関わりでは、尊厳はどうすべきであろうか。ひとは、類として尊厳を有するのであるから、人類に属する限り、尊厳をもったものとして扱う必要がある。当人が動けないようなとき、その人の意志をなり替わって遂行する代理人の制度があるが、それに類したかたちで、障碍者などの立場にたって、人間的尊厳を侵さない対応が求められる。これに関わる者が、理性は本来自身に味方はせず客観的普遍的に答えをだすはずだから、その理性のもとで判断していけばよい。ただし、広い知見は経験的なものだから、できるだけ多くの周囲の意見をふまえつつ熟慮し判断することが必要である。
6-6-7-3.
尊厳は、対象自体に備わっているものではない
尊厳の成り立つその客観的な条件は、神や王の尊厳がそうであるように、その領域において至高で卓越した支配者となっていることで、この至高・卓越性に対して、その被支配者が賞讃して尊厳の称号を付与するのである。その支配を無条件的に受け入れて、これにまつろい、たてまつり拝跪することで尊厳はなりたつ。まつろい、たてまつることをしない外部のものは、尊厳を帰すことはない。神への尊厳は、その信者においてなりたつだけで、非信者は、尊厳を帰さない。王もまたそうで、尊厳の王と称賛するのは、その支配国の者のみである。まつろい拝跪することなど思わない周辺国の者は、その王を狂暴で下賤な独裁者とぐらいに見なし、尊厳の称号を付与することはない。したがってまた、支配関係のない領域での至高・トップのものにも(たとえば、けん玉世界一とか将棋やスポーツの不世出の卓越者でも)、まつろい拝跪することはなく、尊厳が帰されることはない。
人類は、万物の霊長で、自然の至高の存在で卓越した支配者だということで尊厳の要件をみたすが、自然自体には人類に尊厳を帰す能力がない。人のあとに続く第二位の知恵をもつ被支配のゴリラやチンパンジーにも、その能力はないから、結局は、支配者の人間がこれを代行する。つまりは、自称の尊厳である(自己内自然の感性については、至高の理性に対して従順にまつろうものとして、神と同じ尊厳存立の仕組みをもつ。エゴの感性は、えこひいきしない自身の理性に脱帽させられることが多い)。人間は理性的に卓越した自然支配をしていて、尊厳と見なされうるが、そう称賛するのは、人間自身である。自画自賛である。
王の尊厳は、被支配者・臣下が拝跪して賛美することで成り立つ。地方の豪族は、支配に従わない独立自尊状態では、当然、尊厳を帰すこともない。だが、鎮圧され支配されて、まつろう状態になって、まつりあげ、たてまつるならば、つまり拝跪するならば、その王は、客観的な至高の支配者という条件を踏まえて、尊厳の冠を配下の者から載せてもらうことになる。我が国の宮中では新年の歌会始が今でも全国から秀歌を集めて行われているが、その起源をたずねると、この尊厳の戴冠の儀式だったのかも知れないという説がある。日本が大和をもって統一国家となったとき、まつろわぬ豪族を鎮圧し被支配者としていったが、全国の豪族たちの代理となる者たちを集めて新年の度に、ことほぎ、まつろうこと拝跪すること、「服従」の確認を行った。それが、歌会始の神話的時代の起源かも知れないというのである。国々にはその地方を自由にする魂、威霊があったが、それの籠った「国風(くにぶり)の歌を奉ると、天皇に威霊が著いたのである。そこで、歌を献じた地方は、天皇に服従する事になる」のだと(折口信夫「古代人の思考の基礎」の「一 尊貴族と神道との関係」)。各地方の霊力を天皇に乗り移らせ、奉り、拝跪して、「毎年初春に、服従を新しくしたのである」(折口「同上」)。つまり天皇の「尊厳」を新年毎に再確立する行事に、歌会始のはるかな起源があるのではとの推定である。すきがあれば支配を脱していく恐れがあった。相当に安定したのちになっても、平将門のように反乱を起こし新皇と名乗るようなものも出てきた。支配・服従も、尊厳も、繰り返して確認し堅固にしていくことが必要だったのである。
尊厳が成り立つには、被支配者側の、尊厳を付与する側の心構えが、その思いが肝要となる。人間の尊厳も同様である。いくらひとは万物の霊長として至高であっても、その客観的条件だけでは、尊厳は成立しない。立派な神や王であっても、その部外者たちは、尊厳を帰さない。被支配者がこれにまつろい、まつりあげて拝跪する主体的な営為があってはじめて尊厳は成立する。人間は、自律的理性をもって超然としていて客観的には尊厳に値する存在である。だが、歴史のなかでは、近代になるまで尊厳の付与されることはなかった。ひとの内外の自然への理性的営為が、至高で卓越したものとして広く承知され、人間そのものが尊く厳かなものであると宣言されて、これに至上・至高のあつかいをする主体的な姿勢がなって、尊厳との価値づけを行うことが(自画自賛ではあるが)必要だった。
6-6-7-3-1. 人の尊厳は、守る意思をもってはじめて成り立つ
ひとは、万物の霊長と言われるが、万人が類的存在として至高の理性を内在しており、各個が、全員が類としての人間の尊厳を担う。尊厳の扱いをするとは、至高の自律的な理性存在、卓越した支配者として各人を扱うということである。各人を、可能な最高の扱いとし、究極の目的として扱い、足元に踏みにじるような道具・手段扱いしないことである。尊厳の自律の理性意志をないがしろにしないことである。場合によると、全体の中で手段となり犠牲となることも生じるであろうが、それは、使命がそうであるように、当人の自律意志を通し、当人の理性が犠牲に納得する場合にのみ採られるべきことである。
人の営為は、人間相互のかかわりであることが圧倒的であり、相互に尊厳の存在であることを承知して関わりあう必要がある。だが、それは対等に同等にかかわりあうなかでなら容易であるが、人間社会自体が支配と被支配の関係をもって動くことが多く(例えば、社長と社員、家長と家族員等)、被支配側の人間の尊厳は支配側からは無視されがちとなる。社長の尊厳を有する者は、背後の人間的尊厳と対立しないから同時にとられることであろうが、社員の場合、社長からいうと、非尊厳であり、その背後の人間的尊厳は、影を薄くする。強者の尊厳は威嚇がきくから、おのずと守られようが、弱者の人間的尊厳は、守らなくても反撃されることがなければ、無視されがちとなる。歴史は、弱者、被支配の人間を、尊厳どころか、虫けら扱い、奴隷扱いしてきた。人の尊厳は、ひとを尊び厳かと思う心の構え、姿勢をもって成り立つから、それをしない非尊厳の心構えのもとでは、非尊厳の存在となってきた。それを近代以降は、しだいに、人同士が対等に近くなるとともに、万人の平等意識のもと、国家・社会から法的に強制すること等をもって、万人に尊厳の分有されていることが承知されるようになった。
かつ他方では、尊厳を担っている各個人が尊厳にふさわしい振る舞いを自覚してとる努力が必要なのでもある。ひとは、万人、類的な至高の理性を内在していて、理性の自律をもって、良識をもち良心をもって生きる。それは、卓越したものとして、尊厳にふさわしい振る舞いである。だが、ひとは、他面では、自身が自然そのものでもある。理性によって支配される自然自身を自己の感性として有して、これにしたがって生きる存在でもある。そのうちなる自然は、理性に制御されているけれども、ときに背いた動きをとる。狂暴な鬼畜の振る舞いに陥ることもある。尊厳の振る舞いから逸脱したものとなる。そうならないように、尊厳にふさわしい理性的合理的な営為を維持していくことが必要となる。自身において、尊厳からはずれないように、尊厳となる自己の営為となるようにと、理性自律のもと自身を制御していくことがいる。尊厳であるのではなく、尊厳に成るようにと常々心掛けることが必要なのである。
6-6-7-4.
人間的尊厳の在り方の特殊性
人間の尊厳のもとでは、自身も相手も尊厳を有するもので、格を同じくする対等・平等の存在である。その尊厳は、被支配の自然が付与するはずのものであり、自己内での感性が理性に拝跪するのでもある。関わる人間同士は、それらの支配被支配関係(=人間-自然、理性-感性)のそとにある。その、支配被支配の上下の関係にはないところでも尊厳を使う点で特殊である。人間的尊厳では、尊厳の言葉の使用は、対等の関係のもと、平等のもとでの特殊な使用になることが多くなる。尊厳というが、神や王の場合のように、五体投地し拝跪する姿勢はもたない。対等の人間同士でのことだから、相互に尊重しあって、尊ぶ姿勢、頭をさげあう程度の対応をすることとなる。被支配者からの尊厳をもつものへの拝跪の振る舞いではなく、尊厳を有する者が、尊厳を有する者にかかわるのであり、敬意を払いあい、尊び大切にするといった関わりになろう。人の尊厳では、同じ類的尊厳を担った者へのかかわりが中心になり、万人同等に尊厳を分有するのであり、これを下位に見下したり差別することは許されない。
至高の神や王と下賤な人間といった上下の関係のもとで尊厳が言われる場合は、下位の被支配者から上位・至高のものへのかかわりとして、おのずからに、拝跪の姿勢が取れる。とらないと威嚇・脅迫されて、取らされる。だが、人間による人間の尊厳の取り扱いの場合は、対等の中で言われるのであり、意識的に尊厳の取り扱いがされないと無視されがちになる。しかも、他方では、社会における人間関係では支配被支配関係(例えば、社長と社員)をもつことが結構あるから、そこでは、被支配のものは支配者の下位に位置づけられて、その人間的尊厳は隠れがちとなる。支配者的位置にあるものの尊厳は放置しておいても守られるが、被支配的下位にある者の人間的尊厳は、放置しておいたのでは守られにくい。その下位の者の尊厳も守れと主張するのが、人間的尊厳である。おのずと尊厳が守られることになる上位の者にではなく、被支配の下位に位置する者に対してこそ、尊厳の心構えをもたねばならないのである。神の尊厳などと逆に、人間関係においては、下位・被支配的弱者にも尊厳のあることを注意しなくてはならなくなる。
人間の尊厳が守られず無視されることが多いのは、守らない場合、神や王の尊厳とちがって、実力を行使し恐怖させて厳罰に処すことのできないことが大きい。被支配側にたつ者にも尊厳のあることを承知せよというのであるから、自然状態のままでは尊厳の気持ちをいだくこととはならない。被支配の弱者には威嚇する力はない。国家をはじめとする社会集団が、尊厳を守らないと犯罪になる等と威嚇することをもって、弱者の尊厳は守られる。対等の人間として、相互にその尊厳を大切にしあうはずであるが、現実の社会関係のもとでは下位の弱者(病人とか、差別される人々)は蔑ろにされがちである。かれらにもおなじように人の尊厳は分有されているのであり、そのことを承知して関わる必要がある。何人かの老人を相手にしていて、饅頭かミカンかリンゴが選べるようになっている時、面倒なので聞く手間をはぶき、全部、饅頭にしたとすると、その老人たちをぞんざいに扱い、その自由意志を蔑ろにしているのである。自分だとしたら、その時に欲しいものを自由に選ばせてもらうであろうに、それを、老人だからというので、自分にするようにはさせず、自律的な理性意志を無視するのであり、人間的尊厳を侵したものになるというべきである。
人間の尊厳の場合、その尊厳は、根本的には、万物の霊長としての人間という類が有するものであるが、尊厳を踏まえて振舞うべき対象は、多くの場合、人類という全体・普遍ではなく、個々人になる。類として理性的合理的に自然支配をするが、各個人は、かならずしも、そうできているわけではない。類的全体としては尊厳をもった営為を保つけれども、各人は、必ずしもそうではない。中には動物以下の愚かしいことを行うものもいる。また、尊厳の相手だと前提して関わる側も、同じ尊厳を有する対等のものとしてあるのであり、その相手を上に立てているのではない。人間的尊厳は、至上のものに拝跪する神や王の尊厳とは相当に様子が異なる。
6-6-7-4-1.
人間の尊厳と神・王の尊厳のちがい
王の尊厳は、絶対的なものとして、その尊厳の命令には国民の全員がこれに従わねばならなかった。尊厳の輝きのもとに、これに圧倒され、これを拝跪して受け止めて、従順にしたがった。神を信じている者たちも、同様、神の尊厳をもった言葉には全幅の信をおいて、神の奴隷となってこれに従った。だが、人間の尊厳の場合は、様子がまるで異なる。至高の理性をもって自然を支配するところに人間の尊厳の根本があるが、支配される自然は、王や神のもとの被支配者のように人間にしたがうものではない。自然は自然法則にしたがうのであって、人の命令に従うのは、その自然法則に合致しているときだけである。人間が反自然法則的な命令を押し付けようとしても自然はしたがわない。ひとが尊厳をもった支配者だといっても、内実は、逆であることもしばしばであり、自然を支配するには、まず自然の奴隷になれと言われるぐらいである。狡知をもって自然を支配するというが、自然法則を巧みに人間の目的のために役立てるというだけで、神や王のように好きなように支配できるわけではない。
神や王の場合、被支配者の尊厳の振る舞いがそれらの存立に必須である。支配下のものが拝跪してくれるから、上にとたてまつってくれるから、上にと存立しうるのである。被支配者の尊厳の構え・振る舞いがそのトップの尊厳の支配者をつくっているのである。その尊厳の拝跪の振る舞いをやめたら、それへの服従をやめ、その支配を認めないことになっていく。王や神として認めないということになれば、王や神は、天上から引きずりおろされることになる。だが、人間的尊厳の場合は、ちがう。被支配者の位置の自然自体は、厳密に言えば、人間に対して拝跪するわけでなない。理性が自然法則を熟知して自然にかかわるとき、自然は従順に服従するというだけであって、人間に全面的に服従し人間を支配者としてたてまつって拝跪するわけではない。神や王の場合は、無条件的に被支配者が拝跪して依存し帰依することだが、人間的尊厳のもとでは、自然は、無条件に人間にしたがうものではなく、自然法則をもっての人間の営為に応えるだけである。神・王の尊厳では、尊厳をもって帰依する被支配者は、自分たちを尊厳の支配者のはるかな下位において、尊厳の存在を不可侵の至高の場にともちあげ、たてまつる。人間的尊厳では、対自然において、ひとは理性的自律存在としては、自身を至高とするが、自然自体は、おのれ固有の存在の在り方を守り、ひとを無条件に上にたてまつりはしない。自然法則に背いたことを人間がすれば、ひとを下位において痛めつけることしばしばである。
ひとの尊厳が実際に意識される場面は、被支配の自然にかかわってではないことも、神・王の尊厳と大きくちがうところである。神や王の尊厳の場合、ひとが尊厳をもって関わるのは、その至上・至高の卓越した存在に対してであり、これを仰ぎ見て、拝跪する。至上のものと、被支配の無力な人間との上下関係であり、垂直のかかわりとなる。だが、ひとが人間的尊厳をもって振舞うのは、多くの場合、自然に対してではなく、人間同士のもとである。人と人がかかわりあうときに、人を、尊厳を有した存在として扱わねばならないということである。神や王の尊厳では、至高の唯一の支配者に人が拝跪するもので、人は、絶対的下位にある。だが、人間的尊厳では、人という類の尊厳であり、各人は、その類の成員で、類の尊厳をみんなが分有するのである。人間の尊厳が現実に問題になるのは、その個々の人間同士においてである。尊厳を帰すものも帰されるものも対等・平等の存在である。神と人の場合は、至高で唯一の尊厳の前にひとは拝跪するが、人間の尊厳では、人同士は対等である。尊厳の相手だからといって、自分も尊厳なのであり、敬意を払いあう程度になり拝跪などしない。
人同士は、本源的には対等であるが、現実の社会関係のうちでは、しばしば上下の差異をもっていて支配・被支配の関係にもなり、強者・弱者の関係となる。そこで強者の人間的尊厳は、守らないと威嚇されることで、おのずと守られるが、弱者の尊厳はないがしろにされがちである。したがって、社会は、この無視されがちの弱者の人間的尊厳を守ることを強調しなくてはならなくなる。弱者・被支配者の尊厳に意識が向かい、これの尊厳を守ることが人間的尊厳の場合、中心になる。神・王の絶対的強者の尊厳とは逆の、弱者の尊厳となる。神や王の尊厳のもとでは、これらに帰依して拝跪し五体投地することになるが、人同士の人間的尊厳では、尊厳を帰すべき相手には、脱帽して敬意を払い尊重する姿勢を見せる程度となる。神や王の尊厳では、至上のものを上に見上げて畏怖し拝跪するが、人間的尊厳では、対等・平等の関係になり、ときには逆になって、下を見て慈しみの心をもち、差別は許されないと、尊厳の対象を自分と同じ水平の尊厳の位置にと高めるものとなる。
6-6-7-5.
尊厳にいだく畏怖と讃嘆
尊厳は、その対象自体がいくら卓越し至高であっても、その対象だけでなるものではない。これを尊厳と奉る者があって、そのように思い、そのように振舞うことによってはじめて尊厳となる。しかし、尊厳は、主観的なものにとどまるものではない。被支配者がしっかりとそのように振舞い、客観的にそのように構えて尊厳関係はなりたつ。支配・被支配の関係は客観的な関係であり、尊厳は、その拝跪する客観的振る舞いにおいて、客観的な関係として成立する。尊厳は、主観的にも客観的にもその支配者に、はいつくばり拝跪することでなる。その支配者を比類のない至高のものと見なし、これを超越的で不可侵とみなして、高く遠くにたてまつり、ひきさがり、その支配に従順になりきる。これを肯定的に至高で卓越したものと価値づけ、尊ぶ。が、他面では、支配であるから、強制があり、そのはじめにはしばしば征服されるということがある。自律自由の存在であったものが、その自由を奪われて服従を強いられるのである。圧倒的な力を前にして、その支配を受け入れ平服し従順になる。その強大さに圧倒され、無抵抗に従順になる以外ないと、これを畏怖するに至る。その尊厳の対象を絶対的強者と踏まえて、これに畏怖・恐怖の反価値の否定的感情を尊厳は含むことになる。
神や王の尊厳は、そう奉るはじめは、恐怖の対象であったろう。王は、地方のものを支配下におくために征伐を行い、被支配に落とし込まれた者たちは、それを恐怖の存在としていやいやに服従させられたのである。その支配を確立するとともに、暴力・恐怖は不要になってきて、被支配者が統治者に従順になるとともに、それは恩恵を与える存在となり、拝跪されるまでになったことであろう。神も同様である。はじめは狂暴な邪神であり、災い・疫病をもたらすものであった。これに恐怖して奉って、自分たちだけは許して他で暴れてほしいと祭り上げた。天満宮の天神(菅原道真)も、祇園神社の牛頭天王(≒スサノオ)も災い・疫病の元祖であったものを祭り上げて、恐怖だけの存在から、逆に疫病から自分たちを守ってくれる有難い神にと、尊厳をもって遇するものにしていった。
尊厳の家長である父親は、子供たちには、これに背くと鉄拳が飛んでくる畏怖の対象であったが、それだけだと、恐怖の否定的な存在にとどまる。最近は、尊厳はないが粗暴な父親はいる。尊厳を有する父親は、他方では、なんといっても、その尊厳の価値は、子供を養いはぐくむありがたい存在としてある。これを頼りにでき、これの支配・指導が卓越していて、子供はこれに従順であれば、しっかりとした成人に育っていくのである。父親のおかげで生活が成り立ち、保護を頼りにでき安心でき、信頼を寄せ絶対的に帰依・依存できるという価値づけを、尊厳の積極的な面には有している。神も王もそれを尊厳と価値づけるのは、父親の尊厳と同様である。自分たちの安寧を可能にしてくれる頼りがいのある、卓越した見事な指導者である。これに背けば厳しい懲罰を受けることになるが、その支配を従順に受け入れるならば安全安心を可能にしてくれ頼りにできるのである。そういうものとして高きに奉って尊び賛美するのが、尊厳の振る舞いである。
尊厳のもとでは、支配する至高のものを恐怖の対象として反価値に見なすのは一面にとどまり、主要には、最高の価値としてまつりあげるのである。神も王も、自分たちの集団全体を巧みに見事に統括する頼りがいのある存在として価値づけている。それが尊厳の主要な価値づけである。人類は、類的集団的存在であり、ひとつにまとまって行動することが内外の在り方にとって大切である。その全体を担う確固とした卓越したトップだというのが、尊厳の称号を付与する最大の理由である。リーダーとして最高だとの価値づけが尊厳の輝かしい表になる。その支配者故に、被支配者の生活が守られるのであり、頼りとできるのである。それへの感謝心もその尊厳付与のうちには存在する。偉大な全知全能の王と称賛するのが尊厳という価値づけであり、その称号の付与であろう。個人としての王は、平凡であっても、全体を担うもの、支配者としては、かれのもとにと国内の英知も技術力もまとめ上げられ、それらの知や力の結晶として現れる。近寄りがたく畏怖するものでありつつも、尊厳の王こそは頼りになり自分たちの依存心を満たしてくれる感謝すべきものとなる。信頼でき誇らしいものとして、畏怖をバックに讃嘆をもって尊厳の称号は付与されるのである。
6-6-7-5-1.
尊厳の扱いをされる者の自覚・無自覚
尊厳を有するものは、その被支配者側から、至高で絶対的な支配者と見なされて頼りにされている。尊厳をもった父親は、その家族の全体を制御していくとき、反抗・抵抗がなしに思い通りにできる。尊厳の扱いは、支配・制御するための大きな力となり価値となる。尊厳の前に畏怖し、従順に服従し、拝跪までしてくれるのである。それは、だが、動物的マウンティングの性癖をもつ者のもとでは、自尊心を肥大化させて尊大になってしまう原因ともなる。さらに、そのことから、現実をよく見ることをせず、その支配が愚かしいものになることもある。問題があっても、これを知ることに疎かとなる。無批判に従ってくれているので、尊厳の支配は、安易に流れて、誤りに対しても合理的な批判をもらえないということで、尊厳は、無知のベールという反価値になってしまう。
被支配者が実力をつけてきて、尊厳を付与してくれなくなることもある。尊厳をもってたててくれていたのは、支配者に抵抗するだけの力がなかったからであり、力をつけて、反抗できるようになると、従順な被支配者にはとどまらなくなる。ひとは、理性的自律の能力をもつから、成人するとともに、父親と同じかそれ以上の存在と思うようになってくる。父親への尊厳の付与はなお守っていても、その根底において、これを破棄する時が迫ってくる。やがて、父親の家庭支配が抵抗をうけて、尊厳の勲章は奪い取られる日がくる。
王の場合、はじめは、その尊厳は、自身が他を征服し服従させて獲得したもので有限であることを自覚している。それ自身の力が大きくなるともに、支配について安定して、被支配者はこれにとどまり続けることを受け入れ、尊厳の間柄になることは固定して持続する。しかし、力をつければ反抗し尊厳の支配関係を破棄して反乱をもって独立することが予想される。そこで、支配を永続的にするために、武力等の力を一層大きくするとともに、被支配者とは異質で交代はできない格の違いがあるのだと思い込ませる方策をとる。祭り上げられていることを忘れ、他を押しのけて下からのし上がって支配者になったのだということを隠蔽して、神与のものだとか、生来、高貴の家柄として支配者なのだと支配の永続化をはかっていく。王権神授説というのがあるが、王は、被支配者から尊厳を付与されたという下賤な出自の真実を隠したいので、逆に上から与えられたのだと称することになる。中国の皇帝は、天(の)子と称した。我が国の場合、天孫降臨ということにもっていった。神話的時代には、ひとに神が憑依し、その人は神として全体をリードしたが、歴史的時代においては、武力に卓越したものが支配者となった。我が国でも、はじめは卑弥呼がそうであるように神が下りてきていたのだが、大和政権を作るころには、まつろわぬ豪族を征伐していった。征伐されたものは、「国譲り」が強制され服従を強いられ拝跪を求められた。その拝跪をもって支配者は尊厳をもつこととなったのである。
不動の大地ですら動く。下位のものが実力にまさるようなことになると、支配者の交代となる。尊厳は新規の支配者によって奪われる。尊厳は、支配者が自身でもつ内在のものではなく、被支配者が付与してくれていた勲章であることが明確になる。支配能力を失うとともに、それは、奪い取られることになる。支配者にとって、きらびやかに自身を飾って至高と賛美してくれるそれこそ絶対的価値をもった尊厳は、外から与えられたものとしては、失われることになる。
人間の尊厳をもって扱われる者についても、似通ったものであろう。尊厳を有する同等の人間が自身を尊厳扱いしてくれるのである。そこで、非尊厳の動物的な身勝手な振る舞いをするというようになると、簡単に尊厳の扱いを停止することができる。尊厳にと思って大切に扱ってくれているのを尊大になって横柄な振る舞いを続けたとすると、人間的尊厳との扱いは簡単にやめることが可能である。それを躊躇するのは、尊厳遵守へと威嚇する周囲・社会の目があるからにすぎない。それを慮ることが無用の場では、尊厳のあつかいは、非尊厳の振る舞いが目立つ人間に対しては失われていくことであろう。家庭内での老人介護では、社会の目が届きにくいので、かつて家長として尊厳を有していた老人も、心身劣化が大きくなるとともに、尊さも厳かさ厳めしさもなくなれば、非尊厳扱いされやすくなる。
6-6-7-5-2.
周辺の者にとっての尊厳の価値
尊厳の存在はトップの支配者一人だけであるが、その被支配者たちは、尊厳の威光のもとに整然と並んで、位階をもった有機的な組織をもつことが多い。全体を的確に統括し支配・制御するには、そういう位階は好都合である。上級に置かれた者は、自分たちの地位を守るには、現状の維持が一番ということで、尊厳のトップを堅持することに懸命にもなった。ひとは動物的なマウンティングの性向を強くもつから、上下の位階をもってこれを支配するのが一般的となってきた。尊厳のトップのもとに、上から下へと支配の具体化がなされるが、そのとき、トップの尊厳を背後の支えとして利用した。命令するとき、トップの尊厳の命令ということにすれば、被支配者は巨大なものに威嚇されて盲目的にこれを拝受した。父親の尊厳を利用して、年長の子供は、自分の弟たちを、お父さんが言っていることだと権威づけして、通した。虎の威を借りるキツネをいうが、その仕組みが尊厳において通用した。尊厳の価値の利用である。ここでは、合理的な説得は、いらない。上位の者の意向が、尊厳の御旗を立てることで有無を言わさず押し付けられた。全体がひとつになって動く必要のある場合、それは、効果をもったであろう。尊厳の利用価値があった。だが、それは、その合理的批判の口をふさぐことになるから、これが虚妄であった場合、尊厳は、巨大な反真実・反価値を生み出すことともなった。
昔は、幕府とか宮中への献上品、御用達の物があって、いまでも、それを誇りにしているお菓子屋さんなどがある。これも、これ以上のものはないという尊厳の支配者の権威をバックにして、自分たちを誇るのである。尊厳印をもって立派なお菓子だという見せかけを作る。幕府への献上品は、各地のそれこそ逸品をもってしたことである。宮中へのそれも、同様であったろう。権威ある方面からのお墨付きがあれば、立派なものなのだということにみんなが納得する。公家とか大名の家柄とか旧家、あるいは茶道とか花道の家元制度なども、これに近いものになろうか。尊厳(の家柄とか始祖)をバックにして自分たちを権威付け、飾り立てる。お茶など現代の技術力に見合った点て方をすれば、もっと簡単に日常的に緑茶の美味しさを堪能できるであろうに、尊厳の元祖に固執して、おいしい抹茶の普及を阻止している。コーヒーなど現代の技術をつかい、簡単に美味のコーヒーが味わえるように日々進化しているが、飲みにくい旧態然としたやり方をしているのでは、そろそろ社会には通用しなくなることであろう。
尊厳印をもらったことで歴史的遺産が保護されるのは、尊厳のプラスの価値であろうが、マイナスの価値となることもある。尊厳をもつ方面からの歴史的遺産との指定でもあると、自分たちの勝手にはできなくなり、不便な住まいを改築するにも、躊躇するようなことになってしまう。先祖の墓でも、尊厳をもった御先祖様であるから、もうお参りする習慣もなくなったし片付けようと思っても、安土城の信長のように石畳に利用したり、自分で砕いてバラスにして始末するようなことは簡単にはできない。おそらく、他の親戚筋などから、罰当たりだと非難され、家族に不幸があれば、それ見ろ祟りだと白い目で見られるようにもなる。
人間の尊厳は、万人を差別せず対等に尊重するだけのものだが、これも、他のことの権威付けに利用することがある。使用していた古道具などを捨てようとすると、魂がこもっている、捨てるわけにはいかないと、尊厳をもって威嚇することがある。また、生命の尊厳などにも、人間(の尊厳)をバックに利用して価値づけを行うことがある。同じ動物であっても、昆虫や魚は食べてもよいが、猿はいけないというのは、人間への近さによってするものになろう。知恵とか痛みとかをもって生命を評価するのも人間を基準にしてのことである。尊厳をもった人間に、より近い生命を、より価値が高いとする。
6-6-7-6.
古典的垂直型の尊厳を踏まえた現代の水平型の尊厳
神や王、あるいは、家長とか社長の尊厳は、絶対的上位の支配者と下位の被支配者の間で言われる。近代になって言われ出した人間的尊厳は、だが、それからいうと、ひとは自然を支配する万物の霊長だけれども、その尊厳が中心の問題にするのは、自然支配の卓越性ではない。多くは、自然とのかかわりではなく、同じ尊厳を有しあう人間の間でのことになっている。
人間的尊厳は、近代にはいって言われだしたものだが、カント(『人倫の形而上学の基礎づけ』)は、内外の自然を超越しこれを支配する自律的理性の存在として人間の尊厳をいい、シラー(『優美と尊厳について』)は、精神による感性の支配(Herrschaft)に尊厳がある等といった(cf. 近藤良樹『人間の尊厳-尊厳は支配関係に由来する-(論文集)』広島大学図書館リポジトリ(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00020345))。やはり、支配被支配の古典的尊厳のもとに人間的尊厳も見た。だが、近代社会が実際に人間的尊厳をもって関わるのは、被支配の自然や感性にであるよりは、多くが人間同士のもとでのこととなり、その在り方は、神や王の古典的な尊厳とは異なったものであった。同じ人間同士が対等に平等に大切に扱われるべきときに言われることになった。社会生活の中で問題とされる人間の尊厳は、人間関係において、上に見て拝跪を求めるようなものではなく、自他が人間的尊厳を同じく有したものであり、どちらかというと下を見て、差別せず平等に対等に尊いものとして厳かに扱うことを求めるものとなった。
昨今、生命の尊厳がしばしば話題になる。環境問題が深刻になるなかで、動植物が危機的状態になり、その生命を尊重すべきとき、尊厳をもって対処しなくてはならないといわれる。これも、神や王の尊厳とは違い、生命に対して拝跪する姿勢を求めるものではない。すべての生命について、人間をも含めて、命あるものをすべからく大切にし尊ばねばならないという平等、水平型の尊厳になる。生命の尊厳の根拠自体を問う場合には、その下位の無機物を超越した至高の存在で、無機物を巧みに支配していることにあると支配被支配に見るであろう。が、この生命の尊厳で目を向けようというのは、それであるよりは、その生命という類に属するものは、その尊厳を分有していて、各個体はすべて尊いから、同じく平等に扱い、生命全般を大切にしなくてはならないということである。神や王を至高と上に見てこれに拝跪するのを、垂直型の古典的尊厳というとしたら、人間や生命の尊厳は、その類に属した多様な成員を同等に平等に扱うことが肝要事となり、横に水平に差別なく尊厳のもとに見ようとするもので、その限りではこれを水平型の尊厳といってよいであろうか。垂直型は、至高の一者への拝跪・畏敬型になり、水平型は、多彩な全成員への差別禁止・慈愛型になると言うこともできよう。
上を向いて拝跪する古典的な尊厳は、神や王へのものとしては、もう風前の灯だけれども、親の尊厳とか社長とか部長の尊厳は健在であり、市長や校長の尊厳も古典的な至高の存在への尊厳としてある。水平型と垂直型の両方の尊厳が現代の尊厳のもとにあるということになる。現代でも支配・被支配の関係はあり、他方に対等の成員をもっての集団・組織もあることで、前者では、至高の唯一のものへの一つの尊厳があり、後者では、多彩な成員の間での対等の尊びあうかかわりとして無数の尊厳が存在しうることになっている。しかし、水平型、差別禁止型といっても、その尊厳自体の存立の根拠は、垂直型のトップの尊厳をもってするであろう。なぜ人間を尊厳とするのかという根拠については、人が万物の霊長として至高であるということに求める。生命の尊厳にしても、同様に、無機自然を下にし制御・支配することをもって根拠とする。生命や人間が尊厳を有するという根拠は、支配・被支配、至上(至高)の価値づけをもってであれば、神や王を尊厳とするのと同じことになる。根本的には、垂直型によっているのであれば、垂直型一つに尊厳そのものはあるということになる。水平型は、その尊厳自体を語るのではなく、その類の尊厳を分有する個々のものとその間では、いずれも尊いものなのだから、差別なく対等に、水平をもって関わらねばならないというのである。
古典的な尊厳では神や王という至高の唯一の存在の尊厳ということで、端的に尊厳存立の根拠から見るのに対して、ひとや生命では、その類的尊厳のもとの各成員に何よりも注目する。その尊厳の成員同士について問題にする。人間や生命の類の(垂直型の)尊厳は大前提にしておいて、具体的な対処において問題にするのは、類を成り立たせている無数の多様・多彩な個、成員についてである。その成員同士は、お互いに同じく類の尊厳を分有していて同じように尊いということで、平等に水平に取り扱うことが求められるのである。垂直型の尊厳と水平型の尊厳が対立的に並ぶのではない。どの尊厳も、根本においては、至高の唯一のもの、或いは類が、卓越し尊厳であると垂直型に捉える。その上で、それが類としてある場合には、類のもとの多様多彩な全成員を対象とし、それらを、すべて類の尊厳を分有したものとして、同じように対等に尊び厳かに扱えと水平型の尊厳をいうのである。
6-6-7-6-1. 人間や生命の水平型尊厳の特徴
人間や生命の尊厳は、多くの場面では、至高の支配者を見上げて拝跪する垂直型の尊厳ではなく、その尊厳の類に属するものは、その尊厳を分有しているものとして、差別することなく、すべて対等・平等に見て尊び大切にせよという、いわば水平型の尊厳になる。上に拝跪せよというのでも、自らを下位に引き下げろというのでもない。そこでの肝要事は、その成員間の水平・対等の在り方となる。成員はすべてその尊厳の類のもとの存在として同じ格をもっており、したがって、それらは、その対等の間柄において水平に見よ、下位や上位に見下げたり見上げたりもせず、差別的な在り方をせず、平等に見て、類の尊厳の同じ尊い担い手として大切にしなくてはならないというものになる。尊厳を有した一つの類のもとでの、尊厳を分有する同等の成員について、その他のことでのマイナスの要因(病弱など)があるからといって、これを下位・劣等に貶めた扱いをしてはならないという禁止則が肝要事となる。
神や王の尊厳では、尊厳の対象は絶対的上位、至高の位置にある支配者で、拝跪する者は被支配の下位にある。だが、人間や生命の尊厳では、類として同じ尊厳を担っているのであるから、その成員は同じようにあつかい尊び大切にしなくてはならないと、平等・水平をもっての尊厳の取り扱いをいう。人であれば、万人、自律理性をもった尊厳の存在であり、したがって、相互に自己決定を尊重し、物扱い奴隷扱いをしてはならないと戒めるのである。
古典的な垂直型の尊厳では、至高の強者への拝跪を求めるが、現代の人間や生命の尊厳では、それが実際に働く場面は、多くが人同士・生命同士で問題になって、同格の者同士の間では、水平型の尊厳となる。しばしば、下位に貶められているものに目を向けて、弱者、弱小の立場にあるものを対等のレベルへと引き上げることが中心の問題となる。人間の尊厳が問題になるのは、病気とか老化で弱者となっているものを差別してはいけない、同じ尊厳をもった人間として大切にしなくてはならないというようなことになる。健康な賢い人を、尊厳をもって扱えというのではない。生命の尊厳でも、はびこる強力な雑草を、卓越した生命力があるから大切にし尊ぶというのではなく、逆で、種が絶滅しそうなものについて、類のもとでは、種の多様性が類の本来をなしその具体化であり、その多様性をもった生の存続が可能になるようにと、特に弱いものの大切な扱いがいると環境保全などを求めるのである。
しかし、なぜ人や生命が尊厳なのかということ自体は、水平型そのものでは言えない。類としての生命や人間の尊厳の根拠自体は、垂直型の尊厳をもってする。人間が尊厳であるのは、理性のもとに自然を超越して至上の存在で、自他の自然を巧みに支配しているからである。生命の尊厳も、無機自然を超越しこれを支配して物質代謝を営み、無機自然にはありえない生命活動をもって至高なのであり、貴い存在であって尊厳を有するのである。人や生命の内の全存在が、類として卓越して尊厳となる。そのうえで、人間的尊厳では、人同士は相互に尊厳を守れと水平的に尊厳を語るのであり、生命の尊厳も、人を含めて生きとし生けるものは、同じように平等に尊厳の扱いをうけてしかるべきだというのである。水平型は、尊厳自体を成り立たせる根本を語るのではなく、尊厳をもつものが同等に平等にその扱いを受けられるようにすべきことを語る。類として尊厳であることは垂直型の尊厳になり、これがこの類の尊厳自体を成り立たせ、その後、その類の中での無数の成員について、多種多様な種・個を、類の具体化として、すべて、尊厳を分有するとみて、つまり人間ならば尊厳の理性を各自が有し、生き物ならば全てが尊厳の命を有しているのだから、その全成員を対等に水平にというのが水平型の尊厳になる。
水平型が垂直型と別にあるのではなく、あるのは、垂直型の尊厳のみであり、その尊厳が、類としてあるものについては、その類の個々の成員は同一の尊厳を分有するから、水平に見て平等に尊厳扱いしなくてはならないというのである。古典的尊厳が、唯一の至高のものへの拝跪をいうのに対して、人間的尊厳や生命の尊厳では、その類に属する個々のものの尊厳に注目する。そこでは、弱者の尊厳が無視されがちになるから、その類的尊厳を分有する弱者も類的存在の一員として尊重し、平等に水平に見て、尊厳を有した者として関わることが求められるのである。
6-6-7-6-2.
人間の類的尊厳は、いかに各個人の尊厳となるのか
ひとは、単に類、人間一般として生きるのではなく、個別化した人格をもって、類を具体化し特殊化した個人として生きる。人間が類として尊厳を有するその中軸には、理性を有することがあげられる。この理性は、万人において普遍的に与えられているものであり、各個別の人間の尊厳も、この理性を分有しているところに、万物を超越して至高であることに根拠をもつ。万人に等しく理性は与えられ、その良識・良心の働きをもって動物を超越した人間的な生を各自が営んでいる。各自は、類としての人類の英知、理性をもって、その生きざまの特殊・個別のもとに、自身の得意とする分野を担いその能力を発揮しようと務めている。
人類は、多様に社会を構成しており、個人は、その有機的組織のもとで、小さくは家庭の中での役割を父や母として担い、社会においては、選択した職業をもち、個別特殊化した存在として生きる。それぞれに、その固有の役割を担うことにおいて、類的尊厳を具体化することになっている。単に類としてのみあったのでは、抽象的で単純、原始にとどまる。人は、歴史の中で具体化して個性をもった人間存在となり、その類的な尊厳を分有して、尊い各自の人間的営為を作り出している。その具体化した各個の在り方は、また、類全体をより豊かに創り上げていくのでもある。
人間は、類としては、安定した理性存在であろうが、各個は、無から自己自身を人間にと形成していく。感性的自然を自身の土台とし、それへの自己内制御を踏まえて、理想とする人間に近づけるようにと、日々自己の形成・生成にと勤しむ。未来にあるべき自己を描き、これを当為として、自らをかけていく。個としての人は、現在にのみ生きる動物とちがって、未来に生きる。ごく身近な所からして未来に目的を描いて動く。夕方になったしビールを飲もう(目的)と思い、冷蔵庫の前に立つ。来年は、ヒマラヤに行くぞと(目的)、貯金(手段)を殖やしていく。真実の自己は未来にある。現在は、その真実の自己になるための手段となり、未来の希望=目的へとひたすらに生きていく。各自、固有の身体・感性も持った存在であり、また、その理性の能力も特殊な方面に秀でているようなこともあり、その各々の特性を生かして、未来に自己実現していく。類の支えをもって個は生成・開花し、有限の生として、おのれを全うして消えていく。
個別の各人は、生成消滅のもとにあるのであり、それがなお生成の端緒にとどまるとか、もう消滅して名残もない等ということが問題になる。人間として妥当するかどうかというぎりぎりのところでは、どこかで尊厳の線引きをする必要に迫られる場合も生じる。人の受精卵については、まようことになろうが、単なる精子は、髪の毛とか唾液などと同じ扱いで、躊躇せず人間的尊厳の外に置く。人骨でも、五万年前のものが発掘されたのであれば、貴重品扱いはしても、もう人間的尊厳の扱いをすることはないであろう。さらに、尊厳の真っただ中にありながら、個我は、非人間、反生命の悪しき行為にでて、反尊厳、非尊厳の状態に陥ることもある。
6-6-7-7.
人の尊厳は、いまは大切だが、いずれは無用になろう
人間の尊厳は、歴史のなかでは無視されてきた。したがって、しばらくは、人間の尊厳を意識的に持ち上げて、守るべきことを主張するのは意義のあることである。ひとは、歴史のなかで、あまりにも、尊厳を傷つけられ、不当に奴隷扱い、物扱いして辱められ、悲惨な処遇に耐えさせられてきた。このしいたげられ続けた人間の尊厳故に、これを強調し、その貫徹を強要するのは、意味のあることであろう。尊厳は、神のそれも王のそれも、強制され、威嚇されて成り立っていた。神の尊厳は、神聖なものとして、不可触の高みにおかれ、見ることすらも禁じて守られた。王の尊厳は、まつろわぬ者に対しては、武力でこれを鎮圧し、まつろわせ、拝跪を強制して成り立っていた。人間の尊厳は、その若干を習って、尊厳を強制的に通用させてもよいのではないか。
人間の尊厳は、一部の者の尊厳ではない。万物の霊長としての人類全体、万人に妥当する尊厳である。人間世界での上位階級にあるものについては、尊大が許されるから、その人間的尊厳は、放置しておいても多くが守られる。問題は、底辺の惨めな存在にとどめられているものの尊厳である。なお差別されている領域において、人間的尊厳の貫徹される必要がある。昨今、尊厳という言葉が重視されているのが、医療・福祉方面であろう。ここでは、生殺与奪の権をその従事者がもち、これに命をゆだねるようなことが生じる。強者対弱者の関係になりがちである。同じ人間的尊厳を有するものであっても、弱者の尊厳は、無視・軽視されがちとなる。その非尊厳に置かれがちの患者や介護される者のその人間的尊厳が守られなくてはならないのである。慎重を期すべき場面では、例えば、脳死移植で、生きのいい臓器をと急くようなときには、つい脳死者の尊厳はないがしろになるであろうから(日本の心臓移植は、臓器を提供させられた若者の尊厳無視から始まった)、くれぐれもそうならないように、はやる気持ちをおさえ、尊厳の言葉をもって慎重を期すことはあっていいのではないか。尊厳死をいう者は、寿命の尽きた老人を無理やり生かし続け当人の意志を無視するような現状に異を唱えるが、これももっともな尊厳の主張である。福祉・介護の領域では低賃金で(言ってみれば非尊厳扱いで)、不愉快が続けば非人間(非尊厳)的な扱いもしたくなろうが、であればこそ、「人間の尊厳」をもって自身を戒めることが必要になる。
人間同士、まだ尊厳を無視して差別的になるときもあるが、多くの場面において、対等となり、同じ存在として結び合うのが普通になりつつある。いまはまだ、上下関係をつくり、支配被支配の関係になることも多いが、進んだ領域では、対等・フラットな関係になってきている。そうなると、至高の支配者と被支配者の関係のもとで拝跪をさそう尊厳の言葉は、無用化していくことになる。対等であれば、見下げて差別するような意識もなくなっていく。差別される者がないなら、弱者の人間的尊厳を守れという必要もなくなろう。これから自然支配は一層見事な卓越したものになっていこうし、自己内自然の感性についても、理性は、無理に強制して支配しなくても、感性がおのずからに理性的に良心・良識にしたがって振舞うことも、余裕のある社会では、普通のこととなろう。理性的自律は、ことさらに言い立てることも少なくなろう。リーダーであってもフラットな社会では、威嚇する支配者となるのではなく対等の同じ存在同士の間柄になるのであり、尊厳をもって拝跪を求めるようなことは無用になる。万人が理性的存在として自律的に対等に相互を尊重しあいながら関りあうこれからの社会では、拝跪して尊厳の心構えをもってするようなことはなくなるであろう。神や王の尊厳は、その神や王という至高の存在自体をなくして、尊厳を無用化している。人間的尊厳の称号も、万人が差別なく対等にかかわることが普通になれば、その出番はなく、やがて不要になることであろう。
6-7. 苦痛甘受の忍耐は、尊厳ある生を多彩なものにする
動物は、快不快の感情に導かれて動く。快には魅了されてこれを享受するために動き、生の保護・促進を実現する。かつ、逆に不快・苦痛になることは避けたり逃げたりして、これを拒否し、損傷を防止する。ひともその自然感性においては、快に魅され、不快・苦痛では回避するようにと動く。だが、ひとは、これらの自然的な反応・振る舞いを制御でき、この自然的反応を抑止し、理性意志の思うようにと動くこともできる。回避衝動をもつ苦痛に対してこれの甘受にと自身を向けていくことができる。自然が苦痛をもって入らせないようにしている世界に、ひとは、苦痛甘受の忍耐をすることで入っていく。あるいは、快に引かれて動く自然にしたがわず、自身を抑制して快以外の方向にも進むことができる。ひとの生きる世界は、そのことによって、飛躍的に拡大していくことになる。寒さの苦痛をもって、そう易々とは南北の極地域には住めないように自然はしているが、ひとは、これを耐えて極地域にまでも進出した。厳しい氷河期の生活を、食料を巧みに保存し衣住の環境を防寒用に作りあげて乗り越えてきた。砂漠には水がなくて住めないものを、ひとは、知恵を働かせて、水のあるところから水路を引くということを企て、これを実現するための苦難を耐えて、住めるようにしていった。
ひとは、快不快の自然に生きるとともに、これを抑止して自然の禁止している反快楽、苦痛の世界をもわが物にし、生きる自然世界を大きく広げたのみでなく、さらには、感性的な世界自体をも超えて、普遍的理念的な世界を可能にする理性的な動きを展開することともなった。動物的自然世界に生きつつ、ときに、これを拒否して、自然を超越した理性的世界に生きてきた。それを可能にするのが、しばしば感性の快不快を制御することにおいてであるから、その限りでは、忍耐がそれを可能にしたのである。苦痛を受け入れ快を抑止し、それを犠牲・手段とすることにおいて、快不快の自然世界を超越した理性的な英知界へと飛躍していく。忍耐をもって、ひとをして尊厳とする精神的世界、理性的世界を創出したのである。
苦痛から逃げずこれを受け入れ、快を抑制することで、生きる世界は倍増するが、これは同時に自身のうちの諸能力も多彩に展開していくことであった。快への欲求を抑制することは、それ以外の方向に心を動かしていくことともなる。苦痛・反欲求から逃げず耐えていくことは、それをもって、いやなことも意志において追及していけることとなった。単純に快を欲求し苦痛を反欲求対象とする動物的な在り方を超えて、人間のみに可能な多彩な心の在り方が開発された。快苦の世界を、忍耐をもって超越することを通して、自然世界自体を超越した理性の世界を開き、精神的英知の世界へと飛躍していったのでもある。動物的世界に生きつつ、この快不快を些事とする超自然の精神的領分へと展開して、万物の霊長としての尊厳をもった至高の世界をひとは構築した。
6-7-1. 人は、その動物的生を精神的世界へと引き上げ、昇華もする
食欲を充足するとき、ひとは、動物的営為のもとにある。だが、そこでは同時に、動物を超越した人間的営為をも行っている。ひとは、ひとつの食物で充足するのでなく、知性をもって、ほどよく欲求を抑制し制御しつつ、多種類にわたるものを食べる。さらには、苦いとか酸っぱいという、本来は不快・苦痛であるものも取り込み、これをもって食の快を多彩で深みのあるものともする。動物は、限定した食物で生きる。昆虫など、食物の種類を別々にして生きあう。クチナシにつく虫は、オオスカシバに限定で、イチジクにつく虫は、カミキリムシといった住み分け、食べ分けをする。だが、ひとは、何でも食べる。知恵を働かせ試行錯誤を繰り返して、腐ったものも食べて発酵食品に仕立て上げた。美味しくないものもほかのものを混合して、美味にした。単純に快のみを受け入れるのではなく、直接的には苦痛である苦いものとか酸っぱいものをも快の豊かさ、繊細さを作り出すために使って、食の享受の領域を、多彩なものとしている。食物を土台にしながら、その感性自然のうえにそびえる精神世界の営為にこれを利用するようなこともある。共食(会食)は、その集団の精神的な絆を高める手段として古くから行われた。茶道は、お茶を飲む集いである。高がお茶を飲むだけのために大仰なと言われなくもないが、息抜きのティータイムと違い、そこでは高度に洗練された精神文化を表現する媒体として喫茶が役立てられているのである。
ひとは、欲求を自然的に充足するだけではない。知は、知に飢え情報を貪ると言われるように、それ自体が人にとっての大きな欲求となる。自然的欲求と一体化した知は、技術知となって自然にはないものをも次々と創造し、これへの、動物的にはない欲求・欲望を生み出しもした。さらに、あらゆる欲望のための手段となる、普遍的な欲望対象としてのお金も作り出した。お金は、それ自身は、食べられもしないし防寒・防暑の衣服にもならない。だが、それは、普遍的な交換価値を有するものとして、無数の欲求を充たす手段となる。お金は、精神的欲求を満たす手段ともなる。芸術作品を鑑賞する手段となり、高度な情報を求める手段となる。ひとの世界は、自然的世界を土台にしつつ、その上にそびえ超越した精神的な世界を開拓していった。
性の衝動は、大きい。それを充足するために、鳥や昆虫は、雌を求めて懸命に鳴く。ひとも、異性をひきつけるために歌を歌い詠むことがあったが、その魅了する歌は、赤裸々な衝動ではなく、言語を使った精神的な世界の美として、ひとをひきつけたのである。さらに、男女の直接的な関わりに歌を詠むにとどまらず、性衝動を土台にしつつ、その衝動自体は直接的には抑制し、その苦痛を忍耐もしつつ、これを昇華して、文学等を創作もした。源氏物語など、性欲がなかったら、誰があんな女あさりの下卑た話を好んで書いたり読んだりするであろう。ヨーロッパには、古くから女性の裸体画が多い。聖書や神話を題材にすれば、裸体描写が許されたようだが、描く者も、見る者も、性欲がなかったなら、あんなものに現を抜かすようなことはなかったにちがいない。芸術は、性欲・性衝動を人間的精神世界にと昇華して展開したものが多い。動物的性衝動をもちつつ、これを時代に見合うように制御しその上に精神世界を展開して、動物的な性を、人の精神の高みから見渡しつつ昇華して表現しているのである(春画や昨今のウェブでのポルノ動画は、動物的性欲のために芸術をその下僕・手段にするが、素材をそういう方面にもった優れた芸術作品は、性欲を土台にしこれを昇華して美の世界を創造していく)。
6-7-2. 苦痛の試練、忍耐が尊厳を有する人間を創造した
アダムとイヴがエデンの楽園を追放されて人間世界は作られたと『創世記』は語る。そこで特記されることは、種と個の存続のための生殖と生産について、いずれも苦痛が課されたことである。人は原始から苦痛を耐えて、自分たちの世界を創造してきた。苦痛から逃げず忍耐することが、多様多彩に発展する人間世界を可能にしたということである。楽園追放、失楽園をもっての人類史のはじまりであるが、この話は、楽天的に捉えなおせば、苦痛を甘受する忍耐こそが、尊厳の人間を創ってきたことを語るものになろう。
人類も、はじめは、他の動物たちとともにエデンの楽園で素朴に穏やかに暮らしていた。だが、神から食べることを禁止されていた木の実を食べてしまったという。永遠の生を保てる生命の木と、知恵をもたらす木の二つの木の実だけは食べることを禁じられていたのだが、そのうち、善悪を知ることになる知恵の木の実をたべた。知恵は、感性を超越したもので、いわゆる理性の知がその代表になろうが、人間は、これをもって、洞察力を得、経験知を蓄積し、伝達をもってこれを拡大し、自然をはるかに超越した知的な人間世界を創造し、自然世界の上にそびえる至高の尊厳の存在にまでなった。その知恵は、まずは、おのれを知ることに振り向けられた。アダムとイヴは、裸を恥ずかしく思った。恥部を隠したという。性衝動という動物的なものを持っているけれども、それを粗野なものにとどめてはならず、善美等にと昇華した精神的な衣装をもって覆わねばならないと思ったのである。その恥部を隠すことを良いこととし、動物的自然のままを悪しき事とする価値意識をもったのである(はずかしさは、規範等から、はずれていることを意識して生じる。規範・あるべきこと・善とそれを外れた悪を知った、意識したということになる)。未開の生活をしている近現代の集団でも、子供は素っ裸だが、大人は、恥部だけには覆いを着けている。公共の場では、性は無化していなくてはならないということであるが、動物を超越して、精神的存在の装いをして精神的な交わりにあるのだという尊厳の装いであろう。
人間世界の固有の歴史は、エデンの楽園からの追放ではじまった。それは、現在でも、子供が大人になる過程で反復されていることで、人は、一人前になるとともに、楽園を出て苦痛・苦労を背負わねばならないという厳しくも厳かな事態である。男性のアダムは、生きるために苦しい労働をしなくてはならなくなった。女性のイヴにも神は、やはり苦痛を課して、生殖における産みの苦しみをもってしたという。種の再生産、個の保存のための根本的な営為について、苦痛が不可避的となったと聖書は語る。この人間界を苦しみの世界と見なす点では、仏教も同じであり、これを苦界・苦海と捉えている。
このアダムとイヴの話は、人類の根源的な在り方を語る。自然は、苦痛を回避して快をひたすら求め享受する。楽園の動物たちは、いまも、そうしているように見える。だが、ひとは、理性をもち、苦痛甘受の忍耐をもって、自然を超越して根本的に異なることになっているのである。苦痛回避の動物を超越して、楽園の外に出て、苦痛に耐えるのが人間の世界である。理性的な英知を有して、自己を知り、世界を洞察して生きることになっているのだが、自他がこの世界のうちで尊厳を有したものとして存在するためには、苦痛から逃げず忍耐することが不可避である。いくら知があっても、苦痛から逃げるというのでは、自然のくびきをつけたままになる。苦痛への挑戦が、自然を超越した人間の尊厳を確固としたものにしているのである。
6-7-2-1. 苦痛への忍耐は、自律的な人間を創った
『創世記』の楽園追放、失楽園の話によると、神は、エデンの園から人類の祖を追い出しただけでなく、罰をも課した。アダムには労働の苦痛を与え、以後人間はつらい労働をもって生きていくことになり、イヴには、産みの苦しみを与えることにしたという。この話は、人類が、古来不可避の運命として背負っている、生きるための苦しみを背景にした話であろう。何かあると飢餓にすぐ陥るような中で、生を維持するために、日々、汗を流して苦闘しなくてはならない惨めな現実を、楽園追放の話において納得しようとしたのであろう。信仰をもつ者には、人の生の苦労・苦難は、神からのもので、それは、自分たちに課された運命だと受け入れて諦念しなくてはならないという話になる。神から苦痛を与えられていること、いうなら被虐に、神に目をかけられ選ばれている証拠だ、苦痛は神からのありがたい贈り物だといった、マゾヒスト的な思いをもつ者たちもいた。
だが、積極的に見直すなら、もっと違った話としても読めそうである。それは、人類がこの神与の苦労に関して、動物ならば単に逃げ回るだけなのに対して、これに決然として挑戦していったということである。苦痛が、神なり自然から不可避的に与えられているのは大前提の事実になるが、それへの人間の対応は、動物とちがって、自然的な、苦痛の回避、苦痛からの逃走をとるものにはならなかった。地獄界では多彩な苦痛を与えられているが、その苦痛から動物として逃げ回り、苦しい辛いとわめくだけである。だが、この世の人間は、神からの苦痛を回避・逃避しようと動く自然の存在であることを超越している。神からの苦痛に対決し、よりよく生きるために、これから逃げず、苦痛に挑戦した。苦痛をあえて受け入れ甘受して、忍耐・我慢をもってこれを乗り越えていったのである。
神からの苦痛について、地獄でのように、これから逃げまわって生きるのなら、神の支配下に生きるのである。だが、ひとは、これから逃げず、知恵の木の実を食べたことで(これは、ひとの祖先が直立し脳を大きくしたこと、あるいは、言語使用をはじめたこと等に相当するのであろうか)、知恵をもち理性意志をもつことになり、神与の苦痛に挑戦し、苦痛を我慢・忍耐する道を自律的に選んだ。神に逆らって知恵の木の実を食べて、神が与えもしない羞恥心を抱いたように、自然的には逃走する苦痛に対して、その知が必要と判断した場面では、逃げずあえてこれに耐えるという自然超越の挑戦を行ったのである。自律的な自由意志の発揮である。これは、神が与えたものではない。神(自然)が与えたのは苦痛でありこれから逃げることである。ひとは、神(自然)に逆らい、知恵の木の実を食べたことによって理性知を得ることが可能となり、善悪等の価値判断を自身が行い、自律的に生きる道を創り上げた。楽園追放での、苦痛・苦難の道において、苦痛を与える神・自然に対決して、これに挑戦する自立の姿勢をもって、自身の自由意志において、この苦痛を忍耐する、自律的な道を進むことになった。人間の自律理性の尊厳が、ここに確立されたのである。
6-7-2-2. 苦痛ではなく、これへの忍耐が人の尊厳を証する
アダムとイヴのエデンの楽園からの追放、失楽園の話は、単なる神話として放置はできないように私は思う。人間が人間になったことの、その尊厳の根拠が、そこに見出されていると言って良いのではないか。知恵の木の実を食べたことで理性知を有し自然を超越できるようになっていったこと、さらに、肝心なことは、楽園追放によって苦労をして生きていかねばならなくなったこと、苦痛を課されていること、この苦痛から逃げず、人間は理性をもってこれに挑戦して忍耐して苦難を克服して先に進んでいったこと等がそこでは想起されるであろう。苦痛とそれへの忍耐をもって、人類は、自然世界を超越し、自然を見事に支配するまでになって尊厳を有する存在にと自らを作り上げてきたのである。
この世に生きるものにとって類まれな価値として永生と知恵があった。そのうち、人間は、永生ではなく、知恵の木の実を食べて、知恵をもったという。それが、人間の至高であることを可能にした。知恵は、天与のもの、自然・神のものをいただいたのであり、のちには意識的に開発し教育等でさらに大きくなったが、当初は、天与のもので、自力では少しということだったであろう。その点からいうと苦痛から逃げないで我慢・忍耐するという意志は、人間自身が価値判断して必要と思い苦痛甘受を決断したことであり、はじめから自身が創造したものになるといえよう。苦痛は神(自然)が与えた。だが、これへの忍耐は、理性的意志をもった人間が自律的に行うものになる。神に逆らって知恵の木の実を食べたように、神与の苦痛から逃げ回る動物であることをやめて、自身の意志において、必要と判断したところでは忍耐の構えを構築して、苦痛に挑戦する姿勢をもったのである。
エデンの楽園からの追放で、神は、人類に、苦痛を課したという。ひとが、苦労・苦痛に明け暮れしているのは、現代においてもそうである。ましてや、原始の時代は、苦難の連続に明け暮れて、仏教ではこの世を苦界というほどに、さんざんなものであったに違いない。神が楽園追放で人類のみに与えたというのが苦痛である。ただ、人類は、この苦痛から逃げる自然的対応にとどまることをしなかった。苦痛への挑戦、忍耐は、神が与えたものではない。人間が自身で意志したことである。あえて、挑戦することを企て続けたということである。地獄は、苦痛の世界だというが、そこでは、みんな苦痛から逃走しこれを回避しようとしながら、永遠にこの苦痛に打ちひしがれ敗北するものとなっている。だが、人間世界は、この神与の苦痛を感受してこれから逃げまわるものではない。この苦痛から逃げず、必要とあらば、神に逆らって、神与の苦痛に挑戦する姿勢をもった。苦痛があれば、これに挑戦しよう、「憂きことのなおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」(熊沢蕃山)という姿勢をもったのである。苦痛に我慢し忍耐することを自身で行ってきた。この忍耐・我慢の意志は、神に逆らって自身が作り出したものである。苦痛から逃げる動物のように従順ではない。これに逆らい挑戦する。その苦痛・苦難から逃げず我慢・忍耐する意志が、ひとを自然のもとで至高の尊厳を有する存在にとしていったのである。
意志は、不快・苦痛に対して沸き起こるものである。快ならば意志することは無用で、欲求がおのずからに生じて対応する。苦痛に対決するのは、感性を制御・抑制する意志である。苦痛から逃げない姿勢をもった人間は、知恵のもとでの実践的能力の意志を働かせて苦痛に耐えることを通して、この意志を肥大化させていったことであろう。神与、自然からの苦痛を前に、これから逃げずこれに挑戦するという自律の精神をもって、忍耐力を大きくし、したがって自律的な意志を強力なものにと育て上げていったのである。苦痛への忍耐力、強い意志は、神与ではなく、ひとが神(自然)に逆らい挑戦して自身において創造していったものである。この自律的意志をもって、自然を超越していったのであり、理性的意志は、人間の尊厳の中核を創り上げているということができる。
6-7-2-3. 苦痛と忍耐が、強い意志を創り、人間的尊厳の核を創った
自律にせよ他律にせよ、律すること、制御し支配することは、実践の営みである。自己内外の自然を制御し律する実践である。単なる理性知、観想する知は、物事の真実を捉え深慮するが、それだけでは、傍観するにとどまる。その対象を星の高みから眺めるのみである。これに対して、その対象に直に働きかけ制御するような営みに出るのが実践である。そこで理性は実践理性となる。それが意志である。意志は、自身の理性知をもって対象に働きかけて、自身の思うようにと実践的にこれを改変していく。自身の律・法をもって制御・支配することになる。ひとの尊厳は、内外の自然への卓越した支配にあるが、この支配を行うのが実践的な理性、意志であり、この意志こそがひとの尊厳の核となる。
自然が理性の思う通りに動いている場合は、理性意志は、働く必要がない。自身にとって快適と思う状態に対しては、ひとは、ことさらに自身の意志をもって制御することはない。意志が働くことになる場面は、自身の思うようにならず、自身の理性の思いに逆らうような、抵抗をするような場面である。実践理性、意志が働く対象は、自身にとって不快で困難な場面になるのが普通となる。感性的な快楽において、理性がこれを是とするときは、理性は働く必要はない。その快楽が理性的に許容できないとき、理性は、感性の抵抗を抑止してその享受を拒否することになる。その拒否は、感性の抵抗を受けて不快・苦痛となる。その苦痛を甘受しつつ理性は意志を貫く。意志が強いとか意志が薄弱と言われるのは、困難な状況、苦痛を前にしてのことである。いずれにしても、理性から見てスムースに行く快適な状態では、実践的に働くことはないから、意志は、休憩できる状態にある。意志が働くのは、自身の理性に逆らう困難な苦痛の事態においてであり、この苦痛から逃げることなくこれに耐えて、その理性の意志を通そうと努めるのである。快のもとでは、これを欲求し享受するのみで、忍耐も意志も働く必要がない。苦痛が、これに挑戦するひとに忍耐を求め、意志の覚醒と貫徹を求めることになる。
楽園に生きるものたちは、快適であり、苦痛がなければ、あるいは、あってもこれから逃げて苦痛を回避しておれば、万事うまくいく。苦痛・苦難に迫られることがなければ、苦痛を甘受して忍耐してのみ生きていけるといった状態は、存在せず、したがって自身の意志を働かせる機会などなく、穏やかに暮らせることであろう。しかし、人間は、その自然の楽園、エデンの園を追放されたのである。以降、苦痛を甘受し忍耐・我慢を重ねてはじめて己の生をまっとうできるということになった。いまも、なお、それは、人の生の根本の姿になる。それが辛いことゆえに、かわいい我が子には、楽園状態を保ってやりたいという親心が生じて、結果、楽園の動物に退行したままの子をつくってしまうことが少なくない。いわゆる「三代目は家をつぶす」ということになる。三代目は、産まれたときから、苦難に出あってもこれを逃れて、または、代行してもらって、これに挑戦することがなく、我慢・忍耐のない、意志薄弱な「ぼんぼん」になる。快があてがわれるばかりであれば、意志を発揮し鍛える機会はなく、軟弱な動物にとどまることとなる。その親の庇護がなくなれば、没落必至となる。「かわいい子には旅をさせよ」というが、世間の荒波にあって苦闘することがなくては、苦痛に忍耐できることがなくては、人間らしい意志は出来上がらない。
6-7-2-4. 精神世界では、快は些事だが、苦痛は深刻な反価値となる
苦痛は、精神世界でも大きな力をもつ。快は、感性世界で吸引力をもち、人も魅するものだが、精神世界では、これは些事となる。幸福感(精神的快)は、恵まれたところにいだくが、恵まれているひとは、かならずしも、幸福感はいだかない。恵みの状態が肝要であって、これに快の幸福感をいだくことは些事であり、恵まれている状態が持続する場合、おそらく、はじめに幸福感を抱いたものでも、これを感じないようになっていく。肝心なことは、恵まれていることであって幸福感ではない。逆に、幸福感を抱いている者が、恵みに乏しく、周囲からみて悲惨な状態であったとすると、それは宗教にはまっている人にしばしばあることであるが、当人は、いいとしても、周囲にとっては、惨めなことになってしまう。宗教二世が、昨今、問題になっているが、親は、宗教にはまって、教祖に全財産を巻き上げられて至福状態にあるとしても、子供は、貧困で、頼れる親の目は教祖の方ばかりを向いていて育児放棄・虐待状態にあるのでは、悲惨さのみを味わうのである。親の主観的な至福状態は、周囲の客観的にものを見る者からは、悲惨でしかない。精神的レベルにおいては、快ではなく、精神的世界での価値の獲得が目的となる。快は、どうでもいいものとなる(麻薬を使って恍惚・至福とならなくても、至福感などどんな所でも思い(解釈)しだいで簡単に得られる。地震で周囲の大勢が死んだのに、自分は生きている、両足切断で済んだのは「神のおかげ」と至福に浸りうる)。幸せとか快感をいだくかどうかは些事で、肝心なことは、客観的に価値を獲得できて、恵みを現実にいただけることである(もっとも、昨今は、恵まれていても、不平不満が多く不幸顔をしているものが多いので、それは、尊大、不遜だろうと幸福論者はいう。客観的に恵まれているのならそれに応じて幸福顔をもって周囲にかかわり、周囲の笑顔をさそえるようにすべきではある)。
だが、苦痛は、精神世界でも大きな力をもつ。感性世界と同様に、苦痛は、精神的苦痛の代表にもなろう絶望とか不安は、これの回避・逃走へとひとを駆り立てる。希望の反対の絶望は、死に到る病ということがあるように、大きなダメージを人に与える。不安も、同様である。危険の可能性に抱く不安であるが、危険はさておいても、不安の感情自体をなんといっても解消したいと、精神的苦痛の不安を除去することに必死となる。精神的苦痛は、無視できない深刻な苦痛として、ひとは、これを回避し、逃走しようとする。不安・絶望の事柄よりも、まずは、とにかく、そこに生じている苦痛・不快感情(不安・絶望)自体をなんとかしたいともがくことになる。精神的レベルでも、苦痛・不快は、些事などではなく、重大な事柄として、事柄の客観的事態よりも、その感情自体を取り除きたいと、その反価値の感情におののくことである。根本的には客観的な、絶望や不安を産んでいる事柄自体を解決していかねばならないのであるが、それは簡単ではないこともある。例えば、子供が死んだ場合、その絶望感は、おそらく、残りの人生が終わるまで続く。先だった我が子を思い出す度に、悲痛の思いを爾後の一生くり返すことになる。その絶望感自体をなんとかしたいということになる。思いを変えて、「天国に、極楽に行って、この世の地獄から離れえて、幸せになっているんだ」と、真に思えるならば、妄想ではあっても、こころは落ち着き、絶望感からは離れ得る。苦痛の絶望感をなくすることが何より肝心なことになる場合もある。病的な不安なども、不安の客観的な事態そのものはさておいて、苦悶の不安感情を解消することが一番となることである。快とちがい、苦痛は、精神的領分においても、些事どころか、この感情自体を何とかすることが肝要なこととなる。
精神的苦痛は、絶望とか不安は、大きな苦痛であり、耐えがたいものとして、ひとは、それの生じる手前でこれを察知して、この苦痛を生じないで済むように心がける。しかし、ときにその苦痛に遭遇することである。これを忍耐して克服するならば、ひとは、大きく成長する。できた人というのは、そういう苦難を耐えてきた人であることが多い。苦痛から逃げず挑戦するということが意志を強化し心構えを高く大きくしていく。苦痛は、快とちがい、精神的領域においても、ひとを突き動かす強い(反)価値であり、しばしばその後の生の飛躍を生み出していく。
6-7-2-5.
人の生きる世界は、広大だが、それは下位方向にも広がる
ひとは、パンだけに生きるのではないと言う。動物は、個体と種の維持のための食欲と性欲に生きている。だが、ひとは、ちがう。食欲・性欲の二つはひとの自然的生の基礎ではあるが、ひとは、これを土台、踏み台にして、精神的世界に向かい、これに生きる。場合によっては、食・性の本能を無視して、快不快の衝動を抑制し苦痛を甘受し忍耐して、高度な精神世界に生きようとすることもある。
だが、これは、かならずしも、良いことばかりではなかった。自然を離れ超越して自由に自己の思うようにするということのうちでは、動物以下になったり、極端に精神的なものを求めて動物的営為を拒否するようなことにもなった。中庸の節制を心掛けるのではなく、過激なことをもたらすようにもなった。ひとを含めた動物の根本の欲求に、個の維持をなす食欲と、種の保存のための性欲があるが、これについて、尊厳を有した人間にふさわしいやり方をするにはとどまらない者が出てきている。これも、自由をもった人間の営為ではある。しばしば悪しきことへの自由である。それは、軽度のものから到底許しがたいと思えるようなものまでが見出される。
ひとの動物的自然的営為の量的な拡大、豊富化ということでは、上にむかって向上拡大したのみではなく、より動物化した方向へも拡大した。食なら、飽食では、野生動物ではおそらく不可能な肥満となるような過食となり、商業化した食の快楽のとめどもない量質拡大は、近年顕著である。性の方では、一夫一婦制をあざ笑い、何百何千の異性との性交にかまけて鬼畜に堕すものもいる。
単に量的にというだけでなく、奇怪な楽しみ方をして犯罪とみなされる方面にさえ手を出すものも生じている。これも、動物を超えた快楽享受の拡大である。異性生殖の動物としては人間も、異性愛となるのが普通であろうが、なかには、生殖不可能な同性愛、犯罪という以外ない幼児愛に向かうものもいるし、獣姦、死姦を行う者もいるという。死体を愛するのは、まだ人間を愛するのであろうが、なかには、物に性欲を感じてしまうものもいるようである。最近、小学生の上履きに感じて大量にこれを盗んでいたとか、公園の水道の蛇口に淫行を働いた男性(お尻に水飲水栓を入れたというからホモだったのであろう)があったとニュースになっていた。そういう奇々怪々な性欲も人間においては開発されているようである。逆に、性欲自体を絶って動物的身体とその欲求を完璧に超越して、聖人になろうとするものも、古来、多い。性欲も人間においては、多種多様である。
性欲は、人間では、周囲に隠して満たされるので、正確なところはよくは分からない。だが、食欲の方は、隠すことは少なく、動物にはない多様多彩な欲求充足が見出される。多くは、動物的な快楽を一層充実させようというものになるが、単なる美食ではなく、奇怪な方向に向かったものもある。動物を超えるのではなく、下位方向に動物以下に成り下がるようなものもある。コインを飲み込むなど朝飯前で、大きな異物を飲み込んで手術する羽目に陥ったといったことがときどき話題になる。お尻から酒を飲むのは、奇怪ではあるが、座薬はそうであり、正常の範囲内であろう。が、瓶をお尻から飲み込んで出なくなって大事になったというようなことが(これは食ではなく、性の営為であろうか)、時にニュースになる。
快・美味という動物的なものは無視し超越して、その栄養摂取に直接向かうこともある。動物的には食に属すとはいえないような摂食である。薬はその代表になろう。薬は病気を治すためにやむなく飲むのであるが、栄養補給ということで摂取するもの、サプリメントとかいうようなものは、一応、食の一形態であろうか。味がないのが普通であろうから、動物的感性に美味の快を得られるものではなく、奇怪な、動物を超越(逸脱)した食ということになろう。なかには、栄養になるとは思えないものも体にいいからと、摂取することである。ひとの心身は、その気になれば、結構効いた気になれるし、実際に効くという。プラセボ(偽薬)効果は、馬鹿にできないようで、お祓いを受けた水だからと有難がって飲めば、効果がありうるようである。ひとは、精神的存在で、その動物的レベルのものへの支配は相当なもので、物としては、効果があるはずのないものでも、本人が効くと思えば、生理をも支配して効くことがあるようで、食も、動物を超越してか、下位に逸脱してか、多様多彩である。酸素水だとかを飲んで効いた気になっているものもいる。ひとは、幻想にも生きるので、幻想を飲んで元気になる人もいるのである。そういえば、市販されているミネラルウォーターも、結構、普通の人間が常用しているが、これも日本では公営の安くておいしい水道の方が殺菌効果のある塩素も入って健康的であろうに、高い金を出して幻想を飲んでいるのである。
6-7-3. ひとは、自然を超越し尊厳の英知世界に生きる
自然のうちで動物は苦痛から逃げるので苦痛の手前までの世界にしか関わらない。だが、ひとの忍耐(苦痛甘受)は、その障壁としての苦痛を乗り越えていく。苦痛の手前までの世界にいきる動物を超えて、苦痛の向こうの世界にと、生きる世界を広げる。他方で、快のうちに生きる動物と人であるが、ひとは、これを超えて快でない世界にまで手を出す。快が引く世界でなく、これに引かれない別の方向の世界にと進むことである。これは、さしあたり、おなじ感性的世界のうちにありながらも、苦痛や快の枠を乗り越えた、人間のみが住みうる自然世界である。
ひとは、さらに、感性世界自体を超出もする。快不快・苦痛の感性そのものを超越した、英知、精神の世界、イデア界を切り開いた。苦痛を耐えこれを甘受するのは、単に苦痛の向こうの自然世界というのではなく、この自然世界自体を超えるためにすることでもある。苦労して岩山に登るのは、なみの動物の限界を超えてオーバーハングのところでも登れるというだけではない。まったく動物には及びえない、美的世界を満喫するために、あるいは、その山頂で写真をとるために苦労して登るのでもある。忍耐は、苦痛を甘受して、感性的自然世界を広げるだけではなく、それの上に聳える異世界、理性的な精神的な世界を切り開くのでもある。感性的個として生きる自然世界を超越して、理性的な普遍性の世界へと飛翔する。
ひとの精神的世界は、生理的動物的な快不快の世界を超越している。その世界に生きるには、苦痛でもこれを受け入れ耐え、快でもこれを抑止して、自然からの離脱・飛躍が必要である。なにより、苦痛は強くひとを縛るから、これから自由になることが精神的世界には必須である。ひとは、精神的な諸欲求をもつが、これは、多く苦労の要る世界であり、苦痛を回避する生理的動物的な世界に埋没していたのでは入ることができない。苦痛でもこれを忍耐して、苦労をして、精神世界の営為を実現していくのである。人は、精神世界、理性的世界に、イデア界に生きるが、それには、快不快の自然を超出してその先にと進む必要がある。苦痛から逃げず、これを忍耐して、精神世界の扉は、開かれてくる。プラトンは、イデア界に至るには、身体が感性界に縛られているのを解き放たねばならないと言ったが、その束縛の代表が苦痛(と快)であろう。この苦痛の束縛を解き超越して、ひとは、イデア界へと飛翔することが可能となるのである。
快不快の自然世界にひとも生理的には生きている。だが、ひとは、その上に精神的な理性的英知的な世界を構築している。その英知世界に生きるには、個体としては基礎に生理的生が必要で、その支えを失うと(例えば、死)、その上に聳えている精神世界も崩壊する。ではあるが、それはあくまでも土台・基礎なのであって、これに支配されているのではない。これを自由に制御支配して、その上の英知世界は、生きる。快不快の自然には従い生理的には動物として生きるが、必要なときには、それを制御して、快にしたがわず、苦痛の奴隷にとどまることを停止して、自由になって、その生物的なものを土台にしつつ、上部に聳える精神世界の営為を充たしていく。動物とはまったく異なった世界をそこに展開する。ひとは、自然的に快不快の世界に動物的に生きつつも、なによりも、その上に聳えるイデア界に、精神世界・英知界にと生きる。
6-7-3-1.
ひとは、自然世界に住み、その超越世界に生き、仮想世界に遊ぶ
ひとも動物も夢を見る。だが、夢は、現の世界の記憶・想像を踏まえたもので、現実の法則を無視して粗末にこれを再現して見せるだけである。これに対して、ひとは、この現実的自然、実在世界を超えた、もうひとつの、感覚的にもしっかりした、一応は自然因果をも踏まえた世界を描き出すことをしている。フィクションの世界の創造である。古くから芸術とか宗教においてこれが実現されていた。原始の人類は、外的自然に生きつつも、洞窟の暗闇の奥深くに、人や動物の壁画の別世界を描き出していた。
宗教は、この実在世界を超越し支配する神を想定して、虚構の極楽や地獄を作り出し、その妄想の広大な世界を描き出した。それは、理性的合理性のもとに広がる実在世界にとっては、これを豊かにするよりも、しばしばブレーキ、害悪をもたらすものであった。インカ帝国は、その英知のもと、詳細な太陽等天体の動きを知って作物栽培を高度なものにしたが、その宗教的世界観によって、太陽の精気を維持するには人間の血が、生贄が必要という宗教的妄想に囚われて、尊い生命をたくさん犠牲にささげていた。
宗教では、自分たちの描く神的世界を虚妄とはしないで、実在世界を超越した一層価値ある世界だと思い込んでいるが、人類は、はじめから、虚妄の世界、フィクションの世界と承知しつつ、これを楽しむことも行った。神話は、この世界を動かす神々を語るが、昔話(メルヘン)は、鬼神、魑魅魍魎を語るとしても、それは、フィクションとして、実在世界の外に位置した虚、架空の世界に位置付けて楽しむものとなる。小説など、はじめから、作者が妄想した世界であることを踏まえて楽しむ。歴史小説は、素材に史実らしいものを使って妄想をたくましくしてこれを楽しむ(小説の中には、妄想などでなく、個別的現実を仮象・フィクションの方向へ離れるのではなく、理性が感性的個別の背後の普遍的合理的真実を解明するように、普遍的な真実の方向へと深めて、感動させる場合もある)。
『忠臣蔵』など、いまでいえば暴力団のお礼参りの話に近いものであろうに、史実を離れて好き勝手にし、これを賛美してやまない。昨今義士祭が各地で行われているが、ほぼ虚構を楽しんでいるのである。広島県では、その時期になると三、四ケ所で義士祭が行われている。三次のそれは、浅野内匠頭の妻あぐり姫の実家が三次を拝領していたことにかこつけて祭り上げる。が、あぐり姫は、生まれてからおそらくずっと江戸の人だったのであり、三次には無縁のひとだったであろう。三原でも義士祭があるが、これは、浅野の関係からというよりは、江戸期、忠臣蔵にかかわる浄瑠璃作家が三原出身の元僧侶だったということを縁にして楽しんでいる。もうひとつは、浅野本家の町、広島市であるが、ここは、本家のこと、祭りをしておかしいという者はいないだろう。が、いま、行われている義士祭は、マスコミに乗るものは、義士の木像(義士堂は原爆で消失したが、木像は残った)を祭っている明星院のそれで、付属の二葉幼稚園の子供たちを義士に仕立てて楽しむもので、事件関係者とその家族の悲惨な話を想起させるようなものはなにもない(なお、浅野家の菩提寺であり、大石家の墓や赤穂義士追遠塔のある国泰寺でも義士祭が行われているようだが、最近郊外に移転したせいか、お祭り騒ぎはしてないようである)。昨今盛んな祇園祭りなどの各地の行事も、もともとは、本気で疫病を阻止し、地域の繁栄を願ってするものだったろうが、いまは、疫病がはやったら、うつったらいけないので祭りはやめる。もっぱら、贅を尽くした虚構を楽しむ地域伝統の行事になっている。
芸術は、ひとが作り上げる美的な世界であり、実在の重苦しい秩序を超越して遊べる虚構・フィクションの別世界だが、その映像技術など情報産業が昨今高度化し、実在世界のことを映した情報は、現実世界そのものと見まがうばかりとなっている。仮想、フィクションの世界は、実在世界とは距離をおいた夢・妄想の世界ということであったが、その映像・妄想の世界が現実とそっくりに感覚的に作り出せ、いわば現実を二重三重にして見ることができるようになっている(もっともこれは慣れということが大きい。エジソンの時代には映写された動く汽車を本物と見間違えて逃げまどったことであり、原始の洞窟壁画を原始のひとは、これをもう一つの本物と見ることができ感動したにちがいない)。身体は実在的な一地点にあるのだとしても、感覚的には、無数の場所に即降り立ってこれを実在的と感じることができるような、緻密で無限に広がる仮想空間をもった情報社会に我々は生活しはじめているのである。
6-7-3-2. 人の世界は、各個体・地域に独自的で、かつ類的普遍的でもある
人類は、「出アフリカ」をもって苦難に挑戦して現代人にとなった。各地域に展開してそれぞれの地で固有の文明を形成した。個体自身の体験のもとでは、経験世界の拡大はたかが知れたものである。だが、ひとは、個にとどまらず、類として全体として生きる。身近な家族・一族のみか、ひろく周辺へと交わりを求め、その生き方・知見を拡大していった。その理性は、言語をもって、経験を蓄積し伝達しあい共同知を豊かなものとしていった。時間のもとで、次の世代へと経験知を伝達し、地理的に周辺部へと経験知は伝播し、獲得した知は、皆のものとなった。ひとの個は、類として進歩した。傑出した個の知恵は、あるいは特殊な地域での特殊な知恵は、すぐに類全体にと伝達され、全体の知恵となり、全個体の知恵となっていった。
広い地域に分かれた人類は、同様の言語活動、理性活動をもって高度化していったが、同じ言語ではじまったとしても次第に通じ合えないほどに遠方へと拡大し、異質のものにと分化した。だが、より豊かな生活を可能にするために、各地の異なった獲得した価値ある物や情報を交換し伝達しあって、より広く豊かな人類の経験世界を創り出した。動物の場合は、経験知の伝達は、ほとんどないだろうが、人類は、各地に散らばって異なる経験をし経験知を積み上げ、この経験知を広く伝達しあって、全体・類の知にと作り上げ、自然のうちで至高の存在として定着していくこととなった。
同じ理性的存在として、人類は、各地でその状況に見合った農業や牧畜などの自然支配を定着させて、尊厳をもった存在となった。さらには、各個人ごとに経験するものは異なることで、各々は個性的な存在となっている。特殊的個別的に差異した存在であり、経験知は、各個で異なるから、普遍的な理性をもったものであっても個性豊かな存在となる。人類の尊厳は、個体レベル、個人個人のその個性的な生きざまにおいて、その獲得している能力において、それぞれに異なった様相を示す。尊厳の核となる理性を同じように分有していて、万人が同じく尊厳を有しているが、個として特殊なあり方をして、その個性をもった各人は、社会的に分業し、各々に固有の使命を担って個の尊厳を誇る。
時と場所に応じて、そこで最適の対応を理性は作り出す。各自の体験するものは、顕著に異なった個性豊かなものになる。と同時に同じ理性をもってのことであり、かつ言語も通じ合うようにと個・種の経験を超えて、獲得した類的な経験知を共有することとなってもいる。個の獲得した高度の知は、地域・歴史を超えて類としての共同知になった。人類としての生きざまは、その分有する理性のもとに展開し、人類としての規範、正義とか仁愛を共有し、精神的生活は、特殊な地域のものに限定されず普遍的類的なものとして展開されていった。生活物資も、塩のような必須のものは、遠くにと運ばれ、サヌカイトのような矢じり・ナイフになるものを見出せた地域での道具は、すぐに、周辺に広がっていった。現代でも、各地域の固有の文化をもって個人は、個性を生かした生活をするとともに、世界中の情報・物をもって普遍的な現代人として生きているのでもある。交わるのが簡単ではない秘境の地にも、即、最先端の人類の知の結晶のスマホは行き渡った。
6-7-4.
苦痛から逃げない忍耐で、人の道は広く多彩に開けてくる
苦痛は、自然的感性的世界で大きな力をもつが、人間独自の精神的世界でも同様の力となる。快の方は、精神世界では、些事で、ひとを動かす力はあまりないが、苦痛・不快は、人生を左右することしばしばである。精神的な苦痛の絶望とか悲嘆は、この状態にならないようにとひとを動かすし、その苦痛を受け入れねばならない状態では、ひとはその苦痛・苦悩にうちのめされる。そして、この苦難・苦痛に耐える者は、これに鍛えられて、より高い精神的存在になってもいく。精神的世界の苦痛から逃げていたのでは、その人生はつまらないものに終わる。ひとは、現代社会では、自然的な危険からは概ね守られているので、精神的な苦悩を避ければ、一応の穏やかな生活が可能である。だが、それでは、精神的存在としての固有の営為は、ないがしろになり、ペットのような単調で無意味な生を惰性的に維持するだけとなろう。ひとは、自然世界の快苦を乗り越えることで、自然超越の精神世界にと高まり、他の動物にはできない卓越した自然支配を実現した。さらに、この卓越した精神世界において、苦痛が障壁となってその活動を狭めるのを乗り越えて、ひとは、苦痛・苦難を甘受しこれから逃げない忍耐をもって、苦痛を超越して広がる多彩な精神的人間世界に生きる。
精神的生にリードされての社会的生活では、個我として生きると同時に社会の成員として使命等を担って全体・普遍にと生きる。それには個我の諸欲求を制御しその快不快の感情を抑制しなくてはならない。苦痛・苦悩を耐えて個我の感情・欲求を制御・抑止して全体・普遍の合理的な立場に生きる。そこに生きて生の充実を抱こうという者は、その超越の営為をつらぬくには、意志の営為を妨害する苦痛・苦難の障壁を乗り越え排除することが必要であり、そこでの苦痛甘受、忍耐を受け入れることがなくてはならない。精神的世界では、快自体は些事である。食の快や性の快とちがい、希望や幸福では、現在や未来の恵みの事柄・価値が希求されるのであって、そこに快があろうとなかろうと問題ではない。だが、苦痛は、この高度の世界でも、その感情自体が大きな力となる。精神的苦痛の絶望や不幸は、ひとを駆り立ててやまない。かつ、これから逃げていたのでは、精神的生は低レベルにとどまるだけとなる。精神的な苦痛の絶望などに挑戦し忍耐することで、この世界は、大きく開けてくる。
ひとは、未来に目的となるものを掲げて進んでいく。社会的精神的なものを中心にした人の欲求は、すぐには実現できず、なんらかのプロセスを介して、未来において充足可能となる。掲げた未来の目的を確保するために、手段となる営為に汗を流す。その間、欲求充足はお預けであり、したがって、不充足の不快、苦があり、手段展開での妨害への苦しみを受け止めねば先には進めない。かならずといっていいほど、欲求実現までの間は、苦しみが介在する。その苦を受け止めてこの苦から逃げないことで、価値ある目的を獲得できるのである。ひとの世は、苦界といわれることがあるが、ひとの多彩な欲求は、手段の苦をもって達成可能となる。苦を経ることで、豊かな人生は開けてくる。苦となることを回避していたのでは、おそらく、ひとの人生は、小さな領域にと委縮する。それを打破して、この苦界を多彩で豊かな苦界とするのは、苦の犠牲を乗り越えていくことをもってである。苦痛甘受、忍耐はひとの精神的世界を大きく豊かなものとする。
6-7-4-1. 苦痛甘受の忍耐自体には、悪への禁止則はない
苦痛への忍耐をもって、ひとの世界は大きく広がる。が、かならずしも、その世界は善良なものに向かうとは限らない。忍耐は、あまり先を見ない。泥棒が、高い塀をよじのぼる苦労をし、家人が寝静まるのを蚊に刺されつつ我慢して庭で待つのも忍耐である。忍耐では、目の前の苦痛を見ることが肝要であって、それのもつ意義等を広く反省するようなものは、かならずしも備わっていない。場合によると、苦痛に囚われて、これの甘受に精一杯となって、その忍耐の結果については、反省することが疎かになる事態も生じる。そのもたらすものは、愚かしい悪の世界ともなりうる。泥棒であっても、良識・良心を働かせる場合は、その悪を拒否して善の世界を求めるが、忍耐の場合は、それ自体に善を求めるような働きはない。善悪など顧慮の外にあって、ひたすらに、苦痛に耐え、苦痛甘受に集中するだけである。苦痛甘受によって、世界は豊かに拡大されるけれども、悪しきことを制限するような配慮は、忍耐自体には備わっていない。悪しき忍耐、愚かな忍耐があって、そういう方向へとそれるような由々しきことを結果もする。忍耐では、しばしば「骨折り損のくたびれもうけ」をいう。忍耐の先のことまでは、忍耐自体では注目しない。忍耐の肝要は、苦痛であり、苦痛を甘受さえすれば、忍耐自体は成就したのである。忍耐するに際しては、忍耐を鳥瞰する、忍耐の外に聳える、冷静で卓越した理性がしっかりとしていなくてはならない。悪事を強要されての忍耐も、自身で悪事に汗を流す忍耐も、忍耐は忍耐である。
ひとは、目的とするものを実現するために手段を選ぶ。そのとき、快の手段のみを選ぶとすると、楽ではあるが、かなり目的の実現は限定される。快を選ぶのは自然に背かないで済む方法である。だが、苦痛を媒介にしてこれを耐えるということでのみ目的の実現されることが多い。そういう手段のなかには、目的のために「手段を選ばない」という無思慮なものもある。周囲に迷惑をかけるもの、人道に悖るもの、犠牲が大きすぎるものもある。忍耐の苦痛甘受は、善悪を問う前にあって、それが善であろうと、悪であろうと、苦痛に耐えるものなら、忍耐である。かりにその手段や目的が悪であろうと愚劣であろうと、苦痛甘受があれば、忍耐である。その苦痛甘受は自身の犠牲であるのは勿論だが、周囲に迷惑なことであったり、残酷なこと、自他の被害が甚大なものになることもあり、理不尽な反理性的なものであることもある。そうであっても、苦痛甘受があれば、それらも忍耐である。
6-7-4-2.
意志も、悪に染まることがある
ひとの意志は、個我・感性を超越した理性の営為として、普遍・客観・合理をもってするもので良心・良識の働きとなって、本源的には善意志になる。だが、ときに、その意志が悪に染まることがある。意志を悪のためにと働かせるということであるが、その働かせるものが悪の源となる。ひとは、尊厳の理性意志をもつとともに、他方に動物的衝動・自然感性を有している動物でもある。その動物的個体として快不快に突き動かされて、普遍的理性的には、よくないと分かっていても、その自然感性に流されることがある。しばしば、そこでは、理性の方が、その自然のために利用される。本来、理性の制御下にあるべきエゴの感性を上位に置き、理性を逆にその下僕にするという転倒が生じる。ここに悪の根源があるのだといえよう。おいしそうな柿がなっているので、ついほしくなって無断でこれを盗ることがある。そこでは、理性的に考えをめぐらして、一つ二つなら大したことではなかろうし、まず見つかることもなかろうと思案しつつ盗む。そう思案する理性は、感性・衝動の下僕になりさがっているのである。理性のみで考えれば、盗むことが理・規範にあっておらず、自分が盗られたら、万人納得の私的所有の原理を侵す許しがたい犯罪と見なすだろうに、それにヴェールをかけ意識しないようにして、自然衝動を優先し、これに理性がつきしたがうことになる。結果、人間にもとることを行い、悪事を働くことになる。その理性意志は、その悪事のための手段となり下僕となり、悪しき意志となる。
憎悪は、暗い意志の貫徹というイメージであり、単に感情の問題にとどまらない。感情は、身体の反応を必須とするから、(身体の不調続きで不安感(気分)が持続するというような場合を除けば)そんなに長期にわたってつづくものではない。だが、憎悪は長期にわたる。ときには、世代を超えて続くこともある。仕打ちをうけて、ストレートには仕返しできない弱者が、その怒りの感情を抑制してうちにとじこめ、仕返しできるチャンスを狙うところに、憎悪、憎しみは形成される。反撃の感情を表に出せないのでうちに秘め続け、理性を動員もして巧みに仕返しを計画し、ひそやかにはるかな先を描いて綿密な工作を行う。その仕返しへの執拗なエネルギーは、その持続は、意志をもって行う。意志は、その憎悪感情に利用され、その持続力を担う。仕返しできる日をどこまでも待ち続け、自身でできなければ、次の世代にまでこれを担わせる。この憎悪における暗い意志は、意志ではあろうが、憎しみの感情に先導されこの感情の下僕となって、憎しみの感情にのっとられた悪の意志となる。周辺から冷静に判断してみて、その憎悪をもっともだという場合もあろうが、多くは、裁判でもしたら呆れられるような、邪推であったり逆恨みでしかないものになる。憎悪は、執拗で貫徹力の大きい隠蔽された悪意、悪意志である。
ひとの尊厳は、卓越した理性のもとにある。個我の自然感性を踏まえつつ、理性の普遍性、合理性、客観性に基づいて良心・良識に則って動く本来的な理性意志は、善意志となろう。だが、理論理性、知性が、エゴの感性に乗っ取られて悪を綿密に調査し立案することがあるように、ときに強欲なエゴに支配されその下僕になった意志は、悪事に手を染め、ひとの尊厳にもとる悪意志となる。
6-7-4-3.
善悪は、それを担う主体・立場で異なりうる
善は、選択の自由を有する者が、より価値あるものを選択することで、悪は、より価値の低い方を選ぶことと一般的には言いうるであろう。権利付与について公平さをとるのが善だというのは、それが同じ理性をもち同等の自然能力を有している人間本性に見合ったもので、関係者全員に納得がいく、より良い振る舞いということであり、えこひいきするやり方は、贔屓された人にはありがたいとしても、それ以外の者にとっては差別されて不愉快なことで、より価値のないものを取ることとして、悪となる。少ない援助の金品を分ける場合は、だが、窮乏している者を優先して、余裕のある者を後回しにする方が善で、一律に付与する方が悪となろう。理性と感性では、理性のもとで、万人に妥当する普遍的で合理的なものをとって、感性のエゴを抑止するということになれば、より価値あるものを選択した善となるが、感性・衝動の方を優先して、利己にかたまり普遍性・合理性を無視し、良心・良識の理性をないがしろにすることは、より価値のない方を選ぶものとして悪となる。
ただし、理性をとるものが常に善になるとはいえない。全体だけを見て、個を見ない理性では、片手落ちになる。狭い範囲にとどまった理性の営為は、より広い全体をもってするのに比して、価値のない悪を選択することが多くなる。戦争では、どの国家でも、自国の方が善で相手国を悪とする。両方ともに、相手からいえば悪である。ここでは、個の感性の方がましな善の選択をして、反戦が善となることもありうる。なにをもってより価値のあるものの選択、善とし、悪とするかは、それを判断する主体、立場によって異なったものとなる。しかし、善悪は相対的だとはいっても、より普遍的でより合理的客観的な視座にたっての理性が可能であれば、その視座からして、暫定的ではあれ、しっかりした善悪の決定はできる。国際司法裁判所のような、より合理的で、より普遍的客観的な立場から、国家間の善悪の判定は可能である。ただし、国際社会は、なお(富や武)力で動いているから、裁判等で悪と糾弾しても、強大な国の悪の改まることは、あまり期待できない。
個我は、しばしば善悪を判断して行為する。そこでは、理性が主導して合理性客観性普遍妥当性等をもって判断するが、個我は感性・衝動を土台にしており、その感性の方を優先して、理性を下位に置くことがある。感性を優先した価値判断は、理性的には悪の選択となることが生じる。そこでは理性は、その良心・良識は恥じ、自身を悪と嫌悪するようなことにもなる。さらに、理性的工作がこの悪に加担することになれば、個我は感性・理性ともに悪に向かい、悪意をもってふるまうことともなる。ここでは、理性も狭い知見のもとでは、その感性の動きを悪とはとらえず、当たり前のこととして、これを首肯したものとなることもある。他者にそれがかかわったものであった場合、真剣に思慮することなく、あるいは真摯であったとしても浅慮で、そのことが悪になるとしてもそれを自覚できず、その他者にとり良いこと、善い選択と思ってすることもある。その他者にとって地獄への道は善意で覆われているという状態になりかねない。逆に、今は、一般的な理性からみて悪として嫌悪されているものが、その先においては、善と見直されることもしばしば生じる。新規の事態は、先見の明のあるものの営為は、なかなか一般的な理解を得ることができず、より愚かしいものを選択している悪と見なされることがある。
6-7-4-4.
善悪の世界に生きるのは、人間だけである
動物の世界には悪はない。本能・衝動にしたがうのみで、善悪の判断で動くものではない。善悪は人のみが有している世界である。善悪の価値をもった世界を見出して、これにしたがって自律自由のもとに生きるのは人間だけである。自由に選択できる種々の価値ある事態を見出し、そのうちからより価値あるものを選択するのを善とし、より価値のないものを選ぶのを悪とする。理性をもって善の世界を見出し、動物を超越した尊厳をもった世界にひとは生きることとなった。だが、同時に、動物でもある人間は、より価値のない方を選んで、悪いこと、悪と承知しつつ、自身の感性・衝動を上にたて、理性をないがしろにして、これに従う場合も生じた。それもまた、自律自由の人間のみが見出している動物を超越したというか、動物にはありえない状態(悪)に堕しての生き方ではある。
価値は、主体の求めを充足できるところにあり、常になにかにとっての価値である。一つの実在物も、多くの価値づける主体をもち、無数の価値をもつ。一つの果物でも、食の快を満たす美味という価値だけでなく、美的価値、薬用のための価値、交換の価値等をもつ。それら無数の価値づけ、比較があって、その場に見出されている、よりましな価値あるものを選ぶのが善となる。低い価値を選ぶのが悪である。一つのもの・事態のうちに、自然的精神的な無数の価値を見出し、その場での選択としての善と悪を見出す。
ひとは、理性的存在であるが、他方で、動物的自然をもった心身を各個体として有しているから、これに動かされもする。動物的感性は、個我・エゴとしてのひとを突き動かす。だが、それは、身勝手な衝動等となるから、理性的な善悪を承知したものとしては、葛藤・苦痛を生じることとなる。エゴの衝動を抑止し、その快楽を抑止して、理性の良心・良識のもと、身勝手なエゴの悪を抑止し、感性の苦痛を甘受しての我慢・忍耐をもって、善を追求する生き方をすることとなった。だが、多彩な価値世界において、より価値のないものの選択としての悪の道も可能となったのでもある。その根本は、自然感性を優先して自律の理性をそれの下僕にすることであった。自律自由の存在としての人間は、悪の選択に自身の感性・エゴの方から誘われ、それを選択することも生じた。それも動物の知らない世界である。
悪という反価値の世界を動物は有さない。そういう世界は、善の世界とともに、諸価値の世界を知り自律自由のもとにある人のみが見出し開発した世界である。自由の人間は、悪をも選択できる自由の下にあり、悪を行うことともなった。ただし、尊厳をもった理性は、当然、自身の悪行を周知していることであり、その良心・良識は、これを恥じて、自身を価値あるものの選択、善へと向けなおそうとする。私的所有の原理をふまえて自身の物が盗まれたらこれを犯罪・悪として追及する者は、自身が盗みをするとき、これを悪と自覚してする。悪と断定し自身を自身で罰してこの犯罪を阻止する自己内の理性能力、良心が動く。自身のうちに、悪を阻止する良心・良識を有して、ひとは、その尊厳を堅持する。が、ときに、飢餓とか、正当防衛等々止むにやまれぬ事情から、その個我は、良心をヴェールで覆って自己や身近な者のために悪を行うこともある。
6-7-4-4-1.
アダムとイヴは、善悪を知って、(尊厳を有する)人間となった
西方世界では、人間の世界は、アダムとイヴに始まるというが、かれらは、はじめはエデンの園にいて、のんびりと天真爛漫に生きていた。だが、園にあった禁断の知恵の木の実を食べてしまい、その楽園を追放され、生産と生殖に苦痛を課されて、この二人をもって、苦難の人間世界がはじまったという。楽園から追い出されたときのその原因は、知恵の木の実を食べ、善悪に生きることをし始めたことであった。より価値あるものを選択する善と、より低い価値の方をとる悪である。裸体であることを悪しきことと捉え、動物的裸体の恥部を覆い隠すことを善とし、善を選択して、これを実行した。『創世記』は、この間の展開を絶対神をふまえて否定的に、失楽園の話にしているが、宗教的脚色を取り除いて、ここに尊厳をもった人間の誕生を見ていくこともできよう。絶対神の『創世記』創作のはるか以前に人は人となったのであり、原始の人たちは、焚火を囲みながら、あるいは洞窟の奥深く壁画に魅了され、神がかりしつつ、アダムとイヴのこの話に類したものを、自分たちの知恵の獲得の話を、誇らしく語っていた可能性もあろう。善悪を知り自律自由のもとこれを選択して生きるのは、人間だけである。自身にとって価値あるものとないものを知って、価値あるものを選ぶ善と、価値のない、あるいは低い方を選ぶ悪とをもって生きることになったのが、人の根本だというのである。動物にも幼児にも、なお善悪はない。善悪の知恵の果実は、子供の手のとどかない高みの木に実っていた。幼児は、動物と同様に、裸を悪いこととして恥じるようなことはしない。人となることは、善悪を知り、自身のその善悪への自由の行動に責任をもって生きるということである。悪への責任を問えるのは、悪を知る人間のみである。理性のもとに良心・良識を育てて、善悪を知り、よりよい生き方を自身で自由にできるのが人間の(尊厳の)核になる。原始、洞窟の薄明りの中、裸で無垢の子供たちは、善(悪)の印である恥部を隠す大人の厳かな衣装に憧憬の眼を注ぎつつ、アダムとイヴのような、尊厳を有する人間創成の話を聞いていたのではないか。
ひとは、一つのものにその多様な欲求をもって、それを満たすものとしての価値を多様に見出し、その間の高低の価値づけをする。一つのものも多様な価値をもったものとなり、多彩な価値世界を作り出す。自然感性のもとにはない、普遍的概念的なものをもって世界を捉えて、これを自分たちの諸欲求を満たすものとしての価値をもってランク付けしながら描き出し、それを自由に選択することになった。より価値があると自身の判断したものを自由に選択してこれを実現していくのである。善悪の価値世界を創造し、自律自由の世界に生きることを人間は始めた。動物は、善も悪も知らない。善悪の判断ができない場合は、罪を問うことはできない。動物には罪を問えない。犬や猫が店先の魚を盗んだとしても、盗られた方が悪いと言う。あるいは、稲田に水がいるとき、自然が一切雨を降らさず干天を続けるとしても、それを悪事とはいわない。自然は、ひとに対して悪意をもって雨を降らさないのではない。ひとであっても、幼児には犯罪の責任を問えない。あるいは、心神喪失状態でなしたことも、そのことへの善悪の判断がないものとして、悪への罪を問うことをあきらめる。成人、人が人に成るとは、尊厳を有する人間的人格を備えた者になるとは、善悪の価値判断ができる知恵を有したホモサピエンス(知の人)になるということである。アダムとイヴは、善悪を知ることで(良心・良識を培い)動物を超越して人間になった。彼らは、悪(自然体としての裸)を避けて善(恥部を覆い隠す)を選択した。だが、ひとは、アダムたちが自身の自由のもとで善をとったように、逆に悪を選ぶ自由も有する。のちの者たちは、しばしば自然感性(裸体)を優先して悪に誘惑されて恥ずべき悪事を行うことにもなっていった。
6-7-4-5.
情報社会に登場した新規の悪
情報産業が飛躍的に拡大し、社会は、物の生産からして革命的に発展しつつある。その中で、否定的な方向において昨今目につくのが情報機器をつかっての新しい犯罪である。ネットでの情報を巧みに操作して、詐欺を企てたり、秘密の情報を詐取したり、情報機器を遠隔から止めて困らせ莫大なお金を出させるなどの犯罪が横行している。粗暴な犯罪ですらも情報機器をつかって巧みになって、これを企む主犯は隠れたまま、ネットで知らない者同士を集めてこれに犯行を行わせるようなことにもなっている。
インターネットは、出始めは、善だけであった。だが、これが一般化するとともに、犯罪の多くがネット犯罪となってきた。「知は力」だが、これほど悪においても、知が巨大なものになった時代はなかった。これまでの犯罪に情報機器が利用されるというだけでなく、情報が大きな力をもつので、情報自体を狙った犯罪が多発している。もちろん、そういう悪用を阻止するために、情報産業は、セキュリティーの方面で、悪を阻止するように種々の対策ソフトを考案し英知を発揮してもいる。一部の社会的組織が情報を乗っ取られ支配され機能マヒに陥るようなことがあるけれども、根本的には、悪用を阻止して、その上により確かで高度の情報利用が行われている。現在は、情報革命といわれる人類の飛躍の時代に入っている。
この情報社会においても、尊厳を有する人間世界のより良きもの、善への道の方が、圧倒的に進化し巨大な価値を産みだしている。生産においては圧倒的にそうで、遠隔からの制御情報で重機を動かし、工場は無人で動くのが珍しくなくなっている。消費の方面でも買い物も予約もスマホで済ませるのが普通である。貨幣ですら、これを無用にして仮想通貨(暗号資産)に代わろうかという大変革の時代になっている。窃盗犯は、仮想通貨という、万国通用で跡がつきにくく、しかも大金になるものを狙うには、相当に情報機器の利用に長けていることが必要となっている。悪事に便利なソフトなどには敏く、情報伝達のツールでテレグラムなど通信の秘密を守るに優れたアプリは悪用されているようである。だが、そこでは、悪用もあるというだけで、表では圧倒的に有益な情報が未曽有の大きさ・多さをもって行き来するようになっているのである。
デジタル化して、本などの情報が、あまりにも簡単にコピーできる時代になり、知を売る者には、死活問題になるようなことも出てきている。これを制限する著作権や特許権は、知・技術を発展させるには、効果があるということで、自然権となろうコピー権は、逆にコピー禁止権として現在は喧伝されている。しかし、コピー(禁止)権は、人為的作為的なものであり(したがって何年間かのみ禁止ということにしている)、パンや肉などの物とちがい、いくらコピーしても減らないという情報の本来的な特性とは合わない。情報にとっては、束縛であり、禁止は、いうなら必要悪である。簡単には閲覧もできなかった貴重な古書でも、今は、信じられないぐらい容易にウェブで自宅で読める時代である。絵画なども、美術館では細部は見えないものすらも、ウェブで詳細にみることができる。しかし、作家は、それでは、生きていけないということになるので、著作権等をもって保護している。もっとも、かれらも、隠して見せないようにしたいのではない。生活できるようになるなら、大いに公開することであろう。著作権は、なるべく使わず、コピー(できる自然)権を生かすようにしたいものである。
7. 苦痛の価値論Ⅴ-世界観を創る苦痛