苦痛の価値論二
-忍耐における苦痛の意味と意義-
近藤 良樹
(目次)
6.苦痛の価値論Ⅳ-苦痛の忍耐は、ひとの尊厳をささえる
7.苦痛の価値論Ⅴ-世界観を創る苦痛
(以下の1~5は、「苦痛の価値論一」に所収)
1.苦痛の定義
2.苦痛とその区分け
3.苦痛の価値論Ⅰ-自然的な「苦痛の反価値論」
4.苦痛の価値論Ⅱ-苦痛は、価値創造のための手段価値
5.苦痛の価値論Ⅲ-苦痛は、主体の能力を創造する
6. 苦痛の価値論Ⅳ-苦痛の忍耐は、ひとの尊厳をささえる
6-1. 人の尊厳
最近は、生命倫理等で「人間の尊厳」が言われる。尊厳(dignity)は、神や国王の尊厳が古くから言われてきたことだが、これは、比較を絶した至高の位置にあって見事な支配のできていることをその被支配者から評価していう言葉である(cf. 近藤良樹『人間の尊厳-尊厳は支配関係に由来する-(論文集)』広島大学図書館リポジトリ(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00020345))。人間は、神からいうと下賤で悲惨なもの(反尊厳)だが、自然世界のもとでいうと、自然を見事に支配でき、猿を第二位にもっていても、猿は物あつかいで、人間のみが比較を絶して至高の存在とみなされて、尊厳とされる。人は、理性的自律に生きて自然を超越した存在となっているのは確かで、自然のもとでは至高の存在として君臨しているから、自然からすれば尊厳と見立てることが可能である。そして、この人間に関わる者は、これを尊厳の存在と見なして、かつての神や国王と同様に、これを手段に貶めることはならず至高の目的とし、神聖で不可侵なものとして取り扱うことが要請されている。
尊厳は、客観的な規定ではなく、支配・被支配関係において後者から前者を賛美していうことである。主観的な評価だから、恣意的なものでありえて、独裁者は、被支配の者を強いて、尊厳の称号を付与させることが多い。もちろん、支配の外の者からは、愚劣な独裁者と客観的に評価にされる。あるいは、そとでは無能扱いされている者でも、うちでは、家族を厳かに統率する家長として尊厳をもった存在になりうる。昨今、社会において指導的な理念となっている「人間の尊厳」だが、実際には、しばしば冒涜的な扱いを受けることが多いし、自然や動物からいうと冷酷な支配者ということで、尊厳にふさわしくない尊大な振る舞いを繰り返してもいた。しかし、最近は、地球を破壊するようなことになってはならないと、真に尊厳に見合うような、自然環境への見事な支配をめざしつつある。あるいは、身近には、せめて死ぬときぐらいは見苦しいことにならないようにと「尊厳死」を表明する者もいる。人の尊厳は、手前みその勲章などではなく、支配下の動物などの自然からみても、かつてほどには無法・身勝手ではなく、真摯に地球環境に配慮しようとしていて、尊厳にふさわしいものになりつつある。
6-1-1. 苦痛に耐える者は、人の尊厳を証する
ひとの忍耐は、その辛苦・苦痛を手段にして、目的において価値あるものを創造する。あるいは、そういう価値物を創造しないとしても、訓練・教育の場に見られるように、その忍耐するひとの卓越した能力を磨き開発することができる。そのいずれでなくても、苦痛の忍耐は、自然を超越して、自身の自然であるその快不快、とくに苦痛を制御・支配して、動物的自然の状態、自然による支配を脱して自由になり、自律の尊厳を明かす。
苦痛甘受の忍耐の目的論的営為は、理性意志をもった人間にしかできない営為である。因果の自然を超越してこれを利用する至高の営為として、その意志は、尊く厳かである。それは、自然の快不快から自由になって自然を超越して理性的な精神世界を可能とする。理性をもっての自己内外の自然の卓越した支配である。それは、自然、とくに自己内の自然を自由に制御する、自然世界のもとでの類まれな卓越した尊い営為である。忍耐によって、苦痛を手段とする目的論的営為をすすめ、自然的な苦痛への奴隷状態から自由になり自然を超越しこれを支配するものとして、人の理性意志は、尊厳で形容されるのがふさわしい。
苦痛甘受の忍耐は、自己内自然としての苦痛を、自然的には回避衝動に支配されて苦痛の奴隷になるものを、回避せず逃げずそのままに受け入れ、これを忍び耐えて、因果自然の営為では到達しえない高い目的を実現する。苦痛の奴隷となってムチ打たれて逃げ回る自然状態を克服して、目的のために、苦痛回避衝動を抑止し、この自然を超越して、所期の目的を達成して自然にはないものを実現していく。それは、苦痛に対決して、この自然を超越して尊く、厳しく厳めしく厳かであり、尊厳を持った営為である。忍耐は、おのれの自然を超越し自由にしての、他の動物たちを足元にも寄せ付けない見事な、自然の至高の制御・支配となっている。ひとは、この苦痛忍耐の点では、人となった歴史の古い時代から、尊厳の勲章を付与されてよい存在であったということができる。
6-1-1-1. 苦痛の支配を脱して、人はこれを逆に支配する
ひとのもとでも、自然による支配が日常的には貫徹されている。ひとの内部にあって、ひとを動かしている自然、内的自然のうちで、一番ひとを強力に支配し突き動かすものは、苦痛であろう。ほかのことだと、ある程度、融通が利いて、その自然にしたがわないでも手厳しいことにならない。だが、苦痛には、すべての動物がこれにひれ伏す。苦痛というムチにあらがうと手厳しい報復をひとも受ける。したがって、これには逆らわず、苦痛の奴隷にとどまらざるをえないのが普通である。
だが、ひとは、この強力なムチである苦痛に、ときに、従わないことがある。忍耐がそれである。苦痛からは逃げるのが自然であるが、ひとは、必要と思えば、このムチを受け止めてこれを甘受して、忍耐する。自己内の最大の支配する自然としての苦痛という存在に対して、これに従わず、逃げずにこれを甘受する。苦痛の強烈な自然支配を排除して、この苦痛を逆に受け入れ、この自然を支配するのである。
苦痛に従わないでその回避衝動を抑止して反自然的になってこの奴隷のくびきから逃れることは、容易ではない。ときには、死をも覚悟しなくてはならない。苦痛の自然的な回避衝動を抑止して、苦痛を受け入れるとは、自身を傷付け、自身の損害・損傷を受け入れるという犠牲を払っての覚悟ある営為となる。それでも、ひとは、必要なときには、自らの意志をもって、自由に、苦痛のムチをあえて受け入れて、この苦痛の求めるものを拒否して、苦痛の支配から脱し、それをもって理性意志の目的を実現する。この自由の決断は、人以外は、おそらく、基本的には、無理なことである。動物も、大きな快とか他の強い衝動のもとでは、痛みを受け入れて忍耐することがあるが、それは、それらの押す力が、痛みより大きいからであり、痛みがそれらの力より大きくなると、逃げる。あくまでも、動物は、快不快の自然的営為のうちにあり、自然の奴隷に留まる。
苦痛の自然に従わず、逆にこれを制御・支配する、この自然超越は、理性的存在としての人のみの有している至高の営為である。日頃は、苦痛の自然に任せているが、必要なとき、自由にこれを取り扱える。自動車の運転と同じで、なにもなければ、車が自動的に動くに任せているが、ひとは、必要なとき、ハンドルを回したりして制御し、自由自在に車を扱う。苦痛の自然を、ひとは、そのように自由にする。忍耐のもとで、苦痛を自由にして、ひとは自然超越の尊厳をもった存在であることを証する。
6-1-2. 快からの自由
ひとの内的自然は、快と苦というアメとムチをもって、ひとを制御・支配する。その限りでは、ひとも自然に支配されていて自然の奴隷である。この奴隷状態から、自由になるには、そのアメとムチを拒否して、自身の自律的な理性意志をもって行為していくことである。一番の自然の力は、苦痛にあるが、同時にアメとしての快も大きな力でひとを支配していく。ひとは、自然支配筆頭の苦痛のムチから自由になり、尊厳の存在となると同時に、この快のアメからも自由になりうる。快苦の両方を制御して、ひとはこれから自由になって、己の尊厳を貫いていく。ムチ、苦痛には死力をつくしてこれの支配を許さず自律的であろうとする者も、意外とアメ・快には弱いことがある。快にとろかされて、これに支配され奴隷となる。快の奴隷になった、酒とか甘いものの快楽中毒は、物に恵まれた現代社会には多い。
快は、はじめは些事であったろうが、ひとは、生産の能力を大きくするとともに、快・アメも容易に手にできるようになって、これに嵌まることが多くなってきた。文明の発達とともに、自然的な苦痛は、これを回避できる手段の確保に努めてきたので、苦痛と出合うことは少なくなってきたが、逆に、快と出合う機会は激増している。商品社会では、売れるのは、美味しいもの、快の価値をもたらすもので、これを過剰に作り出すようになってきた。現代社会では、快というアメによる支配が目立つようになっている。もちろん、どんなに快がそそのかそうとも、これに魅される自己の感性を制御・抑止して、自己内のこの自然から自由になりうるのが、自律の人間である。
快(自然)の支配で昨今一番問題になっているのが、肥満であろう。当然、ひとは、この快の自然支配を拒否して、肥満阻止も一般的には実現できている。快抑制は、苦痛甘受とちがい、甘えの許されないようなところでは簡単にできることで、厳しさの度は、低い(もっとも、精神的な苦悩を慰める物として、甘い食べ物が利用されているような場合、その精神的な病いが過食を行わせるから、食の快楽との戦いでは済まず、かなり困難な問題となることもあるようである)。高が過食ではあるが、そのことで人による自然の支配の尊厳は汚されるのであり、かつ、健康を考えると放置はできず、自律的な節制の営為は、現代では小さくない問題となっている。
6-1-2-1. 快抑制よりも、苦痛甘受の方が厳しく、高い評価になろう
ひとは、自然的には快苦の両方によって動かされ支配されている。だが、必要なところでは、これを排除し、この強い自然を厳しく、厳かに超越することができ、ひとは尊厳をもった存在となる。その快苦のうち、より厳しいのは、苦を甘受することであろう。受け入れたい快を抑止して排除するのは、苦痛を受け入れるよりも、通常、より容易である。苦痛を受け入れるのは、自身において損傷を受け入れることであり、生にマイナスの状態を甘受することである。だが、快は、それを受け入れないからといっても、直接、損傷・マイナスを被るわけではない。生にプラスになるものを断念するにすぎない。
食べ物でいえば、快を抑制するのは、美味しいものを断念するだけのことである。だが、苦痛を受け入れるのは、苦いものとか酸っぱいもの、嘔吐をもよおすものを受け入れることであり、それは、しばしば涙なしには呑み込めないような大きな回避衝動を生じるものである。苦痛のものを受け入れるのは、快を断念して無の状態を守るよりも、より厳しく自然を超越して、反自然を実行するものとなる。
麻薬は、大きな快楽をもたらすが、これを抑止することは、酒にしても糖類にしても、苦痛に耐え損傷を受け入れるほどの意志を要するものではなく、その点では、容易である。簡単に自然欲求を抑止、自制してひととしての尊厳を守れる。だが、これが、中毒にまで進んだ場合は、快楽を享受しない状態に苦痛が生じる。禁断症状である。ここでは、苦痛に耐えることが新たに必要となる。中毒になってからの快楽の抑止は、苦痛が前面に出てくるから、かなり厳しいものになる。
苦痛・不快は、現に生じていて、これに対処するものだが、快は、これを抑制するときには、なおこれが生じていないのが普通である。美味しいものを我慢するのは、食べながら我慢するのではない。味わう前に、この快の生じる前に、抑止せねばと思うのである。第一、大麻などの麻薬は、生に必要だからこれを受け入れるというのではなく、快楽という感情的なプラス(いわば余分・贅沢)を享受したいということで摂取するのである。したがって、苦痛のように、現に生じている苦痛に対処するのに比しては、余裕がある。快抑止より苦痛甘受の忍耐の方がよほど辛く、これに耐える者は、快享受を我慢する者よりも、高く評価される。快楽の誘惑に負けた者は、愚かと見下されるが、苦痛のムチに負けた者は、未熟とは言われても、愚かとまで貶されることはないであろう。
6-1-3. 動物的生を超越した世界に生きる
ひとも動物として自然のうちにあって快と不快(苦痛)によって動かされている。だが、ひとは、苦痛は回避するという自然に逆らって、これを超越した営為ができる。その先に描く目的のために、この苦痛から逃げず、苦痛の甘受をもって目的実現にと歩みを進め得る。あるいは、自然的には快に引かれそれに強い欲求をいだいていたとしても、その充足が有害なものをもたらすと思えば、この欲求を抑止して不充足にとどめることもできる。
快不快の自然を超越することは、ひとでは日常的に行われていることである。精神的社会的生活を秩序だったものにするために、自然的な欲求を抑制・制御する必要がしばしば生じる。朝早起きするのは苦痛でも、我慢して起床する。食欲がなくても食事をするし、大食したい欲求を制御して少食にもできる。自然のままに快楽主義的に生きる者もなくはないが、それは、ひとの道に悖るものと見なされる。ひとならば、自然的欲求、快不快を超越して、これを厳しく厳かに制御できる。こどもでも、食欲を充たすことを日に三度に限定したり、ほしいものを食べるのではなく、栄養のことをふまえて、食の在り方を理にかなった食事にと改めていく。自身のうちの自然である食欲などを動物的な状態に留めるのを厳しく戒めて、ひとは、おのれの自然を超越して尊厳を堅持する。
ひとも日頃は自然的な欲求に従って動いている。が、現代社会は恵まれた状態にあるため、その充足は、かなり過剰にと傾き勝ちである。食欲は、栄養を摂取するためのものであるが、むしろ、快楽を得るためのものになってきていて、つい過食する。この快楽の過剰享受によって生じる肥満を反省して、恵まれ過ぎた自然(美味)を相手にして自制し節食に努めている人は多い。性欲も、これをひとは、しっかりと自制して、一夫一婦制をとり、その快楽享受を枠にはめて、家庭等の安定を保てる秩序を作って、社会的に種族保存に適うようにしている。性欲自体も、理性制御の反復の中で、理性的なものを習慣化してもいる。もちろん、なかには、自然本能のままに身勝手な行動をとる者も散見されるが、社会は、これを厳しく罰して逸脱を許さないようにしている。ひとは、ほかの猿類でも一般的にそうであろうが、多くの優れた異性と交わりたいという性的本能をもつ。それがひとの自然である。だが、この自然を抑止し制御して、理性意志をもって、社会秩序を堅持している。その自然を超越した理性的営為にひとの尊厳がある。ひとの尊厳は、その自然のもとにはない。おのれの自然を超越し理性的秩序をもって自律・自制していくところにある。
6-1-3-1. 日頃は人も動物的に快不快のもとに生きている
ひとも動物であり、日常的には、自然的な快不快にしたがって生きている。ひとは、この快不快について、それにしたがっておいて問題がない場合は、これにしたがう。ことは、半ば自動的に進むので楽である。だが、これにしたがうことで人間的生にとって好ましくないことが生じるとか、高い目的が損なわれるような事態になるときには、自然を拒否することができる。快不快の自然に従うのが有害と判断したときには、超然としてこれを拒絶し、自己のあるべき人間的精神的営為を打ち出していく。その時点から、人間独自のより高度な生き様が展開することになる。不快・苦痛でも回避せず、これを甘受するとか、快でもこれを享受せず放棄するという、自然に反する営みを行う。反自然・超自然の営為となる。尊厳をもった理性的自律の人間は、自然の支配下にあることをやめて、自然から独立し逆に自然を支配・制御し自由にして、求める高い目的を実現するようにと進んでいく。理性的精神が全体を統括して自然的営為を自身に役立つようにと制御・支配していく。
自然的にはひとも、快不快をもとにして生き、自然の動物と同じく、自ずからの食欲等にしたがっていて、その限りでは自然超越の尊厳の営為が前面に出ることはない。だが、そういう自然にあるからといって、それにとどまっているのではない。そのうえに、まるで異質で高度の精神的生を展開している。その高度の超自然の営為の下に、ひとは、必要に応じて、土台の食欲・性欲などの自然を自由に制御・支配して、その自然の支配者となっている。合理的な制御をする中で、自然の方も変わって、これを習慣化して、理性的に適正な自然(食欲・性欲)にと変化もしてくる。ちょうど、無機物の上に生命体が形成されて、高度の生命独自の営為が、基礎・下位の自然を利用して成り立っているのと同じである。生物は、酸素や窒素をエネルギーとか生組織に利用しているが、だからといって、無機自然の酸素や窒素に支配されているとはいわない。これらを必要に応じて取り込んで生命体のために役立て、いわば自由にしているのである。ひとは、動物的自然を基礎にし利用しつつ、その上にこれと異質で高度の独自的な精神的営為を実現している生になる。その基礎的自然を土台としつつ、その上に超越してその自然を利用し自由に制御して、精神的生の高みに立っているのである。常々、動物的自然からの誘惑があり脅迫があるなかでの、自己の貫徹である。その理性的自律・精神的超越性において、ひとは、おのれの尊厳を自覚することになる。
6-1-4. 自制、自己支配
ひとは、自己内自然の快不快、自然的な欲求や衝動の理性的支配を自らに行う。支配の対象は、自己内にある。自然的な自己を理性的な超自然的な自己が制御するものとして、それは、自己による自己の支配・制御、自制の営みである。
日頃は、自己内の自然は、快不快を中心にして、自己の保護・保存にと動く。だが、それでは、人間的生に不利・有害になる時がある。害になるとき、人は、それを拒否することができる。自己内自然のなすがままで逆らえないのでは自然の奴隷だが、必要なとき、これを抑止して制御・支配するのであり、奴隷でなく、これを自由に利用する支配者ということになる。自制は、通常、動きを小さく制限するとき使うが、ひとの理性的制御は、自己内の自然について、単に小さく制限するにはとどまらない。食欲がない時は、必要ならば無理してでも沢山食べるといった促進・強化を含めての制御、自制である。
自制は、自分のために自分の基礎的な自然的な部分を制御しようというのであり、暴君が自分のために奴隷を酷使して、これを死に至るまでムチ打つというようなことは起こりにくい。ムチ打たれるのも自分であるから、無茶なことはし難い。国王などの尊厳は、多くが強制であり、実際には、尊厳にふさわしくないものに尊厳の帰されていることもある。支配者が尊厳をもって賛美されるのは、独裁国の暴君であることの方が多い。それに比すれば、自己内で展開する人間的尊厳では、尊厳の対象は、高みに存在している理性的な自己であり、被支配の自然は、自己のうちの自然であって、前者は、自分の土台となっているものを優れた動きになるように熟慮し、無理が生じないようにと慮りつつ制御・支配する。支配される自己内自然の食欲とか性欲は、自身の理性の制御をもって合理的に社会的にトラブルにならないようにと動けることとなって、その支配を、卓越したリードと見なし納得する。自制で制御される自己内自然は、「この自分の食欲・性欲が抑えられるのは、もっともだ。より長く穏やかに自分の欲求を持続させるには、確かに、抑制されるのが好ましい」と首肯し、慣れれば、理性的秩序をその自然的欲求自身の習慣ともする。理性的秩序を感性自身のうちに取り込んで、感性内での自制ともしていく。そのことで、理性による自制は、常時顔を出す必要もなくなり、感性に任せて感性の自制ともなって、持続性に富む確かな自制の体制となる。理性的な自制をもって、自身が自然的な快・不快・苦痛に流されず、これを制御して自己支配できるとき、その自然超越に自身の精神的存在としての尊厳の証をみることとなる。
6-1-5. 克己の精神
ひとの、自身の理性による自身の感性の制御・支配は、自律をもっての自制である。そのとき、自己内の制御されるものが無抵抗で素直にしたがえば、自制するのみで済む。だが、自己内の自然は、それ自身の自立的な動きをして、理性的な自己からの制御に従わないことがある。そこで自制を貫こうとすると、その抵抗をくじく必要が生じる。自然的な快不快のもとでの営為を制御するには、その自然的な動きを抑止して、これと戦うことが求められるようになる。忍耐では、苦痛からの逃走・回避を抑止しなくてはならないが、一般的に、その回避の自然衝動は強く、理性意志は、その衝動との戦いをしなくてはならなくなる。自己内の敵としての快不快・衝動との戦いとなる。己で己の自然を否定し克服するという、克己の営為となる。
ひとには向上心がある。より優れた者になりたいという思いをもつ。個体は、他の個体に勝ろうとする。生存競争をして生き残ろうとし、強者になろうと弱肉強食の営みをする。その勝ろう、優れたものでありたいという欲求は強い。克己の勝ろうとする心性も、この動物的な、勝つ(克つ)という傾向性に支えられている面があろう。周囲に禁酒・禁煙を続けている者がおれば、彼に負けてなるものかと、自身も精進することである。だが、克己は、何よりも、至高の存在という自負心・自尊心が駆り立てるものであろう。孤高であっても、克己の精神は貫かれる。ひとは、自己意識をもち、自身を客観化し対象化でき、自己反省する。自己批判して己の低いもの・誤りが分かれば、おのずからにして、これを克服した高きに到ろうとし、自己自身に勝ろうとする。ひとは、常々、目的論的に未来に向かって生きる。未来の自分を真の自分とする。現在の自分を超越し克服・克己した未来に本来の自分を見る。
克己の姿勢は、自己の現状に満足・安住せず、より高いものになろうと努めつづける。自己には、不備があるはずで、克己の精神をもっておれば、その不備の克服に筋道をたてて歩む努力を怠らないことになる。不備の自己から見れば、それ以上はないという尊厳の位置にまで高まったとしても、その尊厳を実現すると、そこに再び不備を、欠点を見出していくことになり、さらに向上しようと克己につとめることになっていく。現状の自己を否定して、より高い崇高な自己へと克己の精神は切磋琢磨していく。未来へ高きへと己を向け続け、よりましな自己へと自己実現していく姿勢を、克己の精神はもつ。
6-2. 外的自然を支配する理性的人間の尊厳
ひとは、内的自然の快不快を見事に制御して、理性存在としての尊厳を証しているが、外的自然についても、その尊厳を明かす。人の尊厳の在り方は、神の尊厳に想定されるような、人と自然を畏怖させて厳しく支配する在り方とは少々異なる。神の尊厳は、被支配のものへの生殺与奪の権をもち、絶対的なものと見なされた、畏怖の尊厳である。だが、ひとの尊厳は、そういう強引で破壊的なものではなく、剛ではなく、柔をもっての制御・支配である。ムチで支配するのではなく、アメというか穏やかに、被支配の対象が自ずからに動きたくなるように仕向けるものである。自然を前に、まずは、これに従順にしたがうことから始める。自然の動きに逆らうことなく、その法則にしたがって、あるがままに対応する。そのうえで、その法則を踏まえ利用して、目的とする方向に向け直せるようなものをそこに差し込んで、自然自体をして人の目的がかなうようにと動かしていくのである。水が下方に流れるのを利用して、自身の田に向いて流れるように水路をむけて、水が「自然に」田んぼを充たしていくようにと制御・支配していく。無理やり強引に自然をねじ伏せていくのではなく、自然をして、自然に人の目的とするものへと動いていくようにする。理性の狡知を働かせて、制御をおこなう。理性の支配を自然のうちに貫徹するが、それは、無理のない、自然にしたがいつつの、理性意志の制御・支配の実現である。
自己内の自然(食欲等)への尊厳を持った制御は、自己内の自然を自己が支配するものとして、すべて個人のうちでの営為となる。各自が各自にふさわしい固有の自然を対象にしてその尊厳の営為を実行する。だが、外的自然への制御では、その自然対象は人から独立しており、自分に相応しいものが各々の営為の対象になることは少なく、持てる能力を総動員しても間に合わないこともしばしばとなる。多くの場合、集団の力を結集して、合理的な組織と方法をもって自然支配を行う。その集合した力は、腕力でも、知力でも、個人には不可能なことを実現でき、自然の支配は、山をも動かすような強大なものとなる。
6-2-1. 自然には従いつつ、これを支配する-理性の狡知
人の尊厳は、神のそれとは異なる。神は、もともとから支配者と想定されたものである。だが、ひとの場合は、自然のうちで、しかも弱者として存在していたものであって、いうなら、尊厳どころか、非尊厳・下賤なものでしかないところから始まる。非尊厳で、自然の奴隷であるものが、理性を獲得することで、やがて自然を制御できる存在となり、奴隷が、理性をもって逆の支配者に、主人になった。ひとの尊厳は、自然を見事に支配するところにあるが、人は自然自体でもあって、非尊厳の自然存在でありつつ、尊厳の理性存在となっているのである。
理性のもとで、自他の自然状態を冷静にとらえて、その自然に従順になって、ひとは、その自然の固有の動き方・自然法則を見つけ出す。当然、人自身も自然として、恣意を通すような無理はせず、自然のうちで法則にしたがって動く。そこで理性は、狡知を働かせ、その自然法則を利用して、自分の利益になるようにと巧みに誘い掛けていく。自分は動かず、自然を動かす。自然を動かし、自然と自然を戦わせて、その成果を自分のものとする(自然からいうと、狡(ずる)いということになりそうで、狡知である)。諸自然の存在をうまく配置してこれを働かせ、成果をわがものにしていくのである。自然の法則を熟知できるようにと理性を働かせ、理性意志をもって自然自身を自ずからに人の目的とするものの方向へと動くようにと仕向けていく。
酒をつくるひとは、自分がアルコールを製造するのではない。米や麦を自分がアルコールにするのではなく、酵母菌などの菌類に働かせるのであり、そのようにと自然をうまく配置していくのである。理性の狡知は、自然を奴隷として使って、自身は、その主人として、成果を我がものとし、自らは力を入れることなく、巧みに支配を実現する。自然に従順になりきって自然にさからうことなく、自然の営為をうまく利用・采配して、自身の手は汚すことなく、その目的を実現するという理性の狡知である。その営為は、自然を見事に制御・支配するもので、尊厳の営為だということができる。
6-2-2. 自然への挑戦の歴史―苦痛の忍耐史
ひとは、猿のなかでは、弱小の種であった。当然、樹上に住んでいたはずだが、ほかの種に追い出されて地上に移り住んだ。そこでは、一層惨めな弱者で、ライオンが食べ、ハイエナが食べ残した骨(の髄)などをあさっていたのではと見られている。苦難に耐えつつ生き延びていたのであろうが、そこも安住の地にはならず、アフリカから出てユーラシア大陸に渡ることになった。その間に、直立歩行し、手に水掻きが残っていたり、体毛のなくなっていること等からみると、カワウソやオットセイにならって水辺に生活したのではと思われるところもある。体毛を失ってからの過酷な寒冷の環境は、さらにひとに試練を課した。その中で、幸い大きくなりえた脳をもとに、火の使用、着衣、武器使用等でたくましい存在にと変貌しえた集団が生き残った。
ユーラシア大陸では、追い出されることはないか、または、逃避先がなく、ここで新たな生き方をはじめた。苦難・苦痛から逃げていたのでは死あるのみということになり、苦痛を耐えるべき場面はより多くなったことであろう。苦痛を甘受するという営為の持続は、快不快の自然に従うのみの心身のもとでは無理であった。身体自然の逃走衝動を抑止できるだけの理性の力の養われることが必要であった。その理性をもって忍耐することで、ますます理性は大きくなったことであろう。
理性的になるに際しては、言語の獲得が大きな役割を果たした。言語は、個別の現在に終始することから飛躍して普遍的にものを捉えることを可能にし、感覚的な現在を超越して、未来に目を向ける目的論的な生き方、理法に従って生きることをも可能にしていった。それには集団的に生を営むことが前提にもなっていた。個体の緊密な連携があって、言語の発達が促された。言語と理性をもってひとは、単なる動物であることを超越することが可能になった。
6-2-3. 苦難に挑戦して自然を超える
猿から人間になったのは、安楽で余裕があるとか快に促進されてということからではなかったろう。快ならば、その状態にとどまる。強いチンパンジーやゴリラは、弱い人類の祖先をアフリカの森から追い出した。その強者は、そのまま安住して過ごせたから、少しも自身を変えていく必要がなく、いまだに森のなかにとどまっている。だが、ひとは、追い出され、地上に降り立ち、ほかの動物の食い残したものをさがし、骨を砕きその髄を食べるなど日陰者の生き方を強いられた。その苦難を背負い、その苦痛に耐えないと生き延びられなかった。骨を砕くために手を巧みにつかい道具を使うなどの新規の能力を身につけていった。すき好んでではなく、苦難に耐えてそうなったことであろう。苦痛に耐えることは、自己の自然を制御し抑止することで可能になるが、それは、自然本能を超えた能力としての理性意志をもって確かなものとなる。忍耐がその理性を大きくし、理性が忍耐を実行していくという好循環である。
寒冷な時期と地域においては、ことに辛かったであろう。寒さに耐える力をつけ、火の使用という冒険に挑み、痛みや恐怖に耐えて、身の回りの工夫をし生き方を巧みなものにとしていったことであろう。その苦痛甘受の忍耐は、ひとつには、外的自然の克服・支配にと向かって行った。苦難をもたらす外的自然から逃げず、その辛苦を受け止めて自身の適応能力を高めた。火を使い石や槍をつかうような適応ができたことであろう。もうひとつは、自己支配である。自身のうちにある感性の快不快にしたがうことをほどほどにして、これを支配していったはずである。苦痛があっても逃げず、この苦痛を内にとどめて、苦痛甘受のさきにある目的へと進んだことであろう。快があっても、それへの欲求を抑制して不充足の制御を行い、獲物のいのししの子は、美味しそうでも、それを食べず育てて、大きな肉になるまで待つといった忍耐をし得るようになったことであろう。腕力においてチンパンジーやゴリラには敗けて森を追い出されたが、ひとは、うちの苦痛には負けず逃げないで耐えることができるようになった。自分に負けない忍耐力をもって内的自然を支配し、外的自然に挑戦しつづけて、ひとは、ついには自然を超えた至高の存在になっていったのである。
6-2-3-1. 自分を変えて苦痛を苦痛でなくする
ひとがひとになったのは、一度にではない。尊厳からは程遠い弱小の類人猿であったものが、厳しい自然のうちで徐々に力をつけて、尊厳の高みにまで登って行ったはずである。ひとつの苦痛・苦難に出合ってこれに適応できる能力を身につけると、その苦痛は、苦痛の対象ではなく平気なものとなる。骨片を石で砕く巧みさを獲得した手は、慣れてくると、その砕くことを特別に難儀なものとはしなくなる。それが平生の技となる。そうすると、さらに困難なことに挑戦可能となり、新規の高いところの苦難を対象にできるようになる。打ち砕くだけではなく、肉片をそぎ落とし、切るという手と道具のつかい方も習得したであろう。苦難・苦痛に挑戦する姿勢をもちえている限り、徐々にではあれ新規の能力がどこまでも開発可能となっていったことであろう。
安楽な快の状態には、ひとは、まどろみ眠り込む。もっている能力も出し切る必要もなく事が進むなら、それ以上の高い能力など開発されることは、あまりない。新規の高い能力は、やはり、ぎりぎりの困難な状況において試行錯誤して、限界に挑戦して開発されるものであろう。苦痛から逃げず、困難に耐えていく忍耐である。快は、ひとをそれにのめり込ませ停滞させる。だが、不快・苦痛の状態には人は安住できない。ムチ(苦痛)は、ひとを駆り立てていく。その苦痛の現状を克服することへと駆り立てられる。あるいは、その苦痛に耐えないと生存が危ういとなれば、ひとは、それに耐えその状態の克服のために必死になる。その苦痛の上に、それを超越した新たな態勢へと自身を高めていくこととなったであろう。火を利用し始めたときには、動物として火は恐怖の存在であったに違いない。しかし、それを身近においておけば、暖がとれ、猛獣を遠ざけることができた。恐怖という苦痛を忍耐することでそれが可能となった。かつ、恐怖(苦痛)の火を身近におくことに慣れると、その恐怖は克服され平気となった。むしろ、火をそばにおいて、食にも利用し、火を絶やさないでこれを生活の中心に置くまでになった。
6-2-4. 類として理性等の能力を獲得
ひとは、苦難に挑戦して、新規の能力を獲得していった。それは、優れた一部の個体に始まったことであろうが、その個にはとどまらなかった。周囲がこれを模倣し、伝達し合い、皆の能力にし、さらに高くへとその能力を向上させていった。石器時代ですら、黒曜石の石器がその石の産地以外の広範囲に残されている。暗黒の洞窟の奥深く灯火に輝く白昼夢的世界を創り出していった壁画も、広くに残されている。ひとつの集団の中だけでの伝達や蓄積でなく、広範にそれが行われたということであろう。それは、高度の知的な営為でもそうで、天才的な発見・発明は、すぐ皆のものとなった。さらに、その達成点を踏まえて、次世代の者が、一層先へとこれを発展させた。世代を重ねていくことで、理性的な営為は、ほかの動物にはまねのできない卓越したものとなって、ひとは、この世界において、至高の存在となり、尊厳と形容されるにふさわしいものとなっていった。
その理性的営為は、各人が得意なものを生かして伸ばしそれを集団のものとして、この集団が各個を育て支えるという形をとり、ひとの理性は、個体の脳を超えた集合脳とでもいうような働きをもって展開してきた。技術でも、分業をし協業をもって、古代文明からしてピラミッドのような、個体には不可能な巨大な成果を出すことができるようになっている。
そういう集合的な知恵や技術の獲得と向上は、なんといっても、個体間の情報伝達の手段である言語によるところが大きい。言語をもって理性知を展開し、個体を越えてこれを伝達していき、皆のものとしていった。言語は、伝達で個を超えるのみでなく、個別を越えて普通名詞をもって世界を類的普遍的に見ていくことを促進して、この世界を概念、法則のもとに見ていくことともなった。言語をもって、個体の脳は集合脳となっていると言ってよいが、その言語使用は、家族・民族の一体性・相互依存が条件になっていたことであろう。そういう共同的な生活がなったのは、各個体が同等で対等の能力をもっていることも幸いした。ほぼ同じ体力・知力を持つ存在なので、相互に理解しあうことが容易であり、交わりが密になった。各人の理性は、万人の普遍的な理性と一つになった。人類の集合的な英知は、同時に各人のうちの英知になりえた。類として自然を超越して尊厳をもっているのであるが、同時に各個体の生がそういう尊厳を陰に陽に体現しているのでもある。
6-2-5. 向上心
ひとの尊厳は、理性の尊厳である。自然を超越する理性の高みに立ち、その狡知をもって、ひとは自然を制御し支配している。この理性は、英知をもっているだけではなく、その英知の拡大を志向しつづける。その旺盛な働きをもって、この世界の法則等を究明しつづけ、対自然の諸能力を高め、社会的精神的世界の飛躍を実現してきた。その飽くことのない探求心は留まるところを知らない。ひとは、非尊厳の底辺から尊厳に高まり、しかも、日々、その卓越性を顕著にしており、発展的な向上する尊厳という特殊なあり様をしているということができよう。
ひとは、動物で自然感性的でもある。その自然本性における向上心ということでは、動物のマウンティングの人間版である、より良い地位とか富・名誉を求めることがある。その欲求は大きく普遍的である。個と社会が切磋琢磨するには、マウンティングは効果を発揮するが、頂点に立つのは、人間はほぼ能力は同じなので(ごくわずかな差異ゆえ、いたるところでマウンティングの競争・闘争となる)、どの分野でも、より厚顔で貪欲な者(あるいは集団)のなることが多く、権力独占の度合いが過ぎると、その社会に大きな害悪をもたらす。昨今、国家を握った二三の独裁者(集団)が我意を通そうと原爆で威嚇して世界を困惑させている。もうすぐ、万人対等の人類に相応しい、フラットな社会が支配的になりそうではあるが、破廉恥な独裁者によって人類の向上がストップさせられる可能性も生じている。
その動物的な、上位への欲求を土台にしつつ、それ以上にひとを向上させているのが、理性である。感性は、快を踏まえて同じことを楽しむが、知的存在は、つねに新規を求める。知性の操る言語は、共通・普遍に注目し、普遍的概念を対象とする。個別世界の個別に対応する感性とちがい、同じ知的情報は、ひとつで十分で、反復は無駄となり、知性自体の働きとしては、別の情報を求め、常に新規を追求していくことになる。感性は同一の快刺激の反復を求める傾向が強いのに対して、同じ知は、知ったらもう反復は無用で、周知のものに上書きするだけであれば、倦怠をもたらす。歌をうたう場合、メロディー(感性)は、同一の反復を楽しむが、歌詞(知性)は、反復を嫌うので、その二番三番は必ず別の歌詞をもってする。知的好奇心は、常に新規を求め続ける。この自然世界でも精神世界でも、新しい知を求め、新規のものを創造し続けていく。理性的な人間に特徴的な尊厳は、常に新規を求めて向上していくところにある。
6-2-6. 非尊厳の自然を踏まえての人の尊厳
支配するとき、支配されるものを完全に制圧して破壊しつくす場合があるが、人間による自己内自然の支配は、そういうものではなかろう。その自然を温存しつつの支配である。ときに、荒行をする宗教者のなかには、己の自然的身体をいためつけ、精神的な至高の存在になろうと命をかける者がいる。その修行で命を落としてしまう者もいた。一所に己を閉じ込めて食を絶ち即身成仏したとされる上人もある。だが、実際に魂が身体・感性を無化して独立して霊的な高みに行けたかどうかは疑問である。生命体が、おのれの土台になっている無機物質を除去して純粋生命体になろうとしたら、生命自体もなくなるのと同じで、その身体の死は、その霊魂を道連れにしたに違いない。ひとは、自然身体をもってその上に精神的な存在としての高みを目指せるのである。自然身体を生かし、その基本欲求を充たしつつ、人間的精神的な生の高みは可能となる。己の非尊厳の身体を健やかに保ち、それを手段・土台にして、その上に尊厳の精神的存在を聳えさせるのである。非尊厳でありつつ尊厳へと高まっているのがひとである。
快にはのめり込みやすい。自然的にはこの快にひたっていたいということになるが、それを、ひとは、抑制し、過度になって有害になるようなことは回避して、ほどほどの充足にとどめる。その感性は、理性的制御を反復するなかで、これに慣れてこれを習慣化すれば、理性が一々に制御しなくても、自動的に理性的な動きをとることになってもいく。「従心所欲不踰矩(心の欲する所に従って、矩(のり=規範)を踰(こ)えず)」(『論語』「為政」)という状態になりうる。理性は、自然欲求を受け入れこれに従いつつ、これを、より広く高い視座から制御し、自然がおのずからにして理性的になるようにと、見事な支配をするのである。
苦痛は、自然的には回避する。ひとも苦痛は当然、回避しようとする。それで多くの場合、生の損傷を未然に防ぎ、損傷を小さくできることでは、動物一般とちがいはない。苦痛回避という自然の大原則に支配されて、これに従順である。だが、ときに大きな目的のためには損傷・苦痛になることを引き受けることが必要となる。このとき、動物とちがって苦痛から逃げず、あえてこれを受け入れて甘受する。苦痛に対して反自然・超自然の在り方をとる。基本的には自然に従順でありつつも、必要なところでは、これを拒否して、これに従わず、これを抑止して支配することができる。苦痛の我慢・忍耐である。苦痛に顔をゆがめつつもこれに耐え続けるその姿は、厳(いか)めしく、その尊い意志の貫徹は、厳(きび)しくも厳(おごそ)かであり、尊厳と言われるにふさわしいものとなる。
6-3. 尊厳の理想からの逸脱-非尊厳の現実
人は、自然を制御・超越して尊厳を担うが、この自然の制御に失敗したり、自然の力に敗北して自然の奴隷に逆戻りするようなこともある。ひとの尊厳は、非尊厳の自然状態から尊厳にと飛躍してきたのであり、ときに、そのもとの非尊厳の状態に戻る。神に想定される尊厳は、はじめから終わりまで尊厳であるが、ひとの場合は、非尊厳からの生成をもっての尊厳であり、非尊厳の自然を土台とするから、ときに愚かしいことになり、非尊厳に舞い戻る。食や性の動物的欲求を制御して、秩序だった営為で尊厳を保っているが、人間的秩序を逸脱して自然に舞い戻ったり、ときには自然には見られないような自然以下の愚かしい状態に陥ることもある。
尊厳への矜持の個人的な差異も大きく、非尊厳の自然状態により近く生きる者もおれば、自然を無視してまで理性的霊的な尊厳の存在であろうと身体を酷使したり傷つけて無理をする者もいる。理性的存在として生き、卓越したものであろうとして失敗した者のなかには、自然に帰ればいいものを、その非尊厳の自然状態にと引き下がるに留まらず、全てを投げ棄てて、乱心、暴発するものもいる。反自然・反理性の自暴自棄となる。
人は、ときに、動物にと退行したり、自暴自棄などをもって動物以下のものにと成り下がって、非尊厳、反尊厳に陥ることがあるが、それでも、ひとは、なお、尊厳の扱いをうける。鬼畜の犯罪者にも、暴発・乱心の自棄(やけ)の者にも、気高い理性が内在し、自身の犯罪、無謀な自爆を犯罪・愚行と承認あるいは認識できる理性の良心・良識がある。その理性能力を停止し麻痺させているが、そういうものを内在させていて本源的には尊厳の存在と見なされる。だが、現実には、良心・良識はベールに覆われて機能抑止し、鬼畜・非道の犯罪を犯し、愚行にと陥るのである。その非道は、エゴの自然感性を上において理性的な働きをその下の従者にと転倒させた、動物的生の近くに成り下がったものである。さらに、自棄(やけ)の場合は、自己をも破壊する愚挙にでて、鬼畜・動物以下ともなる。動物以下といっても、生の活動を止め放棄して無機物に成り下がるのではない。人間的生の営為のもとにありつつ、その自己保存・維持の生の基本的営為を否定し見境もなく暴発して、反生的な悪魔的な破壊的行為をするのである。鬼畜の犯罪者は、理性を感性の下僕にした狡猾な利己主義になるが、自暴自棄は、自然も理性も自己自身も破壊して乱心・暴発する悪魔的なものになる。にもかかわらず、これらの逸脱から目が醒めれば、理性的存在としてのおのれを復活させて、自ずからに尊厳をもった存在にと立ち戻れるのでもある。
6-3-1. 自暴自棄では、自然以下の反自然・反理性の愚劣に堕す
尊厳の神とか王は、自身の外に非尊厳の支配対象をもつ。だが、ひとは、自身の支配対象であるものを自身のうちにも持ち、自律的に自身で自身を見事に支配して尊厳なのである。自身の半身は、自然に埋没しており、被支配・非尊厳なのでもある。しばしば、自然の方が優勢になり、理性の制御がうまくいかないことも生じる。その場合、その理性の不十分さを穏やかにおさめて、自然に従い自然に帰るのが普通であるが、ときに、それすら拒否することがある。炎の前で、理性は苦痛を耐えて忍ぶが、それがかなわなくなったら自然に帰って苦痛と炎から逃げる。だが、ひとは絶望状態において、理性のみか自然にも従わず、自然(苦痛からの逃走)をも破棄して、炎の中に飛び込んで自爆することがある。自然・野生に帰るのではなく、それ以下に堕す愚かしい自暴自棄にと暴発する。
エゴイストの場合は、理性を自然感性の下位におき道具にしながら、自己の自然、欲求とか衝動を通そうとする。個我の自然を優先する利己主義に陥る。自己の自然にしたがっての利己ゆえ、他己の自然は無視するけれども、自己に限定してではあるが、自然に帰っている。その度が過ぎれば、社会的秩序を破ることになるから、犯罪となる。社会的には、許容しがたい無法・非道にと陥る。これに対して、一層、愚かしいというか逸脱した状態になるのが、自棄(やけ)、自暴自棄である。これは、エゴイストならば自己内の欲求等の自然は守るのに、自身の自然すらも破壊する営為となる。反理性的、反自然的になって、乱心状態のもと見境なく自身と周囲を破壊する。うまくいかなかったのなら、冷静なエゴイストのように、せめて自然状態に戻ればいいものを、それにも留まらず、内外の自然をも否定し破壊して、いわば悪魔的な行為にでる。自然に戻るのではなく、自然もしないような愚かしい自然以下の状態に陥るのが自暴自棄である。自然的には、快不快の自然のもとで自己維持・自己保存するであろうに、その自身をも投げ捨てて、自然もしないような自己破壊という反自然の愚行に走る。自棄は、人間的生に生じた反生の生、精神の癌である。
自暴自棄は、理性的な尊厳を投げ棄てるだけの自然的な非尊厳に舞い戻るのではなく、それ以下の反自然の悪魔的な愚行の反尊厳にと陥る。それも、自身の尊厳の特性としての自律、自由を乱用しながら、自分勝手の極み、自己破壊、自爆に走る。その典型的な愚行に自殺がある。反理性・反自然で自然以下の自棄の愚行である。自殺の中には、自身の名誉を守ったり、責任をとって自分で自分を罰して、自身に死刑を執行することもある。これは、ひとの尊厳を維持しようとしてのことであれば、誇らしい自殺・自決ということになろう。あるいは、不治の病い等で、激痛のみが残されている者が自身の理性的判断で安楽死を決意するようなこともある。穏やかに冷静に決意しての尊厳をもった死となろう。だが、昨今の多くの自殺は、理性的社会的に、あるいは自然的にも、まだいくらでも未来に道は残っているのに、短絡的に絶望しての、安易な自己放棄、自棄・自爆である。自棄(やけ)は、理性を棄て自然を棄て自己自身を棄てた、生の見境ない破壊・暴発であり、尊厳をもつ人間的生を蝕む、度し難い癌である。
6-3-2. 理念・理想としての尊厳
ひとは、動物であり、自然的な快不快が強ければ、理性を蔑ろにして、快不快によって動くことになりがちである。それは、人間的には逸脱であり野卑・愚行となる。だが、そう自覚するのは、ひととして自身、理性的に合理的に歩みを進めるべきだということを踏まえているからである。愚劣だとの反省意識は、あるべきひとの尊厳の姿を、理想・理念として向かいに描く。現在は、自然にながれて非尊厳に陥っているが、あるべきは、理想的には、自然を超越して尊厳を保つべきだということである。ひとの尊厳は、自身の非尊厳との緊張関係のもとにある。
人の尊厳は、現にあるというより、あるべき理想像として描かれることが多かろう。神に想定された尊厳は、尊厳からの微塵の逸脱もないのが普通である。他の宗教、宗派からは、邪教として、その神は、邪神であり教祖のでっち上げた妄想妄念にすぎず、尊厳のかけらもないと批判されるが、信仰している者(つまり、自分たちの神を絶対的支配者として、見事な支配と讃嘆している被支配者)は、非の打ちどころのない絶対的存在で尊厳そのものを具現していると想定している(尊厳は、客観的規定ではなく、主観的なものだから、評価の違いは、よく起こる。現代でも、独裁者の尊厳は、国内限定であり、隣国からは、残酷・愚鈍と客観的に評価される)。これに対して、ひとの尊厳は、その担い手自身の意識においては、現に尊厳であるというより、尊厳を理想・理念としているという場合が多い。もちろん、周囲の関係者に対しては、常に尊厳の扱いを求めることではあるが、それも理想で、現実には、結構ひとは、下賤・愚劣、無価値扱いされて非尊厳状態に落とし込まれることでもある。ひとは、dignitas(尊厳)だが、 miseria(悲惨・非尊厳)を裏面に有しているのであり、その非尊厳のもとに悲惨な存在になるのでもある。
自身においても、周囲からの扱いにおいても、ひとは、尊厳が現にある(Sein(存在))というよりは、尊厳になる(Werden(生成))べきだ、尊厳であるべき(Sollen(当為))だということである。あるいは、周囲のひとから尊厳の存在として扱ってほしいということでは、自身の尊厳は、そう扱われるべき権利(Recht(法、正しいこと))であり、求め(Wollen(願望))ということになる。その未来への自身の当為として、かなたの理想(Ideal)として、あるいは本来的な自己自身、おのれを動かす理念(Idee)として、尊厳の姿は描かれるのである。
自然的で現実的な自己があって、同時に、理想的理念的な自己がうちにある。多くは、前者が働くことになるが、それが理性的にみて愚かしいと思えるとき、理想とし、あるべきとする事態を描き、これに生きようと努めるのがひとであろう。理念としての本来的な尊厳の自己があって、その尊厳のプライドが、自然的な愚劣に終始している自己を駆り立て引き上げて、尊厳にふさわしいものにとしていく。
6-3-3. 自負、自尊の心をささえる己の尊厳
ひとは、自分が他人から犬猫と同等に扱われたら憤慨する。現実的には、犬猫並みのことしかしていないとしても、そういう風に見られたり扱われることに反発する。本来的な自分は、動物を超越した尊厳をもった理性的存在であると自覚しているからであろう。ひととしての自負心、自尊心がある。
かりに自身の行動が劣等なものに留まるとしても、本当は自分には高い能力があるのだと自負する心をもっている。あるいは、自分は、かけがえのない存在であり、尊ばれてしかるべき存在だとの思いが根底にある。現実には、愚劣なことをしていても、本当の自分はこんなものではないのだとの思いをいだく。それは、対他的な場面でそうであるばかりでなく、自分だけのもとでも、そうである。自身の動物的自然を制御できなくて、自然の快不快の奴隷になっているとしても、本気をだせば、快不快など立派に制御・支配できる卓越した理性存在のはずなのだとの自負心をもつ。自然の奴隷などに甘んじてはおれない、敗けてなるものかとの負けじ魂をもつ。ひととしての誇り、その尊厳が、おのれの愚行を愚行と見なして、これを克服した理性的な真摯な営為へと努力する姿勢をもたせる。
自身を大切にすることは、生あるものの自己維持・保存として一般的であるが、ひとのそれは、自分を尊いもの、かけがえのない価値を有したものとして、これを誇るのであり、それを守ろうと、それの侵されることには抵抗する。単に自己を大切にするのみではなく、それの上を行き、誇りが傷付けられるようなこと、低きに引きずりおろされることを不愉快として、これを否定して高き自分を維持しようと、懸命になる。かりに自然の快不快に敗けたとしても、それは、本来の自身が力を発揮しきれていなかったからだと捲土重来を期して、尊厳の回復をはかろうとする。負けてなるものかと負けじ魂をもって挑戦していく。
ひとは、今に生きるよりは、未来に、自己実現に生きる。いま節食を推し進めているのは、今の自分のためにではなく、今の自分でもない。未来のスリムな自分のために、その未来の自分がさせているのである。現在、法学部生であるのは、未来の裁判官であろうとしてのことである。法学部生であるのは単なる手段であり、その現在の生を守ることには拘泥しない。裁判官である未来が真実の本来的な自分である。尊厳も同様で、いまは、非尊厳であってもよい。未来の本来の自分は尊厳をもった者なのであり、そうなろうと現在を生きる。そういう向上心をもって現在の困難を克服し本来の自己・尊厳にと帰る。自負心・自尊心をもって現在の疎外に耐え、負けじ魂をもって未来の本来の尊厳の自己を実現していく。
6-3-4. 苦痛忍耐における厳しく厳めしい尊厳
尊厳は、尊く厳(おごそ)かであって、至高のものとして厳(いか)めしく近寄り難いものである。厳かな神や王は、自身に対して厳(きび)しく当たったり、厳めしさをもってすることはない。それらの形容は、自身が支配する者へのあり様である。尊厳を持った神や王が、信者や被支配者に対して、厳しく、厳めしく振舞うのである。だが、人間の尊厳は、対自然についての支配の尊厳であるとともに、自身が自身を支配する自律の尊厳であり、自己内の自然を厳かに厳しく制御・支配するところに、まずは見出される。自己内の自然の代表であろう苦痛、これを制御し、その自然においては苦痛から逃走するものを、これを適宜に抑止し、必要なときには超自然的に苦痛を甘受する。その卓越した理性的な振る舞いに、ひとは己の尊厳を見出す。快享受の抑制など、簡単に超越して制御できるが、苦痛は、手ごわい自然であり、それを超越しての苦痛甘受は、簡単ではない。苦痛甘受に際しては、ひとは、厳格厳重に、気を引き締めて厳しさをもって当たり、甘えなど許さず厳めしく振舞わねばならない。その尊厳の厳かさは、自己の自然に対決する自身の厳しい心構えの問題となる。
苦痛に忍耐するときのその苦痛は、自己自身の苦痛であり、他人の苦痛に耐えるのではない。忍耐では、各人が各人の苦痛を対象とするから、自分にふさわしい各々の苦痛に対決して耐える。外的自然への対決の場合は、その自然対象は各人によって異なることが多いし、なにより個人ではなく多くの人が共にかかわることで、そこでの尊厳は、集団的であったり、その中で使命を担った者が体現することになる。外的自然にかかわる場合、個としての尊厳は、理性的存在としてはその光栄に与るのだとしても、個自身においては感じにくい。だが、内的自然については、各自が各自を支配するのかどうかということで、尊厳は自分しだいということになる。苦痛から逃げるとは、自分の苦痛から逃げるのであり、自分のうちの自然に敗北するということである。その自分の苦痛に敗けなければ、尊厳は貫かれる。各自が自分の苦痛を対象にしてこれの制御・支配をするのであるから、自分にさえ厳しく厳めしく対処するなら、制御可能なことであろう。他者からの腕力には、弱ければ、どんなに強がりを言っても、敗北する。だが、苦痛は、ちがう。他人の苦痛を耐えるのではなく、各自、自分の苦痛を耐えるのであって、自分に敗けなければ、決して敗けないのが苦痛の忍耐である。苦痛については、どんなにひどい目にあったのだとしても、拷問で時にあるように、失神したり生命を失うようなことも覚悟すれば、敗北しないで、尊厳を堅持することができる。激痛に、厳しく厳めしく耐えて、厳かな己の尊厳を堅持することが可能である。
6-3-5. 苦痛は、精神的領域でも強力で、尊厳から逸脱しがち
快不快の自然は、生理的レベルでは強力に働いて、これの奴隷になりがちで、ひとは、快不快ともにその制御・支配に努める必要がある。だが、精神的なレベルに高まると、快はもうどうでもよいことになる。目的は価値獲得であって、快ではなくなる。これに対して苦痛の方は、精神的社会的領域でも大きな力をもって人を動かす。精神的苦痛としての絶望とか悲嘆を抑止して忍耐し、その苦痛・苦悩を超越して所期の目的を実現していくのは、簡単ではない。
苦痛を乗り越えて進むのが人の卓越したところであるが、精神的な苦痛の代表ともいえる絶望とか不安に負けて、目的とするものへの歩みをやめて撤退することは、まれではない。絶望は、希望を絶つが、その希望は、自身に現実的に可能な最高のレベルになるものであり、その達成は簡単ではなく、この希望を剥奪されて悲嘆し絶望する。だれもが自尊心をもっていて自身を高く評価し、高い望みをいだいて社会に関わる。それは、悪いことではない。だが、そのことで絶望するのであり、この絶望は、耐えがたい苦痛・苦悶をもたらす。そこで人としての尊厳を堅持できればよいが、耐えられず絶望に敗北するようになると、しばしば尊厳をもった対処ができず、尊厳の自己から逸脱してしまう。自然にまかせての粗野な鬱憤晴らしをしたり、ときには、自然以下の悪魔的な愚劣なことをしてしまう。自暴自棄になって破壊衝動に任せて反社会的なことをしたり、すべてをご破算にしてしまい、ときには自殺というような破滅をもたらすようなことになる。
絶望などの精神的苦痛・苦悩は、大きいけれども、その苦悩を理性意志が、しっかりと制御し、これから逃げず甘受して、自身のうちの苦悩にさえ負けなければ、これを耐え続けることができる。受験の失敗に人生の敗北を思い絶望するとしても、この苦悩から逃げず耐えておれば、自身の精神は強靱なものにと成長する。その苦悩・苦痛に駆り立てられた暗中模索のすえに人生の別の道のあることも見えてくる。その挫折は、その苦痛に忍耐できているならば、それ以前の人生とはちがったより広くより高いところへと自身を導いても行く。苦痛(絶望や悲嘆)の甘受をもって自身の苦痛から逃げず新規の人生に挑戦する者の姿は、尊く厳かである。尊厳の端的がそこにある。
6-3-6. 快抑制でも人間的尊厳を自覚すべきである
生保存の根本、食の欲求は大きいが、現代人の一般においては、これはかなり充足されている。おそらくかつての時代に比して言うと、食べ物には相当に贅沢になっているが、それでも、慣れてくると贅沢とも思わない。少し反省すれば、資源の無駄遣いになっていると分かるが、それをやめて質素にということには中々なっていかない。しかし、地球環境を破壊するまでになっていて、社会全体として、浪費・贅沢は戒めねばということになりつつある。食の快楽は、大きいけれども、必要な栄養が足りているなら十分なのであり、快に負けて食道楽的なことになるのはやめねばと節制に努める者も少なくない。必要以上のものは禁じるという意志をもち、節制する。が、快・美味には、かなわず、過食に走ることもある。それでも、翌日からは、人としての矜持、尊厳の自覚をもって、自己の食への自然衝動を抑止し美食を抑制して、ひととしての卓越さを見せることができる。
自己内の自然の快で強力なものに性的快楽がある。食欲に比しては小さいが(子供にはないといってもいいし、大人でも、刑務所などでは、食の欲望は消えることがないが、性欲はなくなるという)、周囲からの刺激を受けて強くなり、ひとの場合、発情期がなく年中性欲は存在するから、その制御がときには重大なこととなる。種の保存のための欲求であり、当の社会に相応しい秩序があって、これを守るということが性欲制御の大切なところとなる。激痛に耐えるような困難さはないが、その快楽享受への欲は大きく、ときに羽目を外して秩序をやぶってしまうことになる。それは、不倫などの逸脱では、家族や穏やかな社会を崩すことに直結する醜悪な犯罪となる。
快楽をむさぼるというと、現代では、動物的な食・性の欲求とともに、人間社会独自の麻薬とかギャンブルの問題になることも多い。自由、自律を悪用して快楽奴隷に陥る。それを脱出して快楽を抑止・禁止することが求められるが、飲酒ですらも、一度その快楽の中毒になると、抜け出すことは簡単ではない。中毒になると、禁断症状が出てきて、その薬物、快楽がきれることで苦痛が生じてくる。快の欠損に我慢するだけでは済まず、苦痛にも忍耐することが必要となる。快楽を我慢できないものが苦痛に我慢することは一層困難なことで、よほど己の尊厳を自覚し猛省して生き直す覚悟をしないと、あたら人生を破滅させてしまう。
6-3-7. 尊厳でなく尊大になりがち
王は、周囲の被支配者から、尊厳の扱いをうけていると、実際には卓越した存在でなくても、自身を偉大なものと錯覚してくる。尊厳の内実がないのにそのように振舞う、尊大なものになってしまう。ひとは誰であっても、常々尊厳の扱いを受けていると、自身を偉大と思ってしまい、他者をないがしろにする形で、尊大なものになることが生じる。ひとの尊厳は、動物的自然をうちに有しつつのものであり、つい動物的な愚劣な振る舞いに陥っていることがある。その尊大で野卑な愚行は、しばしば周囲には許しがたいものとなる。
国王が真に尊厳にふさわしい存在であった場合、冒しようがない。だが、実際には、尊厳の内実がないのであれば、被支配者からみると、単に尊大・不遜な振る舞いをしているだけとなる。機会を見つけて、かれは、尊厳の座から引きずりおろされることとなる。ライオンや雄鶏は、自身の偉大さを顕示しようと立派なたてがみや鶏冠で飾る。中身のない王や神(とくに教祖)も、きらびやかな王冠をもって自らの至高の地位を誇示しようとする。だが、雄鶏などとちがい卓越した中身がないのであれば、尊厳を象徴する王冠は尊大さを語るだけのものになる。万人の有する人間的尊厳も、努力目標であり、理想であるとすると、個人によっては、実際的には、尊厳のかけらもない愚劣な振る舞いに終始する。
ひとは、動物としてマウンティングの欲求をもっており、これが尊厳のもとでも動く。複数人になると、優劣を競い、上に立って他の人を支配したがる。自身の権利のみを主張して、相手の権利はないがしろにするというようなことも生じる。ひとは、尊厳扱いをもって大事にされると、ついそれを当然として甘えて尊大になる。尊厳の扱いをしてもらうけれども、他面では非尊厳で卑小な自分でもあることを自覚し、かつ、相手も同じ尊厳をもった人間であることを踏まえて、謙虚に振舞う必要がある。ひとの尊厳は、自然の見事な制御・支配に基づくのであれば、自然に対しても、尊大にならず、被支配の動物や自然に対して見事な支配・制御となるように、十分な配慮をすることが求められる。慮って対処しているつもりでも、しばしば、独善的になっている。謙虚になり熟慮を重ねて、尊厳を有するものの責務をしっかりと果たしていくのでなくてはならない。
6-4. 「尊厳」という言霊-共同幻想としての尊厳
尊厳というと、なんといっても神とか国王のそれであろう。だが、その神を尊厳とするのは、これを信仰する仲間内だけのことである。その王を尊厳でもって讃美するのは、その支配下にある国民のみである。その神を信仰していない者は、尊厳どころかその神自体を虚妄と見るし、王の尊厳も、周辺の国からは否定され、狂暴で愚劣な首魁にすぎないと軽蔑されるのが多くの場合である。尊厳は、客観的規定ではなく、主観的なものであり、それをたてまつる集団の単なる、しかし強力な共同幻想である。
尊厳は、その集団においては、絶対的なもので、その神や王の不可侵の崇高さを示す王冠のようなものと捉えられ、拝跪を促すものとなっていた。おそらく、ひとつの集団が統一的な営為、例えば周辺の部族との戦いとか、組織内の秩序立った行動等のために必要としたものであろう。組織内の統一した行動がなくては、みだれて成員相互間でスムースな動きが取れなくなる。それを防ぐために統率が求められ、背くことのできないような、絶対的な畏怖・威力を各個に感じさせるものが求められた。その統率の威力が大きいほど全体は強く一体的になり、安定した集団となる。集団が大きくなるほどに、その指令するトップは、現存の長老たちを超えて、その集団の共同の祖先になり、祖先神(氏神)、神となっていったことであろう。この全体を担う祖先神は、霊界になお現存していると想定され、巫女などの口をもって、しかるべき行動への支配的命令を出した。あるいは、その祖先神は、最有力の部族の長、王に乗り移って、その意志を表明した。巫女や王の声は、祖先神の尊厳をもった命令と見なされて、この共同の幻想は、現実的なものとして威力をもって機能したことであろう。
「かけまくも、かしこき(心に懸けることも、畏れ多い)」「みこと(尊)」等と尊厳の言葉が発せられることで、その神や王は、これにひざまずく者たちの前には、尊厳に満ち溢れたものとして立ち現れたことであろう。尊厳(相当)の言葉をもって形容されることで、その言葉にふさわしい真に超越的な尊厳の存在そのものにと神や王は祭り上げられた。下賤な言葉をもって形容すれば、その下賤さがそのものにくっついてしまう。同じように、「尊厳」の高貴な言葉は、それをもって語られることにおいて、拝跪の姿勢をさそい、当の拝跪されるものは、それに見合うように尊厳の存在自体になっていった。ひとは、言葉をもって生きるので、これに大きく動かされる。「尊厳を侵す」と言われると、現代であっても、身を引き締めて細心の注意を払い、ことによると威嚇され、批判的な眼を麻痺させられるようなことにもなる。言葉自体にあたかも物事を動かす魂・霊が、言霊があるかのようなことになる。
6-4-1. 人と自然を支配する神々の尊厳
ひとは、集団として生きる。古い時代、家族は経験知の豊かな老人・長老の命令下に動いたことであろうが、より大きな集団になると、諸家族の同一の祖先において一つになり、その祖先神とみなされるものの指導にしたがうことになった。が、その祖先神(氏神)は、死んで霊界にいることで直接には語らないから、巫女に、あるいは、現に生きている長老などに憑依してその指導的な声を発したことであろう。それは、行動の指針がたたないとか混乱しているようなときに、その明確な指針を求めてのことになり、その祖先神の声は、親の親、長老の長老といった権威に輪をかけた頼りがいのある尊厳のある声となった。権威・威力をもって命令・指示するものであり、その集団の者たちはこれに拝跪し従順にしたがった。親から親へと遡った祖先神(氏神)が、生きている者たちの祖として、侵すことのできないものとして立って、巫女などに憑依してその集団を支配した。尊厳をもつ神の世界と自分たち被支配の世界を作り出した。
これと同時的に進行したのが自然神とのかかわりであろう。自然の威力の前にはひざまずく以外なかった。日常的な自然には能動的にかかわれるが、その背後にある荒れ狂う暴風雨などの巨大な力にはなすすべがなかった。そこに想像力は、自然神を見出した。これも祖先神と同様、一方的に自分たちは、その威力にひれ伏すだけであった。これを、侵すことのできない尊厳の存在とみなして、これの威力を畏怖しつつ、その創造力に慈悲・恵みを求め、その破壊力は他へ向け自分たちには無事をと、ひれ伏して、乞い願った。人知を超えた尊厳の存在としてたてまつり、畏怖したことである。
その祖先神なり、自然神には、ひとは、無力な存在として、従順な被支配者となることに徹した。尊厳をもつ神々とこれにひれ伏す人間という関係である。日本の神話時代は、当然、尊厳という漢語はない時代にはじまることであり、「尊厳」の語そのもので表現されることはなかったろうが、それに相当する和語をもって古くからこれは表明されてきた。荒れすさぶスサノオは、「みこと」と称されるが、漢字では、尊である。神々は、その尊厳を「尊(みこと)」で表していた。尊は、尊ぶということであり、「高き尊き」ものとして、高くとおくに尊崇の念をもって立てられ、被支配の自分たちの触れることもできない崇高なものとなった。あるいは、荒れすさぶ厳めしい神には、ひとは、恐怖し萎縮しきって関わったことで、その尊厳を有する厳かなものへの姿勢は、神に向かっていまでも「かしこみかしこみ申す」と言うように、「畏(かしこ)む」ことをもって表明された。畏むのは、被支配者が畏怖しひれ伏すことである。「厳かで」「厳めしい」神の「厳しさ」を受け入れ、その威厳にあふれたものの前に萎縮し緊張して、畏怖し、かしこまり控える。尊厳をもつ祖先神や自然神は、これを遠く高くに尊び奉り、自分たちは、その厳しく厳めしい神のまえに萎縮し恐怖して畏まり、その畏怖させるものに絶対的に従順な被支配者として平伏し拝跪したのである。
6-4-1-1. 神聖・不可侵の尊厳の形成
キリスト教の神を尊厳とするのは、その神の支配に服しているキリスト教徒のみである。仏教徒は、その異教の神も尊厳も、妄想・妄念にすぎないと客観的な真実を語る。神仏の尊厳は、それへの帰依者によってなる。かれらは、徹底して従順な奴隷に留まる姿勢をとって、拝跪する。五体投地は、全身をもって這いつくばる姿勢になり、無抵抗、従順さを示す。拝跪すれば、その対象は絶大な力をもっている支配者になっていく。ひとは手でもって対象を動かしこれに抵抗することが多いから、手を広げ合掌し手を縛ることは、無抵抗・従順の表現となる。手をあわせるとか敬礼で手のひらを見せるのは、武器をもってないとか、無抵抗で、力んだ握りこぶしで攻撃しようとなどしていないことを示す。数珠とかロザリオは、信者が自身を縛ることの象徴であろう。ひざまずくのは、非攻撃的で低位置にある自分を示す。首とか上体を折り曲げるのも、同様、自身が低きにあることを語る。そういう非支配者の無抵抗で低位置にあることをもって、その向かいにある神は、おのずからに高く尊いものとなり、厳かで畏怖すべきものとして、尊厳となる。
尊厳では、尊厳の存在は、絶対的上位に位置し、従順に拝跪する被支配者は、はるか下方にひれ伏すことになる。つまりは、触れることの許されない距離をもつ。触れること、接触することは、対等に並んで可能になることだから、尊厳の存在には、触れてはならないのである。神棚は触れられないようにと高くに設けられる。不可侵、不可触である。聖なる世界、神聖なものと世俗の峻別である。聖なるものに触れることは、俗のけがれでこれを汚すことであった。畏怖すべき神の場合は、人の方から触れることを避けるとともに、自分たちの方に接触してほしくないということでもあった。祇園祭などは、疫病神(牛頭天王≒スサノオのみこと)をまつりあげて、自分たちには接触してこないように、自分たちの方には近づかず遠くに安らいでいて欲しいと祭ったのであろう。
さらに、触れないどころか、見てはならないと言われる場合もある。見ることは、感覚では遠隔受容器によることではあるが、「眼をつける」というように、その見たものを攻撃し挑戦的になるものと捉えられた。猿やチンピラは、あまり見ることをしてはならない。それらを挑発する振る舞いとなる。無抵抗・従順の信者は、その尊厳の対象を見ることも、さらには語ることさえも、遠慮する必要があるのである。「かけまくも、かしこき(こころにかけるのも口にするのも、畏れ多い)」畏怖の神であった。あるいは「おろがみ、まつる」、かがみこみ、おがみ、みることを避けて、はるかにと、たてまつる。尊厳の存在は、不可侵の神聖さをもって超越的な高みにまつられるのである。
6-4-2. 王・国家の尊厳をささえるもの
人間社会での支配は、武力を拠り所とすることが多い。家族内は愛が育み慈しみ合うことで成り立っているが、外においては、自立した諸家族・諸個人を統御するには、(正義(法)をかかげ)武力をもって威圧するのが通常であろう。武力を行使しないとしても、威嚇して相手がその威にひれ伏すことで、支配・被支配がスムースに成り立ち、双方が無事に済むことになる。日本の神話時代も、支配者となっていく天皇家の祖先たちは、まつろ(服、順)わず抵抗する各地の王たち、土蜘蛛たちを武力で制圧して、これをまつろわせ、「国譲り」を強いていった。やがて、中央の支配下の国造(国のみやつこ(御奴))に位置付けて支配を確定し、全体を安定したものにした。敗者が従順になって被支配に甘んじるようになるのは、その完成は、支配者に拝跪する、「おろがみ、まつる」姿勢をもつことをもってである。尊厳の支配者と、拝跪する従順な被支配者である。これでその社会は、安定したものとなる。その支配・被支配がうまく持続すれば、そのまま、王の子が王となって王朝はつづく。その王家が神与・天与の尊厳をもった血筋というようになってもいく。尊厳の背後でこれを支えるものは、武力であり、畏怖し従順に被支配に甘んじるのは、その武力を知ればこそであった。
尊厳の威力を成り立たせる武力は、支配者の方にあるが、尊厳自体を創り出すのは、これを付与するのは被支配者の方である。支配下にないその圏外のものは、尊厳をもって拝跪することはない。まつろわぬ者は、支配下におこうとする王の武力を脅威とし、彼を狂暴な首魁と見なすだけである。「まつろ(服)い」、これをまつり上げて「おろがみ、まつる」ことで、それに服従し拝跪することによって、拝跪されるものが絶対的な支配者として尊厳となる。いうなら、尊厳の称号は、被支配者が付与するのである。拝跪し従順になりきった姿をもってすることで、相手が尊厳を有した絶対的存在となる。しかし、尊厳の栄誉が下賤の被支配者によるというのでは、その尊厳にかげりを感じさせかねないので、絶対的支配が確定するとともに、その尊厳は神与・天与にもっていくのが一般である。
日本の場合、歴史の歩みは、やがて、武力をもつものが武士として別勢力になっていき、神の代理人としての天皇は、現実世界の支配者ではなくなったけれども、現実の支配者の将軍たちは、その尊厳を神の代理の天皇から授与してもらうことを続けていった。だが、中国などでは、支配は外からの征服となることが多く(日本を統一国家とした天皇家は、南方高天原からにせよ北方朝鮮方面からにせよ、外部から(天孫降臨)の征服王朝になる)、根こそぎそれまでの支配関係を取り払ったから、神の代理人になるものを残さず、皇帝は、直接、天から尊厳をもった支配権を受け取る形をとった。
6-4-2-1. ひとの依存心は、尊厳の支配を求めた
ひとは、集団的に生きる存在であり、依存心をもつ。だれかに導いてもらいたいという心性をもつ。生まれてからすぐ独立する魚とか爬虫類とちがって、長く親に依存して育つ。ひとは、動物的には未熟猿として生まれて、何年も親を頼りにして生きるという根深い依存体験を踏まえているから、その心性は大人になっても続く傾向が大きい。何かに寄りかかっていないと落ち着けない。その非自立依存の心性の創り上げたものが祖先神であり、帰依する神仏であろう。親が絶対的であるように、神仏を絶対視して寄りかかり、これを尊厳で、冒してはならないものと見ていく。
未来に生きるのが人であるが、その未来とその指針は、不明確で、自信のないものになりがちである。このとき、それを明確に示してくれるものがあれば、確信して自信をもって歩める。頼れる親の親の祖先神がこれを示してくれるなら、これに従いたくなる。巫女を通して、祖先神の言葉をいただくことで自信をもって一族全員で前に進み得た。その言葉は、神の言葉として、尊厳を持ったものとして受け入れられたことである。尊厳をもった威力ある言葉に導かれて安心できたことであろう。ひとは、蜂や蟻のように集団として生きるなかで、この集団に依存することになる。その同族のうちにひとは安心を得る。その全体とこの全体を導く者に依存し、そのリーダーに拝跪することで、リーダーの尊厳を作り出した。ひとは、寄りかかり依存する心性を満たし安心できた。
ひとつの集団が力を発揮するには、生命体が中枢をもって統一的に動いて力を発揮するように、統一的な中枢があれば容易くなる。蟻や蜂とちがい全成員の親となるような女王は持たないけれども、ひとにはマウンティングの動物的性向、支配欲・名誉欲が強いから、放っておいても、だれかが王になっていった。それでまたトップになると、全体がよく見えるからうまく判断もできてくる。上位のものが下位のものを支配し、下位のものは、上位の支配に従順になって動くということで、君主制というようなものが成り立った。もちろん、民主制も原始の組織からあった。寄合は素朴なところでは、よくある形式であった。だが、合議は、集団が大きくなると混乱してうまくいかないことになる。独裁的にやる方が全体の力は大きくなる。反対勢力の口を封じれば全体が一つになって、軍隊組織がそうであるように全体の力はスムースに発揮できた。どこでも、頂点に王をいただくのが普通となり、したがって、尊厳の王による国家の支配が一般となった。
6-4-2-2. 古典的な尊厳を必要としなくなる近未来
支配・非支配関係のあるところに尊厳は登場する。社長が尊厳であるだけではなく、課長も係長も尊厳になる。係長も、背後の課長や社長を顧慮しない場では、立派な尊厳の係長である。上下、優劣の序があるところで、第一位の者が第二位以下のものに向き直って命令し支配するところに、唯一の至高の支配者としての尊厳は成立する。係長も、平社員に向き直って唯一の支配・命令者となるところでは、尊厳を有する者となる。あるいは、会社では、無能扱いされている万年平社員の父親も、家庭では、尊厳をもった家長でありうる。その長・トップのもとにひれ伏す者は、それに向かって立つ支配者を尊厳の存在にと作り上げる。だが、支配・被支配関係がないところでは、尊厳は消えていく。どんなに立派な社長であっても、平社員と同好の釣り仲間になって対応する場面では、厳しい支配関係は消えていて、尊厳をもって扱われることはない。
これが、フラットな集団ということになると、かりに一時全体をまとめる役を担うものがあったとしても、単なるまとめ役にとどまり、優れた同僚・リーダーにとどまる。対等な人間関係にたって結びあうところには、支配被支配の下での尊厳は登場することがなくなる。他の者たちは、尊敬はしても、拝跪し奴隷的に従順になるものではなく、尊厳の称号をまとめ役が担うことはない。あるいは、皆が尊い存在であるから、皆が尊厳の存在になるのだともいえる。自立した自律的人間は、見事な自己支配のできる尊厳の存在である。尊厳を万人が有する。が、人間の尊厳のもとでは、相手に拝跪し絶対的に無批判に追随するわけではないから、古典的な尊厳という言葉からは外れたものとなるであろう。
卓越したもの、至高のものがあることはこれからもそうであろう。だが、それを尊厳で捉えることはないのである。尊厳となると無批判的に拝跪して威嚇され絶対視する。だが、そういう姿勢は取らないことになっていくであろう。合理的にどのように卓越しているかを把握し、その卓越の範囲で、これに従うことであろうし、至高だといっても、どの範囲でかと明確に掴み、その妥当する範囲においてトップ・リーダーとするだけのことであろう。無批判的に絶対視してこれに拝跪することはない。有限の範囲での至高であり、卓越したものとして尊敬はするが、これに無条件的に這いつくばり被支配者になるような尊厳への態度はとらず冷静で合理的な振舞いが取られるだけとなっていく。親に対する幼児のように、無条件的に依存し追随する状態にあれば、指導者任せで楽ではあろうが、フラットな時代には、そういう無責任な姿勢は許されない。自立し自律的に相互が全員、尊厳を体現して生きていくことが求められていく。
6-4-2-3. 尊厳は、頂点・第一位というだけでは成立しない
ひとでも動物的マウンティングの傾向は大きく、名誉など競って求めていく。その心性があれば、頂点となる至高の存在を憧憬することになり、尊厳の存在を創造しそうである。が、今の時代、下位の者は被支配には甘んじないし、至高・トップになった者も、それで尊厳をもった支配者として下位の者を被支配におけるとは思わないであろう。競争心は、大きいが、えこひいきなしに測ってみれば、その能力の差は小さい。短距離徒競走など、ほかの動物がせせら笑う時速40キロ前後でのわずか百分の一秒の差でトップを作り上げる。世界一のランナーになったとしても、ごくわずかの差であり、桂冠の獲得は、その時だけのものにとどまる。競争するということ自体、実際に並べて競ってみないと差がわからないからするのである。亀と兎の場合は、速いのは兎と、走ってみなくてもわかるので、競争しない。競争に勝って第一位のみが桂冠を戴くとしても、第二位、第三位が僅差で量的に続くという、どんぐりの背比べであれば、支配・被支配の尊厳の在り方には、程遠いものに終わることである。勝者を至高と思うものはあっても、これに拝跪して奴隷になることを肯んじる者はいない。拝跪するものがいなくなれば、古典的な意味での尊厳をもつものはなくなる。
仮に第一位が圧倒的な差で存在するような場合であっても、その卓越・至高のメルクマールだけでは、尊厳には不足する。けん玉世界一が第二位を圧倒的に引き離して存在するとしても、それを尊厳とはみなさないであろう。ミス(ミスター)ワールドは、美的に卓越しているとみなされたとしても、尊厳の冠はもらえない。尊厳になるためにそれらが欠くものは、支配関係である。尊厳は、第二位以下が被支配者となり、第一位で支配者になった者に向かって卓越した支配だと讃美することでなりたつ。神も国王も、支配者として至高であって、尊厳とみなされ拝跪されるのである。
優劣のあるところで、第一位が尊厳であるには、第二位と決定的に異なるものがなくてはならない。人間は、尊厳だが、第二位の類人猿は、もう尊厳ではない。トップの人間のみが尊厳である。第一位以下に優劣の差をもって多くが並んでいるなかで、その第一位が、向きを第二位以下の方に向き直って、唯一の支配者となり、第二位以下は、すべて被支配者になることで、尊厳は、成り立つ。尊厳の第一位の人類と第二位の類人猿との遺伝子レベルでの差異は、1%ぐらいだというが、それでも、ひとと猿の違いは、支配者と被支配者という異質の存在になって、人のみが尊厳の冠を戴く。ひとを殺めたら殺人であるが、チンパンジーを殺したとしても殺人罪には問われない。ものを壊したのと類似の取り扱いとなる。
6-4-3. 人間の尊厳
現代社会でも、尊くかけがえのない人間が、物扱いされて人として扱われないことがある。それに厳しく対処するため、威嚇的な用語として機能しうる「尊厳」の言葉を使うことがある。ひとも生命も、ひどい目にあうことが多い。人類史において、どれだけ多くの人命が弄ばれ犠牲にされてきたことか。尊厳の反対、非尊厳の惨めな扱いの方が普通であったろう。だが、動物なみの扱いをうけ虐げられた人も、内心においては、それを不当と思い、自身も、神や王の座に坐れば、それとして振舞えるだろうと思っていたことである。旧約聖書の神のような、人や動物の創造に失敗してやり直しをするような仕事なら、自分の方がうまくできる、神よりましだとすら思うことである。内心においては、尊厳の存在であることを人は自負している。その内にあるものを外に出して、自分も尊厳だと近代になると言えるようになった。
ひとは、自然の中にいながら、この自然を超越してこれを制御・支配している。自然から言えば、至高の支配者であり尊厳の位置にある。ただし、神や王の尊厳とちがい、被支配の自然が人に拝跪してくれることはなく、ひとの尊厳は、それらとは少し事情が異なる。狡知をもって巧みに支配しているのだが、それにはまずは自然に素直に従うことが必要で、尊大になっていたのでは支配は失敗する。まず自然の奴隷になったうえでこれを巧みに支配していくのである。しかも、類として支配力をもつのであるから、個人としては無力にとどまることも多い。尊厳の能力をもっているから、それを表に出してよいところでは、出す。愛玩動物の前では子供でも尊厳の振る舞いをするし、家族のうちでは、誰かが絶対的な高位に就いて、尊厳となることはよく見られることである。
さらに、ひとは、自己内の自然、快不快の自然を支配・制御する自律の存在であり、この自律は、理性的自己による自然感性的自己の卓越した支配として尊厳となる。苦痛に耐えて内外の自然を超越できる自分は誇らしく、尊厳の存在ということができる。ひとは自身において、尊厳を自負する。それが外で表現可能なら、そうすることになる。ただし、内弁慶が多く、内心では尊厳を誇っていても、外的な、国家の強権とか、無法者の前では非尊厳にとどまりがちである。
国王や神の尊厳は、その被支配者たちが拝跪して支えていた。ひとの尊厳は、根本的には、被支配の自然が支えるものであるが、自然が拝跪の姿勢をとってくれることはないから、尊厳と了解しそれとしての扱いをしてくれるのは、周囲の同じ人間になるのが普通である。が、王が自国では尊厳でも、外国では、かならずしもそういう扱いをされないように、不遜な人間に出合っては、人の尊厳は蔑ろにされて、奴隷あつかい、虫けら扱いとなることも少なくない。
6-4-3-1. ひとは、世界全体を支配下に置き、尊厳の意識をもつ
ひとの尊厳は、古くからの神や国王の尊厳と異なり、近代の誇張ととれないこともない。しかし、今日一般的には人間の尊厳を誇張と思うことはないであろう。それは、尊厳の根本である唯一の卓越した支配者という特性を、各自において感じうるからである。類としての人間が内外の自然を制御・支配しているのは確かである。さらに、ひとは、その主観においては、各々が唯一の至高存在、実存であることを意識する。この世の全体を相手にした唯一の主観として自身を感じることができる。ひとをミクロコスモス(小宇宙)と言ったり、モナド(全世界をうちに畳み込み完結・充実した単子)と言うことがある。それは、全世界、マクロコスモス(大宇宙)をまるまる自己のうちにミクロの形で有しているということである。神が尊厳をもつのは、世界の唯一の至高の支配者だからだが、人間も、それと同じものとみなしうる。マクロの絶対神をミクロにしているのが人であり、マクロの神の尊厳に対して、人は、ミクロの尊厳の存在となる。
消極的な形では、自分が死ねば、無になれば、世界そのものが消滅すると想像できるところに、ひとは尊厳を感じうる。人の命には、無限の重みがあるというが、自分が死ねば、無化すれば、主観的には、世界全体も消滅する。それは、もっと身近には、眠りと覚醒においてみることができる。眠ることで世界全体も消えてしまう。自分が覚醒することにおいて、世界も再生されてくるのである。ひとは、各自の意識をもって世界を見る。自分に沿うた世界をつくる。夢や妄想はもちろんだが、目で見るこの現実世界も、自分が作った世界である。青い空も緑の森も自分がそのように色付けして成り立つ。青色も緑色も外界には存在しない。あるとすれば、それは、光の一定の波長であり、それを各人が自身の心中で主観的に色付けしているのである。音もそうである。美しいメロディーも、自分が心のうちに作り上げてなっているもので、客観的には単に空気の振動が連続しているだけである。美しい音にせよ騒音にせよ、各自が自分の心中で創造したものである。つまり、この世界は、各自が各自のうちで創造しているのであり、各人、世界の創造主になっているということもできる。この多彩な世界は、自分が自分用に創り出し制御・支配しているのである。自身、その世界の唯一の見事な支配者である、したがって尊厳を有していると、主観的には感じることができる。
このようにみなした場合、人間が尊厳をもつのは、誇張などではなく、ごく当たり前のことだということになろう。神の尊厳にしても、客観的なものではない。神は異教徒からいうと単なる妄想であり、盲信をやめ拝跪することをやめ被支配に甘んじることをやめたなら、神は消え尊厳など無化してしまう。つまり、これも主観的なもので、人間が尊厳であるというのが主観的であるのと似通ったものである。神が尊厳なら、同じようにして、ひとも尊厳だといってよい。
6-4-3-2. 生命の尊厳
昨今は、人間のみか生命の尊厳も時にいう。これは、人間の尊厳とちがい、生きているもの全般についていうのであり、これを食料にしている者としては、戸惑い気味となる。が、確かに、生命の尊厳は、言いうる。無機物からいうと、生命は、実に繊細・精巧で卓越した存在である。無機物を巧みに動かしてこれを制御・支配しているといってもよい。無機物の見事な利用・支配において、これを尊厳と見なすことができよう。それが、しばしば、粗末な、ときに冷酷無残な扱いをうけているのを見れば、「生命の尊厳」という切り札を出して、ストップをかけたくもなる。
自然への人間の支配力が強大になったのは良いが、そのことで自然が破壊され、植物もそうだが、何より動物が命を全うできないような状態になっていることが目立つ。このことに対して、生命の尊厳をもってしようというのが現代である。野生の動物たちが、環境破壊で生存を脅かされるようなことが多くなって、その動物的生命の尊いことを説き、環境を保護し動物を保護するために、それらの尊厳を語る。単に尊厳と位置づけて大切にというだけではなく、尊厳を矛・盾にしつつ福祉とか権利をもってすることでもある。動物にも生きる権利があるとか、さらには環境世界全般について、川や山にも権利があるのだとみて、これらの保護のための盾に尊厳とか権利を使おうとの試みである。が、日本では、権利は、英語あたりのright(権利・正しさ)のように「正しいこと」とは異なり、人間社会の権利・義務に限定される言葉である。自然を守るのは正しい(right)というのとちがい、自然にも権利があるのだというと、自然に(権利・義務の責任能力をもつ)人格をみとめるような感じになってしまう。福祉も、人間のそれにと限定して通用してきたものなので、受け入れにくいものになる。とくに、福祉を動物にいうことは、人と動物を同一視し、人を動物に格下げするような感じになってしまう。が、ほかによい訳語が見つからないからか、動物愛護を人並みにという愛護者たちの過激で威嚇的な意向に沿うからか、動物の権利以上に、動物福祉は、最近よく見かける言葉となっている。
世界は結構、主観的なもの、幻想で動いており、動物や自然全般を尊厳とみなすことも、それが多数になれば、通る。イノシシの被害にあう者が少数で、多数派は、イノシシにも尊厳があるということで、殺処分すると抗議の声が殺到する。神など妄想の代表だが、カトリックの信者が多数を占める国では、(神与の)受精卵を処分するのは殺人だとレイプの被害者を苦しめるようなことになる。
6-4-3-3. 比較を絶した壮大な宇宙の崇高さ・尊厳
ひとのみでなく、広く生物は貴重で尊厳をもっているということがあるが、その基礎にある無機物にも、場合によっては尊厳のラベルを張ることができなくもない。森羅万象が尊いものであり、石ころにも仏性があるとみなすなら、これも尊厳ととらえられる。尊厳は主観的な評価・価値判断であるから、そう捉えることも可能である。無機物も、これを創るのは、そう簡単なものではなかろう。無から有は作り難い。有は、稀有の有である。電子とか陽子等の単純なものから、多くの原子、分子をつくりだす巧さは、絶妙で、しかも、その有は、永遠不滅となれば、ひとの生の有限の前で、悠久の存在として崇高さを感じさせられる。
この悠久の宇宙は、空間的にも無限にと広がっているのである。昨今のハッブル等の宇宙望遠鏡での無数の星雲の写真を見ていると、我々の銀河星雲ですら途方もなく巨大なのに、そういう星雲が無数存在していると分かって、この宇宙の比較を絶した壮大さに、崇高さを感じずにはおれない。尊く厳かとの形容をしたくなろう。生命や人間をも作ったこの宇宙・有は、卓越した稀有のものとして、尊厳と見做したくなろう。尊厳は元来、客観的規定ではなく、主観的な規定であるから、その主観が至高で尊いと思えば、それは尊厳になりうることである。ありもしない妄想の神に仰々しく尊厳の拝跪をもってし、愚劣な独裁者に尊厳の称号を与えているのが現実である。それらよりは、宇宙の神秘に打たれて、これに尊厳の思いを持つ方が、よほどましなことであろう。
比較を絶したこの大宇宙は、ひとの測ることのできないものとして、「かけまくも、かしこき(心に懸けることも、畏れ多い)」と神を形容したように、心に思うことも語ることもできない圧倒的な大きさをもって、畏怖すべき存在として現れてくる。尊厳をもって形容したくなる宇宙である。その無数の星雲(の写真)を見ながら崇高さを思い、自身の小ささに思いをいたし、圧倒される。尊くあまりにもとおくにあって、接することなど不可能なこと、不可触、不可侵であり、その厳めしく厳かである様子に気圧される。尊厳の形容をもってこれに感動することである。もっとも、尊厳が宇宙などにまで拡大使用され、いわば森羅万象に尊厳が適用されるとなると、尊厳のもつ社会的な意義は、薄れていく。尊厳は、客観的規定ではなく主観的なもので、万物を尊厳とみてもよいのではあるが、守られるべき焦眉の人間の尊厳ということからいうと、すべてが尊厳となるのでは、尊厳のもつ威力、威嚇的な働きなどは、なくなってしまいそうである。
6-4-4. 威嚇用語となる尊厳
尊厳のレッテルは、そのものを至高の尊いものとして提示するとともに、それへの否定的な言動を阻止しようと威嚇する時よく使われる。「それじゃ尊厳を冒す!」と言われると、反射的に、萎縮させられ、批判精神を麻痺させられる。感情など抜きにして抽象的にことを捉える特殊な意識下にあれば別だが、その時代に行き交う言語の中に生きている者は、例えば、「貴様」と言われたら、貴い、あなた様とはうけとらず、侮蔑され挑発されていると受け取るように、「尊厳」を言われたら、緊張・萎縮がさそわれ、冒しがたいものと受け取ってしまう。神や王の尊厳では、それが大きな威力・武力で支えられていたから、その尊厳を冒すと、命も危ういと恐怖させられたことである。尊厳は、単に至高で尊いというだけではなく、それへの冒涜やその支配からの逸脱に対しての厳しさ厳めしさが伴う。尊厳が付されているものを批判するとき、相手から「尊厳を冒すな!」と反対されたら、たじろいで冷静な批判的意思をくじかれる。尊厳と言われるものに拝跪している者たちは、無条件的にこれにひれ伏していて、その絶対性を冒すような者を不倶載天の敵とみなして脅迫するようなことも生じる。
尊厳の神・王への振る舞いでは、これを至高として従順に引き下がり、絶対的なものとして拝跪する。その支配に反抗的であった場合、古い時代、「まつろわぬ」土蜘蛛は征伐され、あるいは、現代でもイスラム教を否定したら問答無用の狂信者に暗殺されかねない、といったことになれば、尊厳の言葉の前では怯まざるをえなくなる。日本の仏教など穏やかで、尊厳の仏を貶してもどうということはないと言われるであろうか。穏やかに済んでいるのは、葬儀などでの付き合いぐらいに終わっていて、本気で信じてはいないからである。本気になった場合、知を捨て信(=妄信)をとる宗教である限り、仏教でも危うい。世俗の者は、罪深い生活をしており、その殺害はその救済だと、オウム真理教徒は、無差別大量殺人を平然と行なった。キリスト教は、敵をも愛する隣人愛を語るけれども、ヨーロッパでは宗教戦争を繰り返し、どれだけ世界中で非キリスト者を殺害しその文明を絶滅させてきたことか。
人間の尊厳、生命の尊厳の場合は、そういう殺戮の首謀者になることはないのであるが、「かけまくも、かしこき(こころにかけることも、畏れ多い)」といった神や王の尊厳の歴史があるから、尊厳という言葉には、反射的に畏怖させられる。尊厳をもってする者は、これを絶対ととらえて理性的懐疑など拒否し問答無用の態度になる。その没理性的な「尊厳を冒す」という言葉において、いまでも、尊厳は、ひとを威嚇し、ときに脅迫する武器となりうる。尊厳の言葉には、言霊が息づいている。華美、清楚、へど等の言葉を耳にすると自身のうちに独特の感情的反応が伴う。尊厳も同様に、見事で至高との、賞讃や「尊」さ・憧憬の感情を湧出するとともに、これに距離を持とうとする者においては特に、尊厳の「厳」しさ・厳めしさの面に威嚇されて緊張し不安や恐怖の感情を生じがちとなる。
6-4-4-1. 乱用され、無視される尊厳
人間の尊厳とか生命の尊厳は、無視されることが多いが、逆に乱用気味になることも生じている。少し不利な扱いを受けると、人間の尊厳を水戸黄門の「印籠」のように使って、威嚇するようなことがある。生命の尊厳も、同様である。鹿や猪を駆除すると、生命の尊厳を盾にして、これを糾弾する。田畑を荒らされる人間の尊厳は無視して、生命の尊厳を言い立てる。命を大切にすることは、大事であり、環境の破壊で存続の危うい生物の生じていることへの警告として、威嚇的な「生命の尊厳」の言葉は、大いに役立っている。ただ、猪などの害獣の駆除については、生命の尊厳をもって威嚇することは、褒められたものではなかろう。人間の尊厳が、ないがしろにされかねない。あまり、尊厳が乱用されると、身動きが取れなくなることもある。生命の尊厳を冒さないようにすることが行き過ぎると、日々の食事までが困難なことになっていく。もちろん、信念をもった者が、菜食のみでベジタリアン(vegetarian)を通すことは、動物の犠牲を回避する尊いことではある(これも、植物のように(vegetably)生きてカスミを食べるのではなく、植物の命は犠牲にする)。
私は山野を気ままに歩くのが好きで獣(けだもの)道に従いがちなので、近所の猪用の罠には用心しなくてはと、区役所に設置した場所を教えてくれと電話したことがあるが、「動物愛護者が罠を壊すので教えられない」と断られたことがある。生命の尊厳に与する者の中の過激派になると暴力的で、肉屋を襲撃するような者もいる。尊厳を抱く者は、それを絶対的として、尊厳を冒す者を問答無用と否定する。ほかの者の人間的尊厳などを無視してでも、動物の尊厳を守ろうとする。猪の尊厳はあるとしても、それによって農作物が荒らされて人間の尊厳が無視されるのでは、生命の尊厳の乱用ということになる。当然、獣害を受けているものたちは、猪の尊厳などに構ってはおれない。尊厳は絶対的という発想であるから、自分たちの主張する尊厳のもとで、対立する側の尊厳は問答無用と無視されることになる。尊厳の乱用と無視が横行する。
ひとや生命の尊厳を語り合う社会であるが、これを守ろうというのとは反対の現実も多い。近代になって、ひとは尊厳だといいながら、戦争で粛清で、何百万、何千万もの命が奪われ続けてきた。尊厳が、客観的な価値規定ではなく、主観的な価値付与、単なるレッテルでしかないことを、いやというほど我々に突き付けて来た。生命の尊厳を語りながら、牛や豚を日々大量に食して平然ともしている。人間の尊厳とか生命の尊厳は、保護され尊重されるべき場面でも、繰り返して無視されて悲惨な状態にとどめ置かれている。
6-4-4-2. 尊厳同士の衝突
尊厳といっても、これが常に通るわけではない。社長の尊厳と課長の尊厳が二者択一になるようなことがある。その場合、尊厳の本質にもどって、つまり、尊厳は見事な支配に付するものという点から、その場に相応しい判断をすればよい。会社全体としては、課長の尊厳を無視して社長の尊厳を優先することだろう。だが、課内のことが優先される場面であれば、現実の支配・非支配関係において課長が尊厳なのであり、社長ではなく、課長を尊厳として優先することになろう。
同じように至高の尊厳をもって現れる神々とか、諸社長の前において、選択がなされねばならないという場合、尊厳は比較を絶して崇高なものということだから、各々が最高・絶対ということで、尊厳同士の比較は無理な相談となる。どちらかが力に劣るということをもって、絶対・無比を現実の前で否定して、その勝ち残りだけを尊厳としなくてはならない。現実的な力の問題となる。武力に優れている方が尊厳となり、知力・技術力等で優れているものが尊厳を通すことになる(集団のうちで順位をつけていく必要のある場合は、尊厳の視座は取り外さねばならない。尊厳は、第一位のものが第二位以下の方へと向きを変えて、唯一の見事な支配者となるとき成立する。第一位(例えば、人間)は明確でも、第二位以下(遺伝子では1%の差異で人間に連続して類人猿が並ぶ)は、その他大勢の被支配者として順位は無視される)。
生命の尊厳と人間の尊厳の対立は、昨今、動物愛護でしばしば生じている。害獣の駆除に際して、部外者は、猪の生命の尊厳が冒される面しか見ないで、生命の尊厳をいう。が、身近な害獣の被害者からいうと、猪の尊厳を見ている暇はなく、その粗暴な野獣面を見ることになり、被害者の人間(の尊厳)を守れということになる。生命の尊厳そのもののもとでも、複数の生命の尊厳が対立して迷わされるようなことがある。池に外来種が入ったことで在来種が駆逐されるようなとき、在来種(おそらく、早く来た外来種)の生の尊厳のために動くことは、外来種の生の尊厳を無視することにつながる。絶対・無比の尊厳同士は比較できないから、尊厳の視座自体を取り下げて、客観的合理的に比較して選択することが必要となる。
人間の尊厳のように、すべてが同類で尊厳だというような場合、生命の尊厳もそうだが、取捨選択においては、動きがとれなくなる。複数の尊厳をもった人間同士が存在していて、いずれかを優先しなくてはならない場合、いずれもが絶対的な尊厳の存在なのだから、そこに選択の順はつけがたくなる。至高・絶対的なものは、並び立つことは無理で、いわゆる非両立・矛盾の関係になって解決不可能な状態になる。そういう場合、尊厳は主観的な規定なのだから、その尊厳の視座を取り払って、客観的に判断して、その時点で優先すべきものを選ぶことであろう。緊急時のトリアージ(選別)である。ひとりしか救えないという場では、子供を優先して老人を犠牲にする。同じ尊厳を有した子供同士で一人しか選べないのであれば、尊厳の前にたじろぐのをやめて、尊厳の視座は無視して、道理のある比較基準をもって客観的に点数を付けたうえでの選択をする。ピックアップされなかった方の人間の尊厳は、やむを得ず無視されることとなる。
6-4-4-3. 尊厳衝突の決着は、客観性・合理性をもってしたい
尊厳では、それの付される対象を至高・絶対的なものとする。その至高・絶対という尊厳同士での優劣はつかない。ひとつだけを立てねばならない場合、いわゆる非両立の矛盾の関係となりアポリア(難題)となる。誰もが、自身が尊厳と見做すものを第一とする。解決はつかない。みんな、自分のが一番であり、自分のが絶対なのである。
それに決着をつけるには、「比較はいやだ、絶対だ」という問答無用の尊厳の見方をやめて、客観的に合理的に見ていくことであろう(客観的解決としては、実力行使が歴史的には多かった。弱小国の王の尊厳は武力で否定された)。比較し優劣をつけ選択に至るには、量的な比較を拒否してなりたった尊厳を無化して、同じ土俵にあげること、あるいは、尊厳を譲らない者に対して、それに対立する別の尊厳を対置して、絶対と絶対とでは議論にならないことを承知させて尊厳の主張を取り下げさせることである。合理的に、量的質的に比較できる場にもっていけば、選択でき解決が可能となる。妊娠中絶の禁止派と中絶許容派は、胎児の尊厳か妊婦の尊厳かで譲り合えないのであれば、両方とも、尊厳を括弧にいれて無化して、比較可能にして、したがって納得して譲り合える状態にして、英知を出し合うことである(中絶許容派は、必死だが冷静で、尊厳にこだわらない。が、中絶禁止派は、自分たちの神に拘泥し、神与の受精卵の尊厳は絶対だと譲らず頑迷で、過激派になると、中絶を実行した医者を殺害するといった無法も企てる。自身の抱く尊厳を絶対的として譲らない以上は、強制的に合理的客観的な場に立たせ公正な裁判ぐらいに持っていく以外なくなろう)。中絶でなるメリット・デメリットをあげ比較し、その都度、母体と胎児の重みを比較し、法規範、道徳規範に照らしてみて、どちらが譲るべきかを考えていくことであろう。
猪や鹿の命の尊厳を主張する者は、田畑を荒らされて困っている人が害獣駆除をすることを阻止する際、尊厳の「御旗」をもってする。田畑を守ろうという方は、食害を阻止するためにと弁明するが、生命の尊厳という絶対的な主張の前では、勢いをそがれがちとなる。「錦の御旗」のあるものに対決するのは、道理を失った反乱軍のようで意気が上がらず泣き寝入りしがちである。そうならないように、人間の尊厳の冒される状態だということで同じく尊厳(の御旗)を掲げて、まずは、対等になることがいる。相手が万能の矛で来るのだから、害獣の被害者も、人間の尊厳という万能の盾をもつことである。そのうえで、尊厳同士の問答無用の絶対的な矛・盾では、解決できないことを納得しあい、相互が冷静に合理的に解決策をさぐっていくことが必要のように思われる。
人間的生命同士の尊厳の非両立もある。上の階層に属する人、尊大な人の尊厳が通り勝ちだが、そういう場合こそ、合理的に冷静に、えこひいきなくふるまう必要がある。そうするためには、声の小さい謙虚な人の尊厳をたてたうえで、比較不能・絶対の尊厳をもった人間の間に、客観的合理的に、比較可能な価値の差を見出していかねばならなくなる。優先するものを選択しなくてはならない以上は、尊厳という絶対的で比較不能の視座を取り外して、比較可能な状態におく必要がある。量・質等での差異を見出して、できるだけ相互の納得できるような、客観的合理的な視座をもってすることであろう。
6-4-5. 守るべき、ひとの尊厳
神や王の尊厳とちがって、ひとの尊厳は、実際にそういう取り扱いを受けるとは限らない。医療関係で人間の尊厳がよく言われるが、つい最近まで患者は、藁にもすがりたい病弱者として生殺与奪の権を医者に渡していたことで、それを是正するようにと、患者の尊重、丁寧な扱いを求めて尊厳の言葉が使われるようになってきた。社会は、フラットな対等の人間関係を中心に回り始めているが、まだ、階層・階級の差、男女の差別等において、人間性を無視した言動が続いている。各人を実存として尊重しあい、差別的な言動を自他で慎み、尊厳にふさわしいようにお互い生きていく必要がある。「人間の尊厳を冒してはならない」というスローガンは、フラットな人間社会が支配的になることを促進するためにも掲げておく意味がある。
人間の尊厳はしばしば無視され続けてきたのだし、神の尊厳など妄想の上に成り立っていることで、尊厳などどうでもいいではないかと思われないでもない。しかし、この人間社会は、多くが妄想・幻想(実在・真実に合致しない単なるイメージ・概念)で動いているのであって、神や民族・国家といった妄想・共同幻想・虚構に命をかけてきた。現代社会では、科学的客観的に実在・真実にしたがって生きているつもりになっているが、それでも、結構、日々の正常な営為においても、妄想・幻想に振り回されている。商品社会は、ブランド品にみられるようにしばしば幻想を売っており、百万円のブランドの腕時計よりも百円ショップの時計の方が精確に時を刻んでいるのに、前者を良い時計と思わせる。CMで売り込む、効き目のない薬もどきを購入している者はいうまでもないが、飲料水ですら、多くが幻想に振り回されている。アルプスの水だといってペットボトルにつめるだけで、それよりも清潔な水道水(広島市の水道は、清潔であるのみか常温でも年中おいしい。大阪あたりのは、清潔だが、冷やさないままだと若干おいしさに劣る)の何千倍もの値段で売れる。これを飲み続けている者は、幻想に出金し、日々幻想を飲んでいるのである。
それらに比していえば、人間の尊厳は、堅実である。人の尊厳は、理想として描かれるだけで、各人がかならずしも実現しているわけではなく、幻想にとどまることが多いとしても、人間の科学・技術による自然支配は圧倒的になりつつあり、自身のうちの自然を制御し理性的に生きようと、尊厳の方向に向かって日々努力していることでもある。自他の生き方・あり方を尊いものに値するようにと、人間的尊厳を各自が反省しておくことは大いに意味がある。いまだに古代の幻想の神の尊厳の下に多くの国の国民は生きていて、そのために現代文明の利器を使って争いあい神を喜ばせ、神の傀儡になりつづけている。その点、日本は、すでに、宗教的幻想の束縛から多くが解放されており、神道といっても精々地域のお祭り騒ぎに参加する程度で、仏教も、無用の長物扱いで葬式仏教ですらなくなりつつある。あるいは、日々の食べ物等でも宗教的なタブーはもたず、その生活態度は前衛的であって未来社会に向かって先頭を切っている。同じく幻想であるとしても、宗教的虚妄・虚構を脱して人間の尊厳(の理想、消極的に言えば幻想)を踏まえる方が、神に拝跪した奴隷たちよりもよほど優れた生き方になる。
6-4-6. 自身で守るべき、ひと(自身)の尊厳
ひとは尊厳の扱いを受けねばならない。だが、同時に、人は、尊厳にふさわしい者になっているかどうかを自身において振り返ってみるべきでもある。尊厳は、被支配のものからの見事な支配との称賛として成り立つ。そう言われるにふさわしいようにと、ひとは、内外の自然を見事に制御・支配していくことができねばならない。ひとの尊厳は、そうあるべきだとの努力目標なのでもある。昨今は、環境問題が危機的なものになっている。ひとは、この環境・自然に対して強引すぎて、ひどい環境破壊をもたらしてしまい、これを反省し、自然環境の保護のために精力的に取り組みはじめている。ひとは、理性意志をもって内外の自然を見事に支配・制御できる。だが、現実には、見事とは言い難い状態であり、この自然破壊をひとの尊厳に悖る恥ずかしいことだと自覚しはじめている。自戒して環境問題に真剣に取り組まねばと、身近なところでは、ごみ問題とか食料の浪費の見直し等に取り組んでいる。
ひとは、神とちがい、内外の自然を不可避の土台としていて、これに逆に支配されて奴隷になることもしばしばである。他方にある理性的な自己からは、これを戒めねばと反省し、尊厳の自覚をもって尊厳にふさわしく理性的制御を貫徹するようにと努めることである。ひとは、神や王と同一の能力をもっていることを自負している。王の失政を見て自分ならしないと思うし、神の創造したというこの世界が欠点を多くもつことも知り、創造主の愚かさを嘆く。しかし、人は非尊厳の自然に動かされるものでもあり、非尊厳に陥る傾向を常にもってもいる。他方の尊厳の、英知をもったおのれを動かして、そうならないようにと努めることが必要なのである。ひとは、自然超越の存在として誇らしくおのれの尊厳を自覚する。とともに、他方では、自然的身体をもった存在として自然的な粗野に陥る可能性を常に持ち、多いに控えめで謙虚でもあらねばならないのである。王や神は、被支配者を全面的に超越している。王は、奴隷の気持ちを知らない。平然としてこれを死に追いやりもする。神は、不完全な被造物の苦悩を知らない。一方的に自身の失敗作を破壊・消去するだけである。だが、人は、支配するとともに、被支配の自然自身でもある。その自然自身において被支配の自然の内情も自身のこととしてよく知っている。内外、自他の自然について慮りに富んだ存在となり、自身も未熟で欠点だらけの自然であることを踏まえて謙虚にふるまうことがその尊厳の営為の基本に含まれることとなる。
希望をいだいて未来に生きるのが人である。未来の自分がほんとうの自分である。法学部生は、未来の法曹人として今を生きている。その未来がなければ、その現在は無意味化してしまう。尊厳も同様である。いまは、尊厳において未熟であるが、自身の本質は、その未来の実現された尊厳にある。自身は、おのれの尊厳に導かれているのであり、内の尊厳を磨き出し、自己実現しようと未来に生きているのである。
6-4-6-1. 自己犠牲-イエスも釈迦も犠牲をいとわなかった
ひとの尊厳は、理性をもって内外の自然を支配するその見事さにある。自身の自然を抑止し超越して、その卓越性を顕示する。その端的は、自然的には逃げることになる苦痛において、この苦痛を超越して、これから逃げず甘受する、苦痛の忍耐にある。ひとは、必要なら、あえて苦痛を身に引き受ける。自己犠牲をいとわない。イエスは、磔刑で犠牲になった。人を神へと結びつける媒介者になるという自覚をもって身を犠牲に供した。前世の釈迦は、法隆寺、玉虫厨子の捨身飼虎図にあるように、飢えた虎のために身をささげた。尋常ではない尊さである。あるいは、滝に身を投じ、あるいは餓死をもって、自己を犠牲にしてこの世を救済せんとした人たちもある。史実・実効性はどうであれ、イエスも釈迦も、自身を犠牲に捧げて人間としてできる最高のことをしたという逸話をもって、非信者にも尊ばれている。
イエスや釈迦に、ソクラテスもよく並べられる。ギリシャ文明での一番といってもよいぐらいに尊敬されている存在である。プラトンやアリストテレスとちがって、著作一つも残しているわけではない。その生きざま自体に多くが尊さを感じるのであろう。死刑回避が可能だったにもかかわらず、ソクラテスは、これを拒否して自身の意志を貫き、毒杯を仰いで悠然と死に赴いた。おのれのかけがえのない存在自体を犠牲に供した。ひとは、動物でありつつ、この動物的自然を超越する。その超越は、自身の動物的な生命を犠牲できる、生命以上であることに端的である(自殺は、尊厳の営為の反対である。自然のもとでの苦痛・苦悩から逃避するために、苦悩をなくして楽になろうと、生命以下(死)へと逃げているだけである)。精神・理想のために苦痛に耐え命をも犠牲にできるという超越性に、ひとは自分たちの尊厳の輝きを見出す(イエスや釈迦の死=犠牲は、世界中で行われていた人身御供、犠牲獣扱いという面が強ければ、人の尊厳を語るものではなく、神の尊厳のための人間の犠牲ということになろうか)。
ひとが尊厳であるのは、自然を超越するところにある。その自然は自己のうちの自然としては、身体である。それを犠牲にし超越していくとは、犠牲・受難での苦痛を超然として受け入れることである。動物なら逃げていくその苦痛から逃げずこれを甘受する忍耐において、ひとの尊厳が光ってくる。苦痛をひきうけ自己犠牲を払う見事な超自然の営為である。イエスの尊厳は、あの磔刑(犠牲)になった姿に端的である。イエスに倣う者は、なによりも、その自己犠牲の精神をしっかりと身に引き受けることであろう。ひとは、一面では動物的自然に生きているが、理性をもって自然を超越し、自己を支配でき、生命以上の存在になれる。自身の思いと行動において超自然的に身を尽くして苦痛に耐え犠牲になることを厭わぬ姿勢をもつことができる。イエスの尊厳は、稀有で崇高なその磔刑の姿、自身の苦難・死刑を決然として受け入れ自己犠牲に徹した、あの十字架の人間的姿において顕わである。苦痛のあまりにであろう、人間的に、「神よ、私を見捨てられたのですか」と十字架上のイエスは弱音をはきもした。人間としての最期を生きつつ、克己し超越して生命以上のものとなったのである。
6-5. ひとの尊厳は、自律自由にその特性がある
神や王の尊厳は、その支配が見事だという讃美の称号である。その尊厳は、それらの外・下位に位置する被支配のものからする、見事な制御・支配という讃美であり、尊厳が通用するのは、その支配される国民、信者に限定される。だが、ひとの尊厳の場合は、その在り様が少し異なる。ひとの尊厳は、その制御・支配下の自然からみての卓越・至高であるが、その自然は、自身の外の自然世界であり、かつ自己自身のうちにあるものでもある。自身の自然的な心身を自身の理性が巧みに扱い、制御して、尊厳を実現している。自己の内の自然を自己が支配・制御するという在り方が、ひとの尊厳のもとにはある。また、外的自然・環境を巧みに支配する見事さについても、その自然自身が尊厳の讃美をしてくれるのではない。それに尊厳の勲章を与えるのは、人自身である。自画自賛としての尊厳となる。
神は、ときに自己原因(causa sui)と特徴づけられるが、それは、おそらく、「子は母が作った。その母は神が作った」と教えられた子供が「では神は誰が作ったのか」と素朴に問うたことへの回答だったであろう。自分で自分を作ったのだと。自己充足、自足である。ひとも、そういう生き方をする。未来に目的をたてて、それへと自己を実現していく。自身の観念的に作りだした未来に導かれて、その未来にと自己を自身で実在化し、自己実現していく。その未来の自分は、自分が作り出すのである。その点では、神の自己原因と同じで、人は、他から作られ動かされる他律の存在ではなく、自分で自分を律して自律的に自己を作り上げていく存在になる。ただし、ひとの土台となるものは自然的なものであり、これは、絶対神とちがい、自身が自己原因的に創造するものではない。その点では、ひとは、有限であり、自己のそとのものに依存し他律的に支配されている。だが、この自己に外的な土台をうまく取り扱い、外的自然を巧みに理性の狡知をもって制御し、さらに自己自身の自然の本能・衝動を強い意志をもって抑止して、これらを合理的に支配して自律的であろうと努力する。そのたゆまぬ自律の努力をもって、ひとの尊厳は現実化する。自身の理性意志の望むようにと制御・支配し、その自然の主となって人の尊厳は実現されていく。
自身の内外の自然を自身の理性が見事に支配する人間の尊厳であるが、自然的には、本来、人間は、弱小の存在である。自然の巨大な破壊力の前には、無力である。そういう大きな自然の前に無力な存在でありつつも、この自然を、その理性の狡知をもって制御し自由にしている。環境世界を自身の律法のもとに従え、自律的にこれを制御・支配して行こうと奮闘しつつある。さらに自己内自然の衝動・本能は強力であるが、ひとは、これを超越してその理性を貫徹していく。食や性の衝動がどんなに強い自然であっても、ひとは、必要ならば(それを満たすと殺害されると分かった場合など、日頃の甘えを捨てて)、まちがいなく理性意志の通りに自律を実行できる。絶対神は、自身以外のものから律されることがない、他律になりようがない絶対的な自律であるが、ひとの場合、強大な自然に圧倒されて、しばしばそれに屈服し被支配に、他律に陥る。他律に、非尊厳になりがちなところで、ひとは、自身の理性をもってその自然のくびきから逃れ、自身と自然を自律的に支配しようとつとめる。自然的他律との葛藤の中で自律の尊厳を堅持しているのが人である。
6-5-1. 苦痛の忍耐は、各自が自分の世界で行う
人の尊厳に特徴的なこととして、自然的他律を超越しての自律が見出されるが、この尊厳の自律の中核に苦痛とその忍耐の在り方をいうことができる。そとから忍耐が強制されるのなら、他律的だが、ひとの忍耐は、自己内の苦痛を対象とし、これを自身の意志において忍耐するのであり、自分(苦痛)を自分(意志)で律する勝義における自律である。苦痛に耐えるという時の苦痛は、どこまでも自分の苦痛である。苦痛に敗けるのは、そとにあるものにではなく、自分のうちの自然としての苦痛に自分の意志が負けるのであり、自己内自然としての苦痛に制され、苦痛の回避衝動の自然に支配され他律となって、自己は尊厳を維持できなかったということになる。その逆であれば、自分の生み出した苦痛を自分(理性意志)が制御・支配して忍耐を貫くということで自己内自然を巧みに支配・制御し自律をもって、おのれの尊厳は堅持される。自画自賛という言葉があるが、この苦痛忍耐の場合は、いうなら自痛自忍である。
痛みの原因である損傷は、多く外からくる。これは自身ではどうしようもないことで他律である。だが、そこに生じる苦痛は、自己内に生じるものであり、自身が産出したものである。それこそを、ひとは、忍耐の対象とする。自痛に自忍する。他人・外物によって他律的になる損傷であるが、それを耐えるのではない。忍耐は、各自が各自にふさわしいものとして自身のうちに作り出す苦痛を対象とするのであり、自分の苦痛から逃げず耐え続けるかぎり、他者の腕力には負けても、その苦痛では負けないでおれる。忍耐は自身の意志を発揮してなるが、その律する対象も自分であり、根本からしての自律的営為である。そとの強者から被る損傷は弱ければ防ぎようがないが、うちに生じる苦痛は、自身のもとにあり、その気になれば、外的には絶命するような事態になっても、拷問に耐え抜く者がそうであるように、自身の苦痛に耐え続けて負けることなく、自律の尊厳を堅持することが可能である。
ひとは、外的なものを内で捉え直して、この自己内のものを対象にした営為とすることが多い。外的に見出す音とか光の世界も実はそうである。外にあるのは、空気の振動であるが、これを音として内に読み替えていく。光(の諸振動)もうちに取り込んで色にしてこれを捉えていく。外的世界を自身のうちに固有の表象にと作りなして、これと取り組む。色や音からなる世界でも、かなり、自己の産出したものを自己が律していくことになる。しかし、色や音の世界は、根本的には外的な実在物に関わった営為となる。それに対して、苦痛の場合、それを忍耐するのは、外的な損傷ではなく、どこまでも主観内の苦痛である。他律的な損傷があっても、痛くないなら、無視して、忍耐など無用である。自身のうちに展開する自然としての苦痛こそが問題となり、これを自己の理性が自律的に制御するのが人の忍耐である。苦痛からは自然衝動のもとでは逃走する。その苦痛を、逃げず甘受しようという意志の自律的忍耐は、人間のみが有する卓越した尊厳の営為である。
6-5-2. 束縛からの自由
神や王の尊厳とちがい、ひとは、自然のしがらみのうちに存在し、その自然に打ち負かされた状態においては非尊厳である。それが尊厳となるには、この自然的な非尊厳のしがらみ、被支配から抜け出していることがなくてはならない。そういう自然的なものの束縛から自由になることが求められる。
ひとは、忍耐において、自然的束縛から己を自由にしている。つらい忍耐は、自己内の苦痛、回避・逃走の衝動(束縛)からなる苦痛を、制御し反自然的に甘受する。苦痛という束縛から自身を律して自由になることができる。それができるぐらいだから、快楽に魅了される自然状態を拒否して、この束縛から自由になることも当然できる。自然の快不快のしがらみ・束縛から自己を解放して、自由になりうる。この自然を支配・制御することをもって尊厳を保つ。
ひとの世を苦界ということがある。苦しみが人生にはつきまとう。だが、同時に、これを超克できるのが人である。苦痛が外的損傷による場合は、他律的で、これの束縛を逃れることのできないことも多々あろう。だが、苦界でいう苦しみの原因は、思いが阻害されてなるもので、その思い、端的には我欲を変えるならば、苦しみ自体も操作できる。つまり、我欲をなくすれば、苦しみも持たないで済む。我欲からの束縛は、これが自己内にある限り、自身において、これを制御し絶って、これから自由になることができる。当然、その苦痛自体の生滅をここでは自身で行える。一層、自己内での制御・支配が、自律が高度に行われ得ることとなる。自己を原因として苦しみが生起しているのであれば、それを根本のところから変えて、原因(我欲の束縛)を絶って結果(苦の束縛)を絶つということにもっていく。束縛からの自由・自律は、ここではラディカルとなる。
ひとは、自然の中に実在するものとして、この世界の因果自然の束縛のうちにある。生まれてから死ぬまで、因果自然のうちに自身を置くことでは束縛されつづけている。だが、同時に、ひとは、そこに目的論的な生き方をすることで、その因果自然の上に自身の展開をし、この自然の束縛を越えて、束縛から自由になる。理性の狡知のもと、自然法則を利用して、これにしたがいその奴隷となることで、主となることができる。引力の法則、因果からはひとも逃れられない。だが、これを巧みに使うことで、引力にさからって、それから自由になって、空にと舞い上がることができる。自然に縛られ、因果自然にしたがうことで、これから自由になる。因果必然の自然の鎖につながれた奴隷としてありつつ、この鎖を利用して、これに束縛されつつ、その束縛を超越した自由の別世界を構築していく。
6-5-3. 選択の自由
自律とは、他律の反対で、他に制御・支配されず、他から束縛されることを排除して、自分で自らを制御・支配することである。この自律のうちでは、自分がその時の価値判断をもって、好きなようにするということになる。可能な選択肢のうちから、自由に選ぶ、選択の自由である。
選択の自由のもとでは、「そこのお菓子類、好きなように、自由にしていいよ」と、食べようと放置しておこうと自由で、好き勝手にでき、気ままに取捨選択できる。ほかから見て奇怪で愚かしい選択だとしても、他律的に命じられることのない自律においては勝手であって、他人にとやかく言われることはないのである。パターナリズム的に、おせっかいを焼きたくなるとしても、自律、自由なのであれば、ほっておいてくれということになる。外から見ると、愚かな選択をしていて、悪・反価値を選択していると批判されるとしても、これを無視して、自分で好きなようにできるのが自由というものである。おそらく、自身では好ましいものを選択しているつもりであろうが、そとからは、より優れたものがあるのに劣等なものを選んでいると歯がゆくなる。だが、自由、自律ということでは、その劣等の選択が自由の証となることである。
ときには、選択の自由において、自身でも、その選択がまずいことを承知していることもある。自身のうちの快不快の自然に敗けて、その自然に流れる方向での選択をすることもある。それでも、やはり、自由は自由である。自分で自律的にそう選択したのである。自由意志で、理性においてはよくないことと承知しつつ、その自然的衝動を選んでこれに身を任せる。もちろん、自分で選んだ悪であるから、自分でその責任は負うことになる。尊厳の自律において、非尊厳の営為を選択したのである。だいたいが、日頃は、自身の理性の大枠のうちではあるが、快不快の自然に身を任せる。おおまかな選択として、自然に任せる。自身の自然的欲求・衝動も、これを理性的に制御することが繰り返されると、おのずからに理性的な枠組みのうちで動くことになるから、自然体で、理性的自律が実現されることになる。食欲は、社会の規範にかなったものにと習慣づけられていて、放置していても規範のうちで働くようになっている。好き嫌いの選択の自由を保ちつつ、尊厳のある食生活が行われている。一々に意志が顔を出していたのでは、理性は休まる暇もないし、熟慮する余裕もなくなるであろう。自然に任せてうまくいくのが日常であるから、自然の快不快の支配・制御下にあって好きなようにして、選択の自由うちで、ことは順調に進む。
6-5-3-1. 自由の乱用-悪への自由
悪いことをするとき、注意されると「なにをしようと自由だろ、ほっといてくれ」ということがある。好きなことのできるのが自由ということであり、堕落であろうと自由だと居直る。なににも制限・束縛されないのが自由ということであれば、確かに悪の選択も自由ではある。悪と周囲からは見るとしても、当人は、価値あるものの選択をしているつもりのこともある。もちろん、これを批判する側からいうと、その自由は、身勝手、放恣で、場合によっては自然衝動の奴隷に野獣にと堕落しているにすぎないということになる。
束縛というと法律がまず念頭に浮かぶ。その法律が禁じて束縛していること以外は、好きなように自由にということである。法はそれを守らなないと社会とその秩序が成り立たない最低限の束縛で、通常は意識することもなく守っている最低限の規範である(例えば殺人とか盗みをしないこと)。その最低限が守られているなら、それ以外は咎め束縛するものはない、法律的には自由ということである。他者に迷惑をかけ社会的生の健全な維持を不可能にするような好き勝手な行為については、当の社会において協同的に生きる以上は、許されない。そういう好き勝手の自由は、犯罪・悪として制限・禁止される。それは、自由の乱用となり、禁止されるべきものとなる。だが、それ以外は、周囲の者には悪と思えるものであっても、選択できるのが自由というものであろう。
道徳的世界では、法で束縛するものを含めて、人間として社会的に反価値と見なされるものを選択するのは、すべて悪である。よりよいもの、より価値あるものを選ぶのが善である。この視座からいうと、法には触れないとしても悪となるものは多い。酒もたばこも、法は許すとしても道徳的には好ましいものではなく、悪と見なされる。だが、一般的には周囲に大きな害悪をもたらすものではないので、すきなように、自由にということになる。軽い悪への自由である。性的な放縦になると、家庭を壊したりして社会の秩序を大きく傷つけることになるから、古い時代ほど大きな悪とされ、不倫など死罪が普通であった。昨今は、法的には自由で許容されるとしても、秩序を壊し、家庭や人間関係に大きな否定的影響をもたらすものとして、悪(への自由)として糾弾の対象となる。売春・買春等の性的逸脱についても、当人たちは自由だと言うことであろう。だが、現代社会は、性を売り物にする以外に生きていけなかった貧困の社会ではない。人の尊厳を踏みにじることの許される時代ではない。買春も売春も、人間の尊厳を基本においた現代の性規範(一夫一婦制)を逸脱した性犯罪である。自身を痛めつけたり利己的性衝動に身を任せて、自身とひとの尊厳を踏みにじった、相互を唾棄すべき手段に貶める鬼畜の行為である。自由は好き勝手なものであっても尊重されねばならないが、自他と社会を傷つける性的逸脱等の悪しき自由は、自由の乱用として強く戒められなくてはならない。
6-5-3-2. 自由は、他を排して「自」らに「由」る
多義的に用いられる自由であるが、日本での「自由」は、この漢字の「自らに由(よ)る」ということを陰に陽に意識したものとなっている。自由、自らに由るとは、「理由」が理に由り、理に則ったものであるように、自身に則ることで、「自律」、自らが自らを律することである。その自らという自己が何であるかで、相当に異なった自由の在り方となる。かつ、他からの強制(支配、制御)、他に由ること(他律)を排してということで、その排すべき束縛の内容によって異なる自由となる。自由は、束縛に注目するのか、自身に注目するのか等で多義的なものとなる。
その自己が、利己の我欲であるならば、周囲の反対を、おせっかいを排除した自由となる。子は親の束縛から解放されて自由を感じることが多い。個我として全体に対立した自己ならば、ときに国家や共同体に対立し、国家の規制・法律などが束縛となり、その束縛からの解放が自由となる。規制・束縛する側から見れば、ときに身勝手な悪への自由ともなろう。
自己・自我主体は、個我にとどまるものではない。自己の同一性を個我からそとに広げて大きな我をもつのも日々である。自分たちの地域を、国が規制して束縛していることに反対してその束縛からの自由を求めることもある。階級社会では、自身の属する階級を自己とした自由となる。支配階級の支配の自由は、被支配階級には、強制・束縛となり、そこからの解放が自由の目指すものとなる。その束縛が言論とか表現になって、言論の自由、表現の自由等となった。自国にと拡大した自己として、国際的な問題について自由を求めることもある。植民地という束縛(他律)からの解放の自由といったものになる。それらの裏には、自分たちの手で、自分たちの規範・律を通していこうという、自律の自由も踏まえることでもある。
その自分が、個我の欲求主体ではなく、理性、普遍的な意志であれば、その万人に同じ普遍的で客観的な理性意志の立法において、この自らの普遍的な理性的な律によって動く自律が自由となる。それは、他の外的束縛から脱した自分の理性意志の自律の自由であり、意志目的への積極的な自由となる。この理性意志は、自己内の自然衝動、利己の欲求を相手にした場合は、自然・利己の束縛から自由、利己を制御し律する自律の自由になる。普遍性をもった自己の崇高な目的をめざし、個でなく類的存在としての尊厳をもった自由となる。人が尊厳をもった主体であるのは、普遍的客観的で合理的な(偏狭な個我を離れた良心・良識の)理性人格においてであろうから、人の自由の根源は、その理性的自己に由る自律の自由ということになろう。
6-5-4. 支配する自由
自由は、しばしば、被支配階級の者たちが支配され束縛されている中で、この束縛から解放されて自由になることとして言われてきた。支配する者の自由は、被支配者たちのもとでは、あまり問題にならなかった。だが、ひとの尊厳のあり様としての、自然の卓越した支配という点からは、自然環境を征服・支配すること、あるいはひとが自己内の自然をうまく支配・制御することが問題となる。その面から自由も見られるべきこととなろう。元来、自由は、一方では消極的には束縛からの「~からの」自由(freedom from)であるが、他方、積極的には、好きなものを実現する「~への」自由(freedom to)であり、その好きなものへの支配権をもっていることでもある。神や王の尊厳は、支配する自由のもとにあった。庶民においても、「手元のお金を自由にできる」とは、好きなように使えるということであり、そのお金については自身が支配する権利をもっているということである。自由は、支配の自由でもある。自由の核をなす自律は、自身が自身を律して支配するということである。自由は、この方面からいうと、能力というものにもなる。「自由にできる」「自由になる」とは、それを支配していて思うがままに使えることとして、その自由を有する人は、その能力保持者ということになる。
ひとの尊厳のあり様としての自律では、自己内外の自然を自身の理性意志をもって動かす自由をいう。それは、この自然を自身が支配するということである。苦痛の自然は回避衝動をもっており、苦痛になるものからは逃げ出そうとする。その自然をひとは、制御して、これから逃げないで苦痛を甘受するという忍耐を行う。苦痛の自然を抑止してこれを支配するのである。支配の自由をもつことで、忍耐が可能となる。もちろん、好きなようにできるということであり、場合によっては、忍耐を放棄して苦痛回避衝動を放置することも自由である。どちらの選択もできるという自然への支配である。環境についても、これを制御・支配して自由にしている。だが、それは、恣意的になって、これを破壊するのも自由に行えることではあり、悪の選択の自由があって、そこでの営為は、自然環境の破壊ということになるかも知れない。破壊するというおぞましい支配である。それも支配の自由のうちにあることではある。
この支配の自由は、その支配下の対象について、支配する者の思いを通すところに言われる。その支配は、制御することだが、支配と制御は区別もされる。制御(コントロール)では、その対象の動きを踏まえこれに従いつつこれを利用し、制御する者の意図するようにと制限し御してリードする。これに対して支配は、対象の動きに合わせてリードするような対象への配慮はなくてもよい。一方的に強い制して、支配する者の意図・恣意をその対象に押し付ける。対象を自身の求めるものへと強制する。制御では、それも含むが広く、対象の動きを、それ自身の一定の秩序・法にしたがいながら、これを自身の目指す方向へともっていく。ここでの自由は制御する自由であるが、真に自由がそこで通ることが見えるのは、支配者の恣意すらも通るということであろうから、その自由は、制御の自由であるより、支配の自由と言っておく方がよいであろう。支配では、端的に支配者の恣意を押し付けて、無理をもごり押しして従わせる。支配するものの自由がストレートに現れるのは、無理をも押し通して強制するところにであり、その自由は、支配の自由ということになろう。
6-5-4-1. 支配される自由
支配され奴隷(不自由)になることも、逃走せず潔くそうなることに自らが身を任せるのであれば、自らの選択する自由となろう。それは、支配される自由であろう。束縛を脱し好きなように支配する自由からいうと、自己否定する自由、自由を否定する自由、不自由の自由になる。自然必然の法則にしたがう自由は、必然性による支配を自由に選択するのである。でまかせの偶然に任せるという選択であれば、偶然の支配に任せる自由となる。これらは、自身の自由において、支配され束縛されることを自由(自らに由って選択)にしている、支配される自由、束縛される自由、自由否定の自由であろう。
好きなようにという自由は、これに従う以外ないという必然性とは反対だが、必然性に素直にしたがうことでこそ、目的とする好きなものは実現可能となり、自由となることがある。自由に空を飛べるのは、自然法則の必然性をしっかりと踏まえこれに従って可能になることである。必然性を発見してこれに支配されることを選んでの自由である。理性は、そこでは、それに従わないでもいい自由にあって、これに従う自由を選ぶ。必然性に貫かれた自然法則に支配される自由をとるのである(自由を実現するには、必然性(法則という束縛)を踏まえ合理的なものを前提にしなくてはならない。その場合は、自由があって必然性を手段にするのだが、ここでいうのは、必然性を取るのか無視するのかの、選択の自由である)。あるいは、社会に生きる場合、秩序をもってするから、自律の律は、社会秩序になる。好き勝手ではなく、律をもっての自律であり、その律は、しばしば外から来る。理性的自己の支配だが、その中身は、社会的秩序であれば、そとにあるもので、そとの律を理性が受け取って自身に適用するのである。それは、すすんで自身がその律=法に支配されることであり、支配される自由のもとにあるということができよう。近代的個我として自由に生きている者から見ると、この現代社会において封建的に生きる者は、封建的な外的秩序に、自発的に自らが従っているものとして、忠義などの時代錯誤の封建道徳、奴隷道徳のもとに、支配される自由(自由否定の自由)のもとにあると言えよう。かつ、これを批判する自身は、現代の民主主義国家の固有の秩序に従いつつ生きているものとして、民主主義に支配され束縛された自由にあると自覚することになろうか。
全体のために、個が自らに自らを犠牲にし手段にすることがある。この個我には自己否定になるが、それが全体のうちでの自己のあるべき事態であるのなら、自律的に自らに自身を全体の支配下に置く。その自律は、支配される自由になっているといえる。無政府主義者は、民主国家であっても国家による個人支配であり、支配は無用と、国家(政府)の消滅を主張し、全体の支配を否定して個我の自由を求める。民主主義国家の成員は、その国家に支配されることを自らに選択しているのであり、支配される自由を行使しているのである。
6-5-4-2. 負担となる自由―自由からの逃走
支配(束縛)される自由は、(束縛から解放されるものとしての)自由とは矛盾したものになる。だが、支配(束縛)される事態を自身の意志で選択することとしては、その自由(意志)と支配(個我の束縛)の位階が異なるので、相いれない矛盾とはならない。民主国家の成員は多くが自身で国家支配を承認し自らの意志でそれの支配・束縛を受け入れている。一つの集団において、各人が一々に全体の制御を考え統一的な見解をつくって共同支配していくのは、自由・自律を実現するのには一番であるが、その集団の人数やその営為の頻度によっては、煩雑で面倒なこととなってしまう。村落での寄合なら、全員が寄合って、一々に相談しあいながら、自律・自治を高度に実現できるが、大人数になると、基本的な事柄は全員の総和での自己決定で行うとしても、些事になれば、その集団の代表にゆだねることになろう。その代表の制御・支配を受け入れることがより効率的なものとなるから、被支配(束縛)を自分たちが選択することとなる。支配されることを自発的に自由に選ぶ。
重大事について、自身が自律的に決定していくことは大切であるが、それは、自身の選んだこととして、ことの起因が自身にあるというになれば、結婚とか移住で時にあるように、後々の結果まで自分がその責任をもたねばならなくなる。そうしなくては自律の自由は守れないのだとしても、以後の展開が思わしくないことになっていけば、自由は自身の両肩に乗った重みとして耐えがたいものにもなっていく。あるいは、自由に好きなようにと言われても、複雑な事柄については、何をどうしてよいのか分からず戸惑い、右往左往するだけになるようなことも生じる。卓越した考えに賛同し、代理・代表に任せる支配される自由にとどまれば穏やかだが、ときに根本的に自律的営為を回避するような事態にもなっていく。つまり、単に支配される自由にとどまるのではなく、自由を否定する支配になって、支配されるだけの不自由に陥ることになる。占い師に頼ったり、おみくじを引いて、自己決定の重圧を回避する。あるいは、宗教に頼れば、人生万般について自己決定を回避して教祖(神)の命令にしたがうことで自由を放棄して何も考え悩むことなく、奴隷の落着きを得ることともなる(神の奴隷になることも、自身が選ぶこととしては、(信教の)自由のもとにある)。E.フロムは、独裁制への熱狂も、衣服などの日常生活での流行も、自由からの逃走だという。自治という集団の自由の事柄になると、煩雑な手続きを踏んでも合意形成がならず停滞・混乱に終始することも生じる。自由に各人が全体の在り様を選択していくのをやめて自由から逃走し、独裁者に、流行に身を任せて、自由を窒息させる支配を(自由に)選ぶことにもなる。
自由は、束縛からの解放としては、安堵できる事態になることであるが、自身が積極的に実現していく自律の自由は、ことを自分で決定して実行していく必要があるので、その負担・重責には、耐えがたくなることもしばしばである。集団の自律・自治となると、その手続きは煩雑になり、大人数になるほどに決定すること自体が困難になってもいく。自由の負担・重みを背負うことを否定して、それから逃走して他律となる宗教とか独裁に身を任すようなことに、自棄的否定的な意味での支配される自由、自己否定的自由、奴隷の不自由を結果しかねない状態ともなる。
6-5-5. ひとの尊厳にふさわしい自律の自由
尊厳を有するものは、至高で絶対的に自由であるが、それは、その根本において他からの束縛を受けたり、他に依存するようなものではないということである。他に束縛され不自由でこれに非自立の状態では、その完全性には欠けることとなる。絶対神の絶対性は、完全な自律・自由で、それは、自己原因(causa sui)と捉えられた。外に原因をもっておれば、これに依存し束縛されているのである。絶対的であるには、相対の対を絶ち、他律を排して自律でなくてはならない。ひとの尊厳も、その自律の自由をもって捉えられる。外的自然も内的自然も自身の支配し律するものにしよう、それらを自らに由るものにしようと、自由・自律をもって生きようと努めている。自然超越の自律の姿は尊厳そのものである。絶対神は、ひとが自身の至高・理想とするものを投影したものと見てよかろうが、それは、自己原因的に絶対的な自律存在とされる。ひとは、そういう自律の理想(神)にと自身を近づけようとする。
尊厳を有する人間は、内外の自然による支配を脱して自然を超越し、自然からの束縛を脱し、逆にそれを支配する。だが、単に支配するだけでは、強引で無理やりなものとなりかねない。尊厳は、至高の支配でなくてはならない。適切に合理的に卓越した制御・支配が行われねばならない。それには、秩序をもって、事象のもつ法則に適った制御をしていくことが必要である。自律は、自身が律して支配するのだが、それには、法にしたがっていくことが必要で、法を熟知し、法に適った制御にならねばならない。外的自然にせよ人倫にせよそこに存在している法を周知して、ひとは、これを自らの法・律とし万象を整然と支配・制御し、至高の存在となり、卓越した自由・自律を実現することができている。
その自律における律・法は、理性が見出し構築するものである。合理的に英知を動員しての自律的な営為である。各人各様に生きる人間であるが、その各自のうちにおいて言語(概念)を手段として普遍的な理性をもって存在する。ひとは、かけがえのない個として存在するが、理性をもち類の自覚をもって生きる存在であり、その理性は自身のうちで個を超越した良心・良識をもって類的に普遍的に働いている。が、各人の狭い知見のうちでは、その理性も誤りに陥ることがあり、その得た知見は、偏見であったり、妄想・虚妄でしかないこともある。時代の共同幻想、イドラにはみんながとらえられていることで、冷静な理性的な自律のもとにあっても、愚かしい事態になることが生じる。それらをできるだけ排除していく必要がある。真に卓越して自律的であるには、その理性が常に批判的な視座を持ちつつ働くことであろう。自己を批判する目をもって深慮するなら、誤りに陥ることは防げないとしても、より早くそれに気づけ、修正が常に効くこととなって、自律は、誤ったものになることを少なくできる。自己批判であるが、よりよく誤りを避けるためには、他者の批判に耳を傾けることである。自分の眼の中のごみは大きくても見えないが、ひとの眼の中のごみは小さなものでも見える。虚妄(神)に生きる宗教人ですら、他宗批判では、「そんな鬼神は存在しない、邪宗だ」と真実を語れる。
6-5-5-1. 自由は、必然性と反対だが・・
自由は、自らに由ってということで、他からの束縛を拒否する。束縛からの解放を自由とする。この点では、自由は必然性と対立したものと捉えられる。必然的に展開するものにおいては、その必然性に拘束・束縛され、自分の好き勝手の自由は不可能なことになる。だが、その必然的な束縛を前提にし利用してその上に自分の好きなものを、目的とするものを実現することが可能なのであれば、この目的、自由の実現には、その必然性に束縛されつつ進むことが必要となる。
ひとは、自然を利用して自分たちの目的とするものを実現していく。自然法則の必然的展開を精確にとらえて、これを手段に利用して、自らに由る目的・自由を実現する。自然の法則に忠実に従うということは、この自然の奴隷になることである。だが、それは、自分たちの目的を実現するための手段であって、その自然の奴隷に埋没して終わるのではない。自然必然性を利用して、これを土台・手段とし、これを超越して自由にし、その上に自分たちの自由に描く目的を実現する。空を飛ぶことは、引力の必然性のもとで直接にはできない。この引力の奴隷になりこれに束縛・拘束されつつ、英知をもってこれを超越する方法を見出し、バルーンや翼をつけて、人は、引力をふまえつつ空に飛び上がることを可能にした。必然性をふまえつつ、これを巧みに扱い、自身の思うようにと、これを自由にする。この自由は、法則などの必然を自分の目的へ至る手段として巧みに利用して、それを束縛にとどめず、自らの好きな方向へと向けて、束縛を超えて必然(引力)を自分のためにと自由にするのである。その上で、描いた目的へと進めて、その所期の自由を実現する。引力から直接自由になろうと二階から飛び出すことも可能だが、それでは、自然の奴隷止まりで、直ちに引力にとらえられ落下して、飛行するという自由は拒否され、必然即不自由を結果する。だが、その法則に従い、これを踏まえ手段にしつつ、落下傘とか気球をもって飛び出せば、引力の必然をわがものに自由にして、空中を飛ぶという自由は実現される。
ひとは、無機物、動物的生命からなっていて、これらに束縛されている。これの必然的な法則を破棄して自由をということはできない。だが、それらの法則を踏まえてこれを手段に利用すれば、無機物や動物の営為にはない、これを超越し自由に利用した営為が、人間的社会的な自由の営為が可能になる。人間世界は、無機物、動物を土台にし、これをわがものにして、自分たちの思うものを実現するための手段とし、これを自由にする。束縛されているのは、手段においてであって、人の描く目的は、その手段を土台にしてその上にそびえる新規の自由として可能になる。束縛する自然を、手なずけ、柵の中に閉じ込めて、これをひとは自由自在に扱い、その上で、自由に設定した目的を実現していく。
6-5-5-2. 自律は、律の束縛を踏まえた自立・独立の自由
自律は、律・法に従い、これに束縛されて不自由面をもつが、他の律に由らず自身の律に由っていて、他を頼まず自立し独立して自由である。自律の律が、社会における法や規則、あるいは理性(良心・良識等)によった規範ということであれば、自らに由るとしても、そういう律に従うことは、個我からいうと束縛が前面に出てきて、自由の反対、不自由と感じられることがあろう。自律は自由ではなく、自縛であり不自由だと。律するものは、外から律されるのは勿論、自分がそうするのだとしても、ひとをそれに束縛する。拘束し自由を奪うもので、その限りでは不自由となる。
社会の法とか規則という律に自発的に従う自律は、そとからの強制・束縛を自身が先走って自制しているだけで、これに拘束を感じるのであれば、そこには束縛・不自由が前面に出てくる。しかし、その規則の束縛を踏まえることで、ことがスムースになり、自身の求める自由を実現する手段になるのだとすると、大いにこれを前提にして、これに縛られ従って、その上に、求める好きなものを自由に実現していくこととなろう。人間は、無機物質、動物的生命をもって成り立っており、それらの必然性に固く縛られているが、だからといって不自由をかこつことはなかろう。その法則・必然性を踏まえてそれを必須の土台・手段にし、これを自由に扱う。さらに、その上に、社会的な規律・秩序をもって、これをおのれの律と踏まえ、各自の目的とするものを自由に描き、ひとは、尊厳を持った自律的な人間世界を実現していく。
中高の校則など、自分たちの律として、自律的に受け止めているが、しばしば束縛自体で自由とは反対のものとして現れる。だが、盗み・殺人は許されないというような律は、社会、個人の安寧のためには必須の最低の律となる。これがないと、穏やかな安定した生活はできない。それを相互に自らの律として守ることで、その束縛を自身も受け入れ、その束縛のうえに自由な生活を作り上げている。殺人などを禁じる国法は、束縛ではあるが、校則などとちがって束縛として意識することはまずない。束縛と感じることがないということは、それは、より高次の生のための大切な支え・守りになっているということであろう。束縛ではあるが必要な基礎となる律であり、自由な営為の大前提として、束縛ではなく支え・保護をなすものである。その束縛を保護の柵・防護壁と受け止めて(有刺鉄線の柵は、狼には不自由・束縛だが、羊には、自由の防壁となる)、その上に可能になる新規の自由な世界を展開する。
自律の律、規則・法は、理性的なものとして自己の理性が担う。この理性は、自己内の自然感性がその律に従わなければこれを束縛し強制もする。自身の感性、個我にとっては、理性的な自律は、しばしば拘束・束縛ということになる。自律は、それこそが自立・独立の自由として、ひとの卓越した尊厳の営為であるが、個我の気まま、好き勝手の自由からいうと、しばしば不自由・強制となる。
6-5-5-3. 自由にともなう責任の度合いは、一定しない
自由は、自らに由る営為であり、自分が進めなければ、自分の決断・営為に由らなければ、ことは結果しない。結果は、自分が生み出したものということで、それが大きな成果であれば、自身を誇ることになり、ものによってはそれへの権利の主張となる。逆に否定的なものを生じたのであれば、その結果には、自分に責任があることとなる。ときに、その自由を満たして否定的なものを結果した者は、その重大な否定的結果に重い責任を感じてしまうことになる。自由は、過去から種々の束縛を受けるが、未来の結果にも束縛される。損害が生じるのなら、それを償う義務があると自身で思う。自由の営為にためらいを生じる。あるいは、騙されたのだとしても、自分で自由に選んだことであれば、自らの被った損害を前に自己嫌悪してしまう。これが他からの押し付けだったら、その他者に責任を負わせたり、そうできなくても、自分を責めることはないが、自分に由るものとしての自由には、自分に原因があるのであり、重い責任がともなう。
だが、ときに、選択の結果がどうなるかは不分明のことがある。自由な選択ではあるが、自分に由るのは、その選択だけであり、結果は、また別ということである。その結果が否定的なものであっても、それは、自由に自分に由ってなったのではなく、その否定的結果をもたらしたものは、自身には未知の原因に由るのであれば、自律自由の形式をとっていても、内実は他律だったのであり、その結果への責任は、抱かずに済む。が、自分がその他律の実現するきっかけをつくったのであるから、若干は、責任めいたものを感じるかも知れない。こうなるはずと自由に選択したのだとしても、ときには、その結果が選択したときの思いの通りにはならないこともある。思いがけないことになってしまう。この場合は、自由といっても、自分に由る通りには結果しなかったのであり、自分に由る自由は実現していないという思いがある。自身の自由にならなかったのであるから、責任を感じることは少なくて済む。
アリやハチと違い、ひとは、個別主体に発する活動をすることが多く、自らに由るという自由が大切となるが、その自由を尊ぶ社会で、この自由が逆に重い足かせになることもある。自由主義社会は、各自が各自の能力をもって、好きなことをして生きていけるのであれば、優れた制度である。だが、自分の自由によるということは、国家社会からの規制・束縛がないということは、選ぶ対象があるときには、好きな対象を選べるというありがたいものとなるけれども、選べるものがない場合も生じる。どんな労働でも好きなように自由にといっても、どんな就職口も自分の前にはないということも生じる。なにも選べない自由となってしまう。仕事をしなくても自由だといっても、恵まれた家族のもとでなら、仕事をせず好きな趣味に生きればよいが、生活が自分にかかっている場合、そうはいかない。失業者となり、生きていくこと自体が困難なことになる。自由が、自分を動けなくしている鎖・束縛にと変じてしまう。
6-5-6. 苦痛も自由にする
本論考は、苦痛(とその忍耐)をテーマにしているが、この苦痛も、当然、人の自由のもとにある。この世を苦界と称することがあるように、苦痛は、ひとにとって根源的な拘束であり、この苦からの解放、この束縛からの自由は、それこそが安楽・極楽世界そのものと見なされ、切実な願いとされてきた。
苦痛から自由になるということでまず想起するのは、苦痛という自然の束縛から解放されることであろう。苦痛を回避し、苦痛から逃げる自由である。が、この苦痛からの逃走は、自然の衝動であり、これを自由といっていいものかどうか。その自然反応は、逃走衝動に束縛・拘束されたものだから、その点では不自由ということでもある。この苦痛回避の自由で、普通思う事態は、それではなく、苦痛から逃げられないように拘束されているのに対して、これをはずしてその拘束から自由になることであろう(蒸し暑いのに部屋に閉じ込められている束縛に対して、戸や窓を開けることで、その閉じ込めの束縛から自由になり、苦痛(蒸し暑さ)回避の衝動を満たすといった場合)。なお、ここでは自然の状態において苦痛から逃げない自由もあるというべきであろうか。微小の苦痛刺激故に無視して、他の営為との兼ね合いで、苦痛でも逃げない自由をもっていると。これなら間違いなく苦痛からの自由である。苦痛から独立して苦痛を好きなようにする、自由にするのである(若干暑さが苦痛になるが、窓を開けると騒音がひどいので、暑さの苦痛を受け入れておこう、暑さの回避もその受け入れも選択でき自由だと)。
人は、その自然において動物であるが、それを超越して人間として存在する。動物は、快苦に従って動かされるが、ひとは、この動物的営為を超越して、反自然的に、快を遠ざけ、苦痛を甘受することができる。ひとは、強烈な回避衝動のある苦痛を超越しその拘束から解放されて自由となることができる存在である。忍耐という、人間に固有の自由がそれである。苦痛から逃げたのでは得られないものを、この苦痛を耐え忍んで獲得する自由である。苦痛を甘受するという忍耐を手段にすることで、苦痛(回避)から自立し独立して自由になって、自然的には得られない価値あるものを実現していく。苦痛(回避)という束縛・鎖に縛られていることからの解放の自由である。苦痛から逃げずこれから自立しこれを自由にして、これを手段・土台にして、その上に自由に描いた目的を実現していく。ただし、ひとの感性は、ほかの動物と同じ自然にあって、苦痛甘受では、七転八倒の苦悶となる。感性からいえば、その忍耐での苦痛からの自由は、厳しい自由・自律である。
苦痛の忍耐は、辛い自由・自律であるが、さらに、これを超越して独立する自由をも人はもつことができる。苦界からの脱出という自由である。苦痛をものともせず苦痛から独立した自由自律は、単に独立するだけでなく、ものともしないことをさらに進めて、ものとして存在しなくする自由をもつ。つまり、苦痛をその根源から絶つ。仏教では、苦の根源は我欲(煩悩)にあるとして、我欲をなくして苦しみ自体をなくする。我欲から解放されて自由となり、そのことで苦痛を無化して、その束縛を根絶やしにする自由である。それは忍耐の辛い自由とちがい安楽となる自由であろう。安楽世界は、苦界から超越した別世界である。苦界から独立・超越し自律・自由のもと、ひとは、安楽国へと飛翔する。
6-5-7. ひとの自律、理性の尊厳は、神のそれと異なる
神や王の尊厳は、その絶対的な支配力にある。その威力にひれ伏して被支配者は尊厳を帰す。絶対的であって、これには些細な異議すらも許されない。神の子イエスの受胎についてマリアは、なんの口答えもせず、天使のことばを受け入れ、自分の子供ではないとショックなことを知った夫ヨセフも従順に神のなすがままを受け入れた。だが、洗礼者ヨハネ(福音書では特別視され、イエスの兄とも目される聖者)の受胎について父ザカリアは、これを伝える天使に向かって、自分たち夫婦は高齢でと賢しらな小理屈をもって口答えした。ザカリアは、そのため、ヨハネが生まれるまで、口がきけなくなるという罰をうけた。有無を言わさない絶対的な、自分のみに由る自由な支配が神の支配であり、その尊厳である。
だが、ひとの尊厳は、自律的理性の尊厳で、理性に支配される感性的自然も、自分である。ひとは、非尊厳をうちにもった尊厳の存在である。理性による支配では、自分に納得のいくものでないと、その支配を実行することはできないであろう。感性的な自分にも納得のいく支配が理性による支配となる。苦痛を身体に我慢させるとき、理性意志は、自身の身体が耐えうる限度をしっかりと踏まえて、身体の納得できるぎりぎりの苦痛を耐えさせる。あるいは、身体の方から、もうこれ以上は無理だとその理性意志に異議を申し立てることも行う。ひとの自律は、その支配される自己と支配する自己の対話のもとに展開される。理性が思いを通すとき、自身の感性には、しばしば辛い不自由を甘受させるのであり、ひとの尊厳には、厳しさ辛さが伴う。尊厳の王も神も、むち打ち支配するのは、自分の外の被支配者であり、気楽に鞭を使う。だが、ひとは、自分で自分を鞭うつのであり、辛い尊厳になることがしばしばである。
理性による自然の支配は、外的自然についても行われるが、そこでも、支配を受ける自然にとって、納得のいくものであることが求められる。神は、自然をでたらめに支配して造り間違えたからといっても反省などしない。ノアの箱舟にのせたもの以外は、溺死させ(魚類はどうなったのか、気になるところである)絶滅させるというような乱暴なことを平気でする。神は、何にも捉われず好きなようにする絶対的な自由をもつ。だが、ひとの支配では、そうはいかない。自然を改造するとしても、しっかりと改造される側の納得のいくものでなくてはならない。それを可能にするのが理性による合法則的な支配である。水を支配するときには、引力の法則を踏まえて、下流に向かって水を導いて支配するといった、自然自身が自ずからに従う法則をもって支配する。その尊厳は、神の絶対的な有無を言わさない支配ではなく(イエス(神)は、水の本然など無視してこれをぶどう酒に変えたり、湖上に風が吹くのを、「吹くな!」と言ってやめさせえた)、支配するものにしたがった合理的な支配である。自然に逆らうことなく、一旦はこれの支配に服して自然の奴隷になる。そのうえで理性の狡知をもって巧みに自然をリードして、支配を実現する。理性はその目的実現のために自然を手段とするが、その展開において、自然は100%自然法則にしたがって自ずからに動いている。自然を強引に捻じ曲げるような、有無を言わさない神のやり方はとらない。神や王の支配では、支配対象について無知であってもよいが、人間による自然支配は、英知がなくてはかなわない。
6-5-7-1. 人の尊厳のもとでは、自由とともに平等が求められる
神や王の尊厳は、唯一の支配者のそれとして絶対的なものであり、何の束縛もなく自由である。だが、人の尊厳は、類としての尊厳であり、無数の個体における尊厳である。個体として無数の尊厳が並びたち、尊厳同士のかかわりが生じて、そこでは、いずれも同等の人間的尊厳を有する至高の存在として、差別なく対等・平等となることが求められる。人の尊厳は、自由とともに平等が特徴となる。個体として尊厳をもつ人が、自由に好きなように周囲の者を手段にするとしても、他者も同じ尊厳の人間である。その同等・平等の在り方が冒されると相手が感じるようであれば、その自由は制限されるべきこととなる。その自由を通すことは、他者を単なる道具・手段とし尊厳を冒し平等を崩すような事態にもなりかねない。ひとの尊厳が喧伝される場は、自由とともに、しばしば人権蹂躙などの差別の禁止、万人平等に至高の扱いを求めてのものとなる。
人類は、万人、尊厳において同じであるとともに、もともと自然的にも対等であり、万人を同じ存在とみなして自然的にも平等をもってかかわることになる。ネズミと象であれば、平等を求めあうことはないであろうが、ひとは、諸種の能力において、象と鼠のような違いはない。違いがないから、無理やりに差異を見つけようと競争・闘争もする(スポーツ競技など同じことを繰り返して飽きないのは、同じ団栗の背比べだからである)。亀と兎は、違いがはっきりしているので、競争はしない。ひとは、心身の自然的能力において同等、平等である。その上に、さらに、類的に、普遍的な理性を中心とした人格において万人同一の良心や良識をもって成り立っており、各個体が同一の尊厳を有した人間(人類)である。人同士の交わり・扱いでは、自然的にも人間的にも、根深く、平等にということになる。
かつ、根源的に自律自由の尊厳を各個別主体が有しているので、個別的に異なる自由を行使し、時には他者を自由に手段(犠牲)にすることも生じて、尊厳の平等とは相いれないことともなる。自由は、平等と対立することになる。平等を冒さない限りでの自由となり、自由をなるべく侵さない限りでの平等ということが、多くの場合の妥協点となる。尊厳をもった命が危ういといったところでは、軽症者は後回しにし平等は停止され、各個の自由もそこでは一時ストップとなる。自由と平等は、臨機に、できるだけ自他の尊厳を冒すことがないようにと、行使される。
6-5-7-2. 自由は、無秩序になり悲惨の放置にもなる
自由は、好きなようにということでは、理性的な律・法の束縛(自律)のもとに働くとは限らない。束縛から解放された自由ということでは、あらゆる束縛から逃れた自由ともなる。未成年がその束縛から解放されて成人になってすることは、まずは、よからぬ物事になることが多い。未成年は、たばこや飲酒は禁止されているから、成人しての自由を享受するとき、(一生禁じられてもよい)酒やたばこに手をだして悪すらの自由を実感しようとする。
封建道徳から自由になったものは、封建的束縛から解放されるのであるが、そのままだと、身勝手に好き放題をすることになる。無秩序に陥ることになる。子供たちが集団で旅行などするとき、自由時間になると、なにをしてもよいということで、無秩序なものとなることが生じる。現代社会は、情報産業が中心になって既存の営為とは大いに異なることをはじめている。この情報社会は、規制の仕方も明確にならず好き勝手をやることが多いが、その無秩序状態では、多くが参加するほどにうまく動いてはいかなくなる。情報の核をなす「コピー権」は、自然状態では、コピーしてもなにも減るものはなく自由にということだが、それでは、特許などと同じく、これを開発していこうという意欲をそぐ。そのため、自然的にはいくらでもコピーできるという自然権を法的に一定期間禁止するような不自然な秩序「コピー禁止権」が登場するようなことになる(コピーの禁止権は作為的でありえて、ディズニーあたりの意向を汲んで米国は、著作権の有効期間をどんどん延長している。マイクロソフトやアップルは、パソコンの基本ソフトウェアについてコピー(禁止)権を行使しているが、リナックスは、はじめから自然権としてのコピー権を尊重してこれを自由に使用しあい改善を重ねている)。
自由にすることが、無秩序になるだけでなく、社会的に有害な作用をすることになると、これは、自由の乱用として、適切に自由を制限して対処すべきことになる。この自由社会は、束縛をできるだけ少なくして、各人が自由に好きなことをし、その特技などを生かしていける社会である。だが、好きなようにということは、好きに選べる状態ならば、よいが、選べるもののない場合がある。職業選択の自由は、選べるものがあってのことであるが、その選ぶものが見つからないときには、現実には、この自由は、選択しない、できない自由になってしまう。仕事をしないと生きていけないこの社会では、選べる仕事がないということは、社会生活をする基礎を奪われることにほかならず、悲惨な貧困の生活を強いられることになる。
尊厳のために意志自由を守るとしても、自由実現の場がなくなっている状況では、自由は絵に描いた餅にとどまる。自由は、放任・放置と同語になってしまう。仕事しなくては生活ができない者には、自由は、放置として、悲惨なものとなる。さらに、自由は、搾取の自由も含む。だが、支配階級がその自由をほしいままにするということは、働く者には、反自由を強制されることにつながっていく。ひとがその尊厳を維持して等しく生きるためには、自由の乱用を防ぎ、自由の適宜な制限が必要となる。
6-6. 未来を創造する、人の尊厳
ひとは、おのれを自らに創造する。ひとの尊厳の自律は、未来方向にと展開される。未来の自己のために現在の自己を生きる。いま法学部生であるのは、将来、未来に法曹界で活躍する者になるためである。法学部生の現在をいつまでも続けるつもりはない。未来の検事であるために、それを希望の星として、未来にと今の法学部生を生きる。未来が空しいものに変貌すれば、生きる意味を失い現在を空しいものとしてしまう。未来が、その希望が現在を輝かせる。かりに未来・希望が閉ざされた場合は、絶望ということになり、現在をも暗黒にして、ひとの生動性を奪う。絶望は死に到る病いだといわれることになる。希望を、未来に価値ある状態を実現するには、多くの場合、現在を手段・犠牲にし、苦難に耐え忍ぶことが必要となる。ひとにのみ可能な苦痛の甘受という犠牲をもって、それを手段にして、目的実現へと飛躍していく。自律的に自身を自身で創造して未来に生きるのは、人にのみ可能な卓越した、尊厳の営為である。尊厳というと神が挙がるが、いわゆる神と人のそれのちがいは、神には未来はないが(神は時間のうちにはなく、時間自体を超越した存在と想定され、永遠と形容される)、ひとは、現在を超越して未来において理想の自己を実現する、希望の時間を有していることである。本当の自分、真実の自分は、いまはない、未来に存在する。永遠の神は、しばしば「有るSein」と特徴づけられるが、人は、それから言えば、無から有へと「成るWerden」ものと特徴づけうるであろう。
自然は、因果必然のもとに展開している。ひともその因果のうちに存在する。だが、ひとは、さらに、その上に目的論をもって未来に生きる。動物とひとの決定的なちがいである。動物は、美味しそうな匂いに引かれて餌箱のエサを食べに行く。動物は未来にではなく現在のみに生きる。だが、動物や神とちがい、ひとは、未来に生きる。ひとは、子供でも、匂いに引かれてではなく、夕食時と分かれば、夕食は肉のはずだったとこれを目的に描き、遊びをやめて家に帰って食卓に向かう。ひとは、なにをするにつけても、動物とちがって、つねにその先(未来)に目的を設定して動く。冷蔵庫のとびらを開けて、「さて何を取ろうとしたんだったか」と目的が分からなくなったら、先(未来)のない神に近づいているのだと知らねばならない。
未来の希望に生きる、未来の自己を創造していく自律的な存在の人間は、現在を手段にしてそれの犠牲の上に、先へと進んでいく。輝かしい目的実現の未来であるが、それが可能になるのは、現在を犠牲にすることをもってである。その点では、この動物的でもある現在は、手段・犠牲となって、あえて苦痛から逃げずこれを甘受して、苦悩することになるのでもある。忍耐をもっての苦の世界、苦界を踏まえて後にはじめて極楽世界は実現される。もちろん、希望の未来の輝きは現在を明るく照らし、現在の苦は、充実感とでき、動物的な快不快に関しては、この自然世界を支配する存在として恵まれた状態にあってのことである。
6-6-1. 目的論的営為は、因果自然を踏まえ超越する
尊厳の存在である人間は、自然・動物を超越して未来にと、目的論的に生きる。だが、その目的論的営為は、自然の因果を否定するのではない。因果的展開を、やはりする。ただ、その前に、求める最終結果を目的として意識において自由に描きだし、この描いた自由の最終結果からその因果系列を原因からその原因へと観念的にさかのぼっていく。因果を逆方向に、結果から原因にと遡源する観念的歩みをまず踏まえる。その後、その見つけた端緒となる原因を手元において、因果連鎖を実在過程のうちで、未来方向に順に追っていくことで、求める結果を得るのである。阿弥陀くじでいえば、100%当たりを確保できるのが目的論的なやり方である。まず、当たりくじという目的(=未来の結果)をみて、そこから端緒のくじ選択のところまで観念的に結果から原因へと遡源する。ジグザグをたどって突端の選択肢(始発の原因)へと至る。そして、その当たりから遡源した選択肢を実際に選び、そこから逆方向に当たりへと進む。まちがいなく、当たり、目的実現となる。
因果論を超越した目的論に生きるひとであるが、そのためには、現在から目的に到るまでの因果連鎖をもった手段を選んで、その因果にしたがった実在的な道を引き受けねばならない。手段は、目的達成のための犠牲になるものである。端的には、苦痛が存在する茨の道を避けることなく、あえて、苦痛をも引き受けて、自然的には回避するはずのものを避けることなく、ひきうけて、これを犠牲の手段として、目的へと至ることである。その手段は常に苦痛になるわけではないが、苦痛、艱難になることが含まれる。その苦難を避けていたのでは先には進めない。目的実現のためには、その苦難を、忍耐を引き受けることがなくてはならない。快苦の快にしたがい苦を避けて自然は進む。この自然を超越し快の自然的進行をとらず、目的にとって不可避となるものにおいては、超自然的に苦痛をも甘受するということである。人の自然超越の営為は、常に苦痛ではないにしても、苦痛を回避することなく突進することにある。検事になりたいものは、動物好きでこれの世話に一日をつぶしていたのではなりたたない。司法試験を突破する必要があるから法学の茨の道を選択しなくてはならない。気が進まないとしても、日々、法律の知識を身に着けていくことがなくてはならない。つまり、苦痛甘受の忍耐をもって、一歩一歩とその目的実現へと近づいていく。自己実現としてのひとの歩みは、その未来の目的を高く掲げて、自然的には回避されるような苦難の道を引き受け、これを忍び耐えつつ進められるのである。
6-6-2. 苦痛を手段とする目的論
人の目的論の特徴は、目的に到るための手段としての苦痛の甘受、忍耐にある。苦痛甘受は、自然的には生じない人の営為である。自然的には苦痛は回避される。自然超越の目的論のうちで、さらに自然超越の苦痛甘受をもってするのが、ひとのみの有する忍耐の営為ということになる。
忍耐するとき、まず、目的をもってはじめる。町の全体を見るために山の頂上に立つという目的を未来方向に描く。即山頂に立てるものではないから、山に登るという手段をとらねばならない。その手段は、苦労なことで、その苦痛を避けたいものは、目的の山頂にたつことをあきらめる。山頂に立つのは、苦痛をいとわず受け入れる忍耐を有した者ということになる。苦痛を回避することなく、これを手段・犠牲にし踏み台にして、目的が実現可能になるのである。ひとも、自然的には、苦痛からは逃げたい、これを回避したいとの思いをもつ。苦痛を好むことはない。もし、受け入れたいのだとしたら、それは、そのひとには、苦痛ではなく、快となっているのである。苦痛である限りは、嫌悪し回避したいものになる。苦痛甘受は、それ自体が目的になることはない。苦痛の受け入れ、忍耐は、目的実現にとってのやむを得ない手段・犠牲である。
未来に生きるのがひとである。動物は、この現在に生きるが、ひとは、現在を犠牲にして未来に生きる。真実の自己は、未来にある。現在の自己を踏み台にして、苦痛を中心にした自然的には回避したいものを、手段・犠牲としてひきうけるが、それは、未来に目的とするものを実現するためである。現在の苦痛甘受という超自然的営為、自己犠牲をもって、ひとは未来に生きる。こういう、自然を超越する忍耐をもっての目的論的展開は、人のみの有する卓越した営為で、それは、自然を超越した人間の尊厳の端的となる。
もし、その目的実現が不可能と分かったら、忍耐し苦痛を甘受していても、その犠牲の意味がなくなるから、その苦痛甘受は中止することになる。あるいは、かりにほかの、苦痛でないか、より苦痛の小さい方法で目的が達成できるのであれば、それに乗り換える。もとの苦痛の甘受は中止する。目的のための手段として不可避ということであってのみ、苦痛甘受はとられる。が、ときに、忍耐では、その目的を見失うことがある。あるいは、愚かしい結果しかもたらさないのに、そのことが自覚できず、忍耐することがある。過労死するまで苦痛を甘受するものもいる。苦痛に耐えていると、疲労困憊し正常な意識の働かなくなることがある。手段でしかないことも忘れてしまうことがある。だが、まっとうな意識をもってする忍耐では、目的への道程をしっかりと見定め、その苦痛甘受は必要最小限にして、不可避の犠牲のみを受け入れる。
6-6-2-1. 快では、目的にまでいかないことがある
目的論における手段は、しばしば、苦痛の甘受になるが、目的への手段の展開は苦痛でなくてはならないという訳ではない。手段もまた快であってよい。というか、苦痛でなく、快の手段があるのなら、快の方を選べばよいのである。栄養摂取を目的とするその手段の食事は、多くの場合、快である。快で目的が実現できるのなら、わざわざ苦痛をとることはないが、苦痛を手段にするときは、かならず、目的に進む。手段に停滞することはない。苦痛は、甘受したいものではないから、できるだけはやく、苦痛が少なく済むようにと工夫して、目的実現が最短で可能になるようにと工夫していく。だが、快楽が手段の位置にある場合は、快は、ひとを魅了し、これにとどまることを誘うから、目的に向かわないことが生じる。食の場合、昨今、美味を優先し、栄養摂取の目的はないがしろにすることがめずらしくない。
ただし、快がひきつける力をもつのは、感性的世界に限定される。精神的世界では、快は些事である。経済的価値や文化的価値は、これを得ることが快でなくても、それらの価値自体がひきつけていく。だが、苦痛の場合は、感性世界で鞭として効果が大きいのみでなく、精神世界でも、そうである。精神的苦痛の不安とか喪失感は、その苦痛が耐えがたく、これを解消して楽になろうと、死に物狂いでその否定的感情の克服にと自身を追い立てていく。苦痛は、生の下位層上位層を問わずあらゆる場面で、ひとを先へと駆り立ててやまない。
ではあるが、手段が苦痛の場合も、その苦痛故に目的へ進まないことが生じる。苦痛は回避したいから、これから逃げようと種々口実をもうけて、手段の苦痛の営為を回避しかかる。この点からは、手段が快の方がスムースになる。目的実現への意思が強い場合、その手段が快でありうるのなら、快の手段をとる方がうまくいくであろう。しかし、大きな価値をもつ目的となるものは自然的に快適に展開するものではない。達成することが困難であるから達成が大きな価値をもつのであり(同じ炭素の塊の石炭よりダイヤモンドが高価なのはそのためであろう)、苦難の手段となるのが普通である。その苦難を回避したのでは先には進まない。辛苦を引き受けねばならず、その辛苦は、できるだけ小さく済ませたいから、すみやかに目的へと突進することになる。苦痛が、先へと駆り立てる鞭となる。
忍耐は、苦痛を手段とするから、徹底して目的論的である。苦痛甘受は、それ自体は目的にならず、その先の目的を描いてのみ、有意義なものとして受け入れられる。忍耐、苦痛甘受は、その苦痛の犠牲をもって目的を一層価値あるものと実感させ、目的へと駆り立てる。忍耐(苦痛甘受)は、できれば避けたいもので、早く目的を実現して終わらせたいものになり、早々に目的へと進めていくことになる。快楽は、しばしば目的を喪失して現在をむさぼり、苦痛甘受の忍耐は、厳しく、目的論的に未来に生きる。
6-6-3. 犠牲・自己否定に徹する現在
人は、神のような不動で永遠のものではなく、自律的な生成のもとにあり、自身の未来を自身で創造するものである。未来に自己実現していくために、現在の自己を燃やし尽くし否定して犠牲にする。創造的な自己否定である。裁判官を未来に描く者は、現在の法学部生を永続させることはない。現在を創造的に否定して卒業していかねばならない。現在の自己を犠牲にするとは、現在を快に停滞させることなく犠牲の苦痛を手段として受け入れ、未来のために忍耐するということである。
忍耐は、苦痛を甘受して、これを手段にする。それは、現在の生が犠牲となることである。それを犠牲にするのは、その犠牲に見合う価値あるものがそのことで可能になるからである。犠牲それ自体は、生の破壊である。それは単に破壊されるだけのこともあるが、犠牲をもって他のものが利益を得る場合もあれば、自身が利益を得る場合もある。自身が忍耐して犠牲を払うのは、自己の破壊・損傷をもって、自身あるいは拡大した自分たちがその犠牲にみあう価値あるものを得て充実することができるからである。苦難・犠牲は、人生を悲観的にしがちだが、忍耐では、楽天的である。その苦難の忍耐をするほどにその先の目的・価値獲得が一層確かなものとなるのだからである。
自己犠牲は、よりよいものをもたらすための創造的破壊である。ひとは、未来に自己実現していこうとする。そこへ至るには、今の自己を犠牲にし否定することが求められる。その否定を手段にすることで、犠牲を積み上げて、未来の目的へと到達することが可能になる。自己否定という手段をもって、その否定を通した格闘の末にそれの転生・否定がなる。否定の否定をもって高度の自己回復・自己実現がなる。その自己の生の犠牲・破壊を引き受けるのは、この自己否定を通してのみ、より卓越した自己の生が獲得でき自己実現できるからである。忍耐するものは、その犠牲が価値あるものだと自覚するが、それは、未来の目的から見てそう確信する。目的を達成するという強い意思が、現在の苦難を支える。希望は、未来にあって、現在の苦難を照らしその苦難・犠牲に価値を与え、楽天的に、これを耐え抜くことを鼓舞する。仮にこれに賭けて犠牲のみで終わったとしても、その忍耐の犠牲は、未来のその尊い目的の途上にあったものとして、その犠牲の営為自体、尊い営為とみなされる。犠牲というと大仰に響くかも知れない。遊ぶ時間を犠牲にし美食を犠牲にして、勉強し質素な食にとどめるという程度のことも、犠牲である。もちろん、命がけの犠牲もある。
忍耐は、現在に生きるのではなく、未来に生きる。現在のみに生きるのなら忍耐は犠牲・苦痛のみである。苦痛を引き受けること自体が超自然の営為として尊厳の営為であるが、さらにそれは、因果自然を超えた未来の目的のためにという超自然の尊厳の人間的営為なのである。快には、未来はなくてよい。快楽にのめり込んでしまうと現在に停滞することになる。だが、苦痛、忍耐は、それ自身にとどまることをそのものが否定する。先へと、なんといっても現在の苦痛をなくしたいと、先へと進める。その先の未来のためにと、現在を手段に、犠牲・踏み台にし自己否定して忍耐は先へと進む。苦痛と忍耐は、現在の自己を犠牲にし手段にと燃やし尽くして、それ自身を乗り越え充実した未来へと進む。「死して成れ(Stirb und Werde!)」である。犠牲(=死)は、尊厳の未来を生成・創造する営為として、尊厳の営為である。
6-6-3-1. 苦痛は、目的を価値豊かなものに限定していく
手段に苦痛を有する目的は、苦痛をもってしても、あえて引き受けたいものになる。そこに目的として設定されるものは、自己犠牲をもってしても引き受けるべき価値あるものに限定される。宗教でしばしば苦行をいうが、ことさらに難行苦行を自身が引き受けるのは、その目的となるものが至高の価値をもつと想定されているからである。苦行が単に暇つぶしで何も結果するものはないとはっきりしているのなら、だれも苦行などしないであろう。命がけの修行をするのは、その苦行をもってのみ、至高のものが、悟りとか卓越した境地が獲得できると確信するからであろう。
手段が快であった場合、そこに留まっていたくなることであろう。しかも、かりに目的とするものを実現するとしても、それが価値の低いものでも、あるいは、価値がないものでも、手段が快で楽しめたのなら、それでよいということになる。パチンコで、今日はよい台が当たったので、一儲けしようと半日かけて、結果は、うまくいかず、全部すったとしても、パチンコするという手段自体が楽しかったのであり、目指す目的の儲けはならなかったとしても、悔いることはなかろう。これに対して、手段となる過程が苦痛であり犠牲を払うものであったとすると、結果となるもの、目的は、それに見合ったものでなくてはならないであろう。犠牲となるものをお金に換算して一万円だったとすると、苦労してのその結果・目的となるものは、一万円では済まない。それなら、苦労することなく、はじめの一万円をそのままにしておけばよかったとなる。結果・目的はそれ以上でなくてはならない。それ以上の成果がなると確信しているからこそ、苦労の忍耐を引き受けたのである。
苦痛という、本来は回避すべきものを、わざわざに引き受けるのは、それによってなるものが、相当に価値の大きいものになるからであろう。わずかの価値が得られるだけであれば、おそらく、苦痛を引き受けることはしない。忍耐し始めるとき、その結果・目的を描いて、苦痛・犠牲を払わねば、それは獲得できないということを踏まえる。犠牲を払ってでも確保したいもののみが目的に選定される。そういう点において、忍耐と苦痛は、目的を高くに掲げるものになるということができる。
しかも、目的は確実にはやく手元に獲得したいことである。忍耐の展開は、もたもたしない。目的に引かれて、速やかなものとなる。かつ、その手段・過程は、苦痛の甘受である。苦痛は、できるだけはやく済ませたいから、その展開の遅延はさらに少なくなる。手段の過程が快なら、それを楽しみたいことになり、目的実現は、その過程自体が遅らせかねない。だが、苦痛の場合、目指すものは高い価値であるから着実に獲得できるようにしたいし、なんといっても、苦痛は少なくすませたいから、その展開、目的実現は、敏速で確実なものとなる。
6-6-4. 尊厳の個は、類・全体のための手段・犠牲になることをいとわない
ひとは、今の自分を越えて未来に生きるが、それとともに、この個我を超越した全体、類に生きるものでもある。理性的に生きることは、未来に目的を掲げてというのみでなく、個我を超越した全体、普遍を捉えて、その全体・普遍にと類的存在として生きることでもある。それは、個我を超えたものとして、しばしば個我の自然にはマイナスをもたらすものでもある。それでも、そのマイナス・苦痛を受け止めて、これを甘受し忍耐して全体のためにと生きる。極端な場合は、戦争で国家のために民族のために自己を文字通り犠牲にして命をささげてこれに尽くすということになる。未来に自己実現を見るように、個は、全体のうちに自己の実現を、充実を見る。家族は拡大した自己である。家族の喜びは、自身の喜びであり、家族の悲しみは、同時に自分の悲しみともなる。自国がそとから侵害されれば、我がこととして、悲しみ、怒りをもってする。スポーツの国際大会では、自国の勝利は自分の勝利となり、その敗北は、日頃は、国内では敵であった者の敗北でも、自身の敗北と感じることである。
個は、全体の有機的部分として生きるが、同時に、各自が全体でもある。個体として統一的自律的な全体をなしているというだけではなく、ひとは、類として、社会的存在としての全体に生きる。自己内在の理性、良心や良識は、類・全体・普遍そのものであって、個我・エゴに不利になるとしても、これに与しない。その理性においては、全体のために、個我自体を犠牲にすることを厭わない。自身の理性がその個我に犠牲を求めるのは、国家等の全体にと生きるためである。個我が手段になるのは、目的としての全体が、そして個我自身がよりよく生きるためである。現在、ウクライナの若者は、ロシアの侵略に対して、自らを犠牲にし、死して全体に生きるというひとの尊厳を、悲痛な思いをもって実現している(ただし、戦争は、理性をもっての理論闘争ではなく、武力で自分の主張を通すのであるから、理性の道理、正義が通るとはかぎらない。腕力がない場合は、正しくても、それの実現は容易ではない)。
未来の自己に生きるにしても、全体のために生きるにしても、この現在の個我としての自己を超越し、そこに生じる苦痛を甘受し忍耐することをもって、これを引き受けるのである。ひとは、各自が己の理性をもって、全体・目的を見極め、それを可能とする個の手段化、犠牲といったことを覚悟し、これを意志して、自己犠牲にと踏み出し、未来・全体(類)にと飛躍した生き方をする。ひとは、常に自覚的に動く。自身の理性の深慮遠謀をもって、かけがえのない個でありつつ全体・社会に生きる。かりに所属の社会が間違ったことをしていると思えば、それに反対し、あるべき全体のために声を上げることもする。現存の国家などを拒否し、唯一の自己・実存のために生きることもありうる。それでも、その実存のうちの理性は、ときの社会、その民族の言語・論理によって動いているのである。ひとは、常に類的全体的存在であり、類として生きることに自身の充実と安寧を感じる。
6-6-5. 未熟の現在に「使命」をもって、未来と全体にと生きる
真実の自己は未来にある。現在は、その未来への自己実現のためにある。未来の裁判官の夢が、現在の法学部生を作る。神の場合は、時間を超越した存在として、生成消滅をのがれて完結した永遠のものと想定される。だが、ひとの場合は、未来に真実の自己を描く。時間のもとで生成・創造の途上にあり、自身の未来に向けて自身のなすべきことを、しばしば使命とうけとめて、この使命の実現にとおのれを尽くす。使命は、自身のぎりぎりの高度の「課題」である。困難な課題ととりくみ、これを未来において解決・達成する。自身を尽くしての課題が使命であり、それは、自己を高度なものにと高めていく道である。その使命において、自身の有るべき当為・理想、自身の本来・本質が顕現してくる。
未来の自己に生きる使命は、同時に全体に生きるのでもある。使命は、全体・社会から自分に与えられた誇らしい課題であり役割である。使命は、その社会が自身を見込んで与えるものであり、それは、その社会を代表して取り組む自身にとり誇らしい仕事である。対外的な使命は、ミッション(使節)として、その社会全体の代表となって働くことである。使命に生きることは、その所属の全体にと自身を犠牲にして生きることである。その社会の一兵卒として自身を使命において犠牲にすることであるが、同時に、そのことにおいて、社会・全体そのものとなっているのが使命であろう。使命において個は全体に生き、おのれを尽くす。使命に生きることは、自身に困難なものであり、苦難の道となることであるが、自身の生きがいとなり充実した生をもたらす。使命に生きることができるなら、それこそ本望・本懐ということになる。
長い使命となると、死ぬまでそれに生きる必要があり、それの完成、到達は不可能なことになるかも知れない。自身が使命と思うものは、自身の能力ぎりぎりのものとなっていることも多い。使命つまり課題・宿題と位置付けられるものは、能力の限りをつくして自身にできるものである。使命は、そういう困難な課題であれば、途上に終わる可能性もある。自己実現は、未達成になるかも知れない。それでも、その使命に生きることは、全体と未来の自己のために犠牲となっての、自己実現の歩みに外ならず、おのれの最大限を尽くしてのことであれば、その途上の生きざま自体が尊く、ひとの尊厳の営為にふさわしいことである。
その尊厳をもった使命の称号を与えるのは、国家が戦士等として実際に与えることもあるが、しばしば自己自身である。周囲には、困難な使命の理解自体ができないことになるかも知れない。自身で自身に使命を与え自身が使命感を抱く。人は、類的存在であり、全体を内在している。使命という稀有の大仕事は、卓越した自身だけに課されたものであれば、周囲の理解を超えたものになる可能性もある。そういう使命は、自身のうちに秘めて、孤独に耐え、ときには非難に耐えてこれを遂行することになる。もちろん、それが個人的主観的な妄想である場合もある。周囲に迷惑なことを「本人は使命感をもってやっている、困ったもんだ」と批判されることになる。個と全体を見渡す理性の自己批判は欠かせない。
6-6-6. 自己変革のなかでの自同性の堅持
ひとは、未熟な自己を乗り越えて未来に豊かな自己を実現していく。だが、そのことでまるまる別物に変化していくのではない。自己の実現であり、より豊な自己に帰るのである。それは、今の自己についても、そうで、過去の未熟な自己が自己変身して現在の自己になっているはずである。つまりは、自己否定によって変身していくのではあるが、そのなかでは、本来的な自己は同一に保たれている。過去から現在へと同一性を堅持し、その現在から未来へと自己同一性を貫き、一貫した自己として生きている。自己変革・自己変身のなかで根源的な自己のその自同性は堅持している。変身のなかで不変の自己があり、個我の人格として魂をなしているものがある。その魂は、三つ子の魂として不変である。未来へと賭けていくが、その変身は、自己に帰ることとしての自己実現となる。未熟な、真実の自分になっていない現在から、未来へと真実の自己を実現していく、帰っていく。
ひとが自らの目的を描いて進んでいくところには、不変の自己、自己の同一性の保たれていることが必要である。全体を見渡し統御していく不変の人格・魂が存続していなくてはならない。苦痛を引き受けて目的まで進むとき、統御している自己を失ったらその目的自体があやうくなってしまう。せっかくの苦痛甘受・犠牲である。それが成果をあげるには、その忍耐の過程には、自己の同一性が保たれているのでなくてはならない。川の流れ(水)は常に変わるが、川自身は同一にとどまる。ひとの生成・自己創造も、同じ自己があって、自同性を保ちつつ、未来へと展開する。諸営為の入れ物、主体として同一を堅持するのであり、行為する意志発動の場として、その意思主体としては、不変にとどまりつづける。内外の作用をまとめて統括し、そこから諸営為を発する意思主体は、おのれを統率する統覚として自己同一にとどまる。それは、自身の(三つ子の)魂であり、人格である。
苦痛苦難が耐えがたく、自己を放棄してしまいたくなることもある。それが悲劇的な形で行われることがある。過去との自己同一性を放棄して自身から逃げ出す記憶喪失、健忘症となり、あるいは、別の人格へと逃避して多重人格となる。それらが、例外的であり病いと見なされるということは、通常は、ひとは、自身を同一に保った自同性を堅持しつつ未来に生きているということである。
未来のなお無である理想の自己へと想像力で、希望で、自己実現していくが、過去方向にも、自己を延長する。反省をもって記憶をもって自己の歩みを踏まえる。同じ自己、同じ人格として過去と未来に広がる。決定された変えられない過去である。そこに自己同一性を貫く。責任を負う。記憶の連続・整合性をもち、未来方向に、それにもとづいた未来を描く。時間のうちで、生きてきた時間を踏まえ、同一線上の未来の時間へと自己同一性を堅持しつつ、未来に生き自己実現していく。
6-6-6-1. 全体の中で固有の役割をもって自己同一性を堅持する
ひとは、時間のうちでの同一性とともに、空間的にも自同性を堅持する。過去から未来へと生きるとともに、それに生きている周辺の他者、全体のなかに生きる。使命をもち、社会的な役割を分担して、同一のかけがえのない人格として社会的な関わりをもつ。家族のなかで、例えば父としての役割を担って、自身の同定を行っている。いたずらで、父であることを否定して他人と扱われるようなことがあれば、自分は何者なのだろうと自身の存在が危うくなり崩壊していくように感じて、大いに戸惑うことであろう。痴呆症の進んだ老人は、逆に自身が自身では同定できなくなり、自分が分からなくなる。家庭において父親として扱われてもそれが理解できなくなり、自分が誰と同定できず、家族を見ても自分の家族として同定することができなくなる。自分の子供に「あなたはどなたでしたかね」と問うようなことになる。
ひとは、主観的には自身を世界・宇宙の中心におく。目は自身を見ることはできないが、自分の目を中心にして自分のそとへと無限に世界は広がっているとみている。唯一神がそうであるように、ひとは、各人が人間的(ホドロギー)空間の中心となり世界・宇宙の原点と自覚し、自身が消滅すれば世界全体も(主観的には)無化すると感じて、自身を宇宙全体にまさる、かけがえのない唯一の尊厳を有した者ととらえている。日頃の自身の生きる環境・社会は、拡大した自己として、無限に広がる時空間の原点・中心に位置づけられる。その自己の生きる社会において、かけがえのない自身は、全体をなす社会のなかの個との自覚をもって、託された使命・役割を担い、父とか会社員、あるいはニート等と自身を定位して、その自己同定を行っている。家族のうちでは、父として不変の役割に生きる。それが疑わしくなると自己を失うということにもなる。周囲がいたずらで、別人扱いしたら、自分は何者なのだろうと自己を見失い、どぎまぎするだろう。
自己の父としての同定は、周囲との相互作用のなかで維持されるのであり、変容もしていく。父は、ある日からは、お爺さんという役割主体にと変容するのでもある。ここでの自己同一性は、自身において日々培っているが、同時にそれは、全体から与えられた役割・使命としては、変動もする。変動しつつ、その変動のなかで変わらない自己を維持する。その人格、魂は、生れてからずっと変わらない唯一の実存としてあって、自同性を保ち続けている。が、それの保たれなくなることもある。その人格として生きることが困難になると、健忘症となり多重人格となって、それまでの人格・魂を放棄するようなことも生じる。あるいは、自己内で人格を支えそれのために動いていた自然・身体が老化というような変容をしてくると、同一の自身を支えることが困難になる。それは、自身の尊厳を保つことが困難になっていくことでもある。
6-6-6-2. 過去に責任をもち、自同性をたもつ
時間のなかに人間は生きる。未来にと生き自己の実現をはかる。自己同一性を高い一層充実したものとして実現する。この自己同一性は、同時に、過去方向にも妥当する。人は、過去の自分からの一貫したものをもって現在に生きる。過去の未熟な自分に比すれば現在はましな自分になっているのである。過去の自分は、未熟であった。その未熟さを克服した現在の自分である。
この自明の自己同一性を揺さぶるような話がある。「カチカチ山」の昔話のなかで、前山のうさぎは、狸に火傷を負わせて後山に逃げた。その傷を背負いながら狸がこれを抗議にいくと、「自分は後山のうさぎだ、前山のうさぎと何の関係がある」とうそぶいた。狸は、A=AとちがいA=非Aは、確かに問題だとも思わされた。なんとなく合点のいかないところがあったが、兎の形式論理の確実性に異をさしはさむことはできなかった。万物流転のヘラクレイトスの勉強でもしていたら、後山の兎の耳をひきちぎり、後日、兎が訴訟を起こした時には、「後山の狸と、いまの自分と何の関係がある、万物は流転する」と仕返しをしただろうが、哲学の授業はさぼっていたので、それを思いつくこともなく、また、兎と付き合いだし、泥舟に乗せられて死ぬことになった。自身の自同性に自信をもたず、他者の自同性を批判的に説得しなかったことが致命的となった。だが、兎は、自身においては、前山の自分と狸が、いまの後山の自分と狸になっていることを、その自己同一性を確信しつつそうしたことである。A=A、固定した自己同一性は抽象的には確実だが、A=非Aの動的自己否定的な同一性こそが具体的現実の真実なのである。
過去の自分を自分が問題にするのは、多く、否定的現在の原因としてである。うまくいった場合は、過去にさかのぼり反省しなくていい。反省は、過ちを反省するのであって、愚かしい現在の結果を招いた過去の原因を求めるのである。過去の失敗を反省して、その失敗を繰り返さないようにと、より高度な自己を未来にと実現していく。カチカチ山の狸は、火傷を負わされた時点で、その過去を反省しておれば、自分の犯した罪(婆殺し)の報復だったのだと自覚でき、泥舟で溺死させられることはなかったかも知れない。もちろん反省すれば自責の念にとらわれ、未来に向かってその償いを思い、狸は、「婆汁」を作ったことを後悔して、辛い思いを引き受けることになったであろう。
だれでも、過去の重い責任からは逃げたくなる。その責任を逃れる最悪の方法は、これを忘れて自分の記憶にすら残さないことである。自責の念に苦しむことも、なしにできる。過去に借金した自分は、捨ててしまって、別の自分になってしまいたいと思うこともあろう。自分を捨てることは、夜逃げでもすれば、一応は、可能である。お金を貸した方からいえば、その時点で、かれは蒸発して無化したのであり、逃げた先のかれは、過去の自分を捨てて無化して、以前とは無関係のまっさらの自分として新規に生きていくことであろう。外面的には自同性は、なくなる。しかし、自己の人格・魂は、自同性を堅持しており、外面的に別人にはなっても、不変である。最近、半世紀あまり警察の追求を逃れ続けて別人になっていた者が最期自身の本名を名乗って死ぬということがあった。かれは、自身の70年にわたる人生において、自同性をもったかけがえのない尊い実存であったことを、本名を明かすことで自他に納得させたかったのであろう。
逃げないで過去の責任を背負って苦労していくことは、過去の自分を現在の自分と同一で一貫したひとつの自分と自覚して生きることである。実存としての自分(魂)は、一生にわたってひとつであり、自同性を堅持しつづけている。そこに、尊厳をもった唯一の自己の人格・実存がある。過去に責任をもち、いまの未熟を踏まえつつ、かけがえのない自身の固有の使命を担って、未来に自己実現していこうとするところに、ひとのまっとうな生き方がある。
6-6-6-3. 自同性を支える苦痛
カチカチ山の狸が、兎に火傷の抗議に行ったのは、火傷を負った自身がいまも痛み続けて同じ自分であると前提してのことである。苦痛の持続は、過去の痛み始めた自分と、現在も痛む自身が持続していること、その自己同一性を強制的に維持する。できれば、別の自分になって痛みから解放されたいと思っても、その痛みの持続は自身を捨てて別のものになることを許さない。かつ、兎について、それがどこに逃げようと変身しようとも、火傷の責任を負うべき同一の兎であることを前提にして抗議もした。兎を追い続けることを可能にしたのは、同じ自分であり、同じ敵であると踏まえてのことで、それを支えたものは苦痛であった。
苦痛を被った者は、それを忘れない。のちになっても当時の自分が今の自分と同一であることをふまえて、その仕返しとか責任追及を現在の自分からすることである。いじめた者は、そのことを快としていたのなら、早々に忘れてしまうが、いじめられた者は、仕返しできなければ、おそらく永遠に覚えている。その子供の時の自分は大人になっている自分とは相当に異なる者になっているのだが、いじめの苦痛を今の自分の苦痛とし自同性を踏まえて仕返し等を考えることになる。いじめた方は、「お前にいじめられた!」と言われても、後山の兎ではないが、あの時の自分はもういない、記憶に残っていないことで、別人にいじめられたのではないか等と思うかも知れない。それでも、誠実な者ならば、自身がいじめたのかも知れないと責任を思い、子供のときの自分をいまにひきついで自同性を堅持して、「悪かった」と謝ることであろうし、思いがけず仕返しをされても、それほどに苦痛を味合わせたのかと、責任を感じ悔いることであろう。
快の場合は、自同性は、あまり気にしないであろう。快の享受は、その現在にすべてがあってこれを堪能しのめり込み魅了されるだけで、ことさらに過去とか未来等を考えることはなかろう。現世で快を享受できる者は、自身の過去世を振り返って、自分がどんな良いことをしたのだろうかと思うことはなかろう。それをするのは、させられるのは、現在の不幸に打ちひしがれている者である。苦痛・苦難は、自分の過去から背負わされているものを、しっかりと反省させ、自身の存在の何者であるかを自覚させ、未来に向けて未熟さを克服した、よりましな自分を実現していくようにと促していく。
苦痛から逃げずこれを甘受することで、一貫した自分・人格がたもて、自分が何者であるかが明確になる。苦痛は、過去の自己を現在にと連続させるが、それは過去の痛みは忘れられないということであるとともに、過去の責任を背負いつづけ逃げることなく、その苦しみを耐え続けて、現在と未来の自己を築くということでもある。過去と未来をふくめた一貫した自分を自分が支配するのであり、自律、自己支配の尊厳がそこに見られることになる。苦難から逃げず忍耐することによって、現在の犠牲をもって過去と未来の自分が生きるのである。その自律的営為は、人間にのみ可能な尊厳をもった生き方になる。
6-6-7. 各自が抱く自身の尊厳への意識
人間の尊厳は、今の時代、多くのひとがこれを自明のこととしている。奴隷扱い、物扱いされたら憤慨する。「自分は尊厳をもった人間だ」と抗議するであろう。非人間的扱いを受けない限りは、普通には尊厳をもって扱われる時代であり、日常生活において尊厳自体を意識することはあまりない。しかし、あえて、尊厳を有する人間であることを意識するとしたら、神の尊厳とか王の尊厳に似たものを思い、この世における卓越した特別の存在と感じることであろう。神の尊厳は、それが万物を超越して至高のもので、かけがえのない卓越した支配者であると想定するところにあろうが、ひとは万物の霊長として、それと似たものを自身に感じるのではないか。
小さな子供は、自身を至高で万能と主観的には思うようなところがある。それは、赤ちゃんのときから、そうであろう。泣けばなんでも通る無敵の存在扱いであるから、そう意識する。こどもは、普通、自身を王様・お妃様と思いながらこの世界にまずは生き始める。だが、やがて周囲との軋轢をもって、自身の至高・万能との思いは引き下げていく。それでも、どうかすると、大人でも、内心では、自身を神同等で世界の中心に位置する至高・卓越の存在と見なす傾向がある。神は、世界の主として世界の中心にいてこれを支配していると想定されているが、それと同一のことを大人でもひそかにうちでは思っていることがある。主観的には世界の原点は自分にあると感じている。ひとは感覚で世界を捉えるとき、つねにこの世界の原点を自分に置く。人間的(ホドロギー)空間は、自分を全空間の原点におく。客観的な地動説の現代であっても、主観的には、各個人が宇宙の中心にあって、自分を中心にして日が昇り月が沈むのである。主観的には、ひとは、絶対神の世界支配のように、各個が世界の中心に位置する卓越した至高の尊厳の存在であると感じることが可能な状態にある。
しかし、同じ人間が周囲にいて、同じく絶対者として振舞うから、相互は、結局は相対化されることになる。無敵の幼児同士がかかわりを持ち始めると、相互に無敵を否定しあうから、相互が制限を受けることになり(泣けば大人なら拝跪してくれるが、自分と同じ幼児は、そうはしてくれない)、絶対的な存在であることを客観的にはしだいに否定しなくてはならなくなる。客観的には、ひとは、物であり動物でもあるから、環境世界が物扱いし動物扱いすることも生じる。それと、主観的な至高の尊厳存在の思いとのギャップは大きい。そこで現実との折り合いをつける必要が生じる。人同士、つまり尊厳同士では、その絶対性を否定しあうことになり、唯我独尊の尊厳という見方はひきさげざるをえなくなる。結局は、みんなが同じく万物の霊長で尊厳をもつということに思い至る。ひとは、類として理性的な存在となっていて、自然に対して至高で卓越した支配者となっていること、各人、類的存在としてその理性を内在して自身の感性的自然を見事に制御していて、自分たち全員が尊厳なのだということに落ち着く。
6-6-7-1. 尊大になり、卑下しがちにもなる
尊厳は、比較を絶して至高の、卓越した支配者に見出される。神も王もそうであり、人も類として理性をもった至高の存在で、自然の卓越した支配者である。ただ、人間は、自然・動物を土台にした存在として、動物的自然のもつ性向をその尊厳において出してくることがある。動物は、群れるとき序列を大切にし、お互いにマウンティングする。他を押しのけて、より上位に立とうとする。ひとは、理性存在でありながら、同時にそういう動物的性向を強くもっている。諸種の能力の差はごくわずかであるにも関わらず、誤差にすぎないような差を強調して、マウンティングしたがって、上に立とうと尊大な振る舞いをすることが生じる。
宗教では、教祖は、信者みんなが拝跪するので尊厳の存在となるが、その内実は他の者と同等かそれ以下で、その低劣な動物的振る舞いを抑止する者がいなければ、しばしば尊大になる。意識としては、自身を神や王、現実世界の支配者に相当するものとしていく。仏教の新興宗教にオウム真理教というのがあったが、その教祖は、自分たちの組織を日本の中心において、側近たちを「大臣」と称していた。教祖自身は、自分は天皇であり、総理大臣と見なしていたのであろう。夢と現実を勘違いして国会に打って出て現実を知ったが、さらに妄想を深めて、自分たちを拒否する蒙昧の国民は戒めねばならないと猛毒のサリンをまいて極悪の大事件を引き起こした。これは、この宗教だけのことではない。キリスト教の祖のイエスは、信じる者たち内部では本気で、外部では揶揄して、ユダヤの王という扱いであった。イエスは、自身を神(の子)とまで自称した。これはイエスが特に尊大ということではない。許されるところでは皆、神を自称する。戦国時代最大の英雄、織田信長は、自身を神とした。諸大名をまつろわせただけでなく、比叡山を焼き討ちし一向宗を攻め滅ぼそうともした。その安土城の天守にいたる大手道の石段のあちこちに石仏などを使って踏みにじり、聖俗すべてを支配して自身を至高の神とした。この性向は特殊なものではなく万人がもっており、小さな家族の中でも、父親は、家長として尊厳を有して、そとではうだつがあがらず猫のようにおとなしいのに、うちでは、乱暴で尊大な虎となることが多かった。
ひとは、内にある野卑な動物的性向への抑止が効かなくなると、マウンティングして尊厳ではなく尊大になってしまうが、遠慮深い傾向の者は、謙虚にひきさがり自身のうちにある動物性をしっかりと制御し、うちに潜む破廉恥な欲望を嫌悪もする。その度がすぎると、過度に引き下がるようなことになる。自身の尊厳意識のうちで、自尊ではなく、自身に厳しく、厳めしく対処するようになり、自身を卑下するようなことにもなっていく。人による自然支配は、昨今環境破壊などで過酷な支配となっていて、とうてい尊厳の名には値しないと悲観して人類そのものを卑下するようなことになる。理性による感性の支配はならず、感性の快楽主義にかまけて人倫に悖るような逸脱が横行もしている。自他の情けない反理性的快楽主義的振る舞いに、自身を含めた現代人を卑下することになりがちである。尊厳は客観的な規定ではなく、尊厳と見なすという心構えによってなるのだから、尊厳の客観的条件(至高の理性的存在)を満たしている者でも、尊大な者からは物扱い動物扱いされることもある。人類は理性的自律によって生きる尊厳をもった存在だということに自信がもてず、逸脱を思いとどまっている自分ですら、その内心は夜叉であり、人類が尊厳などとは思い上がりも甚だしいとも思う。宗教の教祖は尊大になるが、その信者たちは、反対に、自分たちを神や教祖の僕と卑下することが多く、実際に教祖の奴隷となって周囲を不幸に巻き込みつつ一生を棒に振るような人も少なくない。尊大になり見せかけを大きく偽る者もあれば、その反対に、自分を小さく下賤に感じて自身そういうものだと卑下することにもなる。
6-6-7-2. 人の尊厳の成り立ち・有り方
尊厳は、優劣の順位でトップになるものが、二位以下のものへと向き直り、これを被支配者とし、比較を絶した唯一の至高の支配者となって、その卓越した支配を被支配者が、尊く厳かで見事と賛美するところに成り立つ(cf. 近藤良樹『人間の尊厳-尊厳は支配関係に由来する-(論文集)』広島大学図書館リポジトリ(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00020345))。外ではうだつの上がらない父親でも、うちでは至高で、二位以下に向き直って支配者となり、二位以下の家族を拝跪させて、尊厳の家長となっていた。神とか王は、至高で唯一の支配者として、被支配者をして拝跪させ、尊厳の称号をもって賛美させた。人間の尊厳も同様で、自然の卓越した支配者である、万物の霊長の人類が、その至高・卓越性をもって尊厳と見なされるのである。が、序列第二位の類人猿(被支配者)ですら、賛美する能力をもたないから、自画自賛となる。ひとの場合、さらに、理性的自己が感性的エゴを制御・支配するが、ここでは、神や王と同じ尊厳の在り方をする。個のうちの理性は、個にえこひいきせず普遍的に合理的に感性を支配する。エゴは、身勝手なことをしたいと思うが、理性は、その良心・良識をもって、これを厳しく厳かに制止する。エゴは、反省し自身の理性に、まつろい拝跪して、これに尊厳を帰す。
人間の尊厳で何より問題なのは、尊厳にと取り扱う側からする、人間の非尊厳な扱いである。至高の理性的存在であっても、これを無視して非尊厳の扱いをするのは、人類史では普通のことであった。非尊厳に生きているものがそうされるのなら、わからないでもないが、尊厳にふさわしく生きている者が動物扱い、奴隷扱いされたのである。神や王に対しては、その支配下にあるものは、おのずからにこれを尊厳扱いする。征服されてその支配下に入るのであり、その強大な支配者を畏れたてまつる。支配者に直面する場面になると、支配者に距離をとってひきさがり、伏し拝み拝跪する姿勢をとる。もちろん、その支配下から出ていけば、あるいは元々支配下にないものは、拝跪しないから、尊厳とみなすこともない。神の尊厳は、その信者のみがそうすることで、非信者は、尊厳を帰さない。万物の霊長の人間の尊厳は、この自然世界を支配する至高の存在として成り立つが、その被支配のものは、自然世界であり、巧みに支配するなら、自然は従順にひとに従う。だが、自然自体は、賛美して尊厳の称号を付与するだけの能力がないから、それを実際にするのは、人間自身である。同じ尊厳を有する人間同士が尊厳の扱いをしあうこととなる。本来的には、支配被支配関係にない同等の人間同士で尊厳を帰すことになるので、尊厳は、自然的には守られにくいこととなる。
神や王の尊厳は、守らないとその神や王からの強制・威嚇があって自ずと守らされた。だが、人間の尊厳の場合は、尊厳を帰す者も、帰される者も人間である。人間の尊厳が求められるのは、多くが弱者、人間社会での支配被支配関係(ここにはまた別に家長の尊厳とか、社長の尊厳等がある)のもとでいえば、被支配者たちである。力を有し支配する強者の人間的尊厳は、守らないと不利益を被ることになるから、おのずと皆が守る。だが、弱者の方は、守らなくても、威嚇するような力はないから、都合の悪いところでは無視される。したがって、意識して人間の尊厳扱いが求められるのは、被支配の弱者の方になる。つまりは、弱者の方を意識して尊厳扱いにしなくてはならないということで、神・王での尊厳関係とは逆になる。病人・老人・障碍者等の弱者も同じく、尊い至高の理性的存在であり、人間的尊厳を有する。尊厳を守らない場合、神や王のように、脅迫し拝跪へと強制できるのならいいが、弱者は強者に向かってそれはできない。弱者のために、強者を人間的尊厳の遵守へと、法(正義)をもって威嚇し強制することが必要となる。
6-6-7-2-1. 人間を具体的にどう尊厳扱いすべきなのか
ひとの尊厳の扱いは、具体的には、どのようにすべきなのであろうか。神や王を尊厳とするものは、その至高の威力の前に拝跪する。その尊厳あつかいの姿の代表は、五体投地である。まつろい拝跪して、攻撃用の手足を自身で束縛し無抵抗に徹する。人の尊厳は、自然の至高の理性的制御・支配になりたち、その拝跪する被支配者は、自然である。外的自然には拝跪するような表現能力がないから、人間が代行する。自画自賛である。さらに人の尊厳では、自己内自然の理性支配がある。個我の動物的自然感性は、自己内の至高の理性制御に従順に従う。この理性的な自律の在り方への尊厳は、感性には、尊いが厳しく厳めしいものでもあろう。
理性能力は万人に内在するものであり、理性的人間的類の尊厳は、万人に、各人に妥当する。その尊厳の人と人が関わりあうこととなる。尊厳の源をなす同じ理性的自律性を相互に尊重しあうこととなる。同じ人間的尊厳を分有していたとしても、そこでの強者の尊厳は、守らないとその強者からの威嚇があるからおのずと守られるが、弱者のそれは、放置していたのでは守られない可能性がある。人間の尊厳を社会全体として守るためには、法(正義)などの強制が必要となる。尊厳は、客観的な規定ではなく、至高のものを踏まえてこれを尊ぶ心構え・思い、価値づけをもってなる。その心構えをもたないところでは、尊厳は成り立たない。現に人間は、歴史の中では、弱者は特に、尊厳を持ったものとしては扱われず、物扱い、動物扱い、奴隷扱いであった。これを尊厳あつかいするとは、物あつかいせず、至高の理性的存在であると承知して同じ理性をもった者として対応し、尊び厳かにかかわることである。人もその死体は物になっているのだが、かつて尊厳の人間であったことを追想しつつ、尊び厳かに葬る。動物扱いも止めねばならない。理性的自律の存在として、その感性を自己制御する卓越した能力を有する存在であり、それを承認しあってかかわる姿勢をもつことである。奴隷扱いはつい最近まで多かった。これを止め、自律的自由の存在であることを踏まえて、自分たちの手段・道具とし犠牲を強いることを戒め、同じ至高の理性的自律の能力をもった存在として、犠牲を求める場合は、その自律意志の同意・納得をもって関わることが求められる。
理性存在の人は、類として尊厳をもつ。理性を分有する万人が同等に尊厳を分有する。尊厳を有するものとしての扱いをすべきなのは、万人に対してである。複数になれば、したがって、全員を同一の尊厳もった扱いにして、差別しないことである。男女、長幼、民族等での差異が見られるとしても、人間的な理性存在の尊厳にちがいはないのであり、同じように尊く厳かな扱いをする必要がある。そこで一人を選択しなくてはならないような場合は、えこひいきなく全員第一位の尊厳の表彰台の上に載せて選択をするべきである。母子のどちらかの命を優先すべきことになった場合、同じ尊厳を有したものとして、えこひいきなく同一に扱いつつ、その場での優先すべき価値の高い方を選択することであろう。それは、比較を絶した尊厳という心構え、絶対的との思いを括弧にいれ、事実上、尊厳の視座を離れて相対化し客観的にみて、優劣、優先順位をつけることである。
理性能力が現実的にうまく機能していない障碍者とか痴呆老人とか、まだ、そういう機能が萌芽でしかない胎児への関わりでは、尊厳はどうすべきであろうか。ひとは、類として尊厳を有するのであるから、人類に属する限り、尊厳をもったものとして扱う必要がある。当人が動けないようなとき、その人の意志をなり替わって遂行する代理人の制度があるが、それに類したかたちで、障碍者などの立場にたって、人間的尊厳を侵さない対応が求められる。これに関わる者が、理性は本来自身に味方はせず客観的普遍的に答えをだすはずだから、その理性のもとで判断していけばよい。ただし、広い知見は経験的なものだから、できるだけ多くの周囲の意見をふまえつつ熟慮し判断することが必要である。
6-6-7-3. 尊厳は、対象自体に備わっているものではない
尊厳の成り立つその客観的な条件は、神や王の尊厳がそうであるように、その領域において至高で卓越した支配者となっていることで、この至高・卓越性に対して、その被支配者が賞讃して尊厳の称号を付与するのである。その支配を無条件的に受け入れて、これにまつろい、たてまつり拝跪することで尊厳はなりたつ。まつろい、たてまつることをしない外部のものは、尊厳を帰すことはない。神への尊厳は、その信者においてなりたつだけで、非信者は、尊厳を帰さない。王もまたそうで、尊厳の王と称賛するのは、その支配国の者のみである。まつろい拝跪することなど思わない周辺国の者は、その王を狂暴で下賤な独裁者とぐらいに見なし、尊厳の称号を付与することはない。したがってまた、支配関係のない領域での至高・トップのものにも(たとえば、けん玉世界一とか将棋やスポーツの不世出の卓越者でも)、まつろい拝跪することはなく、尊厳が帰されることはない。
人類は、万物の霊長で、自然の至高の存在で卓越した支配者だということで尊厳の要件をみたすが、自然自体には人類に尊厳を帰す能力がない。人のあとに続く第二位の知恵をもつ被支配のゴリラやチンパンジーにも、その能力はないから、結局は、支配者の人間がこれを代行する。つまりは、自称の尊厳である(自己内自然の感性については、至高の理性に対して従順にまつろうものとして、神と同じ尊厳存立の仕組みをもつ。エゴの感性は、えこひいきしない自身の理性に脱帽させられることが多い)。人間は理性的に卓越した自然支配をしていて、尊厳と見なされうるが、そう称賛するのは、人間自身である。自画自賛である。
王の尊厳は、被支配者・臣下が拝跪して賛美することで成り立つ。地方の豪族は、支配に従わない独立自尊状態では、当然、尊厳を帰すこともない。だが、鎮圧され支配されて、まつろう状態になって、まつりあげ、たてまつるならば、つまり拝跪するならば、その王は、客観的な至高の支配者という条件を踏まえて、尊厳の冠を配下の者から載せてもらうことになる。我が国の宮中では新年の歌会始が今でも全国から秀歌を集めて行われているが、その起源をたずねると、この尊厳の戴冠の儀式だったのかも知れないという説がある。日本が大和をもって統一国家となったとき、まつろわぬ豪族を鎮圧し被支配者としていったが、全国の豪族たちの代理となる者たちを集めて新年の度に、ことほぎ、まつろうこと拝跪すること、「服従」の確認を行った。それが、歌会始の神話的時代の起源かも知れないというのである。国々にはその地方を自由にする魂、威霊があったが、それの籠った「国風(くにぶり)の歌を奉ると、天皇に威霊が著いたのである。そこで、歌を献じた地方は、天皇に服従する事になる」のだと(折口信夫「古代人の思考の基礎」の「一 尊貴族と神道との関係」)。各地方の霊力を天皇に乗り移らせ、奉り、拝跪して、「毎年初春に、服従を新しくしたのである」(折口「同上」)。つまり天皇の「尊厳」を新年毎に再確立する行事に、歌会始のはるかな起源があるのではとの推定である。すきがあれば支配を脱していく恐れがあった。相当に安定したのちになっても、平将門のように反乱を起こし新皇と名乗るようなものも出てきた。支配・服従も、尊厳も、繰り返して確認し堅固にしていくことが必要だったのである。
尊厳が成り立つには、被支配者側の、尊厳を付与する側の心構えが、その思いが肝要となる。人間の尊厳も同様である。いくらひとは万物の霊長として至高であっても、その客観的条件だけでは、尊厳は成立しない。立派な神や王であっても、その部外者たちは、尊厳を帰さない。被支配者がこれにまつろい、まつりあげて拝跪する主体的な営為があってはじめて尊厳は成立する。人間は、自律的理性をもって超然としていて客観的には尊厳に値する存在である。だが、歴史のなかでは、近代になるまで尊厳の付与されることはなかった。ひとの内外の自然への理性的営為が、至高で卓越したものとして広く承知され、人間そのものが尊く厳かなものであると宣言されて、これに至上・至高のあつかいをする主体的な姿勢がなって、尊厳との価値づけを行うことが(自画自賛ではあるが)必要だった。
6-6-7-3-1. 人の尊厳は、守る意思をもってはじめて成り立つ
ひとは、万物の霊長と言われるが、万人が類的存在として至高の理性を内在しており、各個が、全員が類としての人間の尊厳を担う。尊厳の扱いをするとは、至高の自律的な理性存在、卓越した支配者として各人を扱うということである。各人を、可能な最高の扱いとし、究極の目的として扱い、足元に踏みにじるような道具・手段扱いしないことである。尊厳の自律の理性意志をないがしろにしないことである。場合によると、全体の中で手段となり犠牲となることも生じるであろうが、それは、使命がそうであるように、当人の自律意志を通し、当人の理性が犠牲に納得する場合にのみ採られるべきことである。
人の営為は、人間相互のかかわりであることが圧倒的であり、相互に尊厳の存在であることを承知して関わりあう必要がある。だが、それは対等に同等にかかわりあうなかでなら容易であるが、人間社会自体が支配と被支配の関係をもって動くことが多く(例えば、社長と社員、家長と家族員等)、被支配側の人間の尊厳は支配側からは無視されがちとなる。社長の尊厳を有する者は、背後の人間的尊厳と対立しないから同時にとられることであろうが、社員の場合、社長からいうと、非尊厳であり、その背後の人間的尊厳は、影を薄くする。強者の尊厳は威嚇がきくから、おのずと守られようが、弱者の人間的尊厳は、守らなくても反撃されることがなければ、無視されがちとなる。歴史は、弱者、被支配の人間を、尊厳どころか、虫けら扱い、奴隷扱いしてきた。人の尊厳は、ひとを尊び厳かと思う心の構え、姿勢をもって成り立つから、それをしない非尊厳の心構えのもとでは、非尊厳の存在となってきた。それを近代以降は、しだいに、人同士が対等に近くなるとともに、万人の平等意識のもと、国家・社会から法的に強制すること等をもって、万人に尊厳の分有されていることが承知されるようになった。
かつ他方では、尊厳を担っている各個人が尊厳にふさわしい振る舞いを自覚してとる努力が必要なのでもある。ひとは、万人、類的な至高の理性を内在していて、理性の自律をもって、良識をもち良心をもって生きる。それは、卓越したものとして、尊厳にふさわしい振る舞いである。だが、ひとは、他面では、自身が自然そのものでもある。理性によって支配される自然自身を自己の感性として有して、これにしたがって生きる存在でもある。そのうちなる自然は、理性に制御されているけれども、ときに背いた動きをとる。狂暴な鬼畜の振る舞いに陥ることもある。尊厳の振る舞いから逸脱したものとなる。そうならないように、尊厳にふさわしい理性的合理的な営為を維持していくことが必要となる。自身において、尊厳からはずれないように、尊厳となる自己の営為となるようにと、理性自律のもと自身を制御していくことがいる。尊厳であるのではなく、尊厳に成るようにと常々心掛けることが必要なのである。
6-6-7-4. 人間的尊厳の在り方の特殊性
人間の尊厳のもとでは、自身も相手も尊厳を有するもので、格を同じくする対等・平等の存在である。その尊厳は、被支配の自然が付与するはずのものであり、自己内での感性が理性に拝跪するのでもある。関わる人間同士は、それらの支配被支配関係(=人間-自然、理性-感性)のそとにある。その、支配被支配の上下の関係にはないところでも尊厳を使う点で特殊である。人間的尊厳では、尊厳の言葉の使用は、対等の関係のもと、平等のもとでの特殊な使用になることが多くなる。尊厳というが、神や王の場合のように、五体投地し拝跪する姿勢はもたない。対等の人間同士でのことだから、相互に尊重しあって、尊ぶ姿勢、頭をさげあう程度の対応をすることとなる。被支配者からの尊厳をもつものへの拝跪の振る舞いではなく、尊厳を有する者が、尊厳を有する者にかかわるのであり、敬意を払いあい、尊び大切にするといった関わりになろう。人の尊厳では、同じ類的尊厳を担った者へのかかわりが中心になり、万人同等に尊厳を分有するのであり、これを下位に見下したり差別することは許されない。
至高の神や王と下賤な人間といった上下の関係のもとで尊厳が言われる場合は、下位の被支配者から上位・至高のものへのかかわりとして、おのずからに、拝跪の姿勢が取れる。とらないと威嚇・脅迫されて、取らされる。だが、人間による人間の尊厳の取り扱いの場合は、対等の中で言われるのであり、意識的に尊厳の取り扱いがされないと無視されがちになる。しかも、他方では、社会における人間関係では支配被支配関係(例えば、社長と社員)をもつことが結構あるから、そこでは、被支配のものは支配者の下位に位置づけられて、その人間的尊厳は隠れがちとなる。支配者的位置にあるものの尊厳は放置しておいても守られるが、被支配的下位にある者の人間的尊厳は、放置しておいたのでは守られにくい。その下位の者の尊厳も守れと主張するのが、人間的尊厳である。おのずと尊厳が守られることになる上位の者にではなく、被支配の下位に位置する者に対してこそ、尊厳の心構えをもたねばならないのである。神の尊厳などと逆に、人間関係においては、下位・被支配的弱者にも尊厳のあることを注意しなくてはならなくなる。
人間の尊厳が守られず無視されることが多いのは、守らない場合、神や王の尊厳とちがって、実力を行使し恐怖させて厳罰に処すことのできないことが大きい。被支配側にたつ者にも尊厳のあることを承知せよというのであるから、自然状態のままでは尊厳の気持ちをいだくこととはならない。被支配の弱者には威嚇する力はない。国家をはじめとする社会集団が、尊厳を守らないと犯罪になる等と威嚇することをもって、弱者の尊厳は守られる。対等の人間として、相互にその尊厳を大切にしあうはずであるが、現実の社会関係のもとでは下位の弱者(病人とか、差別される人々)は蔑ろにされがちである。かれらにもおなじように人の尊厳は分有されているのであり、そのことを承知して関わる必要がある。何人かの老人を相手にしていて、饅頭かミカンかリンゴが選べるようになっている時、面倒なので聞く手間をはぶき、全部、饅頭にしたとすると、その老人たちをぞんざいに扱い、その自由意志を蔑ろにしているのである。自分だとしたら、その時に欲しいものを自由に選ばせてもらうであろうに、それを、老人だからというので、自分にするようにはさせず、自律的な理性意志を無視するのであり、人間的尊厳を侵したものになるというべきである。
人間の尊厳の場合、その尊厳は、根本的には、万物の霊長としての人間という類が有するものであるが、尊厳を踏まえて振舞うべき対象は、多くの場合、人類という全体・普遍ではなく、個々人になる。類として理性的合理的に自然支配をするが、各個人は、かならずしも、そうできているわけではない。類的全体としては尊厳をもった営為を保つけれども、各人は、必ずしもそうではない。中には動物以下の愚かしいことを行うものもいる。また、尊厳の相手だと前提して関わる側も、同じ尊厳を有する対等のものとしてあるのであり、その相手を上に立てているのではない。人間的尊厳は、至上のものに拝跪する神や王の尊厳とは相当に様子が異なる。
6-6-7-4-1. 人間の尊厳と神・王の尊厳のちがい
王の尊厳は、絶対的なものとして、その尊厳の命令には国民の全員がこれに従わねばならなかった。尊厳の輝きのもとに、これに圧倒され、これを拝跪して受け止めて、従順にしたがった。神を信じている者たちも、同様、神の尊厳をもった言葉には全幅の信をおいて、神の奴隷となってこれに従った。だが、人間の尊厳の場合は、様子がまるで異なる。至高の理性をもって自然を支配するところに人間の尊厳の根本があるが、支配される自然は、王や神のもとの被支配者のように人間にしたがうものではない。自然は自然法則にしたがうのであって、人の命令に従うのは、その自然法則に合致しているときだけである。人間が反自然法則的な命令を押し付けようとしても自然はしたがわない。ひとが尊厳をもった支配者だといっても、内実は、逆であることもしばしばであり、自然を支配するには、まず自然の奴隷になれと言われるぐらいである。狡知をもって自然を支配するというが、自然法則を巧みに人間の目的のために役立てるというだけで、神や王のように好きなように支配できるわけではない。
神や王の場合、被支配者の尊厳の振る舞いがそれらの存立に必須である。支配下のものが拝跪してくれるから、上にとたてまつってくれるから、上にと存立しうるのである。被支配者の尊厳の構え・振る舞いがそのトップの尊厳の支配者をつくっているのである。その尊厳の拝跪の振る舞いをやめたら、それへの服従をやめ、その支配を認めないことになっていく。王や神として認めないということになれば、王や神は、天上から引きずりおろされることになる。だが、人間的尊厳の場合は、ちがう。被支配者の位置の自然自体は、厳密に言えば、人間に対して拝跪するわけでなない。理性が自然法則を熟知して自然にかかわるとき、自然は従順に服従するというだけであって、人間に全面的に服従し人間を支配者としてたてまつって拝跪するわけではない。神や王の場合は、無条件的に被支配者が拝跪して依存し帰依することだが、人間的尊厳のもとでは、自然は、無条件に人間にしたがうものではなく、自然法則をもっての人間の営為に応えるだけである。神・王の尊厳では、尊厳をもって帰依する被支配者は、自分たちを尊厳の支配者のはるかな下位において、尊厳の存在を不可侵の至高の場にともちあげ、たてまつる。人間的尊厳では、対自然において、ひとは理性的自律存在としては、自身を至高とするが、自然自体は、おのれ固有の存在の在り方を守り、ひとを無条件に上にたてまつりはしない。自然法則に背いたことを人間がすれば、ひとを下位において痛めつけることしばしばである。
ひとの尊厳が実際に意識される場面は、被支配の自然にかかわってではないことも、神・王の尊厳と大きくちがうところである。神や王の尊厳の場合、ひとが尊厳をもって関わるのは、その至上・至高の卓越した存在に対してであり、これを仰ぎ見て、拝跪する。至上のものと、被支配の無力な人間との上下関係であり、垂直のかかわりとなる。だが、ひとが人間的尊厳をもって振舞うのは、多くの場合、自然に対してではなく、人間同士のもとである。人と人がかかわりあうときに、人を、尊厳を有した存在として扱わねばならないということである。神や王の尊厳では、至高の唯一の支配者に人が拝跪するもので、人は、絶対的下位にある。だが、人間的尊厳では、人という類の尊厳であり、各人は、その類の成員で、類の尊厳をみんなが分有するのである。人間の尊厳が現実に問題になるのは、その個々の人間同士においてである。尊厳を帰すものも帰されるものも対等・平等の存在である。神と人の場合は、至高で唯一の尊厳の前にひとは拝跪するが、人間の尊厳では、人同士は対等である。尊厳の相手だからといって、自分も尊厳なのであり、敬意を払いあう程度になり拝跪などしない。
人同士は、本源的には対等であるが、現実の社会関係のうちでは、しばしば上下の差異をもっていて支配・被支配の関係にもなり、強者・弱者の関係となる。そこで強者の人間的尊厳は、守らないと威嚇されることで、おのずと守られるが、弱者の尊厳はないがしろにされがちである。したがって、社会は、この無視されがちの弱者の人間的尊厳を守ることを強調しなくてはならなくなる。弱者・被支配者の尊厳に意識が向かい、これの尊厳を守ることが人間的尊厳の場合、中心になる。神・王の絶対的強者の尊厳とは逆の、弱者の尊厳となる。神や王の尊厳のもとでは、これらに帰依して拝跪し五体投地することになるが、人同士の人間的尊厳では、尊厳を帰すべき相手には、脱帽して敬意を払い尊重する姿勢を見せる程度となる。神や王の尊厳では、至上のものを上に見上げて畏怖し拝跪するが、人間的尊厳では、対等・平等の関係になり、ときには逆になって、下を見て慈しみの心をもち、差別は許されないと、尊厳の対象を自分と同じ水平の尊厳の位置にと高めるものとなる。
6-6-7-5. 尊厳にいだく畏怖と讃嘆
尊厳は、その対象自体がいくら卓越し至高であっても、その対象だけでなるものではない。これを尊厳と奉る者があって、そのように思い、そのように振舞うことによってはじめて尊厳となる。しかし、尊厳は、主観的なものにとどまるものではない。被支配者がしっかりとそのように振舞い、客観的にそのように構えて尊厳関係はなりたつ。支配・被支配の関係は客観的な関係であり、尊厳は、その拝跪する客観的振る舞いにおいて、客観的な関係として成立する。尊厳は、主観的にも客観的にもその支配者に、はいつくばり拝跪することでなる。その支配者を比類のない至高のものと見なし、これを超越的で不可侵とみなして、高く遠くにたてまつり、ひきさがり、その支配に従順になりきる。これを肯定的に至高で卓越したものと価値づけ、尊ぶ。が、他面では、支配であるから、強制があり、そのはじめにはしばしば征服されるということがある。自律自由の存在であったものが、その自由を奪われて服従を強いられるのである。圧倒的な力を前にして、その支配を受け入れ平服し従順になる。その強大さに圧倒され、無抵抗に従順になる以外ないと、これを畏怖するに至る。その尊厳の対象を絶対的強者と踏まえて、これに畏怖・恐怖の反価値の否定的感情を尊厳は含むことになる。
神や王の尊厳は、そう奉るはじめは、恐怖の対象であったろう。王は、地方のものを支配下におくために征伐を行い、被支配に落とし込まれた者たちは、それを恐怖の存在としていやいやに服従させられたのである。その支配を確立するとともに、暴力・恐怖は不要になってきて、被支配者が統治者に従順になるとともに、それは恩恵を与える存在となり、拝跪されるまでになったことであろう。神も同様である。はじめは狂暴な邪神であり、災い・疫病をもたらすものであった。これに恐怖して奉って、自分たちだけは許して他で暴れてほしいと祭り上げた。天満宮の天神(菅原道真)も、祇園神社の牛頭天王(≒スサノオ)も災い・疫病の元祖であったものを祭り上げて、恐怖だけの存在から、逆に疫病から自分たちを守ってくれる有難い神にと、尊厳をもって遇するものにしていった。
尊厳の家長である父親は、子供たちには、これに背くと鉄拳が飛んでくる畏怖の対象であったが、それだけだと、恐怖の否定的な存在にとどまる。最近は、尊厳はないが粗暴な父親はいる。尊厳を有する父親は、他方では、なんといっても、その尊厳の価値は、子供を養いはぐくむありがたい存在としてある。これを頼りにでき、これの支配・指導が卓越していて、子供はこれに従順であれば、しっかりとした成人に育っていくのである。父親のおかげで生活が成り立ち、保護を頼りにでき安心でき、信頼を寄せ絶対的に帰依・依存できるという価値づけを、尊厳の積極的な面には有している。神も王もそれを尊厳と価値づけるのは、父親の尊厳と同様である。自分たちの安寧を可能にしてくれる頼りがいのある、卓越した見事な指導者である。これに背けば厳しい懲罰を受けることになるが、その支配を従順に受け入れるならば安全安心を可能にしてくれ頼りにできるのである。そういうものとして高きに奉って尊び賛美するのが、尊厳の振る舞いである。
尊厳のもとでは、支配する至高のものを恐怖の対象として反価値に見なすのは一面にとどまり、主要には、最高の価値としてまつりあげるのである。神も王も、自分たちの集団全体を巧みに見事に統括する頼りがいのある存在として価値づけている。それが尊厳の主要な価値づけである。人類は、類的集団的存在であり、ひとつにまとまって行動することが内外の在り方にとって大切である。その全体を担う確固とした卓越したトップだというのが、尊厳の称号を付与する最大の理由である。リーダーとして最高だとの価値づけが尊厳の輝かしい表になる。その支配者故に、被支配者の生活が守られるのであり、頼りとできるのである。それへの感謝心もその尊厳付与のうちには存在する。偉大な全知全能の王と称賛するのが尊厳という価値づけであり、その称号の付与であろう。個人としての王は、平凡であっても、全体を担うもの、支配者としては、かれのもとにと国内の英知も技術力もまとめ上げられ、それらの知や力の結晶として現れる。近寄りがたく畏怖するものでありつつも、尊厳の王こそは頼りになり自分たちの依存心を満たしてくれる感謝すべきものとなる。信頼でき誇らしいものとして、畏怖をバックに讃嘆をもって尊厳の称号は付与されるのである。
6-6-7-5-1. 尊厳の扱いをされる者の自覚・無自覚
尊厳を有するものは、その被支配者側から、至高で絶対的な支配者と見なされて頼りにされている。尊厳をもった父親は、その家族の全体を制御していくとき、反抗・抵抗がなしに思い通りにできる。尊厳の扱いは、支配・制御するための大きな力となり価値となる。尊厳の前に畏怖し、従順に服従し、拝跪までしてくれるのである。それは、だが、動物的マウンティングの性癖をもつ者のもとでは、自尊心を肥大化させて尊大になってしまう原因ともなる。さらに、そのことから、現実をよく見ることをせず、その支配が愚かしいものになることもある。問題があっても、これを知ることに疎かとなる。無批判に従ってくれているので、尊厳の支配は、安易に流れて、誤りに対しても合理的な批判をもらえないということで、尊厳は、無知のベールという反価値になってしまう。
被支配者が実力をつけてきて、尊厳を付与してくれなくなることもある。尊厳をもってたててくれていたのは、支配者に抵抗するだけの力がなかったからであり、力をつけて、反抗できるようになると、従順な被支配者にはとどまらなくなる。ひとは、理性的自律の能力をもつから、成人するとともに、父親と同じかそれ以上の存在と思うようになってくる。父親への尊厳の付与はなお守っていても、その根底において、これを破棄する時が迫ってくる。やがて、父親の家庭支配が抵抗をうけて、尊厳の勲章は奪い取られる日がくる。
王の場合、はじめは、その尊厳は、自身が他を征服し服従させて獲得したもので有限であることを自覚している。それ自身の力が大きくなるともに、支配について安定して、被支配者はこれにとどまり続けることを受け入れ、尊厳の間柄になることは固定して持続する。しかし、力をつければ反抗し尊厳の支配関係を破棄して反乱をもって独立することが予想される。そこで、支配を永続的にするために、武力等の力を一層大きくするとともに、被支配者とは異質で交代はできない格の違いがあるのだと思い込ませる方策をとる。祭り上げられていることを忘れ、他を押しのけて下からのし上がって支配者になったのだということを隠蔽して、神与のものだとか、生来、高貴の家柄として支配者なのだと支配の永続化をはかっていく。王権神授説というのがあるが、王は、被支配者から尊厳を付与されたという下賤な出自の真実を隠したいので、逆に上から与えられたのだと称することになる。中国の皇帝は、天(の)子と称した。我が国の場合、天孫降臨ということにもっていった。神話的時代には、ひとに神が憑依し、その人は神として全体をリードしたが、歴史的時代においては、武力に卓越したものが支配者となった。我が国でも、はじめは卑弥呼がそうであるように神が下りてきていたのだが、大和政権を作るころには、まつろわぬ豪族を征伐していった。征伐されたものは、「国譲り」が強制され服従を強いられ拝跪を求められた。その拝跪をもって支配者は尊厳をもつこととなったのである。
不動の大地ですら動く。下位のものが実力にまさるようなことになると、支配者の交代となる。尊厳は新規の支配者によって奪われる。尊厳は、支配者が自身でもつ内在のものではなく、被支配者が付与してくれていた勲章であることが明確になる。支配能力を失うとともに、それは、奪い取られることになる。支配者にとって、きらびやかに自身を飾って至高と賛美してくれるそれこそ絶対的価値をもった尊厳は、外から与えられたものとしては、失われることになる。
人間の尊厳をもって扱われる者についても、似通ったものであろう。尊厳を有する同等の人間が自身を尊厳扱いしてくれるのである。そこで、非尊厳の動物的な身勝手な振る舞いをするというようになると、簡単に尊厳の扱いを停止することができる。尊厳にと思って大切に扱ってくれているのを尊大になって横柄な振る舞いを続けたとすると、人間的尊厳との扱いは簡単にやめることが可能である。それを躊躇するのは、尊厳遵守へと威嚇する周囲・社会の目があるからにすぎない。それを慮ることが無用の場では、尊厳のあつかいは、非尊厳の振る舞いが目立つ人間に対しては失われていくことであろう。家庭内での老人介護では、社会の目が届きにくいので、かつて家長として尊厳を有していた老人も、心身劣化が大きくなるとともに、尊さも厳かさ厳めしさもなくなれば、非尊厳扱いされやすくなる。
6-6-7-5-2. 周辺の者にとっての尊厳の価値
尊厳の存在はトップの支配者一人だけであるが、その被支配者たちは、尊厳の威光のもとに整然と並んで、位階をもった有機的な組織をもつことが多い。全体を的確に統括し支配・制御するには、そういう位階は好都合である。上級に置かれた者は、自分たちの地位を守るには、現状の維持が一番ということで、尊厳のトップを堅持することに懸命にもなった。ひとは動物的なマウンティングの性向を強くもつから、上下の位階をもってこれを支配するのが一般的となってきた。尊厳のトップのもとに、上から下へと支配の具体化がなされるが、そのとき、トップの尊厳を背後の支えとして利用した。命令するとき、トップの尊厳の命令ということにすれば、被支配者は巨大なものに威嚇されて盲目的にこれを拝受した。父親の尊厳を利用して、年長の子供は、自分の弟たちを、お父さんが言っていることだと権威づけして、通した。虎の威を借りるキツネをいうが、その仕組みが尊厳において通用した。尊厳の価値の利用である。ここでは、合理的な説得は、いらない。上位の者の意向が、尊厳の御旗を立てることで有無を言わさず押し付けられた。全体がひとつになって動く必要のある場合、それは、効果をもったであろう。尊厳の利用価値があった。だが、それは、その合理的批判の口をふさぐことになるから、これが虚妄であった場合、尊厳は、巨大な反真実・反価値を生み出すことともなった。
昔は、幕府とか宮中への献上品、御用達の物があって、いまでも、それを誇りにしているお菓子屋さんなどがある。これも、これ以上のものはないという尊厳の支配者の権威をバックにして、自分たちを誇るのである。尊厳印をもって立派なお菓子だという見せかけを作る。幕府への献上品は、各地のそれこそ逸品をもってしたことである。宮中へのそれも、同様であったろう。権威ある方面からのお墨付きがあれば、立派なものなのだということにみんなが納得する。公家とか大名の家柄とか旧家、あるいは茶道とか花道の家元制度なども、これに近いものになろうか。尊厳(の家柄とか始祖)をバックにして自分たちを権威付け、飾り立てる。お茶など現代の技術力に見合った点て方をすれば、もっと簡単に日常的に緑茶の美味しさを堪能できるであろうに、尊厳の元祖に固執して、おいしい抹茶の普及を阻止している。コーヒーなど現代の技術をつかい、簡単に美味のコーヒーが味わえるように日々進化しているが、飲みにくい旧態然としたやり方をしているのでは、そろそろ社会には通用しなくなることであろう。
尊厳印をもらったことで歴史的遺産が保護されるのは、尊厳のプラスの価値であろうが、マイナスの価値となることもある。尊厳をもつ方面からの歴史的遺産との指定でもあると、自分たちの勝手にはできなくなり、不便な住まいを改築するにも、躊躇するようなことになってしまう。先祖の墓でも、尊厳をもった御先祖様であるから、もうお参りする習慣もなくなったし片付けようと思っても、安土城の信長のように石畳に利用したり、自分で砕いてバラスにして始末するようなことは簡単にはできない。おそらく、他の親戚筋などから、罰当たりだと非難され、家族に不幸があれば、それ見ろ祟りだと白い目で見られるようにもなる。
人間の尊厳は、万人を差別せず対等に尊重するだけのものだが、これも、他のことの権威付けに利用することがある。使用していた古道具などを捨てようとすると、魂がこもっている、捨てるわけにはいかないと、尊厳をもって威嚇することがある。また、生命の尊厳などにも、人間(の尊厳)をバックに利用して価値づけを行うことがある。同じ動物であっても、昆虫や魚は食べてもよいが、猿はいけないというのは、人間への近さによってするものになろう。知恵とか痛みとかをもって生命を評価するのも人間を基準にしてのことである。尊厳をもった人間に、より近い生命を、より価値が高いとする。
6-6-7-6. 古典的垂直型の尊厳を踏まえた現代の水平型の尊厳
神や王、あるいは、家長とか社長の尊厳は、絶対的上位の支配者と下位の被支配者の間で言われる。近代になって言われ出した人間的尊厳は、だが、それからいうと、ひとは自然を支配する万物の霊長だけれども、その尊厳が中心の問題にするのは、自然支配の卓越性ではない。多くは、自然とのかかわりではなく、同じ尊厳を有しあう人間の間でのことになっている。
人間的尊厳は、近代にはいって言われだしたものだが、カント(『人倫の形而上学の基礎づけ』)は、内外の自然を超越しこれを支配する自律的理性の存在として人間の尊厳をいい、シラー(『優美と尊厳について』)は、精神による感性の支配(Herrschaft)に尊厳がある等といった(cf. 近藤良樹『人間の尊厳-尊厳は支配関係に由来する-(論文集)』広島大学図書館リポジトリ(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00020345))。やはり、支配被支配の古典的尊厳のもとに人間的尊厳も見た。だが、近代社会が実際に人間的尊厳をもって関わるのは、被支配の自然や感性にであるよりは、多くが人間同士のもとでのこととなり、その在り方は、神や王の古典的な尊厳とは異なったものであった。同じ人間同士が対等に平等に大切に扱われるべきときに言われることになった。社会生活の中で問題とされる人間の尊厳は、人間関係において、上に見て拝跪を求めるようなものではなく、自他が人間的尊厳を同じく有したものであり、どちらかというと下を見て、差別せず平等に対等に尊いものとして厳かに扱うことを求めるものとなった。
昨今、生命の尊厳がしばしば話題になる。環境問題が深刻になるなかで、動植物が危機的状態になり、その生命を尊重すべきとき、尊厳をもって対処しなくてはならないといわれる。これも、神や王の尊厳とは違い、生命に対して拝跪する姿勢を求めるものではない。すべての生命について、人間をも含めて、命あるものをすべからく大切にし尊ばねばならないという平等、水平型の尊厳になる。生命の尊厳の根拠自体を問う場合には、その下位の無機物を超越した至高の存在で、無機物を巧みに支配していることにあると支配被支配に見るであろう。が、この生命の尊厳で目を向けようというのは、それであるよりは、その生命という類に属するものは、その尊厳を分有していて、各個体はすべて尊いから、同じく平等に扱い、生命全般を大切にしなくてはならないということである。神や王を至高と上に見てこれに拝跪するのを、垂直型の古典的尊厳というとしたら、人間や生命の尊厳は、その類に属した多様な成員を同等に平等に扱うことが肝要事となり、横に水平に差別なく尊厳のもとに見ようとするもので、その限りではこれを水平型の尊厳といってよいであろうか。垂直型は、至高の一者への拝跪・畏敬型になり、水平型は、多彩な全成員への差別禁止・慈愛型になると言うこともできよう。
上を向いて拝跪する古典的な尊厳は、神や王へのものとしては、もう風前の灯だけれども、親の尊厳とか社長とか部長の尊厳は健在であり、市長や校長の尊厳も古典的な至高の存在への尊厳としてある。水平型と垂直型の両方の尊厳が現代の尊厳のもとにあるということになる。現代でも支配・被支配の関係はあり、他方に対等の成員をもっての集団・組織もあることで、前者では、至高の唯一のものへの一つの尊厳があり、後者では、多彩な成員の間での対等の尊びあうかかわりとして無数の尊厳が存在しうることになっている。しかし、水平型、差別禁止型といっても、その尊厳自体の存立の根拠は、垂直型のトップの尊厳をもってするであろう。なぜ人間を尊厳とするのかという根拠については、人が万物の霊長として至高であるということに求める。生命の尊厳にしても、同様に、無機自然を下にし制御・支配することをもって根拠とする。生命や人間が尊厳を有するという根拠は、支配・被支配、至上(至高)の価値づけをもってであれば、神や王を尊厳とするのと同じことになる。根本的には、垂直型によっているのであれば、垂直型一つに尊厳そのものはあるということになる。水平型は、その尊厳自体を語るのではなく、その類の尊厳を分有する個々のものとその間では、いずれも尊いものなのだから、差別なく対等に、水平をもって関わらねばならないというのである。
古典的な尊厳では神や王という至高の唯一の存在の尊厳ということで、端的に尊厳存立の根拠から見るのに対して、ひとや生命では、その類的尊厳のもとの各成員に何よりも注目する。その尊厳の成員同士について問題にする。人間や生命の類の(垂直型の)尊厳は大前提にしておいて、具体的な対処において問題にするのは、類を成り立たせている無数の多様・多彩な個、成員についてである。その成員同士は、お互いに同じく類の尊厳を分有していて同じように尊いということで、平等に水平に取り扱うことが求められるのである。垂直型の尊厳と水平型の尊厳が対立的に並ぶのではない。どの尊厳も、根本においては、至高の唯一のもの、或いは類が、卓越し尊厳であると垂直型に捉える。その上で、それが類としてある場合には、類のもとの多様多彩な全成員を対象とし、それらを、すべて類の尊厳を分有したものとして、同じように対等に尊び厳かに扱えと水平型の尊厳をいうのである。
6-6-7-6-1. 人間や生命の水平型尊厳の特徴
人間や生命の尊厳は、多くの場面では、至高の支配者を見上げて拝跪する垂直型の尊厳ではなく、その尊厳の類に属するものは、その尊厳を分有しているものとして、差別することなく、すべて対等・平等に見て尊び大切にせよという、いわば水平型の尊厳になる。上に拝跪せよというのでも、自らを下位に引き下げろというのでもない。そこでの肝要事は、その成員間の水平・対等の在り方となる。成員はすべてその尊厳の類のもとの存在として同じ格をもっており、したがって、それらは、その対等の間柄において水平に見よ、下位や上位に見下げたり見上げたりもせず、差別的な在り方をせず、平等に見て、類の尊厳の同じ尊い担い手として大切にしなくてはならないというものになる。尊厳を有した一つの類のもとでの、尊厳を分有する同等の成員について、その他のことでのマイナスの要因(病弱など)があるからといって、これを下位・劣等に貶めた扱いをしてはならないという禁止則が肝要事となる。
神や王の尊厳では、尊厳の対象は絶対的上位、至高の位置にある支配者で、拝跪する者は被支配の下位にある。だが、人間や生命の尊厳では、類として同じ尊厳を担っているのであるから、その成員は同じようにあつかい尊び大切にしなくてはならないと、平等・水平をもっての尊厳の取り扱いをいう。人であれば、万人、自律理性をもった尊厳の存在であり、したがって、相互に自己決定を尊重し、物扱い奴隷扱いをしてはならないと戒めるのである。
古典的な垂直型の尊厳では、至高の強者への拝跪を求めるが、現代の人間や生命の尊厳では、それが実際に働く場面は、多くが人同士・生命同士で問題になって、同格の者同士の間では、水平型の尊厳となる。しばしば、下位に貶められているものに目を向けて、弱者、弱小の立場にあるものを対等のレベルへと引き上げることが中心の問題となる。人間の尊厳が問題になるのは、病気とか老化で弱者となっているものを差別してはいけない、同じ尊厳をもった人間として大切にしなくてはならないというようなことになる。健康な賢い人を、尊厳をもって扱えというのではない。生命の尊厳でも、はびこる強力な雑草を、卓越した生命力があるから大切にし尊ぶというのではなく、逆で、種が絶滅しそうなものについて、類のもとでは、種の多様性が類の本来をなしその具体化であり、その多様性をもった生の存続が可能になるようにと、特に弱いものの大切な扱いがいると環境保全などを求めるのである。
しかし、なぜ人や生命が尊厳なのかということ自体は、水平型そのものでは言えない。類としての生命や人間の尊厳の根拠自体は、垂直型の尊厳をもってする。人間が尊厳であるのは、理性のもとに自然を超越して至上の存在で、自他の自然を巧みに支配しているからである。生命の尊厳も、無機自然を超越しこれを支配して物質代謝を営み、無機自然にはありえない生命活動をもって至高なのであり、貴い存在であって尊厳を有するのである。人や生命の内の全存在が、類として卓越して尊厳となる。そのうえで、人間的尊厳では、人同士は相互に尊厳を守れと水平的に尊厳を語るのであり、生命の尊厳も、人を含めて生きとし生けるものは、同じように平等に尊厳の扱いをうけてしかるべきだというのである。水平型は、尊厳自体を成り立たせる根本を語るのではなく、尊厳をもつものが同等に平等にその扱いを受けられるようにすべきことを語る。類として尊厳であることは垂直型の尊厳になり、これがこの類の尊厳自体を成り立たせ、その後、その類の中での無数の成員について、多種多様な種・個を、類の具体化として、すべて、尊厳を分有するとみて、つまり人間ならば尊厳の理性を各自が有し、生き物ならば全てが尊厳の命を有しているのだから、その全成員を対等に水平にというのが水平型の尊厳になる。
水平型が垂直型と別にあるのではなく、あるのは、垂直型の尊厳のみであり、その尊厳が、類としてあるものについては、その類の個々の成員は同一の尊厳を分有するから、水平に見て平等に尊厳扱いしなくてはならないというのである。古典的尊厳が、唯一の至高のものへの拝跪をいうのに対して、人間的尊厳や生命の尊厳では、その類に属する個々のものの尊厳に注目する。そこでは、弱者の尊厳が無視されがちになるから、その類的尊厳を分有する弱者も類的存在の一員として尊重し、平等に水平に見て、尊厳を有した者として関わることが求められるのである。
6-6-7-6-2. 人間の類的尊厳は、いかに各個人の尊厳となるのか
ひとは、単に類、人間一般として生きるのではなく、個別化した人格をもって、類を具体化し特殊化した個人として生きる。人間が類として尊厳を有するその中軸には、理性を有することがあげられる。この理性は、万人において普遍的に与えられているものであり、各個別の人間の尊厳も、この理性を分有しているところに、万物を超越して至高であることに根拠をもつ。万人に等しく理性は与えられ、その良識・良心の働きをもって動物を超越した人間的な生を各自が営んでいる。各自は、類としての人類の英知、理性をもって、その生きざまの特殊・個別のもとに、自身の得意とする分野を担いその能力を発揮しようと務めている。
人類は、多様に社会を構成しており、個人は、その有機的組織のもとで、小さくは家庭の中での役割を父や母として担い、社会においては、選択した職業をもち、個別特殊化した存在として生きる。それぞれに、その固有の役割を担うことにおいて、類的尊厳を具体化することになっている。単に類としてのみあったのでは、抽象的で単純、原始にとどまる。人は、歴史の中で具体化して個性をもった人間存在となり、その類的な尊厳を分有して、尊い各自の人間的営為を作り出している。その具体化した各個の在り方は、また、類全体をより豊かに創り上げていくのでもある。
人間は、類としては、安定した理性存在であろうが、各個は、無から自己自身を人間にと形成していく。感性的自然を自身の土台とし、それへの自己内制御を踏まえて、理想とする人間に近づけるようにと、日々自己の形成・生成にと勤しむ。未来にあるべき自己を描き、これを当為として、自らをかけていく。個としての人は、現在にのみ生きる動物とちがって、未来に生きる。ごく身近な所からして未来に目的を描いて動く。夕方になったしビールを飲もう(目的)と思い、冷蔵庫の前に立つ。来年は、ヒマラヤに行くぞと(目的)、貯金(手段)を殖やしていく。真実の自己は未来にある。現在は、その真実の自己になるための手段となり、未来の希望=目的へとひたすらに生きていく。各自、固有の身体・感性も持った存在であり、また、その理性の能力も特殊な方面に秀でているようなこともあり、その各々の特性を生かして、未来に自己実現していく。類の支えをもって個は生成・開花し、有限の生として、おのれを全うして消えていく。
個別の各人は、生成消滅のもとにあるのであり、それがなお生成の端緒にとどまるとか、もう消滅して名残もない等ということが問題になる。人間として妥当するかどうかというぎりぎりのところでは、どこかで尊厳の線引きをする必要に迫られる場合も生じる。人の受精卵については、まようことになろうが、単なる精子は、髪の毛とか唾液などと同じ扱いで、躊躇せず人間的尊厳の外に置く。人骨でも、五万年前のものが発掘されたのであれば、貴重品扱いはしても、もう人間的尊厳の扱いをすることはないであろう。さらに、尊厳の真っただ中にありながら、個我は、非人間、反生命の悪しき行為にでて、反尊厳、非尊厳の状態に陥ることもある。
6-6-7-7. 人の尊厳は、いまは大切だが、いずれは無用になろう
人間の尊厳は、歴史のなかでは無視されてきた。したがって、しばらくは、人間の尊厳を意識的に持ち上げて、守るべきことを主張するのは意義のあることである。ひとは、歴史のなかで、あまりにも、尊厳を傷つけられ、不当に奴隷扱い、物扱いして辱められ、悲惨な処遇に耐えさせられてきた。このしいたげられ続けた人間の尊厳故に、これを強調し、その貫徹を強要するのは、意味のあることであろう。尊厳は、神のそれも王のそれも、強制され、威嚇されて成り立っていた。神の尊厳は、神聖なものとして、不可触の高みにおかれ、見ることすらも禁じて守られた。王の尊厳は、まつろわぬ者に対しては、武力でこれを鎮圧し、まつろわせ、拝跪を強制して成り立っていた。人間の尊厳は、その若干を習って、尊厳を強制的に通用させてもよいのではないか。
人間の尊厳は、一部の者の尊厳ではない。万物の霊長としての人類全体、万人に妥当する尊厳である。人間世界での上位階級にあるものについては、尊大が許されるから、その人間的尊厳は、放置しておいても多くが守られる。問題は、底辺の惨めな存在にとどめられているものの尊厳である。なお差別されている領域において、人間的尊厳の貫徹される必要がある。昨今、尊厳という言葉が重視されているのが、医療・福祉方面であろう。ここでは、生殺与奪の権をその従事者がもち、これに命をゆだねるようなことが生じる。強者対弱者の関係になりがちである。同じ人間的尊厳を有するものであっても、弱者の尊厳は、無視・軽視されがちとなる。その非尊厳に置かれがちの患者や介護される者のその人間的尊厳が守られなくてはならないのである。慎重を期すべき場面では、例えば、脳死移植で、生きのいい臓器をと急くようなときには、つい脳死者の尊厳はないがしろになるであろうから(日本の心臓移植は、臓器を提供させられた若者の尊厳無視から始まった)、くれぐれもそうならないように、はやる気持ちをおさえ、尊厳の言葉をもって慎重を期すことはあっていいのではないか。尊厳死をいう者は、寿命の尽きた老人を無理やり生かし続け当人の意志を無視するような現状に異を唱えるが、これももっともな尊厳の主張である。福祉・介護の領域では低賃金で(言ってみれば非尊厳扱いで)、不愉快が続けば非人間(非尊厳)的な扱いもしたくなろうが、であればこそ、「人間の尊厳」をもって自身を戒めることが必要になる。
人間同士、まだ尊厳を無視して差別的になるときもあるが、多くの場面において、対等となり、同じ存在として結び合うのが普通になりつつある。いまはまだ、上下関係をつくり、支配被支配の関係になることも多いが、進んだ領域では、対等・フラットな関係になってきている。そうなると、至高の支配者と被支配者の関係のもとで拝跪をさそう尊厳の言葉は、無用化していくことになる。対等であれば、見下げて差別するような意識もなくなっていく。差別される者がないなら、弱者の人間的尊厳を守れという必要もなくなろう。これから自然支配は一層見事な卓越したものになっていこうし、自己内自然の感性についても、理性は、無理に強制して支配しなくても、感性がおのずからに理性的に良心・良識にしたがって振舞うことも、余裕のある社会では、普通のこととなろう。理性的自律は、ことさらに言い立てることも少なくなろう。リーダーであってもフラットな社会では、威嚇する支配者となるのではなく対等の同じ存在同士の間柄になるのであり、尊厳をもって拝跪を求めるようなことは無用になる。万人が理性的存在として自律的に対等に相互を尊重しあいながら関りあうこれからの社会では、拝跪して尊厳の心構えをもってするようなことはなくなるであろう。神や王の尊厳は、その神や王という至高の存在自体をなくして、尊厳を無用化している。人間的尊厳の称号も、万人が差別なく対等にかかわることが普通になれば、その出番はなく、やがて不要になることであろう。
6-7. 苦痛甘受の忍耐は、尊厳ある生を多彩なものにする
動物は、快不快の感情に導かれて動く。快には魅了されてこれを享受するために動き、生の保護・促進を実現する。かつ、逆に不快・苦痛になることは避けたり逃げたりして、これを拒否し、損傷を防止する。ひともその自然感性においては、快に魅され、不快・苦痛では回避するようにと動く。だが、ひとは、これらの自然的な反応・振る舞いを制御でき、この自然的反応を抑止し、理性意志の思うようにと動くこともできる。回避衝動をもつ苦痛に対してこれの甘受にと自身を向けていくことができる。自然が苦痛をもって入らせないようにしている世界に、ひとは、苦痛甘受の忍耐をすることで入っていく。あるいは、快に引かれて動く自然にしたがわず、自身を抑制して快以外の方向にも進むことができる。ひとの生きる世界は、そのことによって、飛躍的に拡大していくことになる。寒さの苦痛をもって、そう易々とは南北の極地域には住めないように自然はしているが、ひとは、これを耐えて極地域にまでも進出した。厳しい氷河期の生活を、食料を巧みに保存し衣住の環境を防寒用に作りあげて乗り越えてきた。砂漠には水がなくて住めないものを、ひとは、知恵を働かせて、水のあるところから水路を引くということを企て、これを実現するための苦難を耐えて、住めるようにしていった。
ひとは、快不快の自然に生きるとともに、これを抑止して自然の禁止している反快楽、苦痛の世界をもわが物にし、生きる自然世界を大きく広げたのみでなく、さらには、感性的な世界自体をも超えて、普遍的理念的な世界を可能にする理性的な動きを展開することともなった。動物的自然世界に生きつつ、ときに、これを拒否して、自然を超越した理性的世界に生きてきた。それを可能にするのが、しばしば感性の快不快を制御することにおいてであるから、その限りでは、忍耐がそれを可能にしたのである。苦痛を受け入れ快を抑止し、それを犠牲・手段とすることにおいて、快不快の自然世界を超越した理性的な英知界へと飛躍していく。忍耐をもって、ひとをして尊厳とする精神的世界、理性的世界を創出したのである。
苦痛から逃げずこれを受け入れ、快を抑制することで、生きる世界は倍増するが、これは同時に自身のうちの諸能力も多彩に展開していくことであった。快への欲求を抑制することは、それ以外の方向に心を動かしていくことともなる。苦痛・反欲求から逃げず耐えていくことは、それをもって、いやなことも意志において追及していけることとなった。単純に快を欲求し苦痛を反欲求対象とする動物的な在り方を超えて、人間のみに可能な多彩な心の在り方が開発された。快苦の世界を、忍耐をもって超越することを通して、自然世界自体を超越した理性の世界を開き、精神的英知の世界へと飛躍していったのでもある。動物的世界に生きつつ、この快不快を些事とする超自然の精神的領分へと展開して、万物の霊長としての尊厳をもった至高の世界をひとは構築した。
6-7-1. 人は、その動物的生を精神的世界へと引き上げ、昇華もする
食欲を充足するとき、ひとは、動物的営為のもとにある。だが、そこでは同時に、動物を超越した人間的営為をも行っている。ひとは、ひとつの食物で充足するのでなく、知性をもって、ほどよく欲求を抑制し制御しつつ、多種類にわたるものを食べる。さらには、苦いとか酸っぱいという、本来は不快・苦痛であるものも取り込み、これをもって食の快を多彩で深みのあるものともする。動物は、限定した食物で生きる。昆虫など、食物の種類を別々にして生きあう。クチナシにつく虫は、オオスカシバに限定で、イチジクにつく虫は、カミキリムシといった住み分け、食べ分けをする。だが、ひとは、何でも食べる。知恵を働かせ試行錯誤を繰り返して、腐ったものも食べて発酵食品に仕立て上げた。美味しくないものもほかのものを混合して、美味にした。単純に快のみを受け入れるのではなく、直接的には苦痛である苦いものとか酸っぱいものをも快の豊かさ、繊細さを作り出すために使って、食の享受の領域を、多彩なものとしている。食物を土台にしながら、その感性自然のうえにそびえる精神世界の営為にこれを利用するようなこともある。共食(会食)は、その集団の精神的な絆を高める手段として古くから行われた。茶道は、お茶を飲む集いである。高がお茶を飲むだけのために大仰なと言われなくもないが、息抜きのティータイムと違い、そこでは高度に洗練された精神文化を表現する媒体として喫茶が役立てられているのである。
ひとは、欲求を自然的に充足するだけではない。知は、知に飢え情報を貪ると言われるように、それ自体が人にとっての大きな欲求となる。自然的欲求と一体化した知は、技術知となって自然にはないものをも次々と創造し、これへの、動物的にはない欲求・欲望を生み出しもした。さらに、あらゆる欲望のための手段となる、普遍的な欲望対象としてのお金も作り出した。お金は、それ自身は、食べられもしないし防寒・防暑の衣服にもならない。だが、それは、普遍的な交換価値を有するものとして、無数の欲求を充たす手段となる。お金は、精神的欲求を満たす手段ともなる。芸術作品を鑑賞する手段となり、高度な情報を求める手段となる。ひとの世界は、自然的世界を土台にしつつ、その上にそびえ超越した精神的な世界を開拓していった。
性の衝動は、大きい。それを充足するために、鳥や昆虫は、雌を求めて懸命に鳴く。ひとも、異性をひきつけるために歌を歌い詠むことがあったが、その魅了する歌は、赤裸々な衝動ではなく、言語を使った精神的な世界の美として、ひとをひきつけたのである。さらに、男女の直接的な関わりに歌を詠むにとどまらず、性衝動を土台にしつつ、その衝動自体は直接的には抑制し、その苦痛を忍耐もしつつ、これを昇華して、文学等を創作もした。源氏物語など、性欲がなかったら、誰があんな女あさりの下卑た話を好んで書いたり読んだりするであろう。ヨーロッパには、古くから女性の裸体画が多い。聖書や神話を題材にすれば、裸体描写が許されたようだが、描く者も、見る者も、性欲がなかったなら、あんなものに現を抜かすようなことはなかったにちがいない。芸術は、性欲・性衝動を人間的精神世界にと昇華して展開したものが多い。動物的性衝動をもちつつ、これを時代に見合うように制御しその上に精神世界を展開して、動物的な性を、人の精神の高みから見渡しつつ昇華して表現しているのである(春画や昨今のウェブでのポルノ動画は、動物的性欲のために芸術をその下僕・手段にするが、素材をそういう方面にもった優れた芸術作品は、性欲を土台にしこれを昇華して美の世界を創造していく)。
6-7-2. 苦痛の試練、忍耐が尊厳を有する人間を創造した
アダムとイヴがエデンの楽園を追放されて人間世界は作られたと『創世記』は語る。そこで特記されることは、種と個の存続のための生殖と生産について、いずれも苦痛が課されたことである。人は原始から苦痛を耐えて、自分たちの世界を創造してきた。苦痛から逃げず忍耐することが、多様多彩に発展する人間世界を可能にしたということである。楽園追放、失楽園をもっての人類史のはじまりであるが、この話は、楽天的に捉えなおせば、苦痛を甘受する忍耐こそが、尊厳の人間を創ってきたことを語るものになろう。
人類も、はじめは、他の動物たちとともにエデンの楽園で素朴に穏やかに暮らしていた。だが、神から食べることを禁止されていた木の実を食べてしまったという。永遠の生を保てる生命の木と、知恵をもたらす木の二つの木の実だけは食べることを禁じられていたのだが、そのうち、善悪を知ることになる知恵の木の実をたべた。知恵は、感性を超越したもので、いわゆる理性の知がその代表になろうが、人間は、これをもって、洞察力を得、経験知を蓄積し、伝達をもってこれを拡大し、自然をはるかに超越した知的な人間世界を創造し、自然世界の上にそびえる至高の尊厳の存在にまでなった。その知恵は、まずは、おのれを知ることに振り向けられた。アダムとイヴは、裸を恥ずかしく思った。恥部を隠したという。性衝動という動物的なものを持っているけれども、それを粗野なものにとどめてはならず、善美等にと昇華した精神的な衣装をもって覆わねばならないと思ったのである。その恥部を隠すことを良いこととし、動物的自然のままを悪しき事とする価値意識をもったのである(はずかしさは、規範等から、はずれていることを意識して生じる。規範・あるべきこと・善とそれを外れた悪を知った、意識したということになる)。未開の生活をしている近現代の集団でも、子供は素っ裸だが、大人は、恥部だけには覆いを着けている。公共の場では、性は無化していなくてはならないということであるが、動物を超越して、精神的存在の装いをして精神的な交わりにあるのだという尊厳の装いであろう。
人間世界の固有の歴史は、エデンの楽園からの追放ではじまった。それは、現在でも、子供が大人になる過程で反復されていることで、人は、一人前になるとともに、楽園を出て苦痛・苦労を背負わねばならないという厳しくも厳かな事態である。男性のアダムは、生きるために苦しい労働をしなくてはならなくなった。女性のイヴにも神は、やはり苦痛を課して、生殖における産みの苦しみをもってしたという。種の再生産、個の保存のための根本的な営為について、苦痛が不可避的となったと聖書は語る。この人間界を苦しみの世界と見なす点では、仏教も同じであり、これを苦界・苦海と捉えている。
このアダムとイヴの話は、人類の根源的な在り方を語る。自然は、苦痛を回避して快をひたすら求め享受する。楽園の動物たちは、いまも、そうしているように見える。だが、ひとは、理性をもち、苦痛甘受の忍耐をもって、自然を超越して根本的に異なることになっているのである。苦痛回避の動物を超越して、楽園の外に出て、苦痛に耐えるのが人間の世界である。理性的な英知を有して、自己を知り、世界を洞察して生きることになっているのだが、自他がこの世界のうちで尊厳を有したものとして存在するためには、苦痛から逃げず忍耐することが不可避である。いくら知があっても、苦痛から逃げるというのでは、自然のくびきをつけたままになる。苦痛への挑戦が、自然を超越した人間の尊厳を確固としたものにしているのである。
6-7-2-1. 苦痛への忍耐は、自律的な人間を創った
『創世記』の楽園追放、失楽園の話によると、神は、エデンの園から人類の祖を追い出しただけでなく、罰をも課した。アダムには労働の苦痛を与え、以後人間はつらい労働をもって生きていくことになり、イヴには、産みの苦しみを与えることにしたという。この話は、人類が、古来不可避の運命として背負っている、生きるための苦しみを背景にした話であろう。何かあると飢餓にすぐ陥るような中で、生を維持するために、日々、汗を流して苦闘しなくてはならない惨めな現実を、楽園追放の話において納得しようとしたのであろう。信仰をもつ者には、人の生の苦労・苦難は、神からのもので、それは、自分たちに課された運命だと受け入れて諦念しなくてはならないという話になる。神から苦痛を与えられていること、いうなら被虐に、神に目をかけられ選ばれている証拠だ、苦痛は神からのありがたい贈り物だといった、マゾヒスト的な思いをもつ者たちもいた。
だが、積極的に見直すなら、もっと違った話としても読めそうである。それは、人類がこの神与の苦労に関して、動物ならば単に逃げ回るだけなのに対して、これに決然として挑戦していったということである。苦痛が、神なり自然から不可避的に与えられているのは大前提の事実になるが、それへの人間の対応は、動物とちがって、自然的な、苦痛の回避、苦痛からの逃走をとるものにはならなかった。地獄界では多彩な苦痛を与えられているが、その苦痛から動物として逃げ回り、苦しい辛いとわめくだけである。だが、この世の人間は、神からの苦痛を回避・逃避しようと動く自然の存在であることを超越している。神からの苦痛に対決し、よりよく生きるために、これから逃げず、苦痛に挑戦した。苦痛をあえて受け入れ甘受して、忍耐・我慢をもってこれを乗り越えていったのである。
神からの苦痛について、地獄でのように、これから逃げまわって生きるのなら、神の支配下に生きるのである。だが、ひとは、これから逃げず、知恵の木の実を食べたことで(これは、ひとの祖先が直立し脳を大きくしたこと、あるいは、言語使用をはじめたこと等に相当するのであろうか)、知恵をもち理性意志をもつことになり、神与の苦痛に挑戦し、苦痛を我慢・忍耐する道を自律的に選んだ。神に逆らって知恵の木の実を食べて、神が与えもしない羞恥心を抱いたように、自然的には逃走する苦痛に対して、その知が必要と判断した場面では、逃げずあえてこれに耐えるという自然超越の挑戦を行ったのである。自律的な自由意志の発揮である。これは、神が与えたものではない。神(自然)が与えたのは苦痛でありこれから逃げることである。ひとは、神(自然)に逆らい、知恵の木の実を食べたことによって理性知を得ることが可能となり、善悪等の価値判断を自身が行い、自律的に生きる道を創り上げた。楽園追放での、苦痛・苦難の道において、苦痛を与える神・自然に対決して、これに挑戦する自立の姿勢をもって、自身の自由意志において、この苦痛を忍耐する、自律的な道を進むことになった。人間の自律理性の尊厳が、ここに確立されたのである。
6-7-2-2. 苦痛ではなく、これへの忍耐が人の尊厳を証する
アダムとイヴのエデンの楽園からの追放、失楽園の話は、単なる神話として放置はできないように私は思う。人間が人間になったことの、その尊厳の根拠が、そこに見出されていると言って良いのではないか。知恵の木の実を食べたことで理性知を有し自然を超越できるようになっていったこと、さらに、肝心なことは、楽園追放によって苦労をして生きていかねばならなくなったこと、苦痛を課されていること、この苦痛から逃げず、人間は理性をもってこれに挑戦して忍耐して苦難を克服して先に進んでいったこと等がそこでは想起されるであろう。苦痛とそれへの忍耐をもって、人類は、自然世界を超越し、自然を見事に支配するまでになって尊厳を有する存在にと自らを作り上げてきたのである。
この世に生きるものにとって類まれな価値として永生と知恵があった。そのうち、人間は、永生ではなく、知恵の木の実を食べて、知恵をもったという。それが、人間の至高であることを可能にした。知恵は、天与のもの、自然・神のものをいただいたのであり、のちには意識的に開発し教育等でさらに大きくなったが、当初は、天与のもので、自力では少しということだったであろう。その点からいうと苦痛から逃げないで我慢・忍耐するという意志は、人間自身が価値判断して必要と思い苦痛甘受を決断したことであり、はじめから自身が創造したものになるといえよう。苦痛は神(自然)が与えた。だが、これへの忍耐は、理性的意志をもった人間が自律的に行うものになる。神に逆らって知恵の木の実を食べたように、神与の苦痛から逃げ回る動物であることをやめて、自身の意志において、必要と判断したところでは忍耐の構えを構築して、苦痛に挑戦する姿勢をもったのである。
エデンの楽園からの追放で、神は、人類に、苦痛を課したという。ひとが、苦労・苦痛に明け暮れしているのは、現代においてもそうである。ましてや、原始の時代は、苦難の連続に明け暮れて、仏教ではこの世を苦界というほどに、さんざんなものであったに違いない。神が楽園追放で人類のみに与えたというのが苦痛である。ただ、人類は、この苦痛から逃げる自然的対応にとどまることをしなかった。苦痛への挑戦、忍耐は、神が与えたものではない。人間が自身で意志したことである。あえて、挑戦することを企て続けたということである。地獄は、苦痛の世界だというが、そこでは、みんな苦痛から逃走しこれを回避しようとしながら、永遠にこの苦痛に打ちひしがれ敗北するものとなっている。だが、人間世界は、この神与の苦痛を感受してこれから逃げまわるものではない。この苦痛から逃げず、必要とあらば、神に逆らって、神与の苦痛に挑戦する姿勢をもった。苦痛があれば、これに挑戦しよう、「憂きことのなおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」(熊沢蕃山)という姿勢をもったのである。苦痛に我慢し忍耐することを自身で行ってきた。この忍耐・我慢の意志は、神に逆らって自身が作り出したものである。苦痛から逃げる動物のように従順ではない。これに逆らい挑戦する。その苦痛・苦難から逃げず我慢・忍耐する意志が、ひとを自然のもとで至高の尊厳を有する存在にとしていったのである。
意志は、不快・苦痛に対して沸き起こるものである。快ならば意志することは無用で、欲求がおのずからに生じて対応する。苦痛に対決するのは、感性を制御・抑制する意志である。苦痛から逃げない姿勢をもった人間は、知恵のもとでの実践的能力の意志を働かせて苦痛に耐えることを通して、この意志を肥大化させていったことであろう。神与、自然からの苦痛を前に、これから逃げずこれに挑戦するという自律の精神をもって、忍耐力を大きくし、したがって自律的な意志を強力なものにと育て上げていったのである。苦痛への忍耐力、強い意志は、神与ではなく、ひとが神(自然)に逆らい挑戦して自身において創造していったものである。この自律的意志をもって、自然を超越していったのであり、理性的意志は、人間の尊厳の中核を創り上げているということができる。
6-7-2-3. 苦痛と忍耐が、強い意志を創り、人間的尊厳の核を創った
自律にせよ他律にせよ、律すること、制御し支配することは、実践の営みである。自己内外の自然を制御し律する実践である。単なる理性知、観想する知は、物事の真実を捉え深慮するが、それだけでは、傍観するにとどまる。その対象を星の高みから眺めるのみである。これに対して、その対象に直に働きかけ制御するような営みに出るのが実践である。そこで理性は実践理性となる。それが意志である。意志は、自身の理性知をもって対象に働きかけて、自身の思うようにと実践的にこれを改変していく。自身の律・法をもって制御・支配することになる。ひとの尊厳は、内外の自然への卓越した支配にあるが、この支配を行うのが実践的な理性、意志であり、この意志こそがひとの尊厳の核となる。
自然が理性の思う通りに動いている場合は、理性意志は、働く必要がない。自身にとって快適と思う状態に対しては、ひとは、ことさらに自身の意志をもって制御することはない。意志が働くことになる場面は、自身の思うようにならず、自身の理性の思いに逆らうような、抵抗をするような場面である。実践理性、意志が働く対象は、自身にとって不快で困難な場面になるのが普通となる。感性的な快楽において、理性がこれを是とするときは、理性は働く必要はない。その快楽が理性的に許容できないとき、理性は、感性の抵抗を抑止してその享受を拒否することになる。その拒否は、感性の抵抗を受けて不快・苦痛となる。その苦痛を甘受しつつ理性は意志を貫く。意志が強いとか意志が薄弱と言われるのは、困難な状況、苦痛を前にしてのことである。いずれにしても、理性から見てスムースに行く快適な状態では、実践的に働くことはないから、意志は、休憩できる状態にある。意志が働くのは、自身の理性に逆らう困難な苦痛の事態においてであり、この苦痛から逃げることなくこれに耐えて、その理性の意志を通そうと努めるのである。快のもとでは、これを欲求し享受するのみで、忍耐も意志も働く必要がない。苦痛が、これに挑戦するひとに忍耐を求め、意志の覚醒と貫徹を求めることになる。
楽園に生きるものたちは、快適であり、苦痛がなければ、あるいは、あってもこれから逃げて苦痛を回避しておれば、万事うまくいく。苦痛・苦難に迫られることがなければ、苦痛を甘受して忍耐してのみ生きていけるといった状態は、存在せず、したがって自身の意志を働かせる機会などなく、穏やかに暮らせることであろう。しかし、人間は、その自然の楽園、エデンの園を追放されたのである。以降、苦痛を甘受し忍耐・我慢を重ねてはじめて己の生をまっとうできるということになった。いまも、なお、それは、人の生の根本の姿になる。それが辛いことゆえに、かわいい我が子には、楽園状態を保ってやりたいという親心が生じて、結果、楽園の動物に退行したままの子をつくってしまうことが少なくない。いわゆる「三代目は家をつぶす」ということになる。三代目は、産まれたときから、苦難に出あってもこれを逃れて、または、代行してもらって、これに挑戦することがなく、我慢・忍耐のない、意志薄弱な「ぼんぼん」になる。快があてがわれるばかりであれば、意志を発揮し鍛える機会はなく、軟弱な動物にとどまることとなる。その親の庇護がなくなれば、没落必至となる。「かわいい子には旅をさせよ」というが、世間の荒波にあって苦闘することがなくては、苦痛に忍耐できることがなくては、人間らしい意志は出来上がらない。
6-7-2-4. 精神世界では、快は些事だが、苦痛は深刻な反価値となる
苦痛は、精神世界でも大きな力をもつ。快は、感性世界で吸引力をもち、人も魅するものだが、精神世界では、これは些事となる。幸福感(精神的快)は、恵まれたところにいだくが、恵まれているひとは、かならずしも、幸福感はいだかない。恵みの状態が肝要であって、これに快の幸福感をいだくことは些事であり、恵まれている状態が持続する場合、おそらく、はじめに幸福感を抱いたものでも、これを感じないようになっていく。肝心なことは、恵まれていることであって幸福感ではない。逆に、幸福感を抱いている者が、恵みに乏しく、周囲からみて悲惨な状態であったとすると、それは宗教にはまっている人にしばしばあることであるが、当人は、いいとしても、周囲にとっては、惨めなことになってしまう。宗教二世が、昨今、問題になっているが、親は、宗教にはまって、教祖に全財産を巻き上げられて至福状態にあるとしても、子供は、貧困で、頼れる親の目は教祖の方ばかりを向いていて育児放棄・虐待状態にあるのでは、悲惨さのみを味わうのである。親の主観的な至福状態は、周囲の客観的にものを見る者からは、悲惨でしかない。精神的レベルにおいては、快ではなく、精神的世界での価値の獲得が目的となる。快は、どうでもいいものとなる(麻薬を使って恍惚・至福とならなくても、至福感などどんな所でも思い(解釈)しだいで簡単に得られる。地震で周囲の大勢が死んだのに、自分は生きている、両足切断で済んだのは「神のおかげ」と至福に浸りうる)。幸せとか快感をいだくかどうかは些事で、肝心なことは、客観的に価値を獲得できて、恵みを現実にいただけることである(もっとも、昨今は、恵まれていても、不平不満が多く不幸顔をしているものが多いので、それは、尊大、不遜だろうと幸福論者はいう。客観的に恵まれているのならそれに応じて幸福顔をもって周囲にかかわり、周囲の笑顔をさそえるようにすべきではある)。
だが、苦痛は、精神世界でも大きな力をもつ。感性世界と同様に、苦痛は、精神的苦痛の代表にもなろう絶望とか不安は、これの回避・逃走へとひとを駆り立てる。希望の反対の絶望は、死に到る病ということがあるように、大きなダメージを人に与える。不安も、同様である。危険の可能性に抱く不安であるが、危険はさておいても、不安の感情自体をなんといっても解消したいと、精神的苦痛の不安を除去することに必死となる。精神的苦痛は、無視できない深刻な苦痛として、ひとは、これを回避し、逃走しようとする。不安・絶望の事柄よりも、まずは、とにかく、そこに生じている苦痛・不快感情(不安・絶望)自体をなんとかしたいともがくことになる。精神的レベルでも、苦痛・不快は、些事などではなく、重大な事柄として、事柄の客観的事態よりも、その感情自体を取り除きたいと、その反価値の感情におののくことである。根本的には客観的な、絶望や不安を産んでいる事柄自体を解決していかねばならないのであるが、それは簡単ではないこともある。例えば、子供が死んだ場合、その絶望感は、おそらく、残りの人生が終わるまで続く。先だった我が子を思い出す度に、悲痛の思いを爾後の一生くり返すことになる。その絶望感自体をなんとかしたいということになる。思いを変えて、「天国に、極楽に行って、この世の地獄から離れえて、幸せになっているんだ」と、真に思えるならば、妄想ではあっても、こころは落ち着き、絶望感からは離れ得る。苦痛の絶望感をなくすることが何より肝心なことになる場合もある。病的な不安なども、不安の客観的な事態そのものはさておいて、苦悶の不安感情を解消することが一番となることである。快とちがい、苦痛は、精神的領分においても、些事どころか、この感情自体を何とかすることが肝要なこととなる。
精神的苦痛は、絶望とか不安は、大きな苦痛であり、耐えがたいものとして、ひとは、それの生じる手前でこれを察知して、この苦痛を生じないで済むように心がける。しかし、ときにその苦痛に遭遇することである。これを忍耐して克服するならば、ひとは、大きく成長する。できた人というのは、そういう苦難を耐えてきた人であることが多い。苦痛から逃げず挑戦するということが意志を強化し心構えを高く大きくしていく。苦痛は、快とちがい、精神的領域においても、ひとを突き動かす強い(反)価値であり、しばしばその後の生の飛躍を生み出していく。
6-7-2-5. 人の生きる世界は、広大だが、それは下位方向にも広がる
ひとは、パンだけに生きるのではないと言う。動物は、個体と種の維持のための食欲と性欲に生きている。だが、ひとは、ちがう。食欲・性欲の二つはひとの自然的生の基礎ではあるが、ひとは、これを土台、踏み台にして、精神的世界に向かい、これに生きる。場合によっては、食・性の本能を無視して、快不快の衝動を抑制し苦痛を甘受し忍耐して、高度な精神世界に生きようとすることもある。
だが、これは、かならずしも、良いことばかりではなかった。自然を離れ超越して自由に自己の思うようにするということのうちでは、動物以下になったり、極端に精神的なものを求めて動物的営為を拒否するようなことにもなった。中庸の節制を心掛けるのではなく、過激なことをもたらすようにもなった。ひとを含めた動物の根本の欲求に、個の維持をなす食欲と、種の保存のための性欲があるが、これについて、尊厳を有した人間にふさわしいやり方をするにはとどまらない者が出てきている。これも、自由をもった人間の営為ではある。しばしば悪しきことへの自由である。それは、軽度のものから到底許しがたいと思えるようなものまでが見出される。
ひとの動物的自然的営為の量的な拡大、豊富化ということでは、上にむかって向上拡大したのみではなく、より動物化した方向へも拡大した。食なら、飽食では、野生動物ではおそらく不可能な肥満となるような過食となり、商業化した食の快楽のとめどもない量質拡大は、近年顕著である。性の方では、一夫一婦制をあざ笑い、何百何千の異性との性交にかまけて鬼畜に堕すものもいる。
単に量的にというだけでなく、奇怪な楽しみ方をして犯罪とみなされる方面にさえ手を出すものも生じている。これも、動物を超えた快楽享受の拡大である。異性生殖の動物としては人間も、異性愛となるのが普通であろうが、なかには、生殖不可能な同性愛、犯罪という以外ない幼児愛に向かうものもいるし、獣姦、死姦を行う者もいるという。死体を愛するのは、まだ人間を愛するのであろうが、なかには、物に性欲を感じてしまうものもいるようである。最近、小学生の上履きに感じて大量にこれを盗んでいたとか、公園の水道の蛇口に淫行を働いた男性(お尻に水飲水栓を入れたというからホモだったのであろう)があったとニュースになっていた。そういう奇々怪々な性欲も人間においては開発されているようである。逆に、性欲自体を絶って動物的身体とその欲求を完璧に超越して、聖人になろうとするものも、古来、多い。性欲も人間においては、多種多様である。
性欲は、人間では、周囲に隠して満たされるので、正確なところはよくは分からない。だが、食欲の方は、隠すことは少なく、動物にはない多様多彩な欲求充足が見出される。多くは、動物的な快楽を一層充実させようというものになるが、単なる美食ではなく、奇怪な方向に向かったものもある。動物を超えるのではなく、下位方向に動物以下に成り下がるようなものもある。コインを飲み込むなど朝飯前で、大きな異物を飲み込んで手術する羽目に陥ったといったことがときどき話題になる。お尻から酒を飲むのは、奇怪ではあるが、座薬はそうであり、正常の範囲内であろう。が、瓶をお尻から飲み込んで出なくなって大事になったというようなことが(これは食ではなく、性の営為であろうか)、時にニュースになる。
快・美味という動物的なものは無視し超越して、その栄養摂取に直接向かうこともある。動物的には食に属すとはいえないような摂食である。薬はその代表になろう。薬は病気を治すためにやむなく飲むのであるが、栄養補給ということで摂取するもの、サプリメントとかいうようなものは、一応、食の一形態であろうか。味がないのが普通であろうから、動物的感性に美味の快を得られるものではなく、奇怪な、動物を超越(逸脱)した食ということになろう。なかには、栄養になるとは思えないものも体にいいからと、摂取することである。ひとの心身は、その気になれば、結構効いた気になれるし、実際に効くという。プラセボ(偽薬)効果は、馬鹿にできないようで、お祓いを受けた水だからと有難がって飲めば、効果がありうるようである。ひとは、精神的存在で、その動物的レベルのものへの支配は相当なもので、物としては、効果があるはずのないものでも、本人が効くと思えば、生理をも支配して効くことがあるようで、食も、動物を超越してか、下位に逸脱してか、多様多彩である。酸素水だとかを飲んで効いた気になっているものもいる。ひとは、幻想にも生きるので、幻想を飲んで元気になる人もいるのである。そういえば、市販されているミネラルウォーターも、結構、普通の人間が常用しているが、これも日本では公営の安くておいしい水道の方が殺菌効果のある塩素も入って健康的であろうに、高い金を出して幻想を飲んでいるのである。
6-7-3. ひとは、自然を超越し尊厳の英知世界に生きる
自然のうちで動物は苦痛から逃げるので苦痛の手前までの世界にしか関わらない。だが、ひとの忍耐(苦痛甘受)は、その障壁としての苦痛を乗り越えていく。苦痛の手前までの世界にいきる動物を超えて、苦痛の向こうの世界にと、生きる世界を広げる。他方で、快のうちに生きる動物と人であるが、ひとは、これを超えて快でない世界にまで手を出す。快が引く世界でなく、これに引かれない別の方向の世界にと進むことである。これは、さしあたり、おなじ感性的世界のうちにありながらも、苦痛や快の枠を乗り越えた、人間のみが住みうる自然世界である。
ひとは、さらに、感性世界自体を超出もする。快不快・苦痛の感性そのものを超越した、英知、精神の世界、イデア界を切り開いた。苦痛を耐えこれを甘受するのは、単に苦痛の向こうの自然世界というのではなく、この自然世界自体を超えるためにすることでもある。苦労して岩山に登るのは、なみの動物の限界を超えてオーバーハングのところでも登れるというだけではない。まったく動物には及びえない、美的世界を満喫するために、あるいは、その山頂で写真をとるために苦労して登るのでもある。忍耐は、苦痛を甘受して、感性的自然世界を広げるだけではなく、それの上に聳える異世界、理性的な精神的な世界を切り開くのでもある。感性的個として生きる自然世界を超越して、理性的な普遍性の世界へと飛翔する。
ひとの精神的世界は、生理的動物的な快不快の世界を超越している。その世界に生きるには、苦痛でもこれを受け入れ耐え、快でもこれを抑止して、自然からの離脱・飛躍が必要である。なにより、苦痛は強くひとを縛るから、これから自由になることが精神的世界には必須である。ひとは、精神的な諸欲求をもつが、これは、多く苦労の要る世界であり、苦痛を回避する生理的動物的な世界に埋没していたのでは入ることができない。苦痛でもこれを忍耐して、苦労をして、精神世界の営為を実現していくのである。人は、精神世界、理性的世界に、イデア界に生きるが、それには、快不快の自然を超出してその先にと進む必要がある。苦痛から逃げず、これを忍耐して、精神世界の扉は、開かれてくる。プラトンは、イデア界に至るには、身体が感性界に縛られているのを解き放たねばならないと言ったが、その束縛の代表が苦痛(と快)であろう。この苦痛の束縛を解き超越して、ひとは、イデア界へと飛翔することが可能となるのである。
快不快の自然世界にひとも生理的には生きている。だが、ひとは、その上に精神的な理性的英知的な世界を構築している。その英知世界に生きるには、個体としては基礎に生理的生が必要で、その支えを失うと(例えば、死)、その上に聳えている精神世界も崩壊する。ではあるが、それはあくまでも土台・基礎なのであって、これに支配されているのではない。これを自由に制御支配して、その上の英知世界は、生きる。快不快の自然には従い生理的には動物として生きるが、必要なときには、それを制御して、快にしたがわず、苦痛の奴隷にとどまることを停止して、自由になって、その生物的なものを土台にしつつ、上部に聳える精神世界の営為を充たしていく。動物とはまったく異なった世界をそこに展開する。ひとは、自然的に快不快の世界に動物的に生きつつも、なによりも、その上に聳えるイデア界に、精神世界・英知界にと生きる。
6-7-3-1. ひとは、自然世界に住み、その超越世界に生き、仮想世界に遊ぶ
ひとも動物も夢を見る。だが、夢は、現の世界の記憶・想像を踏まえたもので、現実の法則を無視して粗末にこれを再現して見せるだけである。これに対して、ひとは、この現実的自然、実在世界を超えた、もうひとつの、感覚的にもしっかりした、一応は自然因果をも踏まえた世界を描き出すことをしている。フィクションの世界の創造である。古くから芸術とか宗教においてこれが実現されていた。原始の人類は、外的自然に生きつつも、洞窟の暗闇の奥深くに、人や動物の壁画の別世界を描き出していた。
宗教は、この実在世界を超越し支配する神を想定して、虚構の極楽や地獄を作り出し、その妄想の広大な世界を描き出した。それは、理性的合理性のもとに広がる実在世界にとっては、これを豊かにするよりも、しばしばブレーキ、害悪をもたらすものであった。インカ帝国は、その英知のもと、詳細な太陽等天体の動きを知って作物栽培を高度なものにしたが、その宗教的世界観によって、太陽の精気を維持するには人間の血が、生贄が必要という宗教的妄想に囚われて、尊い生命をたくさん犠牲にささげていた。
宗教では、自分たちの描く神的世界を虚妄とはしないで、実在世界を超越した一層価値ある世界だと思い込んでいるが、人類は、はじめから、虚妄の世界、フィクションの世界と承知しつつ、これを楽しむことも行った。神話は、この世界を動かす神々を語るが、昔話(メルヘン)は、鬼神、魑魅魍魎を語るとしても、それは、フィクションとして、実在世界の外に位置した虚、架空の世界に位置付けて楽しむものとなる。小説など、はじめから、作者が妄想した世界であることを踏まえて楽しむ。歴史小説は、素材に史実らしいものを使って妄想をたくましくしてこれを楽しむ(小説の中には、妄想などでなく、個別的現実を仮象・フィクションの方向へ離れるのではなく、理性が感性的個別の背後の普遍的合理的真実を解明するように、普遍的な真実の方向へと深めて、感動させる場合もある)。
『忠臣蔵』など、いまでいえば暴力団のお礼参りの話に近いものであろうに、史実を離れて好き勝手にし、これを賛美してやまない。昨今義士祭が各地で行われているが、ほぼ虚構を楽しんでいるのである。広島県では、その時期になると三、四ケ所で義士祭が行われている。三次のそれは、浅野内匠頭の妻あぐり姫の実家が三次を拝領していたことにかこつけて祭り上げる。が、あぐり姫は、生まれてからおそらくずっと江戸の人だったのであり、三次には無縁のひとだったであろう。三原でも義士祭があるが、これは、浅野の関係からというよりは、江戸期、忠臣蔵にかかわる浄瑠璃作家が三原出身の元僧侶だったということを縁にして楽しんでいる。もうひとつは、浅野本家の町、広島市であるが、ここは、本家のこと、祭りをしておかしいという者はいないだろう。が、いま、行われている義士祭は、マスコミに乗るものは、義士の木像(義士堂は原爆で消失したが、木像は残った)を祭っている明星院のそれで、付属の二葉幼稚園の子供たちを義士に仕立てて楽しむもので、事件関係者とその家族の悲惨な話を想起させるようなものはなにもない(なお、浅野家の菩提寺であり、大石家の墓や赤穂義士追遠塔のある国泰寺でも義士祭が行われているようだが、最近郊外に移転したせいか、お祭り騒ぎはしてないようである)。昨今盛んな祇園祭りなどの各地の行事も、もともとは、本気で疫病を阻止し、地域の繁栄を願ってするものだったろうが、いまは、疫病がはやったら、うつったらいけないので祭りはやめる。もっぱら、贅を尽くした虚構を楽しむ地域伝統の行事になっている。
芸術は、ひとが作り上げる美的な世界であり、実在の重苦しい秩序を超越して遊べる虚構・フィクションの別世界だが、その映像技術など情報産業が昨今高度化し、実在世界のことを映した情報は、現実世界そのものと見まがうばかりとなっている。仮想、フィクションの世界は、実在世界とは距離をおいた夢・妄想の世界ということであったが、その映像・妄想の世界が現実とそっくりに感覚的に作り出せ、いわば現実を二重三重にして見ることができるようになっている(もっともこれは慣れということが大きい。エジソンの時代には映写された動く汽車を本物と見間違えて逃げまどったことであり、原始の洞窟壁画を原始のひとは、これをもう一つの本物と見ることができ感動したにちがいない)。身体は実在的な一地点にあるのだとしても、感覚的には、無数の場所に即降り立ってこれを実在的と感じることができるような、緻密で無限に広がる仮想空間をもった情報社会に我々は生活しはじめているのである。
6-7-3-2. 人の世界は、各個体・地域に独自的で、かつ類的普遍的でもある
人類は、「出アフリカ」をもって苦難に挑戦して現代人にとなった。各地域に展開してそれぞれの地で固有の文明を形成した。個体自身の体験のもとでは、経験世界の拡大はたかが知れたものである。だが、ひとは、個にとどまらず、類として全体として生きる。身近な家族・一族のみか、ひろく周辺へと交わりを求め、その生き方・知見を拡大していった。その理性は、言語をもって、経験を蓄積し伝達しあい共同知を豊かなものとしていった。時間のもとで、次の世代へと経験知を伝達し、地理的に周辺部へと経験知は伝播し、獲得した知は、皆のものとなった。ひとの個は、類として進歩した。傑出した個の知恵は、あるいは特殊な地域での特殊な知恵は、すぐに類全体にと伝達され、全体の知恵となり、全個体の知恵となっていった。
広い地域に分かれた人類は、同様の言語活動、理性活動をもって高度化していったが、同じ言語ではじまったとしても次第に通じ合えないほどに遠方へと拡大し、異質のものにと分化した。だが、より豊かな生活を可能にするために、各地の異なった獲得した価値ある物や情報を交換し伝達しあって、より広く豊かな人類の経験世界を創り出した。動物の場合は、経験知の伝達は、ほとんどないだろうが、人類は、各地に散らばって異なる経験をし経験知を積み上げ、この経験知を広く伝達しあって、全体・類の知にと作り上げ、自然のうちで至高の存在として定着していくこととなった。
同じ理性的存在として、人類は、各地でその状況に見合った農業や牧畜などの自然支配を定着させて、尊厳をもった存在となった。さらには、各個人ごとに経験するものは異なることで、各々は個性的な存在となっている。特殊的個別的に差異した存在であり、経験知は、各個で異なるから、普遍的な理性をもったものであっても個性豊かな存在となる。人類の尊厳は、個体レベル、個人個人のその個性的な生きざまにおいて、その獲得している能力において、それぞれに異なった様相を示す。尊厳の核となる理性を同じように分有していて、万人が同じく尊厳を有しているが、個として特殊なあり方をして、その個性をもった各人は、社会的に分業し、各々に固有の使命を担って個の尊厳を誇る。
時と場所に応じて、そこで最適の対応を理性は作り出す。各自の体験するものは、顕著に異なった個性豊かなものになる。と同時に同じ理性をもってのことであり、かつ言語も通じ合うようにと個・種の経験を超えて、獲得した類的な経験知を共有することとなってもいる。個の獲得した高度の知は、地域・歴史を超えて類としての共同知になった。人類としての生きざまは、その分有する理性のもとに展開し、人類としての規範、正義とか仁愛を共有し、精神的生活は、特殊な地域のものに限定されず普遍的類的なものとして展開されていった。生活物資も、塩のような必須のものは、遠くにと運ばれ、サヌカイトのような矢じり・ナイフになるものを見出せた地域での道具は、すぐに、周辺に広がっていった。現代でも、各地域の固有の文化をもって個人は、個性を生かした生活をするとともに、世界中の情報・物をもって普遍的な現代人として生きているのでもある。交わるのが簡単ではない秘境の地にも、即、最先端の人類の知の結晶のスマホは行き渡った。
6-7-4. 苦痛から逃げない忍耐で、人の道は広く多彩に開けてくる
苦痛は、自然的感性的世界で大きな力をもつが、人間独自の精神的世界でも同様の力となる。快の方は、精神世界では、些事で、ひとを動かす力はあまりないが、苦痛・不快は、人生を左右することしばしばである。精神的な苦痛の絶望とか悲嘆は、この状態にならないようにとひとを動かすし、その苦痛を受け入れねばならない状態では、ひとはその苦痛・苦悩にうちのめされる。そして、この苦難・苦痛に耐える者は、これに鍛えられて、より高い精神的存在になってもいく。精神的世界の苦痛から逃げていたのでは、その人生はつまらないものに終わる。ひとは、現代社会では、自然的な危険からは概ね守られているので、精神的な苦悩を避ければ、一応の穏やかな生活が可能である。だが、それでは、精神的存在としての固有の営為は、ないがしろになり、ペットのような単調で無意味な生を惰性的に維持するだけとなろう。ひとは、自然世界の快苦を乗り越えることで、自然超越の精神世界にと高まり、他の動物にはできない卓越した自然支配を実現した。さらに、この卓越した精神世界において、苦痛が障壁となってその活動を狭めるのを乗り越えて、ひとは、苦痛・苦難を甘受しこれから逃げない忍耐をもって、苦痛を超越して広がる多彩な精神的人間世界に生きる。
精神的生にリードされての社会的生活では、個我として生きると同時に社会の成員として使命等を担って全体・普遍にと生きる。それには個我の諸欲求を制御しその快不快の感情を抑制しなくてはならない。苦痛・苦悩を耐えて個我の感情・欲求を制御・抑止して全体・普遍の合理的な立場に生きる。そこに生きて生の充実を抱こうという者は、その超越の営為をつらぬくには、意志の営為を妨害する苦痛・苦難の障壁を乗り越え排除することが必要であり、そこでの苦痛甘受、忍耐を受け入れることがなくてはならない。精神的世界では、快自体は些事である。食の快や性の快とちがい、希望や幸福では、現在や未来の恵みの事柄・価値が希求されるのであって、そこに快があろうとなかろうと問題ではない。だが、苦痛は、この高度の世界でも、その感情自体が大きな力となる。精神的苦痛の絶望や不幸は、ひとを駆り立ててやまない。かつ、これから逃げていたのでは、精神的生は低レベルにとどまるだけとなる。精神的な苦痛の絶望などに挑戦し忍耐することで、この世界は、大きく開けてくる。
ひとは、未来に目的となるものを掲げて進んでいく。社会的精神的なものを中心にした人の欲求は、すぐには実現できず、なんらかのプロセスを介して、未来において充足可能となる。掲げた未来の目的を確保するために、手段となる営為に汗を流す。その間、欲求充足はお預けであり、したがって、不充足の不快、苦があり、手段展開での妨害への苦しみを受け止めねば先には進めない。かならずといっていいほど、欲求実現までの間は、苦しみが介在する。その苦を受け止めてこの苦から逃げないことで、価値ある目的を獲得できるのである。ひとの世は、苦界といわれることがあるが、ひとの多彩な欲求は、手段の苦をもって達成可能となる。苦を経ることで、豊かな人生は開けてくる。苦となることを回避していたのでは、おそらく、ひとの人生は、小さな領域にと委縮する。それを打破して、この苦界を多彩で豊かな苦界とするのは、苦の犠牲を乗り越えていくことをもってである。苦痛甘受、忍耐はひとの精神的世界を大きく豊かなものとする。
6-7-4-1. 苦痛甘受の忍耐自体には、悪への禁止則はない
苦痛への忍耐をもって、ひとの世界は大きく広がる。が、かならずしも、その世界は善良なものに向かうとは限らない。忍耐は、あまり先を見ない。泥棒が、高い塀をよじのぼる苦労をし、家人が寝静まるのを蚊に刺されつつ我慢して庭で待つのも忍耐である。忍耐では、目の前の苦痛を見ることが肝要であって、それのもつ意義等を広く反省するようなものは、かならずしも備わっていない。場合によると、苦痛に囚われて、これの甘受に精一杯となって、その忍耐の結果については、反省することが疎かになる事態も生じる。そのもたらすものは、愚かしい悪の世界ともなりうる。泥棒であっても、良識・良心を働かせる場合は、その悪を拒否して善の世界を求めるが、忍耐の場合は、それ自体に善を求めるような働きはない。善悪など顧慮の外にあって、ひたすらに、苦痛に耐え、苦痛甘受に集中するだけである。苦痛甘受によって、世界は豊かに拡大されるけれども、悪しきことを制限するような配慮は、忍耐自体には備わっていない。悪しき忍耐、愚かな忍耐があって、そういう方向へとそれるような由々しきことを結果もする。忍耐では、しばしば「骨折り損のくたびれもうけ」をいう。忍耐の先のことまでは、忍耐自体では注目しない。忍耐の肝要は、苦痛であり、苦痛を甘受さえすれば、忍耐自体は成就したのである。忍耐するに際しては、忍耐を鳥瞰する、忍耐の外に聳える、冷静で卓越した理性がしっかりとしていなくてはならない。悪事を強要されての忍耐も、自身で悪事に汗を流す忍耐も、忍耐は忍耐である。
ひとは、目的とするものを実現するために手段を選ぶ。そのとき、快の手段のみを選ぶとすると、楽ではあるが、かなり目的の実現は限定される。快を選ぶのは自然に背かないで済む方法である。だが、苦痛を媒介にしてこれを耐えるということでのみ目的の実現されることが多い。そういう手段のなかには、目的のために「手段を選ばない」という無思慮なものもある。周囲に迷惑をかけるもの、人道に悖るもの、犠牲が大きすぎるものもある。忍耐の苦痛甘受は、善悪を問う前にあって、それが善であろうと、悪であろうと、苦痛に耐えるものなら、忍耐である。かりにその手段や目的が悪であろうと愚劣であろうと、苦痛甘受があれば、忍耐である。その苦痛甘受は自身の犠牲であるのは勿論だが、周囲に迷惑なことであったり、残酷なこと、自他の被害が甚大なものになることもあり、理不尽な反理性的なものであることもある。そうであっても、苦痛甘受があれば、それらも忍耐である。
6-7-4-2. 意志も、悪に染まることがある
ひとの意志は、個我・感性を超越した理性の営為として、普遍・客観・合理をもってするもので良心・良識の働きとなって、本源的には善意志になる。だが、ときに、その意志が悪に染まることがある。意志を悪のためにと働かせるということであるが、その働かせるものが悪の源となる。ひとは、尊厳の理性意志をもつとともに、他方に動物的衝動・自然感性を有している動物でもある。その動物的個体として快不快に突き動かされて、普遍的理性的には、よくないと分かっていても、その自然感性に流されることがある。しばしば、そこでは、理性の方が、その自然のために利用される。本来、理性の制御下にあるべきエゴの感性を上位に置き、理性を逆にその下僕にするという転倒が生じる。ここに悪の根源があるのだといえよう。おいしそうな柿がなっているので、ついほしくなって無断でこれを盗ることがある。そこでは、理性的に考えをめぐらして、一つ二つなら大したことではなかろうし、まず見つかることもなかろうと思案しつつ盗む。そう思案する理性は、感性・衝動の下僕になりさがっているのである。理性のみで考えれば、盗むことが理・規範にあっておらず、自分が盗られたら、万人納得の私的所有の原理を侵す許しがたい犯罪と見なすだろうに、それにヴェールをかけ意識しないようにして、自然衝動を優先し、これに理性がつきしたがうことになる。結果、人間にもとることを行い、悪事を働くことになる。その理性意志は、その悪事のための手段となり下僕となり、悪しき意志となる。
憎悪は、暗い意志の貫徹というイメージであり、単に感情の問題にとどまらない。感情は、身体の反応を必須とするから、(身体の不調続きで不安感(気分)が持続するというような場合を除けば)そんなに長期にわたってつづくものではない。だが、憎悪は長期にわたる。ときには、世代を超えて続くこともある。仕打ちをうけて、ストレートには仕返しできない弱者が、その怒りの感情を抑制してうちにとじこめ、仕返しできるチャンスを狙うところに、憎悪、憎しみは形成される。反撃の感情を表に出せないのでうちに秘め続け、理性を動員もして巧みに仕返しを計画し、ひそやかにはるかな先を描いて綿密な工作を行う。その仕返しへの執拗なエネルギーは、その持続は、意志をもって行う。意志は、その憎悪感情に利用され、その持続力を担う。仕返しできる日をどこまでも待ち続け、自身でできなければ、次の世代にまでこれを担わせる。この憎悪における暗い意志は、意志ではあろうが、憎しみの感情に先導されこの感情の下僕となって、憎しみの感情にのっとられた悪の意志となる。周辺から冷静に判断してみて、その憎悪をもっともだという場合もあろうが、多くは、裁判でもしたら呆れられるような、邪推であったり逆恨みでしかないものになる。憎悪は、執拗で貫徹力の大きい隠蔽された悪意、悪意志である。
ひとの尊厳は、卓越した理性のもとにある。個我の自然感性を踏まえつつ、理性の普遍性、合理性、客観性に基づいて良心・良識に則って動く本来的な理性意志は、善意志となろう。だが、理論理性、知性が、エゴの感性に乗っ取られて悪を綿密に調査し立案することがあるように、ときに強欲なエゴに支配されその下僕になった意志は、悪事に手を染め、ひとの尊厳にもとる悪意志となる。
6-7-4-3. 善悪は、それを担う主体・立場で異なりうる
善は、選択の自由を有する者が、より価値あるものを選択することで、悪は、より価値の低い方を選ぶことと一般的には言いうるであろう。権利付与について公平さをとるのが善だというのは、それが同じ理性をもち同等の自然能力を有している人間本性に見合ったもので、関係者全員に納得がいく、より良い振る舞いということであり、えこひいきするやり方は、贔屓された人にはありがたいとしても、それ以外の者にとっては差別されて不愉快なことで、より価値のないものを取ることとして、悪となる。少ない援助の金品を分ける場合は、だが、窮乏している者を優先して、余裕のある者を後回しにする方が善で、一律に付与する方が悪となろう。理性と感性では、理性のもとで、万人に妥当する普遍的で合理的なものをとって、感性のエゴを抑止するということになれば、より価値あるものを選択した善となるが、感性・衝動の方を優先して、利己にかたまり普遍性・合理性を無視し、良心・良識の理性をないがしろにすることは、より価値のない方を選ぶものとして悪となる。
ただし、理性をとるものが常に善になるとはいえない。全体だけを見て、個を見ない理性では、片手落ちになる。狭い範囲にとどまった理性の営為は、より広い全体をもってするのに比して、価値のない悪を選択することが多くなる。戦争では、どの国家でも、自国の方が善で相手国を悪とする。両方ともに、相手からいえば悪である。ここでは、個の感性の方がましな善の選択をして、反戦が善となることもありうる。なにをもってより価値のあるものの選択、善とし、悪とするかは、それを判断する主体、立場によって異なったものとなる。しかし、善悪は相対的だとはいっても、より普遍的でより合理的客観的な視座にたっての理性が可能であれば、その視座からして、暫定的ではあれ、しっかりした善悪の決定はできる。国際司法裁判所のような、より合理的で、より普遍的客観的な立場から、国家間の善悪の判定は可能である。ただし、国際社会は、なお(富や武)力で動いているから、裁判等で悪と糾弾しても、強大な国の悪の改まることは、あまり期待できない。
個我は、しばしば善悪を判断して行為する。そこでは、理性が主導して合理性客観性普遍妥当性等をもって判断するが、個我は感性・衝動を土台にしており、その感性の方を優先して、理性を下位に置くことがある。感性を優先した価値判断は、理性的には悪の選択となることが生じる。そこでは理性は、その良心・良識は恥じ、自身を悪と嫌悪するようなことにもなる。さらに、理性的工作がこの悪に加担することになれば、個我は感性・理性ともに悪に向かい、悪意をもってふるまうことともなる。ここでは、理性も狭い知見のもとでは、その感性の動きを悪とはとらえず、当たり前のこととして、これを首肯したものとなることもある。他者にそれがかかわったものであった場合、真剣に思慮することなく、あるいは真摯であったとしても浅慮で、そのことが悪になるとしてもそれを自覚できず、その他者にとり良いこと、善い選択と思ってすることもある。その他者にとって地獄への道は善意で覆われているという状態になりかねない。逆に、今は、一般的な理性からみて悪として嫌悪されているものが、その先においては、善と見直されることもしばしば生じる。新規の事態は、先見の明のあるものの営為は、なかなか一般的な理解を得ることができず、より愚かしいものを選択している悪と見なされることがある。
6-7-4-4. 善悪の世界に生きるのは、人間だけである
動物の世界には悪はない。本能・衝動にしたがうのみで、善悪の判断で動くものではない。善悪は人のみが有している世界である。善悪の価値をもった世界を見出して、これにしたがって自律自由のもとに生きるのは人間だけである。自由に選択できる種々の価値ある事態を見出し、そのうちからより価値あるものを選択するのを善とし、より価値のないものを選ぶのを悪とする。理性をもって善の世界を見出し、動物を超越した尊厳をもった世界にひとは生きることとなった。だが、同時に、動物でもある人間は、より価値のない方を選んで、悪いこと、悪と承知しつつ、自身の感性・衝動を上にたて、理性をないがしろにして、これに従う場合も生じた。それもまた、自律自由の人間のみが見出している動物を超越したというか、動物にはありえない状態(悪)に堕しての生き方ではある。
価値は、主体の求めを充足できるところにあり、常になにかにとっての価値である。一つの実在物も、多くの価値づける主体をもち、無数の価値をもつ。一つの果物でも、食の快を満たす美味という価値だけでなく、美的価値、薬用のための価値、交換の価値等をもつ。それら無数の価値づけ、比較があって、その場に見出されている、よりましな価値あるものを選ぶのが善となる。低い価値を選ぶのが悪である。一つのもの・事態のうちに、自然的精神的な無数の価値を見出し、その場での選択としての善と悪を見出す。
ひとは、理性的存在であるが、他方で、動物的自然をもった心身を各個体として有しているから、これに動かされもする。動物的感性は、個我・エゴとしてのひとを突き動かす。だが、それは、身勝手な衝動等となるから、理性的な善悪を承知したものとしては、葛藤・苦痛を生じることとなる。エゴの衝動を抑止し、その快楽を抑止して、理性の良心・良識のもと、身勝手なエゴの悪を抑止し、感性の苦痛を甘受しての我慢・忍耐をもって、善を追求する生き方をすることとなった。だが、多彩な価値世界において、より価値のないものの選択としての悪の道も可能となったのでもある。その根本は、自然感性を優先して自律の理性をそれの下僕にすることであった。自律自由の存在としての人間は、悪の選択に自身の感性・エゴの方から誘われ、それを選択することも生じた。それも動物の知らない世界である。
悪という反価値の世界を動物は有さない。そういう世界は、善の世界とともに、諸価値の世界を知り自律自由のもとにある人のみが見出し開発した世界である。自由の人間は、悪をも選択できる自由の下にあり、悪を行うことともなった。ただし、尊厳をもった理性は、当然、自身の悪行を周知していることであり、その良心・良識は、これを恥じて、自身を価値あるものの選択、善へと向けなおそうとする。私的所有の原理をふまえて自身の物が盗まれたらこれを犯罪・悪として追及する者は、自身が盗みをするとき、これを悪と自覚してする。悪と断定し自身を自身で罰してこの犯罪を阻止する自己内の理性能力、良心が動く。自身のうちに、悪を阻止する良心・良識を有して、ひとは、その尊厳を堅持する。が、ときに、飢餓とか、正当防衛等々止むにやまれぬ事情から、その個我は、良心をヴェールで覆って自己や身近な者のために悪を行うこともある。
6-7-4-4-1. アダムとイヴは、善悪を知って、(尊厳を有する)人間となった
西方世界では、人間の世界は、アダムとイヴに始まるというが、かれらは、はじめはエデンの園にいて、のんびりと天真爛漫に生きていた。だが、園にあった禁断の知恵の木の実を食べてしまい、その楽園を追放され、生産と生殖に苦痛を課されて、この二人をもって、苦難の人間世界がはじまったという。楽園から追い出されたときのその原因は、知恵の木の実を食べ、善悪に生きることをし始めたことであった。より価値あるものを選択する善と、より低い価値の方をとる悪である。裸体であることを悪しきことと捉え、動物的裸体の恥部を覆い隠すことを善とし、善を選択して、これを実行した。『創世記』は、この間の展開を絶対神をふまえて否定的に、失楽園の話にしているが、宗教的脚色を取り除いて、ここに尊厳をもった人間の誕生を見ていくこともできよう。絶対神の『創世記』創作のはるか以前に人は人となったのであり、原始の人たちは、焚火を囲みながら、あるいは洞窟の奥深く壁画に魅了され、神がかりしつつ、アダムとイヴのこの話に類したものを、自分たちの知恵の獲得の話を、誇らしく語っていた可能性もあろう。善悪を知り自律自由のもとこれを選択して生きるのは、人間だけである。自身にとって価値あるものとないものを知って、価値あるものを選ぶ善と、価値のない、あるいは低い方を選ぶ悪とをもって生きることになったのが、人の根本だというのである。動物にも幼児にも、なお善悪はない。善悪の知恵の果実は、子供の手のとどかない高みの木に実っていた。幼児は、動物と同様に、裸を悪いこととして恥じるようなことはしない。人となることは、善悪を知り、自身のその善悪への自由の行動に責任をもって生きるということである。悪への責任を問えるのは、悪を知る人間のみである。理性のもとに良心・良識を育てて、善悪を知り、よりよい生き方を自身で自由にできるのが人間の(尊厳の)核になる。原始、洞窟の薄明りの中、裸で無垢の子供たちは、善(悪)の印である恥部を隠す大人の厳かな衣装に憧憬の眼を注ぎつつ、アダムとイヴのような、尊厳を有する人間創成の話を聞いていたのではないか。
ひとは、一つのものにその多様な欲求をもって、それを満たすものとしての価値を多様に見出し、その間の高低の価値づけをする。一つのものも多様な価値をもったものとなり、多彩な価値世界を作り出す。自然感性のもとにはない、普遍的概念的なものをもって世界を捉えて、これを自分たちの諸欲求を満たすものとしての価値をもってランク付けしながら描き出し、それを自由に選択することになった。より価値があると自身の判断したものを自由に選択してこれを実現していくのである。善悪の価値世界を創造し、自律自由の世界に生きることを人間は始めた。動物は、善も悪も知らない。善悪の判断ができない場合は、罪を問うことはできない。動物には罪を問えない。犬や猫が店先の魚を盗んだとしても、盗られた方が悪いと言う。あるいは、稲田に水がいるとき、自然が一切雨を降らさず干天を続けるとしても、それを悪事とはいわない。自然は、ひとに対して悪意をもって雨を降らさないのではない。ひとであっても、幼児には犯罪の責任を問えない。あるいは、心神喪失状態でなしたことも、そのことへの善悪の判断がないものとして、悪への罪を問うことをあきらめる。成人、人が人に成るとは、尊厳を有する人間的人格を備えた者になるとは、善悪の価値判断ができる知恵を有したホモサピエンス(知の人)になるということである。アダムとイヴは、善悪を知ることで(良心・良識を培い)動物を超越して人間になった。彼らは、悪(自然体としての裸)を避けて善(恥部を覆い隠す)を選択した。だが、ひとは、アダムたちが自身の自由のもとで善をとったように、逆に悪を選ぶ自由も有する。のちの者たちは、しばしば自然感性(裸体)を優先して悪に誘惑されて恥ずべき悪事を行うことにもなっていった。
6-7-4-5. 情報社会に登場した新規の悪
情報産業が飛躍的に拡大し、社会は、物の生産からして革命的に発展しつつある。その中で、否定的な方向において昨今目につくのが情報機器をつかっての新しい犯罪である。ネットでの情報を巧みに操作して、詐欺を企てたり、秘密の情報を詐取したり、情報機器を遠隔から止めて困らせ莫大なお金を出させるなどの犯罪が横行している。粗暴な犯罪ですらも情報機器をつかって巧みになって、これを企む主犯は隠れたまま、ネットで知らない者同士を集めてこれに犯行を行わせるようなことにもなっている。
インターネットは、出始めは、善だけであった。だが、これが一般化するとともに、犯罪の多くがネット犯罪となってきた。「知は力」だが、これほど悪においても、知が巨大なものになった時代はなかった。これまでの犯罪に情報機器が利用されるというだけでなく、情報が大きな力をもつので、情報自体を狙った犯罪が多発している。もちろん、そういう悪用を阻止するために、情報産業は、セキュリティーの方面で、悪を阻止するように種々の対策ソフトを考案し英知を発揮してもいる。一部の社会的組織が情報を乗っ取られ支配され機能マヒに陥るようなことがあるけれども、根本的には、悪用を阻止して、その上により確かで高度の情報利用が行われている。現在は、情報革命といわれる人類の飛躍の時代に入っている。
この情報社会においても、尊厳を有する人間世界のより良きもの、善への道の方が、圧倒的に進化し巨大な価値を産みだしている。生産においては圧倒的にそうで、遠隔からの制御情報で重機を動かし、工場は無人で動くのが珍しくなくなっている。消費の方面でも買い物も予約もスマホで済ませるのが普通である。貨幣ですら、これを無用にして仮想通貨(暗号資産)に代わろうかという大変革の時代になっている。窃盗犯は、仮想通貨という、万国通用で跡がつきにくく、しかも大金になるものを狙うには、相当に情報機器の利用に長けていることが必要となっている。悪事に便利なソフトなどには敏く、情報伝達のツールでテレグラムなど通信の秘密を守るに優れたアプリは悪用されているようである。だが、そこでは、悪用もあるというだけで、表では圧倒的に有益な情報が未曽有の大きさ・多さをもって行き来するようになっているのである。
デジタル化して、本などの情報が、あまりにも簡単にコピーできる時代になり、知を売る者には、死活問題になるようなことも出てきている。これを制限する著作権や特許権は、知・技術を発展させるには、効果があるということで、自然権となろうコピー権は、逆にコピー禁止権として現在は喧伝されている。しかし、コピー(禁止)権は、人為的作為的なものであり(したがって何年間かのみ禁止ということにしている)、パンや肉などの物とちがい、いくらコピーしても減らないという情報の本来的な特性とは合わない。情報にとっては、束縛であり、禁止は、いうなら必要悪である。簡単には閲覧もできなかった貴重な古書でも、今は、信じられないぐらい容易にウェブで自宅で読める時代である。絵画なども、美術館では細部は見えないものすらも、ウェブで詳細にみることができる。しかし、作家は、それでは、生きていけないということになるので、著作権等をもって保護している。もっとも、かれらも、隠して見せないようにしたいのではない。生活できるようになるなら、大いに公開することであろう。著作権は、なるべく使わず、コピー(できる自然)権を生かすようにしたいものである。
6-7-4-5-1. 個我が理性的全体我と対立する限り、悪は生き延びる
インターネットが出始めの頃は、そこに悪を想定することは少なかった。善意の者たちの間での画期的な情報伝達の手段としてバラ色に描かれた。だが、いまは、悪がいたるところに侵入してきて、その技術知は、悪用との闘いが大きなウェイトを占めるようになっている。思い直せば人類の本性は置いたままであり、悪も立派に生き続けているのである。これまでの国家が法をもって対処してきたその多くは、悪との対決にあった。その悪がいまは、情報社会に適応して情報を利用することに中心をおく時代となった。情報を乗っ取って脅迫して大金を要求するといったことがあるため、病院とか会社はセキュリティーのために必死の対策を行っている。各個人においても、IDとかパスワードとかが頻繁に求められているが、悪が入り込まないのならパスワードなど不要のはずである。これまで、財布を盗まれないように、強盗に襲われないようにと警戒していたように、昨今は情報社会固有の対策が、情報利用での安全確保が必須となっている。
理性的には、よりよいこと、より価値のあることとしての善を選ぶ。だが、ひとは、理性のみで生きるのではない。動物的感性をもっての個我なのでもある。その個我は、全体のことを踏まえることなく、エゴの感性・衝動にしたがって動こうとする。全体を無視して個我のエゴのみで動くならば、規範を踏まえた全体とは対立することが生じる。そのとき、エゴを優先すれば、全体は、無視されて、他の者は、そのことで生じる不利益を被ることになる。そうなると個我のすることは全体の法・正義と乖離し悪となる。そのエゴの身勝手な衝動をなくすることができない以上は、悪は、永続性をもつ。その現れ方は、価値物の窃盗であったものが、まずは価値ある情報の窃盗となっている。ひとの本性が変わらない限りは、おそらく、窃盗とか詐欺は続く。
現代では、犯罪は、情報の悪用が中心になってきている。老人は、昔は、強盗にあっていたが、いまは、それよりは、電話での詐欺被害が中心である。これまでは、価値物を窃盗され、脅迫され暴行を受けるというようなことを中心にして犯罪、悪があった。だが、粗暴なことは少なくなって、情報機器を巧みに利用するものにと悪の在り様が変わってきている。粗暴犯が動物的衝動によって動く場合はこれまでと変わらないが、ずる賢い強盗の首謀者は、情報にうとい若者を集めスマホでテレグラムなどのアプリを使って脅迫、指示し、跡が残らないようにして実行犯にするようになっている。悪の阻止には、国家がこれまで法をもって警察組織をもって対処していたように、情報を中心にした犯罪にも、警察のような国家組織をもって対処することが必要である。刀や銃器は、害獣退治などのための強力な利器であるが、悪用を避けるために安易な所持は禁じるような対策をしている。情報流通では、一般のウェブとは別に、もっぱら悪事に使うダークウェブの世界があるということだし、通信の秘密のしっかり守られるアプリのテレグラムなど悪用に便利なツールもある。ダークウェブとか、アプリ一般の悪用を厳罰にするとか禁止する等の対策が必要となっている(悪のためのアプリなど、国家を超えた国際的なものが多く、かつアプリはいくらでも作れるので、もぐらたたきの状態にとどまり、根絶は困難なようである)。犯罪とは無縁の人気のあるサイトでも、中には、閲覧数でお金が入る仕組みなので人の目を引くような嘘をばらまく者も出てきている。些事であれば、「やられた!」で済むが、人権を冒したり集団的なパニックを引き起こすようなデマは、個と全体にダメージを与える。そのサイトで責任をもって対処し、国家は無責任なサイトには厳罰や閉鎖といった強い姿勢をもって本腰を入れて取り組まねばならなくなっている。
悪は、自由の人間存在のもとでは、絶滅とはならないだろうが、生産力が巨大化し人口が減少してベーシックインカム等で万人に生活が保障されることになろう近未来においては、個我に基づく悪の必要性は低くなろうから、犯罪・悪も少なくはなろう。恵まれた者は、少々気質からして劣悪なものであっても、そうは犯罪を起こさない。現に、いまの日本の各分野のトップは、犯罪者となることは少ない。ひとを蹴落とし押しのけてトップになるぐらいだから、並外れてあくどい心をもっているはずである。だが、恵まれた地位にあれば、つまり、もうお金があり、権力もわがものにしているから、詐欺や強盗のような悪事を企むことは、不要となっているのである(ただし、性犯罪などは、逆にお金や地位を利用して多発傾向にある)。
6-7-5. 苦痛に耐えて、人の諸能力は開発される
人類の営為は、単に対象的に新規の多彩な外的な世界を見出すだけではない。その挑戦において、新しい試みということで、既存の自身の能力を越えて、気づいていなかった能力を働かせ、新規の能力を開発していくことにもなる。苦痛に耐え、快を抑止しての人の営為は、自然を超越した営為であるが、その忍耐を貫くには、自身の既存の能力の可能な限りを駆使していかねばならない。が、それでもかなわないことも生じる。そのとき、自身のうちにあって未使用の能力、自身でも気づかなかったような未知の能力が発揮されてくるようなことがある。
左脳が損傷したとき、右脳が左脳の抑制から解放されて優れた能力を発揮することがあるという。左脳は、言語・論理能力の源のようで、それが右脳にあるとかの視聴覚・芸術的機能の働きを抑止しているのだとか。その言語能力が事故などで損傷したようなとき、優れた芸術的能力の解放されることがあるという。ひとには、現に発揮している能力を超えるものを抑制して未発状態にしていることがあって、教育・訓練の仕方次第では、未知未発の力の発揮されることがありそうである。脳には余裕があって既成の使用を越えて新規の能力を使い始めることが可能である。腕力でも、火事場の馬鹿力をいうように危機に際しては自身の日頃の能力を越えるような力が発揮される。そうでなくても、筋肉が酷使されて痛むと、回復時には、より強い筋肉になってくる。既存の自己が否定されることで、より適応能力を高めて強くなった自己を創造していくことになる。否定され叩かれることで人の能力は一層高いものにと成長していくことができる。逆に、温室育ちで忍耐不要の生にあっては、通常の能力も育たないひ弱なものになる。温室育ちの三代目は、家をつぶす。
苦痛に忍耐して、苦痛を超克することで、新規の世界の獲得できることがある。盲目に苦しむ人は、レーダーのように音波をつかって周辺を知ることが可能になるという。自身の口で音を出して、それが周辺から反射してくる在り様を把握していくのである。もちろん、周辺で鳴っている音とか空気の流れ、或いはにおい等のありようで、ここに路地があるといったこともわかるという。これは、成人してからでも獲得できる能力になるようで、実験的に盲目でない者でやってみても、だんだんと音波を利用して周辺が把握可能になっていくということである。
さらに未知の能力が、苦難を通して開発され育ってくるかも知れない。動物には冬眠や夏眠をするものがある。これは、そう難しい特殊な能力はいらないであろうから、ひとでも必要になったら可能になるかも知れない。冬眠の方は、冬の六甲山で遭難し3週間ぐらい仮死的状態になっていた人が助かったというニュースを聞いたことがある。夏眠の方は、聞かないが、地球が温暖化してくると猛暑の夏は動きにくくなり、場合によっては、夏眠ができるようになる可能性もあろう。そんなに難しい心身の振る舞いが必要なものではないし、「必要は発明の母」というから、そういう能力を発揮してもおかしくはない。ここでも苦痛(極寒とか極暑)がひとの新規の能力を発揮させることとなろう。苦痛とちがって、快楽の方は、新規の能力開発を押しとどめる。それに満足しのめり込むのみであるから、挑戦することは不要で、現状に停滞するだけとなろう。使わない小刀は、錆びついて切れ味が悪くなる。
6-7-5-1. 昆虫や魚にみる特殊な能力も、ひとに潜在しているかもしれない
生命は、原始的には一つから始まり、その枝分かれとして無数の種になり、その諸能力を種々発揮してきた。したがって、現在はまるで異なった知覚能力となっているものでも、さかのぼれば、ひとつであり、魚などの直系の祖先のみならず傍系になる昆虫などの特殊な能力を、ひとも潜在的にはもっているかも知れない。
魚や鳥には、地磁気を感覚する能力があるとかいう。北海道の鮭がオホーツクとかベーリング海を回遊して後、また北海道に帰るのは、地磁気を感知してのことであろうと言われる。あるいは、蜂は、偏光を感覚して飛んでいて、それをもって自身の巣に迷わず帰ってこられるようである。試行錯誤、困難を繰り返すなかで、そういう能力を獲得していったのであろう。人の場合は、こういう方面では、自身の感覚能力を高めるより、外部に自身の感覚器官の延長として磁石とかレンズ等の外的装置を創造し、これを巧みに利用していく方にと力を注いできた。
昆虫の世界は、人知を相当に超えた世界である。しかし、同じ地球の同じ原始生命の子孫である人でも、昆虫に独自的な能力がどこかに眠っているかもしれない。今の脳は、言語能力の左脳によって、芸術的能力の右脳の働きが抑制されているとかいう。つまり潜在的には、現代人は、未発のもっと大きな芸術的能力を有しているのである。その能力を発揮できているのが画家になり、一般人でもそういう能力が刺激されて、自身にもよくわからないが魅力的な絵だと芸術鑑賞ができているのかも知れない。絵画のピカソとか建築のガウディなどの芸術は、通常の人間的知覚からは奇怪であるが、かれらの作品に共感する人たちがいる。ガウディのサグラダ・ファミリアの建造物あたり、巨大なアリ塚の感じである。その内部空間も、大きな蓮の茎が並んだような感じで、自分がトンボかアメンボになったかのように錯覚させもする。同郷のピカソの世界も、単眼三つ複眼二つで見るトンボから見た世界だと言われれば、ひとの目には奇怪であるが、あるいは、そうなのかもと思えもする。かれらの描く世界は、人間を超えて爬虫類とか昆虫の感性をもってして成り立っている新奇の世界になるのかもしれない。人は、好奇心旺盛で、異世界には常々ひかれてきた。奇怪なガウディやピカソが一部でもてはやされるのは、ひとのどこかにそういう能力が潜在していて、それの強い人たちはかれらの奇怪な芸術に共感するのかも知れない。カメレオンやカブトムシにいわせれば、人間世界はとほうもなく奇怪な世界であり、それよりはガウディやピカソの方に親近感を抱けると言いそうである。現代人が普通に見ている世界は、かなり現代人的主観のもとでの一面的な見方にすぎない。二次元平面の眼球に映った映像を三次元化して脳は見る。したがって、ときに錯覚も生じる。同じ長さの線でも、その両端に矢印を逆方向につけると一方の線を長く見てしまう。いま一般人が見ている世界は、いまの人の見方・見え方にすぎず、錯覚の一つと言えなくもない。画家が奇怪な絵を描いているのは、彼が奇怪なだけでなく、これを奇怪と見る我々自身も奇怪なのでもある。世界も人も、もっと多彩であり、未発未開の人の能力と多様な世界が眠っているのであろう。
音の世界も、自分たちの聞いているものを普遍的とするのはおこがましいことである。コウモリなど、超音波で対象世界を捉えているという。ひとが音に抱くようなものとは相当に異なる。同じひとでも、音の感じかたは異なる。いま江戸期の日本音楽に魅される人はごく特殊である。現代の若者の音楽は老人には耐えがたい騒音である。少し時代をちがえるだけで感覚は相当に異なってくる。どう聞き、見るかは、固定したものでなく、新規に聞き直し見直せるのである。さらに、既存の感覚知覚を超えたものも必要に迫られれば可能になってくるのではないか。
6-7-5-2. 自覚している限界は、かならずしも限界ではない
自分の能力の限界だと意識しているその限界は、そこで自身の能力発揮をストップさせるが、自信のある類のものでも、安全な低いレベルを自身の限界としていることがある。自覚する自身の限界の上を行くことがときに生じる。日頃は甘えて限界を低く設定しているのであろう。100メートル走は、自分には13秒が限界だと自覚し、これ以上は無理と自身納得するようなことがある。だが、ヒグマやライオンに追いかけられるようなときには、おそらく自身の抱いていた限界を超えて力を振り絞り「火事場の馬鹿力」を出せるのではないか。自分で13秒が限界と思い込んでいるので、日頃はそのように自身の力の発揮を自己抑制している面があるのではないか。
人の頭脳は、自身で一部の働きを抑制しているようである。左脳の言語論理能力が歴史とともに重要となってきたので、右脳の視聴覚の能力などは、それのもとに制御され、かつその自由な芸術的能力の発揮は、抑制気味になっているといわれる。この右脳の能力を自由に発揮するならば、多くの人が優れた画家になることであろう。古代の壁画は、暗闇の洞窟に描かれている。現物を目の前におくことなくして躍動する動物を描いている。見たものの詳細を右脳で捉え記憶できていたということであろう。現代でも、幼稚園児が、見事な写実的な絵画を描くことがある。それが、言語能力を優先する教育のなかで失われることがあるようである。有している可能性を抑制することなく、発揮するようにしておくなら、意外に多彩な能力を人類は発揮できるのかも知れない。身体能力でさえ、自己抑制していて発揮できていないことがある。それが火急の場では、信じがたいような馬鹿力を出すようになる。ましてや、なお捉えどころのない脳・心的能力については、この方面での研究が急速な進歩をしているようであるから、いずれ、各自の自覚をはるかに超えた能力の開発・発揮が可能になるのではないか。
ひとの尊厳は、動物を超越するその心的能力において言われることだが、はじめから尊厳となっているのではない。動物として生まれてだんだんとその心的能力を高めて、尊厳にふさわしいものにとなっていくのである。存在する尊厳ではなく、生成する尊厳として人間は未来に向けて生きていく。心的能力を一層開発していくことで、その尊厳は一層輝かしいものとなっていくことであろう。
錯覚は、自身の捉える世界が意外に狭い体験に基づく一面的なものであることを自覚させる。見聞きする世界は、これまでの体験をもとにして作り上げているもので、主観と客観の合成像である。それを日頃は、純粋に客観的世界と思っているが、かなり主観的であることを自覚し自分の既成の世界は、世界像のひとつにすぎないことを知って、もっと多様に世界を捉えていくことがあってよい。視覚の世界は、圧倒的に人の生きる世界であるが、音の世界と同様、これも、かなり主観的なものである。光の一定の波長を色ととらえているが、色は、世界そのものの元にはない。主観のうちで創造しているものである。線の長さを錯覚して捉えることがあり、色や明度における錯覚もある。目に見る形は客観的にあるものだというが、これも、二次元の像として目に映じてこれを三次元化して捉えているのである。体験を重ねるなかで、人間世界の都合によって、客観は、構成されている。見る方向などから一つの丸い形のものが角度を変えてみると四角に見えたりする。平面の道路に陰影などに工夫をして、深い穴があるように見させる絵を描く悪戯も可能である。今見ている世界を絶対視せず相対化すれば、もっと多様多彩な世界への目も可能になって行きそうである。
6-7-5-3. 劣化・退化も、新しい道を見出している
進化し、高度化するとともに、無用なものは、部分的に退化する。長距離の歩行は、日常的にはなくなり、車とか電車で移動するのが普通になっている。あまり歩かないから、歩行能力は、劣化して退化しているといってもよい。移動に便利な手段が発達し、遠方への移動は、徒歩中心の時代には命がけであったものが、いまの人類では、ごく手軽に快適に行えるようになっている。旅行は、多くが楽しみですることとなり、クルーズなどでは、豪華なホテルが移動してくれている状態で世界各地の旅を楽しめるようになっている。車があり船があり飛行機があるということで、歩行することは少なくなり、その能力は、退化していっている。
農工業は、人力劣化と平行して機械化して新たなものになっている。栽培作物や工作物での勘、経験を積んでの直観力は、厳しい経験が少なくなるとともに劣化・退化していても、人に代わる多様なセンサー、正確繊細な機器をもってして、より適切な対応が可能になっている。不器用な者は、引け目を感じなくて済み、器用なものは、センサー等の機器利用の方面にとその能力を伸ばせるようになっている。
鈍化・退化しているからといって、むやみに劣化しているのではなく、進歩で無用になっているものが、必要ないので、そうなっているのが普通であろう。進歩の道のもとで、不要になった心身の部分・機能が退化している。おそらく猿の時代にはあったであろう、なお痕跡のある尻尾は、無用になって退化している。食に関しては、現代では毎日食べるので、食糧不足での空腹への耐性は、劣化しているであろう。が、毎日食べられるので、多彩な栄養を楽しむことができるようになっている。苦味とか酸味は、有毒のものへの感覚によるのだろうが、これを少し加えることで、一層、美味の食を可能にしている。その方面の味覚は、おそらく、繊細になっているのではないか。
必要にせまられれば、新規の心身の能力を向上させることも可能である。潜水具なしで深く潜る場合、呼吸を止める時間が問題になるが、呼吸停止に鈍感化するというか、耐久力が大きくなり、何分も潜れるようになっている地域があるようである。代を重ねて、内臓に酸素をたくさん蓄えられるようになっているとかいう。高地では空気が希薄になっていくが、ヒマラヤやチベットの高地の民族は、高地に適したものになっていて、高山病には無縁でおられるようである。外的に、潜水具とか酸素ボンベとか高い技術で新規の一層大きな能力を外的装置において獲得するのが多くの場合だが、それが難しければ、身体を訓練して、より高い適応能力も獲得できるのである。
眼や耳の使いすぎで、その劣化が問題となっているが、ひとは、外部の機器をもってその感覚知覚の能力を未曾有のものにしていってもいる。大は、巨大な望遠鏡を空気のさまたげのない宇宙において、肉眼では到底不可能な繊細な星や星雲の像を提供でき、小は、電子顕微鏡の類をもって肉眼ではあることすら分からないウィルスのみか、原子レベルのものまでも見出せるようにもなっている。そういう機器は、可視光線に限定しないで広範囲の光をも利用しているが、人自身も他の一部の動物のように、可視光線の外の紫外線とか赤外線をも見ることが、必要ならできるようになるのかも知れない。
6-7-6. 尊厳をもって未来に生きる人の自信と謙虚さ
ひとが未来においてより卓越したものとなるのは、現在の自己を犠牲にし否定して乗り越えてのことである。その苦痛に耐えて、未来により高い自己を実現し、より高い自己同一性を獲得する。現在に留まりつづける自己同一は停滞であり、自己否定を通して未来に自己を実現していく、より高く生成する自己同一性が求められる。現在の自己は、苦痛となるものから逃げず、これを克服して未来に生きる。自己を批判しそれを克服しその苦痛に耐え抜く。理性的尊厳を有するひとは、自己内の動物性を制御し忍耐できる自身の能力を誇り信じて引き下がらず、自信をもって人間らしく生きる。さらに、そとからの厳しい批判・苦痛も回避せず、これから逃げず、しっかりと受け止めて、その批判の合理性を受け入れ自己を根本的に否定する謙虚さも有している。理性的存在としての自己に自信をもち、外的批判を謙虚にうけとめて、内的外的批判の苦痛に耐える中で、未知・未開発の自身の能力も開花してくる。
その各自のあるべき自己実現は、類においてそうする。各自は、属する社会・類のもとでの個として役割を自覚し使命を抱き、その責任を感じつつ生きる。自己は、普遍的な概念・理念をもって理性的にふるまい、類としての個に生きていることを誇りとし自信をもっている。その類・社会の在り方に強く規制されていて、社会的な目を自己自身のうちに有している。個にえこひいきしない良心・良識を各個は内にもつ。自己内の良心は、自己に冷酷であって自身に厳しく懲罰を加え手加減しない。時には自身に死刑を言い渡すこともある。己の良心の前にひとは謙虚である。己を虚しくし、引き下がり譲り、これを素直に受け止めて刑に服する。
ひとは尊厳を有するが、神や王の尊厳と異なり、不動のものではない。未来により豊かな自己を創造していく動的な存在である。人の自己同一は、自己を創造的に否定して未来に自己実現するものである。その尊厳は、動的に、未来において、より確かなものとして現れ、自身が納得できる否定を経てのあとに生成する未来の尊厳である。神の尊厳と違い、仕上がったもの不動のものではなく、未来に仕上げていくべき尊厳である。自身の納得できる尊厳は、未来の自己にあり、現在の自分は、その尊厳をもった未来の自己を目指して犠牲・苦痛をはらって尊厳の存在にと成って行く。その尊厳への生成に自信をもっており、かつ、なお未熟であると自覚して謙虚である。
ひとの尊厳は、ひとが自然的基礎をうちに有して非尊厳をかかえつつ尊厳になろうとしているものとして、非尊厳との葛藤を内在している。しかも、同じ人間・生命の無数の尊厳を有するものの衝突のもとにあって、しばしば非尊厳扱いされるものでもある。内外において、非尊厳との衝突・葛藤をもってなりたつのがひとの尊厳である。神や王のように不動の仕上がった尊厳ではなく、自身の動物的な非尊厳との葛藤・矛盾状態に陥ることにもなる不安定なもので、その尊厳は、成って行く未完の尊厳である。それへの反省の度が過ぎれば、自身に劣等感をもち、逆に自信を持ちすぎれば、尊大になり過度の優越感をもつことになる。自身が意識して尊厳を維持する構えをもっていなくては動物的自然に舞い戻り、非尊厳にと陥ってしまうのでもある。尊厳への生成に自信を有しているが、同時に、現在の未熟な自己の自覚においては謙虚である。
6-7-6-1. 人間の尊厳は、各自の個性の尊厳にと具体化する
人間は、理性的自律の営為を根本とし万物の霊長として至高で尊厳をもった存在である。各人、人類の理性を分有し、したがって人類の尊厳を分有して、各個人が尊厳を有している。個は、類を具体化、特殊化した個別として、さらに、それ固有の尊厳をも有している。個人は、社会の中で自身の能力を生かした使命を担うことがある。使命は類・全体が個人に託する類的なもので、卓越した個に担われる。その使命は、個の尊厳となり、個の自尊心を満たす。宇宙飛行士は、卓越した者に託される使命として、これに類の前衛としての使命感を抱いて、人類のためにと命をかけている。それは、その個の卓越性を語り、尊厳を有した使命であるとともに、人類、人間の尊厳を明かしているということになる。
人類は、理性的存在において至高で尊厳を有するが、それは、個体において具体化し、各分野に、より優れてふさわしい個を生み出している。個は、その分野において、卓越したものとして、得意な方面に自身を生かして全体の中に役立っていき、自身の生きがいを見出すことになる。数学的能力に秀でた者は、そういう方面においての人類の理性能力を生かしていく。それは、その個人の理性的能力の尊厳を明かすことであり、同時に人類の理性の尊厳を証することでもある。
ひとは、身体をもち自然感性をもった者でもある。各人に個性的なものがそこにもある。理性のリードのもと、身体的に技術的に自身の高い能力をもって、優れた技術者となり、スポーツマンとなる。それは人類の能力として、類の卓越性となるのでもある。芸術家は、感性的に特殊な能力があり、画家であれば、同じ白色でも一般の者には、区別のつかないものを区別できる能力をもっていて、その方面ではだれにもまねのできないことが可能となる。それは個人の卓越した能力であるが、また、人類の能力ということであり、尊厳ということになる。人類の能力がそういう個人において開花・結晶しているのである。
平凡、劣等と意識している個であっても、かれは、この時空間において、唯一の個性をもって存在しているのであり、決して代替できない実存である。固有の過去を背負い、固有の未来に生きる。永劫の時間と無限の空間のうちで、ただ一人自分が占有する時空間をもって、唯一のかけがえのない存在、自己意識を有した貴い存在として生きている。この自己意識をもった主観は、世界の中心に存在しており、自分がなくなれば、その世界も消滅する。人である限り、類として尊厳の核である理性を担い、その個にしかない過去と未来に、類的能力・特性をもって唯一のかけがえのない存在として生き、人としての尊厳を有した個として存在し生成していく。他律によらず、理性のもと自律的に自己が自己を未来に向けて作って自己実現していく存在として、その各個体は、比較を絶して尊厳であり、唯我独尊の絶対的な存在である。比較不能の絶対的実存として、万人が万人ともに、その実存において、尊厳を有する。
6-7-6-2. 個の能力は、類を背負って開花する
個は、類の個であり、個として自立してはいるが根源的には非自立で、卓越した個人も、その生きる時代の子、民族の子である。その理性的能力も、時代と民族のうちにある。時代を飛び越えては発見も発明もできない。いまの最先端をいく科学技術も、すぐに全世界に広がり、各民族の卓越した多くの個のもとで、どんぐりの背比べとなる。個は、全体のうちの個である。大発見、大発明といわれるものは、個人によるとしても、それは、その時代と人類が、その個を通して実現したのである。ドイツ生まれのユダヤ人アインシュタインは、現代を導く物理的発見をした偉人だが、個としての才能は知能指数160ぐらいであったろうというから、どこにでもいる、頭の良い男と評価される程度の若者であった。しかし、時代と世界のトップランナーとなった(ちなみに、トランプ大統領も、知恵の使い方はまるでちがうけれども、ウェブによると同じぐらいの知能指数だとの噂である。自身も知能指数の高さを誇っているとかいう。が、彼を嫌悪する者たちは、知能指数70台だとこき下ろしている)。アメリカでは天才教育が盛んで、知能指数が高い(150とか200の)若者たちに特別の教育をすることがあるようだが、青年になるころには、凡人になる者が多いという。知能指数300ぐらいの男子が、成人するころには、社会にうまく適応できなくなり苦しみつつ凡人として生きることになったというような話もある。日本でも神童は、多くが大人になると凡人になる。個の才能は、その成長の中で、時代の類的精神を背負えてはじめて大きく生きてくるものなのであろう。
個が発想することは、類のその時代の求める発想である。全体・類なくして、個の人間らしい生き方は成り立ちえない。言語が人の営為の中心にあるが、その言語は、個だけのものとしては成立しない。類的にのみ可能なものである。他に伝達することが根源的な使用法であって、そこから個のうちでの理性の道具ともなる。だれもがその民族の理性・精神のもとで生きる。音楽などもその民族と時代のもの(音階など)をふまえた個である。ベートーベンは、その音楽の才能を押しつぶすような肝心の音の感覚、聴覚の悪化で散々な目にあった人物だが、時代の動きに大きく目を開いて、その時代その文明下の音楽をしっかり受け止めて、一歩先を照らすような斬新なものを発想した。ベートーベンは、先立つ時代の西洋音楽の蓄積を踏まえて成り立っている。オーケストラの成立があって、しかも時代が近代ヨーロッパ市民社会を成立させるようにとフランス革命等に歴史的展開をしていた中で、バロック音楽などとはまるでちがう、市民社会の喧騒、精神を背景にした音楽を生み出したのである。
絵画なども、類、民族や時代というものがあっての創作である。芸術の場合、類、種のそのときの精神と、個のそれのずれることがしばしばとなる。すぐれた才能を有した個は、時代や民族の先を行き、その大勢を占める精神とは合わないことが生じる。ゴッホなど、いまは、彼専門の美術館もできるぐらいに高い評価だが、彼が生きていたときには、いくら描いても売れることがなかったという。時代は、彼に冷淡であった。だが、その絵は、普遍的類的な卓越性を秘めていた。現代日本では、彼は西洋絵画の中では群を抜いて人気がある。ゴッホ自身、日本の浮世絵に、日本の風土にあこがれていたようで、日本人の琴線に触れるものを描き出しているのでもあろう。棟方志功は、このゴッホの絵(雑誌「白樺」の口絵(≪ひまわり≫の絵))をみて感激し、「わだば、日本のゴッホになる」と夢中になって油絵を描き、その中で、独自の領域として版画を見出し、個性豊かに版木におのれを彫り込んでいった。彼は、ゴッホに触発され、日本人の精神を踏まえ、現代社会の類的精神を感得して、これを版画に表現しえているのであろう、現代人からの高い評価を得ていることである。
6-7-6-3. 個の尊厳の核となる理性は、類の理性からなっている
人類の尊厳の核をなす理性は、各人に内在して働く。その個の理性は、個のものではあるが、類の理性を体現している。個の理性は、その論理展開もその使用する概念にしても、すべて類的であり、通じ合う共通の言語で展開する。個のうちで展開する要素の概念から論理まですべてが、その属する全体のものあり、民族、類・種のものである。普遍的な理性的概念とか民族の言語を捨象したら、その個人の理性のうちに残るものはおそらくほとんどなくなるであろう。個として理性的に深慮し意志するとしても、内容的には、人類の全体における普遍的なものの一部である。しかも、各個はその類的な理性・概念を熟知しているつもりでも、意識できているのはほんの表面でしかない。「右」の概念を述べよといっても、普段は自明のものとして何気なく使っているが、その定義すらも、簡単にはできないであろう。いうなら、各個は、類的概念のほんの表面を意識して使用しているだけである。もちろん、その各個に理性概念は内在しており、時間をおいて沈思すれば、ソクラテスが言ったアナムネーシス(想起)をすれば、「右」のうちに、それまで思いもしなかったものが自覚できるのでもある。
自然が相手の場合は、水の概念も、原子の概念も、どの言語で表現しようと、原則、齟齬は生じないであろう。だが、社会が問題になる場合は、その社会での生きざまが法や掟となり、習慣・習俗となるから、たとえば、同じ正義(justice)とか同情(sympathy)の概念でも、その言語によって異なることとなる。日本では、正義は、最低限の道徳の面が意識されて、あまり高くは評価されない。同情も、家族内では使わず、他人との間にのみ使う冷たい共感である。だが、西欧では、これらの概念は、高価値・広範囲のものであり、家族内でも、それに従って生きる。とはいえ、同じ人類として、根本的には共通した概念内容をもっており、同じ理性的普遍的な構えを万人共通してもつ。社会的な場面で中心になる理性の働きは、尊厳を有した良心、良識に集約されるが、これは、各個人のうちにはぐくまれているものではあっても個人のためのものではない。共同的全体が良心・良識としてその個に内在化してその意志を導くのであり、良心は、個が全体・理性から外れたことをすると、これを個自身のうちで、いましめ改めることを強要する。良心は、個のうちにあるからといって、決してその個にえこひいきはしない。個のうちの理性は、個を支配し導いて、その尊厳を証する。
個のうちにあって理性は、これの隅々にまで浸透していて、個が思い意志し、行動するときに、指導的となる。その個が動き考えるのではあるが、つねに、その内的根源において、すでに、理性的全体的に動いているのである。自然科学のように普遍的なものを普遍的に解明したものは、即、誰でもよい個のもとでの理性の成果となり、端的に類の至高性、尊厳を表すが、それが自然感性をもった個と不可分の領域では、例えば、芸術などでは、その個に結んだ卓越性となり、尊厳となる。物理とか数学の領域では、それを進める個人は、だれであっても、似通った卓越した成果を生み出す。微分・積分は誰が発見したのであっても、それがニュートンであろうとライプニッツであろうと、或いはひいき筋が言うように日本の関孝和であったとしても、その数学的内容自体は、その人格の個性とは無関係にとどまる。微分・積分を習うとき、誰の発見かを学ぶことはまずない。だが、感性的なものを不可避とする音楽や絵画では、類の卓越性であるとともに、その個的人格の特性が前面に出る度合いが大きい。ベートーベンの音楽は、彼の個性と不可分であり、それが同時に人類の音楽というものの卓越さを語るものになろう。積分と聞いてライプニッツを想起する人はまずいないが、『運命』ときいたら、圧倒的なひとが、ベートーベンを想起する。
6-7-7. 動物的感性を踏まえて生成する人間的尊厳
自然は、自己同一を保つ。動物も、その生の自己保存を根本営為とする。それは、快不快をもって導かれる。だが、ひとは、動物であることを超越する。ひとは、快不快を超越し、今の自己を乗り越えて、明日の自己となる。現在を手段・踏み台にして、より優れた自己を実現していく。未来に高い目的を描いて、これへと成って行こうとする。そのことを阻害する快不快、とくに不快・苦痛を乗り越えて進む。苦痛は、生の破壊であり、これより先にはいくなという自然の戒めで、動物はその苦痛の柵のうちに留まっている。だが、ひとは、これを乗り越えて、超自然の新世界へと進出する。
自然を超越し尊厳をもった生き方をしている人間であるが、他方では、ひとは、自然感性・身体をもったものとして、同時に動物であり自然的存在なのでもある。自然において動物的な存在として生きつつ、理性存在として超自然的に卓越した生き方をしているのである。自然の存在としては、ときには、理性よりも感性を優先して、これに流されて愚かしい非尊厳の状態に陥ることもある。非尊厳に引き込まれそうになりつつ、尊厳であろうとするのが人の日々となる。ひとの生きる世界は、苦痛に忍耐することをもって、超自然的世界へと生き様を拡大するが、しばしば快不快に流されて自然のうちに留まりもする。非尊厳の底辺からこの世の尊厳の頂点までの多彩な世界に生きることになっている。
神は、この有限の物質世界を離れた超越的存在として想定されている。祖先神など、むしろ、この世を離れて、つまり、自然身体を失い死んでのちに可能になるものとして想定されている。だが、この世の人間は、常にこの自然世界に足をつけていてはじめて、その尊厳の理性も、崇高な魂も存在可能となるのである。身体・肉体という土台を失った魂・理性等の精神は、同時にその存在を不可能としてしまう。あくまでも、土台の身体・自然世界があっての、精神である。身体の死は、同時に精神の死となる。脳の機能・働きをもって成立している精神ゆえに、身体としての脳が死んで機能しなくなれば、その高度の、尊厳のよりどころである理性精神も停止して存立不可能となる。
ひとは、日々、身体を手段としてこの世界に関わりをもって、精神的に生きている。自然身体を理性精神が制御して人間らしく生きている。理性的尊厳は、身体自然を見事に制御・支配するところに成立する。だが、自然、身体は、精神の制御にかならずしも従順ではない。身体的感性は快不快で動こうとし、それが理性的にみて有害なものでなければ、ひとは、これを自由に動くままとするが、それが自身や周囲に有害なこととなれば、理性は感性・衝動を抑止する。感性は抵抗するが、これを支配制御して、人間らしい振る舞いをさせる。自然感性・身体的営為を支配し制御して、理性は、あるべき振る舞いを実現して尊厳の自己を保つ。
6-7-7-1. アダムとイヴは、二つの禁断の木の実で尊厳の人間となった
旧約聖書『創世記』によると、アダムとイヴは、禁断の木の実を食べて楽園追放(=人間社会の誕生)となった。肯定的に捉え直せば、動物的自然世界を卒業するには、禁断の木の実を食べることが必要だったということだが、禁断の木の実には二種類あった。ひとつは、アダムたちが食べた知恵の木の実である。ひとは、知恵の木の実を食べたために、知恵において自然を超越して尊厳の存在となっていった。もう一つは、(永遠の)生命の木の実であったが、これは、食べないままに終わった。この生命の木の実については、禁止を犯さなかったということで、通常、無視される。あるいは、食べていたらどうなっているのだろうと、不老不死等で想像をたくましくする程度である。だが、大切なことを語っているというべきである。生命の木の実は、身体的生命が死なず永遠になるという果実なのであろうが、これを食べなかったのだから、ひとも他の動物と同じように、有限なままの寿命をもって死ぬ自然存在に留まるということである。この身体は、ひとの自然の根本であり、自然感性・衝動をもつ。ひとは、いまも、動物と同じように食欲や性欲をもって個と類の再生産を行い生老病死の生命の営みのもとにある。その寿命のある身体(自然感性)を有しつつ、ひとは、他方で、自然超越の尊厳を有する知恵をもっているのである。自然超越の自律的な理性を有しつつ、他面において動物的自然感性を有し続けているという人間の存立の根本様態を、知恵と生命との二つの禁断の木の実の話は、上手に語っていると言うことができよう。
身体自然は動物のままでありつつ、知恵をもって人間となっているのであるが、その知恵、理性知は、ひとを自律自由の存在にした。自身を自身で知って、思うようにと未来に自身を描き出して、未来に自己実現していく。理性は自身で自身を律して生き、その自律のもとに、土台の身体自然を制御支配している。知恵は、自身の自然身体を通して自然そのもの・万物を、しっかりと洞察しつつ制御・支配してもいった。自己と自然の卓越した支配において、ひとは、尊厳の存在となった。ひとの尊厳は、知恵の木の実を食べた理性知に根拠をもつと同時に、その尊厳の、神と異なる特性は、生命の木の実は食べず動物的自然状態を土台にしつづけていることにある。
『創世記』は、ひとが万物に名(オノマ)をつけていき、それを神はよしとし、万物を支配させることにしたと語る。命名は、個物でなく、ロゴス(ことば、理性)をもって、類を把握し普遍的な概念をもって世界に関わることであった。個物世界の感覚を超えた理性知をもってこの世界に関わり、普遍的理念・概念をもって生きていくこととなった。人が支えあう社会についても、自然的な群れを超えて、英知を動員して制御していった。共同的に生きていくうえでの規範を見出し、ひとの諸欲求のもとに物と人の在り様を価値づけ、その選択に関して、より価値あるものを選ぶ善と、逆の悪を見出した。知恵の木の実は、善悪を知る木の実と言われているが、自然的動物世界にはない善悪の規範を見出し、これに則って生きることになった。善悪を知るのは、ひとでも、なお子供では難しい。『創世記』の善悪を知る知恵の実は、果実として、当然樹木の梢に、高みにあって、子供にはとどかないものであった。子供は、動物と同じく、善悪を知らない状態にとどまるので、悪への罪は問われない。ひとが成人、人と成るには、善悪を知ること、良心・良識を具備することが必要なのであった。
6-7-7-1-1. こどもは、知恵(理性)をもって、人と成る
アダムとイヴは、知恵の木の実を食べて楽園追放となった。この展開は、現代も、子供の成長において、反復されていることである。生まれると親の庇護下の楽園に育ち、動物的欲求に生きて、しだいに成長して、知恵をもつことで、人と成り、自立して、そとの世界へと羽ばたいていく。成人、人と成るとともに、楽園から追い出される。それは、性的な成長ということでもある。アダムとイヴが、知恵をもって、自身の性(恥部)に気づいてきたことをイチジクの葉の話は語る。そういう性的成熟期になると、自分で人並のことはできるということであり独立する。父母という神的存在(なかには、邪神も混じっているが)のもとに育まれての家庭は、子供には、エデンの楽園であり、自立は、楽園追放、失楽園の始まりということでもある。甘えは、もう許されない。保護されていた父母のうちから出て、世間の荒波にさらされて辛い目にあいながら、厳しく困難な道を自身で切り開いていく。人生の苦難に耐えて、自立した一人前の人間になっていく。アダムとイヴの楽園追放の話は、現代の子供の覚悟すべき事態なのでもある。
ひとが人と成っている成人は、『創世記』では、善悪の知恵をもっているということである。いまでも、子供は、大人なら犯罪となり悪となることを犯しても、罪には問われない。動物がそうであるように、善悪を自覚せずその判断がつかないものには、悪を意志しようがなく、悪の責任を問うことができない。善悪を自身が自由に選択できるだけの知恵を備えていない者は、なお、人に成り切れていないのである。そう現代でも見なす。ひとがひととして尊厳の存在となるには、善悪を知ることが出来る状態にまで成長することが肝心となるのであろう。
エデンの園のアダムとイヴのように、子供は、家庭という楽園の中で育まれて、やがて善悪等を知る能力を獲得して、心身が自立した人間となって独り立ちして行く。思春期になれば、少年少女は、父母の子供ではなく、一人前の男性女性として生きていくことを自らに望むようにもなる。現代では、いつまでも、父母のもとにいる者も少なくないが、本来は、性的成熟の歳になると、父母の心配などをよそに、自らに外に出ていき、やがて独立した新規の家庭を作り出していく。アダムとイヴの場合は、追放された。キツネなどの動物の親は、暴力的に子供を追い出す。もう一人前なのだから、後ろを振り向かず前進せよと、尻を押す。
『創世記』のエデンの園からの追放、失楽園の話は、人類が、知恵を獲得して、自然を超越し、苦難の歴史を刻みはじめたことを、辛苦の労働と苦痛の出産をもって示す。それは、自立・独立した若い男女に固有の苦しみであろうし、誇りでもあろう。知恵の木の実を食べたその知は、なによりも善悪の知恵と言われる。子供、未成年ではまだ善悪の判断がしっかりしておらず、良心・良識がなお未成熟である。それを乗り越えて善悪の社会的規範を自覚できる歳になるのが、人と成り成人することである。善悪の木の実を食べて良心・良識をわがものにした各自は、自身において自律的に善悪を判断して、自身の行為に責任をもって生きていくのである。
6-7-7-2. 知は、信とちがい、神を懐疑し冒涜する
『創世記』は、ひとが知恵を得たことに否定的で、これを、楽園からの追放を引き起こした人類の根源的な罪とみなした。これは、宗教としては、もっともなことである。ひとは、真実に生きる存在である。知恵(理性)をもって物事の真実を解明し、これに従ってひとは、合理的に生きるが、その理性知は、真実を追求するがゆえに、虚妄の宗教的信を否定し冒涜する。宗教にとって知恵は、禁断の実である。
宗教に必須の心の在り方としての信、信じるということは、本来、知ることとは相いれないものである。信じるのは、知りえないものに限定される。知ったら、もう信じる必要はない。事故に巻き込まれて知人が死んだと聞いて確かめえないときは、信じる以外ない。だが、その死体を見知った時点からは、もはや信は不要である。重大な物事が存在しているらしいということがあっても、それが知りえない状態では、身の対処のしようがない。そこで、全力を尽くして知ろうとする。本当かどうかは、分からないから、知れるまでは、知りうる情報を収集しつつ懐疑することになる。知れば、懐疑は無用となる。本当か嘘かと分かる。だが、最後まで知りえないとき、これを確定して反応・対応するべきことがあると、あえて懐疑を停止して、これを真として受け入れるか、偽として排除するかを迫られる。そのとき、知的な懐疑のままを踏まえる者は、真とせず、不定か偽にととどめる。そこで真とは知りえないのだが、理性の懐疑を停止し麻痺させて、真として受け入れるのが(したがって、知からいえば、真でないものを真と主張するという点からは虚偽をかたるのが)、信じるという態度になる。
知的な懐疑の心を有した人間は、真実を知ろうとする。その真実のための懐疑を捨てて、言われるものをそのままに真として受け入れるのが信じるということである。知りえないものは、懐疑心をどこまでも働かせるべき対象になるが、その知的営為をストップさせて、信は、成り立つ。知りえたものは、信じる必要などない。神が信じる対象であるとは、本質的に、神自体は知りえないものだということである。西洋では、絶対神の存在を証明しようと必死になったが、結局無駄な試みに終わった。神は、あるのかないのか知ることはできない。神を、「非合理ゆえに信じる」と言った者があるが、言いえて妙である。神の存在は、知では合理的には首肯できない非合理なものである。知としては神の存在を把握することはできない。知るのが不可能だから、信じる以外ないということである。知りえないとき、人知は懐疑を深めるが、有ってほしい願いを強くもつ者は、その人知を停止して懐疑を捨てて、有るものとして信じる。知からいえば、それは虚偽の主張となる。信仰する者が、信にとって知は妨げになると言うのはもっともなことである。絶対神が存在するものなら、人の前に姿を見せるだけで済むのに、それすらできないということは、人の前にときに現れる幽霊以上に、実在していないというべきであろう。真に存在する姿を見ることができ、知ることができれば、万人がこれを受け入れることである。不信心の私ですら、真に神が現れたら、存在を認める以外になくなる。ただし、存在していたのだとすると、絶対神を認めるけれども、人類をさんざん苦しめひどい目に合わせ続けたのであるから、到底、愛や尊厳の対象にすることはできない。
アダムとイヴは知恵の木の実を食べて知的懐疑をはじめた。その懐疑・批判の関所を通過できたもののみを真として受け入れることになった。超越神は、この世を超えていて知りえない存在である。それを、知的な懐疑をストップして、真として受け入れようというのが、信である。信仰は、知と相いれないものである。神は、知恵を獲得したアダムとイヴを追放した。知恵をもつものは、いずれ宗教を否定し冒涜することになるから、当然と言えば当然の追放であった。
6-7-7-2-1. 人知は、信をもって自身の限界を乗り越えることもある
信は、妄想・蒙昧に人を閉じ込める信仰などとしては否定されるべきだが、信自体は、人間の知とそれに基づく営為にとって大切なものである。妄信・迷信・信仰は、虚妄・虚偽に追随したものとしては否定されねばならないが、信用・信頼・信念・自信等は、社会生活にとって大切な人の心構えとなる。ひとは、なんでも知ることができるわけではない。知では、把握不可能なことがあり、しかも、その知りえないものを、あたかも知った事柄として真実・事実として仮定し受け入れることがあってはじめて前に進めるというような場合がある。そこでは、知りえないから、信じることで代行する以外にない。
日常的に、信じることが価値ある営為となる場面がある。ひとを信用するとか、信頼するというのが、それである。未来の行為の約束は守られるかどうか不明であるし、第一、守ろうという意志を本当にもっているかどうかは、内心の事柄として知ることができない。それを、相手の言うことが真実だと(知りえないから)信じる。信じて用いる。信じるのであるが、なお、警戒心・懐疑心は、残しているのが信用である。特定の事柄の裏づけをもって、その限りで、これを信じ用いる信用である。日本では、さらにその上に区別して信頼を置く。その人格がしっかりしていて全力を尽くす人間だと頼りにできるのであれば、懐疑・猜疑の心は停止しして、その発言や約束を信頼する。信用できる人間は、どこにでもいるが、信頼できる人間は、高く評価された人物に限定される。信用・信頼の信の果たす社会的な役割は、未来に向けて生きる人間の間では、大きい。
自信や信念も各自の営為に大きな力となる。自分の能力・意欲等の在り様を、まだ、発揮してみないとどうとも言えないとしても(したがって、知りえず、信じる以外ないのであるが)、頼りにでき頼もしい能力なのだと自らに信じて自信をもつなら、もっている力はしっかりと発揮されることとなる。信念は、自身の指針・原理とするものを、間違いないものとみなし確信して(真実ではなく懐疑可能なものだが、これを信じ真として受け入れ)、これに与しこれに生きる信であろう。信念の貫徹力は大きい。自信も信念も概ね、信の有意義な在り方であろう。
虚偽で固めた信仰は受け入れがたいが、信者の信のもとでは、信頼や信念のような力を持った、首肯される類のものもある。イエスの起こした奇蹟は、最初の、水を酒に変えるそれは嘘かマジックであろうが、多くの不治の病を治す奇蹟では、病者の信が、知を超えたことを実現していた可能性がありそうである。イエスは「私を信じなさい。私のわざを信じなさい」と言い、これを素直に信じた不治の病者に「あなたの信が、あなたを救った」と言ったが、この信は、小賢しい自己を捨て、全面的に任せるという態度をとり、結果、自然治癒力などが大いに働いて救われることになった可能性がある。これは、現代でもそうである。偽薬が結構効くという。現代医学の粋の良薬と信じて受け入れれば、偽薬も相当に効果がある。任せ受け入れる直な信が、知を超える力を当人に与えることは、大いにありそうである。
6-7-7-3. 過去からの自己を生き、創造的破壊・脱皮を反復し未来に生きる
現代人は、地理的空間に関して地球規模に広がった日常生活をしている。身近にある物の出どころをたどっていくと地球の裏側から来たものであるようなことが分かる。また、時間的にも、はるかな過去を自分たちのもとに見出すことも多い。今使用している文字は、漢字であれば、中国の古代にさかのぼる。あるいは、アルファベットも日々使用するが、古代の中東を思い、さらに古代中世の文明に思いをはせることになろう。人類の経験を蓄積して現代が可能となっているのである。
経験世界の拡大は、時空間にとどまらない。感覚的経験世界を踏まえつつ、それを超越した超経験的な理念世界が聳えたっている。感覚と理性との総合からなる世界が広がっている。そういう広大な世界を踏まえながら、各人は、己の過去を踏まえて現在に生きる。その現在は、誰とも代替できない天上天下唯一の実存の生である。しかも、過去から現在に生き続けてきたのみではない。未来が真の目指されるものとして、自身を駆り立てていく。真実の自己は、未来にある。未来に向かって目的を立てて前進し、さらには遠い未来をも目指して生きている。自身の前進は、過去を捨てること、自己否定することに始まる。現在の自己をも否定し破壊して、未来の自己へと、創造的破壊をもって生きる。チョウやバッタのように脱皮を繰り返して、過去を破壊・破棄して未来に人は生きる。未来の自己は、自己否定・自己破壊をもっての自己の実現であり、真実の自己への還帰である。
無限大にも広がる世界に生きる人間であるが、それが可能になっているのは、これを阻害し妨害するものを除去し、これを乗り越えていくことがあればこそであろう。快で、好奇心を満たすことが駆り立てていく場合もあろうが、そこですら、妨害があり困難があるはずで、苦難・妨害を乗り越える姿勢がなくては広大で高尚な世界に至りつくことはできない。アダムは、神からエデンの園を追い出されて苦難の労働をすべき存在にされたというが、その苦難に耐えて働くという根本姿勢は、確かに人類の在り方である。苦痛を甘受し、これから逃げることなく忍耐するという姿勢である。それが、人を人としたのであり、尊厳の存在としたのである。
各人は、小さな唯一の実存を核にしつつ、広大な世界にとかかわりをもち、過去を踏まえ現在の瞬間に生き未来にと自身を歩ませる。それは、感覚感性の自然世界を踏まえ、かつこれを超越した精神的理念的な世界であるが、これは自身の獲得した理性がそれを可能とする。現在の各自は、理性的に未来を描き現在をその手段・プロセスと位置付けてそこに生じる困難・苦痛から逃げずこれを甘受し忍耐を重ねて、幾度となく自己否定・自己破壊、創造的破壊の脱皮を繰り返して、より価値ある自己の実現へと歩みを進める。ひとが至高の存在として尊厳を有したものであるのは、理性的に生きて広く高く世界を拡大してきたことにあるが、その貴く困難な歩みが可能になっているのは、どんな苦難・苦痛からも逃げないでこれを甘受する忍耐・我慢があればこそと言っても良いのではなかろうか。
6-7-8. 矛盾・葛藤、生成のもとでの人間的尊厳
ひとは、自由の存在である。動物的自然から自由になって、理性をもって自律的に自身の在り方を決め、過去・現在を踏まえつつ、それを超出して未来にと生きる。自身で自由に生きるには、人を束縛し強制するものを乗り越える必要がある。ひとは、自然のもとに生成してきたものとして、自然的な束縛を逃れることができない。動物を超越して神的に精神的存在として自由に生きようとしても、その動物性を土台に背後にと引き下げることはできても、これをなくすることはできない。精神が純粋に生きるために、動物的生を破棄する意志は、もてる。それを実行したら、純粋な精神のみの存在になれるはずだが、存立の土台を失うことになって、精神的な生自体も消滅せざるを得なくなる。動物として生きている限りにおいて、その束縛を踏まえつつ、精神は、その卓越した領域をつくって自由に生きることができるのである。人の尊厳は、自然を超越した理性的至高性にあるが、その超越した理性のみで尊厳を成り立たせているのではない。非尊厳の土台にしっかりと支えられながら、その土台の上に立って、ひとの尊厳の成立は可能となる。
ひとは、神とちがい、この物的自然世界から完全に超出することはできない。そう意志することはできなくはないが、そのとたん、精神的生自体が無化してしまう。錯覚としては、魂のみが身体を抜け出て自由に振舞うことができるけれども、それは睡眠における意識内での白昼夢的営為にとどまる。真に身体を捨てるとなると、脳の働きが停止し、脳が死ねば、当然その魂も消滅してしまう。ひとは、どこまでも、自分を支えている動物的生とつきあっていかねばならない。ひとの動物的な生と高度な精神的生は、その生きざまにおいて、対立し、葛藤状態におちいりもするが、その動物的生を踏まえつつ、これが支えられない状態にまでなることは避けて、精神的生の高揚をはかるのである。
それは、身体と心の対立・葛藤にとどまらない。動物的な欲求と精神的心性との衝突になり、本心と外向けの中庸を保った合理性にのっとった心の葛藤等ともなる。あるいは、個我として個的身体を踏まえて生きている自身は、全体的な社会を踏まえた自身とは異なったエゴイストの生であり、その個我は、社会的な全体を意識する大我、良心とか良識とは、しばしば対立する。その対立・葛藤を繰り返しつつ、反省し妥協しつつ、よりよい自身の現実を模索することである。
自身の個我、身体は、個体を保護し維持するために動くが、ひとは、理性をもった尊厳の存在であり、動物性を克服した全体・普遍・合理性をもつ精神的存在として生きようともつとめる。戦争などで全体のために自身が犠牲になり死ぬ必要があるという展開になったとき、理性は、納得するとしても、その個我の感性は、これを拒否する。その葛藤・矛盾から逃げず、妥協の細道をさがしつつ、個我を踏まえた理性は、おのれの有り様を決断していく。そういう個我と全体との自己内での矛盾・葛藤を乗り越えて、あるいはそういうことをばねにして、よりましな自己の生成にと努める。
6-7-8-1. 動物的生を支えとした精神的存在
ひとは、動物でありつつ、それを土台にして高度な精神的存在となっている。その動物的生を放棄すると、同時にその上にそびえている精神的生も消滅してしまう。常に、動物でもあることを踏まえていなくてはならない。精神的に卓越した存在でありつつ、同時に、どちらかというと弱虫の動物なのでもある。基本、精神的に生きるのであるが、つねに動物的なものによって制約されたり、支えられたりしているのであり、動物でもあることを忘れることはできない。動物的な食や性は、人間的生活でも、大事な営みとなる。男女の性が社会的生活に肝要な事態となることはしばしばである。食も、自然を踏まえて、その社会と時代によって相当に異なったものとなっている。その動物的な食や性の欲求は、人間の基本欲求となり、精神生活のうちで、多彩な展開をしており、単に喉を潤すお茶でも、茶道となって、精神を豊かにするための手段とされたり、性欲は、しばしば、芸術のための素材となり、創作意欲をつくりだし、鑑賞の意欲を誘うことになっている。
だが、その動物的欲求は、精神固有の営為とは別であるから、純粋に精神的生の展開にとっては、妨害となることも生じる。宗教では、動物的欲望を抑止することが大きな課題となりつづけた。性欲を抑止することが教義において求められるが、生身の動物でもある聖職者のこと、しばしば異常な性愛にふけるようなことにもなった。性欲を、堕落させるものとして否定しつつ、生きている限り無化しきれるものではないから、精神的生の純粋な生き方をとろうとする者は、これと葛藤を続けることになった。それをほどほどに抑止して、精神的生を高度に保つことが日々求められたことである。性欲を抑止し独身で仏につかえる僧侶が、お気に入りの小僧を性的な慰みものにすることもしばしばあった。キリスト教世界でも似た性的な逸脱がかなりあった。身体がなければよいのにと何度も思ったことであろう。あるいは、隣人愛に満ちた聖人で通っているひとが、弱虫の動物として自分を偏愛するようなこともあった。聖人マリア・テレサは、自身が運営する医療施設では、病者の苦痛には、「イエスがそうであったように耐えなさい」と厳しかったのに、自身の苦痛については、これを回避しようと高度の医療を受けて甘く、矛盾していたとかいう。彼女は、身体が自分を悪魔にしてしまうと思ったことがあったに違いない。
性欲を絶つことはそれほど困難なことではない。異性のいる社会を離れれば、簡単にこれをなくすることができる。厳格な刑務所に入れば、食欲は依然健全だが、性欲は簡単に消滅するという。食欲は、一人になっても、生きている以上抑止できないし、抑止し続けると死となって、精神的生活自体を土台から破壊してしまう。ほどほどに食を充足することを踏まえつつ、精神的生の営みをそのうえに展開することになる。なくて済ませれば、動物的に他の生を犠牲にすることもないのであるが、何らかの生を殺めつつ生きることを受け入れる以外ないのが人の生である。人の尊厳は、動物的自然を超越した至高の存在であることにあるが、単に超越していてはなりたたない。常に、動物でもあることを踏まえておかねばならない。そこでの尊厳は、動物的生に流されることを抑止して、これを人間的精神的生のために生かすことで可能となるが、逆になりがちである。美酒・美食にのめり込んで非尊厳に陥ることになる。だが、そのような非尊厳状態を反省できるということは、それを脱して尊厳を回復できるということでもある。ひとは、自身を、尊厳を有した者と自覚しており、そこで動物的欲求に振り回される状態を悪しきこととして、その理性は自律自由を自覚しこれを克服していこうとする。自身を振り返り反省することができる。人間的尊厳を回復しなくてはと前向きになり、より確かな尊厳へと自己の生成をはかる。
6-7-8-2. 内心と外的表出の間での葛藤
人の内面・心は、動物的衝動・本能を有しつつ、その上にこれを制御する理性的意識をもって存在している。その外面は、余所行きの装いは、見栄えを気にし、人間的尊厳にふさわしいようにと心を使い、理性的に取り繕ったものとなる。外的な装い・表出は、内心・本心とは異なったものになることしばしばである。内の本音を言えばよさそうなものであるが、ひとは、両方を峻別して生きている。表向きは、発言しているようなことになるべきだと思いつつも、内心の赤裸々なエゴの欲望は、これを否定し、むしろ反対になることを求めているというようなことで、葛藤する。内の本心をそのままストレートに出したのでは、うまくいかないことが多い。ひとの感情など、其の場その場で目まぐるしく変わり、ときには、過激な鬼畜の欲望をもつような瞬間もある。しかも、一旦外に発言したものは、それが一瞬の過激な感情だったのだとしても、当人の真の思いはそこにあると固定されもする。うちに生じたものを不用意に出してはならないということになる。「お前のようなえげつない奴は、二度と顔を見たくない」とその時の過激な一時の感情で発言したら、そういう思いは、ほんの瞬時の過激な思いであったとしても、外に発言したとなると、その発言が本心と見なされ続け、おそらく、そう言われた者は、二度と顔を出さないことになっていく。うちにとどめて黙しておくなら、その思いは(外的には)存在しないものとして、穏やかな関わりを維持可能とする。うちにある思いは、そとに発言するものとは区別して、しっかりと内心にとどめておくべきことになる。
ひとは、内外の違いに葛藤しつつも、その内面・本心を出さなければ穏やかに済むのであれば、うちから生じてくる過激な思いを抑止しつつ、表向きの冷静な思いや行動をとろうと努めることになる。エゴとしての個の思いを抑止しつつ、全体から見て正義となることをしぶしぶ語るというようになるのが普通である。が、場合によると、うちの思いが真実正義だというようなこともある。しかし、それを出しては、ことが荒立つということで、理性は、内面において正義と思いつつも、これをそとには出さないでいるようなことも生じ、葛藤を重ね悶々とするようになる。
外的な表現は、普通には、内にある自己を(屈折しつつも)外化するものであろうが、逆になることもある。外的事情が、自身の内面・外面を動かし、外的環境しだいで、内面をなす生き様自体も異なったことになる。その本心においては、おだやかで、他人思いでやさしい者であっても、外的事情しだいでは時に犯罪者ともなっていく。悪人になるか、善人になるかは、かなりが、外的事情によることで、相当に自身をあくどい心性の持ち主と自覚していても、恵まれた環境で、この上ない善人として生きることもあれば、優しい心性に富む者でも、環境によってはひねくれた悪人になってしまうこともある。善悪両面を具有しているのであり、可能性・素養としては、どのようにも現実化するものをもっている。
のちに大作家となった吉川英治が、親が病気で自分が稼がねばならない惨めな少年であったとき、切羽詰まって他人の畑のジャガイモをたくさん盗んできて、しばらく生き延びたというようなことを述懐しているが(『折々の記』「罪と新ジャガ」)、環境しだいでは、誰でも、そういう悪事に手を染めることにもなろう。したがってまた、環境がよくなれば、当然、そんな泥棒などせず、やがて、多くの大作をものにして国民文学作家と言われるような人物になっていったのである。あるいは、大会社の社長のようなトップに立つひとは、それこそ、吉川英治などとはちがい、人を蹴落として上に這い上がった者であればおおむね極悪のエゴイストのはずだが、皆穏やかで仏や菩薩であるかのように振舞っているのが普通である(窃盗や恐喝の傾向の強い人間のはずだが、もう大金をもち権力をもっているから、そういう類いの悪には手を染める必要がないのである)。人並外れて邪悪な者ですら、恵まれた地位に立てば、多くの場合、人格者としてふるまえる。ひとは、理性的存在として良心・良識を具備し、善悪を判断し、価値あるもの・善を追求する本性をもっている。悪を避け、善を求め、より良いもの・価値ある生き方をしようとする。邪悪な性向を有していたとしても、理性的制御をもって、動物的個我的な内面を抑え、人間的で普遍的合理的な体裁を整えて、卓越した生き方を各自において模索できる。それが、尊厳を有した人間の生き方である。
6-7-8-3. ひとは、個でありつつ類的全体に生きる
人間を含めて生命は、環境世界に対して、独立した個として生きている。その個体の生の有機的諸組織は、手とか足がそうであるように、生個体の部分として整然と、一全体としての個の営為のために統一的組織的に動く。手足という部分は、自立することなく、全体の動きに合わせてこれの統制下にある。統一的全体をなすこの生個体は、自立的に動くが、その個を集合させた大きな一全体をなすこともある。その集合的全体のもとの個は、一生命の手足のような部分とちがい、個として自立的で自律性をもって動くことが普通で、全体の部分には還元されない独立性をもつ。しかし、個だけで単独で生きる生命体もあるが、その類の再生産のための生殖、養育の活動はもちろん、個の生の維持のためにも、大なり小なりの集合的全体をもって生きていくのが一般的である。
全体と個の在り方では、個の営為をさほど縛らない緩やかな全体もあるが、多くは、個をその全体の部分品、消耗品扱いする。アリやハチの場合、個は、一全体の従順な部品に近く消耗品扱いとなる。個の独立は、希薄であり、全体から離れた場で、その個の孤立状態において個体維持に動く程度であろう。その所属の全体からの独立・自律の動きは持たないのが一般である。全体あっての個であり、全体が個に先立つといってもいい。だが、人間の場合、個体は、その行為の意思のレベルからして、全体(共同体)の部分としてのみ動くのではなく、その個体自身の生のために動くことが一般である。全体からの自由を有する。人間は、自然を超越していて自由であり、その所属の全体からも自由である。全体あっての個であるけれども、個が先立ち優先的であるのが人間の特質であろう。
人は、理性を備えた類的存在であるが、個としては、全体とは異なる各自の固有性をもち、その土台には自然的生命体としての食や性の欲求も有している。この個独自の欲求・衝動は、全体の求めるものとは相いれない状態になることも生じる。個として自律的で自由であるから、全体に反する意思も当然もつ。自己内で、全体的理性意志と、個体の個別的反全体的諸欲求との背反する状態になることが生じる。自己内で個と全体が葛藤することになる。原則的には、個のうちの良心が個の利己的な欲求を抑制して理性的なふるまいをとるが、命に関わるような事態に際しては、個の欲求・衝動は強力なので、良心・良識をないがしろにして、個のエゴを通すようなことも生じる。全体を代表する者が、個を尊重せず無暗に犠牲にするような場合、自律自由の個的主体は、全体の理不尽な命令には従わず、逃走や反乱をもって個を優先するようなことにもなる。
個と全体・類の葛藤では、類の求める営為が理性的合理性に則っておれば、個は、その生への欲求を抑止して、葛藤状態になっても、普通には類的なものをとるべきことになる。反乱・革命は時の全体・政権に背くが、それは、より公正でより普遍的な全体の理念をもってするのである。個は、根本的に類・全体の個であり、理性的で、良心や良識を内在していて、道理のある類的な営為を貫徹するように努める。そこに、理性をそなえた人間の尊厳がある。磔刑になったイエスは、人類のための犠牲になるべきことを自覚して、最期を迎えた。人を神に結ぶ媒介者となるべく覚悟して全体・類に死ぬことを意志した十字架上のイエスである。だが、かれは、「神よ、私を見捨てたのですか」と個的人間としての弱みを吐きつつ死んだ。個としては生維持の欲求を強くもち人間として葛藤しつつも、イエスは、全体のため類のためにと意志をつらぬき、その身を投げ出し犠牲となった。自らを神と妄信した人だったが、その志は、尊いものであった。
6-7-8-4. 自己否定による自己実現、破壊による創造
生あるものは、自己保存・自己維持につとめながらも、やがては死(破壊・消滅)を迎える。ひともそれは同じことである。ただ、ひとは、他の動物とちがい、自然のうちの因果性にとどまらず、未来に向けて目的論的に生きていることである。過去からの自己同一性・自己保存をふまえつつも、未来の自己へとその自己同一性を働かせる。つまりは、未来(の目的)に生き、未来の真実の自己に成ろうと自己実現につとめる存在である。真の自己は、未来にある。その未来の自己に生成しようとする。いま、法学部生であるのは、未来の裁判官になろうがためであり、真の自己は、未来の裁判官において実現される。今の自己を否定して未来にと自己実現していく。過去と現在を否定、創造的に破壊して、未来にと自己の創成をはかる。
生あるものは、その終わりに死という否定をもつだけではない。どんな生も、刻刻に、死を受け入れつつ、生き続けている。身体を構成する細胞は、刻刻と死に、新規の細胞と入れ替わる。その死を通して、全体の生は維持・保存されている。ひとは、さらに、未来に生きるものとして、その過去と現在を踏まえつつも、これを乗り越えて、これを遺物とし死すべきものとして破棄して、先にと創造を重ねていく。過去のものを保存するとしても、それは、未来の生に有意義となるものに限る。未来に向けての存在意義を失った過去・現在は、いさぎよく破壊・破棄して(もちろん、記憶等を中心にして対外的な人格の同一性は維持しつつ)未来に新規の生を創造していく。法学部の学生であることをいつまでも維持していたのでは、留年生・落第生ということになる。時期になったら、法学部生である自己を破棄し創造的に破壊して、法曹の世界にと飛躍していかねばならない。法学部生として留年しつづけ、その外皮をいつまでもつけていたのでは、法曹人としての生を不可能にしていく。いさぎよく、その外皮は脱ぎすてて、未来にと新規の自己へと飛び立っていく必要がある。
同じ状態におれば安楽であることが多い。とくに、快適な状態にあっては、これにのめりこみがちとなり、停滞した自己の同一性を維持しがちとなる。「三代目は家をつぶす」というように、安楽な生では、停滞した快の状態では、いずれ没落していくことになる。バッタのような似通った脱皮の反復になるか、チョウのように、蛹になるまでの脱皮と成虫になるときの大脱皮をするかは、ひとそれぞれであろうが、過去の自己を否定し、その殻を破壊して、新規の自己の誕生を迎えることを繰り返していくことが、人において求められる生の全うな在り方となる。法学部生から裁判官にと脱皮するだけでなく、弁護士に転じたり、チョウのようにまるきり別の新規の試みをもって会社を興したり、農業・林業に挑戦するようなこともあろう。いずれにしても、ひとは、未来に生きるものとして、過去を創造的に破壊して、新規の自己を創造していくことが求められる。チョウもバッタも、脱皮なしでは、飛び立つことはかなわず、死ぬ。ひとも過去の破壊なしでは、停滞あるのみで、未来の真の自己は、創造されることなく死ぬ(もちろん、チョウやバッタとしての同一性は堅持しつつの脱皮であるのと同じく、人格の社会的な同一性は維持しつつであるが、時には人格の同一性すらも破棄した大脱皮・変身も行う)。創造は、創造的破壊である。破壊なくして創造なし、「死して成れ(Stirb und Werde!)」である。
創造的な破壊であっても、破壊には当然、破壊されるものの苦痛がともなう。破壊を受け入れるとは、苦痛を受け入れる、苦痛に耐えるということでもある。苦痛は、さらに、新規の創造自体にも伴う。未知の未来には困難が当然ともなう。この困難に耐え、その苦痛を忍耐することがないと、創造はできない。苦痛への忍耐は、創造・生成を実現していくために必須の心構えとなる。未来を創造していく卓越した人間には、苦痛への忍耐が必要であり、この忍耐の堅持において、人間的尊厳は輝く。
6-7-8-5. 矛盾・葛藤をばねに生成する人間的尊厳
人間は、自然を支配する卓越した存在として尊厳を有するけれども、自然から切り離されてはいない。自然を常に自身の土台にしていての人間的尊厳の生である。動物でもあるから、この動物的なものが生き続けており、食欲や性欲という人間の基本欲求は、動物のそれを離れることはできず、これに支えられ規定されつづけている。動物以前の無機自然からも離脱はできず、これの影響下にありつづけて、大空を自由に飛ぶには、無機自然の諸法則を踏まえていなくてはならず、引力を100%受け入れての、その制約を踏まえての飛翔に限定される。そういう諸自然を踏まえこれを土台にしつつ、これを超越するのであり、しばしば、自然の抵抗を受け、自然と葛藤・矛盾し戦いつつの人間的営為である。人間的尊厳は、出来上がったものではなく、自然との葛藤等を通して生成し創造されつづける尊厳である。
ひとは、過去を踏まえ、その支えをもって未来へと生成していく。それは、個の場合も類の場合も、同様である。動物としての過去を踏まえ、その食欲や性欲を踏まえる。過去を土台にしながら、これに従順であったり反撥・葛藤しつつ、未熟さを克服した真実の自己を実現しようと未来に向かって生き続ける。過去のもの、土台となっているものは、良好な支えになるとは限らない。過去のことは変更不能として残り続けるし、土台になっているものは、しばしば上位の層に比して強い力をもっている。それに背くことの難しいことがある。食欲は、精神的人間的営為にとっての必須の土台であるが、その動物的衝動は強力である。性欲もそうで、後者は人間関係のうちに動き、社会関係において強い働きをなす。人間的に洗練された性欲にと高めてはいるものの、その動物的衝動に負けて、高尚な人間関係を破壊してしまうこともある。ひとの尊厳ある営為はストレートに成就するとは限らない。土台、基礎にあるものの強い力に敗北することもたびたびとなる。禁酒・禁煙、ダイエットは、多くのひとが何回も繰り返す。人間的精神的生にふさわしい食欲にと制御していこうとするが、簡単にはいかない。その総体的な歩みは、直線的な向上ではなく、行きつ戻りつしながら、前に向かって、人間らしくなろうとの生成の歩みとなる。前に進むのだが、時に後退もする。生成は、後退・敗北を含みつつのダイナミックなものとなる。
生身の個我は、常に、動物とか無機自然を土台にと踏まえる。戦争への動員は、理性的に言えば、そこでの成員である個が犠牲になるのはやむを得ないという話になるが、動員される個我としては、その土台が動物的生命にあるから、生命を危うくするような話には、簡単には乗れなくなる。建前としては、だれかが前線に立って死闘を引き受けることがいるが、エゴ、生身の個我としては、動物的に抵抗したくなる。それでも、個我のうちの理性は、やはり、全体を見渡し個我にえこひいきしない良心・良識を働かせるから、類と個の鏡となる身近な人たちのもとに自己の尊厳を見出しつつ個我の抵抗を抑圧して自身が戦争に志願するようなことにもなる。個我の生保存とは葛藤状態になるが、それを抑止して正義の戦いに出て、命を落とすことも覚悟する。ひととしての悲壮な尊厳を堅持することである。
ひとは、個我の動物的心性を踏まえつつ、身勝手な動物として非尊厳でありつつも、理性を有し良心・良識をうちにもっていて、尊厳になろうとつとめる存在である。未熟を自覚した成熟・生成するものとして各人生きる。動物も神も、永遠にその本性を変えず反復するのみである。ひとだけが、生成する。自己否定を介しつつ、創造的破壊をもって前進する。「男子三日会わざれば刮目して見るべし(≒士別三日 即更刮目相待(『三国志』呂蒙による故事)」ということになる。創造的破壊の生成において、非尊厳から尊厳へと高まることをもって人間の尊厳は生き続ける。
7. 苦痛の価値論Ⅴ-世界観を創る苦痛
7-1. ものの実在は、手ごたえ(抵抗)や苦痛で知る
なにかが存在していることは、その手ごたえ(抵抗)があることで知る。箱の中をさぐって手ごたえがなければ、何もないという。空気はあるのだが、手には手ごたえがないから、ないのである。その空箱に、燃えるろうそくを入れて、その火が消えることになれば、燃焼にとっては、手ごたえがあるのであり、炭酸ガスあたりがいっぱい存在するということになる。とくに、箱に手を入れて、手痛い目にあえば、カニか何かとんでもない危害を加えるものがあるということで、単になにかあるようだではなく、危険な無視できない確かな存在をそこに見出す。苦痛は、まちがいなく、無視しがたいものの存在を知らせる。透明なドアは、目には、手ごたえがなく、ないものとしてあつかう。だが、入ろうとして頭をぶつけて痛ければ、そこに抵抗があり、手ごたえがあって、透明なガラスかなにかの障害物が存在していることを知る。苦痛は、痛いほどに存在を知らせてくれる。二度目には、何も見えず、何も無いようでも、透明なドアの存在していることに注意を怠らない。
手応えのうち、これが曖昧で、有るような無いようなと、場合によっては、自身の主体(感覚)の方の錯覚で、ひょっとしたら、その手応えの向こうにはなにも存在しないのかも知れないということもある。体温より少し高温の空気を入れたものをさぐると、有るような無いようなということになろう。だが、これを熱し、あるいは炎を導いて火傷を負わせるぐらいのものにしておいた場合、即熱いと苦痛を与えるものとなり、苦痛だと、得体の知れない何かが、苦痛を与えるものが確かに存在すると意識する。苦痛は、自身を侵し損傷を与えるものを感じ取るのであり、生(の保護)にとって、決して無視できないものを意識する。その手に火傷を負っておれば、何かがあって、それが手に火傷を負わせたと思わざるをえない。それは、自身、あってほしくないものであるのに、せめて幻覚であってほしいとしても、それを拒否して、火傷を負わせる存在として、厳として有るのである。苦痛は、自分の向こうに、否定できるものなら否定したい無であってほしいものなのに、拒否しがたく手応え(抵抗)を示し、その存在を突き付けてくる。手が痛めば、そこに苦痛とともに傷の存在を知る。そして、痛みがなければ、何も感じるものはなく、なにもないということになる。胃も盲腸も普段は、無である。有るはずだと思っても、有ることは知れない。痛むこと(厳しい手応え)をもってはじめて、その存在が顕在化してくる。
主観が客観的実在を知るのであるが、客観的なものでなく、主観の創作したものを客観的なものと思いあやまることがしばしばある。夢・幻覚等がそれである。眠りのうちでのみ生起している夢に対して、自身の主観から独立して自身の外にあるものが現実で、それは、自身の現実的身体の延長上に連なり、現実は、身体にまで入り込んで手ごたえを感じさせる。幻覚は、自身が目覚めていて現実的実在世界に係わるなかで生じるものであるが、それは、現実に存在するものではなく、自身の現実への感覚・知覚のもとにのみあって、対象世界そのものには存在しないものである。つまり、自身の感覚には手ごたえがあって存在するが、対象世界自体には、おそらく自身の身体にも、手ごたえ・抵抗のない無になる。絶対神を見る人がいるが、幻想・幻覚に留まる。神が有ってほしいと切望しその存在の証明に何世紀にも亘って神学者たちは努力を重ねたが、誰一人として成功した者がない。もし、存在するのなら、この実在世界に、我々の前に現れれば、済むことだが、それができない。実在世界には何の手応えもなく、神は、この世界には存在しないと言わざるをえない。
7-1-1.孤立した存在も、時空間を占有し手応えをもつ
存在を手応えとした場合は、当の存在自体ではなく、それのかかわるものから見てこれを捉えたものになる。それでは、独立・孤立した物の存在は捉えられず見逃されることになる。多くの場合は、そのものに対応する存在を問題にし、関わりの中にあるので、関わるものにとっての存在、手ごたえをもって、共に有るものとして存在を捉える。抵抗しあうもの、支えあうものが共に有っての、相互の存在の確認となる。箱の中をさぐって、手に抵抗するものがあれば、その抵抗する存在を知り、同時に自身の手が抵抗していることにおいて、自身の手の存在も知る。だが、共にある存在でない、孤立無援の存在もある。
単独の星は、何かへの手応え・関わりをもたずに存在しうるであろう。単独に周囲とは無縁に存在するものがある。だが、これも、時空間のうちに、特定の場に存在する。それは、その時空間を自身の存在する場として占有しているはずである。時空間の占有をもっての存在である。人が所属の社会から逃れて無人島に一人住むとすると、他の誰にとっても、手ごたえをもたない存在となる。だが、彼は、その無人島という空間を占拠し、特定の時間のもとに存在するのである。その時空間の占有は、この時空間への手応え、抵抗をもつことであり、その時空間への手応え=存在となる。その空間を占有するものは、なにもない空間を否定して、その場をそれでもって満たし占有するのである。空間にとっての抵抗・手応えということになろう。とすれば、やはり、存在は、手応え、抵抗とすることで通用することになる。人間的な(ホドロギー)空間になると、その空間自体が個々の人間をもって成り立つ。空間にとって、手応えどころか、人間存在が前後・上下・左右の空間を創り支える。人間という存在は、孤立無援で単独の存在であっても、空間と共に有るのであり、その空間自身をその人間が創造もしているのである。その時空間の中心にその人が手応え(抵抗というより、支え)をもって存在していると見なすことができるであろう。
無人島で彼が死んだ場合、その島の時空間においても手応えがなくなり、この実在空間にとって、無となる。ただし、誰かが思い出のうちに想起するような場合があれば、その人の記憶の時空間の中に手応えをもって有り続けることであろう。それは、その主観のうちの一定の時空間を占有してあるということになる。客観的にそれがないのは、客観的な空間のうちには、その場を占有し、手応えをもつものがないから、ないのである。ある・ないは、一定の場所、時空間のうちの部分を占有していること、そこに手応えを示しているかどうかということであろう。であれば、「ある」、存在とは、時空間を占めて手応え、抵抗あるいは支えをもっていることといえるであろう。孤立無援のものでも、それは、時空間を占めて、有るのである。「ある」と言われた時、見渡して、有りそうにないなら「どこに?」と聞く。それに対して「あそこに」「この前」有ったよと答える。どことか、あそこ、この前というのは、時空間を指す。有る、存在は、実在はもちろん、幻覚であっても、その各々の時空間の元に定位して、手応えをもって有るのである。
時空間は、物の存在の継起と並存の形式(秩序)であるが、これらも、存在を問うときは、物への手応えをもって確認する。物が並ぶときには、空間が制限し、あるいは支えをしてくれるという手応えとしてあろう。時間は、継起するものを可能にし、過去にさかのぼることを拒否するといった抵抗・手応えをもったものである。運動する物は、時空間の変異のもとに可能になり、時空間の抵抗や支えという手応えをもって可能となる。時空間は、物とその運動を可能とする形式であるが、逆でもある。人間的な時空間は、人間とその営為(運動)が創り上げるものである。物理的な時空間も、根源的には、物の存在と運動が創っているのかも知れない。
7-1-1-1.「あるSein」「ないNichts」「なるWerden」
場所を占有していることを「有る」と見ていいだろうが、我々は、その有るを、「存在」と表記することがある。その「存」は、時間的占有で、「在」は、空間的占有を語る。「存命」「在宅」は、前者は、一定の時間のもとに有ることを指し、後者は、一定の空間のもとに有ることを指す。では、「有」は、なにを指すのであろう。「そこに有る」というように、特定の場(時空間)への所属を、あるいは「お金が有る」というように、所有とか占有を指す。
多くの言語で、「ある」は、コプラ(繋辞)、be動詞に結び付く。主述を並べて叙述するとき、はじめには、「血は、赤い」と主述を並べて済ましえた。それを否定することが必要になったときには、「血は、赤く ない」と否定を無・非・否で示すこととなった。その後、その否定を拒否して明確に肯定するときには、「血は、赤い」だけでは、「ない」に対抗するだけの強さに欠けるので、無を拒否して、結びつくもの、be動詞「ある」をもって対抗することになったのであろう(そうでない言語もある。中国語は、有ではなく、是非の是をもって非に対抗する)。主と述を結びつけるために、積極的に肯定するものを持ってきたのである。それが「ある」の成立になるのであろう。日本でも、「彼は、嘘つき」が否定されて、「彼は、嘘つき、ではない」と言われたとき、これに反対し拒否する場合は、「彼は、嘘つき、である」と「ある」を使う。主語が、その述語を非・無と拒否せず、結びつけ、その述語を有していると「ある」は主張するのである。「ある」は、主述の間での結びつきを、したがって、その主述の間での相互の内属関係を示した。その「ない」「ある」の反復の中から、「ある」ということは、時空間等への内属、占有などを、「ない」、無は、そういう内属とか占有が見られない場合を指すことにもなっていったのであろう。
コプラ(be動詞)から見ると、無(でない)が最初で、有(である)は、その無を拒否して主述の結びつきを明確に確定するところに出てきたものであろうが、「ある」は、「ではない」の否定からではなく、「なる」から成立したものともみられよう。日本語では、成ること、生まれることを、「ある」ということがある。有るように成る、ということであろう。「痛みと成る」ことで、「痛みが有る」こととなる。成るは、有と成るのだが、無いところから成って有るのであり、この有は、うちに無を含んでいて、静止状態で有り有りと有り続けることはできず、やがて「無く成る」のでもある。成る、成は、コプラに基づく「では無い」と「で有る」の拒否の並列とは異なる。成のもとでの有は、無との統一において見出される。希望が有るというとき、単に有なのではなく、その無の絶望をうちに含みつつ有る。「なる」成は、無をうちに持ちつつ有るというこの世界のより真実の姿を、動いて止まない「成って有る」有を捉える。
ヘーゲルは、その(存在の)論理学の始まりを、有(Sein)におき、そこから、単なる有では、何も無いに等しいと無(Nichts)に移行し、現実は、両方の結びつきに、無が有になり(生成)、有が無になる(消滅)という成(Werden)として存立すると展開した。これは、物事の展開の基本的なあり方になる。昔話の語りなども、まずは、純粋な有からはじめる。「昔、爺様があった」と。その「あった」は、何も内容がない。無である。爺様が剥げていたとも、転んだとも、山へしばかりに行ったとも言わない。単に有るだけである。その話の時空間にまずは、有るというだけである。その話の場を占有し、あるいは、その場が内属させていたというだけである。そういう、登場させるだけの「あった」である。そこから次第に種々の事柄が生成してくる、その「成る」の始原の「ある」である。語り手のもとでは、すでに、「お爺さんは、禿であり、お人よしであり、雀の世話好きである・・・」と具体的な「ある」、有になっているのだが、それをまずは、抽象の極み「有る」とだけ言う。聞き手には、まだ、なんの「ある」でも無いから、無でしかない有である。この(無の)有からだんだんと具体的な有にと成っていくのである。
7-1-1-2.苦痛「がある(Dasein)」
一定の時空間を占有して、そこに入ることを拒むものとして物は存在する。そこに手を伸ばすと、入ることを拒んで抵抗のある状態に、その手ごたえに物の存在を知る。物は、一定の時空間を占めて存在する。存在するとは、その時空の場を占有しているということである。空虚な時空は、そこに何ものも存在していないことを指す。物は、時空間のもとに存在する。そういう存在を「がある」の定在、定有(Dasein)で語ることがある。空虚な時空間をいうように、時空間と物の定在は、一応、別である。時空間は、物の入れ物であり、物とは別である。しかし、物は、常におのれの時空間を有するもので、時空間は物とは別ではなく、物の存在の仕方の二つの形式・秩序だという場合もある。時間は現在・過去・未来からなるが、現在とは自分の生きている今のことであり、過去とは自分から見て過ぎ去った時であり、未来は、自分からみて未だ来たらざるものである。空間も、ホドロギー(人間的)空間は、人間抜きにはありえない。自分(人間)が原点に存在しての空間の成立であり、前後、上下、左右の三次元空間は、その人間が生み出しているのである。ユークリッド(物理的)空間の方面でも、昨今は物質による空間の歪みの形成をいい、空間の歪みが即、物だと言うこともある。遠方の星雲は、途中の星雲によって空間がゆがめられ歪んで見えるというし、空虚な空間というが、エーテルによって満たされた空間だというような仮説をいうこともあった。
空間は、物の並存の形式で、時間は、継起の形式であろうが、これは、物が存在しての捉え方で、何ものも存在しない空虚な空間・時間を想定もできる。それは、存在・定在もそうである。何ものでもない単なる存在・有(Sein)を語ることがある。だが、これらは、抽象した理念的世界においていいうるだけなのかも知れない。この世界は、一定の有、定在(Da-sein)であり、特定の時空間に定在してある。何もない単なる時空間、なにでもない単なる存在・有は、抽象として言いうるだけかもしれない。樹木があるというが、樹木という木は実在しない。有るのは、街道にならぶ特定の松であり、街路の楓である。痛みがあるとすると、かならず、特定の痛みとして胃痛、頭痛等として存在する。抽象したところでのみ、普遍・類は言いうる。空間も存在も同様で、実在するのは、特定の空間であり、特定の有、定在(Dasein)である。端的な存在・有は、抽象でしかなく、実際に実在するのは、特定の存在・定有である。箱をさぐって、手ごたえがあれば、何かが有るという。それは、手にとっての特定の手ごたえをもつものである。空気があっても、手に抵抗・手ごたえがなければ、なにもないという。ここでの存在・有(Sein)は、特定の一定の定有(Da-sein)としてあるのである。その定有の一定・特定のそこ(Da)とは、時空間的な限定ということになる。どんなものも、一定の空間を占めて有り、一定の時間のもとに有る。どこにという場合、客観的実在世界にと特定した定在(Dasein)であったり、主観内という場の存在(Dasein)であったりする。神の有無についていえば、信者は、実在世界という場にあると言い、非信者は、それは、単に信者の主観世界にのみ定在するものだと否定する。
有、存在(Sein)そのものを、一定の時空間を占めていることと言ってよいのかも知れない。いずれかの時空間を占有し手ごたえをもっていることが、有る、存在するということである。その一定の時空間を占めた存在が、定有(Dasein)である。なお、時空間自体も存在として捉えられるであろう。物の存在にとって空間は、そこに定位しうるための形式・入れ物であれば、そういう手応え(支え)をもっているのである。時間も、物にとっては、不可逆的に流れてやまないものとして、手応えを示す。物が存在するための、二つの根本形式(秩序)としての存在になるであろう。
7-1-1-3.苦痛「である(Sosein)」
物の定在は、特定の時空間を占めて有るということだとすると、なお、その存在の具体的な特定の存在様式については、触れていない。どんなものも、時空間に単にあるだけではなく、特定の在り方をもっている。同じ時空間にあるという場合、並んで有るというだけではない。相互に特定の有り様をもって具体的に存在する。つまり、箱の中に何かがあるという定在(Dasein)は、さらに、一定の手ごたえをもち、一定の手触りをもつ。手ごたえがあるだけでなく、ごつごつしているとか、温かいとか、手に刺激的といった特定の在り方をする。そういう有り様は、単にそこになにか「がある(Dasein)」定在をいうのではなく、そのものの固有の規定を示した「である(Sosein)」ということである。痛みを語るとき、皮膚に痛み「がある」というとともに、ズキズキする痛み「である」と痛みの様相を語る。箱をさぐって、なにか「がある(Dasein)」というとともに、そこに有るのは、リンゴ「である(Sosein)」とその存在の本質・特質を語る。あるいは、リンゴ「がある(Dasein)」とともに、それは赤くて甘い果物「である(Sosein)」(どの様に、いかなる相をもってあるのかということでSoseinは「様在」「相在」と言えようか)と有を区別する。時空間については、存在としては、空間は、物を並存させるという働きを有した様在(Sosein)であり、時間は、継起にと秩序づける様在(Sosein)だということもできるであろう。
燃焼における、実体として、燃素(フロギストン)を言った。「である」という本質規定、燃焼する実体として言われた。だが、そういうものを見つけることはできず、その時空間的存在「がある」は、否定されて、酸素をもっての激しい酸化と見なされることになった。だが、その後、酸化還元(電子の放出と受け取り)として電子の動きを燃素相当のものとして言いうることになった。燃素的(「である(Sosein)」)もの「がある(Dasein)」と言いうることになった。
手応え、抵抗は、時空間的な場を占有して、そこに入ることを拒否して存在を示すものであり、「がある」の存在を示す。この「がある(Dasein)」の存在するものの、有り方の固有性、本質規定の「である」は、Sosein(様在とか相在)となる。真田幸村とか猿飛佐助は、かつて少年(戦後しばらくまでの「かつて」だが)に人気があった戦国期の人物で、かれらがなにもの「である」かの在り様(Sosein)は、明確である。では、歴史上の実在人物なのか、かれらがいたのかという「がある(Dasein)」の定在については、猿飛佐助については、桃太郎などと同様、否と言わねばならない。普通、なにかがあるのかどうかを問題にする時、主語になるのは様在で、浦島太郎などとなる。そして、これが実際に存在したのかと定在を問う。一体、浦島太郎という人物は、歴史のうちに実在したのか、定在したのかどうかである。存在を問題にするときは、通常は、様在(Sosein)ではなく、定在(Dasein)の方になる。真田幸村は、史上の人物として定在したようだが、猿飛佐助は、おそらく、その歴史的な定在(Dasein)はなく、単に紙上にのみ、空想世界にのみ定在(Dasein)をもったものだったのである。
7-1-1-4. 有の反対の無は、有るのか無いのか
物は、手応えをもって有る。それを否定して、無いというところに、無が登場する。この無は、単に有る物を否定して、さしあたり、無いと無規定に突き放すだけの消極的なものにとどまる。手に痛みが有るというが、痛みの有が消えたら、単なる無になる。というより、その無自体は、無い。が、有と無が対立するという場合には、その無は、有に反対の手応えをもち、対等の対立的有となる。手の痛みの有と無とはちがい、その暖かさが無化したとき、場合によっては冷たさという反有の無が有ることになる。
有と無は、対立的に捉えられることがある。感覚的には多くがそうである。光という存在に対して、それに対立的に存在するものとして闇・黒色をいう。日常的には、闇・黒色も光と対等な対立する存在とみなす。「闇が迫る」「黒色に染める」という。だが、それは、存在していた白色等の光が存在しなくなっていっただけである。客観的実在的に捉えるなら、光があり白色があるだけであり、黒色や闇はない。黒色とは、光の無を実体視しているのみであって、真実には、存在しないものである。そういうことを突き進めて、存在・有のみがあるのであって、それの欠如の無は、手の痛みの有が無くなった場合の、その無のように、ないのだと進めていくことがあった。古代ギリシャのパルメニデスは、有のみが有るのであって、無は、有るのではないから、真実、無いのだと有のみの一元論を主張した。二元論的に無を実体化するのは、感覚的にしばしばそうなるとしても虚妄であり臆見の世界になるとした。真実の世界は、有のみの一元論にあると捉えた。有のみがあるのであって、それの無は、有(手応え)に対して、それが無いというだけで、無としてなにか(手応え)が存立するのではないということである。
胃痛・頭痛の苦痛の存在・有からいうと、パルメニデス的で、苦痛が有るのみで、その苦痛の無は、単に苦痛が消えるのみで、無が積極的に存立するわけではない。胃痛・頭痛は、特定の場に、胃や頭に定有する。だが、苦痛が消えると、なにもかも無くなって、無とすら感じない。痛みがなければ、胃や頭の存在すらも霧散し、無ですらもなくなる。あるのは、苦痛の有のみである。無は、ない。だが、その無が苦痛の反対として存立して、苦痛の空、無苦のさわやかさとして感じられることもある。無は無として存在することになる。さらには、単に苦痛が無いというだけの消極的なさわやかさ安らかを超えて、積極的になった苦痛の無は、快となる。諸欲求は、満たされない苦痛を無化するとき、快を抱くことがある。快感情が苦痛の無、苦痛の反対のものとして手応えをもって成立することである。その快は苦痛の固有の他在であり、反対の存在となる。快は、苦痛の有を無化(中和)する力をもって、対立的存在となる。
パルメニデスとは反対の主張をしたヘラクレイトスは、世界は戦い・対立をもって成り立っていると見て、昼と夜、つまりは、光と闇は、同じように対立しつつ存在していると捉えた。無もまた、有の他在として対立したものとして、存在すると見た。その有と無の対立のもとで世界が可能になっていて、対立しつつ、統一され調和をなりたたしめていると考えた。確かに、世界には、二元的に対立的な二項からなっているものが多い。男女などは、光と闇とちがい、同一の積極的に存在するものの、対立するペアであり、相互に手応え(支えであり抵抗である)を持って存在を確かめつつ、それが一つになって補完しあいながら人間世界の持続を可能にしている。磁気や電気のNS、+-は、対立的であって一つの全体を可能にしている。二元的に存在しているが、同時に一体的である。磁気も電気も、正と負として二元論的に存在しつつ、同一の磁力線、電流として一つのものとして一元論的にみることもできる。
7-1-2.苦痛は、厳しい手ごたえを示す
抵抗・手ごたえが存在(Dasein)を語るとしても、その手ごたえには、強弱の抵抗の違いがある。その手ごたえ・抵抗の一番強い、したがって存在が無視しがたく明白であるのは、苦痛であろう。損傷をうけるほど強い手ごたえをもち、苦痛をもつのである。「何かあるかな?」と箱のなかをさぐって手を切られたら、そこに何かがあると確信する。やわらかな綿がある場合、なにかあるような感じと言う程度になろうが、蟹がはさみで手を切ったら、悲鳴を上げて、無視しえない何かの存在におののく。手に損傷をうけ苦痛を感じれば、その手にとって、手厳しい手ごたえをもったものが客観的に厳しく存在していると思わざるをえない。
自身のうちに存在するものには、手応えがなければ、普通、存在感がない。かりに怪我をして肉に突き刺さった破片が入ったままになっているとしても、痛みがないかぎり、存在に気づかない。なにかを口にして噛んで特別に存在を確かにするのは、堅い砂粒とか金属片などの異物で、それらは、噛んで歯に強烈な抵抗を示し、不愉快な手ごたえをもたらす。ほかの食物は何かはよくわからないし、存在を気にもしないが、痛い手応えの砂粒はその存在をしっかりと示す。入口の口には、異物侵入を阻止する必要から痛覚が存在するが、その奥の内臓は、異物排除の後のことで、かつ、痛んでも何もできないから、痛覚がなく、異物や損傷の存在は自覚しにくい。口の砂粒も、飲み込めば、あとは平気で、無となる。だが、ときに、有毒なものを食べたり、臓器の炎症が大きくなると、悪しき手ごたえとしての痛みを胃や腸に感じることがある。かつそのことで初めて、胃があり、大腸のあることに気づく。ときには、損傷はなく、それどころかその身体の器官自体が存在しないのに、幻肢痛のように苦痛を生じることもある。それでも、そういう幻覚としての苦痛を抱くものには、そこに痛みと損傷の存在を感じ、かつ、その器官の存在を感じることになる。胃になんら損傷はなくても、痛めば、損傷と胃の存在を感じさせられる。
古い時代の遺骨のなかに頭蓋骨に穴をあけたものがある。おそらく、群発頭痛などのひどい頭痛が続いて、脳内に損傷を与える何かが存在すると受け止めざるをえなかったのであろう。痛みがなければ、頭の中になにかがあろうと、空っぽであろうと気にすることはない。だが、苦痛があると、これを放置できず、その苦痛の存在を排除したいということになる。脳に穴をあけてまでそれを除去したいとの切迫的な存在感をもったのであろう。
その存在の無視しがたいものは、苦痛の存在である。「痛い目にあった」「痛いほどわかる」物事は、それを受けた者には、忘れられないほど確かな存在となる。ほかの存在は無視し無化しておいても、その苦痛をもたらす存在は、それがあるかぎり、無視はできない。あってほしくないのにそれを拒否して迫ってくる確固とした存在となる。足を踏んだ者は、とっくに忘れているのに、踏まれて苦痛を抱いた者は、これを一生忘れないということもある。いじめた者は、それを苦痛のいじめとの自覚すらないものでも、いじめられて苦痛を抱いた者は、おそらく死ぬまで、いじめられたことを忘れない。苦痛は、存在論にとって特別な存在である。
7-1-2-1.苦痛とちがい、快は、あっても無視することが多い
快は、その生が調子よく保護・促進されていることを語る。その快は、存在をあまり感じさせない。胃が調子よくても、調子のよいことも胃の存在も感じることはなかろう。腕も調子がよいからといって、その存在を意識することはない。腕に快の幻覚を生じることはないだろうが、かりに生じたとしても、快であるのなら、放置しておいてよいから、おそらく、それを持続して意識することはなかろう。だが、腕に苦痛をいだくと、幻覚であっても苦痛と腕の存在を意識する。快とちがい、苦痛だと、どんなものであっても、意識し気がかりをつくって、その苦痛の存在に対処し、これを平穏無事にしたいと動くことになろう。
ひとの生は、多くの器官・機能をもって支えられて保護・促進されている。しかし、その支えは、順調に機能しているときは、手ごたえは小さくて意識にはのぼらない。その支えの存在に気づかない。目は、さらには目の前の眼鏡すら、調子よく快適ならば、それらの存在を気づかせない。目自身と眼鏡を無視しその向こうの対象・光景を意識する。かつ、その対象でも、見慣れたものは、それが不快・苦痛となるものでなければ、見ていても意識せず、見過ごすことでもある。内臓も筋肉も皮膚も、快調・順調なら、その存在は無視され当人の意識においては無になっている。それが存在を感じさせるのは、苦痛を生じている時だけである。外の異物と接触する皮膚では、第一、快不快に直接する感覚としては、痛覚の痛みがあるのみで、快適な状態に快覚が作動することはない。痛みだけを感じる。苦痛は、危急の事態の発生を知らせ、火急な対処を求め、強制的にそれを意識させる。
精神的レベルでの快の、希望とか安心は、その快自体は、あっても気づかないか、無視するが、苦痛の方は、これを人は無視できない。精神的苦痛の絶望とか不安は、ひとを捉えて離さない。あってほしくない苦痛であり、できれば、ないものであってほしいのが苦痛である。その苦痛が、まちがいなく、自身のもとに存在していると苦痛は語る。危険なものの存在の可能性があるかぎり、ひとは不安(苦痛)を抱き続ける。逆の安心の場合は、安心な事態が定着すれば、この快感情は消失し、安心自体の意識も消滅するが、不安は、慣れても、その危険の可能性の存在をひとに忘れないようにと意識させつづける。絶望も同様である。希望の可能性が剥奪された状態が続くかぎり、絶望感にひとは捉えられ続ける。逆の希望は、いくらでもあることだが、特別のものでないかぎり、前提にして忘れているのが普通である。
生理的レベルでの快は、食べ物の美味がそうだが、ひとでも動物と同じように、魅力的なアメとして機能する。無視しても構わないが、これに魅されこれにのめり込みたいということが生じる。だが、精神的レベルの快は、その感情は、些事となり、感じたいとも思わないぐらいになる。絶望や不安の精神的な苦痛感情の方は、これをなくするために、必死になる重大な感情であるが、逆の快の希望とか安心は、感じたいとは思わないことも多い。危険に不安を抱いたあとの短時間は、安心感を心地よく抱くが、すぐにそれは消えて、以後、危険が解消され穏やかな状態が続いて安心でも、安心を感じ続けたいと思うことはない。希望とか幸福感も似たものになる。現代の多くのひとは、歴史的にはまれな恵まれた幸福な状態にあるはずだが、幸福感を抱くことはまれである。悲惨な人を見て、自身は有難いことにと、反省する程度である。
7-1-3.苦痛は、世界との穏やかな関わりの限界点を示す
苦痛は、それをもたらすものの存在のみか、それの有害であることを知らせる。苦痛が生じたのは、その生に損傷を与えるような大きな力が加えられたからである。ものの存在をしめす手ごたえには、障害・損傷をもたらすようなものと、支え・保護をなすようなものに大別されるであろうが、苦痛という手ごたえは、その存在から損傷となるような容赦ない作用が加えられたということである。苦痛になる点は、それ以上に近づくと自身が破壊される脅威の点であり、存在してほしくないものが脅迫的に存在して、ついに自身を傷つけるという危機的な限界点になる。苦痛をもたらすものは、自身の生・存在を脅かす存在である。苦痛を感じる者にとって抜き差しならない、自己の存在を否定するものが登場したことを苦痛は知らせる。生理的に苦痛になるときは、生理的なものとしての身体が傷つき脅かされていることを示し、それをもたらす存在を脅威としている状態である。
手ごたえは、自身を支え保護してくれるものの場合もある。それは、快であり、生にプラスとなるものである。だが、苦痛とちがい、そのことには気づかないことも多い。支えがなくなってはじめてその存在に気づくことである。家屋は、日々生を支えてくれている大きな存在だが、日頃は、なにも感じていない。思い直せば、雨降りや日照りの不快なく、心地よい空間をつくってくれている存在なのではあるが、まるで存在しないかのように無視している。火事とか地震で家が倒壊すれば、それが支えてくれていたことをあらためて思うことになる。無くなってはじめてそう気づくことである。
苦痛は、損傷への苦痛として、自身の生にとって、危機的で驚異的と感じることである。自身の生の無事であるぎりぎりの限界がどこにあるかをその苦痛は語る。自分の手に負えない、手に余る、手厳しい手ごたえをもつ存在と対決していることを苦痛は知らせる。腕に痛みを抱くと、これに注目すると同時に、自身を侵す存在を想定して反応・対処する。腕に痛みを感じれば、損傷をもたらす存在をそこに確かめ、これを除去しようと振る舞う。そういう存在が見つからなければ、皮膚の内部での別の排除すべき存在を想定し、それもなければ、痛覚の誤作動かと思いもする。いずれであっても、気が抜けない。反対の快は、歓迎すべきもので、無視しておいて問題はなく、快の存在を対象化することなく、それと自己が一体的になり、これに気づかないこともしばしばとなる。快適であれば、「蝶が私か、私が蝶か」と快と一体化し、快にのめりこむし、そうでなくても、快となる対象は、自身に有益なものがもたらされているのであり、他の用でもあれば、これを無視したりもする。だが、苦痛の場合は、スズメバチに刺されて猛烈に痛むようになると、そうはいかない。「雀蜂が私か、私が雀蜂か」などと呑気に構えているわけにはいかない。その痛みを猛烈に感じつづけ、その元凶の雀蜂を自分と相いれがたいもの、自分を破壊攻撃する敵対の存在として意識し、この疑いようもなく存在する雀蜂とこれからの苦痛を無化するために必死となる。これを追い払い、殺し、あるいは、自身が雀蜂から逃走し、残っている痛みを排除するために、皮膚から注入された毒を絞り出し応急の手当にと必死となることである。
苦痛は、傷つけ脅かす存在を厳しく認識させるが、その存在は自己の外にあるだけではない。すでに、自身のうちに入り込んで傷つけ痛めつけているものでもある。自身を侵食して食い込んで、その侵食に苦痛を感じるのである。苦痛とこれをもたらすものは、自己のうちにある敵であり、排除の反応を引き起こさせるような危機的な侵略者である。内臓の痛みは、外的な侵略者が入り込んで自分を侵食しているか、自己の生のうちで、その生を否定し破壊する、排除したい異物となったものであり、日頃は、存在を感じさせない内臓がその存在を示し、苦痛とその内臓の部分を、排除等の緊急の対処をすべき存在として意識する。
7-2. 苦痛は、世界の中での自身の生を自覚させる
ものの存在を知る手ごたえは、その知ろうとする者にとっての手ごたえである。箱をさぐって何もないというのは、その手への手ごたえがないのでそういう。だが、手には抵抗感はないのだけれども空気はある。何かの存在は、何かへの(手ごたえをもっての)存在になる。苦痛は、その手ごたえの厳しいものになるが、その対象からの苦痛・損傷は、その対象を語るのみでなく、自身をも語る。自身が、その対象に比して弱いとか、過敏ということである。その対象の作用によって存在を脅かされ傷つくぐらいに弱いのである。
ひとの強さ・弱さは、外的な世界との作用のなかで明らかになる。火は、皮膚にやけどを負わす。宇宙では、冷たい方にはいるであろう温度でひとは焼き殺される。ひとにとり、恒星などの宇宙の温度はあまりにも高いものとして存在している。低い温度の方も、人にとっては過激である。ひとは、温度ということでは、きわめて狭い範囲の温度でのみ可能な特殊な存在となっているのである。太陽に接近でもしたら、即身体は蒸発してしまい、太陽のないところでは、即凍ってしまうであろう。だが、この地上では、風に対しては、強いといえるのかも知れない。鳥などとちがって、相当の強風にもさからえる。微風でも蝶なら逆らうのは大ごとだろうが、ひとは、羽で移動するのではないから平気で、あるとも感じないぐらいである。苦痛をもって、ひとがこの世界において何に強く何に弱い存在であるのかとか、何に過敏でその存在を脅かされ、何に鈍感なのか等を知ることになる。
空間的に多様な手応え・苦痛をもって存在しあうのみではなく、ひとは、時間という形式のもとにも存在していて、同じ苦痛でも、長時間の場合と瞬時に終わる場合とでは、異なった感じ方となる。短時間なら、我慢できても、これが長々と続く場合、耐えられないということになる。損傷がその時間分増すからということだけでなく、耐える間に溜まる苦痛自体からする疲労に音を上げるようなことになる。長期といえば、時代の変遷の中で、身体能力が変わるとか、日常的な快不快の生活の有り様の変化にともない、苦痛の感じ方もかなり変わって来る。わずか100年前との比較でも、何を苦痛とするかということでは、相当に異なった存在となっている。虫歯が痛み、これに我慢するというが、明治の頃には、身近に歯医者もないことで、長く苦しみ自分で抜歯するのが普通であったろう。今なら、胃が痛むというと、鎮痛の薬が身近に有ったり、癌なら、これを切除でき治癒もする。だが、明治の頃だと、長く我慢していたであろうし、癌なら、どうしようもなく、苦しみ続けて転移して死ぬというようなことになっていたから、苦痛については、昔の人は、相当に我慢強かったはずである。いまでも、ひとによっては、灸をすることがあるが、昨今のものは、皮膚にやけどをするほどのものではないようである。昭和の戦後でも、子供は灸のやけどを皮膚に残していた。もぐさで皮膚を焼くのであるから、猛烈に痛むが、それが普通のことであった。現代は、苦痛については、過敏で、これを回避するに徹底している。治療ですら、痛みがともなうのであれば受け入れないというぐらいになっている。苦痛への耐性が極端に低くなっているように見える。
最近のテレビで、昔ながらの生活で水くみ場から毎日子供が水を運ぶのを、悲惨と受け止めるようにと放映しているコマーシャルを見るが、これなど、以前は、当たり前で、子供たちが楽しんで運ぶのを映写していたように記憶する。時代によって何を苦痛とし悲惨とするかは、相当に異なることである。いまは、食事というと多くが美味を堪能するためにする肥満の時代だが、かつては、栄養をとるために(まずいものを)食べるスリムの時代であった。かつては、どこへいくにも、一般人は、徒歩であり、旅は、命がけで苦労のものであったが、いまは、旅は、何よりの楽しみの時代である。夏は、当然、暑くても、汗を流して我慢していたが、いまは、クーラーで暑さ知らずに過ごせる。クーラーのない時代には、扇子とかうちわに涼しさを感じ、扇風機が空気をかき混ぜる時代になると、これをとても涼しいように感じた。が、いまは、そんなものでは、暑さの苦痛には耐えられないようになってきている。苦痛を通して、自己自身の存在と時代を知ることである。
7-2-1. 有ってほしくないのに有り続ける苦痛
苦痛があるとは、自身の生のうちで損傷を被っているということである。自身を破壊するものが自身に接して侵し、損傷を生じるようになっているのである。それは、当然、嫌悪をさそい、排撃あるいは、逃走・回避の衝動を生じさせる。苦痛は、即刻遠ざけねばならないと、自身の意識を駆り立て、まず注視を自身に強制する。
どんな猛火であっても、それが自分から遠方にあるかぎりでは、苦痛の対象とはならず、場合によっては、寒さから身を守ってくれるありがたい支えをなすものになる。苦痛になるのは、つまりやけどを負わされそうになるのは、自分の身近にと接近して、自身にとって無視しがたい、注意が怠れない危機的な危険な対象となってである。そういう状態に近づき苦痛を与えるものは、なにをさておいても注意をさそうものであり、他のすべてを放擲してこれに火急の対処を迫るものとして、一番身近になってくる。損傷を与えるものとして、全力を尽くしてこれを排撃し無化しなくてはならないと思うことになる。もちろん、損傷を与えるような強烈なものであるから、自分から排撃するよりは、多くの場合、自分からその攻撃的侵略的な強者を避け、これから遠ざかろうとするものになる。
快ならば、それが幻想・幻覚であっても、喜んで迎え入れたい。本当はなくて、幻覚としてあるだけだとしても、これをも受け入れたいということになる。ただし、精神的快の喜びなどになると、虚妄の快である「ぬか喜び」は、嫌われる。幸福感にしても、宗教で信者が虚偽の至福にひたることがあるが、これも客観的な恵みへの感情としての幸いでなく、単に感情としての虚妄の至福なので、周囲のひとは、現実には教祖に全財産を巻き上げられて悲惨であれば、哀れと嫌悪感をさそわれる。苦痛は、精神的領域でも、重大な感情であり、その絶望とか不安、悲嘆は、そういう事実があれば、もちろん、単なる感情であっても、これを根絶しようと人は駆り立てられることである。その感情自体は、主観的なものなので、これを感じないで済むようにと模索し、麻薬などでこれを消滅させようともする。絶望という苦悩の事態自身を消滅させたいと必死になるとともに、その感情自体がやりきれないので、主観的にこれを一時でも鎮めようと、飲酒などの快楽で中和して苦痛を小さくすることもある。
苦痛は、有ってほしくないのに、それの有ることを、その存在を自分に押し付けてくる。有ることを拒否したいのに、強引に押し込み侵略してくる。快なら、有っても無くても人を命がけにするようなことはない。だが、苦痛は、生に破壊的なものとして自身を侵すのであり、有ってほしくないのに、有ることを一方的に強要してくる。外からでなく、自身のうちに苦痛を生じることもある。うちのことであっても自分の自由にできるものではなく、これを追い出そう、無化しようと懸命になっても、簡単には無化してくれないで、存在を顕示するのが苦痛である。事故や病いで大きな損傷と激痛を抱く場合、「これは、悪夢だ、幻覚だ、本当は、無だ」と思いたいのに、これを厳しく拒否して、苦痛は、その有ることの承認を冷厳に迫ってくる。
7-2-2. 苦痛に、自己自身が覚醒する
苦痛は、有害で損傷を与える対象に注目させる。と同時に、危害を受ける自己自身を自覚させる。雀蜂に刺されたとき、生じる激痛は、そのハチの毒による作用としてうけとられ、かつ、それによって生じる内からの危機的な叫び声となり、この苦痛の叫びをうけてその生主体は覚醒させられる。
そっと触れられた場合は、場所によっては、はじめは毒虫かも、危険かもと感じて注意するかもしれないが、そうでないとわかっている場合、ほとんど注目しない。だが、苦痛が生じるという状況は、その触れてきたものが身に危険で損傷を加え始めたという危機的状態を覚知したものである。毛虫など触れたことに気づかないでも、その直後に激痛が発生すれば、そこにいる毛虫に触れたにちがいないと確信する。苦痛は、ひとを覚醒させる。眠っていたものもたたき起こしてその苦痛へと注目させる。そして、その苦痛と損傷、さらに損傷を与える元凶となるものに、嫌悪感を抱き、拒否・排撃的に反応しその危険なものを回避する緊急の動きをとる。損傷・苦痛を与えられるのは、自身が弱者であってのことが多いから、普通には、攻撃ではなく、逃走をし、危険の回避へと反応する。それには、まどろんでいたり眠っていたのでは対応できないから、まずは、最大級の覚醒へと生をうながすことになる。覚醒といえば、目覚まし時計は、心地よい音ではなく、不快な苦痛の音をもってする。場合によっては、「叩き起こす」というように、身体に苦痛となるような刺激を与えて呼び覚ます。苦痛が、意識を覚醒する。
物事が快であった場合は、それが本当のことであろうとなかろうと、深刻になるようなことはない。だが、苦痛・損傷の場合は、まずは、「まさか、こんなことが有ってはたまらない、これは夢ではないか、夢であってほしい」と思う。そう願いつつ振り返って、それが錯覚・妄想などではなく、事実であることを確認することになる。否定しがたい事実であることを、苦痛の持続が強制的に知らせる。快なら、これを無視してもよい。だが、苦痛の場合は、それを意識しないように意志したとしても、強制的に再度その苦痛へと意識は引き戻される。その苦痛の存在のまちがいないことを確認し、それをもたらしている存在とその脅威を確認して、全神経をその苦痛の事実に集中させられる。
苦痛や苦悩は、その対象の存在を知らせるのみではなく、自身の存在を覚知、自覚させる。苦痛を感じることにおいて、その損傷・破壊の作用をする対象を意識するとともに、これに応じる自己自身を改めて自覚することになる。その苦痛に対して、過敏とか鈍感とかを自覚し、それに対処する自己の有り方を情けない等と反省する。熱いお茶にやけどしそうになったら、自分の「猫舌」を自覚する。マラソン大会でトップになれなかったことで落ち込んで絶望的になって苦しむとしたら、まずは、自身の能力の限界をしっかりと知るが、さらには、マラソンに大きな価値を見出していた自分の価値観を思い、あるいは、それで落ち込む自分の弱さを自覚もする。そう種々反省する自分に、向上心、自負心のあることを改めて知ることともなる。深刻な絶望の苦痛をもって、自己自身を知る。「汝自身を知れ」ということが苦痛によって強制される。
7-2-3. 快は、意識を無用化する
快では、苦痛と反対で、事がうまくいっているのだから、注視や警戒は無用である。多くの場合、快がつづくと意識は何もすることがなくなり、だんだんまどろみ眠くなっていく。眠ってしまえば、その快もなくなり、その対象もこれを感じる主体も無化してしまう。快感自体も長く続くことはない。生の促進のかなったとき与えられる褒美であり、瞬時に終わるのが普通である。苦痛は、その源の損傷があるかぎり、いつまでも続くが、快は、価値ある事態を獲得した瞬時に抱くだけである。美味の快楽を堪能するのに、いつまでもその快が続くのでは、次に食べようという気にならない。瞬時の快だから、続けてまたもう一口食べようという気になるのであって、いつまでも快がつづくのでは一口で満足することになり、栄養不足となってしまう。
獲得が確実になったとき、「これでOK!」、終りというところに瞬時抱くのが快である。食べ物の快は、口に入れてもまだ、確実にわがものにはなっていないので快とはならず、確実にわがものにできる喉越しにのみ快感を生じる(したがって、この種の快楽主義者は、肥満が不可避となる)。性的快楽も異性と一体化しただけでは、なお快楽とはならず、受精を確実にできたところにのみ快楽を抱く。しかも、無駄な快楽は感じさせず、瞬時に終わるようにできている。刹那の快というが、快は、基本的に刹那のものである。精神的快は、持続するというが、苦痛の悲しみは永続的でも、喜びはすぐに忘れてしまう。そのこと以上に、精神的領域では、事の成就自体が肝心で、快そのものは、どうでもよい些事となる。
苦痛は、距離をとり排除し遠ざけたいものであるが、快は、その反対である。快と、それを発生させるものとには、一体となり、のめり込みたいものになる。そののめり込みで、外のことはお留守になる。やがて安逸の中に浸って意識すらも無用化していく。快をいだけたということは、欲求が充足できた、価値あるものが獲得できたということであるから、意識は、根本的に、無用となっているのである。
快は意識を無用化し、その現在に満足し充足する状態だから、それ以上に何かを求めるというような積極的な姿勢はもたなくなる。苦痛だとその現状を何としても逃れてよりましな状態へと積極的な挑戦への姿勢をもつが、その反対である。「艱難汝を玉にする」というが、快は、その反対である。「三代目は家をつぶす」としばしば言われている。大切に過保護に快の状態に育ったものは、持てる能力を生かす機会もなく、これを無能化してしまう。快のぬるま湯につかったままでは、意識は無用化されつづけて、無能の三代目をつくってしまう。
7-2-4. 我痛む 故に 我あり(doleo ergo sum)
デカルトの「我思う 故に 我有り(cogito ergo sum)」は、存在してほしいのに疑わしさのつのる自分や神を実体として確保しようとの試みであった。が、本論考のテーマとしている苦痛は、存在してほしくないのに圧倒的な実在として迫り、傷つき悩み、おののく自分の実存を痛感させる。「我痛む 故に 我あり(doleo ergo sum)」である。
デカルトに先立つこと百年、ルターは、厳しい受苦・受難を前にして「ここに我あり(Hier stehe Ich)・・」と踏ん張って自己の存在確信の声を発したと伝えられているが(彼は、「95か条の提題」への弾圧を撥ね退けて、召喚された帝国議会で、こう言い放ったとか)、信仰者は、試練という苦痛が自身に与えられていることにおいて、神に自身が選びだされ苦難の使命を与えられて実存していることを自覚した。cogito ergo sumのデカルト風には、「我痛む 故に 我あり(doleo ergo sum)」であった。(このdoleo ergo sumという表現は、悲痛の思いを根底におく悲観主義に似合いだが、一般的にも、苦痛は自身の生を覚醒し自覚させるから、ときに使われている。道木一弘「ベラックァと身体の「痛み」について」論文は、「痛みを通してのみ」「自己の存在と生を実感できる」ということを、デカルト風に言うならばと、この表現を採用している(『外国語研究』 愛知教育大学 外国語外国文学研究会 vol.45, 2012, p.78.))。
痛みは、夢か幻覚であってほしいのに、苦悩も絶望も消えてほしいのに、これを拒絶して自身を痛め続け、強情に有りつづけ、そのような受苦の自身、存在したくもないのに存在を強要され続ける。苦痛においては、その無を希求し、激痛に「これが本当だとは信じられない」と拒否しようとも、そんな懐疑など吹き飛ばして、有が迫ってくる。手に痛みを感じると、痛みと手の存在と痛む私を自覚する。その痛みがなくなれば、手は、無となる。絶望・悲痛には、この人格、私の存在の、奈落の底への落下を意識する。そういう苦痛の消滅するところには、安らぎを感じうるが、その苦痛がなくなると、快ではなく、自も他も無となる。胃痛・頭痛で痛めば、痛む胃や頭の存在を感じる。だが、痛みがなければ、安らぎどころか、胃も頭も存在していることすら分からなくなる。痛みは、存在を顕在化する。苦痛と損傷と、これを感じる自己自身の存在することを拒否できないようにする。
苦痛と自分は一緒に有りたくないので、苦痛が去らないのなら、自分の方が去ろうと試みることもある。自殺である。穏やかには安楽死である。私があるから、痛むのでもある。私が消えれば、苦痛も消える。「我有り ゆえに 我痛む(sum ergo doleo)」でもある。「我痛む(doleo )」と「我有り(sum)」は一体的で、私は、「痛むもの(res dolens )」であるが、そのとき、悲観主義者は、これを否定的消極的にとらえる。この運命を嘆く。仏教は人間界を「苦界」と捉えた。悲観的厭世的である。だが、楽天主義、楽観主義者は、逆で、苦痛への挑戦を思う。自身の存在することの意義は、痛みをもたらす困難・苦難に挑戦するところにあると積極的である。ルターも後者だった。逃げも隠れもしない、自分は、ここに有る、どんな苦痛・苦難にも負けはしない、さあかかって来いとチャレンジ精神を奮い立たせた。
7-2-4-1. 二つの禁断の木の実で、ひとは、ひととなった
人類が尊厳を有する卓越した存在になっているのは、知恵をもって自然世界の上に聳えているからであろう。デカルトは、ひとを「考えるもの(res cogitans)」と見て、精神的実体としてとらえたが、それは、今日でも同様で、ひとのことを「知のひと(homo sapiens)」とする。知恵に卓越した人類の誕生について、旧約聖書『創世記』は、アダムとイヴが、禁断の知恵の木の実を食べたことをもって語る。『創世記』は、さらに、もう一つの禁断の木の実をあげていた。永遠の生命の木の実である。これは食べなかったので、通常、無視される。だが、大切なことを語っていたというべきである。命の木の実の方は食べなかったということは、命、動物的生命としては、ひとは、自然のままの存在であることを他の動物とともにしていると語っているのである。
ひとは、英知をもった存在であるが、同時にその身体は、動物の状態にあることを常に踏まえていなくてはならない。理性を有した超自然の存在でありつつ、同時に身体的に感性自然の存在でもあるという、ひとの二元性・二面性である。この自然においては、ひとも動物と同様であり、快不快(苦痛)の感性をもって動くのである。生命倫理で、動物的生の尊厳を語るとき、その生を特徴づける根本に苦痛をおく。苦痛を感じうるものは、ひとと同じなのであるから、これを殺めるようなことをしてはならない、あるいは、苦痛を与えるような殺し方をしてはならないと、命の尊厳の核を苦痛におく。つまり、その点からいえば、ひとも動物も「痛むもの(res dolens)」なのである。仏教も人間世界を「苦界」「苦海」として、ひとは、苦をもって人となっていると見た。厭離穢土(欣求浄土)をいう。この世俗、穢土は、なにより、苦しみがあり、苦痛がある世界である。それが人間世界だという(それを超越した、欣求する極楽浄土は、苦を消滅した安楽の世界となる)。厭離したい、嫌悪し回避したい、あってほしくないのに有るのが苦痛・苦難であり、それこそが人間界、苦界をつくっているのである。
ひとは、永遠の命に関わる禁断の木の実は食べなかったので、動物と同じく自然のもとに生きている。その行動原理は、快不快(苦痛)にある。個体的生の維持のためには食欲があり、これは、快(おいしいもの)を求め、不快・苦痛(まずいもの)を回避することで行われている。だが、ひとは、他方に知恵の木の実を食べたので、知恵をもって、理性的にふるまう。それを自然的生の場にも、必要なとき求める。自然的に快であっても、これを制御・禁止して、それが苦痛になってもこれの回避を抑止する。生の保護に反する苦痛について、これを回避せず、知恵を持った人類は、理性的に制御して、苦痛を甘受することになった。反自然的に苦痛を受け入れれば大きな価値あるものが得られると分かった場合、この苦痛を手段価値として受け入れ、苦痛を甘受した。つまり、ひとは、自然の存在とちがい、必要なところでは、苦痛から逃げない存在となった。ひとは苦痛をより多く受け入れて一層の「痛むもの(res dolens)」となっているのである。
7-2-4-2. アダムとイヴは、苦痛を耐え忍んで、人の祖となった
旧約聖書『創世記』によると、アダムとイヴは、善悪を解する知恵、理性をもったことをもって、エデンの楽園を追放された。そのとき、神は、ひとを、動物と同じ感性、苦痛をもちつつ、その上に、糧を得るに労働の苦痛を付け加えて、これを罰とした。苦痛を耐えて、食料を自身が苦労して確保していく労働が課されたのである。動物は、苦痛を感じる存在だが、その苦痛からは逃げ、これを回避する。そのことによって、自然存在としての生を維持する。だが、ひとだけは、受け入れることが必要なら、逃げず、苦痛を耐え忍んで、価値あるものを獲得することになったのである。それだけ多く、苦痛を甘受しているのが人間ということになる。
人類は、確かに、日々の糧を得るために営々と汗水を流して自身の生の維持を行ってきた。その艱難辛苦の人間世界の成立の始原を、アダムの楽園追放(失楽園)をもって『創世記』は語った。ひとは、動物として「痛むもの(res dolens)」であるが、同時に、「考えるもの(res cogitans)」(「知の人 (homo sapiens)」)として、この苦痛から逃げず知恵をもって制御し、これを耐え忍んで手段として引き受け、自然を凌駕するものを、自らの目指す目的を実現していくことになったのである。苦痛を理性でもって耐え忍ぶ「忍耐の人(homo patiens)」として、真実、人間になったといって良いであろう。
エデンの楽園を追放された失楽園の人類は、生きるために労苦を背負わねばならないことになったと創世記は言うが、史実として、そうだったといってよい。アフリカを出てユーラシアにわたり、氷河期の狩猟採集生活の困難に耐え、やがてはじめた農耕を営むことで新たに生じた洪水・干ばつ等の苦難をも乗り越えて、生きる範囲を忍耐強く広げて、霊長類の中でひとのみが尊厳を有する存在としての人間になったのである。自然(神)から与えられた苦痛をしっかりと受け止めて逃げず、忍耐を重ねて、ついに人間になったのである。苦痛が、人という存在を生成させた。「我痛む ゆえに 我有りdoleo ergo sum」であった。
アダムの労働の苦痛は、その苦痛に忍耐することをもって、自らを人間へと飛躍させた。ひとが歴史の中で人として存在することになったのは、苦難に忍耐することを繰り返すことをもってである。自身を自身の苦痛が創造した。人は、自然的動物としては苦痛からは逃走するものを、理性をもって、苦難から逃げず耐え忍び、価値を生みだし、自己自身を鍛えて、卓越したものとなった。知恵の木の実を食べて理性を獲得した人間は、苦痛を有する動物である上に、さらに、神から罰として苦難の労働を課された。これを受け止めて、苦痛から動物のように逃げることをせず、理性の必要と見た苦痛は、しっかりと甘受しつづけて、自然を超越した人間世界を創造していった。理性をもって苦痛を耐え忍ぶという忍耐が人を創った。人は、「耐え忍ぶもの(res patiens)」である。
7-2-4-3. 苦難に耐え挑戦して、人類は、世界中へと広がった
ひとは、霊長類の中では、弱者で、おそらく、ゴリラやチンパンジーに森を追い出されたのであろう、草原に進出して、ハイエナも残した骨の髄を食べたり、草の根っこを食べて生き延びた。草原を彷徨うなかで、直立し手を創り出しこれを巧みにつかい、苦難を耐え忍ぶなかで生き延びるためにと知恵を大きく伸ばした。その間に、現代のホモ・サピエンスの生成となったようである。多様な生き方を身につけ、知恵をもって、未知の未来をも描き出し冒険心を抱けるようになり、出アフリカを企て全世界へと広がっていった。
その豊かになった知恵をもって、困難へ挑戦する忍耐力を大きくし、未知の想像の世界へとひきつけられていったことであろう。夢・想像と、現実の感覚世界とは、おそらく、今ほどの区別はなく、想像図にも、真に迫る感情を伴い得たことであろう。未来を想像して、ありありと豊富な獲物を描き出すことで、それの享受の快もかなりひきつけたのではないか。ユーラシア大陸への進出は、アフリカの自然環境の変動(氷河期・乾燥等)をもってのことが大きかったのかと思われる。新大陸でのマンモス等の大型動物の狩猟は、獲得すれば、その快は大きかったが、その狩猟は困難なことであった。マンモスの弱点は後ろ足だというような狩りの技術知を蓄積し、強く遠くに飛ばせる槍等の発明・発見をもってよりよい明日へと苦労を重ねることになったであろう。その寒冷(ヴルム氷期)の困難苦難から逃れることはできず、生き延びるための、衣服、家等に知恵をもった工夫を重ねて、苦痛から逃げず耐え忍んでいった。身近な困難・苦痛に駆り立てられて、豊かな想像力を踏まえ、獲物を追って、次々と新天地を開拓していったのであろう。
マンモス等の大型動物の狩猟は集団でもってはじめて可能になることで、緻密な連携や捕獲方法が工夫されねばならなかったはずである。言語の使用を、試行錯誤の困難を重ねて編み出し、この言語をもって知恵は飛躍的に向上し、個別感覚世界を超越して普遍的概念の理性的な人間世界を確立することになった。すでにアフリカにおいて、ひとは、直立し手を創造して言語使用を始めて、技術知を大きくし、対象知を飛躍的にしたであろうが、ユーラシアに出てからは、一層、集団での狩猟等の行動に関わっても言語は飛躍をもたらしたに違いない。自己理解の成立と自分たちの集団の結束の飛躍的向上である。言語が通じ合うということは、同一の超越世界の同一の理性存在であることを明かす。自然的には小さな数の群れしか成立しないが、ひとは、言語と想像力をもって同一の祖先(神)を語り一体となり、自分たちの集団の拡大を可能にし、その集団の結束を確かにして、巨大な集団としての力を発揮することへと進んでもいった。(想像力の見出した、自分たちを一つにできる)虚焦点となる神と王のもとに集団が組織だった巨大な一全体を形成したのは、おそらく農耕をもって一地域に定着してからであろう。
7-2-4-4. 創世記にいう「命の木の実」を食べる未来の人類
ひと(アダムとイヴ)は、『創世記』によると、知恵の木の実はたべたが、命の木の実は、食べなかったという。ひとは、理性をもって自然を超越しているが、他方、永遠の命の木の実は食べることなく自然の懐にあって、動物として快不快(苦痛)にしたがってもいる。動物的な苦痛の上に、知恵の木の実を食べたので、その罰としての労働の苦痛にも耐え忍ばねばならなくなったという。苦難に「忍耐する人(homo patiens)」が人類である。
このhomo patiensの言葉は、精神病理など生の苦悩に焦点を当てるような方面では、ときに使われている。例えば、杉岡良彦「医療者と宗教者の原点としての「共苦」」(『宗教と倫理』 宗教倫理学会 vol.24, 2024, p.55.)は、フランクルの提起した「苦悩する人間(Homo patiens)」を踏まえつつ、医療者・宗教者は、「共苦する人間(Homo compatiens)」の職なのだと論じている。が、ここにいうそれは、苦悩を抱える人間といった深刻な意味合いにおいていうのではなく、一般的な最広義の辛苦・苦痛とそれの「忍耐」を、労働を根底においた人類史を貫く普遍的な有り様を言い表そうとするものである。ただし、情報革命が進行中の現在、この「(苦痛に)忍耐する人(homo patiens)」という規定は、辛苦の労働は、その意義を薄くしていっているように思われる(富の分配を公平にすれば、現在でも、辛苦の労働は、なくすることができる)。人類史は、まったく異次元の発展をはじめていくものになるのか、それとも、「忍耐する人」という規定が人間の不変の本質なのだとすると、苦痛なしで快のみを享受する人類は、痛み(dolor)の否定(in)=怠惰(indolence)は、これまでの在り方からいうと、安逸の「三代目は家をつぶす」ということで、衰退、滅びの道に入っていくのであろうか。
滅亡の道ではなく、物質文明の未曾有の発展をふまえて辛苦・苦痛を些事とし活発で快適な生へと高揚していくのだとすると、人類は「幸いの人(homo felix)」にと飛躍していくのであろう。ひとは、理性とともに、感性を持って動く。感性的に苦痛に鞭打たれて進むけれども、その理性を方向づけていくのは、より快適な生、一層の快である。そのことからいうと、感性的には、苦痛が進歩の手段であるけれども、その方向へと誘うのは快であろう。歴史のこれからの進歩も、一層の幸い・快をアメを求めてのことで、苦痛と忍耐も、それへと駆り立てるムチとしては有り続けるのではないかと想像される。人間は、歴史のはじめから、「幸いの人」を理想としこれを追いかけて来たが、情報革命が落ち着く頃には、それが現実化しそうである。
この未来の「幸いの人」は、創世記でのもう一つの禁断の木の実、永遠の命の木の実を食べた新人類となろう。いまでも、老化を防ぐことが若干は可能となっているし、心身の一部は代替の装置で機能するようになっている。やがて類の再生産も女性による出産によらずに可能となるかも知れない(『創世記』は、禁断の木の実を食べたイヴには、出産の苦しみが課されたと言うが、それからの解放である)。デカルト的な理性・知恵の方面と対比される、イギリス経験論が根本におく感性・身体といった方面での飛躍がなって、やがて情報革命の末に永遠の命の木の実を食べたあかつきには、動物的生命を超越した人間的生の新たな時代、「幸いの人」が一般化する時代に入ることが想像される。新約聖書『ヨハネの黙示録』(第22章)は、天国での不死の命の木の実の享受にふれるが、情報革命の落ち着く頃には、おそらく、それはこの地上の現実世界での話になってくる。
7-2-4-5.「忍耐の人(homo patiens)」を踏まえつつの「幸いの人(homo felix)」
最近までの我々は、汗を流して苦労することを美徳とした。私自身も、それを踏まえているので、創世記のアダムと同様に労苦、苦痛・困難を耐え忍んで生きるのが今後の人類でも真っ当なことと思ってしまう。つまり、近未来もまた、ひとは、「忍耐の人(homo patiens)」として生きるのだろうと想像しがちである。だが、歴史を振り返ってみると、意外に、労働にあくせくすることを自発的にする人々は少ないようにも思われる。アフリカに赴任していた商社マンの友人が、もう半世紀以上も前の話だが、アフリカ人は働かない、お金が入ると無くなるまで働きに来ないので困ったものだと嘆いていたが、むしろ、それが人の普通の在り方で、日本の近代の勤勉な生き方の方が特殊だったのであろう。資本制の模範の国であった英国でさえ、初期には、農地から追い出した農民を労働者として働かせるのに苦労したというではないか。
これからは、富の偏在さえなくすれば、おそらく労働はほとんどしなくても済むようになろう。そういう時代の一般の者の生き方では、労働は、ほんの些事となり、やる人には楽しみになるぐらいであろう。歴史の中では、それを実行することができたのが、貴族である。「三代目は家をつぶす」というのは、あくせく働いてのみ生きえた庶民の話で、特権階級の者は、国家の保護のもと辛苦の労働とは無縁にリッチに生きていたのである。それが近未来の庶民に実現されると見る方が、無理して、なにか「忍耐の人」にふさわしいことを持続していくという見方よりは、自然であろうか。日本の近現代の者は、勤勉でなくては、人として真っ当ではないと見るのが普通なので、のんびりと生を謳歌するのは、犯罪に近いものに感じがちである。しかし、情報革命の進展とともに世界は激変しつつある。「忍耐の人(homo patiens)」ではなく、近未来のひとは「幸いの人(homo felix)」として、かつての有閑階級に似た生き方がとられると見るべきなのかと思う。私自身は、勤勉な人々とともに生き老いてもきたので、そういう有閑階級的な生き方を真っ当な未来の姿として描くことには抵抗感をもってしまうのだが、日本の未来を担ういまの若者たちを見ていると、だんだんそういう社会になっていくような気もする。人類の知的遺産は、有閑階級の産であり、学問をこれだけ高度にしているのも、諸芸術も、有閑階級あってのことであった。寄生虫で怠惰な有閑階級は到底受け入れがたいけれども、一途に学の深化を志し、諸芸術を支えていた有閑な者たちの在り様が、輝かしい未来の庶民、「幸いな人」の生き方の一典型になるのだろうかと夢想もする。
ただ、情報社会は、非実在バーチャルな世界になることが多いので、ひとの身体・感性をもった方面は、不満となろうし、不自然であるから、その方面がかつての有閑階級とは相当に異なったものとなりそうである。自らの身体を動かして自分のことは自分でするという点では、昔の貴族とは異なろう。本物の自然に触れて、自身の実在性を確かめるということである。過去の有閑階級でも、狩り(のまね事)は、盛んで極上の楽しみだったように思われるが、身近な自然の中で、汗水をながし、泥まみれになるといった営為は、生の充実、楽しみ、欲求になっていくのではないか。さらに、この人類の新規の生の発揚でも、生きがいとなり一層の向上がなる場面には、有する能力を十分に発揮できる対象を見出していくことになり、それは、チャレンジ精神を駆り立てる困難なものとなるであろうから、苦痛となるもので、したがって、忍耐を必須とするようなものになろう。とすると、やはり、根本的には、情報革命が落ち着いた新世の社会になっても、創世記のとらえた人間誕生の在り様と異ならず、新人類も、依然として、「(苦痛に)忍耐する人」でもあり続けることであろう。人を前進させるものは、これであろうが、それを支え、それへと誘うものは、「幸いの人」であろうか。
新人類もまた「幸いの人(homo felix)」「忍耐の人(homo patiens)」と見なすのは、理性の制御のもとで自然の快と不快に動かされるという、現人類の延長上での想像である。これまでの人類は、「幸いの人」を憧憬しつつの「忍耐の人」であったが、近未来の人は、現に「幸いの人」でありつつ、一層の充実を求めては困難に挑戦する「忍耐の人」となるのであろう。ひとが永遠の命の木の実を食べる未来社会においても、自然を土台にしていく理性人であれば、自然の快不快の根源的な動力に乗っかって生きるということでは同じになろうと想うが、貧弱な妄想であろうか。「事実(truth)は、小説(fiction=嘘八百)より奇なり」という。永遠の命の木の実を食べた不死の未来の人類の生態は、私のフィクションを超えた世界になる。
7-2-5. 個別感性界を超越した普遍的概念世界の創造
旧約聖書『創世記』はアダムとイヴが禁断の知恵の木の実を食べたと言う。その核心は、人が理性的存在になったということ、善悪の規範を含んだ、人と世界の普遍的概念の世界に生きる特別な存在になったということである。動物的自然のもとでは、感覚感性の個別的実在の世界にとどまるが、ひとのみは、これを超越して、言語使用をもって普遍的な概念世界にも生きることになった。個別感覚の世界に動物とともに生きつつ、その上に、その個別感性を超越した概念をもって、理性的普遍の新天地に人は立ち、自然を超越した、動物自然とは全く異なる卓越した世界を開拓し、地球の支配者となったのである。個別実在の核を構成し特徴づける普遍的な本質(=概念)を見つけ出して、個別感性世界をその概念をつかむことで巧みに制御していくこととなった。殴るとか抱擁するといった個別事態の内奥に、普遍的な善悪の規範を見出して、この普遍的な規範のもとに生きることにもなった。
『創世記』は、「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けた」(2:20『聖書 新共同訳』日本聖書協会 以下同様))と語る。あらゆる獣に命名したということは、身近な飼い犬などにその個体の呼び名をつけたのではなく、その種・類にしたがって猪とか鳥と名前をつけたということである。それは、理性のもとで、対象(いのししとか烏)の本性、類的な本質(概念)をつかんで命名していくことである。個別実在世界のもとの内奥の共通の普遍的本質を把握し、普遍的概念の世界を見出し、烏なら烏という本質(概念)のもとに統一して捉えてこれを言い表したのであろう。
理性的普遍的な概念(ロゴス)は、個別感性のうちの内的本質の抽出、抽象をもって把握される。そして、それは、名前(オノマ)をもって表される(その言語使用のはじめには、まずは、目の前の黒い鳥に「烏」と名前をつけ、それを別の類似のものにも与えて、その名前に共通の本質・概念を見出したことであろう)。旧約聖書『創世記』は、あらゆる獣への命名では、これに人は「名前(onoma)」を与えたという(2:20)。類的本質(概念)にしたがっての命名である。新約聖書『ヨハネの福音書』は、冒頭に、「初めに言があった」(1-1)と、世界の創成は「言(Logos)」、言葉でもって成ったという。いずれも、普遍的な概念を内実としたものと解してよいであろう。人は、多様な個別実在のうちに、それを成り立たしめるその種に共通の類的本質を見出して、人間とか猫という概念(ロゴス)として確定し、これを具体的に表記するに名前(オノマ)をもってする。どんな人間も個別的には別々で多様であるが、そこに同じ類的普遍性(理性的な人格という本質)をもったものであることを見出した。あるいは、個物を構成する共通の諸属性を見出し、これを命名し、概念化することともなった。赤色という属性・性質において、異なったものの共通の性質を見出し、これを命名して、取り扱うことができることになった。赤くなった果物は、美味しいといったことを見出して、赤色に注目して果物を摘むことができ、これを伝え、学習できることにもなった。あるいは、社会生活では、個別の営為のうちに、善悪の普遍的規範を見出して、その営為の推進と禁止を意志することにもなった。
概念世界は、主観の営為においては、個別実在世界に直接的には感覚されないものとしての、抽象された観念になる別の世界の創造であった。そこから、普遍的な概念のみの抽象物も存在することにもなった。個別実在の本質ではない空虚なもの、虚偽、虚妄も発生した。感覚世界でも、夢とか幻覚は、実在しないものであり、それが幻覚であることは、個別実在に照らして自覚される。概念世界の虚偽も、実在世界に照らして明らかになる。個別実在のもとでの夢・幻覚でも、反復されれば、実在世界とは別の世界が想定されるようになり、あの世というものが想像された。その想像物、幻覚対象、あるいは虚妄の概念(ロゴス)にも、名前(オノマ)が与えられて、この個別現実界の外に、むしろ、これを支配する背後の世界が、(実在世界からは虚妄の)霊界とかの超越的世界が想定もされていった。
7-2-5-1. ことば(概念)をもって集団は一つになって対処する
理性をもって世界を普遍的概念的に把握することで、ひとは、個別自然を超越し個別の内奥の本質をつかんだ生き方をはじめた。日々の行動についても、言葉(概念)をもって、関わる対象を明確に限定し、善悪の規範のもと共同して、集団的行動をスムースにできるようになった。かつ、それは、自分の部族、種族という共に生きる集団を、自然的な家族などを超えて同一の類として把握することともなった。
言葉は、他者との間に成立するもので本源的に個を超えていて、自分でない外の人間に語り理解しあう役立ちをする。相互の個を超えて成立するものとして、言語の実相は、それを知る個人の理解を超えた、その言語を使う種族全体のうちにあるということになる。「同情」という言葉(概念)は、これを使用する現代日本人に周知のものだが、各自の理解を超えた日本人全体のもとにある。ヨーロッパの方でsympathyに訳されるとしても、内実はかなり異なる。言葉には、これを使用する集団の生きざまが刻み込まれている。sympathyは、わが子にも大いに使用するが、日本語では「同情」は、家族にはしない。そのことは、自覚はかならずしもされないとしても、同情概念を少し振り返ってみれば、日本人なら誰でも、そうだと納得する。日本人の間で「同情」を家族に言ったとすると、それは、不仲で冷たい他人扱いになったときに言うことである。それらの言葉の使用、概念の妥当範囲等は、個人を超えた種族・集団全体のもとにある。いうなら言葉は、個人の理解を超えたものとして、独自の力をもって個を強制もする。自分は「同情」をヨーロッパ的に家族内でも使うとか、「親身」の意味で使うと言っても、だれもそれには従わない。個が言語の内容を決定するのではなく、その言語使用を行う民族全体が、集合的な主体・民族の魂ともいうべきものが、習慣・習俗をともにしているように、それを決定しているのである。言霊をいうが、言葉には、個人の使用・理解を超えた全体のうちに生きる独自の力がある。ひとは、言葉・概念をもって判断し行為するが、その言葉は、自身の理解を超えた全体のものである。言葉をもって生きる者は、個としてではなく、その言語使用の集団全体に従って生きていくこととなる。個体として自立し自律的に生きるのだと意思していたとしても、そのもとの言語に制御されて生きていくのである。
言語使用は、自分たち自身の統一的な有機的連携にも大きな影響を与えた。自分の有した言葉が通じ合うことは、その言語のもとでの一体的存在であることを明かした。もともと日頃一緒に生活しているものの一体性は、猿の群れのように明確であったろうが、それを超えた集団との一体化は、敵対部族との闘いに勝利するには、大切だったろうが、それは、日々の付き合いがなければ、そう簡単には実現できなかった。それが言語世界、概念的世界をもつことによってスムースに展開可能となった。家族の核は、長老となる者が担って、この長老の指示する通りに皆一体化して動くことでは、ボスに従う猿の群れと同じだろうが、それを超えた広い集団の一体化した動きは、言葉・概念をもって可能となった。「一族」とか「正義」といった言葉(概念)が人を動かした。集団は、組織的一体化を力とする。その部族・種族の生物的一体性、一つの血の自覚が、「先祖」「祖霊」といった言葉(概念)をもって創り出された。先々代のお爺さんのときは、ひとつの家族だったということは、言葉・概念をもつことで明確にされえたことであろう。今は存在していないものの声を、神がかりして祖先の指導的な霊の意志として聞いて、その祖霊のもとに全員が一体的になって行動することを言葉・概念が可能とした。その祖先はさかのぼるほどに、広い部族の祖として、その全体を一体化した。その祖霊の言葉があれば、その広い範囲の部族が一つになって動くこととなった。多くのものが一体化して当たれば、当然、強力となり、戦いには有利であった。その共通の祖先神が、神の憑依した巫女の口をかりて、自分たちの「正義」と、敵対部族の「悪」「犯罪」を言い立てれば、敵愾心に溢れた強固な全体が作り上げられたことであろう。
7-2-5-2. 神は、まずは、災い(苦痛)の神として創造された
人の生には苦痛が根源的なものであるが、その苦痛は、神を創造もした。最近の神は、慈悲の歓迎したい幸いの存在となるのが普通だが、原初の神は、災いの神であった。あってほしくない狂暴で無慈悲な、人に苦痛をもたらすものとしての神が想定され創造された。自然の猛威の前に、人々は、苦しめられ、その元凶として、神を見出した。狩猟採取から農耕に発展するとともに、作物を台無しにする洪水とか干ばつは、人為で制御できるものではなかったから、そういう自然の猛威に、その背後でこれを操る神を想定して、これに脅威を感じ、これに拝跪するようなことになっていった。狩猟の時代から、狩るのではなく、自分たちが狩られることも多かったことで、それへの恐怖は、魔物、魔神を妄想させたことであろう。農耕に入るとともに、自然の猛威が作物に直接関係してきて、荒ぶる魔物が、圧倒的な魔神、邪神が想像されていった。神は、人において苦痛の災いの神として、存在してほしくないのに存在するので、せめて遠くに安らいでいてほしい、自分たちの前には現れないでほしいと懇願し祭り上げた。
ひとは、災いには出合いたくなかった。だが、出合いたくないのに、洪水や日照りは、容赦なく人を襲った。自然の背後に、悪意を感じた。ひとは拒否し出合いたくないと意思しているのに、これが無視され、故意にワザと、邪神の邪悪なワザに出合わされるのが、ワザワイであった。逆に幸いには、ひとは、自らが出合おうと懸命になった。汗水ながして狩猟採取をし農耕をするのは、人が幸に出合うことを求めてのことであった。幸への出合い、サチ・アイ、幸いは、人自身が合いたいと求めてのことで、神などから出合いにやってくるものではなかった。幸運の宝くじは、幸は、ひとが自らに合おうと試みるもののみに限定して与えられる。「求めよ、さらば与えられん」である。しかも、いくら僥倖を願って宝くじを買っても(貧者・貪者の税金を納めても)、そう簡単に与えられるものではなかった。これと反対に、ワザワイは、出合いたくないと、細心の注意をはらって避けているものであった。その出合いたくないもの、避けているものに出合わされるのであり、そこには、自然の背後の邪悪な意思が、邪悪な神が想像された。
幸に出合うこと、さいわいは、神からでなく、ひとが日々求めてのことで、ひとが幸に合いにいく。海山の幸に、出合いたいと命がけででかけたのが海幸彦、山幸彦であった。ひとが、探し出し、苦労をして、やっと幸に出合えたのである。神に祈ったのは、狩りが妨害されたり自分たちが狩られてしまうような災いなく、無事にということであった。そう希っても、邪悪な悪意をもった邪神がわざわざとする(故意の)行為(わざ)に出合わされて災いとなった。農耕の時代にはいると、実り、幸をもとめて、これに合うことになる幸いのためにと汗を流しながらも、収穫を目の前にして、竜神が洪水・台風などで一挙に実りを奪いさり、神のワザにあう災いとなった。
スサノオ神(≒牛頭天王)をまつる祇園祭は、現代でも盛大であるが、これは、疫病等をもたらす、荒れスサブ、災いの神である。これを祭り上げて、どうぞ疫病などばらまかず、穏やかにしていてくださいと祀るものであった。水の神の竜神にも、似た形で祈願した。暴風雨とか洪水、逆の干ばつをもって農耕民を苦しめ災いをなす竜神に、適度の降水を願い、旱などの災いをもたらさず穏やかに安らいでいてくださいと祈願した。暴力団からの暴力を自分たちには向けないでほしいと、みかじめ料をもって懇願するように、荒ぶる神の災いを、「隣村までで堪忍してください、自分たちには向けないでください」と切望し、尊い価値あるものを献納し、拝跪した(昨今の神社の祭りには、背後に暴力団あたりをにおわせる縁日の店(的屋)が並ぶ。恐ろしい神をまつる場に、おそろしい暴力団の匂いのありそうな的屋がならんで、和やかに子供たちを楽しませる。そのことで、背後の荒ぶる神との親しさ、なごやかさを演出しているのではないかと思うがどうであろう。狂暴な竜や天神や祇園の祭りには、神輿の担ぎ手にしても、祭られる神に近い無法者・乱暴者風が似合う。神輿をぶつけ喧嘩腰になり、神の暴力が自分たちにではなく隣の町や村に降りかかるようにと必死になった姿は頼もしく映るのではないか)。
7-2-5-3. 奇蹟は、あれば、神実在の決定的な証拠になる
災いの神は、有ってほしくないのに、至るところに見出されている。ただし、災いはあるが、それは自然自身の営為であって、その背後に鬼神を想像するのは、妄想であった。理性的な人間は、冷静に対処して、鬼神をもちだすことは次第になくなった。逆の奇蹟も、古来、語られてきたが、これは、幸いをもたらす恵みの神がごくまれに現れるときに言った。が、災いの神と同様に、奇蹟をもたらす慈悲の神は妄想であろう。仮に奇蹟という、自然法則を超越しこれに反するようなことが真に生じているのだとすると、それを起こしたものは、この世を超えたものとして、万人がこの超越したものの存在・超越神を認めねばならなくなる。奇蹟(miraculum)は、価値あるものに驚嘆する(mirari)という場面を指し示す。喜ばしく驚くようなことであり、否定的な現象はささず、稀有の価値あるものが思いがけず得られるような場面に言われる。慈悲・恵みの神の現れが奇蹟である。キリスト教では、この世を超越した絶対神をいい、それがまれにこの世にありえない奇蹟を示すという。奇蹟が生じたとすると、この世を超えた現象なのであり、その奇蹟を受け入れる者は、その奇蹟を起こしたものを、つまり、超越神を認めることとなる。不信心のこの私であっても、奇蹟が真実生じているのなら、この世界を超えたものがそこに生じているのであるから、その超越神を認める以外なくなる。奇蹟は、有れば、神の存在を証明するための決定打となる。
キリスト教では、イエスが不治の病人を治癒させるという奇蹟を繰り返して示す。それが真に奇蹟ならば、神の存在を明確にし、懐疑的な者をも納得させるものであったろう。だが、語られるいずれの奇蹟も、神がそこに現れたわけではない。不治の病の治療などは、イエスが類まれな精神的治療者だったと語るだけである。ほとんどありえないような感激の治癒をもたらしただけのことであって、神がそこに働いて奇蹟を示したとは言えない。イエスの最初の奇蹟は、水を酒に変えたことだが、こういうマジックは、マジシャンならだれにでもできることであろう。神を頼むまでもないことであるし、神がそこに現れたということでもない。
いまでも、カトリックでは、聖人と認められるには、奇蹟を起こす必要があるという。奇蹟は稀有のことで、真にそれができたとは、超越世界の営為を神のもとでできたということだから、神に直接した聖人に間違いないことである。ただし、奇蹟は本当は起こせていないはずで、どこかでごまかしなどをやっているか、まれな偶然をもって自然法則を超えたかのような見せかけ・解釈がなされたということにとどまるであろう。本当の、超越神のあらわれとしての奇蹟は、起こりようがないことで、それがあれば、万人がカトリックのいう神を認めざるをえないであろう(カトリックが奇蹟を重大なものとすること自体は、超越神をいう宗教のなかでは、奇蹟が神のこの世界への顕現を語る唯一のものとして、真実を追求しようという稀有の真摯な姿勢ではある。が、残念ながら超越神は存在せず、不可能なことを求めているのである)。真実の奇蹟は、存在しないし、超越神も存在しない。存在するのなら、隠れたりせず、ルターがいったように「ここに我有り」と姿を現すだけでいい。それで、全人類が私のような不信仰者をも含めて神を認めることになる。私は奇蹟が有れば当然、絶対神を認める。ただし、人類を苛め抜いてきた神であるから、慈悲の神などではなく、これを貴いものをして拝跪することなどはできない。
7-2-5-4. 人類史は、虚焦点としての王の過酷な支配の歴史だった
理性の制御・支配が貫徹されれば、組織された集団の運営は、尊厳を有した人間同士のことで合理的にスムースに行いえたであろうに、母体が大きくなるほどに、そうはならず各成員を無視したリーダーが上に立って、非合理で過酷な支配をすることになった。全体の上にそびえるようになった神や王が人々を集合させて組織を動かした。存在しない共同幻想の神をこの世の支配主体とし、神の代理となる王を虚焦点にしてこれを社会的組織の統一の要とした。焦点となる神や王は、絶大な力を有したが、それは、国民が有した力であり、この力をあたかも神や王の力かのように錯覚させた。この超越的な神、その代理の王のもとで、傲慢な支配者と卑屈な被支配者となって定着したのが人類の長い歴史であった。
人類史は、虚妄の神への拝跪、横暴な王への隷従の歴史となった。その根本は、『創世記』の語る二つの禁断の木の実のうち、知恵の木の実を食べて理性をもったにもかかわらず、命の木の実は食べず、動物的感性的生を続けてきたことにあるのではないか。快不快にやはり囚われ続けており、群れのうちでは動物的な弱肉強食のマウンティングが人でも目立つ。マウンティングは、動物的な生存競争の日々の営みにあるものだが、ひとでも、これが強く、暴力・収奪の源をなしている。自由、平等、無搾取の社会をモットーにした共産党でも、民主集中(中央集権制)という制度をとって、権力を手にすると例外なくどこも非情の独裁となり、粛清の恐怖政治となりはてた。驚くほどマウンティング(勝者・敗者の厳格な秩序)の強い人類であることを思い知らされたことである。ゴリラやチンパンジーのボス支配と同様なものを続けているかのようである。餌にまずありつくのは、強者だと、動物は優劣の順をつけるが、ひとでも、同様で、富と名誉をわがものにするのは、まずは強者だと、組織的に上下の違いを厳格にし、その極に奴隷制を存在させることになった。理性的に考えれば、人格に上下はなかろうし、尊厳を有した人間であることでは同等であるが、動物的には、上下・強弱の違いをはっきりさせてマウンティングを取りたいのである。それは、身分制・階級制となり、極端には人格すら認めない奴隷制となった。
現代の情報革命のはじめには、これで情報が万人のものとなり、格差はなくなって、自由平等の社会が実現すると夢を見たが、またたくまに、それは消え果て、今は、その情報革命の旗手たちが、世界の富を独占して、好き勝手をやっている。かれらの感性・動物的自然は、そのままであり、マインティングをとり、富と名誉の独占にいよいよ邁進している状態である。被支配者たちの力を王の力としていたのと同じように、作りだした新技術・アイデアを、過去の人類の知恵の集積、同僚の汗の結晶などとみるのでなく、そのトップ個人の力として、人類の知恵を支えてきた現代人を、過去の貪欲な商人をも呆れさせるほど収奪し、そのあぶく銭をエゴの欲望のために湯水のように使っている。ただし、昔は、頂点から順位をつけて、トップのおこぼれを順にもらえていたから、下には下がいるという差別をつけ下をみて、多数がマウンティングの獣性を満たせていたが、情報社会では、それは難しい。極端をいえば、独占的な特許権とか著作権のように、敏く情報を儲けの手段にできたトップか、それ以外ということになるので、トップ以外の圧倒的多数は、おこぼれをもらう余地がなく不満となり、マウンティング制の維持は困難となっている。最近、投資や情報産業などで大金持ちになった人が、意外にも、ベーシックインカム(国民全員への総生活保護制)で行く必要があると説くことが希でない(なかには、過激に、いまの生活保護をどんどん拡大せよという人までもいる)。おそらく、かつてのように無数の位階をもって支配を固め得ていた時代とはちがい、圧倒的多数が一律に仕事もなく惨めな生活を余儀なくされるとなれば、穏やかな社会は不可能となる。所有独占欲の愚を悟り、ベーシックインカムをする以外になかろうとの先見の明をもって、これを語っているのかと思われる。
7-2-5-5. 人類は、なぜ、存在しない神に支配され続けたのか
哺乳動物の子は、母乳でもって親に育まれて成長する。特に人は、未熟猿として生まれ、親にまずは全面的に依存してのみ生き延び得るから、親への依存心が強い。成長とともに自立して理性的にというが、自立は自信がなく、不安になり、苦痛になる。それを逃れて依存の快に走る。子供は親に頼り、親は祖父母に頼り、祖父母は(祖先)神を頼む。
身近な者が死んでこの世には姿を見ることができなくなっても、夢に出てくれば、この世とは別の霊界を想像することになった。ひとは、死んだ親からさかのぼって自分たちの祖先神を創造して、これの声を、神の憑依した巫女などから聴いて、それに従うことともなった。それが、拡大して、地域の氏神となり、さらには、国家にまで広がった神になって、組織だった神職が出来上がって、神の命令と称して、神の代理人としての聖職者とか王が、民を支配することとなった。この支配を好んで受け入れたのは、なによりも哺乳類としての親への幼児的な依存心であったろう。この依存を踏まえつつも、動物的恐怖もまた、豊かな想像力をマイナス方向に働かせて、邪悪な神を創り出した。それが自然を支配していることを想像した。善悪両面を具備した自分たちの神である。世俗の王も、同様に、親のように自分たちを守ってくれるということと、毒親として自分たちを支配し抑制し収奪するものの両面をもったものであった。
自立精神旺盛な現代でも、一部の信仰者は、自己を、神というかその代理人の教祖あたりに投げ出して、麻薬使用と同様に虚妄の安らぎにのめり込み、教祖たちの恰好の餌食になって、抜け出せなくなることがしばしばある。信者の、神仏、あるいは自身をそう称する教祖への依存は異常で、真実ではなく虚偽であろうことも自身でごまかし隠蔽して、これに帰依して安心を得ようとする。真実ではなく、知ではなく、信(宗教の場合、存在しない神を大前提にするので虚妄で固めて、かならず妄信となる)をとる。動物的依存の心性をもって虚妄の神のもとに理性的普遍世界をゆがめ転倒させて、これに幼児のように頼り切り拝跪する。
宗教組織でもマウンティングは強力で、神の代理人あるいは神と称する教祖や神職の信者への支配は親の幼児に対するように絶対的で、信者の方は、そのマウンティングされることにおいて自身は見捨てられることなく安堵できているのだと、その被支配(=「自由からの逃走」)に自己を投げ出し安住することになっている。自律自由の人間からの退歩・逸脱、幼児化のきわみである(王や教祖はマウンティングの獣性を満たし、その被支配者・信者は、マウンティングされて見捨てられないことに安住する。サディストとマゾヒストがお互いに補完しあっているかのようである)。それだけならまだその宗教組織内の悲劇にとどまることだが、その支配欲を現実世界全体へと拡大すると、教祖らの妄想に当然、健全な人々は従わないから、教団は、これを邪鬼・悪魔とみなしてその退治をと大量殺害等に走ることになる、教祖たちの邪悪な企てを信者は、妄信して、人類を絶滅させるような企てに全力を尽くすことになるから、その宗教的妄念は、巨悪中の巨悪となりはてる。教祖は、自身を含めた神は虚妄で無力とよく知っているので、世界を破壊するためには神を頼むようなことはしない。合理的な科学の力を悪用して、化学を習い猛毒の物質を極秘に生産し、物理学に原爆製造を学んで、邪悪な現代人は残らず始末しなくてはならないと、妄信する信者を使って狂気の犯罪を実行するようなことになる。
7-2-5-6. 情報革命は、やがてエゴ・感性を浄化して、新人類を創成する
情報社会の発展は、まもなく、人の生を、その動物的感性からして根本的に変えていくことになる。豊かな自然と社会に囲まれ、死をまぬがれて永生の欲求が充足できる等、人の自然感性は、余裕綽々で穏やかに理性と共同協調していくことが想定される。富みの不足に由来するマウンティングをもっての差別・収奪とか、自立精神欠如の幼児的退行をもっての虚妄の神への拝跪などしなくなるであろう。動物的な欲望・感性に由来する現代の悪の諸問題は、『創世記』のいう、知恵と永生の二つの禁断の木の実を食べる近未来においては、なくなっていくことであろう。
情報革命の先行きに悲観的なひとは、情報機器をもっての人工の知恵が人間を超えることを心配するが、何より、目の前での、感性的な邪悪な心性による高度情報の利用で地球の滅びる可能性が大きくなっている方を心配するべきである。それをしないと、エゴ・動物的感性に由来する悪は、知の悪用で巨大な力をもつ。人類破滅を一人の邪悪な人間が試みれば、実現してしまいそうである。その悪の暴走を食い止めることができるなら、未来は明るい。生命科学の発展は、直接的には、生老病死の宿命から解放するだけだが、情報革命は生老病死の苦をなくするだけではなく、物質文明を飛躍的に高めて、富が生活を十分ささえ、貪欲を無用化していく。エゴの貪欲が無化していけば、他者のものを奪うような悪行は消えていく。おそらく、永遠の命がなるようなところでは、各自の感性は、余裕が有って穏やかとなり理性的な制御もきいて、強者の動物的なマウンティングとか、弱者の宗教的麻薬への依存・執着などもなくなっていくであろう。
情報革命途上の現代社会は、どちらかというと感性自然、動物的欲求の方に振り回され、高度情報は、その便利な道具になっている面が強い。情報社会のごく初期には、バラ色に描かれた未来であったが、現在は、ウェブは、動物的欲求を満たすための道具に堕しているのが目につき、諸悪がこぞって情報の悪用に走り出し、関係者は、それの禁止・摘発に、大わらわである。知らない電話には出ないのが常識になっているほど、詐欺などがウェブには蔓延している。ウェブに精通しているのは、まずは、犯罪者だといいたくなるほどの、エゴ感性の道具になっているウェブの堕落ぶりである。
しかし、情報革命の一段落するころには、おそらく、知恵・理性の方面が一層卓越したものになるとともに、動物的自然の命の方面でも、動物を超越した新たな局面が開けてくる。もうすでに、老化抑制対策が進み、病気もかなり克服されつつあり、永遠の生命をいうことができつつある。生老病死の苦悩は消えていくであろう。そこでは、『創世記』の二つの禁断の木の実の話でいえば、知恵の木の実を食べた人間が理性において自然を超越したように、永遠の命の木の実も食べた状態になって、動物的自然生命を超越することになる。動物的な快不快の感性・感情・衝動といったものが、いまは、エゴの欲望のもとに悪の源となっているが、おのれの生、個我のために他を犠牲にといったことはなくなって、穏やかで仁・愛にあふれたものとなっていくのではないか。経済的に豊かになれば、詐欺・強盗などしようという気になる者はいなくなるであろう。性犯罪が今は多いが、女性が出産から解放されれば男女の違いは希薄になり、異性を意識する度合いは小さくなって、刑務所では食欲とちがい性欲が消滅していたように、性犯罪は根から絶たれるかも知れない。永遠の命を得て、豊かな生活で余裕綽々のもとに、感性が、惻隠の情、仁の姿をとるものとなっていけば、いまは盛んな情報の悪用なども稀有の事柄になっていくことであろう。動物的自然感性を超越して、それに発する欲求・感性・感情が、粗野な自然状態を超越しておのずからにして理性的制御のもとにたつことになるのではないか。「心の欲する所に従えども、矩を踰えず(從心所欲、不踰矩《己の欲望に従いながらも、道を外れない》)」(『論語』「為政篇」)という理想である。『創世記』の語った二つの禁断の木の実、知恵の木の実とともに、命の木の実をも食べた新人類の創成である。
7-2-6. 悲観主義-痛むひと (homo dolens)
この世界には、同じ条件下にあっても、これに楽観的楽天的なひとがあり、逆に悲観的なひとがある。楽天・楽観主義(optimism)とは、「最善(optimus)」がなると想定する傾向のひとであり、悲観主義(pessimism)とは、「最悪(pessimus)」が生じると想像する傾向の強い人になる。楽天は、楽観と並ぶ。同じ意味合いであろうが、別の言葉をもってする以上、一応の区別が感じられてしかるべきで、あえて区別するとしたら次のようになろうか。楽天の方は、天、天命とか運命という、この世からいうと偶然に属する事柄とか、自分たちが自由にはできない物事を、気軽気楽にかまえて気にしないで楽しむことであろう。楽観は、観とおす未来の未定・未知の方向に関して、これを気楽に肯定的にうまくいくと観る傾向の強いことを指すのであろう。楽観的な人は、未来に希望をより多く見出すひとになる。逆の悲観的なひとは、その反対である。未来方向を観るに、希望よりは、絶望の方を、悪いことになる方を気にしてこれにとらわれる者になる。過去方向について、楽観は楽天でいうだろうが、悲観の方は、悲天といわず、同じく悲観的という。過去未来にかかわらず、要は、理解・解釈であり、何にせよ悲色の眼鏡で観るということであろうから、悲観ですべてを言うといいのである。楽天を言うのは、観るときの好都合な方への肯定的楽観的解釈ということよりは、生きざま全般について、性格的なものとして、気楽な構え、ノー天気、のんきさが身についているということであろうか。
同じ事態を悲観的にも楽観的にも解釈できるということは、基本は対象世界の問題ではなく、観る本人の姿勢の問題だということである。いうなら、同じ世界について、違った色眼鏡でこれを観るのである。陰鬱な色眼鏡で見れば、世界は陰鬱に見える。明るい眼鏡なら、明るく見える。当人の姿勢・生きざまの問題ということである。ひねくれて敵対的に社会を見る者もあれば、お人よしで、だまされ続けても本性からの悪人はいないと思って生きるひともいる。病気で一時的に世界観が悲観主義になることもある。鬱病になれば、暗い色眼鏡をかけるのと同じことになって世界は陰鬱なものに観えてくる。いわば、生理的に悲観的になってしまう。
快不快では、快は、すぐに消えるし、同じ快は繰り返すと快ですらなくなっていく。逆の不快・苦痛は、わずかなことでもすぐ生起するし、これが有る限り意識を占領しつづけ忘れることなく持続する。大きな苦痛が生じると小さな苦痛は消えるが、その大きな苦痛が終わったらまた、消えていた小さな苦痛が浮かび上がってもくる。足を踏まれた者は、その苦痛にあったことを、ながく忘れることがない。だが、快・喜びは、感謝感激だった恩すらも、すぐに忘れる。ということは、ひとは、苦痛にとらわれる自然にあり(生保存には、破壊を知らせる苦痛はなにより大切である)、損傷・喪失の感情である悲しみ、悲痛を予期しがちともなる。悲観主義になるのが普通ということになろう。仏教は、この世界を本源的に苦界になると見た。ひとは、「我痛む ゆえに 我有り(doleo ergo sum)」であり、「痛むひと(homo dolens)」と言っても良いであろう。ひとは、生の損傷の苦痛を気にするのが普通であり、これを気にせず、気楽に構えているのは、むしろ特殊ということになろうか。悲観とちがい、楽観では、楽天を別に言う。楽天は、「我痛む」の苦痛の悲観主義になるのが普通の「痛むひと」の中で、そうならず、苦痛になろうことに注意するよりも、快や楽の方に目をむけて、世界はうまくいっていると感じる特殊な者として際立ち、ことさらに楽天という言葉をもってするのであろう。
自然を超越した理性意志の溢れる魂のもとでは、自身を襲う苦痛に反発しチャレンジ精神を鼓舞することにもなる。苦痛を乗り越え挑戦する者は、価値ある目的に向かうのであり、勝利の楽しみを未来に描いて実現しようと挑戦する。その限りでは、「楽しむひと(homo laetans)」となるのである。だが、失敗に終わることも多々ある。その間、苦痛・悲痛の思いにとらわれることでもある。「痛みのひと(homo dolens)」に舞い戻る。しかし、その痛みをばねにして再挑戦する。痛みは、自身の限界だと消極的になるのではなく、乗り越えていくべき跳躍の場だと、奮い立つ。ひとは、これに耐え、これを乗り越えて前に進むというチャレンジ精神をもつ。理性をもって耐え忍んで未来に生きるのが人である。ひとは、本源的に「痛むひと(homo dolens)」であるけれども、その理性存在のゆえに苦痛への「忍耐のひと(homo patiens)」なのである。その精神・意志は、その苦難への挑戦を生きがいとし、目的という価値獲得を楽しみとして楽天的で、「楽しむひと(homo laetans)」になっているのでもある。
7-2-7. 痛みにとらわれたマゾヒズム・サディズム
加虐趣味も被虐趣味も、苦痛への常識的対応から外れている。だが、それは、生一般に関してではなく、性的快楽の手段に苦痛を採用する悪趣味に限定して言われてきた。それにしても、お互いが愛し合い慈しみ、快を与え合う性愛であろうに、サディズム(加虐性愛)・マゾヒズム(被虐性愛)は、その逆を、苦痛を与えて満足し苦痛を受けて快の興奮を得るということで、痛みにとらわれた特殊な「痛む人(homo dolens)」である。
そういう性的快楽とは異なった、被虐の幼児体験に由来するマゾヒズムもある。親からの苦痛を受け入れることで親とつながりえて、死なずに済むということが重なれば、受苦に愛情の欠片を見出すことになる。ちょうど、プロテスタントが、世俗の辛い仕事を神からの辛苦の使命と解することで、辛いほどに、それだけ神から見込まれ、しっかりした使命を与えてもらえているのだと思い、神との強固な結び付けを見るのと似たものになる。親から虐待されるほどに、親から見捨てられずに安心できるという心的機制になっているのだと言われる。
被虐には、自分で自分に苦痛を与える類いのものもある。リストカットの自傷行為は、それで自己が直接、快を得ようとしているものではなかろうが、その方面の研究では、腕を切っての苦痛は当然あるが、脳内には快楽様物質が分泌されているともいう。自罰は、自己が自己に苦痛を与えるが、これは、普通は、合理的なもので、自己への被虐とは、別にされるべきであろう。悪しき自分を自己内の(社会的規範を内在化した、決してエゴに贔屓などしない)良心が罰する。自分を責め自分を自身で罰するが、あるべき処罰であって、虐待、被虐ではなかろう。殺人犯のレイプで生まれ、母親にも捨て子されたと知っている者が大きくなって自虐的自罰的になった場合、自己をなす人格(魂)は、自己内の憎き父・母を身体に見出してこれを痛めつける自虐が生じるかも知れない。身体の痛みをもって、そのひと時、魂は鬱憤を晴らして落ち着きを得る。せつない「我痛む 故に 我有り(doleo ergo sum)」という我(魂)の存在の感得となる。
生理的快不快と、精神的なそれは、同一人の同じ場面に反対の感情を生じることがある。自虐・自傷では、生理的には自らを傷つけて苦痛なのだが、それが精神的には快になるようなことがある。レイプなどでは、逆に、屈辱的な事態に精神は悲痛であっても、生理的に恥部を刺激されて生理的な快楽をいだいてしまうことがあるという。男子がレイプされるとき、自らのもとで勃起し射精したのなら、快楽を得たのであり、レイプといえるのかとほかの男子は思うことがあるが、やはり、意志に反しての勃起であり、自身の身体への嫌悪感も加わって精神的に大きな屈辱体験となるようである。
サディズムは、加虐性愛と訳されるが、性的なものに限らず、加虐愛は多そうである。本来、異性生殖では、優秀な子孫を残すために、オスは、弱いオスを排除して独占的に強者が生殖行為をするようになっている。ひとの性的行為もその延長上にある。その原始の攻撃的心性をより強く残しているのが性的なサディストなのであろうか。
しかし、加虐的な心性そのものは、人間社会では、原始以来、いたるところに蔓延っている。社会的地位を争い、冨の独占を争い、自他の優劣のマウンティングを、動物以上に頻繁に行っている。人間は、生理的にはかなりが同じ能力をもつ。差異がはっきりしないので、なにかあると、競争・闘争をもって、わずかの差の決着をつけようとする。人の場合、加虐・被虐は、見るだけでも、想像力たくましく、その気になって、これに興奮する。テレビなど、実際の戦いには加われない傍観者の位置にいながら加虐を楽しむ人は多い。サディスト、いじめることに快感をもつ者は、生理的身体的なものに限定されることではない。社会的精神的世界にも、それは満ち溢れている。今年の日本のノーベル化学賞受賞の北川先生は、海外での研究発表で多くの参加者から罵倒され、夜ひとりベッドで悔し涙をながしたことがあったと述懐している。そういえば、iPS細胞の山中先生も、臨床医であったころ、手術などの要領がよくなかったのか余計者扱いされて「じゃま中」とあだ名をつけられたことがあったとか。その分野のトップの人ですら、加虐の犠牲にあっているのである。ましてや、一般の者は、である。
7-3. 苦痛をふまえて生きる人と動物
生きて動く物は、苦痛をもつ。だが、生命はあっても、動かない物、植物は、苦痛をもたない。植物は、大地に根を張って静止状態で、接しているものをもって同化し異化して生きる。そこに定着しているので、外界が変化したり脅かしても逃げられない点においては、なされるがままとなる。植物は、植わった物である。これに対して動物は、動く物として、食べ物等を求めて探しまわり、かつ自身が侵害されることに対して、これから逃げたり、これを排撃したりと、能動的に動いて身を守りもする。生体が動くためには、その動きを担う諸末端と全体を一体的に動かす中枢をもって、この中枢は、末端の損傷には苦痛を感じる痛覚をもち、その損傷の危機的状態を把握することが必要となる。生が順調で保護されている安全な状態では、快をいだき、一層の生促進にと快はアメともなった。苦痛は、逆にムチとなって、危機に覚醒し集中した対応をとることとなった。
日本語の世界では、動物と人間は、同じ「有情」と捉えられる。植物的生とはちがって、情を有した、つまりは、快不快の感情を持ち、苦痛を持って動く存在として貴いものとみなされている。石や樹木は、それを「ある」というが、犬もひとも「ある」ではなく、「いる」と別格扱いする。ひとも動物も、苦痛をふまえて、自らが動く有情の存在としては同一ということである。仏教は、あの世の安楽に対して、この世を「苦界」と捉えた。人も動物も皆、苦痛の存在だということである。ひとは、快苦を有する、この有情の動物の頂点にたつ。日々は、ひとも動物的な快苦を中心にして動く。かつ、それを超えた快不快の上になりたつ超自然的な営為としての精神的な領域を確立して、動物的な自身をそれに従えて至高の存在との自負をもって生を展開している。快苦のうち苦、苦痛は、精神世界でも大きな意味をもっており、精神にのみある苦痛である絶望とか不幸感等によって、ひとは、強く押されて動く。快の方は、あまり意味をもたなくなって、生促進については、快によるのではなく、精神的世界での価値あるものによって、これを確保することを目的にして動く。経済的価値、財貨の獲得をめざし、精神的な価値の真善美等を目的として、その手段として苦痛の甘受が必要なら、苦痛から逃げず、これを耐え忍んで、輝かしい目的に向かおうとつとめる。
ひとが動物と異なって尊厳を有した至高の存在となっているのは、理性を獲得して普遍的な概念世界、精神世界を構築したところにある。自然因果の世界を超越して目的論的な生き方ができることになったのである。未来に目的を描き、これを得るためには、手段として苦痛を受け入れることが必要と分かれば、ひとは、この苦痛から逃げず、苦痛を甘受しこの苦痛の手段を実行して、目的としての価値を獲得できることになった。自然のままに苦痛を回避したり攻撃して排除するだけではなく、ひとは、必要なところでは、超動物、超自然の行動を起こしえて、苦痛を甘受し、忍耐することができる存在となっている。人は動物として「苦痛の存在(res dolens)」であるが、さらに、理性・知恵をもった者、「知恵の人(homo sapies)」として、この苦痛を甘受し、苦痛を「忍耐するひと(homo patiens)」となっているのである。
7-3-1. 動物的生の存続を、苦痛の有無で確かめることがある
生命体としての生き物、生物は、大きく動物と植物に分けられる。動く物が動物で、動かず植わっている物が植物である(ただし、生物の中には、ミドリムシのように、葉緑体をもって光合成して植物的であり、かつ鞭毛をもって動いて動物的な、「動植物」も存在する)。その動物が、動くとき、その末端の手とか足になるようなものが、あるいは、体の前と後ろとが、別々に動いていたのでは、ひとつの動きはできず、ひとまとまりの整然とした対応はできない。それには、その生命体全体を一体的に動かすものが必要である。これを担うのが中枢である。末端への連絡を神経系(遠心性神経)が行い、一つの生命体としての運動を可能とした。かつ、その中枢は、同時にその動きのためには末端からの情報を感覚(求心性神経)でもって有しているのでないと、適正な運動は不可能である。熱いものに触れたとすると、これを痛覚で損傷としてうけとって、これを回避する運動をすることとなる。そのことで生は、おのれを保護することができた。
動物は、感覚をもち、これを中枢に伝達して、逃げるとか攻撃する等の運動を行うが、そこでの感受し反応する有情の情の根本は、快不快であろう。そのうち、快は、事がうまくいっているときの感情として、動くことがなくても、或いは、動くとしても、切迫的なものでなくてよい。だが、不快、その強烈な苦痛は、この苦痛の事態を回避することへと火急の反応をもつことをその生に強制する。そのように反応することで生はその生命を保護・保存できるのである。動く物であることが動物の根本特性であり、苦痛が感じられなくなった動物的生命体は、その存続があやうくなる。苦痛になって何はおいてもこれに反応してこれを回避するようにと運動するものは、生きのびるが、その苦痛を感じられないものは、生を危うくする。痛みを感じることがその生にとってはもっとも大切なことであり、その存在は、苦痛を感じる存在、「痛むもの(res dolens)」だということができるであろう。
快はなくても痛みがあれば、その生はおのれを全うすることができる。動物は動く物だが、動くことが必須であるのは、なによりも苦痛に対してである。快であったり、感じるものがなければ、そこに不動になっていてよい。動く物でなくてよい。だが、苦痛に面しては、これを回避するために、逃げるとか排撃するとかして、かならず動かねばならず、動く物の本領を発揮しなくてはならない。苦痛が動物であることを証し明かす。有情の根本は、痛みを感じることだといってよいであろう。生あるものは死をもって終わりとし、日々、死に抗して生きている。苦痛は、この死、生の損傷を知らせる感覚・感情であり、苦痛(死)から逃れること、これを回避することで、その生の維持・保存は可能となる。
生きているかどうかを、苦痛を与えて判断することがある。厳密には別の詳しい判定がいるが、動物として生きているとは、苦痛を根源に有した状態だということを踏まえてそうするのであろう。高等な機能は、消失していたとしても、苦痛の反応は生の根源的な反応として、これが残っておれば、生きていると判断できる。快不快の感情のうち、高度なところからもっとも原始的で根源的なところまでに存在しているのが苦痛であり、この苦痛を与えて反応があれば、なお動物的に生を保っていると判断できる。ただし、植物は苦痛を有さないから、その生の判定は、動物的生ということである。人を植物人間(person in a vegetative state)になってしまったと言うことがある。それは、動物に根源的な苦痛すら感じられない、意識の全く機能しなくなった状態を指す。苦痛を感じえず植物神経(自律神経)のみの植物状態(vegetative state)になったものである。
7-3-2. 残っているのは激痛のみならば、安楽死を想うことになる
苦痛は、人と動物の生をなりたたしめる必須の感覚・感情であるけれども、この苦痛のみがあって生の回復は不可能と確定したところでは、人は、生自身を廃棄し安楽死しようと決意することがある。苦痛は、主観的直接的には、嫌悪される反価値の代表である。苦痛は、死神のいまいましい鬼声・脅声である。その生に、苦痛しか残っておらず、死神の苦痛とだけ同居する状態になるのなら、生きていたくないと安楽死をもとめる。
が、嫌悪をもよおす主観的には最悪の反価値の苦痛であるからこそ、これを回避したいということが強烈で、その回避衝動をもって、苦痛をもたらす生の損傷は、回避可能となる。苦痛は、死神の接近を知らせる脅声であり、これが迫ってくると最悪、死に至るので、これを回避できるようにと、あらゆる事を放擲してこれに最大限の注意をはらい力を振り絞って、苦痛(損傷)から逃走しこれを回避して、生はおのれを保護できるのである。であれば、苦痛は、生にとって、これを保護・保存する、客観的には大切な手段価値となる。生は、常に死によって脅かされており、その脅迫の主観的感受が苦痛の感情であり、これほど嫌なものはない。苦痛は、何としても逃れたい主観的な反価値であるがゆえに、苦痛・損傷への強烈な回避衝動をもって、客観的には、生保護の根源的な手段価値となるのである。
その苦痛という死神の脅声が身近になり激痛が続いて、もはや死神からは逃れられないということが決定的となったら、この死神と一緒になることを拒絶して、自身を無化することを考えるようになる。激痛のみが残るのであれば、苦痛の客観的な手段価値はなくなった状態であり、その苦痛は、これほど嫌なものはない主観的な反価値の感情でしかなく、生は、自らを終わらせていく決断をする。安楽死は、自らの意志で自己の無化を図る、尊厳を有した人間の、最期の自由の行使である。
激痛がつづくと、苦痛は反生の邪悪な感情と意識され、その苦痛さえなければ、どんなに生は穏やかに生き生きと存続できることかと思う。苦痛は、邪悪な死神の脅声で、生の保護などとは、とんでもないと言いたくなろう。安楽死(euthanasia)は、「よい-死eu-thanatos)」ということだが、「よい」とは、死に方が安楽で、苦しまない死ということである。激痛しか残っていないのなら、死んでも「よい」ということでもあろう。生の損傷がいかにひどくても、回復の可能性があれば、死のうとは思わないであろう。もう死のうと安楽死を求めるのは、反価値の激痛だけが残っていて、それに耐えても生の復活は不可能となっているからである。尊厳の生をないがしろにし放棄しようという自殺は、反生・反自然の悪しき営為ではあるが、激痛のみが残った状態なら、死ぬことが例外的に許される、死んでも「よい」というのである。安楽死は、なにより、激痛をなくする。「安楽」になるには「死」しかない、死が救いだという感覚であろう。安楽死の方からいうと、反価値のみとなった苦痛に最後まで耐え続けての憔悴の末の死は、残酷な手段をもってする死刑であり、もっと長くたくさんの激痛を味わって死ねと身体を少しづつ切り刻んで嬲り殺すことに等しく、過剰延命の悪死dysthanasia(悪い-死dus-thanatos)になる。
苦痛のみなら生きている意味がないという安楽死の思いの生じるところからすると、苦痛は死をもたらす、苦痛は死をまねくということであり、苦痛が生を保護している、苦痛が生だということとは逆である。安楽死の方面から言えば、苦痛は死をまねく死神ということになろう。苦痛は生の損傷であり、苦痛が続けば、損傷が大きくなり最後は生全体の損傷・破壊として死に向かう。ではあるが、生がその本来的な生き生きした生命を保っている状態では、苦痛が生をなりたたしめているのも確かである。苦痛は、生否定的なことを察知して、人にその損傷・破壊を告げ知らせる。苦痛をもって、ひとは、損傷をもたらすものを感知して、これを回避でき、生を保護することが可能となる。苦痛がなければ損傷を受けても平気でありどんどん損傷をうけて死にいたる。生保護には、損傷を小さく済ますには、苦痛が必須で、苦痛は生にとって根源的な手段価値になる。生は、苦痛が守っている。苦痛は生の守護者、前衛になる。そうではあるが、激痛のみがあって生のガードは不可能という事態にいたっては、いたずらに生を煩悶させるのみとなってしまう。客観的な手段価値であることがゼロとなって、残っているのは、主観的な反価値のみで、激痛のみが続くのなら、無意味な苦痛甘受などやめて早々に生をたたもうというのが安楽死であろう。
7-3-3. 苦痛は、やはり、生保存に根源的で必須のもの
激痛が続くと、苦痛がなければ、生は、安らかで、どんなに生き生きできることかと思う。苦痛は、嫌悪される代表となる、主観的には徹底して反価値である。いまわしい死神の脅声である。だが、主観的に徹底して嫌悪される苦痛であるからこそ、生の苦痛と損傷に注目が強制され、なんとしても苦痛は回避したいから、その損傷を免れることへと反応することになるのである。つまり、苦痛は、客観的には、きわめて効果的な生に必須の手段価値となっているのである。苦痛は、本源的に生の保護者としてあり、損傷を回避するようにと警告する。苦痛は無意味にひとを苦しめ悶えさせるのではない。損傷・破壊への対応不可能なところでは、普通、苦痛は生じないようになっている。内臓は、損傷を受けても、ひとが自身でこれに対処し損傷を回避するようなことはできないので、苦痛は感じないようにできている。その損傷に対処できるところで警告としての苦痛は発生するということでは、苦痛はよくできた手段価値になる(もちろん、頭痛など、自身で対処できないところで苦痛が生じることもある。生命進化の途中で、苦痛関連の神経の配線が若干混乱したのであろう)。
仮に苦痛がないとしたら、火に触っても、平気となる。たちまち、火傷することになり、大きな火であれば、焼死することになる。苦痛が生保護を可能にしているのである。あるいは、動物として生を保つには、栄養を摂取する必要がある。食は、生に必須である。その食べ物を摂取するとき、快がこれをさそう。だが、有毒なものをそこではまずは除去することがいる。食べ物にならない石油とか粘土を口に入れたら、それらが猛烈に不快で苦痛をもたらすことになる。苦痛になるものを排除・嘔吐して体内に入ることをまず阻止する。そのことで生は破壊されずに保護可能となる。その上で、栄養あるものは美味しいものとしてこれを摂取するし、美味しくなくても、苦痛になるような有害・有毒なものでなければ、これも摂取するであろう。あるいは、栄養摂取が必要なら、空腹となるが、それは、苦痛をもって知らせる。空腹の苦痛をなくするために食べることに向かい栄養摂取がなる。食においても、第一次の選択は、苦痛か否かでなされ、第二次の選択として美味しいかどうか快かどうかがあり、現代の恵まれた状態では、第一の関門は、口にする以前に排除されているので、食事に際しては、第二次の選択の快・美味のみが働くことになっているのである。
痛覚のない人がいる。楽であろうが、損傷しても、気づかないことになり、知らぬ間に足の指を骨折していたりと、体は傷だらけになるとかいう。痛みは、生保護に必須ということであろう。現代社会で痛覚のない人が生き続け得ているのは、長い歴史の中で、苦痛で損傷、生破壊を繰り返してきたので、そうならないように安全策を種々ほどこしているからである。火箸が有り、鍋には取っ手があるから、火傷しないで済んでいるのである。器具類の角を滑らかにするのも、傷つき苦痛になるからそうしているのである。それがいたるところでなされているので、痛覚がない人でも傷を少し創るぐらいで済んでいるのである。もし、人類にもともと苦痛がなかったとしたら、生は、存続ができなくなるであろう。損傷・破壊に平気であれば、それを回避する動きをすることはなくなる。肉食動物にかじられてさえ平気なことになれば、生き延びることはできないであろう。生破壊に苦痛がなく平気であれば、動きは鈍く腕力も小さい人類は、肉食動物の恰好の餌食になって早々に消滅していたことであろう。苦痛が損傷・破壊になりそうなところで強く警告をするから、生の保存・保護が可能になっているのである。
7-3-3-1. 快も気になるが、なにより苦痛のムチが事を進めていく
草食動物は、快に動かされて草をはむ。だが、肉食動物が迫ってくると、恐怖の苦痛が駆り立てて、草を食べるのをやめて逃走する。そのことで生は保護可能となる。快の方を優先したとすると、餌食に選ばれ生は損傷を受け死を迎えることになる。あるいは、空腹で苦痛であるから、草をさがし食べて生き延びようとするのである。もし、その空腹が快であったり何でもないのなら、食べ物を無理してさがすこともなく、死を迎えることであろう。生保存には、苦痛の存在が必須である。嫌悪すべき苦痛(損傷・死の告知)のムチが生を保護する。死(の想像)が生を支えるということになる。
ひとは、理性存在として自然のトップに立つ。その英知をもって世界を深く解明し、未来にあるべき自分たちの状態も客観的に描き出す。環境問題が深刻であると糾明し、あるべき指針を示してもいく。だが、理性だけであったとすると、事は進まない。快苦の感情などの衝動的なものが参加しこれを支え、あるべき方向へと現実に歩みを進めるのである。環境問題が深刻でも、それで人類は滅びていくとしても、そう理解するだけでは、まえには進まない。「そうですか、もう手遅れですか」と傍観して終わる。これを現に推し進めるのは、感情的ささえをもってである。その中で特別に強力なものは、苦痛感情・苦痛のもつ衝動力であろう。環境破壊、人類消滅の想定に対して、「そうなるかも知れませんな」などと落ち着いてはおれなくなるのは、これに不安感をもち、立腹し、悲痛の思いを抱き絶望させられてである。そういう苦痛感情がひとを駆り立てるのである。
環境問題に取り組んで、清々しい、愉快だと快の感情をもってすることもなくはないが、何と言っても、苦痛がことを進める。日本もずいぶん、公害で苦しんだが、それの改善に一番取り組んだのは、スモッグとか騒音に苦悩してきた被害者たちである。何とどう取り組んだらいいのかは、空気中の有害物質を解明する科学者たちのはっきりさせたことだが、その冷静で知的な営為自体は、公害撲滅の主力にはならなかった。これを進めたのは、苦痛である。煤煙等で喘息になり、あるいは、水銀中毒で家族を奪われた悲痛の人々であった。苦痛が、人間としてあるべき道を押し進めたのである。
個人の歩む道にしても、理性・知性が一応ことを進めていくけれども、快不快の感情によって内実進められることが多いのではないか。知性が冷静に考えて、自分の能力・関心からは、大学進学は音大がいいと判断し、現代のベートーヴェンになることを心地よく妄想しても、それでは、有閑階級に属していない自分は食っていけないと、不安感が立ち止まらせる。病人と一生付き合うのかと思うと気が進まないけれども一番食いはぐれがないのでと、医学部・看護学部に行こうというようなことを思う。食っていけない悲惨な未来の不安とか絶望といった感情が音大に行くことを拒否し、食いはぐれのない医療関係の道をやむなく選んだというようなことであれば、それをさせたのは、理性ではなく苦痛であろう。惨めな生活の苦痛を思って、それを回避する方向へと進んだのである。音楽家になりたい、作家になりたい、それが自身の天職だと思っても、それでは、悲惨が苦痛が待っていると思えば、その苦痛を回避したいと、苦痛の感情類が自身を鞭打って、食いはぐれのない道へと向けていく。苦痛が生を駆り立てるのである。
7-3-3-2. 快を感じるかどうかは、些事
ひとも動物も、美味しいもの、快になるものを求め食べ、快にしたがうことで自動的にその生の促進がなる。が、他の営為では、快よりも苦痛によって駆り立てられることが多いのではないか。皮膚など、環境が損傷を与えることに対応する苦痛の痛覚はあるが、快適な環境に対しての快覚を有さない。快であるかどうかは些事で、生が損傷を受け生破壊となるような事態を回避して生維持がなるようにと苦痛に注意することが大切になる。
ひとになると、食には恵まれているから、美味しいものを選ぶことが普通になり、快が事を進めることが多くなる。だが、根本的には、食でも、苦痛があって、これが有害・有毒なものを排除する役割を担っている。かりに、石油が飲み物として間違って出された場合、口にして苦痛ですぐ吐き出すであろう。砂が混じったものであっても、それを察知した口は、その不快・苦痛を優先してこれに従い、飲み込むのをやめて、それをまずは、口の外へと取り出すことであろう。やはり、根底において、苦痛が見張っていて、このセンサーにかかるものは、受け入れないという態勢になっている。昨今は豊かな生活になっているので、食事に出てくるものは、大体が美味しいもの、快が普通で、その中で、より快であるものの選択になっている。しかし、根底には、苦痛・不快感情が控えていて、いざというときには、これが発動する。発動することがないからといって、苦痛はどうでもよくなっているのではない。生破壊の有害・有毒の食べ物が混じって出ることがなくなっているので、第一次の根本衝動の苦痛・不快を発動させないだけである。苦痛を手段価値としての選択が根源的で第一次の選択であり、快は、食でも、第二次の、栄養摂取という点でも些事となる、贅沢な選択である。気温でも、快感はなくても平気だが、猛烈な暑さで苦痛だとか、低温が身体に痛みを感じさせるような場合、それを感じる痛覚がないのだとすると、ひとの生保護はあやうくなろう。生にとって苦痛は、不可欠なものだが、快は、些事である。
精神的生になると、快は、ほんのエピソードになる。だが苦痛の方は、絶望とか不安、悲嘆などその生を揺り動かす大きな力をもっている。快は、主観的にも目的とはならない。「ぬか喜び」という純粋な喜びは、つまり、価値ある物の獲得を欠いて喜びの感情だけが与えられた場合、ひとは、立腹してこれを拒否する。精神的生とちがい動物的レベルの場合は、栄養ゼロとか若干有害でも、美味なら、これを人は喜んで受け入れる。だが、「ぬか喜び」という純粋な喜びの場合は、これを拒否する。快ではなく、精神的生では、価値ある物事の獲得を目的にする。それには、多くは快が伴うが、かならずしも快でなくてもよい。幸福など、恵まれて幸いが得られていても、幸福感情を持たないことがしばしばである。幸福論者は、そのことを不遜だと嘆くが、精神的生においては、快の感情は些事なのである。だが、苦痛、つまり、精神的苦痛の不幸とか絶望といった感情の方は、この感情自体が重大なものとなる。絶望とか不安は、それをもたらす事態とともに、その感情そのものが大問題で、これを一時でも感じないでおきたいと薬を使い酒を飲んで憂さを晴らそうとする。不幸の事態を解消しようと懸命になるとともに、この感情を感じないようにとつとめる。快とちがい、苦痛感情は、精神的生でも、主観的に大きな反価値であり、かつ、その事態の回避にと人を駆り立てる大切な手段価値となっている。
7-3-3-3. 快は終結感情、苦痛は未決感情
快のアメのもらえる時があるが、それは、ことがうまくいったときで褒美である。そのアメをもらって、ことはすべて終了ということになる。快と一体になりつつ、まどろみ、眠りにつく。だが、苦痛は、ちがう。それは、ことの始まりである。苦痛発生とともにその原因となるものから逃げることを開始する。あるいは、嫌な苦痛を引き受けるのは、それを手段として目的が達成できるからで、なるべく苦痛を小さく済ませられるようにと、苦痛止揚にむけて懸命に対処を始めていく。ムチで打たれるのは、ことが終わって、失敗の罰であることもある。そういうときでも、その苦痛に、快のように浸ることはなく、痛む自分自身に距離を持とうと動く。あるいは、ムチ打つのは、事を進めていくときで、進まないともっと強い苦痛を与えるぞと脅すのであり、打たれる方は、その苦痛を回避するようにと動き、快のようにその苦痛に留まろうとなど思うことはない。多くの苦痛は、生に損傷がはじまったときいだく。損傷が発生したと警告するのであり、危急の対処をすべしと緊張させ覚醒させ、意識をその損傷・苦痛に集中させる。苦痛はそれをなくするようにと生を駆り立てる。快とちがいそれを感じて終わりとなるのではなく、その苦痛をなくするようにと、逃げたり撃退したり猛省していくことが始まるのである。苦痛がなくなるまで、苦痛は、ひとを駆り立てる。快が終結感情であるのと逆で、そこからことが始められる始発感情であり、未決感情である。
快が瞬時に終わることは、しばしば残念がられてきた。食の快楽も、のど越しの瞬時にいだくのみである。口に入れていただけでは、快とならない。のど越しに、つまり、確実に栄養豊かなものがわが物になったという瞬時にのみ、快は生じる。食道楽が鶴の長い首をうらやんだのは、快楽を長く感じたいということからである。逆に、苦痛は、口に入れただけでしっかりと、口にある限り、感じ続ける。石油をまちがって口にした者は、のど越しに至る前から、口に含んだだけで、苦痛を感じさせられ、吐き出すまでこれから逃れられない。快は、短く、ことの終わった瞬時いだくだけだが、苦痛は、事の始まりとともに抱き、原因の除去が完了するまで、延々と感受し続けて、長い。
精神的社会的な生のもとでも同様で、快は、ことの終わりに瞬時いだくのみだが、苦痛は、その生じる原因が消滅するまで、いつまでも当人を痛めつづける。喜びの快感情を抱くのは、価値あるものが確実にわがものにできたときで、ことの終わりに瞬時いだき、そのことを振り返って喜ぶのも、短期であって、すぐに忘却されてしまう。価値ある物を分け与えたひとは、自身が損失したのだからいつまでもその贈与(分与)を忘れないが、贈与された方は喜び、快ですべて終わったのであって、すぐに忘却する。その忘却に、贈与者は忘恩を思い、忘恩、贈与(分与)の不快・苦痛をいつまでも持続させる。苦痛は、しつこく続く。喪失への苦痛、悲しみは、長く持続する。失ったものは、忘れない。簡単に忘れたのでは、生は、まっとうな存続ができなくなるであろう。いじめでは、いじめた方は、うしろめたい快をいだき、間もなくそのことは忘れる。ことはすでに終わっているのである。だが、いじめられた方は、一生忘れない。借りを返していないのである。ときには、仕返しをするために、人生をかけて延々と憎悪の感情をいだき、仕返しできるだけの力をつけたり、手段を作り上げて何年もあとに、仕返しを実行する。それでやっと、その苦痛の感情は終わりとなる。ときには、憎悪感情は、次の世代にまでバトンタッチされて続くこともある。恨みの不快・苦痛感情は、借りを返すまで、延々と続く。
7-3-4. ひとは、苦痛の色眼鏡で世界を見ることが多い
ひとにとって苦痛、したがって損傷は、生の危機であり、これを回避することで生は無事に存続可能となる。苦痛は、無視されると生破壊となることで、常々注目して対処すべきものである。社会生活では、苦痛・苦難は、回避されるとともに、しばしばこれを手段として受け止めて、高い目的を実現していくことも多い。この方面では、苦痛は回避していたのではことが成就しない。これをあえて受け入れる苦痛への忍耐の必要が生じる。回避するにせよ、甘受して忍耐するにせよ、苦痛に注目し、最小の苦痛になりうるようにと工夫する。世界を苦痛の出来する場として、苦痛の生じそうなことを注意・予期して生きていく。あろうとなかろうと苦痛に注意・注目し、苦痛という色眼鏡をかけて世界を見る。今は勿論だが、まだない未来も損傷・損害等苦痛となるものに何より注意して、これを回避するようにと動く。生活の困窮を描き、そうならないようにと自身の進学とか就職を決める。先を見通して現在を決定するが、好きなことをやっていたのでは絶望や悲痛な状態になること間違いなしと、苦痛の未来を回避するようにと選択をする。快適な未来であることを願い、そういう歩みをするのであるが、その前に、大前提として苦痛のことを踏まえて、何より、絶望・不安・貧困の悲痛等を描いて、そうならないようにと選択していく。
ひとも動物も、苦痛・損傷は生の危機・破壊であるから、これには細心の注意をする。苦痛(回避)の探索を行いつつ前進する。快を見出すことを目的にして動くときでも、苦痛への警戒を怠らない。なにを進めるにしても、苦痛という破壊・損傷を被らないようにと注意しつつ、行う。ひとは、動物として苦痛回避をもって生の保護をする。苦痛は、なにより嫌な筆頭の反価値であり、これから逃れるために懸命になる。が、必要な場では、これをあえて受け入れる。目的実現のために必要な手段として苦痛があれば、この苦痛を甘受する。苦痛は、目的のための大切な手段価値とみなされ、これを耐え忍ぶ。当然、無駄な苦痛感受とならないように注意し、対策をとりつつの、あえてする苦痛の受容、甘受である。動物以上にひとは、苦痛の色眼鏡をかけて世界をみる。苦痛を反価値として単に拒否するだけではなく、甘受することによって高い価値が得られる不可避の手段価値とも見る。苦痛を反価値として凝視するとともに、これを大切な手段価値とみなす特殊な色眼鏡をかけているのが人である。
ひとの苦痛の色眼鏡は、ひとまずは視野が広大である。あらゆる危険を察知しようと見まわす。生を脅かすものは、どこにあるか分からない。隙があれば、災いが降りかかってくる可能性があり、あらゆる方面へと視野をひろげて、苦痛・損傷の可能性、危険を点検して歩みを進める。かつ、現に苦痛が生じた場合は、これを回避しこれから逃走したり、可能ならこれを排撃し攻撃して苦痛・損傷の発生を阻止しなくてはならない。広い視野を持ち、適切に危険を察知できるのが苦痛の広視野望遠鏡である。でありつつ、現に損傷が生じて苦痛が実際に感じられる段になると、このことに集中していく。そこでの視野は、極端に狭くなりその苦痛に焦点をしぼり、これへの細心の対応にと腐心する。意識はその一点に集中し凝視して、微細な苦痛も見逃さない顕微鏡となる。その一点の凝視で他のことはお留守にすらなっていく。苦痛は、視野の最大(あらゆる危険へのサーチ)と最小(生じた苦痛への意識の集中)を求める。快だとまどろみ眠り、意識を無用にしていくが、苦痛は、その反対で、意識を覚醒させ、意識を苦痛からそらすことを拒む。この意識の集中は、苦痛へのそれであるから、苦痛以外の事柄については、お留守になり、安らがせ安堵させ恵みをもたらすものといった方面については、見逃し勝ちとなる。悲観的であり、楽天的楽観的な方面は見逃してしまうことになる。仏教は、この人間世界を、苦界・苦海と捉えた。悲観的な苦痛の暗い眼鏡をかけてこの世界を見れば、確かに、どこを見ても苦痛が満ち満ちている。悲嘆せざるをえず、厭世的となり、出世間、出家主義となる。
7-3-4-1. 苦痛の過去・現在・未来
ひとは、過去・現在・未来の時間のもとに生きている。苦痛は、それぞれについて、苦痛色に染めてこれを見させる。過去については、快とか喜びの体験とちがい、苦痛は、すでになくなったことなのだからと簡単に忘却していくことはしない。足を踏んだ者とちがって、踏まれて苦痛を抱いたものは、これを一生忘れないという。いじめた方は、すぐに忘れるが、被害者の方は、受けたマイナスの仕返しするためにと、長年月かけても忘れることなく、機会をねらい、これを実現していこうとする。受けた苦痛ははるか昔のことでも、仕返しができなかった場合、怒りは憎しみとなって、その苦痛から延々と続く怨恨感情は、ときには、個人を超えて次の世代にまで受け継がれていく。個のみのことではなく、社会全体としても、苦痛の過去は、追悼の儀式などを反復して記憶にとどめ続ける。受難の記憶は、長く残る。過去は、喜び色で思い出すよりも、苦痛・悲しみ色で見ることが多い。喜びは価値あるものが獲得されたのであり、もうすべて終結しているのであって、気がかりはなく、すぐに忘却されていく。だが、悲しみは、喪失体験であり、その喪失・損傷からの回復がなることをもとめるのが生維持となることで、その回復がなるまで忘れないようにしておくべきなのである。失ったものへの懸念は、回復がならないものであっても、その損失の愚を繰り返さないようにと、いつまでも残り続ける。
現在のもとでの快と苦でも、優先的に注目されるのは、苦痛である。快は、マイナスはもたらさないのであり、できれば獲得したいということにとどまる。苦痛は、現に生じているマイナスであり、深刻で危急の事態であって、この苦痛の回避にと集中する。苦痛は、損傷がはじまったら感じさせられ、損傷がなくなるまで、注目し対処すべきことであって長く持続する。快は、価値獲得時に褒美として瞬時いだくのみである。精神的な快の喜びとか安心なども、感情として感じるのは、わずかでほんの一時である。事柄としては、安心・安全は長く続き得るが、感情としては、不安・危険が去った一時抱くのみである。だが、苦痛は、仏教がこの世を苦界と嘆いていたように、いたるところに感じられ、それも長期にわたって感じさせられるものである。苦痛は、その生が危機的な場面になるときの警告信号として働き、その危機が持続しているかぎり、苦痛を持続させる。苦痛は、その損傷にいだき、この損傷の排除・無化のなるまで、注意して対応が必要なので、苦痛を感じさせつづける。苦痛に注目すると、他のものは見ないということにもなる。
未来に関わる快苦は、現在の状況によって大きく左右されたものとなる。現在、苦痛にさいなまれ、絶望でもしておれば、未来はその現在の苦痛の延長と捉えられよう。絶望の苦痛は、現在を漆黒に描くのみでなく、希望の絶たれた未来として暗黒に描かれ、時間的には、未来という時間自体のない絶望の暗い壁で行き止まりと感じることにもなる。苦痛の現在が未来にと投影されることとなる。忍耐の営為では、苦痛の現在は、未来の快なり目的と結びつけられる。現在の苦痛が未来の快を産み出す実りを思い、現在の苦難に耐える一歩ごとに、未来の快の輝きが一歩ずつ大きくなるのを見ることができる。
現在は無事の状態でも、未来に災いの可能性がある場合、ひとは、それを生じないようにと、苦痛にならないようにと未来に向けて対策をとる。生命保険とか、火災・事故等各種の保険は、未来の危険・災いに対処したものである。予防注射なども、それに罹患する苦痛となる事態は、まずないのだと思っても、可能性があれば、これを接種しておこうということになる。現在は、現に苦痛になるものに対処することでいいが、未来は、実際には生じないかも知れない害悪・苦痛にも注目して対処することが必要となる。広大な苦痛への視野をもって未来を見ることになる。実際には生じない可能性が高くても、これに対処しておこうとする。狂犬病などの予防注射は、日本にいる限り無用だが、インドなどに行く場合は、接種しておこうということになる。
7-3-4-2. 快の色眼鏡で世界を見ることもある
快に注目する色眼鏡をかけた場合、かなり視野は狭くなろう。幼稚園で遊戯している動画では、かわいいわが子や孫には注目するが、他の子がどうしているかは、まず見ていないのが普通である。食べ物では、好きな物に目が行き、それ以外になにがあったかは覚えないであろう。快の色眼鏡は、自分の気に入ったもののみを見て、他の物事は見ていないという点で、視野はきわめて小さくなる。
快をもたらすものに目を向けるとき、それを享受し受け入れたいと焦点を合わせるが、これが苦痛のように、放置しておくと危険になるからと注視をやめることができないのとちがい、無視しても、快がもたらされないだけで、危害が加わるのではないので、気軽な注目である。苦痛が冷厳な目つきで凝視するのに比して言えば、飢えているのでなければ、穏やかで温かい眼を注ぐものになろう。苦痛ならば、その可能性のあるものをすべてチェックし冷静に詳細を見当していくが、快となりそうなものでは、その必要がなく、快をもたらすものすべてではなく、自身が求める快となるものだけを見る。快の享受自体になると、その快をもたらすものですら見ないままに閉目してこれを堪能する。快では、それに一体化して微睡み、外の世界がどうなっているかなど気にすることはない。快の色眼鏡は、安眠のための遮光のアイマスクに近くなる。同じように、過去の快は、苦痛の過去と違い、すぐに無と化す。その享受ですべて終わりであり、たちまちに忘れてしまう。悲しみの過去はながく反復されるが、喜びの過去は、すぐに忘却のかなたへと消えてしまう。年取ると昨日食べたものも忘れるが、それは、美味しいものを食べたからである。これが、嫌いな生ガキを皆にあわせて食べて当たって苦しんだ場合は、一月前の夕食のことであっても忘れることはない。
未来の快については、現在を愉快に暮らしている者は、消極的には未来にむけても、快が続くと思うことであろう。ただし、快は、その現在の快にのめり込みそこに安住してその快のうちでまどろみ安眠した状態になるから、未来は、積極的には、見ないであろう。だが、苦痛の現在にある者は、この現在を抜け出したいから、その先を見る。できれば、その苦のない安楽な未来を夢見る。あるいは、苦痛の現在のもたらすものが未来の目的の手段として捉えられていた場合は、苦労するごとに未来の価値獲得の快に近づくのであり、未来は、その苦痛の止揚としての快という見方になる。
感性的欲求では快楽が重要なものになるが、精神世界では、苦痛とちがって、快は、些事になる。価値獲得に若干の快がともなうこともあるが、ないことも多く、快楽自体を求めようという眼鏡は、精神世界では、なくなる。苦痛は、精神世界でも重大なものとして注視されつづける。天国・極楽は、苦痛をなくした世界として快の世界ということになるが、感性的な快楽などではなく、苦痛・苦悩の無化した安らぎの世界になる。地獄は苦痛のみ、この世は、苦痛の合間に若干の快もある世界で、極楽は、苦痛の色眼鏡をはずし、快の色眼鏡をつけて目を閉じた、安らぎの世界、安楽国ということになる。
7-3-5. 近未来の人類は、どうなるのか
人類史は、農業、工業といった生産・労働をその生活の最重要な営為としてきた。今もなお、基本的には苦痛・苦労の労働をもって生活は成り立つということで、生産・消費の経済的営為が社会の中軸・根幹となっている。だが、情報社会の進展とともに、ロボットが労働者の代わりをし工場など無人化することになり、生産活動にはほんのわずかの人員が参加するだけとなって、物質的財貨の生産の役割は、小さな意味しか持たないものに、些細なものになりつつある。生産・労働は、大切で不可避の営為ではあるが、河川管理のように、必須ではあってもごく少人数で間に合い、社会全体にとっては小さな役割しか持たないようになり始めている。生産手段の共有化を柱とする社会主義・共産主義が、労働搾取の資本制に代わる体制として憧憬された時代があったが、これが政権を取ったところではすべて邪悪な独裁制となって、絶望させた。もっと別の道はないのだろうかと悩む人がまだいるが、もう生産手段を社会の中軸におくという発想自体が成り立たない時代になりつつある。
現代人の多くは、なお、生きるためには生産・労働に基礎を置くことが必要という思いから抜けがたいので、未来社会が労働を無用にするとなると、何をもって生きていけばいいのだろうと、不安になる。労働せずに生きるということですぐ想像するのは、失業・貧困・餓死といったものになる。だが、工場も商店もロボットが支えるのであれば、圧倒的な国民は、これまでの賃金労働とは縁を切らねばならないのである。せいぜい週一日工場で交代で生産管理の仕事をすれば済むといったことになろう。あとは、自由にすればよいという時代になる。もちろん、生きるためには、そのための糧が得られねばならない。その道を確保することさえしっかりしておけば心配無用、各人、好きなように自由に、したいことをして生きればよいという時代になる。その心配な糧の確保は、おそらく、今言われているものとしては、国民全員の生活を保護するベーシックインカム(基本所得保障)といったものになりそうである。
皆好きなように、自由に生きればよいという時代がまもなくやってくる。とはいえ、これまでの社会・歴史でも、国家全体としては、ありあまる豊かな経済的価値を生産していた。それでも、国民は、貧困であって、支配階級のみが冨を享受する階級社会になっていた。情報社会になるとともに、その覇者が、既存の経済活動の習慣を利用して、冨を独占し貧富の差をむしろ拡大している。それが未来も続くのではと思いもする。これまでの社会では、貧困の被支配階級のものは、貧困であるだけではなく、強制的に労働・生産させられ、自由を奪われ奴隷的状態におかれていた。その労働の搾取があってはじめて支配者(領主とか資本家)の豊かな生活は成り立っていた。だが、これからの社会では、もはや、労働・仕事自体がなくなるのである。無人で生産がなる時代である。苦痛の仕事が、労働がなくなるのである。強制され自由を奪われることがなくなり、あとは、各人、すきなようにしたらいいという時代になる。
現在は、情報関連の企業家たちによる冨の独占が目立つが、それをやめて、国民全体の冨にすることがないと、労働という収入源を絶たれたままの国民の生活は、しだいに成り立ち難くなってきている。現在の、情報関連に基づいた冨の独占は、単純化して言えば、特許権とか著作権(いわゆるコピー権)といったものに依っている。しかし、それは、発明とか発見等を促進するための無理やりの政策として近代になって作られたものである。本来的には、自然的には、これらは、物質的な富とちがい、だれもがこれを見知ったら自分のものとでき自由に利用できるものである。コピー権といってコピーを禁止し情報を独占して、使用料を取り立て冨を独占しているが(パソコンのOSのWindowsは、版を重ねて長年にわたって膨大なお金を世界中からマイクロソフト社に吸い上げている。それに対してLinuxのOSは、減るものではないコピーのこと、無料で通している)、コピーは、本来、物質的財貨を分けるのとは異なり、いくらこれを分けても少しも減るものではない。その人為の不自由、禁止の強制をやめれば、万人のものとなる類いのものである。さらに言えば、著作権・特許権というが、優れたアイディアを思いついたのは、それに先立つ者の知や技術をただでコピーし利用しえたからである。歴史を重ねた人類の英知がそれを可能にしたのである。その人類の英知を支え続けている現代人をその利用・享受から排除して独り占めするのは、高いところにある果実を取ろうと、多くの者が肩車を高く組重ねピラミッドを創って、たまたまその一番上に立ったものが、自分が手にしたのだから全部自分のものだというようなもので、身勝手で強欲である。そこから可能になっている冨は、万人の分有とするのがまっとうなことである。それをやらないのなら、無職となった全人類は、強制的に自分たちの権利を、コピー権を真にコピーできる権利とすることを強行し、不当にコピー(禁止)権で得た冨を国民は取り戻す挙に出ることとなろう。その権利の行使は、ささやかには、ベーシックインカムになり、あるいは、国民の貧困度が大きくなっておれば、一部では暴力的な革命となる可能性もあろう。もっとも、人間のする労働が無用になりロボットでの仕事が圧倒的になるとともに、人件費がいらないのだから物価はどんどん下がって、冨を独占している者から冨を返してもらうことは無用になるかも知れない。
7-3-5-1. 過去の不労の有閑階級と、未来の人の異同
情報社会のもたらす未来は、労苦無用となって、「幸いの人(homo felix)」の社会となり、人類が夢見てきた極楽・天国が実現するように描きうる。生活は健やかで長命で賢明になるといったことでは、素晴らしい未来である。だが、それは、そんなに大した変化でもないのかも知れない。基本は、労働・生産が無人化したロボットの工場や農場で行われて、国民は、辛苦の労働に耐える「忍耐のひと(homo patiens)」ではなくなり、自由に日々の時間を使える世の中になるということである。仕事をせずに自由にというと(ベーシックインカムあたりで生活の保障はあるだろうとはいっても)、失業してぶらぶらしている様が目に浮かび、そんな退屈で貧しい自由が年中続くのかと思うと、若干、心もとなく不安になるが、それは現代の苦労人の取り越し苦労で、することがなくて時間をもてあそぶことにはならないだろう。労働から解放された自由の生活は、歴史の中では、とっくの昔から有閑階級の人たちが享受してきたことである。かれらが暇を持て余して困っていたという話は聞かない(「(小人閑居して)不善をなす」類いの話はどこにでもあったが)。それと同じ状況になるのであろう。過去のそれは、労働するものの搾取・収奪によっていたことで、生産者の貧困・犠牲をもって支えられていた。それが、近未来では、無人工場が一般化する等で労働自体が無用化してくるのであり、搾取・収奪などとは無縁の自由の存在に万人がなるのである。近未来の人の自由は、強制的な労働という束縛からの自由であり、かつ、自身の好きなことをして生きていく自律の自由である。現在、趣味として愛好されているもの、学問・芸術とか、スポーツ、工芸・園芸あたりは、多くが充実した生活の中心におくことになりそうである(理想的生活として昔から「晴耕雨読」を言ってきたが、農耕と読書だけでも、百年二百年と続けても飽きることはないであろう)。
情報革命の成果としての未来の生活の変化は、そんなに大仰に騒ぐほどのことではないとしても、ひとは、つねに未来に生きるものゆえ、とくに若い者は、無関心に放置しておくことはできないであろう。自己実現していく先の未来社会がどうなるのかを予知しておくことは、現在の生き方を決めるために必要なことである。昨今、AI(人工知能)の進歩がめざましく、仕事の有り様を根本から変えようとしている。単純な労働は、すでにかなりが機械類によって行われている(ただし、経費の関係で、いまのところ人を雇う方が安いので、自動化、ロボット化が進まない分野もなお多い)。専門的知識をもっての知的労働でさえもが無用に近くなっている。弁護士とか医者といった専門職も無意味化してくることがすぐ先に迫っている。まだしばらくは、既存の進学・就職を考えるといいのだろうが、これからは、長生きともなり、何をもって生きるかについて、10年先に社会に出る今の中学生あたりは、戸惑わざるを得ないであろう。おそらくは、自身の好み、(社会的使命を担えるような)得意とする分野に向けて個性豊かに生きていくのが真っ当ということになっていくのであろう。いまの大人の古い価値観の勧めるものに従って、やりたい文学を断念して、いやなのだけれどお金儲けができる分野をと選択していたのでは、将来、当てが違ったということになりかねない。
過去の不労の有閑階級と未来の労働無用の自由の人のちがいということでは、まず、前者の場合、真摯な者は、自分の豊かさが搾取・収奪のおこぼれでなっていると、後にアフリカで医療に献身した、少年シュヴァイツァーのようにうしろめたさをもったことだろうが、未来の自由な人々では、それはなく、似たことがあるとすれば、無駄な贅沢をして自然環境を汚してといった配慮あたりが問題となりそうである。自由になにをするかということでは、過去の有閑階級のもっていた労働への忌避感はなくなり、人類の営為全般が踏まえられることであろう。情報社会の生み出すバーチャルなものにのめり込む者は当然あるだろうが、バーチャルでは味わえない実在・本物の世界の営為が多くの関心を占めることになるのではないか。それについては、過去の生産活動、狩猟採取、農林漁業、鉱工業、あるいは、研究・教育、サービス業といったものを踏まえて、自身が得意とし楽しみとなるようなものが選ばれることであろう。いまでも、年金生活者の少なくない者が、会社勤めの頃とは一転して、自然に触れながら菜園で野菜や果物をつくって楽しみとしている。自然のなかでの自給自足的生活は、理性と感性(精神と身体)の両方のしっかりした働きを求め、多くの人に充実した生をもたらしそうである。
7-4. 苦痛は、動物の権利の根拠と見なされることがある
権利は、自身の利とし価値とするものの享受の正当性を主張する。享受の侵害で苦痛となることから自身を守る盾が権利である。水利権は、貴重な水を利用し享受する自由をもつ特権で、この特権がないがしろにされ、その水利用の自由が侵犯されて被害を受けると、苦痛となる。その侵犯、苦痛が生じないようにと保護されるべきことを、当然のこと正当(right)なこととして権利(right)とする。その生のもとでの益あるものの享受を侵害されての苦痛は、ひとだけのことではなく、動物ももつ。ということで、動物にも権利があると主張をすることがでてくる。近代の快楽主義である功利主義は、快(=善)苦(=悪)をひとの生の根本原理とみなし、そのことは動物も同様だからと、「動物の権利」を主張することに結び付いていった。
動物の権利をいう人でも、人間には教育の権利をいうが、動物にはこれを言わない。動物は、教育に利・価値を見出さず、それを享受したいと思うことはなく、そこに苦痛を抱くこともないから、そういう権利とは無縁である。権利には、それを享受する能力が前提されている。享受の能力をもっての、その享受の正当性(right=権利)である。動物は、生きて動くものであり、自らのために利あるものの享受を求める権(重み、威力)を有しており、権利(享受の威力・正当性)をいう資格はあると主張することが可能である。生の享受が抑止され侵害されると、動物も当然、人と同じように、これを苦痛とする。生きることを制限され、残酷に傷めつけられ、ときに命さえ奪われているのは、痛ましいことである。そのことから、動物の権利を主張する人たちは、ちょうど、ひとがひととして生きる権利を生存権(right to life)といい、人権(human rights)をいうように、動物も苦痛から自由になって生きる正当性(right=権利)、動物権(animal rights)を持つという。
権利が、それの享受は正しい(right)ことだと主張するのみでは、その実効性は心許ない。関係者に義務としての負担が課せられてはじめて権利は実効性をもつ。漁業権をもって一定の領域での漁業の享受の自由、その行使の正当性を通すためには、それ以外の人々への禁止がしっかりと守られることが肝要となる。権利は、享受することができる自由をいうのに対して、対応する義務は、その自由を侵すことの禁止について、この禁止を守るべきこと、守らないことは許されない、守らない場合は制裁が加えられるという。権利が実効性をもつには、これを侵して苦痛を与えるものに対して、侵さない義務を課すことが必要であり、さらに、これを厳守するように監視し罰する機関の義務も求められる。動物権が実効性をもつには、ひとが動物の生存を守り、虐待して苦痛を与えたり殺害するようなことをやめる義務をもつことが必要となり、これを侵すことを監視し処罰する機関等の義務も求められる。権利によっては、自由な享受に支障があったり不十分にしか享受できないものを守り支える保護・支援の義務が肝心となる。その保護ができないのであれば、権利は名ばかりで実効性が伴わないことになる。子供の人権とか教育の権利は、単に侵害を禁じる義務のみでなく、その権利を実効性あるものとするために、積極的に保護し、養育に直接間接に関与していく責任が公的な機関あたりに義務として課される。
7-4-1. 権利をもつとは
権利は、「権」と「利」からなり、明治期に英語のrightの翻訳として創作された言葉だが、その「権(權)」の漢字の組み立てはというと、雚は、コウノトリを象り、バランスを象徴し、木偏ということで木造りの天秤をイメージさせたものだとか。量ることであり、重みであり、威力を意味するものになる。「利」は、禾(のぎへん)が穂を垂れた稲などの姿で、「刂(りっとう)」は立刀で鋭い刃物になる。利は、刈り取った実りを表わし、価値あるもの、利益を意味する。「権利」の全体は、享受できる有益な価値あるものへの重み・威力のある様である。だが、自分だけで享受への重み・威力をもつのだといってもはじまらない。その重みをそれとして関係者が承認することがあって初めて、実効性をもった権利となる。そのしっかりした、頼りになる権利は、他のものがこれを侵さないという、侵すことの禁止、あるいは、その享受を擁護・保護することへの義務的強制があってのことである。
漁業権は、漁業する権利だが、太田川の漁業権を持つ者が、自分には権利があるのだ、威力があるのだとうそぶく傍で、権利のない者が自由に魚釣をしているのでは(太田川の魚の多くは、昨今、法的権利をもたない鵜たちのものとなっている)、権利とは、名ばかりである。その権利は、周囲の権利を有さない者の漁の禁止の義務が課されていてはじめて実効性をもった権利となる。権利は、これの享受を自分たちが独占して、ほかの者の利用・享受を禁じ排斥する威力を有したものである。権利から排除された者には、これを侵害しない義務が生じる。侵すことは許されないという強制の義務である。その義務があって権利は実効性をもつ。権利はあるが、外の者が好き勝手をするのを許しているのでは、権利における享受の自由は守られない。権利を守るとは、外の者がこれを侵さないように守ることであり、侵したら処罰をうけ、侵すことの許されない義務が課されるということである。このような権利の場合、権利と義務は、双務的、互恵的である。太田川水域での漁業権者には、河口の外の瀬戸内海の海面漁業権を侵さないという義務がともなう。広島湾の漁業権者には、河口をさかのぼって蟹や魚を獲ってはならないという義務が課せられる。権利と義務は、相互的で、義務を果たせば権利があり、権利をもつには、義務が求められ双務的である。人の社会的営為は、「目には目を」の対等・平等性が前提になっているのが普通で、自身が権利をいうのなら、他者の権利を承認してそれに関わる自身の責任・負担となる義務も受け入れねばならない。
権利を実効性有るものとする、負担としての義務は、単に禁止という義務だけではなく、その権利を有する者の享受を実現する苦労を、関係する者たちが背負うものとなることもある。売買では、物を買ってお金を支払った者には、その物を受け取る権利が生じる。この権利を実効性あるものとするには、売った側が、商品を渡す義務をもつのでなくてはならない。あるいは、弱者の権利の場合は、しばしば、その権利を有するものを直接間接に保護し援助することが関係者・機関に求められ義務化される。生存権は、侵すのを禁じてこれを義務化するだけでは守れないことがある。障害で自立して生きていけないような場合、関係機関が積極的にこれを援助し保護することが、その権利への義務として課される。権利(right)は、正当な(right)享受への妨害・侵害を排斥し、あるいは関係者からの保護をもって、この享受を「正しい(right)」こととして勧める。
7-4-1-1. 拡大される権利
権利の主体は、人間としての個人や集団になる。生きた主体における快や価値あるものの享受の自由と、苦痛とこれを生じる損傷の回避の自由を謳う。享受を排他的に一定の者のみに限定し、それを他の関係する者に禁止するかどうかは、人為のことで、権利は、法に謳うことで確定される。それを法に謳うかどうかの問題としては、権利は、広くも狭くもできる。人類成立とともに潜在的には存在していた人権(人の権=重み・威力)であるが、これは、近代が顕在化し明文化して(法的)権利とした。近代になって漸く、万人に生きる権利(right=正しさ、正当性)、差別されず人間らしく生きる権利、「人権(human rights)」は、確立された。
いまや、この権利は、動物にまで広げられるべきだと、動物権(animal rights)を主張するひとはいう。享受能力があり、その否定に苦痛を抱くものとして、その(利の)享受は正当で、重み・威力(=権)があるとして、動物にも権利を付与しようというのである。が、いまでも、動物は、一般的には、法的には物あつかいである。漁業権とか著作権では、権利と義務は、相互的双務的である。物の売買では、両者が共々に同じ事態において、権利と義務を双務的に担う。お金を払った者は商品への権利をもち、売り手は渡す義務を負い、売る方は、お金をもらう権利をもち、買う方は支払う義務を負う。他人の権利を自分は侵さない(守る)義務を負い、自分の権利は、関係するものが義務を負うことでなりたっている。人同士の根本的な対等・平等の在り方に沿っている権利であり義務である。だが、この双務的な人間同士の権利義務の在り方からいうと、動物権は、人のみが義務を負って、動物は人の権利を守るいかなる義務も担うことはないので、人のみが一方的片務的に義務を負うことには納得がいかないということになる。太田川の漁業権は、漁師でない周辺の者が魚を獲ることを禁じて、その義務を地域民に課し、瀬野川の漁師でも、その禁止の義務を負う。だが、太田川の鵜は、自分たちを狩ることは人には禁止されていて太田川の漁師もその義務をしっかり守っていて、いうなら動物権を行使した状態でありながらも、ひとの漁業権は犯して義務を背負わない。そのため太田川の漁師は、せっかく放流して育てた鮎なのに、鵜の残したものしか獲れなくなっている。もっと深刻なのは、象や熊と付き合わねばならない地域の住民である。人には、象や熊を殺してはならない義務があるが、熊や象は、人を殺しても殺人罪に問われない(義務を意識することすらない)ということには納得がいかない。義務(負担・苦痛)は問うことなく、権利(享受・快)のみを動物に許そうとする動物権には承服しがたいというのが多数である。
さらには、もっとひろげて、自然の権利(rights of nature)、つまり、川や山にも権利を付与すべきだという者も出てきている。しかし、植物は、苦痛をもたない。川も山も、権利での享受の自由は人が勝手にそう見なすだけのことである。仮に既存の自然状態が変更されたことを侵害と解しても、その侵害での苦痛はもたないから、痛みをもつ動物には権利を広げうるとしても、それ以上は、というのが一般である。もっとも、苦痛のないものにも現に権利を認めていることではある。会社などの法人(juridical person)は、個人のいだく苦痛などの感情をもたないけれども、擬制(fiction)的に人として扱っており、権利主体と認めていることである。権利は、客観的に決定されているものではない。国家や個人が、負担を背負う義務を自他に課して、結果、その対象が守られて権利となる場合がある。そのようにして権利主体と認めることになれば、ひろく、どぶ川にした責任を取れという「隅田川の権利」(権利を言ったからではなかろうが、最近は「すんだ川」になっている)とか、山を汚さない義務・責任があるという「富士山の権利」をいうことも可能ではある。
義務を課して禁止と保護の実効性がしっかりするならば、権利における享受の自由の実態はどうであっても、権利として成立しうる。富士山が汚されないことへの権利は、富士山自身はこれを自由に享受するものはないけれども、汚染の禁止と保護が法にうたわれて義務が生じるならば、富士山の(擬制的な)権利は、実効性をもったものとして成り立つ。受益の重みが権利であろう。受益を尊重する義務が課されることによって、その受益側に、受益の権利が生じる。多くは、威力・重みをもつものが権利を主張しこれを相手に認めさせて義務を背負わせるのだが、逆に利益・享受のための義務を課すことから始まって、その享受側に権利が生じるということもある。動植物、自然の権利は、後者になる。前者の場合は、自然的に威力をもち重みをもつから、義務を負う方も、その威力に押されて権利として認めやすい。だが、後者は、権利主体に促されてではなく、為政者等から強制的に義務を課されるのであり、負担を負いたくない者は、義務を承服せず、したがって、対象の植物などの権利は、強制する為政者等が力を持たない限り通用は困難となる。
7-4-1-2. 法的権利と道徳的権利
権利の主張は、私たちの国、日本では、あまり好まれない。権利とか正義とかを振り回す者は、嫌われがちである。自分の権利(right)を持ち出すと、厚かましいと受け取られ、ずうずうしい厚顔・無恥と見られもした。自己主張が好まれない風土であった。謙虚さを貴び、義務・責任は語っても、権利を言挙げすることは希であった。正義(right)なども、同じで、正義をもって対応する人は、煙たがられる。だいたい、正義への感覚が欧米の人と我々では、異なる。日本では、邪悪な者からの不正を被っての泣き寝入りは、なさけないとは思っても、その被害者を悪とは見なさない。だが、欧米では、悪を排撃しないで泣き寝入りすることも、正義の反対の不正義(悪)の内に含まれる。正しいことは、臆することなく主張されねばならないのである。欧米では、そういう精神的風土のもとで、正しい(right)こととしての権利(right)は、それがあるのなら、それとして堂々と主張していくものになっているのだろうと思われる。
その意気込みの延長上に、法的にはまだ認められていないが、自身が正しいを思う享受の自由についても、これを権利とすることともなっているようである。その法的になってない権利は、そうあるべきものとして主張されて、道徳的な権利ということになる。我が国でも、漸次、法的権利のみでなく、道徳的権利も言われることが多くなってきているようである。禁煙運動は、成功して落ち着いてきているが、禁煙運動が過激になっていたころ、禁煙権、嫌煙権を武器にしていた。喫煙者は、劣勢になるとともに、同じ土俵で互角に戦いたいと喫煙権を主張していた。いずれも、幸福追求権や生存権のうちで問題とされたもので、それら自体が法的権利として承認されたものではなかったと思う。道徳的権利をもって戦いあっていたということであろう。
法的権利に対して道徳的権利は、法で強制して刑罰の問題とするものではなく、あるべき善を掲げたもので、侵犯禁止の義務を強制できないから、弱いといえば弱い。だが、場合によっては、法的権利を導き出す先行のかけがえのない根本的な動力となっていたのでもある。人権は近代のものだが、人は根源的に諸能力において等しく、自然超越の源をなす理性存在として同一であるから、万人、等しく尊重されるべきであり、その享受の自由の正当性としての権利は人類誕生とともにあってはずである。道徳的な権利としての人権は、古来あったわけで、それを踏まえて、近代にいたって人権として法に謳われるようになっていったのである。潜在的にあって道徳的に権利としてあったものを顕在化して、法的強制力のある人権として謳ったのである。
法と道徳ということでは、道徳は崇高な規範であるのに対して、法は、どんな邪悪な人間でも守るべき最低限の規範、最底辺の道徳を謳うのが普通である。窃盗など、普通人なら、当然のこととして侵すことのないもので、規範としてすら意識しないものが法となる(ただし、権力者が法に謳えば、守るのは困難な高等なものでも法(悪法)となる)。法とちがい道徳は、実行が難しい高等なことを求めるもので、皆が守ることは無理だけれども、あるべき尊い規範であり、権利に関しても、(皆がこれを義務として国家のもとに守ることの強制される)法にはできないが、守られるべき尊い善として道徳的な権利になる。階級社会であった歴史においては、支配者に都合の悪い、被支配者の権利は、法にしたのでは、邪悪な支配者もこれには従う必要があるから、人権などの規範は、道徳的権利にとどまっていた。しかし、崇高な、重みのある、守られるべき権利であったことは確かで、古代であっても、真摯な人たちは、自身のもとでは、人権を尊び、人を殺めたりしない義務を自らに課していたことである。
7-4-1-3. 権利の衝突
権利が実効性をもつには、関係者に、それを守る義務が課せられていなくてはならない。権利を有する者の利益の享受の自由と、義務を負うものの負担(苦痛)・責任が対立的となる。権利を認めるのであれば、いやいやではあれ、それを実現する義務を担う者は、責任をもち負担を背負わねばならないことになる。だが、その義務が不当な負担と思う者は、責任を負うことをやめ権利者と対立的になることも生じる。さらには、それだけでは済まず、義務を負う方が自分の義務負担を否定するために、対抗的な権利をもってすることもある。権利と権利が衝突することになる。喫煙に関して、一方は、嫌煙権を主張し、他方は喫煙権をいった。
どんな事柄であっても、対立する者同士は、普通、自分の主張を正当(right)と思うから、それを当然で重み・威力のあるもの、権利(right)だと主張できるであろう。それが相互に害をあまりもたらさないのなら、相互に権利を主張しても無事に過ごせる。だが、それが相手に害をもたらす場合は、権利の主張は穏やかには済ませられない。相互が相いれない権利を主張しあって、対立することになる。戦後、日本の国内が平和で安定した時代になったころ、禁煙が社会問題になった。禁煙を勧める人は、喫煙を好き嫌いの好みの問題としていた当時の風潮を拒否して、「嫌煙権」を言いはじめた。当時は、列車の中での喫煙では非喫煙者も、もうもうと煙る車内で副流煙を吸わされて列車を降りる頃には、ニコチンで頭が痛くなっていた。当然、非喫煙者は、嫌煙となっていたのであるが、それを、風呂や台所の煙などと同じように、仕方のないことと我慢していた。大体、国民の範となれるようにと気を遣う宮内庁なども、全国から皇居の清掃に来ていた者に、「恩賜のたばこ」(2005年までで、以後は、お菓子などに変えたようである)を渡していたぐらいに喫煙は堂々としたものであった。が、禁煙運動が高まるとともに、その我慢をやめて、嫌煙を正当だとして、嫌煙権を言い出した。権利(right=正しい)となれば、堂々と主張できることとなり、禁煙運動には大きな力となった。禁煙運動をする嫌煙家たちは、その情熱を禁煙に傾ける人が多く、嫌煙・禁煙が正当だ、正しいことだと、攻撃的になりはじめ、その正当性を嫌煙権として言挙げして、執拗に運動を展開しはじめた。これに対して喫煙者は、それまでは喫煙はどこでも自由であって制限されないから呼吸と同じようなもので、呼吸権をいわないように喫煙権などと権利をいうことはなかった。が、これが制限されるようになるとともに、ニコチン中毒者の一部は、嫌煙権に対抗できるようにと、喫煙権を主張しはじめた。権利 (right)と権利の、正しいもの(right)と正しいものの衝突になった。禁煙運動の初期には、新幹線では、まずは、嫌煙権が小さく、一両だけ禁煙であったと思う。それが、だんだん禁煙車両が増えてとうとう喫煙車両はなくなり、喫煙は、特定のボックスを設けてそこでのみ赦されることにまで後退していった。禁煙権、嫌煙権が勝利し、喫煙権、愛煙権は、いまは、一部の者が犬の遠吠えをして悔しがっている状態である。
権利は、正義と同様に、実力がものを言う。権利主張をするものは、それを好き嫌いの好みの問題に解消するのではなく、自分(の享受)は、正当だ、正しいという。しかし、実力がない場合、援護・保護がない場合は、権利としては認められないことが多い。女性の参政権は、女性の実力が実現していったものであろう。労働組合の団結権、団体交渉権などもそうである。戦争では、相互が、自分が正義(right)で相手が悪ということで交戦権という権利(right)を相互がもって戦う(日本国憲法は、日本は交戦権をもたないと、権利放棄して(させられたままで)いる)。勝てば官軍でそれが正義となり、敗者は、悪、犯罪者となり、権利(right=正しさ)は剥奪される。喫煙権や嫌煙権は、法的権利ではなく、道徳的権利であったろうと思うが(法廷で争う場合、法的には嫌煙権は通らず、嫌煙家たちは、生存権などで押していったのではないか)、権利とか正義とか尊厳とかの言葉は、これを担うものに自信をもたせる。それらの言葉は、戦いの場では、自分たちに後ろめたさを感じる面があったとしても、これを払拭し大いに自分たちを鼓舞して、逆に、その相手を萎縮させ威嚇・脅迫できるので、相当に効果的な言葉(言霊)として作用する。
7-4-2. 快苦の功利主義からは、おのずと動物権が出来
近代の快楽主義である功利主義は、ひとは動物と同じように快不快によって動くとし、快(pleasure)が善で苦痛(pain)が悪であると主張した。そこから、快を求め苦痛を回避するに必死なのは動物でも同じだから、ひとが侵害・苦痛から保護される権利をもつのならば、動物にも権利をとの発想・主張が出てきた。
ひとと動物は、快苦の感情を持って動く事では確かに同一である。しかし、ひとは、この快苦の自然を超えて忍耐をする。苦痛から逃げるのではなく、必要なところでは苦痛を受け入れてこれを手段として利用する。快の欲求も制御し、苦痛になってもこれを回避せず耐えて理性的意志のもとに生きようとする。さらに、超自然の精神的存在としての人間は、快を目的とするのではなく、快(喜び)はなくても価値獲得できる事態を求めるし、精神的な苦痛は、人を種々に痛めつけるが、これを必要なら甘受もする。人は未来に生きるがゆえに絶望もするが、この絶望は、人間的精神固有の苦痛になる。快苦を同じように抱くとしても、それへの関わりでは、動物と人間は異なる。なにより、動物的感性的な個別自然を超越した普遍的概念の理性世界に人は生きる。その卓越した超自然の理性的営為においてひとの固有の尊厳も可能となる。ということでは、単純化した功利主義的な発想で、動物とひとを、快苦で同じだから同一の存在とすることには難がある。苦痛があるからといって、動物にもひとと同じ権利があるというのは、人間の理性的尊厳の方面からいうと、短絡的である。
奴隷には、権利・人権はなかった。苦痛はまったく同一なのにである。要は、権利は、排他的に利益を独占すること、苦痛から免れ得ることを、その集団の(法)規範として承認するかどうかということである。したがってまた、その利益を守るよう、侵すことがないようにと義務を課すことが受け入られるかどうかということである。人権は、近代になって承認された権利である。動物の権利もそれを時代が承認するなら、その分ひとが義務を背負って不自由になることに納得するなら、権利として承認できることではある。それには、動物が人と同じように苦痛をもった存在であることが説得・納得の根拠となりうる。ひとも苦痛は何といっても回避したいことで、動物でもそれは同じであり、動物に苦痛を与えてはならないと動物権を言うことに、ひとは自身の感性を振り返りつつ同感することはできる。とはいえ、動物は、権利を自身で思うことも主張することもない。人権は、人が求め主張したことだが、動物権は、動物が主張するものではない。動物権は、享受の自由(の主張)から始まるのではなく、それに対する人の義務の方から始まる。人が動物を守り保護する義務を思い、義務を自身に課すことをもって、その対象の動物に権利を生じる。動物権の可能性は、ひとえに、人間が動物保護の義務を背負う覚悟をするかどうかによる。
肉食動物は、常に草食動物に苦痛を与え、命を奪って生きている。草食動物が、苦痛を与えられない動物権をもつには、肉食動物による捕食の侵害を禁止する必要がある。だがそれでは、飢えている肉食動物の生存の権利は成り立たない。ひとが勝手に動物たちの思ってもいない権利・義務をもって行動規範としようというのが無理なのであろう。かれらには、理性的な規範意識などなく、権利・義務意識など皆無で、行動は、快不快の自然により、自然的衝動によって動くのであり、善悪の規範のもとにいる人間とはかけ離れている。狭義には、人間の間のみに、権利義務を語るべきであろう。行動規範としての権利・義務は、理性的存在の人のみに通用することである。ただし、ひとは、その義務を動物の保護に向けることもできる。それが、結果的にはその動物の利益を守ることとなり、権利をもつのと同じ状態になって、その限りで、動物権を擬制的には語りうることとなる。
7-4-3. 苦痛をもつものの特権的地位
日本では、動物とひとは、同じ「有情」のものとして、特別視する。物は、「ある」というが、動物とひとは、別の言葉で「いる」と言い、その存在を別格扱いとする。同じ有情、快不快の感情を有した存在であると、動物と人を同列にして重んじている。権利は、享受の自由、その資格を語り、快を求め欲すること、それを阻害しての苦痛から逃れ守られるべきことを謳う。権利は、享受が好きなようにできているのなら、主張することはない。多くの場合、それが阻害されて享受が拒まれて苦痛になることにおいて、この苦痛回避のために権利の主張がされる。この苦痛回避は、ひとでも動物でも切実な求めであり、ひとと動物はその点では同等である。苦痛から守られ保護されることを求めるところに権利があるのならば、権利は、動物にも言われてよいのではないかと進め得る。植物は、損傷を受けても苦痛を抱く機能自体が存在しないから、人や動物のように、苦痛を回避したいと動くことはなく、苦痛からの保護を謳う権利とは無縁の存在である。動物は、その点では、ひとと同じで、苦痛から保護されることを求める特別の存在となっている。苦痛からの保護に権利の内実があるのなら、動物もこれに該当する存在だということになる。
苦痛を感受する能力の有無が、権利成立の根本的条件になるのだとすると、ひとと動物は、そういう特権的な地位に立っているのである。動物に権利を与えることに行き過ぎを思うのは、そういう権利付与の事実が、今はないからにすぎないということかもしれない。かつては、人権はなかった。古代では、奴隷は物あつかいであった。奴隷は人の所有物であったというと、現代人にとっては理不尽と感じられることだが、動物への権利も、いまの時代には、なお、それだけの余裕がなく、感覚的に受け入れがたいというだけのことかも知れない。
権利を認めることは、これに無関係の人には、容易なことである。だが、これに関わる人にとっては、義務負担を承知することだから、よほどの覚悟をしなくてはならないこととなる。権利は、それだけでは実効性をもたず、義務負担を受け入れるものがあっての権利の享受である。熊の人里への進出が昨今問題となっている。動物権を認めたらいいではないかと都会の者は安易に考え得るが、熊の被害にあっている者は、熊を殺処分することを禁じて保護する義務を背負うことになるので、簡単には動物権を承認するわけにはいかない。権利を有するものには、義務が双務的にともなうのが普通でもある。自分の権利(快享受の自由)は主張するが、負担の義務(苦痛の甘受、忍耐)は知らないというのでは、関わる人は、権利を認めることに躊躇するであろう。自分は商品を自由にする権利があるといって、これを自宅に持って帰りながら、支払いの義務は、そういう負担・痛みは知らないというのでは、権利は認められない。売った者は、「あなたには権利はない」と、取り返すことになろう。熊に動物権を与えて殺害しない義務を人が背負うとしても、熊が人を殺さない義務を担うことはありえない。これでは関係する人々は、熊に権利を与えることには反対となるであろう。
ひとと同じように苦痛回避を切に求めるからと、動物に権利を認めたとしても、その動物は、負担・苦痛の義務は一切担うことがないから、権利も認められないということになるのが普通である。動物は、そういう責任・義務ということでは、これを担うこと自体が不可能なことである。動物は、規範意識を、善悪の、あるべき当為の意識をもつことができない。義務意識は当然もてない。権利自体についても、そういう意識をもつことはない。権利を与えたとしても、猫に小判である。ひとが、動物愛護の精神から、苦痛を与えないようにと義務を担う意志を固めることによって、動物に擬制的な権利が生じるのみであろう。
7-4-3-1. 爪や髪は、苦痛がなければ、物扱い
権利は侵害・苦痛に際してこれを排除するために行使する。苦痛を感じるかどうかが、権利が侵されたかどうかと判断する際、決定的になる。指などとちがい髪や爪を切り取っても、苦痛がないから、気にすることは小さい。切られても、私が切られたという意識はもたない。伸びた髪や爪を切って、すっきりして快感を抱くぐらいである。だが、手足が切られたとすると、私が痛むから私が切られたという意識になる。痛みがある場合は、この私自身がそれに痛みを感じて、私という主体が傷つけられたと感じる。権利主体のこの私が、苦痛を感じ、私の損傷、侵害を感じる。爪や髪は、同じ私の身体の一部であるにもかかわらず、苦痛がないので、感覚的には私が傷つけられたと感じることがない。痛みこそは、私という主体を意識させ、ひとは、その侵害、苦痛を許しがたい、受け入れがたいと主体的に反応する。苦痛において、権利主体としての私を実感するが、動物もこの苦痛の点では、同じであろうから、権利を与えられてしかるべきだという思いにも連なる。
この爪や髪でも、伸びすぎたので切るというのではなく、拷問にあるように、ペンチで無理やりに爪を引き抜くとか、髪を強引に抜いて頭皮に激痛を与えたとすると、事態は、まるで異なったものとなる。私という主体が、いためつけられ耐えがたい苦痛を感受させられたと、私が侵されたと受け取るであろう。主体の意に反した侵害として、苦痛からの自由を求める権利を意識することとなる。権利主体となるには、苦痛を感じるかどうかが肝要ということになろう。快の場合は、私の感じる快ではあるが、この私という人格主体を意識することは少ない。快にのめり込み、主客が一体的になってまどろむ。だが、苦痛は、そうはいかない。私の苦痛は、まぎれもなく私に生じていることとして、放置しがたいものとして意識される。この私という主体、人格が意識され、この私が痛むと意識して、私の損傷・被害と自覚し、この苦痛の事態から自身を保護することに、防衛することに必死となる。価値の享受を阻止されて侵害を感じ苦痛となることには過敏に反応する。苦痛が、権利も意識させる。
動物の権利をいうのは、ひとがこれを痛めつけ、切り刻み殺して食べるというような、生を破壊する場面でのことである。そこで損傷がなんでもなく苦痛でもないのなら権利をいうことはない。牛や山羊の乳を搾ることは、苦痛を伴わず平気な感じで、牛たちに苦痛でなければ、権利などをそこに想起するようなことはない(その子牛の空腹をもたらすことがあるとすると子牛には苦痛だろうが)。だが、牛の舌や耳を切り取るというような苦痛を与える場合は、これを牛は拒み逃げようとする。牛という主体が、その苦痛・損傷の回避にともがくのである。これを耐えがたいと感じる苦痛があるのなら、苦痛回避に必死となる人間主体と同様に、動物も、この苦痛の回避を、損傷から守られるべきことの正当性(権利)を主張したいに違いないと、ときに人は想像することになる。
損傷は、植物でも、ある。切り花は、動物でいえば、首を切断するようなものである(植物は動物を逆立ちさせたような姿だから、その根っこは、動物で言えば、口や頭に相当するであろう)。しかし、それに苦痛がなければ、ひとの権利侵害と同じようには感じられない。ひとですら、痛みのない髪や爪の切断は、むしろ、さっぱりとして快感となるぐらいである。苦痛があるのかどうかが、その主体の損傷・侵害かどうかの判断基準となる。苦痛は特別視される。ひとの場合、苦痛は、嫌悪される第一のものであるから、その人自身の苦痛への思いを投影して、動物でも苦痛だけは許せないだろう、堪らないだろうと感情移入する。
7-4-3-2. 苦痛が、人格主体、権利・義務を顕在化する
ひとが、心身の統一体としての自己、人格を意識するのは、苦痛を通してである。快は、ひとをひきつけるが、この人格主体を意識させることは少ない。皮膚は、快適な状態では、皮膚の存在自体を感じさせない。内臓は、快調なら、存在していることすら意識できない。だが、苦痛は違う。皮膚に痛みが発生すれば、その皮膚の痛む箇所を意識する。胃が痛み始めれば、自身の胃の存在が顕在化してくる。しかも、それは、単に皮膚や胃の痛み・損傷を意識するだけではなく、自己自身、この人格主体が脅かされ痛みを感じさせられていると自覚する。愉快に楽しく生きているときには、自分という人格・存在を意識することはほとんどない。だが、絶望したときには、その苦悩に悶々とする状態のときには、この私という存在を意識する。なんのために自分は生きているのだろうと自身の人生とその意味を問うのは、悲哀や絶望の苦痛状態にあるときである。この生きた人格主体の自己自身が痛むのであり、その痛みが、私の存在を顕在化する。「我痛む 故に 我有り(doleo ergo sum)」である。
権利意識においても、苦痛が決定的な役割を果たす。権利は、快適な状態では意識することはない。使いきれないほどの土地を所有していて好きなようにできているとき、その土地の所有権は、意識にのぼらない。その権利が自覚されるのは、それが周囲から侵されて不自由になり苦痛が生じるところにおいてである。享受の自由が阻害される苦痛をもって、その苦痛を排除しようとするところに、自身の権利が意識され、権利の威力をもって、その苦痛の事態をなくするようにと自らに動くのである。
権利と共にある義務は、一層、苦痛をもって自覚されるものである。義務は、いやいやな、できれば背負いたくない負担である。可能ならば回避したい苦痛となるものである。それが、快適で快楽であるようなものは、義務にはならない。義務と意識されるのは、できればひきうけたくない苦労であり苦痛となるものである。同じ事態でも、それが快なら、享受し引き受けたいもので権利になるが、苦痛になるものなら、義務となる。教育は権利であり義務である。義務となるのは、苦痛で、いやでも教育を受けねばならない(受けさせねばならない)と意識するときである。動物的感性のもとでは、不快で嫌な義務となるものは、当然、これを回避する。だが、ひとは、苦痛であっても、それを引き受けねばならないと把握した場合、この苦痛を甘受する。つまり、忍耐をする。ひとは、快不快に従って生きるのみの動物とちがい、理性的存在として、必要なところでは苦痛を引き受けて忍耐する。人は、「忍耐のひと(homo patiens)」なのである。苦痛甘受の忍耐において、ひとの理性的存在とその尊厳が顕在化する。
この忍耐をする人間的営為においては、他者の苦痛をも意識している。自身が義務として引き受けうける苦痛は、権利をもつ他者のためのものである。その権利を有するひとが自分に義務を求めるのは、かれが苦痛という侵害を受けることがあってこれを回避するために、この私がその苦痛の原因を取り除き、この苦痛の義務を引き受けるべきだと思うからである。自身の苦痛が自己を意識させるのみでなく、苦痛は、他者の存在をも意識させる。「同情(sympathy, compassion)」がそのことを可能とする。この同情、共感は、ひとの道徳的感情となるものだが、その同じ感情、共にする感情の内実は、苦痛である。喜びとか快楽については、同情は言わない(sympathyは、パトスをともにする(syn-pathos)ということだから、稀には喜びをともにするという場合にも昔は使ったようである)。同情は、悲嘆や苦悩などの苦痛感情を同じくする。自身の痛みがつらければ、その同じ痛みを他者にも見出してこれに寄り添い、慈しみの心をもって、思いやりをもって接することになる。それが同情である。苦痛が人と人とを結びつける根源的な感情となっているのである。おそらく、この苦痛を共にしようという同情・共感が人を共同的存在にすることを可能とするのであり、したがってまた権利・義務を可能とするのである。苦痛は、人の存在を可能とし、その結びつきを可能にしていく根源的な感情・感覚になるということができよう。
7-4-4. 権利(苦痛拒否、自由)と義務(苦痛甘受、忍耐)
権利は、価値あるものの享受の自由を保護する威力である。その享受を否定されることで生じる苦痛を被らないようにと保護・保証するのが権利である。人と動物は、ともに「痛むもの(res dolens)」であり、苦痛を感受するものに見出される、苦痛排除の特権が権利なのだとすると、動物も、苦痛を抱きその排除に懸命となり、その排除に重み(権)をもち、これを正当な(right)営為とする点で人と同じだから、その限りでは動物も権利(right)をもつと進めうることともなる。ただし、ひとは、精神的にも大きな苦痛をいだき、その点では、動物の苦痛は少な目で、ひとこそは、特別に苦悩し苦痛を感受するもの、「痛むひと(homo dolens)」である。
権利が実効性をもつには、それに関わるものに義務の課されることが必要である。漁業権が実効性をもつには、外部のものが漁をすることを禁じて、これに禁止の強制が義務化される必要がある。売買では、自分が商品所有の権利をもつには、支払いの義務を果たす必要があり、相手は、お金をもらう権利を得るには、商品を渡す義務を果たさねばならない。権利には義務がともなう。ひとならば、相互にこれを承認しあって、権利は、真に権利として実効性をもつ。義務を背負えることが権利獲得の前提になるのが普通である。
この義務は、負担であり、苦痛をあえて引き受けることである。苦痛を甘受すること、忍耐である。ひとは、苦痛感受の(動物的)存在であるだけではなく、苦痛を、必要なところではあえて受け入れて甘受する「忍耐するひと(homo patiens)」なのである。ひとも動物も快苦の感性で動くが、ひとは、これを理性で制御する。動物のように理性的制御なく快苦のみで動く場合、快に引かれ苦痛を回避する動きが基本で、苦痛をときに受け入れるのも、快苦のもとでのことで、快が大きければ苦を受け入れ、大きな苦を回避するために、小さな苦を受け入れる。動物もときに苦痛甘受の忍耐をするが、それは、快苦の感性世界のもとでの営為にとどまる。だが、ひとは、苦痛のみであっても必要なところでは、理性が感性を制御して、この苦痛を甘受し忍耐する。快不快の感性的自然に逆らっての忍耐は、人のみのできることである。理性存在の故、それができるのである。この理性存在として人は万物の霊長となり、尊厳の存在となっているのである。理性存在として人は、動物を超越して苦痛から逃げずこれを甘受して忍耐することができる。快不快、好悪の感性を無視しこれに背いて、善悪の規範をもって、社会的に他の成員と自身を公平に普遍的に捉えて(不愉快な相手であってもその思いを抑止して)、自他の利益の享受の権利とそれを実現するための苦痛甘受の義務を自覚し、その苦痛を引き受けることができる。規範意識のもとに生きるのは、理性的能力をもった人間のみであって、動物には不可能である。
ひとは、義務という負担を背負い苦痛を甘受する。この忍耐の点では、動物には、それを期待できない。人が、猪や熊に、野山での自由な享受を許し動物権を与えても、かれらは、双務的に、人を害さないという義務を背負うことがない。苦痛を排除し快を享受することの自由を保障して動物権を与えても、義務を、苦痛を甘受し、忍耐して人の権利、人権を守るという責務、苦痛を担うことはない。動物には、理性的意志をもって苦痛をあえて受け入れて忍耐するということは不可能である。商品を受け取ったのに、支払いの義務に知らん顔なのと同じである。ひとも時にそうすることはある。が、そうするのは、悪しき意志があって義務規範を拒否するのである。動物の場合は、そういう権利義務の規範意識自体がないのであって、悪意すらも不可能な存在である。本質的に動物には、ひとの抱く善悪、権利義務といった規範意識をもつことができない。義務を意識できないのみでなく、動物権を与えてもそれを権利として意識することもありえない。
7-4-4-1. 権利・義務は、理性的人格の間での社会規範
権利は、価値あるものの享受の資格であり自由であるが、その実現には、これに関与する者がその享受のための負担、義務を担う覚悟をして、この義務の苦痛を甘受する忍耐を引き受けることが必要となる。その忍耐には、快不快の感性の動きを抑止することのできる理性的な営為が可能でなくてはならない。義務の負担、苦痛甘受を感性に逆らって行えるのは、理性的存在、人間のみである。動物には、自身に苦痛の義務を負担する自由意志をもつことなど不可能である。動物が、義務的場面になってそれを実行しないからといって、これを説得することはできない。だが、ひとであれば、それが義務と分かることであり、納得するならば、いやいやであっても自身を鞭打って義務遂行へと向かう。
権利・義務は、なすべき、あるべき当為としての善(悪)の規範意識をもって、意志が選択するもので、選択の自由が前提になる。義務は、なすべき善規範であるが、場合によっては、これを拒絶することもできる。権利は、享受の資格がありこれを自由にできることで、権利を行使しない自由も含めての選択意志をふまえたものである。権利・義務という規範への意識は、普遍的概念的世界を担う理性的存在のもとで可能となる。感性的能力しかない動物には不可能な、人間種のみに存在する営為である。享受の資格があるとして権利を知っても、ひとは、場合によっては、これを遠慮できるし、権利がないとなれば、享受できるものが眼前にあっても理性意志をもって自身の感性欲求を抑止してこれを断念することもできる。だが、動物には、感性抑止の理性意志などないから、そんなことにはおかまいなしに、感性的衝動のままに振舞う。
権利と義務は、理性的存在者同士の、規範への意志を承認しあった共同的営為となるのでなくては実効性をもたない。相互が規範を守ることを踏まえて成り立つものである。自身が権利をもつとき、同時にその関与者が義務を担い、自然感性を抑止して苦痛を引き受け義務規範を守ることを前提とする。相手は、相手で、自身の義務的営為において、向かい合う者の権利の成り立つこと、それを期待していることを承知している。相互に理性的な人格主体としての自覚をもち、権利義務の成り立つ共同体の成員であることを承認しあっている。動物は、享受の権利という規範意識をもつことができないし、義務を担うべき段になっても、苦痛の負担を担わねばならないという意志などもつことはない。人同士においてのみ、権利義務の営為は可能になる。
しかし、だからといって動物に対する倫理的配慮が不要になるわけではない。動物は義務を担うことはできないが、快を享受し苦痛を避けたいという感性は確かに持つ。それを踏まえて、人間が動物に対して一定の擬制的権利を付与することは可能である。これは、動物自身が権利を自覚し求めるからではなく、人間が自らの義務として動物の利益を守らねばならないと決意することをもって成立する。動物権は、人間の側の倫理的覚悟によって支えられる擬制的なものにとどまる。
7-4-4-2. 権利の内在と外的付与
権利があると言われて、その人を見て、これを当然と重みを感じる場合と、借り物と思ってしまう場合がある。その違いは、その権利の根拠がしっかりとその人に内在していてこれを当然と関係者が承知するものと、そうではなく、国家等の外からこれが付与されて権利所持者になっているだけという違いである。売買では、当事者が売買での物とか金銭をもって自らのうちに権利を獲得し内在させていて、万人がその権利を承認できる。だが、王権神授の場合は、神から王としての権利・資格が付与されたと称するだけであり、神が見放せば即王権の喪失となる。王権とちがい人権の場合は、古来、人間に備わっている理性存在の尊厳によるものとしては、人間らしい生の享受の資格としての権利は、奪うことのできない内在的なものであろう。が、それが法的に確定したのは、万人平等の社会になっての国家がこれを表明し付与した近代のことになる。人権は、内在的であり、かつ付与されたものということになろうか。
外的付与で成り立つ権利の場合は、その権利所持者はどうであれ、外部の強制力あるものからの義務が周囲に課されて、その義務をもってはじめて、向かいに当該の権利は成り立つ。動物権とか、ときに自然物に付与される山や川の権利はそれになる。昨今情報社会において喧伝されている「コピー権」もそういう外的付与でなりたったものであろう。本来は、コピーは、自然的には自由にできるものだが、これを国家が強制して「コピーの禁止の権利」を通用させているのである。無理やりだから、何年有効と期限があって、放置するとコピー(禁止)権は、即消滅する。自然的には、コピー自由となるものを、発明発見を促進するために禁止権を付与しているのである。現在、違反に厳しい「コピー権」は、内在的本来的なコピー(自由)権を抑止して、外的に付与した権利である。
享受の資格、権利が内在的な場合は、国家等からの強制・支持などなくして、その主張がなされる。この権利内在は、交戦権のように、その権利主体のうちに、当該の価値(武力等)を内在しその能力発揮を自らのうちに有しておれば明白であろう(日本国憲法では、交戦権の放棄を強いられているが、武力を誇示する周囲の国であっても沖縄や対馬に安易には手を出せない。我が国の強固な交戦能力の内在を知っているからである)。穏やかな社会関係のもとで内在的に権利を確立している場合もある。金銭の貸借とか、物の売買に見られる権利は、その主体が自らに獲得した内在的な権利であろう。貸借関係では、貸した方は、価値(快享受)を渡して、苦痛となることを引き受けたのであり、本来自分の所有した価値であって、相手に対して返却させる権利をもつ。その苦痛甘受の分が権利の明々白々の根拠となる。売買でも同様、売り手と買い手の権利・義務は明確で、権利は、各々に内在的であってその存在は疑いようがないものと見なされる。買い手は、商品を獲得する権利をもつが、それは、支払いをする義務を果たすことで成り立つ。その義務は、自身の求める商品と同じ価値をもつもの、お金を売り手に渡すことであり、その義務(苦痛となることである)を果たしたら、その後は、商品所有の権利をもつ。相手は、逆にその買い手のお金を受け取る権利をもつには、手持ちの商品を渡す義務(苦痛)を果たさねばならない。同じ価値(快、享受したいもの)の交換であり、おなじ価値を手放す義務(苦痛)を交換するのである。そこでは、苦痛の義務を果たしたのであれば、当然、それを根拠にして、それに見合う価値の所有の権利を有することになる。
だが、動物権のような場合は、一方的に生の享受の自由という権利を、人がそとから動物に付与するだけである。苦痛回避を享受するだけであって、義務という苦痛甘受の忍耐を背負うことはない。売買のように、権利の根拠として義務という苦痛を担うことがあれば、納得いくが、苦痛を内に担うことなどありえないのであれば、動物自身に権利が内在しているとは見なしがたい。第一、動物自身、権利という規範は、意識することすらない。その権利は、ひとが外的に付与するだけである。
7-4-4-3. 権利・義務における幼児、障害者等の位置づけ
義務(負担、苦痛甘受)の能力がないから動物に権利を認めないのだとすると、幼児なども義務的能力に欠けるから、これにも権利を認めないのかということになる。一面ではそうである。どこの国でも子供には選挙権は認めない。権利の担い手になりうるかどうかについては、以下のようなことが判断のもとになるのではなかろうか。
第一は、権利を行使する能力、価値の享受への能力があるかどうかである。これがないか未熟な場合は、権利は認めにくいことになろう。性的に未熟な子供にその方面の権利を認めても無意味である。選挙権などもそうである。候補者選択の能力がない幼児には、投票のしようがない。動物権を肯定するひとでも、村長選挙で当地の熊や猪に選挙権を与えよと言うことはなかろう。
第二には、義務(苦痛)の負担の拒否、或いは、義務能力の欠損、または、それの未熟の場合である。権利・義務が対になっているところでは、義務(苦痛)を背負うことをしない者には、権利は拒否される。しかし、そうでない場合、子供のように、義務遂行の能力が未熟で、これを担えないような場合は、その時点で必要な権利は、認められる。そのことで子供は、無事に成長して義務を担えるようになる。その成長した子供は、次世代の子供の権利を守るために義務をしっかりと担う。世代間で権利と義務が継時的に受け継がれることで共同体は維持される。重度障害者も同様に、担えない義務は他の同胞が補い、必要な権利(特に障害の苦悩の解消、保護への権利は大切となる)は保持される。共同体の成員は、家族の成員が血のつながりで一つになって助け合うように、同一の言語(概念)同一の理性をもって一体となり、所属の共同体を同じように体現した個として存在している。互いを対等な「もう一人の自分」と了解して、障害(の苦痛)も我事として受け止めて支え合う。義務については、各人で得手・不得手があり腕力・知力での違いがあって、共同体全体の無数の歯車の一つとして各成員、適材適所でこれを果たす。障害者も、できることを担い、無理なものは、他の成員が補いをして、そのことで同一の共同体の同じ成員であることを、その絆を相互に証することとなる。障害者は、すでに多大な苦痛(障害)を、並みの義務の苦痛以上のものを背負い続けているのでもある。障害に苦しむ同胞から必要な権利を奪うことは、もう一人の苦しむ自分の保護への拒否であり、共感・同情心の豊かな者には承知しがたいこととなる。
第三には、権利義務の前提には、善悪の規範意識と自己意識をもつ人格主体であることが必要であり、なすべき当為を理解した自由意志を有していることが求められる。権利もこれを辞退する自由があり、義務も、悪意をもって拒否することも可能な規範である。動物は、没理性的で規範意識への能力自体を欠いており権利義務の担い手にはなりえない。幼児や認知症、植物状態の人では、その理性の規範意識が働きがたい状態になっていて問題となることがある。しかし、かれらは、人間という理性存在の(潜在・休眠という可能態の)うちにあり、過去現在未来にわたって同一不変の(可能的な)人格主体と見なされて、その規範意識を周囲は推定して対応ができ、必要な権利義務を語りうる存在である。幼児の場合、遺産相続であれば代理人がその子の将来の人格をもって代弁でき、認知症や植物状態でも代理人がその過去を踏まえて可能な倫理的対応を代行する。AIによる知的補助が発達すれば、未熟な知性や痴呆の補完は、微細な領域までしっかりしたものになることであろう。現状でも代理人の共感と想像力が本人の意向をそれなりに代弁し得ている。一方、動物には規範意識がないため、たとえ人間がこれを言語化しても規範的な事柄を語ることはできない。
第四には、これが結構世の中を動かすことが多いのだろうと思うが、感情的な判定である。かわいいもの、かわいそうなものを見ると、同情・共感して、これに尽くしたい、享受の保証を資格を与えたい、そのための義務を皆で担いたいと思うことで、そこからその対象に権利を付与しようと動く。苦痛を回避したいという切実さは、動物でも同じである。苦痛回避の権利が与えられてもいいのではと進めたくなる。苦痛回避の手段を提供したいという思いは、まっとうな心構えである。だが、それを権利として言挙げするのは、過剰な対応と見なすのが今の常識であろう。動物には権利義務の規範の意識はなく、動くのは快不快、感性的衝動をもってのことでしかない。義務意識がないのは勿論だが、権利を付与しても、そのことの自覚はもてない。義務を説いても「馬の耳に念仏」であり、権利を与えても「猫に小判」である。