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2024/11/21

苦痛に耐える尊厳

6-7-4-5. 情報社会に登場した新規の悪   

 情報産業が飛躍的に拡大し、社会は、物の生産からして革命的に発展しつつある。その中で、否定的な方向において昨今目につくのが情報機器をつかっての新しい犯罪である。ネットでの情報を巧みに操作して、詐欺を企てたり、秘密の情報を詐取したり、情報機器を遠隔から止めて困らせ莫大なお金を出させるなどの犯罪が横行している。粗暴な犯罪ですらも情報機器をつかって巧みになって、これを企む主犯は隠れたまま、ネットで知らない者同士を集めてこれに犯行を行わせるようなことにもなっている。

インターネットは、出始めは、善だけであった。だが、これが一般化するとともに、犯罪の多くがネット犯罪となってきた。「知は力」だが、これほど悪においても、知が巨大なものになった時代はなかった。これまでの犯罪に情報機器が利用されるというだけでなく、情報が大きな力をもつので、情報自体を狙った犯罪が多発している。もちろん、そういう悪用を阻止するために、情報産業は、セキュリティーの方面で、悪を阻止するように種々の対策ソフトを考案し英知を発揮してもいる。一部の社会的組織が情報を乗っ取られ支配され機能マヒに陥るようなことがあるけれども、根本的には、悪用を阻止して、その上により確かで高度の情報利用が行われている。現在は、情報革命といわれる人類の飛躍の時代に入っている。

 この情報社会においても、尊厳を有する人間世界のより良きもの、善への道の方が、圧倒的に進化し巨大な価値を産みだしている。生産においては圧倒的にそうで、遠隔からの制御情報で重機を動かし、工場は無人で動くのが珍しくなくなっている。消費の方面でも買い物も予約もスマホで済ませるのが普通である。貨幣ですら、これを無用にして仮想通貨(暗号資産)に代わろうかという大変革の時代になっている。窃盗犯は、仮想通貨という、万国通用で跡がつきにくく、しかも大金になるものを狙うには、相当に情報機器の利用に長けていることが必要となっている。悪事に便利なソフトなどには敏く、情報伝達のツールでテレグラムなど通信の秘密を守るに優れたアプリは悪用されているようである。だが、そこでは、悪用もあるというだけで、表では圧倒的に有益な情報が未曽有の大きさ・多さをもって行き来するようになっているのである。 

デジタル化して、本などの情報が、あまりにも簡単にコピーできる時代になり、知を売る者には、死活問題になるようなことも出てきている。これを制限する著作権や特許権は、知・技術を発展させるには、効果があるということで、自然権となろうコピー権は、逆にコピー禁止権として現在は喧伝されている。しかし、コピー(禁止)権は、人為的作為的なものであり(したがって何年間かのみ禁止ということにしている)、パンや肉などの物とちがい、いくらコピーしても減らないという情報の本来的な特性とは合わない。情報にとっては、束縛であり、禁止は、いうなら必要悪である。簡単には閲覧もできなかった貴重な古書でも、今は、信じられないぐらい容易にウェブで自宅で読める時代である。絵画なども、美術館では細部は見えないものすらも、ウェブで詳細にみることができる。しかし、作家は、それでは、生きていけないということになるので、著作権等をもって保護している。もっとも、かれらも、隠して見せないようにしたいのではない。生活できるようになるなら、大いに公開することであろう。著作権は、なるべく使わず、コピー(できる自然)権を生かすようにしたいものである。

2024/11/14

苦痛に耐える尊厳

6-7-4-4-1. アダムとイヴは、善悪を知って、(尊厳を有する)人間となった  

西方世界では、人間の世界は、アダムとイヴに始まるというが、かれらは、はじめはエデンの園にいて、のんびりと天真爛漫に生きていた。だが、園にあった禁断の知恵の木の実を食べてしまい、その楽園を追放され、生産と生殖に苦痛を課されて、この二人をもって、苦難の人間世界がはじまったという。楽園から追い出されたときのその原因は、知恵の木の実を食べ、善悪に生きることをし始めたことであった。より価値あるものを選択する善と、より低い価値の方をとる悪である。裸体であることを悪しきことと捉え、動物的裸体の恥部を覆い隠すことを善とし、善を選択して、これを実行した。『創世記』は、この間の展開を絶対神をふまえて否定的に、失楽園の話にしているが、宗教的脚色を取り除いて、ここに尊厳をもった人間の誕生を見ていくこともできよう。絶対神の『創世記』創作のはるか以前に人は人となったのであり、原始の人たちは、焚火を囲みながら、あるいは洞窟の奥深く壁画に魅了され、神がかりしつつ、アダムとイヴのこの話に類したものを、自分たちの知恵の獲得の話を、誇らしく語っていた可能性もあろう。善悪を知り自律自由のもとこれを選択して生きるのは、人間だけである。自身にとって価値あるものとないものを知って、価値あるものを選ぶ善と、価値のない、あるいは低い方を選ぶ悪とをもって生きることになったのが、人の根本だというのである。動物にも幼児にも、なお善悪はない。善悪の知恵の果実は、子供の手のとどかない高みの木に実っていた。幼児は、動物と同様に、裸を悪いこととして恥じるようなことはしない。人となることは、善悪を知り、自身のその善悪への自由の行動に責任をもって生きるということである。悪への責任を問えるのは、悪を知る人間のみである。理性のもとに良心・良識を育てて、善悪を知り、よりよい生き方を自身で自由にできるのが人間の(尊厳の)核になる。原始、洞窟の薄明りの中、裸で無垢の子供たちは、善(悪)の印である恥部を隠す大人の厳かな衣装に憧憬の眼を注ぎつつ、アダムとイヴのような、尊厳を有する人間創成の話を聞いていたのではないか。 

ひとは、一つのものにその多様な欲求をもって、それを満たすものとしての価値を多様に見出し、その間の高低の価値づけをする。一つのものも多様な価値をもったものとなり、多彩な価値世界を作り出す。自然感性のもとにはない、普遍的概念的なものをもって世界を捉えて、これを自分たちの諸欲求を満たすものとしての価値をもってランク付けしながら描き出し、それを自由に選択することになった。より価値があると自身の判断したものを自由に選択してこれを実現していくのである。善悪の価値世界を創造し、自律自由の世界に生きることを人間は始めた。動物は、善も悪も知らない。善悪の判断ができない場合は、罪を問うことはできない。動物には罪を問えない。犬や猫が店先の魚を盗んだとしても、盗られた方が悪いと言う。あるいは、稲田に水がいるとき、自然が一切雨を降らさず干天を続けるとしても、それを悪事とはいわない。自然は、ひとに対して悪意をもって雨を降らさないのではない。ひとであっても、幼児には犯罪の責任を問えない。あるいは、心神喪失状態でなしたことも、そのことへの善悪の判断がないものとして、悪への罪を問うことをあきらめる。成人、人が人に成るとは、尊厳を有する人間的人格を備えた者になるとは、善悪の価値判断ができる知恵を有したホモサピエンス(知の人)になるということである。アダムとイヴは、善悪を知ることで(良心・良識を培い)動物を超越して人間になった。彼らは、悪(自然体としての裸)を避けて善(恥部を覆い隠す)を選択した。だが、ひとは、アダムたちが自身の自由のもとで善をとったように、逆に悪を選ぶ自由も有する。のちの者たちは、しばしば自然感性(裸体)を優先して悪に誘惑されて恥ずべき悪事を行うことにもなっていった。

2024/11/07

苦痛に耐える尊厳

6-7-4-4. 善悪の世界に生きるのは、人間だけである  

 動物の世界には悪はない。本能・衝動にしたがうのみで、善悪の判断で動くものではない。善悪は人のみが有している世界である。善悪の価値をもった世界を見出して、これにしたがって自律自由のもとに生きるのは人間だけである。自由に選択できる種々の価値ある事態を見出し、そのうちからより価値あるものを選択するのを善とし、より価値のないものを選ぶのを悪とする。理性をもって善の世界を見出し、動物を超越した尊厳をもった世界にひとは生きることとなった。だが、同時に、動物でもある人間は、より価値のない方を選んで、悪いこと、悪と承知しつつ、自身の感性・衝動を上にたて、理性をないがしろにして、これに従う場合も生じた。それもまた、自律自由の人間のみが見出している動物を超越したというか、動物にはありえない状態(悪)に堕しての生き方ではある。

価値は、主体の求めを充足できるところにあり、常になにかにとっての価値である。一つの実在物も、多くの価値づける主体をもち、無数の価値をもつ。一つの果物でも、食の快を満たす美味という価値だけでなく、美的価値、薬用のための価値、交換の価値等をもつ。それら無数の価値づけ、比較があって、その場に見出されている、よりましな価値あるものを選ぶのが善となる。低い価値を選ぶのが悪である。一つのもの・事態のうちに、自然的精神的な無数の価値を見出し、その場での選択としての善と悪を見出す。 

ひとは、理性的存在であるが、他方で、動物的自然をもった心身を各個体として有しているから、これに動かされもする。動物的感性は、個我・エゴとしてのひとを突き動かす。だが、それは、身勝手な衝動等となるから、理性的な善悪を承知したものとしては、葛藤・苦痛を生じることとなる。エゴの衝動を抑止し、その快楽を抑止して、理性の良心・良識のもと、身勝手なエゴの悪を抑止し、感性の苦痛を甘受しての我慢・忍耐をもって、善を追求する生き方をすることとなった。だが、多彩な価値世界において、より価値のないものの選択としての悪の道も可能となったのでもある。その根本は、自然感性を優先して自律の理性をそれの下僕にすることであった。自律自由の存在としての人間は、悪の選択に自身の感性・エゴの方から誘われ、それを選択することも生じた。それも動物の知らない世界である。

悪という反価値の世界を動物は有さない。そういう世界は、善の世界とともに、諸価値の世界を知り自律自由のもとにある人のみが見出し開発した世界である。自由の人間は、悪をも選択できる自由の下にあり、悪を行うことともなった。ただし、尊厳をもった理性は、当然、自身の悪行を周知していることであり、その良心・良識は、これを恥じて、自身を価値あるものの選択、善へと向けなおそうとする。私的所有の原理をふまえて自身の物が盗まれたらこれを犯罪・悪として追及する者は、自身が盗みをするとき、これを悪と自覚してする。悪と断定し自身を自身で罰してこの犯罪を阻止する自己内の理性能力、良心が動く。自身のうちに、悪を阻止する良心・良識を有して、ひとは、その尊厳を堅持する。が、ときに、飢餓とか、正当防衛等々止むにやまれぬ事情から、その個我は、良心をヴェールで覆って自己や身近な者のために悪を行うこともある。