7-2-5-4. 人類史は、虚焦点としての王の過酷な支配の歴史だった
 理性の制御・支配が貫徹されれば、組織された集団の運営は、尊厳を有した人間同士のことで合理的にスムースに行いえたであろうに、母体が大きくなるほどに、そうはならず各成員を無視したリーダーが上に立って、非合理で過酷な支配をすることになった。全体の上にそびえるようになった神や王が人々を集合させて組織を動かした。存在しない共同幻想の神をこの世の支配主体とし、神の代理となる王を虚焦点にしてこれを社会的組織の統一の要とした。焦点となる神や王は、絶大な力を有したが、それは、国民が有した力であり、この力をあたかも神や王の力かのように錯覚させた。この超越的な神、その代理の王のもとで、傲慢な支配者と卑屈な被支配者となって定着したのが人類の長い歴史であった。 
人類史は、虚妄の神への拝跪、横暴な王への隷従の歴史となった。その根本は、『創世記』の語る二つの禁断の木の実のうち、知恵の木の実を食べて理性をもったにもかかわらず、命の木の実は食べず、動物的感性的生を続けてきたことにあるのではないか。快不快にやはり囚われ続けており、群れのうちでは動物的な弱肉強食のマウンティングが人でも目立つ。マウンティングは、動物的な生存競争の日々の営みにあるものだが、ひとでも、これが強く、暴力・収奪の源をなしている。自由、平等、無搾取の社会をモットーにした共産党でも、民主集中(中央集権制)という制度をとって、権力を手にすると例外なくどこも非情の独裁となり、粛清の恐怖政治となりはてた。驚くほどマウンティング(勝者・敗者の厳格な秩序)の強い人類であることを思い知らされたことである。ゴリラやチンパンジーのボス支配と同様なものを続けているかのようである。餌にまずありつくのは、強者だと、動物は優劣の順をつけるが、ひとでも、同様で、富と名誉をわがものにするのは、まずは強者だと、組織的に上下の違いを厳格にし、その極に奴隷制を存在させることになった。理性的に考えれば、人格に上下はなかろうし、尊厳を有した人間であることでは同等であるが、動物的には、上下・強弱の違いをはっきりさせてマウンティングを取りたいのである。それは、身分制・階級制となり、極端には人格すら認めない奴隷制となった。
現代の情報革命のはじめには、これで情報が万人のものとなり、格差はなくなって、自由平等の社会が実現すると夢を見たが、またたくまに、それは消え果て、今は、その情報革命の旗手たちが、世界の富を独占して、好き勝手をやっている。かれらの感性・動物的自然は、そのままであり、マインティングをとり、富と名誉の独占にいよいよ邁進している状態である。被支配者たちの力を王の力としていたのと同じように、作りだした新技術・アイデアを、過去の人類の知恵の集積、同僚の汗の結晶などとみるのでなく、そのトップ個人の力として、人類の知恵を支えてきた現代人を、過去の貪欲な商人をも呆れさせるほど収奪し、そのあぶく銭をエゴの欲望のために湯水のように使っている。ただし、昔は、頂点から順位をつけて、トップのおこぼれを順にもらえていたから、下には下がいるという差別をつけ下をみて、多数がマウンティングの獣性を満たせていたが、情報社会では、それは難しい。極端をいえば、独占的な特許権とか著作権のように、敏く情報を儲けの手段にできたトップか、それ以外ということになるので、トップ以外の圧倒的多数は、おこぼれをもらう余地がなく不満となり、マウンティング制の維持は困難となっている。最近、投資や情報産業などで大金持ちになった人が、意外にも、ベーシックインカム(国民全員への総生活保護制)で行く必要があると説くことが希でない(なかには、過激に、いまの生活保護をどんどん拡大せよという人までもいる)。おそらく、かつてのように無数の位階をもって支配を固め得ていた時代とはちがい、圧倒的多数が一律に仕事もなく惨めな生活を余儀なくされるとなれば、穏やかな社会は不可能となる。所有独占欲の愚を悟り、ベーシックインカムをする以外になかろうとの先見の明をもって、これを語っているのかと思われる。