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2025/10/30

世界観を創る苦痛

7-2-5-4. 人類史は、虚焦点としての王の過酷な支配の歴史だった  

 理性の制御・支配が貫徹されれば、組織された集団の運営は、尊厳を有した人間同士のことで合理的にスムースに行いえたであろうに、母体が大きくなるほどに、そうはならず各成員を無視したリーダーが上に立って、非合理で過酷な支配をすることになった。全体の上にそびえるようになった神や王が人々を集合させて組織を動かした。存在しない共同幻想の神をこの世の支配主体とし、神の代理となる王を虚焦点にしてこれを社会的組織の統一の要とした。焦点となる神や王は、絶大な力を有したが、それは、国民が有した力であり、この力をあたかも神や王の力かのように錯覚させた。この超越的な神、その代理の王のもとで、傲慢な支配者と卑屈な被支配者となって定着したのが人類の長い歴史であった。 

人類史は、虚妄の神への拝跪、横暴な王への隷従の歴史となった。その根本は、『創世記』の語る二つの禁断の木の実のうち、知恵の木の実を食べて理性をもったにもかかわらず、命の木の実は食べず、動物的感性的生を続けてきたことにあるのではないか。快不快にやはり囚われ続けており、群れのうちでは動物的な弱肉強食のマウンティングが人でも目立つ。マウンティングは、動物的な生存競争の日々の営みにあるものだが、ひとでも、これが強く、暴力・収奪の源をなしている。自由、平等、無搾取の社会をモットーにした共産党でも、民主集中(中央集権制)という制度をとって、権力を手にすると例外なくどこも非情の独裁となり、粛清の恐怖政治となりはてた。驚くほどマウンティング(勝者・敗者の厳格な秩序)の強い人類であることを思い知らされたことである。ゴリラやチンパンジーのボス支配と同様なものを続けているかのようである。餌にまずありつくのは、強者だと、動物は優劣の順をつけるが、ひとでも、同様で、富と名誉をわがものにするのは、まずは強者だと、組織的に上下の違いを厳格にし、その極に奴隷制を存在させることになった。理性的に考えれば、人格に上下はなかろうし、尊厳を有した人間であることでは同等であるが、動物的には、上下・強弱の違いをはっきりさせてマウンティングを取りたいのである。それは、身分制・階級制となり、極端には人格すら認めない奴隷制となった。

現代の情報革命のはじめには、これで情報が万人のものとなり、格差はなくなって、自由平等の社会が実現すると夢を見たが、またたくまに、それは消え果て、今は、その情報革命の旗手たちが、世界の富を独占して、好き勝手をやっている。かれらの感性・動物的自然は、そのままであり、マインティングをとり、富と名誉の独占にいよいよ邁進している状態である。被支配者たちの力を王の力としていたのと同じように、作りだした新技術・アイデアを、過去の人類の知恵の集積、同僚の汗の結晶などとみるのでなく、そのトップ個人の力として、人類の知恵を支えてきた現代人を、過去の貪欲な商人をも呆れさせるほど収奪し、そのあぶく銭をエゴの欲望のために湯水のように使っている。ただし、昔は、頂点から順位をつけて、トップのおこぼれを順にもらえていたから、下には下がいるという差別をつけ下をみて、多数がマウンティングの獣性を満たせていたが、情報社会では、それは難しい。極端をいえば、独占的な特許権とか著作権のように、敏く情報を儲けの手段にできたトップか、それ以外ということになるので、トップ以外の圧倒的多数は、おこぼれをもらう余地がなく不満となり、マウンティング制の維持は困難となっている。最近、投資や情報産業などで大金持ちになった人が、意外にも、ベーシックインカム(国民全員への総生活保護制)で行く必要があると説くことが希でない(なかには、過激に、いまの生活保護をどんどん拡大せよという人までもいる)。おそらく、かつてのように無数の位階をもって支配を固め得ていた時代とはちがい、圧倒的多数が一律に仕事もなく惨めな生活を余儀なくされるとなれば、穏やかな社会は不可能となる。所有独占欲の愚を悟り、ベーシックインカムをする以外になかろうとの先見の明をもって、これを語っているのかと思われる。

2025/10/23

世界観を創る苦痛

7-2-5-3. 奇蹟は、あれば、神実在の決定的な証拠になる 

 災いの神は、有ってほしくないのに、至るところに見出されている。ただし、災いはあるが、それは自然自身の営為であって、その背後に鬼神を想像するのは、妄想であった。理性的な人間は、冷静に対処して、鬼神をもちだすことは次第になくなった。逆の奇蹟も、古来、語られてきたが、これは、幸いをもたらす恵みの神がごくまれに現れるときに言った。が、災いの神と同様に、奇蹟をもたらす慈悲の神は妄想であろう。仮に奇蹟という、自然法則を超越しこれに反するようなことが真に生じているのだとすると、それを起こしたものは、この世を超えたものとして、万人がこの超越したものの存在・超越神を認めねばならなくなる。奇蹟(miraculum)は、価値あるものに驚嘆する(mirari)という場面を指し示す。喜ばしく驚くようなことであり、否定的な現象はささず、稀有の価値あるものが思いがけず得られるような場面に言われる。慈悲・恵みの神の現れが奇蹟である。キリスト教では、この世を超越した絶対神をいい、それがまれにこの世にありえない奇蹟を示すという。奇蹟が生じたとすると、この世を超えた現象なのであり、その奇蹟を受け入れる者は、その奇蹟を起こしたものを、つまり、超越神を認めることとなる。不信心のこの私であっても、奇蹟が真実生じているのなら、この世界を超えたものがそこに生じているのであるから、その超越神を認める以外なくなる。奇蹟は、有れば、神の存在を証明するための決定打となる。

キリスト教では、イエスが不治の病人を治癒させるという奇蹟を繰り返して示す。それが真に奇蹟ならば、神の存在を明確にし、懐疑的な者をも納得させるものであったろう。だが、語られるいずれの奇蹟も、神がそこに現れたわけではない。不治の病の治療などは、イエスが類まれな精神的治療者だったと語るだけである。ほとんどありえないような感激の治癒をもたらしただけのことであって、神がそこに働いて奇蹟を示したとは言えない。イエスの最初の奇蹟は、水を酒に変えたことだが、こういうマジックは、マジシャンならだれにでもできることであろう。神を頼むまでもないことであるし、神がそこに現れたということでもない。

いまでも、カトリックでは、聖人と認められるには、奇蹟を起こす必要があるという。奇蹟は稀有のことで、真にそれができたとは、超越世界の営為を神のもとでできたということだから、神に直接した聖人に間違いないことである。ただし、奇蹟は本当は起こせていないはずで、どこかでごまかしなどをやっているか、まれな偶然をもって自然法則を超えたかのような見せかけ・解釈がなされたということにとどまるであろう。本当の、超越神のあらわれとしての奇蹟は、起こりようがないことで、それがあれば、万人がカトリックのいう神を認めざるをえないであろう(カトリックが奇蹟を重大なものとすること自体は、超越神をいう宗教のなかでは、奇蹟が神のこの世界への顕現を語る唯一のものとして、真実を追求しようという稀有の真摯な姿勢ではある。が、残念ながら超越神は存在せず、不可能なことを求めているのである)。真実の奇蹟は、存在しないし、超越神も存在しない。存在するのなら、隠れたりせず、ルターがいったように「ここに我有り」と姿を現すだけでいい。それで、全人類が私のような不信仰者をも含めて神を認めることになる。私は奇蹟が有れば当然、絶対神を認める。ただし、人類を苛め抜いてきた神であるから、慈悲の神などではなく、これを貴いものをして拝跪することなどはできない。

2025/10/16

世界観を創る苦痛

7-2-5-2. 神は、まずは、災い(苦痛)の神として創造された 

 人の生には苦痛が根源的なものであるが、その苦痛は、神を創造もした。最近の神は、慈悲の歓迎したい幸いの存在となるのが普通だが、原初の神は、災いの神であった。あってほしくない狂暴で無慈悲な、人に苦痛をもたらすものとしての神が想定され創造された。自然の猛威の前に、人々は、苦しめられ、その元凶として、神を見出した。狩猟採取から農耕に発展するとともに、作物を台無しにする洪水とか干ばつは、人為で制御できるものではなかったから、そういう自然の猛威に、その背後でこれを操る神を想定して、これに脅威を感じ、これに拝跪するようなことになっていった。狩猟の時代から、狩るのではなく、自分たちが狩られることも多かったことで、それへの恐怖は、魔物、魔神を妄想させたことであろう。農耕に入るとともに、自然の猛威が作物に直接関係してきて、荒ぶる魔物が、圧倒的な魔神、邪神が想像されていった。神は、人において苦痛の災いの神として、存在してほしくないのに存在するので、せめて遠くに安らいでいてほしい、自分たちの前には現れないでほしいと懇願し祭り上げた。

 ひとは、災いには出合いたくなかった。だが、出合いたくないのに、洪水や日照りは、容赦なく人を襲った。自然の背後に、悪意を感じた。ひとは拒否し出合いたくないと意思しているのに、これが無視され、故意にワザと、邪神の邪悪なワザに出合わされるのが、ワザワイであった。逆に幸いには、ひとは、自らが出合おうと懸命になった。汗水ながして狩猟採取をし農耕をするのは、人が幸に出合うことを求めてのことであった。幸への出合い、サチ・アイ、幸いは、人自身が合いたいと求めてのことで、神などから出合いにやってくるものではなかった。幸運の宝くじは、幸は、ひとが自らに合おうと試みるもののみに限定して与えられる。「求めよ、さらば与えられん」である。しかも、いくら僥倖を願って宝くじを買っても(貧者・貪者の税金を納めても)、そう簡単に与えられるものではなかった。これと反対に、ワザワイは、出合いたくないと、細心の注意をはらって避けているものであった。その出合いたくないもの、避けているものに出合わされるのであり、そこには、自然の背後の邪悪な意思が、邪悪な神が想像された。

 幸に出合うこと、さいわいは、神からでなく、ひとが日々求めてのことで、ひとが幸に合いにいく。海山の幸に、出合いたいと命がけででかけたのが海幸彦、山幸彦であった。ひとが、探し出し、苦労をして、やっと幸に出合えたのである。神に祈ったのは、狩りが妨害されたり自分たちが狩られてしまうような災いなく、無事にということであった。そう希っても、邪悪な悪意をもった邪神がわざわざとする(故意の)行為(わざ)に出合わされて災いとなった。農耕の時代にはいると、実り、幸をもとめて、これに合うことになる幸いのためにと汗を流しながらも、収穫を目の前にして、竜神が洪水・台風などで一挙に実りを奪いさり、神のワザにあう災いとなった。

 スサノオ神(≒牛頭天王)をまつる祇園祭は、現代でも盛大であるが、これは、疫病等をもたらす、荒れスサブ、災いの神である。これを祭り上げて、どうぞ疫病などばらまかず、穏やかにしていてくださいと祀るものであった。水の神の竜神にも、似た形で祈願した。暴風雨とか洪水、逆の干ばつをもって農耕民を苦しめ災いをなす竜神に、適度の降水を願い、旱などの災いをもたらさず穏やかに安らいでいてくださいと祈願した。暴力団からの暴力を自分たちには向けないでほしいと、みかじめ料をもって懇願するように、荒ぶる神の災いを、「隣村までで堪忍してください、自分たちには向けないでください」と切望し、尊い価値あるものを献納し、拝跪した(昨今の神社の祭りには、背後に暴力団あたりをにおわせる縁日の店(的屋)が並ぶ。恐ろしい神をまつる場に、おそろしい暴力団の匂いのありそうな的屋がならんで、和やかに子供たちを楽しませる。そのことで、背後の荒ぶる神との親しさ、なごやかさを演出しているのではないかと思うがどうであろう。狂暴な竜や天神や祇園の祭りには、神輿の担ぎ手にしても、祭られる神に近い無法者・乱暴者風が似合う。神輿をぶつけ喧嘩腰になり、神の暴力が自分たちにではなく隣の町や村に降りかかるようにと必死になった姿は頼もしく映るのではないか)。

2025/10/09

世界観を創る苦痛

7-2-5-1. ことば(概念)をもって集団は一つになって対処する  

理性をもって世界を普遍的概念的に把握することで、ひとは、個別自然を超越し個別の内奥の本質をつかんだ生き方をはじめた。日々の行動についても、言葉(概念)をもって、関わる対象を明確に限定し、善悪の規範のもと共同して、集団的行動をスムースにできるようになった。かつ、それは、自分の部族、種族という共に生きる集団を、自然的な家族などを超えて同一の類として把握することともなった。 

言葉は、他者との間に成立するもので本源的に個を超えていて、自分でない外の人間に語り理解しあう役立ちをする。相互の個を超えて成立するものとして、言語の実相は、それを知る個人の理解を超えた、その言語を使う種族全体のうちにあるということになる。「同情」という言葉(概念)は、これを使用する現代日本人に周知のものだが、各自の理解を超えた日本人全体のもとにある。ヨーロッパの方でsympathyに訳されるとしても、内実はかなり異なる。言葉には、これを使用する集団の生きざまが刻み込まれている。sympathyは、わが子にも大いに使用するが、日本語では「同情」は、家族にはしない。そのことは、自覚はかならずしもされないとしても、同情概念を少し振り返ってみれば、日本人なら誰でも、そうだと納得する。日本人の間で「同情」を家族に言ったとすると、それは、不仲で冷たい他人扱いになったときに言うことである。それらの言葉の使用、概念の妥当範囲等は、個人を超えた種族・集団全体のもとにある。いうなら言葉は、個人の理解を超えたものとして、独自の力をもって個を強制もする。自分は「同情」をヨーロッパ的に家族内でも使うとか、「親身」の意味で使うと言っても、だれもそれには従わない。個が言語の内容を決定するのではなく、その言語使用を行う民族全体が、集合的な主体・民族の魂ともいうべきものが、習慣・習俗をともにしているように、それを決定しているのである。言霊をいうが、言葉には、個人の使用・理解を超えた全体のうちに生きる独自の力がある。ひとは、言葉・概念をもって判断し行為するが、その言葉は、自身の理解を超えた全体のものである。言葉をもって生きる者は、個としてではなく、その言語使用の集団全体に従って生きていくこととなる。個体として自立し自律的に生きるのだと意思していたとしても、そのもとの言語に制御されて生きていくのである。

言語使用は、自分たち自身の統一的な有機的連携にも大きな影響を与えた。自分の有した言葉が通じ合うことは、その言語のもとでの一体的存在であることを明かした。もともと日頃一緒に生活しているものの一体性は、猿の群れのように明確であったろうが、それを超えた集団との一体化は、敵対部族との闘いに勝利するには、大切だったろうが、それは、日々の付き合いがなければ、そう簡単には実現できなかった。それが言語世界、概念的世界をもつことによってスムースに展開可能となった。家族の核は、長老となる者が担って、この長老の指示する通りに皆一体化して動くことでは、ボスに従う猿の群れと同じだろうが、それを超えた広い集団の一体化した動きは、言葉・概念をもって可能となった。「一族」とか「正義」といった言葉(概念)が人を動かした。集団は、組織的一体化を力とする。その部族・種族の生物的一体性、一つの血の自覚が、「先祖」「祖霊」といった言葉(概念)をもって創り出された。先々代のお爺さんのときは、ひとつの家族だったということは、言葉・概念をもつことで明確にされえたことであろう。今は存在していないものの声を、神がかりして祖先の指導的な霊の意志として聞いて、その祖霊のもとに全員が一体的になって行動することを言葉・概念が可能とした。その祖先はさかのぼるほどに、広い部族の祖として、その全体を一体化した。その祖霊の言葉があれば、その広い範囲の部族が一つになって動くこととなった。多くのものが一体化して当たれば、当然、強力となり、戦いには有利であった。その共通の祖先神が、神の憑依した巫女の口をかりて、自分たちの「正義」と、敵対部族の「悪」「犯罪」を言い立てれば、敵愾心に溢れた強固な全体が作り上げられたことであろう。

2025/10/02

世界観を創る苦痛

7-2-5. 個別感性界を超越した普遍的概念世界の創造   

旧約聖書『創世記』はアダムとイヴが禁断の知恵の木の実を食べたと言う。その核心は、人が理性的存在になったということ、善悪の規範を含んだ、人と世界の普遍的概念の世界に生きる特別な存在になったということである。動物的自然のもとでは、感覚感性の個別的実在の世界にとどまるが、ひとのみは、これを超越して、言語使用をもって普遍的な概念世界にも生きることになった。個別感覚の世界に動物とともに生きつつ、その上に、その個別感性を超越した概念をもって、理性的普遍の新天地に人は立ち、自然を超越した、動物自然とは全く異なる卓越した世界を開拓し、地球の支配者となったのである。個別実在の核を構成し特徴づける普遍的な本質(=概念)を見つけ出して、個別感性世界をその概念をつかむことで巧みに制御していくこととなった。殴るとか抱擁するといった個別事態の内奥に、普遍的な善悪の規範を見出して、この普遍的な規範のもとに生きることにもなった。

『創世記』は、「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けた」(2:20『聖書 新共同訳』日本聖書協会 以下同様))と語る。あらゆる獣に命名したということは、身近な飼い犬などにその個体の呼び名をつけたのではなく、その種・類にしたがって猪とか鳥と名前をつけたということである。それは、理性のもとで、対象(いのししとか烏)の本性、類的な本質(概念)をつかんで命名していくことである。個別実在世界のもとの内奥の共通の普遍的本質を把握し、普遍的概念の世界を見出し、烏なら烏という本質(概念)のもとに統一して捉えてこれを言い表したのであろう。

理性的普遍的な概念(ロゴス)は、個別感性のうちの内的本質の抽出、抽象をもって把握される。そして、それは、名前(オノマ)をもって表される(その言語使用のはじめには、まずは、目の前の黒い鳥に「烏」と名前をつけ、それを別の類似のものにも与えて、その名前に共通の本質・概念を見出したことであろう)。旧約聖書『創世記』は、あらゆる獣への命名では、これに人は「名前(onoma)」を与えたという(2:20)。類的本質(概念)にしたがっての命名である。新約聖書『ヨハネの福音書』は、冒頭に、「初めに言があった」(1-1)と、世界の創成は「言(Logos)」、言葉でもって成ったという。いずれも、普遍的な概念を内実としたものと解してよいであろう。人は、多様な個別実在のうちに、それを成り立たしめるその種に共通の類的本質を見出して、人間とか猫という概念(ロゴス)として確定し、これを具体的に表記するに名前(オノマ)をもってする。どんな人間も個別的には別々で多様であるが、そこに同じ類的普遍性(理性的な人格という本質)をもったものであることを見出した。あるいは、個物を構成する共通の諸属性を見出し、これを命名し、概念化することともなった。赤色という属性・性質において、異なったものの共通の性質を見出し、これを命名して、取り扱うことができることになった。赤くなった果物は、美味しいといったことを見出して、赤色に注目して果物を摘むことができ、これを伝え、学習できることにもなった。あるいは、社会生活では、個別の営為のうちに、善悪の普遍的規範を見出して、その営為の推進と禁止を意志することにもなった。

 概念世界は、主観の営為においては、個別実在世界に直接的には感覚されないものとしての、抽象された観念になる別の世界の創造であった。そこから、普遍的な概念のみの抽象物も存在することにもなった。個別実在の本質ではない空虚なもの、虚偽、虚妄も発生した。感覚世界でも、夢とか幻覚は、実在しないものであり、それが幻覚であることは、個別実在に照らして自覚される。概念世界の虚偽も、実在世界に照らして明らかになる。個別実在のもとでの夢・幻覚でも、反復されれば、実在世界とは別の世界が想定されるようになり、あの世というものが想像された。その想像物、幻覚対象、あるいは虚妄の概念(ロゴス)にも、名前(オノマ)が与えられて、この個別現実界の外に、むしろ、これを支配する背後の世界が、(実在世界からは虚妄の)霊界とかの超越的世界が想定もされていった。