7. 苦痛の価値論Ⅴ-世界観を創る苦痛
doleo ergo sum(我痛む、故に、我有り)
6-7-8-5. 矛盾・葛藤をばねに生成する人間的尊厳
人間は、自然を支配する卓越した存在として尊厳を有するけれども、自然から切り離されてはいない。自然を常に自身の土台にしていての人間的尊厳の生である。動物でもあるから、この動物的なものが生き続けており、食欲や性欲という人間の基本欲求は、動物のそれを離れることはできず、これに支えられ規定されつづけている。動物以前の無機自然からも離脱はできず、これの影響下にありつづけて、大空を自由に飛ぶには、無機自然の諸法則を踏まえていなくてはならず、引力を100%受け入れての、その制約を踏まえての飛翔に限定される。そういう諸自然を踏まえこれを土台にしつつ、これを超越するのであり、しばしば、自然の抵抗を受け、自然と葛藤・矛盾し戦いつつの人間的営為である。人間的尊厳は、出来上がったものではなく、自然との葛藤等を通して生成し創造されつづける尊厳である。
ひとは、過去を踏まえ、その支えをもって未来へと生成していく。それは、個の場合も類の場合も、同様である。動物としての過去を踏まえ、その食欲や性欲を踏まえる。過去を土台にしながら、これに従順であったり反撥・葛藤しつつ、未熟さを克服した真実の自己を実現しようと未来に向かって生き続ける。過去のもの、土台となっているものは、良好な支えになるとは限らない。過去のことは変更不能として残り続けるし、土台になっているものは、しばしば上位の層に比して強い力をもっている。それに背くことの難しいことがある。食欲は、精神的人間的営為にとっての必須の土台であるが、その動物的衝動は強力である。性欲もそうで、後者は人間関係のうちに動き、社会関係において強い働きをなす。人間的に洗練された性欲にと高めてはいるものの、その動物的衝動に負けて、高尚な人間関係を破壊してしまうこともある。ひとの尊厳ある営為はストレートに成就するとは限らない。土台、基礎にあるものの強い力に敗北することもたびたびとなる。禁酒・禁煙、ダイエットは、多くのひとが何回も繰り返す。人間的精神的生にふさわしい食欲にと制御していこうとするが、簡単にはいかない。その総体的な歩みは、直線的な向上ではなく、行きつ戻りつしながら、前に向かって、人間らしくなろうとの生成の歩みとなる。前に進むのだが、時に後退もする。生成は、後退・敗北を含みつつのダイナミックなものとなる。
生身の個我は、常に、動物とか無機自然を土台にと踏まえる。戦争への動員は、理性的に言えば、そこでの成員である個が犠牲になるのはやむを得ないという話になるが、動員される個我としては、その土台が動物的生命にあるから、生命を危うくするような話には、簡単には乗れなくなる。建前としては、だれかが前線に立って死闘を引き受けることがいるが、エゴ、生身の個我としては、動物的に抵抗したくなる。それでも、個我のうちの理性は、やはり、全体を見渡し個我にえこひいきしない良心・良識を働かせるから、類と個の鏡となる身近な人たちのもとに自己の尊厳を見出しつつ個我の抵抗を抑圧して自身が戦争に志願するようなことにもなる。個我の生保存とは葛藤状態になるが、それを抑止して正義の戦いに出て、命を落とすことも覚悟する。ひととしての悲壮な尊厳を堅持することである。
ひとは、個我の動物的心性を踏まえつつ、身勝手な動物として非尊厳でありつつも、理性を有し良心・良識をうちにもっていて、尊厳になろうとつとめる存在である。未熟を自覚した成熟・生成するものとして各人生きる。動物も神も、永遠にその本性を変えず反復するのみである。ひとだけが、生成する。自己否定を介しつつ、創造的破壊をもって前進する。「男子三日会わざれば刮目して見るべし(≒士別三日 即更刮目相待(『三国志』呂蒙による故事)」ということになる。創造的破壊の生成において、非尊厳から尊厳へと高まることをもって人間の尊厳は生き続ける。
6-7-8-4. 自己否定による自己実現、破壊による創造
生あるものは、自己保存・自己維持につとめながらも、やがては死(破壊・消滅)を迎える。ひともそれは同じことである。ただ、ひとは、他の動物とちがい、自然のうちの因果性にとどまらず、未来に向けて目的論的に生きていることである。過去からの自己同一性・自己保存をふまえつつも、未来の自己へとその自己同一性を働かせる。つまりは、未来(の目的)に生き、未来の真実の自己に成ろうと自己実現につとめる存在である。真の自己は、未来にある。その未来の自己に生成しようとする。いま、法学部生であるのは、未来の裁判官になろうがためであり、真の自己は、未来の裁判官において実現される。今の自己を否定して未来にと自己実現していく。過去と現在を否定、創造的に破壊して、未来にと自己の創成をはかる。
生あるものは、その終わりに死という否定をもつだけではない。どんな生も、刻刻に、死を受け入れつつ、生き続けている。身体を構成する細胞は、刻刻と死に、新規の細胞と入れ替わる。その死を通して、全体の生は維持・保存されている。ひとは、さらに、未来に生きるものとして、その過去と現在を踏まえつつも、これを乗り越えて、これを遺物とし死すべきものとして破棄して、先にと創造を重ねていく。過去のものを保存するとしても、それは、未来の生に有意義となるものに限る。未来に向けての存在意義を失った過去・現在は、いさぎよく破壊・破棄して(もちろん、記憶等を中心にして対外的な人格の同一性は維持しつつ)未来に新規の生を創造していく。法学部の学生であることをいつまでも維持していたのでは、留年生・落第生ということになる。時期になったら、法学部生である自己を破棄し創造的に破壊して、法曹の世界にと飛躍していかねばならない。法学部生として留年しつづけ、その外皮をいつまでもつけていたのでは、法曹人としての生を不可能にしていく。いさぎよく、その外皮は脱ぎすてて、未来にと新規の自己へと飛び立っていく必要がある。
同じ状態におれば安楽であることが多い。とくに、快適な状態にあっては、これにのめりこみがちとなり、停滞した自己の同一性を維持しがちとなる。「三代目は家をつぶす」というように、安楽な生では、停滞した快の状態では、いずれ没落していくことになる。バッタのような似通った脱皮の反復になるか、チョウのように、蛹になるまでの脱皮と成虫になるときの大脱皮をするかは、ひとそれぞれであろうが、過去の自己を否定し、その殻を破壊して、新規の自己の誕生を迎えることを繰り返していくことが、人において求められる生の全うな在り方となる。法学部生から裁判官にと脱皮するだけでなく、弁護士に転じたり、チョウのようにまるきり別の新規の試みをもって会社を興したり、農業・林業に挑戦するようなこともあろう。いずれにしても、ひとは、未来に生きるものとして、過去を創造的に破壊して、新規の自己を創造していくことが求められる。チョウもバッタも、脱皮なしでは、飛び立つことはかなわず、死ぬ。ひとも過去の破壊なしでは、停滞あるのみで、未来の真の自己は、創造されることなく死ぬ(もちろん、チョウやバッタとしての同一性は堅持しつつの脱皮であるのと同じく、人格の社会的な同一性は維持しつつであるが、時には人格の同一性すらも破棄した大脱皮・変身も行う)。創造は、創造的破壊である。破壊なくして創造なし、「死して成れ(Stirb und Werde!)」である。
創造的な破壊であっても、破壊には当然、破壊されるものの苦痛がともなう。破壊を受け入れるとは、苦痛を受け入れる、苦痛に耐えるということでもある。苦痛は、さらに、新規の創造自体にも伴う。未知の未来には困難が当然ともなう。この困難に耐え、その苦痛を忍耐することがないと、創造はできない。苦痛への忍耐は、創造・生成を実現していくために必須の心構えとなる。未来を創造していく卓越した人間には、苦痛への忍耐が必要であり、この忍耐の堅持において、人間的尊厳は輝く。
6-7-8-3. ひとは、個でありつつ類的全体に生きる
人間を含めて生命は、環境世界に対して、独立した個として生きている。その個体の生の有機的諸組織は、手とか足がそうであるように、生個体の部分として整然と、一全体としての個の営為のために統一的組織的に動く。手足という部分は、自立することなく、全体の動きに合わせてこれの統制下にある。統一的全体をなすこの生個体は、自立的に動くが、その個を集合させた大きな一全体をなすこともある。その集合的全体のもとの個は、一生命の手足のような部分とちがい、個として自立的で自律性をもって動くことが普通で、全体の部分には還元されない独立性をもつ。しかし、個だけで単独で生きる生命体もあるが、その類の再生産のための生殖、養育の活動はもちろん、個の生の維持のためにも、大なり小なりの集合的全体をもって生きていくのが一般的である。
全体と個の在り方では、個の営為をさほど縛らない緩やかな全体もあるが、多くは、個をその全体の部分品、消耗品扱いする。アリやハチの場合、個は、一全体の従順な部品に近く消耗品扱いとなる。個の独立は、希薄であり、全体から離れた場で、その個の孤立状態において個体維持に動く程度であろう。その所属の全体からの独立・自律の動きは持たないのが一般である。全体あっての個であり、全体が個に先立つといってもいい。だが、人間の場合、個体は、その行為の意思のレベルからして、全体(共同体)の部分としてのみ動くのではなく、その個体自身の生のために動くことが一般である。全体からの自由を有する。人間は、自然を超越していて自由であり、その所属の全体からも自由である。全体あっての個であるけれども、個が先立ち優先的であるのが人間の特質であろう。
人は、理性を備えた類的存在であるが、個としては、全体とは異なる各自の固有性をもち、その土台には自然的生命体としての食や性の欲求も有している。この個独自の欲求・衝動は、全体の求めるものとは相いれない状態になることも生じる。個として自律的で自由であるから、全体に反する意思も当然もつ。自己内で、全体的理性意志と、個体の個別的反全体的諸欲求との背反する状態になることが生じる。自己内で個と全体が葛藤することになる。原則的には、個のうちの良心が個の利己的な欲求を抑制して理性的なふるまいをとるが、命に関わるような事態に際しては、個の欲求・衝動は強力なので、良心・良識をないがしろにして、個のエゴを通すようなことも生じる。全体を代表する者が、個を尊重せず無暗に犠牲にするような場合、自律自由の個的主体は、全体の理不尽な命令には従わず、逃走や反乱をもって個を優先するようなことにもなる。
個と全体・類の葛藤では、類の求める営為が理性的合理性に則っておれば、個は、その生への欲求を抑止して、葛藤状態になっても、普通には類的なものをとるべきことになる。反乱・革命は時の全体・政権に背くが、それは、より公正でより普遍的な全体の理念をもってするのである。個は、根本的に類・全体の個であり、理性的で、良心や良識を内在していて、道理のある類的な営為を貫徹するように努める。そこに、理性をそなえた人間の尊厳がある。磔刑になったイエスは、人類のための犠牲になるべきことを自覚して、最期を迎えた。人を神に結ぶ媒介者となるべく覚悟して全体・類に死ぬことを意志した十字架上のイエスである。だが、かれは、「神よ、私を見捨てたのですか」と個的人間としての弱みを吐きつつ死んだ。個としては生維持の欲求を強くもち人間として葛藤しつつも、イエスは、全体のため類のためにと意志をつらぬき、その身を投げ出し犠牲となった。自らを神と妄信した人だったが、その志は、尊いものであった。
6-7-8-2. 内心と外的表出の間での葛藤
人の内面・心は、動物的衝動・本能を有しつつ、その上にこれを制御する理性的意識をもって存在している。その外面は、余所行きの装いは、見栄えを気にし、人間的尊厳にふさわしいようにと心を使い、理性的に取り繕ったものとなる。外的な装い・表出は、内心・本心とは異なったものになることしばしばである。内の本音を言えばよさそうなものであるが、ひとは、両方を峻別して生きている。表向きは、発言しているようなことになるべきだと思いつつも、内心の赤裸々なエゴの欲望は、これを否定し、むしろ反対になることを求めているというようなことで、葛藤する。内の本心をそのままストレートに出したのでは、うまくいかないことが多い。ひとの感情など、其の場その場で目まぐるしく変わり、ときには、過激な鬼畜の欲望をもつような瞬間もある。しかも、一旦外に発言したものは、それが一瞬の過激な感情だったのだとしても、当人の真の思いはそこにあると固定されもする。うちに生じたものを不用意に出してはならないということになる。「お前のようなえげつない奴は、二度と顔を見たくない」とその時の過激な一時の感情で発言したら、そういう思いは、ほんの瞬時の過激な思いであったとしても、外に発言したとなると、その発言が本心と見なされ続け、おそらく、そう言われた者は、二度と顔を出さないことになっていく。うちにとどめて黙しておくなら、その思いは(外的には)存在しないものとして、穏やかな関わりを維持可能とする。うちにある思いは、そとに発言するものとは区別して、しっかりと内心にとどめておくべきことになる。
ひとは、内外の違いに葛藤しつつも、その内面・本心を出さなければ穏やかに済むのであれば、うちから生じてくる過激な思いを抑止しつつ、表向きの冷静な思いや行動をとろうと努めることになる。エゴとしての個の思いを抑止しつつ、全体から見て正義となることをしぶしぶ語るというようになるのが普通である。が、場合によると、うちの思いが真実正義だというようなこともある。しかし、それを出しては、ことが荒立つということで、理性は、内面において正義と思いつつも、これをそとには出さないでいるようなことも生じ、葛藤を重ね悶々とするようになる。
外的な表現は、普通には、内にある自己を(屈折しつつも)外化するものであろうが、逆になることもある。外的事情が、自身の内面・外面を動かし、外的環境しだいで、内面をなす生き様自体も異なったことになる。その本心においては、おだやかで、他人思いでやさしい者であっても、外的事情しだいでは時に犯罪者ともなっていく。悪人になるか、善人になるかは、かなりが、外的事情によることで、相当に自身をあくどい心性の持ち主と自覚していても、恵まれた環境で、この上ない善人として生きることもあれば、優しい心性に富む者でも、環境によってはひねくれた悪人になってしまうこともある。善悪両面を具有しているのであり、可能性・素養としては、どのようにも現実化するものをもっている。
のちに大作家となった吉川英治が、親が病気で自分が稼がねばならない惨めな少年であったとき、切羽詰まって他人の畑のジャガイモをたくさん盗んできて、しばらく生き延びたというようなことを述懐しているが(『折々の記』「罪と新ジャガ」)、環境しだいでは、誰でも、そういう悪事に手を染めることにもなろう。したがってまた、環境がよくなれば、当然、そんな泥棒などせず、やがて、多くの大作をものにして国民文学作家と言われるような人物になっていったのである。あるいは、大会社の社長のようなトップに立つひとは、それこそ、吉川英治などとはちがい、人を蹴落として上に這い上がった者であればおおむね極悪のエゴイストのはずだが、皆穏やかで仏や菩薩であるかのように振舞っているのが普通である(窃盗や恐喝の傾向の強い人間のはずだが、もう大金をもち権力をもっているから、そういう類いの悪には手を染める必要がないのである)。人並外れて邪悪な者ですら、恵まれた地位に立てば、多くの場合、人格者としてふるまえる。ひとは、理性的存在として良心・良識を具備し、善悪を判断し、価値あるもの・善を追求する本性をもっている。悪を避け、善を求め、より良いもの・価値ある生き方をしようとする。邪悪な性向を有していたとしても、理性的制御をもって、動物的個我的な内面を抑え、人間的で普遍的合理的な体裁を整えて、卓越した生き方を各自において模索できる。それが、尊厳を有した人間の生き方である。
6-7-8-1. 動物的生を支えとした精神的存在
ひとは、動物でありつつ、それを土台にして高度な精神的存在となっている。その動物的生を放棄すると、同時にその上にそびえている精神的生も消滅してしまう。常に、動物でもあることを踏まえていなくてはならない。精神的に卓越した存在でありつつ、同時に、どちらかというと弱虫の動物なのでもある。基本、精神的に生きるのであるが、つねに動物的なものによって制約されたり、支えられたりしているのであり、動物でもあることを忘れることはできない。動物的な食や性は、人間的生活でも、大事な営みとなる。男女の性が社会的生活に肝要な事態となることはしばしばである。食も、自然を踏まえて、その社会と時代によって相当に異なったものとなっている。その動物的な食や性の欲求は、人間の基本欲求となり、精神生活のうちで、多彩な展開をしており、単に喉を潤すお茶でも、茶道となって、精神を豊かにするための手段とされたり、性欲は、しばしば、芸術のための素材となり、創作意欲をつくりだし、鑑賞の意欲を誘うことになっている。
だが、その動物的欲求は、精神固有の営為とは別であるから、純粋に精神的生の展開にとっては、妨害となることも生じる。宗教では、動物的欲望を抑止することが大きな課題となりつづけた。性欲を抑止することが教義において求められるが、生身の動物でもある聖職者のこと、しばしば異常な性愛にふけるようなことにもなった。性欲を、堕落させるものとして否定しつつ、生きている限り無化しきれるものではないから、精神的生の純粋な生き方をとろうとする者は、これと葛藤を続けることになった。それをほどほどに抑止して、精神的生を高度に保つことが日々求められたことである。性欲を抑止し独身で仏につかえる僧侶が、お気に入りの小僧を性的な慰みものにすることもしばしばあった。キリスト教世界でも似た性的な逸脱がかなりあった。身体がなければよいのにと何度も思ったことであろう。あるいは、隣人愛に満ちた聖人で通っているひとが、弱虫の動物として自分を偏愛するようなこともあった。聖人マリア・テレサは、自身が運営する医療施設では、病者の苦痛には、「イエスがそうであったように耐えなさい」と厳しかったのに、自身の苦痛については、これを回避しようと高度の医療を受けて甘く、矛盾していたとかいう。彼女は、身体が自分を悪魔にしてしまうと思ったことがあったに違いない。
性欲を絶つことはそれほど困難なことではない。異性のいる社会を離れれば、簡単にこれをなくすることができる。厳格な刑務所に入れば、食欲は依然健全だが、性欲は簡単に消滅するという。食欲は、一人になっても、生きている以上抑止できないし、抑止し続けると死となって、精神的生活自体を土台から破壊してしまう。ほどほどに食を充足することを踏まえつつ、精神的生の営みをそのうえに展開することになる。なくて済ませれば、動物的に他の生を犠牲にすることもないのであるが、何らかの生を殺めつつ生きることを受け入れる以外ないのが人の生である。人の尊厳は、動物的自然を超越した至高の存在であることにあるが、単に超越していてはなりたたない。常に、動物でもあることを踏まえておかねばならない。そこでの尊厳は、動物的生に流されることを抑止して、これを人間的精神的生のために生かすことで可能となるが、逆になりがちである。美酒・美食にのめり込んで非尊厳に陥ることになる。だが、そのような非尊厳状態を反省できるということは、それを脱して尊厳を回復できるということでもある。ひとは、自身を、尊厳を有した者と自覚しており、そこで動物的欲求に振り回される状態を悪しきこととして、その理性は自律自由を自覚しこれを克服していこうとする。自身を振り返り反省することができる。人間的尊厳を回復しなくてはと前向きになり、より確かな尊厳へと自己の生成をはかる。