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2025/12/11

世界観を創る苦痛

7-3-1. 動物的生の存続を、苦痛の有無で確かめることがある   

 生命体としての生き物、生物は、大きく動物と植物に分けられる。動く物が動物で、動かず植わっている物が植物である(ただし、生物の中には、ミドリムシのように、葉緑体をもって光合成して植物的であり、かつ鞭毛をもって動いて動物的な、「動植物」も存在する)。その動物が、動くとき、その末端の手とか足になるようなものが、あるいは、体の前と後ろとが、別々に動いていたのでは、ひとつの動きはできず、ひとまとまりの整然とした対応はできない。それには、その生命体全体を一体的に動かすものが必要である。これを担うのが中枢である。末端への連絡を神経系(遠心性神経)が行い、一つの生命体としての運動を可能とした。かつ、その中枢は、同時にその動きのためには末端からの情報を感覚(求心性神経)でもって有しているのでないと、適正な運動は不可能である。熱いものに触れたとすると、これを痛覚で損傷としてうけとって、これを回避する運動をすることとなる。そのことで生は、おのれを保護することができた。

 動物は、感覚をもち、これを中枢に伝達して、逃げるとか攻撃する等の運動を行うが、そこでの感受し反応する有情の情の根本は、快不快であろう。そのうち、快は、事がうまくいっているときの感情として、動くことがなくても、或いは、動くとしても、切迫的なものでなくてよい。だが、不快、その強烈な苦痛は、この苦痛の事態を回避することへと火急の反応をもつことをその生に強制する。そのように反応することで生はその生命を保護・保存できるのである。動く物であることが動物の根本特性であり、苦痛が感じられなくなった動物的生命体は、その存続があやうくなる。苦痛になって何はおいてもこれに反応してこれを回避するようにと運動するものは、生きのびるが、その苦痛を感じられないものは、生を危うくする。痛みを感じることがその生にとってはもっとも大切なことであり、その存在は、苦痛を感じる存在、「痛むもの(res dolens)」だということができるであろう。

快はなくても痛みがあれば、その生はおのれを全うすることができる。動物は動く物だが、動くことが必須であるのは、なによりも苦痛に対してである。快であったり、感じるものがなければ、そこに不動になっていてよい。動く物でなくてよい。だが、苦痛に面しては、これを回避するために、逃げるとか排撃するとかして、かならず動かねばならず、動く物の本領を発揮しなくてはならない。苦痛が動物であることを証し明かす。有情の根本は、痛みを感じることだといってよいであろう。生あるものは死をもって終わりとし、日々、死に抗して生きている。苦痛は、この死、生の損傷を知らせる感覚・感情であり、苦痛(死)から逃れること、これを回避することで、その生の維持・保存は可能となる。

 生きているかどうかを、苦痛を与えて判断することがある。厳密には別の詳しい判定がいるが、動物として生きているとは、苦痛を根源に有した状態だということを踏まえてそうするのであろう。高等な機能は、消失していたとしても、苦痛の反応は生の根源的な反応として、これが残っておれば、生きていると判断できる。快不快の感情のうち、高度なところからもっとも原始的で根源的なところまでに存在しているのが苦痛であり、この苦痛を与えて反応があれば、なお動物的に生を保っていると判断できる。ただし、植物は苦痛を有さないから、その生の判定は、動物的生ということである。人を植物人間(person in a vegetative state)になってしまったと言うことがある。それは、動物に根源的な苦痛すら感じられない、意識の全く機能しなくなった状態を指す。苦痛を感じえず植物神経(自律神経)のみの植物状態(vegetative state)になったものである。 

2025/12/04

世界観を創る苦痛

7-3. 苦痛をふまえて生きる人と動物  

生きて動く物は、苦痛をもつ。だが、生命はあっても、動かない物、植物は、苦痛をもたない。植物は、大地に根を張って静止状態で、接しているものをもって同化し異化して生きる。そこに定着しているので、外界が変化したり脅かしても逃げられない点においては、なされるがままとなる。植物は、植わった物である。これに対して動物は、動く物として、食べ物等を求めて探しまわり、かつ自身が侵害されることに対して、これから逃げたり、これを排撃したりと、能動的に動いて身を守りもする。生体が動くためには、その動きを担う諸末端と全体を一体的に動かす中枢をもって、この中枢は、末端の損傷には苦痛を感じる痛覚をもち、その損傷の危機的状態を把握することが必要となる。生が順調で保護されている安全な状態では、快をいだき、一層の生促進にと快はアメともなった。苦痛は、逆にムチとなって、危機に覚醒し集中した対応をとることとなった。

日本語の世界では、動物と人間は、同じ「有情」と捉えられる。植物的生とはちがって、情を有した、つまりは、快不快の感情を持ち、苦痛を持って動く存在として貴いものとみなされている。石や樹木は、それを「ある」というが、犬もひとも「ある」ではなく、「いる」と別格扱いする。ひとも動物も、苦痛をふまえて、自らが動く有情の存在としては同一ということである。仏教は、あの世の安楽に対して、この世を「苦界」と捉えた。人も動物も皆、苦痛の存在だということである。ひとは、快苦を有する、この有情の動物の頂点にたつ。日々は、ひとも動物的な快苦を中心にして動く。かつ、それを超えた快不快の上になりたつ超自然的な営為としての精神的な領域を確立して、動物的な自身をそれに従えて至高の存在との自負をもって生を展開している。快苦のうち苦、苦痛は、精神世界でも大きな意味をもっており、精神にのみある苦痛である絶望とか不幸感等によって、ひとは、強く押されて動く。快の方は、あまり意味をもたなくなって、生促進については、快によるのではなく、精神的世界での価値あるものによって、これを確保することを目的にして動く。経済的価値、財貨の獲得をめざし、精神的な価値の真善美等を目的として、その手段として苦痛の甘受が必要なら、苦痛から逃げず、これを耐え忍んで、輝かしい目的に向かおうとつとめる。

ひとが動物と異なって尊厳を有した至高の存在となっているのは、理性を獲得して普遍的な概念世界、精神世界を構築したところにある。自然因果の世界を超越して目的論的な生き方ができることになったのである。未来に目的を描き、これを得るためには、手段として苦痛を受け入れることが必要と分かれば、ひとは、この苦痛から逃げず、苦痛を甘受しこの苦痛の手段を実行して、目的としての価値を獲得できることになった。自然のままに苦痛を回避したり攻撃して排除するだけではなく、ひとは、必要なところでは、超動物、超自然の行動を起こしえて、苦痛を甘受し、忍耐することができる存在となっている。人は動物として「苦痛の存在(res dolens)」であるが、さらに、理性・知恵をもった者、「知恵の人(homo sapies)」として、この苦痛を甘受し、苦痛を「忍耐するひと(homo patiens)」となっているのである。

2025/11/27

世界観を創る苦痛

7-2-7. 痛みにとらわれたマゾヒズム・サディズム  

加虐趣味も被虐趣味も、苦痛への常識的対応から外れている。だが、それは、生一般に関してではなく、性的快楽の手段に苦痛を採用する悪趣味に限定して言われてきた。それにしても、お互いが愛し合い慈しみ、快を与え合う性愛であろうに、サディズム(加虐性愛)・マゾヒズム(被虐性愛)は、その逆を、苦痛を与えて満足し苦痛を受けて快の興奮を得るということで、痛みにとらわれた特殊な「痛む人(homo dolens)」である。

そういう性的快楽とは異なった、被虐の幼児体験に由来するマゾヒズムもある。親からの苦痛を受け入れることで親とつながりえて、死なずに済むということが重なれば、受苦に愛情の欠片を見出すことになる。ちょうど、プロテスタントが、世俗の辛い仕事を神からの辛苦の使命と解することで、辛いほどに、それだけ神から見込まれ、しっかりした使命を与えてもらえているのだと思い、神との強固な結び付けを見るのと似たものになる。親から虐待されるほどに、親から見捨てられずに安心できるという心的機制になっているのだと言われる。

被虐には、自分で自分に苦痛を与える類いのものもある。リストカットの自傷行為は、それで自己が直接、快を得ようとしているものではなかろうが、その方面の研究では、腕を切っての苦痛は当然あるが、脳内には快楽様物質が分泌されているともいう。自罰は、自己が自己に苦痛を与えるが、これは、普通は、合理的なもので、自己への被虐とは、別にされるべきであろう。悪しき自分を自己内の(社会的規範を内在化した、決してエゴに贔屓などしない)良心が罰する。自分を責め自分を自身で罰するが、あるべき処罰であって、虐待、被虐ではなかろう。殺人犯のレイプで生まれ、母親にも捨て子されたと知っている者が大きくなって自虐的自罰的になった場合、自己をなす人格(魂)は、自己内の憎き父・母を身体に見出してこれを痛めつける自虐が生じるかも知れない。身体の痛みをもって、そのひと時、魂は鬱憤を晴らして落ち着きを得る。せつない「我痛む 故に 我有り(doleo ergo sum)」という我(魂)の存在の感得となる。

 生理的快不快と、精神的なそれは、同一人の同じ場面に反対の感情を生じることがある。自虐・自傷では、生理的には自らを傷つけて苦痛なのだが、それが精神的には快になるようなことがある。レイプなどでは、逆に、屈辱的な事態に精神は悲痛であっても、生理的に恥部を刺激されて生理的な快楽をいだいてしまうことがあるという。男子がレイプされるとき、自らのもとで勃起し射精したのなら、快楽を得たのであり、レイプといえるのかとほかの男子は思うことがあるが、やはり、意志に反しての勃起であり、自身の身体への嫌悪感も加わって精神的に大きな屈辱体験となるようである。 

 サディズムは、加虐性愛と訳されるが、性的なものに限らず、加虐愛は多そうである。本来、異性生殖では、優秀な子孫を残すために、オスは、弱いオスを排除して独占的に強者が生殖行為をするようになっている。ひとの性的行為もその延長上にある。その原始の攻撃的心性をより強く残しているのが性的なサディストなのであろうか。

 しかし、加虐的な心性そのものは、人間社会では、原始以来、いたるところに蔓延っている。社会的地位を争い、冨の独占を争い、自他の優劣のマウンティングを、動物以上に頻繁に行っている。人間は、生理的にはかなりが同じ能力をもつ。差異がはっきりしないので、なにかあると、競争・闘争をもって、わずかの差の決着をつけようとする。人の場合、加虐・被虐は、見るだけでも、想像力たくましく、その気になって、これに興奮する。テレビなど、実際の戦いには加われない傍観者の位置にいながら加虐を楽しむ人は多い。サディスト、いじめることに快感をもつ者は、生理的身体的なものに限定されることではない。社会的精神的世界にも、それは満ち溢れている。今年の日本のノーベル化学賞受賞の北川先生は、海外での研究発表で多くの参加者から罵倒され、夜ひとりベッドで悔し涙をながしたことがあったと述懐している。そういえば、iPS細胞の山中先生も、臨床医であったころ、手術などの要領がよくなかったのか余計者扱いされて「じゃま中」とあだ名をつけられたことがあったとか。その分野のトップの人ですら、加虐の犠牲にあっているのである。ましてや、一般の者は、である。

 

2025/11/20

世界観を創る苦痛

7-2-6. 悲観主義-痛むひと (homo dolens)   

 この世界には、同じ条件下にあっても、これに楽観的楽天的なひとがあり、逆に悲観的なひとがある。楽天・楽観主義(optimism)とは、「最善(optimus)」がなると想定する傾向のひとであり、悲観主義(pessimism)とは、「最悪(pessimus)」が生じると想像する傾向の強い人になる。楽天は、楽観と並ぶ。同じ意味合いであろうが、別の言葉をもってする以上、一応の区別が感じられてしかるべきで、あえて区別するとしたら次のようになろうか。楽天の方は、天、天命とか運命という、この世からいうと偶然に属する事柄とか、自分たちが自由にはできない物事を、気軽気楽にかまえて気にしないで楽しむことであろう。楽観は、観とおす未来の未定・未知の方向に関して、これを気楽に肯定的にうまくいくと観る傾向の強いことを指すのであろう。楽観的な人は、未来に希望をより多く見出すひとになる。逆の悲観的なひとは、その反対である。未来方向を観るに、希望よりは、絶望の方を、悪いことになる方を気にしてこれにとらわれる者になる。過去方向について、楽観は楽天でいうだろうが、悲観の方は、悲天といわず、同じく悲観的という。過去未来にかかわらず、要は、理解・解釈であり、何にせよ悲色の眼鏡で観るということであろうから、悲観ですべてを言うといいのである。楽天を言うのは、観るときの好都合な方への肯定的楽観的解釈ということよりは、生きざま全般について、性格的なものとして、気楽な構え、ノー天気、のんきさが身についているということであろうか。 

 同じ事態を悲観的にも楽観的にも解釈できるということは、基本は対象世界の問題ではなく、観る本人の姿勢の問題だということである。いうなら、同じ世界について、違った色眼鏡でこれを観るのである。陰鬱な色眼鏡で見れば、世界は陰鬱に見える。明るい眼鏡なら、明るく見える。当人の姿勢・生きざまの問題ということである。ひねくれて敵対的に社会を見る者もあれば、お人よしで、だまされ続けても本性からの悪人はいないと思って生きるひともいる。病気で一時的に世界観が悲観主義になることもある。鬱病になれば、暗い色眼鏡をかけるのと同じことになって世界は陰鬱なものに観えてくる。いわば、生理的に悲観的になってしまう。

快不快では、快は、すぐに消えるし、同じ快は繰り返すと快ですらなくなっていく。逆の不快・苦痛は、わずかなことでもすぐ生起するし、これが有る限り意識を占領しつづけ忘れることなく持続する。大きな苦痛が生じると小さな苦痛は消えるが、その大きな苦痛が終わったらまた、消えていた小さな苦痛が浮かび上がってもくる。足を踏まれた者は、その苦痛にあったことを、ながく忘れることがない。だが、快・喜びは、感謝感激だった恩すらも、すぐに忘れる。ということは、ひとは、苦痛にとらわれる自然にあり(生保存には、破壊を知らせる苦痛はなにより大切である)、損傷・喪失の感情である悲しみ、悲痛を予期しがちともなる。悲観主義になるのが普通ということになろう。仏教は、この世界を本源的に苦界になると見た。ひとは、「我痛む ゆえに 我有り(doleo ergo sum)」であり、「痛むひと(homo dolens)」と言っても良いであろう。ひとは、生の損傷の苦痛を気にするのが普通であり、これを気にせず、気楽に構えているのは、むしろ特殊ということになろうか。悲観とちがい、楽観では、楽天を別に言う。楽天は、「我痛む」の苦痛の悲観主義になるのが普通の「痛むひと」の中で、そうならず、苦痛になろうことに注意するよりも、快や楽の方に目をむけて、世界はうまくいっていると感じる特殊な者として際立ち、ことさらに楽天という言葉をもってするのであろう。

自然を超越した理性意志の溢れる魂のもとでは、自身を襲う苦痛に反発しチャレンジ精神を鼓舞することにもなる。苦痛を乗り越え挑戦する者は、価値ある目的に向かうのであり、勝利の楽しみを未来に描いて実現しようと挑戦する。その限りでは、「楽しむひと(homo laetans)」となるのである。だが、失敗に終わることも多々ある。その間、苦痛・悲痛の思いにとらわれることでもある。「痛みのひと(homo dolens)」に舞い戻る。しかし、その痛みをばねにして再挑戦する。痛みは、自身の限界だと消極的になるのではなく、乗り越えていくべき跳躍の場だと、奮い立つ。ひとは、これに耐え、これを乗り越えて前に進むというチャレンジ精神をもつ。理性をもって耐え忍んで未来に生きるのが人である。ひとは、本源的に「痛むひと(homo dolens)」であるけれども、その理性存在のゆえに苦痛への「忍耐のひと(homo patiens)」なのである。その精神・意志は、その苦難への挑戦を生きがいとし、目的という価値獲得を楽しみとして楽天的で、「楽しむひと(homo laetans)」になっているのでもある。

2025/11/13

世界観を創る苦痛

7-2-5-6. 情報革命は、やがてエゴ・感性を浄化して、新人類を創成する  

情報社会の発展は、まもなく、人の生を、その動物的感性からして根本的に変えていくことになる。豊かな自然と社会に囲まれ、死をまぬがれて永生の欲求が充足できる等、人の自然感性は、余裕綽々で穏やかに理性と共同協調していくことが想定される。富みの不足に由来するマウンティングをもっての差別・収奪とか、自立精神欠如の幼児的退行をもっての虚妄の神への拝跪などしなくなるであろう。動物的な欲望・感性に由来する現代の悪の諸問題は、『創世記』のいう、知恵と永生の二つの禁断の木の実を食べる近未来においては、なくなっていくことであろう。

情報革命の先行きに悲観的なひとは、情報機器をもっての人工の知恵が人間を超えることを心配するが、何より、目の前での、感性的な邪悪な心性による高度情報の利用で地球の滅びる可能性が大きくなっている方を心配するべきである。それをしないと、エゴ・動物的感性に由来する悪は、知の悪用で巨大な力をもつ。人類破滅を一人の邪悪な人間が試みれば、実現してしまいそうである。その悪の暴走を食い止めることができるなら、未来は明るい。生命科学の発展は、直接的には、生老病死の宿命から解放するだけだが、情報革命は生老病死の苦をなくするだけではなく、物質文明を飛躍的に高めて、富が生活を十分ささえ、貪欲を無用化していく。エゴの貪欲が無化していけば、他者のものを奪うような悪行は消えていく。おそらく、永遠の命がなるようなところでは、各自の感性は、余裕が有って穏やかとなり理性的な制御もきいて、強者の動物的なマウンティングとか、弱者の宗教的麻薬への依存・執着などもなくなっていくであろう。

 情報革命途上の現代社会は、どちらかというと感性自然、動物的欲求の方に振り回され、高度情報は、その便利な道具になっている面が強い。情報社会のごく初期には、バラ色に描かれた未来であったが、現在は、ウェブは、動物的欲求を満たすための道具に堕しているのが目につき、諸悪がこぞって情報の悪用に走り出し、関係者は、それの禁止・摘発に、大わらわである。知らない電話には出ないのが常識になっているほど、詐欺などがウェブには蔓延している。ウェブに精通しているのは、まずは、犯罪者だといいたくなるほどの、エゴ感性の道具になっているウェブの堕落ぶりである。 

 しかし、情報革命の一段落するころには、おそらく、知恵・理性の方面が一層卓越したものになるとともに、動物的自然の命の方面でも、動物を超越した新たな局面が開けてくる。もうすでに、老化抑制対策が進み、病気もかなり克服されつつあり、永遠の生命をいうことができつつある。生老病死の苦悩は消えていくであろう。そこでは、『創世記』の二つの禁断の木の実の話でいえば、知恵の木の実を食べた人間が理性において自然を超越したように、永遠の命の木の実も食べた状態になって、動物的自然生命を超越することになる。動物的な快不快の感性・感情・衝動といったものが、いまは、エゴの欲望のもとに悪の源となっているが、おのれの生、個我のために他を犠牲にといったことはなくなって、穏やかで仁・愛にあふれたものとなっていくのではないか。経済的に豊かになれば、詐欺・強盗などしようという気になる者はいなくなるであろう。性犯罪が今は多いが、女性が出産から解放されれば男女の違いは希薄になり、異性を意識する度合いは小さくなって、刑務所では食欲とちがい性欲が消滅していたように、性犯罪は根から絶たれるかも知れない。永遠の命を得て、豊かな生活で余裕綽々のもとに、感性が、惻隠の情、仁の姿をとるものとなっていけば、いまは盛んな情報の悪用なども稀有の事柄になっていくことであろう。動物的自然感性を超越して、それに発する欲求・感性・感情が、粗野な自然状態を超越しておのずからにして理性的制御のもとにたつことになるのではないか。「心の欲する所に従えども、矩を踰えず(從心所欲、不踰矩《己の欲望に従いながらも、道を外れない》)」(『論語』「為政篇」)という理想である。『創世記』の語った二つの禁断の木の実、知恵の木の実とともに、命の木の実をも食べた新人類の創成である。

  

2025/11/06

世界観を創る苦痛

7-2-5-5. 人類は、なぜ、存在しない神に支配され続けたのか 

哺乳動物の子は、母乳でもって親に育まれて成長する。特に人は、未熟猿として生まれ、親にまずは全面的に依存してのみ生き延び得るから、親への依存心が強い。成長とともに自立して理性的にというが、自立は自信がなく、不安になり、苦痛になる。それを逃れて依存の快に走る。子供は親に頼り、親は祖父母に頼り、祖父母は(祖先)神を頼む。

身近な者が死んでこの世には姿を見ることができなくなっても、夢に出てくれば、この世とは別の霊界を想像することになった。ひとは、死んだ親からさかのぼって自分たちの祖先神を創造して、これの声を、神の憑依した巫女などから聴いて、それに従うことともなった。それが、拡大して、地域の氏神となり、さらには、国家にまで広がった神になって、組織だった神職が出来上がって、神の命令と称して、神の代理人としての聖職者とか王が、民を支配することとなった。この支配を好んで受け入れたのは、なによりも哺乳類としての親への幼児的な依存心であったろう。この依存を踏まえつつも、動物的恐怖もまた、豊かな想像力をマイナス方向に働かせて、邪悪な神を創り出した。それが自然を支配していることを想像した。善悪両面を具備した自分たちの神である。世俗の王も、同様に、親のように自分たちを守ってくれるということと、毒親として自分たちを支配し抑制し収奪するものの両面をもったものであった。

自立精神旺盛な現代でも、一部の信仰者は、自己を、神というかその代理人の教祖あたりに投げ出して、麻薬使用と同様に虚妄の安らぎにのめり込み、教祖たちの恰好の餌食になって、抜け出せなくなることがしばしばある。信者の、神仏、あるいは自身をそう称する教祖への依存は異常で、真実ではなく虚偽であろうことも自身でごまかし隠蔽して、これに帰依して安心を得ようとする。真実ではなく、知ではなく、信(宗教の場合、存在しない神を大前提にするので虚妄で固めて、かならず妄信となる)をとる。動物的依存の心性をもって虚妄の神のもとに理性的普遍世界をゆがめ転倒させて、これに幼児のように頼り切り拝跪する。

宗教組織でもマウンティングは強力で、神の代理人あるいは神と称する教祖や神職の信者への支配は親の幼児に対するように絶対的で、信者の方は、そのマウンティングされることにおいて自身は見捨てられることなく安堵できているのだと、その被支配(=「自由からの逃走」)に自己を投げ出し安住することになっている。自律自由の人間からの退歩・逸脱、幼児化のきわみである(王や教祖はマウンティングの獣性を満たし、その被支配者・信者は、マウンティングされて見捨てられないことに安住する。サディストとマゾヒストがお互いに補完しあっているかのようである)。それだけならまだその宗教組織内の悲劇にとどまることだが、その支配欲を現実世界全体へと拡大すると、教祖らの妄想に当然、健全な人々は従わないから、教団は、これを邪鬼・悪魔とみなしてその退治をと大量殺害等に走ることになる、教祖たちの邪悪な企てを信者は、妄信して、人類を絶滅させるような企てに全力を尽くすことになるから、その宗教的妄念は、巨悪中の巨悪となりはてる。教祖は、自身を含めた神は虚妄で無力とよく知っているので、世界を破壊するためには神を頼むようなことはしない。合理的な科学の力を悪用して、化学を習い猛毒の物質を極秘に生産し、物理学に原爆製造を学んで、邪悪な現代人は残らず始末しなくてはならないと、妄信する信者を使って狂気の犯罪を実行するようなことになる。

2025/10/30

世界観を創る苦痛

7-2-5-4. 人類史は、虚焦点としての王の過酷な支配の歴史だった  

 理性の制御・支配が貫徹されれば、組織された集団の運営は、尊厳を有した人間同士のことで合理的にスムースに行いえたであろうに、母体が大きくなるほどに、そうはならず各成員を無視したリーダーが上に立って、非合理で過酷な支配をすることになった。全体の上にそびえるようになった神や王が人々を集合させて組織を動かした。存在しない共同幻想の神をこの世の支配主体とし、神の代理となる王を虚焦点にしてこれを社会的組織の統一の要とした。焦点となる神や王は、絶大な力を有したが、それは、国民が有した力であり、この力をあたかも神や王の力かのように錯覚させた。この超越的な神、その代理の王のもとで、傲慢な支配者と卑屈な被支配者となって定着したのが人類の長い歴史であった。 

人類史は、虚妄の神への拝跪、横暴な王への隷従の歴史となった。その根本は、『創世記』の語る二つの禁断の木の実のうち、知恵の木の実を食べて理性をもったにもかかわらず、命の木の実は食べず、動物的感性的生を続けてきたことにあるのではないか。快不快にやはり囚われ続けており、群れのうちでは動物的な弱肉強食のマウンティングが人でも目立つ。マウンティングは、動物的な生存競争の日々の営みにあるものだが、ひとでも、これが強く、暴力・収奪の源をなしている。自由、平等、無搾取の社会をモットーにした共産党でも、民主集中(中央集権制)という制度をとって、権力を手にすると例外なくどこも非情の独裁となり、粛清の恐怖政治となりはてた。驚くほどマウンティング(勝者・敗者の厳格な秩序)の強い人類であることを思い知らされたことである。ゴリラやチンパンジーのボス支配と同様なものを続けているかのようである。餌にまずありつくのは、強者だと、動物は優劣の順をつけるが、ひとでも、同様で、富と名誉をわがものにするのは、まずは強者だと、組織的に上下の違いを厳格にし、その極に奴隷制を存在させることになった。理性的に考えれば、人格に上下はなかろうし、尊厳を有した人間であることでは同等であるが、動物的には、上下・強弱の違いをはっきりさせてマウンティングを取りたいのである。それは、身分制・階級制となり、極端には人格すら認めない奴隷制となった。

現代の情報革命のはじめには、これで情報が万人のものとなり、格差はなくなって、自由平等の社会が実現すると夢を見たが、またたくまに、それは消え果て、今は、その情報革命の旗手たちが、世界の富を独占して、好き勝手をやっている。かれらの感性・動物的自然は、そのままであり、マインティングをとり、富と名誉の独占にいよいよ邁進している状態である。被支配者たちの力を王の力としていたのと同じように、作りだした新技術・アイデアを、過去の人類の知恵の集積、同僚の汗の結晶などとみるのでなく、そのトップ個人の力として、人類の知恵を支えてきた現代人を、過去の貪欲な商人をも呆れさせるほど収奪し、そのあぶく銭をエゴの欲望のために湯水のように使っている。ただし、昔は、頂点から順位をつけて、トップのおこぼれを順にもらえていたから、下には下がいるという差別をつけ下をみて、多数がマウンティングの獣性を満たせていたが、情報社会では、それは難しい。極端をいえば、独占的な特許権とか著作権のように、敏く情報を儲けの手段にできたトップか、それ以外ということになるので、トップ以外の圧倒的多数は、おこぼれをもらう余地がなく不満となり、マウンティング制の維持は困難となっている。最近、投資や情報産業などで大金持ちになった人が、意外にも、ベーシックインカム(国民全員への総生活保護制)で行く必要があると説くことが希でない(なかには、過激に、いまの生活保護をどんどん拡大せよという人までもいる)。おそらく、かつてのように無数の位階をもって支配を固め得ていた時代とはちがい、圧倒的多数が一律に仕事もなく惨めな生活を余儀なくされるとなれば、穏やかな社会は不可能となる。所有独占欲の愚を悟り、ベーシックインカムをする以外になかろうとの先見の明をもって、これを語っているのかと思われる。