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2025/03/06

苦痛に耐える尊厳

6-7-7-3. 過去からの自己を生き、創造的破壊・脱皮を反復し未来に生きる  

現代人は、地理的空間に関して地球規模に広がった日常生活をしている。身近にある物の出どころをたどっていくと地球の裏側から来たものであるようなことが分かる。また、時間的にも、はるかな過去を自分たちのもとに見出すことも多い。今使用している文字は、漢字であれば、中国の古代にさかのぼる。あるいは、アルファベットも日々使用するが、古代の中東を思い、さらに古代中世の文明に思いをはせることになろう。人類の経験を蓄積して現代が可能となっているのである。

 経験世界の拡大は、時空間にとどまらない。感覚的経験世界を踏まえつつ、それを超越した超経験的な理念世界が聳えたっている。感覚と理性との総合からなる世界が広がっている。そういう広大な世界を踏まえながら、各人は、己の過去を踏まえて現在に生きる。その現在は、誰とも代替できない天上天下唯一の実存の生である。しかも、過去から現在に生き続けてきたのみではない。未来が真の目指されるものとして、自身を駆り立てていく。真実の自己は、未来にある。未来に向かって目的を立てて前進し、さらには遠い未来をも目指して生きている。自身の前進は、過去を捨てること、自己否定することに始まる。現在の自己をも否定し破壊して、未来の自己へと、創造的破壊をもって生きる。チョウやバッタのように脱皮を繰り返して、過去を破壊・破棄して未来に人は生きる。未来の自己は、自己否定・自己破壊をもっての自己の実現であり、真実の自己への還帰である。

 無限大にも広がる世界に生きる人間であるが、それが可能になっているのは、これを阻害し妨害するものを除去し、これを乗り越えていくことがあればこそであろう。快で、好奇心を満たすことが駆り立てていく場合もあろうが、そこですら、妨害があり困難があるはずで、苦難・妨害を乗り越える姿勢がなくては広大で高尚な世界に至りつくことはできない。アダムは、神からエデンの園を追い出されて苦難の労働をすべき存在にされたというが、その苦難に耐えて働くという根本姿勢は、確かに人類の在り方である。苦痛を甘受し、これから逃げることなく忍耐するという姿勢である。それが、人を人としたのであり、尊厳の存在としたのである。

各人は、小さな唯一の実存を核にしつつ、広大な世界にとかかわりをもち、過去を踏まえ現在の瞬間に生き未来にと自身を歩ませる。それは、感覚感性の自然世界を踏まえ、かつこれを超越した精神的理念的な世界であるが、これは自身の獲得した理性がそれを可能とする。現在の各自は、理性的に未来を描き現在をその手段・プロセスと位置付けてそこに生じる困難・苦痛から逃げずこれを甘受し忍耐を重ねて、幾度となく自己否定・自己破壊、創造的破壊の脱皮を繰り返して、より価値ある自己の実現へと歩みを進める。ひとが至高の存在として尊厳を有したものであるのは、理性的に生きて広く高く世界を拡大してきたことにあるが、その貴く困難な歩みが可能になっているのは、どんな苦難・苦痛からも逃げないでこれを甘受する忍耐・我慢があればこそと言っても良いのではなかろうか。

2025/02/27

苦痛に耐える尊厳

6-7-7-2-1. 人知は、信をもって自身の限界を乗り越えることもある   

信は、妄想・蒙昧に人を閉じ込める信仰などとしては否定されるべきだが、信自体は、人間の知とそれに基づく営為にとって大切なものである。妄信・迷信・信仰は、虚妄・虚偽に追随したものとしては否定されねばならないが、信用・信頼・信念・自信等は、社会生活にとって大切な人の心構えとなる。ひとは、なんでも知ることができるわけではない。知では、把握不可能なことがあり、しかも、その知りえないものを、あたかも知った事柄として真実・事実として仮定し受け入れることがあってはじめて前に進めるというような場合がある。そこでは、知りえないから、信じることで代行する以外にない。

日常的に、信じることが価値ある営為となる場面がある。ひとを信用するとか、信頼するというのが、それである。未来の行為の約束は守られるかどうか不明であるし、第一、守ろうという意志を本当にもっているかどうかは、内心の事柄として知ることができない。それを、相手の言うことが真実だと(知りえないから)信じる。信じて用いる。信じるのであるが、なお、警戒心・懐疑心は、残しているのが信用である。特定の事柄の裏づけをもって、その限りで、これを信じ用いる信用である。日本では、さらにその上に区別して信頼を置く。その人格がしっかりしていて全力を尽くす人間だと頼りにできるのであれば、懐疑・猜疑の心は停止しして、その発言や約束を信頼する。信用できる人間は、どこにでもいるが、信頼できる人間は、高く評価された人物に限定される。信用・信頼の信の果たす社会的な役割は、未来に向けて生きる人間の間では、大きい。

自信や信念も各自の営為に大きな力となる。自分の能力・意欲等の在り様を、まだ、発揮してみないとどうとも言えないとしても(したがって、知りえず、信じる以外ないのであるが)、頼りにでき頼もしい能力なのだと自らに信じて自信をもつなら、もっている力はしっかりと発揮されることとなる。信念は、自身の指針・原理とするものを、間違いないものとみなし確信して(真実ではなく懐疑可能なものだが、これを信じ真として受け入れ)、これに与しこれに生きる信であろう。信念の貫徹力は大きい。自信も信念も概ね、信の有意義な在り方であろう。

虚偽で固めた信仰は受け入れがたいが、信者の信のもとでは、信頼や信念のような力を持った、首肯される類のものもある。イエスの起こした奇蹟は、最初の、水を酒に変えるそれは嘘かマジックであろうが、多くの不治の病を治す奇蹟では、病者の信が、知を超えたことを実現していた可能性がありそうである。イエスは「私を信じなさい。私のわざを信じなさい」と言い、これを素直に信じた不治の病者に「あなたの信が、あなたを救った」と言ったが、この信は、小賢しい自己を捨て、全面的に任せるという態度をとり、結果、自然治癒力などが大いに働いて救われることになった可能性がある。これは、現代でもそうである。偽薬が結構効くという。現代医学の粋の良薬と信じて受け入れれば、偽薬も相当に効果がある。任せ受け入れる直な信が、知を超える力を当人に与えることは、大いにありそうである。

 

2025/02/20

苦痛に耐える尊厳

6-7-7-2. 知は、信とちがい、神を懐疑し冒涜する    

『創世記』は、ひとが知恵を得たことに否定的で、これを、楽園からの追放を引き起こした人類の根源的な罪とみなした。これは、宗教としては、もっともなことである。ひとは、真実に生きる存在である。知恵(理性)をもって物事の真実を解明し、これに従ってひとは、合理的に生きるが、その理性知は、真実を追求するがゆえに、虚妄の宗教的信を否定し冒涜する。宗教にとって知恵は、禁断の実である。 

宗教に必須の心の在り方としての信、信じるということは、本来、知ることとは相いれないものである。信じるのは、知りえないものに限定される。知ったら、もう信じる必要はない。事故に巻き込まれて知人が死んだと聞いて確かめえないときは、信じる以外ない。だが、その死体を見知った時点からは、もはや信は不要である。重大な物事が存在しているらしいということがあっても、それが知りえない状態では、身の対処のしようがない。そこで、全力を尽くして知ろうとする。本当かどうかは、分からないから、知れるまでは、知りうる情報を収集しつつ懐疑することになる。知れば、懐疑は無用となる。本当か嘘かと分かる。だが、最後まで知りえないとき、これを確定して反応・対応するべきことがあると、あえて懐疑を停止して、これを真として受け入れるか、偽として排除するかを迫られる。そのとき、知的な懐疑のままを踏まえる者は、真とせず、不定か偽にととどめる。そこで真とは知りえないのだが、理性の懐疑を停止し麻痺させて、真として受け入れるのが(したがって、知からいえば、真でないものを真と主張するという点からは虚偽をかたるのが)、信じるという態度になる。   

知的な懐疑の心を有した人間は、真実を知ろうとする。その真実のための懐疑を捨てて、言われるものをそのままに真として受け入れるのが信じるということである。知りえないものは、懐疑心をどこまでも働かせるべき対象になるが、その知的営為をストップさせて、信は、成り立つ。知りえたものは、信じる必要などない。神が信じる対象であるとは、本質的に、神自体は知りえないものだということである。西洋では、絶対神の存在を証明しようと必死になったが、結局無駄な試みに終わった。神は、あるのかないのか知ることはできない。神を、「非合理ゆえに信じる」と言った者があるが、言いえて妙である。神の存在は、知では合理的には首肯できない非合理なものである。知としては神の存在を把握することはできない。知るのが不可能だから、信じる以外ないということである。知りえないとき、人知は懐疑を深めるが、有ってほしい願いを強くもつ者は、その人知を停止して懐疑を捨てて、有るものとして信じる。知からいえば、それは虚偽の主張となる。信仰する者が、信にとって知は妨げになると言うのはもっともなことである。絶対神が存在するものなら、人の前に姿を見せるだけで済むのに、それすらできないということは、人の前にときに現れる幽霊以上に、実在していないというべきであろう。真に存在する姿を見ることができ、知ることができれば、万人がこれを受け入れることである。不信心の私ですら、真に神が現れたら、存在を認める以外になくなる。ただし、存在していたのだとすると、絶対神を認めるけれども、人類をさんざん苦しめひどい目に合わせ続けたのであるから、到底、愛や尊厳の対象にすることはできない。

 アダムとイヴは知恵の木の実を食べて知的懐疑をはじめた。その懐疑・批判の関所を通過できたもののみを真として受け入れることになった。超越神は、この世を超えていて知りえない存在である。それを、知的な懐疑をストップして、真として受け入れようというのが、信である。信仰は、知と相いれないものである。神は、知恵を獲得したアダムとイヴを追放した。知恵をもつものは、いずれ宗教を否定し冒涜することになるから、当然と言えば当然の追放であった。

2025/02/13

苦痛に耐える尊厳

6-7-7-1-1. こどもは、知恵(理性)をもって、人と成る   

アダムとイヴは、知恵の木の実を食べて楽園追放となった。この展開は、現代も、子供の成長において、反復されていることである。生まれると親の庇護下の楽園に育ち、動物的欲求に生きて、しだいに成長して、知恵をもつことで、人と成り、自立して、そとの世界へと羽ばたいていく。成人、人と成るとともに、楽園から追い出される。それは、性的な成長ということでもある。アダムとイヴが、知恵をもって、自身の性(恥部)に気づいてきたことをイチジクの葉の話は語る。そういう性的成熟期になると、自分で人並のことはできるということであり独立する。父母という神的存在(なかには、邪神も混じっているが)のもとに育まれての家庭は、子供には、エデンの楽園であり、自立は、楽園追放、失楽園の始まりということでもある。甘えは、もう許されない。保護されていた父母のうちから出て、世間の荒波にさらされて辛い目にあいながら、厳しく困難な道を自身で切り開いていく。人生の苦難に耐えて、自立した一人前の人間になっていく。アダムとイヴの楽園追放の話は、現代の子供の覚悟すべき事態なのでもある。 

ひとが人と成っている成人は、『創世記』では、善悪の知恵をもっているということである。いまでも、子供は、大人なら犯罪となり悪となることを犯しても、罪には問われない。動物がそうであるように、善悪を自覚せずその判断がつかないものには、悪を意志しようがなく、悪の責任を問うことができない。善悪を自身が自由に選択できるだけの知恵を備えていない者は、なお、人に成り切れていないのである。そう現代でも見なす。ひとがひととして尊厳の存在となるには、善悪を知ることが出来る状態にまで成長することが肝心となるのであろう。

エデンの園のアダムとイヴのように、子供は、家庭という楽園の中で育まれて、やがて善悪等を知る能力を獲得して、心身が自立した人間となって独り立ちして行く。思春期になれば、少年少女は、父母の子供ではなく、一人前の男性女性として生きていくことを自らに望むようにもなる。現代では、いつまでも、父母のもとにいる者も少なくないが、本来は、性的成熟の歳になると、父母の心配などをよそに、自らに外に出ていき、やがて独立した新規の家庭を作り出していく。アダムとイヴの場合は、追放された。キツネなどの動物の親は、暴力的に子供を追い出す。もう一人前なのだから、後ろを振り向かず前進せよと、尻を押す。

『創世記』のエデンの園からの追放、失楽園の話は、人類が、知恵を獲得して、自然を超越し、苦難の歴史を刻みはじめたことを、辛苦の労働と苦痛の出産をもって示す。それは、自立・独立した若い男女に固有の苦しみであろうし、誇りでもあろう。知恵の木の実を食べたその知は、なによりも善悪の知恵と言われる。子供、未成年ではまだ善悪の判断がしっかりしておらず、良心・良識がなお未成熟である。それを乗り越えて善悪の社会的規範を自覚できる歳になるのが、人と成り成人することである。善悪の木の実を食べて良心・良識をわがものにした各自は、自身において自律的に善悪を判断して、自身の行為に責任をもって生きていくのである。

 

2025/02/06

苦痛に耐える尊厳

6-7-7-1. アダムとイヴは、二つの禁断の木の実で尊厳の人間となった   

 旧約聖書『創世記』によると、アダムとイヴは、禁断の木の実を食べて楽園追放(=人間社会の誕生)となった。肯定的に捉え直せば、動物的自然世界を卒業するには、禁断の木の実を食べることが必要だったということだが、禁断の木の実には二種類あった。ひとつは、アダムたちが食べた知恵の木の実である。ひとは、知恵の木の実を食べたために、知恵において自然を超越して尊厳の存在となっていった。もう一つは、(永遠の)生命の木の実であったが、これは、食べないままに終わった。この生命の木の実については、禁止を犯さなかったということで、通常、無視される。あるいは、食べていたらどうなっているのだろうと、不老不死等で想像をたくましくする程度である。だが、大切なことを語っているというべきである。生命の木の実は、身体的生命が死なず永遠になるという果実なのであろうが、これを食べなかったのだから、ひとも他の動物と同じように、有限なままの寿命をもって死ぬ自然存在に留まるということである。この身体は、ひとの自然の根本であり、自然感性・衝動をもつ。ひとは、いまも、動物と同じように食欲や性欲をもって個と類の再生産を行い生老病死の生命の営みのもとにある。その寿命のある身体(自然感性)を有しつつ、ひとは、他方で、自然超越の尊厳を有する知恵をもっているのである。自然超越の自律的な理性を有しつつ、他面において動物的自然感性を有し続けているという人間の存立の根本様態を、知恵と生命との二つの禁断の木の実の話は、上手に語っていると言うことができよう。

 身体自然は動物のままでありつつ、知恵をもって人間となっているのであるが、その知恵、理性知は、ひとを自律自由の存在にした。自身を自身で知って、思うようにと未来に自身を描き出して、未来に自己実現していく。理性は自身で自身を律して生き、その自律のもとに、土台の身体自然を制御支配している。知恵は、自身の自然身体を通して自然そのもの・万物を、しっかりと洞察しつつ制御・支配してもいった。自己と自然の卓越した支配において、ひとは、尊厳の存在となった。ひとの尊厳は、知恵の木の実を食べた理性知に根拠をもつと同時に、その尊厳の、神と異なる特性は、生命の木の実は食べず動物的自然状態を土台にしつづけていることにある。

『創世記』は、ひとが万物に名をつけていき、それを神はよしとし、万物を支配させることにしたと語る。命名は、個物でなく、ロゴス(ことば、理性)をもって、類を把握し普遍的な概念をもって世界に関わることであった。個物世界の感覚を超えた理性知をもってこの世界に関わり、普遍的理念・概念をもって生きていくこととなった。人が支えあう社会についても、自然的な群れを超えて、英知を動員して制御していった。共同的に生きていくうえでの規範を見出し、ひとの諸欲求のもとに物と人の在り様を価値づけ、その選択に関して、より価値あるものを選ぶ善と、逆の悪を見出した。知恵の木の実は、善悪を知る木の実と言われているが、自然的動物世界にはない善悪の規範を見出し、これに則って生きることになった。善悪を知るのは、ひとでも、なお子供では難しい。『創世記』の善悪を知る知恵の実は、果実として、当然樹木の梢に、高みにあって、子供にはとどかないものであった。子供は、動物と同じく、善悪を知らない状態にとどまるので、悪への罪は問われない。ひとが成人、人と成るには、善悪を知ること、良心・良識を具備することが必要なのであった。

 

2025/01/30

苦痛に耐える尊厳

6-7-7. 動物的感性を踏まえて生成する人間的尊厳  

自然は、自己同一を保つ。動物も、その生の自己保存を根本営為とする。それは、快不快をもって導かれる。だが、ひとは、動物であることを超越する。ひとは、快不快を超越し、今の自己を乗り越えて、明日の自己となる。現在を手段・踏み台にして、より優れた自己を実現していく。未来に高い目的を描いて、これへと成って行こうとする。そのことを阻害する快不快、とくに不快・苦痛を乗り越えて進む。苦痛は、生の破壊であり、これより先にはいくなという自然の戒めで、動物はその苦痛の柵のうちに留まっている。だが、ひとは、これを乗り越えて、超自然の新世界へと進出する。

自然を超越し尊厳をもった生き方をしている人間であるが、他方では、ひとは、自然感性・身体をもったものとして、同時に動物であり自然的存在なのでもある。自然において動物的な存在として生きつつ、理性存在として超自然的に卓越した生き方をしているのである。自然の存在としては、ときには、理性よりも感性を優先して、これに流されて愚かしい非尊厳の状態に陥ることもある。非尊厳に引き込まれそうになりつつ、尊厳であろうとするのが人の日々となる。ひとの生きる世界は、苦痛に忍耐することをもって、超自然的世界へと生き様を拡大するが、しばしば快不快に流されて自然のうちに留まりもする。非尊厳の底辺からこの世の尊厳の頂点までの多彩な世界に生きることになっている。

神は、この有限の物質世界を離れた超越的存在として想定されている。祖先神など、むしろ、この世を離れて、つまり、自然身体を失い死んでのちに可能になるものとして想定されている。だが、この世の人間は、常にこの自然世界に足をつけていてはじめて、その尊厳の理性も、崇高な魂も存在可能となるのである。身体・肉体という土台を失った魂・理性等の精神は、同時にその存在を不可能としてしまう。あくまでも、土台の身体・自然世界があっての、精神である。身体の死は、同時に精神の死となる。脳の機能・働きをもって成立している精神ゆえに、身体としての脳が死んで機能しなくなれば、その高度の、尊厳のよりどころである理性精神も停止して存立不可能となる。

ひとは、日々、身体を手段としてこの世界に関わりをもって、精神的に生きている。自然身体を理性精神が制御して人間らしく生きている。理性的尊厳は、身体自然を見事に制御・支配するところに成立する。だが、自然、身体は、精神の制御にかならずしも従順ではない。身体的感性は快不快で動こうとし、それが理性的にみて有害なものでなければ、ひとは、これを自由に動くままとするが、それが自身や周囲に有害なこととなれば、理性は感性・衝動を抑止する。感性は抵抗するが、これを支配制御して、人間らしい振る舞いをさせる。自然感性・身体的営為を支配し制御して、理性は、あるべき振る舞いを実現して尊厳の自己を保つ。

2025/01/23

苦痛に耐える尊厳  

6-7-6-3. 個の尊厳の核となる理性は、類の理性からなっている  

 人類の尊厳の核をなす理性は、各人に内在して働く。その個の理性は、個のものではあるが、類の理性を体現している。個の理性は、その論理展開もその使用する概念にしても、すべて類的であり、通じ合う共通の言語で展開する。個のうちで展開する要素の概念から論理まですべてが、その属する全体のものあり、民族、類・種のものである。普遍的な理性的概念とか民族の言語を捨象したら、その個人の理性のうちに残るものはおそらくほとんどなくなるであろう。個として理性的に深慮し意志するとしても、内容的には、人類の全体における普遍的なものの一部である。しかも、各個はその類的な理性・概念を熟知しているつもりでも、意識できているのはほんの表面でしかない。「右」の概念を述べよといっても、普段は自明のものとして何気なく使っているが、その定義すらも、簡単にはできないであろう。いうなら、各個は、類的概念のほんの表面を意識して使用しているだけである。もちろん、その各個に理性概念は内在しており、時間をおいて沈思すれば、ソクラテスが言ったアナムネーシス(想起)をすれば、「右」のうちに、それまで思いもしなかったものが自覚できるのでもある。 

 自然が相手の場合は、水の概念も、原子の概念も、どの言語で表現しようと、原則、齟齬は生じないであろう。だが、社会が問題になる場合は、その社会での生きざまが法や掟となり、習慣・習俗となるから、たとえば、同じ正義(justice)とか同情(sympathy)の概念でも、その言語によって異なることとなる。日本では、正義は、最低限の道徳の面が意識されて、あまり高くは評価されない。同情も、家族内では使わず、他人との間にのみ使う冷たい共感である。だが、西欧では、これらの概念は、高価値・広範囲のものであり、家族内でも、それに従って生きる。とはいえ、同じ人類として、根本的には共通した概念内容をもっており、同じ理性的普遍的な構えを万人共通してもつ。社会的な場面で中心になる理性の働きは、尊厳を有した良心、良識に集約されるが、これは、各個人のうちにはぐくまれているものではあっても個人のためのものではない。共同的全体が良心・良識としてその個に内在化してその意志を導くのであり、良心は、個が全体・理性から外れたことをすると、これを個自身のうちで、いましめ改めることを強要する。良心は、個のうちにあるからといって、決してその個にえこひいきはしない。個のうちの理性は、個を支配し導いて、その尊厳を証する。

 個のうちにあって理性は、これの隅々にまで浸透していて、個が思い意志し、行動するときに、指導的となる。その個が動き考えるのではあるが、つねに、その内的根源において、すでに、理性的全体的に動いているのである。自然科学のように普遍的なものを普遍的に解明したものは、即、誰でもよい個のもとでの理性の成果となり、端的に類の至高性、尊厳を表すが、それが自然感性をもった個と不可分の領域では、例えば、芸術などでは、その個に結んだ卓越性となり、尊厳となる。物理とか数学の領域では、それを進める個人は、だれであっても、似通った卓越した成果を生み出す。微分・積分は誰が発見したのであっても、それがニュートンであろうとライプニッツであろうと、或いはひいき筋が言うように日本の関孝和であったとしても、その数学的内容自体は、その人格の個性とは無関係にとどまる。微分・積分を習うとき、誰の発見かを学ぶことはまずない。だが、感性的なものを不可避とする音楽や絵画では、類の卓越性であるとともに、その個的人格の特性が前面に出る度合いが大きい。ベートーベンの音楽は、彼の個性と不可分であり、それが同時に人類の音楽というものの卓越さを語るものになろう。積分と聞いてライプニッツを想起する人はまずいないが、『運命』ときいたら、圧倒的なひとが、ベートーベンを想起する。