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2025/04/03

苦痛に耐える尊厳

6-7-8-3. ひとは、個でありつつ類的全体に生きる    

人間を含めて生命は、環境世界に対して、独立した個として生きている。その個体の生の有機的諸組織は、手とか足がそうであるように、生個体の部分として整然と、一全体としての個の営為のために統一的組織的に動く。手足という部分は、自立することなく、全体の動きに合わせてこれの統制下にある。統一的全体をなすこの生個体は、自立的に動くが、その個を集合させた大きな一全体をなすこともある。その集合的全体のもとの個は、一生命の手足のような部分とちがい、個として自立的で自律性をもって動くことが普通で、全体の部分には還元されない独立性をもつ。しかし、個だけで単独で生きる生命体もあるが、その類の再生産のための生殖、養育の活動はもちろん、個の生の維持のためにも、大なり小なりの集合的全体をもって生きていくのが一般的である。

全体と個の在り方では、個の営為をさほど縛らない緩やかな全体もあるが、多くは、個をその全体の部分品、消耗品扱いする。アリやハチの場合、個は、一全体の従順な部品に近く消耗品扱いとなる。個の独立は、希薄であり、全体から離れた場で、その個の孤立状態において個体維持に動く程度であろう。その所属の全体からの独立・自律の動きは持たないのが一般である。全体あっての個であり、全体が個に先立つといってもいい。だが、人間の場合、個体は、その行為の意思のレベルからして、全体(共同体)の部分としてのみ動くのではなく、その個体自身の生のために動くことが一般である。全体からの自由を有する。人間は、自然を超越していて自由であり、その所属の全体からも自由である。全体あっての個であるけれども、個が先立ち優先的であるのが人間の特質であろう。

 人は、理性を備えた類的存在であるが、個としては、全体とは異なる各自の固有性をもち、その土台には自然的生命体としての食や性の欲求も有している。この個独自の欲求・衝動は、全体の求めるものとは相いれない状態になることも生じる。個として自律的で自由であるから、全体に反する意思も当然もつ。自己内で、全体的理性意志と、個体の個別的反全体的諸欲求との背反する状態になることが生じる。自己内で個と全体が葛藤することになる。原則的には、個のうちの良心が個の利己的な欲求を抑制して理性的なふるまいをとるが、命に関わるような事態に際しては、個の欲求・衝動は強力なので、良心・良識をないがしろにして、個のエゴを通すようなことも生じる。全体を代表する者が、個を尊重せず無暗に犠牲にするような場合、自律自由の個的主体は、全体の理不尽な命令には従わず、逃走や反乱をもって個を優先するようなことにもなる。

 個と全体・類の葛藤では、類の求める営為が理性的合理性に則っておれば、個は、その生への欲求を抑止して、葛藤状態になっても、普通には類的なものをとるべきことになる。反乱・革命は時の全体・政権に背くが、それは、より公正でより普遍的な全体の理念をもってするのである。個は、根本的に類・全体の個であり、理性的で、良心や良識を内在していて、道理のある類的な営為を貫徹するように努める。そこに、理性をそなえた人間の尊厳がある。磔刑になったイエスは、人類のための犠牲になるべきことを自覚して、最期を迎えた。人を神に結ぶ媒介者となるべく覚悟して全体・類に死ぬことを意志した十字架上のイエスである。だが、かれは、「神よ、私を見捨てたのですか」と個的人間としての弱みを吐きつつ死んだ。個としては生維持の欲求を強くもち人間として葛藤しつつも、イエスは、全体のため類のためにと意志をつらぬき、その身を投げ出し犠牲となった。自らを神と妄信した人だったが、その志は、尊いものであった。

 

2025/03/27

苦痛に耐える尊厳

6-7-8-2. 内心と外的表出の間での葛藤    

人の内面・心は、動物的衝動・本能を有しつつ、その上にこれを制御する理性的意識をもって存在している。その外面は、余所行きの装いは、見栄えを気にし、人間的尊厳にふさわしいようにと心を使い、理性的に取り繕ったものとなる。外的な装い・表出は、内心・本心とは異なったものになることしばしばである。内の本音を言えばよさそうなものであるが、ひとは、両方を峻別して生きている。表向きは、発言しているようなことになるべきだと思いつつも、内心の赤裸々なエゴの欲望は、これを否定し、むしろ反対になることを求めているというようなことで、葛藤する。内の本心をそのままストレートに出したのでは、うまくいかないことが多い。ひとの感情など、其の場その場で目まぐるしく変わり、ときには、過激な鬼畜の欲望をもつような瞬間もある。しかも、一旦外に発言したものは、それが一瞬の過激な感情だったのだとしても、当人の真の思いはそこにあると固定されもする。うちに生じたものを不用意に出してはならないということになる。「お前のようなえげつない奴は、二度と顔を見たくない」とその時の過激な一時の感情で発言したら、そういう思いは、ほんの瞬時の過激な思いであったとしても、外に発言したとなると、その発言が本心と見なされ続け、おそらく、そう言われた者は、二度と顔を出さないことになっていく。うちにとどめて黙しておくなら、その思いは(外的には)存在しないものとして、穏やかな関わりを維持可能とする。うちにある思いは、そとに発言するものとは区別して、しっかりと内心にとどめておくべきことになる。 

ひとは、内外の違いに葛藤しつつも、その内面・本心を出さなければ穏やかに済むのであれば、うちから生じてくる過激な思いを抑止しつつ、表向きの冷静な思いや行動をとろうと努めることになる。エゴとしての個の思いを抑止しつつ、全体から見て正義となることをしぶしぶ語るというようになるのが普通である。が、場合によると、うちの思いが真実正義だというようなこともある。しかし、それを出しては、ことが荒立つということで、理性は、内面において正義と思いつつも、これをそとには出さないでいるようなことも生じ、葛藤を重ね悶々とするようになる。

外的な表現は、普通には、内にある自己を(屈折しつつも)外化するものであろうが、逆になることもある。外的事情が、自身の内面・外面を動かし、外的環境しだいで、内面をなす生き様自体も異なったことになる。その本心においては、おだやかで、他人思いでやさしい者であっても、外的事情しだいでは時に犯罪者ともなっていく。悪人になるか、善人になるかは、かなりが、外的事情によることで、相当に自身をあくどい心性の持ち主と自覚していても、恵まれた環境で、この上ない善人として生きることもあれば、優しい心性に富む者でも、環境によってはひねくれた悪人になってしまうこともある。善悪両面を具有しているのであり、可能性・素養としては、どのようにも現実化するものをもっている。

のちに大作家となった吉川英治が、親が病気で自分が稼がねばならない惨めな少年であったとき、切羽詰まって他人の畑のジャガイモをたくさん盗んできて、しばらく生き延びたというようなことを述懐しているが(『折々の記』「罪と新ジャガ」)、環境しだいでは、誰でも、そういう悪事に手を染めることにもなろう。したがってまた、環境がよくなれば、当然、そんな泥棒などせず、やがて、多くの大作をものにして国民文学作家と言われるような人物になっていったのである。あるいは、大会社の社長のようなトップに立つひとは、それこそ、吉川英治などとはちがい、人を蹴落として上に這い上がった者であればおおむね極悪のエゴイストのはずだが、皆穏やかで仏や菩薩であるかのように振舞っているのが普通である(窃盗や恐喝の傾向の強い人間のはずだが、もう大金をもち権力をもっているから、そういう類いの悪には手を染める必要がないのである)。人並外れて邪悪な者ですら、恵まれた地位に立てば、多くの場合、人格者としてふるまえる。ひとは、理性的存在として良心・良識を具備し、善悪を判断し、価値あるもの・善を追求する本性をもっている。悪を避け、善を求め、より良いもの・価値ある生き方をしようとする。邪悪な性向を有していたとしても、理性的制御をもって、動物的個我的な内面を抑え、人間的で普遍的合理的な体裁を整えて、卓越した生き方を各自において模索できる。それが、尊厳を有した人間の生き方である。

2025/03/20

苦痛に耐える尊厳

6-7-8-1. 動物的生を支えとした精神的存在   

 ひとは、動物でありつつ、それを土台にして高度な精神的存在となっている。その動物的生を放棄すると、同時にその上にそびえている精神的生も消滅してしまう。常に、動物でもあることを踏まえていなくてはならない。精神的に卓越した存在でありつつ、同時に、どちらかというと弱虫の動物なのでもある。基本、精神的に生きるのであるが、つねに動物的なものによって制約されたり、支えられたりしているのであり、動物でもあることを忘れることはできない。動物的な食や性は、人間的生活でも、大事な営みとなる。男女の性が社会的生活に肝要な事態となることはしばしばである。食も、自然を踏まえて、その社会と時代によって相当に異なったものとなっている。その動物的な食や性の欲求は、人間の基本欲求となり、精神生活のうちで、多彩な展開をしており、単に喉を潤すお茶でも、茶道となって、精神を豊かにするための手段とされたり、性欲は、しばしば、芸術のための素材となり、創作意欲をつくりだし、鑑賞の意欲を誘うことになっている。

だが、その動物的欲求は、精神固有の営為とは別であるから、純粋に精神的生の展開にとっては、妨害となることも生じる。宗教では、動物的欲望を抑止することが大きな課題となりつづけた。性欲を抑止することが教義において求められるが、生身の動物でもある聖職者のこと、しばしば異常な性愛にふけるようなことにもなった。性欲を、堕落させるものとして否定しつつ、生きている限り無化しきれるものではないから、精神的生の純粋な生き方をとろうとする者は、これと葛藤を続けることになった。それをほどほどに抑止して、精神的生を高度に保つことが日々求められたことである。性欲を抑止し独身で仏につかえる僧侶が、お気に入りの小僧を性的な慰みものにすることもしばしばあった。キリスト教世界でも似た性的な逸脱がかなりあった。身体がなければよいのにと何度も思ったことであろう。あるいは、隣人愛に満ちた聖人で通っているひとが、弱虫の動物として自分を偏愛するようなこともあった。聖人マリア・テレサは、自身が運営する医療施設では、病者の苦痛には、「イエスがそうであったように耐えなさい」と厳しかったのに、自身の苦痛については、これを回避しようと高度の医療を受けて甘く、矛盾していたとかいう。彼女は、身体が自分を悪魔にしてしまうと思ったことがあったに違いない。

性欲を絶つことはそれほど困難なことではない。異性のいる社会を離れれば、簡単にこれをなくすることができる。厳格な刑務所に入れば、食欲は依然健全だが、性欲は簡単に消滅するという。食欲は、一人になっても、生きている以上抑止できないし、抑止し続けると死となって、精神的生活自体を土台から破壊してしまう。ほどほどに食を充足することを踏まえつつ、精神的生の営みをそのうえに展開することになる。なくて済ませれば、動物的に他の生を犠牲にすることもないのであるが、何らかの生を殺めつつ生きることを受け入れる以外ないのが人の生である。人の尊厳は、動物的自然を超越した至高の存在であることにあるが、単に超越していてはなりたたない。常に、動物でもあることを踏まえておかねばならない。そこでの尊厳は、動物的生に流されることを抑止して、これを人間的精神的生のために生かすことで可能となるが、逆になりがちである。美酒・美食にのめり込んで非尊厳に陥ることになる。だが、そのような非尊厳状態を反省できるということは、それを脱して尊厳を回復できるということでもある。ひとは、自身を、尊厳を有した者と自覚しており、そこで動物的欲求に振り回される状態を悪しきこととして、その理性は自律自由を自覚しこれを克服していこうとする。自身を振り返り反省することができる。人間的尊厳を回復しなくてはと前向きになり、より確かな尊厳へと自己の生成をはかる。