7-2-5-1. ことば(概念)をもって集団は一つになって対処する
理性をもって世界を普遍的概念的に把握することで、ひとは、個別自然を超越し個別の内奥の本質をつかんだ生き方をはじめた。日々の行動についても、言葉(概念)をもって、関わる対象を明確に限定し、善悪の規範のもと共同して、集団的行動をスムースにできるようになった。かつ、それは、自分の部族、種族という共に生きる集団を、自然的な家族などを超えて同一の類として把握することともなった。
言葉は、他者との間に成立するもので本源的に個を超えていて、自分でない外の人間に語り理解しあう役立ちをする。相互の個を超えて成立するものとして、言語の実相は、それを知る個人の理解を超えた、その言語を使う種族全体のうちにあるということになる。「同情」という言葉(概念)は、これを使用する現代日本人に周知のものだが、各自の理解を超えた日本人全体のもとにある。ヨーロッパの方でsympathyに訳されるとしても、内実はかなり異なる。言葉には、これを使用する集団の生きざまが刻み込まれている。sympathyは、わが子にも大いに使用するが、日本語では「同情」は、家族にはしない。そのことは、自覚はかならずしもされないとしても、同情概念を少し振り返ってみれば、日本人なら誰でも、そうだと納得する。日本人の間で「同情」を家族に言ったとすると、それは、不仲で冷たい他人扱いになったときに言うことである。それらの言葉の使用、概念の妥当範囲等は、個人を超えた種族・集団全体のもとにある。いうなら言葉は、個人の理解を超えたものとして、独自の力をもって個を強制もする。自分は「同情」をヨーロッパ的に家族内でも使うとか、「親身」の意味で使うと言っても、だれもそれには従わない。個が言語の内容を決定するのではなく、その言語使用を行う民族全体が、集合的な主体・民族の魂ともいうべきものが、習慣・習俗をともにしているように、それを決定しているのである。言霊をいうが、言葉には、個人の使用・理解を超えた全体のうちに生きる独自の力がある。ひとは、言葉・概念をもって判断し行為するが、その言葉は、自身の理解を超えた全体のものである。言葉をもって生きる者は、個としてではなく、その言語使用の集団全体に従って生きていくこととなる。個体として自立し自律的に生きるのだと意思していたとしても、そのもとの言語に制御されて生きていくのである。
言語使用は、自分たち自身の統一的な有機的連携にも大きな影響を与えた。自分の有した言葉が通じ合うことは、その言語のもとでの一体的存在であることを明かした。もともと日頃一緒に生活しているものの一体性は、猿の群れのように明確であったろうが、それを超えた集団との一体化は、敵対部族との闘いに勝利するには、大切だったろうが、それは、日々の付き合いがなければ、そう簡単には実現できなかった。それが言語世界、概念的世界をもつことによってスムースに展開可能となった。家族の核は、長老となる者が担って、この長老の指示する通りに皆一体化して動くことでは、ボスに従う猿の群れと同じだろうが、それを超えた広い集団の一体化した動きは、言葉・概念をもって可能となった。「一族」とか「正義」といった言葉(概念)が人を動かした。集団は、組織的一体化を力とする。その部族・種族の生物的一体性、一つの血の自覚が、「先祖」「祖霊」といった言葉(概念)をもって創り出された。先々代のお爺さんのときは、ひとつの家族だったということは、言葉・概念をもつことで明確にされえたことであろう。今は存在していないものの声を、神がかりして祖先の指導的な霊の意志として聞いて、その祖霊のもとに全員が一体的になって行動することを言葉・概念が可能とした。その祖先はさかのぼるほどに、広い部族の祖として、その全体を一体化した。その祖霊の言葉があれば、その広い範囲の部族が一つになって動くこととなった。多くのものが一体化して当たれば、当然、強力となり、戦いには有利であった。その共通の祖先神が、神の憑依した巫女の口をかりて、自分たちの「正義」と、敵対部族の「悪」「犯罪」を言い立てれば、敵愾心に溢れた強固な全体が作り上げられたことであろう。