7-2-5. 個別感性界を超越した普遍的概念世界の創造
旧約聖書『創世記』はアダムとイヴが禁断の知恵の木の実を食べたと言う。その核心は、人が理性的存在になったということ、善悪の規範を含んだ、人と世界の普遍的概念の世界に生きる特別な存在になったということである。動物的自然のもとでは、感覚感性の個別的実在の世界にとどまるが、ひとのみは、これを超越して、言語使用をもって普遍的な概念世界にも生きることになった。個別感覚の世界に動物とともに生きつつ、その上に、その個別感性を超越した概念をもって、理性的普遍の新天地に人は立ち、自然を超越した、動物自然とは全く異なる卓越した世界を開拓し、地球の支配者となったのである。個別実在の核を構成し特徴づける普遍的な本質(=概念)を見つけ出して、個別感性世界をその概念をつかむことで巧みに制御していくこととなった。殴るとか抱擁するといった個別事態の内奥に、普遍的な善悪の規範を見出して、この普遍的な規範のもとに生きることにもなった。
『創世記』は、「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けた」(2:20『聖書 新共同訳』日本聖書協会 以下同様))と語る。あらゆる獣に命名したということは、身近な飼い犬などにその個体の呼び名をつけたのではなく、その種・類にしたがって猪とか鳥と名前をつけたということである。それは、理性のもとで、対象(いのししとか烏)の本性、類的な本質(概念)をつかんで命名していくことである。個別実在世界のもとの内奥の共通の普遍的本質を把握し、普遍的概念の世界を見出し、烏なら烏という本質(概念)のもとに統一して捉えてこれを言い表したのであろう。
理性的普遍的な概念(ロゴス)は、個別感性のうちの内的本質の抽出、抽象をもって把握される。そして、それは、名前(オノマ)をもって表される(その言語使用のはじめには、まずは、目の前の黒い鳥に「烏」と名前をつけ、それを別の類似のものにも与えて、その名前に共通の本質・概念を見出したことであろう)。旧約聖書『創世記』は、あらゆる獣への命名では、これに人は「名前(onoma)」を与えたという(2:20)。類的本質(概念)にしたがっての命名である。新約聖書『ヨハネの福音書』は、冒頭に、「初めに言があった」(1-1)と、世界の創成は「言(Logos)」、言葉でもって成ったという。いずれも、普遍的な概念を内実としたものと解してよいであろう。人は、多様な個別実在のうちに、それを成り立たしめるその種に共通の類的本質を見出して、人間とか猫という概念(ロゴス)として確定し、これを具体的に表記するに名前(オノマ)をもってする。どんな人間も個別的には別々で多様であるが、そこに同じ類的普遍性(理性的な人格という本質)をもったものであることを見出した。あるいは、個物を構成する共通の諸属性を見出し、これを命名し、概念化することともなった。赤色という属性・性質において、異なったものの共通の性質を見出し、これを命名して、取り扱うことができることになった。赤くなった果物は、美味しいといったことを見出して、赤色に注目して果物を摘むことができ、これを伝え、学習できることにもなった。あるいは、社会生活では、個別の営為のうちに、善悪の普遍的規範を見出して、その営為の推進と禁止を意志することにもなった。
概念世界は、主観の営為においては、個別実在世界に直接的には感覚されないものとしての、抽象された観念になる別の世界の創造であった。そこから、普遍的な概念のみの抽象物も存在することにもなった。個別実在の本質ではない空虚なもの、虚偽、虚妄も発生した。感覚世界でも、夢とか幻覚は、実在しないものであり、それが幻覚であることは、個別実在に照らして自覚される。概念世界の虚偽も、実在世界に照らして明らかになる。個別実在のもとでの夢・幻覚でも、反復されれば、実在世界とは別の世界が想定されるようになり、あの世というものが想像された。その想像物、幻覚対象、あるいは虚妄の概念(ロゴス)にも、名前(オノマ)が与えられて、この個別現実界の外に、むしろ、これを支配する背後の世界が、(実在世界からは虚妄の)霊界とかの超越的世界が想定もされていった。