7-2-5-3. 奇蹟は、あれば、神実在の決定的な証拠になる
災いの神は、有ってほしくないのに、至るところに見出されている。ただし、災いはあるが、それは自然自身の営為であって、その背後に鬼神を想像するのは、妄想であった。理性的な人間は、冷静に対処して、鬼神をもちだすことは次第になくなった。逆の奇蹟も、古来、語られてきたが、これは、幸いをもたらす恵みの神がごくまれに現れるときに言った。が、災いの神と同様に、奇蹟をもたらす慈悲の神は妄想であろう。仮に奇蹟という、自然法則を超越しこれに反するようなことが真に生じているのだとすると、それを起こしたものは、この世を超えたものとして、万人がこの超越したものの存在・超越神を認めねばならなくなる。奇蹟(miraculum)は、価値あるものに驚嘆する(mirari)という場面を指し示す。喜ばしく驚くようなことであり、否定的な現象はささず、稀有の価値あるものが思いがけず得られるような場面に言われる。慈悲・恵みの神の現れが奇蹟である。キリスト教では、この世を超越した絶対神をいい、それがまれにこの世にありえない奇蹟を示すという。奇蹟が生じたとすると、この世を超えた現象なのであり、その奇蹟を受け入れる者は、その奇蹟を起こしたものを、つまり、超越神を認めることとなる。不信心のこの私であっても、奇蹟が真実生じているのなら、この世界を超えたものがそこに生じているのであるから、その超越神を認める以外なくなる。奇蹟は、有れば、神の存在を証明するための決定打となる。
キリスト教では、イエスが不治の病人を治癒させるという奇蹟を繰り返して示す。それが真に奇蹟ならば、神の存在を明確にし、懐疑的な者をも納得させるものであったろう。だが、語られるいずれの奇蹟も、神がそこに現れたわけではない。不治の病の治療などは、イエスが類まれな精神的治療者だったと語るだけである。ほとんどありえないような感激の治癒をもたらしただけのことであって、神がそこに働いて奇蹟を示したとは言えない。イエスの最初の奇蹟は、水を酒に変えたことだが、こういうマジックは、マジシャンならだれにでもできることであろう。神を頼むまでもないことであるし、神がそこに現れたということでもない。
いまでも、カトリックでは、聖人と認められるには、奇蹟を起こす必要があるという。奇蹟は稀有のことで、真にそれができたとは、超越世界の営為を神のもとでできたということだから、神に直接した聖人に間違いないことである。ただし、奇蹟は本当は起こせていないはずで、どこかでごまかしなどをやっているか、まれな偶然をもって自然法則を超えたかのような見せかけ・解釈がなされたということにとどまるであろう。本当の、超越神のあらわれとしての奇蹟は、起こりようがないことで、それがあれば、万人がカトリックのいう神を認めざるをえないであろう(カトリックが奇蹟を重大なものとすること自体は、超越神をいう宗教のなかでは、奇蹟が神のこの世界への顕現を語る唯一のものとして、真実を追求しようという稀有の真摯な姿勢ではある。が、残念ながら超越神は存在せず、不可能なことを求めているのである)。真実の奇蹟は、存在しないし、超越神も存在しない。存在するのなら、隠れたりせず、ルターがいったように「ここに我有り」と姿を現すだけでいい。それで、全人類が私のような不信仰者をも含めて神を認めることになる。私は奇蹟が有れば当然、絶対神を認める。ただし、人類を苛め抜いてきた神であるから、慈悲の神などではなく、これを貴いものをして拝跪することなどはできない。