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2026/06/04

世界観を創る苦痛

 7-4-5-1. 権利概念の拡大使用には、きりがない 

法人については、権利が当然のように帰されている。ひととしての感情もない、したがって苦痛を感じる能力すらないものにも、必要に応じて、国家は、法的な権利を付与している。権利では、その主体のもつ(享受)能力を踏まえることが原則であっても、その国家社会がこれを法で権利主体とみとめれば、何であっても、法的権利をもつものとなる。大型船舶は、物であるが、権利・義務の主体と見なされるのが普通のようである。逆に、その国家が承認しなければ、人であっても、(法的な)権利はないことになる。人権は、近代になって認められたことである。

 擬制(fiction)としての権利は、法人に帰されているし、神にもあるものとされた。だが、それらは、侵害に苦痛をいだく人格主体としての本来的な権利者ではない。苦痛をもたない存在であり、神など、ありもしないフィクション・幻想であっても、人権など無視して、神権が言われえた。植物に権利を付与することなど、有りもしない神の神権などの大それた虚構・擬制の方面からみれば、なんでもないことである。裁判では、最近、山や川といった自然物が権利主体となって裁判の原告になることがあるという。ただし、権利という概念が相当に水増しされてくる。どんなものにも権利をいううることになれば、ないのと同じにまでなろう。盗まれない権利があれば、盗む権利も可能となる。現代では主流のコピー権としての「コピー禁止の権利」があるといえば(この権利は人為的恣意的に成り立つだけなので、有効期限を設けている)、同じようにして自然権としてのコピーする自由、「コピー権」がある(こちらは永遠に権利として存在しつづける)と言えることである。  

価値享受への権利は、厳密には、物体には、享受するその主体がないから、無理である。しかし、擬制としては、可能なことである。法が、あるとうたえば、あることになる。権利というが、擬制的にいう場合、狙いは、それに対応する人間の義務の方にあるのが普通であろう(動物権や自然権は、概ねそうである。しかし、権利主体と見なされる大型船舶とか法人の場合、義務の方もしっかりと担うことが求められる)。関係する人は、その義務を、負担を担わねばならない。それを守らないと、法的な義務のもとでは刑罰の対象となる。富士山の自然権は、富士山自身の権利ではあるが、要は、富士山を汚さないように義務を人が担わねばならないということである。道具や機械類には、権利は普通には言わないけれども、人の人権と同じように、道具権、機械権、ロボット権(最近、サウジアラビアがロボットに権利を認めたとか)があって、調子よく機能していく権利があるというとしたら、それは、使用する人間の方が、機械やロボットを粗末にせず大切にし上手に使わねばならない義務を負うということであろう。

権利があるかどうかではなく、義務の方が肝心なことで、ひとに禁止や保護の義務を負わせることをもって、その対象が保護されるということである。山川の清浄さを守るために、これを汚さないようにとの義務的強制を人に対して謳うことが主軸であり、それに対応して、その義務の後に、権利を、保護されるべき対象に付与するのである。ということであれば、義務を背負う人の覚悟、度合いによって、その動植物、自然の権利は可能になると見るべきなのであろう。

理屈をいう人なら、自分の望む通りに権利・義務は拡大して使用できることであろう。社会と無縁の物理学でいう原子なども権利をもって論じることが可能となろう。酸素原子は、電子を回りに確保しているが、それについて、酸素は8つの電子をもつ権利を有すると語れよう。6つしかなかったら、あと二つの電子をもつ権利があるということになる。あるいは、水素に対しては、酸素は、二つの水素をもつ権利(right(正当性))があって、水になる権利(right)がある等とも。