7-4-5. 生き物でも植物には苦痛がない
動物に権利をいうことは、権利義務の規範意識がなく「猫に小判」であるとしても、ひとと同じ苦痛をいだくものへの慮りとして、これを認めてもいいと思うひとが時にある。だが、植物に権利をいうとなると、否定的になるのが普通であろう。権利は侵害への対抗措置であり、侵害ということでの苦痛をいだく人間と動物には認め得ても、植物は、脳・中枢自体が存在せず、権利・義務などの規範意識どころか享受への感覚感情的な感受能力もなく、侵害への苦痛をもつことがないから、植物権を語ることは、稀有である。山や海等での植物権の主張は、ニュースになることがあるぐらいに奇をてらったものに感じられる。
ひとが動物を食べるのは、殺してのことだが、これには動物は、抵抗し殺傷に苦痛をいだき、ひとと同じように、もがき苦しむ。苦痛をもっている動物は、ひとと同じ快不快に生きる点では、「有情」として仲間であり、同じように苦痛回避に懸命になることである。孤島にひとり住んで、動物と植物があって食糧にしなくてはならないとなると、これを料理して抵抗がないのは、植物であろう。動物は、自分と同等の苦痛をもつから、これを殺害するには、それ相当の覚悟がいる。食べるのは、ほかに何もなくなってからとなろう。その点、植物は、苦痛も快ももたないから、ひととの距離が大きく、食糧とすることにも抵抗感はない。
権利は、法人のように擬制(fiction)的に人とみなして、権利あるものとすることがあり、植物の精や霊を見るひともいることだから、植物に権利を想定することができないわけではない。大きな樹木には、それに宿った霊があるという昔話や神話は、どこにでもある。大木を切るときには、その大木の霊に切ることの許しを求めるという儀式は、普通に行われていた。そういう場合は、権利も意識されえたことである。人権と同様に、木々の木魂の樹木権、植物権である。その木魂に苦痛を与えることへの遠慮をふまえた、樹木の生存権である。実際には、樹木には、中枢がなく、痛みも物思う霊も存在しないのだけれども、それがある人間のような霊的存在を想定して、ひとは、これに配慮することができる。存在しない幽霊を見る人がいるように、木の魂を想像して、卓越した人格に対するようにこれに関わることはできる。人が義務をになうことによって、木魂の擬制的な権利を語ることが可能となる。
権利は、これに実効性をもたせるには、義務が必要である。権利を侵さないという禁止が必要で、その禁止を守らないことは許されないという義務があって、権利は、実質的な意味をもつ。切り倒してその神木の生存の権利を侵すことの禁止が義務であれば、その木の権利は実効性をもつ。切ったら、切らない義務を守らなかったのだから処罰されることになる。この義務がないと、抑止力はなくなる。ひとが「切らない」等といった義務を担う気がなければ、その植物権は成り立たない。
法的な権利になると、義務を課された方が大きな負担を背負うことになりかねないことで、簡単には、これを受け入れて認めることはできない。だが、道徳的な権利義務の場合は、義務といっても負担を負うことをできるだけ受け入れて実行しなくてはならないというだけで、それを背負わず放置したとしても、刑罰に処されるわけではないので、認めることがやさしい。道徳的権利を自然のものがもつことが、その自然を損なわないようにと注意しなくてはならないという程度であれば、権利とすることが誇張で、富士山の権利など、過激な擬人化だと思っても、あえてさからわず受け入れることが可能ではある。
ただし、あらゆるものに権利を言いだすと、人の権利自体もそのレベルに合わせて、軽く見なされることになりかねない。権利の拡大、万象への適用が、人間の権利をそのレベルへと落とすことになるのだとすると、権利義務への規範意識・自由意志をもって生きる人間の、尊厳ある理性的営為が蔑ろにされることになる。