7-4-3. 苦痛をもつものの特権的地位
日本では、動物とひとは、同じ「有情」のものとして、特別視する。物は、「ある」というが、動物とひとは、別の言葉で「いる」と言い、その存在を別格扱いとする。同じ有情、快不快の感情を有した存在であると、動物と人を同列にして重んじている。権利は、享受の自由、その資格を語り、快を求め欲すること、それを阻害しての苦痛から逃れ守られるべきことを謳う。権利は、享受が好きなようにできているのなら、主張することはない。多くの場合、それが阻害されて享受が拒まれて苦痛になることにおいて、この苦痛回避のために権利の主張がされる。この苦痛回避は、ひとでも動物でも切実な求めであり、ひとと動物はその点では同等である。苦痛から守られ保護されることを求めるところに権利があるのならば、権利は、動物にも言われてよいのではないかと進め得る。植物は、損傷を受けても苦痛を抱く機能自体が存在しないから、人や動物のように、苦痛を回避したいと動くことはなく、苦痛からの保護を謳う権利とは無縁の存在である。動物は、その点では、ひとと同じで、苦痛から保護されることを求める特別の存在となっている。苦痛からの保護に権利の内実があるのなら、動物もこれに該当する存在だということになる。
苦痛を感受する能力の有無が、権利成立の根本的条件になるのだとすると、ひとと動物は、そういう特権的な地位に立っているのである。動物に権利を与えることに行き過ぎを思うのは、そういう権利付与の事実が、今はないからにすぎないということかもしれない。かつては、人権はなかった。古代では、奴隷は物あつかいであった。奴隷は人の所有物であったというと、現代人にとっては理不尽と感じられることだが、動物への権利も、いまの時代には、なお、それだけの余裕がなく、感覚的に受け入れがたいというだけのことかも知れない。
権利を認めることは、これに無関係の人には、容易なことである。だが、これに関わる人にとっては、義務負担を承知することだから、よほどの覚悟をしなくてはならないこととなる。権利は、それだけでは実効性をもたず、義務負担を受け入れるものがあっての権利の享受である。熊の人里への進出が昨今問題となっている。動物権を認めたらいいではないかと都会の者は安易に考え得るが、熊の被害にあっている者は、熊を殺処分することを禁じて保護する義務を背負うことになるので、簡単には動物権を承認するわけにはいかない。権利を有するものには、義務が双務的にともなうのが普通でもある。自分の権利(快享受の自由)は主張するが、負担の義務(苦痛の甘受、忍耐)は知らないというのでは、関わる人は、権利を認めることに躊躇するであろう。自分は商品を自由にする権利があるといって、これを自宅に持って帰りながら、支払いの義務は、そういう負担・痛みは知らないというのでは、権利は認められない。売った者は、「あなたには権利はない」と、取り返すことになろう。熊に動物権を与えて殺害しない義務を人が背負うとしても、熊が人を殺さない義務を担うことはありえない。これでは関係する人々は、熊に権利を与えることには反対となるであろう。
ひとと同じように苦痛回避を切に求めるからと、動物に権利を認めたとしても、その動物は、負担・苦痛の義務は一切担うことがないから、権利も認められないということになるのが普通である。動物は、そういう責任・義務ということでは、これを担うこと自体が不可能なことである。動物は、規範意識を、善悪の、あるべき当為の意識をもつことができない。義務意識は当然もてない。権利自体についても、そういう意識をもつことはない。権利を与えたとしても、猫に小判である。ひとが、動物愛護の精神から、苦痛を与えないようにと義務を担う意志を固めることによって、動物に擬制的な権利が生じるのみであろう。