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2026/04/02

世界観を創る苦痛

7-4-2. 快苦の功利主義からは、おのずと動物権が出来    

近代の快楽主義である功利主義は、ひとは動物と同じように快不快によって動くとし、快(pleasure)が善で苦痛(pain)が悪であると主張した。そこから、快を求め苦痛を回避するに必死なのは動物でも同じだから、ひとが侵害・苦痛から保護される権利をもつのならば、動物にも権利をとの発想・主張が出てきた。

ひとと動物は、快苦の感情を持って動く事では確かに同一である。しかし、ひとは、この快苦の自然を超えて忍耐をする。苦痛から逃げるのではなく、必要なところでは苦痛を受け入れてこれを手段として利用する。快の欲求も制御し、苦痛になってもこれを回避せず耐えて理性的意志のもとに生きようとする。さらに、超自然の精神的存在としての人間は、快を目的とするのではなく、快(喜び)はなくても価値獲得できる事態を求めるし、精神的な苦痛は、人を種々に痛めつけるが、これを必要なら甘受もする。人は未来に生きるがゆえに絶望もするが、この絶望は、人間的精神固有の苦痛になる。快苦を同じように抱くとしても、それへの関わりでは、動物と人間は異なる。なにより、動物的感性的な個別自然を超越した普遍的概念の理性世界に人は生きる。その卓越した超自然の理性的営為においてひとの固有の尊厳も可能となる。ということでは、単純化した功利主義的な発想で、動物とひとを、快苦で同じだから同一の存在とすることには難がある。苦痛があるからといって、動物にもひとと同じ権利があるというのは、人間の理性的尊厳の方面からいうと、短絡的である。

奴隷には、権利・人権はなかった。苦痛はまったく同一なのにである。要は、権利は、排他的に利益を独占すること、苦痛から免れ得ることを、その集団の(法)規範として承認するかどうかということである。したがってまた、その利益を守るよう、侵すことがないようにと義務を課すことが受け入られるかどうかということである。人権は、近代になって承認された権利である。動物の権利もそれを時代が承認するなら、その分ひとが義務を背負って不自由になることに納得するなら、権利として承認できることではある。それには、動物が人と同じように苦痛をもった存在であることが説得・納得の根拠となりうる。ひとも苦痛は何といっても回避したいことで、動物でもそれは同じであり、動物に苦痛を与えてはならないと動物権を言うことに、ひとは自身の感性を振り返りつつ同感することはできる。とはいえ、動物は、権利を自身で思うことも主張することもない。人権は、人が求め主張したことだが、動物権は、動物が主張するものではない。動物権は、享受の自由(の主張)から始まるのではなく、それに対する人の義務の方から始まる。人が動物を守り保護する義務を思い、義務を自身に課すことをもって、その対象の動物に権利を生じる。動物権の可能性は、ひとえに、人間が動物保護の義務を背負う覚悟をするかどうかによる。

肉食動物は、常に草食動物に苦痛を与え、命を奪って生きている。草食動物が、苦痛を与えられない動物権をもつには、肉食動物による捕食の侵害を禁止する必要がある。だがそれでは、飢えている肉食動物の生存の権利は成り立たない。ひとが勝手に動物たちの思ってもいない権利・義務をもって行動規範としようというのが無理なのであろう。かれらには、理性的な規範意識などなく、権利・義務意識など皆無で、行動は、快不快の自然により、自然的衝動によって動くのであり、善悪の規範のもとにいる人間とはかけ離れている。狭義には、人間の間のみに、権利義務を語るべきであろう。行動規範としての権利・義務は、理性的存在の人のみに通用することである。ただし、ひとは、その義務を動物の保護に向けることもできる。それが、結果的にはその動物の利益を守ることとなり、権利をもつのと同じ状態になって、その限りで、動物権を擬制的には語りうることとなる。