7-3. 苦痛をふまえて生きる人と動物
生きて動く物は、苦痛をもつ。だが、生命はあっても、動かない物、植物は、苦痛をもたない。植物は、大地に根を張って静止状態で、接しているものをもって同化し異化して生きる。そこに定着しているので、外界が変化したり脅かしても逃げられない点においては、なされるがままとなる。植物は、植わった物である。これに対して動物は、動く物として、食べ物等を求めて探しまわり、かつ自身が侵害されることに対して、これから逃げたり、これを排撃したりと、能動的に動いて身を守りもする。生体が動くためには、その動きを担う諸末端と全体を一体的に動かす中枢をもって、この中枢は、末端の損傷には苦痛を感じる痛覚をもち、その損傷の危機的状態を把握することが必要となる。生が順調で保護されている安全な状態では、快をいだき、一層の生促進にと快はアメともなった。苦痛は、逆にムチとなって、危機に覚醒し集中した対応をとることとなった。
日本語の世界では、動物と人間は、同じ「有情」と捉えられる。植物的生とはちがって、情を有した、つまりは、快不快の感情を持ち、苦痛を持って動く存在として貴いものとみなされている。石や樹木は、それを「ある」というが、犬もひとも「ある」ではなく、「いる」と別格扱いする。ひとも動物も、苦痛をふまえて、自らが動く有情の存在としては同一ということである。仏教は、あの世の安楽に対して、この世を「苦界」と捉えた。人も動物も皆、苦痛の存在だということである。ひとは、快苦を有する、この有情の動物の頂点にたつ。日々は、ひとも動物的な快苦を中心にして動く。かつ、それを超えた快不快の上になりたつ超自然的な営為としての精神的な領域を確立して、動物的な自身をそれに従えて至高の存在との自負をもって生を展開している。快苦のうち苦、苦痛は、精神世界でも大きな意味をもっており、精神にのみある苦痛である絶望とか不幸感等によって、ひとは、強く押されて動く。快の方は、あまり意味をもたなくなって、生促進については、快によるのではなく、精神的世界での価値あるものによって、これを確保することを目的にして動く。経済的価値、財貨の獲得をめざし、精神的な価値の真善美等を目的として、その手段として苦痛の甘受が必要なら、苦痛から逃げず、これを耐え忍んで、輝かしい目的に向かおうとつとめる。
ひとが動物と異なって尊厳を有した至高の存在となっているのは、理性を獲得して普遍的な概念世界、精神世界を構築したところにある。自然因果の世界を超越して目的論的な生き方ができることになったのである。未来に目的を描き、これを得るためには、手段として苦痛を受け入れることが必要と分かれば、ひとは、この苦痛から逃げず、苦痛を甘受しこの苦痛の手段を実行して、目的としての価値を獲得できることになった。自然のままに苦痛を回避したり攻撃して排除するだけではなく、ひとは、必要なところでは、超動物、超自然の行動を起こしえて、苦痛を甘受し、忍耐することができる存在となっている。人は動物として「苦痛の存在(res
dolens)」であるが、さらに、理性・知恵をもった者、「知恵の人(homo sapies)」として、この苦痛を甘受し、苦痛を「忍耐するひと(homo
patiens)」となっているのである。