7-2-7. 痛みにとらわれたマゾヒズム・サディズム
加虐趣味も被虐趣味も、苦痛への常識的対応から外れている。だが、それは、生一般に関してではなく、性的快楽の手段に苦痛を採用する悪趣味に限定して言われてきた。それにしても、お互いが愛し合い慈しみ、快を与え合う性愛であろうに、サディズム(加虐性愛)・マゾヒズム(被虐性愛)は、その逆を、苦痛を与えて満足し苦痛を受けて快の興奮を得るということで、痛みにとらわれた特殊な「痛む人(homo
dolens)」である。
そういう性的快楽とは異なった、被虐の幼児体験に由来するマゾヒズムもある。親からの苦痛を受け入れることで親とつながりえて、死なずに済むということが重なれば、受苦に愛情の欠片を見出すことになる。ちょうど、プロテスタントが、世俗の辛い仕事を神からの辛苦の使命と解することで、辛いほどに、それだけ神から見込まれ、しっかりした使命を与えてもらえているのだと思い、神との強固な結び付けを見るのと似たものになる。親から虐待されるほどに、親から見捨てられずに安心できるという心的機制になっているのだと言われる。
被虐には、自分で自分に苦痛を与える類いのものもある。リストカットの自傷行為は、それで自己が直接、快を得ようとしているものではなかろうが、その方面の研究では、腕を切っての苦痛は当然あるが、脳内には快楽様物質が分泌されているともいう。自罰は、自己が自己に苦痛を与えるが、これは、普通は、合理的なもので、自己への被虐とは、別にされるべきであろう。悪しき自分を自己内の(社会的規範を内在化した、決してエゴに贔屓などしない)良心が罰する。自分を責め自分を自身で罰するが、あるべき処罰であって、虐待、被虐ではなかろう。殺人犯のレイプで生まれ、母親にも捨て子されたと知っている者が大きくなって自虐的自罰的になった場合、自己をなす人格(魂)は、自己内の憎き父・母を身体に見出してこれを痛めつける自虐が生じるかも知れない。身体の痛みをもって、そのひと時、魂は鬱憤を晴らして落ち着きを得る。せつない「我痛む 故に 我有り(doleo
ergo sum)」という我(魂)の存在の感得となる。
生理的快不快と、精神的なそれは、同一人の同じ場面に反対の感情を生じることがある。自虐・自傷では、生理的には自らを傷つけて苦痛なのだが、それが精神的には快になるようなことがある。レイプなどでは、逆に、屈辱的な事態に精神は悲痛であっても、生理的に恥部を刺激されて生理的な快楽をいだいてしまうことがあるという。男子がレイプされるとき、自らのもとで勃起し射精したのなら、快楽を得たのであり、レイプといえるのかとほかの男子は思うことがあるが、やはり、意志に反しての勃起であり、自身の身体への嫌悪感も加わって精神的に大きな屈辱体験となるようである。
サディズムは、加虐性愛と訳されるが、性的なものに限らず、加虐愛は多そうである。本来、異性生殖では、優秀な子孫を残すために、オスは、弱いオスを排除して独占的に強者が生殖行為をするようになっている。ひとの性的行為もその延長上にある。その原始の攻撃的心性をより強く残しているのが性的なサディストなのであろうか。
しかし、加虐的な心性そのものは、人間社会では、原始以来、いたるところに蔓延っている。社会的地位を争い、冨の独占を争い、自他の優劣のマウンティングを、動物以上に頻繁に行っている。人間は、生理的にはかなりが同じ能力をもつ。差異がはっきりしないので、なにかあると、競争・闘争をもって、わずかの差の決着をつけようとする。人の場合、加虐・被虐は、見るだけでも、想像力たくましく、その気になって、これに興奮する。テレビなど、実際の戦いには加われない傍観者の位置にいながら加虐を楽しむ人は多い。サディスト、いじめることに快感をもつ者は、生理的身体的なものに限定されることではない。社会的精神的世界にも、それは満ち溢れている。今年の日本のノーベル化学賞受賞の北川先生は、海外での研究発表で多くの参加者から罵倒され、夜ひとりベッドで悔し涙をながしたことがあったと述懐している。そういえば、iPS細胞の山中先生も、臨床医であったころ、手術などの要領がよくなかったのか余計者扱いされて「じゃま中」とあだ名をつけられたことがあったとか。その分野のトップの人ですら、加虐の犠牲にあっているのである。ましてや、一般の者は、である。