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2025/11/20

世界観を創る苦痛

7-2-6. 悲観主義-痛むひと (homo dolens)   

 この世界には、同じ条件下にあっても、これに楽観的楽天的なひとがあり、逆に悲観的なひとがある。楽天・楽観主義(optimism)とは、「最善(optimus)」がなると想定する傾向のひとであり、悲観主義(pessimism)とは、「最悪(pessimus)」が生じると想像する傾向の強い人になる。楽天は、楽観と並ぶ。同じ意味合いであろうが、別の言葉をもってする以上、一応の区別が感じられてしかるべきで、あえて区別するとしたら次のようになろうか。楽天の方は、天、天命とか運命という、この世からいうと偶然に属する事柄とか、自分たちが自由にはできない物事を、気軽気楽にかまえて気にしないで楽しむことであろう。楽観は、観とおす未来の未定・未知の方向に関して、これを気楽に肯定的にうまくいくと観る傾向の強いことを指すのであろう。楽観的な人は、未来に希望をより多く見出すひとになる。逆の悲観的なひとは、その反対である。未来方向を観るに、希望よりは、絶望の方を、悪いことになる方を気にしてこれにとらわれる者になる。過去方向について、楽観は楽天でいうだろうが、悲観の方は、悲天といわず、同じく悲観的という。過去未来にかかわらず、要は、理解・解釈であり、何にせよ悲色の眼鏡で観るということであろうから、悲観ですべてを言うといいのである。楽天を言うのは、観るときの好都合な方への肯定的楽観的解釈ということよりは、生きざま全般について、性格的なものとして、気楽な構え、ノー天気、のんきさが身についているということであろうか。 

 同じ事態を悲観的にも楽観的にも解釈できるということは、基本は対象世界の問題ではなく、観る本人の姿勢の問題だということである。いうなら、同じ世界について、違った色眼鏡でこれを観るのである。陰鬱な色眼鏡で見れば、世界は陰鬱に見える。明るい眼鏡なら、明るく見える。当人の姿勢・生きざまの問題ということである。ひねくれて敵対的に社会を見る者もあれば、お人よしで、だまされ続けても本性からの悪人はいないと思って生きるひともいる。病気で一時的に世界観が悲観主義になることもある。鬱病になれば、暗い色眼鏡をかけるのと同じことになって世界は陰鬱なものに観えてくる。いわば、生理的に悲観的になってしまう。

快不快では、快は、すぐに消えるし、同じ快は繰り返すと快ですらなくなっていく。逆の不快・苦痛は、わずかなことでもすぐ生起するし、これが有る限り意識を占領しつづけ忘れることなく持続する。大きな苦痛が生じると小さな苦痛は消えるが、その大きな苦痛が終わったらまた、消えていた小さな苦痛が浮かび上がってもくる。足を踏まれた者は、その苦痛にあったことを、ながく忘れることがない。だが、快・喜びは、感謝感激だった恩すらも、すぐに忘れる。ということは、ひとは、苦痛にとらわれる自然にあり(生保存には、破壊を知らせる苦痛はなにより大切である)、損傷・喪失の感情である悲しみ、悲痛を予期しがちともなる。悲観主義になるのが普通ということになろう。仏教は、この世界を本源的に苦界になると見た。ひとは、「我痛む ゆえに 我有り(doleo ergo sum)」であり、「痛むひと(homo dolens)」と言っても良いであろう。ひとは、生の損傷の苦痛を気にするのが普通であり、これを気にせず、気楽に構えているのは、むしろ特殊ということになろうか。悲観とちがい、楽観では、楽天を別に言う。楽天は、「我痛む」の苦痛の悲観主義になるのが普通の「痛むひと」の中で、そうならず、苦痛になろうことに注意するよりも、快や楽の方に目をむけて、世界はうまくいっていると感じる特殊な者として際立ち、ことさらに楽天という言葉をもってするのであろう。

自然を超越した理性意志の溢れる魂のもとでは、自身を襲う苦痛に反発しチャレンジ精神を鼓舞することにもなる。苦痛を乗り越え挑戦する者は、価値ある目的に向かうのであり、勝利の楽しみを未来に描いて実現しようと挑戦する。その限りでは、「楽しむひと(homo laetans)」となるのである。だが、失敗に終わることも多々ある。その間、苦痛・悲痛の思いにとらわれることでもある。「痛みのひと(homo dolens)」に舞い戻る。しかし、その痛みをばねにして再挑戦する。痛みは、自身の限界だと消極的になるのではなく、乗り越えていくべき跳躍の場だと、奮い立つ。ひとは、これに耐え、これを乗り越えて前に進むというチャレンジ精神をもつ。理性をもって耐え忍んで未来に生きるのが人である。ひとは、本源的に「痛むひと(homo dolens)」であるけれども、その理性存在のゆえに苦痛への「忍耐のひと(homo patiens)」なのである。その精神・意志は、その苦難への挑戦を生きがいとし、目的という価値獲得を楽しみとして楽天的で、「楽しむひと(homo laetans)」になっているのでもある。