7-3-1. 動物的生の存続を、苦痛の有無で確かめることがある
生命体としての生き物、生物は、大きく動物と植物に分けられる。動く物が動物で、動かず植わっている物が植物である(ただし、生物の中には、ミドリムシのように、葉緑体をもって光合成して植物的であり、かつ鞭毛をもって動いて動物的な、「動植物」も存在する)。その動物が、動くとき、その末端の手とか足になるようなものが、あるいは、体の前と後ろとが、別々に動いていたのでは、ひとつの動きはできず、ひとまとまりの整然とした対応はできない。それには、その生命体全体を一体的に動かすものが必要である。これを担うのが中枢である。末端への連絡を神経系(遠心性神経)が行い、一つの生命体としての運動を可能とした。かつ、その中枢は、同時にその動きのためには末端からの情報を感覚(求心性神経)でもって有しているのでないと、適正な運動は不可能である。熱いものに触れたとすると、これを痛覚で損傷としてうけとって、これを回避する運動をすることとなる。そのことで生は、おのれを保護することができた。
動物は、感覚をもち、これを中枢に伝達して、逃げるとか攻撃する等の運動を行うが、そこでの感受し反応する有情の情の根本は、快不快であろう。そのうち、快は、事がうまくいっているときの感情として、動くことがなくても、或いは、動くとしても、切迫的なものでなくてよい。だが、不快、その強烈な苦痛は、この苦痛の事態を回避することへと火急の反応をもつことをその生に強制する。そのように反応することで生はその生命を保護・保存できるのである。動く物であることが動物の根本特性であり、苦痛が感じられなくなった動物的生命体は、その存続があやうくなる。苦痛になって何はおいてもこれに反応してこれを回避するようにと運動するものは、生きのびるが、その苦痛を感じられないものは、生を危うくする。痛みを感じることがその生にとってはもっとも大切なことであり、その存在は、苦痛を感じる存在、「痛むもの(res dolens)」だということができるであろう。
快はなくても痛みがあれば、その生はおのれを全うすることができる。動物は動く物だが、動くことが必須であるのは、なによりも苦痛に対してである。快であったり、感じるものがなければ、そこに不動になっていてよい。動く物でなくてよい。だが、苦痛に面しては、これを回避するために、逃げるとか排撃するとかして、かならず動かねばならず、動く物の本領を発揮しなくてはならない。苦痛が動物であることを証し明かす。有情の根本は、痛みを感じることだといってよいであろう。生あるものは死をもって終わりとし、日々、死に抗して生きている。苦痛は、この死、生の損傷を知らせる感覚・感情であり、苦痛(死)から逃れること、これを回避することで、その生の維持・保存は可能となる。
生きているかどうかを、苦痛を与えて判断することがある。厳密には別の詳しい判定がいるが、動物として生きているとは、苦痛を根源に有した状態だということを踏まえてそうするのであろう。高等な機能は、消失していたとしても、苦痛の反応は生の根源的な反応として、これが残っておれば、生きていると判断できる。快不快の感情のうち、高度なところからもっとも原始的で根源的なところまでに存在しているのが苦痛であり、この苦痛を与えて反応があれば、なお動物的に生を保っていると判断できる。ただし、植物は苦痛を有さないから、その生の判定は、動物的生ということである。人を植物人間(person in a vegetative state)になってしまったと言うことがある。それは、動物に根源的な苦痛すら感じられない、意識の全く機能しなくなった状態を指す。苦痛を感じえず植物神経(自律神経)のみの植物状態(vegetative state)になったものである。