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2025/02/20

苦痛に耐える尊厳

6-7-7-2. 知は、信とちがい、神を懐疑し冒涜する    

『創世記』は、ひとが知恵を得たことに否定的で、これを、楽園からの追放を引き起こした人類の根源的な罪とみなした。これは、宗教としては、もっともなことである。ひとは、真実に生きる存在である。知恵(理性)をもって物事の真実を解明し、これに従ってひとは、合理的に生きるが、その理性知は、真実を追求するがゆえに、虚妄の宗教的信を否定し冒涜する。宗教にとって知恵は、禁断の実である。 

宗教に必須の心の在り方としての信、信じるということは、本来、知ることとは相いれないものである。信じるのは、知りえないものに限定される。知ったら、もう信じる必要はない。事故に巻き込まれて知人が死んだと聞いて確かめえないときは、信じる以外ない。だが、その死体を見知った時点からは、もはや信は不要である。重大な物事が存在しているらしいということがあっても、それが知りえない状態では、身の対処のしようがない。そこで、全力を尽くして知ろうとする。本当かどうかは、分からないから、知れるまでは、知りうる情報を収集しつつ懐疑することになる。知れば、懐疑は無用となる。本当か嘘かと分かる。だが、最後まで知りえないとき、これを確定して反応・対応するべきことがあると、あえて懐疑を停止して、これを真として受け入れるか、偽として排除するかを迫られる。そのとき、知的な懐疑のままを踏まえる者は、真とせず、不定か偽にととどめる。そこで真とは知りえないのだが、理性の懐疑を停止し麻痺させて、真として受け入れるのが(したがって、知からいえば、真でないものを真と主張するという点からは虚偽をかたるのが)、信じるという態度になる。   

知的な懐疑の心を有した人間は、真実を知ろうとする。その真実のための懐疑を捨てて、言われるものをそのままに真として受け入れるのが信じるということである。知りえないものは、懐疑心をどこまでも働かせるべき対象になるが、その知的営為をストップさせて、信は、成り立つ。知りえたものは、信じる必要などない。神が信じる対象であるとは、本質的に、神自体は知りえないものだということである。西洋では、絶対神の存在を証明しようと必死になったが、結局無駄な試みに終わった。神は、あるのかないのか知ることはできない。神を、「非合理ゆえに信じる」と言った者があるが、言いえて妙である。神の存在は、知では合理的には首肯できない非合理なものである。知としては神の存在を把握することはできない。知るのが不可能だから、信じる以外ないということである。知りえないとき、人知は懐疑を深めるが、有ってほしい願いを強くもつ者は、その人知を停止して懐疑を捨てて、有るものとして信じる。知からいえば、それは虚偽の主張となる。信仰する者が、信にとって知は妨げになると言うのはもっともなことである。絶対神が存在するものなら、人の前に姿を見せるだけで済むのに、それすらできないということは、人の前にときに現れる幽霊以上に、実在していないというべきであろう。真に存在する姿を見ることができ、知ることができれば、万人がこれを受け入れることである。不信心の私ですら、真に神が現れたら、存在を認める以外になくなる。ただし、存在していたのだとすると、絶対神を認めるけれども、人類をさんざん苦しめひどい目に合わせ続けたのであるから、到底、愛や尊厳の対象にすることはできない。

 アダムとイヴは知恵の木の実を食べて知的懐疑をはじめた。その懐疑・批判の関所を通過できたもののみを真として受け入れることになった。超越神は、この世を超えていて知りえない存在である。それを、知的な懐疑をストップして、真として受け入れようというのが、信である。信仰は、知と相いれないものである。神は、知恵を獲得したアダムとイヴを追放した。知恵をもつものは、いずれ宗教を否定し冒涜することになるから、当然と言えば当然の追放であった。