6-7-7-1-1. こどもは、知恵(理性)をもって、人と成る
アダムとイヴは、知恵の木の実を食べて楽園追放となった。この展開は、現代も、子供の成長において、反復されていることである。生まれると親の庇護下の楽園に育ち、動物的欲求に生きて、しだいに成長して、知恵をもつことで、人と成り、自立して、そとの世界へと羽ばたいていく。成人、人と成るとともに、楽園から追い出される。それは、性的な成長ということでもある。アダムとイヴが、知恵をもって、自身の性(恥部)に気づいてきたことをイチジクの葉の話は語る。そういう性的成熟期になると、自分で人並のことはできるということであり独立する。父母という神的存在(なかには、邪神も混じっているが)のもとに育まれての家庭は、子供には、エデンの楽園であり、自立は、楽園追放、失楽園の始まりということでもある。甘えは、もう許されない。保護されていた父母のうちから出て、世間の荒波にさらされて辛い目にあいながら、厳しく困難な道を自身で切り開いていく。人生の苦難に耐えて、自立した一人前の人間になっていく。アダムとイヴの楽園追放の話は、現代の子供の覚悟すべき事態なのでもある。
ひとが人と成っている成人は、『創世記』では、善悪の知恵をもっているということである。いまでも、子供は、大人なら犯罪となり悪となることを犯しても、罪には問われない。動物がそうであるように、善悪を自覚せずその判断がつかないものには、悪を意志しようがなく、悪の責任を問うことができない。善悪を自身が自由に選択できるだけの知恵を備えていない者は、なお、人に成り切れていないのである。そう現代でも見なす。ひとがひととして尊厳の存在となるには、善悪を知ることが出来る状態にまで成長することが肝心となるのであろう。
エデンの園のアダムとイヴのように、子供は、家庭という楽園の中で育まれて、やがて善悪等を知る能力を獲得して、心身が自立した人間となって独り立ちして行く。思春期になれば、少年少女は、父母の子供ではなく、一人前の男性女性として生きていくことを自らに望むようにもなる。現代では、いつまでも、父母のもとにいる者も少なくないが、本来は、性的成熟の歳になると、父母の心配などをよそに、自らに外に出ていき、やがて独立した新規の家庭を作り出していく。アダムとイヴの場合は、追放された。キツネなどの動物の親は、暴力的に子供を追い出す。もう一人前なのだから、後ろを振り向かず前進せよと、尻を押す。
『創世記』のエデンの園からの追放、失楽園の話は、人類が、知恵を獲得して、自然を超越し、苦難の歴史を刻みはじめたことを、辛苦の労働と苦痛の出産をもって示す。それは、自立・独立した若い男女に固有の苦しみであろうし、誇りでもあろう。知恵の木の実を食べたその知は、なによりも善悪の知恵と言われる。子供、未成年ではまだ善悪の判断がしっかりしておらず、良心・良識がなお未成熟である。それを乗り越えて善悪の社会的規範を自覚できる歳になるのが、人と成り成人することである。善悪の木の実を食べて良心・良識をわがものにした各自は、自身において自律的に善悪を判断して、自身の行為に責任をもって生きていくのである。