6-7-7-1. アダムとイヴは、二つの禁断の木の実で尊厳の人間となった
旧約聖書『創世記』によると、アダムとイヴは、禁断の木の実を食べて楽園追放(=人間社会の誕生)となった。肯定的に捉え直せば、動物的自然世界を卒業するには、禁断の木の実を食べることが必要だったということだが、禁断の木の実には二種類あった。ひとつは、アダムたちが食べた知恵の木の実である。ひとは、知恵の木の実を食べたために、知恵において自然を超越して尊厳の存在となっていった。もう一つは、(永遠の)生命の木の実であったが、これは、食べないままに終わった。この生命の木の実については、禁止を犯さなかったということで、通常、無視される。あるいは、食べていたらどうなっているのだろうと、不老不死等で想像をたくましくする程度である。だが、大切なことを語っているというべきである。生命の木の実は、身体的生命が死なず永遠になるという果実なのであろうが、これを食べなかったのだから、ひとも他の動物と同じように、有限なままの寿命をもって死ぬ自然存在に留まるということである。この身体は、ひとの自然の根本であり、自然感性・衝動をもつ。ひとは、いまも、動物と同じように食欲や性欲をもって個と類の再生産を行い生老病死の生命の営みのもとにある。その寿命のある身体(自然感性)を有しつつ、ひとは、他方で、自然超越の尊厳を有する知恵をもっているのである。自然超越の自律的な理性を有しつつ、他面において動物的自然感性を有し続けているという人間の存立の根本様態を、知恵と生命との二つの禁断の木の実の話は、上手に語っていると言うことができよう。
身体自然は動物のままでありつつ、知恵をもって人間となっているのであるが、その知恵、理性知は、ひとを自律自由の存在にした。自身を自身で知って、思うようにと未来に自身を描き出して、未来に自己実現していく。理性は自身で自身を律して生き、その自律のもとに、土台の身体自然を制御支配している。知恵は、自身の自然身体を通して自然そのもの・万物を、しっかりと洞察しつつ制御・支配してもいった。自己と自然の卓越した支配において、ひとは、尊厳の存在となった。ひとの尊厳は、知恵の木の実を食べた理性知に根拠をもつと同時に、その尊厳の、神と異なる特性は、生命の木の実は食べず動物的自然状態を土台にしつづけていることにある。
『創世記』は、ひとが万物に名をつけていき、それを神はよしとし、万物を支配させることにしたと語る。命名は、個物でなく、ロゴス(ことば、理性)をもって、類を把握し普遍的な概念をもって世界に関わることであった。個物世界の感覚を超えた理性知をもってこの世界に関わり、普遍的理念・概念をもって生きていくこととなった。人が支えあう社会についても、自然的な群れを超えて、英知を動員して制御していった。共同的に生きていくうえでの規範を見出し、ひとの諸欲求のもとに物と人の在り様を価値づけ、その選択に関して、より価値あるものを選ぶ善と、逆の悪を見出した。知恵の木の実は、善悪を知る木の実と言われているが、自然的動物世界にはない善悪の規範を見出し、これに則って生きることになった。善悪を知るのは、ひとでも、なお子供では難しい。『創世記』の善悪を知る知恵の実は、果実として、当然樹木の梢に、高みにあって、子供にはとどかないものであった。子供は、動物と同じく、善悪を知らない状態にとどまるので、悪への罪は問われない。ひとが成人、人と成るには、善悪を知ること、良心・良識を具備することが必要なのであった。