6-7-7. 動物的感性を踏まえて生成する人間的尊厳
自然は、自己同一を保つ。動物も、その生の自己保存を根本営為とする。それは、快不快をもって導かれる。だが、ひとは、動物であることを超越する。ひとは、快不快を超越し、今の自己を乗り越えて、明日の自己となる。現在を手段・踏み台にして、より優れた自己を実現していく。未来に高い目的を描いて、これへと成って行こうとする。そのことを阻害する快不快、とくに不快・苦痛を乗り越えて進む。苦痛は、生の破壊であり、これより先にはいくなという自然の戒めで、動物はその苦痛の柵のうちに留まっている。だが、ひとは、これを乗り越えて、超自然の新世界へと進出する。
自然を超越し尊厳をもった生き方をしている人間であるが、他方では、ひとは、自然感性・身体をもったものとして、同時に動物であり自然的存在なのでもある。自然において動物的な存在として生きつつ、理性存在として超自然的に卓越した生き方をしているのである。自然の存在としては、ときには、理性よりも感性を優先して、これに流されて愚かしい非尊厳の状態に陥ることもある。非尊厳に引き込まれそうになりつつ、尊厳であろうとするのが人の日々となる。ひとの生きる世界は、苦痛に忍耐することをもって、超自然的世界へと生き様を拡大するが、しばしば快不快に流されて自然のうちに留まりもする。非尊厳の底辺からこの世の尊厳の頂点までの多彩な世界に生きることになっている。
神は、この有限の物質世界を離れた超越的存在として想定されている。祖先神など、むしろ、この世を離れて、つまり、自然身体を失い死んでのちに可能になるものとして想定されている。だが、この世の人間は、常にこの自然世界に足をつけていてはじめて、その尊厳の理性も、崇高な魂も存在可能となるのである。身体・肉体という土台を失った魂・理性等の精神は、同時にその存在を不可能としてしまう。あくまでも、土台の身体・自然世界があっての、精神である。身体の死は、同時に精神の死となる。脳の機能・働きをもって成立している精神ゆえに、身体としての脳が死んで機能しなくなれば、その高度の、尊厳のよりどころである理性精神も停止して存立不可能となる。
ひとは、日々、身体を手段としてこの世界に関わりをもって、精神的に生きている。自然身体を理性精神が制御して人間らしく生きている。理性的尊厳は、身体自然を見事に制御・支配するところに成立する。だが、自然、身体は、精神の制御にかならずしも従順ではない。身体的感性は快不快で動こうとし、それが理性的にみて有害なものでなければ、ひとは、これを自由に動くままとするが、それが自身や周囲に有害なこととなれば、理性は感性・衝動を抑止する。感性は抵抗するが、これを支配制御して、人間らしい振る舞いをさせる。自然感性・身体的営為を支配し制御して、理性は、あるべき振る舞いを実現して尊厳の自己を保つ。