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2025/01/23

苦痛に耐える尊厳  

6-7-6-3. 個の尊厳の核となる理性は、類の理性からなっている  

 人類の尊厳の核をなす理性は、各人に内在して働く。その個の理性は、個のものではあるが、類の理性を体現している。個の理性は、その論理展開もその使用する概念にしても、すべて類的であり、通じ合う共通の言語で展開する。個のうちで展開する要素の概念から論理まですべてが、その属する全体のものあり、民族、類・種のものである。普遍的な理性的概念とか民族の言語を捨象したら、その個人の理性のうちに残るものはおそらくほとんどなくなるであろう。個として理性的に深慮し意志するとしても、内容的には、人類の全体における普遍的なものの一部である。しかも、各個はその類的な理性・概念を熟知しているつもりでも、意識できているのはほんの表面でしかない。「右」の概念を述べよといっても、普段は自明のものとして何気なく使っているが、その定義すらも、簡単にはできないであろう。いうなら、各個は、類的概念のほんの表面を意識して使用しているだけである。もちろん、その各個に理性概念は内在しており、時間をおいて沈思すれば、ソクラテスが言ったアナムネーシス(想起)をすれば、「右」のうちに、それまで思いもしなかったものが自覚できるのでもある。 

 自然が相手の場合は、水の概念も、原子の概念も、どの言語で表現しようと、原則、齟齬は生じないであろう。だが、社会が問題になる場合は、その社会での生きざまが法や掟となり、習慣・習俗となるから、たとえば、同じ正義(justice)とか同情(sympathy)の概念でも、その言語によって異なることとなる。日本では、正義は、最低限の道徳の面が意識されて、あまり高くは評価されない。同情も、家族内では使わず、他人との間にのみ使う冷たい共感である。だが、西欧では、これらの概念は、高価値・広範囲のものであり、家族内でも、それに従って生きる。とはいえ、同じ人類として、根本的には共通した概念内容をもっており、同じ理性的普遍的な構えを万人共通してもつ。社会的な場面で中心になる理性の働きは、尊厳を有した良心、良識に集約されるが、これは、各個人のうちにはぐくまれているものではあっても個人のためのものではない。共同的全体が良心・良識としてその個に内在化してその意志を導くのであり、良心は、個が全体・理性から外れたことをすると、これを個自身のうちで、いましめ改めることを強要する。良心は、個のうちにあるからといって、決してその個にえこひいきはしない。個のうちの理性は、個を支配し導いて、その尊厳を証する。

 個のうちにあって理性は、これの隅々にまで浸透していて、個が思い意志し、行動するときに、指導的となる。その個が動き考えるのではあるが、つねに、その内的根源において、すでに、理性的全体的に動いているのである。自然科学のように普遍的なものを普遍的に解明したものは、即、誰でもよい個のもとでの理性の成果となり、端的に類の至高性、尊厳を表すが、それが自然感性をもった個と不可分の領域では、例えば、芸術などでは、その個に結んだ卓越性となり、尊厳となる。物理とか数学の領域では、それを進める個人は、だれであっても、似通った卓越した成果を生み出す。微分・積分は誰が発見したのであっても、それがニュートンであろうとライプニッツであろうと、或いはひいき筋が言うように日本の関孝和であったとしても、その数学的内容自体は、その人格の個性とは無関係にとどまる。微分・積分を習うとき、誰の発見かを学ぶことはまずない。だが、感性的なものを不可避とする音楽や絵画では、類の卓越性であるとともに、その個的人格の特性が前面に出る度合いが大きい。ベートーベンの音楽は、彼の個性と不可分であり、それが同時に人類の音楽というものの卓越さを語るものになろう。積分と聞いてライプニッツを想起する人はまずいないが、『運命』ときいたら、圧倒的なひとが、ベートーベンを想起する。