6-7-7-2-1. 人知は、信をもって自身の限界を乗り越えることもある
信は、妄想・蒙昧に人を閉じ込める信仰などとしては否定されるべきだが、信自体は、人間の知とそれに基づく営為にとって大切なものである。妄信・迷信・信仰は、虚妄・虚偽に追随したものとしては否定されねばならないが、信用・信頼・信念・自信等は、社会生活にとって大切な人の心構えとなる。ひとは、なんでも知ることができるわけではない。知では、把握不可能なことがあり、しかも、その知りえないものを、あたかも知った事柄として真実・事実として仮定し受け入れることがあってはじめて前に進めるというような場合がある。そこでは、知りえないから、信じることで代行する以外にない。
日常的に、信じることが価値ある営為となる場面がある。ひとを信用するとか、信頼するというのが、それである。未来の行為の約束は守られるかどうか不明であるし、第一、守ろうという意志を本当にもっているかどうかは、内心の事柄として知ることができない。それを、相手の言うことが真実だと(知りえないから)信じる。信じて用いる。信じるのであるが、なお、警戒心・懐疑心は、残しているのが信用である。特定の事柄の裏づけをもって、その限りで、これを信じ用いる信用である。日本では、さらにその上に区別して信頼を置く。その人格がしっかりしていて全力を尽くす人間だと頼りにできるのであれば、懐疑・猜疑の心は停止しして、その発言や約束を信頼する。信用できる人間は、どこにでもいるが、信頼できる人間は、高く評価された人物に限定される。信用・信頼の信の果たす社会的な役割は、未来に向けて生きる人間の間では、大きい。
自信や信念も各自の営為に大きな力となる。自分の能力・意欲等の在り様を、まだ、発揮してみないとどうとも言えないとしても(したがって、知りえず、信じる以外ないのであるが)、頼りにでき頼もしい能力なのだと自らに信じて自信をもつなら、もっている力はしっかりと発揮されることとなる。信念は、自身の指針・原理とするものを、間違いないものとみなし確信して(真実ではなく懐疑可能なものだが、これを信じ真として受け入れ)、これに与しこれに生きる信であろう。信念の貫徹力は大きい。自信も信念も概ね、信の有意義な在り方であろう。
虚偽で固めた信仰は受け入れがたいが、信者の信のもとでは、信頼や信念のような力を持った、首肯される類のものもある。イエスの起こした奇蹟は、最初の、水を酒に変えるそれは嘘かマジックであろうが、多くの不治の病を治す奇蹟では、病者の信が、知を超えたことを実現していた可能性がありそうである。イエスは「私を信じなさい。私のわざを信じなさい」と言い、これを素直に信じた不治の病者に「あなたの信が、あなたを救った」と言ったが、この信は、小賢しい自己を捨て、全面的に任せるという態度をとり、結果、自然治癒力などが大いに働いて救われることになった可能性がある。これは、現代でもそうである。偽薬が結構効くという。現代医学の粋の良薬と信じて受け入れれば、偽薬も相当に効果がある。任せ受け入れる直な信が、知を超える力を当人に与えることは、大いにありそうである。