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忍耐の方法論



忍耐の方法論
近藤良樹


1. 忍耐できる程度は、目的や賞罰で変わる
動物は、快不快で動く。不快を避け、快を求める。ムチ打たれる大きな苦痛より荷物を運ぶ苦痛の方が小さければ、後者の苦痛をとり忍耐もする。目の前に大きな褒美・アメが見えれば、苦痛に耐えてそこへと進もうとする。ひとも動物として、同様の苦痛甘受・忍耐をする。 
さらに、ひとは、自然を超越した自由をもって目的意識のもとに生を展開する。価値ある目的を未来に描き、それに手段として苦痛の受け入れが必須となれば、ひとは、現にあるのは苦痛のみであっても、これを受け入れて、はるかな未来のために忍耐できる。
忍耐では、苦痛甘受で可能になる目的・価値、アメ、あるいは甘受しないときの反価値・ムチが、忍耐を進める大きなエネルギーを与える。
 
1-1.忍耐は、自己内の苦痛を対象にする 
忍耐は、苦痛にする。忍耐できなくなるのは、苦痛が大きくなって、これ以上は受け入れられないと投げ出すのである。心身の損傷が苦痛をもたらすが、その損傷があっても苦痛でないこともある。苦痛は主観的なものである。苦痛は、自己内のものとして、自身の在り方によって大きくも小さくもでき、苦痛感受の限度も変えることができる。損傷はあっても、必要なら麻酔で無痛とすることもできる。忍耐を続ける必要がある場合、耐えようという主体の意志を強くもつとともに、この耐える対象の苦痛自体を、(気持ちをよそへもっていくなどして)小さくすることができれば、耐えやすくなる。 
1-1-1.忍耐の対象と主体をよく知っていなくてはならない
忍耐は、苦痛(不快)を耐える。その苦痛の実態をしっかり理解してそれに見合った耐え方を工夫することがいる。禁煙の忍耐は、ニコチン中毒の禁断症状に負けないことであろう。ときどき出てくる禁煙中のイライラは、ほんの30分もすれば消える衝動である。そのわずかの間、他のことに集中しておれば禁煙の忍耐は続く。
耐える自分自身についても熟知して、自分の強いところや弱いところを把握し、これを忍耐のために利用する工夫がいる。ひとの眼を過度に気にする自分ということなら、周辺に「禁煙中」と触れ回っておくと簡単には禁煙の忍耐を放棄することはできなくなる。
1-1-1-1.苦痛は、自分の中にあるから、自分で対処しなくてはならない
重い荷物は、ひとにもってもらうことができるが、苦痛は、自分のうちに生じた主観的な感情であり、ひとにあずけることはできない。苦痛をいだく当人が引き受ける以外ない。その苦痛が耐え難ければ、自分でその苦痛を軽減する方策を立て、苦痛の出所の損傷を小さくするとか、感じ方を変えて鈍感化するとか、気をほかの方にまわしていくといった細工を自分でしなくてはならない。苦痛に耐える力、自制する力の方も、ひとから借りることは直接的には無理で、忍耐に挑戦するなかで自身で養う以外ない。
1-1-1-2.衝動・欲求とその辛苦も自分のそれを忍耐は対象にする
 欲求不充足が辛くなると、忍耐しなくてはならなくなる。尿意は、軽ければ苦痛でないから忍耐無用だが、大きくなって苦痛になると忍耐が必要となる。その苦痛を小さ目にできるようにと、気を他にもっていってみたり、苦痛を正面において力んで耐え続ける。自分の衝動・欲求は、ほかのひとに代わってもらうことはできない。他のひとに放尿してもらっても自分の役にはたたない。その不充足の苦痛は、自分が引き受ける以外なく、その忍耐も自分でしなくてならない。
1-1-2.ひとは、その気になれば、どんな激痛にも負けず忍耐できる
 ひとは、自然を超越しこれを支配する尊厳をもった存在で、快不快の自然も超越できる。苦痛からは自然的には逃げるものを、あえて逃げずこれを受け入れることができる。苦痛の甘受によってのみ目的の達成が可能と分かれば、その苦痛を甘受し耐えて、これを手段・踏み台にし、その目的を実現する。
どんな激痛もその気になれば、ひとは、これを耐えることができる。拷問では、耐えがたい激痛が加えられるが、虐殺されても、最後まで耐えきる人がある。発揮するかどうかは別にして、ひとは、どんな苦痛にも耐えうる心的能力を備えているということができる。
1-1-2-1.ひとの忍耐は、自然超越の誇るべき営為である
苦痛・損傷は、自然的には回避されるが、これを踏み台にしてのみ大きな価値の獲得が可能となる場合がある。快不快の自然にしたがうだけの動物的生には、この価値獲得のチャンスは与えられていない。ひとのみが、自然を超越して、さしあたりあるのは苦痛のみであっても、先を読んで、これを甘受して飛躍を可能とする。歩むその先に快があれば、ひとも動物もこれにはひかれて進んでいく。苦痛・損傷の前では動物は立ち止まる。だが、ひとは、その先の価値・目的を見定めて苦痛の犠牲を受け入れ、苦痛を乗り越えて前に進んでいくことができる。
1-1-3.苦痛甘受は、苦痛の客観的原因(損傷)を踏まえつつなされる
 苦痛は、損傷を避けて生を保護するための優れた感覚・感情である。かりに苦痛がなければ、生は損傷をうけても気づかず、生を全うすることは難しくなる。だが、その苦痛と損傷を踏み台にすることによってのみ大きな価値獲得が可能な場合、ひとは、これを回避せず、引き受ける。損傷の大きさを踏まえつつ、価値ある目的のためのやむを得ない犠牲と判断すれば、ひとは、あえて自然にさからい、その損傷と苦痛を甘受して忍耐することができる。
1-1-3-1.苦痛の原因を知れば、それに見合う忍耐の方法も見つかろう
苦痛は、心身の損傷や欠損に起因するのが普通だから、この原因を操作することができるなら、苦痛を小さくして、より耐えやすくできる。騒音が耐えがたい場合、耳をふさげば何とかやり過ごせるであろう。臭いに我慢がならないときは、鼻をつまめば、我慢しつづけることができる。「やることがとろい!」とカメにイライラするウサギが怒りを出さず我慢するには、その怒りの原因となる解釈を変えればよい。「鈍な奴にしては、頑張っている方だな」と思えば、のろまなカメにもあまりイライラせずにすむであろう。
1-1-3-2.忍耐の放棄は、苦痛の限度ではなく損傷の限度を測ってすることも多い
 ふつう、耐えがたい忍耐の限度は、苦痛の限度を指すであろうが、苦痛発生源の損傷・欠損の限度になることもある。格闘技で腕を締め上げられて耐えるとき、その苦痛が耐えがたいというよりは、これ以上耐えていると、腕の骨が砕かれるというところに忍耐の限度を見る。これは苦痛に耐えられなくなって降参するのではなく、犠牲(骨折)とそれのもたらす価値・反価値の大きさを比較して、犠牲が大きすぎると判断して忍耐を中止するのである(骨折の恐怖(苦痛)の耐えがたさということであれば、これも苦痛の限度と解されなくもない)。
1-1-4.自己の感性なり個我の特性をよく知る必要がある
 忍耐するのも、苦痛を感じるのも、自分である。その自分については、ひとよりも自身がよく知っていると思っている。だが、自分の顔は、鏡でもなければ、まったく分からない。鏡を見るように、自分を冷静に客観的に把握する努力をして、苦痛への対処を理にあったものにしないと、せっかくの忍耐の試みも無駄になりかねない。
 苦痛・損傷から逃げず忍耐するのであるから、よく現実をみて忍耐への自分の能力・特性を見極めて引き受けないと、犠牲だけを残す。朝に弱い低血圧の者が早朝の新聞配達を決意しても続かない。
1-1-5.相手のどこを突くと効果的か、自分のいまの辛い所を知れば推測しやすい
 人類は、万人の平等を正義にしてきた。それは、その資質が根本において同じだからそうなったのである。もし、生来の力や甘受性が象とネズミのちがいなら、お互いを差別することが正義となっていたであろう。ひとの場合、相手の内面・苦痛は、直接は知りえないが、自身のうちのそれと同じはずである。いまの自分の耐えがたいところは、敵にもそうである。そこに攻撃を集中すれば、苦痛の限度を超えて、耐えることができなくなる。巌流島の決闘では、武蔵は、小次郎を長時間待たせた。武蔵自身、待つことに弱かったのであろう。
1-1-6.自分が苦しいなら、敵もそうだと知るべきである
戦いで、自分はしんどくなっているのに、相手が平気な顔をしていると、自分だけが苦痛をいだく弱虫なのだと思いがちである。だが、ひとの能力はどんぐりの背比べであり、自分が苦しければ相手も同じように苦しい思いをしている。
敗けるか勝つかは、かなり、忍耐できるかどうかということにかかる。つらくて、もう敗北してもいいとあきらめかける時には、同じことを相手も感じ始めている。勝ちたいのなら、相手より、わずかでいいから長く耐えることである。
1-1-6-1.ひとより忍耐できた者、あとの敗者が勝利者となる
ひとは、どんな能力にせよ、ほぼ似通っているので、到るところで競争となる。徒競走などウサギとカメなら並んで走らなくても違いが分かるが、ひと同士はほぼ同じなので、100メートル走では厳密な同時スタートを強制し、一秒の何分の一かの違いを測ってやっと違いを出せるぐらいである。ちがい、勝敗は、苦痛にどれだけ長く耐ええたかということになる場合も多いが、これもさほどの違いはない。熱さを我慢する大会では、みんなが同じようにギブアップする。全員が苦痛の敗者となる。一番あとに音をあげた者、つまり、最後の敗者を、そのわずかな違いをもって、(かれも敗者なのだが)一応、勝者にする。
1-1-6-2.忍耐では、みんな自分自身と戦う 
ひとは、同じ能力をもつから、なにかあるとすぐに競争となり闘争となる。どんぐりの背比べだから、その戦いは、簡単には決着がつかない。同じように傷つけあって同じように苦痛をいだきあう。最後は、同じように、各自のうちの苦痛、自分との戦い、つまり、忍耐の根競べになることが多い。 
苦しさ辛さの戦い、つまり忍耐では、敵と戦うのではない。自分の苦痛に自分が挑戦するのである。敵も同じように自分と戦う。勝利は、よりよく自分の苦痛に耐えることができた方に与えられる。 
1-1-6-3.どんな強い相手にも忍耐では敗けずにおれる 
 強者には、弱者は、かなわない。負ける。だが、忍耐に関しては、敗けないでおれる。強者が腕をへし折って弱者を打ち負かしても、その弱者は、その激痛には負けずにどこまでも耐え続けることが可能である。拷問で虐殺されようとも、ひとは、しばしばその苦痛には負けないで忍耐しきる。拷問した者は、その不屈の忍耐力に敗けて悔しがることになる。逆に、拷問の苦痛に耐えきれず口を割った者は、あとで憤り悔しがるが、その悲憤は、拷問の非道に向けるのではない。自分の苦痛に負けた自分を、その情けない自分を責めるのである。
 
1-2.苦痛も欲求も小さくできる 
 苦痛も欲求も主観的なものであり、当人の在り方次第で、大きくも小さくもできる。耐えがたければその苦痛を小さくすればよい。極端には、麻酔は激痛を無痛にしてしまう。転んで膝が痛んでいても、別の大事故にあえば、その痛みは消えてしまう。宝くじで3億円入ることが分かって驚喜すれば、当分は痛みを忘れることになる。
 欲求不満で耐えがたければ、その欲求を小さくするか無くするなら、忍耐もいらなくなる。ドライブや狩猟の楽しみを禁じられるのが耐えがたい苦痛だとしたら、車や猟銃を手放し免許を返上すればよい。欲求不満の苦から解放されて忍耐は無用になる。
1-2-1.苦痛忍耐の限度は、客観的に固定されたものではない
 損傷になる限度は、わりとはっきりしている。だが、耐えうる苦痛の大きさの限度は、かなり融通がきく。耐えればたくさんの褒美がもらえるという場合は、そうでないとき以上の忍耐ができる。損傷の限度をこえて生の回復がならない場合になっても、苦痛は必要なら耐えることができる。苦痛の限度は無限大にすることもできる。拷問では、切り刻まれて損傷の限度をこえても、死んでも、その激痛に耐え切ることがある。
1-2-1-1.苦痛の感じ方は、主観のうちのことで、相当に幅がある
 苦痛は、自分の主観のうちにあることで、主観の操作でこれの感じ方を変えることができる。その苦痛を受け入れるとき、同時に大きな快が生じたとすると、その快で苦痛は慰撫され小さくもなる。苦痛の忍耐に慣れてくると、苦痛自体が消えることもある。正座とか現代音楽は、慣れない者には苦痛だが、慣れてくると平気になり、快にすら変わってくる。隣りからの音や匂いは苦痛になるが、同じものを自分が発生させても、少しも苦痛ではない。
1-2-1-2.「どんな苦痛も、耐えられないほどのものはない」というのは本当だろう
 ストア派などの禁欲的リゴリズムの人たちは、どんなに大きな苦痛であっても、耐えられない苦痛はないと言い切る。おそらく、そうであろう。拷問では、どんな激痛を与えても、耐え切る者がいる。損傷は客観的なものとして、損傷を生じるかどうかの限度は決まっていて、ある限度を越えれば腕の骨は折れてしまう。しかし、その痛みについては、平生なら骨どころか皮膚に傷がつく前に音をあげるが、耐えねばならないと覚悟を決めている場合は、ちがう。衝撃が限度を超えて損傷を生じても、それが甚大になっても平然と苦痛に耐えることができる。
1-2-1-3.「忍びがたきを忍ぶ」のも一様ではない
 第一に、どんな苦痛も、忍び難いもの(例えば、昼食前の空腹)であり、忍耐はこれを忍ぶ。第二に、もう苦痛の限界と感じられて忍び難いところで、これを忍び続ける(空腹でも昼食をぬく)のが忍耐である。第三には、その忍び難い限界を、さらに乗り越えて、犠牲がどれほどになろうとも何がなんでも耐え忍んで行こう(空腹でふらふらになっても)と挑戦するのが忍耐である。
1-2-2.忍耐の反復は、苦痛の限度を変える
 嫌いな食べ物は、我慢して食べることを繰り返していると、だんだん慣れてきて苦の度合いを小さくする。苦痛は主観的なものなので、やむを得ない苦痛の場合、次第に自分の感じ方を変えていく。新入生は、学校までが遠くて、はじめは苦痛であっても、通いなれてくると苦痛ではなくなっていく。勉強とか仕事での辛苦は、反復して慣れてくれば、より長い時間を耐えうるようにとなっていく。心身の能力が高まりよりよく適応していけるのであろう。
1-2-2-1.強くなれば、苦痛は小さくなる  
苦痛は、生の損傷の感覚・感情であるから、生が強くなって傷つくことが少なくなれば、それだけ苦痛も小さくなる。皮膚がつよくなれば、同じ刺激でも損傷の度合いは小さくなり苦痛も小さくなる。筋肉が大きくなれば、大きな力を出せ大きな衝撃にも傷つきにくくなる。風邪をひいてもそれへの免疫力がつけば、つぎには軽くてすむ。精神的な方面でも同様であろう。批判罵倒される辛い体験をしても、これに敗けないで耐えておれば、少々の罵倒には平気になっていく。 
1-2-2-2.忍耐は、苦を楽にまで変えていく   
正座の場合、はじめは20分もすれば、苦痛の限界になってくる。だが、慣れてくれば、何時間でも耐えられるようになり、一番楽な座り方にすらなる。ひとは、苦痛への優れた適応能力をもっている。足がそれに見合うようにと感覚の在り方を変え、肉のつき方も変えていくのであろう。
大音響は、そのはじめは驚愕的で耐えがたいと感じていても、二度三度となると、音への感度を下げて苦痛の度合いを小さくできる。轟音に対しての耐性もできてくる。ロック音楽など、轟音でないと刺激が小さくて楽しめないことにもなっていく。
1-2-3.苦痛は、快とちがい長く続く
快は、褒美であり短い。苦痛は、損傷に注目させその治癒に傾注させようという未決感情で、ことの解決がなるまで続き、長期になりやすい。忍耐は、その長期の苦痛、損傷を長々と背負う。その先に見込んでいる価値ある目的が実現できないときは、その長期間はまるまるの骨折り損になる。最後まで貫徹して、その長い辛苦を価値あるものに転換しなくてはならない。  
1-2-3-1.悲嘆とか絶望は、長期で深刻だが、即、治癒のなることもある
精神的な苦痛の悲嘆とか絶望などは、辛く長期にわたる。身体の損傷の治癒は心がけがどうあってもそう変わるものではないが、精神的なものは、心のあり方を変えると、場合によると、たやすく治癒させることができる。失恋で絶望していても、素晴らしい恋人が出来たら、即、その絶望はなくなる。愛しい幼子を失っても、天国に召されたのだと思えれば、気が楽になる。その精神的生を閉じ込めている牢獄を脱出して新天地に引っ越しすれば、すべてがリセットされることもある。
1-2-3-2.苦痛・損傷の蓄積する忍耐では、場合によると早めの放棄の決断がいる
生に必須の欲求の場合、これを抑止しての苦痛は、だんだん大きくなり耐えがたくなる。呼吸は、はじめは欲求ですらないが、息を止めていると、だんだん欲求が顕在化し、辛くなってくる。それでも辛抱していると、失神したり死に到る。その手前で忍耐を諦めねばならない。過労死は、取り返しのつかない愚かしい忍耐になるが、どこかでやめねばと思ってもなかなか区切りはつけにくい。ぐずぐずしている間に、死によって決着をつけられてしまう。早い目の忍耐放棄の決断が求められる。
1-2-3-3.損傷が癒え、欲求が小さくなれば、苦痛も小さくなる 
忍耐している間に、損傷が癒えるものの場合、だんだん苦痛は小さくなり忍耐もしやすくなる。欲求の抑止の忍耐でも同様で、必須のものでは尿意のように我慢するほどに苦痛が激増してくるが、喫煙や飲酒のような嗜好品の場合や、趣味の狩猟・ドライブなどでは、我慢・辛抱をつづけておれば、欲求自体が小さくなる。苦痛は軽微となり、忍耐自体がだんだん無用にもなっていく。
1-2-3-4.忍耐では、待つことが肝要となる 
忍耐は、苦痛に抵抗せず淡々と受け止めて無為に徹底する。苦痛は持続するから、忍耐も持続させねばならない。苦痛から逃げずこれを排撃もせず、手を折り足を折って無為に留まり続け、苦痛を受け入れ続ける。忍耐は、待つことに徹する。機の熟するのを待つ。但し、忍耐は、熟するのではなく、腐る場合もあるから、注意がいる。
1-2-3-5.「待てば海路の日和あり」 
価値あるものの獲得がなると確信して苦痛を忍ぶ。しかし、その苦痛が長引くと、だんだん未来の価値獲得に自信がなくなってくる。苦痛のみで終わるのではないかと悲観的になり、忍耐を中止して骨折り損を小さくしたいと思うようになる。待てなくなる。だが、嵐はいつまでも続くものではない。チャンスがあるものならば、やはり、待たねばならない。待てば海路の日和あり、である。
1-2-4.順序立て、肝心のところのみを忍耐する工夫 
苦痛と忍耐は長期戦になることがしばしばである。長期になるものは、気長にかまえてやらないと、続かない。目標は高く掲げつつも、身近なところでする営為は、メリハリをつけ、無理のないものにすることが必要である。やりやすい我慢からはじめて順序立ててすすめ、肝要なところでのみ、毅然として耐えるような工夫が求められる。
1-2-4-1.まずは、「隗より始めよ」 
長大な忍耐のプランを立てることは必要だが、それをすぐにでも実現しようとすると、苦痛甘受の忍耐は、自分のうちの自然に逆らってすることだし、無理になる。富士山の頂上はよく見えても、一気にかけ登るのは、無理である。まずは、麓の小さな岡を超えるところまでを目標にするべきである。大きな一歩をと決断をためらうよりは、小さな一歩を気軽に踏み出すことである。自動車も自転車も、はじめは、ゆっくりと走り始める。最初から高速にと思ったら、動くこと自体が無理となる。
1-2-4-2.今日ぐらいはサボってもと、なし崩しになる 
忍耐は、いやなことなので、何かにつけて、やめる理由を見つけたくなる。節制など、「今日だけは存分に食べて、あすから、節制を」と、実行を先にのばしてなし崩しとなり、そのうち節制を忘れてしまう。逆に、今日だけは我慢しよう、もう一日だけやってみよう、サボるのは明日にしようということなら、忍耐はいつまでも続く。
1-2-4-3.「あすのことを思い煩うな」 
未来を描けるのは、すぐれた能力である。だが、とり越し苦労をするのは、愚かである。苦痛は、さいわい、現実にそれが現れないと、痛めつけることはない。現にある苦痛がひとを痛めつけるのである。まだない明日の苦痛までも引き寄せて悩み、無意味に耐えることはない。深慮遠謀は別にとっておいて、明日のことは、明日にまかせればよい。ケセラセラ、何とかなる、である。
1-2-4-4.辛苦は、分散すれば耐えやすい 
100キロの重さの砂を一度に運ぶのは、無理である。だが、これを10キロずつに分ければ、たやすく運べる。今日20キロ運べば、あすは、おそらく30キロ運べるようにもなる。
 三本の矢を一度に折るのは困難だとしたら、一本ずつ折れば良い。困難を分散し、能力の限界内にとどめてすれば忍耐しやすいこととなる。
1-2-4-5.小分けした苦痛と忍耐を重ねて長大な忍耐にする
 賢い子は、よりよく忍耐できるという。聡明であれば、周囲への適応にも優れて、自制心がよりよく成長していることがある。忍耐については、頭を使って、長大な忍耐も小分けにし少しずつこれを前にすすめていくことがあげられる。また、はるか先の忍耐の目的や、途中の諸過程を並べて、目的達成の大きさを自覚し諸過程の一々に成果を見出して、メリハリをつけて充実した忍耐を続けることもある。
1-2-4-6.忍耐は、時間を食べて大きくなる
 正義や勇気では、時間は問わない。瞬時の事態でも(銃撃への瞬時の対応など)、成り立つ。だが、忍耐では、瞬時の痛みは忍耐のしようもなく、痛いと思って即逃げたら、忍耐できなかったということにもなる。甘受する苦痛は持続するから、忍耐は持続しなくてはならない。苦痛の受け入れの時間が2分続けば、2分忍耐できたことになる。忍耐は、時間を食べて大きくなる。忍耐は、なにがなんでも、続けることを第一に考えなくてはならない。
1-2-4-7.忍耐は、時間を食べられなくなったら、死ぬ
 正義や勇気は、なにかをする。何らかの動きをもつ。だが、忍耐は、なにもしない。無為である。苦痛回避の動きをせず無為を保ち、苦痛の持続する時間を受け入れ続けることが忍耐を実現する。禁煙は何もしないで、「もう28時間も我慢している」と(苦痛への無為の)時間持続でいう。したがって、そういう(苦痛の)時間を受けとめられなくなったら、時間を食べられなくなったら、忍耐は死ぬ。忍耐の至上命令は、「持続させる」ことである。
1-2-5.苦と楽のミックス、集中と息抜き
 仕事は辛くても、一生続けて行くことができる。不眠不休だと3日も続かないであろうその辛抱も半世紀以上にわたって続けることができる。間に休息をはさんでエネルギーの補給をして、もとの力を回復しつつ続けるからである。
 苦痛への忍耐は、苦痛の時間とそれのおさまっている穏やかな時間をもっていることが多いし、快・楽も平行している。忍耐は、それらをミックスして苦痛を軽減し、休憩をはさみつつすれば、持続させやすくなる。
1-2-5-1.快と共なら苦痛は小さくなる 
 耐えがたい苦痛を耐えるのが忍耐だが、無理をしては続かない。限界を感じるのなら、忍耐を放棄するか、苦痛の軽減をはかる必要がある。激痛には、鎮痛剤を使う。楽しいことをすれば、脳内に苦痛中和の快楽様物質が分泌されて苦痛をやわらげて耐えやすくしてくれる。苦痛は感情であり、身体に緊張・萎縮反応をもたらす。この身体反応と逆の安らぎや喜びなどの快感情をもてれば、苦は小さくすることができる。
1-2-5-2.余裕、気晴らし、休息
 忍耐は、耐え難いものを耐え、ぎりぎりの気持になることが多い。そこで少し無理なことがあると、即忍耐放棄となる。根(こん)をつめるべきときもあるが、そのあとはしっかり気晴らしをし休息を組み込めるようにしないと永続きは難しい。ひとの生は、すぐれたレジリエンス(回復、復元力、しなやかさ)の能力をもっている。それを発揮できるよう配慮することが長い忍耐では求められる。
1-2-5-3.緊張し忍耐しつづけるのを避け、肝心のときのみを耐える工夫
 忍耐では、しなやかでありたい。竹が折れないのは、大きく曲がれるからである。苦痛に我慢していると緊張が極度になり疲労回復もならない状態で折れてしまう場合がある。心身に脆弱さ(ヴァルネラビリティ)のあることにも注意がいる。自分の強み・弱みを自覚していなくてはならない。サボれるところではサボって余裕をもてるようにし、ここというところに渾身の力を発揮できるよう塩梅することがいる。
1-2-5-4.気を他へ向ければ、苦痛が気になる度合いは少なくなる 
 ひとの意識は、ひとつのことに集中すると他のことは不注意状態になる。苦痛は始終ひとの意識を覚醒し注意をひきつける。それは、損傷に注意し対処するには大切なことだが、過ぎると、ひとを疲労困憊させる。苦痛から気をほかへと向けることが必要となる。気になる他のことを意識するなら、苦痛が気になる度合いは小さくなろう。それが楽しいことなら、さらに効果的となる。
1-2-6.欲求への対処 
 苦痛は、そとからの衝撃で生じる損傷に起因するだけではない。内からも生じる。切迫的な尿意は、自身のうちから生じる苦痛である。生に必須の欲求・衝動は、不充足にともなって苦痛となり、これは、必須だから我慢していても苦痛を強くするだけである。どこかで我慢をやめて充足しなくてはおさまらない。だが、嗜好品のようなものは、生になくてもよいものなので、我慢していると、その欲求自体が小さくなる。欲求に応じて忍耐の有り方は変わらねばならない。
1-2-6-1.欲求・衝動の特徴を周知しての対処を
 欲求不充足で生じる苦痛への忍耐は、その欲求の在り方によってまるで異なったものとなる。怒り発作は、ほんの短時間つづくだけなので、ものの一分も気をよそに向けるならその間におさまる。我慢するつもりになれば、そう難しいことではない。だが、尿意は、抑えても、すぐによみがえり、抑え続けるほどに激しい苦痛となってきて、止むことがない。それでも膀胱には余裕があるのが普通だから、骨盤底筋類を鍛えたり我慢を繰り返しておれば、よりよく我慢できるようになるという。
1-2-6-2.欲求(快追及)を小さめに
 現代は、欲望肥大の社会である。商品広告などでことさらに欲望がかきたてられている。見せびらかすのみなので、欲求不満となる。新車の宣伝でそれが無性に欲しくなるとしても、その欲求は売り手によってつくられたものであり、借金するぐらいなら、小さくするか無くする方がよい。タクシーを使う方が経済的だと計算してみたり、宣伝ビラを見ないといった工夫をして、欲望を小さくすれば、我慢する必要もなくなっていく。
1-2-6-3.他の欲求をぶつけて欲求を分散
 苦痛も欲求も意識においてなるもので、意識は、一度に多くを扱うことは苦手である。欲求不充足を我慢することが困難な場合、別の欲求をそこにぶつけることがあれば、はじめの欲求不充足は、意識において小さいものになる。禁煙で辛いとき、アメをなめてごまかす。美味しそうなケーキがあっても、糖分・脂肪分摂り過ぎになりそうなら、他の小魚やナッツをもってすれば、ケーキへの思いぐらいなら、おさまる。
1-2-6-4.欲求を刺激するようなことをせず、気を他のことに向ける
 禁煙では、たばこをそばに置かない。挑発・刺激を避けるためである。あるいは、気が紛れるようにと、アメをなめたり、散歩することもある。性的挑発などは、ほんのわずかのことで成り立つようで、アラブ世界では、性的挑発回避に熱心だが効果は薄く、男子は女性の足先を見るだけで挑発されるようになるという。性欲の抑制のためには、無理して挑発を避けるより、意識を、スポーツや読書、仕事・勉強に集中するなど別のことに向ける方がよさそうである。
1-2-7.苦痛の意味や価値づけ 
自然のもとでは、痛いと即それから逃げて、損傷と痛みを回避しようとする。だが、忍耐は、その自然を超越して、必要なかぎり苦痛を受け入れ続ける。苦痛は、主観内の感覚・感情であるから、耐え難ければ、自身において感じ方を変えることができる。その苦痛を受け入れることの意味・意義をしっかりとらえ、その甘受で可能になる価値を思えば、苦痛を嫌がる度合いは小さくなるし、忍耐への力の入れようも変わってくる。
1-2-7-1.苦の価値付け
ひとは、何につけても目的を描いて事を起こす。それにともなう苦痛は、価値ある目的の手段となるから、苦痛は、価値を可能にするものとなる。さらに、苦難に耐えることで、鍛えられ、その方面の能力が向上もする。苦痛の受け入れは辛いことであるが、その骨折りに見合う価値が獲得できると了解できれば、しっかりと引き受けてみようという気になってくる。
1-2-7-2.苦の空無化
仏教は、苦難のこの世界(=色)に、色即空をいう。確かに、魅力的な音も色彩も、ひとの主観のうちで作り上げたもので、客観的には空無である。そういう世界に実有の価値を見て、人はその喪失等の転変に苦悩する。精神世界では、しばしば邪推・妄想に怒りを発して一人相撲に苦しむ。苦痛のもととなるこの世界(色)を空とあきらめることができれば、苦もまた空無化していく。
1-2-7-3.苦痛は、些事と見直すこともできる
 苦痛は、損傷を知らせる感覚としてあるから、その損傷の想像が加わって苦痛は一層大きなものとなることがある。腹痛が続くと、内臓のどこかに癌でもできているのかもと思い、死も想像すれば、大きな不安となり、苦痛は、一層耐え難くなる。だが、その心配は無用と分かったら、痛みが続いても、苦痛自体には結構平気になろう。愉快なことにでも出会えば、お腹の痛みなど忘れさえする。主観的な苦痛のこと、耐え難ければ、これを些事と見なせるようにすれば、忍耐もしやすくなる。

1-3.苦痛に挑戦する意志主体    
 忍耐は、外面的には何もせず、苦痛の前で穏やかにかまえて無為を持続させる。それが可能となるのは、心中で、苦痛回避の自然衝動と闘って、これが動くのを理性意志が抑止し続けるからである。ひとの忍耐は、自然(快不快)を超越した、尊厳をもった営為であり、自律的な意志がこれを担い統御する。
1-3-1.動物も忍耐するが、快不快の自然に従ってのことである 
 忍耐は、苦痛を受け入れるが、自然は本来苦痛には回避(逃走・排撃)反応をもつ。そうすることで生は損傷を免れる。動物はその限りでは苦痛甘受の忍耐はしない。だが、ときに快不快が複数あって選択するべき状態になることがある。そこでは、自然は、ひかれる快、回避したい不快の大きさの比較のもと、不快が大きくなることを避け、快が多くなる方をとるために、小さな不快を受け入れて忍耐することが生じる。
1-3-1-1.熊は、蜂に刺されながら、蜂蜜を食べる
 熊は、蜂蜜を食べるという大きな快の前では、蜂が刺す痛みは、受け入れて忍耐する。苦を受け入れても蜜を食べる快楽の方が大きいからであろう。その快楽の前では蜂が刺す痛みは小さくなり、甘受可能となる。ひとも動物であり、自然的に快不快に従えばよい場合は、熊と同じ行動をとる。美味のラーメンを堪能するために、20分ぐらいなら店先に並んで待つという苦行を受け入れることがある。待つ不快の方が大きいと思う者は、並ばないが、これも快不快の自然にしたがってのことである。
1-3-1-2.荷車を引くロバは、大きな苦痛回避のために、小さな苦痛を忍耐する
 苦痛は生に損傷をもたらすことを知らせるもので、苦痛を回避し損傷を少なくするのは自然の生保存の根本である。大きな苦痛と小さな苦痛の選択肢しかないのであれば、損傷が少なくて済む方をとる。ロバは、荷車をひく苦痛の方が、鞭うたれるよりましなので、荷車をひく。ひとも叱責が耐えがたく、大きな罰が待っていると思えば、小さな苦痛の勉強や仕事の方にと動く。
1-3-1-3.植物は、風雪に耐えるが、忍耐しているのではない
 動物は、動く物だから、損傷・苦痛から場合によっては逃げることができる。同じ生き物でも、植物は、逃げる足も排撃する手ももっていない。攻撃され損傷を受けるままである。忍耐の権化のような存在である。だが、植物には忍耐を言わない。苦痛がないからである。
1-3-2.ひとは、その意志をもって、どんな苦痛でも受け入れることができる 
 ひとは、動物として自然の快不快にしたがいつつも、同時にこれを超越した理性のもとで、その意志をもって自由に動くことができる。自由な意志は、自律的に立てた目的に向かって、快を自制し苦を忍耐して、おのれを貫徹していく。自然を超越したひとの理性意志は、苦痛回避(逃走や排撃)の自然的衝動を抑止して、どんな苦痛であっても、これを甘受することが可能である。
1-3-2-1.ひとでも幼児などは、理性意志が未熟で、苦い薬は飲まない
 ひとでも理性とその意志がなお未発達の段階では、専ら動物的に快不快をもって行動する。苦い薬は、飲まない。それを飲ませるには、苦痛とならないように、パンにはさんだり、美味しくして快で誘うことが必要となる。ただし、新生児の場合の快不快は、大人のそれとは少し異なる。その市販の乳児用のミルクなど、大人には美味しくもなんともない代物だが、夢中になって飲む。
1-3-2-2.ひとは、日々、目的論的に生きてその手段の苦痛・犠牲を厭わない
 ひとは、日々目的を立てて行動する。ビールを飲むという些細なことでも、まず目的としてこれを描き、そのためには手段として冷蔵庫を開けねばと、動く。因果自然を超越した目的論的営為の実現には、手段の選択とその行使が必要だが、その手段は、目的のための犠牲であり、しばしば苦痛をもたらす。快不快の自然から自由になっている人は、この苦痛に挑み、これを耐え忍び乗り越えて、目的へと邁進する
1-3-2-3.ひとは、苦痛から逃げず、その世界を拡大した 
動物は、目の前のものが快ならひかれて進むが、苦痛の前にたつと、たじろぎ、そこでストップする。だが、ひとは、快であればもちろん、苦痛であっても、逃げることなく、これを受け入れて、その先へと進むことができる。単に苦から逃げないというだけではない。快不快、因果必然の自然世界を超越して、自由の目的論的世界に生きる。目的を好きなように描いて、これのために必要なら苦痛も手段にとりこんで、自然超越の精神世界にと生を拡大している。
1-3-2-4.ひとは、自然(快不快)を超越した理性存在としての尊厳をもつ 
動物は、快不快に従いこれに操られ、その奴隷となり、因果必然に縛られて生きる。だが、ひとは、理性をもち理性意志によって快不快を含む自然を超越して自由になり、自然に従いつつこれを支配するという尊厳をもった巧みな生き方をする。尊厳は、国王とか神といった、至高でかつ優れた支配力をもつ存在に付与される(支配力のないミス世界一、けん玉世界一等には付与されない)。ひとも、自然のもとでは至高で卓越した支配者と見なされて、尊厳の称号を得ている。その忍耐は、自然の苦を超越し、これを制御・支配して、ひとの尊厳を証する。
1-3-3.苦痛回避衝動を抑止する理性の意志、自制心 
 苦痛回避(逃走・排撃)の衝動は、苦痛刺激から直接生じた、ひとを衝き動かす、行為への強い欲求である。衝動は、理性的なチェック・反省をふまえず短絡的に意識にのぼってきてひとを衝き動かす、抑えがたい欲動である。しかし、抑えがたいとはいえ、理性意志の命令の効く意識の範囲内にあって、衝動は、どんなものも意志が統御・抑制可能である。怒りの衝動が生じても、抑止しないと大変なことになると理性が判断すれば、理性意志はこれを抑止できる。意志の通じない自律神経方面の事態とちがって、その気になれば意志は、衝動を抑制・統御可能である。苦痛回避衝動もそうである。
1-3-3-1.ひとは、感情・衝動で動くが、同時にこれを理性意志のもとで自制できる
 自然的には、ひとも動物と同じように快不快の感情をふまえそれに直接する衝動をもって動く。苦痛は、損傷をもたらす警告の感情であり、強い回避衝動を生じる。だが、ひとは、その動きを高度の理性的制御のもとにおくことができる。動物は、感性的自然にしたがい、苦い薬は飲まない。だが、ひとは、理性において、苦痛甘受が必要と判断すれば、その意志をもって自身の感性(感情や衝動の動き)を抑制し制御して自制することができる。 
1-3-3-2.理性による衝動抑止の能力を身につけて、人となる 
 幼児は、苦い薬は飲まない。快不快の動物的自然に生きる。だが、周囲から強制されることをもって、快不快の自然を抑制することを強いられて、だんだん我慢できるようになる。理性の発達で、苦痛甘受などの外的強制がよいことと分かってくると、自身で理性をもって快不快のもとでの衝動などを統御するようになっていく。自制心の形成である。自然的な衝動・欲求が生じても、これを外化する前に理性の統御下に置いて抑制できるようになる。
1-3-3-3.意志は、快の享受を自制でき、不快の回避を自制して忍耐できる  
 動物は、快不快に生きる。ひとも自然的にはそうである。だが、ひとは、快を享受するとき、それの過ぎるのがよくないと分かった場合は、これを抑制し、自制することが可能である。節制することができる。他方、不快は、回避したいものだが、これも必要な場合は、抑止して自身を制御することができ、苦を甘受すること、忍耐が可能である。快不快にしたがって自然のもとに生きていることが多いとしても、ひとは、必要な場面では、理性をもってその意志を働かせることで、自制心をもち、快不快の自然を超越できる。
1-3-3-4.忍耐放棄は、他人のせいにすることはできない  
 苦痛甘受としての忍耐は、自身のうちの自然的な苦痛回避衝動を抑止してなりたつ。自分がその意志をもって可能にすることである。かつ、自分の意志をもって忍耐を放棄するのでもある。どんな激痛からも逃げないという決意を維持している限り、忍耐は持続する。忍耐の持続の放棄は自身がすることである。拷問の苦痛に耐えきれず敗けて悔し涙を流すドラマの場面では、拷問した者の非道はさておいて、まずは自分の情けなさを憤り悔しがる姿を描く。
1-3-3-5.自制心成長不全の驕児でも、その気になれば衝動は抑止できる
 衝動にかられて、反社会的なことをする者がいる。しかし、不倫(姦通罪)などで確実に銃殺になると分かっている場合、どんな色魔でも、その性的衝動は抑止するはずである。自制心成長不全は習い癖にすぎず、思いをあらためれば、甘えを禁じれば、理性をもった人間であれば、その場から即、いくらでも自制できる。衝動買いにしても、衝動殺人にしても、衝動は、意志が本来は効くはずのものについていう。であれば、ちゃんとその理性意志を効かさねばならない。 
1-3-3-6.衝動抑止が効かなければ、効くように工夫する必要がある
 切迫的な尿意など、強い衝動は、そう簡単には意志も抑止できない。理性がいさめようにも、衝動がこれを撥ね退けて突っ走ることもある。その衝動を害のない形にして出したり、そとに出さないような工夫が求められる。かつて夜討ちなどで兵士にバイという轡をかませることがあった。衝動的に声が外に出るのを防ぐためである。
大した衝動ではなくても、その意志のおかれた状況によっては、これを抑止することが困難になる場合もある。酩酊したり、精神的に追いつめられた場合は、意志は、鈍化したり退行する。そういう状態に陥らないように、危ういところでは酩酊しないといった心がけが必要である。
1-3-4.実践主体は、理性をもって知的に判断し、理性意志をもって動く
 ひとには、苦痛となる状態を受け入れて忍耐するべきときがある。その高度の知的能力である理性で合理的に思慮して、苦痛回避衝動の抑止が必要と判断すると、理性は、実践的な意志として働いて、それを実行する。実践理性としての意志が行動を起こして、衝動をうちで抑止し、外的に、あるべき苦痛や損傷の甘受等を実行していく。意志は、実行への力として、一般的にあるべきことを志向するだけにとどまらず、個別具体的なその心身に引き受けて行動することへと進む。
1-3-4-1.目的を描きその実現へと手段を動かす  
理性は、価値ある目的を自由に描き、それのために必要な諸手段を見つけて、一番手元にある手段を実際に動かして、目的実現までをつき進めていく。苦痛となるところでは、自然的にはこれを回避しようと逃走衝動などが生じて抵抗するが、これをひとの意志は乗り越えていく。その逃走衝動をうちに押しとどめ、手段の展開の内的な妨害を排除して、実在する手段を手元にしっかりととらえてこれを動かし目的へと実在的な歩みを進めていく。
1-3-4-2.手元の手段を動かすのは、自分の手足を動かすことにはじまる  
 意志は、理性の働きであり、それ自体は、そとの実在世界とはちがい、単なる観念の動きとして意識のうちにあるのみである。まずは、「鉛筆をとがらせよう」と頭で思う。次に、その観念を実在にまでもっていくという飛躍を実現するため、意志は、自身で動かせる手にと働きかける(鉛筆を握り、小刀をもつ)。その随意の身体をもってその外にある実在に働きかけ、手元の手段を動かし、順次諸手段を目的へと展開する(小刀を巧みに動かし、鉛筆の先を削り、芯を尖らせる)。
1-3-4-3.手の先の道具、機械も自分の意志の延長にする
意志は、身体を動かすことをもって、その向こうにある実在物を動かす。ハンマーをもって杭を打ち、ブルドーザーで岩を動かす。自分の意志が、その観念している通りにと、手を動かし、物を動かしていく。手はもちろん、道具・機械類も、意志の延長物となる。実践理性としての意志は、その観念・思いを実在化してこの世界を自身の観念・思いの通りに実現していく。苦痛の向こうにある、妨害し傷害をもたらす物にも手を伸ばして、この苦痛を排除したり忍耐して目的実現へと歩みを進めていく。
1-3-4-4.ひとには念力はない。単に意志するだけでは、世界は動かせない
意志は、目的実現を想念し志向しても、それだけでは、実際には、実在化はしていかない。かりに念力があれば、思うことはただちに現実となる。メルヘンでは、思うだけで王女を妊娠させる。しかし、この世界では、思うのみだと実際にはならず罪にはできない。手元の実在的手段を動かす意志にまで具体化個別化し、それを実行することが必要である。面倒な実在化だが、念力は、なくて幸いである。もしあったら、世界はまたたくまに無人の世界となることであろう。
1-3-4-5.忍耐は、苦痛の回避衝動と行動を実在的に抑止する
忍耐の対象の苦痛は、意識のうちにある感覚・感情なので、これに理性は直接に関わる。外的所与の色や音と同じで、変えること自体は難しいが、感じ様を変えることぐらいはできる。この苦痛は、ひとのうちに回避衝動を引き起こし外的に逃走などの身体的動きになっていく。忍耐しようとする理性意志は、その身体的なところに働きかけて、回避衝動とは反対の動きをとる。逃げろと指令を発する感情や衝動を直接、理性意志は抑止するか、拮抗的に反対の指令を出して、動こうとする動物的衝動のもとの実在的な身体をして、動かないようにする。忍耐する理性意志は、実在的に、苦痛に対しての無為状態を作り出し、平然さの装いをとることになる。
1-3-5.意志は、感性(衝動や感情)の支えがあると、大きく進む 
 理論理性の営みは、感性がどうあっても、さしたる影響はなくて済む。だが、実践理性、意志は、身体を動かし世界を動かすものとして、身体の有り方の根本をなす感性を無視できない。感性的に無気力状態に陥っていた場合、いくら意志が行動しようとしても、自身を実在化する第一の手段の感性的な心身が動きにくいのでは、うまくいかない。あるいは、相手に嫌悪感をもっていたとすると、意志が親切にするために動こうとしても、その心身の基礎にある感情が、距離を置こうという反親切の態度をとっているのだから、その親切は、スムースには実現されない。逆に好意的感情を抱いている場合は、意志は、感情的な支えをもって、その親切を速やかに実現する方向へと進んでいく。
1-3-5-1.悔しさがあれば、忍耐力・攻撃力は大きくなる  
 懲罰を加えねばと意志しても、憐れみの感情が先だっているような場合、うまくはいかない。だが、そこにあるのが怒りとか悔しさの感情であった場合、理性が攻撃を正義にかない合理的だと進めているのであるから、その攻撃的な感情は張り切る。感情が、理性意志の先を進んで、怒りの破壊衝動を充たせる攻撃へと向かう。忍耐する場合も、悔しさなどの敵愾心があれば、どんな苦痛でも耐えてやるといったエネルギッシュな感性的な支えを得ることが可能となろう。
1-3-5-2.愛があれば、親身になって献身できよう  
 愛は、その対象と一体になろうという感情で、贈与愛はもちろん、奪う愛であっても、その対象は自分の分身扱いになるから、利害・打算を越えて献身的になる。忍耐は、犠牲を必至とするが、愛するもののためであれば、自分の手足が文句を言わず自分にしたがうように、喜んで手足になって犠牲になる。苦痛・損傷の引き受け、忍耐は、愛を証し実現する営為として、一般的な限度を超えて耐えうることになる。
1-3-5-3.楽しければ、心身は躍動する  
 楽しさの感情は、ひとを生き生きとさせ躍動的にする。脳内で躍動的な快楽にともなうホルモンが出て、苦がそこにあった場合はこの苦を中和して小さくもしてくれる。苦痛に身体が緊張萎縮していても、楽しさの身体反応は、弛緩し伸び広がるものとなるから、苦痛の反応を消すようなことにもなる。当然、苦に耐えることもしっかりできることとなる。
1-3-5-4.悲しみ・喜びも、意志を動かす  
 喜びの感情は、その生を活気づけ、意志が行為するための支えとなる。悲しみは、萎縮し打ちひしがれた状態であれば、意志することにも意気があがらないであろう。だが、その悲しみの喪失感にこたえる意志内容の場合は、意志を強く支える。差別されたことへの悲しみを抱き続けていた場合、この差別をなくするための意志の活動ならば、これをあきらめずどこまでも貫いていく情念となって、その差別撤廃の意志を強力にささえ、そこに生じる苦難への忍耐も大きなものにすることであろう。
1-3-6.意志は、思いから行為へと飛躍して、実在的に一歩を踏み出すことがいる 
 理性は、実在世界に関わり、自身のうちに描いた観念を実現しようと、実践的に振る舞う。その実践理性としての意志は、理性のプランを実際に実現するためにと動く。意志は、自己内の観念(計画なり理念・理想)を実在化するために働く。身体に働き道具に働き、ひとに働きかけて、実在的な諸手段をもって世界を動かしていく。観念から実在へと飛躍する意志においては、その実在の中へと一歩を踏み出すことが肝要である。どんなに素晴らしい意志内容であっても、思いのみでは、画餅とどまる。
1-3-6-1.忍耐する意志は、苦痛の現場へと踏み込まねばならない 
 忍耐の意志は、その意志するものへと一歩を踏み出すことがなければ、実際には無いのと同じである。目的実現へと意志をもつのなら、具体的に手段を担い、そのための苦痛甘受へと決断して、実際に苦痛を受け止めることがいる。苦痛・損傷を予期するだけに留まるのではなく、傷つき苦しむことへと決意を固め、現にそこへと飛び込む必要がある。思い(を)切って、犠牲の覚悟を決めて、苦痛を与える実在するものにと関わり、現実の苦痛甘受の営為にと踏み出すことがなくてはならない。
1-3-6-2.コロンブスの偉大さ 
古代ギリシャ以来、地球が球であることは、西洋の知的世界においては常識だった。問題は、実際に大西洋を渡ってのみ、それが実証されることだった。感覚的には、いまでも大地は平らで不動と感じられる。その感性を抑止して、理性にしたがって実際に大地が球であることを確かめることをコロンブスはした。大西洋横断をいくら計画してもその意志をもっても、それだけでは単なる夢・観念にとどまる。それは、実行してのみ価値あるものとなる。コロンブスは、実際に西に向かって出帆し、壮大な夢を現実のものにした。観念を実在に、仮説を真実にと飛躍させたのである。
1-3-6-3.苦痛は、実在への飛躍をためらわせるが、忍耐する意志はいどむ
 意志する事柄が快となるものなら、無精な者でも、スムースに実行へと進む。だが、忍耐の場合は、苦痛が待っているのである。なにもなくても、実在への飛躍には、思うだけと違ってエネルギーのいることなのに、苦痛への挑戦では、さらに、自己内の自然(苦痛回避衝動)からのブレーキがかかる。それを忍耐する意志は乗り越え、覚悟を決め、清水の舞台から飛び降りる。大地に叩きつけられて大けがをし、その激痛甘受をもって忍耐は始まる。
1-3-7.実在への飛躍、実践を後押しするもの  
 意志は、自身の観念・理想を実在世界に実現しようと実践へと飛躍していくが、それを促進するものを内にもつ。自身がそれに関して大きな好奇心をもったり、その実現される価値への貪欲さがあれば、是非とも実現したいということになる。その実践が自分の社会的使命だとか、義務だといった意識をもてることも促進に資する。実践へと追い立てるムチのようなものをもつことも踏み出す力を得させる。その観念を実在化しないと大損害が生じると知れば安閑としてはおれなくなろう。
1-3-7-1.実在・実践と、観念・思いの間の距離を小さくする  
 実践にとりかかると激痛が待っているのだとすると、なかなか踏ん切りがつかないであろう。とすれば、はじめは小さな不快の引き受けで済むように工夫することがいるかも知れない。運動の「う」の字もかじったことのない者が運動をはじめるとして、理想は日々、懸垂なら20回だとしても、はじめからそういうのでは、荷が大きすぎる。初日は、ぶら下がって1、2回力んでみるぐらいから入ったらいいのである。「隗より始めよ」である。可能なら苦痛を予期しないで済む方法で一歩を踏み出して、そこで初めて苦痛体験になることも、衝撃的になるものでないのなら、抵抗なく実践に入る方法となりうる。現に苦痛甘受をし始めているのなら、踏ん切りがつくもつかないもなく、忍耐を進める以外ないこととなる。
1-3-7-2.実践のもつ意義・価値の自覚  
 その忍耐の実践がもつ意味・価値の自覚は、思いから実践へと進むことを助ける。ひとつの苦痛を引き受けるにしても、それのもつ意味・意義は、多くをあげうる。禁煙するとして、それが自身の健康のためだけなら、喫煙は精神的にはプラスの面のあることだしと一歩を踏み出すのをためらう。だが、家族の健康のためであり、たばこ代も馬鹿にならないし、いまどき喫煙していると侮蔑の眼にさらされることだしと思えば禁煙への実行にはずみがつく。
1-3-7-3.習慣化、ルーティン化しておくこと  
 その忍耐が反復求められるものの場合は、それをルーティン(決まった順序だて)化されるようにもっていければ、一々に考え準備することは省略できて、気軽に引き受け、楽に入っていけることであろう。慣れて苦痛も未知でなければ、過度の反応をせずに済み、その苦痛への対処法も戸惑うことなくスムースにできて、忍耐の実践は、よりたやすくなる。
1-3-7-4.ボルテージをあげておくこと  
 なにかを実践するときに、安静にしているところから、突然、高度で激しい運動をはじめることはできない。ウォーミングアップが必要となる。その行動のための馴らし運転がいる。やっかいなことをするには、それ用の心身の活動力、ボルテージを上げておくとスムースにことが進む。中断の期間があると獲得した能力は錆びつくから、その間も何らかのレッスンをして錆びつかせないようにする必要もある。

1-4.目的のための手段、犠牲の引き受け
 ひとは、快不快の自然を踏まえつつも、精神世界に生きる存在として、超自然の自律自由のもとにある。その主体、理性意志の独自的な営為は、目的論的営為となる。目的論は、目的を自由に描き、これを実現するために、まず観念において因果を遡源して、手元の原因を見つけ、この原因を手掛かりに実在世界に飛び込んでいく。実在的な手段の過程を因果に沿って進み、実際の目的実現へと到る。その手段の過程は、しばしば苦痛となり犠牲の強いられるもので、自然的には回避したいものになるが、ひとは、その苦痛にひるむことなく、これを引き受け忍耐を重ねて、目的へと歩みを進めていく。
1-4-1.忍耐する意志は、犠牲的手段を引き受けて現実的意志となる 
 理性は、自由に目的を描き、それを得るための手段を見出すが、それはなお観念のうちのことである。目的実現のための実在的な第一歩は、実在への飛躍は、手元に見出された手段を現に引き受け動かすことである。その手段は、しばしば自然的には回避される苦痛になる。これを回避せず甘受し、忍耐する意志は、犠牲となる手段の現場へと踏み込む。自分のそと(自然や社会)へと働きかけて意志は、実在世界に力を発揮する現実的意志となる。
1-4-1-1.ひとの忍耐は、自然(因果・苦痛)を超越して尊厳をもつ 
 ひとの忍耐は、因果必然の自然を超越した自由の営為である。自由に、未来に望むものを目的として掲げ、自然的因果のうちに手段をさしはさんで、その目的実現の方向へと因果を向け直していく。因果自然に従いつつこれを支配する。そこでの手段は目的のための犠牲の過程としてしばしば苦痛になるが、ひとは、この苦痛から逃げずこれを甘受する。自由実現に自然の因果を利用し、苦痛を乗り越えて、ひとは、忍耐において、自然を超越して人間的尊厳を証することになる。
1-4-1-2.苦痛甘受の忍耐は、速やかに目的へむかう 
 目的のための手段は、これが苦痛の場合、いやなことだから、そこに留まるのは最小限にして目的へと必死で進むことになる。逆に手段が快の場合は、そこに留まりたいということになりがちで、その先の目的のことはそっちのけになって実現に到らないことともなる。苦痛では、自然的には、即回避衝動が生じるから、ひとも苦痛から逃げ忍耐もしない。だが、その苦痛を回避しない積極的な意志をもっている限りでは、忍耐し挑戦する者は、(逃げられないのなら)これを急いで片づけて目的へ飛躍したいと、懸命になる。
1-4-1-3.手段の苦痛によりよく耐えるためには、目的を高くかかげねばならない 
 忍耐の手段の過程は、苦痛・犠牲を被る。もしその結果の目的実現でなるものが小さな価値しかないと分かれば、その忍耐は止めることになろう。苦痛が大きければ、忍耐放棄の口実にと目的の価値評価を下げることも生じる。冷静に見てその目的が是非とも実現せねばならないものならば、そのことを明確に掲げて自身を鼓舞すべきである。実在的な手段のもとでは、その目的は一つにはとどまらず、多く描きうる。受験勉強は、いくつもの大学合格を目的とするだけではない。先生を、家族を喜ばせ、自分の未来を広げるためでもある。魅力的な目的を掲げ続け、それに付随する価値あるものをたくさんあげることは、よりよく耐えていくことに資する。
1-4-1-4.長い忍耐では、手段も目的も再確認が必要になる 
実際に忍耐をすすめていくと、はじめに思っていたよりもその手段の苦痛が大きかったり、その手段をもってするなら別の大きな目的が実現できると分かったりもする。目的についても、その目的の実現にはもっと容易で確実な方法があると、手段を実行しつつ思うようなこともある。適宜、手段を見直し、目的も見直していくべきこととなろう。そのためには理性を常々働かせて、洞察を鋭くし深慮し遠謀することを忘れないようにしなくてはならない。
1-4-1-5.目的は、手段を正当化し、神聖にする
結果がよければ、それを生み出した原因は、それがよくない方法でなされたものでもしばしば正当化される。反道徳的な手段にまで逸脱したのでは正当化できないが、その苦痛の手段の展開が無謀とか無思慮ぐらいなら、得られる結果が大きければ、その手段の愚かしさは、その結果から見直され、なかったことになる。いくら手段が立派でも結果が駄目な場合は、その手段は見かけ倒しと否定される。要は結果しだいである。忍耐の犠牲的手段は、目的達成をもって、はじめて価値あるものとなる。「くたびれもうけ」に終わらないよう、最後までこれを貫徹することが求められる。
1-4-2.目的への手段は、苦でなく、快になることもある  
 目的への手段は、常に苦痛・不快になるわけではない。ときには、快となることもあろう。旅行を楽しむ場合、目的地での楽しみをあげるとしても、多くの旅ではその途中が、いうなら手段が楽しいのである。車窓から見える景色を満喫しての旅である。しかし、ひとの周囲には快より苦の方が満ち満ちていることで(苦は、快とちがい持続することが多いし、小さくてもどんなところにあっても注目されることである)、手段は苦痛となる場合が多い。旅も、いまは道中が楽しみだが、かつては、目的地に到るまでは命がけのことが普通であった。
1-4-2-1.手段の選択は、特殊な事情がなければ、快になるものを選ぶ 
 目的のための手段に多くの選択肢があるのなら、だれもが、より苦痛・損傷の少ないものを選び、苦痛でなく快適なものを選ぶ。旅行するとき、最近は多くの手段がある。広島から大阪まで徒歩でいくこともできるが、これを選ぶことはまずない。自転車なら、ときにあるが、これも心身を鍛えるためといった特殊なものになる。車か新幹線かといった選択になるが、それは、料金・便利さと、より楽で安全ということをもっての選択となろう。
1-4-2-2.手段が快の場合、停滞しがちで、自制が求められる 
手段として選んだものが快適で楽しいものだと、その先の肝心の目的はないがしろにされやすい。子供がお使いに出て途中で道草をすると、そのことに夢中になってお使いは忘れるようなことがある。大人でも、食と性の基本的欲求の場合、目的は個体と類の生維持であろうに、そんなことは忘れて、食では反目的的に痩せることを思いつつ快楽にひたる。性でも、目的の子孫を作るのは、忘れてというか、拒否して、その手段の営為の快楽のみにとどまることである。快楽では、目的を見失い逸脱しがちである。
1-4-2-3.手段における快と苦、一長一短である 
 手段が快だと目的がないがしろになる。その点、苦痛なら、最小限の手段の過程をもって目的へと進む。お使いに出たこどもは、そとが吹雪なら急いで行って急いで帰ってくることであろう。もっとも、逆の面もある。快ならその手段に留まることをもってしっかりとその営為を遂行していくが、手段が苦痛の場合、できれば、逃げたいということになる。そとが吹雪で苦痛なら、お使い自体をなんとか言い訳して逃れたいと思うことになろう。
1-4-2-4.快は、苦とちがい、精神的生のレベルでは、力をほとんどもたない  
 動物的な生のレベルでは、快楽と苦痛は、各々、生促進、生損傷を示して生をリードする。だが、快感情は、人間的生の高位層では、さして力にはならない。精神的な快としての喜びになると、価値物獲得のない純粋な喜び(=ぬか喜び)は、むしろ嫌悪される。喜びはなくても価値物獲得の方を選ぶ。これに対して、苦痛は、動物的生にとってのみでなく、精神的な高位層でも、大きな力を持つ。絶望とか苦悩は、人生を左右する。忍耐は、苦痛に対処する営為として、生の動物的レベルから精神的なレベルにまでいたる、人の生に普遍的な営為ということになる。
1-4-3.目的への長い過程は複雑な絡みのもとにあり、臨機に対処する必要がある
 忍耐は、手段から目的へと単調な直線の道になっていることは少ない。目的実現への歩みは、苦痛甘受の手段・犠牲を中心において、この展開を助けるものとか妨害するものをもつ。忍耐する主体の方も、心身の調子がよいときと否とで苦痛の感じ方に相当のちがいを生じる。状況の確認を怠らず、忍耐の持続に資するような状態に自身と周囲を整えて行くことが求められる。
1-4-3-1.長い手段の過程は、細分し、小目的や目標を設定するような工夫がいる 
 長い辛抱のいる忍耐では、倦み疲れて忍耐放棄もしたくなる。そうならないための工夫がいる。長い過程を細分して一つのステップごとに小目的とか目標を置けば、自身の苦労の実りを意識できて、忍耐持続もより確かなものとなろう。目的は、手段が目指していく終結点(成果)だが、目標は、できればそこに到達したいという目当てで、努力目標になる。目標は、目的より小さなものも大きなものも自分の調子に合わせてその都度たてなおすことができる。
1-4-3-2.長期のものでは、快で一息つくとか休息を入れるなどの工夫もいる
 長期にわたる忍耐は、手段を細分して、その間には休息をいれて苦痛甘受でのダメージからの回復を図るとか、快を混ぜることで苦を小さなものにすることがあると永続きする。学校の時間割は、うまくできている。嫌な科目も1時間我慢すればよい。休憩もあり、楽しみな科目もある。仕事とか勉強は、起きてから寝るまで一日中というのでは続かないが、休みをいれ疲労を回復しつつなら、永続可能な営為となる。 
1-4-3-3.手段の苦痛・犠牲がより少なくて済むようにと、修正の心がけが欲しい 
 目的のための手段を心に描くところから、一歩を実在的過程にと踏み出すと、種々新しいことが分かってくる。容易と思っていたことがそうでないとか、逆になることも分かってくる。その実際をよく把握して犠牲や苦痛が少しで済むようにと歩みを進めるごとに修正するべきであろう。陸から見て、渡るのは容易を思って海に飛び込んでみたら、自分が泳いで渡れる距離ではないと、分かったりする。
1-4-3-4.小さな犠牲で、大きな価値がなるように効率を計る必要がある  
苦痛・犠牲よりも、目的で得られる価値の方が小さいとしたら、その忍耐はしない方がよいことになる。「骨折り損」ということである。できるだけ小さい犠牲をもって大きな価値が獲得できるようにと、忍耐は、その効率化を計る必要がある。犠牲が思った以上に大きいとか、得られそうな価値が想定より極端に小さいと分かったら、ほかの事情が許すのなら、犠牲を小さくとどめるために、即、その忍耐は中止しなくてはならない。
1-4-3-5.忍耐も、「理性の狡知」をもってするべきである
ひとが忍耐するのは、苦労に勝る大きな価値・目的が実現されるからである。それには、必要なところのみに手を出して、労苦はできるだけ小さくて済むようにと、狡知を働かすことがいる。酒を造るというが、ひとが作る訳ではない。酵母菌に作らせるのである。ひとの目的とするものが結果するようにと条件を整え方向付けるのがひとのすることである。ひとは、自然にしたがいつつ、これを支配する尊厳をもった存在である。無駄・無意味な苦労・忍耐はしないように、理性は、事の成り行きを洞察し狡知を働かさねばならない。
1-4-3-6.自分の限度、分限の自覚
 忍耐は、各人が自分の苦痛と対決して行う。他人がやすやすと耐えているからといって自分にできるとは限らない。自身の耐えうる限度をわきまえて苦痛甘受の忍耐の過程も塩梅していく必要がある。苦痛は、自分の傷つくことへの警報である。そこからさらに耐えて損傷を受け入れていくのが忍耐であれば、自身の生のレジリエンス(復元力)を把握しておくことが求められよう。そのレジリエンスを壊し自分を潰してでも忍耐はできるが、それだけの価値があるものなのかどうか、冷静に判断しての行動でないと後悔することになろう。
1-4-4.実在の手段は、目的に直結するとは限らない
 目的論的な営みをするとき、目的を実現のための手段は、個別実在的なものとしては、単なる抽象観念とちがい多様な側面をもっていて、目的の方向へ向けることを持続しないと、他の方向にずれるようなことが生じる。荷物を運ばせようと馬を連れてきても、馬の制御法を知らない者では計画通りにはいかない。手段を実際に手にしたからといっても、目的が自動的に実現されていくものではない。
1-4-4-1.実在的手段は、多くの特性をもち、多様な条件下にある
実在的手段は、多彩な側面・特性をもち、偶然も横から入ってくる。その都度の修正がなくては求める方向には進まない。予想外の困難が生じるし、逆に好条件を得ることもある。忍耐は苦痛甘受という無理をして手段の展開を反自然的に行うのであるから、手慣れたことであっても、しっかりとその現状を把握して制御できるようにしていないと、思わぬ方向へ逸脱する。
1-4-4-2.手段の展開は、「瓢箪から駒」になることもある
目的のために選んだ手段は、目的への方向から外れる動きをすることがしばしば生じるが、ときには、思いもしないラッキーなことの生じる場合もある。漬物のための重石という手段を河原から拾ってきたら、それが金の塊であったということになれば、重石はまた探す必要があるとしても、「瓢箪から駒」となる。実在世界は、単純な観念世界と異なり多様・多彩であり、玉石混合で、玉も混在している。現実世界をしっかり見ていないと、せっかくの玉も見過ごす。
1-4-4-3.忍耐には、鍛えるといった目的も挟むことができる
 苦痛の手段をもって目的を実現する忍耐の実在的展開には、種々の副次的な目的をさしはさむことができる。忍耐する者自身の主体的な能力を鍛える教育的目的は多くの忍耐に可能で、「苦労は買ってでもせよ」とか、「かわいい子には旅をさせよ」と言われてきた。快楽は、ひとを眠らせ無能化するが、苦労・苦痛の忍耐は、ひとを覚醒させ、そこで使用される能力を強化し、必要に応じて新規の能力も開発する。
1-4-4-4.忍耐の目的は、後付けがきく。目的が多くあがれば大きな力となる
 実在的手段は、単一の目的のみに結ぶとは限らない。多様な側面をもっている手段であり、その手段は、多様な目的に結ばれうる。受験勉強は苦痛で忍耐のいることだろうが、合格という目的は同時にそれにつながる多様な副目的を実現もする。先生が喜んでくれる、家族が喜んでくれる、夢のヒマラヤ登山ができる等々である。それらは、手段展開のなかで後付けも可能である。
1-4-4-5.目的実現に失敗したときの諸事情の想起も、忍耐力を高める  
 多くの目的や目標が想起されれば、それだけ大きく忍耐をささえてくれるが、逆のマイナスの事態の想起も、それに資するようにできる。目的実現がならないときに想定される損傷・苦痛等を描けば、簡単には忍耐放棄はできないことになろう。受験に失敗したら自分のたくさんの夢は断たれる。希望の職につくことが絶たれ、親友と同じ学校に行けなくなる等と思えば、頑張ろうということになる。「背水の陣」をいう。目的を実現できなかった場合は、死があるのみということなら、苦痛甘受の忍耐も必死になることであろう。
1-4-4-6.忍耐においては、目的は繰り返して描くことが望ましい
 忍耐しつつ、その目的をしっかり描くことは、大切である。手段の方向付けをまちがわず、手段が無駄なことにならないようにするには、目的を見定めていることが必要である。手段の犠牲は、それ自体は生にマイナスの事態である。その苦痛のマイナスを、目的は、プラスの有意義なものにと価値づけして、忍耐を鼓舞する。忍耐のなかで、目的の成就を描けば、苦痛は、軽減されることにもなろう。
1-4-5.動機・過去の関与
 忍耐をひきうけ、苦痛の手段をもって目的へと歩みを実在化するとき、その周辺には、この目的と手段の推進に資する諸種の力・支えが林立している。その目的を生じるには、その切っ掛け・動機があろうが、それは手段が難航して目的断念を思うようなとき、それを阻止して難局を乗り越えるようにと支えてくれることになる。さらには、過去の自身の営為もその難局を支えるかもしれず、一層過去の先祖の支えも自身のうちに入っていて、「軟弱ではご先祖様に申し訳ない」と、自身を叱咤することもありうる。 
1-4-5-1.動機づけ
 目的への意志活動を誘うものは、その目的以外に、目的を定めることに到る動機がある。動機は、ひとを行動へと駆り立てる衝動や欲求である。節制を目的にする場合、動機には、健康になりたい、スリムになりたいといった思いが挙る。ときには、周囲の者が節制しているのを(いいなと思い)動機・切っ掛けにする。目的への忍耐においては、動機が強く大きければ、手段の苦痛が大きくても頑張れるといったことになる。切っ掛けとちがい、動機は目的と同様に後付けもできる。節制していて途中から、「金銭の節約にもなることだし」と動機づけできよう。
1-4-5-2.使命感、義務感、信念があると強い
 その忍耐が自身の使命だとか義務となれば、その犠牲は、社会的な意味を付加して、より強力に貫徹されることとなろう。義務は、しないことは許されないと感じさせるから、簡単には苦痛から逃げるわけにはいかないと自身を強制する。使命は、自身に課された尊くかけがえのない課題・役割になるから、何があっても実現しようと張り切る。あるいは、そのことが自身の信念とか信仰の一環としてあるものだと、そとから見ると信じがたく愚劣なことでも、命がけで忍耐して、その信を守ろうとする。
1-4-5-3.目的外の希望、夢
 忍耐は、目的に引かれて動いていくが、希望とか夢が目的と並んであげられておれば、その忍耐にとっての力となるであろう。目的の場合は、それの実現に向けて具体的な手段を展開する。が、希望とか夢は、いずれわがものにしたいという目標で、希望は、自身の希う実現可能な一番高い価値ある物事になり、夢は合理・現実という制約を外した願望になろう。そういう夢とか希望がその目的や手段の先にあがれば、これへの一歩接近として現在の忍耐なり目的が位置付けられて、その忍耐を引き立ててくれるであろう。
1-4-5-4.過去からの束縛
忍耐が目的とするものは、時間的には未来にあるが、過去の後始末、借りの返しというような忍耐では、過去に関心が向かっている。義務をそこに感じて、自身を過去のために動かすことがある。過去が現在の自身を束縛する。そこにいだく苦労・犠牲は、過去の責務が(責務解消という目的の未来へと)駆り立てるのである。その忍耐は、過去のマイナスを消去するためのものとなる。その責務の貫徹は、尊厳をもつ個としての自身を堅持する営為として、自尊の感情も自分の忍耐を後押ししてくれることであろう。
1-4-5-5.過去の支え
 自身の存在は、過去の人々の支えをもって可能となっている。それを自覚すれば、そう簡単には苦痛に負けてはおれず、「ご先祖様の加護があるんだ」と思うと、自信や勇気がわいてくることであろう。ただし、忌まわしい過去の因縁は(過去詮索の精神分析家に頼るのはほどほどにして)、できるだけ色即空と無化すべきであろう。ひとは、未来に生きるものであって、未来があれば足りる。足を切断した過去は、いまは無く、変えようもない。足を慰めるより、失った足に向かうエネルギーも継ぎ足して、いま有る手をもって、有ろうとする未来を切り開いていくべきである。
1-4-5-6.過去も解釈しだいであり、事実でなくても忍耐の力になる
過去は、変えられない事実だが、未来と同じく、現在には存在せず想像するだけである。歴史は、予言ほどではないが、多くが当節好みの仮説・小説である。ましてや、個人史など、その記憶は適当だし、口伝は口から出まかせである。祖先のことなど自分の足をひっぱる祟りにもできるし、支えてくれる御蔭にもできる。祟る先祖を妄想して悩むぐらいなら、自身を支えてくれる先祖と交感すべきであろう。その祖先たちが憑依して「最後まであきらめてはいけない!」とはげます自分の頼もしい守護霊になってくれることであろう。
1-4-5-7.反動機、反目的、妨害する諸要因の除去
 忍耐を支える動機とか夢があるように、反対に、忍耐を妨害する取越し苦労とか、消極的にする気がかりなどもある。忍耐するに余計な重荷となる、そういうものは除去することがいる。苦痛が辛くなると、忍耐を放棄するための理由を見つけがちになる。節制でなら、「栄養不足より過多の方がましだ」とか、「自分には肥満遺伝子があるんだから仕方なかろう」などと、忍耐をやめる理屈を見つけることだが、それらを自身説き伏せて消去すれば、忍耐への躊躇は、より少なくなる。
1-4-6.忍耐は、持続が命である 
忍耐は、手段であり、目的までこれを進めていかないと成果は得られない。途中で忍耐放棄した場合、犠牲・苦痛のみで終わる。忍耐には、「無駄骨」「骨折り損」という言葉が用意されている。好んで苦痛を受け入れているのではない。もし好んでなら、それは苦痛ではなく、快なのである。苦痛であれば、できれば排除したいもので、損傷・犠牲を被る状態にある。犠牲を忍んで受け入れるのは、目的において、それに見合う成果が得られるからである。その目的は、手段をつくし犠牲を積み上げて忍耐し続けて、最後に実現される。忍耐は持続が命である。
1-4-6-1.忍耐は、時間持続をもってはじめて成り立つ
 苦痛を介して価値あるものを実現する忍耐は、時間的な持続をもって成り立つ。瞬時の苦痛には、忍耐する暇もない。忍耐は、持続する苦痛に耐え続けるのである。忍耐は、苦痛から逃げない。苦痛回避の衝動を抑える。苦痛は持続するから、苦痛回避衝動の抑止は、持続させねばならない。一瞬だけ苦痛を受け入れて、これを即やめたとすると、それは、忍耐できなかったのである。忍耐は、その苦痛から逃げず受け入れ、苦痛に抵抗しない無為の対応をして、これを持続させることでもって可能になる。
1-4-6-2.忍耐の持続の放棄は、苦労を無駄にする
 手段は、目的のための営為であるが、これが快であった場合、途中でその手段の営為を放棄しても、その間の営為は、求め享受したいものだから、目的にまで到らずとも、損害はない。だが、忍耐の場合は、その手段の過程は苦痛・犠牲であり、目的を獲得してはじめてその過程、忍耐は、価値ある営為となる。その手段の展開の途中で忍耐放棄したら、そこに残るのは、苦痛・犠牲のみである。「骨折り損のくたびれもうけ」である。
1-4-6-3.忍耐は、無為を続けて、ひたすらに「待つ」
 忍耐は、苦痛回避衝動を抑止して逃げることも排撃することもせず、苦痛をひたすらに受け入れ続けて無為を保つ。苦痛に対して何もせず、時間の過ぎ行くのを待ち続ける。耐える者は、時間に耐える。時間は、実在世界の客観的な継起の秩序であって、忍耐する者自身は関与しえない。急いでも焦っても、時間の経過する事態は、一切変わらない。待つ以外ない。自身はじっとしたままに、我慢は、苦痛の過ぎ去るのを待ち、辛抱は、苦痛に耐えつつ未来の目的の将来することを待ち続ける。「待てば海路の日和あり」は、忍耐の持続とその成果を語る。
1-4-6-4.苦痛持続の忍耐のこと、優柔不断は許されない
実現不可能な夢のための忍耐は、続くほどに、無駄を重ねダメージを大きくする。早めに忍耐放棄すべきである。理性が確信できる手段を展開していくのでないと、目的の実現はおぼつかない。実現の目途のない夢を描いて忍耐して苦労を重ねても、報いのない苦労を重ねるだけとなる。忍耐は無為であるが、それは、苦痛をあえて無抵抗に受け入れ続けること、苦痛に無為ということである。その無為は、忍耐の是非への決断の無為、優柔不断ではない。目的に向けての創意工夫への無為無策でもない。 
1-4-6-5.捲土重来を期すことができるよう、深慮もいる
 忍耐では、時間とともに苦痛が蓄積して耐えがたいものになる。途中で苦痛の限度となって、忍耐は、しばしば放棄されるが、反復可能なものも多い。とすれば、次回を考えてその放棄もするような心構えが求められる。重い石を山の上に運ぶとして、途中で、無理だと放棄するとき、麓まで転がり落ちるのを見ているのでは、まるまるはじめからやり直しである。実行した忍耐を生かすには、転がり落ちるのを食い止めるように石の下にストッパーを置くことが必要である。忍耐放棄で敗北となるとしても、繰り返せるものならば、次回に生かせるような放棄の仕方をしておくことであろう。
1-4-7.辛抱できず、忍耐放棄するとしても、やけにだけはなってはならない 
 プラモデルを辛抱して組み立てていて、うまくいかず、その辛抱を放棄する場合、まずは、穏やかにこれを中断し組み立てたところまでを残して、次回続けることができるようにして終わるのが、穏当な放棄である。だが、冷静に終われず、どうにでもなれと投げやりに終わることもある。それも、組み立てていた部分を解体してゼロにするぐらいなら、次回がある。そうではなく、逆上して、部品を破壊して投げ棄てるような、やけっぱちな中断になることもある。このやけになっての忍耐放棄は、単に放棄するのではなく、再開を不可能にする、未来をつぶす終わり方になる。
1-4-7-1.やけは、穏やかな合理的忍耐放棄ではなく、見境ない短絡的暴発
やけ、自暴自棄は、わがままで短気なものもあるが、多くは、地道な努力をし忍耐を重ねても思うようにならず、鬱憤を溜めて、これをうちに留めておけなくなり暴発するものであろう。忍耐していて、耐え難くなり、これを放棄するだけではない。ため込んだ鬱憤を晴らすことが第一になっていて、それを穏やかな方法で吐き出すことがならず、没理性的に短絡的に暴発する。暴発の仕方が、まず見境ない、先を考えない破壊的なものになる。当たる対象も、見境なく、身近なものにと当り散らす。
1-4-7-2.やけ(自棄)は、自分の未来を台無しにする
プラモデル組立てでやけになるのとちがって、人生の中心をなしている営為についての自暴自棄では、忍耐して積み上げた価値ある過去は破壊され、未来に向けての創造が不可能になる悲惨な結末をもたらす。仕事とか勉強で未来にむけて希望を実現しようと努めていたのが、一気に吹き飛ばされて、台無しになる。その自己破壊は、もとの人生を取り戻すことができないようなダメージを自分に加える。不要の有害な自分のものを棄てるのではなく、肝心の自分の大切な価値あるものを破棄する。ふがいない情けない自分だと自虐的になり、自分に暴力を加え、大切な自分を棄てる。
1-4-7-3.やけの破壊は見境なく、自分のみか、周囲のものをも破壊する
 鬱憤晴らしの破壊衝動を充たす短絡的な暴発は、没理性的で、破壊する対象について見境ないことになる。敵は遠くにいるから、その破壊の本来の対象であっても、やけの向かうものにならず、衝動の対象は、しばしば自分になり自分の身近なものになる。どこでもいい、何でもいい、誰でもいいと、見境なく短絡的に暴発する。ただし、理性をまったく麻痺させているのではなく、いくらやけになって暴力をふるうとしても、当たったら手痛い目にあう強い相手には当たらず、甘えられる弱者を選んで当たる。
1-4-7-4.やけになり、超自然を反自然にと下落させるのは、情けなく口惜しい
 自棄になる者は、多くは、その忍耐においてぎりぎりまで超自然的に尊厳をもった生き方をしてきたのである。それに行き詰ったからといって、反自然的な破壊で自然以下の状態に陥るのは、いかにももったいないことである。忍耐できなくなって自棄になると、自分や味方を破壊するが、自然はそんな愚かなことはしない。苦痛から逃げず自然を超越して忍耐をしてきた尊い営為であったものの、最後の反自然的暴発である。その超自然のエネルギーを、やけにと暴発させず、しばらくは自然的生に降り立って休むか、もう少しだけ、忍びがたきを忍んで暴発のあり方だけは変えて、無難なものに当たるか、出来ればこれを創造的破壊にまわしたいものである。 
1-4-7-5.やけになっても、残った理性で、暴発の被害を小さくすることがいる
 自暴自棄の発作時でも、相手を選ぶ理性は残していて、凶暴なやくざに当り散らすことは避ける。あまり甘えず、自分への暴力も、制御をある程度働かせて、残っている理性で、未来が不可能にならない程度にと抑えたいものである。人生に自棄になった者があとで思うことは、「やけにだけはなってはいけない。取り返しのつかないことになる。やり直しは効かない」と悔やむことである。忍耐もその放棄も反復できるが、人生における自棄は、反復できない。一回で、それまでのすべてを破壊して終わる。この千載の恨事の仲間に入りたくない者は、プラモデルでやけになるぐらいならいいが、真摯な人生の営為においては、自棄にだけはなってはいけない。

1-5.忍耐のための賞罰
忍耐は、苦痛を受け入れることだから、自然的には気の進まないことである。これを促進するもの、強制するものがそとから加えられると、忍耐は、力を得て、より強力でより長い持続も可能となる。その追い立て、促進するものとは、いわゆるアメとムチ、賞罰である。ムチは嫌だから、それよりは自分のためになることだし忍耐は引き受けようということになり、アメは欲しいから、それを得られるところまでは辛抱しようということになる。
1-5-1.外的な忍耐促進力としての褒美・懲罰   
 忍耐は、目的に惹かれ、動機に誘われて、手段の苦痛を甘受しつづける。さらに、外的に忍耐を推進するものがある。褒美とか懲罰、いわゆるアメとムチがその代表になる。アメが欲しいから辛い忍耐も放棄せず、目的まで進んでいこうと意志は張り切る。目的意志自体のではなくその主体の欲求を充たすものをアメとして見せることで、意志は欲求から尻を押される。ムチは、その生にとって不快で回避したいから、意志をして目的へと駆り立てていく。 
1-5-1-1.褒美・懲罰には、動物から聖人までが動かされる
 動物が、アメ(エサ)にひかれて芸を覚え、ムチをもってそれへと追い立てられるだけではない。ひともアメとムチに駆り立てられる。精神的生活のうちでも、その当人にとって褒美となり懲罰となるものが与えられることで、そのなすべき苦痛甘受の忍耐に積極的に応えていく。宗教者も、宗教上のアメに引かれムチを恐れて苦難の修行にはげむ。かれらには、来世に、褒美(で、かつ目的)の極楽・天国があり、懲罰の地獄が用意されている。
1-5-1-2.褒美は、価値(快など)贈与、懲罰は、反価値(苦痛など)の付加
 褒美は、目指す目的自体ではない。目的を目指す営為を評価し賛美するために出されるもので、目的とは別の価値あるものが贈与される。懲罰は、その目指すものを駄目にするような行いをしてしまったことへの批判として、外から加えられた禍害・マイナスとしてある。目的の達成・不達成自体は、賞罰とは区別されるが、与えられるものと見なせば賞罰でもあろう。褒美は、価値あるものの贈与で、快には限定されない。罰は、反価値の強制で、苦痛には限定されない。
1-5-1-3.褒美・懲罰は、早くても遅くても、少なすぎても多すぎてもいけない
評価対象の営為をはじめる前に褒美を与えた場合、それにのめり込み、さきに進むことがなくなり、その効果はなくなろう。もちろん、懲罰をことの前に与えても、先に進むためには役にたたないであろう。その営為が終わって忘れたころ、アメやムチを与えてもあまり意味はない。賞罰を受ける者に効果をもつには、受け手にそれと感じられるものをもってする必要もある。与える量の匙加減を間違うと、よい効果は得られない。
1-5-1-4.賞罰は、結果に与えるだけではない 
 我慢させるためにする賞罰は、その結果に対して報いるのが一般であろう。が、怠けているようなときには、結果を待つ前に、駆り立て追い立てるためにムチを使う。アメも、結果をまってではなく、よい結果を出すようにと促進するために出すこともあろう。よい成果を出せるようにと賞罰は適宜に出さねばならない。遠くを見渡せるような者には、アメを先に出しておいてもいい場合がある。お金を先払いするようにである。
1-5-1-5.過ぎれば、褒美(快)は、停滞を、懲罰(苦)は、萎縮をもたらす 
 褒美は、多過ぎると、それにのめり込み、さきに進むことがないがしろになったり、より多くの褒美がないと、つぎには動かなくなる。また、過小では、褒美にならない。懲罰も、過度では、奮い立つより、反感や萎縮をもたらすであろう。過小では、効き目がない。適切と感じるか、過剰・過小と感じるかは、各人で異なるから、一斉に同じもので賞罰を与えるのは、むずかしい。
1-5-2.アメとムチは、忍耐の途中でも利用する  
 賞罰は、結果が出たところで評価して褒美なり罰を与えることが多いが、場合によっては、鞭うって先へと駆り立てることがあろう。途中でする懲罰となる。褒美も途中で出して、それまでを労い、先へと励ます場合がある。ことをはじめる前に少しアメを出すこともある。先にすすめば、もっといいものがもらえるということでは奮起をさそう。ムチも、脅しとして、はじめに使うこともあろう。
1-5-2-1. 長い営為の場合、アメとムチを小出しにする
 褒美も懲罰も、忍耐が長期になる場合、最後に出すだけでは、その過程の一つ一つを的確に促進するのはむずかしい。その時々の促進を確実にするには、その褒美や罰がそこで気を引き欲求・反欲求となって駆り立てる必要がある。はるか先で、どうなるかもよく分からないアメやムチではその効果はおぼつかない。賞罰が忍耐を支える力になるには、忍耐が長期なら、途中で励まし叱責できるようなアメ・ムチを出すことがいる。
1-5-2-2.来世の極楽・地獄のみでなく、日々に実現する賞罰がある
 忍耐は、長期の辛抱もあれば、短期の我慢もある。それに応じて賞罰も、異なって来よう。人生の基本的なあり方において、真摯に生きるという姿勢は、一生つづく辛抱であろうが、それには、信仰をもっている者の場合、来世の極楽という褒美があてがわれる。辛抱しなかったものは、地獄という懲罰を覚悟する。かつ、日々の生活の短期にまとまった営為においては、忍耐をすることで、よい結果が可能になるから、それも褒美となる。
1-5-2-3.目的とちがい、賞罰は、変更がいくらでもできる 
 一旦確定している賞罰も、ことの進み方に応じてこれを上乗せしたり、別の褒美や罰をもってすることもできる。目的は、その過程・忍耐では一定しているのが普通であろうが、それへの促進剤となるアメとムチは、促進がよくかなうものをもってするべきである。促進になってないと思われるなら、アメの中身を変えて、ことを積極的に進めていけるようなものにする必要がある。
1-5-2-4.急かせるには、それなりの大きなアメ・ムチがいる
 目的実現を急がすためには、忍耐している者の意志・意欲を強くかきたてねばならない。報奨を大きくすれば、意欲は高まる。ムチを強いものにすれば、これを回避するために懸命になる。仕事を急がせるには、給金の上乗せを約束するのが常套手段であろう。あるいは、逆に、時間内に出来上がらなかった場合は減給にするという手をとる場合もある。
1-5-2-5.ことが終わっての賞罰は、次回のためのもの、他の者へのものでもある
 アメ・ムチは、忍耐を促進させるために出すが、事が終わってから出すのは、もう促進させることは無用になっているのだから、無駄と言えば無駄である。しかし、出さないと次回は、「また騙される」と思えば、アメの提示は効果をもたなくなる。あるいは、賞罰は、これを出す者の評価であり、この評価自体を求めることが大きい場合は、かりにアメがきれていたのだとしても、評価自体はしっかりしておかねばならない。テストは、点数を出すだけで効果がある。掲示板に張り出すと絶大な効果をもつ。事が終わっての応報・評価のムチ・アメは、分かりやすく、次回に、あるいは、後に続く者に、大きな影響力をもつ。
1-5-3.自身で出す褒美と懲罰もある  
 褒美とか懲罰は、当人はこれを受け入れるもので、これを与える者は、そとにあって、支配・制御する者が出すのが普通である。だが、ひとは、自身を対象化して見ることができ自己制御のできることで、賞罰も自身で与えることが可能である。辛いことがあると、これを乗り越えるために、「目的を実現したら欲しかったものを買うことにしよう」と自身で褒美を出して駆り立てることが可能である。もちろん、懲罰も、自分で自分に出し、自虐的にもなりうる。
1-5-3-1.自画自賛、自書自嘲
 自分でする褒美は、甘くなる。自画自賛は、だれも褒めてくれないので、やむを得ず自分で自分をほめるのである。ただし、先駆的なものは、誰にも理解が得られないから、自分で自分を褒め慰めて自らを鼓舞することになりやすい。懲罰も、自分で出すことは、普通はしない。ということは、自分で罰するぐらいのものは、よほどひどい、自分でも情けないものになるのであろうか。あるいは、評価者としての自分の眼が厳しく、ひとは気づかないような誤りも許せず、自身を責めることもありそうである。
1-5-3-2.苦痛と快楽は、懲罰と褒美である 
 動物にとっては、快と苦は、生促進への褒美であり、生損傷への懲罰である。快という報酬が欲しくて生促進にと向かうのであり、苦痛という懲罰を避けたいがために生損傷を回避する動きをするのである。ひとにおいても、そのことは同様であるが、快は、高度の精神的営為のもとでは、報奨的な促進剤にはあまりならない。しかし、苦痛の方は、高度の精神的世界でも強い力をもつ。絶望や悲嘆は辛く、これを回避したいと、価値ある人生の模索へと駆り立てられる。
1-5-3-3.目的実現自体が褒美であり、その不達成は懲罰でもあろう   
 手段を労して目的を実現したことに対して、これを評価し讃える者が、しるしに出す価値あるものが褒美であり、逆が懲罰であろう。が、この目的実現自体が同時に褒美となる面をもつ。その褒美を与えるのは、自然からであったり、社会であったりということになる。懲罰も、努力や忍耐を怠ったことに、そとから評価する者が与えるものだが、自然とか社会が自分の不届きに罰を加えたものと解することも可能である。実際には、だれも賞罰を与えてはいないのだが、自然が与えたと解釈するのであり、自身の想定・解釈であるから、半ば自分で自分に賞罰を与えているということになろう。
1-5-3-4.自分のみが知る忍耐では、自分が賞罰を出すことになろう
忍耐は、隠し忍ぶことが多い。その場合は、その苦痛も忍耐もそとから一見しただけでは分からない。そこで忍耐を貫いて価値ある目的を実現したとしても、ひとには知られないままということになりやすい。ということで、ときに、自分で自分に褒美を出すようなことになる。苦痛甘受の程度に応じて賞罰をということになるとき、そのことを知悉しているのは自分だけであるから、自分で出す賞罰は、その点では的確なものとなろう。
1-5-3-5.自賛の褒美も自嘲の懲罰も、客観的な評価とは一致しない
 苦痛甘受の忍耐では、苦痛は、主観的で自分が一番はっきりと捉えていることである。だが、それで賞罰がなされるのは、主観的なものとしてはいいが、客観的に展開した手段と目的実現という点では、あまり正確な評価とはならないかも知れない。客観的に実現したものをもって賞罰を与える方は、その点では、より妥当な賞罰となろう。自分でする評価は、主観的な辛さとか努力度などに目がいき、それが役に立たない徒労であったことは軽視されがちとなる。
1-5-4.忍耐の功利計算  
 忍耐は、その生にとってマイナスの事態である苦痛をあえて受け入れる。それは、しかし、手段としてであり、目的(プラスの価値)を確保するのにそれ以外ないからそうするのである。忍耐する者は、マイナス状態を自覚しており、その苦痛甘受に見合うプラス(価値)の獲得がなると判断して苦痛をひきうける。そのマイナスの手段を引き受けることで大きなプラスが、マイナスを差し引いてもプラスになる価値が獲得できることを踏まえて忍耐する。それがならない忍耐は、マイナスの価値を残す。忍耐では、「くたびれもうけ」とか「骨折り損」をいう。功利の価値計算をしつつマイナス(苦痛・損傷)を引き受けているのである。 
1-5-4-1.苦痛甘受では、めざす目的をめぐる多様な価値をふまえている 
苦痛に忍耐する者は、目的をめざし、アメに引かれムチを避けようとするが、そのアメやムチ、その目的となるものは、かならずしも快・苦である必要はない。価値・反価値として捉えて、これの差引をして、価値獲得となるのなら、忍耐を引き受けるということになる。価値の中には、快もあれば、精神的生の領域での価値あるもの、財貨であったり、名誉であったり、美的価値や知的価値であったりする。苦痛は、精神的領域でも悲嘆とか絶望などとしてそのまま大きな反価値であるが、快は、小さな価値でしかない。それらを総合しての、快不快だけには還元されない総価値の功利計算をして、プラスとなれば、苦痛甘受の忍耐は、引き受けられる。
1-5-4-2.功利計算される諸価値・反価値は、等質化され量化されている
 賞罰としてのアメ・ムチは、忍耐するときの手段の苦痛、目的の価値とは別の、これをそとから評価する者の与える価値・反価値になる。忍耐するとき、ひとは、これらの価値・反価値を総合的に功利計算して、これをプラスと判定すれば、その忍耐を自らに引き受け、実行していくことになる。その全体・総体がプラスになるかどうかを計量しているということは、各々特殊な、快不快の価値、財貨の価値、美的価値などを価値一般、反価値一般に還元して、等質化し量化しているということであろう。
1-5-4-3.功利計算のもとになる価値・反価値は、主観的である
 価値は、その享受者の欲求を充たすことのできるもの、それに値いするものであろう。新聞紙は、読者には、情報価値だが、荷物作りでは、包み紙の価値となる。バーベキューをするものには、火付け用の材料となり、汚れの吸い取り紙としての価値になる。忍耐において見出される価値・反価値も、その場に関わるものによってそれぞれ異なったものとなる。忍耐する者の苦痛という反価値は、忍耐させるものには価値となる。それは、忍耐する者にも目的実現においては価値に変化するし、能力開発の点でも価値となる。アメとムチも、忍耐する当人毎に異なった価値づけをしうる。お金は、何とでも交換できる普遍的な価値をもつが、それすらも無欲な者には無価値で、忍耐にとってのアメにはならないかも知れない。
1-5-4-4.目的も賞罰も、当人が好きなように設定できる面もある
 目的は後付けしていくらでも増やせる。大学受験の合格の目的は、同時に家族を喜ばせることや将来の道が確保できるという目的をも後付けでき、それを合格の褒美にもできる。賞罰も自身が勝手に想定して、付け加えることができる。登山して晴れ渡ったのを、自分への褒美だと解してありがたがることが可能である。逆の罰も、自分で勝手なものを描きうる。登山中、雨にあって、これは、日頃の行いの悪いことへの懲罰だと反省することもできる。
1-5-4-5.極楽・地獄など想定すると、かなり主観的な功利計算となる  
功利の計算は、日頃は、自分にとっての快・不快、価値・反価値を総計するもので、そこでプラスになるならその忍耐は意味のある忍耐となる。だが、社会的な営為であった場合、価値・反価値も社会的なものに広げねばならない。「最大多数の最大幸福」といった功利計算となる。さらに広げてあの世までの価値計算をするひともある。極楽・天国のためになら忍耐はいくらでもするというようなことになる。だが、その天国が実在しないのだとすると、計算違い甚だしく、愚かしい「骨折り損」の忍耐となる。
1-5-5.何がアメ・ムチになり、どの程度それが効果をもつのかへの洞察と配慮  
 目的とちがい、褒美は、外からの評価・贈与として成り立つ。その評価も贈与物も、この評価者の価値観と評価される者の価値観できまる。賞罰を与える者は、それの対象となる活動の促進のためには、何をどの程度準備するといいのかを、洞察していなくてはならないであろう。猫を躍らせるには、はたき一本で十分で、小判を見せびらかしても無欲な猫には通じない。それはまた、周囲への影響とか、以後の促進への配慮も含んでの賞罰の準備となる。
1-5-5-1.忍耐する者にアメ・ムチと解されるのでなくてはならない
 忍耐する者に出される賞罰は、当然、それと感じうるものでなくてはならない。忍耐する者の価値観を踏まえている必要がある。酒の飲めない者には、高価なコニャックもアメ・褒美にはなりにくい。罰・ムチもそれとして妥当するかどうかを忍耐する者に即して理解していなくては、意味がなくなる。それがよく分からない場合は、褒美の場合なら、一般的に贈答品となっているものが無難となる。高価な将棋盤を準備するよりは、お菓子の詰め合わせの方が好まれる。前者は、一般人には、無用の長物であるが、後者は、皆で分け合って食べることができる。
1-5-5-2.アメ・ムチのつもりでも効いてないことがある
特許とか著作権は、発明・創作を誘うアメ・褒美であるが、果たしてうまく効いているのかどうか、問題であろう。音楽の場合、昨今は大衆音楽が儲かるからその著作権がたくさんの金をあつめる。大金をもって自分用の遊園地をつくったりして、音楽制作の役にはたっていない。何十年も著作権をもって褒美とするのでは、その人の著作活動を促進するよりは堕落させ、それに寄生した者たちの不労所得になるだけである。ムチ・罰の場合は、罰金では、大金持ちには効果がない。 
1-5-5-3.誰が出すかで、アメ・ムチの価値は異なってくる
 賞罰は、これを評価する者が与えるのが普通であろう。その評価者がどれぐらい高く評価しているかは、その贈与される価値物によって判断され、どれぐらい厳しく拒絶しているかは、その罰の中身によって判断される。評価を受ける方が、評価者をどれぐらい大きな権威をもっているものと判断しているかで、そのアメとムチの効き具合も変わってくる。絶対的な権威をもっている支配的な存在からの褒美なら、たばこ一箱であっても自分の宝物になる。その叱責は、小さくても、こたえる。
1-5-5-4.慰め励ますアメとムチ
 報奨・褒美は、優れた営為への高い評価として出される。だが、ときには、褒美・アメは、評価というよりも、慰め・慰安として出されることもある。あるいは、受難の状態から抜け出せるよう励ますものとして出されることもあろう。ムチも、ときには、そのために役立つことがあろう。慰めることはムチでは無理であろうが、励まし鼓舞するためには、ムチをもってすることはある。ムチの苦痛は、ひとを覚醒させる。へこたれそうになり、あきらめそうになって弱気になっているとき、「馬鹿野郎!」とムチ打たれれば、最後の気力をふりしぼるよう自身を駆り立てることが可能になろう。
1-5-5-5.忍耐自体がムチと解されることも多い
価値あるものの獲得を目指して苦労し忍耐を重ねている者が、その苦労なしに価値享受だけをしている者を見た時、その忍耐は、自分へのムチと感じられることがあろう。「なんで自分だけがこんな苦労をしなくてはならないんだ」と悲観的になっている場合は、その逆境をなんらかのムチと解しているのである。もちろん、そのムチは、未来への飛翔のために与えられたチャンスと解することも可能である。罰(ムチ)として、辛いことをさせるのは、ごく普通のことである。
1-5-6.能力開発自体は、アメではなくムチが行う  
 苦痛甘受の忍耐は、アメでもムチでも促進される。しかし、「かわいい子には、旅をさせよ」というように、ひとの能力を開発するには、ムチでなくてはならない。アメでは、能力開発にはならず、甘い状況のうちに安住しまどろみ眠りこけて劣化する。能力開発になるようなぎりぎりの能力使用の場にと、アメでひきだすことはできるが、その苦難自体は甘いアメではありえない。苦難にムチうたれ、これを乗り越えるという苦痛甘受の忍耐が能力開発を可能とする。
1-5-6-1.アメ(未来の快)は、忍耐を進めるが、能力開発はしない
 ひとも動物も快には惹かれる。そのためになら、少々の苦痛も引き受けて快へと突き進む。苦痛の忍耐をひきうけることをいとわない。自発的に進んで忍耐しようということになるから、その点では、忍耐させるには、ムチを使うよりは、アメの方がスムースで楽である。だが、能力開発には、その現にある力を越え、通常の持続を越えて疲労させるような大きな力の使用が求められるから、苦労・苦痛が必ずともなう。その苦痛を乗り越えないと能力開発には向かわない。それは、アメ(快)享受の状態ではありえない。
1-5-6-2.快は、まどろみ停滞させ、苦痛は覚醒・発奮させる
 アメ・褒美は、快をもたらし、ムチ・懲罰は、苦痛をもたらす。快は、これに引かれるから、その先に目的をおけば、積極的にそこへと進んでいく。苦は、これを回避したいから、後ろからムチをあてるようにすれば、前に進まざるをえなくなる。快は、生を安らがせるが、そこに浸っていたいから、生はまどろみ停滞することになる。苦痛は、反対に、生を脅かすが、これを覚醒させ、その現状を何とかしなくてはと発奮もさせる。
1-5-6-3.ムチ(現在の苦痛)は、忍耐を進め、能力開発をする
 アメ・快は、その状態に満足し浸りきってまどろむから、そこに停滞する。だが、ムチ・苦痛の場合、そこに留まりたくないから、何とかして先へと進もうともがくことになる。忍耐しつつ、その苦痛をなくするところへと進もうと必死になる。既存の対応では苦痛に留まり続ける以外なければ、新規の方法を見つけよう、能力を発揮しようということにもなっていく。
1-5-6-4.忍耐促進のムチと能力開発のムチは別のムチになろう
 苦痛・ムチは、覚醒させ能力開発に向かう姿勢をもたせるが、このムチと忍耐促進のアメ・ムチとは区別されるべきであろう。忍耐促進を強いるためのムチは、忍耐させようとする者が加える。だが、能力開発に向かわせるムチ・苦痛は、その能力の向かう先・対象から出てくるものである。その対象が解決困難な状態を作り出して苦悩させる。その対象が苦痛をもたらし、ムチとなる。その苦痛から逃げず挑戦し続けるには、新規の対処と高い能力の開発・発揮が必要となるのである。
1-5-6-5.忍耐促進は、アメよりムチの方が効果的なことが多いのではないか
快には、動物的生は強く惹かれるが、精神的生では快感情は些事で、価値物確保が目的となる。苦痛は、動物的生ではもちろん、精神的生でもことの促進のために効く。絶望とか悲嘆はひとを強く動かす力となる。動物の場合でも、欲求が満たされたところでは、快・アメは、もう十分ということで、ひきつけることはできない。だが、苦痛・ムチは、常に効く。
1-5-6-6.ひとをひきつけるには、アメが効果的で、欲望をかきたて能力開発にも資するかも
著作権とか特許権は、アメをもって、発明とか優れた作品を創造することへと駆り立てる。スポーツでも、アメ・報奨しだいでいい選手が出てくることである。徒競走の世界一には何億円もが用意されていると知れば、走り方を工夫したり日々の練習に力がはいることであろう。ただし、儲かることへと傾き、音楽などは、聞き手が多い音楽に向かいがちで、高尚な音楽は育たない。一般的には、苦痛をもたらす厳しい試練に耐えることで新規の能力も発現してくるのだろうが、反復が能力開発の中心になる場合は、楽しくできる方が嫌々にするよりは身が入る。ムチよりアメの方が効率の良い能力開発もありそうである。
1-5-6-7.結果への賞罰、取り組み方への賞罰
 真剣に全力を持って取り組んでも成果を出せないことがある。いい加減にしていても、成果だけは出す者もいる。忍耐自体は、結果が出せないと無駄骨になるが、評価ということでは、成果に限定するのでは、問題であろう。教育としてその忍耐があるのだとすると、成果よりもその取り組み方への真剣さとか辛抱強さなどが評価されるべきであろう。

1-6.有害・徒労の忍耐がある
 苦痛の甘受という生の犠牲・マイナスがあると、それに見合うプラスの価値獲得があるはずだと、因果応報、等価交換を想定したくなる。苦労すれば報われるということは一応言えるが、理性をもってしっかり展開していかないと、忍耐は、目的を得ず失敗に終わることがある。徒労の忍耐となる。さらに、忍耐は、周囲に有害となる場合もある。忍耐は苦痛を受け入れるだけのことだから、その目的の善悪は、忍耐の外にある事柄で、忍耐は、悪事にも使われる。我慢強い悪人は、より大きな悪をもたらす。
1-6-1.忍耐は、苦痛に耐えることに尽き、その目的の善悪にはかかわらない
 忍耐が目指すのは、苦痛の手段・犠牲をもって価値ある目的を得ることである。その目的が善であろうと悪であろうと、それのために苦痛の犠牲を払うなら、それは、忍耐である。忍耐は、目的の善悪は問題にしない。手段の苦痛甘受に力を注ぐのが忍耐である。悪の目的には多くの障害・妨害がともなうから、その実現への手段は苦痛・苦難になりやすい。悪目的のための悪の手段には、忍耐の必要になることが多いといえよう。苦痛回避の自然に対決する忍耐の超自然の姿勢は、卓越した姿勢であるが、その目的とするものがひととして卓越したもの、善でなくてはならないというわけではない。
1-6-1-1.忍耐は、苦痛と対決するだけで、その心構えそのものは問わない 
 忍耐する者は、犠牲をはらうのだから、利他的に献身することがあるが、忍耐自体がそういう利他的犠牲精神をもっているわけではない。邪悪な心の者も邪悪な目的を達成するために、苦痛を引き受けざるをえない場合は、邪悪であればあるほど、執念深くそれを追及して忍耐を貫いて邪悪な目論見を実現していくことであろう。慈愛にあふれていようと、邪悪であろうと、忍耐する姿勢は同じように持ちうる。苦痛を引き受けることにおいて、犠牲があるからといっても、利他的になるわけではない。苦痛・犠牲の忍耐をもって強烈な利己の目的を得ようとすることもある。苦痛に耐えるのが、そのことがすべてであるのが、忍耐であろう。
1-6-1-2.悪人は悪の目的のために大いに忍耐する
 悪事は、ひとが苦労・犠牲をもって獲得した価値物を、そういう苦労なく忍耐なく、楽をして奪って享受するということが多い。だが、苦労して得たものを奪われることは阻止したいから、奪われないように防護の策がとられる。それをねらう悪人は、その防護を破るために相当の犠牲をはらい忍耐をしなくてはならなくなる。悪人も忍耐を大いにすることになる。もちろん、その忍耐の犠牲の量が大きくて窃盗で得られる価値量が小さいのなら、悪人は、損得の価値計算をして、わざわざ忍耐はしないであろう。少しの忍耐で巨額のものを窃盗できるから忍耐するのである。
1-6-1-3.忍耐は、嫌なものを甘受するが、そのエゴの本心は固持する
 忍耐は、苦痛に抵抗したり、これから逃げたりしないで、あるがままに苦痛を受け入れる。苦痛・損傷を受け入れ犠牲を払う。だが、その本心では、その苦痛となるものを排撃したいと思っている。もし、真に受け入れたいという気持ちになっているのなら、それは、苦痛でも不快でもないはずである。本心は、苦痛甘受の反対であり、排撃の気持ちを一歩も譲らないのが忍耐でもある。ニンジン嫌いの人がこれを忍耐して食べるとき、どこまでも、本心では受け入れたくない排除したいと思いつつ、受け入れている。もし、ニンジンが嫌いでなくなったら、もはや忍耐は無用となる。
1-6-1-4.忍耐では、手段は超自然で卓越したものだが、目的はそうではない
忍耐は、苦痛に耐えるだけのことである。社会的規範の正義ならば、これと取り組むという場合、日頃は悪人であったとしても、その行動だけは、正義の善行動となる。忍耐は、ひとの行動規範ではあるが、善人になりかわらせるものではない。忍耐という規範は、自然的な苦痛回避衝動を抑止して超自然的に苦痛を受け入れるというだけである。この手段の先の目的については、善悪両方が可能であり、忍耐は、それを問うものではない。動物を超越した存在であることを忍耐は示す。だが、その超自然的存在の人間は、善をもつとともに悪をもつ。忍耐は、動物を超越した人間の営為であり、人間の善悪にわたる営為をひきうけるのである。
1-6-1-5.忍耐は、人の腕と同じく万事に働く卓越した原動機になる
 ひとの営為を機械に譬えると、忍耐は、原動機に相当する。ひとの営為は、その作業機において実現される。それへの動力を供給するのが原動機である。その作業機が有害・無駄なら、その原動機のエネルギーは、有害・無駄を生み出す。忍耐は、ひとの営為が悪であった場合、悪を支え実現する力となる。その悪事の貫徹に伴う犠牲・苦難を引き受けるのが忍耐である。善悪以前にある腕力と同じである。人間的能力としての忍耐力であり、それは、善にも悪にも役立てられる。忍耐は、人間的な卓越した能力としての、万般にわたって役立てられる原動機になる。
1-6-2.有害な忍耐 
忍耐は、苦痛を甘受するだけで、苦痛に耐えてするその目的については、その善悪・良否を考慮しない。あるいは、忍耐の犠牲・手段のもたらす周囲への影響も、考慮することを必須とはしない。とにかく、苦痛に耐えるだけのことである。周囲に害悪をもたらしているとしても、忍耐自体は、それに配慮するものではない。忍耐しているからといっても、それは、苦痛から逃げないという超自然的な姿勢をもつだけのことで、その営為が有益なものをもたらすかどうかは未定である。有害なものを排除するという姿勢を忍耐自体はもっていない。逆にいうと、忍耐する場合、善悪・良否を配慮する姿勢はないのだから、忍耐のそとから、社会規範等から逸脱しないように理性的に制御することが必要となる。
1-6-2-1.悪人の忍耐は、害悪を大きくする
 悪人も忍耐する。世間から疎外されて常々耐えているから、むしろ忍耐強いかも知れない。悪事を自白させるためにかつては拷問をしていた。極悪人ほど、自白しないで激痛の拷問に耐えた。邪悪な精神をもって生きていても、忍耐力がなければ大したことはできないが、忍耐力が大きければ粘り強くこれを貫徹して巨悪を実現することになる。腕力に卓越しておれば、粗暴犯として大きな悪事を成し遂げるように、忍耐力に優れておれば、より大きな害悪を社会に及ぼすことになる。
1-6-2-2.自身にとって有害な忍耐もある
 忍耐は卓越した人間的営為だが、知恵を働かせたものでないと「くたびれもうけ」の忍耐になりかねない。がむしゃらに苦痛に耐えていてもその結果は、かならずしも有益なものとはならない。地獄へと導く、自身を潰すような忍耐ともなりかねない。山で遭難したとき、じっとして救助を待っておればいいものを、焦って寒さに耐え身体の痛みに耐えて、無謀に谷を下って、あげくのはてに滝つぼへ転落したということでは、その忍耐は、害悪以外のなにものでもないこととなる。それよりは、安全な場所を確保してゆっくりしていた方が助かる可能性を大きくする。
1-6-2-3.創意工夫・省力といったものを妨げる忍耐もある
苦痛・犠牲の忍耐は、有益なものを生み出すからすることで、害悪になることは避けるようにと心掛けているであろうが、それでもときには有害な忍耐になることがある。工夫すれば、苦痛なしに楽しく目的を実現できるのに、すこし考えれば、省力できて、忍耐無用に済むものを、忍耐に平気だとこれらに気を回すことがなく、自己犠牲の忍耐を安易に引き受ける。かつ、自分にできることなのだから、みんなにもできるはずだと、周囲にもその我慢を強いてしまうことになる。受け入れなくてもよい苦痛に我慢し続けて、延々と無駄に忍耐を重ねることになる。
1-6-2-4.忍耐は、損傷を受け入れるから、過ぎると生を破壊する
 忍耐が苦痛回避衝動を抑止し続ければ、ダメージを積み重ね疲労を蓄積することになる。その損傷は次第に大きくなっていく。その同じ苦痛・損傷は蓄積するから、受け入れ可能な限界になると、生の回復力を越えたダメージとなる。生が破壊されて復活が困難となる。忍耐は、その生を破壊しても、苦痛受け入れ自体を中止せず無為にしておれば、続く。場合によると生を完全に破壊する死に到っても忍耐放棄はしないでおれる。拷問を最後まで耐えて殺されるというようなこともある。忍耐の犠牲に見合うものであるのかどうかを、よくよく確かめてでないと、せっかくの忍耐は、「無駄骨」となる。
1-6-2-5.反自然の忍耐は、快楽主義同様、安寧の(快苦の)自然をかきまわす
 自然的には、苦痛を回避しておれば、生は損傷を免れてその維持ができる。それを忍耐は、無理やり苦痛を受け入れ損傷を受け入れる。あるいは快で生促進のなっているものを、無理やりにこれを抑止もする。快不快でうまくまわっている自然的な生の営為は、反生の方向へと掻きまわされ破壊されることになる。快楽主義は、快が自然的には生保護・促進への褒美としてあるものを、生保護の根本は無視して快楽のみを得ようとする。忍耐は、その反対で苦痛を受け入れ、自然を超越したものではあるが、目的がしっかりと確保できているのでないとしたら、生を損傷させるのみの無意味なことをしているのである。
1-6-2-6.なみなみならぬ犠牲には、それ相当のプラスの報いを想定したくなる
苦痛を受け入れて犠牲になっているのだから、それへの報いが当然あるとか、我慢しているのだから、それに見合うプラスの価値が得られるはずだと思うことがある。だが、忍耐には、犠牲のマイナスは確実にあるが、それに見合うプラスが実現できる保証はない。プラスにできるようにしっかり制御できていないと、反自然・超自然の目的論的展開をする忍耐は、目的をはずれることになりやすい。自分はしんどい目をして犠牲を払い忍耐しているのだから、当然報いられねばならないと主張したくなるが、「骨折り損の、くたびれ儲け」で因果の収支を合わせねばならないこともしばしばである。
1-6-2-7.思惑を外れて結果は無価値・反価値になることも
 手段の忍耐を理性的に制御するとしても、実在的世界の手段は、思わぬ方向にずれてしまうこともある。目的とするものに到らないとか、有害なものを結果するということもある。苦痛・損傷を受け入れる反自然の忍耐は、ことの展開を慎重に制御していないと、ときに自他を地獄へと突き落とすことになる。苦痛甘受の状態では、苦痛に囚われて周囲を見渡すことが疎かになりがちである。目的にいたる過程を十分に洞察し深慮しつつ忍耐を持続させることが必要である。
1-6-3.無駄な忍耐
 忍耐は、まずは損(苦痛甘受・犠牲という生にとってのマイナス)をして、得(目的獲得のプラス)をしようというのだから、得に到るまで進まないのだとすると、あるいは、目的まで進んでみても、その目的が無価値でしかなかったとすると、まるまる損で終わる。無駄な忍耐となる。成果のない忍耐は、苦痛・犠牲の損害のみを生じる愚かしいものになる。「無駄骨」「骨折り損のくたびれ儲け」は、忍耐のための言葉である。
1-6-3-1.途中で放棄する忍耐は、骨折り損となる
 忍耐は、途中で放棄されることがある。かりにその時点において有益なものが確保されていたのなら、それまでに成ったものにおいてそれなりに価値ある営為となる。あるいは、その途中の営為が苦痛でなく、快であったのなら、そのこと自体においては、損はない。だが、忍耐は、苦痛・損傷を受け入れるのであり、その犠牲は、その先に価値あるものが確保されることをふまえてなされる。その価値確保の目的まで至ることがなければ、苦痛や損傷という生にマイナスの事態が残るのみとなる。
1-6-3-2.目指す目的が無価値なら、その手段の忍耐は徒労に終わる
 忍耐では、手段の犠牲をもって未来に価値ある目的を実現しようとする。だが、その目的は、未来に、犠牲を払った後に実現されるものであり、実際に目的に到ってみて、価値のないものだと分かることもある。無価値の結果を招いた苦痛甘受の忍耐は、報われず、徒労に終わることとなる。逆にいえば、目的が予定していたように価値あるものということなら、遡って反価値の忍耐(犠牲的手段)の過程は有益な価値ある営為であったと価値転換されることとなる。
1-6-3-3.目的が無価値でも、途中が快適ならそれでよいという場合もある
 手段の過程が快適なものであった場合、その結果・目的が無価値と判明しようとも、その手段の営為自体は、快適な価値あるものを実現しているのであり、無価値に変わることはない。旅行では、途中の自動車や電車の旅は、景色を満喫させてくれ楽しい。旅先の目的地は予想外につまらない所であったとしても、途中の旅行自体の価値は変わらず楽しかったことであり、旅先がどうであれ、その快適さの価値はその価値を保つことであろう。だが、忍耐では、その途中の過程が、昔の旅のように苦難になるのであり、その旅先の目的地が大いに価値があるのでないと、なんのために苦労してきたのかということになる。
1-6-3-4.目的に向かわなくなった忍耐は、無意味である
 忍耐の犠牲は、そのことだけでは完結せず、手段として目的を実現することをもって完成するものである。それも目的に到ればいいというものではなく、所期の目的を実現しているのでないと、その間の苦痛甘受は、報われないものとなる。忍耐の価値はその実現される目的次第ということになる。その肝心の目的が途中で見失われたとすると、あるいは、目的に向かうことをやめた場合、その忍耐は、犠牲のみを払うことになり、無意味なものになってしまう。
1-6-3-5.善意・好意の忍耐だからといっても、有益なものになるとは限らない
 自分を犠牲にし、自分の価値を相手に贈与しようという気持ちは、尊い。だが、忍耐の犠牲をもって献身するという場合、気持ちだけでは、求めるような目的・結果は得られない。その犠牲が確実に結果を生むようにと合理的に制御しているのでないと、目的は実現できない。実際にする営為の結果が無価値では、善意・好意の気持ちは伝わるとしても、真に困っている相手であったとすると、手助けにはならず自己満足に終わる。
1-6-3-6.成果・目的はならなくても、能力開発に資することはある
 忍耐は、苦痛甘受の手段を展開する。それは、目指す目的へと向かう。だが、その意図は、実在的手段・犠牲のもとでは、かならずしも通らない。しっかり制御していないと意図しない方向に逸脱もする。ただし、所期の目的は得られないという場合のすべてが無価値に終わるとも言えない。その苦痛甘受の忍耐は、ひとの能力を駆り立てて高めることをするし、切羽詰まったところでは、新規の能力を開発もする。快楽が人を眠り込ませるのと反対に、苦痛はひとを覚醒して、能力を発揮させ、苦痛に耐える力を高めることでもある。
1-6-3-7.能力に応じた分相応の忍耐でないと、成果は実らない
 快適な手段の展開とちがい、忍耐は、苦痛を受け入れて成り立つものゆえ、苦痛受け止めの限界があり、それを超えた忍耐は、持続が困難となる。忍耐は、最後まで持続させてはじめて目的を得ることができるから、途中で放棄せざるをえないような苦難の忍耐は、成果をうまない。実現可能性のある忍耐とは、目的まで持続可能な忍耐であり、それは、最後まで耐えうる程度の苦難の引き受けに自己限定した忍耐ということになろう。それをふまえての苦痛の甘受でないと、「骨折り損」の忍耐放棄で終わることとなる。
1-6-4.向上の妨害をする忍耐
 生活に不便で不満があるとき、その不便の解消の創造的なあり方としては、創意工夫をして発明や発見をしていくとか、より豊かな経済的状態を獲得して便利な道具などを購入することがある。忍耐はそういう方法ではなく、その不快感情自体を受け入れて甘受し、不便の客観的状態はそのままにしておく方法になる。創意工夫も経済的努力もないがしろになる。そういう工夫などを否定することになると、忍耐は、おろかしくも無用の苦痛を背負い続けたまま、生活の向上も妨害することになってしまう。
1-6-4-1.改善する方がいいのに、忍耐で安住して停滞する
 少し改善すれば、苦痛でなくなることでも、その改善がやっかいなことだというので、苦痛に耐え続ける方を選ぶことがある。改善など新規の試みは面倒だから我慢しておこうとその改善に否定的になると、多くの者がかかわるものだと、これに迷惑となる。長い目で見れば、改善して快適な営為にしておけば、さらに次の課題にも取り組めて、そのより高い課題への苦労・苦痛を引き受けて先に進めるものを、忍耐して苦痛甘受をそのままにしている場合は、停滞した状態に留まることとなる。
1-6-4-2.我慢して慣れるだけでは、工夫への努力が蔑ろになる
不快・苦痛に慣れて平気になると、その忍耐は、小さくて済み、これに安住することになる。だが、他の者は、苦痛を回避しようと、その営為を工夫してより快適なものにと改良を企てて進歩・向上したものにする。より強く苦痛を感じる者は、それに耐え難ければ、苦痛でない状態にと必死になることである。苦痛でない快適なものにと改良・改善を企てることへと自身を向けていく。だが、忍耐強いだけの者は、その苦痛・不快の状態を受け入れ続けることにとどまる。工夫して苦痛を軽減したり、快適なものに改善することには、疎かになりがちである。 
1-6-4-3.忍従を当然とすることで、他のひとをそれに巻き込む場合も
 しなくてもよい忍耐をすることは、その本人だけに留まるのならいいが、周囲に否定的影響をもたらすことがある。みんなが改善を求めているのに、平気な顔をして苦痛甘受をしつづけていると、他のひとが不満を言っているのは、軟弱で怠け者だからだということにもなりかねない。他のひともその苦痛を甘受することへと強いられるかも知れない。他のひとの代わりに苦痛甘受を買って出ているのなら、皆にとってありがたい忍耐であるが、その同じことを他のひとたちも強いられるというのでは迷惑である。
1-6-4-4.従順な忍耐強い奴隷は、奴隷制廃止の妨害になる
 苦難の労働を平然と耐える奴隷は、奴隷主を喜ばす。だが、それでは、奴隷自身は、奴隷労働から解放されないし、周囲の奴隷にも、それが奴隷のあるべき姿と解されて、その苦難の労働が強制されやすくなる。苦痛を耐えがたく思い、これを拒絶し不従順なら、過酷な奴隷労働のあり方自体を改善しようということに奴隷主をも向けていく。もちろん、他の奴隷たちにも苦痛軽減の改善に向かうことをさそうもので好都合となろう。
1-6-4-5.忍耐すべきか、改革すべきかは、事による
 その営為を忍耐すべきか、忍耐せず別の方法をもってするか、さらには改善すべきかは、場合による。どの道をとるべきかは、通常は、それに関わる快不快、価値・反価値の差引計算で、より快適で価値あるものが確保できるのかどうかで判断する。通勤・通学の方法は、種々可能で、徒歩でする場合は、苦労が大きいとすると、バス通学が楽だと選択されるかも知れない。さらには、バスの待ち時間、バス停までのことを考えると、雨の日は大変だが自転車通学が最善となるかも知れない。
1-6-4-6.向上には、尋常でない努力・忍耐が必要でもある
 重労働には、大きな忍耐が求められる。これを耐え続けるのが困難な場合、その労働の改善が模索されよう。よりよい道具を作るとか機械化することでその苦労・忍耐は小さくしたり、なくすることが可能となる。その道具とか機械は、経済的に負担があることで、その覚悟がいる。もっと根本的には、そういう機械を制作するということになるが、それのためには知恵を動員して研究を重ねていくことが求められる。試作品を作って工夫を重ねるとなると、単純な肉体労働の方がよほど楽ということになるかも知れない。向上するにも、並々ならぬ努力、忍耐が必要となる。
1-6-5.逃避としての忍耐 
 忍耐は苦痛から逃げずこれに挑戦するが、ときに、より大きな苦痛、嫌な事から逃げるためになされることがある。大きな苦痛と小さな苦痛があれば、小さな苦痛で済む方を選ぶことは当然であるが、そうではなく、その大きな苦痛を選ばないと重大な損失が生じるというようなときに、逃げるために小さな忍耐の方をとるということである。忍耐しているということで、忍耐から逃げていることをごまかすのである。
1-6-5-1.向上のための困難に忍耐せず、現状の安易な忍耐に逃げる 
 現状の反復なら単純に辛苦を我慢しておれば、失敗なく、スムースにことがなる。だが、向上の営為は、そういう辛苦を無用にしてくれるが、そのためには種々のやっかいな工夫がいるし、成果がでるためには、試行錯誤をくりかえす努力も求められる。ならば、面倒だから、現状の辛苦に我慢しておこうということになりかねない。我慢するのだが、向上とか進歩への忍耐から逃避するものになる。
1-6-5-2.弱虫の忍耐は、正義への挑戦を回避するためにすることがある 
 「長いものには、まかれろ」と言われることがある。権力者に立てつくと難儀なことになるから、我慢しろというのである。不正を忍び従順にしておくことは、これに抗議して戦うよりは、楽であろう。正義を主張すると、しばしば余計な災いを招くことになるから、黙って引き下がる忍耐をとるのである。独裁下では時機を待つ必要があって沈黙の忍耐が合理的である場合もある。が、戦うことが億劫で、逃げるために忍耐をとる方が多い。
1-6-5-3.脅されて、諦めて泣き寝入り
 脅迫された時は、ひるまず戦う勇気をもつこともいいが、引き下がり生命を守ることが選択されるべきかも知れない。そのあとで警察にということである。その安全なやり方をとっても、のちにお礼参りをされるかもと思えば、警察へも行かないことがある。あきらめるのである。犯罪の被害者なのだが、それを放置して我慢する、泣き寝入りをする。この我慢は、告発することなどの忍耐を要する厄介事を避けようとするもので、逃げるための忍耐になる。
1-6-5-4.耐えきれず、逃避して自殺などを忍耐
 暴力団の脅しに耐えることができなくなり自殺したとか、人生に絶望してその苦痛苦悩を忍ぶことができず自殺したというようなことを聞くことがある。死に際しての苦痛は暴力団の脅しとか絶望の辛さに比べれば些細ということなのであろう。そのこと以上に、そういう情況下では、死が最後の安らぎと見えることが大きいのかも知れない。この世の耐えがたい苦痛の前で、それを無化してくれるのが死の安らぎである。ということでは、小さな苦痛にと逃げるというよりは、最悪の安楽に逃げるというべきなのかも知れない。
1-6-5-5.受難の苦界での諦念を説く宗教
宗教では、しばしば忍耐を求める。この世の苦難に忍耐することをいい、そのことをもって来世の至福・極楽が可能になるのだと説く。天国・極楽のために、苦界のこの世においては、神の与えた試練に耐えよという。だが、この世の苦は、神の代理をかたることもある自分たちの支配者の楽のためにしていることが多い。この世の支配者による奴隷化に諸悪の根源があるのであれば、これと闘うために忍耐も使うべきである。それを隠蔽・懐柔してのあの世へと方向づけられた「苦界」の忍耐は、逃避的というべきであろう。
1-6-6.外からの強制の忍耐は、かならずしも悪くない
 忍耐は、苦痛を受け入れるが、自然感性的には苦痛は回避したいものの代表である。それを忍耐するのは、させられるからということになる。権力をもつものが外的に強制してという、奴隷の強制労働のようなものが忍耐のイメージになる。日頃の忍耐は、自身で自身に強制する。理性が感性を抑えて苦痛を受け入れるのだが、それだけでは、忍耐しないようなことについては、外から強制する。脅したり賺したりして受け入れさせる。幼児は苦い薬は飲まない。そとから親が無理やりに強制して飲ませる。外から無理やりに忍耐させることは、かならずしも悪いわけではない。
1-6-6-1.教育的な忍耐強制は意味がある
 苦しいこと、嫌なことは、自然状態では、ひとでも、回避へと傾く。それを受け入れて実行するには、自発性だけを待っていたのでは、なかなか進んでいかない。外的な強制が効果的になる。子供の勉強にしても体力作りのスポーツにしても、好きな遊びだけでは能力向上には直結しにくい。外的に仕組んで教育・訓練することが、強制し忍耐させる場面が必至となる。
1-6-6-2.自分自身では限界を低くするから、そとから強制することも必要
 苦痛の甘受は、主観的なもので、耐えうる限界は、かなり変えることができる。拷問などになると、日頃は到底我慢できないような苦痛も耐えうる。怒りの我慢は、かりにそれを我慢したら莫大なお金が入るとしたら、おそらく短気な者でも、平然と装えることである。身体を鍛えるとき、耐えうる苦痛の限度は、自分だけでする場合は、低くなりがちである。だが、そとからこれを叱咤激励する者がいると、苦痛甘受の限度を自らで動かして、限界を高くにもっていくことである。外的に訓練で忍耐が強制される場合、その指導者を信頼している場合、相当に無理をしても苦痛を受け入れ続けて忍耐をすることであろう。
1-6-6-3.理性意志が感性を抑制する忍耐は、本来強制の面をもつ
 苦痛からは逃げたり、これを排撃したいものを、忍耐は、その自然の思いを抑止して動かさないようにする。それをするのは、自身の理性意志である。感性にとっては、その忍耐は、強制されることである。そとからの強制は、それが脅迫などであれば、自身の感性はもちろん理性意志もこれを強制とする。だが、合理的な忍耐の強制は、外からであろうとも、自身の理性も納得することであり、うちなる自然感性が強制されるだけである。  
1-6-6-4.したい忍耐はまれだが、するべき忍耐は多い
 生は苦痛回避を根本衝動としており、感性的には、したい忍耐はなかろうが、理性は、自身においてそれが合理的だと思えば、この苦痛回避衝動の自然を抑止してこれを強制して苦痛甘受を意志する。義務とか使命といわれるものは、その代表になろう。義務は、自らも当然と解している自身に負担のかかることであり、使命は、自身が社会から高く評価されて買われているものとして、心身に苦痛で忍耐のいることでも、自身を強制してこれに粉骨砕身する。あるいは、周囲から懇願される事柄は、それが自身に忍耐を強いるような内容であっても、受け入れるべきと思えば、自発的にその遂行を自身に強いることであろう。
1-6-6-5.強制される忍耐も、最後のところは、自身の自由・自発性をもってする
 強制労働は、拒絶の自由を許さずひとに苦役を強いる。そこの忍耐は、無理やりに強いられる強制された忍耐となる。だが、その場合でも、この強制労働をするかしないかの自発性は、自身に有していることである。もし、自身が自発的に動こうとしないなら、強制労働は成り立たない。かりに、鞭うたれても一歩も動かないなら、労働は成立しない。最後のところは、虐殺されるよりは、まだましかと自身が納得して自発的に動くのである。強制労働を甘受するか否かへの自由・自発性をもっている。それゆえ、独裁者は、鞭うつだけではなく、その労働を自発的に受け入れるようにと洗脳する方策をとるのである。
1-6-7.忍耐批判の行き過ぎは問題、忍耐侮蔑は問題外
 忍耐には、無意味なものや有害なものもあるが、その本来は、自然を超越する、ひとの尊厳の中核をなすといってもいい卓越した営為である。その有害な面をもって忍耐自体を否定するのは、行き過ぎであろう。苦痛に耐えることは、自身に損傷を受け入れることでスマートではない。恵まれた高みからそれを泥臭いものとして、侮蔑するようなこともある。逆境のなかでの受苦受難の忍耐をダサいと蔑視することもある。が、それらが、怠惰なパラサイトの発言であれば、まともに受け取る必要はない。
1-6-7-1.忍耐批判はもっともなところがある 
忍耐は、苦痛を回避する生の自然を拒み、超自然的に振る舞う。だが、思慮を欠いたそれは、無駄な苦痛甘受でしかないこともある。あるいは、不当と思いつつも反抗できず泣き寝入りするような情けない忍耐もある。特訓に耐えることは大切だが、行き過ぎたそれは、むしろ心身を破壊し弱体化してしまう。そういう愚かしい忍耐は、批判されて当然である。忍耐をきらう怠け者からの批判であっても、その骨折り損の愚行が愚行でなくなるわけではない。
1-6-7-2.忍耐否定は、怠け者や快楽主義者の自己弁護の方便にもなる
 忍耐批判では、その苦痛甘受の犠牲を反自然の愚行とするが、その批判は、ときに、批判者自身の反忍耐の立場を擁護するための強弁でしかない場合がある。汗を流す苦労がいやなので、自身の怠惰をごまかすために、自身の快楽主義を弁護するために、苦痛甘受、快楽抑制の忍耐を、やせ我慢、飼い慣らされた駄馬、自虐趣味、反自然と見下すのである。苦痛回避、快楽享受の自然を後ろ盾にして、自然の大道からはずれていると、超自然の苦痛甘受、快楽抑制を批判するのである。 
1-6-7-3.忍耐せざるを得ないものへの無知の発言もある
 「パンがなければ、ケーキを食べれば!」といった類いの支配階級の無知な発言は多いが、忍耐でもそのことが言える。苦痛を受け入れる忍耐のこと、誰も好き好んでしたいものではない。せざるを得ない事情があるのである。貧困の惨めさを知らない者は、どうしてあくせく命を削ってまで働くのかと、その辛抱に疑問を呈する。逆に豊かに暮らしている者にもまたそれなりの苦悩のあることで、それを知らない者は、なにを悩んで陰気に辛抱などしているんだろう、気楽に暮らせばよかろうにと脳天気なことを思う。
1-6-7-4.自然はいいが、自然への埋没は、人にふさわしくない
 苦痛に耐えているのを見て、自然に逆らって愚かなとか、誰でもその気になれば忍耐などできることで、褒められるほどのものではないと批判することがある。無理をせず苦痛回避の自然的生の大原則を守るといいのであって、わざわざに苦労を引き受け、ことさらに自然に逆らって忍耐するのは、愚かだという。忍耐は苦痛に耐えることで、誰でもが、本気になればできるものではある。だが、そのささやかな忍耐をもって、ひとのみが、自然を超越でき、自由を、尊厳を実現できているのである。自然によりかかり、苦痛から逃げているのでは、ひとの尊厳はないがしろになり、自然に埋没した動物にとどまることになる。
1-6-7-5.天与(知・腕力・美など)を誇示して忍耐をけなす尊大さ
 ひとの正義は、平等にある。本来的に人間同士が平等の能力をもつからである。それゆえ、わずかの違いを競って、いたるところで競争をする。そのわずかな違いの能力について、その能力に少し劣るものが能力向上に努力し辛抱していると、これに侮蔑の言葉を投げかけて、忍耐などしてどうなる、天与のもので満足せよという。だが、ひとの尊厳は、自然への隷属から解放された自律自由のもとにある。天与のものにしがみつくのみでは自然の奴隷にとどまる。若干すぐれたものを自然から与えられたのは、偶々であり、それに満足するのでは自然への埋没である。辛さに、苦痛に耐えて自然を超越して、より卓越した能力を磨いてこそ、つまり忍耐してこそその天与の幸いも生きるというものである。
1-6-7-6.自然超越の尊厳への冒涜 
 自然は、快で引き寄せ、苦痛をもって生損傷を回避させる。苦痛は、反自然となることへの重罰としてあり、動物はもちろん、ひともこれにはそう簡単には逆らえない。しかし、ときにひとは、この自然に背いて、苦痛から逃げずこれを甘受して犠牲を払い、高い目的を実現していく。忍耐をもって超自然的に振る舞い、自然を自己のもとに従えることができる。快苦の自然の外に立って、自分でたてた目的を自分でもって自由に実現していく。忍耐の根本的な否定は、そういう尊厳をもった自由の営為としての忍耐への冒涜ということになろう。

2.周辺から忍耐を支えるもの
忍耐も苦痛も自己内のことで、ひとがこれを代行することは、できない。本人が苦しみ、これを自らに乗り越え克己することが必須である。だが、そとからこれを手助けし、外から支えることはできる。あるいは、外から力をもって強制し忍耐力を高める後押しをしたり、応援をして盛り立てることもできる。ときには、苦痛軽減にと、慰め、快となるもので慰撫することも可能であろう。

2-1.忍耐へと外から強制する   
 忍耐は、ときに、「忍耐させられた」と、無理やりにこれへと強制されることがある。強制労働は、したくない労働を自分の意志に反して強いられることである。苦痛の労働への忍耐を強いられるのである。忍耐は、苦痛甘受であり、苦痛は好んで受け入れたいものではないから、何らかの力を持ってそれを誘い強いることが必要になる。それをさせるに、不快な外力をもってするのが忍耐での強制である。
2-1-1.忍耐において強制とは何か

2-1-1-1.任意・自由の否定と外からの強制
ひとの営為での強制は、その自由・任意を否定するところでいう。「強制された」というのは、ひとが自由に任意にできることについて、これを否定されて、無理やりに従うことが強いられたということである。動く、動かないが好きなように自由にできる場面で、任意が否定され、力づくで強引に従わされるのが強制である。自由のない自然については、強制の典型からは外れるが、自由・任意に似通った場面で、これを援用することがある。自然なあり方を排して無理やりの、強制通風とかパソコンなどの強制終了などがそれになろう。
2-1-1-2.任意の動きを抑止できる力をもって無理やりに制する
 自由に動くものをそうさせないで強制するには、それを実行させるだけの力がいる。力のないものは、力のあるものを自分の思うようには動かせない。強制される側は、自身にとり好ましい方向へと任意に自由に動こうとする。それを阻止し、かつ、強制されるものが求めない方向へと動かすのであるから、そのための力がなくては強制はなりたたない。強制する(force)ことは、力(force)でもって、力づく(force)ですることになる。力が大きいと、強制の意図はなくても、弱いものにとっては、その力によって思わぬ方向に流され、強制されたと受け取るようなことも生じる。
2-1-1-3.強制は、本来自発的に動くものが対象になる
動物にも人にも、好悪、したいこと、したくないことがある。それを妨げられ思わぬ方向へ動かされるのは苦痛で、強いられたと感じることであろう。強制は、そうされたものが強いられたと受け取るのでなくてはならないだろうから、その生が自発的に運動でき、その意識をもつことが前提になろう。その点では、同じ生物でも、植物には中枢となるところがなく意識がないから、強制は狭義にはなりたたないのではないか。竹に無理な力を加えて曲げても、これを強制するとは言わない。
2-1-1-4.強いる方法は、自発性無視か自発性を強いるかに
 「強制排除」という場合、排除される者が頑として動かないのを、ゴボウ抜きにして排除する場合と、排除される者が逮捕等を避けるために嫌々に自分から立ち上がってそこを空ける場合があろう。後者の場合、強制されるもの自身が強制の内容を意志することになる。忍耐は、当人がその主観において自身のうちに生じる苦痛を自身が甘受することであるから、当人にその気がないと成立しない。忍耐強制は、忍耐する者の自発性に働きかけてこの自発性を強制するのである。殺されるよりは忍耐する方がましかと奴隷自身が自発性を発動してのみ、忍耐の強制は実現する。   
2-1-1-5.自発も、のせられたもので、内実は強制のことがある
 ひとは、強制をきらう。したくはないことの受け入れであれば、嫌って当然である。強制しても最後のところは各自の自発性の必要なことが多いので、独裁者でも、嫌われて効果の低い露骨な強制は避けて、自発性を引き出すことをもって独裁し強制する方法をとる。自発性は、したいと思わせれば成り立つので、情報を操作してそのようにもっていく。独裁維持のための戦争や平時の奉仕活動など、庶民が自発的に熱狂的に犠牲を買って出ることだが、そとから冷静にみれば、内実は強制であることが多い。
2-1-1-6.強制された忍耐は、苦痛回避衝動の自発的抑止へと強制されたもの
 忍耐は、自分のうちの苦痛回避衝動を抑止する。自分で抑止する以外ないことで、忍耐は、いくらそとから強制されたものであっても、最後のところは自分の自発性が発動してのみ可能になることである。そとから強制されて自分がこれをやむを得ないとして受け入れて自発的に苦痛甘受をするのである。つまりは忍耐へと自発性を発動することを強要されたものが強制された忍耐ということになる。そとからの諸種の作用があってこれに応じて自身の忍耐への自発性を発動させたのであり、この外からの作用について、後日、強制と解するとか、そうではなく励まされ自発的にしたものであったと解釈することが生じる。家庭が貧しくて自身が自発的に大学進学を断念し我慢したという場合であっても、のちに弟や妹の尊大な振る舞いのなかで、自分だけが進学を断念し忍耐を強制されたと解釈しなおすようなことが生じうる。
2-1-2.忍耐する者のためを思っての指導者による強制 
ひとも所詮は動物であり、快不快の自然にしたがっていることが圧倒的である。苦痛甘受の超自然的な忍耐は、心構えをしっかりもっていないと、自然に流され、苦痛回避衝動を抑止しきれず、忍耐放棄になっていく。理性意志の貫徹がよいことと自身で思っていても、気を許していると自己内の自然感性の方が表にでてしまう。その自己内の理性の立場をそとからとらせてくれるのが忍耐の場でのコーチやリーダーである。つらくて、理性的冷静さ、洞察、深慮を忘れそうなとき、リーダーがその代弁をし導いてくれる。あるいは、自身の理性の狭さを補って、より合理的な助言もしてくれる。そとからのそういう強制は、ありがたいことで、忍耐力を大いに高めてくれることとなる。
2-1-2-1.苦痛は嫌なもので、受け入れには、なんらかの強制があろう
 忍耐は苦痛にする。苦痛は、できれば回避したいもので、受け入れるには、その自然的な回避衝動を抑止しなくてはならない。その衝動を抑止できるだけの力、強制がいる。その衝動抑止の強制力は、理性によることもあるが、対立的な衝動や感情をもってすることもありうる。あるいは、外的な脅迫などの威力をもって強制することも可能であろう。穏やかな合理的な指導によってその強制がなるということも勿論ある。
2-1-2-2.嫌がるのを強制するのは、それが有益と高所から判断してのこと
 忍耐させる、忍耐を強制するのは、強制する者の利益のためである場合もあれば、強制される者自身のためである場合もある。前者は、忍耐する者には苦役・受難で犠牲のみが結果する。だが、その強制を肯定的に受け取れる場合の忍耐は、苦痛・犠牲を通してのみ得られる価値獲得へと強制されるものである。教育・訓練での忍耐の強制は、基本的には、忍耐する本人の能力向上を求めて、若干悪役ともなる役をリーダーは引き受けるのである。強制される当人には見えていない先を見て、リーダー、コーチは、その価値あるものを獲得できるようにと高所から判断して強制する。
2-1-2-3.よいことでも、苦痛が前面に出ていると回避したいもの 
忍耐するべきだと分かっていても、いざはじめて実際に苦痛を受け入れる段になると、自然的にはこれを回避したいから、続けることを躊躇して忍耐放棄となってしまう。忍耐する気になってはじめていても、苦痛のマイナス価値を大きく感じると、はじめの意気ごみは消えてしまい、理性の意志もなえてしまう。それを防ぐのは、強制である。自身の理性意志を強化し決意を新たにして苦痛回避衝動を強引に押さえつけるか、外的な諸種の強制できる力を借りることである。
2-1-2-4.自分の内のことでも、外から対処する方がよいことがある
快適な状態にあると、内に生じている害悪の芽には気づきにくい。悪性腫瘍ができていても、痛むことがないと分からない。それは検査等をもって外から指摘されて気づくことになる。あるいは、すると良いことでもそこで苦痛が前面に出ていると、苦痛を避けたいので、できるだけ見ないようにして、良いチャンスを見逃してしまう。自分だけだとつい避けがちになる忍耐では、善意・好意をもって関わっている人からの強制は貴重なものになる時がある。
2-1-2-5.そとからの目があれば、自身のうちでも冷静に見る目をもてる
 教育やスポーツの特訓では、指導者は、かならずしも、手を取り足をとって教えなくても、傍で見ているだけでいいことがある。その指導者の眼があるだけで、なにをすべきかを察することができ、おのずとこれを受け止めて実行するからである。「コーチがここで踏ん張るべきだと指摘していたな」と想起すれば、自分の意志自体が「ここが肝心なところだ」と自身を強制して苦痛に耐えさせることになる。
2-1-2-6.外的強制は、力を引き出すための合理的方策をもっていなくてはならない
 鍛練で、がむしゃらに耐えさせることがある。それが合理的な深慮をもっての末であれば、効果があがるであろう。科学的な根拠をもっての限度ぎりぎりのところまでの忍耐であれば、根性・根気も鍛えられる。が、単に倒れるまで耐えさせるだけでは、その忍耐は、心身に回復不能のダメージを与えるようなことにもなりかねない。洞察力をもった、苦痛・忍耐の限度がどこらにあるのかを踏まえた合理的なコーチのみが、忍耐の強制を正当化しうる。

2-1-2-7.強制の仕方は、その個性に合わせたものになる必要がある
 忍耐を強制するのが適切であるとしても、その仕方は、その強制されるものの個性に応じたものでなくては、効果は十分には出ないであろう。付和雷同の性格の者は、すぐに応じてくるから、あまり強引に忍耐を押し付ける必要はなかろうが、少し別のことがあるとそちらになびくから、貫徹することに重きを置いた強制がいる。独立心旺盛なものには、自分で納得すれば自力で忍耐も貫いていくから、肝心のところのみを的確に指導するような配慮が求められるであろう。
2-1-3.圧力・強制があれば、忍耐は進みやすい
 苦痛は、ひとも自然的にはこれを避けようとする。忍耐は、生あるものの自然本性の苦痛回避を否定してこれを受け入れるのであるから、それを抑止する何らかの威力が必要である。自身の理性意志がそれを担うが、それだけでは無理になることも多く、内外の力を借りねばならなくなる。苦痛回避衝動を抑止できるような圧力・強制が利用できれば、忍耐は進みやすくなる。
2-1-3-1.「忍耐する」と共に「忍耐させられる」ことが多い
 忍耐は、自身が苦痛甘受するという自発の意志をもって始める。「忍耐する」のである。だが、その意志は、かならずしも自身のみによって立てられたものではなく、意志のそとの諸事情が意志に決断をさせることも多い。自律自由に意志は動くとしても、そう誘われ、あるいは強制されるのである。その強制されている面に焦点を当てれば、ほとんどの忍耐は、「する」ものではあるが「させられ強制されている」と解しうる。勉強など、自発的に忍耐するのであるが、怠けて放棄すると諸方面から圧力がかかる。忍耐させられていたのだ、強制されていたのだと言えなくもない。しかし、その強制は、自身のためになることで、良い強制であるとも解されることであろう。
2-1-3-2.強制されないと自身の限界を低くしてしまう 
 心身の能動的営為は、その筋肉なり頭脳の能力に応じて、出来ることの限界がある。だが、忍耐では、苦痛の感じ方も、受け入れ得る限度も、おかれた状況で相当に異なり、耐えうる限度は、動かせる。心身がダメージを受ける点がひとつの限度となるが、それもダメージを覚悟すれば、苦痛甘受の忍耐は続行可能である。限度は高くにもっていける。外的な強制があれば、しばしば、自分だけでは限度と思っていることを越えて忍耐することができる。その強制がなければ、苦痛は避けたいのが自然であるから、受け入れも低いところを限度にしてしまう。
2-1-3-3.コーチの適正な指摘があれば、そこまでは安心して無理ができる
忍耐で自己強制する場合、苦痛が主観的で限度が動かせるため、張り切りすぎ、無理をしすぎて、自身を破壊してしまうことがある。その点、そとから客観的に見て忍耐できる限度を設定してもらっている場合は、安心できる。マラソンでは途中からは苦しさより恍惚としてくるという。過労死なども苦に麻痺状態となってしまい、自己管理が困難になる場合があるようである。そとから、理性の眼があって限度を明確にしてもらえるなら、そこまでは、がむしゃらに忍耐してもよいということで、いわば安心して苦しむことができることとなろう。
2-1-3-4.脅迫は、我慢・辛抱への強い圧力となる
 そとからの強制は、良質もものと悪質のものがあるが、いずれも、忍耐ではよく効く。脅迫のような強制では、恐怖や不安などが加わってムチうち、忍耐へと強制力を大きくする。脅迫は、単に暴力団の露骨な暴力によるものには限らない。貧困とか失業といった社会的な脅迫もある。失業したら生きていけなくなると思えば、そのことに脅迫されて、なにがあっても今の苦痛に耐えぬいて成果を出さねばと頑張ることになる。
2-1-3-5.善悪の神の威力を信じる者には、神からの強制がよく効く
 忍耐の対象の苦痛とその甘受は、主観のうちにあって、本人の気の持ち様しだいで大きくも小さくもできる。邪神に畏怖させられれば、忍耐力は大きくできる。善神が見ていると想像すれば、怠惰な自分では恥ずかしいと自身を強制して忍耐に力が入る。これは、そとに真実、邪神・善神がいるわけではないから、実質的には自己強制である。自分が想像してたてた、あるいは自身の無意識を対象化・外化しての神であろうから、神である自分が、奴隷である自分を鞭うち強制するのである。
2-1-3-6. 義務や使命は、外的強制を内的強制にする
 自分に課された義務となり使命となるようなものは、社会から強制されたものである。社会からの強制は、不当なものである場合もある。差別とか不法な脅迫的なものは自身にとっては理不尽な強制と解される。だが、正当な強制と自身が受け取るものもある。義務は、その負担を課せられることは正当と自身が思い、これに責任を感じる強制になる。借金の返済などこれである。強制を感じるから、無理をしても借金は返さねばと苦労する。外から強制するのはもちろんだが、自身が義務と感じて受け止めて内的に自身を強制するものともなる。使命は、自発的に果たすが、本質的には社会から命じられ強制されたものであろう。それを誇らしく引き受けて、その強制を自分の存在意義とし、これに苦労・忍耐することを生きがいとする。
2-1-4.自己強制
どの忍耐も本質的に自己強制である。自身の苦痛回避衝動を自身の理性意志が、動かないようにと自己強制する。外部から脅迫などをもって忍耐を強制される場合も、自身において苦痛甘受をするのであり、その甘受の点では、自己の意志による自己の感性への自己強制となっている。忍耐での自己強制は、自己の自由意志のなすものとして、常に自発的でもある。その意志の自由のもとの忍耐する自発的営為に対して、さらに、その外から強制がある場合に限って、「忍耐を強制される」というのが普通であろう。
2-1-4-1.学校での自習は自己強制に頼る 
学校での勉強は、日本の場合、子供の自由にするものではなく、全員が同一の科目で同一のことを教えられるのが基本である。先生が児童に学習を強制するといってよい。その学習における強制者の先生が、他の用事ができたため、その時間を児童の自主学習にする、自習にすることがある。この場合は、児童は、先生の強制を自己のうちに自主的に取り込んで自分で先生の強制を想定して自身に課題を設け、先生役の自分が、嫌がる自分を強いて学習へと仕向ける。いなくなった先生の強制を自己にとりこんで自己強制するということになる。
2-1-4-2.交通規則順守という自己規制 
 交通規則の順守は、警察がそう強制するのだが、一般的には運転手は警察から言われなくても、自己規制して法を順守する。規制は単なる強制ではなく、規則とか法があって、この規則に制され強制されるということであろう。単なる強制は、威力あるものに強引に制され支配されるもので、それが規則・法にのっとっている必要はない。だが、規制は、規則があってこれに強引に従わされるということになろう。あらかじめそれを周知しておれば、強制の発動がなくても、スムースに遵法の営為となりうるし、自分だけが力づくで無理やり強制されているということではなく、強制が納得いきやすいものとなる。
2-1-4-3.自律(自己立法)
自己規制は、自律となることもある。自律は、規則自体も自分が立てるもので、その自分の立てた、自己立法(自律)の法・規則に、自分がしたがう、自己規制するということであろう。始めから終わりまで自分のすることであり、自律自由ということになる。その自由において、強制がある。自分の立てた法に自分を強制するのである。自由は、消極的には、他の強制から解放され自由になることであるが、積極的には自分で自分を律する(支配し自由にする)ことである。
2-1-4-4.内化した社会的強制としての良心・良識
自身のうちに、当の社会の求める行為の原理原則を自らのものとして描き出す能力が存在する。社会的に合理的と思われる規範を自己内にとりこんでいる良心であり良識である。これに従うことは、うちにある規範意識に強制されるということである。外にある社会的規範をうちに感じ取って良心の法廷をもち、これの強制にしたがうのである。良心は、決してエゴの味方をすることなく、客観的な法廷をもち、自己を糾弾し、不正をあらためるよう強制し、刑罰も自身で課して、自身を責めたて苛む。
2-1-4-5.そとの非強制的作用を強制に、あるいは逆にと読み替える
 忍耐するものについて、そとの非強制的な働きかけも、自身のうちで強制と解することができれば、より強い作用をもって自身の忍耐を押してくれるだろう。「進学をあきらめてくれると助かる」といわれて、非強制であっても自身は強制に読み替えて忍耐するようなことがある。長子であれば、そうせざるを得ないと自身で強制する。逆に、大学にやるわけにはいかないと強制されたとしても、自身が「実業家になるには、大学は無意味だ、行く必要はない」と思えば、自発的な断念で非強制となる。
2-1-4-6.うちの理性的強制を外化して、外からの強制があるかのようにする 
 我慢する場合、うちで理性がこれを決意することを一層強化するために、そとからの強制としても見出すことがあろう。禁煙の忍耐は、理性が自己強制するのだとしても、その支えをそとに見出して、「禁煙ファシズムに逆らうと怖いぞ」とか、「家族は、肺がんに巻き込まんでよ、という目つきだしな」と、社会や家族からの強制を見ることがあれば、単なる自己の理性的強制より大きな力となって忍耐をすすめさせるであろう。
2-1-5.懇願・哀願されれば、いい加減なことはできない
強制ということではないが、そとから強く求められるようなことも忍耐を促進する。狭義の強制は、力をもって無理やり忍耐を求めるが、低姿勢になって無理を求めるという懇願とか哀願も忍耐を進めることであろう。懇願・哀願は、もとより強制ではなく、任意であり、自分の方に力があり、主導権がある。忍耐してくれるようにと乞い求めるのであり、贈与してくれるようにと憐みを乞うのである。下位の弱者の立場から、能力有る忍耐する者に乞い願い、救い・贈与を求めるのである。懇願は、懇意に親しく近づき、哀願は、哀れをさそって贈与を強く求める。
2-1-5-1.哀れな自分の家族や民族を思えば、忍耐の限度は大きくできよう
外的強制をうちにとりこんで自己強制することがあるように、そとの一体化できるものの困難を自身のうちにとりこんで、これを我事にして、自分のためにするように懸命になることができる。他人事なら、苦痛を引き受けて忍耐するとしても自身が傷つかない程度にと耐える限度を低くするであろうが、一体化感情をいだく相手には、その懇願には、親身になって、耐える限度を最大にして耐えていけるであろう。
2-1-5-2.自分の忍耐が求められ役立つのだと知れば、張り切る
 強制の場合、自身の忍耐・苦痛甘受は、相手の益になることが多いが、ときには誰の益にもならない嫌がらせのときもある。だが、乞われる場合は、まちがいなく相手の助けになることで、自身の忍耐の結果は、懇願されるほど高い価値があるのだと評価されているのである。自身の存在・行いが独りよがりでなく、そこに意義をもって確固として存立することとなる。やる気になることであろう。
2-1-5-3.懇願される者に応える忍耐は、それをもってお互いの絆をつくる
 懇願する者は、その相手に対して、親しみを抱いたり服従する姿勢をもって乞い願う。懇願される者は、その気なら、お互いが親密な絆を築くことのできる状況なのであり、それは、自身の忍耐の営為をもって実現される。忍耐することで獲得される価値あるものと同時に、その忍耐を通して、好ましい人間関係が構築されることにもなる。 
2-1-5-4.無理な哀願・懇願内容でも、少々の無理は忍耐できる 
懇願・哀願されるということは、自分にはそれに応える能力があるということである。懇願されるほどの大きな力をもっていると評価されているのである。これには応えなくてはという気になろう。相手は、困り切っているからそうするのである。自身の苦痛、その受け入れは、ひとを救う大きな役立ちを持つ忍耐となる。忍耐して辛くなっても、その哀願を想起すれば、奮起せざるをえないことであろう。
2-1-6.背水の陣
 前に向かわねば死あるのみという地、後ろは濁流の大河という必死の地に追い込まれると、ひとは、猛烈な勢いで闘いに挑む。背水の陣である。そこへと外から追い込まれたものでも、自身でそうするのでも、同じように、死を賭けた戦い、必死の忍耐へと自身を強制することになる。忍耐の対象の苦痛は、主観的なもので、その耐えうる限度は、変えることができる。苦痛はできれば避けたいし、なるべく限界も低く置こうとする。その限度を高くへと自身でひきあげれば、忍耐は、それだけ大きくすることができる。死を覚悟すれば、拷問でしばしば言われるように、苦痛への忍耐は無限大にもできる。
2-1-6-1.死は、最大のムチをもっての自己強制になろう
 もし、その忍耐を貫かず放棄したならば、その懲罰は死刑だということなら、おそらく、死よりは激痛の方がまだましということで、必死になることであろう。その必死の状態にと自身が追い込むことができれば、命がけとなれば、どんな激痛であっても、耐えてみせるということになる。ただし、死が最大のムチでありうるのは、生にとって死が最大の損傷、恐怖で、生の悲惨な最後と解する、健康な生のもとでのことである。
2-1-6-2.忍耐以外はすべて死(破滅)となれば、忍耐を選ぶ
「窮鼠猫を噛む」という。追いつめられてそれ以上引き下がったのでは、死・破滅があるのみという状態になれば、強大な敵であっても、逃げることなく、というか逃げることはできないので、やぶれかぶれで全身全霊をもって攻撃にと転じる。激痛に、もう辛抱は無理という状態でも、これから逃げたのでは、破滅となる、死以外ないということなら、それよりはましな忍耐を持続させようということになる。
2-1-6-3.耐える以外ないと覚悟すれば、苦痛は耐えられる
「火事場の馬鹿力」をいうが、忍耐の力も、ときにそうなる。非常事態では、それ用にと、ひとは、出したことのないような高能力を発揮する。背水の陣をもって必死の状態にならなくても、人生最大の苦難だとの自覚をもてば、ここでこそという闘魂が目覚め、激痛にもたじろぐことなく対応可能となっていく。苦痛は主観的なもので限度は動かせるから、人生初めてというような忍耐力を発揮することもその気になれば可能である。 
2-1-6-4.外部の強制を使って、全力を尽くす姿勢をとる
苦痛は、できれば小さく済ませたいことで、自分で自分を強制する忍耐の場合、その強制は、甘くなる。しかし、そとからの強制では、それは通用せず、手加減のないムチ・激痛が容赦なく加えられる。背水の陣は、外部の強制を最大限に利用して自身を追い込んでいく。自分で自分を絶体絶命の状態にもっていく。戦えないのなら、忍耐できないのなら、「死ね!」と自らに引導を渡す。
2-1-6-5.希望は、残せるようにしておかねばならない 
 どこにも助かる出口はない、死あるのみとなれば、諦める以外なかろう。後がないのに諦めず、必死で戦い耐えるのは、生き残る可能性が前向きの一ヶ所だけには残されているからである。出口のない絶望の必死の地だと、諦念し、無駄な戦いをやめるか、もしくは自暴自棄になり破れかぶれで自滅して終わる。背水の陣をしくのは、救いようのない死地に自身をおく消極的な対応ではない。決死の覚悟を決めてその一戦に集中するために、ほかを死で取り囲んで、逃げると死のみになるようにするもので、単に死をもって臨むというのではない。戦えば、必死で取り組めば、死を免れうるという希望を必ず残していなくてはならない。
2-1-6-6.守るべきものをなくすれば攻撃力は大きくなる
 闘いは、相手からの攻撃への防御をともなう。しかし、守るべきものがないなら、攻撃一本になれる。「背水の陣」「窮鼠猫を噛む」は、守りの体勢をゼロにするということでもある。守るものがないということは、攻撃以外には何も手を取られないということである。忍耐において、目的実現がすべてで、その過程での生防御の必要はないとなれば、損傷回避に気を使うことがなくなる。感覚は苦痛の受け入れを拒否しつづけるとしても、その意志は、目的実現にむけての犠牲(苦痛)に躊躇することはなくなる。
2-1-7.逆境の力は大きい 
 人一倍忍耐することが強いられる逆境は、そのひとの進む人生に、逆風が吹き、嵐があって、その歩みに逆らい妨害するものが圧倒的で、恵みの少ない状態であろう。その逆境の中身は、心身の障害であることも、経済的な貧困もあれば、裕福で心身は順調でも、家庭的に悲劇を背負わされているといった逆境もある。その険しい道程を踏破して、苦難に耐え切っていけば、大きな忍耐力を身につけることとなる。さらには、その逆境を克服した方面の諸能力を高くしていくことともなる。
2-1-7-1.逆境は、苦痛への対抗力、忍耐力一般を大きくする
 逆境では、ひとに倍する苦難に直面し、これと対決して、苦痛を耐えていくことになる。その苦痛の内容はどんなものであっても、苦痛回避衝動を抑止して苦痛を甘受する意志の貫徹力が養われることで、忍耐力一般が大きくなる。その逆境で培った耐える意志の力は、他の方面でも、おなじ意志力をもってすることで、忍耐全般への能力を大きくするものとなる。
2-1-7-2.逆境と捉えるか、順境と見なすかは、ひとによって異なる
 仮に片手がなくても、それだけでは逆境とはならない。それが当人には当たり前のこととなっておれば、順調に片手で出来ることをするだけで、そのことを嘆くことはない。それが嘆きとなり逆境になるのは、順境と比較してのことである。みんなが両手をもってすることが自分にはできない苦難の振る舞いとなり、それを劣等な状況にあると感じるところに、あるいは、周囲が差別的意識をもってかかわる中で逆境はなる。しかも、そういう劣等の条件を背負うとしても、そのことを些事として気にしない場合は、逆境にあるとは思わないことでもある。左利きの場合、ふつう道具は右利き用になっていて不便であるが、特殊な仕事をして人に倍する苦労をさせられ差別を意識する者以外は、おそらく、逆境とは感じないであろう。
2-1-7-3.逆境につぶされることも多い
逆境というと多くが経済的貧困を思う。順境の者がお金の心配をせず好きな道に進むのを見ながら、自分は高校へも行くのを断念させられ、家族のためにさんざん苦労することになるような時、逆境をいう。かつ、その逆境は、順境の者にはない生きざまをつくることになる。苦難にめげず挑戦することで、強靱な意志力をつけ常人にはできない苦労を平然と乗り越えて社会的に卓越した存在に成長することを可能にする。だが、逆も多い。逆境に負けて逃げ腰にすごし、順境の者が怠けて生きていても恵まれた人生をすごす傍で、ホームレスなどとなってうらぶれた人生を終わるというようなことにもなる。
2-1-7-4.逆境では、高い能力も求められるので、それを開発することになる
 逆境は、ひとに倍する苦難を背負うことで、苦痛甘受・忍耐に強くなる。だが、忍耐力がつくだけではない。逆境から抜け出すための方策を種々考えて生きることになるから、生活力がつく。経済で成功したひとの伝記にはそういう立身出世の話が多い。あるいは、学問とか芸術とかの特殊方面での卓越した存在になることに意識が向かえば、その方面での能力も大きくのばす。ひとがへこたれるような苦難にも負けないで挑戦するから、そういう方面の能力も開発することである。
2-1-7-5.順境を周知しつつの逆境の場合、「なにくそ!」との奮発力をもつ
 階級社会では、逆境と自覚しにくいが、平等な社会では、少しの差別も目立つことになる。差別されるものは逆境の存在と自身をとらえ、意気消沈するか、くやしく思い反撥して順境のものを乗り越えて卓越した存在になれるようにと、奮発することになる。悔しさの感情は苦痛にへこたれることを阻止して、忍耐力を大きくし苦難に挑戦していく。逆境の自覚は、負けじ魂を維持強化してくれる。
2-1-7-6.耐える者は、向上する
一般的に、耐えるものは、向上すると言われる。耐えるのは、苦痛・辛苦にである。快は、求めたいもので、快にはのめり込んで安らぎ、まどろんでしまう。向上には、むすぶことが少ない。だが、苦痛は、ひとを覚醒させる。忍耐は、苦痛を受け入れつつこれを乗り越えるために必死になる。その苦痛甘受・犠牲は、超自然の高みへとひとを向上させる。苦痛からは逃げるのが自然であり、動物のみでなく人も自然的にはこれから逃走し、快適な状態に安らごうとする。その自然にあえて背き、受難の逆境に耐えることをもって、ひとは向上してきた。

2-2.競い合うことで、忍耐力も高まる
 忍耐には、しばしば周囲の支えがある。その支えとして、みんなと並んで競争しあうこともあげられよう。ひと同士は同じという思いがあり、まわりの者ができれば、自分にもできるはずと思う。さらには、競争心をもって、可能ならひとより優れたいと、一層、競い合う。周囲が苦しいことを耐えているのをみると、やっぱり皆も苦しいんだと安心し、かつ、そこで勝つには、一秒でも長く自分が耐えることだと、忍耐もその持続性を高める。
2-2-1.競い合い、潜在する力を顕在化する
 生き物は、生存競争のもとにある。弱肉強食が一般であり、もてる最大の能力を使っても、生き残れないことがしばしばである。うかうかしていると食べ物にされてしまう。動物では、もてる能力は、生来的に固定されていることが多そうだが、ひとの場合、生来ということより、教育・経験でその能力を伸ばし磨いていくことが多い。経験的に獲得した能力は、無理する必要のない恵まれた状態にとどまっていた場合、全力を発揮することなどは無用で、能力の停滞・劣化をまねく。だが、ほかの者と熾烈な競争を強いられている場合、潜在している能力をしっかりと顕在化させることとなる。
2-2-1-1.ひとは、等しい能力をもって生まれるから、到るところ競争となる
同じことを競争する場合、もっている能力がまるで異なれば、競争する前から、優劣は明確で、競ってその優劣を決することはない。カメとウサギだと、走る前からもう優劣は争いようがない。カメが先にゴールしたと聞いても、だれもカメの足が速かったとは思わない。だが、ひとの場合、みんな等しい能力をもって生まれている。優劣は、競ってみてはじめて決着がつけられる。それでも引き分けになることがしばしばである。
2-2-1-2.生は一般に、対象に合わせて能力も小出しにする
 小石を動かすための力は小さくて済むから、大きな力をだすことはない。いつも全力を出していたのではエネルギーの浪費、生の消耗を招くだけである。能力の発揮は、それを求める対象に応じてされるから、いくら能力があっても、そのための場がなければ、出されることはなくて終わる。競争して最大の能力を出して勝たねばならないところではじめて、それの十分な発揮もなる。自身がもっている能力に自身も気が付いていないということは、使うことのない能力では結構あるのではないか。
2-2-1-3.競争は、忍耐などの能力(の限界)を高めていく
 ひとりだけでする場合は、出せる力を最大限に出していても、その限界は、低めになる。損傷が生じそうだと、それを気にしてそうならないようにとブレーキをかけることが早めになる。だが、競争になると、損傷など気にしてはおれず、ブレーキをかけることなく、突き進み、その能力は、自身のうちでの妨げなく思いきり出せることになる。競争相手もそうするから、相手が出来ていることが自分にできないはずがないと、切磋琢磨、ひとのもつ最大限の能力発揮となっていく。
2-2-1-4.忍耐は、主観的な苦痛甘受のこと、その限界は可変的である
 忍耐つまり苦痛甘受は、主観内のことで、心構え次第では、苦痛に耐える限界はいくらでも動かせる。苦痛のはっきりした限界は、損傷が始まるところにまずあろうが、損傷もやむを得ないという決意をするなら、その限界は限界ではなくなる。拷問は、死をも覚悟すれば、苦痛に耐えるに限界はなく、忍耐はどこまででもできることとなる。競争の場では、自分の苦痛の限界を感じつつも、競争相手のそれを見て、敗けてはならないのであるから、相手以上のものにと限界をあげていくことになる。
2-2-1-5.競争心・負けじ魂があるから、並ぶと耐える力も大きくなる
 ひとは、どんぐりの背比べで、能力も似通ったものをもつ。そこで競争・闘争が必至という場では、熾烈な争いとなる。動物は、獰猛なものでも、見て優劣がはっきりしている場合が多く、想像するほどには戦わない。だが、ひとにおいては、ほぼ等しい能力が付与されているので、並ぶ場面では、激しい競争となる。競争心が大きく、敗けてなるものかという負けじ魂が顕著である。同じと思うから負けることは努力不足、忍耐不足となる。とくに忍耐は、苦痛という自分のうちにあるものが対象で、皆自分自身(の苦痛)と闘う。負けるとしたら、それは、自分に敗けるのである。
2-2-1-6.勝てばいいので、弱い相手だと自分の能力も弱いままになる
 競争は、優劣を競うもので、その相手に勝るだけでよい。その相手が無力な場合は、自分の能力も平生のもので済むことになる。大きな能力があっても、発揮する必要がなく、そういうことが続けば、弱いもの同士のなかでの優秀者、井の中の蛙にとどまる。もてる能力は、十分には発揮されず、抜群の能力があっても自覚なしとなる。当然、能力向上へと奮起することはなくなる。 
2-2-2.忍耐は、各自が自分の辛苦と向かいあう孤独な戦いである
 闘争も競争も、相手がある。その相手に優れ勝利することが、目的となる。そこでは、苦痛があり、これから逃げず忍耐に挑戦することだが、その忍耐は、相手と戦うのではない。自分のうちに生じる苦痛・辛苦を対象として、これから逃げようとするのを阻止する自己内の闘い、克己となる。相手もまた、その者自身のうちの苦痛と闘うのが忍耐である。外的な闘争・競争では、強い者と弱い者の差があれば、前者が勝利する。だが、忍耐では、各自が自分の苦痛と闘うのである。自分に一番ふさわしい相手を各自が忍耐の対象にする。この戦いは、ハンディなど無用、完璧な平等で、全員が自分の苦痛と闘うのである。勝敗は、最後まで耐えて残ったものが勝者ということになる。
2-2-2-1.敵と戦うのだが、戦いの核をなす苦痛は常に自分のうちにある
 競争では、闘争とちがって、自分の力は、相手に向けるのではない。その力を使って競う自身の営為を最大にもっていくことが肝要で、自身のうちで無理をし苦痛・辛苦を生じる。その自分の辛苦を耐えることができなくなったら、その競争を放棄せざるをえなくなる。自分の苦痛への忍耐の持続が肝心となることしばしばである。これは、力を敵の攻撃に向ける闘争でも言える。敵からの攻撃で自身のうちに損傷・苦痛を生じ、また、敵を攻撃するのも辛いこととなる。それらの苦痛は、すべて自己自身のうちに生じ、これをひたすら自身のうちで忍耐するのである。
2-2-2-2.敵攻撃の能力はあっても、自分の苦痛にまければ、敗北となる
 競争では、自分のうちの苦痛に耐えつつ競い合う。相手に苦痛を加えられるものではない。だが、闘争では、各自の力を相手の攻撃に使う。打撃を受ける場面において、相手から苦痛を加えられる。その苦痛から逃走するとは、敗けるということで、決着は、相手の攻撃力の強いことと、それによって生じる自身のうちの苦痛の耐えがたさをもってなる。相手からの打撃の苦痛に耐え得なくなると、敵への攻撃を続ける力はあるとしても、それをやめて逃げることになり、闘争の放棄となって、敗北ということになる。
2-2-2-3.心中の苦痛と忍耐は、直接的には、敵には分からない
 打撃が真に打撃となりうるのは、苦痛を生じさせることにおいてであろう。効果的な攻撃で耐えがたい苦痛・苦悩を生じさせて、苦痛からの逃走を余儀なくさせて敗北に導く。だが、苦痛は、心中にあることで、外的な損傷とちがい、直接的にはそとからは分からない。苦痛感情は、顔面などの身体に表現されるが、その表現を抑止しておれば、それとは知られず済む。それへの忍耐も同様で、心のうちのことで、隠すことができる。攻撃を受ける方は、敵をあざむくために、その苦痛と忍耐を隠す。
2-2-2-4.他人の苦痛と忍耐は分からず、ないようにも思える
 競争では、力は自分の行動にそそぐのみで、競争相手に直接の打撃・苦痛は加えない。したがって、どの程度、苦痛を感じ忍耐しているのかは、闘争以上に分からなくなる。自分自身が苦しい思いをしていること、忍耐していることは十分に意識することで、ひょっとしたら、自分だけが弱虫でそういう辛い思いをしているのかとも考えてしまう。しかし、ひとの能力は似たり寄ったりで、自分が苦しい状態になるときには、相手もそのはずで、その兆候を探せば見つけられることであろう。
2-2-2-5.どこを叩けば耐えがたいかは、自分の内面と敵の外面から知る
闘争では、打撃を加えてその苦痛を耐えがたくして降参させる。敵の苦痛、泣き所を見つけることが大切になる。どこを叩けば苦痛になるか、どこが忍耐できないところかと。それを戦いの中で推定していくことが必要となるが、概ね、ひとは、似通った存在なので、自分のうちに生じるそれらをもって推し量ることが可能である。その急所と推定されるところをねらって打撃を与え損傷・苦痛をもたらし、耐えうる限度を超えるようにして、勝利を導くことになる。
2-2-3.忍耐の限度は主観的で、変えることができる
 腕力は、即時にはあまり変えられない。その筋肉の精一杯というものがある。だが、苦痛への忍耐は、その気になれば、いくらでも変えられる。拷問では、死を賭しても苦痛を耐える。大けがでも戦闘中は、痛みを感じない。損傷に注目しその痛みを気にするなら、敏感になり耐えうる限度は低くなるが、鈍感な状態に置かれたり、苦痛に耐えることに大きな価値があるということなら、苦痛に耐えうる限度は相当高くすることが可能になる。 
2-2-3-1.得られるもの次第で苦痛忍耐の限度は上げられる 
 闘争や競争は、価値あるものの獲得を目指す。その目指すものの価値次第で、競うときに生じる苦痛への耐えうる限度は、変わってくる。暑さの我慢大会で、賞金が2千円の場合と、200万円とでは、我慢できる限度は、まるで異なってくる。知力や腕力は、その場で日頃の能力の限界を一気に伸ばすことはできないが、忍耐は、それができる。自身のうちの苦痛に耐えるのであり、苦痛の限度は、その場でなる価値獲得の大きさ次第で即時にも変えることができる。
2-2-3-2.隣りがまだ我慢しておれば、自分にもできるはずと限度をあげる
 忍耐の限度は、苦痛を受け入れられる限度である。苦痛は主観的なものだから、その気になれば、甘受できる限度は、変えることが可能である。生に損傷が生じても、それを受け入れることが必要と思えば、そこに生じる苦痛は、宗教弾圧での殉教とか、一般的な拷問で見聞するように、どんなに大きなものでも耐えることが可能である。競い合っていて、苦痛になったとき、限度を感じるが、相手が平気な顔をして耐えていたら、同じ人間として、耐えられないはずがないと、激痛に耐えることを持続させる。
2-2-3-3.同じ能力の者に敗けると、自分の気力・気迫の不足を感じる
 戦いが闘争でなく、並んで競い合うだけの競争の場合、能力が同じなら、勝敗は、自分の苦痛・辛苦にどれだけ忍耐できるかの違いで決まる。苦痛に耐えうる限度は、動かせるから、心構えしだいである。限度をあげ、より大きく長い苦痛を前に、これから逃げ出さないで耐えることが、双方に可能である。気迫・気合の入れようしだいであり、敗北は、耐えることに相手より不足し、自分の苦痛に自分が負けたということである。
2-2-3-4.ひとりだと甘くなりがち
 競争する相手がない場合、自分だけで苦痛に耐えるのだから、好きなように耐える限度を低くできる。低くして問題がでないかぎり、そこまで耐えればいいのだから、その課題に最低必要な苦痛甘受を限界ともする。自分にはどうしてもあまくなる。だが、ひととの競争になると、相手に勝つにはより長く忍耐することがいるから、相互にそういうことで牽制し合って、勝つためにと苦痛甘受の限度もだんだんと高くしていく。
2-2-3-5.時に、ひとにできるのだからお前にもできるはずと無理が押し付けられる
 忍耐は、苦痛を受け入れる。その耐えうる限度は、苦痛の大きさが限度を超えるということである。その苦痛の受け入れは、当人の心構えしだいで相当に限度を変えうる。他の者が耐えていると、負けたくなければ、変えうる限度のこと、相手の顔を見ながら高めていく。ということで、周囲から、無理やりに、限度を超えた忍耐が強制されることにもなる。一面では、そうできる忍耐のこと、正解である。が、当人は限度と感じているのであり、その限度を超える気力がない場合は、耐え難いものとなる。かつ、忍耐ではなく、心身の能力が関わる場合は、いくら強制しても、無理なことは達成できない。
2-2-4.眠っている能力は、競争・強制で目覚める
 使わない能力は、錆びつき、そのもっていた能力を失ってもいく。使うならば、筋肉など目に見えて大きな力を発揮できるようになる。その使用が強制されたり、競争で自身が最大をつくそうと張り切れば、持っている力は、駆り立てられて大きな力を発揮する。使用を反復すればするだけ、その能力は、必要ということで、これに応えて大きくもなってくる。忍耐する能力も、稼働させていないと、なまくらになるが、苦労を買ってでもしていると、しっかりしたものになる。
2-2-4-1.もっている能力も、鍛錬しないと未発に終わる
 各自のもつ心身の能力は、実際に使用してみないと、どの程度のものかは、わからない。かりに絵画に秀でていても、実際に描いてみないと、それは、分からず、その才能は自身にも自覚できないで終わるかもしれない。さらに秀でていると分かったとしても、それを発揮し使用して磨かないと能力はのびない。その能力の全力を出すには、しばしば、辛苦に耐えることが必要となる。そういう場合、才能はあっても、忍耐力が養われていないと、未発に終わる。
2-2-4-2.熾烈な競争では、自分の最大を出し、眠っている能力が目覚めもする
競争では、ひとに勝つことをめざし、その競う能力の最大を出そうとつとめ、日頃は眠っている能力をも目覚めさせることになる。絵画の写実を競いあうという場合、その最優秀賞をみんなが競う。もてる才能の全力を注ぐが、詳細を描くのは根気のいることだから、辛抱・忍耐力にも磨きをかけねばならない。忍耐力の差が勝敗の要因ともなる。さらに、辛抱しておれば、気づかなかった自分の能力が目覚めるかも知れない。白色にも種々あることで、その微妙な白の在り方について特別鋭い感覚をもっていることに気づき、それを描き出すことができることもあろう。競争と忍耐がそれを可能にする。
2-2-4-3.競争は、自尊心に火をつけ、忍耐を尽くして能力を磨く
 ひとの能力は、基本的には同じなので、何事も競争して、生じたわずかな差をもって優劣を決める。そのわずかな差を出すためには、能力のぎりぎりいっぱいを出すことが必要でその競う能力のみでなく、その条件を最善にと整えもする。忍耐力もその大きな役割を持たされる。苦しいのを最後まで逃げないで耐えて能力発揮へと集中する。それほどの厳しい競争をしようというのは、自分が優秀であることを誇り、他を敗者として見下すことを快とするからであろう。動物は厳しい生存競争下にあって生き残りをかけた戦いを繰り返す。ひとにも根深くその方面の本能が残っていて、敗者になっても敗者同士のなかで、争いを繰り返すことが多い。
2-2-4-4.苦痛甘受・忍耐の限界は、可変的で、ないともいえる
 心身の能力は、多くがそれの発揮についての限界をもつ。握力など筋肉の力の大きさは、その最大は有限で、使用・鍛練で伸ばせるとしても、限りがある。だが、忍耐については、その限界は、あるけれども、必要に応じて大きくできる。拷問では、無限にも出来る。つまり、殺されることになってもなお忍耐は持続可能である。苦痛を受け入れられる限度が忍耐の限度だが、苦痛甘受は、苦痛に何もせず無為にどこまでも徹底することだから、その気になれば、命を懸けても無為にとどまり苦痛から逃げないでおける。無限大にと忍耐力は大きくもできる。
2-2-4-5.苦痛で自己保護のブレーキが働くが、それを抑え忍耐して競争
 忍耐は、苦痛を受け入れるだけのことで、その気になればいくらでもできる。とはいえ、苦痛が大きくなるほどに、苦痛回避衝動は大きくなって、これを抑止する忍耐はそうたやすくは続けて行けない。苦痛は、本来、生保護のためのもので、動物には根源的な機能で、苦痛が大きくなるとは損傷が大きくなることであり、ひとの理性も、苦痛・損傷の度合いと、耐えることで得られる価値を比較しつつ、生を破壊することへの歯止めとしての苦痛の諌めに従わざるをえないかと迷う。自己内での葛藤ではあるが、心中は、大嵐で、心身の損傷・破壊が大きすぎるとなれば、競争よりも苦痛の警告にしたがうことで、忍耐放棄ともなっていく。
2-2-5.敵と戦う闘争でも、その忍耐は、競争になり、各々自分と戦う
 闘争では、敵に攻撃を加えこれに苦痛を与える。競争では、相手は並んでいるだけで、苦痛を加えることはない。競争では、自身の過激な行動によって生じる自身の苦痛に耐える。自分の苦痛と闘い忍耐を持続させ、自分の能力に鞭うち、相手に勝ろうと競う。闘争では、相手に苦痛を与えるが、自身も敵から苦痛を加えられる。この自己内に生じた苦痛に耐え得なくなれば、降参となるから、自身の苦痛に忍耐することが必須となる。敵の攻撃による苦痛に耐えつつ、戦いを続けて、敵が苦痛に耐え得なくなり降参するようにと持っていく。闘争でも競争でも、忍耐は自分のうちの苦痛に負けないようにと自分と闘うのである。
2-2-5-1.戦いには、相手に打撃を与える闘争と、優れていることを競う競争がある
 生は、生存を維持するために自己保護に心がけるが、それには他に勝る必要があり、戦いをもってこれを決する。この戦いは、直接に相手を攻撃し打撃を与え苦痛を与える闘争があり、相並んで目的に向かって全力を出し、より優れていることを競う競争がある。競争では、もてる力は、その目的へ向かっての自身の能力発揮へと注がれ、闘争のように敵に打撃を加えるものではない。闘争では、打撃を相手に与えてその生じる損傷・苦痛に降参する方が敗けとなる。競争では、その競う能力で優れた成果を出すものが勝者となる。苦痛は、したがって忍耐は、ここでは、決定的なものではない。
2-2-5-2.忍耐は、闘争でも競争でも、自分の苦痛と闘う
競争では、自身の最大限の能力を出して競う。心身は時間とともに疲労し苦痛を生じる。その苦痛に負ければその競争をやめて脱落することになる。そういう場合、競争維持には自身の苦痛への忍耐が必須である。闘争では、敵と戦うのであり、敵に自身の攻撃能力を発揮して打撃を与える。敵はそれで生じる苦痛に耐える。自身も敵からの攻撃で生じる自身の苦痛を耐えて降参しないように努める。闘争も競争と同様、苦痛については、自分自身と闘う。 
2-2-5-3. 忍耐では、苦痛は打倒(排除)せず甘受する
 競争に生じる苦痛は、自身のうちにある。この苦痛を回避したのでは、競争をやめることになるので、これを受け入れ忍耐しつづける。闘争では、敵を撃破し打撃と苦痛を与え、かつ、自身に加えられた攻撃は、可能なだけ排撃する。自身のうちに生じた苦痛は、敵からの攻撃によって生じたものの場合、これに耐ええず苦痛から逃げることは、敵から逃げ降参することにつながっていくから、これには耐えて、この苦痛を甘受し平然と受け入れておく。敵からの攻撃は排撃するが、被った損傷から生じる苦痛については、これに忍耐し、なんでもないかのようにして、これに無為に振る舞い、攻撃に力を注いでいく。
2-2-5-4.勝利は、忍耐の場合、より長くより大きく耐えたものに
競争では、能力はどんぐりの背比べなので、決着は、各々のうちに生じる苦痛にどれだけ長く耐え得るかの違いでつけることがしばしばである。辛くなる前に能力の違いが明確に出るものなら、その能力発揮の違いとなるが、そうでなければ、皆辛くなっての我慢の競争である。最後は、皆苦痛に負けてこれから逃げて忍耐放棄となる。最後に忍耐放棄したもの、最後に敗北するものが勝者となる。
2-2-5-5.闘争の場合も、しばしば、忍耐に優れているものが勝利する
闘争では、敵に直接打撃を与える。その打撃は、うちに苦痛を生じる。相互に苦痛を与えあい、より多く苦痛を与えた方、つまり、攻撃力発揮に勝る方が優位にたつ。しかし、苦痛には、心構え次第では、いくらでも耐えうるから、損傷が大きくても忍耐できるかぎりは、降参しないでおれる。相互に打撃を与えあって最後は、双方が苦痛に打ちのめされてしまう。そこで勝者になるのは、相手よりわずかでもいいから、長く忍耐できるもの、つまり、後になって負ける者が勝利者となる。
2-2-6.競争相手は、支えにもなる
 俊足を競う徒競走は、スキージャンプのように一人ひとりが最大の力を出してやればいいのだから、別々に、当人の一番調子の良いときをねらってやってもいい。だが、常にならんでやる。自分より先に走る者を見れば、「なにくそ」と自分の力を最大限出そうと努める。苦痛など耐える限度は変えうるから、ひとりだと限界と感じても、並んでいる者が耐えていると、自分にもできないはずはないと頑張る。競うのだけれども、能力発揮ということでは大いに支え合っているのである。
2-2-6-1.競争では、ともに競う友となり、能力を引き出しあう
 能力を最大限発揮してやっているつもりでも、自分ひとりでする場合、辛いと早々に忍耐の限度にしてしまう。しかし、競争相手がいると、その相手より低い成果しか出せてなければ、無理をしてでも、苦痛にも耐えて、よい成績を出そうとする。辛苦・苦痛の耐えうる限度はいくらでも変えられるから、競争するなかでは、相当に無理もできる。心身の能力も、無理をすれば、伸ばせることが多い。脳など、その持てる能力の何分の一も使っていないというから、競い合って、やる気になれば、日頃は眠っている能力・機能を使用して卓越した成果をあげることも可能となる。
2-2-6-2.競う相手は、もうひとりの自分として鏡になる
 自身のことは、自身でよく分かっているつもりだが、客観的に合理的に把握できているとはいえない。突き放した冷静な把握はし難く、自分にはどうしても依怙贔屓して甘くなる。似た者としての競争相手を見ながら、その相手のうちに、もうひとりの自分を見て、客観的に自身も反省できてくることがある。いわば、相手を鏡にして、自身を反省する。水泳のクロールでひとの息継ぎでの顔の上げ方のまずさを見て、自分もそうなっていることに気づくようにである。
2-2-6-3.ともに苦しむのであり、闘争でも仲間意識が生じうる
 競争とちがって闘争では、相手に攻撃を加え損傷を与える。相互にそうすることで、相互が同じ存在であることを意識して、敵対的ではあるが仲間意識のようなものをもつことがある。武士道では、敵を尊敬すべきことをいう。同じく殺人を生業にしていることで、同じく戦って死ぬことを覚悟している、業の深いお互いのことである。敵のいさぎよい戦い方、死に方を見ながら、自分もそうありたいと、戦いに生きる先導者を相手・敵に見ることがある。
2-2-6-4.価値ある苦しみであることを、相手と共有して確認する
 忍耐の苦痛甘受の犠牲は、価値ある目的のための営為であるが、場合によると無駄な愚かしい犠牲かも知れない。だが、ひとが競争をもって同じ忍耐をして苦痛を受け入れておれば、その忍耐が無意味なものではないことを確認できる。あるいは、仮に同じことをしていて自分だけが苦しんでいるのだとすると、自分のやり方のどこかに非があるのであろうが、競争相手も同じように苦しんでいると知れば、不可避の苦痛なのだと安心して苦しめることにもなる。
2-2-6-5.友の苦しみを見ながら自分はもっと耐えるぞと意を固める
 競争も闘争も、苦痛に耐えることが決定的になる場合が多い。自分が耐えがたくなって忍耐放棄しようかと思っている時には、おそらく相手もそう思っている時である。そこで勝利するには、相手より後に忍耐放棄することである。少しだけ相手より我慢することである。そとから客観的に捉えれば、損傷は小さいし、もっと忍耐可能と見えてもくる。ならば、自分は、その小さな損傷を少し大きくしても大丈夫だと苦痛に耐える限度を高くにもっていける。
2-2-7.自分が苦しければ、敵も同じく苦しんでいる
 戦いでは、苦痛も忍耐も隠すが、自分が苦しければ、おそらく相手も苦しんでいる。似通った能力同士で、同様の戦い方をする以上は、自分と同様に苦しいことになっているはずである。汚い手を使えば、有利になるとしても、汚いやつだと見下げられるだろうし、相手も同じ手を使うことになれば、元の黙阿弥になって、そういう手は相互に控えることにもなる。自分と同様の思いを相手も同等の人間として抱くはずである。敵対しつつも、相手に自分を見出し、自分が自分と闘っていると言いたくもなる。苦痛に関しては、敵と対峙していても、まちがいなく、常に自分で自分と闘うのである。
2-2-7-1.相手の苦痛・忍耐は見えにくい
忍耐の対象である苦痛は、心のうちにあってそとからは直接的には分からない。苦痛の表情を見せれば、それと推定できるが、偽ることもできる。闘争においては隠して平然としていることが多い。苦痛を見せると、弱っていることを示し、ここぞとばかりに攻撃されることになる。競う相手は、苦痛を見せず、平然としておれば、自分だけが苦痛を感じている弱虫なのだとも錯覚しがちである。そう思うと、競い戦う相手が自分より強者にも見えて来て、戦うことに気後れすることになる。
2-2-7-2.同じ人間のこと、自分が苦しいときは、相手もそうである
闘い競いあう相手は、うちに苦痛をいだき必死で我慢していたとしても、表にそれを出さない限り、平然として平気であるように見える。自分は自分の苦痛と忍耐にしっかりと悩まされているので、自分だけが弱虫にも思える。が、自分も相手からは、平然の装いをするから強く見えることである。自分が辛ければ、相手も同じように苦痛であり忍耐していると見てよい。あとは、我慢比べであり、相手より少しでも長く我慢できたものに勝利の女神はほほえむ。
2-2-7-3.自分に耐え難いところを知って、相手の弱点も推測する
 戦いは、相手の弱いところを突けば効果的である。しかし、その弱点は、当然さらけだすことは少なく、これを探り出すことが必要となる。外面的には、攻撃を集中されそうな弱いところは隠し偽るのが普通で、弱点は見えにくい。相手を見て分からなければ、自分を見るとよい場合がある。相手とほぼ同じ能力なり習慣をもった自分であり、その自分の弱って耐えがたくなっている点をもって、相手の弱点も推測可能となり、そこを突けば効果的な攻撃となりうる。
2-2-7-4.勝つには、忍耐放棄してもいいが、後にすることである
競争はもちろん闘争でも勝敗は忍耐力の差になることがある。苦痛の限度となって耐え得なくなった者は、その戦いから降りる。最後まで戦い続け得たものが勝者となる。苦痛に耐えがたくなって相手も忍耐放棄して戦いをやめたいと思い始めているとき、同じく自分もそういう放棄を思うこととなる。我慢比べとなる。そこで先に苦痛に負けたものは、戦いを放棄することになって敗者となる。最後には皆放棄することで、皆苦痛の敗者となる。勝者になるには、少しだけ相手より我慢を長くして後で忍耐放棄することである。
2-2-7-5.苦痛・忍耐力の戦いでは、心構えが最大の武器になる
 腕力では、強者には、弱者はいくら全力をもって戦っても勝てない。だが、忍耐はちがう。そこで必死になれば、敗けることはない。苦痛は主観的なもので、心構え次第でその耐えうる限度を変えることができる。耐えないと死が待っているとなれば、死ぬまで耐えうることであろう。拷問では、死を賭して激痛に耐え抜く者がいる。気持ちのあり様しだいで、苦痛の忍耐は、日頃と異なった大きなものにすることが可能である。もちろん、苦痛に慣れて鍛練したあとは、苦痛にすらならないで平然として対応できるようにもなる。

2-3.慰撫・慰安・励ましの力
電池などその出す力はひとが見ていようと無視していようと変わらないが、ひとでは、周囲が見守ってくれているのか無視されているのかによってその能力の発揮の度合いは変わる。周囲が期待して応援しているときは、やる気が異なってきて、大きな力を発揮する。忍耐は、とくに苦痛という自身のうちの敵を相手にするから、これを甘受しうる程度は、心構え次第でまるで異なったものとなる。日頃は、擦り傷にも耐えられないと大騒ぎする弱虫でも、拷問に耐えれば同朋の多くの命を守れ期待に応えることができるのだ、皆が励ましてくれていると思えば、死んでも激痛に耐え抜くことができる。
2-3-1.応援団は、忍耐に大きい力となる
スポーツでは地元の者が優れた成績をだす。応援が多いことによる。期待には応えなくてはということである。応援があると「あがる」こともある。それも応援には効果があるという証しであろう。運動会で、その子供に、もし、「自分だけには応援がない」となれば、ほかの者は応援されているのにと滅入ってくるし、気力もなえてくることであろう。とくに忍耐は、主観内の苦痛相手なので、やる気に負うところが大きく、応援の有無は、大きい。
2-3-1-1.応援は、やりがいを喚起
応援は、ときには、手助けをするときもあるが、一般的には手をだすことなく、見ているだけである。ただし、単なる観客とちがい、味方として声援を送るものになる。自分をひいきにし高く評価してくれている者の眼があるということである。優れた行動には、応援団からは、称賛の声をもらえる。それを思い、大いに頑張って成果をあげたいということになる。逆に能力発揮を怠って敗者になったときには、罵声をもって叱られるのでもあり、それは、敗北以上に嫌なことかも知れない。応援は、大きな賞罰の力をもつ。
2-3-1-2.見てくれているということは、強力な後押しともなる
 戦争では、応援するものが控えているかどうかは大きい。かりに負け戦さになったときには助太刀もしてくれるような応援団は、頼もしく、少し無謀なことをしても支えてもらえるという気持ちがもてれば、大胆なこともでき、戦闘力を高める。親の眼は、子にプレッシャーになるとともに、それが評価・賛美の眼になるから、大いに奮起しようという気をささえる。神仏がしっかり見ていると思ったり、自他の良心・良識の目が気になれば、悪事はもちろん怠慢にも躊躇する。応援の眼は、しばしば自身の支えとなる所属の集団・全体の評価の眼であり、これの賛美が欲しいし、懲罰はこわいと、全力を出して競わねばと奮闘する。
2-3-1-3.応援は、応援する者の分まで頑張らねばと精神的な支えとなる
 応援するものは、自分を超えた大きな全体であるとは限らない。むしろ、弱者であって、その弱者の代わりになって自分が戦うという場合もある。弱きものの声なき声の応援がある。その応援が自身のうちでの奮起する力を支え大きくする。かつては、成人男子は、一家を支える役割を担い、その期待に応えて無理を重ねることが多かった。独身ならへこたれることを夫・父の役を担う者は、無理に無理を重ねて耐え続けた。それができたのは、家族が精神的に支え続けたからである。子供が上の学校にいけるようにと学費を工面できるように、命を縮めるような苦労にも耐えた。子供がそれを支え応援もした。
2-3-1-4.応援する者は、自身を選手と一体化している
応援団による激励会など、余計なことと思わなくもない。選手にとっては迷惑な応援団もいる。しかし、競争・闘争の場においては、応援団は、ありがたい応援となる。応援する者は、単なる観客ではない。精神的に味方として振る舞うのである。おそらく、応援に熱を入れる場合は、選手と一体になっている。選手が失敗すれば、自分が失敗したつもりになる。敗北すれば、応援する者の方が大きく落胆し歯ぎしりもする。ときには、サッカーのフーリガンのように、選手以上に戦いに本気になってしまうこともある。応援団は、選手にとっては、頼もしく有難い存在である。負けたときは、怖い存在にもなる。
2-3-1-5.応援は、自分が代表との意識をもたせ、存在の意義を高めてくれる
 応援される者は、自分が、応援する集団の代表であり、選ばれた存在なのだとの意識をもつこともある。場合によると、自分はそこでの使命を担った尊い存在なのだとの自覚をもたせる。自分がしっかりとその営為を遂行しなくては、応援してくれているものを裏切り、ときには、その属する集団に甚大な被害をもたらすという意識をもつこともあろう。自身の存在とその営為は、かけがえのない卓越したものなのだと、応援が語ってくれるとすれば、どんなつらいことも耐え切ろうと決意を固めることになる。
2-3-1-6.応援がない方は、意気消沈する
 独身男性は、かつては、一人前とはみなされなかった。家族をもって、それを支えそれの応援のある者が一人前とされた。仕事などで困難に直面したとき、ひとりだとすぐに逃げてしまうが、家族を養っているという自覚の父親は、自分が逃げたら、家族が路頭に迷うということが想起されれば、苦難とどこまでも戦おうという気概をいだくことができた。スポーツでは、応援はしばしば偏る。遠征してきた対戦相手には、応援がないというようなこともある。声援がすべて敵側にあるのでは、戦いの意気は上がらない。罵声でもあびれば、意気消沈する。
2-3-1-7.誰がどのように応援してくれているかの問題もある
 敵対した勢力とか日頃ずるいことで有名な人から自分に応援がある場合、迷惑である。あるいは、自分のしていることは、間違ったよからぬ結果をもたらすのかもと、その行為に躊躇することになる。派手で下品な応援はみっともなく、応援されるものには迷惑で、対戦する者から「お里が知れる」と軽蔑されかねない。自身は戦う能力のない観客なのに、選手になりきって、敵に対して聞くに堪えない罵声を浴びせるようなこともある。迷惑な応援である。
2-3-2.辛苦は、慰撫し和らげられる
忍耐は、苦痛・辛苦を回避せず受け入れる。その持続性を高めるには、忍耐する意志の強化がいるが、その対象の苦痛・辛さを小さくするようにそとから支えることでも可能となる。苦痛自体を直接小さくできる支えもあれば、快に属するものが与えられることで苦と逆の心身の動きができて苦痛を中和することもある。あるいは、苦痛において生じるダメージ・損傷は、忍耐とともに大きくなるが、これを小さくて済むようにと支え援助するものがあれば、忍耐の持続はより大きなものにできる。
2-3-2-1.不快は、快によってやわらげられる
 忍耐の対象の苦痛・不快は、感情であり、感情は、身体的反応をもつ。苦痛・不快なら萎縮し緊張する。この苦痛感情を小さくするには、それと反対の感情をそこに生起させればよい。快感情である。快は、身体をのびやかにし弛緩させる。苦痛の反対の反応となるから、身体は、苦痛での緊張状態を緩めることになり、苦痛を小さく感じることとなる。苦痛は快をもってやわらげられる。精神的な苦痛でも、単なる生理的快楽をそこに与えるだけでやわらぐ。ストレスをためたひとが甘い食べ物の快楽を薬のように使うのは、その点では正解である。 
2-3-2-2.脳内での快楽物質は、苦痛を軽減したり麻痺させうる
苦痛は、主観的なもので、大きくも小さくもその感じ方は変わる。戦闘の中では、大けがにも痛みを感じないことがある。苦痛・苦悩に打ちのめされていたとしても、それは、主観内のこととして、自身でこれをほどほどにと軽減させることも可能である。絶望の苦悩を少しの間でも忘れたいと飲酒することがある。アルコールが、高度の知的営為をする脳の部分を麻痺させて、苦悩自体を一時的に無化する。あるいは、不快状態に対して脳内ホルモンのドーパミン等の快楽物質を分泌させれば、快によって不快は中和されてもいく。
2-3-2-3.活動で辛苦がたまる場合、休むことが安らぎとなり英気を養う
 不快な活動を続けると、疲労物質などが蓄積する。それを身体は、排出して溜めこまないようにするが、間に合わなくなると、有害な物質の蓄積量が大きくなる。不快度が高まり、耐え難くなって忍耐放棄になっていく。必要な忍耐を持続できる状態を維持するには、可能な場面で、休憩を入れ安らげる時間をもつことであろう。心身は、休憩をいれれば、安らぎをとりもどし英気を養い、苦痛甘受を元気よく再開することができる。
2-3-2-4.忍耐の持続は、レジリエンス(復元力)が効く範囲におさめたい
 忍耐は、その気になれば、苦痛を受け入れるだけのことだから、どこまででもできる。拷問では、ときに死んでも忍耐しきる。だが、もとの生は復活しない。弾力のある木は、あるところまでは曲がって耐え、また元通りに戻る。だが、その先まで曲げたら耐え得なくなり、折れて終わる。忍耐は、放棄したり休憩できるのなら、耐えうる自分の限度を周知して、もとの状態に復元できるぎりぎりの範囲内におさめたいものである。それを繰り返しておれば、その復元力は大きくなり、より大きな苦痛に耐えて折れない状態を作れるようにもなる。
2-3-2-5.褒美も目的成就も苦痛を慰撫する
 忍耐は、それが目的とするものを達成した場合、それまでの苦労が報われたということになり、慰撫される。苦労が実って疲れは吹き飛ぶことである。再度それが必要なものなら、大いにやる気になり、苦痛も、これを価値あるものと体得できてより耐えやすくなる。褒美があれば、そのことの快は、忍耐の苦を小さくし、自身の営為に誇りをもち、これを充実した苦労と捉えることができよう。
2-3-2-6.声をかけられれば、慰撫されたり、鼓舞される
 実際には援助はなく、単なる声援だけであったとしても、ひとは、社会的な存在として、それに慰撫されたり、やる気を鼓舞される。孤立した状態ではなく、周囲が支えてくれているとか、懇願されていると知れば、それを精神的な栄養としてとりこんで、より大きな忍耐力を発揮できるようになる。苦痛に耐えることが自分だけのものでなく、皆のためで、そのための努力をみんなが見てくれている、支えてくれていると意識できれば、やる気を高め意欲をかきたてられていくであろう。
2-3-3.安心がささえ、希望が導く 
 危険から守られて安全のもとにあり、その進む未来に自身にとっての一番価値あるものが実現可能であると希望をもたせてくれるなら、その営為は、大いに進展することであろう。忍耐は、とくに、苦痛を対象にし、損傷を気にしつつの営為となり、心に余裕のない状態になりがちである。安心や希望があれば、大きな支えとなって、苦難への挑戦に全力を注げることであろう。
2-3-3-1.苦痛・損傷は、安心できるものがあると慰撫される
 苦痛・損傷の受け入れには、そのことから生じるマイナスのさらなる事態への不安をもつ。あるいは、危険を思い恐怖もする。それの反対の感情、安心は、恐怖・不安での緊張とは逆の、弛緩の反応をもつから、不安等をやわらげることになる。内臓の激痛があると、重病を思い不安になるが、原因が些細なものと判明して安心感をいだくなら、激痛もよほど耐えやすくなる。 
2-3-3-2.忍耐するその未来が確かで安心できれば躊躇せず進める 
 未来は、未定であり、とくに苦痛に耐えている状態は思わしくない事態が存在していてのことで、苦痛の先もマイナスの事態を描きがちである。耐え難くなって逃げ出さねばならないかも知れないと不安になる。そういう不安のある否定的事態が想定されるのと逆の安心が未来に見えるところでは、その苦痛にさえ耐えればうまくいくということになり、よりよく耐えていくことができる。
2-3-3-3.安心できない不安の状態は、忍耐の苦痛を軽減することもある
ひとの意識は、ひとつのことに注目すると、他のことは、意識から遠のく。苦痛に耐えがたく思っていても、それ以上にひとの心をとらえる不安があると、この不安によって苦痛は意識にとって小さなものになり、耐えることが容易になる場合もある。その苦痛以外のことでパニックになって不安感に支配された心においては、苦痛は意識されず結果的に容易に忍耐できることもありうる。しかし、そこでは、不安に苛まれることで、苦痛に耐える方がまだましということもある。 
2-3-3-4.希望は、現在の苦痛が未来の大きな価値を生むことを語り励ます 
 目的実現にと現在を犠牲にし、辛苦に耐える。その目的で近づく未来の希望があれば、耐えることに力が入る。目的へと苦痛に耐えることで、その希望が一層確実になるのである。奮起したくなることであろう。希望は、単なる夢ではなく、自身に可能な一番価値あるものになるから、現在の忍耐にとって一番、魅力的なものとなる。忍耐がそれをかなえていくのだと自身を励ますことであろう。
2-3-3-5.希望は、現在の暗黒にも、必ず夜明けのあることを確信させる 
希望の反対の絶望は、ひとを打ちのめし未来は閉じられた状態で、暗黒に閉じ込めて苦悶させる。希望は、それを打破して明るい最高の未来を見せてくれる。希望が抱ける限り、未来が、しかも自身にとり最高の未来が描けるのである。苦難の現在の忍耐においては、その犠牲・苦痛が永続するかもという悲観的な思いもよぎる。そこに希望があれば、これをふりはらって、その犠牲・苦痛が未来の希望の糧になり飛躍を可能にすることを確信させて鼓舞してくれることになる。
2-3-3-6.夢や願望とちがい、希望は、確かな未来を描き、鼓舞する 
 夢や願望は、単なる欲求であり、その実現のための手段などをもたず実現される可能性は低い。だが、希望は、自分にとって実現可能なものであり、そのための手段をもっている。しかも、その実現可能な望みのなかで、一番高いもの、一番価値があると思っているものになる。希望は、確かな明るい未来を描いているのであり、犠牲を払い忍耐し続ける一歩一歩において、希望は身近になり、忍耐は鼓舞・促進される。
2-3-4.愛や憎しみは、慰安・鼓舞のエネルギーを出す
 愛も憎しみも、その人間関係において大きな力を持つ。愛は、その愛するものと一体化しようとし、憎しみはその対象を拒絶し抹殺しようとする。愛憎の感情は、これに関わる辛苦があって耐えがたい状態にあるとき、大きな力を発揮する。献身する愛は、自分の死を賭しても愛するもののために尽くそうとする。冷たい炎を持続させる憎しみは、ときに自身の人生をかけ犠牲にしても貫かれ、長期にわたる辛抱を持続させ隠されたエネルギーを作り続ける。
2-3-4-1.愛は、犠牲に耐える力になる
愛は、愛するものと一体になりたいという感情であろう。自分を愛するものにと献身して一体化する贈与愛と、逆に自分にと一体化しようという奪う愛がある。後者は、客観的には相手をわがものにすることであろうが、それでもその愛を実現するためには、自身を犠牲にして尽くしていく。骨董品の愛玩にのめり込んだ者は、心を奪われた物のためになら、どんな手段・犠牲も厭わないという心境になる。その愛でるものを思えば、その犠牲は慰められ、それを得るために粉骨砕身しようと鼓舞される。
2-3-4-2.贈与愛は、犠牲・忍耐をもってなる 
愛は、自身を贈与する。与えるのは、自身の負担・犠牲をもってなる価値あるものである。その犠牲が愛を表現する。辛い忍耐をもっての愛である。愛を確かにするのは、無私の献身、その犠牲・忍耐である。一体化したいものに、おのれのすべてを注ぎこもうとつとめる。忍耐の辛さ自体に愛の贈与の証を見出して、これに耐えれば耐えるほどに愛の実現がなると、忍耐に奮起することである。
2-3-4-3.愛をもらえば、慰撫され、鼓舞もされる 
 贈与愛を受け取った者は、その贈与の価値を享受できるのであり、慰撫され、行動すべき状態にある場合は支えをもらって鼓舞される。奪う愛の対象になった者は、愛する者から愛しまれ大切にされて、苦難があれば支えてもらえ慰撫・慰安してもらえる。守ってもらえるから、安心して辛いことの挑戦もでき、鼓舞される。
2-3-4-4.憎しみは、相手の抹殺のためにすさまじい忍耐もする 
 憎悪は、相手の抹殺のために辛い手段の展開を粘り強く耐えていく。目的への貫徹力は強く、そのためにはどんなつらい犠牲も忍ぼうという意志を堅持している。仕打ちへの怒りを憎悪に高めた場合、深く潜行して誰にも気づかれないようにして、確実に仕返しを、仕打ちの何倍もの仕返しをと狙う。相手の存在そのものの抹殺を実現しようともする。その過程には多くの忍耐が必要となるが、憎しみの感情はこれを貫き通していく。
2-3-4-5.憎しみは、世代を越えても伝えられ忍耐も維持される 
 愛は、世代を越えて伝わることは少ないが、憎悪は、世代を越えても続くことがしばしばある。憎悪は、仕打ちをうけた仕返しがただちにはできないので、潜行させて機会をねらい続け、仕返しを必ず実現しようと暗い意志を持続させる。仕返しするまで終われないと憎悪は次の代にまで相続されることがある。その仕打ちが虚偽で妄想であっても、次の世代には、それが真実として伝えられ、一層憎悪のかきたてられることもある。その暗い情念の貫徹力は大きく、相手の破壊のために艱難辛苦をいとうことなく忍耐を重ねて、憎悪は堅持される。
2-3-5.辛いとき、その悲しみや怒りを無難な形で出す手もあろう 
その忍耐が、家族に心配かけないようにと配慮してのものなら、その辛いことを家族に漏らしたら、忍耐は失敗となろう。忍耐は、苦痛の甘受で、苦痛を拒否しないで何でもないことのようにと受け入れて、苦痛に対して無為にとどまることにある。「苦痛だ」と言うことは、否定的発言としては、苦痛を拒みたいということで、忍耐したくないということである。忍耐の対象となる相手に向かってその表出は避けねばならないことがある。だが、関係ないところでなら、出しても差し障りはない。出すと気が楽になることがある。だれも分かってくれないと辛さがつのるが、話して理解を得れば、気が楽になる。
2-3-5-1.苦痛が、耐え難いとき、そとに表出すると、おさまることもある 
忍耐は、苦痛に抵抗せず受け入れるのだから無為をよそおう。それからいうと、「辛い」「痛い」ということは、その苦痛回避衝動を吐露して、これを「排除したい」ということを含むから、厳格な理想的な忍耐では発言してはいけないことであろう。だが、そう表現しつつも、なお、苦痛自体からは逃げないで受け入れ続けているのであれば、なお忍耐しているのではある。若干、後退はするが、辛いと表現することで、周囲に大きな否定的影響を与えず、より長く苦痛甘受が継続できるのであれば、そう表現してもよいことであろう。ひとに分かってもらえることは、社会的存在としての人間には、孤立感をなくして、安心でき、より大きく忍耐も可能となろう。
2-3-5-2.忍耐では、辛苦を拒否する感情表出は許されない 
 忍耐では、苦痛を甘受するのだから、苦痛への拒絶の振る舞いはしてはならない。その辛い感情の表出も、拒否の反応としては、忍耐に反する。事実としては苦痛を感受している状態でも、それへの拒否的な振る舞いがあって「痛い、痛い」と大騒ぎしていた場合、忍耐していないと言われよう。忍耐しないからといって、苦痛から解放されるわけではない。身体の損傷の苦痛は、忍耐しようと(その意志をもとうと)、忍耐せず騒ごうと、同じく痛む。同じ痛みについて、「苦しい」と(忍耐する意志をもたず)言いたてているなら忍耐していないのであり、忍耐の意志を発動させ黙って受け入れているなら、忍耐しているのである。
2-3-5-3.忍耐において怒りや悲しみの表現が許容されることもある 
 怒りや悲しみを表に出さないことが忍耐である場合は、その表出は、忍耐放棄になる。しかし、その場合も、無関係の者へは、出しても、肝心の場所でしっかり表出の抑止ができているなら、忍耐しえているのである。あるいは、忍耐の中身が怒りや悲嘆の表出抑止でないのなら、怒り嘆き慰め合うことは忍耐をよりよく持続させるに効果があることであろう。差別に耐えるとき、同じく差別されている人たちと怒り悲しみをともにすることは、よりよく忍耐することを可能にするとともに、その忍耐そのものを無用とするようにと改革へ力を合わせることも可能にしていく。
2-3-5-4.忍耐では本心は変わらないから、その不満をなだめることもいる 
 忍耐は、苦痛で嫌なものを受け入れて忍ぶ。だが本心では、これを受け入れてはいない。どこまでも不快なものとしている。ニンジンに我慢するものは、ニンジン嫌悪は堅持している。心底からニンジンを受け入れる、つまり嫌いでなくなるのなら、もはや忍耐は無用となる。忍耐するものは、(ニンジン嫌いの)本心は、変えない。その本心が苦痛で耐えがたい状態にあるのが、忍耐である。これが耐えうる限度を超えると忍耐放棄となる。その不満・不快を慰めるために、その不満をその怒りや悲しみを皆に聞いてもらい、もっともだとの共感でも得れば、自分だけが我ままではないんだと鬱憤は少しは晴れることであろう。
2-3-5-5.外に出しての辛さの共有・共感で楽になる 
苦痛は、うちにもっていても、出さないことが多いから、そとからは見えにくい。周囲は皆、苦痛なくこの世を極楽と楽しんでいるようにも見える。だが、自身は、ひとには言わないが苦痛をしっかりと感じ取っているのであり、自分だけが疎外され苦痛を受けて、苦界に置き去りにされていると思いたくもなる。それが、語り合ってみんなも地獄にいると分かれば、自分だけが特別劣悪な状態にあるのではないと、気が楽になろう。皆耐えているのなら、自分にもできるだろうと楽天的にもなれる。 
2-3-6.喜び、楽しさは、忍耐の辛苦を軽くしてくれる
 感情の快と不快は心身の反対方向の反応として主観のうちで相殺しあう。苦痛・辛苦の不快感情は、快がそこに入り込めば、小さくなる。忍耐の苦痛・辛苦でも、その苦痛の度合いを快をもって減少させて、より長く忍耐を続けることが可能となる。精神的ではなく生理的な苦痛であっても、そこに精神的な快としての喜びが伴えば、その苦痛は軽減される。風邪で熱があり咳きがひどく辛い状態でも、念願の合格通知があるとか、宝くじで3億円が当たったと分かったら、その喜びで、風邪の不快感など吹き飛んでいく。
2-3-6-1.楽になりたければ、緊張・萎縮を解く工夫をすることである  
 苦しいときは、心身は緊張し萎縮するから、それが耐え難くなったときには、その反対の弛緩・発揚を伴う感情をもてるようにすると楽になる。そういう状態になる状況を見つけて入るか、それが無理なら喜び・楽しさはなくても、自身で意志して、そういう身体的振る舞いをすれば、つまり、胸をはり、顔を上げれば、だんだん気が晴れても来る。感情は、心身の反応であり、心はともなわなくても、身体だけでもその感情に見合うように持っていければ、やがてそれに見合った感情も生じてくる。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだというひともある。
2-3-6-2.喜・楽は、やる気を起こさせる 
 苦痛・不快であれば、これにとらわれて滅入ってしまう。これから解放され積極的な振る舞いをしていくには、感情的には、苦痛をなくするか小さくすることが必要である。苦のない安らかな状態になれば、意志は気がかりなく、目指すことへと進んでいくことができる。さらに、喜びや楽しさの感情をもてば、生は躍動的になり困難なことにも積極的に挑戦していこうという態度をとれるようになる。
2-3-6-3.喜びは自信をもたせる 
 喜びは、楽しさと同じく生の発揚をさそう。さらに、喜びは、新規の価値物を獲得できてしばしば有頂天になり、自身の能力に自信をもつ。その身体反応は勝利の様相を示す。消極的な者も、活力を心身に充満させ積極的になれる。忍耐は、その苦痛もその甘受も、だれにでもできるやさしいことであるが、主観的なもので、その持続は当人のやる気しだいというところがある。喜びで自信をもてれば、やればできると積極的に忍耐と取り組めることになろう。 
2-3-6-4.喜・楽は、ひとを楽天的にしてくれる 
 悲しみや苦労が続くと、ひとは、用心深くなり過ぎたり、滅入って前向きになりにくくなる。忍耐も、気力がなえれば苦痛甘受の限度を低くしてそれを続けることはより困難になる。逆の喜びや楽しさは、嬉々として生を躍動的にし、積極的でやる気にして、その喜び・楽しさのメガネで未来も見て楽天的になる。楽天的になれば、忍耐は、足を引っ張るものを自身のうちにもつことは少なくなり、大いに気力も満ちて、苦痛の甘受も持続性を高める。
2-3-6-5.喜・楽は、気楽では、軽薄に傾きがち 
 喜びや楽しさの感情は、生の躍動性を引き出してくれる。が、あまりこれが過ぎると、有頂天になって軽薄になる。慎重さに欠けることになると、愚行に走る可能性も高くなる。周囲の迷惑を考えないとか、自身のことでも配慮を欠くことになって、自他にマイナスをもたらしかねない状態になる。忍耐で生み出した成果も、軽薄になって簡単に失うようなことになれば、忍耐しやすくしてくれた喜びや楽しさの感情は、無駄骨を誘うものでしかなかったということになる。
2-3-7.自分で自分を応援する-究極の応援団としての自己自身 
苦痛を甘受する忍耐で、すべての応援・支えを捨象して残るのは、自身の意志のみであろうか。あとは、いうならすべて応援団である。周囲から応援をもらい支えをもらうが、孤立無援になったときにも、意志は応援をもらう。自己自身のうちに、応援するものがいくつもある。自己弁明する理性は、自身の意志の営為を周囲の罵声にさからって屁理屈をつけても応援する。感情は、怒りをもって手助けし、悲しみをもって慰め、意志の営為を当然のことと支持し応援する。家族までが見離しても、自身は、自身の道を進み、自分でそれを支え応援する。
2-3-7-1.意志は、心身を自己制御し、これらを支え・応援とする 
 意志は、自己の心身をその営為のための手段にする。自分の延長・拡大として心身はあるとしても、かならずしも意の通りにはならないことで、自分でないものとして対象化して取り扱う必要もある。心身は、意志のそとにあるものとして、意志とは別の原理にしたがって動物や魔物として動くこともある。おなじ心の営みであっても、感情は、意志と距離をもち、苦痛甘受などでは大いに意志に逆らう。が、意志は、心身を巧みに取り扱い、制御でき、自身の支えとし、応援させることである。
2-3-7-2.自己評価し、自賛・自嘲もする 
 理性精神は、自身を評価し反省する。思うような目的の実現ができたならば、これを自賛する。目的実現への意志の働きとは別の観察・省察する理性で価値判断して自己評価する。これには感情もともなう。大きな価値物の獲得がなった場合、喜びの感情を生じ自賛・自尊の満足感を抱く。逆に、失敗も批判的に評価してこれに怒りをともない、自虐的自嘲的なことにもなる。敗北して打ちひしがれているとき、自身の悲しみの感情は、自身を慰める。くやしさの感情は、悲しみと怒りをもって、慰撫し鼓舞してくれる優れた応援団となる。
2-3-7-3.客観的で厳正な評価をする良心・良識 
 良心や良識は、善を自身の意志が実行するときには、応援団の先頭にたってくれるが、悪事を行う場合は、感情などとちがって、自分を応援しないどころかこれを諌め、自身に懲罰を加える側にたつ。応援団ではなく、自己内の警察官、裁判官となる。良心は、決して自分を依怙贔屓しない。厳正で中立的であり、自身の不正は、見逃すことなく、厳しく弾劾する。かつ、刑の執行も行い、自分の悪事について、良心は、自分を責め続ける。
2-3-7-4.一番の応援者は自分自身であろう 
忍耐等の営為をなすとき、意志は、心身の応援をもってその目指すものを実現していく。意志も身体がへこたれそうになるときには、叱咤激励し、よりよく耐え得るようにと工夫をして支える。自分が自分を応援する。狭義には、自分以外の者からの援助なり声援が応援であろう。所属の社会とか家族が自分と一体化した集団として利害を一致させ、応援をしてくれる。だが、その家族すら見離すことがある。そうなると、自分だけが自分を応援するということになる。
2-3-7-5.応援する自分を、守護神として客体化もする 
 自分で自分を応援・支持するとき、その応援する自分をそとに化身として立てることがある。自分の守護霊・守護神とする。自分が立てたものであっても、より確かで力強い応援がほしいから、それに祖先を借り出して、その霊と重ねることもある。過去からの有形無形の支えがあるのは確かであり、それが霊となって現れて自分を守護してくれていると、想像をたくましくする。同じ妄想をするのなら、憑依して邪悪なことを命じ苛む背後霊よりは、良識ある穏やかな守護霊・守護神を見つけて親しくしたいものである。
2-3-7-6.やる気は、自己内の応援団長である 
 ひとの営為は、それがルーティン化している場合、やる気なしでも一応進むが、やる気を出すと大いに促進される。やる気、気力を奮い立たせると、理性意志は、鼓舞される。やる気は、その営為の意義・価値を確信することで生じるし、その気になれないときには、身体を叱咤するように刺激したり大きく見せたり威嚇の声を出したりすれば、やがて心もそのようになっていく。やるべきだと理性意志が思っても、それだけでは、苦痛相手の忍耐の場合、ぐずぐずして進まない。実行へと奮い立たせるものがあれば、それは容易となる。やる気は、意志の活躍のための、自身のうちでの頼もしい応援団長になる。
2-3-8.手出しはせず、慰安し鼓舞する応援
 応援は、実際の手助けをすることもあろうが、多くの場合、声援をするだけである。実力をもって優劣を競うものの場合、手出しするのは禁物である。サッカーの猛烈な応援団のフーリガンでも、よほどのことがないと競技者には手出しはしない。忍耐の場合、甘受する苦痛そのものは、応援者が代わることは難しい。その応援は、その傍で支え、耐えがたい痛み・損傷をなぐさめ、「忍耐放棄するな!」と励ますにとどまる。
2-3-8-1.慰安は、苦労へのいたわり
忍耐するものは、苦痛に耐える。その痛みを思いやり、これをいたわることは、苦痛への支えとなる。痛みを分かちあう「いた(痛)わり(割)」の心で応援する。その慰安の言葉は、その苦痛を和らげ安堵をもたらす。苦労したことを優しく思いやって、その労をともにするかのような「労(いたわ)り」は、忍耐する者を支え、その苦労の意義の再確認をさそい、再度挑戦する気力も呼び起こすことであろう。
2-3-8-2.慰撫は、慰め、安堵できるように、ねぎらう
慰撫は、慰(なぐさ)め、撫(な)でる。慰めるのは、なぐ(和ぐ)、和らげるのであり、安堵をもたらす。慰撫は、撫でる。撫でるのは、殴ったり、(嫌がるのを)触ったりするのでなく、痛む者に密着して、やさしく手をもって痛んだところに治癒の気を与える。上から撫でるのであり、頼りになる者が手を差し伸べてくれるのである。忍耐の苦労は、労(いたわ)り、労(ねぎら)いを求める。辛い忍耐は、慰安・慰撫によって労いを得てその疲れを癒やし、再度の挑戦へと励まされる。
2-3-8-3.励ましは、「自信をもて」「ファイト!」と、力づけ激励する 
 応援団は、懸命に頑張り励んでいる者の傍で、声をあげて、さらにいっそう力を注ぎ励めと、はげます。皆がついているぞと力添えをする。応援をするための集いを激励会という。激しく励ますための会である。忍耐しているところでは、苦痛を回避したい、逃げたいとの思いが生じる。この忍耐を支え応援する者は、ひるむなと、両肩をたたき、尻を押し、励ます。自分たちが見ている、支えている、自信を持てと激励する。
2-3-8-4.鼓舞は、意欲を駆り立て、戦いへと奮い立たせ勇気づける 
 鼓舞は、おそらく、戦闘に入る前、太鼓をたたき、勇壮な舞をもって、戦いへの気力を充実させ勢いをつけることをいったのであろう。忍耐は、苦痛という逃げ出したいものを前にするのであり、挑戦する意欲を奮い立たせておれば、苦痛甘受を躊躇することも少なくなろう。応援は、単に支えている、見守っているというだけでなく、戦いへと鼓舞することも求められる。気力を奮い立たせるだけでなく、尻ごみなどしたら応援団から袋叩きになると思わせるぐらいのことがときには必要となる。
2-3-8-5.懲罰で、叱咤し、鼓舞する 
 忍耐の支え・応援は、快・価値を与えてするのみではなく、逆に苦痛・反価値をもってする懲罰的なものもある。ムチうち叱りつけて尻を叩く。叱咤激励である。忍耐、苦痛甘受は、嫌で、尻込みしがちの営為である。そこを逃げず挑戦するようにと、ムチうって前に進めさせる。本人が進むという自発性をもつことが必要であり、前に進む方が楽だ、ましだと思えるような懲罰をもってすると効果的になることがある。

2-4.忍耐の支え・応援を自らが整える 
 忍耐する者の周囲は、必ずしも応援し支えてくれるものではない。苦痛を甘受する事態になっているのだから、損傷を加えようという敵対勢力に囲まれている可能性もある。だからといって、支え・応援してくれるものが少ないわけではない。かげになって支えてくれるものは、遠近を問わず、さがせばいくらもある。日頃支えてくれているものは、慣れてしまい気づかない状態になっている。家族がそうだし、学校、役所とか、さらには、一般的にはお世話にならないから気づかないとしても警察も裁判所もいざというときには正義をもって依怙贔屓なく支え・救援してくれる存在になる。応援してもらうには、自身がそれを求める心構えをもつことも必要であろう。
2-4-1.忍耐のための好条件は自身で確保せねばならない 
 ひとに援助を求めるとき、棚から牡丹餅を期待してはいけない。自身から求め確保することがいる。「天は、みずからを助ける者を助ける」とか「求めよ、さらば与えられん」ともいう。自身が支え・応援を見出し、あるいはそうしてもらえるようにすることがいる。忍耐するには、そとから応援してもらう前に、まずは「自らを助ける」ことが必要であろう。苦痛にへこたれない心身を作らねばならない。そのうえで、周辺に支えも求め、さらには、意欲を引き立ててくれるような応援者にも働きかけて、応援も当人がお願いするべきであろう。
2-4-1-1.自分がしっかりした上で、応援も頼みたい 
 忍耐は、目的を実現するために、苦痛甘受という犠牲的手段をもってする。しかし、犠牲・損傷のみを得て骨折り損に終わることもある。なるべく、そうならないためには、自身の目的意志を堅く貫くとともに、それを支え応援してくれるものを確保したり、同じ耐えるのなら、苦痛の少ない持続のたやすい方法を見出していくことが必要となる。そとからの支え・応援がしっかりしていると感じられれば、その耐える苦痛も労りを得て軽くなる。しっかりした支えや応援を頼めるような日頃の在り方も大切なことになろう。
2-4-1-2.応援者は、ムチをもって応援することもある 
忍耐を尻押しし激励するには、成果をあげた場合の称賛とは反対の叱咤激励も有効なやり方になる。アメでなく、ムチをもっての応援である。応援・声援では、戒め叱咤する声も多い。これを厳しく受け止めることが、苦痛から逃げないように意志を保っていくには支えとなる。応援の罵声に、外国のサッカーなどでときにあるように、負けたらなにをされるか分からない、殺されるかもしれないと思えば、背水の陣と捉えて、激痛・辛苦に耐えていくための気力を振り絞ることであろう。
2-4-1-3.応援は有益になるとは限らない  
 応援する者は、自分の応援が有益で支えになっていると思っている。しかし、されている方は、そうは受け取っていないことがある。有難迷惑と感じているかもしれない。一部の者には応援になっているとしても、同じものが他の者には余計なものとなっているかもしれない。有意義な応援かどうかはその受け手次第というところがある。親の見守ってくれることが大きな力になるとしても、親が過干渉な状態なら、反撥したくなるだけで、応援はむかつくぐらいのこととなる。
2-4-1-4. 応援の感じ方は、人毎に異なる  
 応援する側もされる側も、ひとによって応援の感じ方、価値づけが異なる。応援に低い価値しか置かないものは、応援を余計と見る。大きな支えと見る者は、応援を大事と思う。さらに、応援を受け取る側には鈍感・敏感の違いがあって、応援の仕方にも注意が必要となる。敏感な者には、傷つくような罵声は控えねばならないであろう。素直な応援者が、感じた通りの感嘆を声に出すとしても、尊大なプレーヤーは、「このど素人が」と不快感を示すかも知れない。
2-4-1-5.独立不羈の心構えは、頼もしいし、安心して応援もできる
応援は、実際に手助けする場合から、単なる観客で声援するだけのものまでがある。独立心の希薄な者は、支援も声援も頼りにする。応援がないと心細くて実力を発揮できないといったことでは、いつまでも子供でと、応援する方は、突き放したくなろう。独立心旺盛で、不羈の行動をする者は、孤立無援でも平気で挑戦できる。応援は、とくに最近は、自分の楽しみにするのであって、頼られたのでは迷惑である。どんな応援であろうとも気にしない不羈の精神で挑戦する者の方を応援したくなる。
2-4-1-6.多くの応援は、烏合の衆である  
 応援は、単に励ますだけではなく、行動への具体的な指示をすることも少なくない。傍観する観客・応援者ではなく、指導者ぐらいのつもりでするから、気の弱いものは、迷わされることになる。応援者は自粛しなくてはならない。戦っている本人も、無責任な烏合の衆の声に迷うことなく、自身のやり方を堅持するべきである。自分のすることが間違いないという合理的な根拠をもち、自信をもっているのでないと、応援団の大きな声には圧倒されがちとなる。
2-4-2.未来へひっぱっていく理性のリード  
忍耐の主体をなすものは、理性、実践理性としての意志であろう。これがしっかりしていないと、苦痛甘受など続かない。自然感性は苦痛からは逃げる。それを抑制して苦痛甘受をするのは、そのことで未来に大きな価値ある目的の実現できることを理性が見出しているからである。かつ理性は、その未来の目的を実現するための具体的な方策を描き意志して、苦痛の手段を動かしていこうとする。さらに、自身の感性が及び腰になるのを諌めて、未来を確信させ自信をもたせて先へとリードするのも理性である。 
2-4-2-1.希望や幸福が描ければ、忍耐は意欲的になる
 忍耐は辛いことで、支え・応援の欲しくなることが多い。過去が支え、現在の周囲が支えてくれる。さらに、未来も忍耐を応援してくれる。未来の方から早く来いと誘ってくれることである。未来に大きな価値獲得が確信できるなら、忍耐は、勇気をふるって苦痛を乗り越えて行こうとするであろう。自分の一番価値ある願いとしての希望の実現されるのが、その忍耐を通してだということなら、大いに意欲をかきたてられることであろう。 
2-4-2-2.深慮遠謀があれば、忍耐は無駄を少なくできる
 苦痛甘受は、自身にダメージを受けつつ進む。長期のそれは、困難の度を増す。苦痛がより少なくて済む方法を探索し、忍耐持続がたやすく、確実にできる道をとっていかねばならない。忍耐は、犠牲を払っていることで、終点がはっきりしないとか目的実現は一か八かだというようなことでは、「骨折り損」を帰結するのが落ちとなろう。深慮し遠謀して、しっかりと行く先を見定め、支えるもの・応援するものを引出し、ときには、狡知も使って、確実に忍耐が実を結ぶようにもっていく必要がある。
2-4-2-3.ひとは、未来に生きる
 人は、目的論的に生きており、未来の目的のために現在を犠牲的手段にし忍耐を重ねる。その未来の目的が、現在の自身を方向付け動かすのであり、根本的な支えとなり応援をするものとなる。現在、法学部生として辛いことも耐えて勉強するのは、未来の裁判官あるいは、正義の担い手という自分を描いてのことである。その輝かしい未来が、現在を輝くものとし、その忍耐を応援し駆り立てる。
2-4-2-4.未来の手段として現在の苦痛をもてるように 
忍耐では、多くの場合、時間とともに苦痛はだんだんと耐えがたくなって、ついに忍耐放棄となる。だが、時間とともに苦痛になれてきて、苦痛でなくなり、忍耐もいらなくなる場合もある。耐え難さがます場合は、あちこちに応援を求めたくなる。未来の目的からの応援は、時間とともに大きくなる。苦痛が耐えがたくなる時間経過は同時に目的実現がより近くなり確かなものになる度合いが大きくなることでもある。これまでの苦痛が8で、目的実現までの苦痛が1であれば、その1の苦痛忍耐が犠牲の8を生かし、さらに未来の目的の実現で10,20の価値獲得がなると思えば、忍耐は簡単には放棄できないであろう。
2-4-2-5.楽天的になることが忍耐には必要である
 苦痛は、生が損なわれることへの感情であり、その限りにおいては、生は悲観的になる。苦痛には滅入り、生は萎縮してしまう。忍耐を持続させるには、この苦痛を小さ目におさめることが大切となる。未来方向に生きる者は、未来の好ましい生を先取りし、価値獲得の喜びや楽しみを先取りする。その喜び・楽しさの感情は、それを想像するだけで生じて、苦痛を軽くし楽天的な心構えを支えてくれる。楽天的であれば、苦痛を気にする度合いは小さくなり忍耐しやすくなる。
2-4-2-6.今しか見ない忍耐では、苦痛を見るのみで悲観的になる
忍耐は、苦痛に耐える。その苦痛は現在ある。その犠牲の成果は今はなく、未来に予定されるだけである。現在を見るだけのものは、苦痛を見るだけで、それがすべてとなれば、悲観的となり消極的となる。苦痛甘受の目的は未来にある。その未来をしっかりと描ければ、それを楽しみとしそれに快をいだくこともできる。未来の目的を描くことは、ひとを鼓舞するのみでなく、現在の苦痛自体を、快をもって軽減し耐えやすくもする。ただし、未来に苦痛が待っているのなら、現在の苦痛のみを見る方が賢明である。まだない苦痛は、想像しなければ、ひとを痛めつけることはない。
2-4-3.過去をして、支える力に役立てる 
 過去は、支え、応援する。現在の文明は、それに先立つ過去の遺産によって支えられてなりたっている。あまりに多いので、それは意識されもしない。道具一つにしても、過去の使用・失敗を踏まえて改良を加え、現在のそれが可能になっている。忍耐も、当然、個と全体の過去からの無数の支え・応援を踏まえている。個人的な過去も現在の当人の支えである。過去の悔しさの感情は、次の挑戦のために、自身を応援し、より大きな苦痛に耐えられるようにする。
2-4-3-1.逆境だからといって、即、鍛えられるわけではない
 逆境での苦難の忍耐経験はひとを鍛えるという。だが、それは、その苦難が彼を潰すような悲惨なものでなかったということと、彼の前向きの姿勢と、なんらかの支えがあってのことである。社会において逆境にあるものの多くは、耐え切れない受難につぶされて、自身の能力を伸ばすどころではなく、消えていく。そういう中でも、強い意志をもって、挑戦する心構えをもった者は、苦痛は主観的なもので可変的であるから、大きな苦痛は小さなものにし、わずかな支えは大きな支えにして、たぐいまれな忍耐力を養い、鍛えられていく。
2-4-3-2.怠惰な者は順境を逆境に造り変える
 そのひとにとって恵まれた環境、順境であれば、ことはうまくいくはずである。だが、ときに、それがあだになることもある。甘えてしまい、怠けてしまうことが生じる。昔は、三代目は家を潰すと言われた。どうしても甘えて怠け者になり、若旦那は、遊びほうけて自制心成長不全のままに身上をつぶすのが定番であった。あまい順境がむしろ鍛練には逆境になってしまうということである。「かわいい子には旅をさせよ」といわれた所以である。
2-4-3-3.祖先は、当人の心構え次第で、応援する守護神にも厄病神にもできる
 過去にはだれもが支えられている。ただし、それを自覚するか否か、その支え・応援をどうとらえるかは、各人で相当に異なる。親に虐待されて育った者でも、周辺の支えはあったことであろうし、受け取り方次第では、虐待を教育的ムチにと役立てられることもある。はるかな祖先など、どうにでも想像でき、自分を支える守護神にできるし、逆に、自分の劣等を祖先の行状や遺伝子のせいにして厄病神に仕立てることも可能である。存在しない絶対神ですら人を動かすのだから、まちがいなく存在した祖先は、ひとをしっかりと動かすことができる。
2-4-3-4.過去を価値あるものにするかどうかは、現在の自分しだい 
 現在の自分は、無から発生したのではない。圧倒的なものを過去から受け取り、支えにしているはずである。それらを価値とするか反価値とするかは、現在の自分しだいである。価値・反価値は、自分の欲するものを充たすかどうかという評価・価値づけであり、黄金を持っていても、食欲を充たすためには、何の役にもたたない無価値か、有害になれば反価値となる。自身の生き方に応じて、過去のうちに、自分の役に立てられるものを見出して、自身で、利用できるようにすることが必要である。
2-4-3-5.自分に有益なものは、周囲には有害かも知れない
 自分は応援・支えと感じていても、他の者には迷惑になっているかも知れない。自分の親が大きな支えになっているとしても、それは、別の兄弟にはそうではなかった可能性もある。ましてや、周囲の者には、その親は、支えどころか、むしろ冷たい収奪者になっていたかも知れない。自分にとっての支えは、周囲の者にとってのそれとは異なり、敵対している周囲の者には、むしろ迷惑になっている可能性が大きい。
2-4-3-6.現在ですら解釈は定まらない。ましてや過去は妄想し放題である
 忍耐は辛く維持しがたいことである。それを持続させるため、種々、支え・応援を求めたくなる。精神的な支えとして、自身を鼓舞する過去を、栄えある祖先を求めることもある。「こんなことでは先祖に顔向けができない」と。その誇りとしたい祖先について、庶民は、もとは自分は貴族の出なのだと妄言し、貴族は王家の出だといい、王は神の出だと虚言する。それを詐欺や収奪の手段にするのでなく、自身を鼓舞するために語るだけであれば、うそも方便、結構なことであろう。
2-4-4.好条件とともに悪条件も踏まえて支えとすること
 自身の周辺は、支え、応援するだけではなく、逆に足を引っ張り陥れようとするようなこともあろう。悪条件も、忍耐では役立てねばならない。悪条件で我慢が強いられることは、厳しいが、それで、人一倍の忍耐する能力を開発できるようにと自身のチャンスに仕立てることができる。好条件にあっても、それに甘えていたのでは、いい結果はだせないだろうし、安易に構えてもやっていけるので、その能力を十分働かせ伸ばしていくことがなく終わりやすい。
2-4-4-1.自分の敗北を願う反応援の勢力もある 
 戦いにおいては、敵方の応援団は、当然敵のために動き、自分たちの足を引っ張ろうとする。周囲には、自分を支えてくれるものとともに、陥れ、進むことを妨害するものが存在している。その反応援が顕著な場合は、これを排除することがなくては先に進めないこととなる。あるいは、その反応援を踏まえつつ、敵愾心を奮い立たせ、戦闘意欲をより大きなものにすることもありうる。反応援を一種の応援にと転換することも可能である。
2-4-4-2.反応援は、無視することが必要である 
 スポーツ競技で、敵方の応援団の野次にのって、逆上して、大きなプレイミスを引き起こすことがある。馬や犬の競技では、声援しても糠に釘であろうが、ひとは、精神的存在としてこれに反応してしまう。大きな力となる。そう心得ているから、罵声をあびせて怯ませようというのである。反応援が実力での妨害でないのなら、夏の小うるさいセミやカエルの合唱のようなものとして、反応援団の罵詈雑言は、無視できるのでなくてはならない。
2-4-4-3.味方の応援も、観客のそれは、頼りにしてはいけない 
 応援には、単なる傍観者としての観客であるだけのもの、手助けをする実質的な応援、さらには、応援というより指導的になるものまでがある。熱狂する応援団は、だいたいが、自分をその応援対象に一体化しており、単なる観客にはとどまっていない。全体を観望できる席にすわっていて、することがない観客は、観念において先走り、応援団なのに指導者のつもりになってしまう。ときには、「負うた子に瀬を教えられ」ということになる場合もあるが、基本的には無能だから観客席にいるのであり、これの声を信用することはできない。
2-4-4-4.甘言よりは、非難や罵倒の方が大きな支えに出来る 
 アメとムチで忍耐は駆り立てられるが、甘い言葉と辛らつな言葉とでは、後者の方がよい働きをすることが多いのではないか。甘言は、現状をほめたり状況を甘く見なすように誘うだけで、当人を後ろ向きにしたり停滞してよいと思わせてしまう。逆に厳しい言葉は、ムチうち、前に向かって励めとすすめるものになろう。非難とか罵倒とかになると、心が挫けるようなこともあるが、それを耐え得れば、奮起しなくてはという気になれて、鼓舞する言葉にと変換することができる。
2-4-4-5.大きな苦難には、忍耐のし甲斐を見出すことが出来る
 子供に算数をやらせるとして、二三級下の問題を解かせるのでは、乗り気にならない。やっと覚えた計算の仕方など難解なものに挑戦することの方を好む。自分の能力のぎりぎりを出すことで遣り甲斐を見つける。忍耐でもそういう面がある。ほとんど努力のいらないものだと、精がないということになる。ぎりぎりの限度まで耐えねばならないものにおいては、自分の能力の最大を発揮しえて、達成のあかつきには大きな喜びをもてる。大きな困難に出会うことで、忍耐のし甲斐を見出す。
2-4-4-6.周囲に頼られることは、頑張り甲斐に出来る 
 応援するのでなく、逆に、応援してもらいたい、手助けしてほしいと周囲から求められることもある。これは、実質的な援けを求めていることへの対応となろうから、単なる声援では済まず、身を入れての応援となるのが普通であろう。自分が周囲に頼られているということであり、忍耐する場面では、やり甲斐、頑張り甲斐になる。応援を頼まれたことをもって、応援してもらうことになるのでもある。
2-4-5.応援・支えは、それとして自覚することがいる 
 ひとは、同じ経験をしていても、その自覚は、同一にはならない。ボケっとしているときは、身体のみが動き、意識は働かず、記憶すらないということも生じうる。応援されている、支えられているということは、そのときの営為自体のさらに外にあることだから、注意散漫では気づきにくくなる。これに注目していくことで、応援があり、求められていると自覚できて、したがって、これを支えとすることができる。
2-4-5-1.見られていると知るだけでも力になる
ひとは、社会的存在で、自分の属する集団があり、その支えがあると感じられることで安心できる。自身の営為への、その集団からの応援の目があると、張合いがもて、鼓舞される。見守ってもらえているという意識は、やればそれを評価してもらえると遣り甲斐を大きくする。困難に出会っても、支えがあると思えば心強く、孤立無援であらゆることを自前で用意するような必要がなく、辛いことにも心置きなく専心できる状態をつくりうる。
2-4-5-2.実在しない神仏でも、加護を信じる者には、加護がなる
 妄想であっても、それを自身で見聞きした者には、現実となる。夜な夜な現れる幽霊に、恐怖のあまり、とり殺されるようなこともありうる。逆のプラスの妄想も同様である。神仏を信じる者には、それの加護がある(つもりになれる)。現実には存在しないものですら、加害、加護可能なのであるから、ましてや周囲の実在の人々については、声には出してくれていないとしても、応援されていると当人が信じられれば、大きな力をもらえる。
2-4-5-3.声なき声の応援は、意識しないと受け取れない
 独裁のもとでは、応援・支持してなくても応援に駆り出される。だが、民主社会では、応援を表明してもしなくても自由である。声なき声の応援もたくさんあることになる。応援のあることで意気の揚がるものなら、その声なき声を聴く姿勢をもつべきであろう。声を上げていないものの支えも、改めて見れば、多い。ひとのみでなく周囲の声をだせない動植物も多様に支えてくれていることである。
2-4-5-4.罵詈雑言も、役立てられよう
 応援では、しばしば罵詈雑言をもってやじる。これは、やじられる者には、不快でときには滅入るようなことにもなる。やじられるのは、どこかによからぬ自身の振る舞いがあったからか、または、愚かしい失敗を誘うためにされる。そのよからぬ点を戒めて改め、失敗しないようにと注意するか、計略に乗らないようにと、やじを突き放すことが求められる。滅入らせる罵声を、チャレンジ精神をかきたてるムチに読み変えることは、難しいことではなかろう。
2-4-5-5.支えになるかどうかは、本人の受け取り方しだい 
 応援は、当人がそうと受け取れば成り立つ。神仏の支えがあると想定できれば、主観のうちでの支えはなりたつ。偽薬は、結構効くという。偽薬と思わず、真に効く薬と思えば、身体にも効くことがあるようである。忍耐の苦痛甘受についての応援が、忍耐する者の奮起を誘う主観的なものの場合、当人が「応援してくれている、支えられている」と思えれば、100%効果をもつことになる。

2-5.励まし・応援は、有害にならないよう、ほどほどを考えねばならない
 応援は、一方を支え援助していくから、他方、敵にとっては、迷惑なことになる。その応援が敵の動きを妨害する可能性をもつ場合、フェアを重んじるところでは、これを損なわないように配慮しなくてはならない。応援は、ときには応援されるものにも有害となる。過激なフーリガンのような応援は、敗北したときの危険を感じさせ、鼓舞するよりは、萎縮させることになりかねない。応援は、それが有害にならないよう配慮しながらの、慎みのあるものでなくてはならない。
2-5-1.応援される方は、応援を負担に感じることがある
 応援する者は、される者のそとにいるから、求めてもいない、妨げになることをする可能性がある。ひいきの引き倒しとなるような応援はない方がましである。励ますつもりの応援であるが、その善意・好意は、応援者の独りよがりになっている場合も少なくない。応援する者、される者が一体的である場合、敗北が応援者の大きな落胆を生むであろうと思い、応援に負担を感じることもある。
2-5-1-1.緊張しすぎて実力が出せないことも生じる 
 応援があると、張り切るが、それもすぎると、失敗してはならないと緊張して、柔軟に対応すべきことができなくなってしまう。それでなくても、緊張しているところに、さらに過剰な応援に一層緊張し、呼吸すらも乱れてくる。応援団の指示めいたことと自分の作戦が食い違った場合は、実行にためらいを生じて判断に迷い、焦ってくれば、実力発揮どころではなくなる。
2-5-1-2.高く買われ過ぎると負担になる 
 応援者から高く評価されていることを知る者は、これに応えて自分の可能なだけの力を出そうとつとめる。応援の眼は自分を尻押ししてくれる。だが、その評価が過剰で、その過大評価に応えねばという場合は、無理を重ねることになって負担が大きくなる。大きな能力発揮を可能にしてくれるが、能力のエンジンを焼けきることがないよう、自己管理・自己評価を厳しくしておかねばならない。
2-5-1-3.見守るというより、見下されていると感じることも 
 応援団には、種々の者が混在していることが多く、なかには、選手の能力をはるかに凌駕する者が見守ってくれていることもある。多くは、応援される者以下の存在で、応援しかできないのだが、なかに優れた眼も混ざっている。応援は、自分を棚に上げて理想に走り好き勝手を言い、多くがその優れた応援者のつもりで罵声もあびせる。その自信ありげな罵声に、選手は、無能と見下されていると感じて萎縮させられる。
2-5-1-4.「無理をさせられた」と、応援に怒りを覚えることも 
 応援は、手助けにしても声援にしても、受ける者に行動を強制するものではない。だが、その声が応援される者を先導するようになることがあり、それに従わねばと思い、これを考慮することが重なると、自身の自発的な営為が抑制されたと受け取る事態にもなる。無理をさせられ、強制されたと思うことになる。それでうまくいかなくても、応援者が責任をとることはないから、その応援と自分の軽薄さに怒りを覚えることになる。
2-5-1-5.応援団は、高みからの見物で気楽である  
 応援は、応援される当事者のそとにあって、多くは高みの見物になる。ことがうまく行こうと行くまいと責任はなく気楽である。手助けする応援も、当事者に成り変わるものではなく、単に補助するだけである。ことがうまくいかなかった場合、責任は当事者にあるのであって、応援者は、せいぜい手助けが不足していたと反省する程度である。応援は、無責任で気楽な立場にあることを、応援する者もされる者も心得ておかねばならない。
2-5-1-6.応援団は、肝心の辛苦の体験のそとにいる 
 応援団は、応援される者より多数になることが多く、勢いをもつ。かつ、することがなく暇で、応援される者の一挙手一投足も見ており、その欠点も見える。応援の声は、しばしば、応援される者を低く見なしての罵声となる。だが、応援者は、応援される者の肝心の行為と内面の恐怖や苦痛については、これに距離をとる。傍観するだけの者で、野次馬である。応援者は、自らを肝心の体験・実践のそとにいる暇な批評家と心得ていなくてはならない。
2-5-2.応援による無理難題の合唱は迷惑である
 応援する者のなかには、現役を引退した者が混じっている。口先だけはなお達者で、自分のうちの理想をもって、現実の事態をよく見ずに、経験者としての誇りも後押しして、口出しする。他の応援者はこれに付和雷同するから、無理難題の大合唱となる。ときに外野席からのみ見えることでの応援があれば助かるが、そうでなければ、夏のセミのような、迷惑な騒音となる。
2-5-2-1.自分らは耐え切ったと言って励ますが、時代がちがう  
 かつては、スポーツの特訓では、コーチは、竹刀をつかい罵声を浴びせて指導し、それに選手は耐えた。だが、現代の子供は、そういうことへの耐性は小さい。かつて耐え得たのは、小さい時から、殴られることとか罵声といったことに慣れていたからで、そういう乱暴な手段でないと効かなかったのである。叱咤激励・応援の仕方も、時代のちがいを踏まえて行わねばならない。
2-5-2-2.時代が違えば辛苦も違ってくる    
 携帯電話が欲しいという子供に対して、我慢しろ、自分たちは、家に電話すらもなかったと説得しても、通じない話になろう。級友がみんなもっていて、ひとりだけ「我慢しろ」と耐えさせられるのでは、並大抵の忍耐では済まない。老人にとっては、家に電話がなかったとしても、かつては、それが一般のことであって、さしたる我慢、というより我慢することですらなかった。今は、おそらく、携帯が持てない場合、社会的に強い疎外感をもたされ、その辛さは耐えがたいものになる。
2-5-2-3.見下した応援は、応援される者を応援しない   
 軟弱だと見下しつつの応援は、応援されるものには、不快である。低い能力の者が高い能力へと艱難辛苦をもって高まろうとするときに、その低さの事実を見下すのでなく、高まる能力自体がないと見下すことがある。低い現実の指摘は、つらいが、ムチとして現状を克服していくためになりうる。だが、いくら努力しても無駄なこと、先はないのだという希望剥奪の罵声は、やる気を削ぐ。
2-5-2-4.観客には、本当のところは分かっていない  
 はなやかな競技を見るだけの観客は、競技者の背景も心的内面も知らない。競技者がうちに隠している辛い忍耐のことを思いはかることは少なかろう。応援は、その戦う現場に見えていることだけへの反応になる。攻撃に耐えることに精いっぱいだったとしても、応援者はそれを慮ることなく、「なにをしている、もっと前へ出て攻撃しろ」と無理なことを求めてもくる。 
2-5-2-5.応援するとしても、上っ面を見ての判断では誤る  
 忍耐では、その苦痛・苦悩もこれへ耐えていることも隠すのが普通である。応援する者がこれを慮るとしても、自分の過去の苦痛体験をもとに類推することになりやすい。応援されるものが現に抱いている苦痛やその忍耐の辛さとは、かけ離れた類推になっているかも知れない。不登校とかニートとか、本当のところを把握してからの応援でないと、応援される者を追い詰めるようなことになりかねない。
2-5-2-6.応援は、声援より手助けの必要な場合もある
応援では、単に声援するだけでなく、実際に手助けをする場合がある。手助けできるのに、それをしないで、単に口先だけの応援に留まると、応援される者は、その応援に冷たいものを感じることになる。本当は応援したくないのだと見なされる。あるいは、手助けする能力に欠けているので、口先のみとなる場合もある。その場合は、手助けできない者にふさわしい内容の声援にと限定しなくてはならない。能力に欠ける者が手出しをしたのでは、足手まといともなる。
2-5-3.応援者からの口出しは、迷惑なことが多い
 応援者は、単なる観客であっても、よく見える位置にいるので、応援されている者の不備も気づきやすい。声援して楽しんでいるだけならいいが、のめり込むと対戦の仕方に口を出したくもなる。「負うた子に瀬を教えられ」ということはあるが、苦難の中には入らないで観戦しているのみであり、受苦・受難抜きでの口出しは、無謀・無責任なものとなる。応援される者には、迷惑なことになりがちである。
2-5-3-1.応援する者は、その分際をわきまえねばならない 
応援は、単なる声援か、実際に関与するとしても、単なる手助け・支えである。ことの主導をするのは、当事者であり、その指導者である。それをわきまえず、あたかも自分たちが指導しているかのように口出しすることがある。応援団は、当事者ではない。指導者ぶった声援は、行き過ぎで無用な混乱をまねく。応援する者は、その点での分際をわきまえていないと、当事者に不愉快な応援となる。
2-5-3-2.応援する者は、暇だから、余計なことをしがちである 
 応援団は、暇人である。当事者になれなかったのである。とくに単なる声援のみをする応援団の場合は、まるですることはないから、高みから見物しながら、気づく表面的なことを声を大にして重大事であるかのようにして口出しすることになる。もちろん、黙って見ているだけでは、応援の役は果たしにくいから、声にすることがいるのではあるが、しばしば余計なことを言ってしまう。
2-5-3-3.応援者は、ときに、応援される者自身になりきってしまう 
 応援では、当事者になりきってすることがある。単なる観客であることを忘れてのめり込む。苦痛に耐えることでも、痛みをともにしているつもりになる。が、現実は、非当事者なのであり、損傷などには、「かわいそうに」と他人事に突き放して現実にもどる。でありながら、当事者のつもりになっているので、ときに想像と現実の違いを見失い、激して本気になり、場外で敵の応援団と乱闘騒ぎになることもある。
2-5-3-4.応援は、指導ではない 
 応援の対象が超人的な技であるような場合は、純粋に観客として堪能することである。だが、自身が一体化し戦いに参加しているつもりになるような場合は、暇をもてあそんでいるから、高みからの見物なのに、事態の全体を掌握しているつもりになり、先も見えているつもりで、指導者ぶることになる。だが、指導者のつもりになっても、それは想像上のことであり、無責任な立場なのであるから、それをわきまえた応援でなくてはならない。
2-5-3-5.応援は、気まぐれ、気ままである 
 応援は、のめり込み一体化して情熱的になる。だが、あくまでも、非当事者として、部外者として高みから見物しているだけである。あるいは、見物することしか許されていないのである。当事者のように、その闘いに責任をもって関わるわけではなく、ときには、敵の応援にと鞍替えもする。興味がわけば、応援に精を出すが、面白くなくなれば、手を引く。ほかの用が生じれば、応援はやめる。気まま、気まぐれである。
2-5-4.応援されない者には、応援は不愉快になりがちである
 応援が真に支援としてある場合は勿論、単なる声援であっても、それを得られない者には、不快である。声援も、応援される者をはげまし、戦意を高める。それだけ、相手にとっては、強くなった者との対戦というようなことになるから、穏やかではおれない。スポーツ競技では、開催国が強くなる。それがフェアを厳しく求めるものの場合は、由々しき問題となり、観客は、応援はせず、単なる見物人としてふるまうことが求められる。
2-5-4-1.どっちも頑張れという応援や強い者への応援も、すっきりしない
 並んで徒競走をするようなときは、競技者全員をがんばれと声援して、全員を張り切らせることができる。だが、力を相手の打撃に使う闘いでは、両方の応援は、むずかしかろう。真に援助・支援するのだとすると、相互の力を大きくして攻撃力を高め、双方のダメージを大きくする。闘う両方に迷惑なことであろう。強いものに憧れる点からは、勝ちそうな方を応援し、溺れる犬をたたくこともよくある。勝利感に酔いたい観戦者の自然ではあろうが、不愉快な応援である。
2-5-4-2.応援されない者を慮ることがいる   
 戦いがフェアを尊重するような場では、応援は、そのことに配慮したものになる必要がある。応援が実際の支援であるときは、そういった支援が敵方にはないのであれば、実力で戦う公正・公平のフェアは、破られてしまう。単なる声援であっても、厳密にいうと、その声で奮起させられるのであれば、若干、フェアが破られることになろう。とくに、その声が敵方を罵倒して敵の戦う気力をそぐようなものである場合は、闘いに勝ったとしても、その下賤な罵声がそれを実現したのかと思えば、敵味方を問わず、後味が悪いものになろう。
2-5-4-3.応援者は、所詮は野次馬である 
 戦いにおいて、応援は、補欠でも予備軍でもなく、つまるところは、部外者、野次馬である。闘いの支援にかけつけたとしても、仮に負けて責任をとる段になっても、無責任になっていて許されるのが普通である。ましてや声援のみの場合、直接的には味方の力にはならず、敵も、その罵声を夏の小うるさいセミや町の騒音のような扱いとすることに段々慣れてきて、無視できるようになる。
2-5-4-4.応援者は罵詈雑言が平気である 
 戦いあう当事者たちは、似通った状態をもって対峙するから、相手の心のうちも推し量られて、その発言にも配慮することができる。だが、応援の観客は、部外者であり、闘いの辛さ・苦痛は体験しない気楽な位置にあって、多くの場合、戦っている者の心が傷つくことなど意に介さず、匿名・群集心理のもと、罵詈雑言が平気になる。味方についても、失敗などすれば、明け透けにこれをけなし野卑な言葉をなげつける。
2-5-4-5.応援者が、敵から狙われることもある 
 応援が助っ人として敵方の一員とみなされることになれば、攻撃されることになる。あるいは、単なる声援であっても、その当事者の意気を高揚させ、対戦相手に侮蔑の罵声をあびせて戦意を削ぐようなものなら、敵に準じた攻撃を受けても仕方がなかろう。その応援の支えがあることで、降参しないで耐えていることが分かれば、敵の敗北をもたらすカギになっている応援・助っ人をかたづけることを焦眉の問題とすることもありうる。
2-5-4-6.静かに応援し、戦いの邪魔をしないようにしてほしいときがある  
 戦いをするとき、助っ人のほしいときがあるが、逆もある。正々堂々と戦おうという場合、手助けを断る。穏やかな声援にとどめるようにと求める。真に実力で勝つには、支援は邪魔になる。勝っても、応援・助っ人があったからで、実力では負けていたかも知れないと、敵のみか味方からも言われる可能性が生じる。実力で堂々と勝利するために、支援も声援も遠慮したいと思うことがある。
2-5-5.応援・声援にも節度がいる   
 観客としての応援、声援は、闘いの外にあって単に見ているだけなのであれば、好きなようにしていい。だが、ひとは精神的存在だから、声援だけでも、時に大きな影響力をもちうる。鼓舞し慰撫して、戦うものの力を大きくすることができる。敵には罵声をあびせるが、公平さが保たれるべき闘いの場合は、意欲をそぐような声は控えねば闘いを妨害することになる。節度がない応援は、応援される者を赤面させることともなる。
2-5-5-1.見下した応援は不快  
 古い時代の神前での競技は、神から見てもらうのだから競技者は絶対的な下位に位置した。だが、いまは、神ではなく、ひとが見るのであり、競技者の方が観客より上位にある。土俵もリングも見上げる位置にあって、観客は、戦う能力を欠く劣等者になる。野球やサッカーが観客席を上に置いているのは、大観衆に見せるためのやむを得ない手段であるが、つい、観客は能力において上と錯覚してしまう。無能力な者に、上の方から、見下され罵声を浴びると、気持ちが萎える。
2-5-5-2.応援に熱狂してくると特に無遠慮になる 
 応援は、熱が入ると当事者と一体化する。自身は戦えないのだが、全心身が闘いの場にのめりこみ、応援される当事者の第一線に立っているかのように錯覚して、その一挙手一投足に反応してしまう。応援者自体の身体はなにもすることがなくて暇で頭のみが熱狂して、現実の競技が、描く理想のように動いていかないことにイラつく。高い位置にある観客席にあることも誘って、一体化した当事者に無遠慮な罵声もあびせることになる。 
2-5-5-3.集団のなかでは個人的な自制は効きにくくなる  
 応援は、個人が陰ながらするものもあれば、集団で大声でするものもあり、微力なものも強力なものもある。集団になると、その応援は、各人の応援の在り方を超えた集団心理のもとでの展開になることがしばしばである。個人でするのなら、その気になれば自制は効くが、集団になると過激なものが前面に出てきて、これにみんなが引かれて過激になるという、自制の効きにくい応援ともなる。
2-5-5-4.応援は、無責任で好き勝手をいう
 声援は、部外者の声である。その声に応えるかどうかは、当事者次第であり、その事態から生じる責任は、すべて当事者にかかる。当事者は、負ければ、責任を感じる。応援者は、負けたら落胆し、しばしば応援対象と距離をとって、これを非難することにもなる。ときには敵方の応援にと鞍替えする。応援は、無責任で好き勝手なものとなる。
2-5-5-5.対戦相手に罵声をあげることは慎みたい  
 声援するものの武器は、声である。かつて勇猛な戦士が敵に大音声をあげて己を誇示し威嚇したのとちがい、敵を直接は攻撃できない位置にあるから、遠吠えすることができるだけである。その声でもって相手をこき下ろして罵声を浴びせる。敵に攻撃されず、味方の当事者も諫めにくい高みに位置しているので、つけ上がって、「どあほう、くたばれ」と、言いたい放題である。
2-5-5-6.ほめ過ぎると自己過信・自惚れをさそうこともある  
 応援者の声援は、優れたところを賛美して、当事者に自信をつけさせる。だが、これも過ぎると、自信過剰、うぬぼれをさそう。身近な狭い範囲では自分が一番だということで通るが、広い世界に出たとき、自分の平凡さにがっかりさせられるようなこととなる。「井の中の蛙」だったのであり、その同じ井戸のなかの蛙たちに称賛されていただけと気づくことになる。
2-5-6.自立ということでは、よけいな応援・手助けには注意がいる
応援・支援するのは、応援される者が物的精神的に足らないところがあって頼りないからである。応援・手助けは、出しゃばりすぎると、その自立精神の形成を妨げることになる。支援がない場合は、自前でことを遂行しなくてはならないから、そのことへの工夫を重ね、自力を振り絞り、能力を高めていくことになる。自立した卓越者となれるようにと応援するのなら、これを阻害するような過度な応援は控えねばならない。 
2-5-6-1.見守られているのは、心強いが、依存心を大きくもする 
応援は、多くは、手出しはしないで、そばにいて見守るだけである。しかし、もしなにかがあったときには、手助けがしてもらえるという心強い見守りも少なくない。いざとなったら支援があるというのでは、真に自立してすべてを自分の責任においてするということには弱くなる。依存する心を持ち続けることになる。孤立無援の場合は、失敗しても何の支えもないということであるから、おのずと独立不羈の精神が育つ。
2-5-6-2.手助けとしての応援は、自立・実力向上の妨げになる  

 苦難の事態になっても、実際の手助けは一切なしで声援のみの場合、奮起しなくてはと鼓舞はされるが、ことに当たっての万事を自分で算段しなくてはならず、自立的にならざるをえない。だが、応援が手助けをするものだと、足らないところは助けてもらえると依存心をさそい、無理やりにでも自分で工夫をするといったことがいらなくなる。自立し実力を向上させるチャンスなのに、応援はそれを奪い、当人は、それを見逃すこととなる。
2-5-6-3.手助けが、真の応援にはならないこともある  
応援するものは、当事者ではないから、実際に手助けしてほしいと思っていることとは異なる無意味な手助けをすることがしばしば生じる。かつ、当事者が依存心を大きくしてしまうような、自立するためには支援すべきでないようなことを応援することも出てくる。余計な応援ということになる。応援したいものがか弱い場合、つい過分の支えをしてしまい、一層弱いものにしてしまう。
2-5-6-4.支援は、節度がないと、破廉恥なものになる  
 子供の喧嘩に親がしゃしゃり出るようなことは、度を外した過剰な応援になる。あるいは、手助けがしたいというおせっかいやきもいる。少しだけ手助けを求めたのに、当事者に成り代わって仕事を引き受けるようなこともある。世話好きは、ほどほどを心得ないと、余計な手出しをして破廉恥なことになる。応援は、ささやかなものに限定すべきで、節度をもっていなくてはならない。
2-5-6-5.強制や脅迫めいた応援も、健全な自立を妨げる  
 過度の手助けは、自立心を削ぎ、依存を大きくしてしまう。自立精神をはぐくみ能力を向上させるに意義のある支えをするべきである。強制・脅迫してムチで駆り立てるような応援も、健全な自立には遅延をきたす。無理やりに強いたり脅したりしたのでは、やる気を削ぎ、萎縮させ、ムチ打つ者の方に要らぬ気を使わせることになって、自立へと健やかに力を注ぐことは妨げられる。
2-5-7.忍耐は、周囲に影響を与えやすい
忍耐は、周囲から影響を受けるとともに、逆に影響を与えるものでもある。それが周囲のためになされている場合は当然であるが、そうではなくても、苦痛甘受という反自然の特殊な営為であるから、何事かと気を引くことになる。犠牲を払ってまでするのは、それだけの価値あるものだからであろうとその目的となるものにも注目を集める。価値ある目的を知れば、忍耐へとかれらを誘い込むことともなって行こう。辛いけど早朝起きて運動をしていると聞けば、自分もやってみようかという気になる。
2-5-7-1.忍耐は、ひとの超自然的尊厳を意識させる
生は、自然的には苦痛・損傷を回避する。だが、ひとの忍耐は、これを拒否し、自然を超越する。自然から自由になって人間的目的を未来のうちに描きあげ、ひるがえってこの現在において、苦痛の甘受を覚悟し、あるいは快享受を自制して、忍耐することをもって、その目的を実現していく。忍耐は、快不快の自然を超えて超自然の自律自由の世界を可能とし、ひとの尊厳の端的を示してくれる。ひとのそういう忍耐を見れば、周囲も、快不快の動物に低迷することを自戒して、自分たちのうちにある超自然・自由の能力を再認識することとなろう。
2-5-7-2.苦痛の甘受、忍耐は、広く支えあう
ひとは、社会的動物であって、支えあって共々に生きる。他に生かされることも、自身が他のために生きることも、苦痛甘受の忍耐、犠牲の精神あってのものである。親が苦難に辛抱するのは子供のためであり、教師が己を抑えて耐え続けるのは、生徒のためである。エゴでなりたつ資本制商品社会ですら、無縁の者、敵とも相互に犠牲を踏まえて支えあう。自分の苦労の産物を他に譲り、他者の犠牲の産物を自分が享受する等価交換が原理となった社会である。
2-5-7-3.忍耐は、ひとの身勝手を引き出すことがある
忍耐は、苦痛もその甘受も意識内で起こることなので、ひとには分からないままにすることができる。遠慮深いものが、うちにそれを忍んでいると、ときに相手は平気でその忍耐を求め、図々しく振る舞うことが生じる。苦痛・犠牲は、慣れてくると小さく感じることもでき、少し我慢すれば波風を立てることなく済ませられるしと、忍耐を引き受け続ける。図々しい者の犠牲になって忍耐していると、その身勝手をますます大きくすることになりかねない。
2-5-7-4.我慢は、ひとのわ(和・輪)をつくる
 ひとを犠牲にする我が儘な者と、犠牲になることを我慢する者とでは、当然、後者にひとは親しむ。家康が大成できたのは、子供のとき人質になる中で我慢を覚えたことが大きいと言われる。とくに怒りの我慢ができることは、ひとの交わりに大事である。横柄な怒りで攻撃されたら、離れるか排撃するかとなる。穏和で、苦痛・犠牲に忍耐できる者は、周囲にはありがたいことで、その和の輪のうちに共に生きたいということになっていく。
2-5-7-5.苦痛では、周囲への注意がお留守になりがち
 忍耐では、周囲の物事についての注意が希薄になりがちになることもある。苦痛が続いて余裕がなくなれば、ほかのことに気を配ることはむずかしくなる。ひとの意識は、ひとつのことに集中するとほかのことはお留守になる。苦痛は、危機の事態であるから、これに神経を集中し、周囲への配慮など希薄になってしまう。もちろん、苦痛以上の火急のことがあれば、それに意識は集中し、苦痛も意識されなくなる。その火急のことがなくなると、即、苦痛に注意は戻るが、周辺のことへは従前通り注意はとどかない。

3.忍耐力は、経験をもって高まる 
 忍耐の経験は、苦痛を耐える個我の心身の経験である。苦痛は、心身の嫌悪、拒絶等の反応をもってする自然的な感情であり、忍耐する意志は、この自然的反応を抑止して、苦痛を甘受する反自然・超自然の対応をとる。意志は、苦痛に対抗するその個別主体の感情や知性を動員して忍耐経験を深め、耐えることへの巧みさを身に着けていく。この知情意を総動員しての忍耐の骨身にしみる経験の反復は、自身の苦痛甘受の在り様を変え、忍耐の能力を大きなものにしていく。
3-1.苦痛はひとの能力を培うが、快はこれを無能化する
「若いときの苦労は、買ってでもせよ」という。苦労・苦痛の体験がひとの能力を開発するからである。苦痛は、ひとを覚醒させ苦痛を克服できるようにと必死にさせ、新規の能力の発現までを可能にしていく。快は、逆で、これにのめりこんでまどろみ、停滞をさそう。苦痛の反復は、これに過敏に反応することをやめた鈍感力を養う。快の反復は、快に鈍感になり、より大きな快でないと満足できなくする。
3-1-1.理性意志は、快・苦を統御し、忍耐する
 個我は、自然的には快不快の感情をもって動くが、ひととしては、理性をもって自然を超越した人間的精神的存在らしい営為をする。ひとの忍耐は、理性の意志をもって、自己内の自然である快不快を制御していく。快不快の自然にしたがっておおむね生はうまく自己を維持・展開できるが、よりよい人間的生のためには、これを理性で統御して、快の過剰を自制し、不快・苦痛の回避を抑止しなくてはならない。つまり、苦痛甘受の忍耐が必要となる。反自然・超自然の理性的な対応をもって、ひとは、快不快の自然存在を超越した自律自由の存在であることを証する。
3-1-1-1.理性意志とともに一部の感情も、忍耐を動かす 
 忍耐は、苦痛を受け入れる。これには、苦痛感情を制御する理性意志が働き、苦痛回避の動きを抑止できる状態になる必要がある。意志が苦痛回避衝動を押さえつけ、心身の動きを回避と反対にして、回避に沿う動きにならないよう命令を出すことになる。その抑止意志の貫徹が難しいときには、多方面の心身に協力をもとめる。快の諸感情をもって反苦痛の心身反応を引き起こして苦痛を軽くし耐えやすくしたり、自尊心をもってきて忍耐遂行への意欲を高めたりする。
3-1-1-2.忍耐は、頭の思うようには行かない
 頭(理性)では、快楽欲求を抑止しようと思い、不快回避の衝動を抑止しようと思って忍耐をはじめる。だが、その快不快の感情は、動物的自然、生理的自然にしたがったものであれば、動物的自然に反した抽象的理性の命令を、簡単には受け入れない。快楽の制限が必要と理性は思っても、感性自然の衝動は、これを求めてやまず、理性より強ければ、快楽を受け入れてしまう。激痛があると、これを忍耐して逃げないようにと理性意志が働いても、逃げようとする衝動の方が勝って、理性は忍耐を放棄させられることにもなる。
3-1-1-3.個我のサボタージュ 
 普遍的な概念をもって動く理性も、個我のうちに存在しているから、その個我に与しがちである。個我は、自己を社会的精神的場面にも堅持する。財貨を前にすれば、個我は、自身の分を求め、他を排してもとエゴを発揮する。忍耐も、そのエゴのもとにある。自身には損害のみがあって価値獲得はならないのだとすると、社会全体には有益なことであっても、その忍耐を引き受けることには躊躇する。そういう場合、忍耐すべきだと分かっていたとしても、良心の呵責をうちにいだきつつも、個我の理性は、これをサボるために動こうともする。
3-1-1-4.個我に理が場合もある 
 社会は、非合理で狂気の動きをすることがある。生きた理性は、各個我のうちにあり、全体自体にはない。衆知を集めた全体は、高い英知を発揮することもあるが、逆に個我ではまれなほどの没理性・狂気に陥り、無謀な戦争などをすることでもある。個我が優れた英知をもっていても、全体の中では通らないこともしばしばである。狂気の社会は、無意味な犠牲を個我に平然と求める。個我は、自身の危機となれば、その生を守る理性と感性をもって必死となるが、全体の狂気に圧殺されることが多い。
3-1-1-5.全体も理性も個我を忘れていることがある 
 国家は、その存続のために個人に犠牲を、命さえ求めることがある。国家自体には感情はなく、平然とそれを求める。個我の絶望の辛さを国家は感じることができない。理性も、抽象的に事を図る場合は、個我の感情を忘れた計画をたてようとする。苦痛に耐えるとき、心身の限界があっても、理性は、これを抽象的にしか考えない。その限界・無理は、感性がいだく。感情としての苦痛が、限界であることを知らせ、理性に無謀な展開をやめるようにいさめることになる。
3-1-1-6.快苦の感情は、普遍的全体的なことでも、常に個体をふまえている 
 国家のためには、戦争も避けてはならない、個人の犠牲はやむを得ないと、理性は、思う。だが、そのとき、個我は、自分の心身をそこに参加させるから、自分の犠牲を踏まえ死への不安・恐怖を抱く。感情は、自分という個我のための感情であって、その限りでは普遍的全体的なものにはならない。その不快感情をもって、軽々に戦争肯定はできないと自身の理性をいましめる。アリやハチは、各個体が常に倫理的に生きていると感心するひとがあるが、全体のために整然と動き、自己犠牲をいとわないという点では確かにそう見える。しかし、ひとは、個我に生きる。快不快の感情は、常にその個我に与する。
3-1-2.快は、生向上のための諸能力を停滞か退化させる
 自然的には快は、その生の保護・促進をなす。個体保存・類保存の食や性は、快があるからスムースなのである。しかし、快自体は、それにのめりこませ、そこにとどまっていたいと、それ以上への前進の姿勢を失わせ停滞をもたらす。新規になにかを獲得したいという欲求(不充足の不快)がなければ、そのための自身の能力を発揮することはしなくなる。苦のムチがひとを駆り立てるのであって、アメ・快にかまけていたのでは、ひとの諸能力は、不使用が続き、錆びついてしまう。 
3-1-2-1.動物もひとも、快にひかれて、生の維持・促進をはたす  
自然的生のもとでは、快不快は強力な力をもつ。快があるから、これにひかれてその営為へと向かうのである。おいしさにひかれてこれを食べ、そのことで個体としての生は、維持・促進が可能となる。快でなければ、おそらく、食べようという気にならず、身体は衰弱していくであろう。性的快楽など、これが強いから、生殖活動が盛んになりえているのであり、もし、その快楽がないとしたら、種の保存は、困難きわまりないことになる。快があるから、自然における生の維持・促進は、スムースにいっているのである。
3-1-2-2.快は、精神的な生では些事で、あまり促進力にはならない  
 快は、自然的生においては、生促進の強い力になっているが、人の精神的な生の層においては、快ではなく、財貨とか情報とかの価値が求められる中心になる。もちろん、価値あるものを獲得すれば、喜びなどの快感情が伴う。しかし、価値物獲得なしで快のみの「ぬか喜び」などは、嫌悪される。精神的な生促進のためには、快は些事にとどまる。幸福感ではなく、幸福が求められる。幸福感は、神仏に陶酔し、あるいは酒などの麻薬に酩酊すれば、だれもが抱けるが、幸福の実体(恵み)がない場合、幻想として、むなしいものとなる。
3-1-2-3.現代人は、快楽にのめりこみがち  
 現代は、欲望を肯定し、これを肥大化させた社会で、動物的生の根本の食と性の営みなどでは、過剰なほどに快楽享受が可能になっている(分配は依然いびつである)。食に恵まれすぎているから、この快楽にのめりこみ、生促進を超えて過剰な状態、つまり肥満をもたらし、元気のもとの食が生活習慣病の元凶になっている。性的快楽も、小人閑居して不善をなすで、類再生産の支えである家族を崩壊させてまで快楽にのめりこむ破廉恥な者が水商売あたりで跋扈している(食とちがい、本当のところは分からない。マスコミが好物とする、議員や芸人など人気に依存する水商売の背徳的な男女の不倫騒動の反復あたりからは、そう思えてくる)。
3-1-2-4.快は、まどろみ眠り込ませる  
 快では、それの享受にと没入し、意識は外には向かなくなる。うっとりとし意識は半ば眠り込む。快は、アメ・褒美として行動へと駆り立てる力をもつが、快自体を享受する段階では、それにのめりこみ、それ以上のことをする必要がなく、快がある限りは、そこにとどまり続け、生は停滞する。快のうちにとどまることが続けば、外に向かって動くこともおっくうになり、怠惰になってもいく。使わない筋肉は弱体化していくように、備わっている諸能力は、使用されないで錆びつき、退化することにもなる。
3-1-2-5.食と性の快楽では、愚かしい享受が目に余る
現代人は食の快楽にのめりこみ、美味・珍味をもとめ、贅を凝らしたものを求め続けているが、資源の浪費は膨大で、人類の食の未来は危いことになっている。要は、のど越しの快楽である。むさぼるのではなく、海山のさちを大切にし、一つ一つの食べ物をよく味わってほどほどを楽しみたいものである。性の快楽も、要は自身の性器が生む快楽であり、自慰・他慰、美醜、貧富に関係なく、常に同一の快楽である。不倫・買春などの性犯罪をおかしてまでこれを求めるのは、性器の快楽自体には無意味で、類保存のための尊い性秩序を冒涜する極悪の非行というべきである。
3-1-3.苦痛は、個我を駆り立て、その能力をのばす 
苦痛は、損傷への感情である。苦痛は、強い刺激をもって、損傷をなくするようにと、個我を苦痛・損傷の回避へと駆り立てる。快と逆で、これを放置したのでは、生は危うく、火急の対策が求められる。意識は、その苦痛・損傷を把握し、その撃退方法も考え、さらに実行へと急ぐ。苦痛は可能なだけ回避したいから、そのためにもてる最大限の能力の発揮となり、それでも困難なら新規の能力も開発して対応していくことになる。
3-1-3-1.動物的自然も、苦痛甘受の忍耐をすることがある
 自然的には、生は、苦痛を回避することで、損傷をまぬがれ生を保護する。だが、ときに、苦痛を受け入れることがある。自然のうちにある動物もひとも、不可避の過程として苦痛を受け入れることをもって快を得ようと忍耐をすることがある。より大きな快を得、より大きな苦痛を回避するために、小さい苦痛に忍耐する。熊は、蜂に刺される苦痛を我慢しつつ、好物の蜂蜜を手に入れる。
3-1-3-2.苦痛のムチに追い立てられることで、価値あるものを得る 
 単に自然的に苦痛を回避するというのではなく、何かを行い前に進めば、苦痛(ムチ)が避けられると、前進を意志することがある。奴隷は鞭うたれるのがいやなので、苦役に自らが従事していく。空腹は、辛いので、食料を確実に得られるように、農業を、牧畜を改良し、生産力を高めていく。辛い寒さは、建物や衣類に工夫をこらすようにと人を仕向ける。暑さの苦痛は、扇風機をつくり、エアコンを作り出した。苦痛が価値あるものを生み出すことになる。
3-1-3-3.苦痛は、快とちがい、生の精神的高位層でも、大きな力をもつ  
 快苦のうち、快は、生の動物的レベルでは大きな力をもっているが、精神的レベルになると価値物獲得に単に随伴するだけのものになる。だが、苦痛は、どんな領域においても、生の損傷を語るものとして、大きな力を持ち続ける。精神世界での苦痛である絶望とか悲嘆は、ひとをうちのめすもので、生理的苦痛と同じく、なんとかしてその苦痛・苦悩から逃れたい、そういう状態に陥りたくないと、その回避へとひとを動かす。
3-1-3-4.ひとは、苦痛から逃げず耐えることができる
 苦痛を感じれば、これから逃げ、そのことで生は損傷をまぬがれる。それが自然の大原則である。だが、ひとは、自然を超越し、苦痛回避衝動を理性意志でもって抑止し忍耐する。そのことで価値あるものが獲得できると、先を読めるからである。観念において未来に目的を描き出し、その手段となるものを実在的に動かす。その手段が苦痛であっても、これから逃げなければ、それに勝る大きな価値をもつ目的が実現できると知れば、ひとは、苦痛を引き受け忍耐する。
3-1-3-5.苦痛は、ひとを覚醒させ、眠っていた諸能力も目覚めさせる 
 快では、それをもたらすものに一体化し陶酔する。逆の苦痛は、これから離れようと覚醒状態を意識にもたらす。さらに、苦痛を逃れ克服するために、自身のうちに眠っていた諸能力をも動員する。火事場の馬鹿力をいうが、苦痛の危機に直面するとひとは、日ごろは無用と眠っていた能力も叩き起こす。快や平安の状態では、もっている能力も発揮することなく過ぎるが、苦痛のもとでは、覚醒し、もてる最大の力を発揮せねばと動き出す。
3-1-3-6.苦痛は、損傷した生に緊急の対応を迫る  
 身体の損傷に気づいたとしても、痛まない場合、理性的にふるまい、落ち着いて対処を考えることになろう。まずは、損傷のままでもいいかも知れないと放置することができる。だが、これが痛むと、しかもその苦痛の度合いが大きいと、一刻も放置できない意識状態になる。火急の対処が必要だと、緊急の切迫した状態を作り出す。激痛があれば、諸事を放擲しておいて、この苦痛への対処にと意識は集中する。
3-1-4.ひとの快苦は、過剰気味で、ひとを損なう   
 自然状態では、危ういものには近づかないし、過剰な苦は、意外に少ないように思える。逆の快楽も、そう過剰に与えられるような恵まれた環境にはない。少し油断すれば、ほかの動物に食物は奪われる。性的にも、よりよい生命のための競争が熾烈で、ひとのように、のんびりと性的快楽を堪能するということは、ない。それに、多くの場合、発情期のみのことで、ひとのように年中のめりこむようなこともない。過剰な快と過剰な苦があるのは、ひとのみのことかも知れない。その過剰に陥れば、もっている高度の能力が損なわれることになってもいく。
 食の快楽にのめりこむことが現代人には一般的に可能で、その過剰で肥満が社会問題となっている。美味のものを少なくすればいいのだが、商売人は売れればいいのだからと、「チョコレートでは太りません」と言いつつ大量の砂糖を混入させるなどして美味のものばかりを売る。快の過剰追求・肥満で生を損なうものが多くなっている。性的にも、過度の追求は退廃をもたらしている。ひとは、類的生産をうまく実現するために、家族・家庭をつくり、それに合わせて自然的性欲も健やかに制御している。だが、社会的制裁が軽いのをいいことにして性的エゴイストによる不倫等の性犯罪が後を絶たない。
3-1-4-2.ほしいままの生活では、生制御の自制心は不全・無力化  
 動物的自然的生のほしいままだと、そこに人をとどめて、それを超越して超自然的な自由の生を営むことは、おろそかになってしまう。自然本能状態から自由になって精神的人間的生を営むには、自身の自然本能を抑制し制御するという自制心が必要となる。ほしいままの生においては、その自制心が成長不全になる。他者との交わりでは、自制することが必至となるが、これができず、心は幼児のままで体のみを大人にした利己主義者・エゴイストとして、みんなから唾棄されることとなる。
3-1-4-3.激痛は、生の営みを全般的に低下させる
 快とちがい苦痛は、生を覚醒させる。眠りから覚ますには、快を与えるのではなく、苦痛を与える方法をもってする。だが、苦痛が過ぎると、覚醒はするものの、この苦痛に意識は集中してほかの生の営みはお留守の状態になってしまう。激痛がつづくと、生は、疲労困憊状態になり、苦痛に囚われ、のめりこんだ状態になってしまう。ほかの健やかな創造的な営みなど、うわの空となってしまう。ただし、自然的には意外に激痛は少ないように思われる。第一、自然は苦痛になりそうな危ういものを回避する。さらに、大けがなどでは、まずは、痛みではなく、その部位に衝撃があり神経麻痺気味になるのであって、後に生じる痛みも、多くは、冷静な対応を妨げるほどの激痛にはならない。
3-1-4-4.自然的生の過剰な快苦は、精神的営為を妨げる
 快楽はこれに意識をのめりこませるし、苦痛も、覚醒はするがその苦痛へと意識を奪ってしまう。それらが過剰なものであれば、より多く意識はそれにとらわれ続けることになる。ひとは、精神的存在として、高度の精神的社会的生活を営む。動物的自然的な生が健やかであれば、そのうえの精神的生のための支えをなすものであろうが、動物的快苦が過剰で意識を奪うと、精神的生を支えるどころではなくなる。自然的生の不健康によって、精神的生へは意識が向かいにくい状態になってしまう。 
3-1-4-5.絶望・悲嘆はつらく、自身の生の放棄さえ思うこともある 
精神的生では、快は、些事である。だが、苦痛は、ここでも大きな影響力をもつ。この層での苦痛といえば、絶望とか不安とか悲嘆等があるが、いずれも、ひとにとって重大な否定的感情で、これらからは少しでも早く逃れたいともがくことである。それでも、忍耐する者は、この苦痛から逃げず甘受して、より価値ある精神的生のために受苦受難に耐える。が、ときには、絶望や悲嘆に耐えられなくなって自暴自棄となり、絶望を始末するために、その生自体を放棄してしまうこともある。
3-1-4-6.激痛につぶされなければ、超人的能力を開発   
 ひとをうちのめす苦痛に負けず耐え得たものは、その苦痛を踏まえた卓越した生を得ることが可能となる。自然本能を抑制した自律的存在としての自身を強固にする。絶望への忍耐も、その苦悩を乗り越えることで精神的自由を確固としたものに作りなし、克己、自己支配という人間的尊厳の営為を高度に実現していく。拷問のような、普通のものには到底耐ええないであろう苦痛を耐え得た卓越した存在となれば、忍耐等について、類いまれな超人的な能力を身につけることになる。
3-1-4-7.脳内の誤作動での苦痛は、耐えるだけでは片付かない
 苦痛は、その原因に対処せよという警告であろう。だが、原因がないとか、原因が片付いても、不安など習慣化してしまうものがある。身体の損傷は回復してもその痛みがつづくとか、腕は切られてもうないのに腕が痛むというようなこともある。そういう苦痛も耐えることは必要だが、耐えるだけのことを反復していた場合、むしろ、その苦痛を定着させかねない。無意味な苦痛であり、耐えつつも、その幻覚としての苦痛自体を消去できるようにすることが、忍耐無用にすることが必要となる。
3-1-5.個我の快苦の感情とリードする理性
 忍耐はもとよりひとの営為一般は、理性のリードのもとに展開される。が、常にひとつの身体をもった個我として動くことで、個我の身体的な反応をもった感覚・感情の参加なくしては、現実的な営為とはならない。ゴミの山を片付けようと意志するとしても、自身の身体にさせるわけで、身体に相談することがなくてはならない。身体のもとにある感情が不快で動きたくないというときには、まずは、その不快感情を小さくし、逃げ出さず立ち向かうようにと鼓舞し、身体全体が働いてくれるよう仕向けることなくしては、理性の思いは実現されない。
3-1-5-1.理性が個我の感情を制御して忍耐となる
 苦痛(感情)は、身体反応としては、苦痛回避へと動く。その自然的反応を抑止するのが忍耐である。個我としては、苦痛・損傷は免れたいから、これから逃げたいという感情的動きをもつ。理性意志は、その苦痛感情で動かないように、無為にとどまるようにと制御する。理性は、その意志をもって目的にむけて冷静に動いていく。だが、個我として動く必要がある実践世界では、個我の心身の反応、感情ぬきにしては、その意志の営為は実現されない。感覚・感情の妨害と促進を踏まえ制御しつつ、これを貫いていくことになる。
3-1-5-2.快は、それの未だないところで個我を動かす
 苦痛がひとを動かすのは、多くはそれが現に存在している場面においてであるが、快がひとを引き付けて動かすのは、なお快が存在しない状態においてである。現に快が与えられているところではこれにのめりこみ、ほかのことはお留守になる。その快が目的のためのアメ・えさであった場合、これが目的成就の前に与えられたのでは、これにのめりこんでその先の目的など放置する。個我は、与えられた快には、動物と同じくのめりこみそこに停滞する。目的のためのアメとして快を利用する場合は、その意志行為を成し遂げた後に与えるのが普通である。
3-1-5-3.不快・苦痛が個我を動かす度合いは大きい
 身体の損傷には、苦痛が生じる。その苦痛を回避することをもって、生は、その損傷から守られる。精神的な高度の生のレベルでも、苦痛は重大なものとなっている。絶望や不安(苦痛)は、辛く、何をさておいてもその苦痛を回避して安らぎたいとひとは動く。生理的苦痛とちがい精神的レベルの苦痛では、それの帰属する全体を拡大した自己とみなしているので、帰属の全体の動静にも苦痛感情をいだく。自身の家族や国家の崩壊には絶望し悲嘆する。それを回避するために個我は自分を犠牲にして忍耐することもいとわない。
3-1-5-4.頭でっかちに体がついていかない  
理性は、個我のうちで機能するものではあるが、それ自体は普遍的な概念・理念でもって動き、実践的な現実のもとでも概念的に対応をする。だが、個我は、身体とそれに根付いた感覚・感情をもって反応するから、理性の普遍的な対応には応じえないときがある。とくに忍耐のようにその対象が自身の個我の欲求とか不快感情である場合、個我は不快・苦痛から逃げようとするのに、理性意志は、それを抑止して苦痛を甘受せよと命じて対立的となる。苦痛が大きければ、理性の求めは無謀なこととして個我において拒否されることになる。
3-1-5-5.個我の感情は反理性・非合理でもある
個我の感情は、生個体の保護・促進のために動くが、視野は狭い。個我のもとの理性は、その生保護のために、より広い普遍的な立場から合理的な判断をもって動く。苦痛の感情は、損傷回避の反応となり、一般的には理性にも納得できる合理的な反応である。だが、病気を治すために注射するようなときは、理性は、これを受け入れようと動くが、個我の身体は、その概念的な世界の動きはとらええないから、注射(の痛み)を拒否しようと動く。理性的精神的レベルの合理的な動きが身体的なレベルの反応と異なったものになるとき、個我感性の動きは、反合理・非合理なものとなることが生じる。
3-1-5-6.理性も、感情に支配されれば非合理になる
理性は、普遍的な概念をもって動くから、その限りでは個我の立場から超越している。だが、個人の利害ということになれば、理性も自分に与しがちである。もちろん、不偏不党の態度をとって合理性な理性精神を貫くこともある。自分には不利になっても、正義は敵方にあるとみなして自己を手加減なく犠牲にしていくこともある。が、しばしば自分の立場を無理押しする。詭弁を弄し理性は、個我の感情支配下に動くこととなる。個我のエゴに追随し、屁理屈をもって動く、非合理的な理性となることがある。
3-1-5-7.忍耐は、個我の苦痛から逃げず、理性意志を貫徹する
節制・自制は、快を制御・抑止し、忍耐は苦痛を制御し甘受する。いずれも反自然・反個我の対応になる。個我としては、快楽を求め、苦痛を回避するものを、理性は、人間的生にとって必要なら、そういう自然を抑止して、反自然的に対応をとる。快不快の感情を制御し抑止して、理性意志を貫徹する。とくに忍耐は、苦痛回避という生保護のための根源的な衝動を抑止して理性意志を貫くのであり、強い意志力の発揮が求められる。
3-1-6.精神的な生のもとでの快苦の感情と理性 
 ひとは、社会をつくり、自然を超越した精神的存在として生きる。ひとの感情は、動物的自然のもとでの快不快の感情を踏まえるけれども、精神的生のもとでは、価値物の獲得が主となって、快(喜び)は付随するだけの些事になる。苦痛は、精神世界でもひとを強く動かしていくが、内容は、精神的苦痛としての絶望とか不安などとなる。理性も、当然、その個の属する社会のもとに具体的となり、普遍的な概念で動くとともに、その特定の社会の価値観を踏まえたものとなる。日本人であれば、欧米と異なり、わが子に「同情」はしない。同情は、他人に限るのが日本的精神である。
3-1-6-1.忍耐へと動かす目的、賞罰、義務、使命感など 
 忍耐は、犠牲的手段であり、価値ある目的達成のためのものである。その目的の大きさによってそれへの取り組みの本気度も異なってくる。それの実現でなる賞罰も気になる。それが自身に社会的使命と感じられれば、最善を尽くさねばと思うことになる。義務と感じておれば、苦痛で停滞しがちでも、意志は自分を忍耐へと急き立てることになる。それは、理性が駆り立てるだけでなく、個我の感情もこれらに鼓舞されて、忍耐を促進する。
3-1-6-2.ひとの感性を動かすものと、理性を動かすもの  
 概念・理念的に自身の理性が納得し、犠牲もはらうべきだと考えれば、理性意志は、そのことへと自身を傾けていく気になる。それが大切な正義の問題であると納得すれば、意志は、断固としてこれを追及する姿勢をもつ。だが、その正義の行動が、自身になんらプラスになることがない、逆に生命が危うくなるかも知れないと分かれば、個我の感情は、その行動には躊躇しがちとなる。それでも、自身の身近なものがその正義の問題で犠牲になったと分かれば、感情的に怒りなどの攻撃姿勢をもち義憤を抱き、そのことに理性意志は、全力を注いでいくことができる。
3-1-6-3.感性は、多くは刹那のものだが、愛・憎などは長期的 
 理性意志は、おのれを貫徹して大きな持続性をもって対処する。苦痛・不快のような感情は、その各個別の場に即応したものだが、持続性に乏しいことが多く、すぐに勢いも失う。怒りの感情などものの何十秒か外に出さずうちに収めていると、差し当たりは消えてしまう。だが、刹那の感情が多いとしても、ときには、うちに秘め続けて長期にわたっていだく愛・憎のような感情もある。それをもって忍耐力の支えとする場合、相当に長く続いて大きな力となる。 
3-1-6-4.理性と違い、感情はその個我を離れることは困難 
 感情は、個我の生のためのもので、普遍性はもちにくい。国際的な問題などでも、感情的には、自己の所属の国家へと一体化して、普遍性は、もちにくい。だが、理性は、概念をもって機能するものとして、その合理的な判断・推論のもとに対応するから、人の意見も取り込んで、普遍的合理的なものになる。説得にも自己の反省をもって応じ納得もする。個我の感情を説得するには、その個我の損得など、どちらかというと隠れた原因を解きほぐすことが必要となる。
3-1-6-5.忍耐する理性・感性を支える社会の力は大きい 
 正義を貫くことは不正への闘いとして、抵抗を受け辛くもなる。そのとき、周囲が正義を守れと共に動けば、心強い。理性が忍耐強く正義を貫くことを社会は支えてくれる。社会は、感情的にも支える力となる。みんなが見守ってくれていると思えば、全力を出さねばならないと鼓舞され、気力も充実してくる。もちろん、逆もある。不正に沈黙して逃げているのが大衆の大半であるなら、正義の闘いへの意欲は削がれる。応援は無責任で気まぐれでもある。
3-1-6-6.理性は、合理・普遍・客観性に優れるが、ときに誤謬や妄想に陥る 

 忍耐する理性意志は、個我の自然である苦痛回避衝動を抑止する。個我の感情は狭い個別実在の世界にとどまっているが、理性は、個我を離れた普遍的全体的視座に立つ卓越したものである。が、ときにその個我実在を離れる方向が普遍・全体・合理ではなく、実在をかけ離れた妄想・誤謬の世界になることもある。理性は、ときに、個我の妄念を理想にまで持ち上げたり、その社会の共同幻想に浸って得々としているようなことにもなる。
 
3-2.忍耐の反復体験は、忍耐力を養う
 知的能力は、頭を使い学ぶことで大きくなり知力を高める。忍耐は、心身の苦痛(甘受)への能力であり、単に学ぶ知的な能力とはちがい、それを向上させるには体験をもってすることが必要になる。筋肉の力を向上させるのと同じように、実際にこれを使い鍛錬することで忍耐力は高まる。忍耐は、苦痛という感情を相手にし、この感情は身体抜きではならないから、忍耐の能力を高めるには、実際に苦痛を自身において体験することが必要となる。個我が自身の身に苦痛を引き受ける体験を反復するなかで、より巧みに忍耐できるようになっていく。
3-2-1.苦痛への対応は、体験の反復で慣れる
苦痛は、損傷への心身の感情反応として存立している。これに忍耐はかかわりこれを個我に受け入れていく。ごく個人的な営為であり、それへの好ましい対応は、各個我が苦痛を体験するなかで工夫していくことになる。苦痛への一般的対応策は、情報として知って、どこを抑えれば苦痛は小さくなる等、よりよく耐えるための方法ではひとの言動を参考にできる。しかし、苦悩・苦痛の感情自体は、各人が各様に感じることで、それを甘受する忍耐は、その実際に感じている苦痛への対応として、一般化されにくい。各人が経験して、その経験のなかで工夫し、適切な対応を身に着けていくべきものである。
3-2-1-1.快苦の感情は反復で鈍化し、慣れて忍耐しやすくなる
 快も不快も、持続する中ではだんだんと感じ方が鈍化し小さくなり、ときに消えてしまう。おいしいものも、満腹するとともに快であることをやめてしまう。同じものが続くと、特別おいしいとは感じなくもなる。苦痛も、多くが同様で、とくに治癒してくれば痛みは減少するし、そうでなくても、慣れてくるとその苦痛は、鈍化してくるのが普通であろう。注射の痛みは、慣れてくれば、既知の痛みとして、構えを過剰にすることなく、受け止められる。それに応じて、これに忍耐することもだんだんと容易になっていく。もちろん、苦痛が持続してそのダメージが蓄積するような場合は、どこかで限度になって忍耐放棄となっていく。 

3-2-1-2.理性意志は、忍耐(抑制)体験をするほどに巧みになる
 忍耐では、苦痛感情を理性意志が抑制する。苦痛は強い回避衝動をもち、苦痛を受け入れる忍耐は、その回避衝動の抑止を中心にした営為になる。衝動抑止の仕方は、その経験の反復でだんだんと巧みなものにと強化される。過剰な対応で無駄になるようなことを体験のなかで防ぐことができるようになり、必要なところに意志を的確に働かせて、忍耐がよりよくできることになる。「習うより、慣れろ」と言われるが、慣れれば意志は、苦痛に平常心で対応できるようになる。
3-2-1-3.経験・反復で、過度の身構えはなくなり、耐えやすくなる
 経験を重ねることで、慣れて苦痛の方は弱くなり、忍耐力の方は強くなる。ということは、忍耐は重ねるほどに同じものなら、耐えやすくなるということである。最初のころは、苦痛に対して過剰な反応をする。マイナスの事態であるから、過度の身構えをして損傷などのマイナスへの対応を誤らないようにと緊張する。最初は未知のことが多いから、大きく構えているのは正解である。だが、無駄な身構えになることが多い。その反復体験は、過度の対応を無用にし省力化して構えることができるようになって、耐えることが容易になってもいく。
3-2-1-4.個我の忍耐は、その個我固有の体験になる
 理性のもとでの普遍的概念的なものは、個我抜きで展開され、万人同じことになる。その誤りは多くが個人的なものだが、真実は、だれがやっても同じものをもたらす。だが、忍耐は、個我の苦痛を扱い、その理性意志も、個我のもとでの固有の展開をする。個別的経験の事柄となる。忍耐の在り方は、その個我に感じられる苦痛の程度と、それへのその個我の意志の働き方によって決まる。そこでは、その個我の過去の忍耐の経験が役立てられる。体験して蓄積した忍耐の過去がその現在の忍耐を支えることになるから、同じことに忍耐していても、各人で各様ということになる。
3-2-1-5.苦痛への感度は、その反復で調整される
 苦いものは、有毒の印であろうが、それが有毒でなく、栄養摂取に不都合でないと分かれば、その苦味には、だんだんと慣れてきて、平気になっていく。匂いなどは、どんな悪臭でも、気づけば用が足りるということなのか、すぐに感じなくなっていく。苦痛は、生の危機を語るから、持続して意識をそこへとむけ続けるが、それでも、だんだんと感じる程度を弱くしていく。最初は、過剰に反応し感じるが、反復するなかでは、それに見合った反応へと調整する。轟音には、最初は驚愕するが、反復するなかでは、平気になっていく。 
3-2-1-6.欲求のあり方に応じた忍耐の工夫
欲求の不充足に耐える場合、その欲求の特徴を把握しておくことが必要となる。ある程度不充足を続ければ、欲求が小さくなったり消えるものもある。生に必須の欲求でない飲酒とか喫煙などは、長く不充足を維持していると、欲求自体が消滅して、忍耐は無用になる。だが、生に必須の食欲の場合、空腹は、忍耐とともにつらくなるばかりであろう。栄養摂取しないと命にかかわるから、その欲求は不充足が続くほどに強くなり耐えがたさを増す。それでも、絶食を続けていると、欲しても無駄ということからか空腹感はなくなっていく。欲求の在り方を踏まえての忍耐の仕方の工夫が求められる。
3-2-1-7.意志は、抑制・抑止の仕方に、反復で慣れていく
 理性は、自身の経験を振り返り、のちに役立てることができる。苦痛甘受の忍耐を理性意志が行うと、その体験は、その成功も失敗も記憶され反省される。同じ失敗は繰り返さないようにと次の忍耐の機会に役立てられる。反復すれば、省力化した段取りもできて、慣れた事柄は、難なく実行可能となる。忍耐するとしても、どこで息抜きすればいいのかが分かれば、その時間までの全力での我慢だと自身を鼓舞もできる。
3-2-2.特定のことへの忍耐経験であっても、あらゆる忍耐に役立つ 
 数学の苦手な者が多くの時間をさいて勉強し続けたとすると、その方面での知力は大きくなるが、それが徒競走の脚力の増大に資するものはゼロである。しかし、苦労しての忍耐は、かりに数学でした忍耐であっても、この方面にとどまらず、徒競走での忍耐の増強にも資する。苦痛・つらいことを耐えるという意志の姿勢は、両方に同じである。数学の難問を前に、これを投げ出さずに歯を食いしばる方法は、徒競走での辛さに、最後まで諦めることなく歯を食いしばることと似た対応をとる。いずれの忍耐も、自身の意志を同じように貫き通すのであり、苦痛への同じような身体反応をもってする。
3-2-2-1.苦痛は、どんな種類のものでも、同じく回避衝動をもつ
 苦痛は、身体の損傷と心のダメージとでは、かなり異なった感情内容となる。だが、それらが同じく苦痛といわれるのは、同じ特性をもつからである。苦痛は遠ざけたいし鬱屈・焦燥感等をもたらす。どの苦痛もこれを回避したいという強い衝動をもち、忍耐は、どんな苦痛であっても、その回避衝動を抑止することが中心になる。この抑止の働きは、どの苦痛の忍耐においても、意志をもってする似通った制御として、その経験は、のちのどんな苦痛の忍耐においても支えとなり、参考となる。 
3-2-2-2.どの欲求への忍耐も、同じように自制・克己に取り組む
 欲求は、抑制されると辛くなり忍耐がいることになる。その欲求の抑止とその苦痛回避衝動の抑止をするとき、個我の同一の意志がこれを行う。意志は、欲求の固有性に応じて抑止の仕方を工夫することであるが、同じ意志が発動しての自身の抑制、自制であり、その抑制することの辛さは、どんなものであっても、同じ自分の意志の辛さということになろう。生理的欲求の抑制に苦労する意志は、別のときには、社会的欲望の抑制をするが、それを自制するという意志は、自己のうちから噴き出してくるものの抑制として、似通った抑圧を行うことになろう。
3-2-2-3.抑制する意志は、個我のうちの様々な苦痛・辛苦を制御
 忍耐は、意志をもって自身の苦痛感情を抑制する。生理的苦痛であろうと精神的苦痛であろうと苦痛では、同じように回避衝動の自然が動く。この自然的衝動に従って動くことの良否を理性は判断して、必要に応じて理性の意志は、この自然を抑制してその苦痛から逃げないようにする。モグラたたき遊びのように、同じ意志という槌で、あちこちに出てくる個我の諸欲求、苦痛回避衝動をねらって叩き、これを動かないようにと抑制し、自制する。
3-2-2-4.個我を自らに抑制する自制・克己
 個我は、その心身の諸欲求・衝動をもつ。それは、生理的なものから精神的なものまである。それら個別的欲求を自らの普遍的な理性の意志は、抑制、自制するが、個我にとって苦痛でつらいことになるので、しばしば忍耐を要することになる。克己は、自己に克(勝)つということであるが、それは、個我の自分勝手な欲求や感情をほしいままにさせず、普遍的理性的な自己の意志をもって制御・支配して、自分の恣意に理性意志が勝つことである。
3-2-2-5.逃げたいという自然的な思い全般を意志は制御・抑止する
 つらいことがあると、その場から逃げたいという思いをもつ。暑ければ、涼しいところへ逃げたいし、暴力を振るわれそうになれば、そこから逃走したくなる。数学の難問に出会えば、その課題から逃げ出したくなる。逃げるには、自然的な衝動に任せるのが普通であろうが、それでも、理性をもったものとしては、害が少なくなるように工夫しつつ、逃げる。逆に、逃げない方がいいと理性が思えば、理性意志は、心身を総動員してでも、それら自分の逃走反応を抑止し、逃げるという自然の動き・衝動を抑止する。
3-2-2-6.意志は、日々、多くの欲求を巧みに制御している
 ひとは、様々な欲求・衝動をもって動く。ひとつの心身しか持たないから、複数の欲求を同時には満たせない場合も多く、これを抑えたり進めたりと調整する必要が常に生じる。読書中は、尿意が大きくなっても、きりのいいところまで、これを抑止して忍耐する。尿意を満たすために、テレビの視聴を一時中断することもある。同じ意志が、状況に合わせて、尿意を抑制したり、知的欲求を抑制する。その諸層の衝動・欲求への忍耐は、同じ意志のすることで、どんな種類のつらい忍耐の体験も、その後のほかの忍耐に役立つことになる。 
3-2-2-7.身体の鍛錬と頭の鍛錬は別だが、いずれも忍耐の鍛錬にはなる
 身体を鍛えるスポーツは、身体を強化するが、頭脳を鍛えることにはならないだろう(ただし、老人になると身体運動が痴呆予防の筆頭にあがる)。だが、忍耐の場合、身体と頭のいずれかひとつだけの忍耐であっても、両方のために有益なものをもたらす。身体につらい忍耐は、身体の苦痛への忍耐であるが、その苦痛から逃げないという意志の忍耐は、精神的営為での苦痛から逃げないようにする意志の忍耐と同じものである。意志の向かう対象は違うとしても、同じ意志が、苦痛を前に、これから逃げないという同じ姿勢を貫くのである。
3-2-3.反復して耐え鍛えることで心身の耐久能力が向上する 
 心身使用の反復は、そのことについて、手順が分かってきて、段取りがうまくできるようになるのみでなく、能力自体を高めることにもなる。つらい忍耐のいることを繰り返す中で、余計な苦労なくして必要なことがスムースにできるようになる。慣れてくれば、筆記とかピアノで手の動きが自由自在になるように、辛い忍耐も無意識にもできることとなる。かつ、筋肉が使うことで増強されるように、忍耐の能力自体が向上して行く。
3-2-3-1.欲求・衝動の制御は、だんだんと上手になっていく
 食欲を抑制する節制の忍耐は、日々繰り返される。過食の失敗を踏まえながら、だんだんと節制する仕方が上手になってくる。お菓子を食べすぎることが自身の節制では大きいと分かれば、それをうまく調整できるようにと試行錯誤する。袋ごと出すと全部食べてしまうので、皿に小分けしてその分をその時の限度にするといった工夫をすることができるようになる。尿意の我慢なども、骨盤底筋類を緊張させたり弛緩させる中で、経験的に、我慢持続を大きくできる各自にふさわしい方法を見つけ出して、それを反復し慣れていく。
3-2-3-2.損傷からの回復時、適応能力を高める 
 筋肉を使いすぎると痛みが出てくる。筋肉が損傷を被っているということである。その損傷部分がもとのように回復するときには、よりよく適応できるようにと、より強い状態にと回復する。筋肉が強く大きくなる。精神的にダメージを受けた場合も、同様で、これにへこたれず耐え続けえたなら、より強くなって同じような打撃には次第に平気になれる。どんな営為であっても、そのときには間に合わず失敗しても、経験をふまえて、つぎには失敗しないで済むようにと適応能力を高めていける。 
3-2-3-3.損傷・苦痛をもって抗体ができ免疫力が高まる 
 病原菌に侵されると、身体は、その菌に対抗できる抗体を作る。その抗体があれば、以後、同じ菌が入っても身体はこれに負けないようになる。社会的領域でも、一度失敗して痛い目にあうと、以後は、警戒心を高めてこれにうまく対処できるように準備でき、失敗しなくなる。もっとも、ひとの生来の性格に基づく場合は、同じ失敗を繰りかえすことも多い。それでも、経験を重ねてだんだんとは適応能力を高めていける。
3-2-3-4.動転する度合いが経験するたびに小さくなる 
忍耐の対象である苦痛は、生の危機を知らせるもので、はじめての場合は、非常時の対応をもって動転しがちとなる。過剰な反応をして、必要以上に緊張し疲労困憊も招きやすい。だが、同じことを反復するたびに、冷静になってきて、必要なところのみに力を注ぎ対応を巧みにしていくことができるようになる。一度目でも、はじめは動転して過剰反応しても、持続するなかで冷静にもどり、その最中にも、苦痛のあり方に見合った適切な対応を見つけ出せる。 
3-2-3-5.反復は、苦痛を小さくし、耐えうる限度を高くもする 
 忍耐は、苦痛を受け入れるが、その苦痛をどのように感じるかは、人ごとに、また体験を反復するごとに異なったものとなる。轟音には、最初は驚愕し耐えがたいとしても、二度目は、それを察知できれば、感度をさげて驚かないで済むようになる。経験は、さらに、耐えうる限度も高くもする。慣れない最初は、苦痛への対処方法もしっかりせず、すぐに忍耐の限度になろう。だが、反復して慣れてくれば、対応の能力を向上させ、大きな苦痛にも耐えうるようになる。その自信ができてくれば、さらに大きな苦痛にも挑戦してみようという気になれる。苦痛の限度は、主観的なものなので、その気になれば、高めることができる。
3-2-3-6.体験反復で、先が読めて、構えやすくなる 
 忍耐の最初のときは、その苦痛の現在しかなく、どうしてよいかと動転する。だが、二回目からは、過剰な反応はしなくても、経験を踏まえて冷静に対応できる。最初の経験では、ことの成り行きも不明で不安になるが、経験反復で、その展開がどうなるかが分かり、心身の準備もできて、慌てることが少なくなる。その忍耐のはじめから終わりまでを経験しているので、仮に苦痛が大きくなるのだとしても、それを踏まえて構えられ、無駄な焦燥もおさえて、冷静に対応でき、よりよく耐えることが可能となる。
3-2-3-7.反復は、必要な敏感さを失わせることもある
 味覚は、反復経験で、鈍化を招く。塩にも砂糖にも、慣れてくると鈍感になるので、同じおいしさを得るためには、より多く摂取しなくてはならなくなる。精神的な方面でも、同じものには、飽いてくる。慣れたものには、注意がおろそかになる。通勤通学路では、よほど変わったことがないと気づかずに通り過ぎる。鈍感になっては困る場合、体験する間隔をあけて感度を回復させるとか、心構えを新たにして取り組む必要が生じる。
3-2-4.忍耐を繰り返せば、その息抜きの方法にも長けてくる 
 忍耐は、苦痛甘受を持続させる。心身に苦痛・損傷をため込むことになるから、折々にその損傷からの回復のチャンスを探すことが必要になる。忍耐が断続的なら、その中断の最中に、休憩し生の損傷を治していくとか、苦痛が小さくなった折に、息抜きするような工夫が求められる。息抜き・生の回復の方法は、実際に忍耐の断続を繰り返すなかで、どこで休憩をいれたらいいかとか、どういう休憩の方法が効果的かとかを経験的につかんでいくことになる。
3-2-4-1.苦痛の軽減、息抜きの工夫 
 苦痛はできるだけ小さくして心身へのダメージを少なくしたいと生あるものは模索する。その方法は、快をもって軽減する等、どういうのがよいかは実際に経験を反復するなかでつかむことである。理性意志が忍耐中断にならないように注意して感性を抑制するが、ときには息抜きもしないと続かない。各人で苦痛の感じ方はちがうし、忍耐力も違うから、どこで息抜きをするといいのか等は、忍耐持続を反復経験するなかで、各自の見つけ出していくのが一番であろう。
3-2-4-2.忍耐反復で、その持続も、中断・休息にも慣れてくる 
 苦痛・損傷のような生への負担は、それが重なり持続していくと、限界になり、忍耐放棄となる。だが、途中で、休息をいれると、損傷からの回復が可能になる。忍耐持続のなかで、その持続、その休息の期間はどの程度がいいのか等が体験的にわかってこよう。労働は、休みなく続く場合、疲労困憊となって心身を回復不可能な状態にと破壊することであろう。だが、休息が入ることで、疲労から回復ができて、それこそ一生労働は続けうることになる。
3-2-4-3.根(こん)の詰め続けでは折れやすく、柔軟な対応がいる 
 忍耐持続は、各人によってその在り様は異なる。頑固な者は、一途に根を詰めた状態でうまくいくかも知れない。だが、多くの場合、持続性を高めるには、ほどほどの状態で柔軟に対応する方がよい。がむしゃらでは、どんどん疲労蓄積となるから、持続は短く終わる。だが、小さな忍耐放棄あたりは許容しつつ、忍耐の大局を見失わず持続させていく柔軟な態度ならば、休憩をいれダメージからの回復をはかりつつ、長期の忍耐も可能となることであろう。
3-2-4-4.忍耐は無為だから、ほかに気を回して息抜きも可能 
 苦痛には、はじめはそれが大きければ動転して過剰な反応もする。だが、経験して反復し慣れてくると、適切な対応ができるようになる。忍耐は、苦痛を受け入れるだけで何もしないのであり、無為にとどまる。慣れてくれば、なにもしないでいいのだから、ほかのことに意識をもっていき、ほかのことができるようにもなる。それはまた息抜きともなるから好都合である。忍耐は、なんといっても持続することであり、時間のたつこと、時間をかせぐことである。苦痛を気にせず無為になり、その意識をほかに向けていけるなら、知らぬ間に長く忍耐ができることになる。
3-2-4-5.持続が肝心の忍耐では、無駄をなくする必要がある
苦痛が大きければ、忍耐は、これに意識をとられ、過剰にも反応する。忍耐では持続が何より大切なことになる場合が多い。常に気を張っていたのでは、すぐに限界になってしまう。忍耐がそこに含まれるひとまとまりの営為について、省力化できるところを見つけ、休憩できるところを設けて、長続きできる方法を見つけることが重要となる。その忍耐がどの程度まで持続すればいいものかも踏まえて、無理のないような、回復をたやすく可能にするようなやり方をつかんで、緩急をまじえて対応ができることが大切になる。
3-2-4-6.慣れても、理性は常に控えていなくてはならない 
 反復経験で慣れてきてうまく忍耐が運ぶようになった時、経験に頼ってその場に生じる特殊な事態を見過ごすようなことがでてくる。忍耐反復で疲労が蓄積していて突然、大きな損傷をきたすこともある。苦痛の源の変化で未経験の深刻な事態が生じることもある。経験知だけでは、うまくいかないことになる。それにも対処できるような心構え、理性的な対応ができていなくてはならない。
3-2-4-7.苦痛・忍耐に慣れることがいいとはかぎらない
 損傷は消えているのに、あるいは、もともと損傷などないのに、苦痛だけがあるという場合がある。悲しみに耐えることは、その悲痛を一層大きくするだけの場合もある。辛さが募ってきて愛する者の後を追って自殺するといった話を聞くこともある。くよくよ悩む等のよけいな苦痛には、忍耐はほどほどに、抜本的な対策を見つけて、苦痛自体をはやく消滅させることがいる。その苦痛の忍耐に意味がないのであれば、はやく楽になり、有意義な苦難に挑戦するためにも、その苦痛解消に力を注ぐことが求められる。
3-2-5.支えるもの(快、目的、使命感など)の動員にも、反復で慣れてくる
 忍耐は、苦痛を抱く当人が自らにこの苦痛の受け入れをするものであるが、同時に周囲からそれを支えてもらえるものでもある。忍耐の反復は、この応援・支えの在り方も、これを重ねる毎により適切なものにと修正していくことになる。過度の援助とか過少の援助は、改められて、そのたびに、より手助けにふさわしいものにと、自他で工夫していく。当人自身のうちでも、忍耐することの目的をより強く抱き多くの副目的を想起したり義務感・使命感を新たにして、忍耐反復のなかで、その意欲を高めていけるようになっていく。
3-2-5-1.忍耐は、一人でするとしても、周囲の援助・支えがある  
 忍耐は、自分の苦痛を自分で制御する。自身のうちに生じる苦痛回避衝動を自らが抑止する。ひとがそれに代わることはできない。だが、その苦痛軽減とか、忍耐の意志貫徹を周囲が支えることはできる。その支え・手助けは、忍耐する者とそのときの状況で必要度が変わることだが、繰り返すことでそのやり方は上手になる。過度でも過少でもなく、ほどほどが分かってもくる。手助け・応援が負担だとしても、反復するなかでは、手を抜くことのできるところも分かって慣れてきて楽になる。
3-2-5-2.苦痛軽減への援助 
 忍耐遂行には、苦痛・損傷自体を小さくできるのが一番である。直接小さくできないときは、苦の逆の快をそこに生じさせる手もある。苦痛感情は身体を萎縮させ緊張させる。その逆が生じるなら、つまり、弛緩させ伸張させる反応となる快感情が生起できれば、苦痛は相殺される。周囲も応援をもって苦痛軽減の支えをしてくれる。あたたかいことばかけだけで、社会的存在であるひとは、これに慰撫・慰安され、挑戦へと鼓舞される。
3-2-5-3.忍耐する意志力を強化し応援してもらう
 苦痛は、損傷の場合、ほとんどは外から来るものだから、それを周囲の手助けで小さくしてもらうことが可能である。だが、忍耐する意志自体は、自らの心のうちでのことで自身で動く以外ない。それでも、精神的に応援してもらって力づけられることは大いにある。見守ってもらえているというだけで、軟弱、意志薄弱と思われてはならないと自尊心がかきたてられて、挑戦へと鼓舞される。
3-2-5-4.忍耐するときの目的は、たくさんある  
 手段としての忍耐は目的をめざす。その目的はひとつには限定されない。実在世界の手段の過程は、多様多彩な未来を含む。受験勉強は、合格を第一目的にする。が、同時にそれは、学力を高めることであり、周囲の者を喜ばせ、さらに先の職業を可能にするというような目的も描く。多くの目的は、忍耐を大きく支える。価値創造になるようなものは何もない無意味な忍耐であっても、自身の能力開発となり、忍耐力を大きくするといった目的を描くことができる。
3-2-5-5.忍耐における社会的使命・義務の自覚 
 援助や応援ではなく、周囲から強制され駆り立てられて、自身にムチを感じることもある。それが奴隷労働のような強制であるとき、その圧力が忍耐を推し進めることになるが、自身がそれを正当な強制とみなす義務ならば、一層強く忍耐へと自身を縛りつけることになる。使命感をいだく場合は、そのことを誇らしく感じて、最大限を尽くそうと自身を鼓舞し駆り立てることになろう。
3-2-5-6.使命・義務は、しばしば、反復・多用が可能 
 ひとつの忍耐に働く使命感とか義務感は、その忍耐だけに有効なのではない。男子の義務と感じるときには、そのひとつの事柄に思うだけではなく、男でないとできないようなことが生じれば、つねに男子の義務と思って歯を食いしばることになる。使命感にしても、大局的なものにおいてそれを抱けば、折々に生じる事態においてその使命感を想起し、奮起しなくてはならないと自身を鼓舞することになる。腕力が人並外れて大きいと自覚しておれば、力仕事については、何であれ率先して無理を押してでもこれへの忍耐を買って出ねばならないと張り切ることになる。
3-2-5-7.守護霊から死神まで、利用するほどに効能が大きくなる 
 周囲からの懇願なり強制は、自身を鼓舞し駆り立てる。それは、真にそういう事態が生じていることに限る必要はない。使命感など、だれも求めてはいないのに勝手に自分でそう思ってすることがある。妄想・妄念であっても、自身を鼓舞し慰安することができる。守護神とか先祖が自分に「辛かろうが、お前がやらねばならない!」と命じていると思えるなら、勇気百倍となる。死神や疫病神ですらも、敵対する者にとりついてくれれば、神風のように、味方にして自身の意欲を高め得る。
3-2-6.注意深い反復は、その方面への得手を作り上げる 
 一定のことへの注意深さをもっていると、類似の経験の反復のたびにそういう方面が詳細に展開されることになる。感謝するという姿勢を維持していると、見逃していた感謝すべきことがいくらでも目についてくる。逆に不満を繰りかえす者は、この世にいくらでも不満はあるから、不満の世界を肥大させていく。それは、忍耐でも同じであろう。忍耐を意識することで、無自覚に忍耐していたことも、反省できてくるだろうし、ひとの忍耐していることにも気が付いてくる。反復は、その方面での注意を高め、同じ忍耐の経験でも、はじめは気づかなかったことにも気が付き、工夫もできていく。
3-2-6-1.経験反復で、そのことへの深慮と巧みさを得る   
何についてもその方面のプロがいる。それが好きでそのことに関心を集中させることになり、それに関する特殊な経験も反復すれば、対応への巧みさが磨かれ、それへの深慮もできるようになっていく。隣人愛への思いを大切にするひとは、その心がけを日々もつから、ひとの困っていることに注意が向き、そういう方面への深慮ができてくる。その手助けも過不足ないようにもできてくる。 
3-2-6-2.自分の内的制御も、自覚的な反復で能力を高めていく 
客商売で、怒りをうちに抑えて忍耐する必要があれば、おそらく、その怒りの在り様をよくわきまえてきて、その抑制の方法に精通してくる。同じ経験をしていても、そのことに意識を集中しているひとと、無自覚に過ぎるひとでは、まるで異なった経験をしているのである。その経験に際して、注意を怠らないようにすれば、種々のことが分かってくるし、対応の仕方に工夫の余地のあることも見えてくる。
3-2-6-3.忍耐は、反復のたびにその方面の神経を逞しくする  
 忍耐は、苦痛から逃げようとする自身の衝動を抑止する内的体験である。これの反復は、その抑止の意志の命令が心身によりよく通るようにしていく。抑制意志の反復のたびにその神経伝達の回路はしっかりしてきて、神経は太くたくましくなっていくことであろう。苦痛感情自体も、過剰な反応は抑止して感度を下げてもいく。よりよく忍耐できるようにと反復経験は、心身を適応させていく。
3-2-6-4.自制心も、制御を繰り返すたびに、大きくなっていく 
 ひとは、その欲求・衝動を自身で制御する。はじめは思うようにならないことでも、反復するなかで、その制御の方法を次第に巧みにしていく。欲求を抑止しなくてはならない場合、その欲求の生起をもたらす環境を作らないとか、意識を別の方に向けるなど、抑止方法を自身で反復するなかで見つけ実行していく。衝動も、不随意ではないから、その随意の動きの特徴をつかんで、だんだん適宜にこれを制御できるようになっていく。
3-2-6-5.能力は、使用で強化され、不使用で劣化する  
 ひとの能力は、これを使用することで強化されてくる。筋肉は使えば大きく強くなる。逆に使用しないなら、筋力は低下する。本来もっている忍耐する力、自制心も、放置したままでは、退化し劣化する。我儘なままに育ったものは、自制の機会が少なく自制心の低いエゴイストになる。逆に、エゴの抑制経験が多ければ、自身を制御・抑止する能力は、鍛えられ、頼もしい人格の形成にもなっていく。
3-2-6-6.モットーを掲げれば、その方面を伸ばす  
 「誠実」「感謝」などの標語を額にして掲げるひとがいる。なにかある度にそれを見れば、その意識は、感謝とか誠実の方に向けられる。感謝すべきことは、どんなところにでもあるから、しばしば感謝の心が動き、その心構えが成長する。敵対しているところでも、感謝の言葉が意識されれば、それを探して、敵対できる自分の健康に感謝したり、敵自体にすら、自分の弱点を厳しく指摘してくれていると感謝するかも知れない。
3-3.個我における克己の積み重ね
 頭で、我意・我欲を抑制しなくてはと思っても、それを実際に実現することは、容易ではない。個我の感性は、その自然的な個体としての生の維持には不可欠で、強い貫徹力をもっている。それに逆らって理性意志が動く場合、大きな抵抗を受けることとなる。「分かっちゃいるけど、やめられない」という状態になりがちである。エゴの衝動・欲求を抑止する意志は、苦闘を余儀なくされる。何回それを繰り返しても、自然的生の根本的な欲求は絶えることなく反復生起してくるから、意志は、それへの克己の営為をしつこく反復していかねばならない。
3-3-1.忍耐反復は克己の意志を強化する  
 忍耐は、各個我に生じる苦痛感情を対象にして、その意志が、この感情のもとにまで降り来たって制御するものである。逃げたいという苦痛への自然的な反応・衝動があり続けるのを、意志は、より大きな価値獲得をかなたに描いて、忍耐する方がよいとの判断のもとに、これを抑止し続け、自己犠牲の苦痛甘受を選択し、これを推進していく。己の感性に己の意志が克つという克己である。諸層の苦痛感情を克服して意志を通す克己を反復して、これに慣れ、より困難な克己を実現可能にしていく。
3-3-1-1.忍耐の反復で、これに慣れて、その知と行を豊かにする
 苦痛も忍耐も概念的に知ることと、実際を自身で体験して知ることとは、まるでちがう。忍耐では、自身の苦痛を体験して知って、そこで可能な自分なりの対応を進めることになる。激痛には強く耐える意志を持続させるといいと分かっても、実際には、身体が激痛を拒否し、意志も、死ぬかもと思えばたじろぐ。そういう個我の生への苦痛と忍耐を自覚することが、忍耐の反復で深まっていく。かつ、反復することで、これらに慣れてきてうまく振舞えるようになっていく。
3-3-1-2.忍耐の引き受けには、犠牲への自発的な覚悟がある  
 忍耐にと踏み出すのは、理性意志である。自然的な苦痛回避衝動を抑止して、反自然的に苦痛を甘受する。意志は、自身の個我にとり損傷で苦痛であることを覚悟して忍耐することへと踏み切る。意志が働かない状態ならば、自然に従い、苦痛から逃げたり、これに抵抗する。忍耐するたびに、個我の意志が発動して、この苦痛からは逃げないという覚悟を決め、自身を犠牲にすることへと自発的に踏み出す。その反復は、この自然超越の意志の能力を高めていく。
3-3-1-3.強制される忍耐にも反復で慣れてくる 
 忍耐はしたいものではないから、しばしばそとから強制される。自らにはじめる忍耐でも、自身の感性(苦痛回避衝動)を自身の意志が無理やり強制して抑止する。強制される忍耐の場合は、さらに、そとから個我の自由意志を踏みにじって嫌なことが強いられる。自身の感性のみか理性意志も強制されて苦痛甘受へと強いられる。その忍耐反復で、自己内の感性の強制に慣れるように、自己外からの強制にも慣れてくる。強制が妥当なものと納得できてくれば、自身の理性意志は、外的強制を強制とみなすことをやめ率先してこれに取り組むであろうし、不当と思えば、適当にあしらう方法を見つけ出してもいく。
3-3-1-4.忍耐の意志が弱ければ、苦痛に敗ける  
 理性意志がいくら苦痛甘受しよう、忍耐しようと動いたとしても、苦痛回避衝動が強くて、意志の働きを凌駕している場合、忍耐は不成功に終わる。自分の意志が弱いのか、苦痛感情、その回避衝動が強すぎるのかである。苦痛が大きすぎるのなら、ダメージが大きくなる前に潔く撤退するか、苦痛を小さくできるようにすることである。忍耐する意志が弱いのなら、強くなるように、忍耐可能な苦痛を受け入れる体験を重ねていくとか、意志を支える気力とか目的の価値を高めるとか工夫を重ねることが求められよう。
3-3-1-5.克己は、意志による個我の自己制御で、反復で強化される 
理性意志は、快を求め不快・苦痛を回避しようという自然的な生保存の強い働きを、より高い人間的目的のためにと抑制し自制する。克己である。自己の苦痛回避衝動を抑止する忍耐は、克己の代表となりうる営為になる。しかも、日々忍耐の出番はあることで、忍耐反復で、ひとは、自然を超越する克己の営為を経験しつづけて、超自然的存在として尊厳をもった人間にと成長していく。
3-3-1-6.克己は、普遍・合理の理性の勝利
自身の属する国家が、合理的普遍的な立場からいうと、非合理で正義に悖るものであっても、個我としては、まずは自国に与する。民族主義・国家主義となる。だが、ひとの理性は、本来、普遍性・合理性・真実をもって動き、克己は、そういう場合、一面的な狭量な立場を抑止して、真実の立場へと自己を高めて、自国の非合理・反正義と戦っていくことになる。克己は、理性の貫徹であり、合理・普遍・客観に立っての、とらわれのない真実に生きようという姿勢になる。
3-3-1-7.負けるが勝ちということもある
 忍耐の意志は強くないといけないが、単に苦痛に勝てばよいというものでもない。苦痛は損傷を知らせるのだから、理性は、個体としての生保護を考えて、苦痛に耐えることをほどほどにすべきことにも配慮しておかねばならない。拷問に耐えることが個体の生命よりも高い価値があるというような場合は、意志は、腕がおられても激痛に打ち勝つべきで、骨を折る価値がある。だが、どうでもよい格闘技で、骨を折るまで我慢するのは、愚の骨頂である。
3-3-2.克己は、自省で強くなる  
 苦痛は、これへと注意を向けさせ意識を覚醒させる。だが、その注意・注目は、かならずしも、その苦痛の冷静な洞察にはならない。この苦痛甘受のためには、その苦痛回避衝動の自己内での在り方をよく把握して、これを的確に抑止する自身での工夫が必要である。禁煙の辛さは、屁理屈を捏造して、苦痛回避の喫煙へと自らを誘導しようとする。禁煙の意志は、その狡猾な理屈での攻撃に対処できなくてはならない。尿意の痛みは、これに単に耐えるだけでは能がない。膀胱を弛緩させるとか、骨盤底筋類を緊張させるとか、意志を効果的に働かしうる方法を自身において見つけることが必要である。
3-3-2-1.克己の主客は、自己内にあるが、熟知されているわけでなない  
 克己は、自分の感性、自分の意志のことだから、自分でよく分かっていると思い勝ちだが、それは、単に直接的に感知しえているというだけで、その本質的なところから熟知できているわけではない。むやみに力むだけでは、うまくいかない。自身の欲求・衝動の性向をつかみ、これに見合う対処をするのでないと、長続きはしない。苦痛に対決する自分の意志とその手足となるであろうものの特性もわきまえておかないと、無謀なことをしてすぐに限界となってしまう。 
3-3-2-2.自分の実行力への自覚もいる 
 決断力の大きいひとと優柔不断な人では、忍耐の苦痛甘受でも、異なった対応をとるであろう。自分が優柔不断なのであれば、まずは、「隗より始めよ」ととにかくはじめてみることであろうか。根気がなく持続性に弱いということなら、それに見合うように、展開のプロセスを小さく分けて、途中の小目的(一段落の終了)をたくさん置くといった工夫をするなど、自分にふさわしい方法をとることが必要となろう。自身のくせ・弱み・強さなどを自覚しておくことは、克己でも求められる。
3-3-2-3.反復は、不得意を直すチャンス  
 自分が優柔不断だとか根気がないということを自覚しておれば、これに注意するから、しだいにその性分も、好ましい方向へと変えて行けることであろう。忍耐では、苦痛に飛び込むから、決断がいる。忍耐するには、自分のためらいに見切りをつけ断行する意志の発動が必須ということであれば、これを反復意識して、だんだんと優柔不断も修正されてくるのではないか。とくに根気・持続性は、忍耐では不可避で、忍耐する意志は、その持続性に留意しておれば、おのずと根気を養うことになっていく。
3-3-2-4.個我の癖・性向への自省の反復  
 苦痛について、各人で感じ方は異なろうし、身体的苦痛には強いが精神的苦痛には弱いといった違いが各個我にあろう。あるいは、欲求を制御する際には、その個我にとって御しやすい欲求・衝動と、制御に苦労する欲求もあることで、そのことを自覚していることは、克己に際して、克服すべきものの強さや特徴が分かって対処がより容易になる。大食を抑えるのがおおごとなのだという自覚があれば、これに留意して、自分の皿に小分けしてみるとか、よく噛んで食べることに注意するなど種々工夫することに向かうであろう。
3-3-2-5.苦痛も忍耐も自分の内にあり、自分がつかむ以外ない 
 克己は、自己内ですべてが展開される。否定され克服される対象は、自己自身、個我の衝動や欲求であり、忍耐でなら、自分の苦痛回避衝動である。これを抑止したり制御して、己に克つのである。その克つ主体としての理性意志も当然自己内にあるもので、その意志の在り方、強さも癖も自身がうちに知ることで、そとからは直接捉えることはできない。隠そうと思えば、すべてうちにとどめて出さないで隠すことができる。克己は、自身がこれを把握しこれを実行することで、すべては自分次第である。
3-3-2-6.忍耐は、見えにくいから、監督者はよくよく確かめる必要がある  
 克己のような内的なものは、隠さないとしても直接は見ることができないから、教育する者は、克己の当人によく確かめることが必要である。その克己の仕方がまずければ、それなりに指導・教育しなくてはならないが、その大前提となる克己の事実を明確にしてでないと、誤った見当違いの指導をしてしまう可能性が生じる。当人は、懸命に努力しているのに、怠けているように見えることもある。
3-3-2-7.そとからの指摘で、自身の真実を客観視できることもある  
 克己は、自己内の事柄だが、意外に自身には見えていない。自分の顔は、自分に一番近いものだが、直接には見ることができない。見えないから、鏡でも見ない限り、他者の顔は分かっても、自分の顔は、まるで分らない。内的な克己も、意識しているといっても、客観的には把握できてないことが多いのではないか。根気のないこととか優柔不断は、ほかの人との比較でわかることである。ひとを通しひとから指摘されて分かることが多い。そとからの指導・指摘を尊重すべき場合が、克己でもある。
3-3-3.理性意志は、体験反復で心身制御を巧みにしていく
 手足は、意志の思いのままに動かせる。だが、これも、より巧みに動かすには、繰り返しの訓練がいる。事故で動きにくくなった手や足は、困難なリハビリでだんだんと動かせるようになっていく。忍耐は、自然的には衝動が動いて苦痛を回避しようとするのを、意志をもって抑制する。逃げようと動く身体に、その逆の命令を出して動かないようにするのであり、強く衝動に働きかける必要がある。忍耐するなかで、工夫をし、繰り返しをもって、だんだんと意志をしっかりと通せるようにしていく。
3-3-3-1.意志は、個我の衝動抑止に個別的に働く  
 知的能力としての理性は、実在世界に働きかけるとき、実在的な自身の身体を手段として使用する。ふつうには身体が率先してこれを受け入れて、文字通り手足となって理性の思いを実現していく。忍耐では、だが、その身体自然が抵抗する。自分の支配下にある手足が苦痛を拒み逃げようとするのを、理性意志は、抑止の命令を出して、動かないようにする。自然衝動の動こうとする度合いに合わせて、逆方向に動く命令を出して自身の身体を無為にとどめる。個としての自分の心身に、意志は、個別的に働く。
3-3-3-2.忍耐で可能になる多くの目的・価値を見つけだす    
 理性意志のみで苦痛に対決していたのでは、大きな苦痛には間に合わなくなる。意志の求める方向に助けとなるようなものを理性は探し出さねばならない。忍耐によってのみ可能となる目的・価値を強調し、その目的にともなう副目的をあげたり、忍耐することがもたらす利益・快をあげ、これらへの欲求をかきたてて、忍耐に与するものを多くするのも、理性のなすべきこととなろう。
3-3-3-3.感性の強引な抑止より、理にあった楽な制御法を   
 理性意志が苦痛回避衝動をがむしゃらに抑止することもある。だが、理性は深慮遠謀の利く狡知をもった知的能力である。苦痛の具体を冷静に分析し、どこを抑えれば逃走衝動をよりよく抑止できるかをわきまえて、少ないエネルギーで的確に抑止を実現したいものである。尿意の我慢なら、その苦痛とがむしゃらに対決するより、膀胱の弛緩、骨盤底筋類の緊張について、一般情報をふまえつつ、自分の場合、どこをどう動かすとうまくいくかを、忍耐反復のたびに試行錯誤し探し出していかねばならない。
3-3-3-4.普遍・合理であれば、周囲の賛同も得ることができる  
 意志が苦痛甘受の犠牲をはらうのは、個我自体のためでなく、周囲とか社会全体のためであることも多い。そういう忍耐は、周囲の利益のためなら周囲から、さらに、理にあいひととして卓越したものであれば、社会一般から、応援を期待でき、賛同を得ることができる。苦痛甘受の反自然にひとり対決するよりは、周囲の理解や支えを得られる方が、社会的動物である人間は、よりよく忍耐して行ける。
3-3-3-5.理性は、個我自然の合理・非合理を弁別して制御する 
 食欲は、栄養摂取にとって優れた合理的な自然機能である。だが、自然の食欲のままでは、おいしいものを前にすると、生を損なう過食となる。自然だけでは間に合わなくなり、理にあわない食欲となるから、理性が登場して、適宜に制御していかねばならなくなる。性欲も、これがあるから人類は維持できているのだが、他方では、その自然を放置したままでは性犯罪となり、類維持の根本をになう家族は崩壊しかねない。理性は強力に性欲を抑制する必要が生じる。
3-3-3-6.はるか先まで見通す理性は、貫徹力が大きい 
 感性自然とちがって、理性は、深慮遠謀をもって、さきを見渡し、はるかな目的までを描いていく。遠大なものを描いてそのための諸手段を定め、その営為を貫徹していく。その第一歩が現在の苦痛の甘受、忍耐になるという位置づけであれば、その未来に多様に魅されることをもって、忍耐のし甲斐は大きくなる。普遍的な不変の概念をもって進めていくので、現実の感性的多様、変容に惑わされず、理性意志は、自己をその不変のものをもって貫徹していくことができる。
3-3-3-7.慣れれば、苦痛にも余裕をもって当たれる  
 忍耐は、はじめは、意識を集中して行う。だが、慣れてくると、いつまでも感じさせる苦痛であっても、その甘受は、苦痛が激しくなるのでなければ、あまり意識しなくても持続できるようになる。余裕をもった対処ができてくる。その肝心の苦痛や損傷について、より広い視点から眺めることもでき、一層、苦痛は気にならなくなり、意識をほかの方に回せることになる。それが平時の些事となれば、その上に別の営為に集中して取り組むことが可能ともなる。
3-3-4.理性意志は、感性抑止に、感性的な対抗力を利用する  
 理性意志は、欲求や衝動に、同じレベルの逆方向の力を動員して、これを制御する。尿意を我慢する場合、尿道括約筋の弛緩に対して、これを阻止する緊張・萎縮の働きをもって対処する。意志はそこの緩もうとする筋肉を逆方向に力ませる。膀胱は弛緩させる必要があるが、膀胱筋は、意志の命令はきかない。それでも理性は、収縮をゆるめリラックスした状態に、腹筋を動かすなどしてもっていくことはできる。
3-3-4-1.忍耐の意志は、苦痛回避衝動に対抗できる知情意を動員する  
 注射が嫌いなひとは、それを受け入れるとき、忍耐を要する。まず、知性が注射の必要性を十分に認識し、意志は、苦痛甘受を決意しそれへと自身を方向づける。注射器をみてたじろぐが、意志は、手を引っ込めようとする自分の苦痛回避の衝動の動きを踏まえ、これに対抗的に手を前にと出す。逃げようとする衝動と反対の動きをして、これを抑止し制御する。その意志の忍耐の働きを、自身のうちの羞恥心や名誉欲が支える。大の男が注射を怖がっていたのでは、情けないと叱咤する。
3-3-4-2.我慢できなければ、できる程度にして我慢を続ける 
 理性意志は、抑制対象をストレートに抑止するだけでなく、耐えがたければ、苦痛度を小さくして耐え続けうるように工夫もする。あるいは、快享受の抑止が困難なら、その快についての害を小さくできるようにもする。我慢できず投げ遣りになって元も子もなくしてしまうような愚は避け、最善が無理なら次善の方法を持って、我慢できるほどほどの代替策をさがす。若干の敗北をもって全面降伏するような短気・短絡的な無策は、理性の持ち腐れである。
3-3-4-3.抑制したい欲求に、反対の欲求を対置して相殺する  
 恋焦がれるひとへの思いを断つため、その人の大便を入れた「清筥(しのはこ)」を盗み出して嗅いだり、ひとの死体に蛆のわくのを見て、嫌悪の感情を生起させようとする話がある。美に対立する醜をもってきて欲求を萎えさせようとしたのである。抑えがたい衝動・欲求にその反対の反欲求・嫌悪をもって、これを小さくする方法である。意志は、自身のでなく、他の力をもってこれを抑止するという理性の狡知を働かすことができる。
3-3-4-4.無為の忍耐は、衝動などの動きを無にとどめて、なる  
 苦痛甘受の忍耐は、苦痛回避の衝動を抑止できればなる。その動きを無にする。無為にと自己をとどめ続ける。怒りの衝動など一分も続かない。その間、動かなければ、無為になれば、衝動は鎮火してくれ、忍耐は、成就する。忍耐は、むずかしいことをするのではない。なにもしない。苦痛について、回避せず、攻撃もせず、何もしない状態を続ける。無為にとどまるだけのことである。難解なことに取り組めというのではない。単純に、なにもしないことに徹すれば、無に留まれば済む。
3-3-4-5.個我の衝動に理性は、種々の狡知をもって当たる  
 衝動は、無思慮で短絡的である。理性意志は、知恵をもった媒介的な、狡知ともいえる手段をもって、その単細胞的な衝動を操り、目的とするものを貫徹していく。車に乗りたいという老人の欲求は、免許を返上して警察から運転禁止を命令してもらえば、簡単におさまる。苦痛の回避衝動の抑止も、苦痛によって種々であり、怒りならこれを表出しないように時間を稼ぐ自己流の方法を見つけるなど、それに応じた、ときに狡知をもっての制御を理性意志は行い、忍耐を実現する。衝動が小さくなる方法を反復経験のなかで発見もして、理性意志は、苦痛から逃げずこれを甘受して忍耐を実行していく。
3-3-4-6.信念・信条は、味方にできれば、強力な助っ人になる  
 理性のもとには、理知を超えて意志を支える実践的な機能が備わっている。信念とか信条は、知の営為ではあるが、知では捉えきれないものについて、信をもって飛躍する。懐疑という知の根本を括弧にいれて決断を下し、実践に踏み切る。疑いを捨象しているので、迷いがない。懐疑、躊躇を無化して貫徹力が大きい。それらを忍耐の意志のささえとできるなら、大きな力となる。したがって、また、過った信念をもったときには、被害は甚大となる。
3-3-5.苦痛体験の反復で、徐々に適切な対応も可能になる 
 忍耐では、なんといっても苦痛が問題で、自然に抗してこれを受け入れる。そのためには、苦痛の在り様をしっかりと把握して、その在り方に応じた適切な対応の仕方をしていく必要がある。苦痛甘受の忍耐経験を反復するなかで、そのやり方を試行錯誤しつつ、適正化していくことになる。苦痛は、実際に自身が体験してみないと、それへの自分の回避衝動の実際も分からないし、したがって、その衝動抑止の忍耐の方法も定めがたい。反復経験がそれを明確にしてくれる。
3-3-5-1.苦痛とその回避衝動は区別でき、後者の抑止が忍耐では肝心 
 忍耐は、ほんのかすかな痛みでもこれから逃げるなら、できてないのである。苦痛の感覚(感情)とそれへの反応である苦痛回避の衝動は区別できる。忍耐で肝要なことは、苦痛回避衝動を抑止して苦痛から逃げないことである。逃げ出せないように自身を縛ることができれば、忍耐は持続する。注射嫌いなひとが忍耐するには、痛みに我慢するというよりは、とにかく、腕を引っ込めず差し出して、苦痛回避衝動の抑止に意識を集中することであろう。
3-3-5-2.苦痛は表現しても、逃走衝動だけは動かしてはならない 
 忍耐の肝要は、苦痛の甘受、苦痛から逃げないことである。苦痛の回避衝動を動かないように抑止することである。したがって、苦痛にわめき散らしていても、苦痛から逃げないという点を守っておれば、忍耐しているのである。騒ぎたてることが、逃げていることとひとつの場合は、さわぐことも抑止しなくてはならない。だが、そうでなければ、一応は、わめき散らしていても、逃げさえしなければ、みっともないけれども、忍耐できているのである。
3-3-5-3.理性は、機に応じて、巧みに制御・支配する方法をもつ  
 忍耐は、したいことではないから、できれば、回避したいと思う。それを回避させないようにするには、逃げ道をふさいでおくのが一番であろう。逃げられないとなれば、あきらめる以外ない。「背水の陣」を敷けば、まよわず最大の力を注ぐことになろう。逆に、逃げることができるのなら、「三十六計逃げるに如かず」で、苦痛を避け、無用な忍耐は、やめるとよい。「臨機応変」は、理性の得意とするところである。
3-3-5-4.理性の狡知は、苦痛には別の苦痛や快をあてがう   
 酒を造る者は、自分で穀類を酒に醸すのではない。酒造りに勤しむのは麹菌である。杜氏たちは、麹菌が働くのに適した環境を作ってやるだけである。苦痛の忍耐でも、できるだけ狡知を働かさねばならない。苦痛が耐えがたければ、苦痛を小さくして耐えられるように工夫すればよい。反苦痛の快は、苦痛を和らげるから、忍耐のために快を適宜利用する手もある。眠気とか笑いを我慢できないと思えば、自分の手足に激痛を加えることもある。
3-3-5-5.常時力んでいる必要はない    
 苦痛には、波のあるのが普通であろう。苦痛が大きいときは、しっかりと意志を働かせて苦痛から逃げないように力むことがいるだろうが、苦痛の和らいだ時には、忍耐する意志も休めば良い。苦痛の軽減は、工夫することで可能になることもある。意識を別のことに向けたり、快をもたらす工夫をすれば、苦痛は軽くなろう。忍耐は持続してこそのものであり、必要なところまで持続を可能にするには、苦痛とうまく付き合えるようにする必要がある。
3-3-5-6.ときには感性に勝ちを譲り、「死して、成れ」もある  
 堅い木は、折れるが、大きく曲がる竹は、折れない。忍耐は、竹でなくてはならない。途中で苦痛に負けるようなことがあっても、究極の目的の実現は、あきらめてはならない。いったんは、敗北して、やり直せるようにと態勢を整えなおすことができれば、捲土重来が可能なら、大局的には、なお忍耐は、やり直して持続できる。負けても、あきらめなければ、再度、挑戦して、経験を生かし、やり直せることは多い。忍耐はしばしば長期に渡る。はるかな先を見通しつつ、「負けるが勝ち」と譲れるところもある。
3-3-6.欲求・衝動の亢進は、短時間の意志の抑止でおさまる 
衝動は、長くは続かない。喫煙衝動は20分も耐えれば消える。怒りの発作は、ものの2分もうちに抑えておれば、おさまる。その間、忍耐する意志が全力を注ぐことでなる。その後は休憩できる。休めるときには、しっかりと休むことが忍耐の英気もやしなう。欲求・衝動の自身における在り様をよく確かめて、その不快・苦痛に耐える的確な作戦をとることが忍耐を放棄しないですむために必要であろう。緩急をもってすることが、不快・苦痛を相手にする場合、大切になろう。
3-3-6-1.衝動を直接抑止する我慢とともに、長期の辛抱がいる
 禁煙をはじめた当座は、ときどき、無性に吸いたくなるときがある。それを抑えていると、ものの2,30分もすると喫煙への衝動は、おさまってくる。我慢は、その衝動が亢進したときのみすればよい。それが激しくなるのは、わずかな時間であり、その間、踏ん張ることができれば、うちに炎上した衝動の鎮火はなり、あとは、楽に構えておける。楽とはいっても、喫煙の欲求は反復生起するし、巧妙に理性を誘惑してくるから、たばこをそばに置かない等の注意を怠らず、迷わない理性の辛抱が続けられねばならない。
3-3-6-2.欲求を高ぶらせる刺激はなるべくなくすること  
忍耐は、欲求や苦痛回避衝動の自然を抑止する。だが、自然の力は強く、意志は忍耐持続に困難を感じる事態ともなる。より強い意志力が求められるが、苦痛や欲求を小さくすることも忍耐持続では大切になる。欲求は、そのきっかけをつくったり、高める刺激をなくすれば、沈静化するものも多い。性的刺激のない刑務所などでは、性欲は消失するという。大きな気がかりが生じると、小さな怪我(痛み)には気が付かない。
3-3-6-3.ほどほどに欲求をおさめる工夫  
 性欲は、消滅しても個体としての生にはなんら支障はないが、食欲は、そうはいかない。消滅は死に直結する。だが、食欲が過剰では、おいしいものにあふれた現代では、過食し肥満して生維持にマイナスとなる。節制が必要となる。節制の辛さを受け止めて、ほどほどの中庸の欲求にと辛抱できる工夫が必要となる。食べる回数・順序を変え、よく噛んで満腹中枢を早めに作動させる等の努力をすることになる。
3-3-6-4.基本欲求と贅沢欲求は、扱いを別にする必要がある   
 現代社会は、一般的には恵まれすぎていて、挑発的なコマーシャルによって欲望は肥大化している。走ればよいだけの車であろうに、新車購入へとかきたてられ、贅沢というか、せっかくの人生を車会社への奉仕でつぶしている者もいる(最近の若者は賢明になっていて、その宣伝・挑発にのるものは少なくなっているとか)。資源の浪費は、地球環境に深刻な事態をもたらしているという。現代社会に当然の欲求と区別して、贅沢な欲求・欲望は、しっかりと抑制し忍耐することが必要な時代となっている。
3-3-6-5.自然な欲求の磨かれるべきこともある  
 原始以来、衝動・欲求は、反価値を避け、価値あるものをわが物にしたいと働きつづけ、高度化してきた。食欲という根源的な欲求も、人間的に高まり、加工食品に適応してきた。美味にあふれた現代社会では、肥満を防いだり栄養の偏りを防ぐために、単に味覚を楽しませるだけではなく、心身を養うような食欲へと節制をもって高めていくことが必要である。粗野な欲求・衝動を、甘さも鹹さも味覚からして人間らしいものにと洗練していくことがあれば、忍耐も出てくる場面は少なくて済み、無理なく忍耐もできることになろう。
3-3-6-6.衝動抑圧の仕方は、繰り返しで身についてくる  
 喫煙とか怒りの発作などの抑止は、はじめはつらいが、我慢していると、だんだんと慣れてくる。発作が生じたときの対処方法も身についてくる。禁煙は、何回も失敗するが、そのたびに、失敗の原因を振り返り、自分にあった我慢の仕方を身に着けて、失敗を繰り返した後、真の永続的な成功へと向かうことである。怒りなど発作的になるのは、ほんの1,2分なので、その間、意識をほかに向ける工夫をして、かずを数えるとか、その間の自分の心身の変化を観察してみるとか、自分に見合った忍耐の方法を探し出せば、何とかなっていく。
3-4.忍耐のやり方は、合理的でなくてはならない
 忍耐は、目的のための苦痛の手段であり、目的がならないとか、苦痛・損傷が過度になることに注意がいる。手段が快の場合なら、目的が実現できなくても、快価値を手段において得るのだから、まるまる損ということはない。だが、忍耐では、目的が達成できないとすると、残るのは苦痛・損害のみである。そうならないように、目的に必ず至るという筋道を合理的に把握し、ことの成り行きを確認しつつ慎重に、かつ犠牲をいとわず大胆に進めていくことがなくてはならない。
3-4-1.がむしゃらではなく、合理的な対応が求められる 
 忍耐は、つらい。だが、つらいことをしておれば、いいわけではない。成果に結びつかない徒労もある。無駄な忍耐にならないようにするには、目的を見定めてそのために必須の苦痛・犠牲のみを引き受けることがいる。めくらめっぽうに、苦難にもがくのみでは、能がない。忍耐は、自虐の苦痛受け入れではない。破壊ではなく、それを手段とした創造である。しっかりと目的への筋道をたてて、自己保存の生の根本をふまえつつ、必要最小限の苦痛甘受・犠牲にとどめるべきものである。
3-4-1-1.忍耐は、反自然だが、無謀ではない 
 忍耐は、苦痛から逃げず反自然のふるまいをする。だが、無謀ということではない。やぶれかぶれの無謀は、そこに生じる苦痛・損傷を意に介さないが、その犠牲でなる目的への筋道を立てる等の狡知・謀のない無策に留まる。忍耐は、確実に苦痛を受け入れる反自然の営為で、無謀以上に、損傷・犠牲を必至としたものである。が、その手段をもって、合理的に展開して間違いなく目的を達成できるという遠謀を、深慮を根本にもっての忍耐であり、無思慮の無謀とはちがう。

3-4-1-2.肉を切らせて骨を切る合理的な筋道を立てる   
 忍耐は、苦痛を受け入れ、肉を切らせるのが、それだけでは損傷のみで終わる。忍耐は、身を犠牲にすることを手段として、これを受け入れて、大きな価値あるもの、骨を切ることを実現しようとする。かりに肉を切られたが、骨を切ることはできないかも知れないというのなら、忍耐は引き受けないであろう。骨を切るという目的が間違いなく実現できるという筋道、合理的な計算がなりたって、肉を犠牲にするのが忍耐である。
3-4-1-3.忍耐の結果は、未来のことになるから、合理的な信がいる   
ひとは、現在を犠牲・土台にして未来の目的のために生きる。だが、未来は、なお存在していないから、確実なことは知りえない。理性的に計画し深慮遠謀をもってするとしても、最後のところは未知・未定である。知りえないものは、信じる以外にない。自発的な忍耐は、合理性のある筋道のたったものを受け入れているから、未来のその目的は確信してよいものである。かつ、その未来を確かなものにしようとの実践と計画修正等の努力がある。確信を持った忍耐の一歩一歩が未来の夢へと自身を近づけていく。
3-4-1-4.忍耐の損益計算は、損(マイナス)の受け入れからはじまる  
 忍耐する場合、現在あるのは、確実なものは、犠牲・苦痛である。その上に成り立つ目的は未来のことで不確定にとどまる。未来に価値獲得がなると想定しているが、獲得できない結果に終わるかも知れない。忍耐での苦痛と快(反価値と価値)の功利計算は、現在受けている犠牲・反価値と未来に希望する価値の計算である。そういうことをふまえて冷静に合理的に計算しないと、希望の未来を大きく描いて現在の辛苦に耐えている場合、「とらぬ狸の皮算用」となりかねない。
3-4-1-5.理不尽なことへの我慢にも理性的対応を   
 外的強制によって、理不尽と思いつつ、やむなく忍耐させられることがある。相手が無茶をするのだから、こちらも無謀になったり自棄になって対応したくもなるが、それでは、益々苦痛・損傷を増やすことになりかねない。冷静に深慮遠謀をもって対応しなくてはならない。理性は、狡知を働かせて、その理不尽な強制を無効になるように仕組んだり、被害が最小限になるように、その忍耐のなかで企むべきであろう。
3-4-1-6.忍耐は、妄想・非合理の世界に向かうこともある  
 苦痛回避の自然的生からひとの忍耐は自由になっている。自然を超越する理性の自由は、自己の自然を犠牲にして、合理的に筋道を立てて目的を達成するために忍耐をする。だが、犠牲の手段から目的への道は合理的になっているのに、その目的自体は非合理なもの、妄想・虚妄の世界になっていることがある。宗教も、理性的に手段を展開して目的実現を企てる。だが、その目的自体は、神のためにあるから、非合理で非人間的なものになることが多い。
3-4-2.苦痛の忍耐には、アメもムチも使われる   
 苦痛・損傷を受け入れることは、できれば、したくないのが生あるものの自然である。それを忍耐は、あえて受け入れる。その苦痛を凌駕する価値あるものが得られるからである。苦役は、価値を生むが、その果実は支配者のもとに入るのみであれば、苦役の労働者は、苦労のみで得るものがない。そこでは、通常、別のアメになるものが、賃金などが与えられる。他方では、その苦役を受け入れさせるために、脅迫しムチ打ってすることもある。ムチによる激痛とか死よりは、苦役の方がましと思い我慢をする。
3-4-2-1.意志を駆り立てるには、強い欲求・反欲求があるといい  
 何かをするとしても、そうすべきだと理性意志が思うだけでは中々ことは進んでいかない。やろうとする意欲にまで意志を拡大・具体化していくことが必要である。意志する内容がその人の欲求そのものになれば、個我は、率先してそれを進めていこうとする。それを行えば、別のアメ(褒美)をもらえるとなれば、さらに好都合である。逆に、それを行わないと嫌なものが招来されるとなれば、それは、ムチ(罰)、反欲求として回避したいものとなり、これを回避したいがために、そのことを率先して行うことになる。
3-4-2-2.忍耐自体がムチで、その目的はアメでもある  
 忍耐は、快ではなく、苦痛・ムチである。しかし、その苦痛・ムチ自体はひとを忍耐に駆り立てるどころか、それの回避・逃走へと誘う。その忍耐を駆り立てる苦痛は、忍耐外の別のムチ、他者からの脅迫などである。忍耐の目的の方は、その忍耐にとっても、多くはアメ・価値あるものとなる。ただし、ひとのための苦役のような場合、その忍耐自体の目的からは疎外されているから、アメにはならない。そこでのアメは、別の賞金などをもってする。
3-4-2-3.よいアメ、悪いアメ  
賞罰は、適正なものでないと、あとが続かない。小さな忍耐に、過度のアメを与えられると、そのあとは、それ以上のものでないと、アメにならなくなる。適正なアメは、これを与える方の負担が小さく、忍耐する方が意欲を駆り立てられ、以後もそれらの持続可能なアメということになろうか。アメの中身にも良し悪しがある。忍耐するものを駆り立てるだけでなく、健康的で社会規範にかなったものがよいアメになろう。怠惰・堕落を誘うようなアメには注意がいる。
3-4-2-4.無暗なムチは、損傷を大きくし、反発も大きくする  
 ムチうって忍耐を強制できる。忍耐より、ムチでの損傷・苦痛の方が大きければ、忍耐を、やむを得ず受け入れる。そのムチが忍耐を促進する程度のものならいいが、過度になって、加害趣味の発露であったり、鬱憤を晴らすようなものであったとすると、耐える者の損傷を過大にし、理不尽な加害に憎悪などの否定的感情を生じ、反発も大きくする。そとから強制する忍耐では、忍耐へと駆り立てるムチの量にも質にも十分に配慮しておかねばならない。
3-4-2-5.忍耐する者に適正と納得できるムチがいい    
 ムチは、どんなものであっても、苦痛であり逃げたいものになるが、それが刺激になって、忍耐をしっかりと進めていけるのであれば、ムチ打たれる方も、納得する。適正なムチになるかどうかは、各個我の感受性とか目的の価値づけ、忍耐への評価の大きさ等によって異なる。座禅していて、意識を覚醒させるため警策で打ってもらうムチは、座禅を持続させていくために、ありがたいものであろう。しかし、日頃の鬱憤を晴らすようなものだと、過激となりトラブルの原因になる。
3-4-2-6.よいムチ、悪いムチ   
忍耐する者の意志を目的に向けて強くできることが、ムチにとってまず必要となる働きであろう。そのムチが忍耐に比して大きな苦痛なので忍耐の方をとるということが多かろうが、小さなムチの苦痛が覚醒をもたらして忍耐促進になることもある。苦痛の感じ方も、その忍耐の価値づけも、時と所により、各個人により異なるのが普通だから、あてがうムチは、臨機応変であることが求められる。よいムチは、さしあたり過激に見えても、後で、ムチ打たれた者の理性に納得できるものになろう。
3-4-3.苦痛甘受の限度は、動かせるが、合理的客観的な判断がいる 
 耐えうる苦痛の限度をいうが、この限度は、状況次第で動かせる。拷問では、殺害されようとも口を割らないで耐え続けることがある。注射など、どうでもよいものならば耐えがたい苦痛と感じるような人であっても、重病でその注射が命を救うとなれば、もっとたくさん注射してほしいと思うぐらいになろう。苦痛は、主観内の感情であるから、本人の構え方次第で感じ方は変わる。無意味なやせ我慢ではなく、有意義な苦痛・犠牲を奮起して引き受けたいものである。
3-4-3-1.苦痛は、主観的で、感じ方は、その都度変わりうる  
腕に加えられた苦痛では、骨が折れるぐらいになると激痛となるのが普通であろうが、それでも、折れるまで、必要なら我慢できる。腕の骨が折れても、絶えねばならないという自覚のもとでは、おそらく、苦痛の限度は、日ごろとはまったく異なったものになる。戦闘の中では、腕が折れてもそれ以上の生命の危機に意識は向いていて、痛みを感じないようなこともある。耐えうる苦痛の限度は、その時の状況と、当人の心構え次第で大きく異なってくる。
3-4-3-2.目的しだいで、忍耐の苦痛は感じ方を変える  
 同じ仕事の辛抱でも、そのことで獲得されるものが違えば、耐えうる限度もちがってくる。我慢大会では、その賞品がタオル一枚と、100万円では、まるで異なったものとなろう。後者の場合、苦痛の持続がお金に換算されて自身を励ますことである。わずかな自分の苦痛とその甘受が100万円になるのだと思えば、その苦痛は、快感の一部にすらなる。
3-4-3-3.鍛えれば、損傷も苦痛も、その限度は高くなる   
 筋肉の使用は、若干の痛みが生じる程度まで鍛えれば、その筋肉は強化される。ただし、無理をしては、筋肉を傷め回復がならないようなことも生じる。適正な限度を測ってするのでなくてはならない。筋肉が強くなればなるだけ、損傷や苦痛の限度をあげることは容易になる。知的なものでもそうであろう。ぎりぎりできそうな課題をもって苦闘して、知力をアップしていく。
3-4-3-4.苦痛に慣れるとしても、それがよいとは限らない  
 耐えうる苦痛の限度ということでは、経験がものをいう。慣れていない最初は、過度に構えて苦痛を大きく感じることになる。繰り返せば、あらかじめそれに構えて感度を低くするから、痛みは少な目になる。耐えうる限度も、それに応じてより高いものにできてくる。苦痛に慣れてくるとはいっても、意識されない部分での損傷は、より大きなものになっている可能性もあるから、しっかり観察し深慮しつつでなくてはならない。大きな音には慣れて大音量が平気になっていく。長い間に、耳の負担(損傷)が大きくなって難聴になる。
3-4-3-5.集団での忍耐は、苦痛の限度が各人で異なるから工夫がいる  
 我慢大会では、全員が同じ苦痛を耐え、その苦痛の限度が来たものから脱落していく。だが、脱落が許されないようなものでは、忍耐の限度になっても、さらに忍耐を続けさせられる。危険を楽しむジェットコースターなど、いやでも途中でやめられず恐怖の限度を超えて失神する者もでる。嵐の中の船は、苦痛だからといっても降りられない。船長に任せ、任天の構えをもっての各自の覚悟の程度が忍耐の限度を左右する。
3-4-3-6.自分だけでする忍耐では限度を下げがちである 
 我慢大会では、みんなと競争になり、見ている者もいるから、苦痛甘受の限度を無理やり大きくする。だが、ひとりでする場合は、周囲からの鼓舞も叱咤もなく、苦痛だけを意識するから、耐えがたさも大きくなり、苦痛の限度を低めに置きがちとなる。みんなと走れば、苦しくても、負けてはならないと懸命となり苦痛は小さく感じる。だが、ひとりだと、自分の苦しいことに意識を集中することになり、もう無理だと早い目にセーブをかける。
3-4-3-7.競争では、各自が限度をあげすぎて、事故になることもある 
 耐えうる苦痛の限度は、主観的な苦痛感情のこと、変えることができる。競争では、勝つことに意識を集中して、うちの苦痛の限度は、気にすることが小さくなり、日ごろの限度を超えたものになる。競争になると、ひとりでする時よりも大きな力をだし、耐えうる苦痛の限度も気にせず高くあげていく。競争のあと、損傷から回復できる限度を超えた苦痛甘受をしていて、大けがをしていることに気づいたりする。全体を配慮する冷静な理性を堅持しておかねばならない。 
3-4-4.無駄な苦労を省き合理的方法をもってすべきである 
 忍耐の苦痛甘受は、目的の手段・犠牲であり、苦痛を好んで受け入れているわけではない。不必要な苦痛は、当然、自然にしたがって回避すればよい。持続性が肝要な忍耐の場合は、余計な苦痛の部分まで耐えていたのでは、その持続性を短いものにしてしまう。忍耐するに際しては、無駄な苦労になることは避けるようにしなくてはならない。犠牲を受け入れる忍耐のこと、無闇滅法に耐えるのではなく、理性は、ことの展開に無駄がないようにと配慮する必要がある。
3-4-4-1.忍耐も、楽にできるものは楽にしたい 
 忍耐の苦痛甘受は、好んでしているのではない。苦痛のない快適な方法があるのなら、当然それを選ぶ。また、苦痛・犠牲を受け入れる必要があっても、その苦痛の度合いに選択の余地があるのなら、できるだけ苦痛・損傷の少ないものを選ぶはずである。回避してよいはずの苦痛を受け入れているとすると、それは、惰性に流れるなどして、無意味になっていることを認識してないからであろう。忍耐するに際しては、目的の価値を踏まえつつ、その実現にとって苦痛の一番少ない方法を選択できるようにと深慮し遠謀することが求められよう。
3-4-4-2.無駄な忍耐も、目的を変えれば、有意義となる   
 目的の手段としての忍耐で余計な苦痛を受け入れていたとすると、その分は無駄な忍耐となる。さらに、目的に応じて、その忍耐が有意義かどうかということも変わってくる。労働生産物のための苦労・忍耐では、その生産物が無価値だとなったら、それを生産するための忍耐は、無駄なものとなる。しかし、それが同時に心身を鍛え技術を習得するために役立ったのだとすると、その点では、価値ある忍耐だったということになる。忍耐の目的は、ひとつに限定されないことが多いから、無駄な忍耐かどうかは、多方面からみて判断していく必要がある。
3-4-4-3.鍛錬は、科学的なものでないと、愚かな苦労になりやすい 
 スポーツでは、鍛えようと厳しい練習を強制する。そのやり方は、いいかげんであることも多い。合理的にするものでないと、忍耐力は大きくできるとしても、その競技での力はかならずしもつかない。張り切りすぎて、筋肉を傷めて回復できずその競技の断念を強いられる場合もある。無理のないように、身体の状態を測定してどの程度の負荷をかけることが効果的になるかをみて、科学的で合理的な鍛錬を課すようにしなくてはならない。
3-4-4-4.最後は、やはり、精神主義的な根性論にもなる  
 合理的に練られたうえでの練習であっても、それを実行することになるとは限らない。怠け者は、理に合ってないから練習を怠るのではない。意欲をかきたて、やる気を出させるために、アメを見せたり、尻を叩くことが必要になってくる。忍耐は、苦痛を受け止めることだから、進んでやろうとはしないのが普通である。やるべき忍耐をしっかりと実行するかどうかは、当人の心構え・姿勢しだいとなる。つらくても歯を食いしばってやっていく精神が、根性や根気が問われることとなろう。
3-4-4-5.根性への対応も合理的なものにしなくてはならない  
 怠けぐせのついている者には、叱咤のムチが必要だが、アメで誘う方が効果的な場合もある。アメでさそって意欲的になれば、自らが積極的に苦難を乗り越えようとするであろう。耐える経験を重ねて、苦痛回避の自然的な生を超越した人間的自由を反復体験すれば、少々の苦痛には負けない根性も育ってくる。ムチは、もちろん、駆り立てる。よい刺激になる合理性のあるムチを工夫して、忍耐を持続させるよう自他で強制していけば、自分の苦痛に負けることを潔しとしない逞しい根性ができてくる。
3-4-4-6.合理的に対応すべきなのは、忍耐周辺についてもそうである 
深慮遠謀をもってのぞむべきなのは、忍耐という手段とその目的についてのみではない。その忍耐をめぐる自身の心身の状態とか、周囲のプラス・マイナスの状況も周知しておくことが必要であろう。周辺の応援・支えをもって、弱音をはきそうになるのを阻止できることがある。苦痛に耐えることに集中するだけでなく、支えをふまえれば、意欲を高められることであろう。逆に妨害もある。それは甘言による無力化であったり、脅迫による萎縮をもたらすものであったりする。これらをうまくかわせるように工夫することも忍耐のスムースな持続には必要となる。
3-4-5.各自にふさわしい方法を見つけることがいる 
 生あるひとには、苦痛・苦悩があり、それを耐え克服する能力、自然から自由になる忍耐の能力がある。忍耐する能力は、理性意志を備えた人間ならもっているが、実際にそれをどう働かせるかは、各個我の苦痛への感じ方とそれへの取り組みの姿勢・意欲によって相当に異なったものとなる。忍耐は、各自の内面の苦痛に、自身の意志・意欲が対処するものとして、各自が自身を振り返って工夫するのが一番である。
3-4-5-1.苦痛の感じ方も、苦痛甘受の仕方も多様である  
 苦痛は、各自において抱かれ、各人で異なったものになる。自分の苦痛とひとの苦痛は直接の比較はできない。自身においても、同一の損傷でも、状況しだいで、異なって感じる神経過敏な状態なら、触っただけで激痛ともなる。その苦痛への対応も、また、各人各様となる。苦痛に慣れてなければそれを受け入れる忍耐も、動転しつつのことで、冷静に対応できるまでには経験がいる。苦痛は主観的なもので、忍耐も主観内でのこととなり、まじないで苦痛が軽減され、耐えることもそれで容易になると自身が思えば、偽薬が結構効く以上に、よく耐えることができもする。
3-4-5-2.一般的には苦痛であっても、これを快とする者もいる  
 苦痛は、損傷を知らせる緊急信号として意識に登場する。が、損傷と苦痛の結びつきは、かならずしも万人が同じではない。慣れている苦痛は、それが筋肉の増強になる印ということなら、精神的爽快感を色づける生理的苦痛ということで、快の構成部分にすらなる。家族の死は、一般的には、大きな喪失で、平静な顔を保っていても内面には悲痛な思いを抱いている。だが、厄介者の死だったとすると、これには、家族は、沈んだ面持ちを装うが、内々には清々とした気持ちになっていることであろう。
3-4-5-3.嗜好のものでは、快不快はかなり個人的になる 
 ひとの欲求は、基本的なところでは同じでも、嗜好のものになると、各人で異なることが多くなる。ひとの食欲は、肉でも穀類でも欲して同じでも、どういう物が好みになるかという点では、相当に異なったものがあがる。同じものが、快である人もあれば、好みにあわなければ不快にもなる。同じことが、享受し楽しむものとも苦痛ともなる。苦痛ならその程度に応じて忍耐も必要となってくる。ロック音楽など、好きな者にはその轟音は快感だが、嫌いな人には、耐えがたい苦痛になる。
3-4-5-4.意識を苦痛に集中する者も分散させる者もいる  
 耐える者は、苦痛回避衝動を動かさないようにと抑止する。そのことに意識を集中することがよいというひともあろうが、苦痛が気になり消耗するような場合は、苦痛回避をしないだけの無為にあればいいのだから、意識をまったく別のことにもっていく方が良いひともある。悩みがあってこれを忍んでいるとき、この悩みに正面から向かい合って耐えていくのも手だが、まるで無視して、きれいな花に気をもっていったり、月をながめて苦悩をその月に負わせるといったこともできる。忍耐持続は、各人、各様となる。
3-4-5-5.苦痛は主観的だから、呪術も信仰・信念も忍耐力を高める   
 呪術は、客観世界には無力だが、主観的なことでは、威力を発揮しうる。当人の心構えしだいで、ことは決まるからである。子供は、怪我をしても、親が「痛みよ飛んでいけ」とまじないをすると、傷が小さければ、即効的に苦痛は消えていく。精神的苦痛なども、思いしだいで、気にならなくなり、消滅さえする。信仰や信念の対象になるものについては、それに大きな価値を置くから、そのことの貫徹への意志力が強大になる。それに関わっての忍耐は、その信に支えられて、大きなものにできる。
3-4-5-6.自分のうちの苦痛、忍耐は、そとからは見えない  
 苦痛を感じているのかどうかは、そとからは直接にはわからない。忍耐も苦痛から逃げず何もせず無為にとどまることとしては、外的には無で、忍耐しているかどうかは不分明になる。一見、忍耐などしていないようにも見える。そとのひとには、平穏でなんでもないと見えても、当人には、激痛で、内的に七転八倒していることもある。たとえ理解者であっても、当人の激痛もそれへの苦難の忍耐も、直接には、これを感じることはできない。忍耐している当人も、その周辺にいる者も、そのことをよく踏まえていないと、誤解を生じ、トラブルを生むことになる。
3-4-6.嫌な苦痛にする忍耐のこと、どこかに強制が必要となる 
 忍耐は、自然的には回避する苦痛を反自然的に受け入れていく。自身の理性は、その反自然の営為の功利・合理を確信し、忍耐を意志し貫徹していく。自然感性は、苦痛回避の衝動をもつが、これを抑止し、苦痛受け入れを自身に強制する。苦痛という反価値と苦痛受け入れでなる価値を差し引き計算して、受け入れで大きな価値が可能になることをふまえて、自身の理性と感性に説き、納得しない感性の部分があってもこれを強制して、忍耐を貫徹する。
3-4-6-1.自分の感性・感情を強制する  
 日頃は、意志の命令を感性なり身体は、スムースに実行する。意志の手足となって自身の感性自然は働く。だが、忍耐では、その理性意志は、心身の自然反応(苦痛回避の衝動)に対立する命令を出す。熱いものがあると、自然的には手を引くが、忍耐は、この自然を抑止して手を出すようにと強制する。感性が意志のいうことに従順でなく、逆らうのであり、したがって、強制することが必要になる。苦痛感情自体は、常に苦痛回避にと動くから、それに反対の神経回路を働かせて、意志は、この衝動を動かないようにと強制する。
3-4-6-2.強制される感性は、かけがえのない自己自身である   
自分の忍耐の強制対象は、自分自身の感性である。その強さも弱さもよく知るところであり、忍耐する意志は、自身のその苦痛の感じ方とその苦痛回避衝動の在り方を知ったうえで、これにふさわしい強制のやり方をとれる。日頃は従順に意志の手足になってこれを支え先頭に立って動いてくれる、頼りになる自分の感性・身体である。軽薄な自己強制、自己犠牲は避け、自己の自然的生の尊厳を忘れないようにすることも大切であろう。

3-4-6-3.外からの強制も、合理的であれば、感性のみへの強制になる   
そとからの強制がある場合、そのことが合理的で納得できるものであれば、理性は、これに従順になり、その合理的強制を引き受け、これを自らのものとする。その強制は、強制ではなく、理性自らがこれに則って動く自発的なものとなる。だが、自然感性は、それが合理的であっても、損傷・苦痛の受け入れは、生保存本能のもとこれを拒否し、苦痛回避の衝動を持続させる。したがって、理性は、外的強制を自らに引き受けて強制とは受け取らなくなるとしても、感性は、強制と感じ続ける。
3-4-6-4.理不尽なことは、自分の理性主体への強制になる   
 脅迫されてする忍耐は、理不尽なことであるが、大きな被害を避けるために、やむを得ず、これを受け入れ、苦痛を甘受し忍耐する。まず、理性がそのように外から強制される。それをもって感性・感情も、自身の理性の制御、内的強制のもとに、忍耐の中心をなす苦痛を受け入れる。理に合わないことで、理性に承服しがたいことであれば、怒りや絶望などの不快感情が生じるからこれらを抑止、強制することも必要となる。理性主体への強制では、理性意志自体は、一旦、強制を受け入れることにしたら、それを貫くだけのことで、強制を繰り返すことは無用だろうが、怒りや絶望は、反復生じてくるから、これを抑止し強制し続けることが必要となろう。
3-4-6-5.自身の感性を慰めつつ、意志は強制を受けとめていく   
 理不尽なことに我慢する場合、精神的に苦痛となる。絶望したり、怒りをいだくこととなる。その感情を、もっとものことと思いつつも、理不尽な強制を、自他の力関係のもとで、やむを得ないと判断して、忍耐することを受け入れていく。受け入れるということは、その絶望や怒りを自己強制し抑え込むということである。自身のその感情が真っ当な反応であることを承知しつつ、大局的なことを考えればここは我慢しなくてはならないと、理性は、自己の感性をなぐさめる。
3-4-6-6.義務や使命は、自分が合理的とみなす外的強制   
社会的な義務とか使命とかは、多くが辛苦で感性的には気の進まないことだが(だから義務として強制される)、理性的には、これを当然と自身のみなす合理的な外的強制になる。その辛苦は、多くの場合、反復するなかで、慣れてきて、苦痛でなくなり、自身の意志にその手足が従うように、その社会的強制に従うことが、社会的存在としての自分を証す誇らしい営為となって、快とすらなる。勉強は、はじめは、不快であっても、義務だから受け入れねばならないと、強制におされて耐え続けて慣れてくると、やがて、快で享受したい権利となっていく。 
3-4-6-7.任意と強制
 手足は、意志の命じるとおりに動くが、ふつうはそれを強制とは言わないであろう。リードしてもらうこと、押してもらい引っ張ってもらうことである。だが、その命令・指令が不快で、動かされることが苦痛なら、そして、その苦痛回避の衝動が否定されて苦痛甘受をさせられるなら、強制となる。好きなように任意にできる状態であれば、そとから動かされる状態であっても強制ではなかろう。する・しないの自由・任意が否定されて、従わないことが拒まれるなら、苦痛甘受、忍耐をしなくてはならないなら、強制ということになる。
3-5.忍耐する体力・精神力は、使わないと劣化する
  忍耐力などのひとの心身の能力は、経験・使用によって向上するとともに、使わないと錆びつき、劣化し、退化していく。耐えるものが筋肉なら、使えば、増強されて強くなるが、不使用では、どんどん劣化していく。知的なものの使用では、その方面での知恵の拡大がなり、よりよく予期でき、巧みに構えを作ってロスも少なくできるようになると同時に、使用しないとそんな能力はもっていても無駄ということになり、錆びついて、やがて退化もする。鉄は熱いうちに鍛えろというが、年取ってからは、おそらく、劣化したものを回復することは無理にもなる。
3-5-1.忍耐の能力は、苦痛回避で衰えていく
 忍耐は、苦痛回避の自然衝動をふまえ、これに対決してその衝動を動かないようにと制御する。理性とその意志は、自然感性の動きを超越・抑制する超自然的能力を発揮して、自身の苦痛を支配する。理性の能力は万人が有しており、万人が忍耐する能力をもつ。だが、それの働く必要がなければ、眠ったままとなる。筋肉があっても、動かすことがなければ、劣化・退化するように、動物的感性のもと、楽な方へ逃げ苦痛を回避し辛抱を避けつづけていると、忍耐する能力は、錆びつき劣化し続ける。

3-5-1-1.持っていても、眠ったままに終わる能力も多い  
 射撃で稀有の才能があっても、日本では一般人は銃など使うことはないから、おそらく、そんな才能があろうなどとは当人も気づかずの一生となる。まれにみる才能をもっていても、使わないままなら、眠ったままに、もっていなかったかのようにして終わる。快楽主義的現代社会は、苦痛・不快を回避して快適な生活を求めることを当然とするから、苦痛甘受の忍耐の能力は未発達に終わることが多くなっている。暑さで汗を流すことを回避して冷房で快適に過ごすばかりでは、汗腺は成長不全となり、地球温暖化の中、空調のないところへ行くと、冷静でおれなくなる。
3-5-1-2.忍耐の反自然の能力は、自然的には発現しない 
 自然に放置しておいても、ひとの能力は養われることもある。快がともなうものは、享受したいから、それをめぐる能力の発揮は放置しておいてもめぐってくる。だが、ひとの忍耐能力は、根本において、苦痛が相手で、自然的にはこれを回避したい、忍耐はしたくないということになるから、自然に放置しておいたのでは発揮の機会は少なくなる。自然を超えた、苦痛甘受の営為として、意識してこれと取り組むこと求められる。快を求め不快・苦痛を避ける自然感性のもとに生きるかぎりでは、ひとの超自然的営為としての忍耐力は育たない。
3-5-1-3.苦痛体験は、苦痛への過度の反応を抑えていく  
苦痛は、慣れないと、生の損傷を知らせる印であるから、過剰反応をさそう。強烈な苦痛ということになれば、これを回避して逃げたいという反応を大きくするから、忍耐は困難となる。忍耐可能なように、ほどほどの耐えうる程度の苦痛にと感受することが求められる。忍耐から逃げなければ、その苦痛に慣れて感度を自ずと低くすることができるようになる。逆に、慣れていた苦痛でも、これの回避を続けていると、過敏に過剰に反応するようにと、対応能力は劣化する。
3-5-1-4.経験を重ねて、耐え方も巧みになっていく  
 手は、使うほどに、巧みに動くようになる。忍耐も、体験し試行錯誤するなかで、だんだんとうまく耐えていけるようになる。無駄な力みを少なくし、断続する苦痛なら、休憩のできるときを把握して、慣れた仕事がそうであるように、忍耐持続を大きくしていける。筋肉が、使用することで大きくなり強くなるように、忍耐も、苦痛回避衝動を抑止する意志と、これと結ぶ神経回路をしっかりとしたものにできてくる。だが、一旦身につけたものでも、その忍耐の回避を続けていると、巧みさは、失われ錆びついてくる。
3-5-1-5.苦痛への能力と、意志を貫く能力    
 忍耐を容易にするには、その対象である苦痛を小さくできればよい。が、苦痛を小さくすることは、その場で直ちにできることではなく、これを反復して次第に体が過剰反応しないように覚えていくのである。忍耐する意志の能力にしても、諸種の困難に耐える経験がものをいう。楽な方へ逃げて忍耐の回避を続けていたのでは、怠け癖がつく。余計な快享受にと向かうことを抑止するエネルギーが必要となり、その上で、苦痛を甘受するというところまで意志のボルテージをあげていかねばならなくなる。意志の力も、使用してないと、なまくらになり、劣化する。
3-5-1-6.忍耐力は、苦痛への無為の能力だから、万人がもつ    
 忍耐は、苦痛回避の衝動を抑止することでなる。つまり、何もせず動かないで苦痛を受け入れるだけで成り立つ。絵を描くなど創造的営為では、繊細な感性や創作での精緻な表現能力等が必要で、そのことでの生来の能力の差は大きい。才能の有無がある。だが、忍耐のように、動かないでなにもせず無為で成り立つものは、複雑・繊細な動きとちがい、単純で、だれでもがその気になればできることである。苦痛から逃げないだけという単純な営為が忍耐であるから、要は、するのかどうかという、やる気の問題となる。
3-5-1-7.ことは簡単だが、続けるのはむずかしい
 忍耐は、苦痛に耐えればいいのだから、簡単で、だれにでもできる。ではあるが、実際にこれを実行するのは、簡単ではない。ダイエットは、実に簡単で、過食しないだけのことである。だが、実際には、これができず、肥満が世には満ち満ちている。思うこと、企てることは、簡単だが、いざ実行となると、しかもそれを継続することは、自身のうちの自然、動物的感性が足を引っ張り続けるから、簡単ではない。動物には未来がないから、苦楽が並んでいる場合、楽をとるが、未来に生きる人間は、苦をとることができる。せめて今日だけは人間らしく生きようといった、ささやかな心構えを定着させることが大切になるのであろう。
3-5-2.ひとには大きな適応能力がある 
ひとは、苦難を乗り越えて、文明の利器を使い自身を変身させて、灼熱の砂漠から凍てつく南極にまで進出している。理性をもって、その巧みな技術力をもってして、その高い適応能力は可能となっている。ひとの超自然の営為の第一は、自然的には逃げる苦痛から逃げないで耐えることである。この忍耐の能力でも、理性の意志は、挑戦を重ねて、自然超越のひとの尊厳を証している。最近の登山では、かつての者には信じがたいような超人的な挑戦が、高い技術と鍛えぬいた意志力をもって可能となっている。
3-5-2-1.自然的な適応能力は、多くの者では退化・劣化している  
冷暖房が行きわたっている現代社会では、寒暖についての許容度は小さくなっている。少し前だと、夏は汗をかきつつ、団扇で平気であった。扇風機が身近になって、とても涼しく感じたことである。だが、いまは、それら空気をかき混ぜるだけでは、その暑さは、耐えがたいことになっている。歩く能力も劣化している。江戸期など、軟弱なインテリでも、何度も東海道などを歩いて往復していた。だが、いまは、近くにたばこを買いに行くにも自動車でいくから、足は激しく劣化している。適応能力自体はもともと大きいから、一部の者は、歴史上初となるような諸種の心身の能力での挑戦に成功していて、日常生活が万人平等になるのとは逆に、貴族的というか超エリートが出来上がって大衆との格差を大きくしている。
3-5-2-2.自然の制約を超えて過酷な自然にも適応 
 ひとは、自然の猛威の前に無力ではあるが、理性をもって、これを克服していく。自分の身体の外部に機械類をまとって生物の生息できないところにまで出かけていく。理性をもって、自身に可能な限度を的確につかみ、その限界の経験を繰りかえし、能力を少しずつ大きくしている。酸素の少ないヒマラヤでの登山などでも、少しずつ適応能力を高めて、低酸素に順応する体にし、極寒の苦難にも耐えきる強靭な意志力を培って、多くの者が登頂に成功できるようになっている。
3-5-2-3.ひとは、経験と理性をもって大きく成長する 
 生まれたてのひとの能力は、はじめは、サル以下であろう。だが、それが年とともに飛躍的に向上していく。大脳を生後大きく成長させ理性的知能のもとで、心身は、試行錯誤の経験を積みながら日々に能力を高めていく。学んで、これを自身の力としていく。外的に道具・機械を自身の手足として使用して自然への理性による支配力を強大なものとし、かつ、自己内の自然への理性による支配・制御も巧みになっていく。苦痛は回避するのが自然であるが、ひとは、価値ある目的をたてて、その手段として、苦痛甘受という反自然の営為、忍耐を引き受ける。その目的実現に必須と判断すれば、自己内の自然を抑止した自己犠牲を敢行できる。
3-5-2-4.自己内自然の支配という、高度な適応 
 動物は、自身の快不快の自然に背こうなどという気は起こさないであろう。生の自然感情によって動かされ支配されるのみである。だが、ひとは、理性をもってこの快不快の自然を制御でき、これを抑止したり推進したりできる。日々の生活では、動物的に快不快にしたがうことで、自然的生を無事に保護できているのだが、よりよい生のためには、その精神的理性的な高みからは、快不快に従わない方がよいという場合がある。このとき、ひとは、その自然的快不快を、自然から自由になった理性意志をもって動かし支配する。つまり、快不快に従うことを自制し忍耐するという高度の適応をする。
3-5-2-5.よりよく耐えられるようにと心身は適応する  
 自然の生は、苦痛からは逃げる。だが、ひとは、これを甘受し忍耐することができる。苦痛甘受で得られる大きな価値を未来に描いて、苦痛・犠牲を手段とした目的論的な営為を、忍耐する意志をもって実現していく。しかも、そのことの反復は、心身を、その苦痛に確実に耐えられるようにとより強化し、一層の困難な事態にも、対応できるようになる。逆の快についても、その抑制を忍耐ではするから、自制の力がつき、欲求・衝動に対しても、より困難な状況、不充足に対応する力を養うこととなる。
3-5-2-6.なまけぐせは、困難を一層大きくする 
 甘受すべき苦痛を回避するだけでなく、さらに、快・楽にと逃げ込むと、忍耐の姿勢からは一段と遠くなる。トレーニングを続けていると、その辛さには、だんだん慣れてきて一層これを強化したものが可能になる。だが、これをやめて鍛錬しないことが通常の日々となった場合、怠け癖がついてしまう。楽な方に逃げてそれが定着しているのを、まず、以前のレベルまで、ひきもどすことがいる。不快・苦痛に耐えるだけでなく、快・怠惰の自制をもしなくてはならなくなる。ひとの高い能力の多くは、生来のものでなく、学習・体験で獲得したものだから、その持続・反復から退くと、その能力は錆びつき劣化していく。
3-5-3.忍耐反復で耐性は向上する 
 苦痛は、生の危機を知らせる信号だから、過度になるぐらいに反応して生の防衛をはかるのが自然である。だが、その苦痛が反復される場合、それのもたらす損傷への対応は、手慣れたものになるから、過剰な苦痛は、不要となる。その分だけのエネルギー・注意は別の方にまわせるから、苦痛を小さく感じる方が好都合となる。苦痛甘受の忍耐の反復は、単に苦痛への過度の反応をやめるのみでなく、一層優れた適応として、その苦と損傷に対する抵抗力を大きくしてもいく。その苦の反復は、それへの耐性をつくる。少々では傷つかなくなり、傷つかないから苦痛でもなくなり、丈夫なものになっていく。
3-5-3-1.ダメージからの回復時、能力強化が可能となる 
 生あるものは、自己復元・回復力をもつ。欠けたら欠けたままになる岩石などとちがい、生は、そとからのダメージを放置せず、欠けたものを元のように回復しようとする。しかも同類のダメージを受けても、損傷の度合いを少なくできるようにと、そこを強化して回復する。身体は傷ついても再生能力をもつ。原始的な生物ほどの再生能力はないにしても、人でも、痛めた筋肉は、より強化されて回復する。精神世界でも同様で、受難にあっても、これを克服して、その過程でより強い精神的存在にと成長する。もちろん、その苦痛・苦悩が過度で耐えきれず壊滅的になると回復不能となるから、事情が許すのであれば、復元・回復の可能な限度内に、苦痛甘受は、とどめる必要がある。
3-5-3-2.ワクチンは、免疫力をつけさせる  
 弱くした病原菌やそれに類した物質(ワクチン)を投与して、身体に強い抵抗力をもたせることができる。基本は、発病しない程度の弱い菌などを身体にいれて、傷つけそれに対抗することのできるものを身体のうちに作り出すことであろう。身体能力を高めるには、筋肉を傷めるぐらいの負荷をかければよい。これに耐えるなら、筋力は増大する。精神の力を大きくするためには、難解な課題と取り組んで、これに耐えることである。苦労は、身につく。
3-5-3-3.筋肉の鍛錬は、筋肉を増強させるだけではない  
 筋肉の酷使は、その損傷を生じ、それの回復時には、より強い筋肉をもたらす。それは、使用した筋肉を強くするだけではなかろう。筋肉を支える骨とか筋肉に至る血管とか神経等をも大きな筋肉に見合うように改造していくはずである。体を動かすには、一つの筋肉ではなく、多くの筋肉や骨を微妙に動かすことで可能になるから、その動き方の制御も経験の度にうまくなっていく。もちろん、それを実行する精神・意志力も強化される。
3-5-3-4.体験は、心身をより強く巧みにし、成果を蓄積する  
 忍耐等のひとの営為は、一つの筋肉とか一点での神経や知性の使用であることはまれで、多くの心身の協業としてなりたっている。一点での神経の使用であっても、それはそれでほかに気が逸れないようにとあちこちに流れそうな気を抑止しつつ集中する必要がある。多くの心身の部分の積極・消極の協業としての日々の営為は、微妙な総合的作業であり、その塩梅の仕方を工夫しつつ反復することでだんだんと巧みな動きとなり、思うような成果をあげうることになる。一度経験すれば、その試行錯誤の成果は記憶されて、次回に役立てられる。その経験の重なりで、その営為は、巧みになり、必要に応じて強くもなる。
3-5-3-5.逆境は、諸能力を磨き高めるチャンスにできる 
 逆境は、人に倍する忍耐を強いる。が、耐え続けるなら、潜在する諸能力は顕在化し磨き上げられていくことになる。これを乗り越えていければ、たくましい人間ができあがっていく。逆境は、そのひとを葬り去ることも多いが、めげず諦めず、これに耐え続けるならば、苦悩・苦難のたまものとして、たぐいまれな人物をつくりあげていく。逆境は不運だが、単純な心構えひとつで、これを千載一遇のチャンス・幸運にできる。これから逃げず、何もせず苦難に留まり続けるだけで、幸運に変わっていく。
3-5-3-6.鍛錬の蓄積された成果は、やめると後退・劣化していく  
 経験をもって、心身の能力は高められるが、この能力は、その経験の反復がなくなると、不要ということになって、だんだんと劣化していく。その後退・劣化のあり方は、ものによって異なる。ひとのしっぽなど、長く無用のままだが、まだ、その痕跡を尾骨として残している。身体の能力は、急にはなくならないが、それでも、筋肉など使用しない状態が続けば、経験をもって鍛錬した部分は、失われていく。知的なものでも同様で、体が覚えルーチン化していたものも、反復がなくなれば、失われて、再度、手順を意識していかねばならなくなる。
3-5-4.トレーニングは、能力を高め、耐性を大きくする
 実際の経験の前に、それにうまく適応できるようにと、練習、トレーニングをすることがある。機械をつかう仕事なら、まず、その使い方をしっかりと身につけることが必要である。訓練なしにやり始めると、失敗の連続がまずあって、のちに使い方が身について、うまくいくようになる。失敗をせず、効率よく能力を獲得するために訓練をする。そのことで、実際の行動に踏み出す前に、その能力が身につく。さらに、それが辛苦をともなう営為の場合、訓練は、それへの忍耐力を、どこで息抜きしたらいいとかどこに意志力を集中すべきか等、養成することにもなる。
3-5-4-1.訓練では、危険等困難なことへの疑似的場面をつくる  
 消防訓練は、火災に備えたトレーニングをするが、火災自体はないときにする。火災の仮想的な場面に対して、あるべき振舞いを繰り返していく。現実の火災では、ほんの些細な行動しか必要としないこともあろうが、訓練では、大から小までの火災を想定した対応を、危険のない状態のもとで繰り返して身につけるようにしていく。訓練では、まずは消火の手順・技術を身につけることになろうが、実際の火災では、心身を緊張させ疲労困憊となって忍耐力の求められることもしばしばであろう。過酷な現場となることを想定して、忍耐力養成、体力養成のための心身の鍛錬も行う。
3-5-4-2.実地(での修練)と違い、系統だった訓練・教育  
 かつては、訓練をするより、徒弟制度をもって実際の場面に参加して技術などの能力を習得した。だが、実地の場面での習得は、断片的で非系統的になる。これを、教育・訓練では、系統的に効率よく行う。能力を向上させるには、教育的訓練の方が優れている。見習いなど実地での能力習得では、効率が悪い。初歩的な技術をと思っても、その機会はなかなかないとか、逆に高度のそれは、まず実際の場では経験できないということになる。ただし、忍耐力養成という点では、徒弟は、いやになっても、親方の手足であるから簡単に仕事を放り出すことは許されず、苦難に耐え抜く経験はしっかりもって強靭な精神を培いえたことであろう。
3-5-4-3.トレーニングは、なんといっても反復である 
 スポーツのトレーニングでは、基礎的な体力強化と特殊的なその競技に固有の訓練を行なう。体力を強化して運動能力全般の向上をはかり、そのスポーツに固有の技を磨く。いずれも、反復練習が中心になる。同じことを日々繰り返して行う。持続力が求められる。それは、辛いことで、忍耐力が、辛抱が求められる。実際の競技でも、全力を尽くして、最後まで辛いことを耐えていくことがなくては、勝利はおぼつかない。すぐには身につかない忍耐力は、日々のトレーニングでも、しっかりと養わねばならない。
3-5-4-4.鍛えるべきところを痛めつけて能力を高める  
 脚力が必要な場合、足の筋肉を強化するための訓練を行う。そのための筋肉を過度に使用して、痛むほどに使うと、一旦休んでの回復時には、より強化されて回復する。あるいは、微妙な手足の使い方に慣れることが必要であれば、これも反復使用するなかで熟達させることになる。それらは、実地において大きな力を発揮するが、その実地の場で別途必要になるのは、忍耐力である。この苦難にへこたれない精神は、あらゆる営為への日々の心構えの積み重ねでもたらされる。
3-5-4-5.練習より実地の方がよい場合もある  
 訓練・練習は、妨害・攪乱要因を除去して、純粋にその目的とする能力開発に効果的となる模擬的環境をつくりだしてする。だが、現実は、そういう理想化された場面とは相当に異なる。生半可な消防訓練をしても、実際の火事の現場では役立たないかもしれない。訓練が現場に無益ということは結構ある。はじめから現場で実体験する方がよいこともありそうである。車の教習では、最後、実地訓練をする。免許取得後も、ひとり実際の道路にでて、一般車に交じわることで、事故を防ぐ訓練をして上達する。
3-5-4-6.実際にふれてはじめて分かることもある 
 水泳のはじめは、畳の上の水練よりは、実際、水に浸かって、水を飲んだりおぼれそうになる体験をして、水に慣れることが大切である。水練自体からは、少し遠のくが、泳げるようになるには、実際に泳ぐこと、つまり泳げない体験からはじめる方がよい。練習の場では想定しないようなことが、種々、実際にことを始めると生じてくる。練習は、実地の不備を避けるために模擬的な場をつくってするが、実地に触れることが、最後の練習、実地訓練として加わることもある。
3-5-5.身体の忍耐は、精神の忍耐力をも強化する
身体の営為で生じる生理的苦痛と、精神的営為のもとで生じる絶望などの心的苦痛は、同じ苦痛とはいっても、相当に異なる。それでも同じ苦痛感情として、心身の同類の反応をもつ。身体の苦痛で、これを破棄したいとの嫌悪感をいだき、緊張させられるが、精神的な苦痛の場合でも、同様の反応をもち、緊張し、萎縮するようなことになる。忍耐する意志は、身体の苦痛でも精神の苦痛でも、同じく苦痛回避の衝動を抑止する。逃げようとする自身の自然(苦痛感情)を忍耐する意志は抑止していく。身体の苦痛への忍耐で優れた対応ができる意志は、同じ苦痛回避衝動の抑止の働きをもって、精神的苦痛へも対処できることであろう。
3-5-5-1.苦痛に耐える意志は、どんな場合でも同じ意志であろう  
 忍耐は、身体の苦痛であれ、精神の苦悩であれ、苦痛・苦悩に耐えねばと動く中心にあるものは、理性意志であろう。心身に生じてくる苦痛回避への自然的衝動を、忍耐する意志は、抑止して、苦痛から逃走しないようにと抑制していく。苦痛の中身は、身体のそれと精神のそれでは異なるとしても、同じ苦痛として、これを受け入れることには、同じように躊躇する。この躊躇を振り切り苦痛甘受へと決断し実行していくのは、同じひとつの意志である。
3-5-5-2.筋肉増強の訓練で、知的に強くなるわけではないが・・  
単純な重労働に優れた者が複雑な知的作業でも優れた対応ができるかというと、それは、無理である。身体を強力に巧みに使えるようにと鍛錬された筋肉自体は、知的な脳の巧みさ・強さをもたらさない(手足を動かせば脳も働くから痴呆予防には効果的というが)。しかし、そこでの忍耐する姿勢は、知的作業でも役立つことであろう。頭が痛くなるような難問を前にしても、その苦痛から逃げないという忍耐の姿勢は、重労働に耐えた意志の力がそのまま発揮されるであろう。
3-5-5-3.知的分野での忍耐力養成は、身体的忍耐にどう役立つか   
 知的営為での苦痛・苦悩から逃げないで耐える者は、その姿勢を身体的な苦痛でも生かせるであろう。長期の知的作業では、一貫性をもった姿勢を続け、はるかな目的を見失わず断念しないで忍耐しつづけることになる。辛抱である。一つの難問を解くまで根気よく思考を続けていこうと忍耐する目的意志の貫徹は、その経験と実績は、ゴールまでマラソンを棄権しないで耐え抜く同じ意志に自信を与え、これを支えていくことであろう。
3-5-5-4.身体への忍耐と、精神的忍耐では、相違も当然ある 
 精神的忍耐では、各人の心構えによって苦痛の受け取り方はまるで異なってくる。同じ仕事でも、強制と見なす者は、苦痛と感じるが、ボランティアと解するものでは、それを愉快とする。身体の忍耐では、似通った身体の営為は、似通った苦痛となろう。精神的営為でも身体的営為でも同じ意志を働かせるのではあるが、その耐える対象が違えば、耐え方も違ってくるであろう。しかも、忍耐は、創造のための有為の能力とはちがい、苦痛から逃げず無為に留まることだから、身体能力が高いからといって、身体的苦痛によりよく耐えるとはかぎらない。身体的苦痛を与える拷問に、頑強な身体をもっているものより、貧弱な身体の者の方がよく耐えることがありうる。
3-5-5-5.身体的苦痛の忍耐と、絶望等の忍耐との異同  
 身体の苦痛の場合、その原因の物事から逃げようとする感性衝動を、意志は、抑える。注射なら腕を引かないように、熱い湯なら風呂から出ないで浸かっているように自身の身体を強制する。精神の絶望の苦痛の場合は、絶望をもたらす状況にしっかりと向き合って、心に生じる不安とか焦燥とかに振り回されないように穏やかさを保とうとし、耐えがたければ、ほかの方面に気を向けるようにして、冷静な心構えを堅持しようと努める。身体と精神の苦痛と、それぞれへの対応は、大いに異なる。だが、いずれにしても、意志は、同じように、苦痛の場から逃げないようにと反自然の営為を貫く。
3-5-5-6.嫌なものから逃げないという姿勢は、どの忍耐にも通じる 
 苦痛感情は、苦痛から逃げようという衝動をともなう。苦痛甘受の忍耐は、この自然の衝動を抑止することでなりたち、苦痛から逃げず、これをあえて受け入れる。その衝動は、すべての苦痛に共通することで、同じように理性の意志が発動して、自己のうちの自然に同じように対抗し、苦痛という嫌な回避したいものをあえて受け入れる。その苦痛に距離をもって、これから自由に超自然的に構えて、自身のうちの自然感性(苦痛回避衝動)が動かないようにとつとめる。
3-5-6.苦労は買ってでもせよ
 苦痛から逃げない忍耐は、自然を超越した人間のとるべき卓越した根本の振舞いである。忍耐力が強固であれば、難題に遭遇したとき、これから逃げることなく、しっかりとした対処が可能となっていく。それは生来の能力ではないから、実際に苦難に出会いこれを養っていかなくてはならない。どんな苦痛であっても、これに耐えることをもって、忍耐力一般が身についてくる。挑戦できる苦難を買ってでももつことは、とくに、これからという若者には大切となる。 
3-5-6-1.恵まれていると、苦に出会うことが少なくなる  
 恵まれた環境にある者は、苦に出会う機会が少ない。苦難に出会わないと、苦難に耐える力は身につかない。苦痛を耐える能力は、現に自分のうちにある苦痛と格闘することで、体験をもって養成されてくる。順境にあれば、苦より快・楽の方が多くなるから、自然にした状態では、つい快に、楽にと流れてしまい、苦に耐える経験は少なくなってしまう。快の享受にかまけていたのでは、苦への忍耐力どころか、よりよい生への創造的な能力すらも開発される機会を少なくして、ひとを劣化させてしまう。二代目三代目は家をつぶすというのが相場である。
3-5-6-2.苦痛を甘受せざるをえない状況に身をおく 
 苦痛を受け入れて、これに挑戦するという姿勢は、好んでとりたいものではないし、苦痛が大きくなるほどに回避衝動を大きくするから、逃げ出せないようにと、自身を何らかの形で強制することが必要である。大事な子供は旅に出せという。かわいい子であれば、親は、どうしても、甘くなり、苦難に遭いそうであれば、これを回避できるようにと手出ししてしまう。甘えられる親の元を離れれば、勢い、世間の荒波を自身が背負う以外なくなるから、苦難に出会い、これから逃げられなければ、それに挑戦して、自身を鍛えることになっていく。
3-5-6-3.若いときは、とくに、たたくほどに強くなり、のびていく  
 若いということは、未熟ということで、なお熟達しておらず、これから伸びていくということである。柔軟で多方面にわたって、能力を開発していく可能性をうちにもっているときである。特殊的に能力が固定してからでは、開発は、難しくなる。忍耐力・自制心という社会生活の根底をなす心構えは、おそらく、若いほど身につけることがたやすい。好き勝手ができるというわがままな心のままで大きくなると自分を抑えられないエゴイストになってしまう。そうならないためには、忍耐力を養い自制心をしっかりもった人物となるようにと、若い時から、苦難挑戦のチャンスは、自身で買ってでもつくっていくことが必要である。
3-5-6-4.苦は、自制心を養い、克己の力をつけ、ひとを逞しくする  
自然的には、苦があれば、これを回避しようと動く。それを抑制してひとは、価値ある目的のために苦痛を甘受する。逆に、快があるものには、魅されてこれを過剰に受け入れ勝ちになる。過剰な快享受は、有害になるので自然に放置しておくことはできず、抑制が求められる。その快欲求の自制は、これが苦でない間はスムースであるが、その抑制が苦痛になると、これを抑止することは、苦痛の受け入れが前提になって、困難となる。自制の力を強化するには、苦痛になってもこれを続けることがなくてはならず、忍耐が必須となる。
3-5-6-5.一旦身につけた忍耐力は汎用的になる 
 ケーキの過食を自制・忍耐できた者は、肉類の過食抑制にも忍耐できる。同じく理性意志が食の衝動を抑制して不充足の苦に忍耐するのである。その自制・忍耐は、ほかの領域でも同じように意志が欲求・衝動等を抑止することとして、同じ心構えをもつから、どこかで一旦身に着けたその忍耐力は、ほかの領域での忍耐にも力となることであろう。自制心に富む、克己のひとは、なにについても、そういう姿勢をもつことが可能である。そのひとが、過食を自制できなかったとすると、それは、そのときのごちそうが見事で日ごろの自制では間に合わなくなったということで、自制心がその方面に限っては効かないということではなかろう。
3-5-6-6.辛苦が過度で生を破壊して元も子もなくなる場合もある 
 忍耐力・自制心を養うには、過酷なぐらいの状況に置いてこれから逃げられないようにしておくことが効果的だが、これもあまりに過度・過剰であっては、うまくいかない。苦痛を感じる状態とは、生に損傷が生じている危機的な状態である。それが過ぎるとは、損傷が過度になるということであり、回復のならないダメージを受けることになるかもしれない。逆境はひとを強くするが、順境の者は、皆、ほどほどに能力を伸ばせるのに比してみれば、過酷な環境のもとでは、普通に構えている者は、多くの場合、つぶされて終わる。
3-5-6-7.順境は、過干渉・過保護で逆境以下になることがある 
 音楽家のうちでは、子供が音楽の才能を伸ばすには恵まれた環境となりそうだが、自分の子の音楽教育は、他人にしてもらうことが多いという。才能があったら期待しすぎて、過干渉になり、これをつぶすからである。逆に、一人前になるためにはよけいな苦労はさせないで才能を伸ばすことに専念させようとして、保護が過剰になって、ひ弱な者にしてしまうこともある。いつまでも親の庇護下にあっては、独り立ちできないし、ひとりになったときには、大きな支えをなくして、自分の能力ではなく、親の能力であったことを思い知ることになる。
3-5-7.忍耐の鍛錬は、反復と強度とでなる
 忍耐力は、苦痛甘受の経験で身についてくる。その経験は、一度で身につく知識獲得とはちがい、忍耐は、繰り返して体験していくことで身についてくる。苦痛の受け入れを繰り返し、これに慣れるなかで習得することになる。反復が忍耐力をつけさせる。さらに、そこでは、苦痛の強度も問題となる。苦痛にぎりぎり耐えうるぐらいの体験は、忍耐力を一気に大きくすることもある。その後は、その苦痛には過剰反応しなくなり、対応にだんだんと余裕をもてることになる。花火や雷は、最初は、仰天するが、耳の感度を下げるなどの対応をして、耐えることに順応できていく。
3-5-7-1.よりよく耐えうるようにと、反復体験し試行錯誤を重ねる 
 忍耐に限らずひとの能力の開発・向上には、それを現に働かせ使うことが必要である。忍耐は、苦痛という負荷を大きくし、その実際を体験して、それへの対応の仕方を体得することになる。持続的な忍耐となるのが普通だろうから、どこで最大限の苦痛を受け入れるとか、どこで休憩をして疲労からの回復を図るか等を反復体験するなかで身につけていく。軽すぎる負荷では、耐え方を工夫する必要もなかろうから、工夫せざるを得ないぐらいの大きな負荷を与えることが忍耐力強化に効果的となる。
3-5-7-2.反復の中で漸次にという姿勢  
 能力開発の教育では、反復して訓練する。スポーツの場合、トレーニングというと、同じことを日々繰り返すというイメージになろう。反復しながら、だんだんとその能力にとって困難度を増すものにして、より高く大きな能力にしていく。困難度の高いものにしてこれに慣れてきて平気になると、さらに、より困難な高度のものにして、これを反復し、一層高度で強力な能力を開発する。忍耐力もそういうなかで、持久力を大きくし、より困難なこと、苦難に挑戦して、これを高めていく。高い目標は、一足飛びには無理で、漸次・一歩ずつという姿勢が必要である。
3-5-7-3.ルーチン(習慣)化するとスムースである 
 不定時に都合のよいとき鍛錬を反復し、しかも、その度に意識して行動の具体的な内容を考えてする場合、するのを忘れたり、煩わしかったりして三日坊主になりやすい。ルーチン(定作業)化することが求められる。身体の鍛錬なら、懸垂からはいり、腹筋を鍛え、といった一定の手順、ルート(ルーチン)をもてば、まよいなく進められる。その鍛錬自体も一日の日課(ルーチン)に組み込めば、それをしないと、ものたりなくなり、自動的に鍛錬がはじまりうる。しない日を含めての一週間とか一か月のルーチンを作る場合もあろう。ルーチン化すれば、嫌なことの忍耐の持続もスムースである。
3-5-7-4.ルーチン化で怠惰になることもある 
 慣性法則は、生の世界でも言いうるが、生が同じ状態を維持することは、悪しきものになると惰性法則ということになる。社会でも、一旦始めた組織とか行事は、有害とみんな思っていても、なかなか廃止できない。鍛錬でのルーチン(定作業・習慣)化も、ときに、有害になることがある。惰性に流れることが生じる。ときどきは、見直して、鍛錬なら、より強力になった身体に見合うように、強化したものを組み込み、よりよいルーチンにもっていく必要がある。そのためには、既成のルーチンを、一旦、中止しご破算にして、休憩を入れるのも一つの手になろう。
3-5-7-5.衝動抑止の忍耐力は、反復で巧みになり強化される  
 苦痛からは逃げたい。それを忍耐は、阻止して甘受させる。そのためには、苦痛回避の衝動を動かないようにと抑止することが肝要となる。それは、体験を反復するごとに上手になっていく。忍耐の仕方が巧みでよりよく耐えられるようにと強化されていく。禁煙など、はじめは、ものの二三日で忍耐放棄となる。その二日間の成功(=失敗)体験は、たばこをそばに置かないことが必要と気づかせ、つぎには、これを実行する。これも二三日成功して、ほしくなったとき、自分の場合、酸っぱいアメなどよさそうだと、その次の準備をする。何回も成功(失敗)体験を反復して、とくに根気という忍耐力を大きくして、喫煙欲(衝動)が消滅するまで、禁煙の意志を貫いて、最終的な禁煙に成功することになる。
3-5-7-6.鍛錬での苦痛の限度  
 忍耐力は、苦痛が大きいほど大きく身につく。だが、その度合いが過ぎて、損傷・犠牲が過度で生の復活がならないほどのものになったのでは元も子もなくなる。損傷からより豊かに復帰・回復できる程度の苦痛をもって限度とする必要がある。拷問とちがい、鍛錬の場は、より強くしようというのであるから、苦痛(損傷)は、生のよりよい回復がなるぎりぎりが限度となるであろう。コーチは、苦痛よりは、損傷とその回復を冷静に見ながら、トレーニングのたびに高くなるその限度を精確に測ってプログラムを作っていくことが求められる。
3-5-7-7.反復・持続の中断、休憩の意義   
 鍛錬を反復し持続させていると、疲労してくる。疲労からの回復のなる限度以内にと、鍛錬はおさめねばならない。その限度内で中止して休憩すれば、回復時に、より適応力を高め、筋肉なら、より強いものになっていく。忍耐も、一旦止めて休息をいれて、次に再開するとき、よりよく苦痛甘受できることになる。しかも、苦痛への心構えを作り出す訓練は、一旦鍛錬を中止した後の再開時になされるから、休憩は、苦痛甘受のためらい・優柔不断への対処方法を工夫する機会をつくる。
3-6.忍耐の途中放棄は、苦労を無駄にするが、忍耐力はつく
 忍耐は、手段であり犠牲をはらう。忍耐の途中放棄は、結果を出す前に中断するのだから、徒労に終わる。目的達成が不可能と分かったら、それまでの苦難の忍耐は犠牲にして、それ以上の犠牲・損害を増やさないために、即忍耐を中止するのが普通である。忍耐放棄・中断は、その目的からいうとまるまるの損・無駄となる。だが、そういう場合でも、自身の主体的な能力の開発という点では、苦労しただけの力は身につく。忍耐力の向上ということでは、どんな苦労も無駄にはならない。

3-6-1.忍耐は、手段・犠牲であり、目的実現なしでは無駄に終わる  

 忍耐は、自然的には回避する苦痛・損傷をあえて受け入れて犠牲を払う。忍耐の結果に、価値ある目的の実現がなることを確信しての営為である。だが、その未来の結果は、いまだないものであり、ときには、思うものの実現がならないこともある。目的実現が不可能と分かった場合は、犠牲を小さくするために、即その忍耐は中止しなくてはならない。あるいは、犠牲を生かすために、実現可能なものにと目的を変えるとか、所期の目的がかなうようにと、忍耐(手段)のあり方を変更しなくてはならない。

3-6-1-1.手段の営為が快なら、途中放棄でも無価値とはならない  

手段から目的へと歩む目的論的展開は、因果自然を超越した人間に固有の営為である。忍耐は、その手段の苦痛・犠牲をもって、これを圧倒する価値獲得を目論むが、これは、途中で放棄された場合は、その犠牲をもって終わることになる。だが、途中放棄でも、犠牲がないか、小さくて済むものがある。それは、手段が快の場合である。食や性は、快であるが、その各々の大目的の栄養摂取・受精がならなくても、文句をいうことは少ない。

3-6-1-2.苦痛の甘受は、目的がなってのもので、それ自体は反価値・犠牲  

 快は、受け入れて享受したいものになるが、苦痛は、その反対で、自然的には、損傷・犠牲を受けることであるから、強い回避衝動を生じる。忍耐は、その衝動を抑止して、損傷・犠牲を受け入れ、苦痛という体験したくない感情をあえて引き受ける。それをするのは、そのことをもってのみ、目的となる大きな価値が獲得されると思うからである。その目的がならない忍耐は、犠牲のみで、「骨折り損のくたびれもうけ」となる。

3-6-1-3.甘受した苦痛は、忍耐をさらに先へ目的へと進める  

 犠牲をはらって進む場合、目的が実現できないと、犠牲のみに終わることになる。犠牲という支払いを済ませたのだから、それに見合うものを手にするのでないと、損失のみとなる。無理をしてでも、少し多めのお金(苦労)を継ぎ足してでも、その品物・価値ある目的を手にしようとする。忍耐し苦痛を受け入れ続けて辛い状態になっても、そこで逃げたのでは、損害のみとなるから、目的実現まで忍耐を無理やりにも進めていくことになる。甘受済みの苦痛は、さらなる苦痛甘受へと忍耐をすすめる。

3-6-1-4.忍耐は、損(犠牲)と得(価値獲得)両面から駆り立てられる 

 忍耐は、苦痛甘受(犠牲)の成果である目的をめざす。目的が大きな価値をもつことを知って、これに駆り立てられ、そのために必須の苦痛・犠牲を受け入れる。途中でつらくなると、やめたくなるが、それでは、損害のみとなる。先に進むほど、やめたら、より大きな損害を被ることになる。その払った犠牲(苦痛甘受)は、忍耐がすすむほどに、より強く忍耐を目的実現にまで駆り立てることになる。損(犠牲)と得(目的)の両面から、忍耐は駆り立てられる。

3-6-1-5.得られるものがない忍耐は、即中断しなくてはならない  

 忍耐は、苦痛を好んで受け入れているわけではない。価値ある目的を実現するためにはやむを得ない手段になるということで、あえて苦痛を受け入れているのである。その目的となるものは、未来にあり未定のものである。忍耐する中で、その目的達成が不可能と分かったり、その目的には価値がないとか低いと分かったら、即その忍耐は中断しなくてはならない。甘受している苦痛は、無駄に損害を被るだけとなり、躊躇していたのでは、被害を大きくすることになる。

3-6-1-6.途中放棄は、損害・疲労のみをのこす  

 苦痛甘受は、目的のための手段であり、目的実現のならない場合、そこで払った犠牲は、報われないままに終わることになる。もう少し耐えれば目的が実現するとしても、自身の方が過度の辛苦に音を上げて忍耐放棄するということになるかもしれない。そこに残るのは、それまでに苦痛を甘受してきた犠牲のみとなる。損害のみ、疲労のみがそこには残る。忍耐する場合、目的の実現が覚束ないものは安易に引き受けるべきではないし、もし途中放棄しなくてはならないのなら、はやめに決断することである。

3-6-2.どんな忍耐も無駄にはならない  

 忍耐は、高い目的を実現するための苦難の手段、犠牲である。その目的が成就できなければ、その犠牲は生きない。骨折り損となるが、その場合でも、忍耐すること自体には、それなりの価値が残る。苦痛から逃げるのは動物的自然の大原則であるが、ひとは、これを拒否して、反自然的に逃げず耐える。その営為は、自然を超越した営為である。目的実現では失敗したとしても、忍耐という経験は、ひとの自然超越の自由を実現しているのであり、ひととしての尊厳をもったその営為をもって、その心身は、より逞しくなっていく。

3-6-2-1.目的不達成でも、忍耐経験は、忍耐力・自制力を養う 

忍耐は、それ自体は、単なる手段である。目的実現のための犠牲である。目的がならないとしたら、その苦痛甘受の忍耐は、損傷を受けただけ、犠牲を被っただけで終わる。しかし、目的獲得はならなかったとしても、苦痛に耐えたということは、自身のうちの強大な動物的自然を制御できたということで、誇らしいことだし、その苦痛体験は、忍耐の能力を一段と高めることになる。苦痛から逃げようという自身の衝動を抑止する忍耐は、自己を制する力を大きくする。自制心・克己の力は、失敗した忍耐でも養っている。

3-6-2-2.結実は他に奪われても、苦心する能力自体は自分に残る  

 忍耐が生み出す結果・目的は、忍耐した者のそとに独立した物事となって、他者に奪われることがある。強制的な忍耐では、しばしば、強制する者のために価値創造が強いられる。辛い奴隷労働では、忍耐の成果はすべて奴隷主に奪われる。だが、そういう場合でも、その忍耐した者がそこで培った忍耐力自体は、技術力などと同様、主体的能力として、忍耐した者自身のうちの体験として、苦心した当人のうちに残る。

3-6-2-3.実らなかった苦労も、のちの実りとなる  

 苦労してもよい結果が出ないこともある。それでも忍耐は、因果自然の歩みを人間的目的の方向へと向け直したのであり、その途上で、放棄したとしても、それは単に徒労に終わるものではない。第一、内面的に自身の自制力を高め忍耐力を大きくできていることである。さらに、途中までとはいえ、その歩みは、よりよい生へと幾歩かは前進させているから、のちのために踏み台を残す。司法試験に失敗して終わったとしても、その方面での知識は、のちに事業家となった時生かせる。

3-6-2-4.失敗の方が、ためになることもある 

 苦痛甘受を途中放棄すると、目的は得られず、せっかくの苦労・犠牲は、無駄に終わる。だが、主体の内面、何より忍耐し自制する力には、その方がためになることかも知れない。失敗は、おそらく、自己内の自然衝動をぎりぎりまで抑止してのことである。最大の自制力を試しえたのである。その辛い体験で自身のその方面の能力は一段高まっているはずである。その失敗・挫折経験は、成功では忘れがちの反省にと自身を向けるから、自身を客観的に把握する機会ともなる。

3-6-2-5.失敗は、自己の自然必然と自律自由を反省させる 

 自然においては、苦痛が大きければ自ずとこれを回避する。だが、ひとは、これを自発的に甘受することができる。この忍耐は、ひとの理性意志が自然を超越する誇らしい営為である。その途上で耐えきれず忍耐放棄するとしても、ぎりぎりまで苦痛回避の自然衝動を抑止して、自然超越の自律自由の歩みを進めたのである。その失敗経験は、反省をせまる。自身の尊厳をもった理性意志の微力の現実を知り、自己内外の自然の強さを改めて自覚することとなる。

3-6-2-6.捲土重来は、忍耐では、ふつうのことである  

 何事も、一回でうまくいくことは少ない。試行錯誤を繰り返して、最後、目的となるものへと達することができる。忍耐は、力不足で途中放棄となることがしばしばである。しかし、忍耐とその放棄の経験を重ねるごとに、だんだんと力をつけ、よりよい仕方を見つけて、最後、目的を実現し忍耐を成就する。雪辱を期すこと、捲土重来は、忍耐では、普通のことである。ダイエットなど、一回で成功して終われることはまれであり、何回も失敗をし、反省を繰り返すなかで工夫を重ね根気をやしない、最終的な成功をものにするのが普通であろう。

3-6-3.鍛錬・訓練は、忍耐と忍耐放棄の繰り返しであろう 

 心身の能力開発の鍛錬は、自身のもっている能力の限界に挑戦し、ぎりぎりまで耐えて、もうこれ以上は無理というところまで鍛えていく。つまり、忍耐して、最後には、忍耐放棄するところまでいく。限度まで苦痛・損傷に耐える。それを終えて休息する間に、体力を回復し、より強い、より逞しい心身にと向上する。忍耐と忍耐放棄をセットにして、これを反復して、目指す心身の強化を実現する。

3-6-3-1.能力開発の訓練は、しばしば限界での忍耐放棄で終わる  

 鍛錬が目指す獲得すべき能力は、高くに置かれ、その高みにまで向上するようにとプログラムを作り実行する。目指す能力を引き出すためにすでにもっている能力を最大限発揮させ、強い負荷をかけて、耐えうるぎりぎりの限度までを耐えさせていく。これ以上は無理という点まで耐えさせる。その無理の点とは、全力を注いで、忍耐できず、忍耐放棄するに至る点である。放棄・敗北は、よいことではないが、自身の最大限を尽くしたということであり、達成感を抱ける終わりである。次回の向上が期待される終わり方である。

3-6-3-2.限界での忍耐放棄は、自分の能力の自覚になる 

 忍耐していて我慢の限度になってついには忍耐放棄する。その放棄は、くやしいことである。だが、それが自身のその時点での最大可能な限度なのであり、自分の分をそのことで知ることになる。なにをするにしても自分を知ることは大切である。訓練で、限度を知りそこで忍耐放棄するのは、理想的なことであろう。そのぎりぎりの限度まで耐えることで、忍耐力はついてくる。次回は、もう一段高いところが限度となる。実地にことを展開するとき、自分の能力の限界を知っておれば、失敗を防ぐ。

3-6-3-3.苦痛の限界は、主観的で、可変的である 

 苦痛は、客観的な損傷とちがい、主観内の感情であるから、かなり可変的である。他の大きな苦痛が出てくれば、その苦痛は感じなくなり、慣れてくれば小さく感じ、気がかりなことになると、大きく感じもする。したがって苦痛甘受の忍耐の限度も通常の場合と、非常時のそれで異なることを経験して踏まえておくことも訓練の一環となろうか。ここというところでは、限界をいっそう高くでき、苦痛甘受の限度、忍耐を例外的に大きくできる。

3-6-3-4.実地では、途中での忍耐放棄の許されないこともある 

 訓練・教育の場では、苦痛甘受の限度になったら、これを中断し放棄してもよい。失敗も含めて、能力が向上すれば、有意義なものと評価される。だが、実地の場合は、辛くなってもこれをやめることのできない場合が多くなる。眠くなったからといって、ほかの人と合わせる必要があれば、休むわけにはいかない。途中放棄することは、目的達成がならないことで、その苦労・忍耐を無意味なものにしてしまう。

3-6-3-5.訓練の目的は、能力向上で、それが生みだす物ではない  

 農業高校では、実際に農作物を作る実習があり、これが売りに出されることもある。その実習は、教育としては、あくまでも、生徒の能力を開発し高めることが目的になる。忍耐力もそこでは目標のひとつになる。長い期間辛抱してはじめて実りを得るといったことを体験し、忍耐力も養う。だが、実際に農業をはじめると、能力ではなく農産物自体の生産が目的だから、能力開発は背後に引っ込む。忍耐も、限界になったら放棄して良いというような悠長なことは言っておれない。

3-6-3-6.訓練では出せない力が、実地・本番では可能になることもある 

 訓練では駄目でも、実地・本番になると強い者がいる。スポーツ競技では、本番になると日頃の力以上が出る。戦争体験者の話では、戦闘の中では、人の日頃の能力では到底かなわないことが、眠らないとか食べないとかに至るまでできるようになるという。動物でも、大移動のときは、日頃なら骨折するに違いない断崖から飛び降りることが平気で出来るようになる。火事場の馬鹿力は、ある。日頃、訓練して鍛えておれば、そういう場では、さらに高い能力の発揮が可能となる。

3-6-4.鍛錬だと思えば、忍耐放棄に至っても自棄にはなりにくかろう 

人生の肝要な場面で、忍耐を貫けずこれを放棄して目的成就がならず断念するということがときに生じる。痛恨の極みということになり、絶望的となって、自棄にもなりやすくなる。だが、ぎりぎりを耐えてのちに忍耐放棄したのなら、忍耐力はついていることだし、その点までは進めたのであり、自分に与えられた尊い試練だった、特別の実地訓練だったと解すれば、落ち込むのもほどほどにできよう。

3-6-4-1.忍耐放棄は、訓練よりも、実地での方が勉強になろう  

 忍耐は、それ自身は、苦痛を耐え犠牲を受け入れるだけであり、手段なのであって、これを途中で放棄して目的が実現されなかったとしたら無駄骨ということになる。忍耐の失敗は、おそらく多くの教訓を残す。訓練中の忍耐放棄の失敗は、それを見込んでの訓練だから、深刻な反省は、もちにくい。実地の場面でのそれは、損害を生じその責任をとらねばならないであろうから、猛省を自身に強いる。実地訓練は、実際に慣れることを目的とするが、途中放棄にも、実際に近い失敗への反省をもたらすことであろう。

3-6-4-2.自棄になるぐらい耐えたのなら、相当の忍耐力がつくはずである  

 自身の耐えうる限度を超えると、耐ええなくなってくる。忍耐放棄となる。そこで情けない自分だと自棄になるようなことがあるが、情けないと思うのは、もっとできるはずという自己評価があるからで、おそらく、次回はその高みまでと、雪辱を期す心構えをもつことになる。しばらく休息してのちの回復時には、そのレベルの苦難には平気で耐えうるほどに、主観的な苦痛のこと、その感度を変え、負けじ魂を奮い起こし、忍耐力は大きくなっていることであろう。失敗は成功のもとというが、忍耐放棄でもそうである。

3-6-4-3.実地での忍耐放棄も、害悪が小さければ、許される  

 訓練とちがい、実際の仕事では、忍耐できなくなったからといって勝手にこれを放棄することは許されない。自分が傷ついても忍耐を完遂しなくてはならない。しかし、ときには、それが許されることもある。忍耐のぎりぎりでの放棄は、訓練では当たり前のことだが、日常の実地の場面でも、害が少なければ、やむをえない放棄は許される。実地訓練扱いということになる。失敗を反省すれば、次回、それをしないで済むようになろう。

3-6-4-4.忍耐放棄の積み重ねが人生かも知れない 

仕事では、苦痛の限界までしなくてはならないことは少なくなっているが、日頃の、自身のこととか人間関係では、いまでも結構ぎりぎりまで耐えることは多い。相手の態度に我慢ができず激怒した、といったことを繰り返す。それでも、我慢とその失敗を繰り返しつつ、少しずつはましになってくる。ダイエットなども、失敗を繰り返すのが普通であろう。適正な食という忍耐ができず、忍耐放棄して、過食する。忍耐放棄を卒業して肥満を是とするに至るか、忍耐放棄を重ねて、やがては、ダイエットの要領をつかんでこれに成功するというようなことになる。

3-6-4-5.成功より、不成功・忍耐放棄の方が伸びる余地をつくる 

 ものごと、成功すれば、有頂天になり反省することなく終わる。だが、失敗すると、後悔し反省して次回はと工夫して向上の姿勢を作り出す。忍耐も、同様であろう。忍耐しきれば、安堵して終わる。だが、途中放棄となると、くやしく、捲土重来を、力をつけねばと進めていく。ぎりぎりで放棄したのであれば、次回に向けては、より大きな力をつけ、よりしっかりした忍耐力を作り出していくことになろう。

3-6-4-6.ぎりぎりでの忍耐放棄は、忍耐力強化に理想的である 

 ぎりぎりまで耐えても、耐えきれず忍耐放棄することは、くやしいことである。だが、忍耐は経験をもって強化されていくもので、最大限を発揮してそれで間に合わないという時点での経験が一番忍耐力向上になる経験であろう。腕力は、その筋肉が過度の使用で損傷・筋肉痛をもつぐらいになって、より大きくなって再生する。忍耐力は、苦痛の経験を踏まえて、それに適応できるような体勢を次回に備えて作り上げる。ぎりぎりの限度いっぱいでの忍耐放棄は、忍耐力強化には理想的なものとなる。

3-6-5.忍耐する気がないのでは、痛めつけられても力はつかないだろう 

 忍耐するようにと求められても、その気がないのでは、忍耐はなりたたない。苦痛が加えられても、これから逃げるだけでは、忍耐するという意志は、働かない。苦痛回避の衝動は放置されたままとなるから、それへの自制力は動かない。忍耐するための働きがそこにないのであれば、いくら損傷・苦痛を被っていても、忍耐経験は成立せず、経験をもってなる忍耐力強化も無理なこととなる。

3-6-5-1.意志の工夫があっての忍耐力の養成だろう  

 苦痛甘受の忍耐は、苦痛回避の衝動を抑止する意志の働きを中心にして動く。忍耐する気のないものは、その意志を持とうとしない。自然衝動のままに苦痛から逃げるだけである。忍耐する意志を持つ者は、苦痛から逃げようとする自身の自然状態をふまえ、これを動かさないようにするための反対の心身の動きを作り出すことに努める。苦痛の注射を前に腕を引こうとするのを抑止して、意志は、逆に自らの腕を注射器の前に差し出す。そういう意志の動きをもたないのでは、忍耐力は身につかない。

3-6-5-2.忍耐の気がなければ、苦痛の受け入れ方の工夫もしない  

 忍耐は、苦痛から逃げない。耐えようという意志も、その対象の苦痛感情も自己内のものであるから、ある程度自身で調整できる。耐えがたい苦痛を穏やかなものに変えたり、場合によっては感じなくもできる。意志もその忍耐の意義を自覚すれば、より大きなものにできよう。だが、忍耐する気のない者は、自然の反応のままに、苦痛甘受が必要でもこれを回避するし、苦痛から逃げられない場合、わめきたて悪あがきを続けて、しばしば、無用な苦痛を長引かせる。

3-6-5-3.忍耐する・しないで苦痛自体は変わらない 

忍耐しないで苦痛から逃げる者は、その苦痛を回避できるのであれば、楽である。だが、苦痛から逃げたいと思っても捕まってしまった場合は、苦痛を感じ続けざるをえない。忍耐する・しないに関わらず、苦痛は同じように感じることになる。この場合、忍耐する者は、苦痛と正面から向き合うから、しだいに苦痛をうまく制御できるようになり、これに慣れると苦痛を感じる度合いは小さくなる。だが、苦痛から逃げる姿勢の者は、おそらく、これに慣れようとはしないから、苦痛をそのままにいつまでも感じることになろう。

3-6-5-4.苦痛から逃げない心構え・意志が肝要 

 忍耐力をつけるには、これを反復し経験を積み重ねることであろう。その際、忍耐する意志を堅固にもつことが何より求められる。苦痛の受け入れ、苦痛に慣れることも大切だが、苦痛から逃げないという意志が一番大切であろう。意志が苦痛回避の衝動を抑止する。苦痛から逃げない、忍耐を放棄しないという意志を貫き通すことが忍耐の持続を可能にする。その忍耐経験を反復して、意志は自身を強化していく。

3-6-5-5.逃げ腰では、忍耐の工夫はうわの空となる  

 何らかの理由で、やむを得ず忍耐していても、忍耐する気のない者は、注意・関心を、忍耐をしないで済むことに、放棄することに向けていく。逆に、自らの意志において忍耐する者は、苦痛甘受の仕方や、よりよく意志を働かせる方法等に注意するから、これを見出して忍耐の力もついてくる。忍耐することにうわの空であったのでは、同じ苦痛を受け入れて忍耐していても、忍耐力の身につく度合いは小さくなろう。

3-6-5-6.やる気を出すにも工夫がいる  

 やる気がないと、それへの意欲がもりあがっていないと、何をするにしてもうまくいかない。そのやる気を出す、出さないは、主体の心構えしだいである。苦痛甘受の忍耐は、とくに、回避したい苦痛が対象であり、やる気を出すには、その目的・意義をしっかり意識して、価値ある犠牲と自覚できることが必要である。競争的な意識をもつことも自身を駆り立てる。日々の目標を立てて、日々成果が見いだせれば、倦怠なども防げる。

3-6-6.忍耐は、手段だが、充実した生自体にもなりうる 

 苦痛甘受の忍耐は、目的のための犠牲であり、出来れば、なしで済ませたいものになる。しかし、ひとは、快不快に従う動物にはとどまらず、その自然を超越して生きる。ひとの精神的な世界では、苦痛回避の自然衝動を抑止し超越して、苦痛となるものでも価値があるものなら、これを受け入れる。精神的な価値実現としての霊山への登山では、身体は疲労し足の筋肉は痛むけれども充実感をいだかせることであろう。足の痛みは、その精神的な尊い営為をあかす痛みとして満足をもたらす痛みとなろう。

3-6-6-1.忍耐は、価値獲得の手段・犠牲だが、価値自体でもあろう 

 忍耐は、自然的な快苦を超越して苦痛から逃げず、苦痛を手段として役立てる。反自然のもと、苦痛回避衝動を抑止して超自然の振る舞いをするのであり、ひとの自律自由を実現した、尊い営為である。かりに忍耐(手段)の目的実現はかなわなかったとしても、忍耐という営為自体に、その苦痛甘受自体に、自然超越の人の尊厳の価値を見ることができる。さらに、意志は、苦痛と対決することで鍛えられ、忍耐の能力を大きくするという価値も実現している。

3-6-6-2.動物は動く物だが、ひとは不動でもある  

 動物は、動くものである。動く事自体が、生きているという価値を体現している。対象世界に有益なものを求めて近づいていこうと積極的に動き回る。足で自身を動かすとともに、手をもって対象を動かしても行く。さらに、ひとは、手と足で動く動物でありつつ、これを超越して、頭を使って自然自体を支配し自由にするようにと動いてもいく。その中では、自然超越の端的な営為、つまり、自然的には苦痛から逃げるものを逃げないで、これを手段として目的実現に利用するという、たぐい稀な不動の行動もとる。ひとは、快にも動かず、不快・苦痛にも動かないで自制・忍耐できる、動物的な自然衝動から自立した不動の存在である。

3-6-6-3.ひとの価値は、反怠惰・反停滞の、犠牲も含む活動にある  

 動物は、動く物だから、停滞・怠惰は、反動物的な状態であろう。ひとは、さらに単に動くということを超えて、自然から超越して動き、自由に自律的に動く。忍耐は、反自然的に苦痛と対決し、苦痛回避衝動を抑止する超越的営為である。未来に目的を描き、現在の苦痛・損傷受け入れの手段・犠牲をもって目的に向かって動いていく。この人間的営為での怠惰・停滞は、快に埋没して怠惰にながれ、苦痛に立ち向かえず停滞することであろう。その怠惰や停滞を乗り越えて、自制し節制・忍耐することをもって、犠牲をもって、ひとらしい活動は実現される。

3-6-6-4.苦痛という犠牲(手段)が価値を創造する 

 苦痛(労苦)は、手段となって価値を生むから、苦痛を引き受ける者は、価値所持者なのである。その価値の欲しい者は、労苦(犠牲)に代価を支払うことで、価値を紡ぎ出してもらう。つまり働いてもらって、価値ある事物を手にすることができる。犠牲、苦痛甘受は価値となる。ただし、無闇に苦痛を受け入れても駄目で、ひとの欲し求めるものが価値になるのだから、そういう欲求を充たす形での苦痛の受け止め(忍耐)の働きでなくてはならない。

3-6-6-5.苦難への挑戦に生きがいがある  

 ひとには、自然超越の能力がある。自然と対決してこれの強制を拒否し、これを自由な目的の手段にすることができる。自然は、苦痛をもってそこから身を引くようにと強制していて、動物は、これに従順である(クマも、蜂蜜のためにと苦痛を我慢する。が、苦痛の方が大きければ退散する。自然内の営為である)。だが、ひとは、これをはねのけて苦痛に敢然と向かい合い、これを甘受する。この挑戦は、ひとのみにできる自然超越の尊厳をもった営為である。苦痛が大きいほど自然への対抗を強く意志しなくてはならない。挑戦のしがいのあることとなろう。

3-6-7.三日坊主を防ぐ心構え・工夫 

愉快なことは、続けたいから、どこかでやめることを考える必要がある。だが、忍耐では、その必要はない。苦痛甘受だから、好んでやりたくなるものではなく、放置しておいた場合、惰性で持続するというようなことはない。逆に、やめたくなることが常に生じるから、持続への努力が求められる。早朝の身体の鍛錬など、よほどの覚悟をしているのでないと、三日坊主に終わる。苦になるものでは、それを行うことの意義・目的を大きくはっきりさせておくとか、無理でないやり方を工夫することが求められる。

3-6-7-1.隗より始めよ、である  

 忍耐は、苦痛になるから、快とちがい、すすんでしたくなるものではない。始めるには、それ相当の決意がいる。高いところにある苦痛の忍耐をはじめるとなると、心身の活動力を、ボルテージを高めていく必要がある。その一歩を踏み出す決心がつかないということがしばしば生じる。そういう場合、踏み出す最初の階段を低くしておく必要があろう。身近なことをもって気軽に始められるようにすることである。寒い時期の運動なら、まずは、ふとんのなかで布団の重みを利用して寝たままで筋肉強化を始めたらいいのである。

3-6-7-2.惰性・ルーチン化をもって、持続しやすくする

 万物には、慣性があるから、これを利用すると持続しやすくなる。生あるものも、それなりの慣性を、惰性ということでもつ。ひとの場合も、一旦できあがったものは、良くないことでやめねばと思っても、惰性で続いてしまう。忍耐のいることでは、苦痛があるから、これが持続を阻止するが、それでも、その忍耐を習慣化し惰性・慣性化することで持続しやすくなる。その忍耐の過程を定作業化し、ルーチン化しておけば、一々に考えてすると億劫になり、やめたくなることが、スムースに知らぬ間に行われることともなる。

3-6-7-3.禁煙は、持続にすべてがかかっている 

 禁煙は、三日坊主になる代表のようなものである。少し気をゆるめると、喫煙欲が屁理屈を作り出して、「そう頑固にならず、一本ぐらい吸ってもよかろう」と誘いをかけて、一本だけということで吸う。と、その吸ったという事実に引き寄せられて、喫煙欲は息を吹き返して、禁煙は失敗する。禁煙では、一回も中断しないという持続が求められる。15時間やめている、3日やめている、8日続けているという、持続をしっかりと計ることが、禁煙の忍耐の勘どころとなる。

3-6-7-4.無理は長くは続かない  

 忍耐は、嫌でやめたいものになるから、そこに無理があると、持続は一層困難となる。苦痛では、損傷のあることで、無理をしていたのでは、その損傷を大きくしてしまう。取り返しのつかない損傷へと到れば、持続どころではなくなる。損傷からの回復可能な忍耐にとどめて、無理のない状態を保つよう、持続において、気を配っていなくてはならない。苦痛は主観的なもので、過敏であったり鈍感であったりと気まぐれなところがある。その点、損傷は客観的だから、損傷において、無理かどうかを測るのがふつうであろうか。

3-6-7-5.休止・休憩は長すぎてもいけない  

 忍耐の持続では、緊張し心身の活動性・ボルテージを高くしている。休むとそれを弛緩させる。そのことで、疲労から回復して、再度、同じ忍耐の持続が可能になる。だが、休むことが長いと、活動への準備状態も解除して、はじめからやりなおして活動のためのボルテージを高める作業がいることとなる。長期の忍耐で、途中で休みをとらねばならない場合、疲労を回復できる程度にしたい。休止が長すぎると、心身がだらけてしまい、活動性を取り戻すのが大仕事になる。

3-6-7-6.成果を明確にしメリハリをつけねばならない 

 忍耐は、嫌な苦痛の甘受である。あえて、これを引き受けるのは、その手段・犠牲をもって、これを遥かに超える大きな価値・目的が可能となるからである。忍耐の目的・意義をしっかりと自覚することが求められる。しかし、最終の大目的のみを描いていたのでは、はるかな先のことで、疲労だけが目立ち蓄積して、あきらめ勝ちともなる。日々の目標を掲げて、身近に達成感をもてるようにするとか、苦痛が大きなときは、休憩をいれるとかのメリハリをつける工夫もいる。

 

4.根性・根気は、忍耐を支え、忍耐が養う  

 忍耐は、逃げ出したいのをふんばって堪えるのであり、歯を食いしばって苦痛を受けとめつづける。少々ではへこたれない逞しさが、根性と言われるようなものが求められる。さらに、忍耐は、これを持続させていくことが肝要で、どこまでも耐え続ける根気といったものも不可欠である。根気や根性がしっかりしておれば、忍耐力に富むことになる。逆に、忍耐の経験を重ねておれば、忍耐の力としての根気・根性が養われてくる。

 

4-1.根性・根気等の忍耐力を支える知・情・意 

 忍耐力としての根性・根気は、ひとの活動の主体的源泉である知性、感情、意志・意欲といったものによって支えられている。知恵や意欲等を協働させて、ひとは、よりよく忍耐できるようにと工夫している。苦痛に無意味に耐えるものはいない。大きな価値ある目的が達成できると思うから犠牲もいとわない気持ちになるのである。その忍耐の価値を知性がしっかりと捉え、これに感性も賛同し協同して、強い意欲をもって、忍耐への決意を確固としたものにしていく。そういう経験の反復が根性や根気を養成する。

4-1-1.忍耐の力と持続は、理性に負い、感性もささえる   

 忍耐には、苦痛回避の強い衝動を抑止できる逞しい力が必要である。しかも、苦痛は多くが長く続くので、へこたれず持続することが求められる。理性は、概念をもって方向を指し示し、変わらぬ対応、忍耐の一貫性を堅持する。感性も、目指す目的に魅され、苦痛緩和のために快をあてがう工夫をする。あるいは、忍耐を支える攻撃的意欲、闘争心は、苦痛などものともせず、その目的の実現まで忍耐を駆り立てていく。ひとは、その有する諸能力を総動員して忍耐に対処している。

4-1-1-1.理性意志が忍耐を制御し貫いていく 

 忍耐は、なんと言っても意志の主導のもとになりたつ。自然を超越した理性の実践的機能である意志が、苦痛回避の自然衝動を抑制して、苦痛、損傷をあえて受け入れ、これを手段にして理性の目的を実現しようとする。この意志が優柔不断でふらふらしていたのでは、一貫した目的追及はかなわない。幼児では、まだ、その意志がしっかり形成されていないので、自然の快不快によって動かされることが多くなる。苦い薬は、なかなか飲ませることができない。大人でも、意志が定まっていないと、少しの困難にもすぐ音をあげて、安易な方へと方向転換してしまう。

4-1-1-2.知性は、忍耐の価値を示し、これを鼓舞する  

 ひとでも幼児などは、苦痛を受け入れて忍耐するということは、難しい。知性が発達して、ことを理解できるのを待つ必要がある。その苦痛を手段として受け入れて忍耐することで、その先に大きな価値ある目的が実現できるという筋道が分からないのでは、苦痛を受け入れるなどという反自然・超自然の営みを実行する気にはなれない。自然的生には受け入れがたい苦痛を甘受する忍耐は、自然超越の知的営為のもとで実現される。知性は、その忍耐を手段とする目的論的な筋道、達成できる目的の価値を明確にすることをもって、ひとの忍耐を導き、鼓舞していく。

4-1-1-3.知性は、忍耐の遣り甲斐を示し、やる気を作り出す 

 目的のための犠牲となる忍耐は、その目的の価値の大きいことを知れば、その犠牲の価値がそれだけ大きいと分かり、大きく鼓舞される。あるいは、忍耐しないと大損害になると想定することができれば、自身を強くムチ打って耐えていこうという気になるであろう。忍耐しているその目的は、直接的にはひとつあげられるだけだとしても、それに並んでいくつも副目的があり、その目的実現にともなう価値ある副産物もたくさんあげ得る。それらの多くの価値がすべて、現在耐えていることでもって可能になるのだと知れば、忍耐は、大いに、し甲斐のあることと解され、やる気を高めていくであろう。

4-1-1-4.感情は、苦痛に対決する忍耐を支える 

 忍耐は、苦痛を対象にする。苦痛は、感情として、心身に緊張・抑うつ反応をもたらすから、これに反対の感情反応を湧出できれば、苦痛を小さくできる。快感情をそこに起こせば、弛緩し躍動的な反応をもつから、苦痛の緊張や抑うつは小さくなる。感情は、忍耐する意志自体も支える。楽天的な感情・気分は、苦痛で暗く沈みがちのところに明るさをもたらし、未来の希望の方面を照らし出して、意志の活動力を高める。

4-1-1-5.くやしさなどの感情は忍耐力を大きくする 

感情は、ひとを前向きにも後ろ向きにもする。悲嘆は、ひとを、無力の状態にと陥らせる。だが、同じ悲しみでも、くやしさの感情は、ひとを鼓舞もする。くやしさは、敗北したときに抱くが、負けて悲しいという喪失感をもつとともに、負けたままでなるものかと捲土重来を期す意気ごみを、攻撃的な怒りの感情をともなう。くやしさは、奮起することへと意志を駆り立てて、忍耐への勢いをつけてくれる。

4-1-1-6.欲求は、忍耐の意志を突き動かす 

 欲しいものがあると、それを何とか手に入れようと、心身をその方向へと活動的にしていく。忍耐の目的がそれであれば、苦痛を受け入れてでも、実現したいということになる。忍耐の直接の目的ではないものであっても、忍耐を続けることで、その欲求実現に大きく近づくと分かれば、その欲求も忍耐の意志を駆り立ててくれるであろう。つらい仕事にへこたれそうになったとき、その仕事の報酬をもって、欲しい物を入手したいという強い欲求があれば、報酬を得るまで、仕事に耐え続けねばと踏ん張ることであろう。

4-1-2.忍耐反復で、苦痛と忍耐意志の適正化がなる 

忍耐は、苦痛から逃げず甘受するが、その苦痛の感じ方や苦痛回避衝動の抑止の仕方は、実際に忍耐するなかで、よりよく耐えていけるようにと、修正され、適正化されていく。はじめは、苦痛を過敏に受け取るのが普通であろうが、経験すれば、意外に何でもないと平常心で受け止めていける。苦痛からの逃げ腰の態度も、経験反復のなかで改まり、「ここで緊張を解いておけば、無理なく忍耐を持続できる」等と学んでいく。

4-1-2-1.忍耐反復は、心身を苦痛甘受に適したものにと変える 

 苦痛には、過度に反応しがちだが、実際に経験すると、ほどほどの構えでよいと分かって適正な反応におさまっていく。素足で歩くと最初はすぐに傷み苦痛ともなるが、足の裏は、だんだんと素足に慣れてきて、少々では傷まないように皮が厚くなって適応する。苦痛への対応も、経験することで、余計な悲観的な想像はなくし、大きな苦痛には、これを鎮める作用のあるホルモンを多めに出す等、うまく適応できるようになる。

4-1-2-2.苦痛は、慣れてくるし、快をもって中和されうる  

 はじめは、痛みには過剰に反応する。だが、これに慣れてくれば、経験の反復で、ほどほどの適切な苦痛の受け取り方ができるようになる。大きな苦痛でも、過去これに耐えたという経験は、自信をもってこれを受け止めさせてくれる。疲労蓄積の苦痛も、経験の度に、それがたまりにくい方法にたけてくるだろうし、疲労からの回復の工夫も上手になっていく。休憩とか飲食とかの快をもって苦痛や疲労が小さくなることも体験的に学んでいく。

4-1-2-3.苦痛回避衝動を抑止する神経は忍耐反復で太くなる 

忍耐では、苦痛から生じる苦痛回避衝動を抑止することが肝心となる。その抑止ができないと忍耐放棄になるから、意志は、抑止のために全力を注ぐ。尿意の苦痛で排尿衝動が大きくなるのを、忍耐する意志は、抑止する。苦痛に耐えて尿道括約筋などを緊張させたり、膀胱を緩めたりして出ないようにと努める。だが、普段、自然に任せていることであれば、どこをどうしたらいいのか分からないし、分かっても、随意の筋肉であっても思うようにはならない。その方面の知見をふまえながら、これを経験の反復でだんだんとできるようにもっていく。

4-1-2-4.ホルモン分泌や血圧などが忍耐対応になっていく 

 忍耐では、苦痛を受け入れ、これから逃げないようにし、それを持続させることが求められる。心身は、経験をふまえて、忍耐のかないやすい状態を作り上げていくことになる。意志が力んで苦痛回避衝動を抑止することが必要なら、そこでの攻撃性を高めるために攻撃的な脳内ホルモンを、アドレナリンなどをより多く分泌することを習慣化することであろう。そういう場面に出くわすと、必要な程度に血圧をあげることなどにも慣れてくるであろう。

4-1-2-5.経験のなかで、根性、根気も培われる 

忍耐では、快不快の自然の動きに対立してこれを抑止するから、その自然を超越した理性意志の強く働くことが必要で、それを持続させる体勢もしっかりしていなくてはならない。この忍耐する、自然的生に抗しての営為は、当然、自然に与えられるものではないから、経験の反復のなかで、心身の協働的なまとまった動きを習慣化して獲得すべきものである。その心身の総合力をもってする、強い苦痛にしっかり耐える強い忍耐力が、根性となり、長期にわたってそれを持続させる力が、根気となる。

4-1-3.やる気 

 自然な状態のままでは、苦痛からは逃げることになるから、忍耐するには、意志が、苦痛受け入れへと動くのでなくてはならない。意志が忍耐に踏み出したとしても、ぼんやりしていたり、快苦の自然の力が大きくなると、忍耐放棄にと流れていくことにもなる。理性が忍耐を意志するのだが、それがしっかりした営為となり持続するには、意志だけでなく、知性も感性もまとまって全体として忍耐する構えを作り上げて、やる気を出すことがいる。やる気がなくては、忍耐は進まない。

4-1-3-1.忍耐に乗り気で積極的な意欲をもつ  

 苦痛を受け入れようという反自然的営為の忍耐は、自然なままの意識状態では、進んでいかない。自然への挑戦の自覚(自然を超越した、人の尊厳が忍耐にあることを自覚したい)、その行動への能動的な心構え、積極的な意欲が求められる。いやいやの自然状態では、苦痛から逃げる口実・機会を見つけようと画策するから、早晩、忍耐は続けられなくなる。忍耐への意志を堅持して、その意欲・やる気を高めていく工夫が必要となる。

4-1-3-2.やる気、気合い、活動へのボルテージをあげる  

やる気がないと、忍耐は、反自然の無理をするのだから、長くは続かない。そのやる気を出すには、まずは、心身を活動的にもっていくことであろう。苦難の襲来に挑戦的に構え、「さあ、かかって来い」と声を出し気合いをいれ、血気盛んにしていくと、心身は、それ用に戦闘的な心構えになっていく。胸を広げ、呼吸も、酸素を多く取り入れるようにと深く大きくしていけば、血圧も高まっていき、攻撃用のホルモン、アドレナリンなどの分泌も多くなろう。活動への勢い、ボルテージが上がっていくことであろう。 

4-1-3-3.やる気を出すよう、ポーズをつくる 

 やる気になかなかなれない場合、まずは、身体的外面をそういう形にしていくことである。身体がそうなれば、(感情の半分は身体反応からなる。身体を大きく広げれば、悲観的な萎縮した感情は引っ込む)、しだいに心自体も身体に沿うようなものになっていく。座禅では、まず身体を整えることからする。心を不動に無にするために、身体をまずそうする。動けぬように手足を折る。調息を行い、調心に持っていく。これと同じように、やる気も、身体を動的にもっていき、力むなどのポーズをつくり、声もあげて「やるぞ!」と言えば、心もその気になっていく。身体が動けば、攻撃的ホルモンも遅れながらもしっかり分泌されるようになろう。

4-1-3-4.苦痛・損傷への反発力が湧き上がるのに乗る 

 生あるものは、生を保護するために、苦痛や損傷から逃げようとするとともに、これを排撃しようともする。生損傷を防ごうと、苦痛になるものを排除しようと挑戦的になる。逆境のような苦難は、ひとを滅入らせるが、逆に闘争心に点火することもある。チャレンジ精神を目覚めさせることがある。敗北でのくやしさは、悲しみとともに怒りの攻撃欲求をうちにもつ。その怒りの攻撃的エネルギーは、捲土重来、雪辱を期すということで、忍耐するために役立てることができよう。

4-1-3-5.意欲を高めるための情報を意識していく 

ひとは、情報によって動く。忍耐すれば、大きな価値が獲得できると確信して、ひとは、逃げたい苦痛から逃げず我慢を続ける。その価値が大きいほど大きく忍耐できる。その忍耐に使命感を抱く者だと、そこに自分の存在の意義を見出して、なにがあっても、それを貫かねばならないと、それへの意欲を大きくする。その苦難に耐え切れば、その直接の目的だけでなく、周囲の副次的な目的がなり、さらにその先の大きな価値が可能になると深慮し遠謀できるなら、大いにやる気をかきたてられることであろう。

4-1-3-6.意欲をかきたてる  

  意志があっても、それだけでは、快不快等の自然の抵抗が大きければ、実行に踏み切るまでにならないことがある。その意志するものを、欲求とすることができれば、両方が協働して実行へと進みやすくなる。欲求は、それを満たすことへとひとを駆り立てていく。この欲求と意志の一つになったものが、意欲であろう。いやな忍耐をするとき、大きなアメを褒美とすれば、その忍耐は、欲するアメにひかれて、意欲的にすすめられる。

4-1-4.覇気、意気軒昂  

 意志は、何かを実行する意志であるが、単に実行しようと思うだけでは、実在世界を動かすことはできない。目的を実現するには、実際に自分の手足を動かし現実を動かしていかねばならない。実行への積極的な気持ちをもち、快不快の自然の抵抗に勝って、事を進めていく意気込みが必要である。目的までの過程を描いて、これに向けて進むべきだと頭で思うだけではなく、そこにエネルギーを集中して心身を動かし、内外の自然の抵抗を撃破しなくてはと奮い立つことが求められる。

4-1-4-1.意気込む

忍耐は、苦痛回避衝動という強い自然の力を抑止できなくてはならない。この衝動と対決して、これが動かないようにできる抑止の力が必要となる。その衝動は、自身の心がけ次第で、抑止できたりできなかったりとなる。忍耐には、苦痛から逃げない自身の覚悟が必要で、これへと意気込むこと、そのことで自身の超自然的存在としての力が試されるのだと、気持ちを高ぶらせることが求められる。意気込むとは、やる気に全霊をこめてかかっていくということであろう。

4-1-4-2.身体を引き締めれば、心も引き締まる 

 かつては、眠気がさすときなど、冷水をかぶるようなことをした。身体が引き締まれば、おのずからに心身全体が緊張感を得て、なすべきことに集中できるようになった。自分で両の頬を叩いて気合をいれることがある。身体を苦痛になるほど刺激して、心身を覚醒し意識を集中しようとする仕草である。忍耐も続けていると、だらけて来る。その時を狙って激痛が見舞えば、たちまち忍耐放棄となる。そうならないように、身を引き締め、適宜に緊張を維持して、忍耐放棄になることがないようにと気を配ることが必要である。

4-1-4-3.アドレナリン等を普段以上に分泌 

忍耐にと意気込み、心が緊張し挑戦的な姿勢を維持すれば、それに見合う身体の状態が作り出され、一層、スムースに挑戦的対応をとれることになる。血圧をあげ、血流を多くして臨戦態勢ができる。あるいは、ホルモンも戦闘体勢に見合うものとなって、攻撃的なアドレナリンなどもより多く分泌されるであろう。苦痛が大きければ、快でそれを薄めるために脳内の快楽様物質も出やすくなるかも知れない。血気盛んになり、血が滾り、肉躍る状態になる。

4-1-4-4.苦に飲み込まれず、逆に飲み込む勢い  

 忍耐は、苦痛を甘受する。苦痛の自然は、回避への強い衝動をともなう。大きな苦痛や長い苦痛では、忍耐するはじめの意志のみでは早晩忍耐放棄となるから、忍耐持続には、より強い反自然の意志が必要となる。しっかりとした忍耐する意志は、苦痛に支配されないのはもちろん、できれば、これを手玉にとって支配するといった、攻勢的な構えをもつことが望ましい。飲み込まれるのではなく、一歩距離をとって、飲み込んで、その苦痛・損傷を突きはなして向かえば、受動的でなく能動的積極的姿勢をとれば、覇気を持った心身が整ってくることであろう。 

4-1-4-5.目的を高く掲げ、自信をもって進む 

 苦痛を受け入れて耐えるのは、そのことで未来に確実に高い目的が獲得できると思うからである。目的を高く掲げて、そのための尊い忍耐であることと確信できれば、簡単には忍耐放棄はしないであろう。苦痛は、その気になれば、拷問でそうであるように、命をかけてでも耐え続けることができる。人である以上、自然超越の忍耐の能力を有していることであり、自信をもって対処すれば、意気も上がってくる。イエスは、彼しか見たことのない神を信じろと皆にやかましく言ったが、まちがいなく存在するこの自分を信じることぐらいは、誰にでもできるであろう。

4-1-5.気力の充実 

「気力を張りつめる」「気力が充実している」等という。困難な行動へと立ち向かえる活力の集中した心的状態を気力は指している。実践理性としての意志のもとでの、その実行力となる心身の活力であろうか。気力は、そういう実体が心にあるというわけではなかろう。意志する行動へ注ぐ心身全体の活動力で、それが目立つのは、耐えがたい状態になってのことである。心身の疲労が目立ち、感情も後ろ向きになり、意志を支える諸力が失われそうになっても、その意志することへと己の心身を向け続け、これを貫徹しようという不屈の精神力であろう。

4-1-5-1.持続・貫徹の力―最後の気力をふりしぼる  

 「気力が続かなくなった」という。続けて実行すべきと思っても、それの実行力が伴わない状態である。意志が現実に働くための心身の活力、元気がなくなり、バイタリティーが枯れてしまった状態である。気力は、そういう状態になるのを抑止して活動力を保とうという、意志貫徹を支える心身の活力である。意志が実行へと進むには、心身の実践的な能力をもってする。その心身の能力が疲労したり背いて、意志の動くことが困難になった状態を「気力が続かない」というのであろう。意志が現実化していくために必要な、それを失うと、意志はあっても実践までは進めない心身の、最後まで残って踏ん張る活力が気力であろう。

4-1-5-2.最後まで諦めない強靭な意志 

身体が疲労・損傷してもなお、気力が残っている限りは、忍耐する意志の貫徹・持続は可能である。心身のエネルギーの尽きるまで意志を担おうというのが気力であろう。疲労で身体の活力がなくなっても、意志の求める実行への姿勢を維持できていておれば、行動は持続可能である。マラソンでのように、朦朧としてふらふらになりながらでも、意志は身体に命じて実践を持続させうる。最後まであきらめないで、身体を動かそうという気力を支えるものは、意志自体であろう。力の尽き果てるまで意志を貫こうとするところに気力があるのだとすれば、気力は、意志に直結した身体的活力、身体化した意志といって良いのかもしれない。

4-1-5-3.心身の力の尽き果てるまで、意志を貫く 

 鉄棒で、懸垂をするとき、その意志が、腕を曲げたり伸ばしたりすることを命じて、身体は何回か懸垂ができる。だが、腕が疲労して動かなくなる。それ以後は、腕は動かないが、意志は、なお、腕を動かそうと懸命になり、もがく。その状態での意志は、気力を振り絞るという状態である。腕はもう活力を使い切り疲労困憊で動かない。だが、意志は、これを動かそうと気力を振り絞るのである。気力を注げる限り、腕はなお、緊張を保ち、懸垂しようとする。意志が気力を持続させるが、その気力を意志が棄てれば、即、腕は伸びきって懸垂断念となる。意志が気力として身体化していたのである。

4-1-5-4.気力は、難事を前に積極的な構えをつくる心身の総合力  

 気力というものが脳内の一部位としてあるわけではない。意志することを実現しようとする心身の実践的な総合力であろう。身体的な元気・活力があり、精神的に活発な状態で、難事を前にしての積極的な構えが気力であろう。「気力がない」のは、それらの心身の挑戦的な活力が失われた状態であろう。この、困難への挑戦的な能力である気力を高めるには、身体を活動的にし、精神を高揚させる等の工夫が求められる。その気力醸成の中心になるのは、意志であろう。意志を強くもって当たれば、無理やりにも、意志することへと心身を集中し、その実践へと積極性をもった力をつくりだしていけることであろう。 

4-1-5-5.自身の気力、意志力への洞察、反省  

 未来に向かって自由に働く意志であるが、その思いが実現するには、知性や感性の協働が必要である。感情をうまく利用することで意志は大きな力をえる。知性が大きな価値をそこに発見できれば、意志は、強い意欲ともなろう。あるいは、自身の意志自体を反省して、周囲への同調からこれを意志しているだけとか、隠している本音によって押し出された意志なのだ等、その意志の成立事情を踏まえることもあってよい。単に同調しているだけだとその意志力は弱く、困難に出合っての意志貫徹の気力は出てこないであろう。気力を振り絞っても意志を貫くべきだと思うなら、心身をエネルギッシュにするとともに、意志のより強い支えとなる根拠・動機となるものを探し培うことが必要となる。

 

4-2.忍耐を支える根性と根気は、強い耐性と長い持続力 

 忍耐の能力は、ひとつには、苦痛回避の衝動をしっかりと抑止できる、耐える力に求められる。これが軟弱だと、強力な自然の衝動に負けてしまい、忍耐は放棄せざるをえなくなる。もう一つは、持続力である。苦痛甘受は、瞬時に終わるのなら、忍耐はいらない。長く続く苦痛に長く耐え続けるのが忍耐である。忍耐には、あきらめることなく耐え続けるという持続力が求められる。忍耐での、この強い耐性と、持続に卓越した能力として、日本では、根性と根気をいう。

4-2-1.知情意の総合力としての根性・根気 

 忍耐するとき、ひとは、単に意志で知的に対応するのみではない。感情的な支えをもつし、欲求とか意欲というようなものも共同的に参加して、苦痛回避衝動の抑止のために働く。耐えがたいものに対処するのであれば、ひとは、その持てる能力を総動員してこれにあたることになる。ひとの忍耐は、反自然の超越的な営為であり、自然からの攻撃に耐えうるように総合的に力を発揮していくことが必要となる。知性をもって目的を高く掲げ、これに魅されて意欲を大きくし、苦痛回避衝動抑止に攻撃的なアドレナリンもしっかり分泌する等の総合的対応である。その総合で強靭な力を発揮するのが根性であり、もうひとつが持続性を主とした根気である。

4-2-1-1.忍耐の求めに応じて働く根性・根気  

 忍耐は、苦痛対応を主としたものと持続を主として求めるものに大別され、我慢(patience)と辛抱(perseverance)にと分けて語ることが多い。そういう忍耐の在り方に適合した能力として、日本では、前者(我慢)に特化した優れた能力として根性を言い、長期的持続(辛抱)に特化した優れた忍耐力を根気という。英語では、根性に相当するものとして、ガッツ(guts)をいう。根気に相当するものは、perseverance(辛抱)自体を使うことが多い。 

4-2-1-2.脳内に根性、根気の部位があるわけではなかろう   

 根気・根性は、同情(sympathy)などと同じで、その部位が脳にあるのではなく、感覚とか感情とか知性の機能の総合でなりたつ機能・力であろう。同情というとき、日本では、その相手が他人であることに限定する知的作用があり(日本とちがい、英語の場合、家族を適用外にすることはない)、自分は無事でその相手が受難状態にある等と判断して、その悲哀の感情に感情移入するものになろう。同様に、根性・根気も忍耐するという場面に関わっての知情意の特殊的な(おそらく日本的でもあろう)まとまりであり、その習いの定着をもって形成されているものであろう。

4-2-1-3.生まれより、育ちで形成される根気・根性   

根性や根気は、ひとによってかなりその能力に差がある。生来もっているもののように感じられることもある。だが、逆境に育つものは、みんな根性がつき、おそらく根気もつく。甘えて育ったものにはつかない。生まれつきの部分もあるのであろうが、つまり、生来攻撃力にとむとかアドレナリンの分泌性能がよいなら、そうでないひとよりは、根性がつきやすいし、心の安定に寄与するセロトニンの分泌性能がよければイラつきは少なく、根気のあるものになりやすいだろうが、圧倒的には経験をもって習得する能力になるのではないか。

4-2-1-4.植物の根っこで形容される忍耐の根性・根気          

根性は英語では、ガッツで、これは腸(gut)である。腸でつくったガットはなかなか切れることがない強靭なもので、根性の強靭な耐性を象徴できるのであろう。日本では、根性・根気といい、植物の根っこであらわす。牧畜でなく、主として農耕をもって日本人は文明を形成してきた。忍耐は、じっと動かず忍び植物化するから、忍耐の植物的表現は分かりやすい。忍耐では、苦痛・損傷にじっとし、風雪に耐える樹木の、その根っこのように不動に、根性・根気で忍び耐え続けるのである。

4-2-1-5.経験反復をもって次第に形成される根性と根気 

 ひとには、はじめから忍耐力があるのではない。幼児は、苦い薬は飲まない。それを無理やりに飲ませて忍耐させる。そういう経験の積み重ねのなかで、次第に忍耐すべきことを学ぶ。忍耐のなかでは、さらに、より大きい苦痛への我慢を重ね、これへの耐性をつけるということで根性が形成されてくる。長い時間の辛抱も必要で、根気もできあがってくる。もちろん、環境によって大きな差がつく。わがまま放題に育った忍耐体験の少ない者は、自制心成長不全のままで根気も根性もないものになる。

4-2-1-6.根性・根気は、習い性ゆえ、意識すれば身につく

 感謝心を養うには、それを標語にして意識しておればよい。どこにでも感謝の種は見つかるから、感謝の心構えの反復が多くなり、そういう心は大きくなる。同じように、根性をモットーにして意識すれば、そういう方向に意識が向かい、その心身は根性の場を見出し、それにかなうように自身を変えていくことになっていく。感謝心が感謝の繰り返しで大きくなり、そういう目で世界を見る癖・習いができるように、根気・根性も反復することで、習いとなり、そういう心構えが成長し定着する。

4-2-2.忍耐は、根性でがむしゃらに耐え、根気でどこまでも耐え続ける   

 ひとの忍耐は、自然に逆らい苦痛を甘受する。これに対して自然は猛烈な苦痛回避の衝動をもって忍耐の試みをつぶそうと迫る。その自然の力に負けないような強力な力が忍耐には求められる。根性(ガッツ)がその忍耐力となる。他方では、忍耐は、持続性が必須でもある。苦痛(の回避衝動)は、隙があれば、忍耐を打ち破り忍耐放棄を迫る。忍耐の必要な限り、苦痛回避の衝動への抑止意志を持続させておかねば、忍耐はつぶされる。根性とともに根気という忍耐の持続力が求められる。

4-2-2-1.苦痛回避衝動に負けない強い忍耐の力がいる 

苦痛が生じると苦痛回避の衝動をいだく。その回避をもって生は損傷から保護可能となるのである。この生保護の根本的な衝動は、当然強く、生の危機の去るまで発動されつづける。苦痛に対抗する忍耐は、この衝動を抑止できるのでなくてはならない。強い意志力をもって当たるのでないと、衝動が勝って苦痛の甘受は破棄される。隙を与えてもいけない。その間も衝動は発動しており、苦痛から逃げて忍耐を失敗させる。そうならないような強力でどこまでも粘り強く対応する忍耐の力が求められる。根性(ガッツ)がそれを担う。

4-2-2-2.どこまでも続く苦痛には、どこまでも忍耐できる持続力がいる 

 忍耐は、長々と続けねばならないことが多い。苦痛が長々といつまでも続くことが多いからである。忍耐は、持続するこの苦に負けないで、その苦痛回避衝動を抑止することの必要なかぎり、持続させていく。忍耐は、それを持続できた時間で測ることがある。何日間、禁煙を続けられたとか、何月辛抱して節制できた等という。持続が忍耐を成功させる。その持続を担う忍耐力が根気である。

4-2-2-3.根性や硬骨・気概の精神は、強力な忍耐力となる  

 受苦・受難に忍耐するとき、ひとによって差がでる。強い忍耐力があるとみなされるとき、その能力を、日本では、根性とか気概・硬骨をもってあらわす。苦痛を甘受することに長けているひとのうちに出来上がっている逞しい忍耐の力である。大きな苦痛にしっかりと対処できる我慢強いひとであり、苦痛(の回避衝動)に断固として対決し、負けてなるものかと攻撃的挑戦的な対応をするもので、どちらかというと男性的なものになるのではないか。

4-2-2-4.根気や反短気の気長・気骨は、忍耐の持続力となる 

 忍耐は、苦痛甘受が必要な限りでこれを持続させなくてはならない。途中でやめて、目的を達成できないことになれば、その放棄は、忍耐の失敗になる。つらくても、あきらめることなく、最後まで続けていくことが忍耐では必要となる。そういう持続の力としての忍耐力を、日本では根気とか気骨という。短気なひとが多い日本であるが、短気の方から見ると気長にみえる根気強いひともいて、周囲を感心させる。地味でこつこつと辛抱し続けるものとして、我慢の激越な根性に比しては、穏やかで、昔だったら女性の美徳ということになろう。

4-2-2-5.根性のある短気者もいるから、根気は、別の忍耐力 

 忍耐において強靭な意志力を貫徹する、硬骨で負けじ魂に長けた根性のひとは、ときに、短気の場合もあろう。気短かでも、根性は大したものということはある。ただし、気短かであれば、あまり持続性には富んでいないことになる。長期にわたるうんざりすることの繰り返しでの忍耐、つまり根気は、短気な根性のひとには、苦手となろう。感情的に激しやすいひとは、根性はあっても、長期の根気は苦手という場合がある。知性的で感情の穏やかなひとは、先を見通し安定していて、根気の要ることを得意とするのではないか。

4-2-3.経験が養う根性と根気    

 忍耐の根気とか根性は、経験によって養成されるところが大きい。いくら素質はあっても、経験を重ねることがないとそれらは未熟にとどまる。逆境にあれば、根気・根性は自ずとついてくる。逆に、甘えて好き放題に育ったものは、自制心が育つことがなく、大きくなっては、困難に際しての耐性が欠如し、人間としては、くずといわれるものになる。そういう人間のくず、軟弱な者でも、苦難の中に投げ込まれれば、そのうち、立派な根性が出来上がってくる。

4-2-3-1.知情意が総合力として働いて、根性や根気となる 

 困難を体験すると、そのたびに、自身を抑制して苦痛から逃げないようにと工夫することになる。苦痛に耐えるためのもてる知情意の諸力を動員し、それらの能力の間の連携もうまくなっていく。激痛に即応するためのホルモン分泌もスムースにともなえば、根性ができてくる。長期の忍耐になれば、知性は、その長期の展望を明確に描き、それにいたる手段の過程を一歩ずつ追い、イラつかず穏やかで安定した感性をつくる副交感神経をしっかり作動させ、気長に構える習いも身に着けることができるようになる。根気が出来上がっていく。

4-2-3-2.後天的に形成される習いとしての根性・根気 

根性や根気は、すぐれた忍耐力を発揮するが、これは、そういう生来の機能とか実体がひとの脳に備わっているということではなかろう。忍耐経験の積みかさねのなかで、身につけるものであろう。根性でいうと、強い忍耐力が必要とされる場面に出会うなかで工夫することによって出来上がる習い性で、知情意の総合力として形成されているものではないか。その知性は、自身を弱者と自覚し、かつ、苦痛甘受は主観的なもので、やる気になれば何とかできるものだとの見通しを持っている。感情的には、根性は弱者としてのくやしさをもち、これは悲しみとともに怒りも伴ったもので攻撃的挑戦的で、叩かれるたびに反発の勢いを大きくし意気込みを強化するものでもあろう。

4-2-3-3.生活経験でおのずと形成される根気   

根気のいる仕事は、長年従事している場合、ちゃんとそれが身についた者をつくる。日々それを繰り返して、焦ってもならず、怠けてもならずと経験を繰り返しつつ、どうしたら長期の忍耐にうまく耐えうるようになるかを体験的に学習する。雪国のひとは、豪雪の長い冬をうちでじっと耐えていかねばならなかった。イラついても、どうしようもなかった。穏やかに春を待つことへと強いられ続け、根気を身につけた。現代は、全国一律の生活になっているから、雪国のひともせっかちな日本人一般に埋没して、短気で根気のないものになっているのではないかと想像される。

 4-2-3-4.生きていくために必要なら根気も根性もついてくる  

 農業に従事するものは、半年、作物の成長を待つ必要がある。いくら焦ってもどうにもならないことで、穏やかに待てる根気を身につけることになる。各個我が、その備わった知情意の能力を働かせて、忍耐の求められる日常において、その工夫を重ねることをもって、根性なり根気は、形成されてくる。果樹を栽培する場合、根気がいる。果実を収穫できるようになるには、何年もかかる。かつ、収穫時は、どんなに辛くても身体を酷使していく必要があれば、強い忍耐力、根性も養われていく。

4-2-3-5.習いとして身についた根性・根気は、簡単にはなくならない   

 根性・根気は、一旦身についたらそう簡単になくなるものではない。逆境の者が身につけた根性とか根気は、おそらく、成功者となり艱難辛苦に耐える必要がなくなっても、悪い癖とちがって、これをなくすべきだとは考えないであろうから、一生続く。恵まれた生活になっても、苦痛と忍耐の種はどこにでもあるから、これを回避せず受け止めて、逆境時代の根性をどこかで反復しつつ保っていくことであろう。「若いときの苦労は買ってでもせよ」というのも、そのときの辛苦の忍耐で身につけた根性・根気は、一生の宝物とできるからである。

4-2-4.我慢・辛抱を支える能力としての根性と根気   

 忍耐では、短期で苦痛対応に眼目をおいた我慢と、目的を目指し長期に耐えていく辛抱という二つがよくあげられる。忍耐は、何といっても苦痛を甘受することで、激痛から逃げず耐える心構えが必要で、その耐えがたい苦痛にしっかりと挑戦する姿勢が、我慢である。かつ、忍耐では、それを持続させることも肝心で、その持続面に重きをおくものは、辛抱といわれる。根性と根気は、これに照応した区別である。激痛に負けない我慢強い心構えが根性をつくり、長期の辛抱にしっかりと耐え続ける持続への心構えが根気となる。

4-2-4-1.根性・根気は、我慢と辛抱以上に異なる二つの忍耐力 

 我慢は、その目的を思いつつ耐えるなら辛抱となり、辛抱も、苦痛を思えば我慢となる。禁煙(善目的)を辛抱することは、喫煙(悪)を我慢することである。我慢と辛抱は、同じことを別の側面から、苦痛感情からか知的に把握される目的から見たものともなって、重なる。だが、根性と根気は、それに比してはかなり心構えが異なり、根性があっても、根気のないひとも、逆もある。根性は、我慢のように苦痛感情に頑強に耐える力であり、根気は、辛抱のように、知性によるところが大きく遥かな目的を目指してうんざりするものに気長に耐え続けていくのである。

4-2-4-2.日本的なまとめ方、区切り方 

ひとの営為は、その属する社会のもとで形作られるもので、各社会に独自的なものになる。親切は、日本では、家族を対象から外すが、英語圏のそれ(kindnessは、自分の子にもいい、さらには楽器にも花にも親切にする。忍耐の根性・根気も、農耕民らしく根っこでもって言い表して日本的ということになる。英語では、根性のガッツ(腸)はあるが、根気の方は特別なものとしては言わず、長期の辛抱に相当するperseverance などをもってする。忍耐は、本来、理性意志の貫徹で、辛抱であり、本来的に根気の構えが備わっているということなのであろう。日本の場合、みんな短気で、長期の根気の構えに欠けがちなので、これを意識させようと、根気の言葉を根性に並べることになっているのかもしれない。  

4-2-4-3.我慢強い根性 

 我慢は、苦痛対応を主とした忍耐である。喫煙を我慢するときは、喫煙(悪)への欲求を抑止する苦痛に耐える。悪しきものに耐えるのである。強い苦痛、大きな悪の侵害には、耐えるのが困難になるが、それを耐え我慢することのできる力をもつのが、根性であろう。我慢を重ねるごとに、根性が少しずつ成長していく。根性があるとは、我慢強いということである。ただし、苦痛に我慢するところで、持続面に注目すれば、根気になるであろうから、我慢は、根気をやしなうものでもあろう。

4-2-4-4.辛抱強い根気 

 辛抱は、長期の忍耐であり、善・目的を目指した忍耐である。喫煙(悪)は我慢で、禁煙という善・目的に向かう忍耐が、辛抱である。目的実現は、長く耐えて最後まで続くことがあってのもので、その辛抱は、根気がいることになる。辛抱の体験の繰り返しは、最後まで耐えることをあきらめないで頑張る意志を鍛え、根気をやしなう。長期の忍耐、辛抱も、苦痛に耐え続けるのであり、その苦痛対応ということでは、辛抱は根性も養うことになる。

4-2-4-5.苦痛・悪対決が我慢、根性だろう 

 根性を発揮するとき、その主体は、その対決するものを自身にとっての悪・反価値とみなし、軟弱な自分ではあっても、憎き悪に負けるわけにはいかないといった負けじ魂をもって耐えていく。我慢も、自身にとって悪となるものに対抗してこれを耐える。過食に負けそうな自分を前に、その過食の悪に負けることがないようにと、これを我慢しつづける。自身を襲ってくる大きな悪しきものを、これに負けそうになるのを必死に耐え我慢するのであり、「悪にまけてなるものか」と歯を食いしばり、それを支えていくのが根性である。

4-2-4-6.辛抱、根気は、目的めざしてひたすら

 辛抱は、未来に描いた理想・善・目的を目指して苦難に耐え続けていく。精神世界の目的実現は、長期の忍耐を求める。すぐ実現できるのなら、苦痛に一度我慢するだけでなるかも知れない。が、多くは、長期のものになり、諸過程を踏まえ段階を踏んで最後に目的に至ることになり、これを貫いて耐えていくのが辛抱である。それは、根気を要することになる。一時的に激して耐えるだけでは失敗する。目的までの長い道程を一歩一歩前に進んで、気長な構えをもって最後まであきらめず耐え続けねばならない。その持続を可能にする力が、根気である。

4-2-5.根性は、根本の性情と、粘り強い根っこの特性の二義に分かれる

 「根性が汚い」というのは、忍耐での粘り強さの問題ではなく、ひとの根本の性(さが)が汚いと言っているのである。根性は、もともとは、中国仏教に由来したもので「根」本の「性」情という意味である。根性が汚いとは、性情の根本が汚い、表面は花のようにきれいでも、内面の本性は、見えない根っこの部分は、醜く汚いというのであろう。だが、現代では、その仏教由来の意味で使用するとともに、花は枯れても根っこは生き残るといった強さ逞しさをもって、忍耐における粘り強い「根」っこの根性が言われる。

4-2-5-1.根本性情の根性には、根っこの陰湿のイメージも重なる 

 ひとの根本の性情としての根性では、奴隷根性とか、島国根性はいうが、王様根性とか大陸根性は言わない。根性の「根」が暗く湿った地下にあるから、そのイメージが重なるのであろうか、根本性情の根性は、内奥に隠された陰湿な卑屈な性情ということになっているようである。奴隷根性とか町人根性というときは、その卑屈さ・陰湿さへの批判とか差別意識を含み持つ。根性は、根本の性(さが)だが、「根性が汚い」とは言っても、根性がきれいだといった形容は、されない。

4-2-5-2.曲がった根性、いびつな根性を叩き直す 

 根本の性情の根性は、忍耐での根性と同じように、経験をもって作られたもので、経験をもって改めることができるものと見なされている。曲がった根性を叩き直すとか、いびつな根性を正すという。根っこは、伸びるときに、しばしば石ころなどの妨害物でねじ曲がっていびつになってくる。生まれは王子であっても、奴隷としてムチ打たれ差別され続ければ、次第に卑屈な奴隷根性を身につけていく。経験の中で身につけた曲がった根性は、逆の経験を重ねていけば、これを叩き直して真っ直ぐにできる。

4-2-5-3.忍耐の根性は、根っ子のねばり強さ、根の特性 

 強靭な忍耐力としての根性は、根本性情の根性とは異なり、「根」っ子の特「性」である強靭さを意味するものであろうが、あるいは、根本性情の根性から派生した用法だった可能性もなくはない。ひねくれた根性あたりから、それが、いつまでも根に持って執念深い根本性情ということで、しつこく、あきらめることを知らない我慢強さになり、忍耐の根性になった可能性もある。が、なんといっても、忍耐の根性は、根気とならぶもので、「根」、根っ子に由来する。根っ子は、地上の花などとちがい、風雪に耐えて不動で強靭であるから、この根っ子の不動のねばり(根張り)強さへの連想をもって捉えられているのが忍耐の「根性」であろう。

4-2-5-4.忍耐での根っ子の根性は、未熟者がもつ 

 根の特性としての忍耐の根性であるが、その根っこは、強靭であると同時に、地中に埋もれているものということからであろうか、根本性情の根性と同じように陰をもったものと見なされ、未熟者、弱者の忍耐力の形容に主として使われる。「根性がある奴」と言われるのは、強者ではなかろう。弱いけれども、へこたれないで、歯を食いしばって耐えていく負けじ魂をもったものが、上から「根性があるのお」と評価されるのである。未熟で弱ければ、叩かれ苦難を受け入れねばならない。その苦難に耐えるときの強靭さ、粘り強さが根性である。

4-2-5-5.円熟した強者には根性はいわない 

 忍耐の根性は、根本性情の根性とちがって、否定的に価値評価されるものではないが、未熟な者がもつものとして、円熟したもの、強者には言わないのが普通である。阿弥陀仏は、悪人の懲りることのない悪事に耐え続けて未曾有の忍耐力をもつが、「阿弥陀仏には根性がある」とは言わない。仏族で使えるのは、ランクの下がった不動明王あたりからになるであろうか。憤怒の形相で睨み続けている御不動様は、根性がある顔つきと形容しても許されるであろう。

4-2-6.根っこで強靭さを語る 

 根性は、受苦受難にあえぐ者が、これに強靭に粘り強く耐える能力である。その耐える強さ・特性を草木の「根」で形容する。草木は、その地上部の花や葉は風雪の受難の中では吹き飛ばされる。だが、地下の根っこは、これに耐える。地上部が全滅しても宿根草など地下の根が残り生き延びて、また花実をつけることが可能になる。その草木の根っこの強靭さをもって、ひとの受難に耐え抜いていく強靭で粘り(根張り)強い忍耐力を、根性と称するのである。

4-2-6-1.根性を、農耕民は根っこで、牧畜民はガッツ(腸)で示す 

 根性は、英語ではガッツ(guts)と言う。ガッツは、ガット(gut)=腸である。テニスのガットも弦楽器のガットも動物の腸の加工品で、乱暴な使用にも耐えて丈夫である。根性の強靭さを強靭な腸をもって形容する。日本は、農耕を主とした社会であったがゆえに、これを草木のもとで、その強い根っこをもって表したのであろう。草木は、その根を張る(ねばる)ことで風雪にびくともしない強靭なものとなる。

4-2-6-2.辛抱強さの根気も、日本では、根っ子で形容する

 忍耐にいう根性は、根っ子の強靭さの特性をもつ忍耐力であるが、忍耐では、さらに根気もいう。長期の辛抱のいるところに求められる、ねばり強く持続力に富む根気である。根気は、中国仏教から受け入れたと思われる根本性情の根性からいうと、根本の気であるが、この意味での根気は、現代中国では一般的には使わないようである。現代の日本でも根本の気という意味では使わない。辛抱強い、粘り(根張り)強い忍耐力としての、根っ子の気の根気に限定されている。

4-2-6-3.根っこの陰湿さの陰を根性も根気ももつ 

 根性・根気は、我慢に強く、辛抱に卓越していると、単純に賛美されるだけのものではなく、その「根」のイメージに影響されてであろうか、若干陰りをもったものともなっている。根性は、未熟の弱者がもつもので、円熟した強者を形容するものではない。根気は、その耐える内容が、辛気くさい、うんざりするものになるのが普通である。キリスト教では生涯貫かれる純潔とか信仰堅持は、perseverantia(堅忍、辛抱、根気)と言われるが、これを「根気」で言うと、それらを「うんざりするもの」と捉えて汚すようなことになろう。

4-2-6-4.地上の茎や花は枯死しても、根っ子は生き延び続ける

 根性・根気は、華々しい充実した享受などの場面では無用である。忍耐における、陰鬱で耐えがたい苦渋の状態において顔をだす根の性・気である。草木の根っ子は、地面の下の暗い陰湿の状況に生き続ける。そこで地上部の輝く花や葉に栄養を送り続ける。その葉や花は、風雪の荒れ狂うとき、壊滅状態になろう。だが、多くの草木の地下の根は、しっかりと根を張ってねばり、耐え続けて生き延びる。

4-2-6-5.植物とひとでは、天地が逆になっている

 草木で、ひとを表す時、花は、顔面になり、根っ子は、足ということになる。だが、その働きからいうと、逆に見た方がよい。頭頂の美しい花は、生殖器である。根っ子はというと、そこから栄養を摂取するもので、動物で言えば、頭部にある口である。さらに、根っ子が生きておれば、地上部が吹き飛ばされても、もとのように再生も可能となり、根は、草木の中枢部といってもよい。ひとが逆立ちして地下に頭をつっこんでいるのが草木になる。根の根性・根気は、ひとをひとらしくする、その大切な中枢、頭部のものである。

 

4-3.根性は、抜群の耐性をもつ 

忍耐力に不足するとき、「根性がない、足りない」と言われる。大きな苦難に際しては、これに耐えることができるか否かの個人的な差が出てくるが、その差は、根性があるかないかということになる。その根性という忍耐の能力は、生来というよりも、忍耐を繰り返す経験のなかで、形成され鍛えられるもので、その根性に不足があり軟弱な状態に留まっていた場合は、「根性を鍛え、養う」ことが要請される。鍛錬を課すことで、これを成長させることができる。

4-3-1.根性は、根っこのように、苦難に耐え忍び、成長していく 

忍耐でいう根性は、根本の性情・性分をいうのではなく、根っ子の、ねばり(根張り)強い性質をいう。樹木は、受難の風雪で、地表の枝葉は、吹き飛ばされるとしても、根っこは逞しく生き続ける。風雪のなかで幹の曲げられるようなこともあろうが、根っこは、これを倒れないようにと支え、より逞しく成長していく。ひとの根性も、はじめは「根性のない奴」だったのだとしても、苦難にあうたびに、これによく耐えようとの心構えをもっておれば、逞しく成長して、「根性のある奴」になっていく。

4-3-1-1.根性は、苦難を前にした弱者の粘り強く激しい闘魂 

 人生の苦難において根性は求められる。苦難を前にした弱者が、平常心では耐えきれないというとき、根性が登場する。その弱者が、弱いからといっても簡単には引き下がらず、負けてなるものかと、負けじ魂をもって挑戦するところに根性が形成されてくる。強者になろうと、辛い苦難に粘り強く逞しく激しく挑戦する構えをもつのが根性であり、それを実践することで、より逞しく強くなり、根性のある者にと変身していく。

4-3-1-2.内分泌も神経も根性にふさわしいものにと調整  

根性は、苦痛に負けないという勢い・闘魂をもつ。苦難への忍耐の反復経験は、苦痛回避の衝動を抑止する神経系を太く俊敏にして、その抑止を容易にし、かつ苦痛には慣れ鈍感化して、これを受け入れやすくもしていく。心身のホルモンも、苦難への挑戦に対応するようにその分泌を調整することであろう。やる気を支えるドーパミンなどのホルモンのみか、戦闘態勢に見合う血液にとインシュリンをうまく出したり、さらには老廃物を敏速に取り除くといったこともできてくれば、粘り強い精神の根性が、身体からして養われることになる。

4-3-1-3.至高の神仏には根性は言わない 

聖人とか、神には、根性がある・なしは言わない。打たれ踏みにじられ苦難の汚泥にもがく弱者に形成されてくるのが根性なのであろう。暗い地下の泥まみれの根っこの性が根性である。神々しいものには、似合わない。汚泥のなかにたたきつけられても、くたばることなく、たくましく挑戦しつづけていくのが、根性である。阿弥陀如来は、邪悪な人間にどこまでも忍耐するけれども、地中の根っ子とは無縁の至高の存在で、これを「根性がある」とは言わない。憤怒の不動明王は、下級の仏族だからであろう、根性があると言えそうである。

4-3-1-4.根性は、受苦の中で自分が築くもの 

忍耐に優れている根性のある者は、後天的に、経験のなかで、そうなっていく。生来、危険に鈍感であれば、その方面では、根性がありそうに見えるが、ほかの方面で、まるで軟弱だとしたら、本当は「根性なし」なのかも知れない。真に根性があって、よく耐える、負けじ魂をもった人間となるには、苦難全般において苦痛甘受によりよく適応できるようにと工夫し自身を鍛えていく、日頃からの心構えが必要なのではないか。根性は、生来のものではなく、日々の経験の中で自分が作り上げていくものになる。

4-3-1-5.生を裏で支える根っことしての根性   

 根性の、その根は、日頃は、隠れている根っこである。根っこがしっかりしていることは、風雪に出合って明らかになる。忍耐の根性は、穏やかな日々には、出る場面がない。それが出てくるのは、苦難の場である。忍耐放棄せざるを得ないかという危機的状況になって、負けじ魂の根性は登場してくる。虐げられ踏みにじられて逃げ出したくなるようなところで、へこたれず、あきらめず、挑戦していく力を出すのが根性である。

4-3-1-6.根性の定義  

根性は、「根本の性情」の意味でいうことがあるが、忍耐でいう根性は、それとはちがい、根っ子の性であり、風雪に耐え抜く根っ子のようなたくましさをもった心的能力を指す。この、忍耐にいう根性は、次のように定義できるのではないか。 

根性は、なお未熟に留まる者が苦難にくじけず、ひるむことなく、弱音をはいて諦めるようなことなく、負けじ魂をもって、ねばり強く挑み耐え続ける心的能力である」 

4-3-2.根性は、苦難の中に湧き上がってくる負けじ魂  

根性は、苦難を引き受けざるを得ない弱者のものである。強者から苦難を強制される弱者の、その情けなさに裏打ちされたもので、これへの悔しさ、強烈な反発心を根性はもつ。根性を発揮する者は、負けて苦渋をなめさせられているのであるが、負けて引き下がって終わるような軟(やわ)な者ではないと、苦難にくじけず、へこたれることなく、どこまでもチャレンジしてこうという、負けじ魂をもっている。

4-3-2-1.逆境の者が培う根性  

 逆境は、順調な恵まれた人生を送る者のそばで、不利な条件のもとにおかれている者の境遇であり、当人は、そういう自覚をもって、情けなさ・くやしさの感情をいだく。貧困とか障害等を背負って不利な位置に置かれているが、本質的にひとは万人同等との意識をもっておれば、逆境の者は、その恵まれない分、なんらかの補いをもってしなくてはとも思う。その補いは自分がする以外ない。ひとより多く苦難を背負っているから、その分をしっかりと耐え抜いていかねばならないとの強い心構えを、根性を培うことになる。

4-3-2-2.苦痛の限界は、主観的でその気になれば高くできる  

 逆境の者は、順境の者のもつ必要のない苦難を背負う。それを背負いきることができれば、順境の者のレベルに並びうることになる。逆境にあって恵みの少ない分、苦難、苦痛甘受の限度を高くすることが必要となるが、その耐えうる限度は、主観的な苦痛のこと、自身で変えることができる。負けたくない逆境の者は、ひとに倍する忍耐を自身に課すことになり、おのずと根性が身についてくる。

4-3-2-3.逆境の重荷分を忍耐で補う 

 片足を失った逆境に打ち勝とうとする者は、両足に相当する力をと、自身の苦難への忍耐でこれを補おうと努める。経済的貧困という逆境なら、その方面での大きな受苦受難に挑戦し耐えて、ひとに倍する汗を流すことをもって、順境の者に並びたち、その勢いをもってこれを追い越していこうともする。順境の者が得ている恵みのレベルまで、逆境の者は、苦痛甘受の忍耐をもって自身で補いをつけていく。たぐいまれな忍耐力、根性を培かうことになる。

4-3-2-4.対等の能力の間では、負けは努力・忍耐力不足となる 

 ウサギとカメとはちがい、人同士は、おおむね能力は同じである。したがって、いたるところで競争・闘争を繰り返す。能力が対等であれば、違いがでるのは、当人の後天的な、経験的な努力しだいということになる。競争に負けるのは、自身の努力不足となり、負けたくない者は、日々、研鑽を重ね、力をつけていく。その努力はおおむね苦痛をともなうから、苦痛を回避せず受け入れる忍耐の問題となり、負けは忍耐力不足ともなる。勝利するには、大きな忍耐力、根性を持たねばならないということになっていく。

4-3-2-5.忍耐することで、知力・腕力などの能力自体も向上する

 知力や腕力を精一杯出し、さらに疲労し苦痛になってもその能力を使用すると、その能力はより大きくなっていく。筋肉を傷むほどに使えば、それの修復・回復時には、より大きな強い筋肉になる。逆境の者は、単に忍耐力を大きくし根性を培うのみではなく、その根性をもってほかの能力をも人一倍使って開発・向上させる。やがて、忍耐にすぐれているのみではなく、その方面での心身の能力が秀でた存在にまでなっていく。

4-3-2-6.くやしさなどの積極的感情が根性を支える 

 くやしさの感情は、敗北して、悲しみを抱くと同時に、そこに怒りの攻撃的感情を合わせもつ。次回はきっと勝つという捲土重来の積極的な意識をもつ。苦難を背負い、つらいことに涙を流しつつも、これに忍耐する者は、苦難に負けてはならない、勝ってやるという積極的な意欲、感情をもつことができる。苦痛甘受の限度を高めて、人に倍する苦痛にも耐えてやると積極的な構えをもてば、忍耐力を高め、根性に拍車がかかる。

4-3-3.根性は、くじけず、怯むことのない闘魂である

 根性は、なお未熟に留まる者の逞しい精神で、苦難にくじけることなく耐える力をもつ。かつは、その苦難・受難を排撃しようという攻撃的精神ももつ。攻撃的であれば、当然、反撃され、未熟だから、危険な状態ともなる。危険には、恐怖の感情をもつことになり、ひるむことになるが、根性ある者は、その危険なものにひるむことなく猛然と立ち向かい、受難にくじけず、大胆に果敢にチャレンジする攻撃的精神、闘魂をもつ。

4-3-3-1.「根性のあるやつだ」と闘魂を称賛する

根性は、受苦受難への粘り強い忍耐力を発揮するが、同時に、能動的積極的な戦う姿勢についてもいうのではないか。負けるかも知れない場面で、それにひるまず挑戦するのが根性のある姿勢である。そうできず、軟弱で苦難から逃げるような情けない者を「根性がない」という。弱体ゆえ打撃をうけ大きな損傷を受けるかも知れないが、それにへこたれないで耐えて、負けても負けても挫けることなく強者に果敢に挑戦していく姿勢をもって、「根性のあるやつ」となる。

4-3-3-2.決して負けないという弱者の挑戦的な戦闘意欲 

忍耐は、苦難に負けないで逃げずこれを甘受する。弱い存在ゆえに、苦痛・損傷を受けるのだが、根性は、その苦痛に負けない、逃げないという姿勢をもつ。どんなに強烈な苦痛であっても、これから逃げず忍耐しようという気迫にあふれている。拷問で、ときにそうなるように、その気になれば、殺されても口を割らず忍耐はできる。つまり、忍耐は、心構えがあれば、根性があれば、決して苦痛に負けないで、どんな強者からの攻撃も、身が滅びようとも、耐えきることができる。どこまでも歯を食いしばって耐えて負けないという根性である。

4-3-3-3.軟弱であることを超克しようとする逞しさ 

 受苦に尻尾を巻いて逃げる者と、他方、自身の本来のあるべき姿はその受難を克服した高いところにあるとみる者がいる。後者は、その忍耐に全力を注ぐ姿勢をもつ。くやしさの感情がそうであるように、現在の自身の軟弱さを情けなく思い、攻撃的な憤りなどの感情をもって、本来のあるべき自分となるためには現在の苦難をなにがあっても耐えきらねばならないと、未来にむけて渾身の力をふり絞る。もてる力の限りをつくそうというのが根性あるものの精神である。

4-3-3-4.弱音をはかず、あきらめず、粘り強い 

 忍耐において根性は、苦痛から逃げないこと、苦痛回避の強烈な自然衝動に負けないように、これを抑止して対抗する構えを維持しつづけるところにある。根性は、苦痛から一歩もひくことなく、頑強な砦となって耐え続ける。満身創痍となる中でも弱音をはくことなく、怯むことなく苦痛甘受の忍耐を堅持する、弁慶の立ち往生を彷彿とさせる強靭な精神をもつ。苦難に挑戦して、へこたれず、粘りのあるのが、挫けずしぶといのが根性である。

4-3-3-5.未熟者の無謀な挑戦

圧倒的な強者の強さは、根性では形容しない。根性は、弱者、未熟に留まる者にいう。その未熟な者が、熟達した強者に挑戦して、戦いをやめないのが根性ある者である。弱者だから負けることになるが、根性をもって果敢に挑戦する。戦う能力ということからは、その挑戦はまったく無謀で、確実に敗北となる闘いである。だが、その不足分を、根性で補うつもりである。苦痛は主観的だから、耐えうる限度は、変えることが可能であり、根性は、その苦痛に耐えうる限度を高くして、互角になって挑戦していく。

4-3-3-6.自分に負けないという不屈の意志 

 忍耐は、自身の苦痛に耐えてこれを甘受し続ける。根性あるものは、強者の腕力には敗北する。だが、そこに生じる苦痛については、それの忍耐においては、決して負けないという自負心をもつ。自分の苦痛に自分が関わるのが忍耐であり、その苦痛は主観的で感じ方を自身で変えることもできる。自分の苦痛への支配は、全面的に自分がする。苦痛甘受の忍耐は、自分が自分を制御することである。どんなに辛い苦痛であっても、自分次第でどうにでもできる。命を懸けて関われば、どこまでも忍耐は可能である。根性あるものは、自分に決して負けないという強い意志をもち、自分の苦痛甘受を最後まで貫き通すことができる存在である。

4-3-4.根性は、打たれ強い   

 弱者、未熟な者は、闘いでは、攻撃するより、打撃を受けることが多くなる。そこで勝てないとしても負けないためには、打たれても逃げず、その辛苦にくじけず耐え続けることが必須となる。根性をもつ者は、打たれ強くならねばならない。相手の腕力には到底かなわないのだが、忍耐が相手にするのは、相手の腕力や苦痛ではなく、自分自身の苦痛である。根性があって自分の苦痛に負けることさえなければ、いくら攻撃されても、耐え抜いて、対決を貫徹できる。打たれても動じない強靭さを根性はもつ。

4-3-4-1.ひるむことなく、毅然として挑戦する 

 未熟な者は、強者と対決するとしたら、敗北をまず想定するから、被害を小さくするために、対決の回避、逃走とか萎縮の態度をとることになる。被る苦痛には逃走への強い衝動が生じ、自分の苦痛に負ければ、逃走することになる。だが、根性のある者は、これを拒否・抑止して、しり込みせず、相手からの攻撃で生じる自分の苦痛・損傷におじけることなく、対決へと自身を向けていく。苦痛・苦難に対して毅然とした態度をもって、「たかが自分のうちにある苦痛のこと」と、これに決して負けないという意志を強く持ち続けて、動じることなく挑戦する姿勢をとっていく。 

4-3-4-2.叩かれても叩かれても、くじけず、耐え続ける 

 弱者であっても、苦痛の甘受、忍耐については、どんな強者にも負けないでおれる。苦痛は自分のうちにあることで、耐える気になれば、失神してもなお譲らず耐えることが可能である。どんな強者も、弱者が自分のうちの苦痛を自分で耐えることを阻止することはできない。根性ある者は、どんなにそとから叩かれても、これに耐えきることができる。拷問では、激痛を与えるが、たとえ殺されても、耐えきる者がいる。根性は、自身のうちの苦痛を自身で耐えるに際して、拷問に最期まで耐えるように、粘り強く耐えつづけ強靭な意志を貫いていく。

4-3-4-3.鈍感力 

打たれ強ければ、勝てないとしても敗けないで済む可能性が多くなる。打たれても苦痛を小さくできているなら、心的ダメージが少なくて済む。根性には、苦痛の感受性を低くできること、損傷を被るに小さくて済む強靭さがいる。あるいは、打撃からの回復力が大きいことも求められる。苦難への鈍感さがあれば、打たれ強く、簡単には敗けない。根性があれば、大きな苦痛の受け止めに、「何のこれしき!」と平然としておれる。苦痛・苦難への鈍感さは、能力となる。

4-3-4-4.劣等克服へと奮起する  

 根性のある者は、弱者であっても、苦痛甘受の忍耐については、どんな強者にも負けないでおれることを知ってこれを実行する。負けてはおれないとの自覚をもつのは、本来、やればできるはずだという自尊心をもっているからであろう。腕力に弱いのは、たまたまそれの育つ環境になかったということである。弱者として叩かれるなかで忍耐しつつ、その腕力も鍛えていくことになり、忍耐に頼らなくてもその腕力をもって対等に対決していけるようになってもいく。

4-3-4-5.根性があれば、強者に勝つことも可能である

 戦いでは相互に相手に苦痛を与えあう。敗北は、自分のうちの苦痛に耐えきれなくなってすることで、根性があれば、未熟な者でも、敵からの攻撃、生じる苦痛にどこまでも耐えて、降参はしないでおれる。強者は、腕力では圧倒するが、すきをつくれば弱者の腕力で苦痛が加えられ、苦痛に弱ければ、この苦痛から逃走することになって、戦いに敗退することが生じる。根性のある未熟者、弱者が戦いで勝利することが起こる。

4-3-4-6.弱さをふきとばして、たくましい   

昨今、ひとの弱さに配慮をということで、そのvulnerability(脆弱)とか、fragile(虚弱)をいうことがある。根性をもつ者は、現在の自己は、そうなのだが、本来は、未来は、逆だ、強靭で逞しい存在なのだと、確信している。いまは打たれる弱者ではあるが、決してそれで打ちのめされて終わる存在ではなく、本来の自己は、大きなresilience (回復力)をもった強者なのだという自負心をもっている。決してへこたれることのない強靭な精神が備わっているとの自尊の心をもつ。

4-3-5.弱音を吐かず、へこたれない粘り強さ  

 強者のなかには、攻撃力は強いが、敗けになると、苦痛・受苦の忍耐に弱く、簡単に敗走してしまう者がいる。だが、根性のある弱者は、弱いけれども、耐える苦痛の限度は大きくできるので、これを生かしていく。根性ある者は、強者の攻撃にどこまでも耐え続け粘り続けて、打たれ強く、弱音をはくことがなく、強者を閉口させ、これと対等の存在となることができる。 

4-3-5-1.最後まであきらめない意志力 

忍耐することを諦めなければ、どんな強者にも負けないでおれる。苦痛に耐える限度は、ときに拷問で見られるように、無限大にもできる。強者は、負ける経験が少なく、受苦の我慢、後退に弱く、もろくて、簡単に敗北することがある。だが、根性の者は、もともと、未熟者、弱者で、そこで強者と渡り合おうというのである。敗けそうになり、打たれ続けるが、引き下がらないで苦痛に耐え続けておれば、なお敗北はせず、対決の場に踏みとどまりうる。どこまでも食い下がり、降参せず、最後まであきらめないのが根性の精神である。

4-3-5-2.挫け屈することを肯んじない   

 根性のある者は、弱者でありながらも、強者に決して負けないという覇気をもつ。力で不足する分は、苦痛甘受の忍耐でこれを補うつもりでいる。苦痛甘受では、その気になれば、どこまでもこれに耐え続けることができる。苦痛を与えられてもこれに負けないという意志が堅固であれば、降参しないでおれる。根性のある者は、攻撃に強靭に耐え続けて、敗けの受け入れを拒絶する。挫けることなく、不屈の姿勢をもつ。

4-3-5-3.執念深く、しぶとく耐え続ける 

 根性という忍耐への強靭さ・頑強さは、否定的に見るなら、執念深い、しぶといということになる。あきらめることがなく、しつこいのである。単に力の比較という遊びの場なのに、これにとらわれ、しがみつき、ときには、迷惑この上ないということにもなる。負けずぎらいで強情である。ふつうなら、敗けることになれば、逃げるので損傷はそれ止まりになるが、根性があると、どこまでも食いついて離さず、無意味な挑戦を続けて、損傷を甚大なものにする困り者になることもある。

4-3-5-4.助けを求めたり、許しを請うようなことはしない  

 根性ある者は、苦痛には、どこまでも耐えて、ひとの助けを求めるような軟弱な姿勢は見せない。助けを求めるとは、自分には太刀打ちできないと音を上げることで、不屈の挑戦的姿勢をもつことと相いれない。苦痛に耐えられないから、これを停止してくれと許しを請うことは、相手に負けを認めることである以上に、自分(の苦痛)に負けたことを意味する。根性ある者の恥とするところである。

4-3-5-5.倒されても起き上がり、挑戦をやめない粘り強さ 

 根性をもつ者は、未熟な弱者にとどまるが、その頑強な意志は、強者に決して負けないという勢いを持ち続ける。弱体だから、攻撃で打ちのめされもするが、たとえそうなっても、降参せず、再度、起き上がって闘い続ける意志を堅持する。不撓不屈だが、撓(たわ)まない、屈さないというよりも、撓み屈し、へし折られても、なおへこたれることなく、よみがえって再挑戦していく。抜群の回復力(resilience)をもつ。かりに折られて踏みつぶされ骨を砕かれようとも、拷問に勝つものがそうであるように、なお、その根性の意志・魂は、降参せず、耐え続けていく。

4-3-5-6.最後まで弱音をはかない  

 忍耐は、苦痛を受け入れるが、根性を奮い立たせその気になれば、拷問や殉教にあるように、どんな苦痛でも受け入れ耐え続けることができる。根性のひとは、弱者として受苦を強いられる存在だが、その受苦がどんなに辛いものであっても、これを耐え続けていこうと堅固な意志をもつ。多くが苦痛の増大とともに、音を上げて脱落するのに対して、最後まで苦痛に敗北することのない人である。根性のひとは、気力を振り絞って耐え、どこまでもへこたれることのない、最後まで弱音をはかない強靭な精神の持ち主である。

4-3-6.未熟な者、弱者のガッツ 

 円熟した者にはガッツ(根性)は言わない。未熟者のうちで言われることで、未熟を円熟へとがむしゃらにファイトを燃やし、未熟故に受ける苦難に決してひるむことなく、むしろ挑戦意欲を大きくして耐え続ける、逞しい精神が根性である。打ちのめされても敗北を重ねても、弱音を吐くことなく、あきらめることなく挑戦する気迫を堅持している。ガッツ(根性)を持つ者は、自分自身(の苦痛)には決して負けないという逞しい克己の忍耐力を自負し、自分の屍を乗り越えても前進していく強靭な意志をもつ。

4-3-6-1.弱い未熟者の闘魂  

 未熟は、未だ成熟に不足することで、成熟するには、試練となる経験を重ねるなかで、苦難に耐える力を養うことがともなう。試練は、苦難を巧みに逞しく乗り越えていく忍耐の力、苦痛にへこたれない習い、根性が形成される場である。受難に挑戦することで未熟状態から脱皮して成熟していく。それは、うちなる自然を乗り越えていく過程であり、自制心を成長させることである。うちに生じる苦痛回避衝動という自然を抑止し、自制することを重ねて、ガッツを身につけていく。

4-3-6-2.くやしさなどの感情は、ガッツをつくる

 根性、負けじ魂は、負けたとき、負ける経験をもって作られる。負けるという経験がないと、苦難の経験がないと、それは育つ機会をもてない。負けることがあってはじめて、負けてなるものかという反発心を生起させ、そのくやしさが自身の向上心をかきたてる。負けに悲しい思いをしつつ、同時に負けてなるものかと怒り、反抗、攻撃的な感情をいだくのが、くやしさである。この積極的な感情をもって闘魂を大きくし、困難にどこまでも耐えて、雪辱を果たす。その反復は、逞しいガッツ(根性)をつくる。

4-3-6-3.ひとは、同等という人生観  

敗けてくやしく思うのは、闘う者同士の能力の対等性を前提とするからである。ひとは、生まれたときは、ほぼ同じである。であるがゆえに、差異・格付けを必要とするいたるところで競争・闘争がでてくる。敗けるのは、境遇等の外的差異か、自身の努力不足による。その補いは、辛苦への忍耐力でつけうる。根性を発揮して辛苦に人一倍耐えれば、敗けないでおれる。その忍耐では、敵との戦いにおいても、相手と戦うのではなく、各自が自分の苦痛と戦う。自分の苦痛にさえ敗けなければ、戦いをギブアップしないで済む。

4-3-6-4.自分を自分で変える自律の意志   

根性には二種ある。ひとつは、「奴隷根性」などにいう、情けない「根」本「性」情を指す。もうひとつは、忍耐にいう根性で、どんな風雪にも敗けない、粘り強く逞しい「根」っ子の「性」情である。忍耐の根性は、幹をしっかりささえ地中に逞しく根を張ったもので、未熟の自己を強靭なものに自らに変革していこうという自律の意欲をもっている。苦痛に耐える根性においては、その苦痛もその忍耐も各自の内面のことで、自分で対処する以外にない。克己の意志がなければ、苦痛から即逃げて軟弱な自然の状態に留まり、自然に支配されたままとなる。忍耐の根性は、自律的意志をもって、この自然を拒否して、反自然的に苦痛を甘受し、自然を超越する。

4-3-6-5.自然超越という人間的尊厳の端的  

 根性は、どこまでも自身のうちの苦痛に耐えぬく覚悟をもっている。動物的自然の存在としては、苦痛からは逃走したいとの強い自然的衝動をもつ。これを忍耐は、抑止して反自然・超自然の振る舞いをする。自然を超越した人間の尊厳の端的がそこにある。その根性、忍耐においては、どんな自然の強力な苦痛であっても、これをひとは抑止して、その衝動を拒絶し続けることができる。激痛も衝動も自身のうちにあるものとして、その気になれば、どこまでもこれに敗けないで抑止・制御することができる。殉教とか拷問で、ひとのそういう絶対的な自律の尊厳を見ることができる。

4-3-6-6.いまは未熟者という謙虚さをもつ  

 それが忍耐になるとは、それが苦痛になっているということである。熟達した者には、それは、苦痛でも何でもない可能性がある。未熟ゆえにそれが、なお自分には苦痛なのである。しかし、その苦痛から逃げず、これを耐えて向上していこうという意志を、根性のある者は持つ。耐えておれば、自分のうちの苦痛のこと、変えていくことができる。自分の力が大きくなれば、苦痛ではなくなることが多い。受苦・受難も、ひとのせいにせず、自身の未熟ゆえの苦痛ととらえて、根性ある者は、謙虚に未熟を自覚し、向上心をもって耐えていく。

 

4-4.根気は、持続の力 

性分、気分をいう。「性」分は、そのひとの身につけた癖・性質で、「気」分は、ばくとした感情で、移ろうその場のものになろう。根「性」とちがい、根「気」は、その移ろうものである気が、地下に押し込められて根っこのように動かず持続するという意味合いになっての、持続性を特徴とするものであろうか。移ろう気を無理やり動かないようにしたものが、根気だと。地上部では、機に応じて気は動き、草木は、葉をつけ花をつけ実をつけ枯れても行く。だが、地下の根っこの気は、ずっと同じ状態を維持、持続させる。根気は、移ろい変わる気を不変的に持続させる。忍耐は、持続性の肝要となることが多いが、苦痛に逞しく耐える根性に対して、その持続を担うのは、移ろい変わろうとする意識(気)を動かないように押しとどめる根気ということになるのであろう。

4-4-1.根気は、うんざりする物事に気を集中し続ける     

 根気は、うんざりするものに、いやで飽き飽きして逃げ出したい物事にいう。面倒であったり、単調であったりして、嫌でうんざりするものには、気はそぞろで、気を抜いてサボり、気を他にむけてしまいたいこととなる。それを抑止して、どこまでも、その移ろいたいという気をそこにとどめ続けるのが根気であろう。気をそこに集中していないと、失敗することになる煩わしいことに、移ろう気をしっかりととどめ続けるのが根気である。うんざりすることも、すぐ済んで、気がほかを向く前に終われば、忍耐も小さくて済む。だが、それが長期になれば、気はそこにとどまってはおれなくなる。強い意志力をもって動かないようにと根気をもってすることが必要になる。

4-4-1-1.根気の定義   

根気は、退屈なこととか逆に煩雑なことが続いて、うんざりするようなことに耐え続ける。うんざりさせられる物事から逃げず、気を抜かずどこまでも耐えていこうとする長期の忍耐への心構えである。根気を定義すると以下のようになろうか。

根気とは、

「長々とつづくうんざりすることを前に、気を抜かずそれに気を集中し続けて、焦ったりこれを投げ出すようなことなく、どこまでもその甘受を持続させていく、粘り強い心構えをもっていること」 あるいは、

「うんざりすることを前に、焦らず投げ出すことなく、どこまでもこれを甘受しつづける、粘り強い心構えをもっていること」である。

4-4-1-2.我慢と辛抱に対応する根性と根気  

 根気は、長期に渡る忍耐、辛抱に必要なものである。苦痛=悪に耐える我慢とちがい、辛抱・根気は、長期で善(目的)を目指す。苦痛感情への我慢・根性に対して、辛抱・根気は、遥かな善なり目的を意識し意志するもので(苦痛感情とその抑制をふまえつつだが)知性の関与するものが大きい。長期の忍耐は、多くの場合、知性が主導する。その知性のもとでの一貫性を堅持して、辛抱は、なり、根気は、続く。その知性が、その長期・反復において持続することを放棄したくなるのは、知性が嫌になりうんざりさせられることに、である。これは、単調なことへの倦怠と煩雑なことへのいら立ちの両極端において顕著となろう。長々と続いて、知性主導の心性がうんざりすることへの忍耐、これから逃げず焦燥せず耐え続けることが根気には必要となる。

4-4-1-3.単調で倦怠をもよおす、うんざりするものへの持続力 

 単調で不快なものは、これが繰り返されるとその不快度を大きくし、飽き飽きしてきて倦怠をもよおし、嫌になってくる。うんざりしてくる。意識、気は、そぞろになり、ほかへと気を移したくなる。長時間でも、単調でなければ、意識(気)を向けて目覚めておれるが、単調だと気にすべきことがなく、手持無沙汰となり、休めるとか躍動を誘うのでなければ、嫌になりうんざりとしてくる。あるいは、はじめは快であるものも、持続するとその反復に飽き飽きして倦怠をもよおし、だんだん不快になり嫌になってその持続にうんざりしてくる。それらの持続は、持続するほどに耐えがたさをます。それを耐え続けようとするのが、根気である。うんざりとするものに、気を抜かず、集中しつづける忍耐の持続力である。

4-4-1-4.繊細で複雑な、集中力がいる面倒なものへの持続力  

 単調なことの反復には、うんざりさせられるが、逆に複雑で煩雑なことも、これが続くと嫌になり、うんざりとさせられる。短期なら、意識は複雑なことには緊張させられ、気をそこに奪われて、不快度は、あっても小さくて済む。だが、それが続くと、疲労してくる。イライラもしてくる。気を抜いて、ほかへと気紛れもしたくなる。集中できなくなる。そういう複雑な仕事は、続けば、大いに煩わしくなって逃げ出したくなりその持続は耐えがたくなる。それを維持し続けて、忍耐をやめないことが求められれば、根気が必要となる。

 煩雑ではなく単調に属するもので、間違いが許されず極端に気の集中が求められるものもある。焼き物に、同じ小さな模様を無数描くとき、一心不乱に延々とこれを続けるが、短時間で極度に疲労することになろう。それを続けるには、根気がいる。

4-4-1-5.忍耐持続から気(=注意・エネルギー)を散じることの抑止 

 単調で飽き飽きすること、煩雑でうんざりすることからは、逃げ出したい。そこに気をとどめておれず、ほかへと気を向けたくなる。その単調なことや煩雑なことに持続が求められれば、苦痛が大きくなり耐えがたくなる。気をそこへと集中しがたくなるが、集中しないと、ことは続けられない。忍耐は、そこへと気を集中するようにと、気を他へ向けて気を抜いたり気を散じることがないようにと努める。移ろう気を移らないようにと抑止して、忍耐の求められることへとその気を集中しつづける根気が必要となる。

4-4-1-6.単調も煩雑も、その持続には、根気がいる  

 倦怠をさそう単調なことも、複雑な煩雑、面倒なことも、これが短時間なら、さして忍耐はいらない。長期となるなかで、それらは、辛気くさく、うんざりすることになり、耐えがたいものとなっていく。その持続のなかでは、気は、うんざりさせられるものから逃げて、ほかを向こうとする。本来移ろう気である。この気を根っこのように不動で不変にとどめるのが根気である。激痛なら、苦痛回避衝動の抑止に懸命となるが、それにエネルギーを消耗して短時間しか我慢できないのが普通である。ながく耐え辛抱を要するものは、その時々の苦痛は小さいが、それがどこまでも続いていく。辛抱の忍耐では、持続が肝要となる。その持続での倦怠とか面倒といった、うんざりするようなことにどこまでも耐えるのが、根気ということになる。

4-4-1-7.うつろう気を抑止し集中させる、不動の根っこの「根気」    

 煩わしいことも、単調で飽き飽きすることも、短期ならば、忍耐はいらないかも知れない。快なら、その持続は、はじめは苦にならない。が、飽きてくると、だんだんその反復・持続は不快・苦痛になってくる。苦痛であれ快であれ、それが持続すると、うんざりして嫌になって投げ出したくなるものが多い。長期になってくると、それらは、不快度をまし、辛気くさいこととして、嫌悪感をまして、忍耐の意を固めていないと、続かないことになる。気は、集中しがたくなり、ほかのことへと気を紛らわせたくなって、移ろう気は、移ろうことになる。そこで、忍耐は、これを動かないようにと不動にとどめて持続に努めることが必要となり、根気が登場しなくてはならなくなる。

4-4-1-8.苦痛への単なる我慢ではなく、目的を目指して辛抱する根気 

 激痛に我慢するのが長期でも、その激痛自体に対決するのは根性で、それを根気があるとはいわない。「仕事を根気よく続ける」、「治療に根気よく耐える」のは、苦痛対決の我慢、根性とはちがう。辛抱と根気は、仕事とか治療という善・目的を目指す。もちろん、苦痛の忍耐のうちのことであれば、苦痛も踏まえつつである。「うんざりする浪曲を、根気よく聞く」という場合、その辛さに耐えるのは我慢・根性であるが、根気・辛抱は、その我慢・根性を含みつつ、浪曲を聞くという目的を意志し続け、気をそこへと集中し続ける営為になるのであろう。

4-4-2.根気は、うんざりすることを、投げ出さず、頑なに耐え続ける 

 忍耐は苦痛を甘受するだけのことだから、甘受、受け入れの姿勢を保てば、つまり苦痛と損傷を排撃・回避する動きをしないで無為にとどまっておれば、忍耐は、継続できているのである。忍耐は、これを放棄するという意志を実行しないで、無為のままにあれば、続く。苦痛回避への衝動は強いけれども、その衝動を動かないようにしておれば、忍耐は無事である。うんざりする辛気くさいものは、時間とともに嫌悪感を大きくするが、気を少々よそへ向けようとも、その忍耐を投げ出し忍耐放棄するという意志の一点を抑止することができているなら、忍耐は無事である。根気ある者は、これを投げ出すという致命的なことだけは避け続ける。

4-4-2-1.気がよそを向くのを抑止し、あきらめることなく耐え続ける 

 根気は、気を根っこのように不動不変にとどめるが、移ろう気が少々移ろおうとも、忍耐の意志自体を放棄することがなければ、忍耐をあきらめてしまうことがなければ、なお、忍耐はできているのである。うんざりし一刻もはやくその忍耐を放棄したいとイライラしていても、最後の一点、忍耐放棄に踏み切らないなら、あきらめることがないなら、忍耐は続いている。気を動かすとしても、最後の、投げ出し、あきらめるというところまで意識・気が動いてしまわないなら、不動の根っこの気は、維持できていて、忍耐は続く。

4-4-2-2.長期で犠牲は増大するが、気にせず、未来に確信をもつ

 根気は、長期に渡る忍耐になる。忍耐は犠牲(損傷・苦痛)を甘受するもので、長期になるとは、犠牲が大きくなっていくことである。その犠牲が気になるとしたら、その犠牲回避の気持ちが大きくなって、忍耐放棄へと向かう気を大きくする。それを抑止して、犠牲を気にしないでおれるなら、根気は続きやすい。さらには、忍耐は最後に目的実現に到るから、その未来の確信ができておれば、これが引きつけて忍耐を支え続けてくれる。根気は、その目的実現を確信して、ねばり(根張り)続ける。

4-4-2-3.移ろいやすい気を、根っこのもとに閉じ込めて不動不変  

 移ろうのが気であるが、それを、苦痛甘受の忍耐から逃げないようにと、根っこのように不動にと押しとどめるのが「根気」である。単調なものも煩雑なものも、しばしば時間とともにうんざりとなって、これから気を抜き、ほかのことへ気を移したくなってくる。そうなるとその忍耐への気はそぞろになって集中しがたくなる。その忍耐のいることを投げ出したくなってくる。そうならないように、根気は、気をじっと忍耐すべきことへと閉じ込める地上のことは気にしないで、根気は、地下に根を張って不動を貫く。

4-4-2-4.しつこさ、執念深さ  

 その忍耐が迷惑で、はやくあきらめてほしい者からいうと、根気のある人というのは、往生際の悪い、執念深い者という否定的評価になろう。根気のあるひとは、忍耐を簡単には放棄せず、しつこく執念深いのである。それまでに払った犠牲・忍耐は、その放棄で無になり、無駄骨になってしまう。その損失が許せないとしたら、簡単には忍耐放棄できない。その目的実現が長年の望みであれば、簡単には忍耐を放り出すことはできない。執念深いものとなる。根気が続かないなどと泣きごとをいうことなく、根気を培いつつでも、その忍耐を、しつこく続けることになる。

4-4-2-5.不屈のしぶとい意志力   

根気の続かない者は、すぐあきらめる。根気のある者は、簡単にはあきらめない。不屈の精神をもってしぶとく耐え続ける。一旦、すると決意したものは、その意志を最後まで貫いていこうという不撓不屈の精神をもっている。それを妨害するものは、苦痛であり苦痛回避の衝動である。うんざりするものの持続は、苦痛を大きくし、その忍耐の放棄の衝動を大きくし「根気が続かない」と、弱音をはきたくなる。根気を堅持する者は、尊厳をもった自身の理性意志をもって、軟弱な自己内の自然にムチをふるい、善・目的をしっかりと見つめながら、忍耐すべきことへと己を貫き通していく。

4-4-2-6.粘り強い意志は、断念しない   

根気のない者は、忍耐で可能になる価値に無知であったり、知っていても短気で待っておれないとか、あるいは、苦痛には弱いんだと甘えて、忍耐をさっさと投げ出しあきらめる。根気のある者は、その反対である。自身が断念する意志を行使しないかぎりは、忍耐は続き、根気は続くはずだと、どこまでも、必要な限り忍耐を持続させる。根気があるとは、最後は、自身の意志の問題となる。意志が頑強で譲らないなら、根気があるということになる。苦痛回避の衝動が動こうとするのを抑止する意志、これが断念しないかぎり、意志が続く限り、忍耐はつづき、根気は続く。

4-4-2-7.根気の危機は、途中での休止、停滞に生じやすい        

 同じ苦痛甘受が続いているときよりも、その長い辛苦の途中で休憩したり、その経過が思わしくなく停滞したとき持続的忍耐、根気の危機となることが多い。休憩して気が抜けると、再開へは抵抗が大きくなる。あるいは、辛抱の過程が停滞したり中断すると、うんざり感は大きくなり、その中断のままにして、忍耐そのものを投げ出したくなる。どこまで辛抱してもきりがない、成果は見えてこないということで、その停滞の間に、それ以上の辛抱をあきらめてしまう。禁煙やダイエットの失敗は、これである。最初はうまくいっているが、途中で、つまずくと、その辛抱を放棄し、あきらめてしまう。そのつまずきにおいて、あきらめず、これを乗り越えて辛抱を持続させるという意志を堅持し続けるかどうかが問題となる。

4-4-2-8.「根をつめる」とは

単調であれ繊細であれ、一点のまちがいも許されないというので、極度に集中してことにあたるべき営為がある。「根をつめる」という状態である。これは、持続性が求められるとしても、全意識・気を一点に集中したもので、長くは続けられず、短時間で急速に疲労困憊となる。いわゆる根気の場合は、長期にわたり、遥かな目的を睨んで知性が主導するものになろうが、「根をつめる」という場合は、現在の営為に全神経を集中したもので、知性が主導するとしても感性がわき見をすることも許さず、知性・感性を総動員した意識の集中であろう。動く気を不動にする「根気」ではあるが、極端な集中で、短期でしかありえないから、「根気」の「気」までいかず、「根」止まりになっているのであろうか。

4-4-3. 焦らずイラつかない、大らかな持久力  

 単調なものも煩雑なものもすぐに済ませることができれば、苦でも忍耐のいることでもなく終われる。だが、それが長引くとうんざりとし、はやく終わりたいと、気が急くことになる。思い通りにならず、気のみが先にいって、焦り、イラついてくる。これが高じれば忍耐を投げ出して放棄することになっていく。忍耐放棄して犠牲を台無しにすることを阻止して忍耐を継続していくには、その心をイラつくことに囚われないで済むようにと、大らかに、気長に構えていけるようにすることが必要である。根気は、こころの安定を長く保つ能力である。

4-4-3-1.うんざりすることに、気長に穏やかに構える   

「根気よく」とは、いやなうんざりするものを前に、これから逃げ出したいと焦るのを抑止して、落ち着いて安定した心の状態をもって耐え続けることであろう。イラつき焦るとき、その耐えがたいものをはやく終えたいと気が急き、はやく逃げたい、嫌なものから手を引きたいということになる。根気ある者は、その焦りを抑止し、その焦燥にとらわれない穏やかな安定した心の状態を一般より大きく抱ける者になろう。それは、焦燥する感性を強力に抑止できる意志力と、焦燥自体を小さくとどめ気にしない、安定した穏やかなこころが可能にする。

4-4-3-2.細かで煩雑なことに急かず淡々と応じる 

 忍耐の過程が複雑な場合、最終目的に到達するまで、煩雑で多くの時間がかかる。その細かな諸作業は時間を必要とする。目的までには長い面倒な手続きが取り続けられねばならない。目的をはやく実現したい心は、その諸展開の多さと時間のかかることに待てなくなってくる。焦ってくる。気は急くが、ことは煩雑でうんざりすることが延々と続く。焦りはつのり、イラつき、忍耐の限界を超えて、これを放棄したくなってくる。根気は、これらの焦りイラつきをしっかりと抑止する。あるいは、そういう焦燥感をわきに置いておいて淡々とことをすすめていく。

4-4-3-3.倦怠をもたらす単調さも、気にせず余裕をもって 

 単調なものは、かならずしもイラつきや倦怠を生じない。雨だれの音は、心地よくのんびりといつまでも聞いていたいであろう。だが、これが耳につく不快な音になった場合、続くほどに耐えがたいものになっていく。その持続には、退屈し、うんざりし倦怠の度を強くして、だんだんと耐えがたさが増してくる。根気のあるひとは、そういう不快な耐えがたいことの持続に、倦むことなくイラつくことなく、これを穏やかに受け止めて耐え続けていく。その反復を気にせず受け流していくか、意志力が大きくて、焦燥を簡単に抑ええているのであろう。

4-4-3-4.安定した余裕ある心身のもとに気の移ろいを小さくする   

 根気は、苦難に耐える気を、変わることなく持続させる卓越した能力である。気は本来移ろうものであるが、これを動かないようにと努める。うんざりする単調なものも煩雑なものも、気を集中させるのは困難で、気は、移ろい逃げようとする。それを抑止しているとイラつき、気が焦ることになる。それを根気ある意志は、動かないようにと制御しつづける。気持ちが安定して余裕があれば、少々のイラつくこと焦ることは、放置してもおける。根気は、悠長な構えをもつ。

4-4-3-5.現実の時間・動きに合わせていく姿勢 

焦りは、自身の描く時間展開が速すぎて、現実の動きを遅く感じることで生じる。子供の動作が鈍いと焦りイラつく。速く動くことを想定し、自分のイメージの方に現実を近づけようと焦る。焦らず適切な対応をするには、自分の時間意識の方を変えることである。根気よく子供のすることを待てるようにと、自分を変えることが求められる。根気の続くひとは、自分が勝手に動かしている主観的な時間意識を無にして、現実自体の時間展開に合わせていくことが巧みなひとになろう。あるいは、待つのをやめて、その間、自分の別の仕事に時間をまわしていくのが上手なひとなのであろう。

4-4-3-6.時間感覚のちがい  

時間感覚は、個人でも民族でもかなりの違いがある。日本人は、何事もせっかちだと言われている。本の出版など、ドイツでは全集は、五十年百年とかけて出すが、日本では、ごく短期間に、何年かで終えるのが一般であろう。食事でも性の営みでも、日本人はせっかちということになっている。個人間の、気の長短の異なる度合いも大きい。同じ家族の食事でも、時間のかかる者と、ほとんど噛まずに飲み込んで早々に終わる者がいる。多くがせっかちで、そのために、これを戒めて、「根気」という言葉が作られているのかと思いたくなる(根気という漢字は、中国でも一般的には使わないようである)。

4-4-3-7.西洋には、根気専用の言葉はなさそうである   

忍耐は、なにより苦痛に耐えることとしては、どれだけ大きな苦痛にしっかりと耐えるかという根性が、ガッツ(gutsが必要となる。さらに、これを持続させることが大切で、それを日本語では、根気でいう。だが、根気にぴったりする西洋の単語はどうもなさそうである。短期の我慢(patientia)に対して、長期の忍耐を辛抱・堅忍(perseverantia)というが、この後者で根気に相当するものは表わす。忍耐は、持続を要するものが多く、根気のいるものである。ということで忍耐一般が根気を含むともいえる。だが、日本人は、根気をいう。それは、短気な者が一般的な日本では、長期にわたっての忍耐は、よほど気を引き締めて対応することが必要となり、そこでの忍耐の構えを特別に、「根気」でもって戒めているのではないか。

4-4-3-8.自身の損傷・ダメージを気にせず余裕・落ち着きをもつ  

 忍耐では、犠牲を払うことが必須である。苦痛・損傷を受け入れるのが忍耐である。長く続く忍耐では、その犠牲・損傷が大きくなっていく。根気は、それの覚悟ができていなくてはならない。自身の損傷の拡大を気にしないでおれるなら、忍耐は、より続けやすいことになる。根気あるものがもつ余裕や落ち着きは、自身のダメージへの、損傷受け入れへの余裕であろう。あるいは、それを甘受し続ける意志の強さでもあろう。深慮遠謀をもって大きな理想を実現しようと意志する者は、耐えている苦痛・損傷に大きな価値を見出し、その犠牲は些細なものと見なし、何でもないものと気にしないでおれる。

4-4-4.鈍感力  

 鈍感は、愚鈍という悪しき意味でいうのが一般だが、過敏の反対で、過敏がマイナスの価値になるときには、逆の鈍感はよい意味合いになっていく。鈍感が能力となる。鈍感力である。煩わしいとか飽き飽きすると感じなければ、それらに鈍感であれば、気にすることが小さく何でもないこととして、根気は、どこまでも続くことであろう。うんざりすることに鈍感なら、さして回避したいことにはならず、容易にそれを持続することができてくる。根気があるということになっていく。鈍感は、ここでは、力、能力となる。鈍感力である。

4-4-4-1.感じるに鈍で、倦怠も煩雑も気にせず 

 単調でも、心地よいリズムが続くことは、愉快であり、倦怠をもたらすものではない。複雑な行動も楽しいものでありうる。だが、それらが不快と感じられる場合は、倦怠をもたらし鬱陶しくうんざりして耐えがたくなる。感じ方でまるで異なったことになっていく。根気が続くには、できるだけ、不快を感じるに鈍であることが望ましい。気にする度合いがちいさく、鈍感で、不快感が小さければ、これが続いて積み重なっても、耐えうる時間は、より長くなっていく。 

4-4-4-2.騒音には、鈍感な方がよい  

 山で鳥の声を録音するとき、セミが鳴いていることはさして意識しないでいても、うちで再生してみるとセミの音が圧倒的なことがある。セミの声は些細なバックミュージックにと聞き流し感度をさげて、ほかの求める音声を過敏状態で受け入れているということなのであろう。選択的に鈍感になりえているのである。鈍感力である。騒音の持続は耐えがたいが、無視すべき騒音に鈍感になりうる者は、よりよく根気のある態度をとりうることになる。

4-4-4-3.急くことなく鈍感で、気にしない、のん気者

 何かを教えていて、なかなか覚えてくれないと、イラついてくる。根気よく続けねばと思うが、回を重ねるたびに、うんざりの度合いは大きくなる。だが、相手がのろまなのではなく、本当は教え方がよくなく、せっかちになっているのかも知れない。予定通りに進まず気の急くことがあるが、これに鈍感であれば、急くことはなくなろう。自分勝手に進めようとするエゴが小さくなり鈍感になれば、相手へのイラつく気は呑み込んでのんびりと、のん気でおれる。鈍感力があれば、根気はつづく。

4-4-4-4.否定的な感情に鈍感、無心  

 有害なものがあるときは、はやく気がつき過敏であることが生に有利となる。だが、ひとが気をまわしがちなのは、利己に属する、どうでもよいことが多い。大局がうまくいっているなら、些事は気にせず鈍感である方がよい。優れた権力者は、ひとの陰口をわざと聞かないようにしていた。聞いても知らないふりをした。そういう些事には鈍感であるに限るということであった。知らなければ、気にしなければ、放置しておいて平気でありうる。気にしなくていいのに、これにとらわれて気に病む過敏さは、褒められたものではない。鈍感力は、忍耐の求められるところでは、好ましい能力となろう。

4-4-4-5.イラつき焦る短気、過敏さより、気長で鈍感に 

 鈍感であれば、何事も些事といなして、のんびりし気長でありうる。過敏で大げさに捉え、短気でイラつき焦燥して、すぐに忍耐の限界になって、根気が続かずこれを投げ出してしまうのとは反対である。過敏に先の先までを感じ取って、それらが思うようにはかどらず、焦燥して、短気な対応をするのでは、根気は続かない。鈍感に悠長にかまえて、対象の動きのあとをゆっくり追っていくぐらいの呑気で気長な対応であれば、焦ることもなく、結果、持続は安定して、根気あるものとなるであろう。カメを見て楽しむには、それのゆっくりした動きに自分の気を合わせねばならない。自分の方に合わせようとすると、イラつき蹴飛ばしたくなってしまう。

4-4-4-6.損傷・ダメージに強く心身がびくともせず壮健なこと  

 鈍感力は、打撃に鈍感ということでもある。損傷をうけてもそのダメージが小さい、打たれ強いということである。常勝の者は、敗けることになったら、あっけなく敗走してしまうことがある。だが、叩かれることに慣れている者は、少々の敗北にはびくともしない。敗北のダメージが小さく鈍感である。誹謗中傷にも鈍感で気にしないでおれる。そういうことに過敏に反応する者はすぐに気に病みへこたれるが、鈍感であれば、気にせず、平然としておれる。

4-4-4-7.ホルモン分泌が安定力、鈍感力に見合うものになる 

 根気のある者は、心身を、持続力のあるものに、安定した状態をよりよく保てるようなものに改造もすることであろう。その安定に寄与するホルモン、セロトニンを多く出し、腹側海馬の活動抑制がしっかりとできるような状態に速く確実にもっていけるのではないか。脳内を心身の安定にと制御する体勢に容易にもっていけるなら、困難に出会っても、過度に興奮せず根気ある安定した対応ができる。血圧とか心拍数とか、身体の壮健さ・頑強さも、根気ある活動の持続にふさわしい余裕のあるものにできることが根気ある者を支える。

4-4-5.鋭敏さ 

 長く忍耐できるには、苦痛を感じる度合いは小さい方がいいから、感情的には鈍感であるのが好ましいであろう。だが、知的には、俊敏・鋭敏で深慮遠謀できる方が好ましい。邪推するようでは自身を苦しめるだけだが、冷静で真実を深く求め、遥かな先まで見通しての目的活動は、忍耐力を大きくする。現に感じられるのは、苦痛・辛苦であり犠牲であるから、その現在に気を奪われて悲観的にならないためには、その犠牲の価値を大きなものとして自覚できるような、しっかりした理性の支えが求められる。根気ある辛抱を続けていくのは、強い理性意志であり、強い理性であるには、深慮遠謀をもって自身の位置を明確に把握できる鋭敏な知的営為をうちにもっていることが必要である。

4-4-5-1.賢い子は、根気に優れる 

現在あるのは、いつ終わるとも知れない苦痛で、これに囚われただけの者は、この苦痛から逃げることで頭がいっぱいになり、忍耐は簡単に放棄されてしまう。だが、その目的・価値を自覚できる者ならば、その苦痛に大きな価値のあることが分かるから、忍耐放棄には慎重になる。また、苦痛の過程も一歩一歩に目標などを自身で設定して、進みゆきを自覚し、倦怠とか焦燥も小さくできる。賢い子は、遥かを見通し、現在を新規の一ステップと捉えて前進・向上を確かめつつ動くから、飽きも焦燥もせず、辛抱強く、根気に優れた者となりうる。

4-4-5-2.細かな面倒なことも鋭く分別して冷静に対応する知力 

 根気のいる仕事に、細かで煩雑な手続きを続けるようなものがある。知力や腕の器用さを動員し続けることが求められ、それに弱い者は、すぐに煩わしくなり、うんざりしてその辛抱を早々に放棄する。それへの知力・技量に優れている者は、これに長く応じることができ、冷静に続けていくことができる。根気があるということになる。煩雑なことが続くと混乱して、これを秩序立ったものに回復することは、ことを明晰に判断でき分別に優れるものでないと困難で、それがないと焦燥の末に根気が続かず忍耐放棄となる。賢い者は、これに筋道を立て忍耐を続けていくことが可能で、根気よく辛抱していける。

4-4-5-3.単調で倦怠をさそうものにも、目標・段階等を設定して飽かない  

  単調な物事が続くとうんざりしてきて、耐えがたくなる。知性は、同じことが反復すると飽き飽きしてくる。それが続くと根気が続かないことになる。そういう知性の特性を自覚できている者は、忍耐においてこれをよりよく持続させるために、自身を倦怠に陥らず駆り立てるために、忍耐の過程のうちに小目的を見出し、目標を設定して、新奇・新鮮さを意識的につくりだす。身近な目標までをさしあたりの我慢の終点にもする。そこまで耐えたら一段落とする。目標は、目的とちがい自由に自分の性分にあったように設定できるから、これを適宜に立てれば、忍耐は、続けやすくなる。

4-4-5-4.深慮遠謀の狡知は、ことを耐えやすく、耐える価値を大きくする  

 深慮遠謀、深く慮り、遠く謀れば、現に耐えている苦痛・犠牲のもつ意味・価値の大きさが自覚され、現在の苦痛のみを思うと即忍耐放棄したくなるものでも、そう簡単には放棄できないことになろう。はるかを遠慮し深く謀れば、苦労は大きくても、それがはるかな希望の実現を可能にする価値ある営為として自覚され、苦労の一つ一つがそれへの接近ととらえられて、根気ある忍耐の持続が可能となる。

4-4-5-5.理性は、忍耐の目的実現のさらに先までも思いはかる 

 諸種の受験・検定では、その合格のみを目的として、その先を見ていない者がいる。辛抱してこれに成功しても、先を見ていない者は、それ以上することがなくて、途方にくれる。だが、深慮遠謀の者は、その苦労・忍耐を終点とせず、そこからさらに先へと目的・希望を見出している。そのはじめの忍耐し犠牲をはらう段階から、先のことまで視野にいれておけば、これをそのはじめから忍耐の目的にとりこんで、忍耐を支え引いてくれる力とすることができる。根気が続かないと嘆くことを少なくできるであろう。

4-4-5-6.同じことをしても、まるで別の体験となることが多い 

 忍耐は、苦痛甘受をどこまでも持続させる。同じことの無味乾燥な持続であれば、あきあきしてくる。耐え難くなってくる。だが、ことをよく見極め、その成り行きを思い測れるひとは、些細な動きにも多くのことを読み取り、あきることがない。同じ体験をしていても、鋭く観察できる者とそうでない者とでは、体験内容はまるで異なることになる。ぼーとしている者は、同じ忍耐の持続に飽き飽きする状態なのに、洞察と想像に富む者は、次々と新奇なものを見出して、より良く無味乾燥なものに耐えることができる。 

4-4-5-7.信念があれば、根気も確固としてくる  

 目的とそれへ至る過程が真実と確信できて、耐える者を強く引き付けるものなら、そこへ至るまでの持続の力、根気は、大きなものになりうる。この世の不幸に耐えることで、確実に来世が幸福になるのだとしたら、この世の辛苦には、なにがあっても耐えねばと根気をしっかりと持ち続けることであろう。キリスト教では、純潔とか信仰堅持といった内容の堅忍perseveranceをいう。信仰堅持の殉教者など、拷問に、未来の至福を見出して法悦を感じているかのような姿で絵画に表される。信念や信仰をもち使命感をいだいての犠牲の忍耐は、その犠牲によって信念が貫かれ、使命が達成できるので、それを成就するための忍耐には、尋常ではない根気が発揮される。

4-4-6.辛気くさく、うんざりすることに根気は限定か 

辛気くさくてうんざりするものをじっと受け入れ続けて耐えるのが根気である。ということは、長期でも、うんざりするものでなければ、根気の対象ではないということになる。使命感を満たしてくれるような誇らしいものは、長期で辛苦であったとしても、根気をもって言い表すのに若干の戸惑いを感じる。ちょうど、根性が強者の大きな忍耐力の形容には使われないように、長期に渡る忍耐のいるものでも、それがうんざりするようなものでなく、命をかけてもかまわないような、やり甲斐のあるものの場合、根気の対象とはならないように感じられる。 

4-4-6-1.コロンブスやガリレオの堅固な志行は、根気では表さないだろう 

 同じことの反復には、飽き飽きし倦怠となり、これの持続には、うんざりして耐えがたくなる。それを耐え続けるのが根気である。コロンブスの航海は、単調な日々であったろう。だが、乗組員とちがい、彼自身は、期待と不安が大きく、倦怠を感じることはなかったであろうから、うんざりとはならず、したがってまた、根気はいらなかったであろう。ガリレオは、地動説を堅持して権力の弾圧を強固に耐えた。天動説側への反論が、うんざりさせられるものなら、根気だろうが、世界観をひっくり返す大事との自覚・使命感をもってであれば、やりがいのあることであった。とすれば、これも根気でいってよいかどうか。

4-4-6-2.perseverance(堅忍)と根気のずれ 

 キリスト教では、純潔とか信仰堅持で忍耐し続けるのを堅忍perseverantiaと言う。だが、これを根気でいうと、それを下賤なところに貶めるような感じがする。根気は、いやなうんざりさせられることを、逃げたい、投げ出したいものを必死で堪えてする。信仰の堅忍は、神与のありがたいもので、うんざりするものでも、辛気くさいものでも、投げ出したい嫌なものでもなかろう。根気で捉えたのでは、これを下賤のレベルへと貶めることになりそうである。

4-4-6-3.労働は、根気のいる代表      

 一般的にいう労働は、同じことを反復する単調なものでその持続が大切だが、これを続けていくことは、不快度、嫌悪の度合いを増して、うんざりすることになっていく。あるいは、職人芸がいわれるものでは、繊細な技巧の反復が求められ、それの続くことは面倒で煩雑でうんざりとなってくる。それらに耐え続けるものとして、労働は、根気がいるものの代表となろう。うんざりとさせられる日々の労働は、やめたい、投げ出したいと思うようなことがあろうが、これを抑止して、根気強く持続させていく。

4-4-6-4.根気のいる労働を堅忍では形容しないだろう  

 労働は、単調なことを反復するとき、その苦痛を軽減するために、気晴らしの快をそこに持ち込むことがある。みんなで調子を合わせるために歌を歌うことがあったが、それは、その労働の不快度を小さくもした。うんざりする嫌なものごとの持続には、気晴らしできるようなものがあれば、よりよく根気も維持できることとなる。だが、宗教の求める神与の堅忍(perseverantia)では、そういう気晴らしは不要であろう。その忍耐の目的自体が忍耐をしっかりささえることで、あるいは、困難なほどにやりがいも感じられることで、堅忍には気晴らしなど無用であった。とすれば、気晴らしを求め、はやく忍耐も終わりにしたい労働は、堅忍の対象とはなりにくいように思われる。

4-4-6-5.うんざりすることに耐える力が根気    

 単調だからといって根気がいるとは限らない。太鼓が単調に鳴り続けることは、そのリズムに乗っていつまでも踊り続けるような場合、楽しさの持続であり、忍耐・根気はいらない。だが、それが疲労をもたらし、嫌になってくると、うんざりとなり、その時点からは、持続は、苦痛で、これに耐え続けるには、根気がいることになる。複雑なもの煩雑なものも、好きなプラモデルの組み立てでは、熱中して続け、根気など無用である。だが、これも疲れてくるとだんだん不快度を大きくし、嫌になりうんざりしてきて、続けるには、忍耐が、根気がいることになる。根気は、うんざりし投げ出してやめたいのを抑止して、その持続を堅持するとき発揮される能力ということになろう。

4-4-6-6.根気は、尊いもの・卓越したものには、言いにくい 

 根性と同じく根気も、その「根」が、形容するものを汚すのであろうか、卓越した尊い営為には使いにくい感じがする。信仰堅持は死ぬまで続けるべきものだが、根気がいるとはいわない。純潔の営為は、誘惑を絶ってのことで辛いこともあろうが、これを根気があるとはいわないだろう。それらを根気で形容した場合、何か不純な意図を思わせ浅ましいものを想像させる。信仰堅持等の堅忍は、その営為自体、誇らしく、遣り甲斐をもってこれに耐え続けるもので、辛気くさくもうんざり感もないであろう。そういう卓越した営為は、たとえ辛いことだとしても、「根」気でいうと、これを汚し貶めるようなことになるのではないか。

4-5.気骨・気概、硬骨・傲骨、頑固・意地 

忍耐の対象の苦痛・受苦は、下位の未熟者が多く強いられることだが、上位の者にも、自重し、忍耐することがしばしば必要となる。しかも、上位者らしく忍耐する態度が求められる。親が、子の見ているところで、些細な苦痛に臆して逃げ腰になっていたのでは、格好がつかない。毅然として耐える見本を示さねばならない。根性・根気は、未熟な者の優れた忍耐力だが、熟達した者のそれらもあることで、表現を別にしてその言葉をもっている。根性に相当するものには、気骨とか気概があろう。根気に近いものには、硬骨とか傲骨が言われ、それらが過剰になって否定的になれば、頑固とか意地とかになろうか。  

4-5-1.気骨、気概 

気概・気骨は、困難にくじけない強い意気をもつことであり、自己の自然(苦痛回避衝動等)を抑止し毅然として、超自然のおのれを誇らしく堅持する。強者も苦痛・損傷を被り忍耐の必要となることが生じるが、これに、浩然の気をもって対応し、苦痛から一歩も退かない逞しさを見せて、強者の面目を保つ。気というエネルギー源が骨のように確固となった気骨であり、些事に拘泥せず大様に逞しく苦難を甘受していく気概である。移り気でふらふらしている気を、硬い骨のように逞しくした、信念を堅持し困難に屈服しない気骨である。些事に拘泥する気を抑止して、おおらかに大様になった気概である。

4-5-1-1.気概・気骨は、忍耐とともに勇気などでもいう

 気概・気骨は勇気でもいう。大様、大度な心構えとして気概は、危険に大胆な対応をする卓越した心構えになる。気骨の堅固さ逞しさは、危険にひるむことなく屈することなく果敢に挑む姿勢である。これらは、苦痛甘受といった受け身のものにとどまらず、能動的積極的なもの、攻撃的なものでもある。忍耐においても、一歩も引かない断固とした構えにおいて、毅然とした心構えの気骨・気概をみることになる。

4-5-1-2.根性と違い、気概・気骨には品格がある 

 根性は、未熟者の逞しさであり、熟達した者の形容には若干躊躇する。そういう熟達・卓越した者の優れた忍耐力は、気概や気骨で言えば良いのかと思う。本来、忍耐は、苦痛を自然に抗して甘受する超自然の営為であり、人にふさわしい尊厳のある営みである。自身のうちの自然、感性衝動を押さえつけ動かないようにして理性意志が支配し自由にする、自律の端的であり、自然超越のひとの尊厳、品格を証するものになる。忍耐自体が気骨・気概からなっているのだとも言える。ただし、昨今は、気骨など、あまり使うことがない。高貴とか品格とかの価値観が薄れている現代では、一律に根性で言えばよくなっているのかも知れない。

4-5-1-3.凛々しく毅然として  

忍耐は、苦痛から逃げたいという自然衝動を毅然として抑止し、苦痛を甘受しつづける。毅然、つまり、毅(つよ)く、毅(たけ)く、強力に猛然とたちむかい、自然衝動の激しさに動じず、堅固にこれを抑止して、ひとは耐える。苦痛と苦痛回避衝動をまえにして、凛々(りり)しく振舞う。忍耐における凛々しさは、この凛(りん)が、氷に触れて身を引き締めることにふさわしく、苦痛のまえで、気を引き締めて、雄々しくこの苦痛と対決し、これに譲らない逞しい意志力を発揮する。気骨・気概をもったものの際立った態度である。

4-5-1-4.強者には、泥臭い根性は似合わない   

根性は、弱者の逞しい負けじ魂であろう。したがって、強者には、ふさわしくないところがある。気概・気骨は、それを払拭したものとして、誇り高い者のもつ根性ということになろうか。根性は、泥臭い根っこの下賤さを感じさせるところがある。根性は、腐っているとか、ゆがんでいると否定的な形容をされるものでもある。だが、気骨とか気概は、腐っているとか泥臭いといった否定的な形容は受け付けない。卓越した強者の優れた忍耐力には、この気概や気骨がふさわしい。

4-5-1-5.強い意志をもち、おのれを貫徹する姿勢  

男性ホルモンのテストステロンが増えれば、自信が湧くという。それは、攻撃的に振舞うというほどのことをしなくても、姿勢を正して胸を張るだけでも、分泌が盛んになるようである。そういう積極的な態度をもってすれば、忍耐での逞しい態度、気骨とか気概もしっかりもてるようになるであろう。苦痛に挑戦して忍耐をつらぬく経験を重ねることで、内分泌などをそれ用に調整することも相即的にでき、苦痛甘受にふさわしい心身の態度・ふるまいが可能になってくる。それは、未熟者でも熟達者でも同じことで、根性ができ、気骨・気概が備わってくる。

4-5-1-6.自制=自律自由の誇らしさ               

 忍耐は、自然(苦痛や快の感性)を超越した営為である。自然の生は、苦痛・損傷からは逃げる。だが、ひとは、これを超越してその苦痛回避衝動をしっかりと抑止して、その苦痛の犠牲を引き受けて高い目的を実現する。意志をもっての自己内自然(苦痛等)の支配ができるのであり、自律自由のふるまいができる神的存在である。絶対神は、自己原因ゆえに、絶対的と言われる。他律を排して、自身を自身で支配する自己原因的自律をひとは、その忍耐において実現している。この神に等しい崇高さを、気概・気骨の忍耐は、有している。

4-5-2.硬骨、傲骨   

硬骨は、骨自体が硬いのに、さらに硬い骨というのだから、たたかれようと批判の嵐にあおうともびくともしないで耐え続けるものであろう。持続ということでは、肉体が滅びてもなお残り続けるのは、骨である。骨がしっかりしていることは、長く耐えるには、必須であり、硬骨は、根性でもあるが、なにより根気に相当するものであろう。その堅固に持続する忍耐のもとで、それをひとの尊厳と自覚している誇り高い状態は、傲骨ということでもある。傲は、おごり高ぶることで、傲慢というと悪い性になるが、傲骨は、良い意味での自尊、誇り高さをもつ。苦痛の自然などには負けないぞと自律を堅持して、どこまでも耐え続ける傲骨であり、硬骨である。

4-5-2-1.誇り高く耐えて不撓不屈の硬骨・傲骨  

 根気は、単に長いだけでなく、どちらかというと面倒であったり退屈で辛気くさいことでの、嫌々の辛抱継続という凡俗な忍耐に傾く感じがある。その嫌々な凡俗さをなくしたものは、特別に言われることはないが、硬骨や傲骨は、それに近いものを意味しうる。試練の続くなかで逃げたりあきらめたりせず、自然超越の尊厳を自覚して、誇りをもって不撓不屈に耐え続ける硬骨・傲骨である。泥臭い下賤の感じのある根っこの根気に対して、それを感じさせないのが、ひとの芯となり焼いても残る骨であり、硬骨・傲骨であろう。 

4-5-2-2.信念、使命などに支えられた傲骨 

 傲骨の傲は、傲(おご)ると訓じ、尊大な態度をとるもので、よい意味ではない。しかし、傲慢などとちがい、忍耐においては、忍耐自体が受苦にあって侮ったり奢ってはおれないから、傲骨は、誇り高く屈することがないという、尊厳をふまえたひとの超自然的な振舞いとして、望ましい態度となる。ひとは、自然の苦痛回避衝動を抑止することができる。苦痛等の内外の自然を理性的に支配し、理性的自己のもと、自律を堅持できる超自然の存在である。その個我は、その理性意志をもって、おのれの使命を自覚しその信念を貫こうと、苦痛に断固とした態度をとる傲骨の存在になる。

4-5-2-3.ひとの自制・自律の尊厳にふさわしい硬骨・傲骨  

 ひとは、自然を支配する尊厳をもった存在である。外的な自然のみか、自己内の自然、快苦も支配し制御する。自制、自律の可能な存在である。忍耐は、苦から逃げる自然を抑止し苦を受け入れ続けて価値ある目的を実現する。その忍耐の反復において、忍耐にふさわしい鈍感力を養い苦痛の感受性をほどほどのものにでき、苦痛回避衝動抑止の神経回路は太く速くなっていく。自然支配の逞しさを育ててその内分泌においても男性ホルモンをしっかりと出す習慣もできてこよう。硬骨となり傲骨となる。

4-5-2-4.信念や信仰の堅持は、根気で言ってよいかどうか   

 忍耐において特にその持続に優れているのを、根気があるという。だが、信念とか信仰では、長期にわたってその信は変わらないものだが、これを根気でもっていうことは、おそらく、その信をもつ者自身においてはないのではないか。批判する者は、妄信していることについて、その辛気くさそうなものをどこまでも固持する姿勢をみて、根気のあるひとだというが、当人は、その忍耐力に優れている事態を、根気では表現しないであろう。硬骨とか傲骨とかは、あまり使わないけれども、褒めて言うとしたら、こちらになろうか。

4-5-2-5.支配者にも根気がいるが、根気では表現しない  

根性は、弱者・未熟者の負けじ魂だろう。町人根性は言っても、武士根性は言わない。根気もそれに準じるところがあるように思われる。被支配の領民が思うように動かぬことに支配者は気長にかまえ、治政では長期的展望のもとに辛抱もする。根気がいることとなる。だが、根性ほどではないが、下位の者からは、根気という言葉で称賛することはないのではないか。同輩とか上位の者からは、あるいは、自省においては、根気でもって評価することはあろうが、下位の者からは、根っ子の泥臭さのある根気では言いにくい感じがする。手垢・汚れがついていない、傲骨とか硬骨でもって称賛することであろう。

4-5-2-6.根気は、気の重くなるようなものに傾いたものか 

 ガリレオは、地動説を堅持して受難に耐え続けた。だが、それを根気があると言うことには若干抵抗感がある。命がけでする価値の高い苦難は、やりがいにあふれており、忍耐ですらないかも知れない。根気は、辛気くさい、あきあきするような苦が対象で、それにはうんざりし倦怠を生じるから、これにむりやりにも忍耐を持続させる必要が生じる。この気の重い面倒で辛気くさい忍耐の持続にいうのが根気になろう。やりがいのある苦労は、根気ではなく、硬骨とか傲骨で言うことになろうか。

4-5-3.頑固・意地と、軟弱・意気地なし        

 根気・根性が、些事、良からぬことにおいて過度であったのでは、有害となる。昨今なにかとクレームをつけるひとが多い感じだが、難癖という以外ないようなことで根性・根気を発揮されたのでは、クレームを受け付ける者には大迷惑である。自分の言い分を主張し続けて譲らない頑固な人、自己の主張に意地となる人がいる。周囲に迷惑な根性・根気は、頑固・片意地といって批判される。逆に、相手の傍若無人な態度に文句もいえず引き下がるのも、意気地がないことで、軟弱で、情けないことである。

4-5-3-1.頑固は、忍耐で有用か 

頑固とは、ひとの意見を聞こうとせず道理がないのに自説を固持しつづけるとか、自分の態度を頑なに変えないことを指す。忍耐の根気・根性と重なるのは、どんな事情が生じようとも一旦示した態度は断固として変えることがないという点で、この点では、頑固は、忍耐に資する。だが、事の理非にかかわらず頑なにその言動を変えないということでは、忍耐には、有害になることもある。目的実現が不可能とか無意味と分かったら、忍耐は即放棄すべきである。だが、頑固では、無駄な忍耐をどこまでも強行することになる。

4-5-3-2.意地は、忍耐で有用か  

 「意地を通す」という。自分の思いを無理やりに押し通そうとすることである。「意地がある」ともいう。意地は個我の思いではあっても、それは通ってしかるべき正当な思いで、それを引き下げるわけにはいかないということであろう。「意地汚い」というのは、その個我の思いが下賤な我意になっていると見ての批判である。意地は抵抗を受けるから、これに耐えつつ貫徹する点では、忍耐のいることとなる。周囲が無駄な忍耐と見て軽蔑的眼をもってしているとき、自分の忍耐とその思いを何がなんでもと意地になって強い意欲をもって貫くことがある。意地をもっての忍耐は、貫徹力が大きい。だが、無駄な忍耐のごり押しとなることもある。

4-5-3-3.強情、片意地、やせ我慢   

 忍耐は、苦痛を受け入れるという反自然の無理をする中で強情になったり片意地になることがある。強情は、自分の考えに固執して柔軟さを欠く。無理やりの辛い忍耐には、プラスとなることがありそうである。片意地は、頑固に自分の考えを押し通そうと意固地になることであれば、無理をしてでも自分の決めたことの正当性を堅持しなくてはと、忍耐放棄に歯止めがかかりそうである。やせ我慢も、辛いのを平気を装ってすることだから、泣き言をいって忍耐放棄に走るのを少しは食い止めることができそうである。しかし、いずれも、素直さを欠き、合理的な判断に従おうとしない点では、問題がある。

4-5-3-4.意気地なしよりは意地を張る方がいいか  

 忍耐する場合、意気地がないのでは、その持続はむずかしい。意気地のない者は、困難に立ち向かう気力を欠いた、自分の意志を貫く気持ちの希薄な軟弱な者で、些細なことも怖がり躊躇するから、苦痛などを前にすると真っ先に身を引くことになる。無理やりにでも自分の思いを押し通そうという意地をもった者と逆である。意地があれば、そうやすやすとは困難な忍耐から身を引くことはしない。意気地なしとは反対の意気地とか意地は、負けじ魂をもって、ことをやり遂げようとする気力のある状態で忍耐にふさわしい。が、意地を張って合理性を無視するような場合は、意気地がない方がましになることもあろう。

4-5-3-5.頑固よりは軟弱の方がいい場合もあろう 

忍耐は、苦痛を受け入れ、損傷を受け入れるから、生の保護に好ましくないことも生じる。軟弱な場合、その損傷の危険を過度に感じとるから、忍耐の無謀に歯止めをかけることになりうる。ひとの忍耐は、自然を無視して超自然的に振舞う。自然の大原則の苦痛・損傷回避を拒否する。したがって忍耐の行き過ぎは、自身の自然的生を無意味に損なうことともなりかねない。その点での行き過ぎを、軟弱さは、引き留めチェックする。生を永らえるには、軟弱な方がましになるかも知れない。

4-5-4.適宜の執着と潔さ 

 忍耐は、反自然の営為であり、過度では、自身の生は大きな損傷を受けてしまう。根気よく、粘り強く耐えていかねばならないが、行きすぎては無駄なあるいは有害な忍耐となる。無理と分かった場合は、中止をすることをためらってはならないであろう。かといって、おざなりであったり、あきらめが早すぎたのでは、得られるものも得られないままにおわってしまう。根気・根性のねばり強さと、これを即中断する潔さを柔軟に適宜に発揮することが必要である。

4-5-4-1.苦痛甘受の忍耐は、まずは潔さを見せてはならない  

 忍耐は、自然(苦痛回避衝動)との闘いである。その自然は、隙があればそれ自身を貫徹しようとするから、意志は、すきを見せてはならない。反自然の闘いを貫徹することが必須である。屈すると直ちに自然がおのれを貫徹して、忍耐は排除されてしまう。潔さでなく執着が忍耐を可能にする。「いさぎよい」とは、いさ(功とか勇とかで、強調の意味)+きよい(清い)=とても清い、すがすがしいということのようである。こころがさっぱりしていて、未練がましさがない、あきらめがはやいということである。苦痛を前に、あきらめがはやいのでは、忍耐の持続はなりたたない。まずは、潔くないのが忍耐である。最後まで粘り(根ばり)執心する。

4-5-4-2.耐えようと思えば、どこまでも耐えうる 

 苦痛は、生の損傷と一体であり、生維持のためには、苦痛の限度を尊重しなくてはならない。しかし、その苦痛の忍耐でえられる価値が大きく、死をもっても忍耐の守られるべき場合もある。拷問では殺されても耐えるということがある。苦痛は、主観的なものだから、主観の在り方しだいでは、感じ方を相当に変えることができる。戦闘中は、大けがをしていても、痛むことがなくて、気づかない。落ち着いてはじめて怪我に気づくようなことがある。激痛でも、それに耐えることが命を失うよりも大切と思えば、その苦痛に耐える限界は、無限大にもできる。忍耐は、執着しようとすれば、どこまでもそれが可能ということである。

4-5-4-3.あきらめなければ、負けない 

忍耐は、難しいことをするのではなく、主観内の苦痛を自身に受け入れ、じっとしておくだけのことで、その気になれば、どこまでも耐えることができる。苦痛を受け入れるだけでなにもせず無為にとどまればいいのである。忍耐を放棄する意志を働かさないなら忍耐はつづく。つまりは、忍耐は、諦めない限りは、続くということである。忍耐は、潔いのでは、なりたたない。潔いとは、あきらめがはやいということだからである。どこまでも、未練がましく、苦痛から逃げず、あたかも石になったかのように、じっとしておく、しつこさが忍耐にはいる。

4-5-4-4.損害を大きくしないためには、潔く放棄すべき時もある 

 忍耐は、そのめざす目的が実現不可能と判明したときには、すみやかにこれを放棄しなくてはならない。ぐずぐずしている間も、損傷は拡大し続けているのである。忍耐に固執しているかぎり、どんどん生は損壊の道を進むことになる。忍耐放棄すべきと分かったら、一刻もはやくそれを実行しなくてはならない。潔さが生を守る。もう少し忍耐すれば元を取るぐらいのことはできるかも知れないとぐずぐずしていると、損害は甚大になってくる。忍耐しても無理と分かったら、即、これをあきらめるという潔さが生を救う。 

4-5-4-5.適宜のしつこさと適宜の潔さ 

 忍耐は、あきらめない限り続く。苦痛回避衝動を抑止して苦痛甘受し、抵抗も逃走もしないで無為にとどまり続ければ、忍耐はつづく。だが、その苦痛甘受の持続は、生の損傷の持続である。忍耐の目的が実現不可能と判明したのにこれを持続させることは、無意味な損害を大きくしていくことである。そう分かったら、犠牲を大きくしないために、忍耐は、いさぎよく放棄しなくてはならない。しつこくあるべきか、潔くあるべきかは、理性が適宜に判断できる。忍耐では、深慮遠謀の理性のリードが肝要となる。

4-5-5.忍耐における極端と中庸    

 忍耐は、苦痛から逃げない。かといって無謀に鈍感に苦痛・損傷を受け入れ無為に留まり続けるべきものでもない。その中間に立つ。どこまでも耐え続ける粘り強さをもってするが、無駄と分かれば、潔くあきらめるべきでもある。両極を見極めつつ、どちらにも囚われず、どちらも取れる中間点にたつのがあるべき忍耐になるといってよいのかも知れない。中庸の忍耐である。しかし、どちらかというと、忍耐する姿勢の最善は、苦痛の限界までを、極端を耐えるもので、潔さよりは、粘り強さに、逃げ腰の軟弱よりは、頑固でも無謀でも、激痛に最後まで耐え抜く極端の方にあるというべきであろうか。

4-5-5-1.忍耐は、無謀の極端でも、軟弱の極みでもない  

 忍耐は、苦痛を受け入れることが中心になる。それができない軟弱な状態を拒否したものである。しかし、忍耐中も、苦痛は受け入れがたく、逃げられるものならと、内心では思っていることで、軟弱な面は常にひとのうちにはある。他方では、この軟弱な自然本性を無視し生の損傷など無視して頑なに苦痛を受け入れることもある。忍耐としては、後者は好都合だが、生は、ダメージを受け続け、そういうことを続けていたのでは、生はもたない。生の維持・向上のためにする忍耐であれば、極端な苦痛甘受も考えものである。

4-5-5-2.忍耐は、ときに苦痛の限界を超えてまでも耐える 

 我慢大会は、一番よく我慢できる者を選ぶ。それは、一番強い苦痛に耐えた者、一番長く苦痛を受け入れ続けられた者である。ここでは、忍耐は、中庸などではなく、極端を、苦痛の限界を目指すものになる。だが、無謀な忍耐になると、苦痛の限界を超えても、熱さの我慢大会では、やけどしてもなお耐えることがある。この無謀なものが極端な忍耐だとすると、自身の自然・感性の受け入れうる限界までというのは、むしろ、軟弱と、無謀の両極の中間の、無謀に近いものということになるのかも知れない。

4-5-5-3.忍耐は、理性を堅持するが、快苦の自然も尊重する  

忍耐は、苦痛回避の自然衝動を抑制し、理性意志を貫こうとするから、自然否定の極端であり、理性一辺倒の極端ともみなしうる。そういう極端な場合もあろうが、一般的には、忍耐は、自然感性を肯定し、理性も肯定するものである。苦痛を根絶するのではなく、苦痛は、あるがままに受け入れており、自然的に耐えうる限界と思えば、忍耐を放棄もする。忍耐する者は、ニンジン嫌いなら、その嫌いな自然感性をそのままにしていて、ニンジンを好きになるわけではない。もちろん、理性意志を貫徹しているから、自然的には排除するものを、せずに苦しむのではある。

4-5-5-4.一般の忍耐は、害悪が最小で、効果が最大となるよう心掛ける 

 苦痛・損傷については、忍耐は、これの受け入れを最小限にしようとする。わざわざに苦痛を無駄に受け入れることはない。なるべく自然感性に沿うようにする。かつ、忍耐の犠牲・手段は、目的のためのもので、その目的については、成果ができるだけ大きくなるようにと図る。成果のプラスと犠牲(苦痛・害悪)のマイナスを差し引き計算しつつ、一番、効率のよいところを選ぶ。苦痛について、逃げる軟弱の極と、無謀に身を傷める極端の中間のどこかに、害悪が小さく、成果の大きい点をみつけて、最良の忍耐とする。

4-5-5-5.長く続く忍耐は、中庸の忍耐であろうか 

 仕事とか勉強は、忍耐がいるが、これは、持続することが大切な忍耐となる。徹夜で仕事を続けられるのはどんなに頑張ってもせいぜい二三日であろう。何十年も同じ仕事を続けるといった根気の求められることも多いが、それは、忍耐に無理がないから続くのであろう。疲れたら休むことが許される状態があり、疲労を回復して休息をはさみつつ、永続的といってもいいようなことに耐えるのである。徹夜して無理やりに心身を酷使していたのでは、早晩、耐えきれなくなって、「もうやめだ」と忍耐を放棄することになろう。ほどほどの中庸の忍耐の断続が、永続的な忍耐を可能にする。

4-5-5-6. 忍耐でも原則は、過不足なく、ほどほどに、中庸に、であろう

長期の根気のいる忍耐は、短いのでは足らず、長すぎるのも苦痛・損傷を多くすることで無意味となる。必要な限りをもってする中庸の忍耐が理想的となる。強く耐える根性のいる忍耐では、軟弱で堅固さが足らないのではいけないし、過度に力んでも損傷の多い忍耐となるから、過不足のない中庸が求められるであろう。しかし、目的次第では、拷問に耐えるときのように、自身の死を賭してでも耐えるという極端が最善のものとして求められることもある。

 

4-6.根性や根気の評価は、社会と時代により異なる 

 ひととなってから、これまで、多くの者には無理やりの忍耐が強いられ続けた。根性をもって辛苦に耐えることが求められた。だが、現代は、根性だ、根気だということは、なくても良いような社会になってきている。禁欲的社会では、不快・苦痛を忍ぶことは、尊ばれ、それに優れる根性・根気は、高く評価された。しかし、快楽主義の現代は、忍耐を軽く扱い、根性とか根気は、せっかく楽に生きられる時代なのに無理をすることはないと、低く見られる傾向がある。根性や根気は、時代によって評価が異なる。

4-6-1.根性論は、批判されることがしばしばある    

 根性は、嫌われることがある。根性を語る時、我慢・辛抱して苦痛を無理しても多く受け入れるようにと求める。根気・根性をもって、おのれの生の損傷を甘受し、おのれを尽くして他人の犠牲になれというような場合、個人主義の今の時代、抵抗を感じる者が少なくないであろう。自分のために粘り強く根性をもって忍耐するという場合ですらも、そんなに無理をすることはないのではと批判されることがある。楽しいはずのスポーツなどで、根性を言って厳しく鍛え、しごくことを尊ぶのは、時代錯誤であり、サディストとマゾヒストの異常な世界と見なされがちの現代である。

4-6-1-1.根性・根気があると、骨折り損が大きくなる 

 忍耐は、苦痛・損傷の甘受である。目的の手段・犠牲であり、その目的が実現できない場合は、損傷を残すのみで、骨折り損となる。そこで大きな忍耐力を発揮する根性とか根気が働いていた場合は、その損傷・マイナスをそれだけ大きくすることになる。根性などがなければ、早々に忍耐はやめて損傷は小さくて済むが、根性や根気があると、より大きくより長い苦痛・損傷を受け入れることに努めるから、損害は甚大となりかねない。骨折り損のくたびれ儲けを甚だしくするという愚かしいことになる。

4-6-1-2.根性・根気があると、改革・進歩が阻害される 

 苦難の仕事があっても、多くが「こんな辛い仕事はできない」と放棄するなら、辛くない仕事にと改善の可能な現代である。根性のある者が、これぐらい何とかなると辛い仕事を忍耐強く耐えていると、その改革は、なしとなって、皆もしっかり耐えろと、しなくてもいい難行苦行に参加させられる。「こんな辛気くさいことはできない」と多くが拒否すれば、機械化をすすめたり工程を見直すなどの改善が進む。だが、根気ある者が「自分はできる」と耐え続けていると、皆にもできないわけがなかろうと、改善はなしになる。根性・根気は、進歩・改革の阻害要因となりかねない。

4-6-1-3.根性も、竹やりでは戦車に対抗できない 

 ひとが根性をもって対処すれば、どんな苦痛にも耐え切ることができる。拷問などでときにそれは実証される。だが、戦車に竹やりで対抗するような行為は、いくら根性があってできるとしても、無謀すぎる。勝敗は戦わずして決まっている。根性を有意義なものとするには、その前に深慮し、先を遠謀してその効果・価値をしっかりと確認しつつ行う必要がある。根性・根気は、その発揮すべき場所をしっかりと考えていないと、無駄なもの・有害なものになる。

4-6-1-4.根性・根気は、奴隷の道徳であってはならない 

 忍耐は、被支配者に求められることが多かった。支配者の安楽を支えるのは、被支配者の難行苦行であり、奴隷が酷使されればされるほど、支配者には、豊かな生活が可能となった。勤勉な忍耐強い奴隷は、高く買われた。従順な奴隷の道徳の筆頭は、根性・根気をもって自発的に苦難に耐え続けることであった。根性・根気の忍耐は、目的実現の犠牲的手段として尊いものであるが、それの目的・意義が何であり、だれのためのものなのかといった深慮を欠いていた場合、愚かしいものになりかねない。

4-6-2.運動で根性・根気をいうときは、合理精神の裏付けがいる 

 運動部では、コーチは、選手に根性をつけようと、無理をさせる。それ自体は、有意義で、辛いことに耐える力をつけることは、後々にどんな生き方をするにしても、苦難に出会ったときに生きる。だが、たかがスポーツと思う者には、選手に苦難をわざわざ背負わせ耐えさせるのは、楽しいスポーツを台無しにしている愚策と見える。さらに、根性をつけることには意義があるとしても、そのやり方が杜撰では、能力の向上に資することのない無意味な苦行を強いるだけに終わる。合理的で丁寧な指導が不可欠である。

4-6-2-1.運動に根性・根気は、いる  

 スポーツ選手に根性・根気自体は、必要であろう。辛苦に耐えることができなくては、少しの打撃を受けただけで逃げてしまい、体力はあっても、苦痛必至の戦いには勝てない。苦難に挑戦してそのことにしっかりと忍耐できる力をもてるようにすることが求められる。苦痛に耐える力を強化した根性を身につけ、ながくへこたれないで頑張れるような根気も養う必要がある。その根性・根気を養うのは、実際に、適切な苦痛・苦難の体験を重ねることにかかってくるから、日頃から選手の尻を叩いて励ますことは大切になる。

4-6-2-2.がむしゃらでは、能力をつぶしかねない 

むやみやたらと苦難に耐えさせるだけでは、能力は伸びない。心身を鍛えて強化することをめざすのであれば、無謀な忍耐を強いるのは、やめねばならない。鍛えすぎて、その能力を叩きつぶすことにもなりかねない。野球少年が猛特訓で肩を過度に使ってこれを傷め、夢をつぶすようなことが生じる。無理のない、適切なぎりぎりの課題に取り組ませて、苦難を乗り越えて伸びていくように工夫することが必要である。

4-6-2-3.合理的な能力開発が必要である 

 筋肉強化のトレーニングは、まったく負荷のかからない練習では時間の無駄となる。逆に、過激な負荷のかかる練習では、筋肉を壊して元も子も失いかねない。適度に負荷をかけて筋肉を増強できるようにすることが求められる。それがうまくいくような効率的合理的な練習方法を考えることが必要である。練習の効果・反効果を測定できる機器も利用しての、適切な能力開発の方法をもってのトレーニングでなくてはならない。むやみに、苦痛を忍耐させても能力開発にはならない。

4-6-2-4.自律自発的なものでありたい 

 根性などの忍耐力は、はじめは指導者が強制することがないとスムースには取り組みがはじまらないであろう。だが、いつまでも強制されていたのでは、自立していったあと、自分で自発的に進めていくことにつまずく。強制する段階で自発性をもってするようにとしむけておけば、自立してからもうまくいく。さらに、強制の段階でも、自発性を尊重するなら、苦難の忍耐のいることに、自分から進んで取り組めるようにもなる。

4-6-3.根性・根気の教育は必要である  

 苦難に粘り強く耐えるしっかりした忍耐力を養っておくことは、どんなところでも求められる自己制御の力として大切な訓練・教育であろう。知力とか体力は、かなり天性のものがあり、いくら鍛えても、生来のその能力自体はあまり変わらないが、苦痛に耐える力、根性や根気は、苦痛に耐える経験のなかで養成されるもので、忍耐経験が忍耐力をつくる。甘やかされて育ったものは、苦難には弱い。逆境の者は、強い。経験のちがいである。その経験を教育の場で養うことは、知力・体力の養成以上に大きな意味があるというべきである。

4-6-3-1.忍耐は、汎用的で、どこでも生きる  

 音楽の特訓で能力を伸ばす場合、その音楽では伸びるが、それで他の体力とか知力が伸びるわけではない。だが、忍耐は、その音楽の場面で鍛えた場合でも、他の方面で生きる。苦難に耐えるという体験は、どの領域でそれが経験されたとしても、同じく、苦痛・苦難に向かい、自然的な苦痛回避の衝動に耐える。どんなものでも、同じように、自身の意志を強くもち、自身の自然衝動を自制、抑止することである。音楽の場で耐える経験をした者は、ほかの領域で苦難に直面しても、それが生きる。

4-6-3-2.快不快の自然を超越した自由の人間世界には忍耐がいる     

 ひとも自然的な生のレベルでは、快不快にしたがって生きていく。だが、人間的な精神世界、社会生活においては、その快不快の自然を超え、自然的欲求を自制して、苦痛を甘受し忍耐して行かねばならないことが必ず生じる。ひとは、自律的に自由に目的を設定して進むが、その目的実現には、自然に流れることを自制し、苦痛・犠牲の手段を引き受けて忍耐することが必要となる。その自制・忍耐で自然を超越し理性にしたがった自由の精神世界に生きることが可能となるのである。

4-6-3-3.忍耐は、強制・教育の必要がある

 社会生活をスムースに行うためには、自身の欲望を抑えたり、嫌な苦痛となる営為も受け入れて耐えることが必要となる。そういう自制なり忍耐は、自身が進んでやるようにならねばならないとしても、はじめは、周囲からの強制をもってしぶしぶするものになろう。それに慣れれば、自身から自律的に自制・忍耐が可能となっていく。幼児などは、苦痛の先の目的が読めないから、良薬も飲まない。そとから、おどしたりすかしたりと強制し我慢させて、無理やりに飲ませる。

4-6-3-4.苦痛の忍耐で能力は伸び、快で無能化する 

 苦痛は、ひとを覚醒する。その苦痛の事態を回避したいから、それのために全力も出す。その苦難を乗り越えるためには、新規の能力の発揮が必要なら、眠っていたその能力も駆り出されていく。苦痛を受け止めることで、単に忍耐のみでなく、ひとの諸能力が開発されることになる。反対に、快楽は、これにひとをのめりこませ、目をつむらせ眠り込ませていく。無能化をさそうことになっていく。勿論、快楽は人を魅了しそれの獲得のために茨の道を突き進ませる。が、その茨の道は向上に資するが、快自体に浸る段階においては、これにのめり込んで停滞するばかりである。

4-6-3-5.楽しくやれることも大事である 

 苦痛の忍耐は、能力開発になるとしても、それは、いやな回避したい苦痛を受け入れることだから、進んで取り組みたいものとはならない。進んでやりたいという気になれるものは、やはり快いものであろう。快楽は眠り込ませるが、快系列のうちでも楽しさ、楽しみは、ひとの生を高揚させ生き生きとさせる。その楽しさのもとに苦痛の忍耐も含めることがあれば、苦は小さくなる。苦労の多い道であっても、楽しく遣り甲斐のあるものなら、相当の苦難にもしっかりと耐えていける。好きなゲームなど、心身を酷使して徹夜してでも続けることができる。

4-6-4.根性も、時代と社会の産物である  

 根性は、中国仏教に由来し、根本の性(さが)の意味であった。だが、近代日本では、風雪にびくともしない根っこというイメージからであろう、強靭な忍耐の能力の意味に多く使用されるようになった。根気も、中国(簡体字圏)では一般には使わないが、日本では、その短気を戒めるものとしてであろうか、万人の承知する言葉となってきた。しかし、その根性・根気も、現代では、若干ダサい感じに見られがちである。時代の多くが、汗臭く泥臭い根性など求めなくなっているのであろう。

4-6-4-1.根性は、円熟した存在や強者には使いにくい  

 同じ仏族でも、下級の不動明王は根性があると言えるが、後光のさす阿弥陀仏が悪人のやまぬ悪事に粘り強く忍耐していても、これを根性があるとは言わない。根性は、未熟者・弱者に奨励されるへこたれない忍耐の能力になる。上下の価値観を重視する社会において、下級のものに限定して根性は使われる。根本性情の根性でもそうで、島国根性、町人根性は言っても、大陸根性、武士根性はあまり言わない。

4-6-4-2.根っこの泥臭さを感じさせる根性・根気

 根本性情の根性も、忍耐の根性も、円熟した者の形容には使わない。その「根」が、(地下の)下賤さ・陰湿さを思わせるのであろう。根本の性の意味では、奴隷根性はいっても、王様根性は言わない。忍耐力の根性も、未熟者、弱者のねばり強さにいうのであって、円熟した強者の形容には使わない。根気の場合も、信仰や純潔を貫くといった誇らしいことでは、根気は使わない。辛気臭くうんざりするもの限定の根気である。根っこの暗いイメージを根気も持っているのであろう。

4-6-4-3.強者の気骨、気概と弱者の根性 

 同じように忍耐力にすぐれていても、根性でもって褒めるのは、未熟者に対してであろう。円熟した者、強者がそうであるときは、気概とか気骨で形容する。ひとを見るとき、上下・貴賎で見る(差別扱いする)社会では、それを形容する言葉も別のものを使用する。同じ少年でも、「お坊ちゃん」となったり、「がき」となったりする。忍耐についての卓越した能力の保持者でも、その階級によって形容を別にするのである。もっとも、昨今は、気概とか気骨はあまり聞かない。万人平等に近くなっていて根性ひとつで済ませられる時代になっているのであろう。

4-6-4-4.上下・男女の差別のある社会での根性  

「あの女房は根性があるど」という発言には、差別社会の複雑さをかいま見ることになる。まず、彼女が下賤な社会に属することを根性は語る。上品な人々には、根性は使わない。さらに、彼女が逞しく頼りがいがあるといった、誉め言葉で使われているのであれば別だが、そうでない場合は、根性は、男性のもつもので、女性がそれで言われるのは、淑やかな女性に似合わないという皮肉になっているのでもある。

4-6-5.根性・根気は、現代社会では廃れつつあるのかも知れない 

 近所のスーパーに菓子を買いに行くときですら、車でいくような現代社会では、苦労とか忍耐は、出てくる機会が少ない。暑ければ、クーラーを使い、我慢することを避ける。商品社会が巨大になりすぎて、人の苦を無用とし便利なもの安楽なものの氾濫となっている。忍耐が無用になれば、そのための根性・根気も無用となる。遊び人をTVで大騒ぎさせて、忍耐のかけらもないような者を模範生扱いしているマスコミなどからは、根性や根気は泥臭い旧人達の陋習かとも思えてくる。

4-6-5-1.苦も忍耐もなしでは、ひとは退化していくであろう 

 商品社会は、消費者の購買意欲を誘うものでなくてはならないから、より便利なもの、より快適なものを商品化していく。苦をなくして、楽な生活のできることをということでは、有難い社会ではある。だが、それも過度になると、ひとを怠け者にし、その能力を退化させる。車はひとを徒歩では到底行けない遠方にまで移動することを可能にした。だが、近年は、歩けるところも車で行くので、歩行能力を退化させている。ひとの能力を退化させず、一層引き延ばすために文明の利器は使いたいものである。

4-6-5-2.超自然的に生きる者には、忍耐は必須である 

 「より快適に安楽に」が近代のモットーだったろうが、情報革命は、その先を行く。自然を超越した人類にとっては、自然的な快が価値であることは小さくなり、快苦を超えた高貴な価値あるものを求めることがその心を満たすものとなっていく。超自然的な姿勢は、引かれる自然的快を制御・抑制し、回避したい不快・苦痛も超越して回避せず受け入れていく。苦痛が飛躍に必要なら、これを積極的に耐えて、苦痛への忍耐を強力にすすめていく。根気・根性も培っていくことになろう。

4-6-5-3.根性・根気は、超自然の生き方にふさわしい  

 ひとは、快不快に動かされる動物であることを超越して、人間的精神的に価値あるものを追求する。尊厳をもった人類であることを自覚して、未来をになう頼もしい若者たちは、自分たちの環境は自分たちで制御しようと廃棄物等への地球規模での気の遠くなるような根気強い挑戦を始めている。かつ身近には、快不快の自己内自然を抑制して質素な生活をこころがけ、その自然感性の支配を脱し超越して、自律した存在らしく日々を生きようともしている。学問でもスポーツでも、信じられないほどの苦難に挑戦する根性をもった若者も多い。安楽怠惰を誘い続ける商品社会であるが、未来は、苦難・忍耐を多く受け入れる超自然の超人の時代になるのかも知れない。 

4-6-5-4.長期の辛抱、根気は、一層求められようか  

 知性的に生きることが情報革命のもとでは多くなる。すぐ成果が出て売れるようでないと儲けにならないという商品社会の制約がなくなれば、長期を要する開発、発明発見も大いに取り組みがされることになろう。あるいは、自分たちの生き方にしても、短絡的刹那的な自然感性の奴隷となることは少なくなって、各自が長期にわたった人生計画をもって深慮遠謀をもち、自分たちの過去の愚かしさと賢さを振り返り、先を見通しながら賢明な生き方をしていくことであろう。根気なども、大いに培うことになるのではないか。

 

5.忍耐は、理性がリードしなくてはならない 

 忍耐は、自然に反することをする。自然においては苦痛からは逃げる。だが、ひとは、必要ならば苦痛回避の自然衝動を抑止して、苦痛を甘受することができる。忍耐は、苦痛甘受という反自然の営為である。自然感性は、快にひかれ苦からは逃げるから、苦から逃げないようにとこれを抑止するのは、自然超越の理性によってということになる。理性は、因果自然の外に立って自由に目的を立て、その目的のために自然を制御していく。自己内の自然である感性も理性の支配下に置く。苦痛甘受の忍耐は、その一環である。

 

5-1.理性は、忍耐する意志として、慮る英知として働く  

 理性は、実践理性=意志として働いて自身の目的を実現していくが、理性の営み自体は観念的なものにとどまり、実在世界へと直接には働きかけえない。その理性意志の筆頭の実在的な手段となるのは、自身の身体、手足である。これを動かすことからはじめて、この実在世界を理性の思うようにと動かしていく。その動かすプランは、もちろん理性が立てる。理論理性として、この世界の深く遠くを見通して自身の目的を実現するための工夫を凝らしていく。理性の忍耐は、その深慮遠謀の知性と強力な意志をもってするもので、自己内自然の苦痛を制御し、超自然的にこれを甘受しようという類いまれな営為である。

5-1-1.理性が目的・手段を的確に按配しての忍耐である 

 ひとの自然は、苦痛回避の強い衝動をもつ。生の損傷とその苦痛を回避しようとするのは、生に本源的なことである。それを忍耐は抑止して苦痛を甘受する。ひとは、未来に目的を設定してその手段を行使するとき、その手段が苦痛となるものでも、これを回避せず犠牲をはらいつつ、つまり忍耐をして目的を実現していこうとする。目的設定を自由に行い、その未来を描き、かつ現在からのそこへ至るルートを見つけ出し、その途中に苦痛などの妨害のあるのを回避せず強引に乗り越え、目的実現へとこぎつける。その目的設定は理性のすることであり、その苦痛に耐えていこうとする意志も理性の営為である。

5-1-1-1.自然超越のひと固有の忍耐は、理性による目的論的営為  

 ひとは、この自然において自然を超越できる尊厳をもった存在である。その忍耐は、自己内の自然を支配して、苦痛回避の強い自然衝動を抑止し自然を超越する。未来に目的を描いて、その実現のため、手段として苦痛の受け入れが必要ならば、これをひとは忍ぶことができる。理性が目的を高く掲げるのであり、理性がその忍耐という手段を見つけ、理性が自己内の自然を制御して苦痛回避衝動を抑止して忍耐するのである。

5-1-1-2.動物も忍耐するが、自然(因果)のうちにとどまる  

 動物も忍耐するが、その苦痛の甘受は、快不快の自然の営みとして行われる。大きな快が小さな苦痛で得られそうなとき、あるいは、大きな苦痛と小さな苦痛の二者択一のとき、小さな苦痛を甘受して忍耐する。それは、快に魅され、より小さな不快(苦痛)を選ぶ自然的営為である。クマが好物の蜂蜜を食べるために、蜂に刺されるのを我慢するとか、ロバがムチよりは重い荷物を運ぶ方を選ぶというような場合である。ひとの忍耐のように、自然を超越するものではなく、快不快の自然世界に埋没したままでの忍耐である。

5-1-1-3.ひとは、日々目的論的に生きている

 ひとは因果自然を超越した目的論的世界に生きる。忍耐に限ることではなく、日々の生活万般が目的をもってのものになっている。椅子から立ち上がって廊下に出るとき、はてどこに行こうとしたのだったかと自問するのは、ボケが始まってひととしての能力が消え始めていることを語る。ひとならば、常々、どこに行くかという目的をもって廊下にも出るから、その行先が分からなくなったのでは、身動きが取れなくなってしまう。つねに何かを目的にして先を描いて行動を起こすのが、つまりは未来に生きるのがひとである。忍耐に限らず、ひとの生は、日々目的論的に展開されている。

5-1-1-4.理性を失うと人間的生自体がなりたたなくなる 

 ひとは、動物であるから、当然、動物的な感性をもち、それも日々の生を支える。だが、それも理性的に制御されていての感性であり、理性を失うとひととしての生は成り立ちがたくなる。動物的な生の根本にある自己保存と類保存の食欲と性欲について、それがあるから、半ば自動的にことは展開可能なのではあるが、理性を失うとまっとうな人間的な食や性の行動はとれなくなる。とくに性の営為の場合、人間社会の理性的秩序があってのものである。常人に優る英雄ですらも凡人と同じように色を好み年中発情の人類のこと、自然本能のままに動いていたでは社会は大混乱となり類のまっとうな存続など不可能となる。

5-1-1-5.理性は、目的を自由に定立し、因果必然を制御する 

理性は、自身のうちで自律的に、自由に目的を定立することからはじめる。しかし、理性のみでは、抽象的観念にとどまる。これを実在世界に実現するためには、因果必然のもとに降り立って、その自然の因果を巧みに調整して目的の実現へと向けていく必要がある。観念のうちで、目的(結果)から原因へと時間的に遡源していき、手もとの実在の原因を手にして、そこから今度は実在的に因果をたどってそれを手段にして、目的を実現する。その実在的因果の手段の過程のうちに苦痛甘受必須の場面があれば、忍耐の登場となる。

5-1-1-6.理性は、目的実現に最適の過程・手段を選ぶ  

 理性は、目的という頂上をめざして、多くの忍耐を含む坂道を登るが、目的という頂上にいたるふもとからの道はたくさんある。その道程のどれが最適かを理性は、洞察して、自身の忍耐力と相談しながら、これを確定していく。ひとは自然のうちに生きる存在でもあるから、苦痛があるものには強い回避衝動をもつ。目的への手段の道は快適である方がよい。苦痛を回避しても目的実現が可能なのなら、それを選択する。苦痛を手段にすることが不可避なら、これを甘受して忍耐の道を選ぶ。しっかりと手段の在り様を鳥瞰して、目的実現に一番よい道を選びだすのも理性である。

5-1-2.没理性的な衝動・活動は、暴れ馬に堕す 

食も性も生に本源的で、その営為は動物的本能に深く根差しており、強い衝動となる。それだけで動くと動物的な欲求・衝動の発現となって人間社会の秩序・合理性を乱し、人間的生の存続は危うくなる。これを秩序づけ生のよりよい営為となるようにするのは、理性である。感性自然の諸欲求・衝動に合理的な枠・タガをはめて、理性は、それらを社会と各個我自身にとって適切なものにと抑制・制御する。害が深刻となるものを法でもって禁じ、人間的尊厳にかなうものを道徳として勧めて、理性は、没理性的な衝動を適宜に制御することができる。

5-1-2-1.理性は、自身の手足をもって、その思いを実現する 

 理性は、自己内の衝動とか欲求は直接に制御できるが、そとの実在物には直接には関与しえない。そとの物を動かせるのは、それ自身実在世界のものである、ひとの身体・手足である。理性がなくても、手足は、外部からの作用に自動的に対応はするが、人間的な動きをするのは、理性の制御のもとである。理性が手を動かす命令を出して神経を介して筋肉を動かす。ドアを開けるということなら、理性はその思いを直接には実在世界に現実化できないので、その意志をもって自身の手足を巧みに操作して、これを実現する。

5-1-2-2.ひとの身体は、軟弱だが、理性をもって地上の支配者となった

 ひとは、自然的にはか弱い存在である。腕力では、同じ霊長類のなかでは、ゴリラやチンパンジーには、だれもこれに勝ることはできない。だが、ひとは、理性をもって道具を操り、かれらを打ち負かすことができる。道具・機械をもって、したがって理性をもって、ひとは、地上で一番の強靭な腕力も手にいれることとなり、いまや地上の支配者として君臨するに至っている。しかも、環境に配慮して自然を守ろうというようなすぐれた支配者となっており、尊厳の称号をもつにふさわしい存在にまでなっている。

5-1-2-3.手足の活動の内容(手段と目的)は、理性が与える  

 ひとの行動は、手足を動かすことを中心にしているが、その動かす内容は、理性によって与えられる。手に金づちをもって庭に出るのは、庭のブロックを砕くためというように、その行動の目的も手段もすべて、理性的に描かれたものを実現していくのである。もちろん、手足も道具類もはじめからスムースに理性の思う通りに動くことはない。理性とは別の実在世界に属するものとして別の法則をもって手足も動くのであり、この実在世界の法則を利用してはじめて、理性はこれらを動かせる。経験の反復でそれの習熟度を高めていく。

5-1-2-4.忍耐する理性は、心身の自然を強制・抑止する      

 忍耐は、自然に対立的な営為で、苦痛回避の強い自然的衝動を抑止して、苦痛・損傷をあえて甘受する。衝動を抑えて忍耐する理性は、犠牲をはらって、目的を達成しようとする。心身が痛もうと傷つこうと、これから逃げることなく、理性をもったひとは、実在世界に属する自身の心身をコントロールして、おのれの観念・目的を実現していく。心身は当然自然的な動きをすることで、忍耐する理性は、その自然的な動きを強制し、抑止することとなる。

5-1-2-5.自然衝動に従う心身を、その反対にと動かす

 忍耐においては、苦痛回避の衝動を抑止することが必要だが、それには、まずは、この衝動自体を動き出さないようにと抑えることができれば、好都合である。だが、苦痛回避の衝動は、苦痛刺激があれば、理性を介さないで発現するから、その生起自体を無にとどめることは困難である。その衝動をいだきつつも、それが動かないようにと外から抑止することとなる。苦痛回避衝動とは逆に心身を動かす命令を理性主体は出すことになる。注射が苦痛で腕を引こうとするのを、意志は逆に前に突き出すようにと筋肉に命じる。その均衡をもって注射されることを避けず、なんとか忍耐することが続けられるようになる。

5-1-2-6.ひとは、快不快を制御し、理性的価値基準のもとに動く

 忍耐する理性は、自然的な快不快を超越して、これを理性的に有用なものにしていく。苦痛からは自然的には逃げるものを逃げないで甘受し、快には魅されてこれを享受するものを必要なら反自然的にこれを拒否するように動く。理性は、快不快の自然を超越して、自身の理性的な価値・反価値の基準をもって動く。理性の価値基準は、真偽・善悪・美醜等である。それらをもって、より価値あるものを実現するようにとひとは動く。

5-1-3.ひとの忍耐は、理性意志をもって自然の制御・抑止をする 

動物は、快不快の自然感性のもとに動く。ひとも動物としてはそうする。だが、ひとは、この自然を超越することができる。理性のもとに精神的な生を展開できる。その自然超越の一つとして、忍耐もある。快不快の自然に従うことをやめて、快を抑制し、不快・苦痛から逃げずこれを甘受するという反自然の対応をすることができる。そのことによって自然を超越して自由の理性的精神世界へと飛翔するのである。真実・正義・利益等のために、ひとは、理性意志のもと、自然的な苦痛から逃げず苦痛甘受の忍耐を引き受ける。

5-1-3-1.忍耐では、自然身体は意志に対立する  

 理性意志は、観念にとどまらず実在世界に自己を展開していくが、それをするには、自身を実在化して実在物に関わる必要がある。その実在化を担うのが自分の身体・手足である。顔面で自身の内心を表現するように、手足は、自身の行動の根本をなす意志を表現する。手足は、意志の従順な僕である。だが、自然的生に属する身体・手足は、快不快にも強く縛られている。苦痛回避の衝動は強力である。理性意志は、ときに苦痛甘受を手段にするが、自身の自然はこれに強く抵抗する。意志は、それを抑止しないと先に進めないから、身体に苦痛の甘受、忍耐を強制することになる。 

5-1-3-2.忍耐は、内的自然を抑止・制御する  

 身体は、自身の理性意志と一体になって、因果必然によって動く自然世界に、理性の目的論的世界を作り出していく。手足は、理性の忠実な執行者となって働く。だが、忍耐においては、理性は外的自然にかかわる前に、自己内の自然、手足などの身体を対象にし、これが理性の思うようには動かないので強制的に意志にしたがわせようとその自然の動きを抑止し制御する。苦痛は、これを回避したいという強い衝動をともなうが、これを意志は、抑止して、この自然衝動に反対の対応をとって、苦痛を甘受していく。

5-1-3-3.苦痛回避の自然に対決する忍耐は、理性意志による以外ない   

 忍耐は、苦痛・苦悩から逃げない。これを忍んで受け入れ犠牲をはらうことで、目指すものを実現しようとする。自然的には苦痛は回避衝動をもたせるから、苦痛だけがそこにあるときには、動物は、その衝動に従って逃げて、これを受け入れるようなことはしない。しかし、ひとは、苦痛のみがそこにあるときも、これを意識して甘受することができる。それを行うのは、自然の快苦の感情を超越した理性である。実践する理性としての意志が、自己内の苦痛回避衝動を抑止して、苦痛・苦悩を甘受する。 

5-1-3-4.忍耐する意志は、快も抑制し超自然的に構える 

 忍耐は、自然における苦痛のみでなく、逆の快についても、関与することがある。快を抑止するとその多くが苦痛になるから、この苦痛から逃げず耐えて快の抑止を実現することになる。不快(苦)は、これを受け入れて忍耐し、快は、これを受け入れないようにと忍耐する。快苦いずれも、その自然的な展開を抑止して、忍耐は、自然に反対しこれを超越する。その自然超越をするのは、自然をよりよい自然とし、これを理性的秩序のもとに制御・支配するためである。勿論、自然が理にかなった動きをするところでは、忍耐も理性も出る番はない。

5-1-3-5.強制される忍耐も、意志の自発性を踏まえる   

 任意の自由な忍耐は、理性の意志の自発性をもってするとしても、外的な強制による忍耐は、意志の自由のない忍耐になると思われないでもない。だが、ひとの営為は、その手足を動かすことは、自身の意志がこれを命じることでなりたつ。自身の意志が自発的に、動こうと手足に命じることがないと、その手足は動かない。奴隷が、死んでも動かないと意志しているかぎり、いくら強くムチ打っても一歩も動かすことはできない。外的強制も、動く者が自身において、動くことにしようかと、自発的な意志をもつことがあってはじめて実現可能になる。

5-1-3-6.犠牲をはらう程度も、目的をにらんでの理性の判断による   

 理性意志は、忍耐することへと自身を強制するが、無暗にそうするのではない。目的を睨んでの苦痛・損傷の受け入れである。その目的に見合う犠牲をはかりつつ苦痛も受け入れている。我慢大会で賞金が100万円なら少々の身の損傷は受け入れて我慢する。だが、その賞品がタオル一枚だったら、それに相当するだけの苦痛甘受をもって忍耐の限界とし、これを放棄することであろう。理性は、苦痛・損傷と、得られる目的・価値をはかりつつ、苦痛受け入れの限度も自身で決める。

5-1-4.深慮遠謀の理性が忍耐を主導しなくてはならない  

 忍耐は、自然に反することを行う。快不快にしたがう自然を拒否して、忍耐する理性は、その意志するものを自然の中に持ち込む。自然はこれを放置しておいても自身を貫くが、それを抑止しようという理性の忍耐の方は、その意志を放棄すると直ちに止み、自然の快不快が取って代わることになる。理性は、自然の在り様をしっかりと把握し、あまり無理がない形で、最後まで反自然の忍耐が貫かれるようにと、自然の向かう先を見通して、その快不快に負けないようにと、策を練る。

5-1-4-1.理性は、目的へのしかるべき展開を見通す 

 感覚は現在しか見ないが、ひとは未来に生きるから、未来が見えなくてはならない。理性がこれを見る。未来のあるべき自分を見て、ひとは、現在の自分を動かす。近くはビールを飲もうということから、遠くは、自分の葬儀についてまで、未来にその目的とするもの、理想を描き出し、それに向かって現在を位置付ける。この現在から未来の目的までのルートを予め明確にして、その手段となる一歩一歩、ステップを追って進んでいく。ビールを飲むという些事であっても、これを先に目的としてたて、その手段の過程を描いて、冷蔵庫のところまで足を運び、食卓や縁側に座ることも想定して動く。

5-1-4-2.目的へのルートとともに周囲を見渡すことも必要である   

 ひとの忍耐は、目的を描き、それをかなえる苦痛を含む手段の過程を、因果を追って展開していく。そのひとつの因果はひとつの線で結ばれているとしても、周囲から別の因果が絡んでくるのが普通である。それによって道の歪められることがないようにと、余計なものの排除が必要となる。偶然的なものは、予測を超えた因果連鎖を作って目的へのルートを空しいものにすることもある。そうならないように、周囲を見渡しながら、偶然的な事故への備えもし、万全の態勢をと、ひとは心掛ける。

5-1-4-3.過去のことも理性は洞察する  

 感覚は、未来を見ないのみか、消えた過去も見ることがない。未来を見る理性は、過去も見る。現在の忍耐の始めからを振り返ることで、その持続の可能性・限界を自覚できるのは勿論、その苦痛・苦悩の過去の経験を想起して、これに耐えるための工夫を練ることができる。自分の禁煙の忍耐に際して、過去の体験した喫煙衝動の持続時間を承知しておれば、どの程度我慢すれば、その衝動が消えるかを予想できるから、それを踏まえた対策が可能となる。禁煙が一回の喫煙でご破算になった過去を踏まえて、一本たりとも許してはならないと忍耐の決意の仕方を確かなものにもできる。

5-1-4-4.ことは、より詳細に見ていくことができねばならない 

 忍耐は、自然に反することを強行する。その自然の動向をしっかりとらえていないと、ことはうまくは運ばない。尿意を我慢するとしても、単にそう意志するだけでは、切迫的になった段階になると、うまくはいかない。尿意の生じ方とか何が尿意を止め得ているのかとか、普段の抑制の仕方を周知することが必要となる。膀胱自体は随意にはならないから、これを直接制御しようと意志しても無理だとか、随意の骨盤底筋類を強化するのが肝要だとか、忍耐すべきその仕方を明らかにできておれば、忍耐は、よりよくできることになる。

5-1-4-5.忍耐する自分を正確に掴むことも望まれる 

 忍耐すべきその対象、とくにその苦痛・苦悩の在り方を踏まえて、それに副った耐え方をすることが忍耐持続に必要だが、他方で、これを忍耐するその意志等も自覚することがいる。各個我においてその意志の在り方は、軟弱であったり、強情、頑固であったりする。自身の意志がその忍耐すべき方面においてどういう在り方をしてきたのか反省することも忍耐持続にはあってしかるべきである。自分が頑固だとしたら、それを生かせるような対策をとればよい。

5-1-4-6.日々自身も世界も変わるから理性は柔軟でなくてはならない 

 忍耐していると、その受け入れている苦痛には慣れて、やがては、苦痛でなくなることがある。苦痛でなければ、忍耐無用でこれを気軽に受け入れ続けることができる。忍耐しておれば、自分が変わり、その対象も変わっていく。忍耐持続の中では、周囲の状況も変わっていき、ものごとは時々刻々変動していく。理性は、そのことを踏まえて主客を的確に把握し、その意志は柔軟にこれに対処していくことが求められる。

5-1-5.理性の狡知 

ひとは、自然を超越した存在として、必要に応じて、自身の思う方向へと巧みに自然の向きを変えていく。自身は手を下すことなく、自然をして自然自らに超自然・反自然のためにと動くように仕向ける。農業も畜産も、自然をふまえて、不自然な形の多くの実りをもたらすようにと、自然自身を巧みに導いていく。ひとがそういう実りを作るわけではない。作り手は、自然の稲であり、乳牛である。稲や牛の自然的な営みを人の思う方向へと巧みに歪めるから、自然からいうと狡知、悪知恵ということになる。 

5-1-5-1.自然同士を戦わせ漁夫の利をという狡知  

 「理性の狡知」がいわれる。理性は、その対象や周辺の力を利用して、力をいれることなく、あるいは、自然に自然を対決させて、対象を動かし、これを自身の思いの通りにしていく。ひとが自然に対して超自然的に関与していくときは、この狡知をもってするのが普通である。ひとの忍耐も、苦痛からは逃げるという自然の大原則をストップさせ、いうなら自然をあざむき、苦を甘受し自然には生じない自然をさしはさんで(苦労して石を川に並べて)、自然的には生じない高い価値あるもの(石をして水流を自分の田の方へと変えさせる)を生じさせる。 

5-1-5-2.意志は、手足を介してのみその対象を動かせる 

 忍耐する意志は、狡知をもって自然の中に超自然の営為を実現するが、意志自体には、直接自然に働きかける力はないので、自身の身体・手足に動いてもらって、これを実現する。理性意志は、それ自体は観念世界にあって、実在世界に直接関与することはできない。念力をいうひとがあるが、観念だけでは、スプーンを曲げることすらもできない。そのために、実在世界に属し、かつ意志の命令を受け入れることのできる手足・身体にと働きかけて、手足を自分の思うようにと動かす方法をとる。

5-1-5-3.意志は、物をもって物を動かす 

 意志は、自分の手足を動かす。手足という物をもってその向こうにある目指す物を動かす。さらにその対象となる物をもって別の物を動かすのが目的となることもある。手足をもって、ブルドーザーを動かし、さらに、後者をもって、意志は、岩石を動かす。ひとは、山をも動かす。意志は、念力はもたないが、自身の身体、手を動かす。自己の手足に託して(肉声に託すだけでよい機器も出現している。脳内の観念の動きを読める装置ができたら、これに表現して可ともなろう)、機械を動かして、山を動かしていくという媒介的な狡知の展開を理性意志は行う。

5-1-5-4.狡知をもって手段を駆使し目的を実現する  

 ひとの営為は目的論的である。日々の些事もおおむね、目的論的に展開する。忍耐も、動物的なそれでなければ、大体が目的論的になる。目的を描き、その実現には手段として苦痛・苦難を受け入れる犠牲が必要ということで、苦痛の忍耐をする。かつ、できれば、苦痛は小さくて済むように巧む。快を手段として目的のなる道が見つかったら、忍耐は中断して、その快の手段をもって目的に至る。手段は手段と、冷静にとらえて囚われることなく、臨機応変に狡知を駆使して肝心の目的を着実に実現していく。

5-1-5-5.忍耐では、意志は、苦痛とは直接的にかかわる 

 意志は、客観世界に関わるには、手足をもって間接的に関与していくが、忍耐の場合は、苦痛の甘受は、意志が直接に関与していく。苦痛のもとの損傷については、客観的なものであれば、これは、意志が直接関与はできないので、媒介的となるが、苦痛自体は主観的なものなので主観内で意志が直接これに関わる。忍耐は、自然における苦痛回避の衝動を動かないようにすることが中心になるが、その衝動抑止は、意志が直接に抑止の命令を出して行う。その命令が効きにくければ、意志は、回避衝動とは逆向きになる心身の動きをして回避衝動が表にでないようにと動く。

5-1-5-6.知恵は、苦痛の甘受を容易にする  

 困難なことを忍耐はするのだから、意志は、強力でなくてはならないが、よりよく忍耐できるためには、やはり、知恵を動員することが必要である。苦痛を小さくしても目的実現の手段として差支えがない場合、その工夫をする。麻酔でもすれば、忍耐すらいらないことになる。苦痛は主観的なものなので、意識が別のことに集中するようにして、苦痛を意識させないようにもできる。不安・焦燥など心の苦しみの耐えがたい時、月や花を見てこれに気をもっていってもらえという。そのことで苦痛の甘受は容易になる。

5-1-6.理性は、支配されて支配する  

理性は、実在世界を動かし、支配することができる。だが、その方法は、自身の思いを無理やりに、強引に押し付けて支配するのではない。まずは、その対象のことを知ることからはじめる。それがいかなる特性をもつのかを洞察し、それ自体の固有の動きはどういうものなのか精査して、これには背くことなく従順にしたがって、必要ならそれに支配されることに徹する。そのうえで、これのもつ特性・規則性などを利用して、いうなら狡知をもって賢く支配していく。

5-1-6-1.ひとは、自然に従うことで、自然を支配する 

 ひとは万物の霊長として、この地球の支配者となっている。ひとの支配は、自然を生かしその法則にしたがうことをもって、巧みにこれを利用していくものである。腕力の点では、ひとは、軟弱な存在であるが、知力をもって自然を巧みに操って自然同士を戦わせ成果をわがものにする。穀類と麹菌をひとつの容器にいれ後者に味噌や酒をつくらせる。細腕の運転手が片手で巨大なショベルカーを操作して巨石を動かすように、ものの力をもってものを支配する。

5-1-6-2.無理やりの支配は、続かない  

 自然の存在は、それぞれに固有の特性があり独自の動きをもっている。それに背いた動きを強制し支配しようとすると、無理が生じる。力を入れて強引に動かせることはできるが、力を抜くとすぐ元の動きに帰り、望む動きを続けさせることはできない。支配しようとするのなら、その自然の動きを熟知して、これに沿うようなものにと工夫しなくてはならない。メロンを育てて食べようとするとき、苗を早く伸びろと無理やりに引っ張ってもなんのプラスにもならない。その苗の自然の動きを周知して、適切な管理を行って、苗が自然に伸びるのを根気強く耐え忍んで待つことが必要である。

5-1-6-3.奴隷となることを通して支配者となっていく 

 理性は、深慮遠謀の知、狡知をもって大事をなしとげる。対象となるものを支配しようというのなら、まずは、それの奴隷になることである。その対象に付き従うことで、徹底してそれの特性・動き方を知ることが可能になる。その奴隷となることで、自身の心身の能力を酷使して大きく巧みなものにして向上させてもいく。その動きに従うことでもって、そのすきや弱みを見つけ、これを利用して支配に乗り出す。 

5-1-6-4.知は、無力だが、対象の力を利用して、強力となる 

 「知は力」という。だが、知は、実在世界を直接には動かせず、念力、念ずる力は、実在的には無力・無能である。それが力となるのは、ひとの理性が自身の手足を動かし、これで道具・機械を動かすことをもってである。対象の在り方を知ることで、巧みにこれに関わり、水力等自然の力を制御して、その巨大な力をわがものにしていく。自然の力を利用するためにその特性・諸法則を熟知してこれに徹底して従い、対象の力をもって対象を支配する。狡知をもって、万物を支配する。

5-1-6-5.忍耐は、苦痛に支配されつつ、これを支配する 

 ひとは忍耐するとき、反自然・超自然的に振舞う。だが、それも、自然にしたがいつつすることである。苦痛を苦痛でなくするのではなく、その苦痛の自然をそのままに受け止め、これに圧倒され苦しむという自然に従う。かつ、その苦痛甘受をもって自己を犠牲にする自然を介して、自身の目的とするものへと導いていく。自然の因果を踏まえ、その苦痛を介しつつ、巧みに自身の目的とするものを導き出す。自然にしたがいつつ、その奴隷となって苦痛に呻吟しつつ、高い目的へと導いてその因果自然の展開を、狡知をもって自身のものにし支配するに至る。

5-1-6-6.忍耐は犠牲をもって目的(自然支配)を実現する 

 忍耐では、苦痛甘受という犠牲をはらう。自然にただ単に従ってその法則に適うようにと動くだけではない。その奴隷となってムチ打たれるのである。苦痛から逃げず、そのムチで損傷をうけるという自然のもとでの犠牲を払う。ひとの自然的な軟弱さ・脆弱さ(vulnerability)を踏まえながら、理性意志の強靭さをもって、不撓不屈の回復・復元力(resilience)を培い、耐え続ける。そのすえに目的を実現して自然を出し抜く。自然の奴隷として苦しむことを介して、自然の支配者になる。

 

5-2.思慮を欠く根性・根気だけの忍耐は成果を生みにくい

 ひとの忍耐は、自然の大原則である苦痛の回避ということに背いた反自然の営為である。その反自然の展開は、つねに自然から攻撃され自然に連れ戻されそうになる。それを忍耐する意志は、はねのけて苦痛甘受を犠牲・手段として貫き目的へともっていく。その間に、苦痛を忍耐するために、何があっても耐えようという根性と根気が働く。自然の力は、隙を見せたら即忍耐中断へともっていこうとするから、単細胞的な根性とか根気だけでは、長く忍耐を持続させることは難しくなる。隙をつくらず確実に目的へ向かうようにと、現実を深く洞察し遥かを遠謀する鋭い理性が伴っていないと、根性・根気は生きない。

5-2-1.根性には、冷静な理性が付き添わねばならない 

 根性は、未熟な者の、精いっぱい耐えていこうという姿勢である。未熟ゆえに余裕はない。へこたれてなるものかと苦痛に耐えることに集中していく。生じる苦痛・苦難に対決することに一心不乱となる。そとを見る余裕はない。そとに巧妙な仕掛けが待っていても、これに気づくことのない状態になる。根性のそとに、これとは別に、冷静な理性が全体を洞察しているのでないと、危ういことになる。冷たい河を渡らねばならないと根性をもって耐えて渡河したとしても、すぐ下流に橋があると知ってからは、無駄な滑稽な根性だったと自嘲することになろう。

5-2-1-1.がむしゃらに耐えるだけでは、根性の浪費となろう

 周囲の者が耐えきれなくなって忍耐放棄するなかで、困難に負けてなるものかと負けじ魂の塊になって忍耐する根性は、苦痛からの逃走を拒否した超自然的な人間の逞しさを見せてくれる。しかし、対苦痛では卓越しているとしても、それだけでは、すぐれた成果を生み出すことはできない。成果へと結びつける巧みさ・賢さをもっているのでなくては、単なる生の浪費・暴走になりかねない。夢中でがむしゃらに根性をもって突き進んでいくその目的への道がよく見えていないと、その根性の発揮は、徒労に終わる可能性がある。

5-2-1-2.無謀な根性では、その生は危ういことになろう 

 根性は、がむしゃらに耐えようとの気迫にあふれている。だが、それだけでは、暴走するだけに終わりかねない。ひとの忍耐は苦痛を回避せず自然に反することをするのだから、深慮遠謀がないと目的の達成は覚束ない。心身に無理をして耐えているのであるから、その無理を一層大きくして耐えようという根性は、自身の生を痛めつけてしまう。度を過ごせば、後に残る障害を生じるようなことになる。ぎりぎりの限度をもうけ、これを超えたら根性は、ひきさがるようにと、理性がリードしているのでなくてはならない。

5-2-1-3.根性では、耐えること以外はお留守になりがちである  

忍耐においては、苦痛が対象になり、常にこの苦痛が意識を引き付け続ける。根性は、その苦痛との対決に心血を注ぐから、一層そうなっていく。それだけほかのことは意識から遠のくことになる。その忍耐の目的が、状況変化のなかで、苦難の道をとらずに実現可能となっても、根性で忍耐してほかのことへの注意がお留守になっていたのでは、無駄な根性の使用ということになってしまう。根性を発揮しつつも、そのそとに理性的な冷静な目を維持しておくことが忍耐・根性を有意義に使うためには大切となる。

5-2-1-4.根性は未熟者のもので、知で補うべきことも多くなる  

 熟達した者が自然体で進めていくことでも、未熟者には、辛苦となり忍耐がいる、根性がいるというようなことがある。その根性の成果をあげるには、足りない未熟部分を強引に耐えて補うとともに、理性を使い、少しでもスムースに進展がなるようにと工夫する必要がある。ひとの忍耐は、もともと理性意志をもって自然に反することをするのであるから、その貫徹には、自然に対抗できる工夫にも種々の知恵が求められる。根性には、理性からの応援がより多く必要となる。

5-2-1-5.根性強化には、理性をもって忍耐経験を重ねることである  

 根性を養うには、苦難の体験を繰り返すのが王道である。根性は、忍耐の経験を重ねてこれを身につける。しかし、過度の耐え得ない苦痛では、生はダメージを受けることが大きくなり、根性を養成するどころではなくなる。高所に立って全体を鳥瞰できる理性がこれを導くことがあれば、無理なく根性も育つことであろう。教育的な特訓は、その理性に相当する部分を忍耐する者のそとのコーチが担う。コーチは、根性を無理なく確実に養えるようにと、冷徹な理性をもって、アメとムチを使ってこれを推し進めていかねばならない。

5-2-1-6.根性の経験を深くするのは理性である 

 ひとは、外見上は同じことを経験していても、内面的には異なった経験をする。同一の仕事の体験をするとしても、うわの空に終始する者と、しっかりとことの経緯を踏まえつつ体験する者とでは、体験内容はまるで異なったものになる。観察・洞察力ある目をもってするなら、身体のこの部分を抑えると耐えやすいとか、あらかじめ苦痛に構えると耐えやすいといったことを経験するが、同じことをぼんやりと遣り過ごしている者は、その辺りのことは何も経験しないで終わる。したがって、経験の蓄積をもってなる根性は、洞察し深慮する理性を働かせつつ経験する者により多くつくこととなる。

5-2-2.根性論が問題になるのは、理性的でないときである  

 戦争では、腕を吹き飛ばされようともじっと耐え続けるべきときがあろう。それと同じような調子でスポーツの特訓をすることがある。根性はできるかも知れないが、身体を壊してしまうようなことになる。能力を伸ばすには相応しくない苦痛・辛苦の与え方となってしまう。苦難に敗けるのは心構えが軟弱だからだと、がむしゃらに耐えて根性をと、非合理な精神主義に走るのでは、科学も技術も進歩した現代にはふさわしくない。合理的な対処の仕方をするのでないと、根性はいびつになり、耐えることに精一杯で、能力開発を阻害するものともなる。

5-2-2-1.教育・訓練では、根性養成も合理的でなくてはならない 

マラソンの指導をする場合、がむしゃらに走らせればいいというものではなかろう。根性の育成も、辛苦に耐えさせるためにむやみにムチをもって駆り立てるのではなく、耐えうる限度を観察してそこまでをしっかりと耐えさせるようにと、心身の特性を把握し、目標を徐々に高めていくといった工夫があってしかるべきであろう。コーチは、自身は汗は流さず、つっ立っているだけなのだから、せめて頭はフル回転して根性をつくるにはどうすれば効率よくできるのかを観察し洞察を深めて、根性をつけようという者自身に「なるほど!」と感心できるような合理的な指示をすることができなくてはならない。

5-2-2-2.根性論批判は、無謀な特訓への批判としては正当である 

 監督が選手を奴隷扱いし、ムチ打ち、根性をつけようと合理的な方針もなくがむしゃらに特訓することがあるが、心身に障害を残しかねない時代錯誤のやり方として批判されてしかるべきである。無理に苦難を背負わせなくても、楽にして同じ能力が身につく場合があろうし、無理をさせねばならないとしても、科学的知見をもって創意工夫すれば(スマートウォッチを装着しただけでも、簡単に心身の状態が計測できる時代である)、根性を含む能力開発により適切な方法が見つかるはずである。

5-2-2-3.根性も、各々の時代の中にある 

エアコンが一般化している今の時代、猛暑に耐えて特訓をといっても、体がついていかず、すぐ熱中症になってしまう。体の汗腺の数からして昔とは異なったものになっているのである。とすれば、時代にあったように、猛暑での特訓も考える必要が生じる。根性があればなんとかなるという時代ではない。まずは、すぐれた知と技をもつことの方が優先される。登山など、エベレストですら込み合う時代である。死を覚悟しての登山といった無鉄砲は論外で、最先端の英知の動員を前提にしてはじめて、苦難に挑戦しての誇らしい負傷も語られる時代になっているのである。

5-2-2-4.根性だけの無茶では、のびない 

マラソンは、根性のいることだが、40キロをむやみに飛ばしてもうまくはいかない。最後は体がついていかず記録を伸ばすことは無理となろう。どこらからスパートするかを自身の体と競争者の在り様をもって計算して、その範囲内で最大限の辛苦を耐えるようにする。エベレストなどの急斜面からスキーで降りる強者がいるが、いくら根性があっても、少々スキーの心得はあるとしても、準備なし訓練なしですると100%失敗する。徐々に能力を高めてはじめて可能になることである。根性を発揮する前段階がいくつもあっての目指す苦難への根性である。

5-2-2-5.根性では、理性が常にリードしていなくてはならない 

 根性は、苦痛に耐えること以外は見ないから、全体の進み行きを見てその方向を間違えないようにする理性が必要である。さらに、根性の内部においても、無駄のないように、よりよく成果へと結ぶようにこれの発揮を制御していくことも理性に求められる。根性がぎりぎりになって我慢はもう無理というようなとき、その根性を持続させるにも、理性の手助けがいる。その苦難の先に大きな目的を描き自身の忍耐の使命や義務を自覚していけば、簡単には負けられないと鼓舞される。

5-2-2-6.根性の必要性を問うこともいる  

 根性を発揮する場は、苦痛甘受も耐えうるぎりぎりのところであり、無理をすることになる。場合によると、損傷が大きくなって、生は回復できないようなダメージを受けることになる可能性もある。何でもかんでも耐えて根性を発揮するのがいいわけではなかろう。無理をする価値がその忍耐にあるのかどうかと考えねば、根性発揮で甚大な損傷を受けて、得たものはタオル一枚というようなことになる。さんざんに苦労し根性を使いつくしても目的実現は無理ということなら、躊躇することなく根性を引き上げて、即忍耐を放棄し、あきらめることもできねばならない。

5-2-3.理性は、根気に対しても策を練る  

 根気では、うんざりすることへの忍耐、反復が求められる。それをルーティン化して半ば無意識にことを持続する場合、ときにはしなくてもいい忍耐までも惰性で続けてしまうことがある。根気において、そういう無駄が生じないようにと、理性はチェックする。逆にもっと根気をもって耐えるべきなのに、うんざりして、これを放棄することもある。耐えがたくなっている原因に応じた適切な対応を見つけることが必要となる。単調な根気のいる仕事には、飽き飽きして倦怠を生じ忍耐もやめたくなるから、その場に、魅力あるものを探し出し根気を鼓舞するような工夫も求められる。   

5-2-3-1.反復は、倦怠をもたらすから、根気の工夫がいる

反復するものは、面倒な手順に煩わされずに済むようにと、しばしばルーティン化し無意識にも展開できるようにする。しかし、心身はとめどもない反復には疲労を蓄積する。辛苦は大きくなっていく。その単調な反復は、倦怠をもたらす。つらくなれば知性も動員しないと間違いを生じたりするので、これを時々作動もさせねばならなくなる。単調で疲労をためる仕事には、耐えがたくなっていくから、根気よく忍耐を続けるには、倦怠を大きくしないようにと、新鮮なものをもって覚醒をさそい、息抜きをはさむなどの注意が必要となってくる。

5-2-3-2.長く単調な過程に、理性は、段階や目標を設ける  

 ひとは、単調なことの持続には、うんざりし、倦怠をもよおすことになる。理性は、この倦怠をふせぐために、単調さをやぶり、忍耐の根気のいる過程に、種々の変化をもたらす工夫をする。苦痛甘受の過程においても、一律でなく緩急を見出せるから、それを展開の諸段階として、めりはりをつける。あるいは、目的はひとつでなく、副目的をいくらも添えることができるから、それらをあげて根気の支えを大きくする。さらには、なにも区切りがつけられそうにないところでは、任意に目標を設定して、今日はここまでと耐えることに区切りをつける。

5-2-3-3.苦の小分け、休憩等に理性は工夫する 

 長い根気のいる仕事、例えば、石を割る仕事は、休みなく連続しては無理である。これを持続させるには、途中で適宜休憩をいれねばならない。一時間ごとに一息入れ、一日は8時間のみ仕事に精を出してあとの時間は休んで疲労回復をすれば、仕事は、長年にわたって続けることができる。大きな苦労のいることは、一度に済まそうとすると無理でも、これを小分けにして少しずつやれば、簡単に成し遂げることができる。根気・根性を生かせるようにと、理性が適切な実行プランをつくりリードすることがあって、忍耐のいる仕事はスムースとなる。

5-2-3-4.根気が無駄にならないよう理性はチェックする 

 根気のいる長期にわたる忍耐は、慣れてくると大した苦でなくなる場合がある。いくらでも忍耐を持続できることになる。だが、忍耐しているかぎり、反自然的に苦痛・損傷を甘受しているのであり、犠牲を受け入れ続けているのである。場合によると、その忍耐は無意味なものに堕していて、無駄に犠牲を蓄積しているのみかも知れない。無意味なものになっているのかどうかの判断は、忍耐にひたすらの根気自体にはつけにくいところがある。理性が高所から観望して、無駄な忍耐にならないように、犠牲を払い続ける根気が生きるようにと、忍耐持続の是非を見極めていくことがいる。

5-2-3-5.悠長に構える時間意識も冷静な理性が可能とする  

 根気は、長い時間のなかでの営為である。短気な者には、悠長に長々と耐え続けることはむずかしいが、どんなに短気であっても、稲の生育では、実りまで半年じっと待たねばならない。いくら焦ってもどうにもならないことである。稲の生長については、その時間意識を、稲の方に合わせる以外にない。根気のいることを耐える場合、理性は、世界が自分を中心にして廻っているという感覚・感情の世界観を括弧に入れて、その場での時間意識をその対象に固有なものにと合わせることが必要となる。

5-2-4.深慮遠謀があって本領発揮のなる根気・根性 

忍耐は、目的のための手段であり、苦痛・損傷を受け入れるという犠牲をもってなる。それ自体は、自然的には、愚かしい営為である。自然を逆手にとっての理性的な狡知のなすわざになるから、単細胞ではつとまらない。深慮し遠謀をもってするのでなくてはならない。ひとの忍耐を心身の根底で支えるのが根性であり根気であるが、これらが本領を発揮するには、自然の単純さを超越した理性の深慮遠謀が求められる。

5-2-4-1.忍耐は反自然だから理性意志が堅固にならねばならない        

ひとの忍耐は、苦痛からは逃げるという強力な自然衝動を抑止しようというのであるから、この自然と対決しこれを支配するに足るだけの頑強さがなくてはならない。自然を抑止するのは、理性意志である。これが軟弱では、自然に勝つことはできず、忍耐は成り立たない。理性は、自然の在り様をしっかりととらえて深慮し、自身の目的とそれに至るための忍耐の過程を遠謀できねばならない。聡明な理性と堅固な理性意志がなくては、ひとの忍耐は成り立たない。

5-2-4-2.無謀、短気は、根性・根気を台無しにする 

 根気も根性も、苦難に対決して、犠牲をはらって目的実現へと進んでいく。英知を傾け心血を注いでこれを遂行する。だが、ひとのうちには、これらの忍耐を妨げるものが苦痛回避衝動以外にもある。せっかくある理性をないがしろにして無謀を企てるとか、自己内の自然的感情の生じるままに、些細なことにかっとなって短気を出して、営々と根気の手掛けてきた仕事を台無しにするといったことがある。激しての無謀や短慮・短気をおさめて理性が忍耐の手綱をしっかりともっている必要がある。

5-2-4-3.浅慮・無謀で根性を暴走させてはならない 

 根性は、苦難に全身全霊をもってねばり強く忍耐する。苦痛になど負けてなるものかとの強烈な負けじ魂からなる根性は、超自然の営為の忍耐の頼もしい担い手である。だが、苦痛甘受への対応に全エネルギーを注ぐので、ほかのことは留守になりがちで、忍耐全体を導く理性がしっかりしていることが必須である。理性の働くことが希薄で、浅慮であっては、根性は、ハンドルやブレーキの効かない暴走車になりかねない。没理性で無為無策では、根性は、戦車と竹やりで戦って殲滅されるような、無謀な猛進をする可能性を生じる。

5-2-4-4.深慮は、根気の根を深くして長期の風雪に耐えさせる 

 根気は、持続の求められる忍耐を必要な限り持続させていこうとする。それを外から支えるのは、妨害を察知して忍耐持続を妨げないようにと工夫をする、洞察に富む理性である。かつ、根気の働き自身においても、理性の果たすものは大きい。単調な過程を区分けしてめりはりをつけて、耐え続けることに倦怠を生じないような対策をねる。忍耐の目的をしっかりと堅持してこれへと忍耐をひきつけるのも、理性である。

5-2-4-5.遠謀できれば、根気も続くだろう  

 耐え続けるその先があいまいな状態では、いつ果てるともしれない苦痛とその甘受の辛さに耐え続けることなど不可能だと、忍耐の断念に走ることになりかねない。理性は、その延々と続く手段の過程に小区分を設けたり、目標を設定して、倦怠をなくするような工夫をする。あるいは、未来の目的を的確にえがき、周辺の副目的とか、目的実現でなるその後までの展望を描いて、理性は、その根気のいる忍耐の持続を種々価値づけて、耐え続ける意欲を支えていく。

5-2-5.理性は、根性・根気をただし、強化する 

 根性は、弱者のものとして、卑屈になり歪みがちである。このゆがみは、豊かな経験をもってただすことができていこうが、合理的に物事を扱う理性をもってするのがスムースである。奴隷根性となっていじけたものになっているのなら、そのことを的確に分析し、改めるべき心構えを明確にして、それを意識して反復・修正することであろう。理性が指示をだし、経験をそう改めていく。根気も、経験に負うとしても、それをより強固にしていくには、理性が未来を魅力あるものとしてとらえ、持続できる無理のないやり方を採用するなどの工夫を続けていく必要がある。

5-2-5-1.経験の作る根性の歪みを理性は修正する

 根性は、未熟者がもつ負けじ魂であり、がむしゃらに耐えていこうという逞しい心構えである。だが、未熟ゆえに余裕をもってすることはむずかしく、ときに合理的な意見などがあっても、これを受け入れ考え直すというような柔軟な対応ができない状態になる。つまり、頑固に、意固地になる。あるいは、弱い位置にあるから、なにかとひねくれて裏からものを見、悲観的になってしまう。悪しき根性を改め、客観的に楽天的に構えることができるようにするには、自身の理性をもって、これをその都度正していくのでなくてはならない。

5-2-5-2.根気は、知恵で拡張せねばならない   

 根気は、長期の忍耐を支える力であるが、知恵がこれをより長く持続させていく。はるかな目的への道程を迷いなく進み、飽きることのないようにその歩みに緩急を設けたり、休憩もいれるなどの工夫をすることで、根気はより続きやすいものとなる。生きがいとなるものは、おのずと情熱をもって続けて、辛苦に耐え続ける根気は顔をだす必要がないともいえるが、切手収集とか昆虫採集など延々と続く場合、その生きがいに疑問を生じてもくる。そういった意欲喪失に面しても、理性は、冷静に反省を加えて、忍耐持続が理にかなっていると見なせるなら、これに「短気は損気」と根気を作動させて耐えていく。

5-2-5-3.よりよい経験は、理性に負う 

 同じ根性・根気の経験でも、理性がそこにしっかりしておれば、深く身につく体験となる。何を体験しているかは、それへの意識しだいで相当に異なってくる。無自覚では、体験したとはいっても、他人ごとである。戦争体験といっても、小さな子供の場合、ひとから後に言われてみれば、そういうことだったのか、となろうが、意味不明の体験であった当人には、深刻な戦争体験とはなっていない。大人でも、そこでどういう意識をもってしたのかで、大いに異なる体験となる。忍耐する場合も、当人の理性意識がこれをしっかり目を開いて体験することが必要である。

5-2-5-4.経験主義に陥るのを理性はふせぐ

 根性にせよ根気にせよ実際に経験をしていくのでないと、知的に解するだけでは身につかないし軽薄なものとなろう。しかし、経験がすべてというのも極端なことになる。経験至上主義では、その視野はその個人の経験に限られ、その解釈も工夫もその個人だけのものにとどまって、視野も工夫も狭くなってしまう。それを防ぐには、理性をもって、必要な知識を習得し、優れた他者の経験も踏まえて、創意工夫をはかっていくことであろう。理性が、広い知見をふまえて普遍的な概念のもとで深い体験をさせてくれる。

5-2-5-5.根性・根気が成熟して気骨・硬骨となるには、理性のリードがいる

 根性は、未熟者のガッツで、成熟した者ではいわない。しかし、成熟したいからとガッツをもつのであり、成熟したところでは、未熟の時以上の苦難が待ち構えてもいることであろう。そこでも根性は生きる。未熟ながむしゃらな負けじ魂ではなく、冷静にこれに対処する余裕をもった根性であり、周囲は敬意をもってこれを気骨といい気概という。根気も、高尚なものではあまりいわない。が、高尚になるものほどおそらく長期の忍耐も多くなり、冷静な理性の担うものがより多くなる。根気でふさわしくないなら、硬骨とか傲骨と言うと良いであろうか。

5-2-6.気概や硬骨も理性を求める 

 根性は、未熟者にいうが、成熟した者、その道の達人になると、未熟の下賤さを払拭した根性として、気概とか気骨がいわれるようになる。根気も、硬骨とか傲骨となる。その熟達した者の強い忍耐力が、深く遠くを見通し、忍耐の仕方も無理・無駄のないものとなるには、理性が主導して合理的に熟達していることが求められよう。感情などで激することなくして、恒常的に大きな力を出すには、道理をしっかりとふまえて理性意志が確信をもって自己を貫くことであろう。

5-2-6-1.気概が頑固にならないためには柔軟な理性がいる  

 辛い忍耐に頑として耐える気概とか気骨のひとは、なにがあっても、へこたれない強靭な精神をもったひとだが、ときに、周囲のいうことを聞かない頑固者になることがある。自分に自信をもっているのは悪くはないが、合理的な説得があっても、ひとの言うことが聞けないのでは、自他にマイナスをもたらすことになっていく。頑固でなく柔軟である必要があるが、それを可能にするのは、客観的で合理的普遍的な、真実を尊ぶ、自身の理性である。

5-2-6-2.硬骨・傲骨は個我の意地となってはならない  

 忍耐は、長期に渡ることがあり、その間、忍耐を放棄しないで持続する根気というものが求められる。根気は、ただ、あまり高尚な部類のものにはいいにくく、やりがいのない倦怠をもたらすようなものでの忍耐である。しかし、高尚で誇らしいものでの長期にわたる忍耐、根気もある。それには、硬骨とか傲骨といった表現がありうるであろうか。だが、硬骨(根気)も、信念・信仰などで、理非をふまえずに意地になっても忍耐を続けるというようなことになると、害が生じてくる。理性が理非曲直を弁別して非・曲と分かったところでは、硬骨も退場することがなくてはならないであろう。

5-2-6-3.気概・硬骨の意志は、自他の有限な現実を知らねばならない 

 根性は、未熟者のもので、熟達すると気概というような表現になろうか。長期の忍耐、根気も、うんざりするものでなく、誇りをもって持続させていけるような場合、硬骨といったものになる。気概とか硬骨は、ひととしての忍耐力の理想を体現している。その意志は、強靭である。だが、意志がいくらしっかりしていても、身体がついていかないことが生じる。老化すれば、当然、思いのみが先走って、体はついていかなくなる。身体が有限なものであることを、さらには未使用において能力は劣化していくことを自覚することがいる。  

5-2-6-4.理性が世界を広げて、気概も硬骨も生きてくる  

 気概や硬骨(根性・根気)の精神は、苦難に耐えるに強力である。だが、その視野は、ことに集中しているから、どちらかというと狭くなる。そとを広く見渡すことは忍耐すること自体には求められない。その忍耐が些事であるかどうかは、硬骨・気概自体では、問題とならず、どうでもいいようなことに懸命になる場合も生じる。忍耐力の無駄遣いとなる。せっかくの気概や硬骨が生きるには、その外部で、深慮遠謀をもった理性の価値判断が必要である。

5-2-6-5.尊大に傾く気概・硬骨には、反省する理性が不可欠  

 未熟の根性でなく、熟達したものの堅固な気概があり、長期に耐える硬骨(根気)もあれば、周囲の称賛も得て時に尊大に傾く。意志は強固でも、体はそれに追いついていけないようなことも生じる。視野を広く保つことに疎かになりがちである。これらを防いで気概や硬骨が優れたものとして力を発揮できるようにと注意がいる。それを行うのは理性である。自身を客観的な眼で反省し、井の中の蛙にならないようにしなくてはならない。

5-2-6-6.出すぎた気概・硬骨は、理性で自重することがいる 

 気概・硬骨(根性・根気)に富んでいることは、望ましいことではあるが、忍耐力があまりにも優れていては周囲に迷惑ということもある。少々の苦痛は平気という気概に富んだひとは、当人は、それでいいが、周囲には、問題になるかも知れない。みんなにそういう苦痛を強いかねず、苦痛を受けるほかの人には耐えがたいものになる可能性がある。周囲のひとは、内心では頑固で意固地と思っていても、面と向かってはいいにくいから、当人は、気概に富んだ卓越した存在なのだと思いあがることもある。理性は、ことを慮り、自重すべきである。

 

5-3.苦痛も衝動も知恵をつかって制御       

 忍耐する意志は、苦痛甘受という反自然の営為を貫くが、内外の自然を利用し狡知をもって冷静に進んでいかねばならない。苦痛が耐え難ければ、これを和らげる快となるものをさしはさんだり、抑止すべき自然衝動が激しい場合は、それに対抗するような衝動を対置して、狡知を働かせる必要がある。強引に抑えつけるだけでは長続きしない。忍耐は、自然的には無理なことをするのだから、知恵を使って工夫することが求められる。

5-3-1.しっかり洞察して最少の力で制御する工夫を

 忍耐は、反自然の無理をする。自然からの抵抗は必至である。苦痛回避衝動は強力だから、これを抑止するには、単に意志を働かせるだけでは済まないかもしれない。感情も利用して、快を並列的に生じさせて苦痛を軽減するとか、苦痛からの逃走とは逆の動きを身体に取らせるといった策が求められもする。生じる苦痛・衝動のあり方を冷静に観察し、喫煙衝動なら、ものの2、30分もすればおさまることで、その間、できるだけこの衝動を意識せず、表に出てこないよう、すきな音楽に耳を傾けるといった工夫をすることである。

5-3-1-1.忍耐の対象をよく観察して、苦痛なしで済む部分を多くする 

 忍耐は、苦痛から逃げずこれと対決するが、常時苦痛というものは少ない。間歇的に苦痛が生起する場合もあれば、苦痛の持続時間の分かっているものもあろう。あるいは、持続して耐えていると慣れて苦痛でなくなるものもある。損傷による苦痛などその傷が癒えるとともに消えていく。対象となる苦痛の特徴を的確に捉えて、より耐えやすい姿勢を見つけて、これを無理なく貫徹できるようにしなくてはならない。大きな生活上の苦悩も仕事中は意識せずに済むということもある。よりよい忍耐には、広い知見・経験と深い洞察が大前提となろう。

5-3-1-2.自身のでなく、自然の力・動きをつかう 

 ひとの忍耐は、自然を超越した理性をもってする、自然に逆らう営為である。その理性自体は、観念的営為として、実在的自然的には無力であり、実在世界を動かすには自然の力を借りなくてはならない。理性意志の思いを通し、自然の動きを阻止するには、その自然に対立的な自然の動きにさそいをかけて、これに働いてもらうことである。それには、まずは、意志の実行部隊となる自身の自然である手足に働きかける必要があるが、これに意志の力をそそぐとしても理にあったやり方でないと、手足に無理をさせ無駄なことをさせる可能性を大きくする。

5-3-1-3.理性の狡知は、自然と自然を戦わせる  

 理性は、自然的実在的な力としては無力で、その手足も微力である。その手足をもって自然を動かしていくが、直接に手足で動かせる自然の領域はわずかで、大きな力がいるときは外的自然自身の力を理性の思う方向へと向け直して、これを利用していく。自然をもって自然を動かす。自然と自然を戦わせて無力化して理性の思いを通していく。その努力は、自然を直接動かすというより、自然同士をうまく動かして、描いた理想・目的を実現していこうという狡知の営為である。目的がかなうようにと自然を深慮し、目的への遠謀をもって、忍耐という自然的には生じない手段・犠牲の狡知も発動させる。

5-3-1-4.制御も機器に代行させる  

同じことを反復する仕事は、根気のいることである。その作業を担う手足による制御・操作を機器に代行させることが自動化であるが、近代はそれを大々的に行ってきた。糸を撚ったり、布に織るのは大変であるが、これをすべて自動的にできるようにしている。いまは、それの保守点検、改善という知的作業を残すだけである。この作業も、手足をもってすることは無用になりつつある。音声だけで機器を動かすことが身近になっており、さらには、脳神経インプラント等をもって脳自体で機械を直接動かすことができるようになりはじめている。

5-3-1-5.制御は、要領よく要所を掴んで    

 機器類の多くが自動制御をもつ昨今であるが、それでも、その機器類を作動させ始めるとか、どこに向けて働かせるか等は、ひとが直接に対応することが多い。機器の根本的制御、支配は、ひとのすることである。どこに役立てるかとか、どの程度といったことについて、ひとがその要所をにぎって要領よく行っている。持続の必要なものなら、したがって忍耐のいるようなところでは特に、知恵を巧みに使って忍耐無用にもしている。ひとの忍耐は、さらに高度の領域で、機器類には代行できないところにと進出していけるようになっている。

5-3-2.耐えやすいようにと、苦痛軽減の工夫をする  

ひとが苦痛甘受の忍耐をするのは、あくまでも手段であって、苦痛を受け入れることを好き好んでするわけではない。忍耐するひとにとっても、苦痛は、受け入れたくないのが本心である。したがって、忍耐する場合、苦痛を受け入れる必要があるけれども耐えがたいというときには、苦痛をできるだけ小さくして耐えやすいようにする。耐えうる程度にと苦痛を小さくする工夫をして、忍耐の目的を実現しようと試みる。

5-3-2-1.忍耐自体は、苦痛を小さくするわけではない 

 忍耐は、苦痛から逃げずこれを受け入れる営為である。したがって、かりに苦痛を小さくして受け入れるとしたら、その削除した苦痛分は、忍耐していないということになる。忍耐する限りでは、苦痛に抵抗も排除の試みもしないで、淡々と受け入れるという姿勢をとるのが本来であろう。ただし、耐えがたいという場合は、苦痛を小さくして、受け入れられるようにとする。その場合は、正確にいえば、耐えがたい部分は取り除いて、したがってその部分は忍耐せず、残りの部分のみを受け入れて忍耐しているということになる。

5-3-2-2.忍耐は、苦痛を多く受け入れることになる  

 忍耐は苦痛を避けない。苦痛を受け入れ続ける。忍耐しない者は、苦痛を避けるから、苦痛を感じるのは少しで済むが、忍耐する者は、多くの苦痛を受け入れて多く苦悩することになる。ただし、苦痛には慣れて、苦痛でなくなることも多いから、そのことからいうと、苦痛を避けている者は、いくら繰り返しても、これを苦痛と感じるのに対して、忍耐する者は、あとになるほど、苦痛を小さく感じたり苦痛と感じないで済みようになる。

5-3-2-3.忍耐する・しないに関わらず苦痛自体は変わらないことも多い 

 注射の痛みは、これを忍耐する者もしない者も、同じように苦痛と感じるであろう。苦痛・苦悩であることは、忍耐する者としない者にちがいはない。違いは、心構えのちがいで、忍耐する者は、苦痛に抵抗せず平然を装って対応する。しない者も、同じく痛みを感じるが、これに抵抗し拒否しようと試み、大騒ぎし、情けない奴だと軽蔑されることになる。さらに、忍耐する者は、しない者とちがって、その苦痛の先を見て、その苦痛甘受で価値あるものが得られるとふまえて、そこでの精神的な快をいだく。

5-3-2-4.忍耐は、苦痛・苦悩から逃げなければ、苦痛を小さくしてもいい 

 忍耐する者は、苦痛を受け入れることを好みとするわけではない。目的のために必須の犠牲として苦痛を受け入れるのみである、したがって、目的の実現のための苦痛・苦悩が小さくて済むのなら、そうすることである。その削除した苦痛は、受け入れないことになるから、当然、忍耐しないのである。不必要な忍耐は、無駄な犠牲ということだから、これを引き受けないのは当然である。その忍耐の是非、苦痛甘受の是非は、これを深慮し遠謀をいだく理性が判断する。

5-3-2-5.忍耐中に苦痛の感じ方は、変わることが多い 

 苦痛・苦悩は、忍耐していると小さくなって気にならないものになることもあれば、逆に、身体の疲労のように、忍耐し辛苦を受け止め続けていると、これが蓄積して耐えがたさが増大するものもある。それに応じて忍耐の在り方も適宜に調整することが必要となる。忍耐しつつ、その苦痛をどの程度耐えられるかと先をはかり、忍耐の持続なり放棄を予定していく。苦痛が小さくなっていく種類のものなら、忍耐自体の終了を予定しつつ、余裕をもって構えていけることとなる。

5-3-2-6.主観的な苦痛・苦悩のこと、主観で自在にできる面もある  

 苦痛は、意識主観の感覚・感情だから、主観のうちで、ある程度自由にすることができる。場合によれば、激痛も、麻酔薬で無痛にまで変えることも可能である。意識の持ち方しだいで、軽くも重くも感じることにもなる。精神的苦痛・苦悩の場合は、その欲求・欲望の在り方とか、苦痛をもたらしている対象の理解・解釈の仕方によって、苦とも楽ともなりうるから、思いを変えれば、苦悩は、軽くなるどころか消滅もする。

5-3-2-7.耐えられない苦痛はない、という  

 激痛は、耐えがたいものだが、最後まで耐えようという強い意志をもってするなら、ひとは、それを貫くことができる。最後は、気絶したり、死ということになろうが、それでも耐えることはできる。拷問では、可能な限りの大きな苦痛を与えるが、それに耐えきる者がいる。宗教的な弾圧では、しばしば殉教をいう。尋常では到底耐えられない苦痛を耐えて生命を失うことになるが、それに耐え切る者がいる。そういう実例から見ると、耐えられない苦痛はないと断言できる。

5-3-3.苦痛回避衝動を小さくし、意志を強化して忍耐力を高める 

 よりよく忍耐できるには、苦痛回避の衝動が動かないよう、これをスムースに抑止できることである。その衝動自体を小さくとどめるとともに、その衝動が動いてもこれをしっかりと抑止できる強い意志をもつことがあれば、忍耐は安泰である。理性は、苦痛回避の衝動を小さくとどめるために、苦痛・損傷が突発的になって過剰反応になることを避けるように工夫する。あるいは、その意志を強化するために、忍耐が成し遂げる目的を大きく描いて魅力的にして、これへと鼓舞すること等も試みる。

5-3-3-1.突如だと、過剰に反応するから、予知し備えをもてるようにする 

 突如、苦痛が発生すると、過剰に反応して、苦痛回避衝動を大きくしてしまう。そうならないようにするには、苦痛発生を予知してあらかじめ構えられるようにすることである。それができれば、過剰な反応はしないで済ませられ、忍耐もしやすくなる。煙火は、最初の一発には爆発の轟音に驚愕させられ耐えがたさを感じるが、二発目からは、あらかじめの構えができ感度を低くしているので、平気になれる。

5-3-3-2.意志のとどかない身体反応にも意志は関与できる  

 熱いお茶が湯呑からこぼれるとき、熱さに無条件反射をして手を離すとしても、それに任せず、そばにいる子供には熱湯がかからないようにと意志を働かせ、ひとは無条件反射の発現を無害化できる。意志自体は、衝動はもとより不随意運動によっても侵されはしない。自由をそこでも堅持している。意志は、自然的衝動などの動物的動きを抑止、あるいは無害化するために、直接間接に巧みな動きを作り出す必要がある。そのためには、理性が事態の洞察と対策を怠らないようにしておかねばならない。

5-3-3-3.心身を弛緩させて逃走衝動を動きにくくする 

 忍耐は、苦痛回避の衝動を抑止できるのでなくてはならない。意志は、これに努めるが、助太刀をもってすれば、それはより確実になる。苦痛とは逆の反応をする感情は、快である。この快に属する感情を苦痛の場に持てるように知恵をしぼれば、苦痛は軽減される。身体はひとつなので、苦痛感情で緊張し萎縮する身体反応に、快が逆方向に弛緩しのびやかにする反応をとれば、苦痛反応(逃走衝動など)の方は小さくならざるをえない。苦痛(反応)が小さくなれば、忍耐はよりしやすい状態になる。

5-3-3-4.挑戦への意志が大きくなれば、逃走への意識は小さくなる  

 攻撃的な意識・意志が大きければ、反対の逃走的な意識なり姿勢は影をひそめることになる。危険なものを前にすると、萎縮し逃げたいという恐怖の感情をいだくが、この危険なものを排撃せねばと大胆果敢な姿勢をもつと、恐怖の感情はかき消されることになる。忍耐でも、苦痛から逃げたいという衝動をもっていても、その原因対象を排撃しなくてはとの挑戦的な意志を大きくすると、意識はこれに集中して、苦痛回避の衝動は、意識されることは少なくなり、小さくなる。逆に、逃げ腰だと、意識は苦痛に占められてしまい、大きな苦痛となる。

5-3-3-5.意志強化の支えとなるもの

意志は、それのそとにある感情や知性に支えられるし、妨害もされる。嫌いな人物を助ける場合、おそらくその意思は感情的には消極的になる。が、逆であったり、その意志の目的を高く価値づけることができるなら、意志は、強化される。それが、自身の生き方にぴったりしているなら、その意志に充実感をともなうから、簡単には、これを放棄しないであろう。自分の信念をすすめることにつながるとなれば、張り切って意欲的になろう。自由に意志するものを選択してよい場合は、理に合い親しめるものを選ぶとスムースにことは展開する。

5-3-3-6.苦痛回避衝動を抑止する忍耐は、ひとの尊厳を顕示する

 忍耐は、苦痛に耐えるが、自然は苦痛からは逃走する。苦痛(損傷)回避をして自然的な生は自己を保護できるのだから、その苦痛回避の衝動は強い。これを忍耐は、抑止する。苦痛を甘受し犠牲をはらって、価値ある目的の実現にと挑戦する。その営為は、苦痛から逃げず、これに挑戦するという自然を超越した営為として、ひとの超自然的特質を顕示することでもある。苦痛に耐えることのうちに、各人は、おのれの尊厳を見ることになる。

5-3-4.苦痛には無為で応じて、放置しておけるよう知恵をしぼりたい 

 忍耐は、苦痛を受け入れることだから、苦痛の回避や排撃の行為をとってはならない。苦痛回避の衝動を動かさないよう、回避について無為にとどまり続けるのが忍耐である。無為、何もしないとは、苦痛についてこれをそのままに放置しておくということである。その無為・放置に自然感性が衝動をもって猛然と襲いかかり、苦痛回避衝動を動かそうとする。理性意志は、それを頑固に無視する。忍耐する意志は、技巧を尽くした複雑多岐な創造活動をするのではない。ことは単純明快で、じっとして動かないようにしておれというだけだから、その不動の姿勢さえ崩さねば、忍耐は、楽といえば楽にできることである。 

5-3-4-1.忍耐は、なにもしないことに耐える

 忍耐は、苦痛から逃げず、じっとしていることである。無為にとどまる。怒りへの忍耐は、その衝動の動こうとするのをじっと抑えて動かさないようにすることであり、その辛さをじっとして無為にうけいれる。腕立て伏せでも、忍耐は、腕を動かすことではなく、腕が苦痛で辛くなってもこれから逃げず、辛さに対して何もせず、無為に留まりつづけることである。腕は、意志の命令を聞かなくなり動かなくなっても、苦痛を受け止め続けることはできよう。

5-3-4-2.じっと待つ間は、それを忘れるのが最善  

 忍耐は、苦痛を甘受することである。あたかも、苦痛がないかのように受け入れることが理想であろう。苦痛に抵抗しないで、ないかのように振る舞うことであり、なんでもないかのように、したがって、それのあることを忘れているかのようにするのが理想的であろう。待つ間は、そのことで為すべきことはないのだから、忘れて、意識をほかへもって行き別の何かをすることである。それが、待つことを穏やかに済ます、効果的な方法になる。

5-3-4-3.気を他のことに向ける 

 大怪我をしても、戦闘状態では痛みを感じないが、戦いを終わるとこれに気付き激痛となるといったことがある。意識がその損傷にむかなければ、痛みとして感じられることなしに済む。精神的な痛みなど特にそうで、不安感に襲われていても、その意識・気をほかへ向けると不安感はその間は消失する。気を花に向け、月に向けて、これらに不安を預け、吸い取ってもらうのである。あるいは、別の苦痛を生じさせれば、もとの苦痛は意識されなくなるようなこともある。

5-3-4-4.執着しないこと 

欲求抑制の不快に我慢する場合、この不快に耐えるに一番効果的なのは、欲求自体を穏やかにしていくことであろう。欲求不充足になると生は、それを満たそうと懸命になる。その充足に執着し、その不充足は辛くなって耐え難いことになる。これによく耐えるには、その欲求にとらわれず穏やかに構えることである。気(意識)を他に向け、そのことを思わないようにすると、不充足の不快感も、充足しなくてはとの焦燥感ももつことなく、穏やかな状態を保つことが可能となる。

5-3-4-5.苦や忍耐を無化する手もとる

 苦痛に忍耐しているとき、その苦痛が意識から消えたとすると、いくらでも忍耐は持続できる。忍耐の意識がなくなっても、その忍耐していた営為自体はつづく。意識すれば苦痛であり忍耐であるという状態であれば、やはり、自然的には受け入れられないひとの忍耐自体は続いるのである。かつ、完全にそういう意識がなくなれば、苦痛・忍耐なしでの、穏和なひとの超自然的営為ということになっていく。そこまでの無化でなくても、苦痛や忍耐の意識がごく小さなものになれば、勉強や仕事の多くがそうであるように、ひとは、苦痛や忍耐を気にすることなく、これを永遠に持続させることが可能になる。

5-3-5.理性意志があきらめない限り、忍耐はつづく 

 忍耐は、苦痛を受け入れるだけのことで、積極的に何か創造的なことをするのではない。苦痛から逃げないように、苦痛になにもしないで無為にじっとしているだけである。懸垂で、腕を曲げる意志は、筋肉が疲労してくると通らなくなる。だが、そこでの苦痛への忍耐の意志は、その後も維持することができる。曲がらない腕の痛みを受け入れ続けてその辛い状態を持続できる。腕を曲げる意志は、早々に無効になるが、苦痛に耐える意志は、苦痛を受け入れるだけだから、無意味と判断して手を離し懸垂の姿勢をやめるまで、続けうる。

5-3-5-1.極端をいうと、どうにでもなれと、なげやりでもいい

 耐え難い苦痛・苦悩に、もうどうにでもなれと居直るとき、すべての営為を投げ捨てて、無為にとどまることがある。なにもせずということで、結果、苦痛・苦悩から逃げることもせずとなれば、苦痛甘受の忍耐の無為を維持することとなりうる。苦悩を生じる損傷・損害がひとを動転させ、耐え難さを大きくする。そのことを含めてすべてを投げ棄て、ケセラセラ、なるようになれと無になれば、心は落ち着いた状態をとりもどし、淡々と苦痛を受け止めて、結果、よりよく耐えることとなりうる。

5-3-5-2.先も後ろも周辺も見ずに、打棄っておく 

 理性は、苦痛においても冷静に客観的に事態を把握しょうとするが、そうすると苦痛・損傷の深刻な事実に直面し、これにとらわれて耐えがたさをます。これを意識しつづけても事態に変わりが生じるわけでもなければ、すべてを放置して、それに関わる意識を無にしておくのが賢明なやり方になる。無心に留まり続けられればこれに越したことはないが、それが難しければ、その苦痛・損傷以外のものを意識することである。眼前の昆虫とか花に気を集中するといった手がある。

5-3-5-3.自己放棄も可

耐え難さの極において、気絶することで苦を無化することがあるが、苦しむ自己を放棄して、自己を分裂させることもある。人格の多重化は、そういうことで生じることがあるようである。記憶喪失は、耐え難いことを直接に無化する。耐えられない苦痛自体は感じたはずであるが、あとにこれを残さない。人格多重化では、生じる苦痛を、他者と化した自分に預けてもう一つの自分はその苦痛を無にしてしまう。こういう自己の遺棄・他者化で苦痛を無化する極端は、理性自体の通常の営みではないが、耐えがたいものを耐える方法として考慮する余地はあろう。

5-3-5-4.打ち棄てておいても、決して諦めてはならない 

 忍耐は、無為に留まらねばならないが、苦痛回避衝動は、強い自然衝動であるから、気を抜くと表にでて動く。この衝動を抑止して動かないようにするために、どこまでもその不動の意志を貫いていくのでなくてはならない。衝動が休んでいるときは意志も休憩したらいいが、すきをつくらないようにし、忍耐の必要なかぎりどこまでも諦念する事なく、その無為に留まる意志を貫かねばならない。あきらめないかぎり、ほかのことはどうであれ、忍耐は、なにもしないのだから、持続させることが可能である。

5-3-5-5.息を抜いてはならないところを見極めねばならない

 忍耐は、無為である。それには、苦痛回避衝動が動かないようにと意志が歯止めをかけることが必要である。そのことを踏まえて忍耐は、苦痛になにもせず、じっとしているのであるが、その苦痛は、一律に始終痛むのではなく、断続的であったり、一定時間だけといった様相をとるのが普通である。それに応じて、苦痛回避の衝動を適宜に抑止する必要が生じる。禁煙では、その喫煙衝動の持続は、ものの2、30分である。その間のみ、意志は、喫煙衝動が動かないように気をつけておればよい。

5-3-5-6.あきらめも大事である  

忍耐は、すればいいというものではない。邪悪なことでの忍耐はしてはならないし、善行であっても、自分にとって荷が重すぎるものは、無理に忍耐しても、無駄なあがきになる可能性が大きい。到底無理と判断できたら、早々にこれをあきらめねばならない。そういうときは、いつまでも、こだわったのではいけない。忍耐は、目的実現のための手段としてとる犠牲であり、無意味・無駄と判明した忍耐は、即、中断し、さっさとあきらめることができねばならない。

5-3-6.気力、気迫は、休みながらも持続させねばならない 

忍耐は受苦受難から逃げずこれを受け入れ続ける。その苦難は、途切れることなく連綿と持続するというよりも、ことに応じて断続的に生じるのが普通であろう。受傷で生じる生理的な苦痛ですら、別のことに気が移れば、その間は、意識することなく、苦痛を感じない時間となる。しかし、苦痛は、長く断続する。その忍耐もこれに応じて耐えることになるから、苦痛の遠のいている間は気を休め、苦痛が大きくなりこれの回避衝動が盛んになるときには、確実にこれを抑止していけるように体勢を整えていなくてはならない。苦痛に耐えるための気力を維持していることであり、決して苦痛には負けないという気迫をそこには堅持していることが必要である。

5-3-6-1.やる気を失わないような配慮がいる 

 忍耐は、苦痛を受け入れるのであるから、そのこと自体は、やりたくなるものではない。しかし、目的を思い、やらねばならないとの意欲は、もてる。意欲は、理性意志が先導し、かつ欲求が賛同し支持している状態であろう。意志し欲求するのである。欲求は、価値あるものにひかれ魅されて、自身がそれを充足・実現することを快とする。意志が欲求に支持されている意欲は、個我が望んでこれを促進したいという状態で、やる気にあふれた状態となる。やる気、意欲をかきたてるには、その目的実現が大きな価値獲得であることを確かめるのが一番であろう。

5-3-6-2.決して負けないといった気迫が保たれねばならない

 苦痛に耐えるには、苦痛から逃走したいという自然的な強い衝動を動かさないようにする必要がある。強い衝動で隙があればそこをねらって苦痛から逃走しようとするから、注意を怠らず集中してことに当たらねばならない。その抑止に全力をだして対処するという勢い、気迫が求められる。気迫は、身体レベルで、ひるむことなく、強力にことに立ち向かう姿勢、勢いをもち、精神的レベルでも、自身の苦痛・苦悩に対して決して負けないといった、必死の覚悟をもって意気込むことであろう。この気迫は、その忍耐に大きな価値を見出し、その放棄は、生を損ない、自身の尊厳を傷つけることになる等と自覚する理性にささえられる。

5-3-6-3.最後までやりとげる気力が持続するようにしたい 

 苦痛・苦悩から逃げずその逃走衝動を抑止し続けて忍耐は成り立つ。気力をしっかりもって対処することが求められる。ことをやり通す精神力としての気力は、脳内のホルモンでは、快となるドーパミン、安らぎのセロトニン、興奮させるノルアドレナリン等が適宜に分泌される状態に成り立つという。それらのホルモンがよりよく分泌されるようにするには、理性がその忍耐の実現する価値を高くに掲げ、忍耐の意義の大きさを自覚して自らを鼓舞することであろう。身体をしてやる気を出すように作ることも効果がある。行動力を削ぐ疲労を解消し、胸を張り、顔をあげれば、身体が事を起こそうという姿勢になり、脳内もそれ用にホルモンを出して気力を醸し出すことになる。

5-3-6-4.理性をもって忍耐の意義とか影響とかを再確認していく

 忍耐への意欲を高めるために、理性には、その忍耐の犠牲で可能になる価値あるものを多く大きく掲げることが求められる。その忍耐の目的が崇高なものなら、忍耐での苦痛(犠牲)は崇高なものと価値づけられる。忍耐の営為は、超自然のふるまいであり、それが通常のひとには簡単ではないことなら、自負心をもって、なにがあっても忍耐せねばと決意を新たにしうる。使命感をもてば、その忍耐は、自身の存在そのものを確証する営為ともなる。家族や周囲のものをささえる忍耐であれば、それを想起して、どんな辛いことであっても耐えねばと気力をふるいおこすことになろう。

5-3-6-5.身体に働きかけて気合をいれ気力を保つ   

こころを直接に奮い立たすことのできないような無気力状態に陥った場合、残った身体に働きかける手があろう。気合をいれると、精神のボルテージをあげることになるが、それは、身体的方面からいれるのが普通であろう。気合は、声を出して、いれる。自分の声を出しかつそれを自身で耳にし、身体を緊張させることで、元気がでてくる。脳も目を覚まし、それに見合うノルアドレナリンなども分泌され、やる気が出てくる。胸を張り、顔をあげれば、活発な姿勢をもてるようになる。過激な方法として、昔は、冷水をかぶるようなこともした。まちがいなく目が覚め身体も脳も活性化して、やる気がでてくることであろう。

5-3-6-6.精神を鼓舞する、自分に見合った方法を見つけていく  

ひとによって精神を鼓舞する効果的な方法は異なる。自分に合ったものを見つけることが必要であろう。やる気がでないとき、注意散漫になるとき、自分の平手で頬を打つといった刺激を与えることなど手軽にできる。悔しかったことを想起すれば、おのずとファイティング スピリットが醸し出されることであろう。自分用の方法は、反復するほどに効き目がよくなることである。なにであれ、反復し習慣化すれば、その刺激には、反射的に脳内に気力を出すためのホルモンが分泌もされて、やる気を出せるようになることであろう。

 

5-4.理性は、反省能力として働く

忍耐は、理性意志を貫いてその目的を実現する。それは、英知を傾けた未来への営為であるが、そこには、忍耐の経験を振り返り総括する理性の反省も働いている。同じ失敗を理性のもとの忍耐は繰り返さない。反省することをもってその次の試みは、その失敗を土台にして新規の方法をとる。理性は、客観的洞察に富む対象意識をもつとともに、これを自己自身にもむけ、冷徹な自己意識ももつ。自身の忍耐の営為は、自己内の苦痛、そこに生じる苦痛回避衝動を自己内の意志をもって抑止する。ひとは、自己のもとでの思いと営為を自身において振り返り内省し、これの欠陥等を見出し修正して行くことができる。

5-4-1.理性は、客観的普遍的に動く   

 感覚も自然的欲求も自身を反省することはない。目の前の大地が不動で夕日が沈めば、その通りに天動説をとる。欲しいものがあれば、即これを我が物にしようともする。自然感性自体には、真偽も善悪もない。だが、ひとは、理性をもっていて、自身の感性はもとより、理性自身のことにも一歩距離をとって客観的普遍的に反省する。天動説が感覚的事実だとしてもそれは錯覚だと判じる。いくら欲求が強くても、動物とちがって、他人のものを勝手にわが物にするのは、悪だと判断する。ことの真偽、善悪を反省し懐疑する理性能力をもって、ひとは、尊厳をもった生き方をする。

5-4-1-1.理性は、人の営為をしっかりと懐疑する 

 ひとは、理性的に振舞い、善悪・真偽をもって世界に関わる。その善や真は、理性が世界を合理的に客観的普遍的に把握することで成り立つ。法則に合い、客観的で普遍的な本質に合致しているかどうかといった観点から、ひとは、その善悪・真偽を考察・懐疑し、その判定をし、世界の本質を把握してそれにしたがう。その真や善に則ることで、理性の意志における卓越した営為は可能となっている。

5-4-1-2.信仰は他者批判に鋭いが、理性は自己批判にも鋭い 

 知的な営為でも、懐疑精神がしっかりしているとは限らない。信念とか信仰の場合は、自己の信を守るための他者批判には知恵を傾け積極的である。プロテスタントがカトリックを批判して、イエスの十字架の一部と称する聖遺物の木切れを集めたら、大きな家が建つと嘲笑したが、その批判はしっかりしている。だが、自身の信については、懐疑を完全に停止してしまう。真実を追求したら、信の崩れることを内心では承知しているのであろう。だが、純粋な理性は、自己批判もしっかりと行う。理性の懐疑精神は、世界についてと共に自己自身についても貫徹される。 

5-4-1-3.時代と民族のイドラ(偏見)をも自覚・自省できる 

 自分たちの世界の根底をなすと考えられているものについては、これを自明なこととして前提し、懐疑することは少ない。イドラとかパラダイムといわれる根本的な概念は、時代と民族の、あるいは人類の根本的偏見ともいえるが、必要なら、理性は、これら自体についても自覚し、これを反省することが可能である。理性は、ラディカルな懐疑精神をもっている。左右とか時間とかの概念は、日ごろは自明なものとして懐疑しない。だが、必要なら理性は、これを懐疑し解明していこうとする。もっとも、明確な答えは出ないことが多い。懐疑しても明確にならないから、自明として放置しているのでもある。

5-4-1-4.エゴの貪欲を反省するのも理性  

 忍耐では、エゴの貪欲を戒めることがしばしば必要になる。その貪欲を放置したままに苦しみ続けることもあるが、根本的には、その貪欲自体をなくして忍耐を無用とするのが筋である。その欲求が妥当なものなのか、貪欲と反省してこれを撤回すべきかといった顧慮は、意志の属する理性が行う。欲求を当然として推し進めるのではなく、理性は、これに距離をとり、これを懐疑して、エゴの身勝手と自省できるときには、これを自戒し、我慢し、その欲求を無化していく方向にと進めていく。

5-4-1-5.忍耐する自身の弱点を反省し改める

 理性は、自己の意志を反自然の営為である忍耐において貫く。当然、自然からの反発、苦痛回避衝動の攻撃を受けるから、それを抑止できるのでないと、理性意志の忍耐は、失敗してしまう。しかし、失敗しても、理性は、その成り行きを冷静に反省して己の意志の弱点を知り、忍耐すべきものの特性を把握し直して、次回に備えることができる。禁煙の失敗でなら、自身の喫煙衝動の持続時間を測ってみて、その間のみ、意志をしっかりもち、気を他の方面にと向け変えるなどの対策を新規に考えていくといった修正ができてくる。

5-4-1-6.自身の感覚・感情に距離を置いて懐疑・反省もする   

 忍耐の対象は、快苦の感性である。理性は、これの特性をよくとらえて、できるだけスムースに対応できるようにして忍耐を貫いていく。苦痛などの感覚・感情は、意識されることでひとのこころに登場し、意志や欲求の対象となっていくが、意識は、ひとつのことに集中すると他のことはお留守になる。苦痛が耐えがたければ、これを意識しないで済むようにと、ほかに気をもっていけば、苦痛はその間、遠のく。その苦痛・苦悩が過度で、過剰反応だと反省できれば、適正なレベルへと感度を落とすことも、理性には可能である。怒りなど、過度どころか、曲解をもとにしたもので、無くしてしまうことが真っ当な対応と反省できれば、この感情に距離を置き、これの成り立つ根拠である曲解をなくして、怒り自体を消去するといったことも理性的懐疑・反省は行う。

5-4-2.先を見通す理性は、後ろにも目がついている  

感覚は現在しか見ないが、理性は、未来も過去もしっかりと把握する。目は、眼前のものしか見ないが、理性は、前はもちろん、自己内も、後ろも見ることができる。理性は、普遍的な概念をもって世界をとらえる。概念をもっての世界把握では、過去も現在も未来も同じように捉えられる。食糧の備蓄がわずかしかないという現状を踏まえて、未来に向かって、しかるべき食料消費の計画を立てる。かつ、凶作だった年を振り返り、過去と同じ失敗を繰り返してはならないと反省し、対策を練ることができる。さらには、自分たちの欲望が肥大気味になっているから、しばらくこれを抑制して節制を心掛けねばならない等と、万全の備えをしていくことができる。

5-4-2-1.未来に向かう前に、過去から現在までの経過を踏まえる  

 無謀かどうかは、現在の能力に見合っているかどうかで決まる。その能力は、過去からの蓄積でなりたっている。未来に挑戦するためには、過去からの実績をふまえ、現在蓄積されている力を承知しているのでないと、危ういことになる。過去は、もう決まっているので、反省すれば、容易にこれを把握できる。忍耐ということでは、過去の自身の苦痛体験を振り返り、それで身についている力を周知のうえで、取り組もうとしている苦難に立ち向かえるかどうかと判断することになろう。

5-4-2-2.理性は目的論的営為のために、自然の因果を利用する  

 理性は、目的論的に動く。未来の目的を自由に描き、そのために現在とるべき手段を手にして、その手段から目的へと因果系列をたどって目的を実現していく。田んぼに水を入れようという目的をもったとすると、近くの小川からこれを引いてくるという手段を描く。それには、最短の距離の水路をつくるといいが、水を流すには、小川から水田までの傾斜を考えた水路をつくらねばならない。自然の法則に背くことなく、これを踏まえ利用しながら、目的を実現していくことになる。

5-4-2-3.未来を深慮遠謀するだけでなく、過去に向かってもそうする

 理性では、狡知がいわれる。短絡的にはならず種々の媒介を踏まえ、深慮をもって、はるかな目的への回りまわった策略をもっての狡知である。それは、未来についてのみでなく、過去の利用でもそうする。過去は、すでに決定済みのことで、変更は不可能だが、それの解釈とか利用は、現在から自由にできることである。歴史はしばしば塗り替えられてきた。ときの支配者は、自身を権威づけるため、過去を利用した。歴史を改ざんして自分の支配を正当化した。あるいは、過去の失敗の歴史を振り返り、同じ轍を踏まないようにと策を練った。親の失敗が身に染みている子供は、同じ失敗は繰り返さない。

5-4-2-4.過去の蓄積を踏まえての対策  

 これから忍耐しようとすることについて、白紙で始まることは少ない。過去に経験した忍耐と同じとか、その過去の利用できるものが多い。不安なことを我慢しなくてはならない場合、その苦痛・苦悩は、はじめてのことではないのなら、どういう対応を自身ですれば不安から逃げず忍耐放棄せずに済むかが、予測できるであろう。過去の経験を踏まえ、不安を鎮めるには深呼吸をすることが効き目があるとか、余計なことを思わず、ことに専念すれば、気にならず、やり過ごせる等の記憶を呼び起こせば、よりよく現在の不安に対処して忍耐を続けていけることであろう。

5-4-2-5.未来の想像の中には、しばしば過去の記憶がある

 現に生じている苦痛の忍耐には、未来向きの姿勢をもち、苦痛がだんだん小さくなるはずとか、逆に耐えがたさを増してどこかで忍耐放棄せざるを得なくなるだろうと想定する。と同時に、そこには過去向きの意識も伴う。どうしてこういう苦痛・苦悩を抱くにいたったのかと、その苦痛生起の原因などに目を向けて、その原因除去がなるものなら、そういう動きへと向かうことになる。腹痛が耐えがたいということであっても、それがさっき食べたものの食中毒だと分かれば、ものによっては、嘔吐とともに、下痢をして消化器官から取り除けば終わりにできる、そのわずかの間のことだと、我慢は、しやすくなる。

5-4-2-6.歴史のみか、動物にまで遡って、心身の特性を反省できる 

 ひとは、多くが蛇を理由もなく恐れる。だが、犬は、蛇が平気である。猿は、どうも蛇をひとと同じく恐怖するようである。ひとの蛇への恐怖心は、その猿類の時代に形成されたものと思われる。いまは、無意味化した反応であり、場合によっては、これに耐えるだけでなく、無意味な恐怖心を抱かずに済むよう、経験反復で解消した方がいいことも職業によってはありそうである。ひとには、超音波、紫外線、磁力線を感じる能力はなさそうだが、ほかの動物にはあるとすれば、ひとにもその痕跡ぐらいは見つかるかもしれず、それを鍛えれば意外にもその能力が使えるようになる可能性もなくはない。

5-4-3.経験は、反省を伴って、有益な経験となる   

 同じ忍耐経験をしても、反省の有無で、違った経験をしているといっていい。無意識的にあるいは不注意状態で経験したことは、のちに想起しても何を経験したのかも不明瞭になろう。失敗の経験も、失敗との意識・反省がないなら、そういう経験はしなかったのと同じことになる。食を楽しむとき、強い甘さのものを食べたあとほんのり甘いものを食べたら、あとの甘いものは、前者にまけておいしさを減らす。そう経験し意識したものは、反省して、次回はこれを改める。だが、無反省の者は、次も同じことをする。

5-4-3-1.過去の経験が生きるのは、それの反省をもってである  

 過去の経験について、その失敗の反省があれば、次回は、これを回避できる道を選ぶが、そういうことを意識し反省することがない場合は、同じ失敗を繰り返すことになろう。過去の経験を振り返る場合、その成功体験については、真剣な反省は難しい。おそらく、同じことを繰り返して、類似の営為への失敗の可能性を予期することもない。だが、過去の失敗の反省は、未来に多いに役にたつ。同じことは繰り返さないし、予期できなかったことへの対応の未熟さも反省させる。

5-4-3-2.体験しても、不注意では経験にはならない  

 同じ甘いものを種々食べる経験をしても、食べる順序についての注意・意識があれば、強い甘味のものを食べた後は、淡く微妙な甘みのものをおいしく食べるには、舌が鈍感になっていて無理があると意識する。だが、それがなく味わう場合は、あとの繊細な淡い甘味は薄味でおいしくなかったで終わる。同じ体験をする場合でも、種々の方向へと注意・反省の意識が触手を伸ばしておれば、それだけ豊かな体験となる。反省は豊かになり、後に役立て得るものも多い経験となって残る。

5-4-3-3.反省は、よいところではなく悪いところを見る 

 反省は、基本的には、失敗したところ、悪いところを振り返る。もちろん、よかった点も挙げうるが、それは、ついでにということで、原則的には、「反省すべき点」は、すべて悪かったところになる。成功したら、その経験を次回も続ければいいので、反省はいらない。だが、失敗すると、その失敗を繰り返さないようにするため、この経験を振り返って、失敗の原因を反省する必要が生じる。成功したときも反省会をする。それは、「よかった、よかった」と祝賀するのではなく、原則的に、その成功の過程での未熟・失敗の点を振り返るのである。次回はそれらの点をなくして、一層優れた結果が出せるようにと反省する。

5-4-3-4.ひとの経験も反省して、生かせる  

 反省は、基本的には、自省であろう。自分で、自分を振り返るのである。ひとのことを反省する他省は言われない。だが、自分がふくまれておれば、あるいは、自分のこととしてとらえれば、他人事とせず、自身のこととして、自省・反省のうちで見ることが可能である。心の内の内省でなく、外面的なことならば、ひとのことの方が事態を冷静に客観的に見ることができるから、そとから見ての反省は、鋭いものとなりうる。自分の欠点とちがい、他人の欠点は、よく分かる。自分の欠点については、ひとに見つけてもらうのが一番である。

5-4-3-5.苦痛体験の反省は、苦を小さくできる方法を見つけ出す  

 忍耐をよりよく持続させるには、苦痛について、これを小さくできることが肝要になる場合がある。どの程度の苦痛と感じるかは、当人でないと分からない。その苦痛の在り方・感じ方を体験しながら、これをより受け入れやすいようにと工夫しつつ、忍耐を続ける。それを反省しながら、次回は、この点は改めようとか、苦痛には慣れてくるから次回はもっとそのままでも楽になるとか、逆に、心身の疲労がたまっていくから、そう長くは耐えられないだろうと対策を新たに考えていく。

5-4-3-6.苦痛回避衝動の在り方を内省し、適切な抑止方法をと反省する  

 どんなに大きな苦痛であっても、苦痛回避の衝動を抑止できるなら、忍耐はつづく。自身のその回避衝動がどのような現れ方をするものかと注意し反省するならば、不注意にとどまっている場合とちがって、その対策はより効果的なものを工夫しうることである。過食への忍耐なら、自分の食欲を反省してみて、砂糖中毒の衝動が大きいと分かれば、三食よりも、間食が要と見て、そこに集中して、飲み物やお菓子類に注意し、その摂取と禁欲を工夫することになろう。

5-4-4.失敗が生かせるのは、反省があってのこと 

 目的実現がかなわず失敗したとき、これを反省してその失敗の原因を追究しているならば、次回は、その点を改めて成功へと導くことが可能となる。その反省がない場合、そこを改めることはないから同じ失敗を繰り返す。反省しての欠陥部分の解明は、同じことでの失敗を阻止するのみでなく、類似のものについてのそれを阻止できることになろうし、公開すればほかの人が失敗をしないで済むようにもできる。当然、ひとが反省で見つけた欠陥部分を見聞すれば、自身の失敗を回避することにも役立つ。

5-4-4-1.失敗を反省して成功の糧とする  

 試行錯誤をいう。成功するかどうか分からない未知のものについて、産むが易しとまずは試みて、失敗の部分を発見してこれを改め、成功への道を少しずつ先へと進めていく。未知のものについては、失敗するのはやむを得ないことで、要は、それを反省して、同じ失敗をしないで先に進めるように改めることである。大切なことは、失敗をそれと分かることであり、どこをどう間違えているのか、正解はどのあたりにあるのかを反省できることであろう。

5-4-4-2.反省では他者からの批判を含みたい  

 反省があれば、成功するわけではないが、同じ失敗は少なくできるだろうから、成功へと近づくことになる。これに対して反省がされない場合は、その失敗の部分は放置されるから、これを繰り返すことになる。ただし、自分では、真っ当なことをすすめてきたつもりなので、反省しても自分の欠陥の部分には気づきにくいものである。その点、そとにいるものには、冷静で客観的な眼を期待できる。自己批判(反省)は甘くなりがちなので、そとからの他者からの批判を大切にし、無理をしてでもこれを受け入れ検討するようにしたいものである。

5-4-4-3.忍耐の失敗は、犠牲を残すから、真剣に反省できる  

忍耐では、犠牲を払って目的を目指すから、失敗すると犠牲・損害のみを残す。失敗しても損傷・損害がないのなら、あまり気にすることはないであろうが、忍耐ではそうはいかないから、失敗をそのままに放置はし難い。しかも、その失敗は、苦痛回避の衝動に負けて苦痛から逃げるという忍耐放棄になるから、知恵が足りなかったというだけでなく、自身の軟弱な意志の問題としても猛省をさそわれることになる。

5-4-4-4.苦痛が耐えがたければ、耐えられる工夫へと反省は向く  

 苦痛・苦悩が大きくて耐えがたい場合、耐えやすいようにと種々、試みる。試行錯誤して反省を繰り返し、より軽い苦痛にして耐えやすいように忍耐のなかですることであろう。単に、過去の経験を振り返り反省するのみでなく、現に生じている苦痛の持続のなかで、苦痛を見つめ苦痛軽減をもって忍耐を維持する工夫をする。内省し反省することがあれば、忍耐もより巧みになっていく。辛かったと思い出すだけでは、反省にはならない。どう辛かったのか、どうしてそうなったのか等と解明することがあってはじめて反省となる。

5-4-4-5.反省することがない場合、失敗とすら気づかないことも生じる  

 昆虫を取ろうとして、これに失敗することがある。これを失敗として反省する者は、その取り方が拙劣であったと思い、その取り方をうまくする方法を考えていく。次回は、そっと近づこう等といった工夫になっていく。だが、反省しない者は、自分の方に原因があるとは思わない。自分が失敗したとは思わず、昆虫が敏感でうまく逃げたのだとのみ思う。次回もまた同じ失敗を繰り返すことになる。

5-4-5.ひとの忍耐を見て自分に役立てる 

 ひとは、他人のことを見て、自分のこととすることができる。他人の苦労しているのを見て、それを自分のこととして深刻に同情し、その失敗を見てこれを振り返り自分の経験のために役立てうる。「他山の石」とする。ひとの失敗は、それ自体は自分には無関係で、他の山の石であるが、自身の石を磨くための石として役立てることができる。忍耐放棄したのをみて、その原因を知って、そうならないようにと賢く立ち回ることが可能となる。

5-4-5-1.理性は、普遍的概念をもって、他人の忍耐の本質も反省できる 

 自身の内面のことは、感じることとして、概念化したり言語化することはかならずしも必要ではない。だが、他人のことは、これをとらえるとき、言語なり概念をもってすることが多くなる。特に、書き出したり、ひとに伝えるとなると、どうしても、言語化し普遍化して見ねばならなくなる。他人の忍耐について、その苦痛自体も、直接には感じうることではなく、義憤とか悲嘆とかの普遍化された概念をもってとらえる。そのことで、感性的でなく理性的な形で、苦痛や忍耐の本質をとらえることともなる。

5-4-5-2.理性は、ひとの苦難を、その人より冷静に客観的に洞察できる  

 苦痛・苦悩を生じるような事態は、そのひとに重大事が生じているということであり、これを正確に把握しこれに機敏に対応することが求められる。しかし、苦痛に襲われると、これに意識は奪われ、あるいは、動転もして、ほかのことは考える余裕がなくなる。その苦痛や忍耐の核心部分にせよ周辺事情にせよ、当人よりは、苦痛から距離をおいている周囲の者の方が、冷静に客観的に把握することができる。したがってまた、対処すべきことについて、間違いの少ない方針を立てることもできる。

5-4-5-3.ひとのことでは冷静に、より賢明になりうる   

自分がその苦痛の当事者である場合、これに打ちのめされると何も考えることができなくなる。だが、これをそとから見ている者は、冷静でありえて、それへのあるべき対応も見透しやすい。日頃から周囲のことをよく見て深慮できておれば、自身が類似の苦痛に対処すべきときには、そのことを想起して、起こっている事態をよりよく理解でき、これへの対応も、先立つひとの対応とその結末を参考にして役立てることができる。

5-4-5-4.苦痛への悪あがきを見て、他山の石とできる 

 強い苦痛があれば、これから逃れようと足掻き悶える。だが、悪あがきをしても、苦痛が小さくなるわけでも苦痛をよりよく耐えられるのでもないことを見、結果は、もがこうと静かに忍耐していようと同じであるのを見れば、尊厳をもった人間の選択すべき道として、悪あがきなどしない方をとらねばと覚悟もできる。悪あがきしている者を他山の石にして、そういう見苦しいことはしたくないと、静かに耐え続ける道を取らねばと、決意を新たにすることができよう。

5-4-5-5.耐えがたい忍耐でも、ひとのそれを見て、自分もできると思う 

 忍耐は、ひとの方がすぐれていることもしばしばである。苦痛を受け入れるだけの忍耐は、その気になれば、やる気になれば、だれもができることで、周囲には、自分よりも切実な思いをもっていて、自分に勝る忍耐力をもつ者は、おそらくいくらでもいる。そのひとを見て、同じ人間なのだから、自分にもできないわけがないと、心を奮い立たせることができよう。同じ苦痛をいだいている者を見れば同類がいると安心することもあるが、それ以上に、より厳しい苦痛に耐えているのを見て、同じ人間のこと、やる気になれば、自分にもできるはずだと自戒することとなる。

5-4-6.批判・指摘への真摯な反省 

自分の顔は、自分には見えない。右目の下に汚れがついていることは、周囲の者が見て、これを知らせてくれてその事実を知ることができる。ひとは、その行動について、理性のもとで目的を設定し手段を合理的に選択して、その予め描いた手段の過程をたどっているから間違いはないと自信をもつが、その手段や目的について勘違い・計算違いをしていることはしばしばである。それは、失敗して後でわかるとしても、事前にひとから指摘されれば、これを検討して自身の間違いを早い目に自覚することができる。

5-4-6-1.他者からの批判は自分に有益となる 

他者には、自分に見えていないところが、とくにその欠点・欠陥は目立ちがちで、よく見える。自身では、意識して欠陥を生じさせようとはしないから、欠陥が生じても、そのことで重大な事故にでもならないと、なかなか見えない。外から見ている者は、客観的にみるから、欠陥もあるがままに見て、これを指摘することができる。自身には気づきにくい欠点・欠陥であるから、指摘は、有益になることが多い。が、自分の欠陥を指摘されることは、自分の行為の否定であり、不快になりやすいから、耳を傾けるよりは、無視しがちとなる。

5-4-6-2.ひとの目の中のごみは、しっかりと見える 

 眼も耳もそとのものを捉えるために作られている。意識も根本は、外のものを知る対象意識である。それを自身に向けていくことを人はするが、自身を直接見聞きすることはむずかしい。そとの対象を捉えるようには捉え得ない。目の中のごみは、なんといっても人に見てもらうのが一番である。それは、社会生活での自身についても同様であろう。自画自賛は、真の評価とはなりにくく、ひとからの冷静な批判・評価をしっかりと受け止めることが必要となる。敵対的場面では、敵は自分を罵倒するために悪い点ばかりあげて、客観的評価とは程遠いことになるが、それでも味方・身内からは指摘しにくい汚点・欠点をあげていることで、自身を反省するための貴重な情報になる。

5-4-6-3. 自分へのひとの理性の目は、自分のより純粋である 

 自分の理性は、個我のうちにあるものとして、個我の利己的な欲望などに影響をうける。遺産を分けるとき、それまで見たこともないひとが自分は被相続人の私生児だといって現れたら、無関係の外部の者なら、かれにも同等にと判断することができるが、自分のエゴ・利害が絡むとそういう冷静な眼はもちにくくなる。ひとの理性は、自分の理性よりも、自分・個我にとらわれることがないから、純粋に理性的になりうる。

5-4-6-4.自分と周囲・全体の視点は異なる 

 個我としての自分のもつ視点は、全体からの客観的な眼とは異なる。自分は結構我慢強いと自負していても、周囲は、そうは見なしていないことがある。個我からの視点は、当人のみの主観的なものであるが、周囲の視点は、利害損得のからみがなければ、より客観的である。基本的には全体は個我の利害を超越して普遍性をもち、ひいき目なく冷静に見て、より合理性に富むが、個我のそれは、自分のみにひいきした独善的なものになりがちである。個我として生きているのだから、まずは己を尊重することになるとしても、よりよく生きるには、周囲の見方を理解し、これを不快でも受け入れねばならない。

5-4-6-5.自分のことは自分が一番よく知っていると勘違いしてはならない 

 忍耐は、苦痛が自身を覚醒させるから、その体験は、十分自覚をもち反省しつつのものとなる。自分のその苦渋の体験は自分が一番よく知っていることだと思いたくなる。だが、苦痛にとらわれて周囲は見えにくくなっており、井の中の蛙の状態になりがちである。しなくてもいい苦労をしている可能性もある。それらのことは、自身よりは、冷静で客観的な眼を持った周囲の者の方によく見えている。体験者は、その主観的な体験内容については、周囲の未体験者と違ってよく知っているとしても、その体験の周辺事情とか体験の核心部分は、周囲の者の方がよく見ていることが少なくない。

5-4-6-6.他者の批判・厳しい指摘は、貴重な贈り物である 

なににつけても、自己評価とか自身でのチェックは、他者からの指摘・批判に比して甘くなる。他者からは、自分には見えていなかったことが指摘されるのであり、ありがたい貴重な指摘となることが多い。その批判が自分の価値あるところを見ていないと分かると、「本当の自分を知りもしないくせに」と、つい反発したくなるが、おそらく、批判点は、その厳しい指摘は、正鵠を射ている。エゴを抑え批判を真摯に受け止めて、自身を三省し改めていく姿勢をもつ必要がある。 

5-4-7.過去向きの反省を、未来向きに生かす  

 反省は、すぐに役立つとは限らない。めったに起こらないことで失敗した場合、これを反省して、まずかった点を後悔するだけで、さしあたりは終わる。だが、類似のことがでてきたときには、この反省はよみがえり、かつて失敗し後悔した事態を繰り返さないことにと注意していくことであろう。ひとは、自然存在としては自然的因果を踏まえて生きるが、ひと固有の目的論的な生は、未来に目的を描いて、未来へとはばたき生きることにある。失敗の記憶を想起して、これから生じることでの、失敗点を修正した、成功となる想像図を描きつつ、反省は、創造へと生かされていく。

5-4-7-1.反省は、思慮をより広く深くしていく 

 失敗したところは、次回は改められる。さらに、思いもしない落とし穴がほかにも存在する可能性のあることで、他者の眼も借りつつ反省を広げれば、そこも失敗する前に修正することが可能になる。失敗した点を真剣に反省するなかでは、関係する周辺の不備も目に入ってきて変更を思いつくことになるから、それを機に、全体的な見直しもすすめることになりうる。反省は、自身の否定的な点を振り返ってみる意識の謙虚で真摯な構え方であり、多方面を意識して、自身の足らない点を振り返る切っ掛けにできる。

5-4-7-2.失敗反省の真摯さは、その償いにおいて見られる 

失敗は、次回、これを繰り返さないというだけでは済まないこともある。失敗への責任をとるべきときがある。反省する姿勢は、過去向きだが、それが真に反省になるには、それの償いをし、やり直しをする未来をもつ必要がある。その反省の真摯さ、本気度は、その償い、やり直しにおいて見て取られることになる。同じものが繰り返されない、唯一の事態であったとしても、代わりとなる償いの方法はいくらでもある。かつては、スポーツでは、敗けたら反省を丸坊主になることで示していた。

5-4-7-3.忍耐の失敗は、犠牲を踏まえた反省になる

 反省は、失敗したことを反省する。忍耐では、これを途中で放棄することが失敗の代表になる。その反省は、まず、払った犠牲に向く。苦痛・損傷を受け入れるというのが忍耐で、その苦痛の犠牲を手段にして目的を実現するのだから、忍耐に失敗したという反省は、その無駄になった骨折り損の犠牲を後悔することになる。当然、次回は、失敗しないようなことを考えつつ、できることなら、苦痛甘受という忍耐の過程自体をもたずに快適に目的実現に至る道をとりたいと、これを探すことにもなろう。

5-4-7-4.苦痛が小さく、犠牲が少なくて済むようにと工夫する 

 忍耐の反省は、苦痛甘受についてが中心になる。その苦痛の受け入れ方の失敗を振り返る。失敗を避けるには、なにがあっても忍耐の放棄を結果しないことであり、それには、まず苦痛を受け入れやすくすることである。苦痛を小さく受け止めやすいようにと工夫することへの反省となろう。さらに、苦痛回避の衝動に負けないで衝動を抑止し続けられるための工夫への反省ともなる。忍耐に成功したときも、失敗したときも、犠牲が伴う。この犠牲をもっての反省・後悔を踏まえて、それを未来へ向けてのエネルギーにしていく。

5-4-7-5.理性の懐疑精神は、成功体験にも貫徹される  

 理性は、失敗を反省するが、成功体験を無視するものではない。自身の営為のあらゆることを慮り、その真偽・善悪を解明する。真か偽かと懐疑し、真実を求める。したがって、忍耐についても、単に忍耐放棄の分析を試みるのみではなく、成功したときも、目的実現にいたる過程を虚飾なく振り返り、その良否を見極め、次のよりよい成功へと深慮し遠謀することである。もちろん、その忍耐の善悪にも気がかりをもち、社会的価値の観点から、これを反省して、より善である方向へと忍耐を振り向けてもいく。

 

5-5.忍耐放棄も、理性のもとでするべきである 

 辛い忍耐に耐えきれず、これを放棄することになる場合、性根尽き果ててのことだから、冷静に後始末をすることなく、どうにでもなれと放り出すことになりがちである。だが、普通、それで生が終わるわけではなく、つぎのあることである。忍耐放棄して、なお後が続くのであれば、損害などを小さく済ませ、続く生の営みによりましな終わり方をしておくことが求められる。忍耐放棄、忍耐の終わり方も、理性的に、あとのこと、周辺のことを考えて、深慮し遠謀をもってすることが必要である。

5-5-1.忍耐放棄は、冷静に余裕をもって 

忍耐の放棄は、突然ということは少ない。忍耐自体、持続性をもって成り立っているから、その持続の過程での変化を周知しつつの忍耐放棄である。放棄は、耐えに耐えて放棄しようかどうしようかと迷い、最後にそう決断するものであろう。その放棄する手前で、放棄したあとのことを考える時間的余裕がある。周囲への配慮をし損害を小さくとどめること、あとの再建がよりよくできるように終わらせること等を考えて、ここというところを謀って放棄するべきである。無暗に投げ出すのではなく、整然とした撤退をはかることが必要である。

5-5-1-1.はじめに、これ以上になったら放棄するという限度を明確に  

 忍耐では、無理をしたり、逆に苦痛を過敏に感じて早々に放棄したりする。あらかじめ、忍耐放棄してよいその限度を理性的に冷静に設定しておくと良いかも知れない。無理すれば苦痛甘受はどこまでもできて損傷を大きなものにすることがある。甘えて安易に放棄するような情けないこともあろう。あらかじめ限度を見極めてそこまではなにがあっても耐え、かつそれ以上になると損傷が甚大なものになるから、そこまで忍耐する必要はないといったことを明確にしておけば、忍耐するにも放棄するにも、迷わず、その適正さが保たれよう。

5-5-1-2.万事休すでも、自棄にならず無謀程度にとどめねば  

 理性的に考えての合理的な方策は、もはやないという状態に追い込まれても、そこですべてを投げ出す無策は避けたい。合理的な方策は無理だとしても、可能性として一か八かに賭けることのできる場合があろう。無謀なこととわかってもなお可能性があるのであれば、試みる価値はある。それによって確実に大損害が生じるのでなければ、大きな成果へのわずかの可能性に賭けてみてもよいであろう。合理性を超えた最後の策としての無謀の試みは、やけ(自棄)で見境なくなって自分を壊滅状態にするより何十倍も価値がある。

5-5-1-3.あきらめねばならないときもある   

 無謀でも、よい結果になる可能性があるのなら、試みる価値があろうが、まちがいなくその忍耐持続が無意味・有害ということなら、躊躇せずこれを中止しなくてはならない。ぐずぐずしている間も忍耐では苦痛・損傷は続くのであり、損害は刻々と大きくなっていく。ためらうことなく、忍耐は即刻断念することが必要である。忍耐のために「骨折り損のくたびれもうけ」という言葉が用意されている。どうしようかと、ぐずぐずすることなく、ただちに、あきらめなくてはならない。

5-5-1-4.放棄とその後についても深慮遠謀がいる   

 忍耐は、苦痛・犠牲を手段とした目的への超自然・反自然の過程になるから、深慮遠謀の狡知が多く働いている。狡知は、忍耐を放棄するときにも、その後のことをはかった方策を描くべきであろう。犠牲をできるだけ小さくし、可能ならこれをプラスに変じるという巧みさが求められ、未来に向かっての積極的な遠謀も描かれるべきことになる。忍耐の失敗・放棄に落胆して嘆いている暇があったら、その後のために、狡知をめぐらす方にと、気を回していく必要がある。

5-5-1-5.妥協・負けを知ることも大切  

 忍耐する場合、目的実現の手段として自身を犠牲にするが、犠牲を払っても目的実現の可能性はないと分かっている場合、当然、自発的な忍耐はしない。忍耐するとき、目的達成のならないことが、はじめから意識されるようなことは少ないが、現実に苦痛を甘受することになると、思うようには耐えられず、目的実現はおぼつかないことが分かってきたりする。全面的に失敗で骨折り損のみとなることも生じる。負けを知り、妥協など負け方を考えておくことも大切である。

5-5-1-6.プラス・マイナスを十分計算する必要がある  

忍耐する場合、苦痛・犠牲を受け入れるが、それは、そのマイナス以上のプラスの価値の獲得を前提にしてのことである。強制される忍耐の場合も、その忍耐をしないことで被る大きなマイナス価値を想定しての、しぶしぶの受け入れであろう。忍耐放棄の段になっても、価値計算はしなくてはならない。その放棄で生じるマイナスがその時点でのみ巨大になることが分かれば、無理してでも、放棄は先に延ばさねばと慮ることであろう。それをせず、むやみに放棄するのは、愚かしいことである。

5-5-2.有利な撤退・中断をはかること 

 忍耐は、これを完遂してはじめて価値ある目的が得られ、途中放棄は、苦痛・損傷の甘受で犠牲のみとなるのが普通である。それは、忍耐を最後まで貫く力となるが、放棄した方がましとなった場合でも、その踏ん切りがつけにくい原因ともなる。途中で耐えがたくなっても、中途放棄は損害のみとなれば、無理をしてもこれを続けねばと、頑張る。だが、冷静に深慮して見て、目的実現までは到底忍耐できないと分かったなら、忍耐を続けるほどに損害が大きくなっていくのだから、即時に撤退して損傷を小さくするのが賢明ということになる。

5-5-2-1.やめるべき忍耐がある       

 忍耐は、続けているかぎり、苦痛・損傷の害を大きくし続ける。意味のない忍耐は、すべきではない。あるいは、結果に比べて損傷が甚大となることが分かっているのなら、即、その忍耐から引き下がるべきである。忍耐は、すればいいというものではない。忍耐の苦痛甘受は、あくまでも犠牲的な手段であり、目的の実現がならないのであれば、犠牲のみとなる。無意味と分かった忍耐からは、迷うことなく手を引くべきである。

5-5-2-2.プラスに目を奪われてマイナスを見過ごしてはならない   

 忍耐して得られる価値が大きければ、これに魅了される。それは、いやな忍耐を推し進める力となることで、魅了されることは好ましいことである。だが、そのために、犠牲となる手段の過程において甚大な損害が生じるのだとしたら、この忍耐は再考する必要があろう。忍耐の過程が長期にわたる場合、その各時点で受ける損傷は小さくても、その全体のマイナスを総計してみると、得られる最終目的の価値に比して、より大きなマイナス・損傷になるということはよくある。

5-5-2-3.戦いでは、勝利とともに敗北の過程も描いておくべきであろう  

 戦う場合、勝つことを目的にして挑戦する。負けるために戦うことは、まず、ない。だが、その意気込みと裏腹に、当然ながら負ける者がいての勝利であるから、負けることがある。その負け方が稚拙であると、その害は甚大になり、再起不能というようなことになるかも知れない。負け方も、その害が小さくてすみ、再挑戦可能となるようなものにと工夫することが求められよう。退路を断っての戦いは、負けは死・全滅ということを覚悟してのことになるが、通常は、退路を確保しつつの、つまり負けの可能性も考えつつの挑戦になる。

5-5-2-4.負け方にも、部分的撤退等の工夫があろう    

 忍耐の放棄は、犠牲の中止だから、即時がよいとしても、その耐えていた内容によっては、徐々に引くのでないと、より大きな害が生じることもある。あるいは、忍耐しているものは単一の事態ではなく、種々の苦痛・苦悩への忍耐であった場合、すべてを一気に全面的に放棄することもあろうが、ものによっては、部分的に放棄してほかのことはそのまま忍耐持続ということもあろう。人生の苦悩では、全部を一度に放棄するのは、自暴自棄になった時ぐらいで、ふつうは一部分の忍耐のみを放棄して、捲土重来を期す。

5-5-2-5.忍耐は、堅固でありつつも、臨機応変、柔軟さがいる  

 辛い忍耐では、意志が軟弱では逃げ出すことになってしまう。そういう点では、意志の固いことは、忍耐には必須である。が、忍耐は苦痛・損傷の受け入れという自然に反した無理をしているのだから、無意味な忍耐と判断できたときには、迷うことなく即時に態度を変えて、忍耐の中断・放棄をするべきことともなる。軟弱はいけないが、柔軟でなくてはならない。臨機応変に対処できるのでないと、忍耐しているかぎり犠牲を払っているのであるから、犠牲を大きくする。

5-5-2-6.「三十六計逃げるに如かず」ということもある  

 忍耐は、これを続けている限り、刻々をその損傷・犠牲を大きくしていく。その忍耐での価値ある目的の実現が不可能だと分かったときは、ためらうことなく、これを放棄しなくてはならない。なにをおいても、逃げることである。損傷回避へと逃げるのが勝ちである。それまでに蓄積した忍耐の犠牲を思うと、その犠牲を無にする忍耐放棄には躊躇しがちである。だが、躊躇している間にもその犠牲は膨らんでいるのであり、一刻もはやく忍耐は中断して損害を小さくしておくことが求められる。

5-5-3.忍耐は、無意味に続けていたのでは身を亡ぼす  

 忍耐は、苦痛・損傷を甘受することである。その犠牲を手段にして価値ある目的を実現しようという媒介的な反自然の営為である。したがって、その目的となるものが実現できないときには、損傷・犠牲のみを残すことになる。肉を切らせて骨を切るのが忍耐であるから、骨を切ることができないで肉を切らせ続けるのでは、いずれ自身の身を亡ぼすこととなってしまう。その犠牲が実りをもたらすことがあってはじめて忍耐は意味をもつ。

5-5-3-1.慎重であっても、優柔不断であってはならない   

 忍耐は、犠牲を払っているのだから、それを始めるにしても中止するにしても、慎重でなくてはならない。だが、優柔不断は禁物である。ためらっていたのでは、損害を大きくしてしまう。忍耐では、目的のために手段として苦痛・損傷の受け入れをする。これを途中でやめることは、損傷・犠牲のみを残すということである。なんとかして目的実現して忍耐で生じる損害を価値あるものに変換させたいと無理をしたくもなる。が、それが不可能と判断できたのであれば、損害はやむを得ないこととして、ぐずぐずせず、きっぱりとあきらめることが必要となる。

5-5-3-2.忍耐では、なにもしないでも、刻々と損傷は拡大する 

忍耐は、目的のために犠牲的手段をもってするから、途中でやめることは、それまでの苦労の蓄積を無にすることとして、これに躊躇しがちとなる。だが、躊躇していたのでは、時間経過とともに、苦痛・損傷をさらに増やし続けることとなる。忍耐は、なにもしないでじっとしておれば持続するが、それは、なにもしないでも、犠牲・被害は刻々と拡大していくということである。目的実現不可能と分かったら、ためらいをやめ、被害を拡大しないために、一刻もはやく忍耐の放棄を実行することが求められる。

5-5-3-3.捨て身は、一時のみにとどめないと身を滅ぼす  

 苦痛を受け入れ続けるのが忍耐である。その犠牲的手段をもって価値ある目的を実現する。肉を切らせて骨を切る。だが、敵の骨を切ることができず、自身の肉が切られ続けるのだとすると、いずれ、身はもたなくなる。骨を切ることができないと分かったら、忍耐はやめねばならない。あまりにも肉を切られすぎたのでは、生は回復不能となり、死に至って、当然、骨を切るどころではなくなる。捨て身になって肉を切らせることは、一時の手段であって、度を過ぎると、元も子もなくなる。

5-5-3-4.有益な忍耐は、理性が可能にする   

忍耐が有益なものとなるかどうかは、苦痛受け止めにひたすらな忍耐自身のうちでは分からないことが多い。これをそとから深慮していく理性が、その犠牲・損傷の程度とそれで得られる目的の価値を差し引き計算して、マイナスが大きければ、忍耐は中断すべきだと判断する。逆に、犠牲を払えば大きな目的が実現できると判断すれば、理性は、この忍耐を無理やりにでも進めていく。理性がしっかりしておれば、苦痛から逃げない忍耐という超自然的営為は、人間にのみ可能な自由を実現し、ひとの尊厳を証するものとなる。

5-5-3-5.目的が失われたら、その忍耐は、即やめねばならない   

 忍耐は、苦痛を受け入れることだから、これ自体を目的にして求めることはない。マゾヒストは、苦痛を好んで受け入れるとしても、それは、その苦痛を介して性的快楽が得られるからそうするのであって、苦痛自体を求めるものではない。苦痛・損傷は、快なり価値ある目的のための手段として受け入れられるのみである。目的実現が不可能と分かったら、犠牲・損傷のみが残るのであるから、忍耐は即中止して、犠牲を最小限にとどめなくてはならない。

5-5-3-6.「いい勉強になった」との反省は、一回だけにしなくてはならない 

 一つの活動が愉快なものの場合は、それの失敗は、何回あっても快として肯定的に受け止められる。趣味の魚釣りとか囲碁・将棋など、毎回、予定からいうと大失敗ばかりであろうが、懲りることなく繰り返す。楽しい失敗であろう。一億円の宝くじなど、一生外れの失敗を楽しむのである。だが、忍耐の場合は、苦痛なのであり、失敗は、犠牲・苦痛のみを残す。二度と経験したくないことである。しっかりと反省して、二度目は、決して失敗しないようにと失敗の原因を精査し、二度目の工夫は、それを踏まえて成功できるようにするのが普通であろう。

5-5-4.投げ出すのではなく、捲土重来、再挑戦可能なものに   

 苦難の忍耐に敗北するとき、「もう、どうなろうと知ったことではない」と、すべてを投げ出したくなる。だが、それでは骨折り損を残すのみで、未来のとびらを自らが閉じてしまうことにもなりかねない。先があるものならば、その先のことをふまえて、忍耐放棄をするにしても理性を失うことなく、深慮遠謀をもって冷静に対処するのでなくてはならない。うまく引きさがれば、敗北の被害を小さく抑えて、捲土重来を期することができるようにもなる。

5-5-4-1.再挑戦できるように引き下がるべきである 

 同じ敗退であっても、そのあとがない無残なものになるのでは情けないことである。被害を最小限にするような引き下がり方をする工夫がいる。さらには、態勢を整えなおして、次のチャンスを窺い再挑戦のための準備のできることが望ましい。そのためには常に冷静さを保ち、理性の眼を見開いていることが必要であろう。敗北の経験は、未来のための糧にできる。失敗の経験を生かせば、理性意志には、よりよい再挑戦が可能となる。

5-5-4-2.苦痛・犠牲を少なくした退却に     

忍耐できず撤退するということは、苦痛・損傷のマイナスに耐え得なくなったということであり、そのマイナスをそれ以上拡大しないようにと注意しなくてはならないであろう。戦争でも退却するときは、被害を最小限にとどめられるよう工夫をこらす。猛獣に遭遇した時には無闇に走って逃げてはならないという。攻撃本能を引き出すからである。そうならないように冷静さを装いつつ、四囲に気を配り的確な判断をもって躊躇せず引き下がらねばならない。

5-5-4-3.放棄・敗北でも、プラスになるものを残したい 

 敗北で、なすすべもなく、すべてを失うこともあるが、慎重な対処でそうなるのを防ぐことが可能になる場合もある。敗北ですべてが終わるのでなければ、以後のことを思って、プラスの価値を残し維持することが求められる。忍耐の苦痛甘受は、途中で放棄するとしても、あとにそれの作り出していた価値あるものを残しうる。おそらくは、その注意をしておれば、戦いなどでは、パニックになって逃走するのとちがい、どこかに敵の眼を逃れて捲土重来を期すことのできる端緒ぐらいは、残すことができる。

5-5-4-4.自棄(やけ)になっても、その遺棄する範囲は限定できる  

 忍耐放棄では、もうどうにでもなれと自暴自棄になることがあるが、これもできるだけ節度をもったものでありたい。やけになるとその鬱憤晴らしは、見境ないものになりがちであるが、少し冷静さを取りもどして理性を働かせ、将来を閉ざすような愚かなことだけは抑止したいものである。逆上して味方や自分に当たり散らすことにもなるが、甘えるのはほどほどにして、暴発の矛先は、敵に向ける勇気はないにしても、無害なものにとどめたい。自棄になって見境なくなって家の中で大暴れしていても、警察が来たら、即好青年の振る舞いに戻れるぐらいの理性は、残しているのが普通である。

5-5-4-5.再起不能になるような破壊・自棄はさけねばならない 

 困難に直面すると、一刻もはやくこれから逃れたいと、すべてを投げ捨てて終わりにしようとすることがある。積み上げて来たものを無にしてしまうのみか、マイナスの状態を引き起こして終わる。自身の人生を損なうような自暴自棄になる場合もある。自棄(焼け)になって、自暴を長引かせ自身を焼きつくし灰燼に帰すような状態になると、それまでに積み上げてきた人生は再起不可能となる。もっとも、絶望し自棄(焼け)ですべてを棄てたとしても、命があり理性があれば、無から新規のすがすがしい自分を再構築する道を見つけることはできる。 

5-5-5.何事も最後まで諦めてはならない  

 忍耐しても実りはありえないと明確になっているものは、躊躇せず、あきらめねばならない。だが、そうではないのなら、簡単にあきらめてはならないであろう。忍耐は苦痛で、一刻もはやくやめたいと、やめる理由を見つけたくなるのが自然である。その動物的自然からいえば、可能性がゼロでないのなら、意志は、何事も最後まであきらめてはならない。競争・闘争では、競い合うが、負けるのは、忍耐できなくなり、あきらめた方である。我慢大会では、みんな辛くなり、その辛さに負けていずれ皆敗退する。あきらめるのを遅らせることのできた最後の敗者が勝者になる。

5-5-5-1.最悪の事態にも、探せば、どこかにチャンスが見出せる 

 戦闘とか事故・災害で大勢が死ぬなかで、生き残る者がいる。運がよかったと偶然のことにするが、生存者のなかには、たまたまの偶然ではなく、合理的に振舞い、最後までチャンスを逃さない姿勢をもっていた者が入っている。戦闘で死ぬのは、どうにでもなれとあきらめた者からで、わずかの隙・チャンスも逃さない者が生き延びたという。山での事故なども、「みんなとちがい、自分は常々、落石・出水などの事故を想定して、事故に合わないで済むところにそのときも野営した」と述懐する生存者もいる。疲労困憊してもうどうにでもなれとあきらめるのでなく、最後までチャンスを逃さないよう理性意志を堅持していた者が生き延びる。

5-5-5-2.理性意志は、最後まで維持しておかねばならない 

 理性は、自然を超越した高みから自然にかかわっていく。自然の因果法則などを巧みに利用して、理性は、ひとの生の卓越さを保つ。その理性を放棄したら、当然、自然に舞い戻る。忍耐し自然を乗り越えて苦痛甘受するのも、理性が、その犠牲に勝る目的を実現する目途を立てえているからである。それを途中で放棄して苦痛から逃げた場合は、まるまる自然に帰ってしまう。反自然的に苦痛・損傷を受け入れていた忍耐では、自身の自然に敗ければ、価値ある目的は消滅し、せっかく受け入れていた手段の損傷は無駄になり、苦痛・犠牲だけを残すことになる。

5-5-5-3.理性意志は、忍耐放棄、敗北の後も堅持する必要がある 

 忍耐放棄した場合、それで苦痛はお終いにできるとしても、そこで被った苦痛・損傷は、そのままでは、これをひきずるだけで、骨折り損に終わる。あるいは、その損傷を自然に放置しておいたままの場合、被害は拡大していくこともあろう。忍耐放棄しても、理性放棄はせず、その損傷を小さくし、回復のために英知を傾け、これを、できれば自身の生に有効なものとできるよう工夫していくことが求められる。理性は、敗北したからといっても目をつむっていてはいけない。

5-5-5-4.絶望しても、なお、あきらめてはいけない  

 希望・望みは絶たれたとしても、絶望して自棄になっても、なお、その生を遺棄しないで、あきらめないでおれば、「自棄(やけ)分別」をいうように、まったく別のものが見えてくることがある。希望は絶えたとしても、暗黒のなかにじっと耐えておれば、やがて別の希望の見えてくることがある。あらゆる希望が絶たれた人生の絶望状態であっても、その絶望・自棄で、人生を遺棄してしまうことを抑止し耐えておれば、流転してやまないこの世のこと、しがらみを棄てて無になった自由のもとには光(希望)をとらえるチャンスが巡ってくる。

5-5-5-5.理性意志は、自分の棺桶の蓋も自分で閉める

 ひとがひとであるのは、理性をもつことにおいてである。その営為の肝心なところでは、理性がリードする。ひとの尊厳は、理性が担う。自然を超越してこれを支配するのは、理性をもってである。ひとが自身に尊厳をもつのも、自己(の自然)を支配できるその卓越さにある。生の肝要なところでは、常に理性が支配的とならねばならない。理性が消滅するその死に際しても、理性的であるべきで、尊厳死が望まれていることである。尊厳は、厳かな(自己)支配を核とする。己の棺桶の蓋を閉めるのも、自身の理性の手によることが望まれる。

5-5-6.忍耐は、無為に留まり、じっと待つ  

 忍耐は、理性意志が自身の自然としての苦痛回避衝動を動かないようにするだけである。つまり何もしないことを堅持するだけである。苦痛からは、逃げるのが自然であるが、これを不動にとどめ、無為に留まる。あとは、時間の流れにゆだねて、ひたすらに目的実現の時を待つ。苦痛に対して、何か積極的なことをするのなら、理性は、対処に種々頭を悩まし工夫をすることであろうが、忍耐する理性意志は、苦痛をたんたんと受け入れるだけである。忍耐の理性意志は、苦痛から逃げないで、じっと待ち続ける。徹底して無にととどまり続ける。

5-5-6-1.忍耐は、無手勝流に徹する  

 ひとも動物として、苦痛を受けると自然的には逃走・排撃衝動に捉えられる。が、ひとの忍耐は、この苦痛を、排撃などせず、理性のもと逃走衝動を動かないようにして、あらがうことを抑止してこれを受け入れる。強烈な苦痛への自然的な回避衝動は大きくても、逃げないという意志を堅固にもって、逃げようという意思を抑止できておれば、自然的な身は無力で滅びようとも、逃げないでじっとしておくことができる。忍耐は、苦痛に無抵抗に徹してこれをひたすらに甘受する、無為にとどまった反自然・超自然の営為である。

5-5-6-2.なにもしないで、苦痛の過ぎ去るのをじっと待つ 

 忍耐は、苦痛を受け入れ続けて、その結果としてなる目的を目指す。苦痛は、種々にひとを悩まし続けるけれども、忍耐は、これを受け入れるだけだから、忍耐自体としては、逃走・排撃等の能動的営為を一切せず、苦痛に対して何もしないで、それが時間とともに過ぎ去って、なくなっていくのを待つだけである。苦痛を受け入れ続けて待つ間に、苦痛を与えるものが、忍耐する者の目的を実現してくれる。

5-5-6-3.待つ時間は、速くも遅くもならない  

 自身の感じる時間は、快適な時間なら、長く楽しみたいのに、すぐ終わってしまったと速度を速く感じるし、不快なことだと、はやく過ぎ去ってほしいから、逆に時間を遅々として進まないと、長く感じる。忍耐する者は、苦痛はいやなものだから時間はゆっくりとしか進まないように感じる。遅々として進まない苦痛とその忍耐に焦ってくれば、耐えがたさは一層増してくる。時間展開を対象のそれに合わせてイラつきを小さくするか、忍耐する過程を工夫して短くするように操作することが必要となる。待つ時間そのものは、太陽のもとにあって、どうあがこうとも、速くも遅くもならない。

5-5-6-4.対象と時間に任せて、自身は無・無為に徹する 

 忍耐して待つ者は、自身にできることはなにもなく、無為を堅持するのみである。ことの展開を主導するものは、対象にあり、時間にあるので、これに任せて待つということになる。苦痛を軽減することがあるとしても、それは、忍耐自体のすることではない。忍耐は、苦痛を甘受する、受け入れることに限定されるからである。苦痛を減らすとは、その分は忍耐しないということである。忍耐する限りは、苦痛を受け入れるのみで、苦痛回避衝動を動かないようにして、徹底して無為にとどまる。

5-5-6-5.待てば海路の日和あり 

 忍耐がじっと無為にして待っているのは、そのことでなるものを確信しているからである。苦痛を受け入れ続けて、じっとしていることで、目的が実現されるのである。苦痛について、これから逃げることも攻撃することもせずに、これをひたすらに受け入れ続けて、なにもせずに待つことで、忍耐は、成果を自分のものにしていく。待てば海路の日和ありである。これが待てないと、忍耐の成果はおぼつかなくなる。暴風雨の鎮まるのを待てずに焦って出帆した船は、海の藻屑となる。

5-5-6-6.未来を楽しみに待ち、苦難の過ぎ去るのを静かに待つ   

 待つのは、時間の経過の中で、願い求めるものの成るのを傍観し続けることである。目的のなることを、その未来を、それが将来されることを楽しみにして待つ。あるいは、逆に過去の方向においては、その過去から遠ざかるのであり、悪・苦難が続いているのも、やがては、これを過去のことにと、それが過ぎ去るのを静かに待つ。忍耐し続けて、うちに生じる苦痛回避の自然衝動を抑えて動かないようにし、何もないかのように無為に留まり続けて、その無に徹底することで、ことを成就する。

5-6.忍耐それ自体には、道徳性はない 

 腕力や知能と同じく、忍耐は、善悪の手前にあって、手や足の動きが善にも悪にも使われるように、道徳的には、なお、無色である。自分が欲するものを獲得するために苦痛・犠牲を払ってするのが忍耐であり、その欲するものが悪であれば、悪にと色づき、その犠牲が善を求めてのものであれば、善にと色づけられる。苦痛・犠牲の手段をもって目的を実現しようという点では、自然を超越した優れた営為ではあるが、善悪に関わらずこれを目的とし手段にできることで、忍耐自体においては、善悪の判断はされない。忍耐のそとで、忍耐する前に、その忍耐が善に役立つのか悪になるのかと判断されねばならない。

5-6-1.正義とちがい、忍耐する泥棒は、大泥棒になる 

 正義は悪人が行なっても正義、善になる。正義は不正・悪を否定するから、悪人も正義のひととなる。だが、忍耐は、悪人がその悪いことを辛抱して実現する手助けをする。その辛抱・忍耐は、悪を支える悪しきものとなる。悪人の悪は、社会から抵抗を受けるから苦難を生じ、これを忍耐して乗り越えていかねばならなくなる。忍耐力のない悪人は、その抵抗を受けて悪の実行をあきらめるが、忍耐力のある悪人は、その悪を実現することになる。忍耐力のない泥棒は、銀行の金庫を破るのは、並大抵の苦労ではすまないから、その悪事を諦める。だが、辛抱強い泥棒は、地下に穴を掘って銀行の金庫を破る。忍耐力のある泥棒は、大泥棒になる。

5-6-1-1.忍耐は苦痛に耐えるだけである

 苦痛を甘受するのが忍耐で、そこには、善悪への配慮は存在しない。厳寒の吹雪の中を辛いのを我慢して歩くとして、泥棒するためにしているのなら、悪に加担した忍耐となり、病人を助けるためにそうしているのだとすると、善行為を支える忍耐ということになる。その悪を実行することを断念するには、その寒中歩行の忍耐をやめることである。その善を実現するには、その苦労を引き受けて忍耐することである。忍耐自体は、善でも悪でもないが、善悪に加担するもの、それを実現するために力となる営為である。

5-6-1-2.人間関係では、悪は、善以上に苦に耐えているかも知れない 

 悪は、これを被る者には歓迎されないどころか、しばしば、抵抗されることになる。したがって、悪の実行者は、その抵抗・反撃に躊躇していたのでは、悪行を実現できなくなる。反撃に抗して苦難となることに挑戦して、その苦痛を忍耐する必要が生じる。善の場合は、逆に、その相手から歓迎され協力を得ることが多くなるから、その点での苦労は少なく、苦への忍耐は、その対人的なところではしなくてもいいことになる。勿論、悪人は、他人の価値物を奪うのだから、その価値創造の辛苦に耐えることを回避して、不当に楽をしようという悪質な怠け者であり、破廉恥漢である。

5-6-1-3.勇気は、忍耐同様、悪にも有用だが、徳目にあがる 

 勇気は、通常ならその危険から逃げるものを逃げないで大胆な振る舞いをする。それが悪に関したものであったら、巨悪を実行してしまうから、その勇気は、悪であって褒められるようなものではない。だが、凡人なら、尻尾を巻いて逃げるようなことへの、まれに見る超人的な心構えをもって大胆不敵な振舞いをするという点では、悪人ながらあっぱれと称賛したくなるからであろう、勇気は、卓越した精神の心構えとして、徳目にあがる。だが、忍耐は、日々に万人のしている当たり前のことで称賛するほどのものではない。したがって、徳にあげることはない。ただし、勇気と同じく、常人には到底耐えられないことを耐える者は(拷問に耐え抜く大悪人など)、悪のそれであっても、感心することにはなろう。

5-6-1-4.悪の忍耐は、頑固とか、しつこいとか否定的な表現をもつ 

 その行為が苦難を避けて通れないものなら、ひとは意を決して忍耐することになるが、忍耐は、自然的には回避する苦痛を敢えて甘受することとしては、超自然の人間的な尊厳をもった営為である。したがって、通常、忍耐は、辛抱とか我慢とか肯定的に語られる。だが、悪の場面の忍耐については、別の軽蔑的な忍耐表現がされる。我慢強い者は、頑固、かたくな、しぶといと侮蔑的表現をうけ、辛抱強い者も、くどい、しつこい、執念深いと表現されて嫌悪されることになる。                                 

5-6-1-5.忍耐は悪の正当化のへ理屈を与えることもある 

 悪の忍耐だとしても、忍耐するということでは、苦痛を受け入れ、犠牲を払っている。したがって、その犠牲に見合う価値あるものが得られてしかるべきだと、当人は思うことになる。忍耐は、報われるべきだと。悪事であるという大枠を忘れておれば、そういうことになり、共同しての悪事であれば、忍耐を多くした者が多くの分け前をもらうというのが普通であろう。だが、被害者からいうと、忍耐しないで悪事を諦めた悪人の方が評価に値する。

5-6-1-6.悪事でも忍耐の放棄自体は、情けないことと皆思う

 悪事であっても辛くなったのでやめたと聞くと、人間として軟弱と軽蔑したくなろう。腕力や知力と同じく、人としての能力のひとつが忍耐力であり、それの優劣の評価である。盗掘で苦労して宝物を手にしようという場合、少し掘ってみて辛いのでやめた者と、最後まで耐え辛抱してこれを探し出した者では、同じ悪事ではあっても、後者には感心することになり、前者は、意志が弱いと見下されることになろう。忍耐力という意志の貫徹力のほどが問われるのであり、行為の善悪は別にして、その人の尊厳をもった能力としての忍耐力に劣れば、意志の薄弱な情けない奴ということになる。

 

5-6-1-7.善意の行為が害悪をもたらすことは忍耐でも希ではない

 良かれと思って善意で苦労を引き受けたことが、意に反して結果的に悪しきものをもたらすことがある。苦労し辛抱した者は、せっかく犠牲を払ったのにとがっかりする。関係者は、善意のことであれば、その苦労には感謝したいし、その悪しき結果には、文句をいいたいことになる。我慢・辛抱をもってしたことは、自身には、間違いなく犠牲であるが、その犠牲は、有益なものをもたらすとは限らない。よくよく、ことの展開、その結果について洞察できていなくてはならない。

5-6-2.道徳性を忍耐のそとで養うことが必要である     

 忍耐自体は善悪を判断するものではないから、理性は、忍耐とその結果の外から、その価値判断をしなくてはならない。その忍耐が犠牲を多くはらうのだとしても悪しきものをもたらす悪業だとすると、その忍耐は、悪を支える営為になるものとして、悪に染まっているのである。忍耐をもってのその営為をやめれば、悪は中断されて成立しない。忍耐は、自身の営為のもつ意味・意義を、その善悪への関りを見極めていなくてはならない。忍耐を超えた人知のもとで、正邪・善悪を洞察して、悪を回避するようにと努めねばならない。

5-6-2-1.苦痛もその甘受も善悪の手前にある 

 自然的には回避する苦痛をあえて甘受する我慢・忍耐は、自然を超越した人間的に卓越した営為である。が、この苦痛甘受の忍耐自体は、善悪を考慮するものではなく、善悪の手前にあるから、両方から利用可能な能力ということになる。ひとの能力を高める忍耐力であるが、それは、知力や腕力と同様に、その優れた実践的能力をもって、善のみか悪をも企てていくのである。善悪に関わる手前にあって善にも悪にも向かいうる忍耐であることを自覚しておかねばならない。

5-6-2-2.理性も良心も万人に与えられている 

万人に理性とともに理性の法廷としての良心があたえられている。悪人であっても普遍的な概念をもっての理性的思考ができる。悪人は良心を失ったようなことをするが、それを良くないことだと心得ており、自身の良心は、客観的で普遍的な立場に立って、決してその個我に与しない。たとえ極悪人であっても当人のうちの良心は、その悪を許さず厳格に自身に対処し、冷酷に罰する。勿論、そういう酷な罰を自身に課したくないから、事実を曲解して自身の犯罪的行為を正当化し、自身の良心の法廷を開くことを防ぎ、これを眠らせるようにしている。

5-6-2-3.理性は悪を悪として把握している 

 理性は、全体、客観、合理、普遍を踏まえて、善悪、真偽等の価値を判定することができる。個我の立場にたつ自然感性とちがい、個我を超越して、この個我自身を抑制し、あるいは犠牲にできる理性は、合理・全体をふまえて、社会における規則・法となる善に則って動く。その法に反する個我の利益を優先することは、その感性・欲求が求めるとしても、理性は、これを悪として把握し、悪を被ること自体は拒否する自身のおぞましい個我を嫌悪・羞恥しつつ、これを拒否する。

5-6-2-4.悪人も良心、良識を持っている 

 理性をもつことは、悪人であっても同一で、それを個我のレベルにおいて貫徹しないから悪になるのである。つまり、悪いことと思いつつ、エゴ・個我の自然感性を優先しているだけである。自分が悪を被るときは、理性の合理性を盾にして人一倍他者の悪を批判するはずである。あるいは、盗賊中の大悪人の首領は、そとに向けては、自分らのエゴを先立てて、良心のかけらもないような残虐非道を行うが、うちには秩序が必要だから、理性的に振舞い、良心・良識を働かせてその組織を維持できるようにする。うちでも非道であった場合、その組織は自壊する。

5-6-2-5.人間としての尊厳の自覚  

 イノシシやマムシと共同的な利益のために話し合いをすることはできないが、ひとであれば、どんなエゴイストであっても、理性的に振舞うことができ、そのエゴを前面に出すことを抑制して、話し合うことが可能である。理性能力において、ひととしての尊厳を自覚できる。だが、理性の尊厳を忘れて、良心・良識を脇に置いて、エゴの衝動等を優先して身勝手なこともする。とくに、忍耐のように自然的な苦痛を超自然反自然的に甘受することになると、自己内の自然の反発が必至だから葛藤を生じ、理性には、その意志の貫徹への覚悟がいる。

5-6-2-6.自制、自己支配の自由は、万人がもつ 

 ひとは、自然に支配されているが、同時に、自己内外の自然を支配し自由にできる。理性は、自然法則を踏まえつつ、巧みに自己の制御をおこなうし、狡知をもって周囲の自然を自身の目的のために自由にする。引力にはひとも従うが、同時に、これに逆らって、自然の力を巧みに使って空に舞い上がり反自然の自由を実現する。自己内の自然感性にも同じく、これに従いつつこれを超越して超感性的に理性意志は振舞う。苦痛への回避衝動という自然を抑止し自制して、苦痛を受け入れて忍耐することができる。

5-6-3.克己とか自制は、私徳にとどまる  

 忍耐のうちで働く自制とか克己は、自身の衝動等の動物的自然を抑止する。自然感性を抑止するのは、自身の理性的な意志であり、それは、動物ではなく人であることを証するものであり、ひとの尊厳の端的を示すことである。あるべき自身の振る舞いであるが、これは、個我にとってということであり、その限りでは、個を超越した社会全体を慮ったものではないから、正義のような公徳とちがって、自制は、悪しき振舞いになることもある。自身にとっての有益なものを可能とする卓越した構えとして、克己・自制、したがってまた忍耐は、私徳に留まる。

5-6-3-1.自制は、悪事のためのものでもありうる 

 盗みに入りやすくスリムな体になるために節制し過食を自制することがありうる。悪行のためにそう自制するのであれば、この自制は、悪を助ける手段・支えとなって、悪しきものになろう。ただし、その直接の目的自体は、悪を求めるのではなく、身体の健康を保つことであり、善悪以前ということであろう。性能のよい文明の利器にあたるものが、自制ということになる。悪人が使えば恐ろしい凶器となり、善人が使えばすぐれた利器ということになる。

5-6-3-2.克己は、自身が良くないと思っている己の克服 

 自制は、己の悪しき自然感性を事のあるたびに少々制限することであろうが、克己は、その悪しき自分の自然を乗り越え克服する。その悪しき衝動とか情けない習慣あたりを根本的に改変して超克するものであろう。それが個我のエゴの克服であれば、社会的善となるが、単に軟弱さを克服するだけなら、ときには、巨悪を実現するために役立てようとすることもあろうから、克己自体は、ひとの、動物にはない秀でた営為ではあるが、社会的善、公徳となるものではない。

5-6-3-3.克己とか自制は、勇気と同じく徳の部類には入るだろう 

 徳は、自然的には不快で気の進まない、しかし、あるべきこと、なすべきことを、あえて受け入れて、つまり忍耐をもってする心構え・振る舞いであろうが、克己とか自制は、それに当てはまる有徳の営為である。ただし、個我があるべきとする当為にとどまり、かならずしも社会的にあるべき善にと向けられたものではない。勇気と同じく悪人がこの徳をもてば、社会には、より大きな悪をもたらすことになる。その限りでは、個我にとっての徳、私徳にとどまる。

5-6-3-4.勇気とちがい、多くの忍耐は凡庸である

 勇気は、悪人がもっても、常人には真似しがたい危険への大胆な構えである点でこれを卓越したものとして称賛する。自制・克己は、そこまで卓越したものではないが、勇気に準じた優れたひとの振る舞いとなろう。そのいずれにも、苦痛から逃げないという忍耐が含まれている。この忍耐自体はというと、些細な苦痛を甘受することも含む。トイレを我慢するのも、不快な通勤を辛抱するのも、忍耐である。日々の忍耐は、多くが些事で、誰でもが実行していることである。勇気には挑戦できない軟弱な者でも、忍耐はする。そういう忍耐は、凡庸なものであり、勇気のような卓越した振る舞いと見なすことはできない。

5-6-3-5.克己・自制は厳しく、勇気のように卓越したもの

 自制は、自己の我欲の抑制・支配であり、克己は、軟弱・狭量な己を克服しようというもので、いずれも自然感性を超越する厳しく厳かな営為になる。危険から逃げず恐怖に耐えて挑戦する勇気と同様、卓越した営為である。もちろん、悪人が実行した場合、しばしばその悪行を大きくする。それでも、自制も克己もそれ自体が悪というのではない。悪の手段として利用されて、利器が凶器になるのである。克己・自制は、危険に挑戦する勇気ほどの稀有の卓越性はもたないとしても、優れた自律自由の営為である。

5-6-3-6.公徳の正義が勇気や克己より優れているわけでなない 

 自制や勇気は悪人がもつと悪を助けるが、正義は、悪人が行っても善となる。だからといって、正義の方がより優れているというわけではない。正義(法)は、社会的に最低限の守るべき規範をあげるだけである。殺人とか窃盗とかの犯罪(不正義・無法)を行ってはならないというだけである。一般人は、言われるまでもなく、これを犯すことがなく、守る意識をもつ必要すらない最底辺の道徳にすぎない。それに比していえば、克己とか勇気は、苦痛から逃げず、超自然的に構えて人間的尊厳をもった営為を求めるものとして、悪人がもっても、これをほめるぐらいの難関で高級な道徳ということになろう。

5-6-4.超自然の理性は、個我によるその悪用で価値をさげる

 理性は、個我のうちにあって、合理的客観的な判断をもっておのれの生を律しており、それは、自己の不正を罰する良心や、あるべき規範をしっかりと踏まえた良識といった形で機能している。だが、他方には、ひとの個我のもとには、動物的自然に支えられた強力な感性がある。理性のリードのもと感性はこれに協調して、ひとの生は穏やかに営まれているが、ときに、個我とその感性の暴走するときがある。理性をないがしろにし、より価値あることを選ぶこととしての善を顧みることなく悪に走ることが生じる。ひとの超自然の理性的尊厳が損なわれる。

5-6-4-1.悪用は、個我のエゴ優先で生じる

理性を持つ万人が良心を内在させているが、エゴ優先のもと、良心をベールで覆ってしまい、働かないようにすることがある。日頃は、個我に生きることでうまくいっているし、理性もその個我の欲求実現のために使われて高度の生活が可能となっている。だが、ときにその個我の欲求が身勝手で自他をごまかし大きな害悪をもたらすことがある。そこでは、理性などの文明の利器は、凶器として悪用されることとなる。良心をベールで覆い隠すことは、個人がするだけではない。当の社会の支配集団が、支配を合理化しようと、自分たちに神が支配を命じているのだと宗教的に糊塗して真実を覆うこともある。

5-6-4-2.エゴを自制して理性を通す 

 エゴの優先のもとでの悪事は、他のものから拒否されたり、国家など普遍的全体の立場から犯罪として阻止される。支配者のエゴは、他の国家から否定されることになるか、被支配のものの理性の声と力をもって拒否されることとなる。通常、理性のひとは、その個我のエゴが悪を実行する手前で、理性をもってこれを抑止していく。ひとは、理性的に普遍性客観性をもって全体の立場を理解して、自身のエゴの主張に理がないと分かれば、これを抑止し忍耐する。自制・克己という善・私徳をもって、尊厳をもったおのれを自覚した振舞いをすることができる。

5-6-4-3.悪は、感性的自然優先で生じる

 ひとも動物として、自然感性に従って、生を展開している。しかし、自然を超えて豊かな食が可能となっているから、おのれの感性にまかせたままでは、過栄養となり肥満して不健康となる。悪しき食生活がほしいままの欲求充足では生じる。生殖も、集団生活をスムースにできるよう、倫理的に制限をもうけ自制している。これを無視して、自己の自然的欲望をほしいままにすると家族は成りたちがたくなり、社会は混乱し種の繁栄は不可能となる。不倫などの悪には、人類は、厳罰をもって対処してきた。

5-6-4-4.自然感性を抑制し忍耐することで善となる

 理性・知恵があることで、ひとは、地上の覇者となって、豊かな生をもつことができるようになった。動物的自然感性も、大いにその欲求を充足できるようになった。だが、その充足の行き過ぎは、有害となり、歯止めが必要で、理性は、その歯止めのために働くことともなった。自然感性の抑止は、苦痛となるが、この苦痛を甘受して忍耐することで、自制した理性的な生が可能となる。過食にいたらない場では、感性的な快楽に身を任せておけばよい。だが、過食の局面になると、食欲を自身の理性が抑止し自制することが、善の営為として求められることとなる。

5-6-4-5.良心は、自己矯正的理性

 良心は、自身のうちのエゴや感性の逸脱を防いで理性的に適正となることを求める。間接的に適正、善を導くが、直接的には、自身のうちの悪を告発し罰する機能である。良心は、各個我のうちにあるけれども、決してその個我に味方しない。公平無私で、自身の悪を指摘し告発し厳罰を自身に与えて、これの執行までを自己内で行う。普遍的合理的客観的な視点にたつ自己内の理性的機能としてあるが、あくまでも、悪を取り締まることに専念する。良心は、万人に備わっているが、これにヴェールをかけて情報をねじ曲げたり遮断して良心が働かないようにして悪を平然と行うこともある。のちにこのヴェールがはがれて、行った犯罪・悪が反省されて良心の呵責に苛まれるようなことになったりもする。

5-6-4-6.良識にしたがう

良心は、自己の悪行を自身で罰するが、良識は、自身を積極的に善行へと導く自己内の卓越した理性的機能である。良心は、自己内の犯罪意識を懲らしめるが、良識は、優れた規範的模範的営為にと自身を向けていく。個我のうちにあって、広量で偏りのない常識、良習・良俗を身につけていて、それの実行を推し進める機能として働いている。良識は、広く深く慮って自身において養っていくことが求められる。狭量になった理性は、ときに、悪に与して暴走することがあるが、良識は、そこでは、経験的に蓄積された、広量で間違いのない常識を勧めてその悪を制止する良心的働きもする。

5-6-4-7.良心は、鈍らないように、良識は、養い続けるように 

 良心は、理性のある者皆に備わっているもので、自身の悪を厳罰にして正す機能である。最低限の道徳である正義と同じく、ひとらしい生き方をするための最後の砦である。これが機能しないようにと、よこしまな心をもって真実を知ることを拒否したり、事実をねじまげて自己を合理化することをやめて、素直な心構えをもつように心がけることが必要となる。他方、良識は、広く世界を知って客観的で誤りの少ない情報を身につけていくことで可能となる。専門家がときに、眼を疑うような事件を起こすことがある。一芸に秀でていても、豊富な体験知を持たず、社会常識に乏しければ、簡単に邪宗に染まって教祖の犯罪に嬉々として加担するようなことが生じる。広く世界の常識を身につけて、良識は、養っていかねばならない。

5-6-5.忍耐の善への方向付けは、その経験の反復で定着する 

ひとは、善に向かった営為にと意識を反復すると、日頃の注意が、その方向へと自ずと向くようになる。意識と行為が善の反復をすれば、なにをするに際してもまずこころに善への道が登場することになる。悪になじめば悪の習い性を身につけるように、善が習い性となれば善人となる。善とちがい悪に染まるのは簡単である。おのれの自然に任せておけばよいからである。感性・エゴの欲・恣は、自然に放置しておくと反復復帰するから、持続して理性は、手を変え、品を変えて、善への自制・忍耐を反復する必要が生じる。

5-6-5-1.善行の反復は、意識を善行へ傾ける  

 善を意識し善行を反復するならば、善が習い性となって何につけてもその方向へと傾くことになる。感謝とか誠実を机の前にモットーとして掲げるひとがある。意識すれば、感謝など、日々にあることで、そういう方面へと意識は向かいやすくなる。一層、感謝心が大きくなる。周囲も誘われ習う。すると、自身も周囲のひとの感謝心にさらに薫染することとなる。理性的に深慮し、感性・エゴ抑止への忍耐を心掛ければ、その方面へと習慣化していく。習慣化することで、それが第二の自然となって、無意識にもその方面での卓越した営為が可能になっていく。

5-6-5-2.悪事の反復は、悪を習慣化する  

 悪は、おのれのエゴ・感性を、理性を押しのけて優先することによってなるが、この感性・自然は、動物的本能的で強力である。しつこい。理性は、これに粘り強く種々の試みを重ねて対応しなくては、これを制御し続けることはできない。悪も反復すれば、習慣化し、その方面でのエキスパートとなっていく。ただし、悪事は、そういつまでも続けられるものではない。常に悪を被るものからの反撃があり、悪の貫徹は、難しい。なにより、自身の良心が時効のない自身の悪の告発、刑の執行をねらってもいる。

5-6-5-3.日頃、反省を心がけておれば、習慣化してよい方向へむかう

 理性は、自身を反省する。良心が悪を阻止し、良識が善へと導く。それが習いになればなるほど、悪をおこなうことには疎遠となり、これにブレーキがかかることになろう。忍耐は、苦痛を甘受し犠牲を払う営為である。せっかくの犠牲であれば、それの生きる、価値ある忍耐になるようチェックすべきであろう。反省は、失敗を、自身の良からぬことを振り返る。おのずからと自身の悪行も、その対象となる。反省の習慣化は、自身をよりよい方向へと誘うことになっていく。

5-6-5-4.利他の忍耐も反復でそれが普通となる

 忍耐は苦痛を甘受し自身の犠牲を受け入れる。それは、社会的場面では、利他的営為に結ぶ。この利他的営為を反復して、それが習い性になれば、その方向での営為はお手のものとなり、なにかあるとそういう利他的意識が働き、ひとのことによく気がつくようになって、利己的意識は、小さくなっていこう。我慢して自分は犠牲を払っているのだから、その報いのあるのが当然との意識も生じるが、それがエゴの恣意として拒否されることが続けば、このエゴは勢いをなくして、気持ちよく犠牲になってもいけるようになる。

5-6-5-5.地獄への道は、善意で固められていることもある

 忍耐は、自己犠牲をもってすることだから、ひとにする場合、それに見合うものを贈与できていると思いたくなる。だが、実際には、そうはいかない。要は、結果がどうかということである。善意・忍耐をもって結果、地獄へと導くようなことが生じる。温かい心を示すことが目的ではなく、豊かな価値あるものを目的とするのであれば、その目的・結果がどうなるのかを、しっかりと慮って動く必要がある。忍耐は、自己犠牲が必須の営為である。目的実現がならないときは、そのことの失望のみでなく、自身に犠牲・苦痛を残すのでもある。理性をしっかりと働かせて、反省を怠らず、深慮遠謀しつつ、忍耐は、十分に意義あるものを遂行していくのでなくてはならない。

5-6-5-6.忍耐は、すればいいというものではない

忍耐は、自身の犠牲を手段とするが、犠牲を払ったからということを免罪符にしてはならない。何を目的としているのか、何を結果しているのかが問題である。忍耐自体は、悪事でもする。善をもたらすとは限らない。何かをするための利器ではあるが、凶器にもなる。自他に害悪をもたらすような忍耐は、即刻の中止が求められよう。価値ある目的を生む、価値ある手段としての忍耐を心掛ける必要がある。さらには、その手段の展開は、犠牲となるものが小さくて済むようにと、深慮遠謀をもって理性のリードのもとに進める心がけがなくてはならない。

「忍耐の方法論」終わり