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2026/09/17

世界観を創る苦痛

7-6-3. 苦痛は、ひとを拘束し、呑み込み、破壊していく

快は、価値あるものが獲得されたことに感じるもので、安穏としていてよい状態であり、そのままでは、ひとをまどろませ眠りにさそう。逆に、苦痛は、ひとを覚醒させて、苦痛自体を嫌悪させ、これを逃れようとの衝動を人に引き起こす。この苦痛と損傷自体は、生を破壊するもので、苦痛が生に意義をもつのは、これを避けるということにおいてである。苦痛は警告として意味があるのであり、苦痛自体・損傷自体は、生破壊である。その苦痛になるものは、快の細道のまわりに満ち満ちており、すこし油断していると、苦痛による生破壊が迫ってくる。その苦痛に負けないでこれをはねのけていければ、生は保存・保護されるが、損傷・苦痛の方が大きくなり、これに負ければ、生は、ダメージをうけて、破壊され死に近づいていく。

 安心、希望等の精神的な快感情は、それらを感じさせる事態が長く続いていたとしても、危険や絶望の消えた刹那に感じるだけで、たちまちに消失してしまう。だが、苦痛、不快・不安・悲哀・絶望等は、長々と続き、ひとをその感情へと拘束しつづけ、その感情の客観的事態がある限り、いつまでも、これを感じさせ痛めつづける。不安は、危険の可能性がある限り、どこまでも、この不快な感情を持続させる。逆の安心感は、危険が去って安全が確保され続けていても、はじめの瞬時これに安心感を抱くのみであって、安全・安心状態の持続中、安心感という快はいだくことがない。もちろん、それでよいのではある。危険は、これがあるかぎり、それの危険が何時現実化するか知れず、どこまでもこれを意識して不安感を抱きつづけねばならない。その危険の排除を意識し続けて、生は危険の除去にいたって安全を保てる。その危険が消えて安全になったら、それへの注意は無用となり、他のことに意識を向けていけばよいのであって、危険が無だというので、その安全なことに意識がいつまでもとらえられていたのでは、せっかく先に進む道が整えられているのに、それができなくなってしまう。 

快とちがい、不快・苦痛の方は、なかなか消滅しない。その原因の損傷等の存在しているかぎり、その苦痛は、持続し、生を過度にとらえて、生き生きとした人の営為を妨げてしまう。苦痛・不快が長くつづき、それに囚われ続けていると、生は委縮してしまう。ひとは精神的存在として精神的営為に生きるが、そこでの快不快の感情では、顕著に苦痛・不快がひとをしばって生を一層破壊していくことになりがちである。その快としての喜び・幸福・希望・安心等は、あまり生じないし、生じてもすぐに消える、刹那の快感にとどまる。だが、不快の方は、その原因となる事態がある限りひとをとらえつづけるし、原因が消滅してすらこれが続くこともある。安心感は、安全な事態に生じるが慣れるとすぐに消えてしまう。喜びも、価値獲得の瞬時にいだくだけですぐに忘却される。だが、反対の悲しみ、苦痛の方は、長く続いて、悲しみの原因の喪失が忘れられない限り、その生を一生でも縛りつづける。不安は、危険の可能性のあるかぎり、持続し、ときには、不安感はべつの危険をも想像させてこの世全体を不安のもとに観させていき、杞憂の人を作り出しもする。幸福感など、恵まれた状態でも感じないことの方が多いし、感じるとしても、刹那に終わる。だが不幸の方は、ひとを捕らえたらなかなか離さない。絶望も同様にこれにはまると、その絶望的事態が続く限り、ひとを支配して暗黒の反生的状態にと縛り続けていく。