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2026/09/10

世界観を創る苦痛

7-6-2. 精神世界でも苦痛は重大なものになる 

快・不快(苦)は、動物的な生では、その生を動かす根本の力である。だが、ひとになると、その固有の生を担う精神的生になると、苦痛の方は、動物的生同様に、精神を動かす大きな力を持つが、快は、そうではなくなる。動物的レベルでは、ひとも、快なら、それが有毒であろうと、これに惹きつけられてしまう。あるいは、生促進に無関係の快であっても、これを求めてやまない。食の快楽では、美味であれば、それが栄養のないものであっても、これを求める。性的快楽でも、実りのない自慰であっても、これを求める。だが、社会的精神的生においては、たとえば、喜びの快は、純粋な喜びである「ぬか喜び」(価値獲得を欠く、快だけのもの)は、嫌悪される。精神的世界では、その精神的社会的に価値あるものが獲得されることに喜びを生じるが、この喜びの快感情自体はどうでも良いことで、価値あるものの獲得が目的であり、求め引かれるものになる。

 不快・苦痛は、動物的な苦痛と同じく、精神世界でも、つねに回避したい反欲求の対象であり、喜びの反対の苦痛の悲しみは、悲痛は、受け入れたくない大きな反価値であり、万人、その感情自体を嫌悪し、避けようとする。うつ病や不安症は、しばしば悲哀や不安の原因がないのにその感情を生じ、大きな苦痛として、これを放置できず、その解消を求めてやまない。逆に、そういう感情がなければ、どんな喪失・損傷にも動じることなく対処できる。一般的に悲しみの原因になる、別離とか、価値あるものの喪失は、そこで悲しみの感情が生じないようなら、大した喪失・別離とはならないと言ってもよい。肉親の死で永久の別れとなると、悲しみをもたらし、悲しみの感情は強烈な否定的感情として、そういうことはできるだけ回避したいし、長生きしてもらいたかったと思う。だが、死んでくれて清々しているという場合、つまり、悲しみの感情がない場合は、その喪失は、そのひとにとっては、大したものではなくなる。

 精神的社会的な人間世界でも、動物世界でと同じく、苦痛は、ひとを動かすに大きな力をもつ。絶望や悲嘆、不安等は、そういう事態・感情を生じないことを願って、そうならないようにと苦痛回避にと生きる。かつ、かりにそういう苦痛の感情に陥る状態になると、この苦痛にとらわれ、これをなくするために、絶望しないで済む状態になれるようにと懸命になる。悲痛な思いも、これを忘れられるような種々の試みをせずにはおれなくなる。もちろん、そういう絶望や悲痛の苦痛は、生理的な苦痛と同じく体験したくない回避したいことなので、絶望しないように、悲嘆しなくて済むようにと自分の生を動かしていく。

貧困でも、絶望や不安の感情をいだかない者は、おそらく、貧困をなんでもないと思うのではないか。清貧に安んじる。が、それが絶望などの苦痛をもたらすような者においては、なんとしても、貧困にはならないようにと懸命に働くことになるであろう。人間固有の精神的社会的な生においても、苦痛は、動物的生と同様に人を動かす大きな力となる。