7-6. この世は、苦界か
ひとは、日々、快不快によって動く。できるだけ苦痛・不快を回避して身の損傷を避け、快を求め生の保護・促進を心がけている。だが、この快と不快(苦痛)は、自然において、等しく与えられているものではなく、苦痛が過多のように見える。生の歩む自然の道は、快を目先の目標にしているが、そう簡単には快は得られない。だが、苦痛は、どこにでも満ち溢れている。ぼんやりと不注意に過ごしていたり、すこし道をはずすと、すぐに不快・苦痛が現れて、道をはずさないようにと警告する。快が簡単に確実に得られることとしての食物摂取でいえば、食卓に並ぶのは、快となる美味しく栄養あるものばかりであるが、それは、快収集の最終段階にあるからで、自然そのものの下では、ひとに快となるものは、ごく限定される。ひとの周囲に満ち満ちている物は、ほとんどが食に適さない。それを食べれば、不快で嘔吐させ苦痛をもたらすものばかりである。ごく限定した物を選んで快の食事はなりたつ。快の生促進の細い道があって、その周囲はすべて苦痛の茨が取り囲んでいる。道を外そうと思わなければ、事故や病気が襲うようなことがなければ、苦痛は意識しなくてもいいように快の細い道が昨今は整えられているとしても、圧倒的な周囲の空間は、苦痛をもたらす有害なものに満ち溢れた世界になる。
しかも、快の道をとるとしても、それもほどほどの享受にとどめ長い先をみつめてのものでないと、すぐに不快・苦痛に転じる。食でも、快の美味の物も、少し過ぎると有害になり、飽食すればそれは不快となって嘔吐させるものにと転じる。楽な道は、人生を行き詰まらせるというのが普通でもある。楽な座り方も、それに固定した状態では、苦痛になってくる。一番楽な、横になっての睡眠も、何日も寝ていることになると、その安楽は苦痛に転じる。この世では、どこを向いても苦痛がとりかこんでいるように思える。
快はだいたいが短時間しか持続しない。生促進を実現したその最後の瞬時に快楽の褒美が与えられるだけである。美味の栄養ある食べ物は、口に含んだからといって快にはならない。のど越しの瞬時、快となるだけで、喉を過ぎて食道に入ると、もう快は消滅する。快の代表の性的快楽も、受精が実現するその瞬時に快楽があるだけである。それに比して不快・苦痛は、どんなものでも長い。生の損傷があるかぎり、苦痛は持続する。もちろん、それで多くの場合、生が保護できるのではある。かりに、損傷して苦痛になっても、快のように瞬時に終われば、楽ではあるが、それでは、その損傷は気にかけられず、損傷するままに放置されるであろう。さらなる損傷も少し我慢すれば終わりとなるのなら、気にすることなく危険な方向へと進むことにもなろう。そうならないようにということで、損傷があるかぎり、苦痛は、長々とつづく。歯痛は、歯を抜くまで、何日でも痛みつづける。その根気強い歯痛に負けて、ひとはいやいやながら最後、歯医者に行く。だが、抜歯しての安楽は、ほんのわずかの時間感じられるだけに終わる。苦痛はいつまでもつづくが、快は、瞬時に終わる。この世は、徹底した苦痛の世界、苦界だといいたくなる。仏教は、この世を「苦界」と、いみじくも言い表している。