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2026/08/20

世界観を創る苦痛

7-5-2-2. 忍耐は、悪の苦痛を手段とする狡知の営為  

苦痛の支配下に動物は存在しているが、ひとは、この苦痛に支配されるとともに、これに挑戦できる超自然、超動物的存在なのでもある。ひとは、動物として快苦の自然世界のもとに属し、快に惹かれ苦を回避して生きつつも、苦痛の支配に屈さず、これを拒否して反自然・超自然的にふるまい、逆にこれを支配もできる。苦痛が猛威を振るうとしても、それはあくまでも私の主観のうちにおいてのみであり、人間は、自身の主観内において、自然を超えた精神的理性的立場から、自然に譲ることなく、苦痛を制御・支配することが可能である。身は滅ぼうとも、苦痛から逃げないで甘受しつづけることができる。最後、ショック状態になって死を来すとも、意志は、苦痛から逃げないでこれに耐えることが可能である。どんな苦痛であっても、それは自身の心のうちに存在するだけである。客観的には損傷が激しく身は滅びようとも、苦痛は、自己内のものとして、最期まで、自身で制御・支配して苦痛から逃げず、これを甘受して耐えることができる。拷問では、苦痛にまけないで、最後失神したり殺されることもある。崇高な自身の理性意志を貫徹して、苦痛に耐え続け負けないで拷問に勝つことができるのがひとである。

 損傷を原因として苦痛が結果する。苦痛は、報いである。不可解な原因不明なものによる苦痛も、前世に犯した罪への報いとして甘受しなくてはならないと、かつての多くの人は考えた。現世の苦痛・損傷は、過去世に犯した罪への報いであり、刑罰・懲罰として自身に課せられているのだと想像することが多かった。いまでも、事故にあうと、「どうして悪いことをしていない自分がこんな目に合わなくてはならないのだ」と因果応報の思いを踏まえて、不当(冤罪)と嘆くことである。少なくない苦痛には、現世での原因のある場合も多かった。苦痛が生じたとき、ひとは、その原因を考え、探す。左足が痛めば、「そういえば、昨日は、転んで左足を打撲した、その損傷が左足の苦痛の原因だ、湿布して手当てをしなくては」と進めていく。原因を想起できれば、現在の苦痛はやむをえない結果・罰だと受け止めて諦念し、逃げることなく、この苦痛の甘受・忍耐をひとはする。  

より価値あるものを得るための手段として労苦を背負うことも、人に固有の営為となった。その苦労・苦痛の報いは、価値あるものの獲得となった。汗水流した成果として実りが得られた。苦痛は、尊い手段価値と見なされた。目的としての価値獲得のための不可避の手段として苦痛の甘受、忍耐が、ひとにおいて貫かれることとなった。自然的には、苦痛は、損傷というマイナスのもとで生じているもので、苦痛は、嫌悪すべきものとして忌避され、したがって損傷も回避可能となった。そのマイナスの苦痛と損傷を受け入れることは、直接的には生破壊、反自然の愚かしい営為であるが、このマイナスの価値の苦痛を、ひとは利用する。小さな苦痛・マイナスを受け入れ許容することで、大きな価値の獲得が可能になると推し量って、人類は、苦痛をあえて受け入れ、「肉を切らせて骨を切る」という反自然の非常手段を利用することになった。苦痛甘受の忍耐である。自然の与える苦痛は、この苦痛の先には行くなと警告しムチを加える。だが、ひとは、この自然の警告を無視し苦痛とその忍耐を踏み台にして、その先の超自然の価値創造の世界へと進んでいく。