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2026/08/06

世界観を創る苦痛

7-5-2. 苦痛は、損傷同様、害悪・疾患でしかないこともある

損傷を知らせる苦痛は、生保護に資するものとして、大切な価値をもつ。だが、原因不明の苦痛、いつまでも続く苦痛は、単に生を痛めつけるだけの悪魔的なものでしかない。警告の苦痛は、損傷発見という診断的価値をもつが、その同じ苦痛でも、いつまでも続くのでは、その苦痛自体が病気・疾患となる。損傷を食い止める医療のように、苦痛という疾患自体を診療対象としてこれの除去につとめねばならなくなる。

 群発頭痛や末期癌の痛みは、損傷を警告する診断的価値をもつものではない。それ自体が疾患であり、ひたすらに排除したい反価値になる。精神的苦痛の不安とか悲嘆は、警告的な価値のあるのが普通であろうが、なかには、それ自体が病いとみなされるべきものもある。不安神経症とか鬱病は、不安や悲哀を、危険や損傷といった原因がなくても生じてひとを苦しめるものとしては、その苦痛自体が病い・疾患ということになる。

 苦痛は、損傷を知らせるという大切な価値を有する。苦痛がなかったら、身体は傷だらけとなろう。まれにそういう人がいるようで、皮膚表面の傷なら痛まなくても血が出てそれと気づけるが、骨折の場合は、見た目では分からず、痛覚が欠損してそれが痛まない人では、分からないままになったりするという。苦痛は、損傷を意識させるものとして生にとって大きな価値をもつのは確かである。だが、過ぎたるは及ばざるがごとしで、過剰な苦痛は、それ自体がやっかいなお荷物となり、病自体ともなる。さらには、苦痛はあっても、損傷はないか不明というようなこともある。年取ると足腰が痛むのが普通だが、長年の無理な姿勢等が重なってのことで、腰が痛んでも、腰自体に損傷があるいうことではない。余計な痛みである。その痛み自身は、専らに反価値のやっかいものと見なされる。損傷は、苦痛がなく、生活に支障がなければ、なんでもないこととして無視しておける。だが、苦痛は、どんなものであっても、常に注視を強制し、嫌悪と回避の衝動を生じる、主観的には最大の悪しき事態である。

 宗教では、苦痛を、刑罰と捉える。罪を犯したので、その償いに苦痛が与えられるのだと。苦痛は根源的に反価値でムチ・懲罰なのだと。苦痛は、その生にとってマイナスそのもの、悪そのものとみなされる。天国とか極楽は、なんといってもその悪の苦痛から解放された世界として、無苦の世界と特徴づけられる。苦痛は、価値などではなく、徹底して悪で反価値で、前世と現世の刑罰そのものと宗教では捉える。

その生に痛みだけが残った場合は、安楽死を求める。苦痛は、悪そのもの、反価値そのものだということであろう。生に苦痛しか残されていないというときには、無としての死の方が反価値の苦痛よりはましということで、自死することが生じる。宗教では、過去世の罪を償う刑罰が苦痛だとし、苦痛を自分で始末するのは、刑罰を免れ脱獄するようなものと見なされるから、自殺は許せないものと解されるのだろうが、激痛に七転八倒する者には、そんなたわごとに付き合う余裕はない。現実に被っている巨悪の苦痛を排除することに必死となる。