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2026/07/23

世界観を創る苦痛

7-5-1-1. 末期癌などの痛みは、生のすべてを呑み込み破壊していく

群発頭痛は、群発するとしても苦痛のなくなるときがある。苦痛は、一時のもので、我慢すれば、安らぎがもどってくる。激痛退治にと銃弾をおのれの頭に打ち込むのは、自暴自棄になった時に限られる。だが、末期癌の痛みのなかには、激痛がどこまでもつづき、安堵することの不可能な地獄の責め苦をもたらし、その果に死の待ち構えているものがあるという。自身の生には、苦痛しか残されていないのだと分かれば、生そのものを早々に終わりにした方がましと、安楽死を求めるようにもなる。その苦痛の存在が許せないと、自己の生すらを犠牲にしてまでも、その排撃を優先する。生の排撃すべき苦痛が自身の生の全体を支配して絶望的状況になるのであり、生を放棄したいわけではないが、生の全体が苦痛によって永続的に支配され苦痛以外にはなにも残されていないと分かれば、生自体を放棄してでも、苦痛の支配を終了させたいと思うことになる。苦痛のみの生よりは、死、無の方がましとなる。マイナスの状態よりは、ゼロの方が価値が高いという選択である。積極的安楽死が選ばれる。

 こういう苦痛による生支配のもとでも、ひとは、これに耐えつづけることも可能ではある。かりに、激痛のつづく末期癌であっても、群発頭痛にとらえられていたとしても、自身が生きていることでのみ、自分の大切な幼い子供の生も可能となっているというような状況では、苦痛に耐え続けることができよう。そう意志を持ち続けうることであろう。客観的な損傷と違い苦痛は、あくまでも主観的なものであり、その意志次第では、どんな苦痛でも耐え抜くことが可能である。もちろん、その激痛の持続で中枢の諸機能がダメージをうけ、あるいは臓器不全等で、死にいたることになるであろうが、それに到る最期まで苦痛には負けないで耐え続けることができる。その苦痛への忍耐が、わが子の成長といったかけがえのない価値ある物事を可能にすることがある。

 だが、苦痛は、ほかのことを考える余裕もあたえなくなっていく。激痛がつづけば、心身は疲労困憊させられて、ひとは、冷静にものを考えることもできないようにとうちのめされ、苦痛のうちへと沈み込み、外への関心も奪われていく。たとえわが命より大切な子どものことであっても、生の気力自体が疲弊し麻痺させられて、それへの思いも薄れていくことになろう。激烈な疼痛に生はのっとられて他のことに意識は向かず無関心となり無気力化する。なかば死が乗っ取った状態になる。激痛が続いて、これに支配され困憊状態に陥る中では、おそらく苦痛に耐えることで実現されるであろう大切な価値についてすらも、これを思う気力も起こせないようにしていく。激痛に呑み込まれて、それが残された生のすべてとなり、苦痛だけが残り続けるのであれば、この巨悪の苦痛を排撃し撲滅しようと、最期の挑戦としての積極的な安楽死を希求するようにもなる。この世に、苦痛ほど罪深いものはない、苦痛さえなければ、極楽だと、いいたくなる。