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2026/07/16

世界観を創る苦痛

7-5-1. 苦痛は、自己内にある最大の反価値、排撃したい異物  

苦痛は意識を集中させる。苦痛の感覚は、意識を覚醒し、苦痛に対しての反欲求衝動を呼び起こし、ひとは、苦痛排撃のためにと全意識を集中する。意識を集中するというよりは、集中させられるのである。苦痛を忘れよう、感じないようにしようとしても、それを拒否して、苦痛は、意識をそこへと振り向けさせ続ける。快は、これの無い状態において、これを求めてわがものにしようとし、その充足がなると、その快感は有り続けてほしいのに、意識からはたちまちに消失し無化していく。苦痛は、反対に、あって欲しくなく、消し去りたいのに、現にある苦痛に意識は集中させられる。苦痛がある限り、どこまでも、これに意識はとらわれ続ける。

 苦痛は、自己自身のうちに生じている感情であるが、本来的な主体・自分自身とは区別し、自分でない、排除したい、それとの同居を拒否したい、異物あつかいとなる。苦痛をなくした安堵する自分を真の自分とする。足に激痛が続けば、ときには、その苦痛をなくするために、足自体を切り捨てたいと思うこともある。群発頭痛(cluster headache)では、銃が自由なアメリカでは、自分で頭を銃で打ちぬくことが結構あるとかいう。自分の頭のうちに生じている、自分でない激痛という存在に向かって、これを排撃することを最優先にしたいというほどの、受け入れておきたくない異物と見なされる苦痛である。耐えがたい頭痛は、主体としての肝心の私の居場所が脳にあることを承知している者が、自分を無化することになるのを承知しつつ、苦痛の排撃を自分の生よりも優先するのである。自分のうちの、自分を打ちのめす群発頭痛を銃殺刑にしようと銃弾を自分の頭に打ち込む。それで自分が死ぬことは十分承知している。激痛退治がすべてに、自分の命よりも重大なものとなっているのである(インカの遺物に頭蓋骨に穴をあけて手術したような痕跡をもつものがあるというが、おそらく、こういう激痛を除去しようとの試みだったのではないか)。この群発頭痛は、自殺頭痛(suicide headache)と言われているとかである。

 苦痛では、これに耐えることではじめて価値獲得の可能になる場合がある。それは、苦痛回避の自然を超越した理性的な手段として、尊い手段価値となっているのだが、激痛に苦しむ者は、そんなものは苦痛の内に入らない、寝言だと言いたくなろう。群発頭痛に襲われた者は、苦痛は、なんといっても、ひとを鞭打ち虐げる最大の反価値だといいたくなろう。苦痛は、暴力団と同じで、彼らがたまに他の暴力団員を始末したり、冷酷な守銭奴を懲らしめて、痛快事と市民を思わせるようなことがあるとしても、根本的には、善良な市民にとっては、ゆるしがたい狂暴な犯罪集団であり、なくしたい筆頭のもののはずである。苦痛も、それと同じで、たまに手段価値になる例外はあるとしても、根本的には、反価値・悪そのもので、これさえなければ、この世は極楽と言ってもいいような最悪の反価値だと、苦痛に虐げられている者は断言したくなろう。