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2026/07/09

世界観を創る苦痛

7-5. 苦痛は、生を破壊し呑み込むブラックホール

苦痛は、そこへとひとの意識を集中させる。注意散漫な者でも、激痛があると、その激痛に自動的に集中させられる。別のことに意識を向けていても、苦痛が生じるとこれに意識はもっていかれて、もとの意識はお留守になっていく。正座して和尚さんの説教をかしこまって聞いているとき、だんだんとその正座で足が痛くなり、足がしびれてくる(最近は、正座など無用の椅子形式が普通になっているが)。時間とともに、いてもたってもおれないようなことになる。足の痛みをなんとかしたいとそわそわし、その苦痛をどうにもできないことに焦る。それでも、はじめは、説教に耳を傾けているが、苦痛が大きくなるとともに、その説教は上の空となり聞こえなくなって、苦痛のみに意識が集中させられていく。足の痛みがすべてとなって痛みに耐えるためにもがき、緊張し、なにもしてないのに疲労困憊する。ありがたい説教は、苦痛の原因ともなり、説教の終わるのを今か今かと待ち構えて、脂汗をながして耐える。正座しての足の苦痛にすべてが呑み込まれて、ほかのことは意識からは遠のいた状態になる。たかが正座しての苦痛という些事に耐えるだけなのに、苦痛は、人をとらえ、いたぶり続ける。ひとは、現前の苦痛をなくするために懸命になり、それができないで七転八倒する。人の生は、その時、足のしびれ・痛みにすべてをとられてしまう。座るということで生じる些細な苦痛でも、その時には、極楽の話を聞きつつ現実の苦痛の地獄に終始することになる。和尚さんの極楽行の話が終わって、足の苦痛から解放されてしばらく、この世の極楽を堪能することとなる。苦痛こそは、人生を台無しにし、ひとを地獄の責め苦に陥れる巨悪だ、この世の最大の反価値だと断罪したくなる。これが大病・大けが等の苦痛にとらえられた者の場合、真実、この世の地獄に突き落とされてしまい、苦痛というものの反価値のすさまじさを味合されるのである。

 注意散漫で、ぼーっとしていることの目立つ者があるが、そういう、意識を集中しにくい者でも、ことが苦痛ということになると、まちがいなく、これに自動的に意識集中する。怪我をしても気づかないのんきな者もいるが、それは、苦痛がないからである。いくらのんきでも苦痛が生じたら、これに全意識を集中する。快は、欲求が充足され、安堵でき安心できる状態にいだく。そこでは、もう意識して対象に関わる必要がない。その生の充足状態に安堵できるのであれば、意識は、無用となり、まどろみ、眠ることに向かう。その反対が苦痛である。美しく心地よいものへの美意識をひとは持つが、各種の快への意識は少なく、持続もせず、刹那に終わる。だが、苦痛は日々に生じ、意識を常に呼び起こし、どこまでも意識させつづける。ひとの生死を問題にするとき、意識を有しているかどうかが問われることがある。つまり、ひとは、本質的に意識的存在だということだが、苦痛こそが意識をもたらし意識しつづけることを強いることからいうと、ひとは、極楽の蓮のうてなで微睡んでいるような意識無用の存在とは縁遠いのである。本来的に、苦痛に囚われこれを意識し続けることの強いられた、地獄の悲惨な住人なのだと悲観的に解釈することもできそうである。