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2026/06/25

世界観を創る苦痛

7-4-6-1. 人も快苦の感情に踊らされる

 ひとも動物も快苦の感情によって動くことが多い。喜怒哀楽等のあらゆる感情は、快か不快(苦)に二分され、感情は、快不快という表現をもって語られる。その生に価値あるプラスの状態がもたらされるなら快となり、反価値・マイナスの状態になるところで不快・苦痛を生じる。快の状態なら、そのままか、価値あるものをさらに確保することに動き、苦痛なら、その生に不都合・損傷が生じつつあるということだから、これに注目して、そのマイナスを除去・回避することに動く。ひとも動物もそのことでは同じである。

生理的レベルではそうであるが、さらに人は、理性をもち精神的世界にも生きる。ここでも、快は、希望とか幸福は、価値あるものが獲得される状態でいだく。不快・苦痛は、絶望とか不幸がそうであるが、反価値状態に感じる。理性制御のもとの人間においては、苦痛の受け入れ・甘受が価値獲得の不可避の手段となるときがあり、その場合は、忍耐して苦痛を受け入れるという反自然・超自然の振る舞いをする。精神的世界では、快はほんの些事になる。価値が確保できず快感情だけだとすると、これを嫌悪するぐらいとなる。「ぬか喜び」は、純粋に喜びの感情だけが生じる状態だが、価値獲得は無なので、ひとは、これを嫌う。

 快は、短時間しか持続しない。価値獲得で事は終了しているのであり、その終わり・確保の完了に抱くのが快である。その完了の瞬時に快感をいだくのだから、快は、短時間で終わる。長々と快が続くのでは、次の価値獲得に遅延が生じる。食べ物を一口口にいれていつまでも快なのでは、食は進まない。確実にわが物となったのど越しに瞬時快を感じるようにできている。のどを通過しなくては満足できないから、食道楽は、必ず栄養過多となり肥満する(貪欲な食道楽の中には、そのため、食べ放題のバイキングなどでは、いったん食べたものを吐き出すという愚劣極まりないことをする者がいるとかいう)。精神的世界の快も同様、不快・苦痛に比してはほんの瞬時にいだくのみである。試験に合格したら、その時は喜びをいだく。だが、それは続かない。逆の不合格の場合は、不快は、持続する。それで自身の求める生き方が不可能になる場合だと、何年でも、その不快・苦痛は、その絶望・悲しみの感情は続けることがありうる。肉体的な快楽は、刹那、瞬時に終わる切ないものというが、精神的レベルの快も同様である。不幸はいつまでもくよくよと続けるが、幸福感など、現実に幸福でも感じないぐらいである。不安・安心なども、そうで、危険のなくなった安心の快は、安全の確保をもって生じるが、それは瞬時に消え、安全持続の中で感じることはない。が、危険への不安は、危険と自身が想定する限り、妄想であっても、一生でも続く。

 快楽主義者(エピキュリアン)は、快楽を求め、エピクロスがその代表ということになるが、かれは、賢明にも、快楽そのものではなく、苦痛の無い状態を最終的な快楽主義の生き方として求めた。快は、感じるとしても、短時間でしかなく、精神的レベルになると、価値獲得の方が肝心で快感など些事となる。それに対して、苦痛は、損傷の有る限り、どこまでも持続して人を痛め続ける。苦痛は、精神世界でも、ひとを絶望や悲嘆で痛め続けてやまない。苦痛がなければ、身体は安堵でき、精神も健やかに清々しく生を続けていくことができる。苦痛がなければ、それだけで十分だ、苦痛の無いことこそが幸福だ、ということになる。真のエピキュリアンは、刹那の快楽など些事と放擲し、苦痛苦悩のなくなったアタラクシア(a-taraxia(不動・不惑))を理想として求めることとなった。仏教では、この世を苦界とする。極楽は、この苦界を超越する世界であるから、苦のない世界ということである。苦がなければ、この世は極楽である。キリスト教でも、やはり、天国について、これを苦痛のない世界と表現する(新約聖書『ヨハネの黙示録』(第21章)は、千年王国の後の究極の天国について、不死で悲しみも苦痛もない世界であると表明する)。苦痛の消えた穏やかな世界は、極楽・天国である。