7-4-6. 苦痛感情が自他を動かす
快苦は、ひとと動物を自ずからに動かすが、そこで気になり、大きな力をもつのは、苦の方である。快なら、その生にマイナスの状況は生じていないので放置できるが、苦痛は、生に損傷・破壊が生じているという知らせなのである。生は、自身の保存・保護のために、まずは苦痛に注目して、その損傷を回避するようにと意識を傾けていく。痛み・痛覚はあるが、快覚はないのが身体の各部位の通例である。内臓は、快を感じること自体がなく、痛んではじめてこれを意識でき、それへの対処を心がけることになる。第一、痛みがなければ、対処どころか、内臓の存在自体にすら気づかない。快苦というが、苦痛は、遍在し損傷・破壊に直結するものとして常に注目されるが、快は、価値あるものが獲得できたという感情であるから、プラスの生起として無視しておいてかまわない。かつ、それは、時間的にも、価値の獲得時のみの短時間にとどまる。苦痛は、損傷が有る限り、いつまでも続く。これは、生理的レベルのみのことではなく、精神的レベルでも同様である。喜びの快は、価値獲得がなったという勝利宣言であり、後には何も気にするものはない。快・喜びは、どんなに強く大きいものでも、数日も続けば異常といってもいいぐらいの快事になる。だが、悲しみは、長く続く。失恋の悲しみは、次の恋人が見つかるまで、いつまでも続く。子供の誕生の喜びは、長くは続かないが、その子が死んだ悲しみは、永遠に続く。おそらく、思い出す度に、何十年たっても、悲しみは消えない。失ったものは、これを取り戻せるようにとその意識を持続させる。取り戻すまで、いつまでも、その苦痛は続いていく。
自分が自身のうちの苦痛によって動くことが多いだけではない。他人についても、ひとは、その他者の苦痛を意識して動くことが多い。他者を知るには、自身とちがい、外物を認識する過程をもっての媒介的な認識となるが、そこで推察する快と苦については、その顔面や声、或いは振る舞いをもって知る。そこで相手の内面を推察することになるが、快苦のうちでは、何といっても、その苦痛を知ることが突出している。相手の内面を知るという意識の在り方として、同情の働きを人は有する。相手と同じ情をもつということであるが、その同じ情は、苦痛・不快になる。快を見て、同じくこれに染まって自身が快を抱くこともあるはずだが、同じ感情をいだく同情というと、苦がまず思われる。その同情をもって、ひとは、他人であっても、その苦痛を慮り、その手助けができないかと心を砕いていく。ひとの快も理解できるが、これは、その生が保護され価値を得ているということだから、放置しておいてよい。だが、苦は、そのひとが生の損傷を被っているのであり、悲しみの表現は、救助を求めていると言うことであり、無視しがたいこととなる。
人権はもとより、動物権を言う場合も、それを求め権利として確立しようと動いたのは、その人や動物の苦痛に発することである。ひとが、虐げられ苦しみの人生を強いられていることに対して、その苦痛を軽減しなくてはと、自身の苦痛の回避と他者の苦痛への同情心が人権を主張することへと人々を向けたのである。人生を謳歌出来ている人を見て、人権を心配することはない。動物の権利を昨今いうことが増えているが、これも、動物の苦痛への慮りに富む人々が、耐えがたい苦痛を強いられている動物たちを見るに忍び難くて、その苦痛を軽減しなくてはと動物権を主張しているのであろう。同じ生き物であっても、苦痛のない植物には、植物権をいうことは普通はない。生き物を殺めるようなことがないようにと志す仏教徒は、虫をも殺さないようにと注意しているが、苦痛をもたない植物については、それを切り刻んで食べることを禁止などしない(理想というか極端な場合には、植物のみを食べるというベジタリアンをも乗り越えて、生あるものとしての植物の食も禁止し、空気を吸って(breathe)栄養ともして生きるブレサリアンを一部ではいう。霞を食べて生きる仙人を理想とするけれども、それでは、現実的には動物として人は長くは生きられない。水と空気があれば、しばらくは清々しく生きていけるが、普通人の場合、一月ぐらいが限界のようである)。