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2026/04/30

世界観を創る苦痛

7-4-4. 権利(苦痛拒否、自由)と義務(苦痛甘受、忍耐) 

 権利は、価値あるものの享受の自由を保護する威力である。その享受を否定されることで生じる苦痛を被らないようにと保護・保証するのが権利である。人と動物は、ともに「痛むもの(res dolens)」であり、苦痛を感受するものに見出される、苦痛排除の特権が権利なのだとすると、動物も、苦痛を抱きその排除に懸命となり、その排除に重み(権)をもち、これを正当な(right)営為とする点で人と同じだから、その限りでは動物も権利(right)をもつと進めうることともなる。ただし、ひとは、精神的にも大きな苦痛をいだき、その点では、動物の苦痛は少な目で、ひとこそは、特別に苦悩し苦痛を感受するもの、「痛むひと(homo dolens)」である。

 権利が実効性をもつには、それに関わるものに義務の課されることが必要である。漁業権が実効性をもつには、外部のものが漁をすることを禁じて、これに禁止の強制が義務化される必要がある。売買では、自分が商品所有の権利をもつには、支払いの義務を果たす必要があり、相手は、お金をもらう権利を得るには、商品を渡す義務を果たさねばならない。権利には義務がともなう。ひとならば、相互にこれを承認しあって、権利は、真に権利として実効性をもつ。義務を背負えることが権利獲得の前提になるのが普通である。

 この義務は、負担であり、苦痛をあえて引き受けることである。苦痛を甘受すること、忍耐である。ひとは、苦痛感受の(動物的)存在であるだけではなく、苦痛を、必要なところではあえて受け入れて甘受する「忍耐するひと(homo patiens)」なのである。ひとも動物も快苦の感性で動くが、ひとは、これを理性で制御する。動物のように理性的制御なく快苦のみで動く場合、快に引かれ苦痛を回避する動きが基本で、苦痛をときに受け入れるのも、快苦のもとでのことで、快が大きければ苦を受け入れ、大きな苦を回避するために、小さな苦を受け入れる。動物もときに苦痛甘受の忍耐をするが、それは、快苦の感性世界のもとでの営為にとどまる。だが、ひとは、苦痛のみであっても必要なところでは、理性が感性を制御して、この苦痛を甘受し忍耐する。快不快の感性的自然に逆らっての忍耐は、人のみのできることである。理性存在の故、それができるのである。この理性存在として人は万物の霊長となり、尊厳の存在となっているのである。理性存在として人は、動物を超越して苦痛から逃げずこれを甘受して忍耐することができる。快不快、好悪の感性を無視しこれに背いて、善悪の規範をもって、社会的に他の成員と自身を公平に普遍的に捉えて(不愉快な相手であってもその思いを抑止して)、自他の利益の享受の権利とそれを実現するための苦痛甘受の義務を自覚し、その苦痛を引き受けることができる。規範意識のもとに生きるのは、理性的能力をもった人間のみであって、動物には不可能である。

ひとは、義務という負担を背負い苦痛を甘受する。この忍耐の点では、動物には、それを期待できない。人が、猪や熊に、野山での自由な享受を許し動物権を与えても、かれらは、双務的に、人を害さないという義務を背負うことがない。苦痛を排除し快を享受することの自由を保障して動物権を与えても、義務を、苦痛を甘受し、忍耐して人の権利、人権を守るという責務、苦痛を担うことはない。動物には、理性的意志をもって苦痛をあえて受け入れて忍耐するということは不可能である。商品を受け取ったのに、支払いの義務に知らん顔なのと同じである。ひとも時にそうすることはある。が、そうするのは、悪しき意志があって義務規範を拒否するのである。動物の場合は、そういう権利義務の規範意識自体がないのであって、悪意すらも不可能な存在である。本質的に動物には、ひとの抱く善悪、権利義務といった規範意識をもつことができない。義務を意識できないのみでなく、動物権を与えてもそれを権利として意識することもありえない。