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2026/04/16

世界観を創る苦痛

7-4-3-1. 爪や髪は、苦痛がなければ、物扱い 

権利は侵害・苦痛に際してこれを排除するために行使する。苦痛を感じるかどうかが、権利が侵されたかどうかと判断する際、決定的になる。指などとちがい髪や爪を切り取っても、苦痛がないから、気にすることは小さい。切られても、私が切られたという意識はもたない。伸びた髪や爪を切って、すっきりして快感を抱くぐらいである。だが、手足が切られたとすると、私が痛むから私が切られたという意識になる。痛みがある場合は、この私自身がそれに痛みを感じて、私という主体が傷つけられたと感じる。権利主体のこの私が、苦痛を感じ、私の損傷、侵害を感じる。爪や髪は、同じ私の身体の一部であるにもかかわらず、苦痛がないので、感覚的には私が傷つけられたと感じることがない。痛みこそは、私という主体を意識させ、ひとは、その侵害、苦痛を許しがたい、受け入れがたいと主体的に反応する。苦痛において、権利主体としての私を実感するが、動物もこの苦痛の点では、同じであろうから、権利を与えられてしかるべきだという思いにも連なる。

この爪や髪でも、伸びすぎたので切るというのではなく、拷問にあるように、ペンチで無理やりに爪を引き抜くとか、髪を強引に抜いて頭皮に激痛を与えたとすると、事態は、まるで異なったものとなる。私という主体が、いためつけられ耐えがたい苦痛を感受させられたと、私が侵されたと受け取るであろう。主体の意に反した侵害として、苦痛からの自由を求める権利を意識することとなる。権利主体となるには、苦痛を感じるかどうかが肝要ということになろう。快の場合は、私の感じる快ではあるが、この私という人格主体を意識することは少ない。快にのめり込み、主客が一体的になってまどろむ。だが、苦痛は、そうはいかない。私の苦痛は、まぎれもなく私に生じていることとして、放置しがたいものとして意識される。この私という主体、人格が意識され、この私が痛むと意識して、私の損傷・被害と自覚し、この苦痛の事態から自身を保護することに、防衛することに必死となる。価値の享受を阻止されて侵害を感じ苦痛となることには過敏に反応する。苦痛が、権利も意識させる。

動物の権利をいうのは、ひとがこれを痛めつけ、切り刻み殺して食べるというような、生を破壊する場面でのことである。そこで損傷がなんでもなく苦痛でもないのなら権利をいうことはない。牛や山羊の乳を搾ることは、苦痛を伴わず平気な感じで、牛たちに苦痛でなければ、権利などをそこに想起するようなことはない(その子牛の空腹をもたらすことがあるとすると子牛には苦痛だろうが)。だが、牛の舌や耳を切り取るというような苦痛を与える場合は、これを牛は拒み逃げようとする。牛という主体が、その苦痛・損傷の回避にともがくのである。これを耐えがたいと感じる苦痛があるのなら、苦痛回避に必死となる人間主体と同様に、動物も、この苦痛の回避を、損傷から守られるべきことの正当性(権利)を主張したいに違いないと、ときに人は想像することになる。

損傷は、植物でも、ある。切り花は、動物でいえば、首を切断するようなものである(植物は動物を逆立ちさせたような姿だから、その根っこは、動物で言えば、口や頭に相当するであろう)。しかし、それに苦痛がなければ、ひとの権利侵害と同じようには感じられない。ひとですら、痛みのない髪や爪の切断は、むしろ、さっぱりとして快感となるぐらいである。苦痛があるのかどうかが、その主体の損傷・侵害かどうかの判断基準となる。苦痛は特別視される。ひとの場合、苦痛は、嫌悪される第一のものであるから、その人自身の苦痛への思いを投影して、動物でも苦痛だけは許せないだろう、堪らないだろうと感情移入する。