7-3-4. ひとは、苦痛の色眼鏡で世界を見ることが多い
ひとにとって苦痛、したがって損傷は、生の危機であり、これを回避することで生は無事に存続可能となる。苦痛は、無視されると生破壊となることで、常々注目して対処すべきものである。社会生活では、苦痛・苦難は、回避されるとともに、しばしばこれを手段として受け止めて、高い目的を実現していくことも多い。この方面では、苦痛は回避していたのではことが成就しない。これをあえて受け入れる苦痛への忍耐の必要が生じる。回避するにせよ、甘受して忍耐するにせよ、苦痛に注目し、最小の苦痛になりうるようにと工夫する。世界を苦痛の出来する場として、苦痛の生じそうなことを注意・予期して生きていく。あろうとなかろうと苦痛に注意・注目し、苦痛という色眼鏡をかけて世界を見る。今は勿論だが、まだない未来も損傷・損害等苦痛となるものに何より注意して、これを回避するようにと動く。生活の困窮を描き、そうならないようにと自身の進学とか就職を決める。先を見通して現在を決定するが、好きなことをやっていたのでは絶望や悲痛な状態になること間違いなしと、苦痛の未来を回避するようにと選択をする。快適な未来であることを願い、そういう歩みをするのであるが、その前に、大前提として苦痛のことを踏まえて、何より、絶望・不安・貧困の悲痛等を描いて、そうならないようにと選択していく。
ひとも動物も、苦痛・損傷は生の危機・破壊であるから、これには細心の注意をする。苦痛(回避)の探索を行いつつ前進する。快を見出すことを目的にして動くときでも、苦痛への警戒を怠らない。なにを進めるにしても、苦痛という破壊・損傷を被らないようにと注意しつつ、行う。ひとは、動物として苦痛回避をもって生の保護をする。苦痛は、なにより嫌な筆頭の反価値であり、これから逃れるために懸命になる。が、必要な場では、これをあえて受け入れる。目的実現のために必要な手段として苦痛があれば、この苦痛を甘受する。苦痛は、目的のための大切な手段価値とみなされ、これを耐え忍ぶ。当然、無駄な苦痛感受とならないように注意し、対策をとりつつの、あえてする苦痛の受容、甘受である。動物以上にひとは、苦痛の色眼鏡をかけて世界をみる。苦痛を反価値として単に拒否するだけではなく、甘受することによって高い価値が得られる不可避の手段価値とも見る。苦痛を反価値として凝視するとともに、これを大切な手段価値とみなす特殊な色眼鏡をかけているのが人である。
ひとの苦痛の色眼鏡は、ひとまずは視野が広大である。あらゆる危険を察知しようと見まわす。生を脅かすものは、どこにあるか分からない。隙があれば、災いが降りかかってくる可能性があり、あらゆる方面へと視野をひろげて、苦痛・損傷の可能性、危険を点検して歩みを進める。かつ、現に苦痛が生じた場合は、これを回避しこれから逃走したり、可能ならこれを排撃し攻撃して苦痛・損傷の発生を阻止しなくてはならない。広い視野を持ち、適切に危険を察知できるのが苦痛の広視野望遠鏡である。でありつつ、現に損傷が生じて苦痛が実際に感じられる段になると、このことに集中していく。そこでの視野は、極端に狭くなりその苦痛に焦点をしぼり、これへの細心の対応にと腐心する。意識はその一点に集中し凝視して、微細な苦痛も見逃さない顕微鏡となる。その一点の凝視で他のことはお留守にすらなっていく。苦痛は、視野の最大(あらゆる危険へのサーチ)と最小(生じた苦痛への意識の集中)を求める。快だとまどろみ眠り、意識を無用にしていくが、苦痛は、その反対で、意識を覚醒させ、意識を苦痛からそらすことを拒む。この意識の集中は、苦痛へのそれであるから、苦痛以外の事柄については、お留守になり、安らがせ安堵させ恵みをもたらすものといった方面については、見逃し勝ちとなる。悲観的であり、楽天的楽観的な方面は見逃してしまうことになる。仏教は、この人間世界を、苦界・苦海と捉えた。悲観的な苦痛の暗い眼鏡をかけてこの世界を見れば、確かに、どこを見ても苦痛が満ち満ちている。悲嘆せざるをえず、厭世的となり、出世間、出家主義となる。