7-1-1-4. 有の反対の無は、有るのか無いのか
物は、手応えをもって有る。それを否定して、無いというところに、無が登場する。この無は、単に有る物を否定して、さしあたり、無いと無規定に突き放すだけの消極的なものにとどまる。手に痛みが有るというが、痛みの有が消えたら、単なる無になる。というより、その無自体は、無い。が、有と無が対立するという場合には、その無は、有に反対の手応えをもち、対等の対立的有となる。手の痛みの有と無とはちがい、その暖かさが無化したとき、場合によっては冷たさという反有の無が有ることになる。
有と無は、対立的に捉えられることがある。感覚的には多くがそうである。光という存在に対して、それに対立的に存在するものとして闇・黒色をいう。日常的には、闇・黒色も光と対等な対立する存在とみなす。「闇が迫る」「黒色に染める」という。だが、それは、存在していた白色等の光が存在しなくなっていっただけである。客観的実在的に捉えるなら、光があり白色があるだけであり、黒色や闇はない。黒色とは、光の無を実体視しているのみであって、真実には、存在しないものである。そういうことを突き進めて、存在・有のみがあるのであって、それの欠如の無は、手の痛みの有が無くなった場合の、その無のように、ないのだと進めていくことがあった。古代ギリシャのパルメニデスは、有のみが有るのであって、無は、有るのではないから、真実、無いのだと有のみの一元論を主張した。二元論的に無を実体化するのは、感覚的にしばしばそうなるとしても虚妄であり臆見の世界になるとした。真実の世界は、有のみの一元論にあると捉えた。有のみがあるのであって、それの無は、有(手応え)に対して、それが無いというだけで、無としてなにか(手応え)が存立するのではないということである。
胃痛・頭痛の苦痛の存在・有からいうと、パルメニデス的で、苦痛が有るのみで、その苦痛の無は、単に苦痛が消えるのみで、無が積極的に存立するわけではない。胃痛・頭痛は、特定の場に、胃や頭に定有する。だが、苦痛が消えると、なにもかも無くなって、無とすら感じない。痛みがなければ、胃や頭の存在すらも霧散し、無ですらもなくなる。あるのは、苦痛の有のみである。無は、ない。だが、その無が苦痛の反対として存立して、苦痛の空、無苦のさわやかさとして感じられることもある。無は無として存在することになる。さらには、単に苦痛が無いというだけの消極的なさわやかさ安らかを超えて、積極的になった苦痛の無は、快となる。諸欲求は、満たされない苦痛を無化するとき、快を抱くことがある。快感情が苦痛の無、苦痛の反対のものとして手応えをもって成立することである。その快は苦痛の固有の他在であり、反対の存在となる。快は、苦痛の有を無化(中和)する力をもって、対立的存在となる。
パルメニデスとは反対の主張をしたヘラクレイトスは、世界は戦い・対立をもって成り立っていると見て、昼と夜、つまりは、光と闇は、同じように対立しつつ存在していると捉えた。無もまた、有の他在として対立したものとして、存在すると見た。その有と無の対立のもとで世界が可能になっていて、対立しつつ、統一され調和をなりたたしめていると考えた。確かに、世界には、二元的に対立的な二項からなっているものが多い。男女などは、光と闇とちがい、同一の積極的に存在するものの、対立するペアであり、相互に手応え(支えであり抵抗である)を持って存在を確かめつつ、それが一つになって補完しあいながら人間世界の持続を可能にしている。磁気や電気のNS、+-は、対立的であって一つの全体を可能にしている。二元的に存在しているが、同時に一体的である。磁気も電気も、正と負として二元論的に存在しつつ、同一の磁力線、電流として一つのものとして一元論的にみることもできる。