サイトマップ

2025/06/26

世界観を創る苦痛

7-1-1-4. 有の反対の無は、有るのか無いのか  

 物は、手応えをもって有る。それを否定して、無いというところに、無が登場する。この無は、単に有る物を否定して、さしあたり、無いと無規定に突き放すだけの消極的なものにとどまる。手に痛みが有るというが、痛みの有が消えたら、単なる無になる。というより、その無自体は、無い。が、有と無が対立するという場合には、その無は、有に反対の手応えをもち、対等の対立的有となる。手の痛みの有と無とはちがい、その暖かさが無化したとき、場合によっては冷たさという反有の無が有ることになる。

 有と無は、対立的に捉えられることがある。感覚的には多くがそうである。光という存在に対して、それに対立的に存在するものとして闇・黒色をいう。日常的には、闇・黒色も光と対等な対立する存在とみなす。「闇が迫る」「黒色に染める」という。だが、それは、存在していた白色等の光が存在しなくなっていっただけである。客観的実在的に捉えるなら、光があり白色があるだけであり、黒色や闇はない。黒色とは、光の無を実体視しているのみであって、真実には、存在しないものである。そういうことを突き進めて、存在・有のみがあるのであって、それの欠如の無は、手の痛みの有が無くなった場合の、その無のように、ないのだと進めていくことがあった。古代ギリシャのパルメニデスは、有のみが有るのであって、無は、有るのではないから、真実、無いのだと有のみの一元論を主張した。二元論的に無を実体化するのは、感覚的にしばしばそうなるとしても虚妄であり臆見の世界になるとした。真実の世界は、有のみの一元論にあると捉えた。有のみがあるのであって、それの無は、有(手応え)に対して、それが無いというだけで、無としてなにか(手応え)が存立するのではないということである。 

 胃痛・頭痛の苦痛の存在・有からいうと、パルメニデス的で、苦痛が有るのみで、その苦痛の無は、単に苦痛が消えるのみで、無が積極的に存立するわけではない。胃痛・頭痛は、特定の場に、胃や頭に定有する。だが、苦痛が消えると、なにもかも無くなって、無とすら感じない。痛みがなければ、胃や頭の存在すらも霧散し、無ですらもなくなる。あるのは、苦痛の有のみである。無は、ない。だが、その無が苦痛の反対として存立して、苦痛の空、無苦のさわやかさとして感じられることもある。無は無として存在することになる。さらには、単に苦痛が無いというだけの消極的なさわやかさ安らかを超えて、積極的になった苦痛の無は、快となる。諸欲求は、満たされない苦痛を無化するとき、快を抱くことがある。快感情が苦痛の無、苦痛の反対のものとして手応えをもって成立することである。その快は苦痛の固有の他在であり、反対の存在となる。快は、苦痛の有を無化(中和)する力をもって、対立的存在となる。

 パルメニデスとは反対の主張をしたヘラクレイトスは、世界は戦い・対立をもって成り立っていると見て、昼と夜、つまりは、光と闇は、同じように対立しつつ存在していると捉えた。無もまた、有の他在として対立したものとして、存在すると見た。その有と無の対立のもとで世界が可能になっていて、対立しつつ、統一され調和をなりたたしめていると考えた。確かに、世界には、二元的に対立的な二項からなっているものが多い。男女などは、光と闇とちがい、同一の積極的に存在するものの、対立するペアであり、相互に手応え(支えであり抵抗である)を持って存在を確かめつつ、それが一つになって補完しあいながら人間世界の持続を可能にしている。磁気や電気のNS、+-は、対立的であって一つの全体を可能にしている。二元的に存在しているが、同時に一体的である。磁気も電気も、正と負として二元論的に存在しつつ、同一の磁力線、電流として一つのものとして一元論的にみることもできる。

2025/06/19

世界観を創る苦痛

7-1-1-3苦痛「である(Sosein)」 

 物の定在は、特定の時空間を占めて有るということだとすると、なお、その存在の具体的な特定の存在様式については、触れていない。どんなものも、時空間に単にあるだけではなく、特定の在り方をもっている。同じ時空間にあるという場合、並んで有るというだけではない。相互に特定の有り様をもって具体的に存在する。つまり、箱の中に何かがあるという定在(Dasein)は、さらに、一定の手ごたえをもち、一定の手触りをもつ。手ごたえがあるだけでなく、ごつごつしているとか、温かいとか、手に刺激的といった特定の在り方をする。そういう有り様は、単にそこになにか「がある(Dasein)」定在をいうのではなく、そのものの固有の規定を示した「である(Sosein)」ということである。痛みを語るとき、皮膚に痛み「がある」というとともに、ズキズキする痛み「である」と痛みの様相を語る。箱をさぐって、なにか「がある(Dasein)」というとともに、そこに有るのは、リンゴ「である(Sosein)」とその存在の本質・特質を語る。あるいは、リンゴ「がある(Dasein)」とともに、それは赤くて甘い果物「である(Sosein)」(どの様に、いかなる相をもってあるのかということでSoseinは「様在」「相在」と言えようか)と有を区別する。時空間については、存在としては、空間は、物を並存させるという働きを有した様在(Sosein)であり、時間は、継起にと秩序づける様在(Sosein)だということもできるであろう。

燃焼における、実体として、燃素(フロギストン)を言った。「である」という本質規定、燃焼する実体として言われた。だが、そういうものを見つけることはできず、その時空間的存在「がある」は、否定されて、酸素をもっての激しい酸化と見なされることになった。だが、その後、酸化還元(電子の放出と受け取り)として電子の動きを燃素相当のものとして言いうることになった。燃素的(「である(Sosein)」)もの「がある(Dasein)」と言いうることになった。

 手応え、抵抗は、時空間的な場を占有して、そこに入ることを拒否して存在を示すものであり、「がある」の存在を示す。この「がある(Dasein)」の存在するものの、有り方の固有性、本質規定の「である」は、Sosein(様在とか相在)となる。真田幸村とか猿飛佐助は、かつて少年(戦後しばらくまでの「かつて」だが)に人気があった戦国期の人物で、かれらがなにもの「である」かの在り様(Sosein)は、明確である。では、歴史上の実在人物なのか、かれらがいたのかという「がある(Dasein)」の定在については、猿飛佐助については、桃太郎などと同様、否と言わねばならない。普通、なにかがあるのかどうかを問題にする時、主語になるのは様在で、浦島太郎などとなる。そして、これが実際に存在したのかと定在を問う。一体、浦島太郎という人物は、歴史のうちに実在したのか、定在したのかどうかである。存在を問題にするときは、通常は、様在(Sosein)ではなく、定在(Dasein)の方になる。真田幸村は、史上の人物として定在したようだが、猿飛佐助は、おそらく、その歴史的な定在(Dasein)はなく、単に紙上にのみ、空想世界にのみ定在(Dasein)をもったものだったのである。

   

2025/06/12

世界観を創る苦痛

7-1-1-2苦痛「がある(Dasein)」 

一定の時空間を占有して、そこに入ることを拒むものとして物は存在する。そこに手を伸ばすと、入ることを拒んで抵抗のある状態に、その手ごたえに物の存在を知る。物は、一定の時空間を占めて存在する。存在するとは、その時空の場を占有しているということである。空虚な時空は、そこに何ものも存在していないことを指す。物は、時空間のもとに存在する。そういう存在を「がある」の定在、定有(Dasein)で語ることがある。空虚な時空間をいうように、時空間と物の定在は、一応、別である。時空間は、物の入れ物であり、物とは別である。しかし、物は、常におのれの時空間を有するもので、時空間は物とは別ではなく、物の存在の仕方の二つの形式・秩序だという場合もある。時間は現在・過去・未来からなるが、現在とは自分の生きている今のことであり、過去とは自分から見て過ぎ去った時であり、未来は、自分からみて未だ来たらざるものである。空間も、ホドロギー(人間的)空間は、人間抜きにはありえない。自分(人間)が原点に存在しての空間の成立であり、前後、上下、左右の三次元空間は、その人間が生み出しているのである。ユークリッド(物理的)空間の方面でも、昨今は物質による空間の歪みの形成をいい、空間の歪みが即、物だと言うこともある。遠方の星雲は、途中の星雲によって空間がゆがめられ歪んで見えるというし、空虚な空間というが、エーテルによって満たされた空間だというような仮説をいうこともあった。 

 空間は、物の並存の形式で、時間は、継起の形式であろうが、これは、物が存在しての捉え方で、何ものも存在しない空虚な空間・時間を想定もできる。それは、存在・定在もそうである。何ものでもない単なる存在・有(Sein)を語ることがある。だが、これらは、抽象した理念的世界においていいうるだけなのかも知れない。この世界は、一定の有、定在(Da-sein)であり、特定の時空間に定在してある。何もない単なる時空間、なにでもない単なる存在・有は、抽象として言いうるだけかもしれない。樹木があるというが、樹木という木は実在しない。有るのは、街道にならぶ特定の松であり、街路の楓である。痛みがあるとすると、かならず、特定の痛みとして胃痛、頭痛等として存在する。抽象したところでのみ、普遍・類は言いうる。空間も存在も同様で、実在するのは、特定の空間であり、特定の有、定在(Dasein)である。端的な存在・有は、抽象でしかなく、実際に実在するのは、特定の存在・定有である。箱をさぐって、手ごたえがあれば、何かが有るという。それは、手にとっての特定の手ごたえをもつものである。空気があっても、手に抵抗・手ごたえがなければ、なにもないという。ここでの存在・有(Sein)は、特定の一定の定有(Da-sein)としてあるのである。その定有の一定・特定のそこ(Da)とは、時空間的な限定ということになる。どんなものも、一定の空間を占めて有り、一定の時間のもとに有る。どこにという場合、客観的実在世界にと特定した定在(Dasein)であったり、主観内という場の存在(Dasein)であったりする。神の有無についていえば、信者は、実在世界という場にあると言い、非信者は、それは、単に信者の主観世界にのみ定在するものだと否定する。

 有、存在(Sein)そのものを、一定の時空間を占めていることと言ってよいのかも知れない。いずれかの時空間を占有し手ごたえをもっていることが、有る、存在するということである。その一定の時空間を占めた存在が、定有(Dasein)である。なお、時空間自体も存在として捉えられるであろう。物の存在にとって空間は、そこに定位しうるための形式・入れ物であれば、そういう手応え(支え)をもっているのである。時間も、物にとっては、不可逆的に流れてやまないものとして、手応えを示す。物が存在するための、二つの根本形式(秩序)としての存在になるであろう。 

2025/06/05

世界観を創る苦痛

7-1-1-1「あるSein」「ないNichts」「なるWerden」 

場所を占有していることを「有る」と見ていいだろうが、我々は、その有るを、「存在」と表記することがある。その「存」は、時間的占有で、「在」は、空間的占有を語る。「存命」「在宅」は、前者は、一定の時間のもとに有ることを指し、後者は、一定の空間のもとに有ることを指す。では、「有」は、なにを指すのであろう。「そこに有る」というように、特定の場(時空間)への所属を、あるいは「お金が有る」というように、所有とか占有を指す。

 多くの言語で、「ある」は、コプラ(繋辞)、be動詞に結び付く。主述を並べて叙述するとき、はじめには、「血は、赤い」と主述を並べて済ましえた。それを否定することが必要になったときには、「血は、赤く ない」と否定を無・非・否で示すこととなった。その後、その否定を拒否して明確に肯定するときには、「血は、赤い」だけでは、「ない」に対抗するだけの強さに欠けるので、無を拒否して、結びつくもの、be動詞「ある」をもって対抗することになったのであろう(そうでない言語もある。中国語は、有ではなく、是非の是をもって非に対抗する)。主と述を結びつけるために、積極的に肯定するものを持ってきたのである。それが「ある」の成立になるのであろう。日本でも、「彼は、嘘つき」が否定されて、「彼は、嘘つき、ではない」と言われたとき、これに反対し拒否する場合は、「彼は、嘘つき、である」と「ある」を使う。主語が、その述語を非・無と拒否せず、結びつけ、その述語を有していると「ある」は主張するのである。「ある」は、主述の間での結びつきを、したがって、その主述の間での相互の内属関係を示した。その「ない」「ある」の反復の中から、「ある」ということは、時空間等への内属、占有などを、「ない」、無は、そういう内属とか占有が見られない場合を指すことにもなっていったのであろう。

 コプラ(be動詞)から見ると、無(でない)が最初で、有(である)は、その無を拒否して主述の結びつきを明確に確定するところに出てきたものであろうが、「ある」は、「ではない」の否定からではなく、「なる」から成立したものともみられよう。日本語では、成ること、生まれることを、「ある」ということがある。有るように成る、ということであろう。「痛みと成る」ことで、「痛みが有る」こととなる。成るは、有と成るのだが、無いところから成って有るのであり、この有は、うちに無を含んでいて、静止状態で有り有りと有り続けることはできず、やがて「無く成る」のでもある。成る、成は、コプラに基づく「では無い」と「で有る」の拒否の並列とは異なる。成のもとでの有は、無との統一において見出される。希望が有るというとき、単に有なのではなく、その無の絶望をうちに含みつつ有る。「なる」成は、無をうちに持ちつつ有るというこの世界のより真実の姿を、動いて止まない「成って有る」有を捉える。

 ヘーゲルは、その(存在の)論理学の始まりを、有(Sein)におき、そこから、単なる有では、何も無いに等しいと無(Nichts)に移行し、現実は、両方の結びつきに、無が有になり(生成)、有が無になる(消滅)という成(Werden)として存立すると展開した。これは、物事の展開の基本的なあり方になる。昔話の語りなども、まずは、純粋な有からはじめる。「昔、爺様があった」と。その「あった」は、何も内容がない。無である。爺様が剥げていたとも、転んだとも、山へしばかりに行ったとも言わない。単に有るだけである。その話の時空間にまずは、有るというだけである。その話の場を占有し、あるいは、その場が内属させていたというだけである。そういう、登場させるだけの「あった」である。そこから次第に種々の事柄が生成してくる、その「成る」の始原の「ある」である。語り手のもとでは、すでに、「お爺さんは、禿であり、お人よしであり、雀の世話好きである・・・」と具体的な「ある」、有になっているのだが、それをまずは、抽象の極み「有る」とだけ言う。聞き手には、まだ、なんの「ある」でも無いから、無でしかない有である。この(無の)有からだんだんと具体的な有にと成っていくのである。

2025/05/29

世界観を創る苦痛

7-1-1.孤立した存在も、時空間を占有し手応えをもつ  
 存在を手応えとした場合は、当の存在自体ではなく、それのかかわるものから見てこれを捉えたものになる。それでは、独立・孤立した物の存在は捉えられず見逃されることになる。多くの場合は、そのものに対応する存在を問題にし、関わりの中にあるので、関わるものにとっての存在、手ごたえをもって、共に有るものとして存在を捉える。抵抗しあうもの、支えあうものが共に有っての、相互の存在の確認となる。箱の中をさぐって、手に抵抗するものがあれば、その抵抗する存在を知り、同時に自身の手が抵抗していることにおいて、自身の手の存在も知る。だが、共にある存在でない、孤立無援の存在もある。   
 単独の星は、何かへの手応え・関わりをもたずに存在しうるであろう。単独に周囲とは無縁に存在するものがある。だが、これも、時空間のうちに、特定の場に存在する。それは、その時空間を自身の存在する場として占有しているはずである。時空間の占有をもっての存在である。人が所属の社会から逃れて無人島に一人住むとすると、他の誰にとっても、手ごたえをもたない存在となる。だが、彼は、その無人島という空間を占拠し、特定の時間のもとに存在するのである。その時空間の占有は、この時空間への手応え、抵抗をもつことであり、その時空間への手応え=存在となる。その空間を占有するものは、なにもない空間を否定して、その場をそれでもって満たし占有するのである。空間にとっての抵抗・手応えということになろう。とすれば、やはり、存在は、手応え、抵抗とすることで通用することになる。人間的な(ホドロギー)空間になると、その空間自体が個々の人間をもって成り立つ。空間にとって、手応えどころか、人間存在が前後・上下・左右の空間を創り支える。人間という存在は、孤立無援で単独の存在であっても、空間と共に有るのであり、その空間自身をその人間が創造もしているのである。その時空間の中心にその人が手応え(抵抗というより、支え)をもって存在していると見なすことができるであろう。   
 無人島で彼が死んだ場合、その島の時空間においても手応えがなくなり、この実在空間にとって、無となる。ただし、誰かが思い出のうちに想起するような場合があれば、その人の記憶の時空間の中に手応えをもって有り続けることであろう。それは、その主観のうちの一定の時空間を占有してあるということになる。客観的にそれがないのは、客観的な空間のうちには、その場を占有し、手応えをもつものがないから、ないのである。ある・ないは、一定の場所、時空間のうちの部分を占有していること、そこに手応えを示しているかどうかということであろう。であれば、「ある」、存在とは、時空間を占めて手応え、抵抗あるいは支えをもっていることといえるであろう。孤立無援のものでも、それは、時空間を占めて、有るのである。「ある」と言われた時、見渡して、有りそうにないなら「どこに?」と聞く。それに対して「あそこに」「この前」有ったよと答える。どことか、あそこ、この前というのは、時空間を指す。有る、存在は、実在はもちろん、幻覚であっても、その各々の時空間の元に定位して、手応えをもって有るのである。  
 時空間は、物の存在の継起と並存の形式(秩序)であるが、これらも、存在を問うときは、物への手応えをもって確認する。物が並ぶときには、空間が制限し、あるいは支えをしてくれるという手応えとしてあろう。時間は、継起するものを可能にし、過去にさかのぼることを拒否するといった抵抗・手応えをもったものである。運動する物は、時空間の変異のもとに可能になり、時空間の抵抗や支えという手応えをもって可能となる。時空間は、物とその運動を可能とする形式であるが、逆でもある。人間的な時空間は、人間とその営為(運動)が創り上げるものである。物理的な時空間も、根源的には、物の存在と運動が創っているのかも知れない。