7-3-3-2. 快を感じるかどうかは、些事
ひとも動物も、美味しいもの、快になるものを求め食べ、快にしたがうことで自動的にその生の促進がなる。が、他の営為では、快よりも苦痛によって駆り立てられることが多いのではないか。皮膚など、環境が損傷を与えることに対応する苦痛の痛覚はあるが、快適な環境に対しての快覚を有さない。快であるかどうかは些事で、生が損傷を受け生破壊となるような事態を回避して生維持がなるようにと苦痛に注意することが大切になる。
ひとになると、食には恵まれているから、美味しいものを選ぶことが普通になり、快が事を進めることが多くなる。だが、根本的には、食でも、苦痛があって、これが有害・有毒なものを排除する役割を担っている。かりに、石油が飲み物として間違って出された場合、口にして苦痛ですぐ吐き出すであろう。砂が混じったものであっても、それを察知した口は、その不快・苦痛を優先してこれに従い、飲み込むのをやめて、それをまずは、口の外へと取り出すことであろう。やはり、根底において、苦痛が見張っていて、このセンサーにかかるものは、受け入れないという態勢になっている。昨今は豊かな生活になっているので、食事に出てくるものは、大体が美味しいもの、快が普通で、その中で、より快であるものの選択になっている。しかし、根底には、苦痛・不快感情が控えていて、いざというときには、これが発動する。発動することがないからといって、苦痛はどうでもよくなっているのではない。生破壊の有害・有毒の食べ物が混じって出ることがなくなっているので、第一次の根本衝動の苦痛・不快を発動させないだけである。苦痛を手段価値としての選択が根源的で第一次の選択であり、快は、食でも、第二次の、栄養摂取という点でも些事となる、贅沢な選択である。気温でも、快感はなくても平気だが、猛烈な暑さで苦痛だとか、低温が身体に痛みを感じさせるような場合、それを感じる痛覚がないのだとすると、ひとの生保護はあやうくなろう。生にとって苦痛は、不可欠なものだが、快は、些事である。
精神的生になると、快は、ほんのエピソードになる。だが苦痛の方は、絶望とか不安、悲嘆などその生を揺り動かす大きな力をもっている。快は、主観的にも目的とはならない。「ぬか喜び」という純粋な喜びは、つまり、価値ある物の獲得を欠いて喜びの感情だけが与えられた場合、ひとは、立腹してこれを拒否する。精神的生とちがい動物的レベルの場合は、栄養ゼロとか若干有害でも、美味なら、これを人は喜んで受け入れる。だが、「ぬか喜び」という純粋な喜びの場合は、これを拒否する。快ではなく、精神的生では、価値ある物事の獲得を目的にする。それには、多くは快が伴うが、かならずしも快でなくてもよい。幸福など、恵まれて幸いが得られていても、幸福感情を持たないことがしばしばである。幸福論者は、そのことを不遜だと嘆くが、精神的生においては、快の感情は些事なのである。だが、苦痛、つまり、精神的苦痛の不幸とか絶望といった感情の方は、この感情自体が重大なものとなる。絶望とか不安は、それをもたらす事態とともに、その感情そのものが大問題で、これを一時でも感じないでおきたいと薬を使い酒を飲んで憂さを晴らそうとする。不幸の事態を解消しようと懸命になるとともに、この感情を感じないようにとつとめる。快とちがい、苦痛感情は、精神的生でも、主観的に大きな反価値であり、かつ、その事態の回避にと人を駆り立てる大切な手段価値となっている。