7-3-3-1. 快も気になるが、なにより苦痛のムチが事を進めていく
草食動物は、快に動かされて草をはむ。だが、肉食動物が迫ってくると、恐怖の苦痛が駆り立てて、草を食べるのをやめて逃走する。そのことで生は保護可能となる。快の方を優先したとすると、餌食に選ばれ生は損傷を受け死を迎えることになる。あるいは、空腹で苦痛であるから、草をさがし食べて生き延びようとするのである。もし、その空腹が快であったり何でもないのなら、食べ物を無理してさがすこともなく、死を迎えることであろう。生保存には、苦痛の存在が必須である。嫌悪すべき苦痛(損傷・死の告知)のムチが生を保護する。死(の想像)が生を支えるということになる。
ひとは、理性存在として自然のトップに立つ。その英知をもって世界を深く解明し、未来にあるべき自分たちの状態も客観的に描き出す。環境問題が深刻であると糾明し、あるべき指針を示してもいく。だが、理性だけであったとすると、事は進まない。快苦の感情などの衝動的なものが参加しこれを支え、あるべき方向へと現実に歩みを進めるのである。環境問題が深刻でも、それで人類は滅びていくとしても、そう理解するだけでは、まえには進まない。「そうですか、もう手遅れですか」と傍観して終わる。これを現に推し進めるのは、感情的ささえをもってである。その中で特別に強力なものは、苦痛感情・苦痛のもつ衝動力であろう。環境破壊、人類消滅の想定に対して、「そうなるかも知れませんな」などと落ち着いてはおれなくなるのは、これに不安感をもち、立腹し、悲痛の思いを抱き絶望させられてである。そういう苦痛感情がひとを駆り立てるのである。
環境問題に取り組んで、清々しい、愉快だと快の感情をもってすることもなくはないが、何と言っても、苦痛がことを進める。日本もずいぶん、公害で苦しんだが、それの改善に一番取り組んだのは、スモッグとか騒音に苦悩してきた被害者たちである。何とどう取り組んだらいいのかは、空気中の有害物質を解明する科学者たちのはっきりさせたことだが、その冷静で知的な営為自体は、公害撲滅の主力にはならなかった。これを進めたのは、苦痛である。煤煙等で喘息になり、あるいは、水銀中毒で家族を奪われた悲痛の人々であった。苦痛が、人間としてあるべき道を押し進めたのである。
個人の歩む道にしても、理性・知性が一応ことを進めていくけれども、快不快の感情によって内実進められることが多いのではないか。知性が冷静に考えて、自分の能力・関心からは、大学進学は音大がいいと判断し、現代のベートーヴェンになることを心地よく妄想しても、それでは、有閑階級に属していない自分は食っていけないと、不安感が立ち止まらせる。病人と一生付き合うのかと思うと気が進まないけれども一番食いはぐれがないのでと、医学部・看護学部に行こうというようなことを思う。食っていけない悲惨な未来の不安とか絶望といった感情が音大に行くことを拒否し、食いはぐれのない医療関係の道をやむなく選んだというようなことであれば、それをさせたのは、理性ではなく苦痛であろう。惨めな生活の苦痛を思って、それを回避する方向へと進んだのである。音楽家になりたい、作家になりたい、それが自身の天職だと思っても、それでは、悲惨が苦痛が待っていると思えば、その苦痛を回避したいと、苦痛の感情類が自身を鞭打って、食いはぐれのない道へと向けていく。苦痛が生を駆り立てるのである。