7-3-3. 苦痛は、やはり、生保存に根源的で必須のもの
激痛が続くと、苦痛がなければ、生は、安らかで、どんなに生き生きできることかと思う。苦痛は、嫌悪される代表となる、主観的には徹底して反価値である。いまわしい死神の脅声である。だが、主観的に徹底して嫌悪される苦痛であるからこそ、生の苦痛と損傷に注目が強制され、なんとしても苦痛は回避したいから、その損傷を免れることへと反応することになるのである。つまり、苦痛は、客観的には、きわめて効果的な生に必須の手段価値となっているのである。苦痛は、本源的に生の保護者としてあり、損傷を回避するようにと警告する。苦痛は無意味にひとを苦しめ悶えさせるのではない。損傷・破壊への対応不可能なところでは、普通、苦痛は生じないようになっている。内臓は、損傷を受けても、ひとが自身でこれに対処し損傷を回避するようなことはできないので、苦痛は感じないようにできている。その損傷に対処できるところで警告としての苦痛は発生するということでは、苦痛はよくできた手段価値になる(もちろん、頭痛など、自身で対処できないところで苦痛が生じることもある。生命進化の途中で、苦痛関連の神経の配線が若干混乱したのであろう)。
仮に苦痛がないとしたら、火に触っても、平気となる。たちまち、火傷することになり、大きな火であれば、焼死することになる。苦痛が生保護を可能にしているのである。あるいは、動物として生を保つには、栄養を摂取する必要がある。食は、生に必須である。その食べ物を摂取するとき、快がこれをさそう。だが、有毒なものをそこではまずは除去することがいる。食べ物にならない石油とか粘土を口に入れたら、それらが猛烈に不快で苦痛をもたらすことになる。苦痛になるものを排除・嘔吐して体内に入ることをまず阻止する。そのことで生は破壊されずに保護可能となる。その上で、栄養あるものは美味しいものとしてこれを摂取するし、美味しくなくても、苦痛になるような有害・有毒なものでなければ、これも摂取するであろう。あるいは、栄養摂取が必要なら、空腹となるが、それは、苦痛をもって知らせる。空腹の苦痛をなくするために食べることに向かい栄養摂取がなる。食においても、第一次の選択は、苦痛か否かでなされ、第二次の選択として美味しいかどうか快かどうかがあり、現代の恵まれた状態では、第一の関門は、口にする以前に排除されているので、食事に際しては、第二次の選択の快・美味のみが働くことになっているのである。