7-3-2. 残っているのは激痛のみならば、安楽死を想うことになる
苦痛は、人と動物の生をなりたたしめる必須の感覚・感情であるけれども、この苦痛のみがあって生の回復は不可能と確定したところでは、人は、生自身を廃棄し安楽死しようと決意することがある。苦痛は、主観的直接的には、嫌悪される反価値の代表である。苦痛は、死神のいまいましい鬼声・脅声である。その生に、苦痛しか残っておらず、死神の苦痛とだけ同居する状態になるのなら、生きていたくないと安楽死をもとめる。
が、嫌悪をもよおす主観的には最悪の反価値の苦痛であるからこそ、これを回避したいということが強烈で、その回避衝動をもって、苦痛をもたらす生の損傷は、回避可能となる。苦痛は、死神の接近を知らせる脅声であり、これが迫ってくると最悪、死に至るので、これを回避できるようにと、あらゆる事を放擲してこれに最大限の注意をはらい力を振り絞って、苦痛(損傷)から逃走しこれを回避して、生はおのれを保護できるのである。であれば、苦痛は、生にとって、これを保護・保存する、客観的には大切な手段価値となる。生は、常に死によって脅かされており、その脅迫の主観的感受が苦痛の感情であり、これほど嫌なものはない。苦痛は、何としても逃れたい主観的な反価値であるがゆえに、苦痛・損傷への強烈な回避衝動をもって、客観的には、生保護の根源的な手段価値となるのである。
その苦痛という死神の脅声が身近になり激痛が続いて、もはや死神からは逃れられないということが決定的となったら、この死神と一緒になることを拒絶して、自身を無化することを考えるようになる。激痛のみが残るのであれば、苦痛の客観的な手段価値はなくなった状態であり、その苦痛は、これほど嫌なものはない主観的な反価値の感情でしかなく、生は、自らを終わらせていく決断をする。安楽死は、自らの意志で自己の無化を図る、尊厳を有した人間の、最期の自由の行使である。
激痛がつづくと、苦痛は反生の邪悪な感情と意識され、その苦痛さえなければ、どんなに生は穏やかに生き生きと存続できることかと思う。苦痛は、邪悪な死神の脅声で、生の保護などとは、とんでもないと言いたくなろう。安楽死(euthanasia)は、「よい-死eu-thanatos)」ということだが、「よい」とは、死に方が安楽で、苦しまない死ということである。激痛しか残っていないのなら、死んでも「よい」ということでもあろう。生の損傷がいかにひどくても、回復の可能性があれば、死のうとは思わないであろう。もう死のうと安楽死を求めるのは、反価値の激痛だけが残っていて、それに耐えても生の復活は不可能となっているからである。尊厳の生をないがしろにし放棄しようという自殺は、反生・反自然の悪しき営為ではあるが、激痛のみが残った状態なら、死ぬことが例外的に許される、死んでも「よい」というのである。安楽死は、なにより、激痛をなくする。「安楽」になるには「死」しかない、死が救いだという感覚であろう。安楽死の方からいうと、反価値のみとなった苦痛に最後まで耐え続けての憔悴の末の死は、残酷な手段をもってする死刑であり、もっと長くたくさんの激痛を味わって死ねと身体を少しづつ切り刻んで嬲り殺すことに等しく、過剰延命の悪死dysthanasia(悪い-死dys-thanatos)になる。
苦痛のみなら生きている意味がないという安楽死の思いの生じるところからすると、苦痛は死をもたらす、苦痛は死をまねくということであり、苦痛が生を保護している、苦痛が生だということとは逆である。安楽死の方面から言えば、苦痛は死をまねく死神ということになろう。苦痛は生の損傷であり、苦痛が続けば、損傷が大きくなり最後は生全体の損傷・破壊として死に向かう。ではあるが、生がその本来的な生き生きした生命を保っている状態では、苦痛が生をなりたたしめているのも確かである。苦痛は、生否定的なことを察知して、人にその損傷・破壊を告げ知らせる。苦痛をもって、ひとは、損傷をもたらすものを感知して、これを回避でき、生を保護することが可能となる。苦痛がなければ損傷を受けても平気でありどんどん損傷をうけて死にいたる。生保護には、損傷を小さく済ますには、苦痛が必須で、苦痛は生にとって根源的な手段価値になる。生は、苦痛が守っている。苦痛は生の守護者、前衛になる。そうではあるが、激痛のみがあって生のガードは不可能という事態にいたっては、いたずらに生を煩悶させるのみとなってしまう。客観的な手段価値であることがゼロとなって、残っているのは、主観的な反価値のみで、激痛のみが続くのなら、無意味な苦痛甘受などやめて早々に生をたたもうというのが安楽死であろう。