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2026/01/15

世界観を創る苦痛

7-3-3-3. 快は終結感情、苦痛は未決感情    

快のアメのもらえる時があるが、それは、ことがうまくいったときで褒美である。そのアメをもらって、ことはすべて終了ということになる。快と一体になりつつ、まどろみ、眠りにつく。だが、苦痛は、ちがう。それは、ことの始まりである。苦痛発生とともにその原因となるものから逃げることを開始する。あるいは、嫌な苦痛を引き受けるのは、それを手段として目的が達成できるからで、なるべく苦痛を小さく済ませられるようにと、苦痛止揚にむけて懸命に対処を始めていく。ムチで打たれるのは、ことが終わって、失敗の罰であることもある。そういうときでも、その苦痛に、快のように浸ることはなく、痛む自分自身に距離を持とうと動く。あるいは、ムチ打つのは、事を進めていくときで、進まないともっと強い苦痛を与えるぞと脅すのであり、打たれる方は、その苦痛を回避するようにと動き、快のようにその苦痛に留まろうとなど思うことはない。多くの苦痛は、生に損傷がはじまったときいだく。損傷が発生したと警告するのであり、危急の対処をすべしと緊張させ覚醒させ、意識をその損傷・苦痛に集中させる。苦痛はそれをなくするようにと生を駆り立てる。快とちがいそれを感じて終わりとなるのではなく、その苦痛をなくするようにと、逃げたり撃退したり猛省していくことが始まるのである。苦痛がなくなるまで、苦痛は、ひとを駆り立てる。快が終結感情であるのと逆で、そこからことが始められる始発感情であり、未決感情である。

快が瞬時に終わることは、しばしば残念がられてきた。食の快楽も、のど越しの瞬時にいだくのみである。口に入れていただけでは、快とならない。のど越しに、つまり、確実に栄養豊かなものがわが物になったという瞬時にのみ、快は生じる。食道楽が鶴の長い首をうらやんだのは、快楽を長く感じたいということからである。逆に、苦痛は、口に入れただけでしっかりと、口にある限り、感じ続ける。石油をまちがって口にした者は、のど越しに至る前から、口に含んだだけで、苦痛を感じさせられ、吐き出すまでこれから逃れられない。快は、短く、ことの終わった瞬時いだくだけだが、苦痛は、事の始まりとともに抱き、原因の除去が完了するまで、延々と感受し続けて、長い。 

精神的社会的な生のもとでも同様で、快は、ことの終わりに瞬時いだくのみだが、苦痛は、その生じる原因が消滅するまで、いつまでも当人を痛めつづける。喜びの快感情を抱くのは、価値あるものが確実にわがものにできたときで、ことの終わりに瞬時いだき、そのことを振り返って喜ぶのも、短期であって、すぐに忘却されてしまう。価値ある物を分け与えたひとは、自身が損失したのだからいつまでもその贈与(分与)を忘れないが、贈与された方は喜び、快ですべて終わったのであって、すぐに忘却する。その忘却に、贈与者は忘恩を思い、忘恩、贈与(分与)の不快・苦痛をいつまでも持続させる。苦痛は、しつこく続く。喪失への苦痛、悲しみは、長く持続する。失ったものは、忘れない。簡単に忘れたのでは、生は、まっとうな存続ができなくなるであろう。いじめでは、いじめた方は、うしろめたい快をいだき、間もなくそのことは忘れる。ことはすでに終わっているのである。だが、いじめられた方は、一生忘れない。借りを返していないのである。ときには、仕返しをするために、人生をかけて延々と憎悪の感情をいだき、仕返しできるだけの力をつけたり、手段を作り上げて何年もあとに、仕返しを実行する。それでやっと、その苦痛の感情は終わりとなる。ときには、憎悪感情は、次の世代にまでバトンタッチされて続くこともある。恨みの不快・苦痛感情は、借りを返すまで、延々と続く。