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2025/03/27

苦痛に耐える尊厳

6-7-8-2. 内心と外的表出の間での葛藤    

人の内面・心は、動物的衝動・本能を有しつつ、その上にこれを制御する理性的意識をもって存在している。その外面は、余所行きの装いは、見栄えを気にし、人間的尊厳にふさわしいようにと心を使い、理性的に取り繕ったものとなる。外的な装い・表出は、内心・本心とは異なったものになることしばしばである。内の本音を言えばよさそうなものであるが、ひとは、両方を峻別して生きている。表向きは、発言しているようなことになるべきだと思いつつも、内心の赤裸々なエゴの欲望は、これを否定し、むしろ反対になることを求めているというようなことで、葛藤する。内の本心をそのままストレートに出したのでは、うまくいかないことが多い。ひとの感情など、其の場その場で目まぐるしく変わり、ときには、過激な鬼畜の欲望をもつような瞬間もある。しかも、一旦外に発言したものは、それが一瞬の過激な感情だったのだとしても、当人の真の思いはそこにあると固定されもする。うちに生じたものを不用意に出してはならないということになる。「お前のようなえげつない奴は、二度と顔を見たくない」とその時の過激な一時の感情で発言したら、そういう思いは、ほんの瞬時の過激な思いであったとしても、外に発言したとなると、その発言が本心と見なされ続け、おそらく、そう言われた者は、二度と顔を出さないことになっていく。うちにとどめて黙しておくなら、その思いは(外的には)存在しないものとして、穏やかな関わりを維持可能とする。うちにある思いは、そとに発言するものとは区別して、しっかりと内心にとどめておくべきことになる。 

ひとは、内外の違いに葛藤しつつも、その内面・本心を出さなければ穏やかに済むのであれば、うちから生じてくる過激な思いを抑止しつつ、表向きの冷静な思いや行動をとろうと努めることになる。エゴとしての個の思いを抑止しつつ、全体から見て正義となることをしぶしぶ語るというようになるのが普通である。が、場合によると、うちの思いが真実正義だというようなこともある。しかし、それを出しては、ことが荒立つということで、理性は、内面において正義と思いつつも、これをそとには出さないでいるようなことも生じ、葛藤を重ね悶々とするようになる。

外的な表現は、普通には、内にある自己を(屈折しつつも)外化するものであろうが、逆になることもある。外的事情が、自身の内面・外面を動かし、外的環境しだいで、内面をなす生き様自体も異なったことになる。その本心においては、おだやかで、他人思いでやさしい者であっても、外的事情しだいでは時に犯罪者ともなっていく。悪人になるか、善人になるかは、かなりが、外的事情によることで、相当に自身をあくどい心性の持ち主と自覚していても、恵まれた環境で、この上ない善人として生きることもあれば、優しい心性に富む者でも、環境によってはひねくれた悪人になってしまうこともある。善悪両面を具有しているのであり、可能性・素養としては、どのようにも現実化するものをもっている。

のちに大作家となった吉川英治が、親が病気で自分が稼がねばならない惨めな少年であったとき、切羽詰まって他人の畑のジャガイモをたくさん盗んできて、しばらく生き延びたというようなことを述懐しているが(『折々の記』「罪と新ジャガ」)、環境しだいでは、誰でも、そういう悪事に手を染めることにもなろう。したがってまた、環境がよくなれば、当然、そんな泥棒などせず、やがて、多くの大作をものにして国民文学作家と言われるような人物になっていったのである。あるいは、大会社の社長のようなトップに立つひとは、それこそ、吉川英治などとはちがい、人を蹴落として上に這い上がった者であればおおむね極悪のエゴイストのはずだが、皆穏やかで仏や菩薩であるかのように振舞っているのが普通である(窃盗や恐喝の傾向の強い人間のはずだが、もう大金をもち権力をもっているから、そういう類いの悪には手を染める必要がないのである)。人並外れて邪悪な者ですら、恵まれた地位に立てば、多くの場合、人格者としてふるまえる。ひとは、理性的存在として良心・良識を具備し、善悪を判断し、価値あるもの・善を追求する本性をもっている。悪を避け、善を求め、より良いもの・価値ある生き方をしようとする。邪悪な性向を有していたとしても、理性的制御をもって、動物的個我的な内面を抑え、人間的で普遍的合理的な体裁を整えて、卓越した生き方を各自において模索できる。それが、尊厳を有した人間の生き方である。