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2025/03/20

苦痛に耐える尊厳

6-7-8-1. 動物的生を支えとした精神的存在   

 ひとは、動物でありつつ、それを土台にして高度な精神的存在となっている。その動物的生を放棄すると、同時にその上にそびえている精神的生も消滅してしまう。常に、動物でもあることを踏まえていなくてはならない。精神的に卓越した存在でありつつ、同時に、どちらかというと弱虫の動物なのでもある。基本、精神的に生きるのであるが、つねに動物的なものによって制約されたり、支えられたりしているのであり、動物でもあることを忘れることはできない。動物的な食や性は、人間的生活でも、大事な営みとなる。男女の性が社会的生活に肝要な事態となることはしばしばである。食も、自然を踏まえて、その社会と時代によって相当に異なったものとなっている。その動物的な食や性の欲求は、人間の基本欲求となり、精神生活のうちで、多彩な展開をしており、単に喉を潤すお茶でも、茶道となって、精神を豊かにするための手段とされたり、性欲は、しばしば、芸術のための素材となり、創作意欲をつくりだし、鑑賞の意欲を誘うことになっている。

だが、その動物的欲求は、精神固有の営為とは別であるから、純粋に精神的生の展開にとっては、妨害となることも生じる。宗教では、動物的欲望を抑止することが大きな課題となりつづけた。性欲を抑止することが教義において求められるが、生身の動物でもある聖職者のこと、しばしば異常な性愛にふけるようなことにもなった。性欲を、堕落させるものとして否定しつつ、生きている限り無化しきれるものではないから、精神的生の純粋な生き方をとろうとする者は、これと葛藤を続けることになった。それをほどほどに抑止して、精神的生を高度に保つことが日々求められたことである。性欲を抑止し独身で仏につかえる僧侶が、お気に入りの小僧を性的な慰みものにすることもしばしばあった。キリスト教世界でも似た性的な逸脱がかなりあった。身体がなければよいのにと何度も思ったことであろう。あるいは、隣人愛に満ちた聖人で通っているひとが、弱虫の動物として自分を偏愛するようなこともあった。聖人マリア・テレサは、自身が運営する医療施設では、病者の苦痛には、「イエスがそうであったように耐えなさい」と厳しかったのに、自身の苦痛については、これを回避しようと高度の医療を受けて甘く、矛盾していたとかいう。彼女は、身体が自分を悪魔にしてしまうと思ったことがあったに違いない。

性欲を絶つことはそれほど困難なことではない。異性のいる社会を離れれば、簡単にこれをなくすることができる。厳格な刑務所に入れば、食欲は依然健全だが、性欲は簡単に消滅するという。食欲は、一人になっても、生きている以上抑止できないし、抑止し続けると死となって、精神的生活自体を土台から破壊してしまう。ほどほどに食を充足することを踏まえつつ、精神的生の営みをそのうえに展開することになる。なくて済ませれば、動物的に他の生を犠牲にすることもないのであるが、何らかの生を殺めつつ生きることを受け入れる以外ないのが人の生である。人の尊厳は、動物的自然を超越した至高の存在であることにあるが、単に超越していてはなりたたない。常に、動物でもあることを踏まえておかねばならない。そこでの尊厳は、動物的生に流されることを抑止して、これを人間的精神的生のために生かすことで可能となるが、逆になりがちである。美酒・美食にのめり込んで非尊厳に陥ることになる。だが、そのような非尊厳状態を反省できるということは、それを脱して尊厳を回復できるということでもある。ひとは、自身を、尊厳を有した者と自覚しており、そこで動物的欲求に振り回される状態を悪しきこととして、その理性は自律自由を自覚しこれを克服していこうとする。自身を振り返り反省することができる。人間的尊厳を回復しなくてはと前向きになり、より確かな尊厳へと自己の生成をはかる。