6-7-4-4-1. アダムとイヴは、善悪を知って、(尊厳を有する)人間となった
西方世界では、人間の世界は、アダムとイヴに始まるというが、かれらは、はじめはエデンの園にいて、のんびりと天真爛漫に生きていた。だが、園にあった禁断の知恵の木の実を食べてしまい、その楽園を追放され、生産と生殖に苦痛を課されて、この二人をもって、苦難の人間世界がはじまったという。楽園から追い出されたときのその原因は、知恵の木の実を食べ、善悪に生きることをし始めたことであった。より価値あるものを選択する善と、より低い価値の方をとる悪である。裸体であることを悪しきことと捉え、動物的裸体の恥部を覆い隠すことを善とし、善を選択して、これを実行した。『創世記』は、この間の展開を絶対神をふまえて否定的に、失楽園の話にしているが、宗教的脚色を取り除いて、ここに尊厳をもった人間の誕生を見ていくこともできよう。絶対神の『創世記』創作のはるか以前に人は人となったのであり、原始の人たちは、焚火を囲みながら、あるいは洞窟の奥深く壁画に魅了され、神がかりしつつ、アダムとイヴのこの話に類したものを、自分たちの知恵の獲得の話を、誇らしく語っていた可能性もあろう。善悪を知り自律自由のもとこれを選択して生きるのは、人間だけである。自身にとって価値あるものとないものを知って、価値あるものを選ぶ善と、価値のない、あるいは低い方を選ぶ悪とをもって生きることになったのが、人の根本だというのである。動物にも幼児にも、なお善悪はない。善悪の知恵の果実は、子供の手のとどかない高みの木に実っていた。幼児は、動物と同様に、裸を悪いこととして恥じるようなことはしない。人となることは、善悪を知り、自身のその善悪への自由の行動に責任をもって生きるということである。悪への責任を問えるのは、悪を知る人間のみである。理性のもとに良心・良識を育てて、善悪を知り、よりよい生き方を自身で自由にできるのが人間の(尊厳の)核になる。原始、洞窟の薄明りの中、裸で無垢の子供たちは、善(悪)の印である恥部を隠す大人の厳かな衣装に憧憬の眼を注ぎつつ、アダムとイヴのような、尊厳を有する人間創成の話を聞いていたのではないか。
ひとは、一つのものにその多様な欲求をもって、それを満たすものとしての価値を多様に見出し、その間の高低の価値づけをする。一つのものも多様な価値をもったものとなり、多彩な価値世界を作り出す。自然感性のもとにはない、普遍的概念的なものをもって世界を捉えて、これを自分たちの諸欲求を満たすものとしての価値をもってランク付けしながら描き出し、それを自由に選択することになった。より価値があると自身の判断したものを自由に選択してこれを実現していくのである。善悪の価値世界を創造し、自律自由の世界に生きることを人間は始めた。動物は、善も悪も知らない。善悪の判断ができない場合は、罪を問うことはできない。動物には罪を問えない。犬や猫が店先の魚を盗んだとしても、盗られた方が悪いと言う。あるいは、稲田に水がいるとき、自然が一切雨を降らさず干天を続けるとしても、それを悪事とはいわない。自然は、ひとに対して悪意をもって雨を降らさないのではない。ひとであっても、幼児には犯罪の責任を問えない。あるいは、心神喪失状態でなしたことも、そのことへの善悪の判断がないものとして、悪への罪を問うことをあきらめる。成人、人が人に成るとは、尊厳を有する人間的人格を備えた者になるとは、善悪の価値判断ができる知恵を有したホモサピエンス(知の人)になるということである。アダムとイヴは、善悪を知ることで(良心・良識を培い)動物を超越して人間になった。彼らは、悪(自然体としての裸)を避けて善(恥部を覆い隠す)を選択した。だが、ひとは、アダムたちが自身の自由のもとで善をとったように、逆に悪を選ぶ自由も有する。のちの者たちは、しばしば自然感性(裸体)を優先して悪に誘惑されて恥ずべき悪事を行うことにもなっていった。