6-7-4-4. 善悪の世界に生きるのは、人間だけである
動物の世界には悪はない。本能・衝動にしたがうのみで、善悪の判断で動くものではない。善悪は人のみが有している世界である。善悪の価値をもった世界を見出して、これにしたがって自律自由のもとに生きるのは人間だけである。自由に選択できる種々の価値ある事態を見出し、そのうちからより価値あるものを選択するのを善とし、より価値のないものを選ぶのを悪とする。理性をもって善の世界を見出し、動物を超越した尊厳をもった世界にひとは生きることとなった。だが、同時に、動物でもある人間は、より価値のない方を選んで、悪いこと、悪と承知しつつ、自身の感性・衝動を上にたて、理性をないがしろにして、これに従う場合も生じた。それもまた、自律自由の人間のみが見出している動物を超越したというか、動物にはありえない状態(悪)に堕しての生き方ではある。
価値は、主体の求めを充足できるところにあり、常になにかにとっての価値である。一つの実在物も、多くの価値づける主体をもち、無数の価値をもつ。一つの果物でも、食の快を満たす美味という価値だけでなく、美的価値、薬用のための価値、交換の価値等をもつ。それら無数の価値づけ、比較があって、その場に見出されている、よりましな価値あるものを選ぶのが善となる。低い価値を選ぶのが悪である。一つのもの・事態のうちに、自然的精神的な無数の価値を見出し、その場での選択としての善と悪を見出す。
ひとは、理性的存在であるが、他方で、動物的自然をもった心身を各個体として有しているから、これに動かされもする。動物的感性は、個我・エゴとしてのひとを突き動かす。だが、それは、身勝手な衝動等となるから、理性的な善悪を承知したものとしては、葛藤・苦痛を生じることとなる。エゴの衝動を抑止し、その快楽を抑止して、理性の良心・良識のもと、身勝手なエゴの悪を抑止し、感性の苦痛を甘受しての我慢・忍耐をもって、善を追求する生き方をすることとなった。だが、多彩な価値世界において、より価値のないものの選択としての悪の道も可能となったのでもある。その根本は、自然感性を優先して自律の理性をそれの下僕にすることであった。自律自由の存在としての人間は、悪の選択に自身の感性・エゴの方から誘われ、それを選択することも生じた。それも動物の知らない世界である。
悪という反価値の世界を動物は有さない。そういう世界は、善の世界とともに、諸価値の世界を知り自律自由のもとにある人のみが見出し開発した世界である。自由の人間は、悪をも選択できる自由の下にあり、悪を行うことともなった。ただし、尊厳をもった理性は、当然、自身の悪行を周知していることであり、その良心・良識は、これを恥じて、自身を価値あるものの選択、善へと向けなおそうとする。私的所有の原理をふまえて自身の物が盗まれたらこれを犯罪・悪として追及する者は、自身が盗みをするとき、これを悪と自覚してする。悪と断定し自身を自身で罰してこの犯罪を阻止する自己内の理性能力、良心が動く。自身のうちに、悪を阻止する良心・良識を有して、ひとは、その尊厳を堅持する。が、ときに、飢餓とか、正当防衛等々止むにやまれぬ事情から、その個我は、良心をヴェールで覆って自己や身近な者のために悪を行うこともある。