7-6-4-1. 損傷には、苦痛がなければ、淡々と対処できる
爪が損傷していても、痛みがなければ平気であり、それを放置しておける。あるいは、放置しておくと損傷が広がるかも知れない、病院にいってみてもらおうかと思案しつつも、痛みがなければ、行く決断ができない。痛みがなければ、たかが爪が割れたぐらいで医者にかかるなどという顔をされる気がして、行くことを躊躇する。だが、痛みがあれば、落ち着けないし、病院にいっても堂々と「痛むんです」と言えると思い、大手を振って病院に行く。痛みには、皆、火急・非常の対応をするのが普通である。腰痛などは、おそらく背骨に何等かの損傷があるのではと思うけれども、痛みが我慢できるなら、病院にいくのは躊躇する。腰痛の原因に多いという背骨自体の損傷は、これが曲がっておろうと、椎間板が飛び出しておろうと気にならず平気だが、痛みがひどくなって日常生活に支障がでると、治療はしてもらわなくていいから、痛みだけは小さくし、できれば、痛みをゼロにしてもらえないものだろうかと、病院の門をたたくことになる。損傷はどうであれ、痛みがひとを駆り立てるのである。その腰痛がなくなると、脊椎の損傷はそのままに放置しておいても気にならない。
爪や髪の毛には痛覚がないので、切られようと焼かれようと平気である。切り取られて損傷・破壊されることで、むしろ、それが美的度合いを増すのであれば、大いに切断してもらいたいと思うことである。これが、苦痛を伴うものだったとすると、おそらく、いくら美的にましになるとしても、拒否するひとが多くなることであろう。散髪など苦痛ではなく、さっぱりとして、気持ちよくなるので、自らが散髪してもらい、その切断・損傷にお金を払うぐらいである。苦痛が無ければ、切られようと焼かれようと平気である。
手術は、生の機能の回復、損傷を食い止め、もとの健康な状態に戻すことを試みるわけだが、損傷をなおすか、苦痛をなくするかは択一で、両方は無理だと言われたら、おそらく、普通には、苦痛をなくする方を選ぶのではないか。とにもかくにも、苦痛だけは回避したい、これから逃れたいというのが生あるものの常である。苦痛を嫌悪し、ひとは、それからの逃走を強烈に欲する。それほどに、苦痛はこの世の嫌われものである。癌などで、もはや苦痛しか残されていないと判明すると、命を絶つことがある。命を絶ってでも、苦痛とは一緒になっていたくないという、この世の最大の嫌われもの、最大の反価値物が苦痛である。
損傷も、死も、そこに苦痛が無ければ、淡々とこれに冷静な対応を人はとることができる。苦痛がすべてをぶち壊してしまう。苦痛になるとは、損傷した傷口に、もっと苦しめと、塩をすり込むようなものである。もっと苦しめ、もっと悩めと、傷口を苦痛でもって広げるのである。末期癌なども、激痛がなければ、穏やかに覚悟できる。それを、激痛を付け加えて、もっと苦しめ、もっと狂いまわれ、もっと嘆けと、悪魔・邪神の振る舞いを苦痛はする。苦痛は、この世の災い、悪の最たるものである。