忍耐論
近藤良樹
1. 忍耐の倫理的な位置
この「1.忍耐の倫理的な位置」は、広大図書館リポジトリに登載してあります。
以下の通りになります。
「忍耐の倫理的な位置(細論)」(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00048452)
2. 忍耐は、何を対象とし、どう働くのか-辛苦の甘受-
2-1. 忍耐の範囲は、決めにくい
同じ虫の音を、心地よく感じる民族があるし、不快な騒音と捉える人たちもいる。現代音楽は、これに慣れた者には心地よい音楽であるが、そうでない者には、不快な騒音である。心地よく思う者は、それらの音にやすらぎ、あるいは躍動感をいだくことになろうが、不快と感じている者には、それを聞くことが強制されるとなると、苦痛で、これには我慢・忍耐が必要となる。
同一の掃除の仕事でも、これを有意義と捉えてボランティアで率先してやるのなら楽しいことだが、無意味な奉仕活動と思っている者だと、ボランティアと肩を並べてごみ拾いをしていても、腹立たしく耐え難いものになる。同じ汗を流す仕事であっても、そのひとがどうこれを価値づけているかで、苦痛になることもあれば、楽しみとなることもある。楽しみなのであれば、少々のことならば不快となることはなく我慢・辛抱などの言葉も出てくることはない。だが、苦痛と感じるのであれば、それを続けることは、辛抱がいることであり、忍耐すべきものとなる。
忍耐は、不快・辛苦にするが、同じ客観的な事柄に発するものであっても、個人によってそれが不快とも快ともなるのであれば、忍耐になるものかどうかは、当人に聞いてみなくては分からないこととなる。よかれと思ってしたことでも、当人に快でなく不快をもたらしているのだとしたら、これをすすめるほどに、大きな忍耐を強いるのである。各人で快不快の感じ方は相当に異なるから、その忍耐も個人によって異なってくる。それが苦になり忍耐になるかどうかは、当人しだいということになりそうである。
2-1-1.
忍耐では、苦痛に平然としていて、苦も忍耐も見えにくくなる
忍耐は、苦痛であることを隠して平気を装う。主観内の苦痛であり忍耐であるが、そのおかれた状況を見れば、それが苦痛になることか、忍耐のいることかは、見る者自身における体験をもとにして、見当のつくことではある。だが、ひとによって、苦痛の感受性のちがいがある。同一人でも、ときによって過敏になることもある。知覚過敏の病いになると、なんでもない音や光にも過激に反応して苦痛となることがある。苦痛も忍耐もそとからは見えないが、当人は、苦悩し耐え忍んでいる可能性がある。
欲求も忍耐の対象になることが多いが、これは、各人が抱く内面的なもので、そとからの傷害・苦痛以上にわかりにくいことである。「蓼食う虫も好き好き」というから、人ごとに、好むもの・欲求するものは、異なる。忍耐している者は、さらにそれを隠して忍ぶから、ますます欲求も忍耐も分からなくなる。同程度の強さの欲求をいだいていたとしても、自制心発育不全のわがままな者には、わずかな欲求不満も耐え難いものとなる。普通の者には何でもないものも不満となるから、人並みに振舞おうとするなら不要の忍耐をすることになる。
怒りを見せないひとは、大様で穏やかなひとということになるが、怒りの感情自体をもちにくいひとの場合は、こころのうちから楽である。だが、怒りを抑圧して穏やかに見えているひとは、かならずしも内面においては穏やかではない。みかけは、穏やかで気楽にみえても、内には大いに怒りをいだき、これを無理やり抑えているだけということもある。当人は、怒りの忍耐で消耗している可能性がある。それでも、苦痛も忍耐も心の中の展開にとどまるから、穏やかなひとという評価となりうる。
2-1-3.
忍耐は、慣れてくると、しばしば苦でなくなり忍耐無用となる
苦難の状況があって「我慢している」と発言して耐えていたとしても、忍耐の場合、辛苦に慣れてくると、苦でなくなることがある。これもまた忍耐をあやふやにすることになる。正座は、慣れてないものには、すぐに大きな苦痛となり、忍耐が必要となる。だが、慣れてくると、苦痛ではなくなるから、忍耐は無用となる。慣れてないひとから見ると、苦痛を辛抱しているのだろうと感心するが、当人は、なにも忍耐はしてないというようなことになる。正座は、慣れると苦でないどころか、一番楽なものとさえなる。正座に慣れたひとのなかには、椅子は落ち着かず、椅子に座るときにも、椅子の上に正座して座るぐらいになる(その昔は、電車の座席でも、正座しているひとが結構いた。いまでも子供は外を見るために靴をぬいで窓に寄りかかり正座することがあるが、そういうのではなく、腰かけているひとと同じ向きで、である)。忍耐に慣れれば、苦でなくなるのみか、ときに楽にと成り変わる。忍耐とは無縁になる。
忍耐は、苦痛に耐えるのであるが、それは、それに倍する価値が得られるという目的意識のもとに引き受けられることが多い。苦痛の意識は、その忍耐の成果によってまるで異なったものとなる。その忍耐の苦痛が巨大な価値を得させるのであれば、苦でも耐え難いものでもなくなる場合もある。熱さの我慢大会で、賞金が巨額な場合、やけども平気になるのではないか。苦であればあるほど、大きな価値獲得がなる仕組みだとすると、その苦は、回避されるべきものではなくなる。苦が価値そのものとみなされることにもなる。もちろん、生理的には苦痛であり忍耐になることであろうが、それこそが価値獲得の証となって、精神的な快の構成部分にと成り変わる。
2-1-3-1.
嫌なことを嫌がらず、欲しいことを欲しがらず、したいことをせず
嫌なことを嫌がらずにするのは、つらい、苦痛である。欲しいことを欲しがらないようにするのも苦痛である。したいことをせずにとどまるのも苦痛であろう。これらのことを抑制するのは普通、苦痛であり、この苦痛を甘受するのは、我慢・辛抱であり、忍耐である。
だが、これらの不如意に慣れている者には、その(反)欲求自体が生じないこともある。欲求自体が小さくなっているのである。恵まれた普通の者には、耐え難い苦難と見えていることが、逆境に生きることに慣れている者には、なんでもないこととなっている場合がある。人間の適応能力は大きい。各人において、欲求もちがえば、嫌なこともちがう。同じことが、苦痛になることも快になることもある。したがって、各人において、忍耐になることもあれば、楽しみとなることもある。簡単には、忍耐しているか否かはわからないことになる。
ただ、一般的に嫌なこと、欲しいこと、したくないこと等には、平均値があるから、これにしたがって、苦痛になることか、忍耐になることかどうかと判断されうることではある。多数を前にして忍耐・我慢を求める場合は、一番贅沢な者、一番弱い者、もっとも身勝手な者を前提にした発言をすることも、商売ではある。ふつうには我慢でも忍耐でもないことでも、嫌なこと、欲求不満になるひとがありそうならば、「しばらくの間、辛抱願います」と忍耐を求める発言をすることになる。
2-1-3-2.
忍耐については、体験者とこれを想像する者とでは一致しないことが多い
ひとは、自分の体験をもとにして他人を見るから、忍耐の把握にまちがいを生じることになる。木枯らしの音を聞きながら暖かい布団のなかで、ふと、畳も布団もない時代のひとのことを思い、さぞ辛い忍耐のいる夜だったろうと同情する。だが、おそらく、ふとんのない時代のひとは、地面に藁をしいたりむしろでもって(「むしろのない昔の人たちは、さぞ辛かっただろう」と思いながら)気持ちよく横になっていたことであろう。現代でも、貧しい国々の庶民をみると、いたたまれなくなる。どんなにか惨めで辛いことであろうかと、それに忍耐していることにと感情移入する。だが、貧困の国の庶民は、いたって元気であり、貧困であることが生まれた時からの環境であれば、これを苦にすることはなく(学校まで、毎日、谷底から山の上まで延々と、熊と出会いそうな山道を歩いていくとしても)、忍耐など無用に生きていることも多いのではないか。
同じひとの一生でも、過去を思えば、貧困で苦難を想起するとしても(それがいまであれば、耐え難い苦であり、忍耐のいることだとしても)、そのころは、それが普通のことだったかも知れない。あるいは、そのころの他人と比較しても、惨めだったとしても、意外に平気に忍耐無用に生きていたのではないか。ひとは、適応能力に優れており、何にでもすぐに慣れて平生の事柄にしていくことができる。生まれたときから貧困な生活であれば、それが普通のこととなり、苦でも忍耐のいることでもないこととなる。大富豪のうちに生まれてもそれが慣れた平生のことであれば、それ以下の小富豪の生活になると苦痛となり、忍耐のいることになる。かつ、それに慣れると、それは苦でなくなり、忍耐も無用になる。そとから見ると悲惨であっても、慣れているものには、意外と安楽なことになる。苦も忍耐もこれをそとから想像する者と実際に体験している者とでは、まるで異なった理解のもとにあるということが生じる。
2-1-4.
忍耐は、個別主観内の出来事なので、客観的な比較がむずかしい
自分では苦痛に我慢していても、その苦痛もその感じ方も、ひとには直接的には伝え得ない。顔をつねっての痛みということで、同じようにつねって体験してもらうとしても、同じ痛みかどうかは不明である。顔の皮の厚いものは、痛みすら感じないであろう。かりに同じような痛みだとしても、これへの忍耐・我慢の大きさは、これまた人毎に異なる。痛みに慣れているものには何でもない些細なことでも、経験のないものには、大きな忍耐となることであろう。その痛みも忍耐も、主観内のこととして、比較はむずかしい。
もともとの感受性が異なるから、同じ刺激が与えられても、生じる苦痛は異なり、体験内容自体の比較も困難である。かつ、同じひとでも、経験を重ねると慣れて来て、正座のように、鈍感になるというか、適応できて、少々の刺激では痛むこともなくなる。外見では同じ体験であっても、内的な苦痛の体験は、まるで異なるものとなる。
かりに同じ激痛を感じることになっていたとしても、苦痛の捉え方が異なれば、苦痛のもたらす主体への衝撃の大きさはちがってくる。自分の身体に距離をもって離人症的であれば、苦痛を他人事に見なして、なんでもない些事と捉えることもありうる。逆に、ほんのわずかの傷と痛みにも、死ぬかというような大騒ぎをする者もいる。その傷は小さいのだが、当人には、大きな苦痛で、大きな忍耐がいることなのであろう。
病院で、死ぬかのような大騒ぎをする腕にかすり傷を負ったものと、無口で静かにしている片腕切断のひととでは、痛みも忍耐もかすり傷の者の方が主観的には大きいかも知れない。そうだとしても、静かに忍耐している腕切断のひとを優先して治療することであろう。苦痛と忍耐の有り様は、主観的なもので、客観的な配慮がいる場面では、これは、参考にするとしても、事を処する判断の中心にできないことも生じる。
2-1-5. 「忍び、耐える」は、一応は万物に言えそうである
忍耐は、忍び耐えることである。「じっと耐える」というのは、その状態を維持して「持ちこたえる」こと、内外の動きを抑制したり、圧力を受けても動かないようにと現状を維持しつづけることであろう。そういうように「持ちこたえる」「とどまり続ける」ことだけならば、万物に言える。「耐える」といったら、「耐」火煉瓦は、火に耐える。「耐」震の鉄筋コンクリートもある。だが、それらを、忍耐とはいわない。竹は、よく忍耐の表現につかわれ、「重い雪に耐え」「風雪を忍び耐える」等という。しかし、「竹が忍耐している」とは言わない。単に内外の力に抗して現状を維持し「持ちこたえている」だけでは、なお忍耐というには欠けるものがあるのであろう。
我慢する、辛抱する、忍耐すると言えるためには、そのための意識、つまり苦痛を感じ、これをあえて受け入れようと動く心が必要なのであろう。動物的生命にまで高まったところで可能となるものなのではないか。忍耐の対象の苦痛は、生の損傷とか障害あるいは欲求不充足への警告の感覚・感情である。損傷や不充足の回避は、苦痛を回避することで可能になる。苦痛から逃れよう、苦痛を排撃しようという衝動にしたがうことで、損傷を免れたり、これを小さくすることが可能になる。その自然の生保護の根本的な営為を忍耐は、抑止して、苦痛回避の衝動を動かないようにし、耐え難い苦痛をあえて受け入れる、甘受する。そういうように苦痛をいだき、かつそれを回避せず受け入れようとの意識をもっていてはじめて「忍耐」と言いうるのであろう。
2-1-5-1.
動物になると、忍耐が言えるであろう
動物には、苦痛の感覚・感情(心身の反応)がある。その苦痛をあえて選択し受け入れ甘受してという意識もあることであろう。動物は、忍耐しそうである。ただし、基本的には快不快のままに生きるのが動物で、不快からは逃げ、快適なものはより多く享受したいという自然的営為のもとにある。動物が忍耐する基本は、より大きな快なり苦痛のあることが並行していて、これを優先するために、手元の小さな苦痛の方は受け入れる必要があるという、快不快の自然的な選択においてなるものであろう。あるいは、欲求の場合、それを抑圧し忍耐するのは、より切実な大きな欲求があって、その実現には、小さな欲求や苦痛は無視せざるをえないという状況のもとで、この小さな苦痛・欲求不充足の甘受を選択し忍耐するのであろう。快不快で動かされる動物では、苦痛も、その甘受もあることで、忍耐は存在している。
ひとの場合は、快不快の自然にしたがう動物としての忍耐をしつつ、さらに、その自然を超越した忍耐が可能になる。動物的自然から自由になりえていて、価値獲得の手段として必要と判断すれば、自在に苦痛を忍んで耐えることができる。理性がはるかな目的を自由に描いて、これのために現前の苦痛甘受が必須となれば、これを目的達成のために忍耐する。大きな苦痛と小さな苦痛の選択肢が現前にあったとすると、動物は、大きな苦痛を回避する。だが、ひとは、その先を見て、大きな苦痛を受け入れたなら、その犠牲に見合う価値あるものが可能となると判断したら、快不快の自然を超越して、大きな苦痛の方を選択する。
2-2. 忍耐は、自分の主観内の辛苦を対象にする
忍耐は、同じ客観的な事柄について、人によって忍耐の対象であったりなかったりと曖昧なところがあるが、主観的には明確である。そこに苦痛・不快があれば、忍耐が成り立つ。「冷たい水を我慢する」「重い荷物に辛抱する」と、自分の外のものに忍耐するとはいう。だが、それら外のものが不快でなければ、あるいは快適であったとすると、「重い金の延べ棒」も「冷たい名水」も、忍耐は無用である。自分のものになる金の延べ棒は、重くて腕がしびれればしびれるほど、わくわくと愉快なことであろう。苦痛でないのなら忍耐はいらない。忍耐は、苦痛があってのものである。
大怪我をした場合も、この怪我に忍耐するのではない。自分に生じた痛みにする。もし痛みがないのなら(戦場などではときにそうなる)、どんな大怪我であっても忍耐無用である。あるいは、忍耐しがたいことになったときには、苦痛を無化すればよい。確実に忍耐無用にできる。大怪我自体はどうなっていようとも、苦痛さえなくできれば、忍耐はいらなくなる。忍耐は、苦痛にするのであって、直接的には、その原因の傷にするのではない。
そとに何もなくても、痛めば、これには忍耐がいる。炎症もなにもなく原因不明でも、歯が痛めば、この苦痛には忍耐がいる。妄想で痛みが生じても、ひとの携帯電話の電波が自分の脳を突き刺して痛めつけるのが妄想であっても、当人には辛いことで、日々忍耐して鬱憤をためる。対象がない無への不安でも、これに苦しむ者には、忍耐がいる。忍耐は、もっぱら自己内の辛苦・苦痛にするのであり、苦痛の有無はまちがうことはなく、どんな物でも、否、なにもなくても、苦痛があれば、これへの忍耐はありうることとなる。
2-2-1.
辛い懸垂は、苦痛にではなく、力むことに忍耐している感じだが・・
懸垂では、そのはじめは忍耐無用で、意志は力を筋肉に入れて懸垂を実現する。忍耐なしでできるのだから、忍耐が懸垂をさせているのではない。だが、腕が思うように動かず辛くなってくると、懸垂をやめたくなってくる。そこでなおこれを持続するには、辛さに耐えて力を振り絞ることが必要になる。辛さに忍耐するのをやめると懸垂は終わる。この段階では、忍耐が懸垂を持続させるに大きな力となってくる。だが、いくら忍耐しても、おそらく、懸垂自体は、せいぜい、何回か伸びるだけであろう。あとは、どんなに懸垂しようと力んでも辛さの忍耐を持続させても、懸垂自体は、無理となる。無駄に辛さを忍耐するだけとなろう。忍耐は懸垂をさせる力をもっていない。もっと懸垂できるようにするには、忍耐力をいくらつけても無理なことで、腕を、その筋力を強くすることが必要である。
では、忍耐は、懸垂でどういう働きをしているのであろうか。腕が辛くなり苦痛になると、その原因は懸垂にあるということだから、忍耐しない者は、苦痛回避のために、その原因拒否、懸垂中止に向かう。懸垂をやめれば、苦痛はなくなり忍耐無用となる。これに対して、忍耐は、この苦痛回避を抑制し苦痛を拒否しないで受け入れる態度をとる。したがって、(苦痛の原因の)懸垂の持続をさまたげないということになる。忍耐は、懸垂の持続を妨害する苦痛の動きを抑止して、懸垂続行を守るという役をする。
懸垂自体の持続に忍耐は関与するが、それは、力んで腕を使うこと自体にではなく、そこに生じる苦痛を乗り越えていく苦痛甘受に発揮されているのである。苦痛発生で、もし忍耐がなければ懸垂を断念するのを、なお、苦痛のなか、腕が動かなくなるまで懸垂を持続させていくことを可能にする。辛い懸垂に忍耐するのだが、それは、懸垂持続自体に力を入れ力むことではなく、その辛さに耐えるということである。忍耐は、やはり、苦痛・辛苦にするのである。
2-2-1-1.
直接的には傷害や妨害に忍耐するのではない
妨害があると、「妨害に忍耐する」という。だが、妨害が苦痛でないのなら、忍耐はいらないであろう。かりにこれが楽しければ、妨害でも忍耐はいらない。可愛がっている子犬が、足元で自分の歩くのを妨害するというような場合、楽しくはあっても、忍耐などいらない。妨害に忍耐するというが、その妨げるものが不快で、この不快に忍耐するのである。不快に忍耐するから、結果的に妨害に忍耐していることともなる。妨害といっても、その不快は多様であり、それに応じて忍耐も多様となる。妨害によって痛みが生じてこの痛みに忍耐するのみではない。妨害に立腹し、この怒りを抑制する辛さに忍耐するという場合もある。いずれにしても、忍耐は、直接的には、妨害自体にではなく、それで生じる苦痛・不快にするのである。
傷害も同様で、かりに傷ついても、痛まないのなら、忍耐無用であろう。ひどい傷で大いに痛んだとしても麻酔すれば、痛みを取り除けば、忍耐は無用となる。骨に傷害が生じていたとしても痛まないかぎり、忍耐の働くことはない。小さな傷でも、それが痛むのであれば、これには忍耐が必要となる。痛みが解消すれば、忍耐は無用となる。忍耐が直接対象にするのは、傷ではない。その主観における痛みである。
熱めの風呂に我慢するとき、その熱い湯自体に我慢するように感じる。だが、しばらく我慢していると熱さの苦痛はなくなる。そうなると、同一の熱い湯であるにもかかわらず、忍耐はいらなくなる。熱さではなく、熱さによって生じた苦痛に忍耐していたのである。
耳鳴りは、そとにそれに対応する音波がない幻覚である。だが、これを苦痛とするひとは、そとの騒音と同様な忍耐が必要となる。いな、そとに苦痛の原因があるのなら、それから遠ざかれば忍耐無用となるが、うちにある幻覚による場合は、同じ苦痛でも逃れようがない。ニイニイゼミの耳鳴りの嫌いなひとには、この幻覚の方が、実在する一層大きな音を出すセミよりも、忍耐がいる。実在のセミなら、夏の間我慢するだけでいい。夏でも真夜中は静かにしている。だが、耳の中に住みついたニイニイゼミは、真冬でも、夜中でも睡眠直前まで鳴き続けて、それが苦痛なら、持続的な忍耐が必要になる。
原因不明の痛みで身体的には何ら問題はないと分かっているようなものでも、単に脳内の誤作動で生じているものでも、苦痛であれば、耐え難いことで、忍耐がいる。逆に、大怪我で痛んでいても、麻酔で無痛になれば、忍耐は無用である。主観内の痛みが消えれば、客観的には大怪我で骨にまで傷が達していたとしても、忍耐は無用となる。忍耐は、主観内の痛みにするのである。
竹は、重い雪に屈することなく耐え、感情移入すれば、とても辛いことに思えてくるが、この竹の忍び耐えるのを、忍耐とはいわない。それは、苦痛がないからであろう(和語で竹が忍び耐えるというのに、忍耐と言わないのは、感性的直感的には太陽や天が動いているといい、合理的客観的事実としては天動(説)は誤りとするのと似た事情であろうか)。動物では、忍耐をときにいうが、迷うことがある。迷うのは、そこに苦痛があるかどうかということにおいてである。苦痛があると推定され、それを逃げず甘受しておれば、その動物は、忍耐しているとみなされる。
2-2-2.
忍耐は、欲求では、その不充足の辛さにする
忍耐は、外的傷害から生じる苦痛とともに、内から湧き起こる欲求の不充足の不満・不快にもする。欲しいものを欲しがらないで辛いのを我慢する。反対に遠ざけたい嫌なもの(反欲求)をいやがらないようにしてその辛さに我慢・辛抱する。
欲求自体もこれの抑制も、かならずしも忍耐になるわけではない。もし、欲求やその抑制が、わくわくと楽しいのであれば、この欲求には忍耐はいらない。宝くじの三億円の当選を待つのは、辛くはなく、楽しみである。かりに当選を待つ欲求不充足の状態が辛いのなら、当たる確率の低い宝くじのこと、辛さを忍んでまで買う者はいないであろう。欲求不充足で幻想を抱くことが楽しいのである。
食の節制では、快楽享受を抑制して節する。だが、これが辛くはないのなら、清清しいのみであれば、忍耐の登場することはない。節制という食の欲求の抑制がときに忍耐になってくるのは、それが辛くなった時である。辛くなって節制を断念しようと思うときに、その辛さから逃げずこれを甘受して、忍耐するのである。
そとからの傷害が忍耐になるのは、それが苦痛・不快になってのことで、その忍耐は、苦痛を直接の対象にする。うちからの欲求の忍耐も欲求自体に忍耐するのではなく、それの抑制で生じる不快・苦痛にする。「食べたいのを我慢する」というが、その食欲自体にではなく、その抑圧で生じる不快・苦痛に我慢するのであろう。夕食に「豆腐が食べたい」というとき、これが楽しみにできるのなら、忍耐など無用であろう。忍耐は、「その希望を断念せよ。夕食は、嫌いな蒟蒻だ」ということで好きな豆腐の断念で生じる不快に、さらに、嫌いな蒟蒻を食べることへの苦痛にするのである。忍耐は、欲求自体にではなく、やはり不快・不満・苦痛にするのである。
2-2-2-1.
呼吸欲求での忍耐の有り様
呼吸は、普段は欲求ではない。欲求には、不充足の状態が前提にあろうが、呼吸の場合、いつもは好きなようにできているから欲しい・したいと思う余地がなく、欲求になりようがない。だが、息が出来ない状況になると、猛烈な欲求となる。この欲求への忍耐では、強引に抑圧してその呼吸をストップさせる。ここでは忍耐は、欲求自体を主な対象にしているような感じがしないでもない。だが、はじめの10秒とか20秒ではむしろ呼吸するより楽なぐらいで不快でも苦痛でもない。したがって呼吸停止中でも、忍耐は、なお、いらない。それが、30秒もすぎると、だんだんと苦しくなってくる。呼吸の抑制(停止)をやめたくなってくる。これをやめないで苦しいままを続けるところに、我慢・忍耐が登場する。
呼吸でも苦痛になりだしての忍耐であり、苦痛が忍耐の対象である。が、苦しくなる前の段階では、その無呼吸は、なお、欲求になっていないとも言える。呼吸では苦しくなってはじめて「息がしたい」という欲求も顕在化する。とすると、苦痛と欲求抑制の両方に忍耐するのかも知れない。しかし、呼吸(欲求)の抑制自体は、おそらく意志がそう動けば簡単にできるし、それを持続させることも、口をつむり、呼吸のための筋肉を停止させておくだけのことで、さして難しいことではない。尿意の場合は、排尿欲求自体を抑止しようと尿道近辺の筋肉を緊張させその意志が力み辛くなるのを我慢することだが、呼吸の場合、その抑止の意志はよく効き、おそらく息する以上に口や肺周辺の筋肉は楽で、停止の持続は難なくできる。その停止・抑止が難しくなるのは、抑止自体が思うようにならないからではなく、その抑止を解くようにと、不充足で生じた苦痛が急くからであろう。酸素不足、炭酸ガス過剰で生じる苦痛が刻々と大きく辛くなるのであり、その苦痛が、呼吸停止を破棄するようにと迫るのである。かりにこの苦痛が(人工肺などで)小さくでき楽になれば、意志は呼吸停止を楽々と持続できることであろう。呼吸停止の忍耐の場合は、欲求抑止の操作自体に辛い思いをして忍耐するのではなく、欲求不充足で生じる苦痛に忍耐するということになりそうである。
2-2-2-2.
尿意の忍耐は、生理的な苦痛と放尿抑制の辛さの忍耐か
忍耐は、欲求の場合、欲求不充足による独特の苦痛をその対象にする。さらに、欲求抑圧のしんどさ・辛さが顕著になり、これへの忍耐が目立つ欲求・衝動もある。
尿意の場合は、尿意を満たさないで膀胱に尿を溜めておくと、放尿を急かせる独特の痛みが生じるから、この苦痛を忍耐することがまず言われよう。が、それより辛いのは、漏れそうになるのをとめておく辛さであろう。欲求抑圧自体の辛さへの忍耐が大きい感じである。呼吸の場合、意志による抑制やその持続自体は、よく効き、楽でもある。だが、尿意の場合は、放尿への欲求の抑制は効き具合が悪く、抑制しているとだんだん辛くなってくる。幼児など、尿意については抑制がほとんど効かないのでオムツをする。呼吸は、止める必要がないこともあるが、生後、呼吸制御で苦労することは幼児でも普通にはない。老人になると、排尿・排便が不如意になることはあるが、呼吸が不如意になることは一般的ではない。呼吸とちがい、尿意は、意志の抑制が効きにくいものになるわけで、普段は制御できていても、切迫した状態になると意志の抑制がおぼつかなくなって、ついには、尿漏れということになってしまう。ということで、抑制を効かそうと大汗をかき、尿道付近の筋肉を動員して締めつけるなど七転八倒し、辛いこととなる。どこをどう抑制したらいいのかが漠としていることも焦燥を誘いその抑制操作に生じる辛苦を忍耐する。漏れそうになってトイレに駆け込んで放尿するときは、えも言われぬ至福の一時となるが、これは、抑制していたことからの解放感が中心であり、まだ尿意の生理的痛みの方は残っていると感じつつの快である。解放・解消されたその直接の苦痛は、尿意の生理的痛みではなく、これを抑制していた意志(とそのもとでの心身の)の辛さだったということであろう。
便意のばあいも、尿意同様、通常は、お腹の痛みよりは、おそらく出さないように堪えるのが、欲求抑制の苦が大きいのではないか。これも、意志の制御が簡単ではない領域になる(幼児は相当に訓練して意志の効く領域にしていくのだし、老化してくるとまただんだん不如意になっていく)。便秘では、元気な若者であっても、簡単には意志の思いは通らない。尿の場合は、出そうとすれば、尿意がなくても出せるが、便の場合は、そうはいかない。逆に便意があるとき、下痢などひどくなると、出さないようにと抑制することは相当に困難なことになる。トイレ事情に応じて、これを出ないように抑制するが、その抑制の困難さにともなう苦痛・辛さがあって、忍耐は、これに耐える。便意そのものの生理的な苦痛は、あまり大きいものではなく、しかも、これを忍耐していると、おさまる程度のものである。尿意も便意も、普通の状態では、呼吸停止の忍耐と逆で、不充足で生じる苦痛よりも、その自然的な欲求・衝動の抑制そのものにともなう(意志の効きにくさの)辛苦の方がより耐えがたいものになるのではないか。
2-2-2-3. 欲求の忍耐の対象には、不充足の不快と、抑制の辛苦がある
欲求の忍耐では、欲求不充足に由来する苦痛・不快があり、かつ、この欲求を抑制する営為自体が辛いということがある。息をとめておくときの我慢は、不充足にともなう苦痛が中心で、息をとめるという抑制の苦は小さい。下痢での排便抑止の我慢では、その不充足の痛みは何とかなるが、排便を抑止することの辛さが大きい。
欲求の忍耐は、欲求の抑制・禁止の忍耐である。なんといっても、欲求自体の不充足が辛いことになる。「食べるのを我慢する」という場合は、食べたいという食欲を不充足にし不満足にとどめる。その不充足の空腹の我慢では、胃の痛む空腹感があるが、ふつうはこれは大した痛みではない。それより、食欲、食べたいという欲求自体の不充足の不満・苦痛が大きく、イライラするようなことになる。これが食欲での忍耐では中心になろう。美味しいものを前にしてのその食欲不充足の辛さは殊に忍耐のいることである。食欲の動くのを抑止する意志の忍耐は、呼吸と同じく意のままにでき、口に入れないという意志を貫くだけのことで、疲れて辛くなるということはまずないであろう。不充足の苦痛がそそのかし催促するのを無視しておくことができれば、その抑止は、たやすくできることである。
忍耐は苦痛にするから、その苦痛がどこにあるかを掴んでおくことは、忍耐を上手にするための役に立つかも知れない。呼吸を止める忍耐では、苦痛は、息を止めること自体にあるよりは、酸素不足、炭酸ガス過剰による苦痛にあるということであれば、より長い忍耐のためには、息の止め方の工夫をするよりは、直前に深呼吸や頻繁な呼吸を繰り返してたくさん酸素をとりこんで、酸素不足による苦痛がゆっくり生じてくるようにするのが得策となりそうである。尿意での忍耐は、その生理的苦痛もさることながら、放尿への衝動を抑止する辛さが大きく、忍耐しがたいものになる。この抑止の方法をしっかりつかみ、外尿道括約筋・骨盤底筋群への意志伝達をしっかりできるように訓練することがこの忍耐では肝要となろう。
2-2-3. 欲求では、快楽への忍耐が言えるか
「痛いのを我慢する」というのと同じように「笑いを、おかしいのを我慢する」という。苦痛は、まちがいなく忍耐・我慢の対象であるが、笑いは、苦痛ではなく、快である。笑いの我慢は、快への我慢となる。快楽への忍耐がありうるのであろうか。
笑いは、心地よいことで、苦痛のように敢えて嫌々に受け入れるという忍耐は、その限りでは無用であろう。その我慢は、快の笑い自体にするのではなかろう。笑いは、表情など外に出るから、その表出したいのを抑止することがある。そのまま表明しては気まずいことになるというような場面では、内心の愉快な状態はそのままに、これを外に出すことを抑止する。吹き出しそうになるのを抑止することは辛いことである。この辛いのを我慢するのが「笑いを我慢する」ということではないか。さらに、その外への表現を抑えきれないときには、内的な笑いの感情自体をストップさせることもある。その場合は、笑い自体を抑止する、楽しい感情をもつことを自制することになる。その自制がうまくいかなければ辛いことになるから、この辛いのを忍耐しつつ、自制する。笑いの感情自体を自制しその辛い状態に忍耐するということもありそうである。いずれにしても、快の笑い自体を我慢する(あえて受け入れる)のではなく、それを抑止・自制しての辛さや、笑いの表現抑止の辛さを、つまりは苦痛を我慢するのであろう。
ほかの愉快なこと・気持ちいいこと・楽しいことを我慢するのも、何と言っても、それをそとに表明することを抑止し、その表明抑止の辛さに忍耐がいることになるのであろう。散々苦労させられた親族の葬儀のとき、「やっと解放された、嬉しい」のだとしても、それは表現してはならない。神妙な顔つきを作らねばならない。「嬉しい」こと、快に我慢するのではない。その表現抑止(それが困難なら、さらに快感情自体も自制して)の辛さに我慢するのである。忍耐は、やはり辛苦・苦痛にするというべきであろう。
2-2-4.
快でなければ即、苦とみなし、忍耐の対象とすることも
ひとの集まる場所で、暖房の設定温度を23度にしていた場合、多くはこれを快適とするであろうが、なかには、寒がりで不快と感じる者もいることであろう。不快と感じる可能性があると推定された場合は、多くにとっては無用なことであっても、「我慢してください」と忍耐を言うことがある。あるいは、持ち物の損害は同一でも、不快・苦痛の程度は、その所有者の感じ方によることで、大きな違いがある。苦痛・不快は、きわめて主観的で個人差が大きく、その忍耐の要・不要にも、相当の違いがある。とすれば、ごく小さな苦痛でもその可能性がありそうな場合、苦痛とみなして対応していくことは、客商売など相手を立てねばならないところでは、普通のこととなる。些細なことでも忍耐が言われることになる。
乾電池の電気の有無ということでは、電池の残量が少なくなって0.2ボルトであっても(一般的には、この状態だと、「電池がなくなった」というとしても)、一応は、電気はあるのである。テスターの針が若干でも振れるなら、有るといえる。苦痛もこれと同様の有無の扱いにすることがある。苦痛が5以上あるものが一般的には苦痛と感じられて忍耐の求められることだとしても、一番過敏なひとを想定して、苦痛がゼロでないぎりぎりのものまでを、極端には快がゼロである点からを不快の始点とし苦痛とみなして忍耐の対象とすることもありうる。
正座などは、慣れているものでは、これが一番快適な座り方になるが、慣れてないものには、七転八倒の苦痛となる。多くが集まっての場なら、正座を求めるときには、「正座で我慢を願います」ということになる。一番、苦痛・不快に過敏なものを基準とすることになろう。若干の手間隙・努力のいるようなものは、一応は、我慢・辛抱の表現をもってするといったことになる。それで、鈍感な(というか強い)者も納得することである。鈍感な者も、「我慢願います」と懇願されることは、それで自分にも不都合がないのなら、丁重な扱いゆえのことであれば、悪い気はしない。
2-2-5.
忍耐の対象にならない苦痛、欲求もある
苦痛でも、それが微弱なものは、あると知覚するだけで、多くの場合、忍耐無用である。食べ物の酸味・苦味は、大きいと苦痛だが、ごく小さいそれらは、味わいを豊かにするもので、我慢するようなものではない。
さらに、大きな苦痛でも、瞬時に終わるものは、忍耐する間もないことであろう。ドアの取っ手を握ろうとして静電気が走るとき、痛みは生じてもすぐこれは消失するから忍耐は出る番がない。ときに、これにあらかじめ構えることがあるが、構えるところでは恐怖・不安の不快が持続するから、その間は、忍耐することになろう。しかし、生じた静電気の衝撃には、忍耐できない。しようと思ったときには、もう衝撃はなくなっている。
欲求の忍耐の場合、欲求が小さければ、不快は小さく、忍耐も無用か小さくて済むであろう。欲求が大きくても、不充足の間が短いとか充足が確実とか、あるいは楽しく待てるのであれば、不快は無視され忍耐は無用であろう。欲求充足が不可能と確定しても、簡単に欲求を断念できる場合、忍耐はいらない。「宝くじ」は抽選日までは不充足を楽しみ、3億円断念が確定しても、みんな平気である。当たらなかったからといって忍耐の必要になる人は、まずいない。
少しの苦痛を手段にして大きな快楽がえられ、大きな価値物獲得がなるとなれば、苦痛は吹き飛ぶこともある。苦痛はあっても、それがあるからこそ、大きな快が可能になるということで、快が意識をしめて、苦痛は快のための薬味のようなことになって、忍耐など無用になることであろう。噂の埋蔵金を発見して家に持って帰るとき、重くて腕がしびれるほどでも、おそらく心地よい苦痛になるのではないか。
2-2-6.
耐え難くなるのは、苦痛増大にである
忍耐は、苦痛甘受を続けていると、だんだん忍びがたく耐えがたくなる。何にであるか。やはり、苦痛にである。忍耐は苦痛を甘受する。忍耐している限り苦痛は続く。苦痛が増大すると耐えうる限度となり、忍耐は、持続できなくなってしまう。息を止めていると、苦しくなる。呼吸停止が耐えがたくなるのは、横隔膜等の筋肉を動かさずじっとしていることもあろうが、なんといっても、耐え難くなるのは、酸素不足(と炭酸ガスの過剰化)での苦痛であろう。その苦痛の増大・激化が忍耐を断念させる。苦痛(の受け入れ)の限度が忍耐の限度になる。
軽い不快・苦痛だと、忍耐しているといっても、なにに耐えているのか明確でないこともある。尿意の忍耐など、高速道で、つぎの休憩所まで「我慢してください」と言われてそうするとしても、「そう言われてみれば尿意がなくもない」という程度なら、苦痛に我慢するというのではなく、トイレのあるところまでは(出そうと意志)しないでおくというだけの、我慢といえばそうかもという程度の我慢であろう。だが、尿意が自覚的になると、苦痛がはっきりしてくる。苦痛に耐えるということになる。しかも尿漏れにならないようにと切迫的になると、出るのを抑止することの苦痛も出てきてこれとの闘いという忍耐になる。トイレで放尿する段になると、その抑止の辛さ・苦痛からの解放感をいだき、苦痛に耐え切ったのだと胸を張ることである。
熱さに我慢するとき、ときには、皮膚がやけどするまでがんばれるが、その忍耐は、熱さへの苦痛にする。苦痛に耐ええなくなって熱い風呂をとびだし、あるいは、お灸の火を振り払うことになる。苦痛を振り払うのである。ひとに忍耐を断念させるための方策を考える場合、忍耐しがたくする正攻法は、耐えている苦痛を耐えがたいものにと大きくすることであろう。苦痛の限度を超えるようにすれば忍耐は放棄することになる。忍耐できなくなるのは、苦痛にである。忍耐は、常に、苦痛にしているのである。
2-2-7.
慣れて苦痛を感じなくなったら、忍耐はいらなくなる
2-3.辛苦は、この世に満ち満ちている
自分のいだく苦痛・不快は、たとえ幻覚であってもありありと体験されてしっかりと現存している。だが、他人のそれは、そとから推測するだけで、苦痛を抱いているのかどうかは、聞いてみなくては分からない。それ以上に、同じ刺激に対してもこれを苦とするものも快とするものもあって、客観的には苦痛は捉えにくく曖昧になる。客観的にはあいまいな苦痛・不快だが、各人のもとでは、いたるところに生じていて、この世は、苦に満ち満ちている「苦界」だと捉えられることもある。苦痛のためにする忍耐は、他の規範である勇気とか正義などに比して、圧倒的に多く各人のもとに必要となる。勇気が必要となるのは、ひとによっては、一生でも片手で数えられるぐらいにとどまることであろう。正義は、日本などでは、まず個人の対処すべき規範として意識されることはまれといってもいいぐらいである。
苦痛とその忍耐に顔を合わさない日は、まず、ない。起床とともに忍耐ははじまる。もっと寝ていたいのを我慢して寝床を出る。通学や通勤もなにかと我慢・辛抱のいることである。学校・勤務先では、いやなことが連続する。不快・苦痛への忍耐がなくてはやっていけないことが多い。お腹がすいても、空腹で苦痛でもこれを辛抱して時間になるのを待たねばならない。トイレにいくのも好き勝手にできるわけではなく、しばらくの我慢を強いられることである。我慢・辛抱の忍耐と出会わない日は、まずない。苦痛と忍耐は、日々に、いたるところでひとを待ち構えている。この世に満ち満ちているということができる。
2-3-1.
自然的生は、快・不快で動き、不快(苦痛)回避で生を保護する
忍耐の苦痛受け入れは、自然的にいえば、愚かしいことである。苦痛とは、障害・妨害となるものが生じていること、傷害の発生を知らせるもので、苦痛になるものは、これを回避したり排撃して、苦痛を取り除き傷害を排除するのが自然的には正解である。もし、苦痛とその回避衝動に従うことがないなら、身体など、傷だらけになって、生の維持は、困難になることであろう。
ひとも動物としては、あるいは、高度の精神生活でも、多くの場合、不快・苦痛を排撃して生を維持している。火傷をもたらすようなものは、激痛を生じるから、反射的に手をひいて、激痛を回避することで火傷を回避する。絶望・悲嘆といった精神的苦悩を感じずに生活できるようにして、精神的生を全うしようとする。
欲求を忍耐は抑制・停止する。だが、本来、自然的に欲求があり、これを充足させるようにと動くからその生は維持可能となっているのである。食欲があるから、わざわざに栄養をつけるために努力することなく、おのずからに食べ物に引かれて生は維持できているのである。これを忍耐は、抑制する。自然的生の営為からいえば、反自然・反生の営みをするのが忍耐である。
ひとは、因果世界を踏まえつつ、目的論的な世界に生きる。未来に大きな目的を描き、その実現のための手段を見つけて、この手段を実行することで未来の目的へと向かう。その手段は、苦痛・犠牲になることが多く、自然のもとの動物も幼児も回避するが、ひとは、この苦痛を甘受し忍耐することができる。その苦痛の先に、大きな価値のある目的を描いて、不可避の手段の苦痛を引き受ける。自然的には愚かしく見えるその苦痛甘受の忍耐は、自然感性の世界を超越して目的論的世界に生きることを可能にする。
動物も忍耐するが、それは、快選択・不快排除の自然のうちでのことで、熊が蜜の快のために蜂に刺されるのを我慢するように、より多い快楽、より少ない苦痛を選ぶうちで生じる自然的営為にとどまる。だが、ひとは、そこには苦痛しかなかろうと、快より苦痛が大きかろうとも、必要ならあえて苦痛をとって苦痛甘受を踏み台にして高い価値を獲得・実現しようとする。自然の生では回避して受け入れないはずの苦痛のなかへと、無数の苦痛の渦中へと飛び込んでいく。「苦界」は、自然「畜生」界ではなく、苦痛をあえて引き受ける人間界を指すというべきであろう。苦を引き受けるのは、より大きな価値獲得がなるためであり、人間界は、苦界を忍ぶことを通して極楽世界にと近づくのである。
2-3-1-2. 忍耐は、快=有益への欲求をあえて抑制し不快を忍ぶ
自然は、苦痛となるものを排除することで有害なものを排除し、逆の快楽は、これを求めてうごき、その過程で有益なもの・価値ある状態を獲得して生を維持し促進する。快を欲求し、不快・苦痛の排除を欲することで、生は促進される。自然的には、欲しいものを欲し求めることで、生は維持・促進されるのである。
だが、忍耐は、これを拒む。ほしいものをほしがらず、したいことをせず我慢することで、その生じる欲求不充足の不快・苦痛に忍耐して、より大きな価値あるものを獲得しようとする。いまの快楽享受を抑制することで、未来に大きな快楽が得られるのであれば、ひとは、いまの快楽を禁じて忍耐することができる。美味のケーキでも、それの過食は有害と思えば、ひとは、これを残し我慢して、明日のおやつに回すことができる。美味でも猛毒と知ったら、ひとは、これを禁欲して生をまっとうするが、動物や幼児はこれを自然の摂理のままに、快に魅されるがままに食べて生を損なうことであろう。
いま快楽を節することで、未来に大きな快楽が得られるのが確かなら、ひとは、現在の不充足の不快に忍耐しこれを踏み台にして未来の目的に生きることができる。穀物の種をまいて収穫までを我慢し、あるいは、家禽の子は柔らかくておいしそうでも、これを食べず我慢して、大きく育ててからと、待つことになる。
さらには、快楽自体を超越もする。いまの快楽を抑制することで、未来に精神的に大きな価値が確保できると知れば、ひとは、いま忍耐し快楽を放棄してより高いものを目的にして生きる。快楽は、精神世界では、目的にはならず、些事となり、価値物獲得自体が目的になることが多い。生理的なレベルの快楽を断念し、高次世界の快も無視して、ひとは、それらの放棄を手段にしこれらを忍耐して、高次レベルの価値獲得を目的にして生きる。
2-3-2. 忍耐をもって快不快の自然を超越し自由になり人間世界が広がる
動物は、快となれば、これに引かれこれの享受にひたすらとなる。いうなら快楽奴隷となって自然に埋没して生きる。だが、ひとは、必要とあれば、これを拒否できる。どんなに美味しいものに魅了されようとも、過食と思えば、ひとは、これを抑制でき、快楽奴隷にはならない。いくら快楽であろうと、自然的に魅了されようと、これを抑制して、この自然的な快楽とその吸引力に打ち勝って、つまり、忍耐して、その自然から超越し自由な振る舞いができる(快楽主義者は、動物的だが、それでも、猛毒があると分かった場合、味わえる最高の珍味であっても、これを食べることはない。快楽享受を自制する。動物のように徹底した快楽主義者にはなりきらない。やはり、かれも人間であることを止めることはできないのである)。
もちろん、ひとの生の基礎は、自然のうちにあって、快不快の自然的営為にしたがっている。しかし、これに埋没せず、必要とあれば、この自然を拒絶してこれを超越した自由の対応ができるということである。それは、快の欲求を抑制し、不快・苦痛を避けず甘受するという忍耐をもって可能となる。
この自由は、まずは、快・不快の自然の束縛を逃れこれの奴隷状態から解放された自由である。かつ、この自然の因果世界を超えたものとして、目的論的な自律の世界を作る自由でもある。因果論的自然世界のうちにありつつ、この因果法則を踏まえながら、未来に自由に目的を描き、この目的にかなうようにと因果を利用する。自然的生を動かす力としての快・不快の因果連鎖も断ち切って不快から逃げず快を抑止して、その因果の方向を、目的にかなうように変える。苦痛甘受の忍耐を手段・踏み台にして、高度の自由世界の目的を実現していく。その快・不快の因果連鎖を断ち切るのが忍耐である。動物的自然世界の強力な動力としての快不快に関しては、忍耐が、人間世界の自由へとひとを導くことを可能としているのである。
2-3-2-1. 快不快の自然からの離脱には苦痛がともない、忍耐が必要となる
自然的生においては、不快・苦痛を回避して、安全がもたらされ生保護が可能となる。快楽にしたがうことで、生は促進され維持できる。ひとも自然存在としては、それに従うことで無事に過ごせる。だが、ひとは、他方では、これを超越した反自然・超自然の振る舞いをなすことができる。
快不快の自然反応自体はひとでも変わらない。栄養あるものがのどを通ればおのずと快を美味を味わうことになる。傷害をもたらすものがあれば、おのずからに苦痛となり、苦痛からは逃げたいという自然的反応を呼ぶことは、ひとも動物も同じことである。ひとにとっても、快不快の自然は、所与の大前提である。だが、ひとは、自然存在でありつつも、この自然的に不可避的に生じる苦痛をうけとめつつも、これを超越できる。苦痛を忍びつつ、これを回避しないで受け入れて、反自然の振る舞いをすることが可能である。自然からいえば、逃げるべきことから逃げないのであり、愚かしい態度に見える。自殺行為である。そういう反自然を貫くだけだと、苦痛=有害を放置し、快=有益を排除することとして、早々にその生は滅びることになるであろう。
しかし、ひとは、自然的には愚かしく見える反自然の態度をあえてとる。苦痛を受け入れることで、これを手段・踏み台にし犠牲にすることでもって、大きな価値あるものを獲得できるからである。火傷を覚悟しその激痛に忍耐することで、火中の宝物を救い出すのである。欲求充足を抑制し快楽を抑制する反自然の振る舞いをとり、自然的には有益なものを拒否して愚かしく見える反自然の対応をとることで、高い価値あるものが獲得できるのである。その反自然の営みには、辛苦があり、これを忍耐することがなくてはならない。傷害の苦痛・不快を忍耐し、欲求抑圧の苦痛を忍耐して、ひとは、自然から自由になって超自然の精神的な世界にと踏み込む。
2-3-2-2.動物の忍耐は、快不快の自然のうちにとどまっている
動物も苦痛甘受の忍耐をするが、これは、自然の営為のうちでのことである。快不快のもとにとどまっていて、より不快の少ないもの、より快楽の多いものにと惹かれての忍耐であり、それは、快不快の自然の摂理のもとでの特殊な振る舞いとしてあるのみであろう。小さな快となる餌が見つかってこれを食べようとしているところに、より大きな快楽の餌が出てきたとき、どちらかしか取れない状態において、大きな快楽の方をとるということである。忍耐とみなせるのかということもあろうが、小さい欲求を抑えて若干でも不快・不満があれば、一応、忍耐であろう。とくに、小さい苦痛を受け入れて可能になる大きな快楽がある場合は、苦痛を感じつつ、えさに突進するであろうから、苦痛に忍耐するのである。熊は、好物の蜂蜜をとるためには、蜂に刺されながら痛さを我慢する。
ひともこの快不快の自然に埋没したままに動物的忍耐をとることもあるが(小さな子供であればあるほど、動物と同じ対応をする。少し先にある価値が分からず、苦い薬はそれだけでは飲まず、横に好物のジュースを添えてはじめて口にする)、ひとの忍耐では、自然自体を超越するかたちでの忍耐を圧倒的に多くとっている。快不快の自然を超越した、自由の目的論的世界を忍耐は開く。秋の収穫のためにと、春食べるのを抑制して、目的論的に忍耐を展開する。現在を全面的に犠牲・手段にし苦痛に忍耐して、快不快の現在を超越しこれから自由になって理性精神のもとに未来の大きな目的に生きるのである。動物は、現在に縛られて生きるが、ひとは、現在から自由になって未来に生きる。
2-3-2-3.
精神的生では、快は些事で、価値物の獲得が肝要事となる
食とか性の欲求は、快楽をもとめて展開する。だが、精神的な人間固有の高度の欲求になると、快楽は、目的にはならない。もちろん、精神世界でも欲求を充足すれば、快となる。その独特の快として、喜びとか安らぎ等がある。だが、それらは目的とはならない。目的となるものは、各精神的人間的欲求のもとめる固有の価値物である。その目的である価値物を獲得すれば、獲得の快である喜びの感情をともなう。ともなうだけであって食・性の快楽のようにそれ自体が目的となるものではない。食・性の場合は、目的の栄養がなかろうと受精がどうなろうと、快楽であれば、満足する。だが、精神的領域では、純粋に喜びの快のみを味わう「ぬか喜び」は、そこに価値物の獲得がないことが判明したら不快となる。快感情は、このましい価値物獲得に単にともなうだけであり、人間的精神的生においては、些事である。幸福感にしても、単に多幸感を麻薬で得るだけの場合、むなしいこととなる。恵みいう客観的な価値の確保があっての幸福感とちがって、麻薬での幸福感は、裏づけのないむなしい幻想ということになる。
忍耐は、快を抑制してその辛苦に耐えるが、ひとの精神的社会的な生のレベルでは、快自体は目的として求められることはなく、この快への欲求の抑圧はほとんど無用である。快抑圧にともなう忍耐はここでは意味がない。精神的人間世界ではその諸領域の各々に固有の価値物があって、経済的価値、芸術的価値、名誉、家族の安寧、国家の繁栄などの価値が目的になり、欲求になる。それが快をともなわなくても問題ではなく、それらの価値物獲得がひたすらな目的になる。快のみで価値物がない場合は、快どころか不快になってしまう。快楽を超越した世界である。
快楽主義は、快楽を目的とするが、快楽が目的になるのは食や性の動物的レベルにとどまる。快楽主義者は、人間的社会の高度の安全・安寧を利用し寄生しつつ、動物として生きる。社会から唾棄され軽蔑されるのはもっともなことである。
ひとは、動物とちがって高度に精神世界を築き、自然的な快不快を超越して自由の世界に生きる。だが、同時に、ひとは動物でもあるから、動物的生理的な快不快についても、多彩にこれを展開している。食欲は、美味の快楽を欲求するが、この美味について、ひとは、雑食動物として、動植物を食材にしてさまざまの料理をつくり多彩な享受をしている。性欲も、多くの動物とちがい年中発情してこの快楽享受に熱をあげている。生殖にともなう快楽でなく、生殖不能の老人などもこれを楽しむ。少なからざる産業が性欲を利用してコマーシャルを行い快楽主義へとさそっている。ひとの忍耐のうちでも、これらの動物的快楽の抑制、自制は、節制を代表にして大きな位置をしめることがしばしばである。
高度の精神世界での欲求も、日々に快適さをもとめ安楽をもとめ、快楽を踏まえたものとなっている。生理的生は快楽を目的とするが、精神的人間的世界では、その各領域での価値物獲得が目的になるのが普通である。ただし、この獲得には、有益な好ましいことへの快の反応をもつ。有害なものに不快感をもち、有益なものに快をいだく。快感情自体を求めるのではなく、価値物が目的であるが、快でもあることになっている。その価値物獲得は、快適・安心・安楽・喜び等にと特殊化した快を随伴する。ここでは、食・性の欲求とちがい、純粋な感情的な快のみの場合は、妄想・幻想として唾棄される。目的は、価値物だから、これのない、いわば純粋な喜びは、ぬか喜びとして、不快となる。この価値物獲得に随伴する快は些細で、抑制する必要はあまりなく、忍耐は、精神的な欲求自体の抑制をすることが中心となる。
幸福・至福は、求められるが、その感情自体は、生じなくてもよい。恵みが獲得できている状態、これが目的であり、幸せという感情・快感はこれに時たま伴うだけで、幸福感情自体は感じられなくても、幸福であればいいのである。客観的な恵みを有していない純粋な至福の感情は、妄想であり、客観性を欠くのであれば、本質的には不幸せである。酒などの麻薬では、脳を麻痺させたり快楽様物質を脳内にもたらして、多幸感が簡単に体験できるが、単なる主観的な快楽として、息ぬき以上のものにはならない。通常の幸福感は、麻薬をもっての至福の快とちがって、ささやかで過度になることはない。
幸福ということで抑制・忍耐が問題になるのは、幸福感情ではなく、幸福追求や希望といった、各自にとって至高の価値あるものへの欲求自体の方である。これを、戦争とか貧困といったやむをえない事情で断念するような場合、忍耐が求められることになる。
2-3-2-5.
精神的生においても不快・苦痛は大問題である
精神的生では、快は、ひとを動かす力としては小さい。それよりも各領域の価値物(お金とか名誉とか)の獲得が目的としてひとを魅了しひきつける。だが、不快の方は、それ自体が、精神的生でも重大事である。生理的レベルの不快・苦痛は、そこに損傷のあることを示すから、これをないがしろにはできない。精神的生でもその不快・苦痛つまり、絶望・悲嘆などは、価値物獲得が拒絶されたり反価値物が押付けられた状態を示し、これを軽視していたのでは、その生の維持・促進はできなくなる。絶望・不安の辛苦・苦痛は、その生に重大な障害の生じていることを語る。これを逃れて穏やかな生を取り戻そうと、動く。そのことのなるまでの間、精神的な苦痛を抱き続けるが、これに忍耐できねば、自暴自棄になって絶望の苦痛から逃れるために、麻薬をつかったり、ときには、生命自体を絶つようなこともする。だが、忍耐できるひとは、未来に希望の小さな光を見つけて、これに向かって苦痛苦悶を忍び続けることである。
大きな破壊力をもつ絶望などの精神的な不快・苦痛を、忍耐は、受け入れ甘受しようというのであるから、自らが取り組むその忍耐は、自身の精神的な苦痛・損傷を超えたこれを犠牲にしてもよいという大きく高い価値をそこに見出しているのである。精神的生の苦痛である不安や絶望は、感情である。感情としては、各個の身体反応をもち、それは、各自のその個我のレベルに立っての反応である。個我は、自身の精神的苦痛を回避するようにと動く。忍耐は、この個我の苦痛を甘受するのであるから、これを超えるのであり、個我から自由になるのである。感性的苦痛を超える忍耐が感性を超えて自由の世界を可能とするように、精神的生の苦痛への忍耐は、この個我を超越した普遍的理性的な世界へと飛翔することを可能とする。戦争のために自分を犠牲にすることがあり、家族のために自分の絶望の人生を引き受ける覚悟をすることがある。
ひとは、不安・絶望などの苦悶から逃げて、快適で安寧の生を営みたいと個我において動く。それが個我の自然である。日々の精神的人間的生の営みは、そのように、不快を排撃し快(快適・安心・安楽)を伴う価値を求めて展開されている。だが、忍耐は、これを拒否して、絶望の苦悶に耐えて、その苦痛を犠牲・手段にしてなりたつ高度なより大きな価値あるものを獲得しようとする。かつ、しばしばそれ以上に、その忍耐で生み出される価値として、絶望の苦悩を通して鍛えられる自身の強靭な精神的能力の形成がある。苦難を乗り越えていくなかで人格が磨かれてできあがっていくのである。
2-3-2-6.
苦や忍耐が多いとは、超自然の人間的な高みに生きることが多いということ
快不快の動物的自然状態にひとも普段は生きる。だが、それが生に不都合だとかその状態を拒絶すれば大きな価値が獲得可能というようなとき、ひとは、自然を超越して、苦痛を受け入れ忍耐し、快の欲求を抑制して不快を受け入れることができる。食や性の快不快の自然状態を抑制して不快・苦痛を甘受して、節制という、よりよい人間的な生のあり方をとる。忍耐をもって動物的自然を超越し、快不快の自然因果の世界から自由になった目的論的な世界の高みにとひとは高まることになる。
精神的人間的に固有の社会生活において、ひとは、個我として存在していて、この個我・エゴに生きている。身体をもち感情をもった存在として、自分を世界の中心においた日々をすごしている。精神的世界の快不快の感情にしたがうことで概ね、日々はうまく生きていけるようになっている。だが、ときに、個我・エゴを超越して全体に生きる必要が生じる。全体とか普遍性・合理性の基準・規範に自分の個我があわなくなることがある。個を抑制して普遍的に合理的に生きるべきときがある。それは、個を否定したものとしては、しばしば個我には不快・苦痛となり、欲求不充足の不快をもたらす。不安とか絶望の苦痛・苦難は、これを回避することで個我のさしあたりの安寧は確保される。だが、この苦痛回避が全体にマイナスで合理性を欠くような場合、あるいは、個我としても一層の豊かな生をつくるために、これを甘受して忍耐することが必要となる場面が生じる。戦争に参加したり、家族のために自分の進学を断念するというような、個我には耐え難いことを受け入れて忍耐しなくてはならないときがある。忍耐において、ひとは、個我の自分本位の自然状態を超越して、理性・普遍・全体・利他にと生きることができる。
苦痛・不快への忍耐は、ひとを人間的により高く広い合理的普遍的な生き方をさせる。苦痛も忍耐も、経験する度に、個我を鍛えていく。苦痛に慣れるとこれが平気になることもしばしばである。高い適応能力を身に着けたということになる。忍耐をするという経験は、忍耐力を養う。忍耐するたびに、工夫し忍耐しやすい方法を見つけることにもなる。総じてひとは、忍耐において、おのれを磨くことになる。たくさん苦労し、忍耐をたくさんしてきたひとは、おのれの自然を殺すことをより豊かに経験しているということであり、人格をたくましく鍛えていることにもなる。
2-3-2-7.
苦や忍耐が多いのが逆境だが、わがままという場合もある
苦も快も人ごとに異なる。苦が少なく快・欲求充足に恵まれた境遇にある者も、逆に、苦労が多く欲求不充足が多くて恵まれてない逆境に終始する者もいる。忍耐は、後者においてより多く必要となる。
人並みという平均から見て、相当に恵みが少なければ逆境とみなされるが、逆境も順境も、苦労が多い少ないということであれば、それは、当人の生き方によって変わってくるものでもある。スポーツの能力に秀でている者がこれに励もうとするとき、これを伸ばす環境に恵まれていなければ、いくら他の方面では恵まれていても、逆境ということになり、その能力を伸ばすには、不利な環境・境遇にあるということになる。
恵まれているかどうかは、周囲との比較の問題であり、相対的なものである。経済的事情で大学進学ができないというのは、いまの日本でなら逆境である。が、戦前は、中等学校以上は贅沢というのが普通であれば、そのことは逆境にはならなかった。逆境にあれば、当然、まずは、能力の開発なり物事の成就にかかわって、足を引っ張られることが多く、不快・苦痛の忍耐も多く必要で、順境の者に比して不利となる。
逆境のもと、多くの苦・不快に挑戦してこれに忍耐して足かせ手かせをもったままに努力することは、身体でいえば、大きな筋肉を身につける機会に出会うということでもある。逆境は、順境のものでは体験できず身につけられない能力を開発することになる。このため、ときに、逆境のものが秀でた結果をもたらす。苦労はひとを鍛え上げる。長い人生では、先立つ者の遺産をつかえない逆境の者が順境の者以上のことをなしとげるのが普通となる。
苦境を忍耐して伸びてくるひとは、この苦をつぎには苦としなくなる。周囲の順境の者には、苦痛となるようなことが平気となり、苦でなくなっている。したがって、忍耐もいらないということになる。順境のひとなら苦であり、多大な忍耐がいると思えるものが苦でなく忍耐無用となる。忍耐力は、苦難・苦痛に対処することであるから、ほかの方面の苦痛にも対応できる能力になり、逆境で身につけた忍耐力は、他の方面でもすぐれた対応を可能とする。つまり、人間そのもの、人格そのものを、苦境に強い存在にと高めることになる。「若いときの苦労は買ってでもせよ」という所以である。
ただし、苦痛を感じ、忍耐する状態にあるのは、逆境のひとであるよりは、わがままなひとである場合もある。逆境に生きるものは、苦痛を苦痛と感じることは少ない。自分は苦労していると感じ、「我慢している」ともらすのは、どちらかというと、わがままでそうなっていることが多いのではないか。普通のものなら、とっくに苦を経験し忍耐を経験して苦でも忍耐でもなくなっているのに、身勝手な者は、それをしていないから、なにかあると、苦痛に思い、この苦痛から逃げる身勝手を続けているので、いつまでも、幼児的に不快・苦痛を反復しつづける。わがままなものは、いつまでも幼児的で自制心も発育不全にとどまり、普通には不快とも苦痛とも思わないものをも苦痛と感じて我慢し、我慢することが続かないので、忍耐力も身につかず、よけいな苦痛と忍耐を反復する。世界は自分を中心にまわっているという幼児的な世界にいきるエゴイストは、町でひとが自分の気に食わない服装をしていると不快になり我慢を強いられる。だが、世界は自分中心には動いていないことを体験し苦痛と忍耐を重ねつつ育った者は、そんなものは、風景のひとつにみなして無視するから不快ではなく我慢など思いつくこともない。
2-3-3.
この世の快は、短くて少ないが、苦の方は、長くて多い
2-3-4.
ひたすらに苦の地獄と、無苦の極楽の間にひとは生きる
多くの宗教は、苦の地獄と楽の極楽・天国を描く。快と不快(苦)のおりなすこの世からみての理想の極と反理想の極(この実在世界のふたつの理念型)として描かれたあの世である。ひとのあこがれる快・楽の理想と、回避したい不快・苦痛の反理想が端的に語られている極楽と地獄である。
地獄の責め苦は、この世の強烈な苦を形容するときいうことだが、地獄は、どこまでも苦のみの連続する世界で、さまざまな苦を描いてみせる。脱し得ない苦に満ち満ちた地獄は、人間界の苦とちがい、これを手段・踏み台にして価値ある状態に到るというものではない。ひとに料理される魚や豚のように切り刻まれ熱湯にゆでられて、どこまでも苦のみを味わうのである(動物には、とんだ災難であるが、ひとの地獄の責め苦は、一応、各自に責任があるという想定になっている)。救われようのない悲惨な苦の世界である。地獄では、ひとつの苦にはとどめない。次々と別種の苦を味わうようになっている。苦は、慣れてくると苦としなくなって平生のこととなるからであろう。ひとの世の苦のエキスを地獄では味わうようになっている。
逆の理想の世界は、天国・極楽であるが、これは、楽土・安楽国といわれるように、快の世界である。快不快のこの世の不快を消去した快のみの楽土である。ひとの精神世界では、不快は、重大な関心事だが、快感情自体は娯楽あたりを除くとほとんど目的にはならず、快にとってかわる目的・理想は、お金とか知とかの価値あるものの獲得である。極楽も、黄金や宝玉に満ち満ちた世界とされ妙なる音楽が響き深い知恵がもたらされる世として描かれる。が、なんといっても極楽の第一の特徴は、苦がないことである。無苦の楽土なのである。
この現世は、地獄と極楽の両極端の中間にある、いわば中庸の世ということになろうが、どちらかというと、地獄に近い。快は短く、苦は長大であるのがこの世である。それでも動物とちがい、苦痛の地獄から逃げずこれを忍耐して受け入れ、その苦を踏み台にし苦を積み重ねて天国にとどけとバベルの塔を築こうとするのが人間である。その苦を忍耐する心構えにおいて、ひとは、極楽・天国に到る資格をもった類まれな地獄の住人ということになるのであろう。
2-3-4-1.
忍耐が、苦痛を作るのでもある
自然世界では、苦痛・不快なものがあれば、これから逃げるか排撃するから、苦痛は短いものに終わる。あるいは、用心深い場合は、苦痛となるものに近づかないから、苦痛は体験せずに済むこともある。
だが、ひとは、苦痛を手段・踏み台にすれば大きな価値が獲得できるといったときには、この苦痛を回避せずに、あえて受け入れる。苦痛に近づきこれを甘受する。火の中に宝物があれば、火傷をものともせず、火中に飛び込む。自然に生きるのなら受け入れなくてもいい苦痛を、あえて引き受けるのであるから、ひとは、自身のうちで自らに苦痛を生起させているということになる。もちろん、苦痛を快と受け取るのではなく、身を痛めつける有害なものであると承知しての甘受である。
自然のままに生きるとしたなら、おそらく、これほどに苦痛・不快を忍ぶことはないであろう。のんびりと安楽に暮らせばいいものを、ひとは、あえて、苦痛・不快を受け入れる。むしろ、忍耐が、その苦痛を創造しているともいえる。我慢しないひとは、苦痛を避ける。だが、我慢できるものは、大きな目的の不可避の手段であると分かれば、これを忍耐する。忍耐しようという意志が苦痛を引き寄せたり、苦痛を創造しているのである。忍耐しようという構えをとる者は、傷害・妨害から逃げずこれを受けいれる。そのことで当然、苦痛が心には発生する。忍耐が苦痛を作ったのである。
高いところにのぼるには、はしごがいる。忍耐を要する苦痛のはしごである。自然の存在は、高いところへのぼろうとはしないから、はしごはいらない。苦痛のはしごが近づいたらこれから逃げていく。だがひとは、あえてこれをどこかに見出して高いものの見えるところに据えてのぼっていく。苦痛を長々と忍んで理想・目的へ向かおうと忍耐するのである。
2-3-4-2.苦の無化を説く仏教
仏教は、この世を苦の世界とみる。その苦の世に生きる以上は、これに忍耐することが求められるが、その苦に生きこれを克服する方法として、仏教は、この苦を無とみなす方法をとる。激痛となるはずの火傷に「火もまたすずし」と平然としてこれに耐える。苦を苦と感じない方法をとって、この苦の世界を超越する。苦から逃げるのではないから、苦を甘受するのであり、忍耐ということになるであろう。ただし、苦痛を感じない形になるのを理想とするから、単純に忍耐ともいいにくい。通常、忍耐は、苦痛を受け入れることで、これを手段・犠牲にして大きな成果・目的を実現する。苦を無化しての仏教的な忍耐は、苦から逃げずその目的を達成するが、苦と感じないで済む方法をとる。
苦を苦と感じなくできるのは、激しい苦行に忍耐し苦の体験の反復で大概の苦はもう苦と感じなくなることもあろうが、なんといっても、仏教の場合、苦に実体はなく自身の妄想になると、苦を、「色即空」と空無に観じることで無化することである。怒りの忍耐の場合は、苦に感じる気障りなものを前にこの不快・苦痛を我慢するのが普通だが、仏教的な空無化のやり方は、気ざわりと解することをやめ不快になることをやめて、苦も苦の根源も無だととらえて、怒りをおさめて、ことを成就する。テレビ画面の老人が年に似合わない派手な服装をしていて不愉快でむかつくとしても、そう思い、気障りになるとしても、派手かどうかとか、それを不愉快とするのは、妄念・妄想である。そんなものは、抱く方が間違っている。気障りにも立腹にも根拠はなく、妄念であり、無くてしかるべきものである。主観内の苦とその原因を無化してしまう、忍耐にならない一種の忍耐といえようか。
さらにラディカルには、苦の生じる根源をなくすることも仏教では行う。それは、諸種の欲求をなくすることである。個我・小我をなくする方法である。無我になり、欲望の発生源を断とうというのである。欲望をもつから、その不充足に不快・苦痛をもつことになる。個我の欲求は、際限がない。どこかでこれを抑制することがいるのは確かである。仏教は、欲が苦の根源と見て、「色即空」とできるだけ無欲になろうとする。免許を取れば自動車が欲しくなる。それがかなわないと不満・不快となる。忍耐が必要となる。だが、免許を取らないなら、車への欲望は生じないから、車をもてないことへの苦も忍耐も無用となる。出家仏教は、財産をすて家族をすてる。名誉もお金もすてる(真に捨てるひともあるが、これらに執着しなければ、捨てたことになろう)。そうすれば、それらにまつわる欲は消滅し不足感はなくなり、空無のやすらかな状態になる。この世の業火の消えた安寧・涅槃の境地に到る。
この仏教のいう苦の無化、欲望の無化は、傲慢・贅沢の生においては、必要であろう。が、節度をもったささやかな生についてまで、これを徹底するのでは行き過ぎとなる。生は、損傷に不快・苦痛をいだき、生の維持は欲求をもって行う(水が欲しいのは、水分が体に不足しているからである)。苦自体・欲自体を空無にと拒否するのでは、人の生自体を否定することになってしまう。
2-3-4-3.
辛苦に耐え安寧の未来を求めるキリスト教など
忍耐を必要とするような状態が重なると、ひとは、この世は苦に満ち満ちていると嘆きたくなる。仏教のみでなく、キリスト教でも神道でも、神仏にすがりつきたくなるのは、苦が耐え難くなるときである。仏教は、苦を無化するが、ほかの宗教では、苦をもっと積極的なものとみなす。神頼みをするとき、普通は、(この世の忍耐が成果を生み出す道理が、神にも通じるとみて)宗教的な苦痛に忍耐して願を成就しようとする。願を受け入れてもらうために、毎日神社仏閣にでかけお百度を踏む苦労もする。その苦を手段としてそれに見合う願を実現してもらおうというのである。人柱・人身御供も、多大な犠牲を払うことで、願いを神々に聞いてもらおうということであった。苦痛を手段にしての目的の成就であるが、この世でのそれは、大体、価値ある目的へと実在的につながっている。だが、あの世の神々とのかかわりでは、苦痛は現にあるが、成果は単なる願望である。多くの場合、単なる気休めと心得ており、願不成就も覚悟しているのが普通である。ただし、ときには、不成就の場合、神に怒りをぶつけて、ご神体を泥水に投げ入れてうさばらしをするようなこともあった。
この世の辛苦を忍耐するということでは、キリスト教は、典型的な宗教的な解釈と実践をもっている。キリスト教では、この世の不幸・苦労は、あの世の至福のためにあるという。この世で苦痛を甘受して忍耐することをもって、あの世で幸福が得られるという。したがってこの世の苦・不幸は、実は幸福なのだということにもなる。あるいは、この世の災難は、神が自分を選んで与えてくれた試練と解釈してうけいれる。その苦痛に神を見出すようなことになる(他人の子は無視しても、かわいいわが子であればこそ、嫌いなニンジンを我慢させる)。かりにこの世で苦労と忍耐に見合うものが獲得できないとしても、苦労・苦難の一生であっても、それはあの世への貯金となるもの、積善として受け止めることになる。打ち続く苦痛・不幸に不足を言わずこれに耐えていこうという姿勢を最期まで持ち続けることができる。この世の不幸・悲惨の先をたどっていくとこの世の支配者の金庫につながっていると啓蒙家はいうが、信者は、あの世での至福につながっているという説教の方をありがたがる。
2-3-5. 忍耐は、快不快の感情で動く個我を超える
ひとの日常は、個我において営まれている。各自に個別的に与えられた身体と心をもって、身体反応なしにはありえない感情、快不快のもとに個我(小我・エゴ)として存在している。もちろん、その個我のうちで理性的精神が全体をリードして社会的人間的な高度の営みを展開している。
個我は、快不快の感情をもってこれに自然的には動かされている。食ひとつとっても、基本は、感性的な食欲があって、快不快にしたがい美味しいものを摂取し、美味しくない有害なものを排除して、自然的にうまく生は維持されている。だが、同時に、ひとは、より高度に理性的にも生きていく存在であり、自然的な食欲の快不快にしたがうだけでは栄養不足になるようなことがあれば、これを理性の高みから見て、制御し抑制することができる。反自然の振る舞いをとって、食の感性・個我の好悪を抑圧する。よりよい状態を可能とするために、合理性・普遍性をもった理性・知性のリードのもと、個我・感性を排して反自然・超自然に生きることになる。
そこに忍耐が登場する。理性的精神のもとに、個我の自然を抑制し不快・苦痛を甘受する。個我も感性も快不快の摂理にしたがってうごく。これを停止するのが忍耐である。快を抑制してその不快・苦痛を甘受して忍耐する。不快・苦痛を排除する自然を停止して、苦痛を甘受する。忍耐である。快不快の個我の自然から自由になり、これを制御し、必要ならこれを停止して、超自然的に、快を拒否し、不快・苦痛を甘受する。
ひとの感性・個我は、実在的身体のもとにその快不快の自然にしたがって動く。だが、ひとは、他方において、理性精神をもったものであり、それは、快不快の個我の自然から超越していて、合理性をもった普遍的客観的で全体(個我超越の大我や社会全体)にかなう方向へと個我を振り向けていく。その個我の自然が反理性・反普遍・反真理の方向に向かうようなときには、これを理性精神は抑制できる。この、個我・感性の愚行を抑えて理性的意志を貫くのは、そういう人の尊厳を貫くのは、苦痛甘受の忍耐をもってである。
2-3-5-1.
忍耐は、万般にわたるが、身体をもつ個我に限定したこと
仏教は、ひとが意識するもの(色)はこころが作り出したもの(妄念)で真実は空無だという(色即空)。色や音などは、確かに心の中にあるだけであり、主観のそとには色も音もない。光や空気の振動があるだけである。これと同じことで、不快・苦痛は、心のうちにのみあるもので、客観的にみれば、空無だとも言える。それに忍耐するのも主観のうちにとどまることで、その限りではこれも客観的には無ともいえる。だが、心中にあるのみの色や音が外界に光の振動や空気の振動をもつように、主観の苦痛も外的世界の傷害・妨害という原因をもっているのが一般である。
個我が勝手に苦痛をいだき忍耐をしているという面がなくはない。怒りに我慢するが、怒りは、しばしば無知や僻みなどによる誤解・曲解で生じている。個我が勝手に妄想をいだき、自分の妄想に苦しんでいるだけの場合がある。だが、ひとは、わざわざに苦痛を自らに抱え込もうとすることは、少ない。苦痛・不快の原因は、圧倒的にはそとにあり、個我のそとから襲来するものである。「大木の下敷きになって」「熱湯の風呂に入って」等と、外的な原因をもって傷害を受けて苦痛は生じる。マイナスの物事の襲来が苦痛を生じさせているのである。さらにプラスの享受が断たれての不快・苦痛も個我は抱く。個我の生は、そとのものとの同化・異化をもってなりたつから、このことをとり行う欲求が不充足になるというプラスの断念は、やはり、不快・苦痛となる。個我が欲求しなければ、不快・苦痛は生じないとはいえ、生は外的世界とのかかわりなくしては存続不可能であり、それが欲求となっているのであって、これを抑制・断念することは生の否定として苦痛である。欲求という主観の営為を断てば苦痛はなく忍耐無用となるが、それは、生自体を否定することとなる。食欲を絶てば死ぬ。うちに成立する欲求であるが、そとにその価値あるものの充足を求めるのであり、その不充足で生じる苦痛もまた、単に主観の事柄ではなく、客観的な不充足ということである。個我のうちで勝手に作った苦痛と忍耐ということでは済まない。欲求(不充足)の苦痛の原因は、根本的にはそとの価値物の確保ができないというところにある。
忍耐を無用とするには、こころの不快・苦痛をなくすればいいことである。それは、できなくはない。だが、生産的創造的な解決には、苦痛を生じる原因にさかのぼってこれを適切に処理することが必要となる。忍耐して苦痛を保存し甘受しつづけるのは、それを手段・犠牲にして、客観的に大きな価値あるものを獲得することができるからの営みであろう。忍耐は、主観のうちの苦痛と主観内での忍耐にとどまるものではない。苦痛の原因にさかのぼり、客観世界に向かい、その原因(=苦痛)を排撃せず甘受することでなる大きな成果の獲得のために、忍耐するのである。
忍耐が快苦の自然(快の欲求と、不快への反欲求・排撃欲求)を対象としているということは、この快苦が存在する個我の実在世界に踏み込んでいるということである。理性のみでは快苦はなく忍耐も無用である。理性は、実在世界の普遍的本質・道理を把握するが、実在を離れた空無の抽象におちいっている可能性もある。その理性のあり方が実在世界に根ざしているかどうかは、身近には快苦の個我の世界において実証される。
快苦は、身体反応をもった感情であり、これらは、自然実在の因果論的法則のもとにある。忍耐は、その因果法則を踏まえつつ、自然的には回避する不快・苦痛を回避せず反自然的に振舞う。そのことで、自然因果の世界を超越して理性の描く目的をその自然因果の世界に差し込んで、実在世界において己の目的を実現する。いわば、自然因果の世界にありつつ、同時にこれを超越した理性的目的論的な自由の世界を構築しているのでもある(自由は、因果自然からの解放としての自由であり、理性が自分で自分の世界を実在世界に展開する自律の自由、支配の自由でもある)。
苦痛は自身からは排撃したいものであるから、自分の好んで作り出すものではない。苦痛は、精神的なものを含めて、自分・個我のそとから襲来する。個我のそとの(社会を含めた)客観・実在世界から来る。苦痛をもった個我は、自分の意にそわない外的な実在世界に触れることになる。欲求は、なかなか充足できない。欲求は、自分の意を超えた、意にそわない実在世界のあることを踏まえざるをえない。快不快には、妄想もあるが、妄想か否かは、実在的な裏づけがあるかどうかということである。腕の痛みがあっても、もうその腕がなくなっていたのであれば、妄想・幻覚ということになる。快の場合も同様であるが、快は、妄想でも、好んで体験したいことであれば、実在的対応がない幻覚であっても、問題にはなりにくい。だが、苦痛は、できれば体験したくないものであり、体験するとなると、実在かどうかはこの苦痛を解消していくうえで、まったく異なった対応となる。幻想でなければ、苦痛の実在的な原因への対応が迫られることとなる。
実在世界にいても、自己充足していてそとの世界とのつながりがない場合、あるいはそとから襲来するものを回避する手立てもしっかりしているなら、苦は生じず、安らかな状態を保つことができる。だが、ひとの生は、そとにかかわってその基本的な欲求を満たし、外に働きかけて自己実現もしていく。動きまわるものとして、外的なものの襲来も不可避であり、苦痛なしで済ますことはできない。活動的であればあるほど、内患外憂に満ち満ちた生活を送ることになる。つまりは、忍耐の対象が満ち満ちた生活ということになる。
自然的な生では、ひともそうだが、快を欲求し不快・苦を回避して、そのことで、有益なものを得、有害なものを避けることができる。快不快のリードにしたがっての生である。だが、ひとの忍耐は、これを超越する。己の個我の快不快を踏まえつつ、これに従わずこれを否定して自由の人間世界をつくりだしていく。辛苦を甘受する反自然的な忍耐をもって、実在世界のうちに、自然を超越した自由の世界を創造していく。
2-4. 忍耐は、苦痛・辛苦を、どう扱うのか―辛苦の甘受―
辛いこと、不快、苦痛が生じると、自然的にはこれから逃げだしたくなる。苦痛は、強い苦痛回避衝動を生にもたせる。そのことで生は損傷を回避でき自己の維持保存がかなうことになる。苦痛回避は、自然的な生の根本衝動である。だが、忍耐は、その自然的な衝動を抑止して、あえて苦痛を受け入れる。そのことで苦痛が苦痛でなくなるのでも、回避衝動がなくなるのでもない。苦痛受け入れにおいて、ひとは、苦痛・苦悩で抑うつ状態になり、回避衝動に心はいっぱいになり、いうなら、苦痛にさいなまれる状態になる。それでも逃げずに苦痛を受け入れ続けるのが忍耐である。
忍耐する人も、その自然感性においては、苦痛に支配されるが、実はそのことを通して忍耐は、理性をもって苦痛を支配するのである。苦痛を受け入れることを通して、これを踏み台にして、ひとは、求める目的を実現していく。苦痛を利用しこれを制御・支配して自然的には実現できないものを、人間的目的を実現する。苦痛をあえて受け入れる、甘受するという、自然的には暴挙をもってして、身を犠牲・手段にし、いわば捨て身になって、その理想・目的へと飛翔する。その反自然の忍耐は、自然を超越したものとして、自律自由の人間的尊厳にふさわしい営為となる。
苦痛は、これがある限り、その回避衝動をうちに生じさせ続ける。忍耐するものは、その苦痛を受け入れ続け、苦痛回避衝動を抑制し続けてはじめてその求めるものを実現できる。苦痛回避衝動の抑止、苦痛受け入れの反自然を堅持しているかぎり、自然は激しく苦痛甘受をやめるよう迫ってくるが、忍耐は、これに迷うことなく屈することなく、断固として自己を貫徹する意志をもつ。あるいは、その甘受において、辛いと逃げ出したくなり助けを求めたくなり騒ぎ立てたくなるが、忍耐は、苦痛を受け入れているという態度をつらぬくために、そういう騒動も抑止して、淡々と苦痛を甘受し続ける。
2-4-1.
忍耐は、辛苦を回避せず、甘受する
苦痛・辛苦は、感性・個我において自然本性的には、これを回避し排除しておきたいものである。苦痛・不快はその生に傷害が生じていることを知らせる感情で、これの回避の策をとれば、生は保護できる。だが、忍耐は、この自然的な大原則を否定して、逆に、苦痛をあえて受け入れる、甘受する。当然、苦痛・辛苦を感じる感性・個我は、これに抵抗し苦痛回避へと動き続ける。自己内でのその抵抗を抑制しつつの苦痛の受け入れが忍耐である。
辛苦・苦痛の受け入れをする忍耐、その理性意志は、これの受容を自虐的に行っているのではない。歓迎し喜んでしているのではない。もし、苦痛を回避してもいいのなら、忍耐する意志となる理性も、当然これを回避する。忍耐の苦痛の受け入れは、これを回避できればそうしたい不愉快なものであるのを、あえて、苦痛を凌駕する他の理由から甘受するのである。苦痛を受け入れることは耐えがたいことであるが、その甘受を手段・踏み台・犠牲にすることで大きな価値獲得がなるという目的・見通しをもって、身を切らせて骨を切るという精神のもとに苦痛・辛苦を受け入れるのが、忍耐である。
苦痛の甘受は、内心・本心においては、その苦痛を猛烈に排撃したいものであることを前提にする。それを、あえて、受け入れる、甘受するのである。忍耐では、未来の大きな目的を見通せる理性が、自己内での苦痛排撃を抑圧して、心身の自然を超越して、人間的な自由を実現するのである。
うちに生じている辛苦・苦痛を抑圧した忍耐であるから、表面的外面的には、内面を表すことなく、淡々と穏やかに、苦痛ではないかのようにして、これを受け入れる。苦痛を隠し内に忍ぶ。そして、外向けには、苦痛を平気であるかのようにして受け入れて耐え続ける。内では、激しく苦痛を排撃しつつ、外面的には、これをなんでもないかのようにして受け入れる。外面的には平穏で、内的には怒涛の葛藤状態となる。忍耐は、辛苦について、面従腹背(外向き理性的には苦に従順で、内面・個我としては抗し背反的)の反自然の振る舞いをして、快不快の自然世界を超越した人間的自由の世界をつくる。
2-4-1-1.
忍耐は、外面では辛苦を平然と受け入れている
忍耐は、苦痛を忍ぶ。これから逃げたり、これを排撃するとしたら、忍耐しないということになる。逃げるとか攻撃のそぶりをしたら、忍耐のほころびを見せることになる。怒りの忍耐をするとき、ムカッとしてそのそぶりをみせたら、忍耐は台無しである。忍耐するかぎり、怒りの内心が知られないように、怒りがなく、怒りへの忍耐もないようにと平然さを装うものであろう。
忍耐は、ときには、「自分が犠牲になっている」ことを示すためにこれを表現することもあろうが、苦痛を甘受できないと言ってはならないであろう。苦痛から逃げたい、これを攻撃したいと騒ぎ立てていたら、忍耐を放棄したいといっているわけで、「我慢のできないやつ」と見下される。忍耐は、苦痛をめぐっては、これに平然として、なんでもないと、忍耐などしていないとばかりに穏やかに振舞うことが求められる。苦痛の甘受を示すには、自然的には、逃走し排撃するものを、これをしないということであるから、そういう苦痛回避のそぶりをしないように心がけることが求められるであろう。端的には、排除したい苦痛なのだという振る舞いをせず、苦痛でないかのように、平気でなんでもないこととして受け入れることである。忍耐は、ここでは、忍耐していない、(苦痛ではないかのようにするものとして)忍耐など無用の装いをとることであろう。もちろん、忍耐していることを示す必要がある場合は、苦痛であるということを表現する。だが、それでも、その苦痛から逃げるとか攻撃するような振る舞いは、苦痛甘受の根本を崩すから、してはならないであろう。
うちに生じる欲求の忍耐は、欲求をしっかり抑圧できていて、欲求などないかのようにできるのが優れたものになろう。その辛苦も、甘受し受け入れている忍耐であれば、排除したい逃げたいといったことを語る不快とか辛いとかの嫌な顔などしないものでなくてはならないであろう。悲しみを忍耐するときは、それを知られても周囲に害を及ぼすことはあまりないから、表に出しても差し支えなかろう。それでも、見知らぬ者の間では(たとえば、電車の中など)、全面的に抑制して、悲しみなどないかのように、忍耐もしていないようにと装うのが、かなしみをこらえる忍耐であろう。
2-4-1-2.
忍耐では、苦痛という内面・本心は、そのままを温存している
忍耐は、苦痛をうちにもっていて、これを忍ぶ。苦痛を排除すれば、忍耐は無用になる。忍耐している限りでは、この苦痛は排除しないで温存しているのである。手術の激痛に我慢するものは、麻酔して苦痛を排除・回避しないで、激痛をそのまま維持してこれに耐える。痛みを保護しようと意志することはないにしても、これから逃げたり排撃したりして苦痛を無化することは拒否するのが忍耐である。
忍耐は、わざわざに苦痛を作るものではないが、これを排除せず甘受し、温存している。反自然・超自然の自由の人間の営為では、苦痛を作り出したり保存していることも、意外に多い。スポーツでは、大きな負荷をかけて、つまりは、辛い苦痛の状態をつくる。これに耐えるのが練習であろう。その作った苦痛と忍耐をもって、より強くなり身体能力を高めるのである。精神的に鍛えるには、宗教などでは、辛苦をわざわざに作り出して、これに耐え切ることで、高い精神的能力を獲得しようとすることがある。世俗でも、生きるためのより高い能力を身につけるために、辛い修行といったものをする。苦労は買ってでもせよと、苦痛甘受を勧める。
欲求抑制の辛い忍耐では、欲求をなくすれば、忍耐など無用となるのだが、欲求自体は維持しつづける。好き嫌いの自身のありかたは、忍耐では、変えない。ニンジンを食べるのを我慢する者は、ニンジンが嫌いなことを変えるつもりがない。好きになったら、我慢などいらないのだが、その嫌いという本心は忍耐では変えるつもりはない。自分のエゴを忍耐はしっかりと維持・貫徹している。
ただし、忍耐していると、その苦痛・不快には慣れて来る。欲求が苦痛を通して変えられていく。ニンジン嫌いを変えるつもりがなくても、忍耐して食べていると、苦痛を甘受しつづけていると、これにだんだん慣れてきて、平気になっていく。苦痛がなくなれば、当然、忍耐が無用になる。スポーツなどの練習・修行では、辛い状態を維持し耐え続けておれば、やがてそれが辛くなくなっていく。慣れて来ると、免疫ができ、抵抗力ができ、対抗できる能力が身についてくる。それまでは苦痛だったことが普通のこと平気のこととなる高い能力が身につく。
2-4-1-3.
苦痛を甘受するとは
不快・苦痛は、傷害や妨害といった自身の生にとってのマイナスの状態を知らせ、当然これには排撃や逃走の対応にでる。だが、忍耐は、これを排撃せず、受け入れる。苦痛の甘受である。
甘受は、受け入れることだが、好んで受け入れるのではない。受け入れたくないという心が一方にありつつ、これを抑制し無理やりに強いて、受け入れるのである。あえて、甘んじて、仕方なく、である。
「あえて」受け入れるが、忍耐のこの「あえて」は、自身の感性にむけてのものである。この感性の不快・苦痛の感情について、これを抑圧して無理やり有無を言わさずということである。苦痛の感性を抑えてこれの反対するのを抑止して、苦痛を、そしてしばしばその発生原因を受け入れる。受け入れについて、注文をつけるのなら、受け入れに難色をしめすのである。忍耐は、受け入れ自体については、まるまるを受動するのが原則であろう。かりに少しでも苦痛から逃げるとか、排除するそぶりをみせると「あ、我慢できてない」と見られることである。
忍耐は、苦痛についての自然感性的な本心を抑止する。内心では、いやいやで、抵抗の思いをいだき、受入れに反対している。これを理性は、抑止して、この内心・本心とは逆のことを表にだして対応するのである。受け入れるのである。受入れについて、注文をつけるのではないから外的には無抵抗の装いをもって受け入れていく。甘んじて受け入れる。その甘んじて、あえてというのは、感性的な本心に逆らってということである。
感性が悪いかどうかは別問題で、忍耐で苦痛を甘受するとき、その苦痛の感性は、正当な肯定されるべき反応であることもあれば、エゴの利己的な悪に属するものであるときもある。いずれの場合でもこれを抑止して「強いて」「無理やりに」抑えて苦痛を受け入れるということである。抑える主体は、自分の理性である。理性の意志を貫徹する。その理性の振る舞いが自分の振る舞いということで、苦痛を「受け入れる」態度をとる。さらに忍耐は、自分の理性が受け入れたくはないと思っていることもときにはある。不合理な無法なことでも忍耐のいるときがある。この場合は、感性が受け入れたくないと、苦痛であるとともに、理性も拒否したいと思っている。それを外的な配慮のもとにある、より全体を配慮できる、より広い視野のもとにたつ理性が抑えて、感性と理性の両方を抑圧する。そうする以外にないということで、ときには理性的自己をも抑制して、(拒否するなどの別の方法はないと諦念し)仕方なく、あえて、強いて、受け入れるという苦痛甘受の忍耐である。
甘受の「甘んじて」は、やむを得ず仕方なくということであるが、他方では、高い見地にたつ理性からは、その忍耐は、超自然の自由実現として、誇らしい振る舞いであるから、甘んじてとは、喜んで満足してということをも意味しうる。それでも、もちろん、その感性的自然は、苦痛で、苦痛回避の衝動をもつことにかわりはない。
2-4-1-4. 苦痛から逃げないなら、忍耐できているのである
忍耐の根本は、苦痛の甘受である。これさえ外さなければ、苦痛を軽減する方法をとろうと、苦痛について嫌な顔をしたり騒ぎたてようと、一応は、忍耐できているのである。目的実現まで苦痛甘受を放棄せず持続することが忍耐の肝心要めのことである。目的を損なうことのない形で苦痛の軽減ができれば、忍耐は、よりたやすく長く持続できる。であるのなら、苦痛自体を小さくして忍ぶのは忍耐持続のひとつの手であろう。苦痛から逃げないという根本さえおさえられているなら、種々の忍耐持続の方法が模索されてよいことであろう(厳格にいえば、苦痛軽減の方法をとることは、その部分の苦痛を回避しその部分は忍耐しないのではある)。
愚鈍な社長の叱責に忍耐するとき、平然として、本心に生じている激怒をじっとこらえ忍耐する。だが、その忍耐も堪忍袋の緒の切れそうになることがあろう。そうならないように、ガス抜きの方法をとることになる。社長には分からないように、そとで鬱憤をはらし、怒りを表現することである。あるいは、うちに帰って布団をかぶって「三代目のおおばかやろう、死ね!」と怒鳴るのも手であろう。そういうガス抜きをして、なんとか、社長の面前では冷静に忍耐を続けられる。そのことがあるから、肝心なところでの忍耐自体は、放棄せずにすんでいるのである。許容されるところでは忍耐をやめて激怒することにして、肝心なところで激怒抑制の辛苦さえしのげれば、忍耐の根本は持続できているのである。
苦には自然的には排撃的になる。だが、忍耐は、それを排撃せず淡々と受容する。たとえ排撃的そぶりをしても、実際には排撃せず苦痛から逃げることをしないなら、一応は、忍耐できているのである。忍耐の理想からは、若干は後退するとしても、肝心の苦痛甘受さえ守られているなら、忍耐はできているのである。辛ければそれは顔にも出よう。それでも、辛いことから逃げなければ、耐え続けえているのである。
辛い忍耐は、その持続が大切である。熱いお灸に我慢するとき、どんなに歯ぎしりしたりうなり声を出して辛いことを表現していても、お灸自体を振り払って我慢を断念するのでなければ、忍耐できているのである。冷静に淡々と耐えるのに比しては忍耐できてないと見下されるとしても、苦痛甘受の忍耐は放棄していないのであり、基本的に忍耐できているのである。
2-4-1-5.
強制され忍耐させられても、苦痛は苦痛、忍耐は忍耐
ボランティアの仕事の場合、自発的であることが生命で、強制されたものだったら、ボランティアではなくなる。それは、労働の中で最悪の無償の奴隷労働に激変する。忍耐も、しばしば強制される。こどもなど、ニンジンを食べることも勉強も嫌いで、その苦痛を親や先生に強いられて忍耐させられる。だが、この忍耐の強制は、ボランティアの場合とちがい、強制されたものも、忍耐であることはやめない。
忍耐は苦痛甘受であり、どんなに恵まれた忍耐でも、忍耐であるかぎり不快で嫌なことなのである。忍耐の場合、自発的であろうと強制であろうと、その苦痛は、苦痛で、少しの変わりもない。さらに、忍耐、つまりこの苦痛の甘受も、一切変わらない。たとえ、自発的にする忍耐でも、忍耐する者は、好き好んで苦痛甘受しているのではない。いやいやにやむを得ず受け入れているのである。苦痛甘受は、自発的忍耐でも、嫌なものの受け入れである。強制される忍耐と同じく、いやなことを受け入れているのである。脅され強制されたものであれ、自発的にするものであれ、忍耐は、常に、嫌なもので、したくはないものであり、どんな忍耐も、忍耐させられているのである。ボランティアとちがって、忍耐は、脅迫されたものも自発的なものも、忍耐である。かつ、どんな強制的な忍耐でも、忍耐が成り立つには、最後は、忍耐しようと自発的に意志することがなくてはならない。させられる忍耐も、忍耐するのである。
忍耐における強制と自発のちがいは、自発的なものなら、他からの強制がなくてもはじめ、続けもするが、強制の場合、強制がなくなったら、即忍耐しなくなることぐらいであろう。強制なら、その苦痛も甘受の辛さも少しは大きく感じられることもあろうが、まずは同じ苦痛・不快である。ボランティアと強制労働なら、前者は、することが愉快・快適で、後者は、根本的に不愉快・苦痛のこととなる。だが、忍耐では、強制されようと自分でやろうと、忍耐すること自体不快なことで変わりはない。
ただし、苦痛に耐えることが身につくかどうかという点では、かなり違いが出てくる場合がありそうである。スポーツで負荷をかけて忍耐するとき、自発的にする場合と強制されしごかれての場合は、苦痛も忍耐の辛さも変わらない体験であろうが、自発的ならどこを鍛えているのか、どう動かすと効果的か等の自覚や工夫をもってのことで、自発的忍耐の方が身につく度合いはより大きくなるであろう。しかし、自発的にする場合は、より小さな苦痛・負荷にとどめがちであろうから、小さな忍耐にとどまる傾向がある。強制されしごかれる方がより辛いものとなり、より大きな忍耐になり、より大きな能力を開発できることもありそうである。
拷問を受ける場合は、基本的に強制的に苦痛を甘受させられ、忍耐させられる。しかし、拷問する方は、苦痛は与えるが、忍耐はしないで自白するようにと懐柔する。ここでは忍耐はあるとすると、自発的にすることだが、それでも、苦痛は恣意的に加えられることで、ひろくは、忍耐させられたということであろう(拷問に抵抗したり自棄的になるなら忍耐しないのであり、これらの方向にいかないように拷問者は工夫することで、この点では、確かに忍耐させられる面も存在する)。苦痛を甘受すること自体は自分ですることで、甘受ということが忍耐ということであり、それが強制されようと、自白せず拷問への忍耐を自発的にしようと、苦痛の受け入れ・甘受、つまり忍耐としては、同じである。このとき、味方の方から自白したら家族を殺すと言われていたとしたら、この脅迫の想起は忍耐へと自身を強制する。させられる忍耐である。苦痛の甘受という忍耐としては、自発であろうと、強制であろうと、同じである。
2-4-2.
忍耐しても、しなくても、苦痛・辛さ自体は変わらない
忍耐は、苦痛を我慢する。それは、苦痛を押さえつけてこれを感じなくするのではない。苦痛を感じる状態をそのままにして、これを受け入れるのが忍耐である。忍耐は、自然を超越し、苦痛から自由になり、これを回避せず、受け入れる。だが、苦痛から自由になるといっても、それは、苦痛を感じなくする、苦痛感情から解放されて楽になるものではない。忍耐が苦痛から自由になるとは、苦痛回避衝動を抑止して制御・支配すること、苦痛から逃げないで苦痛(の回避衝動)から自由になるということである。忍耐は、苦痛を軽減するわけではない。
忍耐は、むしろ、自然的には回避できる苦痛をも受け入れるから、より多くの苦痛をそこでは感じることになる。忍耐は、苦痛を軽減するどころか、忍耐をしない(苦痛から逃げる)自然状態よりは多くの苦痛を、しかも長々と感じるものになる。かつて拷問で膝の上に重い石を載せて足に激痛を与える方法(石抱責)があったという。激痛に耐えられなくして自白に導くというものである。忍耐しても、忍耐できず自白しても、その拷問の間の苦痛は変わらない。石の重みで足に激痛が走ることは、忍耐するしないに関わりなく、同じである。が、忍耐する者は、その激痛に降参することなく耐え続けるのであり、より長く多い苦痛を味わうことになる。かつ、激痛に耐えきったものは、もう一枚の石を載せられるから、さらに大きな激痛が追加された。忍耐は、苦痛を受け入れることだから、苦痛を感じることについては、忍耐しないものに比してより多くの苦痛を感じることになるのが普通であろう。
忍耐を貫くとは、苦痛から逃げないということであり、苦痛回避衝動に勝つということである。感覚感情的には、忍耐の有無にかかわりなく、苦痛には、さいなまれ煩悶し打ちのめされる。だが、忍耐する者の精神、理性の意志は、苦痛の自然的な回避衝動に支配されず、これを拒否して自由を確保する。ひとがひとであるのは、その精神においてであれば、苦痛から逃げない忍耐は、忍耐しないものに比して長く多く苦痛にさいなまれるとしても、自然感性から自由になって、苦痛という自然が精神を脅かそうとすることに負けないで、毅然としてその尊厳を保つ。
2-4-2-1. 忍耐して苦痛を受け入れていると、苦痛でなくなる場合がある
苦痛に忍耐するが、これは、苦痛を小さく和らげるためにするのではない。忍耐する基本は、苦痛を受け入れること、甘受することである。忍耐は、その苦痛甘受を手段・踏み台にしての価値物獲得を目的にする。忍耐では、目的のための手段価値として苦痛があり、苦痛が価値ある目的を実現するから、その限りでは、この苦痛がたくさんになればなるほど、その苦痛をたくさん感じれば感じるほど大きい手段価値となり、より大きな目的物が獲得可能になる。その限度は、苦痛が大きくなりその蓄積で忍耐のできなくなる限界点ということになる。
忍耐し苦痛を甘受すればするだけ、それの蓄積をもってして、より大きな苦痛を感じることになる場合が多いが、逆もある。苦痛に忍耐することが苦痛の軽減になっていく場合がある。麻酔の注射は痛いが、それは手術の大きな苦痛をなくするためのものである。熱い(あるいは冷たい)苦痛の風呂は、思い切って我慢して入ると、だんだん熱さ(冷たさ)の苦痛はなくなって、平気になる。暗闇にいた者には、強い光は苦痛になる。だが、辛抱していると、しだいにまぶしくなくなる。大音響なども我慢していたら、だんだん平気になる。
その場で直ちに苦痛でなくなるのではなく、忍耐の回数を重ねてしだいに感覚などがこれに適応して平気になるようなものもある。現代音楽は、不協和音のみを重ねるから、普通の騒音とちがい、なかなか慣れないが、それでも重ねて聞いているとだんだん不快度は低くなる。発酵食品のなかには、他の地域からいうと腐敗とみなされるようなものがあり、腐敗臭の耐え難いものがあるが、これも何回か食べていると、その苦痛は小さくなり忍耐は小さくて済むことになる。さらには、それを美味とするまでになって、忍耐などとんでもない話にと変わっていく。
スポーツでの忍耐も、苦痛に耐えることで同じ苦痛は平気になる。体力がつき、抵抗力ができて苦痛とまではいかなくなる。風邪のような病気でも、はじめは辛いが、苦痛軽減の風邪薬を使わないで我慢していると、だんだんと熱もさがり頭痛も軽くなって一週間もするとなんでもなくなっていく。耐性ができ免疫ができる。ひとの適応能力は大きく、苦痛がつづくと、これを平生のことにとできるように適応していく。
苦痛に忍耐するが、これは、苦痛を小さく和らげるためにするのではない。忍耐する基本は、苦痛を受け入れること、甘受することである。忍耐は、その苦痛甘受を手段・踏み台にしての価値物獲得を目的にする。忍耐では、目的のための手段価値として苦痛があり、苦痛が価値ある目的を実現するから、その限りでは、この苦痛がたくさんになればなるほど、その苦痛をたくさん感じれば感じるほど大きい手段価値となり、より大きな目的物が獲得可能になる。その限度は、苦痛が大きくなりその蓄積で忍耐のできなくなる限界点ということになる。
忍耐し苦痛を甘受すればするだけ、それの蓄積をもってして、より大きな苦痛を感じることになる場合が多いが、逆もある。苦痛に忍耐することが苦痛の軽減になっていく場合がある。麻酔の注射は痛いが、それは手術の大きな苦痛をなくするためのものである。熱い(あるいは冷たい)苦痛の風呂は、思い切って我慢して入ると、だんだん熱さ(冷たさ)の苦痛はなくなって、平気になる。暗闇にいた者には、強い光は苦痛になる。だが、辛抱していると、しだいにまぶしくなくなる。大音響なども我慢していたら、だんだん平気になる。
その場で直ちに苦痛でなくなるのではなく、忍耐の回数を重ねてしだいに感覚などがこれに適応して平気になるようなものもある。現代音楽は、不協和音のみを重ねるから、普通の騒音とちがい、なかなか慣れないが、それでも重ねて聞いているとだんだん不快度は低くなる。発酵食品のなかには、他の地域からいうと腐敗とみなされるようなものがあり、腐敗臭の耐え難いものがあるが、これも何回か食べていると、その苦痛は小さくなり忍耐は小さくて済むことになる。さらには、それを美味とするまでになって、忍耐などとんでもない話にと変わっていく。
スポーツでの忍耐も、苦痛に耐えることで同じ苦痛は平気になる。体力がつき、抵抗力ができて苦痛とまではいかなくなる。風邪のような病気でも、はじめは辛いが、苦痛軽減の風邪薬を使わないで我慢していると、だんだんと熱もさがり頭痛も軽くなって一週間もするとなんでもなくなっていく。耐性ができ免疫ができる。ひとの適応能力は大きく、苦痛がつづくと、これを平生のことにとできるように適応していく。
2-4-2-2.
忍耐していると当然、苦痛の増すものが多い
忍耐は、苦痛を甘受し続ける。忍耐するほどに、苦痛・損傷が蓄積することからいうと、苦痛はしだいに大きくなるはずである。忍耐は、続けていると、苦痛を増し、耐えうる苦痛の限度になって、忍耐を放棄・断念することである。正座は、はじめは何でもないが、少しずつ痛くなり、苦痛がだんだんと大きくなる。我慢できない苦痛になって、正座を断念する。
尿意や呼吸の抑止も忍耐していると苦痛が激増する。苦痛の原因となる有害な状態が増大するのだから、苦痛を大きくして、(反自然の)我慢をやめさせようというのは、うまくできた自然の摂理である。呼吸をとめていても、あまり苦痛が増大せず、だんだん苦痛に慣れて呼吸しないのが平気になったのでは、生の維持が危うくなる。
辛い労働は、はじめは、なんとかこなしているとしても、時間とともに疲労も蓄積して苦痛の度合いが大きくなる。一日の仕事が終わる頃には、もうくたくたとなる。苦痛は重なり大きくなる。忍耐への気合も、疲労が大きくなるとともに強くもつことが必要となっていく。日々、それの繰り返しである。さらに、休息を入れて疲労からの回復をはかって労働を継続するとしても、完全な回復はならず、年々、苦労の蓄積となるのが普通である。ひとより多く辛苦を積み上げている者は、心身の損傷の度合いをひとよりはやく大きくして、早く死を迎える。長生きしている者は、なまけて楽をしていたからという場合が結構ある。『論語』で、老いて死なぬは悪なり(「老而不死 是為賊」(憲問篇))というが、老いる前から悪だったのである。お人好しは、多くの苦労を背負い、命までひとに譲る。身勝手なエゴイストは、逆で、長命である。
2-4-2-3.
苦痛回避が可能だとしても、しばしば後が大変になる
苦痛の原因を遠ざければ、苦痛はなくなる。自然的にはそうして、苦痛とその原因の傷害を回避できている。だが、それの難しいこともある。不可避の苦痛とその原因を受け入れるのが忍耐だが、そういう事態になっても、なおも苦痛から逃げたり、排撃することもある。逃走や排撃がうまくいけば、苦痛なく、忍耐なしで済むかもしれないが、これに失敗するとより大きな苦痛の待っていることが多い。忍耐した方がまだ小さな苦痛で済むと思えば、逃げないで忍耐することに傾く。欲求抑制の辛苦に忍耐している場合は、忍耐をやめるとは、欲求実現へと向かうことで、抑制での苦痛をなくして楽になりもする。ただし、そのことの結果がより大きな辛苦をもたらすから大体が忍耐しているのであり、忍耐をやめて一時的に楽になることは、想像力のある者ではとりにくいことになる。
忍耐をやめて破れかぶれになり自暴自棄になる者は、辛苦に耐え難くなってそうするのであり、辛苦の甘受をやめるという限りでは、楽にはなる。だが、自暴自棄の後は、耐えて苦痛甘受をもって可能になる大きな価値の維持なり獲得を断念することになるのみでなく、その見境ない暴発・破壊のもと一層の苦痛が押し寄せてくる。先を読める想像力あるものは、それを思って忍耐の方をとる。
自殺は、責任をとっての自決などとちがい、忍耐できなくなり、破れかぶれで、目先の苦痛から逃げて楽になるためにすることが多い。その生に残されているのは苦痛のみということなら安楽死もやむを得ない。が、そうでないのなら、耐えればよりよい生の可能性が残っているのである。西洋ではレイプ犯による受精卵にすら「人間的尊厳がある、殺すな」ということがある。ましてや、生身の人間は、現に実在している尊厳で、受精卵が人ならば、絶対者であり現生している神そのものである。それの神々しくありうる未来を断ち、それを灰燼に帰すのが自殺である。人生に絶望して苦悶していても、これを耐え切るなら、あるいは自分の生き方、生きる場所を変えるなら、苦悩からは解放される。苦痛・苦悩の現在に囚われて、早まったことをしてはならない。
2-4-3.
苦痛の忍耐で自由が実現される
動物も忍耐する。快・不快の複数の選択肢があるとき、より快であるものを選ぶから、そこでは、熊が蜂蜜のために蜂に刺されるのを我慢するように、小さな不快・苦痛は忍ぶということが生じる。この忍耐は、基本的に快不快に動かされての選択であり、自然の営為の中での忍耐である。
だが、ひとの忍耐の場合、快不快によって動くのではなく、快不快を超えた目的(たとえば、経済的価値の確保、所属の国家の堅持等)を掲げて、これのために苦痛を踏み台・手段にすることがある。より快の大きなものを選ぶためにではなく、快不快を超えた高い価値・目的のために、動物的自然の快欲求と苦痛回避衝動を抑制する。自然の因果法則にしたがえば、快にはひかれこれの充足へ向かうという結果を帰結し、不快があれば、これを回避するという結果にすすむ。因果の自然である。この自然的因果連鎖をひとは、中断して、つまり、快にひかれての結果を結果させず中断し忍耐し、苦痛を回避するという結果を中断して苦痛を甘受する。因果自然を折り曲げて、苦痛を避けない方向に進め、快でない方にと展開して、人間的な目的のためにこれを利用する。
因果自然を人間的目的のために中断させる反自然・超自然の目的論的な展開を苦痛甘受の忍耐をもって実現するのであり、自然に縛られない自由をひとの忍耐は実現する。ひとも動物的感性をもって快不快にしたがった因果展開のもとに立つが、必要なときには、理性をもって、この感性を制御・制限して、より高い精神的な目的などのために自然感性を超越して反自然・超自然の振舞いをなす。自然感性から解放された、感性(快不快)に従わない自由であり、目的論的展開をする理性の自律の自由である。自然においては、苦痛は避けるが、理性的なひとの忍耐は、理性の目的実現のための踏み台・手段として、苦痛を受け入れて忍ぶ。自然的欲求は快に引かれるが、これを抑制し、これから自由になって欲求不充足の辛苦を忍耐して、ひとは理性的に生きる。
2-4-3-1.
ひとの超自然の忍耐は、苦痛から自由になっている
2-4-4.
苦は、生を覚醒し強化する
苦痛は、そこに傷害・妨害が発生していることを示す。その生にとってのマイナス状態が出てきているというのであり、そんなものは、ない方が生には安穏である。内的にも苦痛は故障の発生を知らせる。細菌によって炎症を起こしているから痛む。炎症などない方がいいにきまっている。苦痛がなければ、生は、まず穏やかに生きながらえているのである。幸不幸をいうとき、苦がなければ、それだけで幸福なのだともいう。苦がなければ、生は安らかであり、穏やかである。
しかも、苦痛は、傷害・故障などマイナスを知らせるだけではない。傷害よりもその苦痛自体が、生を滅入らせ、ほかのなすべきことから注意を奪い、損傷を知らせ続けて重ねて痛めつけることでもある。癌の痛みなど、ことさらに苦痛が強く持続するものがある。どうせ直らないのなら、せめて苦痛だけでもなくしたいということになる。生にとって無用で、いじめつくそうとでもいうような苦痛は、なしで済ませたいものとなる。
快は、動物的なレベルでは、その存在意義は大きいが、精神的世界では、価値獲得が中心になり、快は、あってもなくてもいいぐらいの些事になる。しかし、苦痛は、生理的なもののみでなく、精神世界でも、些事ではなく重大事として、ひとに大きな負担・マイナスとなる。喜びはすぐ忘れるが、悲しみは、ひとを滅入らせ価値喪失からの回復がなるまでいつまでも続く。愛児を得た喜びは、すぐに消える。だが、愛児をなくした母親は、思い出す度に、老婆になっても辛く悲しい思いを反復する。不安は、ひとから安らぎをうばってイラつかせ安眠をうばって生を疲労させる。絶望は、ひとを苦悶させて生動性を奪い屍状態にまでしてしまい、ときには、命さえ奪う。そういう苦痛がなければ、生は、穏やかで安らかである。
この苦痛・辛苦の世に疲れ果てて、ひとは、この世界を苦痛に満ち満ちた「苦界」と嘆き、その苦を抜いた世界を極楽、安楽国として夢見ることである。しかし、苦のない快・安楽の世界は、ひとをそこにとどめて動くことをやめさせ、停滞させる。
快不快は、自然の個体を制御する根本の力である。快(アメ)は、それが無いがゆえに、動物をして、その快を有らしめるようにと、動かす。苦痛(ムチ)は、それの有るところで、これを回避し、無くするようにと、動かす。ひとの生においては、快は精神世界ではアメにはなりにくいが、苦痛は、絶望とか不安など強烈なムチとなってひとを動かす。苦痛は、それの無い方が穏やかな人生なのではあるが、人の生は、苦痛のムチが有ることをもって、それの無い方向へと大きく駆り立てられ動かされる。かつ、ひとの忍耐は、その自然の苦痛をあえて有らしめ受け入れる反自然の営為をもって(価値ある目的にひかれて)、超自然の自由の世界へと飛躍することを可能にしていく。
2-4-4-2.
自分の課題としての苦痛・苦悩
自然は苦痛からは逃げる。だが、自然を超えた自由の営為を行うひとは、苦痛を受け入れることが必要なら、これを避けず甘受する。引き受けるべき苦痛は、自分にとっての課題となる。回避せず、その苦痛の課題を引き受け、乗り越えることで大きな結実が可能となる。
課題、宿題は、自分に適した問題である。宿題は、自分の能力に見合い、これを高めるために出される。自分に苦痛でないような低級な問題では宿題の意味はない。かつ、自分が解決できないようなレベルの高いものも、宿題には不適である。自分の課題は、自分の解決できるぎりぎりの高さにある障害物ということになる。苦痛に直面し、これを忍耐することができるということは、課題を解決できる状態にあるということである。
愉快なゲームにふけるのとちがい、不快・苦痛の宿題に挑戦して、これに忍耐できるなら、ひとは、そのもてる能力の目いっぱいをためし、この能力を一層高め開発していくことになる。スポーツでは、自分のぎりぎりのところを課題として苦に耐えていくことで力をつけていく。多くの苦痛は、その生に傷害発生を知らせるもので、回避すべきものである。だが、そのなかに、この苦痛を引き受けて、それを踏み台・手段として、高い目的の実現できるものがある。それが忍耐できるものであれば、達成可能な、自分にふさわしい課題となる。
課題は、課される宿題として、そとから与えられることが多い。自分でつくる課題もあろうが、それでは通常、甘くなり低いものとなりがちである。苦痛は、自分だけだと、いやなものだから、低めに限界をおきたくなる。そとからこれを見ている指導する者は、冷静に当人の苦痛の限界を見定め、できる忍耐を過不足なく課さねばならない。課題・宿題は、ひとから与えられる方が、つまり、忍耐するより、忍耐させられる方が、能力開発にはふさわしいこととなる。
苦痛は、自然的には、損傷、障害などマイナスの事態の始まりを感知したものになる。苦痛を回避すれば、マイナス状態になる手前で生の保護が可能となる。だが、ひとの忍耐は、この自然の原則を超越する。特定のマイナス状況では、これを受け入れるなら大きなプラスになることがあって、あえてその苦痛を受け入れてマイナスに耐え、これを手段・踏み台にしてそのプラスを獲得しようと試みる。忍耐は、未来に自由に目的を設定し、これの実現のためにあえて苦痛・犠牲を受け入れるという、超自然・反自然の手段をとって、自然的にはできないことを、自然からの飛躍をなしとげる。
苦痛は、尋常な対応では自身に傷害をこうむってしまうことを知らせる。それ以上の力が加えられると無事ではおれないという自分の弱さ、自分の限界・限度を苦痛をもって知る。苦痛の始点は、傷害の開始、負けはじめの点である。これから逃げれば、傷害はなしで済ませられることもしばしばである。放置しておくと傷害が大きくなり苦痛が大きくなっていく。しかし、その苦痛から逃げる自然反応を抑制することで、自然には実現できない超自然、自由の世界の可能になる場合があることをひとは知っている。
苦痛を甘受すること、つまり忍耐は、自然を超えた自由の世界への飛躍を可能にしてくれる。もちろん、苦痛を受け入れての未来の高い目的達成は、可能性であって、現実に苦痛忍耐のその先が保証されているわけではない。忍耐と目的達成への巧みな営為が、その知恵がこれを現実化する。が、かりに目的達成がならないでも、忍耐すること自体において、自由は実現されている。苦痛から逃げないという忍耐は、自らの自律的な意志を行使し、自然の束縛を脱して、自然超越の自由を実現しているのである。
苦痛は、つねに自分のこころのうちに生じる。どんな強い相手の攻撃も、苦痛については、自分のうちで自分用にと変換している。苦痛との戦いは、その忍耐は、常に自分のうちに展開されることで、自分との戦いということになる。忍耐は、厳密には、敵(からの攻撃)への忍耐ではなく、それをもって生じる自分の苦痛に耐えるのであり、自分に負けるのかどうかということになる。自分の苦痛に負けない限り、忍耐では、負けとはならない。もちろん、敵が強ければ、腕力では敗北する。それでも、自身の心中の苦痛にさえ負けないで忍耐できているなら、自分は折れてはいない、負けてはいないのである。敵に勝つことはできないとしても、負けることはない。
戦いでは、攻撃をもって敵に苦痛を与え、その苦痛への忍耐を放棄させようと激しく攻め立てる。耐え難い苦痛を与えようとする。そこで苦痛に耐えられなくなると、攻撃をやめてくれと、敗北を相手に認めることになる。だが、苦痛に忍耐をつづけておれるなら、腕力では敗けるとしても、なお、白旗をあげないで済む。苦痛は自分のこころのうちにあることで、忍耐は、自分を相手に戦うのだから、自分に負けなければ、負けることはない。苦痛の忍耐ができなくなれば、この苦痛を回避しようと、逃走をはじめる、敗退をする。敵に対して敗北を認めることに到る。逆に、忍耐しているかぎり、自分に負けないかぎり、敗北・敗走はせずに済む。
苦痛に負けないなら、どんな強敵にも、負けない。強敵の腕力には、負けざるを得ないが、それから生じる自己内の苦痛には、耐え続ければ、身は粉々に粉砕されようとも、なお、負けないでおれる。拷問されて苦痛に耐えるとき、いかに残忍な拷問を受けても、苦痛への忍耐を放棄しないかぎり、決してこれに負けることはない。最後は、命をとられるであろうが、苦痛の忍耐を続けているかぎり、敗北はしない。強者として拷問してきた者は、このとき、忍耐しつづけて絶命した者に対して、自分の敗北を覚えることであろう。どんなに強い相手の攻撃にも、そのことでうける自分の苦痛(の忍耐)については、最後まで負けないでおれる。
2-4-5.
忍耐は、苦痛の約束する未来を見ている
自然的には苦痛からは逃げる。傷害などのマイナスがそれで回避できる。だが、忍耐は、苦痛を受け入れる。価値物獲得が、その苦痛・傷害を受け入れることで可能になると見て、これを手段として受け入れる。もちろん、単なる苦痛は、価値あるもの、快・楽を生むどころか反対であり、苦痛の状態を受け入れることが多いほど、生は傷害などの被害、反価値状態を大きくする。価値を生む苦は、価値あるもの、目的を描いて、これから遡源して見つけられるものであり、その展開が目的にまでしっかりつながった手元の苦痛である。それをもって目的実現が可能となる苦痛、いうなら創造的な苦痛、反価値の苦痛を価値にと転換する創造的な忍耐が選ばれねばならない。
労働は、欲求充足のための使用価値を生み出すが、それには、それを産み出す、心身を労しての苦痛甘受・忍耐が必要となる。楽園からの追放でアダムに課された罰が労働であったと言われて納得できるぐらいに、労働は、辛苦に耐える。どんな使用価値を産むにしても、いずれも同じ苦痛甘受がこれを可能にし、この苦痛甘受・忍耐が価値ある働きをする。苦痛という損害・有害の反価値を、忍耐は、ひとに有益で役立つものとしての価値へと転換する。自分の苦、忍耐は、その創造した物において価値として結晶する。自他の欲求を充たす使用価値となり、さらに生産財としては別の価値創造に役立つ価値ともなる。自分の別の欲求のために、それをどんなもの(商品)とでも交換できるのであれば、苦痛(忍耐)の価値は、あらゆる欲求を充たす普遍的な価値になる。
苦労し忍耐して作り出した物同士を交換するとしたら、それの持つ価値に注目しての等価交換となろう。相互に相手の創造した物に、自分にとっての使用価値を見出し、自分の苦労の作り出した物は自分には使用価値はないのでそれを譲って交換しようとする。そこで交換は、相互が納得して損なしでということでは、同じ量の苦労が結晶した同じ価値を交換することになる。森の木から机一つを作るのに5日の苦労を費やしたとし、他方、うさぎ一羽の狩猟に1日かかった計算になるとすると、うさぎ5羽と机1つの交換が妥当となる。それは、それぞれに含まれている苦労の大きさが等しいということである。どんな異なった使用価値をもっているとしても、同じ辛苦の忍耐であり、それの大きさが等しいとの見積もりである。忍耐の大きさは、時間持続で測られる。ここでの交換は、苦痛の強度がほぼ同等とすれば、あとは、それに費やした苦労の時間の長さが等しいことで成立する。労働における苦痛、反価値、したがって忍耐をもってなる価値、その分量が両者において等しくなっているということである。