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「どうして私はこんなに賢いのか」と狂った哲学者が言っていたが、小生は、つくづく、「どうして自分はこんなに真面目なんだろう」と思うことがある。
第一部 どうしてわたしは、こんなに真面目なのか
- 真実一路
こどものころから、本当にそうだった。
それはそれはかわいい顔をした友人が「雑貨屋」で万引きをしたのだったが、お店のお姉さんは、小生の顔を見て、あらぬ疑いをかけた。真実を話したにもかかわらず、「あんなかわいらしい子がするわけがない」と素朴な善=美を言い張り、「それにひきかえて、あんたの顔は、・・」と言いたげで、決して考えを変えてくれなかった。彼女の心の中の小生は、醜であるのみではなく、悪で偽(うそつき)となっていたのだが、「醜」はさておき、悪と偽は、真実ではなかった。が、生来無口の小生には、それをただす力はなかった。ただ、小生の行動を彼女の思いに合わせることで、「真実」を救い出すことは可能だった。真面目そのものの小生は、せめて真実だけでもと、後日、なくなく彼女の考えに自分の行動を合わせることにした。 - 検便の箱
糞まじめなのは、小学1年のはじめからであった(幼稚園は近くになかったのでいかなかった。行っていたら、「もも組」「さくら組」の当初からそうだったろう)。当時は、回虫調べに検便というものがあり、先生は、マッチ箱に便をいれてきなさいといった。が、その時は、あいにく家には大箱しかなく、うちのものは、キャラメルの箱でいいといった。真面目な小生は、うちからはキャラメルの箱につめてでて、それを通学途中の田んぼのなかにすて、かわりに、こづかいでこっそり買ったマッチ箱を用意した。もう自分のものは出てくれないので困ったが、道端にころがっている牛馬の糞をつめるようなそんな不真面目なことはできない小生であった。そこでやむをえず、人糞によく似た犬の糞をさがしだして、これをつめていったものである。ほんとにあのころから、「糞」真面目だった。 - 酒は一滴も飲まない
小生がかつて勤務していた広島大学文学部のある西条は、酒の産地で「酒都」といわれ、どこも「酒」「酒」「酒」で、土産用のお菓子にまで酒が混入していた。大学移転の話になったとき、本当は別の候補地が広島市内にあったのに、酒好きの評議員たちに押されて、はるかな山奥の酒都西条に移ることになったのだとかうわさもあった。大学が発売元なのかどうかは知らないが「広大」という銘の酒もあった。
せっかくそんなところに勤務していたのに、小生、酒が大きらいで、長年、酒を口にしたことがない。西条で新酒がつくられる時期には、酒精分の含まれた朝霧をさけて、なるべく西条駅ではなく、八本松というところで下車して大学にいくようにもしていた。
大学院生のころ、不眠ぎみになり、お酒の大好きだった恩師から「特効薬がある」とすすめられて、ブランデーの水割を睡眠薬がわりにしたが、その時など、小さじ一杯のブランデーをコップ一杯の水のなかに垂らして、稀ブランデー水溶液をつくって、その一杯で泥酔して寝たぐらいであった。いまでもアルコールは、小生には、睡眠薬がわりであり、薬局で購入したい感じのものである。それ以来、量は、少しづつだが、ふえている。つきあいでビールはけっこう飲む。焼酎やウィスキーの水割はおいしいと思う。
しかし、酒は、一滴ものまない。こんなに真面目でよいのであろうか。 - たばこも吸わない
義務教育(中学)を終えてまもないころ、真面目な自分の人生がつくづくいやになって、主として法秩序に反抗するために、喫煙をはじめたことがある。はじめは、顔が真っ青になり、失神しそうであった。しかし、しだいに慣れて、そのうち、中毒になり、法律が許可する歳になった頃には、日に4,50本吸うようなところまでいき、睡眠途中も一度は起きていっぷくして再度寝るというまでになった。当然ながら、歯ブラシを口にいれると「おえー」と来るし、胃が痛むようにもなった。
ということで、限界になり、何回となく禁煙に成功して、結局は、やめてしまった。以来、半世紀がたつ。禁煙に成功して一週間ほど経って、一本ぐらいもう良いだろうと吸うと、吸ったという事実の重みにひかれてすぐもとに戻るという経験を繰り返したので、一本たりとも吸わない。こんなに真面目でいいのだろうか。 - ばくちは、宝くじにも手を出さない
パチンコにしても、各種の宝くじにしても、総体としては、かならず、負けて損することになっているのに、どうして、みんなやるのか不思議でならない。それに、当たれば、人の金をかすめとる犯罪者になり、負ければ、被害者になるのに、どうしてみんな平気なんだろうとも思う。
それでも、ときには、ひとつやってみて、人の楽天的な心理や犯罪心理を経験してみるのもいいかと、何年か前の年末のこと、3億円か、10億円かよく知らないが当たるというのを買いにいってみた。広島駅のあたりにどこかあるのだろうと、うろうろしてみたが、分からず、しかたないので、地下街でウィスキーの少しいいのを買って帰った。
さすが、「3億円」のウィスキーは、いい味がした。 - 浮気
酒・たばこ・ばくちと来たら、どうしてか、わが国では「女」と続けられるが、これも小生、無縁である。よく、いい年をした者の浮気話を耳にすることがあるが、真面目な小生、誘惑に満ち満ちた退廃のきわみをいくこの国に生きていて、それがなんと一つもないのである。
酒を飲むことがないから、誘惑の夜の街に出かけるようなことが皆無ということもあるが、なんといっても、小生の面をごらんになれば、「誘惑にのらないのではなく、誘惑してもらえないように作られている」と分かるはずである。そういえば、うちの、いまから思えば脳軟化症初期にあったおばあさんが、小生がはじめて背広を着たとき、率直に、こうほめてくれた、「馬子にも衣装いうが、ほんまじゃのおー」と。
あれこれ振り返って見るに、自分の真面目さは、心からのものではなく、どうも身体から発しているもののようである。糖尿病境界の血糖値になったので、これは、いけないと、運動と節食を続けたら、見事、標準値になるし、毎朝、体重を計ると、「水を飲んでも太る」タイプなので、夕食に葡萄一粒過食しても精確に重くなってしまい、ついつい節制をしてしまうのである。 - 歌も歌わない
wine, woman and song(酒・女・歌)とつづける国もあるようだが、音楽は、聞くのは現代音楽以外は、きらいではない。しかし、歌はけっして歌わない。「からおけ」にさそわれるのは、苦痛そのものである。かつて、中国の大学に講演に行き、日本から導入されたという「カラオケ」に連れて行かれたが、騒音に耐えられず途中で退席した。その大学の学長にこう言っておいた。日本が貴国に与えた最大の害悪は、「カラオケを押し付けたことです」と。
「ありと、きりぎりす」(ギリシアのイソップでは、「せみ」だが、アルプスを越えたのは、「あり」のみで、「せみ」のかわりを、北では、「きりぎりす」のたぐいが担ったようである)でいえば、小生、徹底的に「あり」だと思う。無口でせっせせっせと真面目に生き続けるのである。そう思うとぞーっとするのだけれども、「せみ」や「きりぎりす」にはなれないのである。 - 日記
当然、青年期までは、毎日、真面目につけていた。だが、几帳面な自分を変えなくてはならないと思い、思いきってやめ焼却した。
パソコンをつつきだしてから、練習にと、備忘録的なものをつけはじめ、結局は、毎日、かかさず、つけて、日記となってしまっていた。だが、ありがたいことに、一二か月分のものが機種をかえたとき消えてしまった。惜しい気もしたが、また、くそまじめな悪い癖になっていたとも思っていたので、これは、よい「機械」だとやめることにした。 - 生まれる時代をまちがったようだ
おそらく現代日本ほど、不真面目な時代はないのではないかと思う。真面目一本の小生にはほんとうに住みづらい世の中である。ときどき、現代日本の監獄の話を耳にすることがあるが、あのなかは几帳面で真面目で質素で健康的で、自分にとっては、あそこが現代の桃源郷なのかも知れないと思えてくることがある。
そういえば、だれかの糖尿病の体験記に、あの中は、屈辱的なことは当然あったが、何といっても健康的だった、出獄時には後ろ髪をひかれた、また入りたいというような感じのことを書いていた。 - 青信号・赤信号
小生、よく歩くので、信号に出会うことになる。大切なのは、車が来ているかどうかなのだから、赤であろうと、青であろうと、基本的には、車の来ていないときに渡るという安全第一の国際的常識にしたがっている。くそ真面目に青信号を渡っていて、車にひかれて、「車が悪いのだ」というほどの杓子定規ではない。
だが、ときに、車が来ていないのに赤信号だからと、待っているひとがある。車が来ていないので、ほかの人はどんどん渡っているのに、そのひとが待っていると、小生以上のその(糞) 真面目な心中を察して、杓子定規な非常識なひとがいるものだと思いながらも、つい同情して渡れないのである。 - 糞真面目な話
小生の真面目さは、身体的である。大便の時間を、なんとか、気が向いたとき自在に、意のままにしようと何度も試みたのだが、身体は、がんとしていうことを聞かず、毎朝几帳面にやれと強制してゆずらなかった。糞真面目で全然、融通がきかないのである。一時、自由を求めて、夜、「うん、うん」ときばってみたのだが、だめで、とうとう、痔になりかけてしまった。ウェブで、「痔」を引いて呼び出してみたら、2,3の医院がでてきて、無理をしたらとんでもないことになるような写真が掲載してあり、この糞真面目をつぶすこころみ、中止した。もう、自分のまじめさには、ほとんど、あきらめかけている。
痔といえば、「くそー」と思うような、半世紀以上前のことをいま思い出した。小生と従弟が駄菓子を買いに田舎のよろず屋にいった時のこと、その店に来ていた近所のくそ娘が「まあ、兄弟で、どうしてこぎゃに顔がちがうんじゃろ。弟の方は、ほんにまあ、かわいいのにのお」と小生の顔を見下しながらあけすけなことを言っていた。ちなみにこの従弟、長じて、そういう田舎の糞ばばあ達をファンにして(「糞」がついているのは70年ほど前のその「くそ娘」の類いのみ。他の老女は「達」に該当。念のため。)市会議員をやっていたが、痔が進行して「おむつ」をせねばならない状態になり、お笑いでなくイケメンで選挙していたので、現在は落選中である。 - いつかは・・・
自分の真面目さに、なかばは絶望し、時にはいきどおりさえ感じていて、なんとか、不真面目に少しは生きてみたいと、常々、機会をねらっているのだが、いざはじめだすと、いつでも駄目になってしまう。このインターネットにしても、是非、不真面目な何かをと思ったのだが・・・。
ふまじめ、たわけとなると、下半身の話に落とすのがひとつの道だが、小生のばあい、下半身になっても、エッチな話になるのではなく、やっぱり糞まじめなものになってしまった。
第二部 「まじめ」とは、何なのか。
- ふまじめーまじめーくそまじめ
アリストテレスは、徳は、中庸にあるといい、過剰と不足の両極端の悪徳の間に、これを位置づけたが、それをここに当てはめると、不足の「不真面目」と、過剰の「糞真面目」の中間に、「まじめさ」は、あることになる。 - 出席の仕方の例
ふまじめとは、ずるやすみして、出欠の点呼には、代返をたのむようなものをいう。まじめなのは、しっかりと出席しているのをいう。糞まじめなのは、風邪で熱があっても出席したり、台風でおそらく休講だろうというようなときにも、先生は来ないのに教室でじっとまっているようなものをいう。 - 糞真面目は、まじめと厳密には区別できない
一つの態度が、人によって時によって、真面目ととらえられたり、糞まじめととらえられる。都合の悪いまじめさを糞まじめということが多いのではないか。台風のとき出席している学生について、無理して登校した先生は、「まじめな学生」と感激し、休んだ先生は、自分のいたらなさを棚にあげて、「くそまじめな学生だ」と思うのである。 - くそまじめは、todernst, too serious, faussement serieuxなどというらしい。
ドイツ語でtod とは、死という意味である。評価するものが、そのまじめさを否定的にとらえて、死んでいるというのであろう。英語のtooは、過ぎているということで、過ぎたるは及ばざるがごとしになるということである。フランス語のfaussementは、誤っているということである。ワインづけの国のこと、真面目がすこしすぎたら、もう誤りになるというのであろうか。われわれのは、「くそ」である。これは、そうとうに下品なにおいがする。 - ふまじめと真面目は、はっきり対立している
「まじめになれ!」とは、「ふざけるな!」とか「なまけるな!」「人の道から、はずれるな!」ということである。なまけるとは、なすべきことをしないで、無為にだらだらしていることである。ふざけるとは、なすべきではないことを知りつつ、たわむれに、これを演じることである。
まじめとは、その反対になり、そういう怠惰や戯れに陥ることなく、なまけたり戯れてみたいような場面においても、几帳面で勤勉なあるべき人の道をまよわず進んでいくことであろうか。 - なすべきことからはずれない
まじめな人は日常生活で自分がなすべきだと思われることと距離をもたない。一般的な生活規範でのなすべきことは、なんのためらいもなく実行に移す姿勢をもつひとである。 - なすべからざることには見向きもしない
ごく一般的な日常の生活において、してはいけないことからの誘惑に、まじめなひとは、のらない。
なすべきでないことのうちには、いろいろとひとを魅了するものがあるのだが、まじめなひとは、そういうなすべきでない世界とは、はっきりした距離をとっている。まじめななすべき実世界に住んでいて、なすべきでないような、そういう世界は、虚構の別世界と位置づけている。 - その当為は、ごくふつうの、人の道である
まじめなひとのなすべきことがらは、そんなにむずかしいものではない。日常生活において、ごくふつうのだれでもがなすべきで、なしているものになる。
「あのうちは、与太郎君以外は、みんなまじめだ」というばあい、与太郎君は、正業につかず、やくざな生活をしているということであり、他の者は、仕事をもち、ごくふつうにやっているということである。そのまじめさは、特別ほめられたことではなく、単に、人の道からはずれていないということにすぎない。 - 真面目さの定義
日常な生活規範について、あるべき常識的な人の道に自らを過剰にひたすらに強制していることであり、これが習い性となり、これからはずれて、ふざけたりなまけたりすることのできない律儀な生活態度・性向をさす。 - 徳目の場合と、性格の場合
「まじめにやっとるか」と聞くときには、その時のみの態度を問題にし、なすべきことをちゃんとなしているかと聞いているのである。そのあとは、ふまじめになるかもしれない自由奔放・融通無碍のひとでも、よい。
ところが、「まじめな人」というのは、たんにその時にのみ、そうなのではなく、一貫してそういう生活をするひとである。そのひとの基本姿勢そのものがそうなのであり、性格として「真面目さ」がいわれているのである。
後者の場合、ことさら意識してそうしようとするのではないのに、そうなってしまうのである。ふざけてみたいと思うときもあるのだが、そうできないで、まじめにやってしまうのである。ということで、当人には、この真面目な性格は、どちらかというと、不満であることが多くなる。なかには、それを直して、融通無碍な存在になって見たいと自己改造を試みるようなひともでてくる。しかし、根っから真面目なので、大抵は、最後には失敗して、真面目にやってしまい、自己嫌悪に陥ることになる。 - まじめなひとの価値観
まじめなひとは、あそんだり戯れたりが下手であるが、もともと、これらに対して、よからぬ感情をいだいていて、そこへと自分をもっていくことにためらいを感じてしまうこともある。
臨機応変の能力にたけていても、まじめなひとは、終始、なすべきことからはずれないで一直線であり、実直である。あそびとかたわむれ、虚構に価値を見い出さないのであり、重きをおかないのである。 - 自分に対して
まじめな人は、一見、自分に忠実に見えるが、そう単純ではない。あそびたい、たわけたいというようなところを徹底して抑え、自分を偽っている面もある。規範意識としての社会的良心が、生来か、教育のおかげで肥大化し過剰になっているのである。あるがままの本心は、別にちゃんとあっても、良心の許さないかぎり、これにしたがおうとはしない。
「まじめなこども」とは、なんといっても大人の求める規範に忠実なこどもである。「まじめなひと」は、社会的な良心・良識にしたがったひとである。いずれも、自分の私的な本心を抑圧した、つくられた人ということになろう。 - 他者に対して
まじめなひとは、コミュニケーションでは、相手を素直にうけいれるひとで、曲解・邪推には無縁なひとである。すなおに、言われることをあるがままに受け取るのである。話すばあいも、そうで、こころのうちを決して偽ることのない人である。「うそをいわない」人である。
行為については、その約束は、しっかり守るひとである。違反せず、忠実である。
その活動は、誠実で、かげひなたがなく、なまけることを知らないひとである。面従腹背など縁遠いひとである。 - 融通がききにくい
まじめなひとは、なすべきこと、あるべきことからはずれることに抵抗感をもっているから、ときには、はずれて、たわむれたりする方がいいのに、つまり大局的見地から判断して、悪に属することも大目にみてもいいようなところでも、なかなか、それができない。融通がききにくいひととなる。 - ルールの守護者
あるべきこと、規則とか約束、規範に忠実であり、ルールの厳格な守護者として「規範が歩いている」ということになる。 - かたくるしい
柔軟さに劣るところがあるわけで、ふまじめな方向に挑発しても、つついても、びくともしない堅い人となる。堅実そのものである。それは、それでもいいのだが、方便としての悪・非常手段がとれないということになると、結果的には、そのまじめさは、マイナスをもたらすことにもなりかねない。
ひとは、しゃちほこばったままだと、つかれる。ときには、遊び・たわむれ、休息をもつ必要がある。まじめなひとは、それが苦手で、周囲のひとは、そのかたくるしさに、疲れてしまうことがある。 - 融通無碍の能力に欠けるのか
臨機応変にことに対処するには、多方面に注意をむけて、全体をみわたし、「今なら、ふざけてもよいときだ」、「いまは、なまけてよい」等、機敏に判断しなくてはならない。まじめなひとは、そういうことが下手なのであるが、またそれを面倒くさいと思っていることもありそうである。 - 重さ
英語のserious(まじめ) は、「重さ」を語源にしているようである。ふまじめで軽薄なことをドイツ語でleicht fertig(軽く、できあがっている)というようだが、まじめな人は、軽薄にふわふわとあちこちすることなく、規範の道にどっしりとかまえている。重々しさがある。落ち着いている。その道において、しっかりして、steady(堅実)であり、不変なのである。 - 直線
融通無碍からいうとその反対で、あるべき規範の道から一歩もはずれることがなく、どこまでも一直線である。live straight(まっすぐに生活する)とは、まじめに暮らすという意味のようである。 - まじめなひとは、形式主義者ではない
形式主義は、あるべき規範・形式を最優先し、「まじめ」と一致するところがあるが、ちがいもある。形式主義は、これが、ふまじめに玩ばれることがある。形式主義者とは、そういうたわけた、ふまじめなものでありうる。 - 荘重
ドイツ語のfeierliche Mieneは、まじめな顔つきということだが、feierlichとは、お祝とか、厳粛とか荘重ということで、あそびspielenと反対なのであろう、あそび(spielen)のgespielte Mieneとは、不真面目な顔つきという意味のようである。まじめは、厳粛で、荘厳、荘重なのである。ふざけたり、あそんだりという姿勢がまじめな人にはなかなかとれない。 - 穏当
英語のsoberは、まじめという意味になるが、酒がはいっていない、素面ということである。これも、重々しいという意味になる。酒に酔って、規範を忘れてあそびたわけることの反対がまじめということである。 - 本気
まじめなひとは、相手のことばなり、行為を、うそとかユーモア・虚構とは捉えず、本当にし真実とうけとりがちである。そういう場面でも、たわむれ、あそんでやろうなどとは考えず、まごころをもって率直に答えていく。つねに、本気なのである。 - 真剣
本物の剣は、ひとを本当に切る。まじめなひとは、剣をもつとき、あそびで切るまねをするというようなことが下手である。ユーモアのひとなら、たわむれて、切るまねをするものを、まじめなひとは、本当に真剣で切るひとである。 - 熱心・一生懸命
まじめだからといって、ただちに熱心とはならない。まじめなひとは、いやなことでも、やるべきだと感じているものについては、まじめにこれと取り組む。しかし、その場合は、いやなことなので、すすんでやることにはならないから、熱心とはならない。
とはいえ、まじめであれば、それでも、さぼったり、なまけたりはしないから、ほかの人とくらべたら相対的には、熱心に見えはする。
ドイツ語のErnst(まじめ)は、熱心ということで、英語のearnest(熱心・本気)と同じなのであろう。ふまじめな生徒は、negligent studentという。怠慢な生徒である。その反対のまじめな生徒は、怠慢・怠惰ではない生徒ということ、熱心な生徒ということである。 - 「実」一元論
この世は、「実」とともに、うそや夢想や悪があり、あるべきでないような「虚」の世界があり、虚と実のからみあいのなかにひとは、生きていくのだが、まじめなひとは、たわむれ遊ぶような「虚」が苦手であり、端的に「実」の人なのである。
うそも方便というような、媒介的なやり方が苦手で、直接的でもある。実直であり、陰日向をもって、さぼったりできない、つねに規範にそった、熱心で正直なひとである。 - すなおとまじめ
素直さは、受け取り方の問題であり、そこにゆがみ・ひがみ・ねじれがないのである。あるがままのものをありのままに受け取るのが、「素直」である。
まじめさも、これが受け取り方の問題であるばあい、素直さと重なる。素直なたんたんとしたものに加えて、さらに、まじめな受容には、真剣さとか、規範への忠実さなどが見られることになる。 - はずれるときは、本気ではずれる
融通無碍のひとは、あるべきではないところへとたわむれにはずれていき、適当に楽しむというような演技ができるのだが、まじめなひとは、そういう演技・たわむれといったことが苦手で、「かりに」とふざけてはずれることはできない。はずれるときも、本気ではずれることになる。
かりそめの一夜の恋のようなことはできず、いったん恋におちると、最後まではずれていくのである。そして、そこでまじめに、責任をどうとるべきかと深刻に悩んだりすることになる。ということになるから、まじめなひとは、そんなこともしないのがふつうになる。 - あそび下手
まじめなひとは、ふざけること、たわむれることが下手である。
ふざけるとは、たとえば、子供がふざけて空手を友達にお見舞するというような場合、なすべきことがらから、仮にはずれて、なすべからざることを、仮に、まねてやってみるということであるが、まじめなひとは、こういうかたちで仮に実世界からはなれて、あそぶということが、そういう融通無碍が苦手である。 - 演技が下手なのだ
この事実的世界の外に、なすべからざる、したがって、さしあたり存在しない、しかし、魅力的な、ふつうには虚構にとどまっている世界がある。自由奔放なひとは、そういうところへ好きなような入り込み、あるいは、仮にそこへ入ったかたちの態度をとることができる。しかし、まじめなひとは、そこへはいれないし、仮にという演技をすることも下手なのである。 - 遊ぶとしても、けじめがはっきりしている
まじめなものも、遊ぶ。ただし、なすべき仕事のあるときには、それに専念し、あそびの誘惑があっても、これには、見向きもしない。けじめがはっきりしている。その点で、ふまじめなひとというのは、まじめになすべきときに、遊びに目がむき、仕事をほおりだして、ふざけたことをする、道徳的に問題となる人になる。 - 遊びのなかでも、真面目である
不真面目なひとは、あそびにおいても、ルールをやぶったりする存在になるが、まじめなひとは、あそびのなかでも、あそびのルール・求められているなすべきことに忠実で、ルール厳守をここでもつらぬく。 - まじめは、しんどい
この世は、まじめに考えれば、深刻なことがいっぱいあるから、まじめなひとは、深刻になりがちである。休みたわむれることがなくて、しんどいことになる。 - まじめは、楽なのだ
しかし、楽な面もある。臨機応変にあれこれ考えたり行動をかえる必要がなく、まじめ一直線でいいのだからである。電車の運転のように、線が一本まっすぐにひいてあり、それからはずれることなくまっすぐ進むのだから、その点ではとても楽なのである。 - 笑うのが苦手
まじめなひとは、なににつけても本気にとり、真剣に対応しがちなので、つい真顔になってしまう。笑うことがなかなかできないひとである。 - 顔にまじめさが、しみついている
まじめなひとは、真面目な態度で一貫しているから、それが顔のありかた自体に表われていて、その笑い方とか話し方、聞く態度からして、まじめさのしみこんでいるのが分かる。戯けたり、ふざけたりした姿が、そのひとには似合わないのである。
真面目な当人も、そのことは知っていて、気にしているので、自分の写った写真を見て、やっぱりと思ってしまう。となりの人が愉快そうに笑っているのに、自分は、ぶすっとしているとか、笑い方がぎこちないとか、みっともない不快な笑い方だと思ったりする。 - 笑いの対象にはよくなる
まじめなひとは、とくに、くそまじめなばあい、笑いの材料になりやすい。まじめなことはいいのだが、ふざけたり、息を抜くべきところで、それができず、かたくなりしゃちほこばっているとしたら、柔軟さの欠如が目につき、こっけいに見えるのである。
柔軟さに欠ける「まじめさ」は、臨機応変ができず、視野が狭くなって、ばあいによると、本人は大まじめでも、その意思とはうらはらに、とんでもない「ふまじめ」を結果することがある。まじめ(緊張)が突如としてふまじめ(弛緩)に転じて、滑稽となる。 - 愛敬のなさ・生真面目
遊ぶことができないから、始終、真顔になり、にこやかな笑顔にはなれず、愛らしさに欠けることになる。えがおは、相手をうけいれ好感をもっているときの表現になるが、それがなくて常に真剣な顔で、愛敬がないということになる。おもしろくもなんともない人間である。
その愛敬がない顔は、怒ったり悲しんだりというのではない。真顔、真剣にうけとめ、真剣に対応していこうという顔なのである。ふざけ、たわむれるべきときにも、そうなりがちなのである。周囲の人は、ときにつきあうのがしんどくなる。 - 裏切り・戯けには怒りやすい
常に本気なので、これを茶化して、あそびとし戯れとして対応する者には、自分の立場がなくなる。これには、気障りを感じ、まじめにこれを攻撃し懲罰を加えるべきだと、つまりは、立腹することになりやすい。
しかし、怒りにともないがちの邪推はしないで、まじめに相手を捉えるから、その怒りは、さっぱりしている。正しい怒りであり、義憤であることも人よりは多い。 - まじめな人は、まじめさを誇りとはしない
まじめな人を見ると、周囲のひとは、これをほめたり、尊敬することがあるが、当人は、誇りとしないどころか、これに劣等感をもっていることがある。真面目なこどもの場合、たわけたりふざけたりすることの上手な者をうらやましく思い、大人が「まじめな良い子だ」とほめてくれることをにがにがしく思っていることがある。
改心し、まじめになろうと努力してそうなっている場合は、「おれも、大したものだ」と自画自賛することがあるが、根っからまじめな人は、本当は、ときには、戯けてみたり、はずれて見たいと思っているのに、それができないのである。戯けた人がそんなときは、うらやましくなる。長年、まじめで生きているので、年とともに、たわけ方そのものすら分からなくなってしまうのである。
映画「男はつらいよ」が結構人気があったのは、戯け者の「とらさん」が主人公になっていたことがある。われわれ日本人一般は、まじめ人なので、ああいう戯けを、うらやましく思うのである。もちろん、あんな者がいる家は大変で、現実のなかでは、決して喜劇ではありえず、悲劇でしかないのだが(だからこそ、真面目なわれわれは、ああいうことができないのだが)、自分たちのまじめさに、みんなうんざりし、劣等感をもっているので、ああいう、戯けた映画でうさをはらしたのであろう。
かつ、人気には、これが重要なのだが、じつは、根底が「まじめ」なことがある。恋をしながら、決して、肉体関係は結ばないのが寅さんである。現実の寅さんのようなああいう生活の人は、あちこちに無責任にこどもをつくり、悲劇を拡大再生産する存在なのだが、映画のそれは、そこの肝心のふまじめな、そして人を憤らさずにはおかない、むかつくことについては、これをとらずに、ふつう人以上に禁欲的で、徹底して、くそまじめな存在にしていたのである。
あの映画の登場人物は、みんな驚くほどまじめであった。遊び人の寅さんまでがそうなのである。くそまじめな、われわれ古い世代の日本人を良く表現した映画であった。 - まじめ一本
まじめなひとは生活規範からはずれることなく、一貫しているので、一直線である。たわむれ・虚偽・虚構・あそびといったべつの道があることは知っているのだが、そこへとふみはずすことができないのである。
まじめ一本とは、そういう一筋の歩みをさす。しかし、まじめなひとも、遊ぶべきときには、そうすべきだから、遊ぶ。その点からは、一筋・一本とは異なる。そのときに、まじめ一本というのは、それでもはずれないで高尚な道を歩むようなときにいう。かたくなな過度のまじめとしての「くそまじめ」は、まじめ一本といってもよさそうだが、くそまじめは、柔軟さのない否定的になったまじめさをさすから、まじめ一本とは、いいにくい。まじめ一本は、過度の、しかし良い意味でかたくなな態度をさすのであって、ふつうのまじめさからさらに一段、高まったところでの、まじめさである。
「馬鹿まじめ」は、「くそまじめ」と同類だが、「まじめ一本」とおなじく、肯定的に評価されるときにも言われる。その真面目さで当人が損をして馬鹿を見るようなときにいう。それは、当人が「くそまじめ」でかたくなで悪いのではなく、悪いのは、相手であり社会であると裏側で抗議しているのである。